年越し蕎麦の食器をかたづけて一息ついた。
蛇口から出る水は凍てつくように冷たくて、私の両手はもうすっかりかじかんでしまっている。末端から這いよってくる震えと室内とは思えないお勝手の寒さに閉口しながら、ほうほうの体で居間のこたつに舞いもどれば、そこはまぎれもない天国だった。温かいこたつのなかで指先に少しずつ血行が戻り、熱せられた手の甲はだんだんかゆくなってくる。
じわりと伝わってくる温かさに時折身震いしながら、私はようやく年の瀬の実感を持てた。
そう、もう年の瀬も年の瀬、今年も残すは数刻もない。
お正月の飾り付けはとうに済んでいる。おせちの用意も終わり、明日からは家事もせずにのんべんだらりと年の始の試しとて。一年の計はなんとやら、寝正月で三が日を潰すつもりもないけれど、新年の行事がはじまるまではゆっくり過ごすつもりだった。今はゆく年に別れを告げ、くる年を迎えるだけというわけだ。
数年ぶりの寒波到来で、河童たちは幻想郷一帯に大雪の予報を出している。降り積もる雪は一向に止む気配を見せず、日の沈む前と比べても明らかにその量は増えているのだが、新年早々雪かきに精を出して労働の神様に叱られるような罰当たりはこの幻想郷にいるまい。山のふもとで神社のひとつやふたつ、押しつぶされたところで見向きもしないかもしれない。
でも、変に張り切った天邪鬼が夜半になって急に召集をかけないとも限らない。建前上は年中無休不眠不休の体裁を取る白狼天狗のこと、まさか除雪作業に駆り出されるとも思えないけれど、下っ端はいつだってこき使われるのだから何があっても不思議じゃない。まったく迷惑なことだ。
日没頃から降りしきる雪の模様を伝えていたテレヴィジョンも今は沈黙していた。大晦日の晩から年明けの三が日は放送もお休み。緊急の事件が起きたらいったいどうするのかと思わないでもないのだけど、放送局だって正月休みはのんきに過ごしたいらしい。正月休みをもらった幻想のブラウン管は、いつものように白黒の世界を映し出すわけでもなく大休止を決め込んでいるようだった。
本当に静かな大晦日。
何処かで下手っぴの打ち鳴らす除夜の鐘だけが、静謐な闇の中に、がごーんぐわーんと間の抜けた音を響かせている。この静けさだけはいつの世も変わることがない。
しんしんと雪の降り積もるなか、こたつに入ってもくもくと蜜柑の皮をむく。これこそ冬の醍醐味だと思う。橙色の外皮をむかれて寒そうにしている柑橘類を口に放りこめば冬の味が甘酸っぱく広がった。
が、二個、三個と手が伸びたところで、その単純作業にもだんだんあきてきた。そう、あまりに単調すぎて張り合いがない。静かなことは結構だけど、こうも暇だと落ち着かなくなる。普段目が回るくらいに忙しいから、いざ手が空くとそわそわするのだ。いわゆる仕事中毒というやつ。白狼天狗特有の職業病で、悲しいサガだ。
こんなときにかぎって、話し相手になってくれそうな我が主は口をきくことすらままならない状況にあるのだ。私は幸せそうな笑みを浮かべて寝こけている新聞記者の姿を見やる。
射命丸文は顔中で、天にも昇る心地だと主張しながらこたつに突っ伏していた。半開きの口から垂れそうなよだれを拭っても目を覚ます気配はない。まったく、のんきにもほどがある。せっかくふたりっきりの年末だというのに、まるで家のなかに私しかいないみたい。
「文さま、風邪ひきますよ」
「――ぅん」
聞こえているのかいないのか、口だけをむにゃと歪めた鴉天狗は、私から顔をそむけるように反対側へ首を動かした。
仕事納めが長引いたらしく、文さまは日没になってようやく帰宅すると、記事をギリギリまで仕上げて、夕食を摂ったらすぐ寝息を立てはじめた。
外の寒さで体力を消耗したらしいとはわかるし、ゆっくり休ませてあげたい気持ちもあるけれど、もともと起こす理由をつくったのは文さまのほうなのだ。起きてくださいよ。
「うんじゃなくて、ほら」
