滝も凍る睦月半ばの午後に、早苗は博麗神社を訪ねた。
元旦は、外の世界とは勝手が違う初詣に四苦八苦した。秋口に幻想郷に腰を落ち着けて以来、氏子が急に増えたのだが、その氏子の長がこぞって夜明かしに来るのだ。無論、二柱の神と宴会をするのである。一応は神であるというのに、早苗は給仕のようにくるくると働かねばならなかった。妖怪の長ばかりだから、騒ぐにしても年長者の威厳がある。大天狗などはことさらだった。実力と権威はあれど、見かけ通りの歳月しか経ていない早苗は緊張のし通しだった。
なぜか射命丸文も来ていたが、ひどくつまらなそうにしており、彼女が早苗に声をかけることはなかった。
閑話休題。
鳥居をくぐる。
境内は閑散としていた。鳥の声も聞こえなかったが、掃除は毎日なされているようだ。
表から声をかけても返事が無かった。裏手に回る。
裏庭に面した縁側は、雨戸が閉じられていなかった。
障子を小さく開け、中を覗く。
「なによ」
いた。
「あのう、すみません。今、いいですか?」
博麗の巫女は掘り炬燵に顎を乗せたまま、横目で早苗を見やった。いつもの紅白ではなく、白い襦袢の上から紺色をした綿入れのどてらを羽織っている。髪のリボンも無い。
「障子、寒いからとっとと閉めて」
音を立てないよう障子を閉め、霊夢の正面に回って炬燵を指差す。炬燵に両手まで突っ込んだ霊夢は気だるげに頷いた。早苗はいそいそと足を差し入れる。ほどよく温い。
「失礼します……私、掘り炬燵に入ったの、初めてです」
「火傷とかしないでよ……それよりあんた、その格好で寒くなかったの」
早苗は脇を露出させた、いつもの服装だった。
「大丈夫ですよ。なにせ私、風祝ですから。土蔵に夏の熱気を溜めてあるんです。冬は少しずつそれを使うんですよ」
「神徳の無駄遣いじゃないの、それ……でも便利ね。改宗しようかしら」
「間に合ってます」
「それは残念。白湯でいい?」
「はあ、構いませんけど……」
霊夢は足を炬燵に残したまま畳に寝そべり、火鉢に手を伸ばした。鉄瓶をかけてある。その下には水を張ったたらいに布巾がかけてある。霊夢は濡れ布巾を取り、鉄瓶に指をかけた。
「んっ……おっとと」
鉄瓶が傾く。早苗が慌てて炬燵を抜けた。
「あああ、危ないですから! 自分で取ります!」
「そ。客人なのに悪いわね。あ、湯呑はそこの戸棚にあるから」
ならば白湯など取らせるなという話である。早苗は布巾を受け取り、慎重に鉄瓶の湯を湯呑に注ぐ。対面に戻ると、霊夢は最初に見た時と同じ姿勢に戻っていた。
「あの、厚かましいとは思いますが、お茶とか無いんですか?」
「あるけど、厠が近くなるでしょ」
「どれだけ炬燵から離れたくないんですか……あ、さては私の声、聞こえてましたね?」
「どうでもいいことなら帰るし、大事な用事ならこっちに回ってくるでしょ。手間が省けて楽なの。しばらく動きたくないのよ」
早苗は呆れ果てて溜息をついた。白湯をすする。
ただの湯だというのに旨い。何よりカルキの臭いがしない。水が旨いと感じるのは、つまり舌と鼻が飽きているということだと諏訪子が言っていたことを早苗は思いだした。目を閉じると青や緑の光が見えるように、無味を味わおうとする作用として感覚が反転するのだそうだ。なお、もはや感覚が壊れている場合はこの限りではない。
湯面に視線を落とし、どう話を切り出したものかと早苗は逡巡する。
うろんげにしていた霊夢が、やがて面倒臭そうに口を開いた。
「で、何?」
「はい……ええと、ですね」
気くばりに感謝しつつ咳払いする。
「んっん……あ、他に誰もいませんよね?」
「萃香はどっかに遊びに行ったわよ。早く用件だけ言いなさい」
「はい。少しの間だけ、外の世界に戻りたいのです」
案の定、霊夢は露骨に嫌そうな顔をした。幻想郷の仕組みについては、早苗も神奈子から聞き及んでいる。博麗大結界、八雲紫、博麗の巫女。それでも早苗には、無理を通したいだけの切実な理由があった。
「故郷が寂しくなったのです?」
「あっ、いいえ! そういうわけでは、なくてですね」
口調の変化を茶化されたことにも気づかなかった。
悩む。
上手く伝わり、自身も恥ずかしくないような婉曲的な表現はないものか。
百数えても言葉が見つからなかった。
