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天上の世界。鏡に映った世界をチルノは見上げた。チルノ、ルーミア、そして紫。鏡は各々の思案を描き出している。
幻想区を一望できる大窓に手をつき、紫は笑う。
「おとなしくしとけば、幻想区の半分くらいは上げようと思ってたんだけどね」
「どこぞの魔王みたいな台詞ね」
「選択肢は一つしか用意してなかったはずなんだけどねえ」
手を首にあてがえ、首を鳴らしながらルーミアは一歩、二歩と踏み出す。彼女はいかにも腹に一物抱えているような表情をしていた。
「ねぇ、紫――」
ルーミアはあてどもなく話をはじめる。彼女は話しながら右手を背に回し、チルノに合図を出してきた。人差し指で下を指してからパーになるように手を開く。それから、犬が口を開閉するように人差し指と親指をあわせた。
下。おそらく地下を指す。パー。一瞬何のことかわからなかったが、皮肉にも紫の言葉を思い出したことで意味が理解できた。『五人』人数だ。紫は地下に進入した『五人』を始末したと言っていた。レミリア、フラン、フォーオブアカインドで現れた『ルーミア』三人。本来なら、地下に向かったのは五人だ。しかし、あと一人居る。射命丸文が。おそらく、フランと共に地下に向かったはずだ。ならば、六人でなければおかしいのだ。犬が口を開閉するようなサインと合わせて考えると、その後一人が地下に進入するまで話して時間を稼げ、ということなのだろう。
チルノはそれ以上、なにも考えずに実行しようとした。けれど、胸の奥でなにかが引っかかり、チルノは言葉をのどでつっかえさせる。
ルーミアは幽々子の情報を、犯罪性を含む情報を使い、EXを潰す気なのだろうか。
紫の言葉がチルノの頭を焼く。
『ルーミアはなにをもってEXを潰そうとしていると思う?』
地下の、EXの秘密、弱点、核に侵入しようとしている者。なんのためか。EXの犯罪を暴く。それ以外に理由があるだろうか。いや、ない。そこまで思い当たると、のどに引っかかった言葉が膨張し、のどを圧迫した。
チルノが黙り込んでいると、紫が口角を上げ、下を見た。
「もう一人、かかったわね」
紫の半身ほどある隙間が、部屋のソファの上に開く。ソファにどさりと一つの影が落ちる。黒い羽根が一瞬だけ見えた。間違いない。文だ。
「あやや……。またですか! また私の邪魔を――」
もう一つの隙間が開き、文をソファごと飲み込んだ。あっけなく、文の声は隙間に消えていった。
「ルーミア。まだ幽々子の情報に頼ってたの?」
紫はすでにルーミアが、フラン、そして幹部を救う約束をしたことを知っているような口ぶりだった。
「落とし穴でも仕掛けてたの?」
疑問に的外れな疑問を返すルーミア。
「……答える気はまるでなしね。ええ、そうよ。落とし穴みたいに隙間をはってたわ。もう一人居ると知ってて対策練らないやつは居ないわ」
大窓から離れ、紫はどこからともなく取り出した扇でルーミアを指す。
「もうやめときなさい。幽々子の情報に頼ってるようじゃEXは潰せないわ」
やはりルーミアは幽々子の情報、地下で違法スペルカードを作っているという情報でEXを潰そうとしている。ルーミアの口が横に裂け、気味の悪い笑みを作る。ただでさえ低い室温が一層下がったような気がした。
「ばっかね~。EXを潰すには幽々子の情報の真偽を暴くしかないでしょ」
胸焼けがした。フランを含む、EXの幹部もろとも吹き飛ばす。ルーミアの言葉は、そう宣言しているようなものだ。レミリアとフランにした約束は嘘だったのか。チルノは拳をきつく握り締めた。
「ここにスペルカードがあります」
ルーミアは懐から、一枚のスペルカードを取り出した。真っ黒な用紙に、赤い文字でスペルが刻まれている。禍々しいスペルカードだ。
「なに? ついには強硬手段にでも? やめときなさい。いくらあなたでも私には勝てないわ」
確かにその通りだ。戦闘力で紫を上回る者は、この幻想区に片手の指ほどもいない。象と蟻ほどの力の差が、ルーミアと紫の間にはあるだろう。本来行うべきではないが、力による脅しをしても無駄だ。
「このスペルカード自体には、なんの攻撃力もないわ」
どこか幽々子に似た、滑らかな手つきで紫は扇を開き、口元を隠す。
「何がしたいのよ」
「このスペルカードは、地下五階に設置されたスペルカードを起動するためにあるわ」
扇に隠れた口元の変わりに、紫の眉がハの字を書き、あきれた表情を作り出す。
「あなたが作ったスペルカードの連結システム?」
スペルカードの連結システム。スペルカードAを使えば、連結されたスペルカードBも発動するというシステムだ。ルーミアの企画書では、没になっていたシステムである。
「正解。そこまで知ってるなんて、並大抵じゃないストーカー気質ね」
皮肉に続き、ルーミアは言葉を放つ。
「あなたが寝てる隙に、ちっさいダイナマイトくらいの威力を持つスペルカードを仕掛けといたわ、できれば地下の真偽の方を自分で暴きたかったんだけどね」
小さなダイナマイト。遅まきに意味を理解したチルノは戦慄した。ルーミアの肩を掴み、強引に振り向かせる。ルーミアを見ることは、常闇を見ることに等しい。いつもの見通せない闇がルーミアの瞳には浮かんでいた。
「小さなダイナマイトって……。人が怪我、いや、下手したら死んじゃうよ!」
「そりゃあ人の居ないところに仕掛けたわよ」
「でも万が一……」
「今はそれどころじゃない」
チルノの手をルーミアは汚い物を除けるかのように払い、紫に向き直った。
流石にやりすぎだ。強引に行きすぎ。ルーミアの言ってたリスクは、これら全ての無茶を指すのだろうか。
「EXの地下で爆発事故が起きた。これなら警察や新聞記者が入る理由には十分でしょ」
「……本当に気でも狂ったの?」
あきれ半分、哀れみ半分の様子で紫は溜め息をついた。
「ルーミア、あなたも警察に捕まるのよ?」
いくら手段がないとはいえ、これではフラン、幹部は元より、ルーミア、下手をすればレミリアも警察にしょっぴかれる。自爆だ、EXの体内で自爆するような者だ。即効性は確かにある。だが、最悪の手段だろう。
おどしの手札としてなら、一見効果ありそうに見えるが、結局はルーミアの切れる手札ではないと紫が判断してしまえばそれまでのものだ。おどしとしても悪手。
「はったりじゃないわよ」
威嚇するかのようにルーミアは紫を睨む。脅しの場合、これは逆効果だ。はったりだと言っている様なもの。けれど、もし、この言葉がはったりでないのだとしたら……。
そうなら、チルノは死ぬ気でルーミアを止めるつもりだ。
場は、濃い霧が降りたかのように見通せない。何が起きてもおかしくないのだ。
「ふぅん。爆破で道連れにされたくなければ、私の交渉に応じろって?」
「ええ、そうよ」
「望みは勿論?」
「EXの最後」
「つまり壊される前にEXをたためと」
応じるわけがない。紫からすれば、これに応じることのメリットがほとんどない。おとなしくEXをたためば、紫自身の身の安全は確保できる。これくらいだろう。
けれど、こんなメリットはまやかしのメリットに過ぎない。受けなければ、紫の身も滅ぶことになるだろうが、なにより、フラン、ルーミア、レミリア等、紅魔に出る実害の方があきらかに大きい。ルーミアは、本来切れるはずもない手札を用意しているのだ。
問題なのは、このルーミアの凶行を紫がどう受け止めるかだ。今のルーミアは全てを道連れにしかねない。チルノですらそう感じるのだ。紫も同じように感じているに違いない。
紫もたまったものではないだろう。こんな自爆テロまがいのことでEXを潰されるなんて。
チルノですら、今のルーミアの行為には不快感を覚えている。目的が見えない故の不快感だ。よくわからない宗教の狂信者を見ているような気分でもある。
「無駄でしょ。やめときなさいって」
交渉、というよりもはや説得だ。あわれみ八割緊迫感二割の様子で紫はルーミアに言葉を当てる。
「無駄かどうかは、やってみなくちゃわからないわ」
「……もうなに話してもだめそうね」
あきれてるようだが、ところどころに紫の焦りが見え隠れする。
「紫は恐れてるんでしょう? 私が、フランの見も、私自身の身も、なにもかも省みずに突っ走って、あなたを道連れにすることを」
紫の眉間には、しわが刻まれていた。
「確認するわよ。あなたがやっていることは犯罪よ」
なにを今更。そう言いたげにルーミアは笑う。
「目には目を、歯に歯を、犯罪には犯罪を、よ」
紫が吹き出す。それから連鎖し、腹をねじるように紫は笑い出した。
