◆ 地底地獄のはじまり
いま私は地底にいる。
身内と新聞の批評をしあっていたら、なぜだか私の突撃取材のことが槍玉にあげられた。抗議をしたら私以外の満場一致で取材の試験をするハメになった。内容は分かりやすい、地底の取材をしてくるだけ。字面だけなら大したことはない。けれど、問題は鬼だ、あの人だ。
どうしよう、もう橋をわたって旧都の門前にきている。緑目の嫉妬女を振り切るのが鬱陶しかったが、ここから先はさらに難関だ。まさに地獄と呼ぶにふさわしい。なんといっても本物の鬼がいるのだから。
門をくぐる前に色々と準備をしておこう。記者たるもの準備をおろそかにしてはいけない。手帳はあるか。ペンとその予備を持ったか。カメラは首にさげているか。フィルムは新しいものに取り替えているか。腕時計は手首にあるか。身だしなみも大切だ。タイは曲がっていない。スカートに雑な皺も入っていない。ポーチの下げかたも万全だ。
そうだ門をくぐるまえに旧都の外観をメモしておかないといけない。記すに……橋姫の手厚い歓待をうけたあとには、旧都の門が待っている。ところどころ剥げた朱塗が時代の積りをかんじさせる、巨大でたくましい門である。門の先には旧都の華やかな灯りが明滅しており、訪れた者の期待をふくらませることであろう……。
門の先から誰かが来た。いつか見たことのあるシルエットだ。非常にいやな想像をしてしまうが、まさかあの人ではあるまい。旧都に来てすぐあの人に会うなんて、そんなまさか。ああ、けれど、近づいてくるとますますいやな気が増してきた。だって、あの額の一本角は!
シルエットは大ぶりに手を振ると走りよってきた。図体が揺れて、胸も主張する。麗しい金髪をなびかせながら私の視界をほとんど埋め尽くしたのは、旧都の鬼、星熊勇儀に他ならない。
「やあ、天狗かい。用事は」
「いやまあ、えっと、取材みたいな」
「旧都をか! いいじゃない。歓迎するよ」
勇儀さんの苦手なところの一つは、後先を考えていないこと。大抵の妖怪は明日のことなどどこ吹く風な態度だが、勇儀さんは特にひどい。鬼という種族は未来を見るのを好まぬようだ。今の会話だって、私が取材と口にしただけでもう旧都案内に引きずりこもうとしている。
ほらみろ、勇儀さんがなれなれしく私の腕をつかんで引っ張りだした。痛いですよ勇儀さん。取り巻きの霊魂が赤や青に光り輝くのは、彼らが楽しんでいる証拠だ。まだ旧都の門の下ながら、すでに四面楚歌の体ときている。
勇儀さんは旧都の大通りを大股に歩いていく。私はその歩調に合わせなければならないから小走りになる。どこへ行くにしたって飛んだほうが早いというのに、それをいったら徒歩こそが風流だと背中越しに説教された。私は走らされているから風流とは真逆にいる。
このまま流されるままでは焼き鳥にもされかねないので、紛いなりにも取材ということもあるし、行き先を聞いた。
「あのーどこに向かっているのでしょうか」
「なあに旧都の様子をざっと見せてやるのさ」
なるほど。たしかにとある町を取材するなら、まず町の大雑把な景観を見て回るのがスジだ。空気を感じ取り、住人たちと触れ合い、それらを記録していく。それが終われば細部にはいる。なあんだ、勇儀さんも筋書きを分かってくれているのなら、いくらか任せきりでよさそうだ。
などと思っていると、勇儀さんはいきなり方向を変えて大きな屋敷へと近づいていった。当然私もそれに習わないといけない。記録のためにペンを走らせている暇もない。
「旧都に来たからにはここだよ、ここ」
「あ、あの、町を見て回るんじゃ」
「今見て回ってるだろう」
見て回るだけで満足する記者がどこにいる。見て回った感想をメモしないと意味がない。とはいえ、メモ用に考えている文章はまだ記憶にあるから、屋敷に入って落ち着いてからでもいいだろう。大丈夫、勇儀さんは鬼ではあるが悪魔ではない。時間がほしいと、きちんと言って聞かせれば分かってくれるはずだ。
屋敷は本当に大きく、少なくとも周りにおなじ規模の建物は見られない。白漆喰の壁が美しくそびえ立ち、何重に重なる屋根と、勢いよく突き出た反りが素晴らしい。古き城をモチーフにした建築は、もしかすると過去からずっとここにあり続けているのかもしれない。ひと目見ただけではどんな施設なのか想像つかなかったが、勇儀さんの反応と、旧都の雰囲気から、私は豪華な酒場だと考えた。
造りは城の構えだが正面入り口は小さかった。入り口にかかる紫の暖簾には、白で染め抜かれた「刹那」という文字が踊る。どんな意味だろうか、適当に格好をつけただけではないと思うが、これもあとで質問しよう。
入り口は魑魅魍魎がわんさと出入りしている。大した盛況ぶりだ。なんだか派手な着物で着飾った女が多いように思われる。私の想像がいやな方向にかたむきはじめる。こういう女の多い場所は、どこに行ってもよい印象を受けないものだ。
勇儀さんを先頭に暖簾をくぐった。中に入ったとき私たちを歓迎する大きな声があがった。
「星熊の姐さんがお参りになったぞ!」
「いらっしゃい」
勇儀さんの慕われかたが尋常ではなかったので、私は目を丸くしてみんなを見渡した。客も従業員も勇儀さんに声をかけたり手を振ったりしている。その嵐はやがて勇儀さんの取り巻き、つまり私や霊魂も巻き込みはじめた。
「天狗たあ、めずらしいね、いらっしゃい!」
「あんた山から来たんじゃないの? 好きものだねえ」
「羽が邪魔だ! むしってきやがれ!」
身の危険を感じるので勇儀さんにすがりついた。
「えっと、勇儀さん。もっと静かにならないと取材ができませんよ」
「じゃあ部屋だな」
勇儀さんは支配人らしい牛頭の男を捕まえてあれこれ言いつけた。牛頭の男、見た目は勇ましいが勇儀さんにはへえこらしている。彼はすばやい対応をみせた。
「胡桃の間が開いておりやす」
「あんたねえ、せっかく取材が来てんだよ」
「そりゃあもっともだ。沈丁花の間を開けさせましょう」
牛頭の男がそそくさ引っ込んでいく。
勇儀さんは快活な笑みを浮かべてこちらに振り返ると、またもや腕をつかんで引きずりはじめた。勇儀さんの腕と私の腕を比べるとひどい格差だ。これはそのまま胸の話にもつながっているが、私は胸など気にしていない。いや、本当に。
部屋の廊下をまっすぐ進んで、階段を登って四階にたどり着く。ここまで来ると先ほどまでのしっちゃかめっちゃかは消え失せていた。ぼんぼりが廊下を照らし、襖模様はため息の出るほど見事で、上品な空気に満ちていた。目に入るものだけを見るなら奥ゆかしい。だが私の耳には、奥ゆかしさとは無縁のものが聞こえていた。かすかだが、あちこちの襖の奥から、女の艶やかな声が漏れている。このとき頭に思い浮かんだもの、派手な着物を乱れさせる女たち。
いつのまにか四階までやってきていた牛頭の男が、すばやく廊下を走り飛んでいった。沈丁花の間とやらに入ったかと思うと、客と思しき蛙男がゴミのごとく廊下に放り出された。蛙男がゲロゲロ鳴きながらこちらに、いや階段に向かってくる。道を開けてやると階段を五段六段飛ばしで飛び降りていった。
私たちは客の一人を追い出したかわりに、沈丁花の間に入ることになった。
勇儀さんが私の肩に手を置いて、自慢気な顔で見下ろしてくる。私は首を回した。お座敷は広々とし、壁際には美しい屏風が立てられている。生花は豪華でありながら主張をしない。
蛙男のために用意されたらしい膳と酒がのこっており、すぐそばに布団が敷かれていた。掛け布団がとんでもない方向に流れているなどして、大いに乱れている。が、そんなことより私の目を釘付けにしたのは、夜具の上にしなだれている女だ。彼女は、ある人にそっくりだった。
「れ、霊夢さん?」
身に着けている着物こそまるで違うが、麗しい黒髪と、それを前のほうで2つ結び、後ろを大きなリボンでまとめている様は既視感がある。のみならず、顔の造りといったら、博麗の巫女と見紛うばかり。いや、もしかしたら、本人ではないかとさえ私は思った。この想像は勇儀さんが吹き消してくれたが。
「こいつは霊夢っぽい遊女」
「ああ、そうですか。びっくりした」
「店のランキングではいつも上位」
「ああ……そうですか」
そのとき、牛頭が私に囁くように「三番人気でございます」と言ってきた。それを聞かされてどうしろと言うのか。
霊夢さんでないと分かった上で見てみると、たしかに本人とは程遠い。霊夢さんがあれほど憂いた表情をしているところは見たことがないし、水面にうかぶハスにも似たしなだれ姿は、霊夢さんが作れるはずもない。体つきの差異は言うにおよぶまい。実に官能的だ。くやしくはない。
「さあ、たっぷり取材しな」
「取材といっても、こんなところ、しょうがないですよ」
「体験しな。そういう記事ってあるもんだろ」
私は清く正しい新聞記事を作っているつもりなのだが、いつから週刊誌まがいのデタラメ記事を書くことになったのだろう。勇儀さんが思い違いをしていることが今やっとわかったので、訂正することにした。
「あのですね、私は旧都の取材をすることはしますが。霊夢さんのそっくりさんはいらないんですよ」
ああん、ひどい。と、霊夢さん似の遊女が声をあげた。声質までよく似ていることは、さすがにギョッとさせられる。しかもギョッとしている私を見た彼女は笑顔を差し向けてきた。うん、このさりげなさは、霊夢さんではありえない。
「旧都のことを知るなら遊楽を知っておかないと」
「やっぱりここは遊楽だったんですか。こういうのは私の分野じゃありませんよ……」
「じゃ体験取材にするか」
奇妙な言葉が聞こえた。
勇儀さんは牛頭の男に話しかけて、牛頭の男はすぐさま座敷から退いていく。勇儀さんはいまなんと口にした? 何々サイズの黒い着物を用意してやれ? 危険な状況になりつつある気がする。
「勇儀さん、次いきましょう」
と言おうとしたが、牛頭の男が座敷に上がりこんできて会話の間を折られた。黒を貴重とする大人びた着物を片手に下げている。勇儀さんは笑顔でそれを見、さらに私を見る。取り巻きの霊魂がきらきら輝く。
まずい! 勇儀さん、申し訳ないけれど私はきせかえ人形になるつもりはありません。しかしこのことはしっかり記事にしてさしあげましょう。題して「星熊勇儀の奉公強要。旧都の実態に迫る」とね。さようなら、短い地底旅行でしたが楽しかったです。ね、ね、ですから、勇儀さん、肩から腕をどけてください。本当に、ね、困っちゃいます。
「かんざしは黄色にしよう。黒に黄色は映えるんだ」
「よいでさあ。帯も黄色にしておきましょう」
「下着はなしでいいな」
「もちろん。幼さと危うさを演出するのがよいと見ました」
「背伸びした少女って感じだ」
話がとんとん拍子にすすんでいく恐ろしさよ。このままでは私のみさおが一大事だ。逃げられないのならば、せめて話題をかえよう。鬼の気をそらす方法は何か。なに、簡単なことだ。古来より妖怪全般が弱いものを挙げればいい。あとは私の口車。運を舌にまかせる。
「勇儀さん、そうだ、私ね、呑みたいものがあるんです」
「のみたい?」
「そ、呑みたいもの。旧都の地酒が呑みたい。噂で聞いているんですよ。うまい地酒があるって。ぜひとも、ね、取材を」
「あとじゃだめなのか」
「あとっていうか、なんていうか。そう、勇儀さん、なんだか一杯ひっかけたくありません?」
勇儀さん。そんな目を向けないでください。恐ろしいですよ。鬼に睨まれる恐怖を、あなたは知っていますか。知らないでしょうね。身の毛もよだつとはこのことを言いますよ。私、変なことを言っていませんよ。そりゃあ少し唐突だったかもしれませんけれど、お酒が呑みたい気持ちは真実です。私は心から、地酒、バンザイ!
