黒いカンフーシューズの先端が、じり、と早苗ににじり寄る。
長く広い前掛けが膝の向きを隠している。
敵は龍。弓を引くような構えの奥で、怜悧な双眸が隙なく輝いている。突き出された左手はあくまで自然。対して、引かれた右腕は必殺の一撃を放つべくぴたりと息を殺している。
対して早苗は右手が前。ガードを軽く下げている。拳は強く握らず、むしろ開く。
「ほう。截拳道(ジークンドー)。お若いのに感心ですね」と美鈴が呟いた。
早苗はだらりと下げた右腕を鞭のようにしならせジャブを放った。難なく左手の甲で逸らされる。すかさず体を入れ替えて懐に飛び込み、後ろ回し蹴りを放つ。限界まで開いたコンパスのような足がぎゅるりと回転。
「哈(ハ)ッ!」
気合と共に、美鈴の後頭部へ、早苗の踵が襲いかかる。
美鈴は慌てずに腰を落とし、早苗の背へ向けて右掌で寸剄を放った。
「啍(フン)!」
「おフッ」少々情けない声。軽い体が吹き飛ばされる。
地を転がる前に風を操ってくるりと体勢を整え、早苗は地面に着地。慣性を殺しきれず、土の上を数メートルも滑る。やっと停止。
「あっ、ズルい! いま風使いましたね!」
「画面端ってことで! 服を汚したら叱られるんです!」
紅美鈴。紅魔館の門番、兼、庭師。
弾幕ごっこでは精々が中堅、ともすれば下の上程度。
だが、接近戦による肉弾戦となれば、恐らくは――
「では逃げられないように固めるとしましょう。避けないと痛いですよっ!」
奇妙な足さばきと共に次々と繰り出される、美鈴の蹴撃。必死で避けているうち、気づけば壁際に追い詰められる。まるで手品か詰将棋だ。
早苗が逃げたい方向から攻撃が襲いかかってくる。サトリというわけでもあるまいに、美鈴は早苗をピン留めの蜘蛛のようにして逃がさない。
いささか身の程知らずな挑戦だったかもしれない。
美鈴の攻撃を必死でさばきながら、早苗は後悔し始めていた。
☆ # ☆ # ☆
うららかな春の陽気が降り注いでいる。
紅魔館の門番は幸せな気分で花を眺めていた。フランドールを寝かしつけ、庭の掃除も終えている。ついつい眠気に誘われて夢に旅立ってしまいそうな、そんな日和だ。
「おっと。いけないいけない。咲夜さんに叱られてしまいます」
軽い運動に、天地拳の第一系からを順番に演武する。頭の天辺から爪先に至るまで神経を自然と行き渡らせ、突き、蹴り、受けを歯切れよく表現していく。
それが終われば太極拳。緩やかな動作の全てに集中するのは難しい。素早い動作というのは、精神的には楽なものなのだ。
そんな時、空から巫女が降ってきた。巫女は緑色をしていた。
「こんにちは! あなたが紅美鈴さんですね!」愛想のいい巫女だった。
「ええと……ああ、妖怪の山の巫女様ですね。初めまして」
「はい、初めまして!」
早苗がぺこりと頭を下げると、美鈴はにっこりと笑顔になった。
「どこぞの紅白や白黒と違って、あなたは礼儀正しいんですね。ご案内しましょう。どなたにご用でしょうか?」
扉に手をかけた美鈴を、早苗は指を振ることで制止した。
「チ、チ、チ。あなたにご用があるのです!」
美鈴は目を丸くして振り返る。
「はあ……それはまた。どのような御用件でしょうか」
早苗は横ざまに握り拳を突き出した。
「聞くところによると、美鈴さんは武術の達人だとか」
「げっ」
「ひとつ、お手合わせを願えないものかと思いまして!」
「ああ、あなたもですか……」
美鈴は額を押さえてうつむく。
「も?」
「いえ、このところ、そういう方が多くてですね。藤原のなんとかさんとか、シンハンニンさんたちだとか、白黒魔とか、なんとか院さんとか……まともにやりあえたのは兎さんくらいのものでしたが」
「それ、全て勝ったんですか?」
「ええ、まあ。体術で負けてしまったら、私は何の取り柄も無くなっちゃうんで。頑張らないといけないんですよ」
「凄いですね……あ、それで、私のお相手はして頂けますか?」
「まあ、暇ですし、構いません……失礼ですが、武術の経験はおありですか?」
