早苗と魔理沙が、雑貨屋の軒先に並んで座っていた。
空でたまたま出くわし、なりゆきで里に繰り出すことになった。
季節は夏。盆地に降り注ぐ陽光が照り返し、里は蒸し風呂のように暑い。
うだるような熱気の屋外に出る者は少ない。子供たちも夕方までは昼寝をしている。道は黄色く乾き、陽炎が鏡のように空を映していた。
すぐ近くの樹でアブラゼミが鳴いている。都会にいた頃はクマゼミの声ばかり聞いていたな、と早苗は思い出した。あちらとこちらで何が違うのだろう。
「魔理沙さんの好きな人って、誰ですか?」
「ブーッ!」
魔理沙がラムネを噴き出した。霧雨から虹が生まれた。早苗はさっと尻をずらして逃れた。
「あら、松田優作さんを御存じで?」
「誰だよ。ああ、もったいないな。しかもスカートにかかっちまったじゃないか」
最近になって里で売り出されたラムネという清涼飲料が好評だ。開発者の河童は、炭酸の圧でガラス玉を押し上げているのだ、瓶口の成形精度が技術力の高さの証だ、などと得意げに解説していたが、理解できたのは早苗の他にいなかった。先鋭化しすぎた技術は早苗の奇跡のようなものなのだと知り、早苗はまた一つ賢くなった。早苗がいた世界では既にプラスチックの瓶口が普通だったから、むしろ新鮮だった。
瓶の首にガラス玉を引っかけて一気に飲みきる。このあたりは河童もよく考えているな、と早苗は思う。河童の技術力は、ともすれば外のそれより高い。方向が楽しそうなことにしか向かないが。
「ぷはーっ! ……やっぱりお酒よりスプライトですね。それで、誰なんですか?」
魔理沙はうんざりといった風に首を傾けた。魔女帽子の先がふらりと揺れた。
「あー……頭にざざ虫でも涌いたのか?」
「ざっ……」
どこぞの僵尸(キョンシー)ではあるまいし。
「だいたい、どうして『いる』前提なのかが分からない。いないかもしれないだろ」
「だってあなたのスペルカードの名前、よく『恋』って付くじゃないですか。誰か好きな人がいて、そんな名前にしてるんでしょう?」
魔理沙は両手を広げてオーバーに呆れて見せた。
「はは、こいつはご機嫌だぜ。風が吹けば桶屋が儲かるわけだ。あんた、風祝だったな。桶屋と提携してビジネスでも始めたらいいんじゃないか? わけのわからない核融合炉なんかよりよっぽど儲かると思うぜ」
「話を逸らそうとしているのが見え見えです」
「チッ……」
魔理沙はラムネを傾ける。今日初めて飲むと言っていた。最初は炭酸に戸惑っていたが、すぐに慣れたようで、瓶をためつすがめつしながら製造方法についてあれこれ思案していた。やはり画一化された瓶の製造方法が気になるらしい。
「霖之助さんですか?」
「んなわけないだろう……香霖は兄さんみたいなもんだよ」
「ですよねえ。知ってました。やっぱり、一緒にお風呂に入ったりしたんですか?」
「いや、記憶に無いな」やけにあっさりと言った。どうやら本当に無いようだった。
「それじゃあ誰ですか?」
「うるさいなあ、ほっとけよ……」
魔理沙の頬が赤いのは、夏の熱気のせいだけではなかろう。
「見ていられないんですよ。そのままじゃ魔理沙さん、泣きを見ますよ?」
ハハン、と魔理沙は鼻で笑った。
「小さな親切ありがとうよ。でも余計なお世話ってもんだ。私に偉そうな口をききたいなら、まずは弾幕勝負で勝ってからにするんだな」
「む、ムカッチーン!」
早苗は腹を立てた。お節介が過ぎるのは確かだが、放っておけないものというものはある。冷たい雨に打たれて震える仔猫とか、転びそうになっている幼子とか、そういったものだ。
びしり、と早苗が魔理沙の鼻先に指を突きつける。
「いいですか、魔理沙さん。魔理沙さんはきっと、初恋の人に初めてを捧げて一生添い遂げられると思っているでしょうがそれは間違いです! 大間違いです! へそで茶を沸かします!」
魔理沙が眼を剥いてやおら立ち上がり、瓶を両手で抱えた。
「なっ……いきなり何を言い出すんだよ!」
「いいですか、確かに魔理沙さんは可愛いです! お腹を殴りたくなるくらいに」
「う……お腹は嫌だ……」お腹を押さえる。
「でもその可愛らしさは長続きしないんですよ。黒髪の色はすぐに褪せます。命の炎はすぐに消えます。恋せよ乙女なんです」ゴンドラの唄の一節である。
「わ、私の好きな人は、人を外見で判別したりしない!」