大義名分を得ている私は、遠慮なく肩をゆすったり背中をさすったりと主を起こしにかかる。けれど、文さまは不機嫌な猫のように唸るだけで、身じろぎひとつしやしない。
こうなると、ちょっとやそっとのことでは起きない。しまいには頬をつつき出したところで、眠り姫はようやく目を開けた。
「んぅ――ぁ、寝てたか……おはよ」
「おはようじゃないですよ。そろそろ支度してください」
「……なに?」
「二年参りですよ。行かないんですか?」
「二年参り……なんの話?」
突っ伏したまま眠そうにしている寝ぼけ眼が「お前は何を言ってるんだ」と訴える。それはこっちの台詞です。
「初詣、行くんでしょう? 今年は日付変わる前には出かけるって」
指一本動かさず、のっぺりとした思考をかき回すようにしていた文さまは、しばらく宙に視線をさまよわせてからようやく思い出したように、
「あぁ……うーん、ねぇ、もうやめにしない? ほら、雪積もってきてるし」
これだ。
ずっこける気分とはまさにこういうことを言うのだろう。私は半分あきれて、
「今年こそは二年参りするんだって、先に誘ったのは文さまじゃないですか。他の鴉天狗に先をこされてもいいんですか。初詣の取材も兼ねるんでしょう?」
「えー、だってー」とすねる文さまは、まるでお尻に根っこが生えたように、目を細めてこたつの温もりにおぼれてしまっている。普段は颯爽と、まるで気ままな風のように空を飛ぶくせ、自宅に帰った途端こうも自堕落になる。幻想郷最速とはよくいうけれど、射命丸文の本質はむしろこちらなのではないか。他人様には絶対に見せられない姿だ。私はそう思っている。
こうなったら多少荒療治だけど仕方がない。
私はこたつをするりと抜けだして、油断している文さまを背後から羽交い締めにすると、過酷な外界へと強制的に引きずり出す。文さまも「わっ、わっ」と慌ててこたつをつかみにかかるけど、力は私のほうが強いのだ。抵抗むなしく鴉天狗はこたつから離脱させられた格好になる。
「わかったわかった。わかったから離してよもう」
口ではそう言いながら、一度抜け出た天国に芋虫よろしくずるずる後退する文さまを阻止せんと、私はこたつを横にずらす。後退した先に何もないことを知った文さまは、さむいさむいとその場で丸くなった。
「そうやってじっとしてるから寒いんです。動かないと――ほーらー!」
「もう痛いってば、犬はこたつで丸くなるもんでしょ。椛だって大人しくしてればいいものを」
「それを言うなら猫でしょうに。犬は庭かけまわるものですよ。白狼はみんなこんなの慣れっこです。ほら着替えて……文さまってば!」
「わかったわよ、もう。さむっ! ……ねぇ、やっぱりやめようよもみじー、あったかいわよこたつ」
私が手を離したスキにぴゅーと温もりへ舞い戻った文さまは、こたつの中から顔だけ出してこちらに手招きした。あったかこたつで文さまと丸くなる。すさまじい誘惑には違いないけれど、今は歳神さまをきちんとお迎えするのがスジってもの。
はじめからやり直し。
四隅をひっつかんで意地でもこたつから出ようとしない我が主をあの手この手で懐柔して、私はそれから四半刻を費やしながら、寒がる文さまをやっとのことで外に連れだした。
†
誰かさんのせいで予定からはだいぶ遅くなったけれど、どうにか日付が変わる前に神社へ着いた。
山の氏神は当然、守矢神社ということになるわけで、深夜だというのに天狗やら河童やら、今年も山の妖怪が境内にあふれている。この客入り目当てで、リンゴ飴だの人形焼だのと屋台のにぎやかな縁日が列をなして誘惑してくるが、残念ながら今の私はそれどころでない。間に合わなくなるかと思って、雪降る山道を途中から全力疾走してきたのだ。世界がぐるぐると回ってめまいがしそう。どうやら、幻想郷は天動説を採用したらしい。
息も絶え絶えに切らしているこちらをよそに、けろりとしている文さまは「じゃあ私は先に取材を済ませてくるから」と、カメラと文花帖を携えて神楽殿のほうに消えてしまった。いったい誰のせいだと思ってるんですか。