「ばかねえ! 私が自爆を恐れるわけないでしょう! けっこうけっこう。自爆してEXなんか潰してちょうだい。自分が負うべきリスクくらいわかってるわよ。私が背負うことになる罪は、全部幹部に押し付けてやるわ。私が逃げる手立てはできてるの!」
最後にして、最も醜悪な戦いだ。見ているだけで反吐が出そうになる。会社一つを賭ける戦いだ。それなりに醜い戦いになることは覚悟していた。けれど、だ。今、目の前で行われている争いは、お互いが自分のために周りを巻き込み、勝ちに突き進み。本当の戦争のようなものだった。度が過ぎる。
醜悪さが極まり、現の二人ではなく、鏡に映る彼女等こそが真の姿でないかと錯覚するほどだった。
「まぁ、なにはともあれ、こんな茶番は終わりにしましょう」
いくら触れたくないと思う戦いでも、紫の起こしたアクションにチルノはルーミアの名を叫んでいた。
「るーみゃ!」
ルーミアの死角に隙間が開き、白いレースの手袋がぬぅっと出てきたのだ。チルノの叫びもむなしく、ルーミアは対応できなかった。黒く、禍々しいスペルカードを紫の手が奪い去る。
紫は左手を背に回し、ルーミア、チルノから死角になるようにしていた。ぬらりと紫の左手が現れる。やはり、ルーミアの手にあったスペルカードは奪われていた。
「もう終わりにしましょう。ルーミア。あなたに残された手段はないの。私は別にこの一件を警察に言う気はないから――」
ルーミアから奪い取った禍々しいスペルカードを紫は眼前に掲げる。そのスペルカードの黒にも劣らないどす黒い雰囲気が紫からあふれ出す。
「さっさと部屋に帰れ負け犬」
本能レベルでチルノの身がすくんだ。体が勝手に回れ右をしそうになるのをチルノは必死でこらえた。
紫の言うとおり、EXを潰す『汚い』手段すら、もうないのだ。いや、むしろこれでよかったのかもしれない。そう思うチルノが、心のうちには確かに居た。こんな手段で勝つくらいなら、紫に阻止された方が良い。
それに、紫はこの件を警察に言う気はないそうだ。EXに潜り、暴れ、あまつさえ爆破テロまがいの行為をしたのだ。警察に通報されれば、紅魔はただじゃすまない。だが、紫はそれをしない。ここが引き際なのだろう。
ふかふかしたカーペットが生肉のようなぶよぶよした質感を持った気がした。ルーミアの凶行の阻止。それに警察への口止め。むしろ、紫に感謝するべきかもしれない。
確かに、このままではルーミアとフランは救えずじまいだ。けれど、今、こんな状況ならば引いたほうが良いに決まってる。
「ごめん、るーみゃ。でも、ここは引いたほうが良いよ」
「ねぇ、チルノ。私はまたあの部屋に帰らなくちゃいけないの?」
急にルーミアを蝕んでいた狂気が引っ込んだかのようだった。ルーミアの小さな肩が幼く揺れる。その様子を見ていると、チルノの心も揺れた。いったいどこに本当のルーミアなのか。
「あそこは嫌よ」
「これだから餓鬼は嫌なの」
「ねぇ……、紫」
逆立ちをする鏡のルーミアが屍のように紫に歩み寄る。顔は地を向き、目元が見えない。不吉な予感がし、チルノはルーミアの後を追う。
「私をEXから出してくれ、なんて頼みは聞かないわよ」
二十センチ程上から、紫がルーミアを見下す。ルーミアの肩に手をかけ、連れ戻してしまおうとした。チルノが手をかけようとした寸前にルーミアが顔を上げる。
現のルーミアが紫を見上げ、夢のルーミアが紫を見下した。その瞳には慈悲を求める色なぞまるでない。ただ黒く澄み渡り、紫を見つめた。
「紫……あなた、もしかして」
ルーミアの唇が開きかけて、閉じた。結局、ルーミアの唇はほとんど動かなかった。けれど、チルノにははっきり聞こえた。
「犯罪が犯罪でないことがばれるのを恐れてる?」
誰も予想だにしない言葉。
時が加速するような感覚がチルノを包む。紫の影が急にのび、ルーミアの口元にまで達したような気がした。
紫が恐れていたのは、犯罪が犯罪でないことがばれること?
たったこれだけの文字の羅列だが、かぐや姫の出した五つの難題よりも不可解なものだった。
「ふふ、なにを……」またも紫は笑い出そうとしていた。けれど明らかに上手く言ってない様子で、つっかえ、かすれたような笑いしか出てこないようだった。あきらかに動揺している。
「紫、あなた……」
「そんなわけないでしょ」
今度は力強い否定が、ルーミアの言葉を遮った。だが、遅い。紫の弱点をルーミアが突いたのは確かだ。いつの間にか、ルーミアの反撃が始まっていた。
「なら、どうして魔力なしスペルカードによる被害がまだ出てないの?」
ぽろりと、紫の手からスペルカードが落ちた。先ほどまでの汚れたやりとりを洗い流すかのような凛とした声が部屋に響く。
「フランは言ってたわ。フォーオブアカインドを、普通の人が使えば一発で虚脱に陥るって」
ルーミアの右手が紫の方を掴んだ。柴犬がハチに鼻を刺されたときのように紫の肩が大きく跳ねる。
「紫が本当に犯罪によってフランを縛ろうとするなら、もうすでに魔力なしフォーオブアカインドを売って、わざと被害を出しているはずよ」
事件の発生数いまだゼロ。
実はまだ魔力なしスペルカードによる被害は出ていないのだ。フランのフォーオブアカインドに限らず、EXのスペルカードによってなんらかの被害が出れば問題になる。EXの地下で、文、はたてと出会ったとき、彼女等は今回の事件を黒と断定してなかった。チルノは、そのことをラッキーくらいにしか思っていなかった。けれど、よくよく考えれば妙なのだ。一度使えば、一人被害者が出るであろうスペルカードが世に出ているはずなのだ。なのに、情報にもっとも敏感な新聞記者がそれらの情報を得ておらず、地下の事件を黒と断定できていない。事件が一件でも起きていれば、即座に事象と事象を繋ぎ合わせ、今回の地下違法スペルカード製造を黒と断定していただろう。
「私がテロじみた行為をした理由はただ一つ。今回の一件が幻想の犯罪か、否かを確認する為よ」
ルーミアは右手で紫のほほをなでる。
「紫、あなたは確かに言ったわ。最強の矛と、最強の盾が同時に存在するような言葉を。EXなんか勝手に潰してちょうだい。それに、逃げる準備はできている、とね」
紫の頬に一筋の汗が伝う。それをルーミアは救い上げた。
チルノには、いまいちことの全容を理解することができていない。
「重要なのは、その言葉を提示したタイミング。私が犯罪には犯罪を、と言った途端だったわ。普通、自分の身を守る対策ができている、という提示するのは私が交渉に出たタイミング、脅しに出たときに提示するのが正しいわ。なのに、あなたはそれをしなかった」
二人のやり取りを反芻し、チルノは思い当たる。
紫自身の身の安全。
これを保証するからEXを潰せ。ルーミアはこういう形で条件を提示していた。もちろん、まやかしのメリットだが。
そのまやかしのメリットですら、本来紫には必要なかったはずなのだ。ルーミアに、自分の身の安全はすでに確保している、と宣言するだけで紫は良かったのだ。だが、なぜかしなかったのだ。
「知りたかったのよね。私がまやかしの犯罪と見抜いているのか、そうじゃないのか」
つまりこういうことだろうか。紫はルーミアがまやかしの犯罪を犯罪と思っているかどうかさぐり、ルーミアは紫が本当に犯罪をしていたかどうかを確認していた。
そして、ルーミアは気が狂ったかのような行動を積み重ね「犯罪には犯罪を」で紫の偽りなき反応を引き出した。勝利を目前にし、歩を早めてしまった紫のミスだ。
おおまかな内容は見えたかのように思えた。しかし、チルノは肝心なところがわかっていなかった。
「るーみゃ。犯罪じゃないってのはわかったけど、それでどうして紫が困るの?」
「チルノは本当に肝心なところが抜けてるわねえ」
固まってしまった紫に背を向け、ルーミアはチルノに向かって苦笑した。
「EXの幹部を縛っていたのは、この犯罪に加担したという罪悪感でしょう」
「あ……」
そうだった。彼女等幹部は、EXが犯罪を、傷害事件のような行為をしているというまやかしの事実があったからEXに居続けたのだ。まやかしの犯罪とわかったのならば、幹部がEXに在中する理由は一切ない。
幹部がいなくなると言うことは、EXの核がなくなるということだ。潰れないにしても、スペルカード業界におけるEXの影響力は大幅に下がる。下手をすれば、なくなるだろう。そうなれば潰れたも同然だ。
結局、ルーミアはこの状況を作るために、自爆テロまがいのことをしたのだ。おそらく用意したスペルカードはいつものはったりだ。フランの身の潔白を証明するためだが、過激であることにはかわりない。ルーミアの行いが正しいものかどうかは、神のみぞ知るといったところだろう。