「そういう魔理沙さんみたいなウブなねんねが一番ちょろいんですよ。初恋が始まらないまま終わってしまって、この世の終わりのように考えてしまって自暴自棄になって、誰彼構わず肌を重ねちゃう未来の魔理沙さんが見えます!」
「無いよ、それは。それは無い。私を何だと思ってるんだ」震え声である。
「いいえ。間違いありません。偽りの肌の温もりに霊夢さんの面影を重ねても、それはしょせん幻影なんですよ。摂氏三十六度五分であるというだけの、無意味な体温なんです。今の気温だってそれくらいあります。世の中が霊夢さんで満ちていますか? もちろん否です。
なのに、香りが似ていたからぁ、横顔が似ていたからぁ、ふとした言葉が霊夢さんの言っていた言葉だったからぁ、なんてきっかけで身体だけの爛れた関係になるんですっ! 相手も自分も不幸にするんですよ、そういうのは!」
一言一句つまびらかに想像したのか、魔理沙の顔がくしゃりと歪む。力無く軒先に座りこみ、ラムネの瓶を抱える。
「お、おい……やめろよぅ」
「ついにはアリスさんに等身大の人形を作ってもらって、自分だけの理想郷に引き籠もって誰にも看取られずひっそりと息を引き取るんです。心の奥底に抜けない棘が刺さったまま。自分を騙しきれるのなら、それもまた幸せなのかもしれませんけれど。私はイヤです」
言いきってから、魔理沙がうなだれていることに気づいた。もともと小さな体をさらに小さくして、肩を震わせている。
「ぐす……あんた、私に何か恨みでもあるのか……」
ハッと我に返り、早苗の顔が青ざめる。
「あ……す、すみません。言い過ぎました。なんだか暴走しちゃって……」
すぐ調子に乗る悪い癖が出てしまった。まさか泣くとは思っていなかった。いつも男勝りで人を小馬鹿にしたような、あるいは妙に達観したような言動を取るから、魔理沙が年頃の少女であることを忘れていた。
どれもこれも言い訳だった。
「あのねえ、あんたたち」
「はい?」
雑貨屋のおかみが顔を出していた。
「そういうのはどっか余所でやってくんな。子の教育に悪い」
「スミマセン……」
# ☆ # ☆ #
もう帰る、の一言で霧雨魔法店へ。
飛ぶ気力も無かったようなので早苗が魔理沙を背負って飛んだ。奥襟が引かれて鼻をかむ音がしたが、咎める気にはなれなかった。
玄関で下ろすと、魔理沙はとぼとぼと扉を開いて店内へと入った。扉は開いたままにしてあったので、入れという意味だと解釈して早苗もおそるおそる後に続いた。
魔法の森の奥にある霧雨魔法店の、内部にはまた森があった。
激安の殿堂も裸足で逃げだす積み上がりようだった。本、魔道具、三脚と金網と三角架、怪しげな壺、埃を被った絵画、アルコールランプ、CRTモニタ、異国の木彫り人形、酒瓶……
涼しい店内からは古物店のような匂いがした。古い香の匂いに似ていた。
足の踏み場を見つけ、無ければ作り、何とか歩みを進める。
「これは、あまりにも散らかりすぎでしょう……」
「いいんだよ。どこに何があるか分かってるし」
「片づけない人は決まってそう言います。地震か火事が起きたら死にますよ」
「今まで死んだことは無いから大丈夫だろ」
むちゃくちゃである。
寝室も同様の散らかりようだった。魔理沙がベッド脇のカーテンを開き、窓を開けた。いくぶん明るくなった。スリップがベッドの上に放ってあるのを見て早苗は額を抑えたが、気を取り直した。早苗が言うべきことは他にある。
「あの、魔理沙さん。本当にごめんなさい」
「いいよ、もう……あんたのことだから、どうせアタマ空っぽで言ったんだろ」
「あ、アタマ空っぽ……」夢は詰め込めそうである。
魔理沙は帽子を放るとテーブルの上をかき回し、やがて煙管を抜き取った。転がっていたとんこつを拾って開き、収められていた乾し草を火皿に詰め、マッチを擦って火を点けた。煙をくゆらせる。
「あれ……魔理沙さん、煙草吸うんですか?」
「……ただのハーブだよ。幻覚作用もない。タバコは臭いから嫌いだ」
言われてみれば確かに、冷たい匂いがした。ハッカ油でも混ぜてあるのだろうか。
魔理沙はベッドに座る。火皿を枕元の空き缶に差し出し、雁首から羅宇にかけてを軽く叩いて灰を落とした。火種を残し、もうひとつまみ詰める。
「でも、その歳で……」
と言いかけて、そもそも幻想郷では未成年が飲酒していることに早苗は思い至った。
「パチュリーなんて水煙管の中毒者だぜ。魔術師の嗜みだとか言ってるけど、あんなんだから喘息が治らないんだ」