ひとり境内の隅に取り残されて、私は息を整えながら参拝者を観察してみる。
こうして見ていると、連れ合いの実に多いこと。家族連れもいるけれど、やはり友人、あるいは恋人同士という組みあわせが過半を占める。だからこそ、むすっとした無表情で列に並ぶ独り身が異様に目立ってくるわけで。ご愁傷さまというほかない。
私たちはどうなのだろう。やはりカップルということになるんだろうか。
そう思うと気恥ずかしいような、見せびらかしたいような、なんだか今ひとりでいるのがさみしいように感じられてきて、取材なんかさっさと切り上げて早く文さまに戻ってきて欲しいと思う。私から行ってやろうか。すぐ終わるから待っていて、なんて言っていたけれど。
「おっ、犬走じゃなーい!」
だいぶふざけた調子の声がして視線を上げると、人ごみのなかでもずいぶんと目立つ格好をした影がこちらに手を振っていた。ようやく慣れてきた夜目をこらして暗がりをうかがえば、ここの神社の御神体、その片割れ、八坂神奈子そのひとだった。普段は見かけないおそらくは正装と思われる服装と、背後に装着した注連縄はいかにも「仰々しい」という表現がぴったりで、なのにまとっている空気はこうもフランクなのだから、周囲も呆気にとられている。
御神体がどうしてここにと思う間もなく、神様は危なっかしくフラフラとこちらへ近づいてきて、周りのカップルはさっと引いてゆく。まさか今さら知らない人のフリをするわけにもいかず、仕方なしに私ひとりで八坂様の相手をするハメになった。何かとお世話になっているらしい文さまならともかく、私ひとりで親しくしてもらった覚えはないのだけれど。顔を覚えられていたことからして、そもそも驚きだ。
目の前までやってきた山の神様に会釈すると、八坂様は陽気に話しかけてくる。
「なに、椛のところも二年参りってやつ? いやー、殊勝なことね。あっちにいた頃は、なかなかそんな手合いも減る一方でさー。こっちだと、何かあったら神頼みじゃない? 神社の株があがるのなんのって、信仰心が左うちわよ」
それで宴会ですか。
「アハハ、わかる、わかる? そうなのよ、さすがに暮れから呑んだくれるのはまずいって言ったんだけど、客がさ、ほらアンタんとこの上司なんだけどさ、せっかくの正月なんだからってうるさいのよ」
どうやらセコい大天狗の一角が神の御加護を得ようと買収のために涙ぐましい努力を払っているらしい。一杯機嫌らしいように見えて、この食えない神様はそんな下心などとっくに見抜いているに違いないのに。それにしても、御神体が境内で酔っ払っていていいのかな。
「いいのいいの! どうせこの時間に儀式やってるのは諏訪子なんだから。私は出番まで待ちぼうけ、ってわけ」
それとこれとは話が別な気もするのだけど、八坂様はそう言って長身をそらすとカカカと笑った。
「今日は楽しんで行ってよ。社務所に来たら恋みくじくらいどーんと大吉のやつあげるからさ」
配り歩いてでもいるのか、私にお守りをわたした八坂様はまたフラフラと人ごみのなかへ戻っていった。受け取ったお守りを裏返してみれば「安産祈願」なんて書いてあって、私は耳まで真っ赤になる。
「ごめん、おまたせ!」
幣拝殿のほうから文さまが駆けてきて、寒空の下で延々待たされた憎まれ口のひとつでもきいてやろうかと思うのだが、駆け寄ってきた文さまはそばに来るなりさっと手を引いて歩き出すものだから、私は盛大にたたらを踏んだ。いきなり手なんかつないだらドキドキするでしょうが。
「な、なんでしゅか」
「お参り、まだしてなかったでしょう。混んできたから早く済ませちゃお」
そう、そもそも初詣のために神社まで来たのだ。危うく本と末が転倒するところだった。たしかに増えてきたように思える人ごみのなか、急いで幣拝殿まで行き、二列で並ぶ。
賽銭箱に小銭を入れて、紐を振り回すと鈴ががらんがらんと間の抜けた音を立てた。