「予想以上に早く、気付かれたものね。まぁ、何時だってかまわないんだけどね」
なめくじのようにぬめるような動きで、紫はカーペットに落ちた厄の抜けたスペルカードを拾う。
「ただ、少し違うのよね」
紫の口元に浮いた三日月を思わせる笑みに、チルノはまたも嫌な予感を覚えた。風前の灯であろう紫に、どうしてこんな感覚を覚えるのだろうか。
「スペルカード。夜符『ナイトバード』」
スペル宣言。禍々しいスペルカードは、ナイトバードのレプリカだったようだ。チルノは一つの可能性に思い当たる。ルーミアがはったりのリアリティを出す為に、地下にスペルカードを仕掛けた可能性だ。
「まさかるーみゃ、本当に仕掛けたの!?」
「ないない。私は仕掛けてないから、スペルカードにはなんの意味も――」
下から突き上げてきた衝撃がルーミアの言葉を跳ね除けた。続いて、耳を裂く轟音が当たりに鳴り響く。ドラム缶につめられ、外から棒で滅多打ちにされるような感覚がチルノを襲う。たまらず、チルノは尻餅をついた。
部屋では机、ソファ、花瓶……ありとあらゆるものが宙に浮き、踊り狂う。花瓶が地に落ち、悲鳴と共に砕け散る。
「るーみゃ!? 仕掛けてなかったんじゃないの!」
「ち……違う……」
バランスを崩し、地に手を突くルーミアはあきらかに動揺していた。
「じゃあ誰が!」
「私しか居ないでしょ。私が暴発するように仕掛けたわ」
紫の手から、夜啼き鳥の燃えカスが舞い落ちる。起爆用のスペルカードには、本物に似せる為に一応プログラムが走るように書き込まねばならない。だが、受信機、爆弾がなければそのプログラムは意味がないのだ。だが、紫はその爆弾をあえて作り、設置し、自ら起爆させたこの揺れの中でも、紫は微動だにせずに立っていた。
「紫、あなた……まさか」
「もう気付いたのね。多分正解よ、ルーミア」
スペルカードの暴発がようやくおさまり、部屋に刹那的な沈黙が訪れた。バランスを崩し、尻餅をついていたチルノは、よろけながらも立ち上がり状況を確認する。
天井の鏡が、上手い具合にビルの外の様子をコンクリートの地面まで映し出していた。まさにこの直下、二十九か八階からは白い粉塵とどす黒い煙が噴出している。地下に仕掛けられたのではない。
「ねぇ紫。あなたの真の目的は……」
「それどころじゃないよるーみゃ!」
粉塵が消え去り、赤黒い炎が下の階から吹き出した。下の階で、すでに何人が死に、怪我をしたのか。たった今、火に飲まれようとしている人もいるかもしれない。悠長にしている場合はないのだ。紫の目的なぞ、後回しで良い。そんなことより、助けなければならない。命を。
「人が、人が怪我してるかもしれないんだよ。助けなくちゃ」
火に包まれる人を想像するだけで、チルノは鳥肌がたった。チルノのあせりなぞよそに、ルーミアは立ち直り、いたって冷静に構えていた。
「怪我人なんて出ないわ」
なぜかルーミアは断言した。
「チルノ。考えて。私達が地下にもぐったとき、上層階に行ったとき、一人でも誰かとすれ違ったかしら。居なかったわ。逃げにくいところには人が居なかったの」
慎重に、チルノは地下、そして上層階を通ったときに人に出会ったかを思い返す。一人も出会っていなかった。
「ちょっと待って、それって紫が……」
「そう、あらかじめ避難させといたのよ」
今までの紫の言動をチルノはようやく分析する。
紫はこうなるように仕掛けていた。EX本社が壊れるように、あらかじめ仕掛けていたのだ。
『そろそろかしらね』
チルノが部屋に入ってきたときにつぶやいた紫の言葉が脳内で反響する。あの言葉も、もしかしてこうなることを予想して……。
紫のやっていたことはわかれど、チルノには真意は掴めなった。
「ま、ネタばらしするとEXは潰されるために建てた会社なの」
ルーミアから離れ、紫は大窓に歩み寄る。炎のせいで幻想区が赤く染まったかのようになっていた。彼女はその光景をうっとりと見つめる。
「私の目的はEXをトップに君臨させ続けることじゃないわ」
そこで言葉を切り、紫は苦笑いをしながら部屋のドアに目を向けた。駆け足で何者かが近づいてきている。
「紫様!」
ドアがけたたましい音をたてて開き、八雲藍が転がり込むように部屋に入ってきた。髪や服がところどころ焦げ、頬はすすだらけだ。階下が火の海であることがうかがえる。そこを藍は潜り抜けてきたのだ。
「ここももうすぐ火の海です。社員の避難は終わりましたから、はやくお逃げください!」
避難も異常な早さだ。まさに、なるべくしてなった状況であるのだろう。
「藍も無茶するわねえ。私には隙間があるから大丈夫」
「そういう問題では!」
「大丈夫」
ぱっくりと隙間が開く。「紫さ――」隙間が藍を飲み込んだ。
「良い子なんだけど、ちょっと危なっかしいわね」
赤く染まった窓を紫はなでる。
「空気が悪いわね」ぽつりと紫はつぶやく。火事なのに、臨場感がまったくないように見える。紫が指を鳴らすと、それに呼応するように大窓が粉細工のように砕け散った。冬の冷たさと炎の熱が混じり合ったなまぬるい風が部屋に舞い込んだ。
先ほど、藍が入ってきたドアが炎に包まれた。もう、炎が回ってきたのだ。間近に炎を見て、チルノは初めて実感した。
死ぬかもしれない。
逃げ場がないのだ。いや、一つだけある。
紫の隙間だ。
間違いない。紫はこの状況を作りたかったのだ。
炎はたちまちカーペットに燃え移り、ソファ、カーテン、タンス、と燃えやすい物からから喰らっていく。それと同時に、炎は確実に冬の冷気も喰らっていた。熱さに弱いチルノは、たちまち頭痛をもよおし、ぐらついた。呼吸が荒くなる。煙が目にしみる。こげくさい、熱い。チルノの思考は単調化しつつあった。
「ほら、しっかりしなさい」
ルーミアの肩が、チルノを横から支える。炎の熱がチルノの体を包む中でも、ルーミアの温もりは特別なものだった。
「さて、最後の交渉よ。ルーミア」
服がこげるのも、紫は全く意に介さない様子だ。書類、契約、法。全てが無効化された極限空間であることをチルノは悟っていた。丸裸にされた命があるのみ。
助かる術を持つ紫にすべての権限がある。
「交渉、というかお願いね。ルーミア。最後に私の手伝いをしてくれない?」
わざわざこの状況を作ったわりには、随分と安いお願いだった。
「それが私達の助かる条件?」
「ええ、そうよ」
ルーミアがまた紫の元に戻ってしまう。チルノの意識が僅かだが覚醒した。
「いやだよるーみゃ! せっかく条件を全てクリアして、戻ってこれるのに!」
「大丈夫。今回はね。用事が終われば紫も帰してくれるわよ。それに、今回は私を縛るものがあるわけじゃないから、逃げれるわ」
命より重い物はない。それに、今回はちゃんとルーミアは戻ってこれるという確信はある。それらを重々承知しているつもりだった。
けれど一度走り出した我が侭は止まらない。
「大丈夫よ」
「でも……」
炎はいよいよチルノ等の足を妬き始める。煩わしそうに紫は口を開く。
「今回ばかりは、安心してもらって良いわよ。私が言うのもなんだけどね」
「本当……?」
「ぶっちゃけ私の目的はほとんど完遂されたの。手順はいくつか飛んだけどね。でも、最後の後処理にルーミアの力がいるってだけ」
紫の言葉からは毒が抜けていた。命を賭けた状況を作ったのは、あくまでルーミアの首を立てに振らすため。それ以上でもそれ以下でもないと言うことか。
「言葉の約束はあてにならないよ」
「……そうねぇ」
ルーミアはチルノの子供じみた態度に苦笑する。チルノを支えたまま、一歩、二歩と元々大窓があったところに歩み寄った。赤黒い炎があらぶる目下。その間に時折、地上の野次馬が見て取れた。
チルノを抱えたままルーミアは赤黒い炎へと跳んだ。一瞬だけひりつくような熱を感じた。その後、チルノの世界が反転する。野次馬、紫のあきれるような笑み、それから煙の昇る赤い空。地上三十階からの落下。とてつもない重力がチルノを押さえつける。
チルノは頭から落ちていく。
風を斬る音が耳を裂く。手放しそうになる意識をチルノは必死に繋ぎとめる。
共に落ちるルーミアの顔が、チルノの鼻先にあった。ルーミアがチルノの肩を抱き、離れないようにしているのだ。
どうしてこんなことを? そう声をかけようとしたが、上手くいかない。
いつの間にかなくなった黒縁の眼鏡。チルノとルーミアの間の障壁は何もなくなっていた。
そこで、ルーミアは確かに笑った。空気抵抗なぞ、まるで感じさせない完璧な笑みだった。
待ってて。絶対に帰ってくる。