「でも、やっぱり喫煙は良くないですよ。煙草に比べたら少ないかもしれませんが、タールは含まれるでしょうし。ビタミンCが消費されて肌が荒れたり背が伸びなくなったりします」
魔理沙は聞く耳を持たずに三度、四度と煙をふかす。吐き出した煙は溜め息に変わった。
「……鬱だぜ」
魔理沙は煙管を空き缶に突っ込むと、枕に顔をうずめた。と低く小さな唸り声を上げた。
早苗は首を縮め、物に埋もれた椅子を掘り出して座った。
しばらく二人とも黙っていた。気まずい。
魔法の森は夏でも涼しい。冷えた空気が水のように滞留していた。
結局、早苗が先に口を開いた。
「霊夢さん、でしたか……それはまた、難しい方を」
「なんで霊夢確定なんだよ」
「さっき霊夢さんって言葉を混ぜておいたんですけど、効果てきめんだったみたいなので」
魔理沙が顔を上げ、唖然として早苗を見つめた。ごめんなさい、と早苗は視線を下げた。
ぶすっとむくれて魔理沙は身を起こし膝を抱えた。
「……そうだよ。悪いかよ」
「え、悪いって、何がですか?」早苗は心底不思議に思って首を傾げた。
「いや……いい」
魔理沙は揃えた膝に顎を載せた。三つ編みの先がふくらはぎに触れた。窓からの光が、恋する少女の金髪を薄く透かしている。髪質は細く、ゆるやかに波打っている。物憂げな金色の瞳が潤んでいる。琥珀に透明な油滴を垂らしたかのようだ。
「……あんたの言う通りだよ。霊夢の隣に誰かがいるって考えるだけで吐き気がする」
「そ、そこまで……」
「何がおかしい。あそこは私の場所なんだ」
「ええと……異変解決の時は、他の誰かと組むこともあるって聞きましたけれど……」
「それは別に良いんだ。対等とは違うから。あいつらは妖怪だしな」
寿命の長い種族が有利であるとは限らない。こと、恋愛に関しては。
ぼんやりと茶をすする霊夢の表情を、早苗は想起する。雲のように捉えどころがなく、風のように飄々としていて、かと思えばひどく俗っぽい所もある、楽園の不思議な巫女。
霊夢について、早苗はある種の畏敬の念を抱いている。七つまでは神のうちというが、あの紅白の巫女は七つをとうに過ぎた今も半ばほど神のうちにいるのではないか。
早苗が霊夢について感じたのは、肉体・精神の両方において人と神が混じりあっているかのような感覚だった。あるいは肉体と精神が溶け合い一体化しているかのような。
現人神である早苗とは違う。早苗の場合、体は人であり、心が神である。二つは分離可能であり、故に現人神が死すことを『隠れる』というのだ。
彼女のシンボルである紅白の陰陽魚。紅のみを見ようとしても白を意識から排除することはできず、白のみを見ようとしてもまた同じであるという、明快な真理を表現した図形。
普通、そんな有り方はできない。人は人であり神は神である。肉は肉であり心は心である。
だが、博麗に深く関わる存在が背後に見え隠れする。
八雲紫。
外の世界と幻想郷に同時に存在する博麗神社は、彼女の手によるものだ。
ではそれを管理する博麗の巫女は、やはり――
「……魔理沙さんは、霊夢さんのどこを好きになったんですか?」
「さあ。ひと目惚れだったから。綺麗だなって思ったことは覚えてるけど」
「幾つの時に?」
「五つかそこらだったと思うけどな」
眉を顰めそうになるのを、早苗は寸前でとどめた。七つまでは神のうち。
「……魔理沙さん、お幾つでしたっけ」
「数えてないから知らないぜ。十三か十四じゃないか?」
捻くれているのに真っ直ぐな恋だった。
魔理沙の顔は相変わらず、寝起きの低血圧と空腹の低血糖と重い月経が一気に来たかのように陰鬱としていた。普段の彼女からは想像もできないほどに弱々しい姿だった。
「魔理沙さん……もう少し、霊夢さんに甘えてみてもいいのでは? ほら、女の子同士ってわりとスキンシップするじゃないですか。そうしても良いと思うんです」
早苗の提案は、せめて今なりとも魔理沙に良い思いをという老婆心に作用されてのものだった。更に言うならば、早苗は魔理沙に共感し、諦めた。妥協した。気休めを選択した。そうしてくれと魔理沙にお願いをした。自分が傷つかないために。
自らの心の作用に気づき、早苗は己の心の醜さに慄然とした。
魔理沙は身を丸くして固く縮こまった。膝にかかった前髪が細かく震えていた。
「……怖いんだ。抱きしめた瞬間、あいつが消えてしまいそうで。