「秘密です! 言ってしまっては楽しみが減るでしょう?」
美鈴はフムンと言って早苗から距離を取り、拳と掌を合わせて一礼した。
「まあ、暇潰しと紅魔の名声向上ということで。お相手させて頂きます」
そして、構えた。
☆ # ☆ # ☆
ようやく早苗は美鈴ハウスから解放された。
早苗と拳を一合した美鈴は、困ったように眉尻を下げた。
龍マークの帽子を取り、指先でくるくると回す。
「フーム。身体能力はなかなかのものですが、体術については見かけ倒しのようですね。娯楽小説でも読みましたか?」
ギクリとする。電灯から下がる紐を相手にシャドーしていた、などと言ったら怒られそうだった。表情に出ていたらしく、美鈴は呆れたように肩をすくめた。
「なるほど……見よう見まねでそこまで動けるのは大したものですが、所詮は張り子の虎です。骨格がありません。あまり武術を舐めてはいけませんよ、お嬢さん」
「むっ。私のブルースへの愛は本物ですよ!」
外で暮らしていた頃は出演作のDVDを全て持っていたし、もちろん毎週欠かさず視聴していた。フリッカージャブをシャドーで放って見せる。止めは、チョッピングレフト。何かと混ざっている。
美鈴は早苗の威嚇を白眼視し、溜息をついてうなだれた。
「やれやれ……外の世界の人は唯物的ですね」
首を振り、面を上げる。
「では、見せてあげましょう。本物の截拳道というものを」
美鈴の構えが変貌した。先ほどとは一転して左を引き、右手をだらりと下げる。
ただ姿勢を変えたという、そんな単純な変化ではなかった。
僅かな身じろぎが、雄弁に物語る。骨格、筋肉、視点、体の隅々までが、全く別の生き物のように機能し始めたのだ。先ほどの美鈴を龍に例えるなら、今は虎ほども違う。
錬気法は体内の気を操ることにより、体術に対して肉体を最適化する。体術を使うのではなく、体術に身を委ねるのだ。
ぞくり、と早苗は全身に怖気が走るのを感じた。
「私は人ではありませんが、妖怪としてはだいぶ弱い部類に入ります。少々、長生きしている程度の弱い妖怪ですよ。だから安心してください」
美鈴の右腕が羽衣のように揺れた。前髪の奥に隠れた双眸が冷たく細められた。
「死にはしません」
心臓が脈打ち、恐怖が全身の血管をぐるりと巡った。
「疾ッ――」
引き足から早苗が鋭く前蹴りを放――
否。太腿に美鈴の足が添えられた。ぽんと軽く押されただけなのに、足が前へ出せなくなる。
美鈴の蹴り足がそのまま跳ね上がった。硬直した早苗の顎にすかさず背足が付きつけられる。寸止めならぬ、分止め。おろしたての靴の香りがした。
「截とは制止のこと。相手の攻撃は出鼻に潰す」美鈴が足を引く。
「まだっ――哈(ハ)ァッ!」
拳による連撃は、まるで数秒前から予見されているかのように、予備動作の段階で止められてしまう。美鈴は早苗には焦点を合わせず、どこか遠くを見ていた。
「遠山(えんざん)の目付(めつけ)にて、先の先を制す」
全く当たらない。ならばとフェイントを加えて幻惑し、相手の硬直を誘って右拳を突き出す。
「もらった――」
確かに美鈴の頬に、拳が触れた。だが布を殴ったように手ごたえが無い。当たった瞬間に首を捻られたのだ。美鈴はその場でくるりと舞い、早苗の髪を指で梳いた。
「相手の力に逆らわず、流れに身を委ねる――おお、サラサラですね」
踊っていた美鈴が、霞みのように歪んだ。高速で踏まれた反閇による、擬似的な縮地。見えているのに透明な存在のようだった。するりと懐に入られ、ぺたりと頬を触られる。あまつさえさらりと撫でられる。女性を口説くように。
「くっ――」
豊満な胸の中心を掌底で突き飛ばす。距離が離れた。早苗は腋を締め、最小限の動作で正拳突きを繰り出す。美鈴も踏ん張り、全く同じタイミングで拳を突き出した。
「あるいは相討ちの機にて、己が拳のみを当てる」
双方が氷像のように静止した。