「勇儀さん、ほらそこ。膳にお酒がありますね。あれでもいいから、呑みましょ。地酒レビューですよ」
「あんな蛙が手をつけたようなヤツ」
「がまの油が効いていて、うまくなってるかもしれませんね」
「バカ。そんなもの客に呑ませられるか。やむないね、酒場にいこう」
勇儀さんは牛頭の男と遊女にかるく謝ったあと、私を引きずりながら座敷から出た。引き返す様子は微塵もない堂々とした足ぶりだ。
助かった。
◆ からす泣かし
私は鬼の豪腕にみちびかれるまま旧都の大通りを歩いていた。地底であるため頭上は暗いが、町はぼんぼりや霊魂によってきらめいている。冬になれば雪が降るらしいが、そのとき町を眺めるのは美しいだろう。旧都はまさに旧き都だ。まだ人間が妖怪を恐れていた頃の写しが地底にあるのは感慨深い。妖怪諸君は郷愁ほしさに地底に住まうのも悪くないのではないだろうか。
こんな風に、今のうちに旧都のレビューをしておかないと、いずれ何も語れなくなるかもしれない。差し迫っているとはいえ、勇儀さんを酒に誘ったのは失敗だった。
鬼に酒を呑ませることがどういうことか、私だって知らないわけではない。鬼に金棒ならぬ鬼に酒だ。萃香さんの異変を思い出す。胃と肝臓が痛くなってくる。
「あのー勇儀さん、どこに向かっているんでしょうか」
「いい場所知ってるんだよ」
「念の為に聞いておきますが、それは遊楽ではありませんよね」
「なんだい、遊楽がよかったのか」
と、勇儀さんは言いながら踵を返そうとしたので、私は慌てて腕を引っ張った。勇儀さんは笑いながら元の通り進みだす。
大通りを進んでいくと、ある屋敷に目が向いた。遊楽に比べれば小規模だが、それでも周囲よりは豪勢だ。飲み屋をそのまま巨大化したような俗っぽさがあるが、その見た目が敷居を下げさせ、誰でも気軽にはいれる空気を生み出していた。入り口前はやはり人だかりができている。
そういえば今は何時だろうか。私が地底に下りはじめたのが朝の九時くらいで、旧都までの道のりは、飛行でせいぜい一時間程度。旧都についてから面倒があったものの、体感ではそれほどかかっていない。腕時計を確認してみると昼の十二時をまわっていた。地底のみんなは午前中から遊楽で遊んだり、飲み屋で酒におぼれていることになる。
勇儀さんが人だかりを割って中に入っていく。ここでも勇儀さんを慕う声が響き渡る。人ごみを縫って馬頭の男が現れると、恭しく頭を下げる。
「先日はどうも」
「今日はお客さんが来てるからね」
「かしこまりました。宴会場に向かいましょう」
馬頭の男に従って私たちは一階の廊下をいく。すでに先客のいる宴会場にたどり着くと、再び声援が吹き荒れる。即座に私達の膳が用意されて、私はなかば無理矢理に座らされる。先客たちが私のことを歓迎したり怒ったり、どう応じればよいのか分からない。
私は目の前に運ばれてくる小皿と酒瓶を見た。酒瓶はラベルも何も貼られていなかったので、勇儀さんに尋ねた。
「あのう、これはどういう銘柄で」
「なんだったっけ」
勇儀はとぼけながら、近くの釣瓶火をこづいた。釣瓶火がなんだかよくわからない訛った言葉を口にすると、周囲がどっと湧いた。冗談を口にしたのだろう。
「それで、銘柄は何なんですか」
「もぐら泣かしだよ」
「はあ、地底にピッタリのお名前で」
もぐら泣かしとやらが真っ赤な杯に注がれて、私に手渡される。勇儀さんと乾杯をして一口飲む。ようやく落ち着いて取材する余裕が出てきた。酒が勇儀さんの弁舌の足しになってくれれば、こちらとしては万々歳だ。手頃な地底ならではの話を抜き取って、おさらばさせてもらおう。これでも妖怪の山で上司との付き合い方を学んできた身だ。呑んだフリして相手を酔わす術は心得ている。
それにしてももぐら泣かし。名前に勝るとも劣らぬ強烈さだ。モグラがアルコールに強いのかどうか知る由もないが、少なくともカラスの私は参ってしまいそうだ。ハナから妖怪向けに拵えられた酒なだけあって、遠慮のなさが際立つ。一口のめば喉が灼ける。
恐るべきは勇儀さんだ。このもぐら泣かしをどんどん胃におさめていくではないか。泣く気配など微塵もない。そのうえ自分の調子で酒を薦めてくる。勘弁してください。鬼に合わせて呑んでいたら五臓六腑が破裂してしまいます。勇儀さんの気をそらさねばならない。
「旧都を観光するとしたらどこがオススメですか」
「まずはココだね。ココは外せない」
「他には何かございますか。ウームと唸るようなやつを」
「さっきの遊楽なんて良いんだけどねえ。女の子がさ、酌のすすめかたがうまいんだよ。かわいいもんだ」
この人はひょっとして親父の化身なのではないかしら。
「えっと、お食事処でオススメなぞを教えてください」
「あんたさあ、ぜんぜん呑んでないよ」
「呑んでますよ。ほらこんなに……ね! それでお食事処を」
「辻斬り亭があるね。そうだ、二軒目はそこで呑もうか」
「呑むって! ハシゴするおつもりですか」
「当たり前だろ」
私は墓穴を掘ってしまった。
やはり鬼と付き合うのは危険極まりない。なんとか取材を試みようと努力したつもりだが、勇儀さんのマイペースをこちらに取り込むことはできそうにないのだ。もう少し戦ってみたが、私が呑ませられるばかりで相手の口から話のタネを聞き出せない。こりゃダメだ。
さて、取材不可能であるのなら、地底にいる理由はない。とっとと山に帰って仲間たちに地底の酒乱地獄を報告するのが賢いことだ。
では、失礼します勇儀さん。
「ちょっとお手洗いにいってきます」
「場所わかるの」
「飲み屋のお手洗いなんてどこも似たような場所にありますよ」
私はそそくさと席をたって宴会場から廊下に出た。いちおうお手洗いがあると思しき方向を進むことにする。まだみんなの目が近いから露骨に逃げ出す真似はできない。
廊下をしばらく進んでいくと突き当りで左右に分かれていた。左は二階につづく階段があり、右には小さい廊下がある。右にいくと予想通りお手洗いの入り口を見つけた。体裁のうえで中にお邪魔する。個室に入って一息つくことにした。
そろそろ忍び出てもいい頃合いだろう。まっすぐ廊下を渡るようでは、宴会場を横切ってしまう。ここは二階に上がって窓から逃亡を図るのがよい。
お手洗いを出て廊下を見渡した。勇儀さんとその取り巻きは廊下におらず、私の計略を暴ける者はいなかった。階段を登って二階に向かう。造りは一階と変わらず、廊下が続き、左右には宴会場を仕切る襖が連なる。その奥からは客たちのバカ騒ぎが聞こえてくる。忍び足になるまでもない。さっさと廊下を横切ることにして、突き当りまで進んだ。丸く切り取られた雅な襖窓があったので、開いて顔を出した。
高めの位置から大通りを見渡せる。悪くない景色だ。この建物は三階まであるようなので、機会があるなら三階から景色を眺めてみたい。が、今はその機会ではない。
さようなら勇儀さん。もぐら泣かし、ごちそうさまでした。あやうく私が泣かされそうになったのも、よい思い出ということにしておきましょう。
「……おーい」
階下の大通りから声が聞こえてきた。ひょっとして私が呼ばれたか? いや、これは見ず知らずの誰かが、別の誰かを呼んだ声だろう。勇儀さんの声でもなさそうだ。人ごみからおーいという声がして、それが異様に耳に響いてくるというのはよくある不思議だ。
「……おーい。文だろ、何してるの」
文、あやと言ったか。奇遇だなあ、私と同じ名をもつ者が呼ばれているらしい。これは珍しい不思議といえる。
「ねえ、窓から顔だして、何見てるのさ」
突然、例の声が大きくなり、聞こえる方向も明確になった。声に誘われ右に振り向いてみると、瓦屋根の上に鬼が立っているではないか。二本角で、あちこち寸足らずの体は、伊吹萃香さんに違いなかった。背中に風呂敷包みを背負っている。
なぜこの人が地底にいるのかと私は考えたが、すぐに可能性を見つけた。さきほど遊郭で霊夢さんのそっくりさんを見た。あれと同じだろう。いま右にいる鬼は伊吹萃香さんにそっくりな鬼なのだ。
「ねえ、勇儀知らないかな。ここにいるのは間違いなさそうなんだけど」
「ああーええっと。ゆうぎとは、星熊勇儀のことで?」
「え、他にいるの?」
「そりゃあもう。いません。一階で宴会中ですよ」
「そうか。やっぱり一階のほうが酒の匂いが強いもんね」
私のささいな計略はかんたんに幕を閉じた。
萃香さんが窓から入ってこようとするので、私は退いて道をあける。大股を開いて窓をまたぎ越える様は、見た目とあいまって純真無垢の少女だ。飲み屋に侵入する少女。背徳的な絵だ。
萃香さんはおもむろに私の袖を掴むと、引っぱりながら歩き出した。道案内をしなければならないらしい。あの宴会場に戻らされるなんて。
一階まで降りたとき、右側のお手洗いに続く道が恋しくなった。萃香さんに断って再びここに避難したくなる。もちろん、案内をしているときに用事を挟むなどありえないことだ。相手は鬼だぞ。無礼講と呼ぶには度が過ぎる。かくして私は魔の宴会場にもどりたつ。
「やっほー勇儀」
「おう」
襖を開けると、萃香さんが勇儀さんにむかって走っていく。膳を境にふたりはちょっとした会話をした。萃香さんはおぶっていた風呂敷を床に置き、勇儀さんは杯の準備をはじめる。二人はすぐに呑みはじめた。いずれも滑らかな動作で、ふたりの間に積もる信頼と慣習が読み取れる。
ところでなぜ萃香さんは地底にいるのだろう。萃香さんが地底に住んでいたという話は耳にしたこともあるが、帰省だろうか。私の取材日と萃香さんの帰省日が偶然にも重なりあい、さらに劇的なことに、逃げ出す瞬間の私を帰省中の萃香さんが見つけたということになるのか。……さすがにそんな奇跡は起きないとしても、私の運が悪かったことは間違いなさそうだ。
萃香さんは私の背中にのっかりながら話しかけてきた。
「ねえ、文はもぐら泣かし呑んだ?」
「呑みましたよ。おいしゅうございました」
「そっか。もぐら殺しも呑もうよ。新聞の記事がふくらむよ」
ずいぶんヤクザな名前が飛び出てきたものだ。あと、記事内容についてはいらぬおせっかいだ。
萃香さんがそのことを笑顔で提案すると、勇儀さんが感心したように目を見開いた。
「ああ、忘れてた! もぐら殺し。じゃあ大白虎もいこう」
「いいね。土産のカマイタチも一緒にね。あ、けど上の酒だから、文は呑んだことあるかな」
「構うかよ。上と下で飲み比べだ」
鬼が二匹、酒を薦めてくる。どこの地獄にいってもこんな経験はそうそうない。河原で石を積み続けるのとどちらが楽だろう。私の目の前で次々と杯に注がれていく毒酒たちは、もはや見ているだけで酩酊してしまいそうだ。取り巻きの霊魂たちはちかちか光っている。味方はどこにもいない。
ふたりの鬼が煽り続けてくるなか、私は杯に手をのばした。のばすしかなかった。
「文はねえ、天狗のなかでもよく呑むほうでさ」
「萃香が言うんならそうなんだろう」
「こりゃあみんなで勝負だね」
「勝負なんて当然さ。いつもやってらあ」
ああ、喉が灼ける。
◆ 目覚めてみると
私は、目を覚ました。詩的な表現を用いるとするなら、知らない天井だった。
いや、本当にここはどこだろう。まず、私はなんとベッドの上にいた。壁紙は藍と緑のダイヤ模様でシックな雰囲気。目に付くのは姿見、タンス、長椅子、調度品といずれも洋物だ。古式ゆかしい佇まいの旧都の、いかにも日本じみた大衆飲み屋はどこに消え去ったのか。
私は頭を抱えた。記憶と現実がばらばらになっているのと、単純に頭痛がするからだった。これは二日酔いだ。二日酔いに襲われるほど呑まされたのは久しぶりだが、そんなことより、ともかく、私は一晩は眠ったことになる。ははあ、掴めてきたぞ。ここは旧都のホテルの一室かもしれない。勇儀さん萃香さんと呑みすぎた私はどこかで落ちてしまったのだろう。それでホテルに連れられたというわけだ。
推察しながらぼんやりと姿見にうつる自分を見た。ひどい寝癖で、目には隈ができている。服装は……服装は、なんだこれは、知らない服を着ている。シャツは白を基調に孔雀色の縁取りがされていて、胸元には眼球のような仰々しい赤い装飾がついている。頭を見ると孔雀色の巨大なリボンが無造作に巻かれている。
ベッドを飛び降りて姿見に接近する。スカートは黒いが生地が異なっておりやはり私のものではない。しかも裏地が宇宙模様のけったいなマントまで羽織っている。私はこの姿をした人物を知っている。霊烏路空だ。
なぜ私が霊烏路空の服を着ているんだ。体は、だいじょうぶ私のものだ。体が入れ替わったというワケではなさそうだ。
よし、落ち着いて昨日のことを思い出そう。昨日は、えっと、みんなで一緒に辻斬り亭にハシゴすることになって、そこで地酒をたらふく呑まされて、それから、それから、そうだ、茸の盛り合わせをみんなで食べたんだ。いや、そんなことはどうでもいい。トランプゲームをしたような気がする。精進料理が美味だったような、微妙だったような。それから、またお酒を呑んで、脱がされた? 記憶が安定していない。思いつくものどれもが夢か現か分からない。
ともかく不安でしょうがない。まずはこのホテルから出ることにしよう。いや待て、ここはそもそもホテルなのか。いいや、後で分かる。今は勇儀さんや、霊烏路空に出会うことが先決だ。
部屋を出ると左右に広がる廊下。重厚で落ち着いた色使いと調度品は、やはり旧都とは思えない。どこか見覚えがある。はて、地底のホテルで厄介になったことはない。廊下を進んでいくと階段があったので降りてみた。ここがホテルならば、ひとまずフロントに向かうべきだ。
階段を二階ほど降りてやや狭い廊下を進んでいくと、ひらけたホールに出た。頭上左右にはステンドグラスが設けられて、神秘的な光をホール全体に投げかけている。ここまで来ると、二日酔いで鈍重になっていた私の頭とて、さすがにここが地霊殿であることを思い出すことができた。
そのことを閃いたと同時に、新たな記憶がよみがえる。それは勇儀さんと交わした会話で、こんなことを言い合っていた。
(取材ならさ、地霊殿もいこうよ)
(一度いきましたよー)
(一度で分かるもんかい。あの偉そうな人達にアポなしだ)
(いいですねー。アポなしは大好きです)
(酒も持っていこう。三次会は地霊殿で、だ)
それから、みんなで地底の暗い道中を飛び回った記憶がある。これは地霊殿に向かおうとしているときの記憶だろうか。とても楽しかったことが切れ切れに思い出されるのが、切ない。そうか、鬼に連れ回されるのが楽しいと思えてしまうほど、私は泥酔していたのか。
ホールを横切り玄関まで向かってみると、両開きの玄関扉が片方だけ開け放されている。外は地底の暗黒だ。
一つ気になった。地霊殿の住人たちがいない。私が知っている限り、地霊殿には気持ちの悪い姉妹と、ネコとカラスのペットが二人ずつ。少なくともその四人がいるはずだ。私が客室らしき部屋から出て玄関に至るまで、彼らは気配さえ見せなかった。みんなどこにいったのだろう。酒乱百鬼夜行が突然入り込んできたせいで、みんな驚いて隠れてしまった?