嫌われるとか、そういうことじゃない。本当に消えてしまいそうな気がするんだ」
正視に堪えかねて早苗は魔理沙から目を逸らした。雑貨屋の軒先で何気なく尋ねた一言が、このような運びになるとは思いもよらなかった。
真っ直ぐに捻じれた魔理沙の恋。正解は果たして右ねじか、それとも左ねじか。
そもそも霊夢の心にはねじが切られていないかもしれない。穴さえ開いていないかもしれない。
そのことを魔理沙も本当は分かっているのかもしれない。
「私はさ、本当に今のままでいいんだよ。今のままがいいんだ。臆病なのかもしれないけど、少なくとも今は、これ以上なんて望まない。私は霊夢の隣に立っていられればそれでいい」
眩しい、と早苗は感じた。この少女より少しだけ長く生きた自分は、彼女ほど苦悩したことがあっただろうか。彼女と同じ立場になったとき、彼女のように懸命になれるだろうか。矛盾と葛藤を呑みこんで、かりそめの答えだけでも出せるだろうか。
「……ただの人がそこまで強くなるためには、相当な努力を要したのでしょうね。それも全部、霊夢さんのためなんですか?」
同じ山の頂上を目指しているのに違う山に登っているかのような、虚しい努力だ。
魔理沙は即答しなかった。
言ってしまってから早苗は後悔した。言わなければよかった。口は災いの元とはよく言ったものだ。
蛙は口ゆえ蛇に呑まるる。
早苗は自己嫌悪という蛇に呑まれていた。
だが。
「それは違うな。私のためだ。どこまで行っても私のため。私が霊夢と一緒にいたいからだよ。だったら、反吐を吐いたって何でもやるさ。だから何でも屋なんだよ私は」
弱々しくも語尾の切れが良い、覇気のある声だった。ハッとして顔を上げた。魔理沙は膝の間に顔を埋めながら、どこでもないどこかを見つめていた。
琥珀色の瞳の奥の奥に、早苗は無数の星空を幻視した。
「だって人生は一度こっきりの打ち上げ花火だぜ。だったらあいつが上がる高さまで追いかけるさ。怖いけどな」
気づけば早苗は頭を深々と垂れていた。
「魔理沙さん。あらためてごめんなさい」
「今更なんだよ。あまりホイホイ頭を下げると誠意が無くなるぜ」
早苗は頭を下げたまま恥じ入り、この少女を尊敬した。
魔理沙の意外な一面を見た、と早苗は思っていた。
そんなことはなかった。
魔理沙はやはり魔理沙だった。
早苗が知らなかっただけだった。
なればあるいは実を結ぶ日が来るやもしれぬ。
彼女は醜く血反吐を撒き散らすかもしれないが。
現人神として、その奇跡の手助けくらいはするべきだろう。
早苗は面を上げた。
「……ヒーロー的に考えて、言質は取っておいた方が良いと思います」
「あん? 言質だ?」
「そうです。フラグです。例えば『私はずっとここにいるからな』とかですかね?」
「訊くなよ。だいたい何を今更……そんなこと言わなくたって、霊夢も分かってるよ」
「いいえ。ダメです。言葉はちゃんと口に出さないと伝わらないんです。心がお互いに通じ合っているから、なんて考えて手抜きをしちゃダメです。言葉にして、言霊にしないと」
「安っぽい愛の言葉になんぞ、言霊は宿らんぜ」
「魔理沙さんが心から素直な気持ちで言えば、絶対に宿りますよ。それが、本当に心が通じ合っている、ってことです。あ、そうだ。『お前の骨は私が噛むからな』でもいいかもですね」
「それは重すぎるだろ……」
「ヒーローはそれくらいきざじゃないと務まりませんよ!」
「私はヒーローじゃなくて何でも屋だぜ」
魔理沙は空き缶の煙管を取り、窓から突き出して雁首に付着した灰を落とした。ハーブを詰めてマッチを擦り、着火した。
「……そういやさ。私のことばっかり話したけど、あんたはどうなんだよ」
早苗は首を傾げた。
「え、私は文さんとしょっちゅうイチャラブしてますよ? 知らないんですか?」
魔理沙の口角がひきつった。
「あー……こういうときは何て言うんだっけか?」こめかみに青筋が浮いている。
魔理沙は視線を一巡させた。
尻の下に真っ白なスリップがあった。
「ああ、そうだ。くたばっちめえ! エイメン、だ」
「相手が違いますし、それ言わずに済むようにしてください!」
空でたまたま出くわし、なりゆきで里に繰り出すことになった。
季節は夏。盆地に降り注ぐ陽光が照り返し、里は蒸し風呂のように暑い。