二礼二拍手一礼。
瞑目してお決まりのお祈りを済ませてから薄目で文さまのほうをうかがうと、我が主は長々と黙考しているようだった。
「椛は何を祈ったの?」
お参りを終えて、社務所で授与品を冷やかしていると、文さまがこれまたお決まりの質問を投げてきた。
「家内安全と、それから私と文さまの健康です――文さまは何をお祈りしたんですか」
八坂様が本当に大吉の恋みくじを渡してくるので、いよいよもって初詣が二の次に思われてくる。なんだかデートみたい、なんてトンチンカンな考えが頭に浮かんできて、私はかぶりを振った。蛇と蛙の置き物らしいお守りとにらめっこしてから、値札を見てさらにまゆをしかめていると、
「ひみつ」
舌をぺろっと出して、誤魔化してみせる文さまに私は虚をつかれる気分を味わう。
「なんですそれ」
「いーじゃん。ほら、そろそろ帰ろ」
なんだか慌てて身支度をはじめる珍妙な文さまが見ていて面白く、なんだか私は意地悪したくなってきた。
「そうだ、絵馬書きませんか」
文さまはなぜか今度も恥ずかしそうにすると、「私はいいや」
どうして。
「だって、もう書いちゃったから」
さっき、初詣の取材をしていたときか。どうせそんなところじゃないかと思っていたけれど、私は大仰にため息をついてみせる。
「なーんだ。つまんないのー」
そわそわと落ち着かない様子の文さまは放っておいて、私はさっきお祈りしたとおりのことを木の板に書いてゆく。
『今年も文さまと幸せに過ごせますように――犬走椛』
我ながらずいぶんと恥ずかしい文面だと思う。ちらと横目にうかがうと文さまは耳まで真っ赤になっている。いつものお返し、成功。
日付もとうに変わったところ、参拝客は境内に増える一方だった。参道のほうもずいぶんと混んできたように思う。
混雑で帰れなくなる前に下るとしよう。帰りに縁日で人形焼でも買うのもいいかもしれない。
と、いざ帰ろうという段になって文さまが引き止めてきた。
「ちょっと待って椛」
文さまをやりこめた満足感のまま、満面の笑みで「なんです」と聞き返す間もなく、文さまがうやうやしく頭を下げた。
「明けましておめでとうございます」
やり返された。
そう、そうなのだ。日付も変わり、年が明けていた。
一年の計は元旦にあり。行く年が去り行き、また今年も来る年がおいでになったわけ。
月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり。松竹たてて門ごとに、祝う今日こそ楽しけれ。
私も改まって頭を下げて、我が主に年始の挨拶とした。
「今年もよろしくお願いいたします」
――そして、無論これからも。
†
――第百二十八季、元旦
初詣を済ませた文と椛は仲良く自宅で寝こけている。
朝方には雪もやみ、山のあちこちで召集に備えて戦々恐々としていた当直の天狗たちは、静かになった空の様子を見て盛大に安堵の声を漏らしている。シフトの入れ替わりには、彼女たちも初詣に繰り出すのだ。
守矢神社に視線を移そう。
空が白みはじめ、元日の神社もいよいよ参拝の妖怪で千客万来となりつつあった。神楽殿では悪酔い気味でグロッキーな神奈子が早苗の祈祷を手伝っているし、仕事を終えた諏訪子がそれを見ながら物陰で笑い転げている。前日の鍋パでオールしたはたてたちは完全な断眠ハイではしゃいでおり、他のグループから白い目で見られている。
境内の一角には絵馬が大量に掛けられていて、それは今なお増え続けていた。そのなかの埋もれたひとつには、きっとこんな文言が書かれているに違いない。
『今年も椛と幸せに過ごせますように――射命丸文』
ようよう顔を出した初日の出は、実にゆっくりと幻想郷を照らしてゆく。
靄に霞んで寝ぼけ眼の太陽が、百鬼夜行蠢く最後の楽園を朱く染めていた。