新たな想像がめぐってくると、私はいよいよ恐ろしくなってくる。百鬼夜行は、地霊殿メンバーをも巻き込んでしまったのかもしれない。私たちは地霊殿に突撃し、そこで三次会を開いた。地霊殿の人々も当然参加させられた。酔いつぶされて、私ともどもワケがわからなくなった。もしやこのとき、私が霊烏路空の服に着替えるようなイベントが起こったのではないだろうか。
待てよ、ということはもしや、逆に霊烏路空はこの私、射命丸文の服に着替えている? その霊烏路空は、いまどこにいる?
私はいてもたってもいられなくなり、ホールに振り返って大声を出した。
「誰かいらっしゃいますか!」
声はホールに響き渡り、消えていった。私は風を吹き起こしながらまた大声を送り届けたが、反応を返してくれる者はいなかった。
大変だ。早くみんなを見つけて服を取り戻さないと。きっとみんな暴走しているに違いない。アルコールモンスターズが地霊殿の次に行く先は……地上だ。
私は玄関をくぐると共に、地底の闇を一目散に突き飛んだ。地底空洞は広大だが、その実、まっすぐではない。あまり直進しすぎると壁にぶつかってしまうので、全速力を出せないのが辛い。けれど私はほとんど全速力だった。
しばらく突き進んでいると目の前に光が見えてくる。近づくにつれ光は広がり、鮮やかになっていく。旧都だ。こんなに早く旧都に辿り着けるのなら、地上に出るのもたやすい。私は旧都上空を黒い矢となって飛び越えた。その瞬間、さっと旧都全土を確認したが、勇儀さんたちの気配なし。遊郭の窓の一角に、霊夢さん似の遊女がたそがれているのを見てとった。分かっているとはいえ、顔を見るとびっくりする。
旧都を越えるとまた暗闇、それをすぎれば橋に着く。橋にかかるうっすらした灯りと霧を目視した私は、自分の速度にたしかな自信をもつ。これも飛び越えるが、ここから急速に地上へ上がりはじめるので、上昇飛行をしなければならない。と、そのとき、誰かの声が聞こえた。
「こら、あんた! なんてスピードで橋わたってんの。妬ましいわね」
橋姫が私の後ろにまとわりついてくると、弾幕をとばしてきた。けれどしょせんは亡霊の弾だ。天狗の足にかなうものか。
しばらく、橋姫が放った弾と並走したが、やがて弾のほうが事切れて消滅していった。障害は乗り越えた、あとはもう地上に向かってぐんぐん上昇していくだけだ。途中、土蜘蛛やつるべ落としが、視界の端に見えた気がしたが、興味はない。
地上への出入り口が見えてきた。はじめ薄明かりかと思っていると、しだいに広がっていき、やがて視界を包みこむほどになる。私は光の中に飛び込んでいった。眩しさのあまり片手で両目を覆い隠したが、一日ぶりの新鮮な風を感じ取ることで、地上に出たのが分かった。
地上界は、思いのほか白かった。突き放してくる感じさえある爽やかな空気、これぞ地上だ。私は深呼吸をして、肺を冬の空気で満たしたあと、勇儀さんたちのいそうな場所を目指すことにした。
◆ 決戦、博麗神社
幻想郷で妖怪どもが頭をそろえて馬鹿騒ぎをする場所といえば、一つしかない。魑魅魍魎に対して毎日無料開放中の博麗神社は、季節の化粧がよく表れるさまが魅力的だし、お神酒まである。ここで遊ばない理由はない。勇儀さんたちも博麗神社にむかったことだろう。
博麗神社を上空から見たとき、私は自分の予想が当たっていることを確信する。山に設けられた石段の下から上、博麗神社の庭にかけて、地底にいたはずの霊魂がたくさんさまよっている。勇儀さんたちと一緒に飛び出してきたっきり、帰り道がわからなくなったのだろう。
私は庭に降り立った。酒瓶が転がっていて、宴会用に敷かれたらしきシートが片付けられずに残っている。うっすら降り積もっていた雪は踏み荒らされて茶色く汚くなっている。神社の外の林の入り口にまで足あとがある。霊夢さん、おきのどくに、迫り来る暴風雨を防げなかったと見える。
景色は荒れ果てているが、妙にしずかだ。ひょっとして誰もいないのではないだろうか。
おそるおそる本堂に入ってみると、酒くさい。酒漬けになった頭が匂いに引き寄せられてか、さらに頭痛を増す。本堂の中もひどい有様だ。中央に誰かがうつ伏せになっているのが、目に止まった。鉄色の中華服、三つ編みでまとめられた赤髪、火焔猫燐かな。近づいてひっくり返してみると、たしかに火焔猫燐だった。苦しげに眉をひそめていて、寝心地がわるそうだ。
ここで何が起きたのかを聞きたい。頬をやさしく叩いてやると、唸り声をあげながら目を開いた。
「おはようございます」
「……うん、お空」
「いえ、違います。立てますか」
火焔猫燐は苦しそうに体を起こすと、頭を抱えてまた唸った。彼女にも二日酔いの鎖が巻き付いていると見える。淀んだ視線を周囲にまわすと、事の次第を理解したらしい、顔つきをさらに苦々しくさせた。
「ああ、そうか私。ねえ、お空は大丈夫?」
「だから違います。私は文です。しゃめいまる、あや」
「なにいってんの……」
火焔猫燐はうさんくさい目をこちらに向けてきた。ひとしきり見つめ回したのち、ようやく目の前にいるのが友達ではないと分かったからか、睨めつけてきた。
「あんた誰か知らないけど、お空の格好なんかして!」
私と火焔猫燐は地霊殿で顔を合わせたはずだが、記憶にないようだ。
「私のこと、覚えていないんですか。まあ、私もなんですけど。勇儀さんたちはどこにいますか」
「ああ、そう! 勇儀! いやっ、もうやだ」
勇儀さんの名前を耳にするなり、火焔猫燐はぷりぷりしながら立ち上がった。ぞんざいに本堂の奥を指さすと、鬼に対する呪詛を吐いた。鬼の耳は地獄耳だから、聞こえているかもしれない。それで勇儀さんなり萃香さんなりが飛び出してきたら、恐ろしい。私はつばを飲み込む。
「じゃあ、見に行きます。貴方は地霊殿に帰るべきですね。留守番が誰もいません」
「え、行くの? あんたさあ、やめたほうがいいわよ」
「やることがありますから」
「二人もいるのよ、大丈夫?」
二人だろうが百人だろうが、私はやらないといけない。火焔猫燐の心配を受け取りながら、私は本堂の奥に足を踏み入れた。小さな通路を少し進むと吹きさらしの廊下になっている。これが博麗神社の本堂と、霊夢さんの生活空間である母屋を繋げている橋だ。右を見るとお白いのかかった林を眺めることができる。素朴で味わい深い景色だ。
が、気持よくなっている暇などなかった。廊下に来てから、酒の香りが急激に濃くなってきた。空気のよくとおる場所だというのに、酒気が鼻孔をつらぬいてくる。いったいどれほど呑んだのか、想像するだけで二日酔いが増してくる。凶悪犯二人分の酒は暴力的だ。
さらし廊下を渡りきって、母屋に入ろうとしたときだった。母屋の奥から話し声が漏れ聞こえた。私は足をとめて耳をそばだてる。声の主は……萃香さんだ。いつもどおりの陽気な声で、やや枯れてはいるが弱った様子ではない。誰と話している? クスクスとした笑い声も聞き取れた。耳慣れない声質だ。地霊殿の犠牲者の一人か。それとも新たな犠牲者か。
私は服を取り返すためにここまでやって来たわけだが、母屋に入るのをどうしてもためらってしまう。どうやらみんな呑みをやめていないようで、そこに私が入ればどうなるのかは想像に難くない。蟻が蟻地獄に飛び込むにひとしい。二日酔いだかなんだか言っても無茶をさせられる。鬼とはそういう妖怪だ。だから無法地帯の地の底で大活躍している。
まずは様子を見よう。私は足音を立てぬために飛んで移動することにした。ゆっくりと浮いてさらし廊下を横に抜けた。屋根にそって縁側に近づいていき、上から内部をこっそりと見渡す。
絶句した。この世のものとは思えない凄惨な光景が広がっていた。部屋中に散らばる酒瓶の多さよ。こたつテーブルの上も酒瓶とお菓子であふれかえっていて、汚い。霊夢さんは部屋の隅に倒れ伏して身じろぎもしていない。髪はよれよれ、服はしわしわ、苦労にまみれている。仏様はなにゆえ神職である巫女にこのような試練を与えたもうたのか。
こたつテーブルに突っ伏している者は、地霊殿の当主だろう。こちらも動かない。いや待て、かすかに動いたぞ。組んだ腕の隙間から放たれた眼光が、私にむけられた。狸寝入りだ。
さて起きている人物を見てみよう。こたつテーブルで温もっているのが、当主を除いて萃香さん一人。対面しているのは勇儀さんと、霊烏路空、当主の妹である古明地こいしだ。他にはいない。犠牲者はまだ最小限にとどまっている。
霊烏路空が着ている服は私の服だった。よかった。これが別の服を着ているとなったら、いったい私の服はどこに捨てられたものかと焦らされていたところだ。頭からつま先にかけて完璧に私の入れ違いだ。首にはカメラをかけているし、腕時計もはめているし、そばには取材道具の入ったポーチを置いている。それらが手元にないと、私は何ともいえず落ち着かない。だいたい、いま着ている服も落ち着かない。動きづらい。
鬼が起きている中に飛び込むと霊夢のような末路を私もたどりかねないので、秘密裏に動きたい。どうすればいいだろう。さしあたり、霊烏路空を外に誘導して、着替えを済ませてしまえばよいか。どう誘導するのかが問題になってくる。
けれど、この問題は難しくないと思う。私は味方を作ることができるからだ。そう、さっきから私をひっそり見ているご当主さんに協力してもらいたいところだ。
見ていますか、聞こえていますか、古明地さとりさん。心を読んでいるのでしょう。私は射命丸文ですが、どうかお力添えをお願いします。ひとまずその場から離れて、外で私と合流しましょう。ですから、いつまでも狸寝入りを続けている場合ではございません。
いや、ですから、起きて、みなさんに適当な用事を告げればよいだけですよ。お手洗いに行くことにすればいい。私はそうして脱出を図ったことがあります。結果は失敗しましたが。あ、そっぽを向かないでください。
……これはですね、運が悪かったゆえの失敗でして、ほら私の記憶を読んでみて。ね、萃香さんがやってこなかったら成功していたんですよ。さとりさんなら私のような目には会いますまいて。ね、今すぐ起きて、用事を言って、抜けだしたらさらし廊下で合流しましょう。
さとりさんはやっと協力する気になってくれた。いかにもいま目覚めたばかりだと言うようにアクビをし、背伸びをしてみせる。近くにいた萃香さんが声をかける。
「おー、やっと起きたか」
「……ふあ、何時ですか」
「朝の十時」
「……ちょっと、おトイレに行ってきます」
「おーう」
さとりさんは素晴らしい演技でこの場を切り抜けた。私はさとりさんが部屋を出たのを見計らって、静かにさらし廊下に向かった。さらし廊下前にさとりさんが現れたところで、私もその場に降り立った。