ひたり、と鼻先と唇に拳骨が触れていた。早苗の拳は僅かに外れ、空を切っている。拳の到達はほとんど同時であったはずなのに、まるで早苗の方から拳を当てることを嫌がったかのようだった。
早苗は得体の知れないものを感じた。怖気を震いつつバック転して距離を取る。駄賃にサマーソルトを放ったが、これは顎を引くだけで避けられた。
美鈴は早苗の唇に触れた拳を引き、キスをして早苗に投げた。
「……どうして、私のグーが当たってないんですか?」
「簡単なカラクリですよ。あなたのように拳が横を向くと、肘も横を向きます。双方がこれで打ち合えば、もちろん相討ちですね」
美鈴はショートフックを軽く振る。ぼっ、と炎が燃えるような音がした。拳を戻す動作が速すぎて見えなかった。まともに食らえば首が飛ぶのではなかろうか。
「一方、拳を縦にして突き出せば、肘は下を向き、相手の拳を打ち落としつつ直拳が当たる」
両腕をクロスさせて早苗に見せる。
「技や術とは、つまるところ、力無き者が戦うための戦闘論理です。巨象の急所に針を撃ちこむのであれば、針を横にしてはいけない。あなたは己の弱さをまず知らねばなりません」
「私の、弱さ、ですか?」
「ええ。武術は最終的に、自己認識へと行き着きます。例えば……ショートレンジは完全に私の間合いです。そこで戦ってはいけません」
「……なら、密着すればまだ――っ!」
早苗は地を蹴り、美鈴に肉薄した。
「おや、接手(チーサオ)ですか。いいですねえ、懐かしい」
両者がお互いの前腕をがつりと交差させた。まさにクロスレンジ。押し、引き、払い、掴むことで相手の隙を作り出し、急所に一撃を叩きこむ。詠春拳の創造的な形式だ。
美鈴は孫の顔でも見たかのように笑顔だった。ニコニコとしたまま、肝臓、脾臓、鳩尾、と的確に急所を狙って抜き手や手刀、裏拳を放ってくる。
その速さたるや、実に一秒間に五回。ヒトの反応速度の限界である。
早苗は反射神経をフルに賦活して攻撃を叩き落とし、あるいは押し流して反撃を試みる。しかし美鈴の腕はいつの間にか戻り、早苗の攻撃を易々と払い、受け流すのだった。
「このおっ!」
「不正解です」
いつしか早苗は、己の腕に美鈴の腕が接着されているかのような錯覚を覚えた。その意味するところを想起してぞっとした。がむしゃらに攻撃を繰り出そうとしても、美鈴の腕は刹那たりとも離れなかった。全てが美鈴の掌(たなごころ)の上で起こっている。
「どうしました? 先ほどから千日手になっているんですが、気づいていますか?」同じパターンの繰り返しを誘導されている。揶揄ではなく、忠告だった。
「くっ……」
早苗が呻いたのを皮切りに、美鈴が攻撃のリズムを変えた。
否。早苗が変えざるを得なかったのだ。トン、トン、トン、と攻撃を防がれるたびに致命的に不利な体勢になり、反撃を逃れるために後退する。攻防のリズムが半テンポずつ遅れ、早苗は冷静な判断力さえも奪われてひたすら自動的に攻防を続けた。
背が壁に触れた。美鈴が繰り出した右の縦拳を左手で内に払う。脇腹に襲いかかる裏拳を右手の回し受けで弾く。両手がちょうどクロスする形になる。
「はい、これで詰みです」
美鈴の指が早苗の左肘をちょんと押さえた。それだけで早苗は磔にされたように身動きが取れなくなった。
「へえっ!? な、なんでっ」
人体構造は複雑であるが故に、ほんのささいな刺激によって異常を生ずる。一般に合気として伝わる理念だが、真の合気は世から失われて久しい。
「おやおやあ、よくよく見ると可愛い顔してますねえ、風祝の巫女様」
ずうっ、と美鈴の艶やかな唇が迫る。
「食べちゃおっか、なーあ?」
熱い吐息が早苗の唇に触れる。
欲情の視線が早苗の瞳を縛りつける。
ぺろり、と鼻の頭を舐められた。
「ひっ……」
美鈴が指を離した。
腰が抜け、早苗は壁面をずり落ちた。
「あっはっはっは! か、可愛いんですねえ」
美鈴は腹を押さえてケラケラと笑う。
座りこんだ早苗の隣に立ち、壁に寄り掛かる。
「嘘、嘘ですよ。巫女様の貞操なんて奪ってしまったら、後で山の神様にどう祟られるか分かったものじゃありませんからね」