蛇口から出る水は凍てつくように冷たくて、私の両手はもうすっかりかじかんでしまっている。末端から這いよってくる震えと室内とは思えないお勝手の寒さに閉口しながら、ほうほうの体で居間のこたつに舞いもどれば、そこはまぎれもない天国だった。温かいこたつのなかで指先に少しずつ血行が戻り、熱せられた手の甲はだんだんかゆくなってくる。
じわりと伝わってくる温かさに時折身震いしながら、私はようやく年の瀬の実感を持てた。
そう、もう年の瀬も年の瀬、今年も残すは数刻もない。
お正月の飾り付けはとうに済んでいる。おせちの用意も終わり、明日からは家事もせずにのんべんだらりと年の始の試しとて。一年の計はなんとやら、寝正月で三が日を潰すつもりもないけれど、新年の行事がはじまるまではゆっくり過ごすつもりだった。今はゆく年に別れを告げ、くる年を迎えるだけというわけだ。
数年ぶりの寒波到来で、河童たちは幻想郷一帯に大雪の予報を出している。降り積もる雪は一向に止む気配を見せず、日の沈む前と比べても明らかにその量は増えているのだが、新年早々雪かきに精を出して労働の神様に叱られるような罰当たりはこの幻想郷にいるまい。山のふもとで神社のひとつやふたつ、押しつぶされたところで見向きもしないかもしれない。
でも、変に張り切った天邪鬼が夜半になって急に召集をかけないとも限らない。建前上は年中無休不眠不休の体裁を取る白狼天狗のこと、まさか除雪作業に駆り出されるとも思えないけれど、下っ端はいつだってこき使われるのだから何があっても不思議じゃない。まったく迷惑なことだ。
日没頃から降りしきる雪の模様を伝えていたテレヴィジョンも今は沈黙していた。大晦日の晩から年明けの三が日は放送もお休み。緊急の事件が起きたらいったいどうするのかと思わないでもないのだけど、放送局だって正月休みはのんきに過ごしたいらしい。正月休みをもらった幻想のブラウン管は、いつものように白黒の世界を映し出すわけでもなく大休止を決め込んでいるようだった。
本当に静かな大晦日。
何処かで下手っぴの打ち鳴らす除夜の鐘だけが、静謐な闇の中に、がごーんぐわーんと間の抜けた音を響かせている。この静けさだけはいつの世も変わることがない。
しんしんと雪の降り積もるなか、こたつに入ってもくもくと蜜柑の皮をむく。これこそ冬の醍醐味だと思う。橙色の外皮をむかれて寒そうにしている柑橘類を口に放りこめば冬の味が甘酸っぱく広がった。
が、二個、三個と手が伸びたところで、その単純作業にもだんだんあきてきた。そう、あまりに単調すぎて張り合いがない。静かなことは結構だけど、こうも暇だと落ち着かなくなる。普段目が回るくらいに忙しいから、いざ手が空くとそわそわするのだ。いわゆる仕事中毒というやつ。白狼天狗特有の職業病で、悲しいサガだ。
こんなときにかぎって、話し相手になってくれそうな我が主は口をきくことすらままならない状況にあるのだ。私は幸せそうな笑みを浮かべて寝こけている新聞記者の姿を見やる。
射命丸文は顔中で、天にも昇る心地だと主張しながらこたつに突っ伏していた。半開きの口から垂れそうなよだれを拭っても目を覚ます気配はない。まったく、のんきにもほどがある。せっかくふたりっきりの年末だというのに、まるで家のなかに私しかいないみたい。
「文さま、風邪ひきますよ」
「――ぅん」
聞こえているのかいないのか、口だけをむにゃと歪めた鴉天狗は、私から顔をそむけるように反対側へ首を動かした。
仕事納めが長引いたらしく、文さまは日没になってようやく帰宅すると、記事をギリギリまで仕上げて、夕食を摂ったらすぐ寝息を立てはじめた。
外の寒さで体力を消耗したらしいとはわかるし、ゆっくり休ませてあげたい気持ちもあるけれど、もともと起こす理由をつくったのは文さまのほうなのだ。起きてくださいよ。
「うんじゃなくて、ほら」
大義名分を得ている私は、遠慮なく肩をゆすったり背中をさすったりと主を起こしにかかる。けれど、文さまは不機嫌な猫のように唸るだけで、身じろぎひとつしやしない。