言葉なんか使わなくてもチルノにはルーミアの言いたいことが確かにわかった。
だだをこねていたチルノが全て融解し、居なくなる。最後に、もう一回だけ待とう。そう思えた。
了解の意味を載せて、チルノは頷き笑う。
上手く笑えた自信はない。けれど伝わった。
真っ黒な瞳は満足そうにまぶたを閉じた。
ルーミアの手が、チルノを離す。途端に制御を失ったチルノの体は、ルーミアから遠のいた。
地面はもうそこまで来ている。野次馬がわめく声がチルノに届く。
不思議と恐怖はない。
コンクリートがチルノを喰らおうとした寸前だ。隙間が口を開き、チルノを飲み込んだのだった。
紫がEXの倒産を宣言。それがスペルカード業界にもたらした影響は数知れない。けれど、その影響も神懸かった早さで収束された。ルーミアと紫が暗躍したのだろう。
結局、これまでEXが起こした厄介ごとが幹部に降りかかることはなった。面白いくらいに紫がそれらの厄介ごとを起こした犯人だという証拠しか出てこなかったのだ。そして、その肝心な紫は責任を背負うだけ背負って逃げてしまった。
記者も警察も、もはやお手上げのようだ。もっとも、記者の方は裏で新聞記者とレミリアが結託して潰したような節があるが。
数え切れない軽犯罪は、まやかしの犯罪、地下で違法スペルカードを作っているというまやかしをできる限り現実に似せる為にやっていたのだろう。
そんなとんでもないことをしていたご当人紫は、幽々子の元で楽しく隠居生活をしているというのはもっぱらの噂だが、真偽は誰も知らない。
EXがスペルカード業界から姿を消し四ヶ月。
暖かな太陽が幻想区を照らしていた。陰鬱さの欠片も感じさせない空は、春の訪れを告げている。本来ならひなたぼっこでもしていたい陽気だ。
切実に、チルノはそう思う。
けれど現実は甘くなく、チルノはいつもどおり仕事部屋で忙しく動き回っていた。少しにぎやかになった仕事部屋で。
「チルノ先輩、ここの比較ってどうすれば良いんですか!?」
「ああ、それは前の歳の利潤と今年の利潤の予想を比較すれば――」
「先輩。この企画はどうでしょうか!?」
「はいはい、ちょっと貸して」
そう言い、チルノは後輩に席を譲ってもらう。慣れない『先輩』を背にチルノは働いていたのだった。
チルノとルーミアの仕事部屋に新しく社員が入ってきたのだ。おかげで、今まで物置と化していた空き机が有効に使われるようになった。
この新しく入ってきた社員は、実は元『EX』社員だ。
EXは業界最大手。最大手と言っても、他の産業のように社員がめちゃくちゃ多いというわけではないが、それでも相当な数が居る。EXが倒産したときに出た失業者は百単位だ。しかしそれらの失業者は、全てEX以外のスペルカード業者が引き取った。縮小と称して一度会社を潰した紅魔も、そしらぬ顔で何人ものEX社員を引き込んだ。
EXの社員は総じて優秀だった。能力に長けている者も居れば、メンタルに優れている者も居る。会社にとって使いやすい者ばかりで、各々が特徴を持っていた。
それによって、スペルカード業界の能力の底上げがなされた。
紫の真の陰謀は、実はここにあったのだと、今更ながらにチルノは思う。上下の境界をなくしたEXの社長室。あれは圧倒的トップであるEXが無くなり、各々が自立し、上も下も無くなり対等に争う、今のスペルカード業界を暗示した物だったのかもしれない。
スペルカード業界全体の発展こそ、紫の真の目的だったのだろう。
「はい、企画。ちょっといじったから、後は頑張ってね」
後輩にチルノが考えたアイデアを打ち込んだパソコンと席を返し、チルノは一息ついた。
結局、紫は私情の塊だった。
スペルカード業界を発展させたいという私情のためにEXを創り、最後にはEXを壊した。
無茶苦茶だ。
しかし、他人からは曲がりくねった道に見えても、紫には確かに一本道に見えていたのだろう。
実際に紫の目的は、達成された。
「ああ、眠いわ」
そんな声と共に、ドアが開く。
寝癖のついた金髪に、赤いリボンがだらしなくぶら下がっている。黒物の眼鏡の奥にある瞳は、眠そうにまどろんでいた。
「ちょ、ちょっと、だらしないよるーみゃ」
あわててチルノはルーミアに駆け寄り、手で寝癖を直し、リボンを結びなおした。リボンが、ルーミアに制限を与えることはもう無い。
「ん、ありがとう」
ルーミアが帰ってきたのは、EXの後始末が終わってからで、日数に直すと二十四日ほどだ。チルノにとって、ルーミアの居ない二十四日は随分長いものに感じられた。
「ああ、そうそう。これお土産。まとめといて」
右手に持っていた五十枚にも及ぶ資料を、ルーミアはチルノに手渡す。
「げ、多い」
「あ、ルーミア先輩おはようございます。出勤早々申し訳ないのですが、ここを教えてくれませんか」
「わかったわ」
手にした資料に、ひぃぃぃぃぃぃと情けない悲鳴を上げながら机につくチルノを背に、ルーミアは後輩に手ほどきをする。
「あら、ここが妙ね」
「あ、そこはさっきチルノ先輩が……」
「そうね。こうしたら――」
説明しかけてルーミアは、はたと顔を上げる。それにつられ、部屋に居る三人も上を見た。
「だからお姉様! 早いうちに地霊との関係強化に取り組んだ方が良いわ!」
フランの叫び声が上の階から響く。そういえば、さとりがつにスペルカード業界に進出したのだ。理由は、妹の為らしいが。なんであれ、スペルカード業界にとっては行幸以外のなにものでもなかった。さとり、地霊はすでに引っ張りだこのてんてこまいだ。
「いや、まだだね! こっちにはチルノとさとりのふっといパイプがある。後回しで大丈夫だ。それよりも先に妖々夢とだな――」
レミリアの反論をフランが遮る。
「違う! 地霊は実質さとりとこいしのツートップよ。EXの元幹部なら誰でもパイプを持ってるわ。だから、立場は変わらないの」
EX内で培われたつながりは、いまやくもの巣のように業界内に張り巡らされている。おかげで、企業間のコンタクトを取るのが以前よりも随分楽になったものだ。皆、協力するときは協力し、競争するときは競争している。
企業間の関係強化。
これも紫が撒いた種が芽吹いた結果だろう。
「ふふ、それはどうかな?」
「……お姉さまのわからずや! お姉さまのお母さんは出べそ!」
「なに!? そっちこそフランのとんちんかん!」
EXが潰れた後、幹部は帰るべき場所に帰っていった。かくして、フランも紅魔に無事戻ってこれたのだ。紅魔内で割りと本気でレミリアに物言いができるのはフランだけだ。お互い頑固なので、社の方針について毎日のように喧嘩している。
しかし、その罵り合いが大笑いに変わる頃には不思議と紅魔にとって最良の結果が出ている。それに喧嘩をしている二人は、幸せそうだった。だから、紅魔の社員は全員苦笑いしてみて見ぬふりだ。
ルーミアも例に漏れず、やれやれと苦笑いをして、後輩のパソコンのディスプレイに目を落とした。
それから「あら」と声を上げる。
「チルノの書いたとこ、案外良いかも。後のあんたが書いた部分を書き直せば、良い企画になるんじゃない?」
「あ、そういえば」
あわてて、後輩はキーボードを操作し始めた。
その様子にチルノは心の中でにんまりと笑った。実は三日三晩チルノが考えたネタで、たまたま後輩の企画と合いそうだったから上げたのだ。ルーミアのスペルカードの連結システムにも引けを取らないと自負していた。
「チルノ、顔がにやけてるわよ」
「え、あ!?」
「ダダ漏れ」
頬をかいて、照れ隠しにチルノは笑った。
「いや、でもね、やっぱり前のあたいよりルーミアに近づけてるんだなっていうのがわかって、うれしくて」
ぽろりと出てしまった本音。けれど、事実だ。EXについていろいろあったけど、それらの出来事は確かにチルノを成長させてくれた。最強にまた一歩近づけた実感があった。
ならばやはり色んな人に感謝しなければならないだろう。目の前に居る、最も感謝すべき人物に、まずチルノはお礼を言うことにした。
「また最強に近づけたよ。ありがとうね。るーみゃ」
なによ急に!? ルーミアの顔にはそう書いてあった。けれどすぐに体勢を立て直し、照れ隠しにルーミアは言ったのだった。
「そーなのかー」
end
SO-NANOKA-
SO-NANOKA-2
SO-NANOKA-3
SO-NANOKA-4
SO-NANOKA-5
SO-NANOKA-6
SO-NANOKA-7
SO-NANOKA-8
SO-NANOKA-9
SO-NANOKA-10
天上の世界。鏡に映った世界をチルノは見上げた。チルノ、ルーミア、そして紫。鏡は各々の思案を描き出している。