「似合ってるわよ、お空の格好」
「そんなことより本題に入りたいのですが」
「ふうん、あいつらにバレずに着替えたいんだ。で、私はお空を連れ出せばいいのね」
「え、ああ、心を読んだんですか。理解が早くて助かります」
「じゃあ、貴方に協力するついでに私たちも逃げ出すとしましょう」
約束をとりつけることができた。私はまた様子を見るために縁側へ向かった。ちらっと、母屋の外に立つ厠へ駆けていくさとりさんが見えた。本当にお手洗いへ行きたかったらしい。
しばらくすると部屋にさとりさんが戻ってきた。作戦開始だ。と言っても私は成り行きを見守るだけで、全てはさとりさんの演技にかかっている。
さとりさんはこたつテーブルの定位置に戻ると、目の前にあったおかきを二つまみ口に放りこんだ。萃香にむかって話を振る。
「ねえ、お燐はどこにいるの」
「え、知らない」
火焔猫燐は一人で地底に帰ったのだが、このことを教えてやるべきだろうか。
さとりさんの視線が勇儀にむけられたが、答えたのは霊烏路空だった。
「あれーそういえばどこにいるんだろう」
そうか。読めたぞ。さとりさんは火焔猫燐の不在に目をつけているのだ。恐らく、火焔猫燐を探すことを提案して、地霊殿メンバーを引き連れて、それで脱出するつもりだ。
さとりさんはみんなに投げかけるようにして言った。
「しょうがないわね。ちょっとお燐を探してくるわ」
「あ、じゃあ私も探す」
私の予想は当たっていたが、霊烏路空が自ら提案に乗じてくるとは予想していなかった。見事ですよさとりさん! つながり深い住人の心を巧みに利用した一手には頭が下がります。さらにさとりさんは流れるようにこいしに尋ねる。
「あなたも来る?」
「いいよ。私は勇儀さんとまだお話しとく」
アッ! なんてことだ。妹が断るとは。さとりさんの表情にも一瞬とまどいが生まれたのが見えた。まさか、そのまま中断なんてしないでくださいよ。
「そう。じゃあお空と一緒に探してくるわ」
「すぐ帰ってきてね」
私の思いは杞憂だった。さとりさんはさきの言葉を口にするなり立ち上がった。が、そのときもう一人立ち上がる人物がいた。萃香さんだ。
「私が探してくる! みんなゆっくりしてなよ」
言うが早いか萃香さんは飛ぶように部屋から出ていった。あっという間の出来事だったので、さとりさんは何も言い返せなかった。そのまましぶしぶと、座りこむ。霊烏路空は何事もなかったかのように、勇儀さんたちと会話を再開する。
萃香さんがこんなに気を効かせられる人だったとは、今の今まで気づかなかった。それが私にとって悪い方向に働くとは、運命は残酷だ。が、けれどこれは良いほうに考えよう。鬼が一人減ったのだから、さとりさんも私も動きやすくなったはずだ。
とはいえ、さとりさんは一つの手札を見せてしまった。大きな行動は起こしずらい。自由な私が手助けをするほかない。この手のいたずらは妖怪がもっとも得意とするところだ。私だって伊達に人間を何十人とたぶらかしてきてはいない。やってみせよう。
私はさとりさんに新しい仕掛けをすることを、心のなかで教えたあと、屋根をつたって裏口に向かった。目標は、裏口の粗末な引き戸だ。これに作った風をあてて、さも誰かがやってきてノックをしているように見せかける。できれば勇儀さんに現れてほしいが。
私が念じると、肌寒い空気が空中で渦巻きだした。うちわがないので竜巻は起こせないが、枯れ木の枝を折るくらいの力は持っている。風を作って、引き戸にぶつけた。ドンと軽い音がする。誰かがこぶしで叩いているように見せるためには物足りない。もう一度つくった風を三つに小分けして、それぞれ順番に引き戸へ突撃させた。今度のは小気味よくノックが再現された。
屋根の下に耳をそばだてると、かすかに会話が聞こえてくる。今しゃべっているのは勇儀さんとこいしだ。
「萃香かね」
「えー、でも、早くない?」
「じゃあお客さん? 見てこようか。そっちは霊夢おこしといて。霊夢のお客さんかも」
話がよい方向に進んでくれる。勇儀さんがこっちへ向かってくる足音がする。ドシドシと重たくて分かりやすい。私はこの隙にすばやく縁側へもどって、少し勇気がいったが、部屋に入ることにした。
私が縁側から部屋へと降り立ったとき、霊烏路空が驚きの顔で迎えた。こいしは霊夢を起こそうと肩を揺すっている。さとりさんは眠たそうな目でこちらを見つめてくると、こう言った。
「今逃げるの?」
「そうしましょう。空さん、こいしさん、逃げますよ」
二人にとっては突然の出来事で、よく分かっていない顔をしている。けれど、さとりさんがみんなに一声かけると、素直に従い出した。
さとりさんが縁側から飛び立ち、霊烏路空とこいしが後を追う。このときさとりさんは私にむかって言葉をなげかけた。
「できれば里で合流しましょう」
あとは私だ。私は背後から勇儀さんの足音がもどってくるのを感じながら、床から飛び立とうとした。そこでいきなり私の足に絡みつくものがあった。疑問を感じる隙もなく転ばされて、鼻頭を畳に打ちつける。い、痛い、というよりもいったい何が起きた。いや、それよりも、勇儀さんの足音が!
「あれ、あんた、お空? 違うね。そうだ文だ」
勇儀さんのあっけからんとした声が私の背中にふりかかる。マントがぐっと重たくなった気がする。私はうつ伏せのまま首だけを勇儀さんに向けた。
「どうも……ゆうぎさん」
「おう。あれ、霊夢も起きてるじゃん」
勇儀さんの視線の先を追いかけると、霊夢さんが四つん這いになって、青ざめた顔をみせていた。その右手の先は、私からは見ることができない。足首にまとわりついて、もぞもぞと動く感触は、つまりはそういうことだった。
「みず……」
霊夢さんが発した声は、喉の底から絞り出された悲痛なうめきだ。弱々しくこたつテーブルに近づいて、上半身をテーブル上に投げ打った。私はもう自由になっていたが、勇儀さんに見つかっているのだから何をしても遅い。とりあえず、座ろう。
間も無くして萃香さんまで戻ってきた。今にも事切れそう霊夢を見るなり驚いて走りより、背中をさすりだす。勇儀さんはすばやく台所から水の入った湯のみを持ってきた。さすがに危篤患者を前にしては鬼も情けを見せるものか。霊夢さんは湯のみをもらってもしばらく手をつけず、うなだれていた。髪のこぼれ方が、怨霊にも思われる。
「……あんたたち……」
と、霊夢さんが口を開いた。萃香が答える。
「どうしたの」
「……出ていきなさい」
「え、なんて?」
「あんたたち、出ていきなさい」
「一人になったら危ないよ」
そのとき霊夢は萃香を振り払った。そして右手を大きく上げたかと思うと、尻餅をついた萃香の額めがけて振り下ろしたのだ。軽快な破裂音がして、萃香が素っ頓狂な声をあげる。
「あぎゃあっ」
「出ていけバカども!」
萃香さんの額に御札が貼り付けられた。御札に秘められた神力はすぐさま発揮され、額からは湯気が噴出し、肉の焼ける音が聞こえはじめる。むごい。萃香さんは頭を振り乱しながらさらし廊下へ逃げ出していった。それを見ていた勇儀さんが呆れた声をあげる。
「おいおい、穏やかじゃないね」
「あんたも! 出ていく!」
霊夢さんは両手を一瞬ふところにおさめたかと思うと、目にもとまらぬ勢いで振りかぶり、飛び跳ねながら、勇儀さんの首元めがけ逆ハの字に打ち下ろした。勇儀さんはあっけにとられて動かずじまい、二振りの手刀が首元に直撃すると、二枚の御札が巻きつけられ、巨乳が震えた。勇儀さんはよろけて背後の柱にもたれかかったかと思うと、喘息が起こったかのように咳を吐きはじめる。御札の効力が勇儀さんの喉を締め付けているのだ。
「が……オ……エヘッ」
勇儀さんは息も絶え絶えに萃香さんの後を追いかけ去っていった。
二人の鬼をあっさり撃退してのけた霊夢さんは、私のほうに振り返って恨みくすぶる視線を飛ばしてくる。なんという恐ろしい目だ。悪魔の一夜を乗り越えた人間の目は、こうも残酷に輝くのか。私は座ったまま、復讐の巫女が目の前に立っているため逃げることもできなかった。そうやって恐れおののいていると、霊夢さんはしゃがれた声で話しはじめる。
「お空、あんたいたっけ」
「い、いえ、さとりさんの様子を見に来たんです」
「……さとり。そういえば、さとりどこ」
「帰っていきました。みんな帰っていきましたよ」
「なにそれ……ああもう。じゃあお空だけでも掃除手伝いなさいよ」
霊夢さんは私のことをお空と呼んだ。私は霊烏路空の真似をしているつもりでないのに、なぜだか霊夢さんは私の正体を疑いもしていない。まだ酔いが残っているのか? まあいいか。ヘタに訂正して怒りを買ってもこちらが困る。
緩慢なうごきで片づけをはじめた霊夢さん。元気が感じられないのが哀れを誘う。私と霊夢さんは直接呑みあったワケではないが、奇妙な親しみが湧いてきた。鬼を追い払ってくれた義理もあるし、掃除は手伝ってあげよう。里で待っているかもしれないさとりさんたちには悪いが、しばらくはお空でいさせてもらう。
「あー、体いたい」
霊夢さんはぶつくさ文句を口にした。これで鬼を追い払った巫女なのだから大したものだ。おかげさまでよい記事が書ける。
いま私は地底にいる。
身内と新聞の批評をしあっていたら、なぜだか私の突撃取材のことが槍玉にあげられた。抗議をしたら私以外の満場一致で取材の試験をするハメになった。内容は分かりやすい、地底の取材をしてくるだけ。字面だけなら大したことはない。けれど、問題は鬼だ、あの人だ。
どうしよう、もう橋をわたって旧都の門前にきている。緑目の嫉妬女を振り切るのが鬱陶しかったが、ここから先はさらに難関だ。まさに地獄と呼ぶにふさわしい。なんといっても本物の鬼がいるのだから。
門をくぐる前に色々と準備をしておこう。記者たるもの準備をおろそかにしてはいけない。手帳はあるか。ペンとその予備を持ったか。カメラは首にさげているか。フィルムは新しいものに取り替えているか。腕時計は手首にあるか。身だしなみも大切だ。タイは曲がっていない。スカートに雑な皺も入っていない。ポーチの下げかたも万全だ。
そうだ門をくぐるまえに旧都の外観をメモしておかないといけない。記すに……橋姫の手厚い歓待をうけたあとには、旧都の門が待っている。ところどころ剥げた朱塗が時代の積りをかんじさせる、巨大でたくましい門である。門の先には旧都の華やかな灯りが明滅しており、訪れた者の期待をふくらませることであろう……。
門の先から誰かが来た。いつか見たことのあるシルエットだ。非常にいやな想像をしてしまうが、まさかあの人ではあるまい。旧都に来てすぐあの人に会うなんて、そんなまさか。ああ、けれど、近づいてくるとますますいやな気が増してきた。だって、あの額の一本角は!