こうなると、ちょっとやそっとのことでは起きない。しまいには頬をつつき出したところで、眠り姫はようやく目を開けた。
「んぅ――ぁ、寝てたか……おはよ」
「おはようじゃないですよ。そろそろ支度してください」
「……なに?」
「二年参りですよ。行かないんですか?」
「二年参り……なんの話?」
突っ伏したまま眠そうにしている寝ぼけ眼が「お前は何を言ってるんだ」と訴える。それはこっちの台詞です。
「初詣、行くんでしょう? 今年は日付変わる前には出かけるって」
指一本動かさず、のっぺりとした思考をかき回すようにしていた文さまは、しばらく宙に視線をさまよわせてからようやく思い出したように、
「あぁ……うーん、ねぇ、もうやめにしない? ほら、雪積もってきてるし」
これだ。
ずっこける気分とはまさにこういうことを言うのだろう。私は半分あきれて、
「今年こそは二年参りするんだって、先に誘ったのは文さまじゃないですか。他の鴉天狗に先をこされてもいいんですか。初詣の取材も兼ねるんでしょう?」
「えー、だってー」とすねる文さまは、まるでお尻に根っこが生えたように、目を細めてこたつの温もりにおぼれてしまっている。普段は颯爽と、まるで気ままな風のように空を飛ぶくせ、自宅に帰った途端こうも自堕落になる。幻想郷最速とはよくいうけれど、射命丸文の本質はむしろこちらなのではないか。他人様には絶対に見せられない姿だ。私はそう思っている。
こうなったら多少荒療治だけど仕方がない。
私はこたつをするりと抜けだして、油断している文さまを背後から羽交い締めにすると、過酷な外界へと強制的に引きずり出す。文さまも「わっ、わっ」と慌ててこたつをつかみにかかるけど、力は私のほうが強いのだ。抵抗むなしく鴉天狗はこたつから離脱させられた格好になる。
「わかったわかった。わかったから離してよもう」
口ではそう言いながら、一度抜け出た天国に芋虫よろしくずるずる後退する文さまを阻止せんと、私はこたつを横にずらす。後退した先に何もないことを知った文さまは、さむいさむいとその場で丸くなった。
「そうやってじっとしてるから寒いんです。動かないと――ほーらー!」
「もう痛いってば、犬はこたつで丸くなるもんでしょ。椛だって大人しくしてればいいものを」
「それを言うなら猫でしょうに。犬は庭かけまわるものですよ。白狼はみんなこんなの慣れっこです。ほら着替えて……文さまってば!」
「わかったわよ、もう。さむっ! ……ねぇ、やっぱりやめようよもみじー、あったかいわよこたつ」
私が手を離したスキにぴゅーと温もりへ舞い戻った文さまは、こたつの中から顔だけ出してこちらに手招きした。あったかこたつで文さまと丸くなる。すさまじい誘惑には違いないけれど、今は歳神さまをきちんとお迎えするのがスジってもの。
はじめからやり直し。
四隅をひっつかんで意地でもこたつから出ようとしない我が主をあの手この手で懐柔して、私はそれから四半刻を費やしながら、寒がる文さまをやっとのことで外に連れだした。
†
誰かさんのせいで予定からはだいぶ遅くなったけれど、どうにか日付が変わる前に神社へ着いた。
山の氏神は当然、守矢神社ということになるわけで、深夜だというのに天狗やら河童やら、今年も山の妖怪が境内にあふれている。この客入り目当てで、リンゴ飴だの人形焼だのと屋台のにぎやかな縁日が列をなして誘惑してくるが、残念ながら今の私はそれどころでない。間に合わなくなるかと思って、雪降る山道を途中から全力疾走してきたのだ。世界がぐるぐると回ってめまいがしそう。どうやら、幻想郷は天動説を採用したらしい。
息も絶え絶えに切らしているこちらをよそに、けろりとしている文さまは「じゃあ私は先に取材を済ませてくるから」と、カメラと文花帖を携えて神楽殿のほうに消えてしまった。いったい誰のせいだと思ってるんですか。
ひとり境内の隅に取り残されて、私は息を整えながら参拝者を観察してみる。