幻想区を一望できる大窓に手をつき、紫は笑う。
「おとなしくしとけば、幻想区の半分くらいは上げようと思ってたんだけどね」
「どこぞの魔王みたいな台詞ね」
「選択肢は一つしか用意してなかったはずなんだけどねえ」
手を首にあてがえ、首を鳴らしながらルーミアは一歩、二歩と踏み出す。彼女はいかにも腹に一物抱えているような表情をしていた。
「ねぇ、紫――」
ルーミアはあてどもなく話をはじめる。彼女は話しながら右手を背に回し、チルノに合図を出してきた。人差し指で下を指してからパーになるように手を開く。それから、犬が口を開閉するように人差し指と親指をあわせた。
下。おそらく地下を指す。パー。一瞬何のことかわからなかったが、皮肉にも紫の言葉を思い出したことで意味が理解できた。『五人』人数だ。紫は地下に進入した『五人』を始末したと言っていた。レミリア、フラン、フォーオブアカインドで現れた『ルーミア』三人。本来なら、地下に向かったのは五人だ。しかし、あと一人居る。射命丸文が。おそらく、フランと共に地下に向かったはずだ。ならば、六人でなければおかしいのだ。犬が口を開閉するようなサインと合わせて考えると、その後一人が地下に進入するまで話して時間を稼げ、ということなのだろう。
チルノはそれ以上、なにも考えずに実行しようとした。けれど、胸の奥でなにかが引っかかり、チルノは言葉をのどでつっかえさせる。
ルーミアは幽々子の情報を、犯罪性を含む情報を使い、EXを潰す気なのだろうか。
紫の言葉がチルノの頭を焼く。
『ルーミアはなにをもってEXを潰そうとしていると思う?』
地下の、EXの秘密、弱点、核に侵入しようとしている者。なんのためか。EXの犯罪を暴く。それ以外に理由があるだろうか。いや、ない。そこまで思い当たると、のどに引っかかった言葉が膨張し、のどを圧迫した。
チルノが黙り込んでいると、紫が口角を上げ、下を見た。
「もう一人、かかったわね」
紫の半身ほどある隙間が、部屋のソファの上に開く。ソファにどさりと一つの影が落ちる。黒い羽根が一瞬だけ見えた。間違いない。文だ。
「あやや……。またですか! また私の邪魔を――」
もう一つの隙間が開き、文をソファごと飲み込んだ。あっけなく、文の声は隙間に消えていった。
「ルーミア。まだ幽々子の情報に頼ってたの?」
紫はすでにルーミアが、フラン、そして幹部を救う約束をしたことを知っているような口ぶりだった。
「落とし穴でも仕掛けてたの?」
疑問に的外れな疑問を返すルーミア。
「……答える気はまるでなしね。ええ、そうよ。落とし穴みたいに隙間をはってたわ。もう一人居ると知ってて対策練らないやつは居ないわ」
大窓から離れ、紫はどこからともなく取り出した扇でルーミアを指す。
「もうやめときなさい。幽々子の情報に頼ってるようじゃEXは潰せないわ」
やはりルーミアは幽々子の情報、地下で違法スペルカードを作っているという情報でEXを潰そうとしている。ルーミアの口が横に裂け、気味の悪い笑みを作る。ただでさえ低い室温が一層下がったような気がした。
「ばっかね~。EXを潰すには幽々子の情報の真偽を暴くしかないでしょ」
胸焼けがした。フランを含む、EXの幹部もろとも吹き飛ばす。ルーミアの言葉は、そう宣言しているようなものだ。レミリアとフランにした約束は嘘だったのか。チルノは拳をきつく握り締めた。
「ここにスペルカードがあります」
ルーミアは懐から、一枚のスペルカードを取り出した。真っ黒な用紙に、赤い文字でスペルが刻まれている。禍々しいスペルカードだ。
「なに? ついには強硬手段にでも? やめときなさい。いくらあなたでも私には勝てないわ」
確かにその通りだ。戦闘力で紫を上回る者は、この幻想区に片手の指ほどもいない。象と蟻ほどの力の差が、ルーミアと紫の間にはあるだろう。本来行うべきではないが、力による脅しをしても無駄だ。
「このスペルカード自体には、なんの攻撃力もないわ」
どこか幽々子に似た、滑らかな手つきで紫は扇を開き、口元を隠す。
「何がしたいのよ」
「このスペルカードは、地下五階に設置されたスペルカードを起動するためにあるわ」
扇に隠れた口元の変わりに、紫の眉がハの字を書き、あきれた表情を作り出す。
「あなたが作ったスペルカードの連結システム?」
スペルカードの連結システム。スペルカードAを使えば、連結されたスペルカードBも発動するというシステムだ。ルーミアの企画書では、没になっていたシステムである。
「正解。そこまで知ってるなんて、並大抵じゃないストーカー気質ね」
皮肉に続き、ルーミアは言葉を放つ。
「あなたが寝てる隙に、ちっさいダイナマイトくらいの威力を持つスペルカードを仕掛けといたわ、できれば地下の真偽の方を自分で暴きたかったんだけどね」
小さなダイナマイト。遅まきに意味を理解したチルノは戦慄した。ルーミアの肩を掴み、強引に振り向かせる。ルーミアを見ることは、常闇を見ることに等しい。いつもの見通せない闇がルーミアの瞳には浮かんでいた。
「小さなダイナマイトって……。人が怪我、いや、下手したら死んじゃうよ!」
「そりゃあ人の居ないところに仕掛けたわよ」
「でも万が一……」
「今はそれどころじゃない」
チルノの手をルーミアは汚い物を除けるかのように払い、紫に向き直った。
流石にやりすぎだ。強引に行きすぎ。ルーミアの言ってたリスクは、これら全ての無茶を指すのだろうか。
「EXの地下で爆発事故が起きた。これなら警察や新聞記者が入る理由には十分でしょ」
「……本当に気でも狂ったの?」
あきれ半分、哀れみ半分の様子で紫は溜め息をついた。
「ルーミア、あなたも警察に捕まるのよ?」
いくら手段がないとはいえ、これではフラン、幹部は元より、ルーミア、下手をすればレミリアも警察にしょっぴかれる。自爆だ、EXの体内で自爆するような者だ。即効性は確かにある。だが、最悪の手段だろう。
おどしの手札としてなら、一見効果ありそうに見えるが、結局はルーミアの切れる手札ではないと紫が判断してしまえばそれまでのものだ。おどしとしても悪手。
「はったりじゃないわよ」
威嚇するかのようにルーミアは紫を睨む。脅しの場合、これは逆効果だ。はったりだと言っている様なもの。けれど、もし、この言葉がはったりでないのだとしたら……。
そうなら、チルノは死ぬ気でルーミアを止めるつもりだ。
場は、濃い霧が降りたかのように見通せない。何が起きてもおかしくないのだ。
「ふぅん。爆破で道連れにされたくなければ、私の交渉に応じろって?」
「ええ、そうよ」
「望みは勿論?」
「EXの最後」
「つまり壊される前にEXをたためと」
応じるわけがない。紫からすれば、これに応じることのメリットがほとんどない。おとなしくEXをたためば、紫自身の身の安全は確保できる。これくらいだろう。
けれど、こんなメリットはまやかしのメリットに過ぎない。受けなければ、紫の身も滅ぶことになるだろうが、なにより、フラン、ルーミア、レミリア等、紅魔に出る実害の方があきらかに大きい。ルーミアは、本来切れるはずもない手札を用意しているのだ。
問題なのは、このルーミアの凶行を紫がどう受け止めるかだ。今のルーミアは全てを道連れにしかねない。チルノですらそう感じるのだ。紫も同じように感じているに違いない。
紫もたまったものではないだろう。こんな自爆テロまがいのことでEXを潰されるなんて。
チルノですら、今のルーミアの行為には不快感を覚えている。目的が見えない故の不快感だ。よくわからない宗教の狂信者を見ているような気分でもある。
「無駄でしょ。やめときなさいって」
交渉、というよりもはや説得だ。あわれみ八割緊迫感二割の様子で紫はルーミアに言葉を当てる。
「無駄かどうかは、やってみなくちゃわからないわ」
「……もうなに話してもだめそうね」
あきれてるようだが、ところどころに紫の焦りが見え隠れする。
「紫は恐れてるんでしょう? 私が、フランの見も、私自身の身も、なにもかも省みずに突っ走って、あなたを道連れにすることを」
紫の眉間には、しわが刻まれていた。
「確認するわよ。あなたがやっていることは犯罪よ」
なにを今更。そう言いたげにルーミアは笑う。
「目には目を、歯に歯を、犯罪には犯罪を、よ」
紫が吹き出す。それから連鎖し、腹をねじるように紫は笑い出した。
「ばかねえ! 私が自爆を恐れるわけないでしょう! けっこうけっこう。自爆してEXなんか潰してちょうだい。自分が負うべきリスクくらいわかってるわよ。私が背負うことになる罪は、全部幹部に押し付けてやるわ。私が逃げる手立てはできてるの!」