シルエットは大ぶりに手を振ると走りよってきた。図体が揺れて、胸も主張する。麗しい金髪をなびかせながら私の視界をほとんど埋め尽くしたのは、旧都の鬼、星熊勇儀に他ならない。
「やあ、天狗かい。用事は」
「いやまあ、えっと、取材みたいな」
「旧都をか! いいじゃない。歓迎するよ」
勇儀さんの苦手なところの一つは、後先を考えていないこと。大抵の妖怪は明日のことなどどこ吹く風な態度だが、勇儀さんは特にひどい。鬼という種族は未来を見るのを好まぬようだ。今の会話だって、私が取材と口にしただけでもう旧都案内に引きずりこもうとしている。
ほらみろ、勇儀さんがなれなれしく私の腕をつかんで引っ張りだした。痛いですよ勇儀さん。取り巻きの霊魂が赤や青に光り輝くのは、彼らが楽しんでいる証拠だ。まだ旧都の門の下ながら、すでに四面楚歌の体ときている。
勇儀さんは旧都の大通りを大股に歩いていく。私はその歩調に合わせなければならないから小走りになる。どこへ行くにしたって飛んだほうが早いというのに、それをいったら徒歩こそが風流だと背中越しに説教された。私は走らされているから風流とは真逆にいる。
このまま流されるままでは焼き鳥にもされかねないので、紛いなりにも取材ということもあるし、行き先を聞いた。
「あのーどこに向かっているのでしょうか」
「なあに旧都の様子をざっと見せてやるのさ」
なるほど。たしかにとある町を取材するなら、まず町の大雑把な景観を見て回るのがスジだ。空気を感じ取り、住人たちと触れ合い、それらを記録していく。それが終われば細部にはいる。なあんだ、勇儀さんも筋書きを分かってくれているのなら、いくらか任せきりでよさそうだ。
などと思っていると、勇儀さんはいきなり方向を変えて大きな屋敷へと近づいていった。当然私もそれに習わないといけない。記録のためにペンを走らせている暇もない。
「旧都に来たからにはここだよ、ここ」
「あ、あの、町を見て回るんじゃ」
「今見て回ってるだろう」
見て回るだけで満足する記者がどこにいる。見て回った感想をメモしないと意味がない。とはいえ、メモ用に考えている文章はまだ記憶にあるから、屋敷に入って落ち着いてからでもいいだろう。大丈夫、勇儀さんは鬼ではあるが悪魔ではない。時間がほしいと、きちんと言って聞かせれば分かってくれるはずだ。
屋敷は本当に大きく、少なくとも周りにおなじ規模の建物は見られない。白漆喰の壁が美しくそびえ立ち、何重に重なる屋根と、勢いよく突き出た反りが素晴らしい。古き城をモチーフにした建築は、もしかすると過去からずっとここにあり続けているのかもしれない。ひと目見ただけではどんな施設なのか想像つかなかったが、勇儀さんの反応と、旧都の雰囲気から、私は豪華な酒場だと考えた。
造りは城の構えだが正面入り口は小さかった。入り口にかかる紫の暖簾には、白で染め抜かれた「刹那」という文字が踊る。どんな意味だろうか、適当に格好をつけただけではないと思うが、これもあとで質問しよう。
入り口は魑魅魍魎がわんさと出入りしている。大した盛況ぶりだ。なんだか派手な着物で着飾った女が多いように思われる。私の想像がいやな方向にかたむきはじめる。こういう女の多い場所は、どこに行ってもよい印象を受けないものだ。
勇儀さんを先頭に暖簾をくぐった。中に入ったとき私たちを歓迎する大きな声があがった。
「星熊の姐さんがお参りになったぞ!」
「いらっしゃい」
勇儀さんの慕われかたが尋常ではなかったので、私は目を丸くしてみんなを見渡した。客も従業員も勇儀さんに声をかけたり手を振ったりしている。その嵐はやがて勇儀さんの取り巻き、つまり私や霊魂も巻き込みはじめた。
「天狗たあ、めずらしいね、いらっしゃい!」
「あんた山から来たんじゃないの? 好きものだねえ」
「羽が邪魔だ! むしってきやがれ!」
身の危険を感じるので勇儀さんにすがりついた。
「えっと、勇儀さん。もっと静かにならないと取材ができませんよ」
「じゃあ部屋だな」
勇儀さんは支配人らしい牛頭の男を捕まえてあれこれ言いつけた。牛頭の男、見た目は勇ましいが勇儀さんにはへえこらしている。彼はすばやい対応をみせた。
「胡桃の間が開いておりやす」
「あんたねえ、せっかく取材が来てんだよ」
「そりゃあもっともだ。沈丁花の間を開けさせましょう」
牛頭の男がそそくさ引っ込んでいく。
勇儀さんは快活な笑みを浮かべてこちらに振り返ると、またもや腕をつかんで引きずりはじめた。勇儀さんの腕と私の腕を比べるとひどい格差だ。これはそのまま胸の話にもつながっているが、私は胸など気にしていない。いや、本当に。
部屋の廊下をまっすぐ進んで、階段を登って四階にたどり着く。ここまで来ると先ほどまでのしっちゃかめっちゃかは消え失せていた。ぼんぼりが廊下を照らし、襖模様はため息の出るほど見事で、上品な空気に満ちていた。目に入るものだけを見るなら奥ゆかしい。だが私の耳には、奥ゆかしさとは無縁のものが聞こえていた。かすかだが、あちこちの襖の奥から、女の艶やかな声が漏れている。このとき頭に思い浮かんだもの、派手な着物を乱れさせる女たち。
いつのまにか四階までやってきていた牛頭の男が、すばやく廊下を走り飛んでいった。沈丁花の間とやらに入ったかと思うと、客と思しき蛙男がゴミのごとく廊下に放り出された。蛙男がゲロゲロ鳴きながらこちらに、いや階段に向かってくる。道を開けてやると階段を五段六段飛ばしで飛び降りていった。
私たちは客の一人を追い出したかわりに、沈丁花の間に入ることになった。
勇儀さんが私の肩に手を置いて、自慢気な顔で見下ろしてくる。私は首を回した。お座敷は広々とし、壁際には美しい屏風が立てられている。生花は豪華でありながら主張をしない。
蛙男のために用意されたらしい膳と酒がのこっており、すぐそばに布団が敷かれていた。掛け布団がとんでもない方向に流れているなどして、大いに乱れている。が、そんなことより私の目を釘付けにしたのは、夜具の上にしなだれている女だ。彼女は、ある人にそっくりだった。
「れ、霊夢さん?」
身に着けている着物こそまるで違うが、麗しい黒髪と、それを前のほうで2つ結び、後ろを大きなリボンでまとめている様は既視感がある。のみならず、顔の造りといったら、博麗の巫女と見紛うばかり。いや、もしかしたら、本人ではないかとさえ私は思った。この想像は勇儀さんが吹き消してくれたが。
「こいつは霊夢っぽい遊女」
「ああ、そうですか。びっくりした」
「店のランキングではいつも上位」
「ああ……そうですか」
そのとき、牛頭が私に囁くように「三番人気でございます」と言ってきた。それを聞かされてどうしろと言うのか。
霊夢さんでないと分かった上で見てみると、たしかに本人とは程遠い。霊夢さんがあれほど憂いた表情をしているところは見たことがないし、水面にうかぶハスにも似たしなだれ姿は、霊夢さんが作れるはずもない。体つきの差異は言うにおよぶまい。実に官能的だ。くやしくはない。
「さあ、たっぷり取材しな」
「取材といっても、こんなところ、しょうがないですよ」
「体験しな。そういう記事ってあるもんだろ」
私は清く正しい新聞記事を作っているつもりなのだが、いつから週刊誌まがいのデタラメ記事を書くことになったのだろう。勇儀さんが思い違いをしていることが今やっとわかったので、訂正することにした。
「あのですね、私は旧都の取材をすることはしますが。霊夢さんのそっくりさんはいらないんですよ」
ああん、ひどい。と、霊夢さん似の遊女が声をあげた。声質までよく似ていることは、さすがにギョッとさせられる。しかもギョッとしている私を見た彼女は笑顔を差し向けてきた。うん、このさりげなさは、霊夢さんではありえない。
「旧都のことを知るなら遊楽を知っておかないと」
「やっぱりここは遊楽だったんですか。こういうのは私の分野じゃありませんよ……」
「じゃ体験取材にするか」
奇妙な言葉が聞こえた。
勇儀さんは牛頭の男に話しかけて、牛頭の男はすぐさま座敷から退いていく。勇儀さんはいまなんと口にした? 何々サイズの黒い着物を用意してやれ? 危険な状況になりつつある気がする。
「勇儀さん、次いきましょう」
と言おうとしたが、牛頭の男が座敷に上がりこんできて会話の間を折られた。黒を貴重とする大人びた着物を片手に下げている。勇儀さんは笑顔でそれを見、さらに私を見る。取り巻きの霊魂がきらきら輝く。
まずい! 勇儀さん、申し訳ないけれど私はきせかえ人形になるつもりはありません。しかしこのことはしっかり記事にしてさしあげましょう。題して「星熊勇儀の奉公強要。旧都の実態に迫る」とね。さようなら、短い地底旅行でしたが楽しかったです。ね、ね、ですから、勇儀さん、肩から腕をどけてください。本当に、ね、困っちゃいます。
「かんざしは黄色にしよう。黒に黄色は映えるんだ」
「よいでさあ。帯も黄色にしておきましょう」
「下着はなしでいいな」
「もちろん。幼さと危うさを演出するのがよいと見ました」
「背伸びした少女って感じだ」
話がとんとん拍子にすすんでいく恐ろしさよ。このままでは私のみさおが一大事だ。逃げられないのならば、せめて話題をかえよう。鬼の気をそらす方法は何か。なに、簡単なことだ。古来より妖怪全般が弱いものを挙げればいい。あとは私の口車。運を舌にまかせる。
「勇儀さん、そうだ、私ね、呑みたいものがあるんです」
「のみたい?」
「そ、呑みたいもの。旧都の地酒が呑みたい。噂で聞いているんですよ。うまい地酒があるって。ぜひとも、ね、取材を」
「あとじゃだめなのか」
「あとっていうか、なんていうか。そう、勇儀さん、なんだか一杯ひっかけたくありません?」
勇儀さん。そんな目を向けないでください。恐ろしいですよ。鬼に睨まれる恐怖を、あなたは知っていますか。知らないでしょうね。身の毛もよだつとはこのことを言いますよ。私、変なことを言っていませんよ。そりゃあ少し唐突だったかもしれませんけれど、お酒が呑みたい気持ちは真実です。私は心から、地酒、バンザイ!