結局、最初から最後まで、美鈴は本気など出していなかった。
早苗は長々と息をつき、その場で膝を抱えた。
「はあああああ……手加減された、なんて次元ですらありませんでしたね……勝てるつもりもありませんでしたが、プチへこみます」
「いえいえ、そんなことは。筋は良い。しかし、何事も、付け焼刃はよくありません。地道に稽古を積みましょう」
春のぼんやりとした青空を見上げる。
「稽古、ですかあ」
「ええ。稽古とはいにしえをかんがえる、という意味です。体術に限らず、古人の理念を学び、己の礎としなければ、何者にもなれませんよ」
「バレバレでしたか……」
「自分が弱いことは私が一番良く分かっています。弾幕ごっこなら、私なんてあなたの足元にも及ばないでしょう。そんな私にあなたがわざわざ挑むのですから、そういうことなのだろうと思っただけ」
「すみません……どうにも未熟者でして」
「どういたしまして、人間さん」
二人して、ぼんやりと景色を眺める。
湖の向こうからホオジロの美しい歌声が聞こえてきた。一筆啓上仕候、一筆啓上仕候。
夜にはフクロウが、五郎助奉公、ボロ着て奉公、と歌う。
湖面の水気を吸い、若葉の緑は馥郁と薫る。
遠くに見える山々の稜線は、彫りが深い。
霧の奥に聳える洋館を除けば、まさに日本の原風景だ。
初めて目の当たりにした時は、感動で心が震えた。
今は底の知れなさに心が縮む。
「修行の一環として武術をやってみようと思ったのはいいんですが、神奈子様も諏訪子様も、ガチンコの殴り合いしかしないので、何を稽古したらいいのか分からなかったんですよね……」
「そうですねえ……まずはCQC、つまり軍隊格闘を学ばれることをお勧めします。あれはどのような者でも一定の実力に達することができる、とても優秀な技術体系ですから。まずは基本が大事ですよ」
「軍隊なんて幻想郷にあるんですか?」
「軍隊はありませんが、元軍人なら永遠亭に。教えてもらえるかどうかは分かりませんが……あとはそうですね、相撲なんてどうですか。古より伝わるれっきとした格闘術と聞いています。日本の武術についてはあまり詳しくないのですが、確か、空中戦が醍醐味なんでしたっけ」
「それ絶対、何かが間違って伝わってます……美鈴さんに――」
美鈴は目を閉じ、掌で早苗の言を制した。
「言っておきますが、私は弟子は取りませんよ。未熟者ですし、そんな暇はありませんから」
「え、暇つぶしって……」
「私が教えるとなると、一生を懸けてもらうことになりますので」
それは風祝としても神としても困る。
「うーん……私はブルースが良いんですよ……カッコいいし」
「あなたはあなたでいればいいのです。拘りは截拳道の理念に反しますよ。截拳道とは実戦武術の呼称であり、同時に理念の呼称でもあります。形に縛られず、自己を表現し、相手を倒すことが目的ですよ」
「例えばコブラとかですかね」
「サイコガンの方も截拳道を? ……しかし、截拳道とて形が全く無いわけではありません。形は型であり、すなわちそれこそが理念です。理念を知らずに武術は修められませんよ。
そして、理念というものは書物を読んだり形を見るだけでは得られないのです。門前の山彦妖怪は習わぬ経を詠みますが、意味までは理解しないのと同じように」
「うぐぅ」
映画を思い出して、少し身体を動かして強くなった気になっていた早苗にとっては耳の痛い話であった。
「己が凡俗と知るならば型を知れ。形を知らない術なんて、ただの形無しです。型があるから形を破れるんですよ」
「うーん……でも霊夢さんは……」
「アレと比較してはいけません。あれは半分くらい人間やめていますから」
「はあ……フィールへの道は遠いですね……」
早苗の進むべき道は未だ、春の空のように曖昧模糊としていた。
長く広い前掛けが膝の向きを隠している。
敵は龍。弓を引くような構えの奥で、怜悧な双眸が隙なく輝いている。突き出された左手はあくまで自然。対して、引かれた右腕は必殺の一撃を放つべくぴたりと息を殺している。