うだるような熱気の屋外に出る者は少ない。子供たちも夕方までは昼寝をしている。道は黄色く乾き、陽炎が鏡のように空を映していた。
すぐ近くの樹でアブラゼミが鳴いている。都会にいた頃はクマゼミの声ばかり聞いていたな、と早苗は思い出した。あちらとこちらで何が違うのだろう。
「魔理沙さんの好きな人って、誰ですか?」
「ブーッ!」
魔理沙がラムネを噴き出した。霧雨から虹が生まれた。早苗はさっと尻をずらして逃れた。
「あら、松田優作さんを御存じで?」
「誰だよ。ああ、もったいないな。しかもスカートにかかっちまったじゃないか」
最近になって里で売り出されたラムネという清涼飲料が好評だ。開発者の河童は、炭酸の圧でガラス玉を押し上げているのだ、瓶口の成形精度が技術力の高さの証だ、などと得意げに解説していたが、理解できたのは早苗の他にいなかった。先鋭化しすぎた技術は早苗の奇跡のようなものなのだと知り、早苗はまた一つ賢くなった。早苗がいた世界では既にプラスチックの瓶口が普通だったから、むしろ新鮮だった。
瓶の首にガラス玉を引っかけて一気に飲みきる。このあたりは河童もよく考えているな、と早苗は思う。河童の技術力は、ともすれば外のそれより高い。方向が楽しそうなことにしか向かないが。
「ぷはーっ! ……やっぱりお酒よりスプライトですね。それで、誰なんですか?」
魔理沙はうんざりといった風に首を傾けた。魔女帽子の先がふらりと揺れた。
「あー……頭にざざ虫でも涌いたのか?」
「ざっ……」
どこぞの僵尸(キョンシー)ではあるまいし。
「だいたい、どうして『いる』前提なのかが分からない。いないかもしれないだろ」
「だってあなたのスペルカードの名前、よく『恋』って付くじゃないですか。誰か好きな人がいて、そんな名前にしてるんでしょう?」
魔理沙は両手を広げてオーバーに呆れて見せた。
「はは、こいつはご機嫌だぜ。風が吹けば桶屋が儲かるわけだ。あんた、風祝だったな。桶屋と提携してビジネスでも始めたらいいんじゃないか? わけのわからない核融合炉なんかよりよっぽど儲かると思うぜ」
「話を逸らそうとしているのが見え見えです」
「チッ……」
魔理沙はラムネを傾ける。今日初めて飲むと言っていた。最初は炭酸に戸惑っていたが、すぐに慣れたようで、瓶をためつすがめつしながら製造方法についてあれこれ思案していた。やはり画一化された瓶の製造方法が気になるらしい。
「霖之助さんですか?」
「んなわけないだろう……香霖は兄さんみたいなもんだよ」
「ですよねえ。知ってました。やっぱり、一緒にお風呂に入ったりしたんですか?」
「いや、記憶に無いな」やけにあっさりと言った。どうやら本当に無いようだった。
「それじゃあ誰ですか?」
「うるさいなあ、ほっとけよ……」
魔理沙の頬が赤いのは、夏の熱気のせいだけではなかろう。
「見ていられないんですよ。そのままじゃ魔理沙さん、泣きを見ますよ?」
ハハン、と魔理沙は鼻で笑った。
「小さな親切ありがとうよ。でも余計なお世話ってもんだ。私に偉そうな口をききたいなら、まずは弾幕勝負で勝ってからにするんだな」
「む、ムカッチーン!」
早苗は腹を立てた。お節介が過ぎるのは確かだが、放っておけないものというものはある。冷たい雨に打たれて震える仔猫とか、転びそうになっている幼子とか、そういったものだ。
びしり、と早苗が魔理沙の鼻先に指を突きつける。
「いいですか、魔理沙さん。魔理沙さんはきっと、初恋の人に初めてを捧げて一生添い遂げられると思っているでしょうがそれは間違いです! 大間違いです! へそで茶を沸かします!」
魔理沙が眼を剥いてやおら立ち上がり、瓶を両手で抱えた。
「なっ……いきなり何を言い出すんだよ!」
「いいですか、確かに魔理沙さんは可愛いです! お腹を殴りたくなるくらいに」
「う……お腹は嫌だ……」お腹を押さえる。
「でもその可愛らしさは長続きしないんですよ。黒髪の色はすぐに褪せます。命の炎はすぐに消えます。恋せよ乙女なんです」ゴンドラの唄の一節である。
「わ、私の好きな人は、人を外見で判別したりしない!」
「そういう魔理沙さんみたいなウブなねんねが一番ちょろいんですよ。初恋が始まらないまま終わってしまって、この世の終わりのように考えてしまって自暴自棄になって、誰彼構わず肌を重ねちゃう未来の魔理沙さんが見えます!」
「無いよ、それは。それは無い。私を何だと思ってるんだ」震え声である。