「勇儀さん、ほらそこ。膳にお酒がありますね。あれでもいいから、呑みましょ。地酒レビューですよ」
「あんな蛙が手をつけたようなヤツ」
「がまの油が効いていて、うまくなってるかもしれませんね」
「バカ。そんなもの客に呑ませられるか。やむないね、酒場にいこう」
勇儀さんは牛頭の男と遊女にかるく謝ったあと、私を引きずりながら座敷から出た。引き返す様子は微塵もない堂々とした足ぶりだ。
助かった。
◆ からす泣かし
私は鬼の豪腕にみちびかれるまま旧都の大通りを歩いていた。地底であるため頭上は暗いが、町はぼんぼりや霊魂によってきらめいている。冬になれば雪が降るらしいが、そのとき町を眺めるのは美しいだろう。旧都はまさに旧き都だ。まだ人間が妖怪を恐れていた頃の写しが地底にあるのは感慨深い。妖怪諸君は郷愁ほしさに地底に住まうのも悪くないのではないだろうか。
こんな風に、今のうちに旧都のレビューをしておかないと、いずれ何も語れなくなるかもしれない。差し迫っているとはいえ、勇儀さんを酒に誘ったのは失敗だった。
鬼に酒を呑ませることがどういうことか、私だって知らないわけではない。鬼に金棒ならぬ鬼に酒だ。萃香さんの異変を思い出す。胃と肝臓が痛くなってくる。
「あのー勇儀さん、どこに向かっているんでしょうか」
「いい場所知ってるんだよ」
「念の為に聞いておきますが、それは遊楽ではありませんよね」
「なんだい、遊楽がよかったのか」
と、勇儀さんは言いながら踵を返そうとしたので、私は慌てて腕を引っ張った。勇儀さんは笑いながら元の通り進みだす。
大通りを進んでいくと、ある屋敷に目が向いた。遊楽に比べれば小規模だが、それでも周囲よりは豪勢だ。飲み屋をそのまま巨大化したような俗っぽさがあるが、その見た目が敷居を下げさせ、誰でも気軽にはいれる空気を生み出していた。入り口前はやはり人だかりができている。
そういえば今は何時だろうか。私が地底に下りはじめたのが朝の九時くらいで、旧都までの道のりは、飛行でせいぜい一時間程度。旧都についてから面倒があったものの、体感ではそれほどかかっていない。腕時計を確認してみると昼の十二時をまわっていた。地底のみんなは午前中から遊楽で遊んだり、飲み屋で酒におぼれていることになる。
勇儀さんが人だかりを割って中に入っていく。ここでも勇儀さんを慕う声が響き渡る。人ごみを縫って馬頭の男が現れると、恭しく頭を下げる。
「先日はどうも」
「今日はお客さんが来てるからね」
「かしこまりました。宴会場に向かいましょう」
馬頭の男に従って私たちは一階の廊下をいく。すでに先客のいる宴会場にたどり着くと、再び声援が吹き荒れる。即座に私達の膳が用意されて、私はなかば無理矢理に座らされる。先客たちが私のことを歓迎したり怒ったり、どう応じればよいのか分からない。
私は目の前に運ばれてくる小皿と酒瓶を見た。酒瓶はラベルも何も貼られていなかったので、勇儀さんに尋ねた。
「あのう、これはどういう銘柄で」
「なんだったっけ」
勇儀はとぼけながら、近くの釣瓶火をこづいた。釣瓶火がなんだかよくわからない訛った言葉を口にすると、周囲がどっと湧いた。冗談を口にしたのだろう。
「それで、銘柄は何なんですか」
「もぐら泣かしだよ」
「はあ、地底にピッタリのお名前で」
もぐら泣かしとやらが真っ赤な杯に注がれて、私に手渡される。勇儀さんと乾杯をして一口飲む。ようやく落ち着いて取材する余裕が出てきた。酒が勇儀さんの弁舌の足しになってくれれば、こちらとしては万々歳だ。手頃な地底ならではの話を抜き取って、おさらばさせてもらおう。これでも妖怪の山で上司との付き合い方を学んできた身だ。呑んだフリして相手を酔わす術は心得ている。
それにしてももぐら泣かし。名前に勝るとも劣らぬ強烈さだ。モグラがアルコールに強いのかどうか知る由もないが、少なくともカラスの私は参ってしまいそうだ。ハナから妖怪向けに拵えられた酒なだけあって、遠慮のなさが際立つ。一口のめば喉が灼ける。
恐るべきは勇儀さんだ。このもぐら泣かしをどんどん胃におさめていくではないか。泣く気配など微塵もない。そのうえ自分の調子で酒を薦めてくる。勘弁してください。鬼に合わせて呑んでいたら五臓六腑が破裂してしまいます。勇儀さんの気をそらさねばならない。
「旧都を観光するとしたらどこがオススメですか」
「まずはココだね。ココは外せない」
「他には何かございますか。ウームと唸るようなやつを」
「さっきの遊楽なんて良いんだけどねえ。女の子がさ、酌のすすめかたがうまいんだよ。かわいいもんだ」
この人はひょっとして親父の化身なのではないかしら。
「えっと、お食事処でオススメなぞを教えてください」
「あんたさあ、ぜんぜん呑んでないよ」
「呑んでますよ。ほらこんなに……ね! それでお食事処を」
「辻斬り亭があるね。そうだ、二軒目はそこで呑もうか」
「呑むって! ハシゴするおつもりですか」
「当たり前だろ」
私は墓穴を掘ってしまった。
やはり鬼と付き合うのは危険極まりない。なんとか取材を試みようと努力したつもりだが、勇儀さんのマイペースをこちらに取り込むことはできそうにないのだ。もう少し戦ってみたが、私が呑ませられるばかりで相手の口から話のタネを聞き出せない。こりゃダメだ。
さて、取材不可能であるのなら、地底にいる理由はない。とっとと山に帰って仲間たちに地底の酒乱地獄を報告するのが賢いことだ。
では、失礼します勇儀さん。
「ちょっとお手洗いにいってきます」
「場所わかるの」
「飲み屋のお手洗いなんてどこも似たような場所にありますよ」
私はそそくさと席をたって宴会場から廊下に出た。いちおうお手洗いがあると思しき方向を進むことにする。まだみんなの目が近いから露骨に逃げ出す真似はできない。
廊下をしばらく進んでいくと突き当りで左右に分かれていた。左は二階につづく階段があり、右には小さい廊下がある。右にいくと予想通りお手洗いの入り口を見つけた。体裁のうえで中にお邪魔する。個室に入って一息つくことにした。
そろそろ忍び出てもいい頃合いだろう。まっすぐ廊下を渡るようでは、宴会場を横切ってしまう。ここは二階に上がって窓から逃亡を図るのがよい。
お手洗いを出て廊下を見渡した。勇儀さんとその取り巻きは廊下におらず、私の計略を暴ける者はいなかった。階段を登って二階に向かう。造りは一階と変わらず、廊下が続き、左右には宴会場を仕切る襖が連なる。その奥からは客たちのバカ騒ぎが聞こえてくる。忍び足になるまでもない。さっさと廊下を横切ることにして、突き当りまで進んだ。丸く切り取られた雅な襖窓があったので、開いて顔を出した。
高めの位置から大通りを見渡せる。悪くない景色だ。この建物は三階まであるようなので、機会があるなら三階から景色を眺めてみたい。が、今はその機会ではない。
さようなら勇儀さん。もぐら泣かし、ごちそうさまでした。あやうく私が泣かされそうになったのも、よい思い出ということにしておきましょう。
「……おーい」
階下の大通りから声が聞こえてきた。ひょっとして私が呼ばれたか? いや、これは見ず知らずの誰かが、別の誰かを呼んだ声だろう。勇儀さんの声でもなさそうだ。人ごみからおーいという声がして、それが異様に耳に響いてくるというのはよくある不思議だ。
「……おーい。文だろ、何してるの」
文、あやと言ったか。奇遇だなあ、私と同じ名をもつ者が呼ばれているらしい。これは珍しい不思議といえる。
「ねえ、窓から顔だして、何見てるのさ」
突然、例の声が大きくなり、聞こえる方向も明確になった。声に誘われ右に振り向いてみると、瓦屋根の上に鬼が立っているではないか。二本角で、あちこち寸足らずの体は、伊吹萃香さんに違いなかった。背中に風呂敷包みを背負っている。
なぜこの人が地底にいるのかと私は考えたが、すぐに可能性を見つけた。さきほど遊郭で霊夢さんのそっくりさんを見た。あれと同じだろう。いま右にいる鬼は伊吹萃香さんにそっくりな鬼なのだ。
「ねえ、勇儀知らないかな。ここにいるのは間違いなさそうなんだけど」
「ああーええっと。ゆうぎとは、星熊勇儀のことで?」
「え、他にいるの?」
「そりゃあもう。いません。一階で宴会中ですよ」
「そうか。やっぱり一階のほうが酒の匂いが強いもんね」
私のささいな計略はかんたんに幕を閉じた。
萃香さんが窓から入ってこようとするので、私は退いて道をあける。大股を開いて窓をまたぎ越える様は、見た目とあいまって純真無垢の少女だ。飲み屋に侵入する少女。背徳的な絵だ。
萃香さんはおもむろに私の袖を掴むと、引っぱりながら歩き出した。道案内をしなければならないらしい。あの宴会場に戻らされるなんて。
一階まで降りたとき、右側のお手洗いに続く道が恋しくなった。萃香さんに断って再びここに避難したくなる。もちろん、案内をしているときに用事を挟むなどありえないことだ。相手は鬼だぞ。無礼講と呼ぶには度が過ぎる。かくして私は魔の宴会場にもどりたつ。
「やっほー勇儀」
「おう」
襖を開けると、萃香さんが勇儀さんにむかって走っていく。膳を境にふたりはちょっとした会話をした。萃香さんはおぶっていた風呂敷を床に置き、勇儀さんは杯の準備をはじめる。二人はすぐに呑みはじめた。いずれも滑らかな動作で、ふたりの間に積もる信頼と慣習が読み取れる。
ところでなぜ萃香さんは地底にいるのだろう。萃香さんが地底に住んでいたという話は耳にしたこともあるが、帰省だろうか。私の取材日と萃香さんの帰省日が偶然にも重なりあい、さらに劇的なことに、逃げ出す瞬間の私を帰省中の萃香さんが見つけたということになるのか。……さすがにそんな奇跡は起きないとしても、私の運が悪かったことは間違いなさそうだ。
萃香さんは私の背中にのっかりながら話しかけてきた。
「ねえ、文はもぐら泣かし呑んだ?」
「呑みましたよ。おいしゅうございました」
「そっか。もぐら殺しも呑もうよ。新聞の記事がふくらむよ」
ずいぶんヤクザな名前が飛び出てきたものだ。あと、記事内容についてはいらぬおせっかいだ。
萃香さんがそのことを笑顔で提案すると、勇儀さんが感心したように目を見開いた。
「ああ、忘れてた! もぐら殺し。じゃあ大白虎もいこう」
「いいね。土産のカマイタチも一緒にね。あ、けど上の酒だから、文は呑んだことあるかな」
「構うかよ。上と下で飲み比べだ」
鬼が二匹、酒を薦めてくる。どこの地獄にいってもこんな経験はそうそうない。河原で石を積み続けるのとどちらが楽だろう。私の目の前で次々と杯に注がれていく毒酒たちは、もはや見ているだけで酩酊してしまいそうだ。取り巻きの霊魂たちはちかちか光っている。味方はどこにもいない。
ふたりの鬼が煽り続けてくるなか、私は杯に手をのばした。のばすしかなかった。
「文はねえ、天狗のなかでもよく呑むほうでさ」
「萃香が言うんならそうなんだろう」
「こりゃあみんなで勝負だね」
「勝負なんて当然さ。いつもやってらあ」
ああ、喉が灼ける。
◆ 目覚めてみると
私は、目を覚ました。詩的な表現を用いるとするなら、知らない天井だった。
いや、本当にここはどこだろう。まず、私はなんとベッドの上にいた。壁紙は藍と緑のダイヤ模様でシックな雰囲気。目に付くのは姿見、タンス、長椅子、調度品といずれも洋物だ。古式ゆかしい佇まいの旧都の、いかにも日本じみた大衆飲み屋はどこに消え去ったのか。
私は頭を抱えた。記憶と現実がばらばらになっているのと、単純に頭痛がするからだった。これは二日酔いだ。二日酔いに襲われるほど呑まされたのは久しぶりだが、そんなことより、ともかく、私は一晩は眠ったことになる。ははあ、掴めてきたぞ。ここは旧都のホテルの一室かもしれない。勇儀さん萃香さんと呑みすぎた私はどこかで落ちてしまったのだろう。それでホテルに連れられたというわけだ。
推察しながらぼんやりと姿見にうつる自分を見た。ひどい寝癖で、目には隈ができている。服装は……服装は、なんだこれは、知らない服を着ている。シャツは白を基調に孔雀色の縁取りがされていて、胸元には眼球のような仰々しい赤い装飾がついている。頭を見ると孔雀色の巨大なリボンが無造作に巻かれている。
ベッドを飛び降りて姿見に接近する。スカートは黒いが生地が異なっておりやはり私のものではない。しかも裏地が宇宙模様のけったいなマントまで羽織っている。私はこの姿をした人物を知っている。霊烏路空だ。
なぜ私が霊烏路空の服を着ているんだ。体は、だいじょうぶ私のものだ。体が入れ替わったというワケではなさそうだ。
よし、落ち着いて昨日のことを思い出そう。昨日は、えっと、みんなで一緒に辻斬り亭にハシゴすることになって、そこで地酒をたらふく呑まされて、それから、それから、そうだ、茸の盛り合わせをみんなで食べたんだ。いや、そんなことはどうでもいい。トランプゲームをしたような気がする。精進料理が美味だったような、微妙だったような。それから、またお酒を呑んで、脱がされた? 記憶が安定していない。思いつくものどれもが夢か現か分からない。
ともかく不安でしょうがない。まずはこのホテルから出ることにしよう。いや待て、ここはそもそもホテルなのか。いいや、後で分かる。今は勇儀さんや、霊烏路空に出会うことが先決だ。
部屋を出ると左右に広がる廊下。重厚で落ち着いた色使いと調度品は、やはり旧都とは思えない。どこか見覚えがある。はて、地底のホテルで厄介になったことはない。廊下を進んでいくと階段があったので降りてみた。ここがホテルならば、ひとまずフロントに向かうべきだ。
階段を二階ほど降りてやや狭い廊下を進んでいくと、ひらけたホールに出た。頭上左右にはステンドグラスが設けられて、神秘的な光をホール全体に投げかけている。ここまで来ると、二日酔いで鈍重になっていた私の頭とて、さすがにここが地霊殿であることを思い出すことができた。
そのことを閃いたと同時に、新たな記憶がよみがえる。それは勇儀さんと交わした会話で、こんなことを言い合っていた。
(取材ならさ、地霊殿もいこうよ)
(一度いきましたよー)
(一度で分かるもんかい。あの偉そうな人達にアポなしだ)
(いいですねー。アポなしは大好きです)
(酒も持っていこう。三次会は地霊殿で、だ)
それから、みんなで地底の暗い道中を飛び回った記憶がある。これは地霊殿に向かおうとしているときの記憶だろうか。とても楽しかったことが切れ切れに思い出されるのが、切ない。そうか、鬼に連れ回されるのが楽しいと思えてしまうほど、私は泥酔していたのか。
ホールを横切り玄関まで向かってみると、両開きの玄関扉が片方だけ開け放されている。外は地底の暗黒だ。
一つ気になった。地霊殿の住人たちがいない。私が知っている限り、地霊殿には気持ちの悪い姉妹と、ネコとカラスのペットが二人ずつ。少なくともその四人がいるはずだ。私が客室らしき部屋から出て玄関に至るまで、彼らは気配さえ見せなかった。みんなどこにいったのだろう。酒乱百鬼夜行が突然入り込んできたせいで、みんな驚いて隠れてしまった?