対して早苗は右手が前。ガードを軽く下げている。拳は強く握らず、むしろ開く。
「ほう。截拳道(ジークンドー)。お若いのに感心ですね」と美鈴が呟いた。
早苗はだらりと下げた右腕を鞭のようにしならせジャブを放った。難なく左手の甲で逸らされる。すかさず体を入れ替えて懐に飛び込み、後ろ回し蹴りを放つ。限界まで開いたコンパスのような足がぎゅるりと回転。
「哈(ハ)ッ!」
気合と共に、美鈴の後頭部へ、早苗の踵が襲いかかる。
美鈴は慌てずに腰を落とし、早苗の背へ向けて右掌で寸剄を放った。
「啍(フン)!」
「おフッ」少々情けない声。軽い体が吹き飛ばされる。
地を転がる前に風を操ってくるりと体勢を整え、早苗は地面に着地。慣性を殺しきれず、土の上を数メートルも滑る。やっと停止。
「あっ、ズルい! いま風使いましたね!」
「画面端ってことで! 服を汚したら叱られるんです!」
紅美鈴。紅魔館の門番、兼、庭師。
弾幕ごっこでは精々が中堅、ともすれば下の上程度。
だが、接近戦による肉弾戦となれば、恐らくは――
「では逃げられないように固めるとしましょう。避けないと痛いですよっ!」
奇妙な足さばきと共に次々と繰り出される、美鈴の蹴撃。必死で避けているうち、気づけば壁際に追い詰められる。まるで手品か詰将棋だ。
早苗が逃げたい方向から攻撃が襲いかかってくる。サトリというわけでもあるまいに、美鈴は早苗をピン留めの蜘蛛のようにして逃がさない。
いささか身の程知らずな挑戦だったかもしれない。
美鈴の攻撃を必死でさばきながら、早苗は後悔し始めていた。
☆ # ☆ # ☆
うららかな春の陽気が降り注いでいる。
紅魔館の門番は幸せな気分で花を眺めていた。フランドールを寝かしつけ、庭の掃除も終えている。ついつい眠気に誘われて夢に旅立ってしまいそうな、そんな日和だ。
「おっと。いけないいけない。咲夜さんに叱られてしまいます」
軽い運動に、天地拳の第一系からを順番に演武する。頭の天辺から爪先に至るまで神経を自然と行き渡らせ、突き、蹴り、受けを歯切れよく表現していく。
それが終われば太極拳。緩やかな動作の全てに集中するのは難しい。素早い動作というのは、精神的には楽なものなのだ。
そんな時、空から巫女が降ってきた。巫女は緑色をしていた。
「こんにちは! あなたが紅美鈴さんですね!」愛想のいい巫女だった。
「ええと……ああ、妖怪の山の巫女様ですね。初めまして」
「はい、初めまして!」
早苗がぺこりと頭を下げると、美鈴はにっこりと笑顔になった。
「どこぞの紅白や白黒と違って、あなたは礼儀正しいんですね。ご案内しましょう。どなたにご用でしょうか?」
扉に手をかけた美鈴を、早苗は指を振ることで制止した。
「チ、チ、チ。あなたにご用があるのです!」
美鈴は目を丸くして振り返る。
「はあ……それはまた。どのような御用件でしょうか」
早苗は横ざまに握り拳を突き出した。
「聞くところによると、美鈴さんは武術の達人だとか」
「げっ」
「ひとつ、お手合わせを願えないものかと思いまして!」
「ああ、あなたもですか……」
美鈴は額を押さえてうつむく。
「も?」
「いえ、このところ、そういう方が多くてですね。藤原のなんとかさんとか、シンハンニンさんたちだとか、白黒魔とか、なんとか院さんとか……まともにやりあえたのは兎さんくらいのものでしたが」
「それ、全て勝ったんですか?」
「ええ、まあ。体術で負けてしまったら、私は何の取り柄も無くなっちゃうんで。頑張らないといけないんですよ」
「凄いですね……あ、それで、私のお相手はして頂けますか?」
「まあ、暇ですし、構いません……失礼ですが、武術の経験はおありですか?」
「秘密です! 言ってしまっては楽しみが減るでしょう?」
美鈴はフムンと言って早苗から距離を取り、拳と掌を合わせて一礼した。
「まあ、暇潰しと紅魔の名声向上ということで。お相手させて頂きます」