こうして見ていると、連れ合いの実に多いこと。家族連れもいるけれど、やはり友人、あるいは恋人同士という組みあわせが過半を占める。だからこそ、むすっとした無表情で列に並ぶ独り身が異様に目立ってくるわけで。ご愁傷さまというほかない。
私たちはどうなのだろう。やはりカップルということになるんだろうか。
そう思うと気恥ずかしいような、見せびらかしたいような、なんだか今ひとりでいるのがさみしいように感じられてきて、取材なんかさっさと切り上げて早く文さまに戻ってきて欲しいと思う。私から行ってやろうか。すぐ終わるから待っていて、なんて言っていたけれど。
「おっ、犬走じゃなーい!」
だいぶふざけた調子の声がして視線を上げると、人ごみのなかでもずいぶんと目立つ格好をした影がこちらに手を振っていた。ようやく慣れてきた夜目をこらして暗がりをうかがえば、ここの神社の御神体、その片割れ、八坂神奈子そのひとだった。普段は見かけないおそらくは正装と思われる服装と、背後に装着した注連縄はいかにも「仰々しい」という表現がぴったりで、なのにまとっている空気はこうもフランクなのだから、周囲も呆気にとられている。
御神体がどうしてここにと思う間もなく、神様は危なっかしくフラフラとこちらへ近づいてきて、周りのカップルはさっと引いてゆく。まさか今さら知らない人のフリをするわけにもいかず、仕方なしに私ひとりで八坂様の相手をするハメになった。何かとお世話になっているらしい文さまならともかく、私ひとりで親しくしてもらった覚えはないのだけれど。顔を覚えられていたことからして、そもそも驚きだ。
目の前までやってきた山の神様に会釈すると、八坂様は陽気に話しかけてくる。
「なに、椛のところも二年参りってやつ? いやー、殊勝なことね。あっちにいた頃は、なかなかそんな手合いも減る一方でさー。こっちだと、何かあったら神頼みじゃない? 神社の株があがるのなんのって、信仰心が左うちわよ」
それで宴会ですか。
「アハハ、わかる、わかる? そうなのよ、さすがに暮れから呑んだくれるのはまずいって言ったんだけど、客がさ、ほらアンタんとこの上司なんだけどさ、せっかくの正月なんだからってうるさいのよ」
どうやらセコい大天狗の一角が神の御加護を得ようと買収のために涙ぐましい努力を払っているらしい。一杯機嫌らしいように見えて、この食えない神様はそんな下心などとっくに見抜いているに違いないのに。それにしても、御神体が境内で酔っ払っていていいのかな。
「いいのいいの! どうせこの時間に儀式やってるのは諏訪子なんだから。私は出番まで待ちぼうけ、ってわけ」
それとこれとは話が別な気もするのだけど、八坂様はそう言って長身をそらすとカカカと笑った。
「今日は楽しんで行ってよ。社務所に来たら恋みくじくらいどーんと大吉のやつあげるからさ」
配り歩いてでもいるのか、私にお守りをわたした八坂様はまたフラフラと人ごみのなかへ戻っていった。受け取ったお守りを裏返してみれば「安産祈願」なんて書いてあって、私は耳まで真っ赤になる。
「ごめん、おまたせ!」
幣拝殿のほうから文さまが駆けてきて、寒空の下で延々待たされた憎まれ口のひとつでもきいてやろうかと思うのだが、駆け寄ってきた文さまはそばに来るなりさっと手を引いて歩き出すものだから、私は盛大にたたらを踏んだ。いきなり手なんかつないだらドキドキするでしょうが。
「な、なんでしゅか」
「お参り、まだしてなかったでしょう。混んできたから早く済ませちゃお」
そう、そもそも初詣のために神社まで来たのだ。危うく本と末が転倒するところだった。たしかに増えてきたように思える人ごみのなか、急いで幣拝殿まで行き、二列で並ぶ。
賽銭箱に小銭を入れて、紐を振り回すと鈴ががらんがらんと間の抜けた音を立てた。
二礼二拍手一礼。
瞑目してお決まりのお祈りを済ませてから薄目で文さまのほうをうかがうと、我が主は長々と黙考しているようだった。