「いいえ。間違いありません。偽りの肌の温もりに霊夢さんの面影を重ねても、それはしょせん幻影なんですよ。摂氏三十六度五分であるというだけの、無意味な体温なんです。今の気温だってそれくらいあります。世の中が霊夢さんで満ちていますか? もちろん否です。
なのに、香りが似ていたからぁ、横顔が似ていたからぁ、ふとした言葉が霊夢さんの言っていた言葉だったからぁ、なんてきっかけで身体だけの爛れた関係になるんですっ! 相手も自分も不幸にするんですよ、そういうのは!」
一言一句つまびらかに想像したのか、魔理沙の顔がくしゃりと歪む。力無く軒先に座りこみ、ラムネの瓶を抱える。
「お、おい……やめろよぅ」
「ついにはアリスさんに等身大の人形を作ってもらって、自分だけの理想郷に引き籠もって誰にも看取られずひっそりと息を引き取るんです。心の奥底に抜けない棘が刺さったまま。自分を騙しきれるのなら、それもまた幸せなのかもしれませんけれど。私はイヤです」
言いきってから、魔理沙がうなだれていることに気づいた。もともと小さな体をさらに小さくして、肩を震わせている。
「ぐす……あんた、私に何か恨みでもあるのか……」
ハッと我に返り、早苗の顔が青ざめる。
「あ……す、すみません。言い過ぎました。なんだか暴走しちゃって……」
すぐ調子に乗る悪い癖が出てしまった。まさか泣くとは思っていなかった。いつも男勝りで人を小馬鹿にしたような、あるいは妙に達観したような言動を取るから、魔理沙が年頃の少女であることを忘れていた。
どれもこれも言い訳だった。
「あのねえ、あんたたち」
「はい?」
雑貨屋のおかみが顔を出していた。
「そういうのはどっか余所でやってくんな。子の教育に悪い」
「スミマセン……」
# ☆ # ☆ #
もう帰る、の一言で霧雨魔法店へ。
飛ぶ気力も無かったようなので早苗が魔理沙を背負って飛んだ。奥襟が引かれて鼻をかむ音がしたが、咎める気にはなれなかった。
玄関で下ろすと、魔理沙はとぼとぼと扉を開いて店内へと入った。扉は開いたままにしてあったので、入れという意味だと解釈して早苗もおそるおそる後に続いた。
魔法の森の奥にある霧雨魔法店の、内部にはまた森があった。
激安の殿堂も裸足で逃げだす積み上がりようだった。本、魔道具、三脚と金網と三角架、怪しげな壺、埃を被った絵画、アルコールランプ、CRTモニタ、異国の木彫り人形、酒瓶……
涼しい店内からは古物店のような匂いがした。古い香の匂いに似ていた。
足の踏み場を見つけ、無ければ作り、何とか歩みを進める。
「これは、あまりにも散らかりすぎでしょう……」
「いいんだよ。どこに何があるか分かってるし」
「片づけない人は決まってそう言います。地震か火事が起きたら死にますよ」
「今まで死んだことは無いから大丈夫だろ」
むちゃくちゃである。
寝室も同様の散らかりようだった。魔理沙がベッド脇のカーテンを開き、窓を開けた。いくぶん明るくなった。スリップがベッドの上に放ってあるのを見て早苗は額を抑えたが、気を取り直した。早苗が言うべきことは他にある。
「あの、魔理沙さん。本当にごめんなさい」
「いいよ、もう……あんたのことだから、どうせアタマ空っぽで言ったんだろ」
「あ、アタマ空っぽ……」夢は詰め込めそうである。
魔理沙は帽子を放るとテーブルの上をかき回し、やがて煙管を抜き取った。転がっていたとんこつを拾って開き、収められていた乾し草を火皿に詰め、マッチを擦って火を点けた。煙をくゆらせる。
「あれ……魔理沙さん、煙草吸うんですか?」
「……ただのハーブだよ。幻覚作用もない。タバコは臭いから嫌いだ」
言われてみれば確かに、冷たい匂いがした。ハッカ油でも混ぜてあるのだろうか。
魔理沙はベッドに座る。火皿を枕元の空き缶に差し出し、雁首から羅宇にかけてを軽く叩いて灰を落とした。火種を残し、もうひとつまみ詰める。
「でも、その歳で……」
と言いかけて、そもそも幻想郷では未成年が飲酒していることに早苗は思い至った。
「パチュリーなんて水煙管の中毒者だぜ。魔術師の嗜みだとか言ってるけど、あんなんだから喘息が治らないんだ」
「でも、やっぱり喫煙は良くないですよ。煙草に比べたら少ないかもしれませんが、タールは含まれるでしょうし。ビタミンCが消費されて肌が荒れたり背が伸びなくなったりします」