そして、構えた。
☆ # ☆ # ☆
ようやく早苗は美鈴ハウスから解放された。
早苗と拳を一合した美鈴は、困ったように眉尻を下げた。
龍マークの帽子を取り、指先でくるくると回す。
「フーム。身体能力はなかなかのものですが、体術については見かけ倒しのようですね。娯楽小説でも読みましたか?」
ギクリとする。電灯から下がる紐を相手にシャドーしていた、などと言ったら怒られそうだった。表情に出ていたらしく、美鈴は呆れたように肩をすくめた。
「なるほど……見よう見まねでそこまで動けるのは大したものですが、所詮は張り子の虎です。骨格がありません。あまり武術を舐めてはいけませんよ、お嬢さん」
「むっ。私のブルースへの愛は本物ですよ!」
外で暮らしていた頃は出演作のDVDを全て持っていたし、もちろん毎週欠かさず視聴していた。フリッカージャブをシャドーで放って見せる。止めは、チョッピングレフト。何かと混ざっている。
美鈴は早苗の威嚇を白眼視し、溜息をついてうなだれた。
「やれやれ……外の世界の人は唯物的ですね」
首を振り、面を上げる。
「では、見せてあげましょう。本物の截拳道というものを」
美鈴の構えが変貌した。先ほどとは一転して左を引き、右手をだらりと下げる。
ただ姿勢を変えたという、そんな単純な変化ではなかった。
僅かな身じろぎが、雄弁に物語る。骨格、筋肉、視点、体の隅々までが、全く別の生き物のように機能し始めたのだ。先ほどの美鈴を龍に例えるなら、今は虎ほども違う。
錬気法は体内の気を操ることにより、体術に対して肉体を最適化する。体術を使うのではなく、体術に身を委ねるのだ。
ぞくり、と早苗は全身に怖気が走るのを感じた。
「私は人ではありませんが、妖怪としてはだいぶ弱い部類に入ります。少々、長生きしている程度の弱い妖怪ですよ。だから安心してください」
美鈴の右腕が羽衣のように揺れた。前髪の奥に隠れた双眸が冷たく細められた。
「死にはしません」
心臓が脈打ち、恐怖が全身の血管をぐるりと巡った。
「疾ッ――」
引き足から早苗が鋭く前蹴りを放――
否。太腿に美鈴の足が添えられた。ぽんと軽く押されただけなのに、足が前へ出せなくなる。
美鈴の蹴り足がそのまま跳ね上がった。硬直した早苗の顎にすかさず背足が付きつけられる。寸止めならぬ、分止め。おろしたての靴の香りがした。
「截とは制止のこと。相手の攻撃は出鼻に潰す」美鈴が足を引く。
「まだっ――哈(ハ)ァッ!」
拳による連撃は、まるで数秒前から予見されているかのように、予備動作の段階で止められてしまう。美鈴は早苗には焦点を合わせず、どこか遠くを見ていた。
「遠山(えんざん)の目付(めつけ)にて、先の先を制す」
全く当たらない。ならばとフェイントを加えて幻惑し、相手の硬直を誘って右拳を突き出す。
「もらった――」
確かに美鈴の頬に、拳が触れた。だが布を殴ったように手ごたえが無い。当たった瞬間に首を捻られたのだ。美鈴はその場でくるりと舞い、早苗の髪を指で梳いた。
「相手の力に逆らわず、流れに身を委ねる――おお、サラサラですね」
踊っていた美鈴が、霞みのように歪んだ。高速で踏まれた反閇による、擬似的な縮地。見えているのに透明な存在のようだった。するりと懐に入られ、ぺたりと頬を触られる。あまつさえさらりと撫でられる。女性を口説くように。
「くっ――」
豊満な胸の中心を掌底で突き飛ばす。距離が離れた。早苗は腋を締め、最小限の動作で正拳突きを繰り出す。美鈴も踏ん張り、全く同じタイミングで拳を突き出した。
「あるいは相討ちの機にて、己が拳のみを当てる」
双方が氷像のように静止した。
ひたり、と鼻先と唇に拳骨が触れていた。早苗の拳は僅かに外れ、空を切っている。拳の到達はほとんど同時であったはずなのに、まるで早苗の方から拳を当てることを嫌がったかのようだった。
早苗は得体の知れないものを感じた。怖気を震いつつバック転して距離を取る。駄賃にサマーソルトを放ったが、これは顎を引くだけで避けられた。