新たな想像がめぐってくると、私はいよいよ恐ろしくなってくる。百鬼夜行は、地霊殿メンバーをも巻き込んでしまったのかもしれない。私たちは地霊殿に突撃し、そこで三次会を開いた。地霊殿の人々も当然参加させられた。酔いつぶされて、私ともどもワケがわからなくなった。もしやこのとき、私が霊烏路空の服に着替えるようなイベントが起こったのではないだろうか。
待てよ、ということはもしや、逆に霊烏路空はこの私、射命丸文の服に着替えている? その霊烏路空は、いまどこにいる?
私はいてもたってもいられなくなり、ホールに振り返って大声を出した。
「誰かいらっしゃいますか!」
声はホールに響き渡り、消えていった。私は風を吹き起こしながらまた大声を送り届けたが、反応を返してくれる者はいなかった。
大変だ。早くみんなを見つけて服を取り戻さないと。きっとみんな暴走しているに違いない。アルコールモンスターズが地霊殿の次に行く先は……地上だ。
私は玄関をくぐると共に、地底の闇を一目散に突き飛んだ。地底空洞は広大だが、その実、まっすぐではない。あまり直進しすぎると壁にぶつかってしまうので、全速力を出せないのが辛い。けれど私はほとんど全速力だった。
しばらく突き進んでいると目の前に光が見えてくる。近づくにつれ光は広がり、鮮やかになっていく。旧都だ。こんなに早く旧都に辿り着けるのなら、地上に出るのもたやすい。私は旧都上空を黒い矢となって飛び越えた。その瞬間、さっと旧都全土を確認したが、勇儀さんたちの気配なし。遊郭の窓の一角に、霊夢さん似の遊女がたそがれているのを見てとった。分かっているとはいえ、顔を見るとびっくりする。
旧都を越えるとまた暗闇、それをすぎれば橋に着く。橋にかかるうっすらした灯りと霧を目視した私は、自分の速度にたしかな自信をもつ。これも飛び越えるが、ここから急速に地上へ上がりはじめるので、上昇飛行をしなければならない。と、そのとき、誰かの声が聞こえた。
「こら、あんた! なんてスピードで橋わたってんの。妬ましいわね」
橋姫が私の後ろにまとわりついてくると、弾幕をとばしてきた。けれどしょせんは亡霊の弾だ。天狗の足にかなうものか。
しばらく、橋姫が放った弾と並走したが、やがて弾のほうが事切れて消滅していった。障害は乗り越えた、あとはもう地上に向かってぐんぐん上昇していくだけだ。途中、土蜘蛛やつるべ落としが、視界の端に見えた気がしたが、興味はない。
地上への出入り口が見えてきた。はじめ薄明かりかと思っていると、しだいに広がっていき、やがて視界を包みこむほどになる。私は光の中に飛び込んでいった。眩しさのあまり片手で両目を覆い隠したが、一日ぶりの新鮮な風を感じ取ることで、地上に出たのが分かった。
地上界は、思いのほか白かった。突き放してくる感じさえある爽やかな空気、これぞ地上だ。私は深呼吸をして、肺を冬の空気で満たしたあと、勇儀さんたちのいそうな場所を目指すことにした。
◆ 決戦、博麗神社
幻想郷で妖怪どもが頭をそろえて馬鹿騒ぎをする場所といえば、一つしかない。魑魅魍魎に対して毎日無料開放中の博麗神社は、季節の化粧がよく表れるさまが魅力的だし、お神酒まである。ここで遊ばない理由はない。勇儀さんたちも博麗神社にむかったことだろう。
博麗神社を上空から見たとき、私は自分の予想が当たっていることを確信する。山に設けられた石段の下から上、博麗神社の庭にかけて、地底にいたはずの霊魂がたくさんさまよっている。勇儀さんたちと一緒に飛び出してきたっきり、帰り道がわからなくなったのだろう。
私は庭に降り立った。酒瓶が転がっていて、宴会用に敷かれたらしきシートが片付けられずに残っている。うっすら降り積もっていた雪は踏み荒らされて茶色く汚くなっている。神社の外の林の入り口にまで足あとがある。霊夢さん、おきのどくに、迫り来る暴風雨を防げなかったと見える。
景色は荒れ果てているが、妙にしずかだ。ひょっとして誰もいないのではないだろうか。
おそるおそる本堂に入ってみると、酒くさい。酒漬けになった頭が匂いに引き寄せられてか、さらに頭痛を増す。本堂の中もひどい有様だ。中央に誰かがうつ伏せになっているのが、目に止まった。鉄色の中華服、三つ編みでまとめられた赤髪、火焔猫燐かな。近づいてひっくり返してみると、たしかに火焔猫燐だった。苦しげに眉をひそめていて、寝心地がわるそうだ。
ここで何が起きたのかを聞きたい。頬をやさしく叩いてやると、唸り声をあげながら目を開いた。
「おはようございます」
「……うん、お空」
「いえ、違います。立てますか」
火焔猫燐は苦しそうに体を起こすと、頭を抱えてまた唸った。彼女にも二日酔いの鎖が巻き付いていると見える。淀んだ視線を周囲にまわすと、事の次第を理解したらしい、顔つきをさらに苦々しくさせた。
「ああ、そうか私。ねえ、お空は大丈夫?」
「だから違います。私は文です。しゃめいまる、あや」
「なにいってんの……」
火焔猫燐はうさんくさい目をこちらに向けてきた。ひとしきり見つめ回したのち、ようやく目の前にいるのが友達ではないと分かったからか、睨めつけてきた。
「あんた誰か知らないけど、お空の格好なんかして!」
私と火焔猫燐は地霊殿で顔を合わせたはずだが、記憶にないようだ。
「私のこと、覚えていないんですか。まあ、私もなんですけど。勇儀さんたちはどこにいますか」
「ああ、そう! 勇儀! いやっ、もうやだ」
勇儀さんの名前を耳にするなり、火焔猫燐はぷりぷりしながら立ち上がった。ぞんざいに本堂の奥を指さすと、鬼に対する呪詛を吐いた。鬼の耳は地獄耳だから、聞こえているかもしれない。それで勇儀さんなり萃香さんなりが飛び出してきたら、恐ろしい。私はつばを飲み込む。
「じゃあ、見に行きます。貴方は地霊殿に帰るべきですね。留守番が誰もいません」
「え、行くの? あんたさあ、やめたほうがいいわよ」
「やることがありますから」
「二人もいるのよ、大丈夫?」
二人だろうが百人だろうが、私はやらないといけない。火焔猫燐の心配を受け取りながら、私は本堂の奥に足を踏み入れた。小さな通路を少し進むと吹きさらしの廊下になっている。これが博麗神社の本堂と、霊夢さんの生活空間である母屋を繋げている橋だ。右を見るとお白いのかかった林を眺めることができる。素朴で味わい深い景色だ。
が、気持よくなっている暇などなかった。廊下に来てから、酒の香りが急激に濃くなってきた。空気のよくとおる場所だというのに、酒気が鼻孔をつらぬいてくる。いったいどれほど呑んだのか、想像するだけで二日酔いが増してくる。凶悪犯二人分の酒は暴力的だ。
さらし廊下を渡りきって、母屋に入ろうとしたときだった。母屋の奥から話し声が漏れ聞こえた。私は足をとめて耳をそばだてる。声の主は……萃香さんだ。いつもどおりの陽気な声で、やや枯れてはいるが弱った様子ではない。誰と話している? クスクスとした笑い声も聞き取れた。耳慣れない声質だ。地霊殿の犠牲者の一人か。それとも新たな犠牲者か。
私は服を取り返すためにここまでやって来たわけだが、母屋に入るのをどうしてもためらってしまう。どうやらみんな呑みをやめていないようで、そこに私が入ればどうなるのかは想像に難くない。蟻が蟻地獄に飛び込むにひとしい。二日酔いだかなんだか言っても無茶をさせられる。鬼とはそういう妖怪だ。だから無法地帯の地の底で大活躍している。
まずは様子を見よう。私は足音を立てぬために飛んで移動することにした。ゆっくりと浮いてさらし廊下を横に抜けた。屋根にそって縁側に近づいていき、上から内部をこっそりと見渡す。
絶句した。この世のものとは思えない凄惨な光景が広がっていた。部屋中に散らばる酒瓶の多さよ。こたつテーブルの上も酒瓶とお菓子であふれかえっていて、汚い。霊夢さんは部屋の隅に倒れ伏して身じろぎもしていない。髪はよれよれ、服はしわしわ、苦労にまみれている。仏様はなにゆえ神職である巫女にこのような試練を与えたもうたのか。
こたつテーブルに突っ伏している者は、地霊殿の当主だろう。こちらも動かない。いや待て、かすかに動いたぞ。組んだ腕の隙間から放たれた眼光が、私にむけられた。狸寝入りだ。
さて起きている人物を見てみよう。こたつテーブルで温もっているのが、当主を除いて萃香さん一人。対面しているのは勇儀さんと、霊烏路空、当主の妹である古明地こいしだ。他にはいない。犠牲者はまだ最小限にとどまっている。
霊烏路空が着ている服は私の服だった。よかった。これが別の服を着ているとなったら、いったい私の服はどこに捨てられたものかと焦らされていたところだ。頭からつま先にかけて完璧に私の入れ違いだ。首にはカメラをかけているし、腕時計もはめているし、そばには取材道具の入ったポーチを置いている。それらが手元にないと、私は何ともいえず落ち着かない。だいたい、いま着ている服も落ち着かない。動きづらい。
鬼が起きている中に飛び込むと霊夢のような末路を私もたどりかねないので、秘密裏に動きたい。どうすればいいだろう。さしあたり、霊烏路空を外に誘導して、着替えを済ませてしまえばよいか。どう誘導するのかが問題になってくる。
けれど、この問題は難しくないと思う。私は味方を作ることができるからだ。そう、さっきから私をひっそり見ているご当主さんに協力してもらいたいところだ。
見ていますか、聞こえていますか、古明地さとりさん。心を読んでいるのでしょう。私は射命丸文ですが、どうかお力添えをお願いします。ひとまずその場から離れて、外で私と合流しましょう。ですから、いつまでも狸寝入りを続けている場合ではございません。
いや、ですから、起きて、みなさんに適当な用事を告げればよいだけですよ。お手洗いに行くことにすればいい。私はそうして脱出を図ったことがあります。結果は失敗しましたが。あ、そっぽを向かないでください。
……これはですね、運が悪かったゆえの失敗でして、ほら私の記憶を読んでみて。ね、萃香さんがやってこなかったら成功していたんですよ。さとりさんなら私のような目には会いますまいて。ね、今すぐ起きて、用事を言って、抜けだしたらさらし廊下で合流しましょう。
さとりさんはやっと協力する気になってくれた。いかにもいま目覚めたばかりだと言うようにアクビをし、背伸びをしてみせる。近くにいた萃香さんが声をかける。
「おー、やっと起きたか」
「……ふあ、何時ですか」
「朝の十時」
「……ちょっと、おトイレに行ってきます」