最後にして、最も醜悪な戦いだ。見ているだけで反吐が出そうになる。会社一つを賭ける戦いだ。それなりに醜い戦いになることは覚悟していた。けれど、だ。今、目の前で行われている争いは、お互いが自分のために周りを巻き込み、勝ちに突き進み。本当の戦争のようなものだった。度が過ぎる。
醜悪さが極まり、現の二人ではなく、鏡に映る彼女等こそが真の姿でないかと錯覚するほどだった。
「まぁ、なにはともあれ、こんな茶番は終わりにしましょう」
いくら触れたくないと思う戦いでも、紫の起こしたアクションにチルノはルーミアの名を叫んでいた。
「るーみゃ!」
ルーミアの死角に隙間が開き、白いレースの手袋がぬぅっと出てきたのだ。チルノの叫びもむなしく、ルーミアは対応できなかった。黒く、禍々しいスペルカードを紫の手が奪い去る。
紫は左手を背に回し、ルーミア、チルノから死角になるようにしていた。ぬらりと紫の左手が現れる。やはり、ルーミアの手にあったスペルカードは奪われていた。
「もう終わりにしましょう。ルーミア。あなたに残された手段はないの。私は別にこの一件を警察に言う気はないから――」
ルーミアから奪い取った禍々しいスペルカードを紫は眼前に掲げる。そのスペルカードの黒にも劣らないどす黒い雰囲気が紫からあふれ出す。
「さっさと部屋に帰れ負け犬」
本能レベルでチルノの身がすくんだ。体が勝手に回れ右をしそうになるのをチルノは必死でこらえた。
紫の言うとおり、EXを潰す『汚い』手段すら、もうないのだ。いや、むしろこれでよかったのかもしれない。そう思うチルノが、心のうちには確かに居た。こんな手段で勝つくらいなら、紫に阻止された方が良い。
それに、紫はこの件を警察に言う気はないそうだ。EXに潜り、暴れ、あまつさえ爆破テロまがいの行為をしたのだ。警察に通報されれば、紅魔はただじゃすまない。だが、紫はそれをしない。ここが引き際なのだろう。
ふかふかしたカーペットが生肉のようなぶよぶよした質感を持った気がした。ルーミアの凶行の阻止。それに警察への口止め。むしろ、紫に感謝するべきかもしれない。
確かに、このままではルーミアとフランは救えずじまいだ。けれど、今、こんな状況ならば引いたほうが良いに決まってる。
「ごめん、るーみゃ。でも、ここは引いたほうが良いよ」
「ねぇ、チルノ。私はまたあの部屋に帰らなくちゃいけないの?」
急にルーミアを蝕んでいた狂気が引っ込んだかのようだった。ルーミアの小さな肩が幼く揺れる。その様子を見ていると、チルノの心も揺れた。いったいどこに本当のルーミアなのか。
「あそこは嫌よ」
「これだから餓鬼は嫌なの」
「ねぇ……、紫」
逆立ちをする鏡のルーミアが屍のように紫に歩み寄る。顔は地を向き、目元が見えない。不吉な予感がし、チルノはルーミアの後を追う。
「私をEXから出してくれ、なんて頼みは聞かないわよ」
二十センチ程上から、紫がルーミアを見下す。ルーミアの肩に手をかけ、連れ戻してしまおうとした。チルノが手をかけようとした寸前にルーミアが顔を上げる。
現のルーミアが紫を見上げ、夢のルーミアが紫を見下した。その瞳には慈悲を求める色なぞまるでない。ただ黒く澄み渡り、紫を見つめた。
「紫……あなた、もしかして」
ルーミアの唇が開きかけて、閉じた。結局、ルーミアの唇はほとんど動かなかった。けれど、チルノにははっきり聞こえた。
「犯罪が犯罪でないことがばれるのを恐れてる?」
誰も予想だにしない言葉。
時が加速するような感覚がチルノを包む。紫の影が急にのび、ルーミアの口元にまで達したような気がした。
紫が恐れていたのは、犯罪が犯罪でないことがばれること?
たったこれだけの文字の羅列だが、かぐや姫の出した五つの難題よりも不可解なものだった。
「ふふ、なにを……」またも紫は笑い出そうとしていた。けれど明らかに上手く言ってない様子で、つっかえ、かすれたような笑いしか出てこないようだった。あきらかに動揺している。
「紫、あなた……」
「そんなわけないでしょ」
今度は力強い否定が、ルーミアの言葉を遮った。だが、遅い。紫の弱点をルーミアが突いたのは確かだ。いつの間にか、ルーミアの反撃が始まっていた。
「なら、どうして魔力なしスペルカードによる被害がまだ出てないの?」
ぽろりと、紫の手からスペルカードが落ちた。先ほどまでの汚れたやりとりを洗い流すかのような凛とした声が部屋に響く。
「フランは言ってたわ。フォーオブアカインドを、普通の人が使えば一発で虚脱に陥るって」
ルーミアの右手が紫の方を掴んだ。柴犬がハチに鼻を刺されたときのように紫の肩が大きく跳ねる。
「紫が本当に犯罪によってフランを縛ろうとするなら、もうすでに魔力なしフォーオブアカインドを売って、わざと被害を出しているはずよ」
事件の発生数いまだゼロ。
実はまだ魔力なしスペルカードによる被害は出ていないのだ。フランのフォーオブアカインドに限らず、EXのスペルカードによってなんらかの被害が出れば問題になる。EXの地下で、文、はたてと出会ったとき、彼女等は今回の事件を黒と断定してなかった。チルノは、そのことをラッキーくらいにしか思っていなかった。けれど、よくよく考えれば妙なのだ。一度使えば、一人被害者が出るであろうスペルカードが世に出ているはずなのだ。なのに、情報にもっとも敏感な新聞記者がそれらの情報を得ておらず、地下の事件を黒と断定できていない。事件が一件でも起きていれば、即座に事象と事象を繋ぎ合わせ、今回の地下違法スペルカード製造を黒と断定していただろう。
「私がテロじみた行為をした理由はただ一つ。今回の一件が幻想の犯罪か、否かを確認する為よ」
ルーミアは右手で紫のほほをなでる。
「紫、あなたは確かに言ったわ。最強の矛と、最強の盾が同時に存在するような言葉を。EXなんか勝手に潰してちょうだい。それに、逃げる準備はできている、とね」
紫の頬に一筋の汗が伝う。それをルーミアは救い上げた。
チルノには、いまいちことの全容を理解することができていない。
「重要なのは、その言葉を提示したタイミング。私が犯罪には犯罪を、と言った途端だったわ。普通、自分の身を守る対策ができている、という提示するのは私が交渉に出たタイミング、脅しに出たときに提示するのが正しいわ。なのに、あなたはそれをしなかった」
二人のやり取りを反芻し、チルノは思い当たる。
紫自身の身の安全。
これを保証するからEXを潰せ。ルーミアはこういう形で条件を提示していた。もちろん、まやかしのメリットだが。
そのまやかしのメリットですら、本来紫には必要なかったはずなのだ。ルーミアに、自分の身の安全はすでに確保している、と宣言するだけで紫は良かったのだ。だが、なぜかしなかったのだ。
「知りたかったのよね。私がまやかしの犯罪と見抜いているのか、そうじゃないのか」
つまりこういうことだろうか。紫はルーミアがまやかしの犯罪を犯罪と思っているかどうかさぐり、ルーミアは紫が本当に犯罪をしていたかどうかを確認していた。
そして、ルーミアは気が狂ったかのような行動を積み重ね「犯罪には犯罪を」で紫の偽りなき反応を引き出した。勝利を目前にし、歩を早めてしまった紫のミスだ。
おおまかな内容は見えたかのように思えた。しかし、チルノは肝心なところがわかっていなかった。
「るーみゃ。犯罪じゃないってのはわかったけど、それでどうして紫が困るの?」
「チルノは本当に肝心なところが抜けてるわねえ」
固まってしまった紫に背を向け、ルーミアはチルノに向かって苦笑した。
「EXの幹部を縛っていたのは、この犯罪に加担したという罪悪感でしょう」
「あ……」
そうだった。彼女等幹部は、EXが犯罪を、傷害事件のような行為をしているというまやかしの事実があったからEXに居続けたのだ。まやかしの犯罪とわかったのならば、幹部がEXに在中する理由は一切ない。
幹部がいなくなると言うことは、EXの核がなくなるということだ。潰れないにしても、スペルカード業界におけるEXの影響力は大幅に下がる。下手をすれば、なくなるだろう。そうなれば潰れたも同然だ。
結局、ルーミアはこの状況を作るために、自爆テロまがいのことをしたのだ。おそらく用意したスペルカードはいつものはったりだ。フランの身の潔白を証明するためだが、過激であることにはかわりない。ルーミアの行いが正しいものかどうかは、神のみぞ知るといったところだろう。
「予想以上に早く、気付かれたものね。まぁ、何時だってかまわないんだけどね」