美鈴は早苗の唇に触れた拳を引き、キスをして早苗に投げた。
「……どうして、私のグーが当たってないんですか?」
「簡単なカラクリですよ。あなたのように拳が横を向くと、肘も横を向きます。双方がこれで打ち合えば、もちろん相討ちですね」
美鈴はショートフックを軽く振る。ぼっ、と炎が燃えるような音がした。拳を戻す動作が速すぎて見えなかった。まともに食らえば首が飛ぶのではなかろうか。
「一方、拳を縦にして突き出せば、肘は下を向き、相手の拳を打ち落としつつ直拳が当たる」
両腕をクロスさせて早苗に見せる。
「技や術とは、つまるところ、力無き者が戦うための戦闘論理です。巨象の急所に針を撃ちこむのであれば、針を横にしてはいけない。あなたは己の弱さをまず知らねばなりません」
「私の、弱さ、ですか?」
「ええ。武術は最終的に、自己認識へと行き着きます。例えば……ショートレンジは完全に私の間合いです。そこで戦ってはいけません」
「……なら、密着すればまだ――っ!」
早苗は地を蹴り、美鈴に肉薄した。
「おや、接手(チーサオ)ですか。いいですねえ、懐かしい」
両者がお互いの前腕をがつりと交差させた。まさにクロスレンジ。押し、引き、払い、掴むことで相手の隙を作り出し、急所に一撃を叩きこむ。詠春拳の創造的な形式だ。
美鈴は孫の顔でも見たかのように笑顔だった。ニコニコとしたまま、肝臓、脾臓、鳩尾、と的確に急所を狙って抜き手や手刀、裏拳を放ってくる。
その速さたるや、実に一秒間に五回。ヒトの反応速度の限界である。
早苗は反射神経をフルに賦活して攻撃を叩き落とし、あるいは押し流して反撃を試みる。しかし美鈴の腕はいつの間にか戻り、早苗の攻撃を易々と払い、受け流すのだった。
「このおっ!」
「不正解です」
いつしか早苗は、己の腕に美鈴の腕が接着されているかのような錯覚を覚えた。その意味するところを想起してぞっとした。がむしゃらに攻撃を繰り出そうとしても、美鈴の腕は刹那たりとも離れなかった。全てが美鈴の掌(たなごころ)の上で起こっている。
「どうしました? 先ほどから千日手になっているんですが、気づいていますか?」同じパターンの繰り返しを誘導されている。揶揄ではなく、忠告だった。
「くっ……」
早苗が呻いたのを皮切りに、美鈴が攻撃のリズムを変えた。
否。早苗が変えざるを得なかったのだ。トン、トン、トン、と攻撃を防がれるたびに致命的に不利な体勢になり、反撃を逃れるために後退する。攻防のリズムが半テンポずつ遅れ、早苗は冷静な判断力さえも奪われてひたすら自動的に攻防を続けた。
背が壁に触れた。美鈴が繰り出した右の縦拳を左手で内に払う。脇腹に襲いかかる裏拳を右手の回し受けで弾く。両手がちょうどクロスする形になる。
「はい、これで詰みです」
美鈴の指が早苗の左肘をちょんと押さえた。それだけで早苗は磔にされたように身動きが取れなくなった。
「へえっ!? な、なんでっ」
人体構造は複雑であるが故に、ほんのささいな刺激によって異常を生ずる。一般に合気として伝わる理念だが、真の合気は世から失われて久しい。
「おやおやあ、よくよく見ると可愛い顔してますねえ、風祝の巫女様」
ずうっ、と美鈴の艶やかな唇が迫る。
「食べちゃおっか、なーあ?」
熱い吐息が早苗の唇に触れる。
欲情の視線が早苗の瞳を縛りつける。
ぺろり、と鼻の頭を舐められた。
「ひっ……」
美鈴が指を離した。
腰が抜け、早苗は壁面をずり落ちた。
「あっはっはっは! か、可愛いんですねえ」
美鈴は腹を押さえてケラケラと笑う。
座りこんだ早苗の隣に立ち、壁に寄り掛かる。
「嘘、嘘ですよ。巫女様の貞操なんて奪ってしまったら、後で山の神様にどう祟られるか分かったものじゃありませんからね」
結局、最初から最後まで、美鈴は本気など出していなかった。
早苗は長々と息をつき、その場で膝を抱えた。