魔理沙は聞く耳を持たずに三度、四度と煙をふかす。吐き出した煙は溜め息に変わった。
「……鬱だぜ」
魔理沙は煙管を空き缶に突っ込むと、枕に顔をうずめた。と低く小さな唸り声を上げた。
早苗は首を縮め、物に埋もれた椅子を掘り出して座った。
しばらく二人とも黙っていた。気まずい。
魔法の森は夏でも涼しい。冷えた空気が水のように滞留していた。
結局、早苗が先に口を開いた。
「霊夢さん、でしたか……それはまた、難しい方を」
「なんで霊夢確定なんだよ」
「さっき霊夢さんって言葉を混ぜておいたんですけど、効果てきめんだったみたいなので」
魔理沙が顔を上げ、唖然として早苗を見つめた。ごめんなさい、と早苗は視線を下げた。
ぶすっとむくれて魔理沙は身を起こし膝を抱えた。
「……そうだよ。悪いかよ」
「え、悪いって、何がですか?」早苗は心底不思議に思って首を傾げた。
「いや……いい」
魔理沙は揃えた膝に顎を載せた。三つ編みの先がふくらはぎに触れた。窓からの光が、恋する少女の金髪を薄く透かしている。髪質は細く、ゆるやかに波打っている。物憂げな金色の瞳が潤んでいる。琥珀に透明な油滴を垂らしたかのようだ。
「……あんたの言う通りだよ。霊夢の隣に誰かがいるって考えるだけで吐き気がする」
「そ、そこまで……」
「何がおかしい。あそこは私の場所なんだ」
「ええと……異変解決の時は、他の誰かと組むこともあるって聞きましたけれど……」
「それは別に良いんだ。対等とは違うから。あいつらは妖怪だしな」
寿命の長い種族が有利であるとは限らない。こと、恋愛に関しては。
ぼんやりと茶をすする霊夢の表情を、早苗は想起する。雲のように捉えどころがなく、風のように飄々としていて、かと思えばひどく俗っぽい所もある、楽園の不思議な巫女。
霊夢について、早苗はある種の畏敬の念を抱いている。七つまでは神のうちというが、あの紅白の巫女は七つをとうに過ぎた今も半ばほど神のうちにいるのではないか。
早苗が霊夢について感じたのは、肉体・精神の両方において人と神が混じりあっているかのような感覚だった。あるいは肉体と精神が溶け合い一体化しているかのような。
現人神である早苗とは違う。早苗の場合、体は人であり、心が神である。二つは分離可能であり、故に現人神が死すことを『隠れる』というのだ。
彼女のシンボルである紅白の陰陽魚。紅のみを見ようとしても白を意識から排除することはできず、白のみを見ようとしてもまた同じであるという、明快な真理を表現した図形。
普通、そんな有り方はできない。人は人であり神は神である。肉は肉であり心は心である。
だが、博麗に深く関わる存在が背後に見え隠れする。
八雲紫。
外の世界と幻想郷に同時に存在する博麗神社は、彼女の手によるものだ。
ではそれを管理する博麗の巫女は、やはり――
「……魔理沙さんは、霊夢さんのどこを好きになったんですか?」
「さあ。ひと目惚れだったから。綺麗だなって思ったことは覚えてるけど」
「幾つの時に?」
「五つかそこらだったと思うけどな」
眉を顰めそうになるのを、早苗は寸前でとどめた。七つまでは神のうち。
「……魔理沙さん、お幾つでしたっけ」
「数えてないから知らないぜ。十三か十四じゃないか?」
捻くれているのに真っ直ぐな恋だった。
魔理沙の顔は相変わらず、寝起きの低血圧と空腹の低血糖と重い月経が一気に来たかのように陰鬱としていた。普段の彼女からは想像もできないほどに弱々しい姿だった。
「魔理沙さん……もう少し、霊夢さんに甘えてみてもいいのでは? ほら、女の子同士ってわりとスキンシップするじゃないですか。そうしても良いと思うんです」
早苗の提案は、せめて今なりとも魔理沙に良い思いをという老婆心に作用されてのものだった。更に言うならば、早苗は魔理沙に共感し、諦めた。妥協した。気休めを選択した。そうしてくれと魔理沙にお願いをした。自分が傷つかないために。
自らの心の作用に気づき、早苗は己の心の醜さに慄然とした。
魔理沙は身を丸くして固く縮こまった。膝にかかった前髪が細かく震えていた。
「……怖いんだ。抱きしめた瞬間、あいつが消えてしまいそうで。
嫌われるとか、そういうことじゃない。本当に消えてしまいそうな気がするんだ」
正視に堪えかねて早苗は魔理沙から目を逸らした。雑貨屋の軒先で何気なく尋ねた一言が、このような運びになるとは思いもよらなかった。