なめくじのようにぬめるような動きで、紫はカーペットに落ちた厄の抜けたスペルカードを拾う。
「ただ、少し違うのよね」
紫の口元に浮いた三日月を思わせる笑みに、チルノはまたも嫌な予感を覚えた。風前の灯であろう紫に、どうしてこんな感覚を覚えるのだろうか。
「スペルカード。夜符『ナイトバード』」
スペル宣言。禍々しいスペルカードは、ナイトバードのレプリカだったようだ。チルノは一つの可能性に思い当たる。ルーミアがはったりのリアリティを出す為に、地下にスペルカードを仕掛けた可能性だ。
「まさかるーみゃ、本当に仕掛けたの!?」
「ないない。私は仕掛けてないから、スペルカードにはなんの意味も――」
下から突き上げてきた衝撃がルーミアの言葉を跳ね除けた。続いて、耳を裂く轟音が当たりに鳴り響く。ドラム缶につめられ、外から棒で滅多打ちにされるような感覚がチルノを襲う。たまらず、チルノは尻餅をついた。
部屋では机、ソファ、花瓶……ありとあらゆるものが宙に浮き、踊り狂う。花瓶が地に落ち、悲鳴と共に砕け散る。
「るーみゃ!? 仕掛けてなかったんじゃないの!」
「ち……違う……」
バランスを崩し、地に手を突くルーミアはあきらかに動揺していた。
「じゃあ誰が!」
「私しか居ないでしょ。私が暴発するように仕掛けたわ」
紫の手から、夜啼き鳥の燃えカスが舞い落ちる。起爆用のスペルカードには、本物に似せる為に一応プログラムが走るように書き込まねばならない。だが、受信機、爆弾がなければそのプログラムは意味がないのだ。だが、紫はその爆弾をあえて作り、設置し、自ら起爆させたこの揺れの中でも、紫は微動だにせずに立っていた。
「紫、あなた……まさか」
「もう気付いたのね。多分正解よ、ルーミア」
スペルカードの暴発がようやくおさまり、部屋に刹那的な沈黙が訪れた。バランスを崩し、尻餅をついていたチルノは、よろけながらも立ち上がり状況を確認する。
天井の鏡が、上手い具合にビルの外の様子をコンクリートの地面まで映し出していた。まさにこの直下、二十九か八階からは白い粉塵とどす黒い煙が噴出している。地下に仕掛けられたのではない。
「ねぇ紫。あなたの真の目的は……」
「それどころじゃないよるーみゃ!」
粉塵が消え去り、赤黒い炎が下の階から吹き出した。下の階で、すでに何人が死に、怪我をしたのか。たった今、火に飲まれようとしている人もいるかもしれない。悠長にしている場合はないのだ。紫の目的なぞ、後回しで良い。そんなことより、助けなければならない。命を。
「人が、人が怪我してるかもしれないんだよ。助けなくちゃ」
火に包まれる人を想像するだけで、チルノは鳥肌がたった。チルノのあせりなぞよそに、ルーミアは立ち直り、いたって冷静に構えていた。
「怪我人なんて出ないわ」
なぜかルーミアは断言した。
「チルノ。考えて。私達が地下にもぐったとき、上層階に行ったとき、一人でも誰かとすれ違ったかしら。居なかったわ。逃げにくいところには人が居なかったの」
慎重に、チルノは地下、そして上層階を通ったときに人に出会ったかを思い返す。一人も出会っていなかった。
「ちょっと待って、それって紫が……」
「そう、あらかじめ避難させといたのよ」
今までの紫の言動をチルノはようやく分析する。
紫はこうなるように仕掛けていた。EX本社が壊れるように、あらかじめ仕掛けていたのだ。
『そろそろかしらね』
チルノが部屋に入ってきたときにつぶやいた紫の言葉が脳内で反響する。あの言葉も、もしかしてこうなることを予想して……。
紫のやっていたことはわかれど、チルノには真意は掴めなった。
「ま、ネタばらしするとEXは潰されるために建てた会社なの」
ルーミアから離れ、紫は大窓に歩み寄る。炎のせいで幻想区が赤く染まったかのようになっていた。彼女はその光景をうっとりと見つめる。
「私の目的はEXをトップに君臨させ続けることじゃないわ」
そこで言葉を切り、紫は苦笑いをしながら部屋のドアに目を向けた。駆け足で何者かが近づいてきている。
「紫様!」
ドアがけたたましい音をたてて開き、八雲藍が転がり込むように部屋に入ってきた。髪や服がところどころ焦げ、頬はすすだらけだ。階下が火の海であることがうかがえる。そこを藍は潜り抜けてきたのだ。
「ここももうすぐ火の海です。社員の避難は終わりましたから、はやくお逃げください!」
避難も異常な早さだ。まさに、なるべくしてなった状況であるのだろう。
「藍も無茶するわねえ。私には隙間があるから大丈夫」
「そういう問題では!」
「大丈夫」
ぱっくりと隙間が開く。「紫さ――」隙間が藍を飲み込んだ。
「良い子なんだけど、ちょっと危なっかしいわね」
赤く染まった窓を紫はなでる。
「空気が悪いわね」ぽつりと紫はつぶやく。火事なのに、臨場感がまったくないように見える。紫が指を鳴らすと、それに呼応するように大窓が粉細工のように砕け散った。冬の冷たさと炎の熱が混じり合ったなまぬるい風が部屋に舞い込んだ。
先ほど、藍が入ってきたドアが炎に包まれた。もう、炎が回ってきたのだ。間近に炎を見て、チルノは初めて実感した。
死ぬかもしれない。
逃げ場がないのだ。いや、一つだけある。
紫の隙間だ。
間違いない。紫はこの状況を作りたかったのだ。
炎はたちまちカーペットに燃え移り、ソファ、カーテン、タンス、と燃えやすい物からから喰らっていく。それと同時に、炎は確実に冬の冷気も喰らっていた。熱さに弱いチルノは、たちまち頭痛をもよおし、ぐらついた。呼吸が荒くなる。煙が目にしみる。こげくさい、熱い。チルノの思考は単調化しつつあった。
「ほら、しっかりしなさい」
ルーミアの肩が、チルノを横から支える。炎の熱がチルノの体を包む中でも、ルーミアの温もりは特別なものだった。
「さて、最後の交渉よ。ルーミア」
服がこげるのも、紫は全く意に介さない様子だ。書類、契約、法。全てが無効化された極限空間であることをチルノは悟っていた。丸裸にされた命があるのみ。
助かる術を持つ紫にすべての権限がある。
「交渉、というかお願いね。ルーミア。最後に私の手伝いをしてくれない?」
わざわざこの状況を作ったわりには、随分と安いお願いだった。
「それが私達の助かる条件?」
「ええ、そうよ」
ルーミアがまた紫の元に戻ってしまう。チルノの意識が僅かだが覚醒した。
「いやだよるーみゃ! せっかく条件を全てクリアして、戻ってこれるのに!」
「大丈夫。今回はね。用事が終われば紫も帰してくれるわよ。それに、今回は私を縛るものがあるわけじゃないから、逃げれるわ」
命より重い物はない。それに、今回はちゃんとルーミアは戻ってこれるという確信はある。それらを重々承知しているつもりだった。
けれど一度走り出した我が侭は止まらない。
「大丈夫よ」
「でも……」
炎はいよいよチルノ等の足を妬き始める。煩わしそうに紫は口を開く。
「今回ばかりは、安心してもらって良いわよ。私が言うのもなんだけどね」
「本当……?」
「ぶっちゃけ私の目的はほとんど完遂されたの。手順はいくつか飛んだけどね。でも、最後の後処理にルーミアの力がいるってだけ」
紫の言葉からは毒が抜けていた。命を賭けた状況を作ったのは、あくまでルーミアの首を立てに振らすため。それ以上でもそれ以下でもないと言うことか。
「言葉の約束はあてにならないよ」
「……そうねぇ」
ルーミアはチルノの子供じみた態度に苦笑する。チルノを支えたまま、一歩、二歩と元々大窓があったところに歩み寄った。赤黒い炎があらぶる目下。その間に時折、地上の野次馬が見て取れた。
チルノを抱えたままルーミアは赤黒い炎へと跳んだ。一瞬だけひりつくような熱を感じた。その後、チルノの世界が反転する。野次馬、紫のあきれるような笑み、それから煙の昇る赤い空。地上三十階からの落下。とてつもない重力がチルノを押さえつける。
チルノは頭から落ちていく。
風を斬る音が耳を裂く。手放しそうになる意識をチルノは必死に繋ぎとめる。
共に落ちるルーミアの顔が、チルノの鼻先にあった。ルーミアがチルノの肩を抱き、離れないようにしているのだ。
どうしてこんなことを? そう声をかけようとしたが、上手くいかない。
いつの間にかなくなった黒縁の眼鏡。チルノとルーミアの間の障壁は何もなくなっていた。
そこで、ルーミアは確かに笑った。空気抵抗なぞ、まるで感じさせない完璧な笑みだった。
待ってて。絶対に帰ってくる。
言葉なんか使わなくてもチルノにはルーミアの言いたいことが確かにわかった。
だだをこねていたチルノが全て融解し、居なくなる。最後に、もう一回だけ待とう。そう思えた。