「はあああああ……手加減された、なんて次元ですらありませんでしたね……勝てるつもりもありませんでしたが、プチへこみます」
「いえいえ、そんなことは。筋は良い。しかし、何事も、付け焼刃はよくありません。地道に稽古を積みましょう」
春のぼんやりとした青空を見上げる。
「稽古、ですかあ」
「ええ。稽古とはいにしえをかんがえる、という意味です。体術に限らず、古人の理念を学び、己の礎としなければ、何者にもなれませんよ」
「バレバレでしたか……」
「自分が弱いことは私が一番良く分かっています。弾幕ごっこなら、私なんてあなたの足元にも及ばないでしょう。そんな私にあなたがわざわざ挑むのですから、そういうことなのだろうと思っただけ」
「すみません……どうにも未熟者でして」
「どういたしまして、人間さん」
二人して、ぼんやりと景色を眺める。
湖の向こうからホオジロの美しい歌声が聞こえてきた。一筆啓上仕候、一筆啓上仕候。
夜にはフクロウが、五郎助奉公、ボロ着て奉公、と歌う。
湖面の水気を吸い、若葉の緑は馥郁と薫る。
遠くに見える山々の稜線は、彫りが深い。
霧の奥に聳える洋館を除けば、まさに日本の原風景だ。
初めて目の当たりにした時は、感動で心が震えた。
今は底の知れなさに心が縮む。
「修行の一環として武術をやってみようと思ったのはいいんですが、神奈子様も諏訪子様も、ガチンコの殴り合いしかしないので、何を稽古したらいいのか分からなかったんですよね……」
「そうですねえ……まずはCQC、つまり軍隊格闘を学ばれることをお勧めします。あれはどのような者でも一定の実力に達することができる、とても優秀な技術体系ですから。まずは基本が大事ですよ」
「軍隊なんて幻想郷にあるんですか?」
「軍隊はありませんが、元軍人なら永遠亭に。教えてもらえるかどうかは分かりませんが……あとはそうですね、相撲なんてどうですか。古より伝わるれっきとした格闘術と聞いています。日本の武術についてはあまり詳しくないのですが、確か、空中戦が醍醐味なんでしたっけ」
「それ絶対、何かが間違って伝わってます……美鈴さんに――」
美鈴は目を閉じ、掌で早苗の言を制した。
「言っておきますが、私は弟子は取りませんよ。未熟者ですし、そんな暇はありませんから」
「え、暇つぶしって……」
「私が教えるとなると、一生を懸けてもらうことになりますので」
それは風祝としても神としても困る。
「うーん……私はブルースが良いんですよ……カッコいいし」
「あなたはあなたでいればいいのです。拘りは截拳道の理念に反しますよ。截拳道とは実戦武術の呼称であり、同時に理念の呼称でもあります。形に縛られず、自己を表現し、相手を倒すことが目的ですよ」
「例えばコブラとかですかね」
「サイコガンの方も截拳道を? ……しかし、截拳道とて形が全く無いわけではありません。形は型であり、すなわちそれこそが理念です。理念を知らずに武術は修められませんよ。
そして、理念というものは書物を読んだり形を見るだけでは得られないのです。門前の山彦妖怪は習わぬ経を詠みますが、意味までは理解しないのと同じように」
「うぐぅ」
映画を思い出して、少し身体を動かして強くなった気になっていた早苗にとっては耳の痛い話であった。
「己が凡俗と知るならば型を知れ。形を知らない術なんて、ただの形無しです。型があるから形を破れるんですよ」
「うーん……でも霊夢さんは……」
「アレと比較してはいけません。あれは半分くらい人間やめていますから」
「はあ……フィールへの道は遠いですね……」
早苗の進むべき道は未だ、春の空のように曖昧模糊としていた。
年の瀬に素敵な美鈴をありがとう
あの動画は良かった
>>2さん イケめーりんさんマジイケメン
>>7さん その昔、映画館から出てきた男どもはみんな強面になり肩で風を切って歩いていた
>>8さん 魔理沙はノーカンだった
>>11さん にとりはSUMOUやってるからな
さりげなくコブラを知ってる美鈴に吹いた