真っ直ぐに捻じれた魔理沙の恋。正解は果たして右ねじか、それとも左ねじか。
そもそも霊夢の心にはねじが切られていないかもしれない。穴さえ開いていないかもしれない。
そのことを魔理沙も本当は分かっているのかもしれない。
「私はさ、本当に今のままでいいんだよ。今のままがいいんだ。臆病なのかもしれないけど、少なくとも今は、これ以上なんて望まない。私は霊夢の隣に立っていられればそれでいい」
眩しい、と早苗は感じた。この少女より少しだけ長く生きた自分は、彼女ほど苦悩したことがあっただろうか。彼女と同じ立場になったとき、彼女のように懸命になれるだろうか。矛盾と葛藤を呑みこんで、かりそめの答えだけでも出せるだろうか。
「……ただの人がそこまで強くなるためには、相当な努力を要したのでしょうね。それも全部、霊夢さんのためなんですか?」
同じ山の頂上を目指しているのに違う山に登っているかのような、虚しい努力だ。
魔理沙は即答しなかった。
言ってしまってから早苗は後悔した。言わなければよかった。口は災いの元とはよく言ったものだ。
蛙は口ゆえ蛇に呑まるる。
早苗は自己嫌悪という蛇に呑まれていた。
だが。
「それは違うな。私のためだ。どこまで行っても私のため。私が霊夢と一緒にいたいからだよ。だったら、反吐を吐いたって何でもやるさ。だから何でも屋なんだよ私は」
弱々しくも語尾の切れが良い、覇気のある声だった。ハッとして顔を上げた。魔理沙は膝の間に顔を埋めながら、どこでもないどこかを見つめていた。
琥珀色の瞳の奥の奥に、早苗は無数の星空を幻視した。
「だって人生は一度こっきりの打ち上げ花火だぜ。だったらあいつが上がる高さまで追いかけるさ。怖いけどな」
気づけば早苗は頭を深々と垂れていた。
「魔理沙さん。あらためてごめんなさい」
「今更なんだよ。あまりホイホイ頭を下げると誠意が無くなるぜ」
早苗は頭を下げたまま恥じ入り、この少女を尊敬した。
魔理沙の意外な一面を見た、と早苗は思っていた。
そんなことはなかった。
魔理沙はやはり魔理沙だった。
早苗が知らなかっただけだった。
なればあるいは実を結ぶ日が来るやもしれぬ。
彼女は醜く血反吐を撒き散らすかもしれないが。
現人神として、その奇跡の手助けくらいはするべきだろう。
早苗は面を上げた。
「……ヒーロー的に考えて、言質は取っておいた方が良いと思います」
「あん? 言質だ?」
「そうです。フラグです。例えば『私はずっとここにいるからな』とかですかね?」
「訊くなよ。だいたい何を今更……そんなこと言わなくたって、霊夢も分かってるよ」
「いいえ。ダメです。言葉はちゃんと口に出さないと伝わらないんです。心がお互いに通じ合っているから、なんて考えて手抜きをしちゃダメです。言葉にして、言霊にしないと」
「安っぽい愛の言葉になんぞ、言霊は宿らんぜ」
「魔理沙さんが心から素直な気持ちで言えば、絶対に宿りますよ。それが、本当に心が通じ合っている、ってことです。あ、そうだ。『お前の骨は私が噛むからな』でもいいかもですね」
「それは重すぎるだろ……」
「ヒーローはそれくらいきざじゃないと務まりませんよ!」
「私はヒーローじゃなくて何でも屋だぜ」
魔理沙は空き缶の煙管を取り、窓から突き出して雁首に付着した灰を落とした。ハーブを詰めてマッチを擦り、着火した。
「……そういやさ。私のことばっかり話したけど、あんたはどうなんだよ」
早苗は首を傾げた。
「え、私は文さんとしょっちゅうイチャラブしてますよ? 知らないんですか?」
魔理沙の口角がひきつった。
「あー……こういうときは何て言うんだっけか?」こめかみに青筋が浮いている。
魔理沙は視線を一巡させた。
尻の下に真っ白なスリップがあった。
「ああ、そうだ。くたばっちめえ! エイメン、だ」
「相手が違いますし、それ言わずに済むようにしてください!」
そりゃあ大きなお世話ってもんだわw
5歳から一途に思い詰めて家を出てまでも努力なんて自分には想像も出来んなぁ。
このままだと早苗の言った通りの未来になる可能性もあって怖いですがw
魔理沙可愛かったです。
>>5さん ハートウォーミングストーリーです(ドヤッ
>>7さん あやさなの結婚式では一緒に叫びましょう「くたばっちまえ」と
>>8さん 検索してはいけないワード「魔理沙ちゃん」
>>10さん 私は強くなりたいんだ!→暗黒面へ