「椛は何を祈ったの?」
お参りを終えて、社務所で授与品を冷やかしていると、文さまがこれまたお決まりの質問を投げてきた。
「家内安全と、それから私と文さまの健康です――文さまは何をお祈りしたんですか」
八坂様が本当に大吉の恋みくじを渡してくるので、いよいよもって初詣が二の次に思われてくる。なんだかデートみたい、なんてトンチンカンな考えが頭に浮かんできて、私はかぶりを振った。蛇と蛙の置き物らしいお守りとにらめっこしてから、値札を見てさらにまゆをしかめていると、
「ひみつ」
舌をぺろっと出して、誤魔化してみせる文さまに私は虚をつかれる気分を味わう。
「なんですそれ」
「いーじゃん。ほら、そろそろ帰ろ」
なんだか慌てて身支度をはじめる珍妙な文さまが見ていて面白く、なんだか私は意地悪したくなってきた。
「そうだ、絵馬書きませんか」
文さまはなぜか今度も恥ずかしそうにすると、「私はいいや」
どうして。
「だって、もう書いちゃったから」
さっき、初詣の取材をしていたときか。どうせそんなところじゃないかと思っていたけれど、私は大仰にため息をついてみせる。
「なーんだ。つまんないのー」
そわそわと落ち着かない様子の文さまは放っておいて、私はさっきお祈りしたとおりのことを木の板に書いてゆく。
『今年も文さまと幸せに過ごせますように――犬走椛』
我ながらずいぶんと恥ずかしい文面だと思う。ちらと横目にうかがうと文さまは耳まで真っ赤になっている。いつものお返し、成功。
日付もとうに変わったところ、参拝客は境内に増える一方だった。参道のほうもずいぶんと混んできたように思う。
混雑で帰れなくなる前に下るとしよう。帰りに縁日で人形焼でも買うのもいいかもしれない。
と、いざ帰ろうという段になって文さまが引き止めてきた。
「ちょっと待って椛」
文さまをやりこめた満足感のまま、満面の笑みで「なんです」と聞き返す間もなく、文さまがうやうやしく頭を下げた。
「明けましておめでとうございます」
やり返された。
そう、そうなのだ。日付も変わり、年が明けていた。
一年の計は元旦にあり。行く年が去り行き、また今年も来る年がおいでになったわけ。
月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり。松竹たてて門ごとに、祝う今日こそ楽しけれ。
私も改まって頭を下げて、我が主に年始の挨拶とした。
「今年もよろしくお願いいたします」
――そして、無論これからも。
†
――第百二十八季、元旦
初詣を済ませた文と椛は仲良く自宅で寝こけている。
朝方には雪もやみ、山のあちこちで召集に備えて戦々恐々としていた当直の天狗たちは、静かになった空の様子を見て盛大に安堵の声を漏らしている。シフトの入れ替わりには、彼女たちも初詣に繰り出すのだ。
守矢神社に視線を移そう。
空が白みはじめ、元日の神社もいよいよ参拝の妖怪で千客万来となりつつあった。神楽殿では悪酔い気味でグロッキーな神奈子が早苗の祈祷を手伝っているし、仕事を終えた諏訪子がそれを見ながら物陰で笑い転げている。前日の鍋パでオールしたはたてたちは完全な断眠ハイではしゃいでおり、他のグループから白い目で見られている。
境内の一角には絵馬が大量に掛けられていて、それは今なお増え続けていた。そのなかの埋もれたひとつには、きっとこんな文言が書かれているに違いない。
『今年も椛と幸せに過ごせますように――射命丸文』
ようよう顔を出した初日の出は、実にゆっくりと幻想郷を照らしてゆく。
靄に霞んで寝ぼけ眼の太陽が、百鬼夜行蠢く最後の楽園を朱く染めていた。
今年も一年、あやもみが読めますように・・・ 人
ハレの日のはずなのにケの日なあやもみ、ごちそうさまでした。
個人的には二人で甘酒でも回してる描写なんかがあると猶良かった。
>>ほうぼうの体
ほうほうの体
何故この作品が伸びていないのか個人的に不思議でたまりません。