「おーう」
さとりさんは素晴らしい演技でこの場を切り抜けた。私はさとりさんが部屋を出たのを見計らって、静かにさらし廊下に向かった。さらし廊下前にさとりさんが現れたところで、私もその場に降り立った。
「似合ってるわよ、お空の格好」
「そんなことより本題に入りたいのですが」
「ふうん、あいつらにバレずに着替えたいんだ。で、私はお空を連れ出せばいいのね」
「え、ああ、心を読んだんですか。理解が早くて助かります」
「じゃあ、貴方に協力するついでに私たちも逃げ出すとしましょう」
約束をとりつけることができた。私はまた様子を見るために縁側へ向かった。ちらっと、母屋の外に立つ厠へ駆けていくさとりさんが見えた。本当にお手洗いへ行きたかったらしい。
しばらくすると部屋にさとりさんが戻ってきた。作戦開始だ。と言っても私は成り行きを見守るだけで、全てはさとりさんの演技にかかっている。
さとりさんはこたつテーブルの定位置に戻ると、目の前にあったおかきを二つまみ口に放りこんだ。萃香にむかって話を振る。
「ねえ、お燐はどこにいるの」
「え、知らない」
火焔猫燐は一人で地底に帰ったのだが、このことを教えてやるべきだろうか。
さとりさんの視線が勇儀にむけられたが、答えたのは霊烏路空だった。
「あれーそういえばどこにいるんだろう」
そうか。読めたぞ。さとりさんは火焔猫燐の不在に目をつけているのだ。恐らく、火焔猫燐を探すことを提案して、地霊殿メンバーを引き連れて、それで脱出するつもりだ。
さとりさんはみんなに投げかけるようにして言った。
「しょうがないわね。ちょっとお燐を探してくるわ」
「あ、じゃあ私も探す」
私の予想は当たっていたが、霊烏路空が自ら提案に乗じてくるとは予想していなかった。見事ですよさとりさん! つながり深い住人の心を巧みに利用した一手には頭が下がります。さらにさとりさんは流れるようにこいしに尋ねる。
「あなたも来る?」
「いいよ。私は勇儀さんとまだお話しとく」
アッ! なんてことだ。妹が断るとは。さとりさんの表情にも一瞬とまどいが生まれたのが見えた。まさか、そのまま中断なんてしないでくださいよ。
「そう。じゃあお空と一緒に探してくるわ」
「すぐ帰ってきてね」
私の思いは杞憂だった。さとりさんはさきの言葉を口にするなり立ち上がった。が、そのときもう一人立ち上がる人物がいた。萃香さんだ。
「私が探してくる! みんなゆっくりしてなよ」
言うが早いか萃香さんは飛ぶように部屋から出ていった。あっという間の出来事だったので、さとりさんは何も言い返せなかった。そのまましぶしぶと、座りこむ。霊烏路空は何事もなかったかのように、勇儀さんたちと会話を再開する。
萃香さんがこんなに気を効かせられる人だったとは、今の今まで気づかなかった。それが私にとって悪い方向に働くとは、運命は残酷だ。が、けれどこれは良いほうに考えよう。鬼が一人減ったのだから、さとりさんも私も動きやすくなったはずだ。
とはいえ、さとりさんは一つの手札を見せてしまった。大きな行動は起こしずらい。自由な私が手助けをするほかない。この手のいたずらは妖怪がもっとも得意とするところだ。私だって伊達に人間を何十人とたぶらかしてきてはいない。やってみせよう。
私はさとりさんに新しい仕掛けをすることを、心のなかで教えたあと、屋根をつたって裏口に向かった。目標は、裏口の粗末な引き戸だ。これに作った風をあてて、さも誰かがやってきてノックをしているように見せかける。できれば勇儀さんに現れてほしいが。
私が念じると、肌寒い空気が空中で渦巻きだした。うちわがないので竜巻は起こせないが、枯れ木の枝を折るくらいの力は持っている。風を作って、引き戸にぶつけた。ドンと軽い音がする。誰かがこぶしで叩いているように見せるためには物足りない。もう一度つくった風を三つに小分けして、それぞれ順番に引き戸へ突撃させた。今度のは小気味よくノックが再現された。
屋根の下に耳をそばだてると、かすかに会話が聞こえてくる。今しゃべっているのは勇儀さんとこいしだ。
「萃香かね」
「えー、でも、早くない?」
「じゃあお客さん? 見てこようか。そっちは霊夢おこしといて。霊夢のお客さんかも」
話がよい方向に進んでくれる。勇儀さんがこっちへ向かってくる足音がする。ドシドシと重たくて分かりやすい。私はこの隙にすばやく縁側へもどって、少し勇気がいったが、部屋に入ることにした。
私が縁側から部屋へと降り立ったとき、霊烏路空が驚きの顔で迎えた。こいしは霊夢を起こそうと肩を揺すっている。さとりさんは眠たそうな目でこちらを見つめてくると、こう言った。
「今逃げるの?」
「そうしましょう。空さん、こいしさん、逃げますよ」
二人にとっては突然の出来事で、よく分かっていない顔をしている。けれど、さとりさんがみんなに一声かけると、素直に従い出した。
さとりさんが縁側から飛び立ち、霊烏路空とこいしが後を追う。このときさとりさんは私にむかって言葉をなげかけた。
「できれば里で合流しましょう」
あとは私だ。私は背後から勇儀さんの足音がもどってくるのを感じながら、床から飛び立とうとした。そこでいきなり私の足に絡みつくものがあった。疑問を感じる隙もなく転ばされて、鼻頭を畳に打ちつける。い、痛い、というよりもいったい何が起きた。いや、それよりも、勇儀さんの足音が!
「あれ、あんた、お空? 違うね。そうだ文だ」
勇儀さんのあっけからんとした声が私の背中にふりかかる。マントがぐっと重たくなった気がする。私はうつ伏せのまま首だけを勇儀さんに向けた。
「どうも……ゆうぎさん」
「おう。あれ、霊夢も起きてるじゃん」
勇儀さんの視線の先を追いかけると、霊夢さんが四つん這いになって、青ざめた顔をみせていた。その右手の先は、私からは見ることができない。足首にまとわりついて、もぞもぞと動く感触は、つまりはそういうことだった。
「みず……」
霊夢さんが発した声は、喉の底から絞り出された悲痛なうめきだ。弱々しくこたつテーブルに近づいて、上半身をテーブル上に投げ打った。私はもう自由になっていたが、勇儀さんに見つかっているのだから何をしても遅い。とりあえず、座ろう。
間も無くして萃香さんまで戻ってきた。今にも事切れそう霊夢を見るなり驚いて走りより、背中をさすりだす。勇儀さんはすばやく台所から水の入った湯のみを持ってきた。さすがに危篤患者を前にしては鬼も情けを見せるものか。霊夢さんは湯のみをもらってもしばらく手をつけず、うなだれていた。髪のこぼれ方が、怨霊にも思われる。
「……あんたたち……」
と、霊夢さんが口を開いた。萃香が答える。
「どうしたの」
「……出ていきなさい」
「え、なんて?」
「あんたたち、出ていきなさい」
「一人になったら危ないよ」
そのとき霊夢は萃香を振り払った。そして右手を大きく上げたかと思うと、尻餅をついた萃香の額めがけて振り下ろしたのだ。軽快な破裂音がして、萃香が素っ頓狂な声をあげる。
「あぎゃあっ」
「出ていけバカども!」
萃香さんの額に御札が貼り付けられた。御札に秘められた神力はすぐさま発揮され、額からは湯気が噴出し、肉の焼ける音が聞こえはじめる。むごい。萃香さんは頭を振り乱しながらさらし廊下へ逃げ出していった。それを見ていた勇儀さんが呆れた声をあげる。
「おいおい、穏やかじゃないね」
「あんたも! 出ていく!」
霊夢さんは両手を一瞬ふところにおさめたかと思うと、目にもとまらぬ勢いで振りかぶり、飛び跳ねながら、勇儀さんの首元めがけ逆ハの字に打ち下ろした。勇儀さんはあっけにとられて動かずじまい、二振りの手刀が首元に直撃すると、二枚の御札が巻きつけられ、巨乳が震えた。勇儀さんはよろけて背後の柱にもたれかかったかと思うと、喘息が起こったかのように咳を吐きはじめる。御札の効力が勇儀さんの喉を締め付けているのだ。
「が……オ……エヘッ」
勇儀さんは息も絶え絶えに萃香さんの後を追いかけ去っていった。
二人の鬼をあっさり撃退してのけた霊夢さんは、私のほうに振り返って恨みくすぶる視線を飛ばしてくる。なんという恐ろしい目だ。悪魔の一夜を乗り越えた人間の目は、こうも残酷に輝くのか。私は座ったまま、復讐の巫女が目の前に立っているため逃げることもできなかった。そうやって恐れおののいていると、霊夢さんはしゃがれた声で話しはじめる。
「お空、あんたいたっけ」
「い、いえ、さとりさんの様子を見に来たんです」
「……さとり。そういえば、さとりどこ」
「帰っていきました。みんな帰っていきましたよ」
「なにそれ……ああもう。じゃあお空だけでも掃除手伝いなさいよ」
霊夢さんは私のことをお空と呼んだ。私は霊烏路空の真似をしているつもりでないのに、なぜだか霊夢さんは私の正体を疑いもしていない。まだ酔いが残っているのか? まあいいか。ヘタに訂正して怒りを買ってもこちらが困る。
緩慢なうごきで片づけをはじめた霊夢さん。元気が感じられないのが哀れを誘う。私と霊夢さんは直接呑みあったワケではないが、奇妙な親しみが湧いてきた。鬼を追い払ってくれた義理もあるし、掃除は手伝ってあげよう。里で待っているかもしれないさとりさんたちには悪いが、しばらくはお空でいさせてもらう。
「あー、体いたい」
霊夢さんはぶつくさ文句を口にした。これで鬼を追い払った巫女なのだから大したものだ。おかげさまでよい記事が書ける。
大して必要とも思えないこまごましたディティールが楽しかったです。
改行は作品に依るのではないでしょうか。今作で毎行改行だったら筋がわからなくなって読む気がなくなりそう。ひらがな多めだから元々読むテンポが遅くなりがちだし。ただ前の作品見てて見づらいと感じたことはないです。
鬼と関わる者達に幸あれ…!
改行については、自分は読んでいて気になる事はなかったですし、このままでも良いかと。
が、しかし
>>とはいえ、さとりさんは一つの手札を見せてしまった。大きな行動は起こし『ず』らい
辛いに濁点がつくので『づらい』ですぞ
貞操の危機一歩手前までいっても良かった。
そこから先は流石に可哀想なのであれですが。
改行については今の感じで良いと思います
ある程度固まった文章を、ストレスを感じつつ読むのが好きなので。
改行は今の感じに一票。ごく個人的な意見ですが。
なんかここの日本語おかしくね?
今野さんの話はたいてい中盤が退屈になるんだけど、今回のは始めから終わりまで楽しめた。ありがとう。