了解の意味を載せて、チルノは頷き笑う。
上手く笑えた自信はない。けれど伝わった。
真っ黒な瞳は満足そうにまぶたを閉じた。
ルーミアの手が、チルノを離す。途端に制御を失ったチルノの体は、ルーミアから遠のいた。
地面はもうそこまで来ている。野次馬がわめく声がチルノに届く。
不思議と恐怖はない。
コンクリートがチルノを喰らおうとした寸前だ。隙間が口を開き、チルノを飲み込んだのだった。
紫がEXの倒産を宣言。それがスペルカード業界にもたらした影響は数知れない。けれど、その影響も神懸かった早さで収束された。ルーミアと紫が暗躍したのだろう。
結局、これまでEXが起こした厄介ごとが幹部に降りかかることはなった。面白いくらいに紫がそれらの厄介ごとを起こした犯人だという証拠しか出てこなかったのだ。そして、その肝心な紫は責任を背負うだけ背負って逃げてしまった。
記者も警察も、もはやお手上げのようだ。もっとも、記者の方は裏で新聞記者とレミリアが結託して潰したような節があるが。
数え切れない軽犯罪は、まやかしの犯罪、地下で違法スペルカードを作っているというまやかしをできる限り現実に似せる為にやっていたのだろう。
そんなとんでもないことをしていたご当人紫は、幽々子の元で楽しく隠居生活をしているというのはもっぱらの噂だが、真偽は誰も知らない。
EXがスペルカード業界から姿を消し四ヶ月。
暖かな太陽が幻想区を照らしていた。陰鬱さの欠片も感じさせない空は、春の訪れを告げている。本来ならひなたぼっこでもしていたい陽気だ。
切実に、チルノはそう思う。
けれど現実は甘くなく、チルノはいつもどおり仕事部屋で忙しく動き回っていた。少しにぎやかになった仕事部屋で。
「チルノ先輩、ここの比較ってどうすれば良いんですか!?」
「ああ、それは前の歳の利潤と今年の利潤の予想を比較すれば――」
「先輩。この企画はどうでしょうか!?」
「はいはい、ちょっと貸して」
そう言い、チルノは後輩に席を譲ってもらう。慣れない『先輩』を背にチルノは働いていたのだった。
チルノとルーミアの仕事部屋に新しく社員が入ってきたのだ。おかげで、今まで物置と化していた空き机が有効に使われるようになった。
この新しく入ってきた社員は、実は元『EX』社員だ。
EXは業界最大手。最大手と言っても、他の産業のように社員がめちゃくちゃ多いというわけではないが、それでも相当な数が居る。EXが倒産したときに出た失業者は百単位だ。しかしそれらの失業者は、全てEX以外のスペルカード業者が引き取った。縮小と称して一度会社を潰した紅魔も、そしらぬ顔で何人ものEX社員を引き込んだ。
EXの社員は総じて優秀だった。能力に長けている者も居れば、メンタルに優れている者も居る。会社にとって使いやすい者ばかりで、各々が特徴を持っていた。
それによって、スペルカード業界の能力の底上げがなされた。
紫の真の陰謀は、実はここにあったのだと、今更ながらにチルノは思う。上下の境界をなくしたEXの社長室。あれは圧倒的トップであるEXが無くなり、各々が自立し、上も下も無くなり対等に争う、今のスペルカード業界を暗示した物だったのかもしれない。
スペルカード業界全体の発展こそ、紫の真の目的だったのだろう。
「はい、企画。ちょっといじったから、後は頑張ってね」
後輩にチルノが考えたアイデアを打ち込んだパソコンと席を返し、チルノは一息ついた。
結局、紫は私情の塊だった。
スペルカード業界を発展させたいという私情のためにEXを創り、最後にはEXを壊した。
無茶苦茶だ。
しかし、他人からは曲がりくねった道に見えても、紫には確かに一本道に見えていたのだろう。
実際に紫の目的は、達成された。
「ああ、眠いわ」
そんな声と共に、ドアが開く。
寝癖のついた金髪に、赤いリボンがだらしなくぶら下がっている。黒物の眼鏡の奥にある瞳は、眠そうにまどろんでいた。
「ちょ、ちょっと、だらしないよるーみゃ」
あわててチルノはルーミアに駆け寄り、手で寝癖を直し、リボンを結びなおした。リボンが、ルーミアに制限を与えることはもう無い。
「ん、ありがとう」
ルーミアが帰ってきたのは、EXの後始末が終わってからで、日数に直すと二十四日ほどだ。チルノにとって、ルーミアの居ない二十四日は随分長いものに感じられた。
「ああ、そうそう。これお土産。まとめといて」
右手に持っていた五十枚にも及ぶ資料を、ルーミアはチルノに手渡す。
「げ、多い」
「あ、ルーミア先輩おはようございます。出勤早々申し訳ないのですが、ここを教えてくれませんか」
「わかったわ」
手にした資料に、ひぃぃぃぃぃぃと情けない悲鳴を上げながら机につくチルノを背に、ルーミアは後輩に手ほどきをする。
「あら、ここが妙ね」
「あ、そこはさっきチルノ先輩が……」
「そうね。こうしたら――」
説明しかけてルーミアは、はたと顔を上げる。それにつられ、部屋に居る三人も上を見た。
「だからお姉様! 早いうちに地霊との関係強化に取り組んだ方が良いわ!」
フランの叫び声が上の階から響く。そういえば、さとりがつにスペルカード業界に進出したのだ。理由は、妹の為らしいが。なんであれ、スペルカード業界にとっては行幸以外のなにものでもなかった。さとり、地霊はすでに引っ張りだこのてんてこまいだ。
「いや、まだだね! こっちにはチルノとさとりのふっといパイプがある。後回しで大丈夫だ。それよりも先に妖々夢とだな――」
レミリアの反論をフランが遮る。
「違う! 地霊は実質さとりとこいしのツートップよ。EXの元幹部なら誰でもパイプを持ってるわ。だから、立場は変わらないの」
EX内で培われたつながりは、いまやくもの巣のように業界内に張り巡らされている。おかげで、企業間のコンタクトを取るのが以前よりも随分楽になったものだ。皆、協力するときは協力し、競争するときは競争している。
企業間の関係強化。
これも紫が撒いた種が芽吹いた結果だろう。
「ふふ、それはどうかな?」
「……お姉さまのわからずや! お姉さまのお母さんは出べそ!」
「なに!? そっちこそフランのとんちんかん!」
EXが潰れた後、幹部は帰るべき場所に帰っていった。かくして、フランも紅魔に無事戻ってこれたのだ。紅魔内で割りと本気でレミリアに物言いができるのはフランだけだ。お互い頑固なので、社の方針について毎日のように喧嘩している。
しかし、その罵り合いが大笑いに変わる頃には不思議と紅魔にとって最良の結果が出ている。それに喧嘩をしている二人は、幸せそうだった。だから、紅魔の社員は全員苦笑いしてみて見ぬふりだ。
ルーミアも例に漏れず、やれやれと苦笑いをして、後輩のパソコンのディスプレイに目を落とした。
それから「あら」と声を上げる。
「チルノの書いたとこ、案外良いかも。後のあんたが書いた部分を書き直せば、良い企画になるんじゃない?」
「あ、そういえば」
あわてて、後輩はキーボードを操作し始めた。
その様子にチルノは心の中でにんまりと笑った。実は三日三晩チルノが考えたネタで、たまたま後輩の企画と合いそうだったから上げたのだ。ルーミアのスペルカードの連結システムにも引けを取らないと自負していた。
「チルノ、顔がにやけてるわよ」
「え、あ!?」
「ダダ漏れ」
頬をかいて、照れ隠しにチルノは笑った。
「いや、でもね、やっぱり前のあたいよりルーミアに近づけてるんだなっていうのがわかって、うれしくて」
ぽろりと出てしまった本音。けれど、事実だ。EXについていろいろあったけど、それらの出来事は確かにチルノを成長させてくれた。最強にまた一歩近づけた実感があった。
ならばやはり色んな人に感謝しなければならないだろう。目の前に居る、最も感謝すべき人物に、まずチルノはお礼を言うことにした。
「また最強に近づけたよ。ありがとうね。るーみゃ」
なによ急に!? ルーミアの顔にはそう書いてあった。けれどすぐに体勢を立て直し、照れ隠しにルーミアは言ったのだった。
「そーなのかー」
end
完結お疲れ様でした。ルーミアとチルノの今後の活躍を祈って
>行幸
僥倖、かな?
楽しく読ませていただきました
今年もよろしくお願いします(o>ω<o)
個人的意見ですが、チルノの成長物語としてはエピローグよりもラスボスの紫戦でその成長を見せつけてほしかったところです
前話のフランの説得場面がかっこよかっただけに、演技が完璧だったとはいえルーミアを疑ったのがなおさらチルノの印象を落としてしまったように思います
ともあれ、勢いのある展開と今までにない設定に大変楽しませてもらいました
次回作にも期待してます!