結局、ありのまま言うしかなかった。
「その……霊夢さんって、生理の時にはどうしているんですか?」
霊夢は眉間にしわを刻み、早苗をじろりとねめつけた。
「……あんたやっぱり馬鹿なの?」
「へ?」
「見ての通り、うちには整理するほどの物なんて無いわよ。蔵の掃除くらいはするけどね」
「そうではなくて! ええと、そう月経です」
霊夢の眉根がいっそう強く寄る。
「月桂? 優曇華のこと?」月に生えている木のことである。
「竹林の月兎さんが何故この流れで!?」
「いや、あの兎には院が付くから……じゃあ何なのよ」
「ですから、女の子の日ですよ! 月に一度来るアレ――あっつうい!?」
慌てて右足を引き抜く。興奮するあまり、炬燵の炭に母指が触れたらしい。白足袋の先が茶に焦げてしまった。
「ああ、なんだ、月の障りか」
「こちらの勝手が分からなくて困ってるんです……あ、来てます?」
「来てるわよ」どういう意味だ、と言外に。「あんたのとこの神様に訊けばいいじゃない。年長者でしょ」
「なんとなく訊きづらいんですよ……お二人のせいで慣れないことをさせている、なんて思わせたくないんです。加えて、お二人とも受肉こそしていますけど、そういう都合の悪いことは忘れて現界していますし」人の身を持つ現人神の悩ましいところである。
「あんた、自分の神をどれだけ信用してないのよ……」
「失礼な。信頼はしてます。でも、あの時代の方法となると……」
「ああ……小屋に籠って藁の上か……それは嫌すぎるわね……」
二人して鬱々となることしばし。
「でも、今までに何回かあったはずでしょ。どうしていたのよ」
「外から持ってきたナプキンを使っていたんですけれど、ついに切れてしまいまして……」
「待ちなさい、外じゃそんなもの使うの!? ナプキンって紅魔館で食事の時に――」
「違います」
詳しく説明した。
霊夢は目を丸くして早苗の話を聞いた。
「へえ、そんなに便利なものがあるんだ。欲しいわね」
「じゃあ――」早苗の顔がぱっと輝く。
「でもダメよ」ぴしゃりと言われてしまった。「必然的に外から流れ着くものについては、幻想郷は分け隔てなく受け入れるわ。でもホイホイと内から出られるのは困るのよ。それをしていいのは紫だけ」
「そこをどうにか……こればかりは……私、多いんですよお……」
「知らんがな。使い捨ての消耗品なんでしょ。還暦迎えるまで定期的に外に出るつもり?」
「それは、そうですけど……せめて慣れるまでは……」
「そう言う奴は決まっていつまでも慣れないものよ。とっとと慣れなさい」
全くの正論に、早苗は涙目になりながら押し黙る。現人神といえど、一人の少女である。
霊夢は長々と溜息をつき、髪を掻いた。
「こっちだと月帯と脱脂綿を使うのよ。上手いやり方、教えてあげるから」
「ご迷惑をおかけします……」
「気にしなくていいわよ。どうせそろそろ交換しなきゃならなかったからね」
どうやらそれで機嫌が斜めだったらしい。
☆ # ☆ # ☆
早苗も試しに着用してみた。
「なんだか、ごわごわしますね……」
「あんたみたいに多い人はこまめに替えないと染みるのが困りものなのよね……やっぱりナプキンとかいうの、欲しいわね。便利すぎるわ」
「河童の皆さんに、薄くて柔らかくて水分が染み出さない素材を作ってもらいましょう」
「まあ、それはそれで蒸れそうだけど……」
一旦部屋の換気をして、二人は再び炬燵に戻った。室内で長く火を焚くと毒気が溜まるというのは幻想郷でも経験則として知られているようだった。
二人して、白湯をゆっくりと飲む。痛みがきつい時には腹を温め、軽くさすると良い。冷やすのは厳禁だ。霊夢が両手を突っ込んでいるのは、寒いこともあるが、重いのだろう。
「そういえば。霊夢さんは、将来はどうなさるんですか?」
「何よ、藪から棒に」
早苗は湯呑で口元を隠しつつ首を縮める。
「そのう……生理のことを考えていたら、子供がどうのというところまで行きついてしまいまして。うちは一子相伝ですけど世襲ではありませんので、里から養子を取ることになると思うんですね。
それに私は灰になった後も神を続けると思いますから、殿方と結婚することはないと思うんですけれど、霊夢さんのところはどうなのかなって」
「なんで火葬前提なのか分かんないけど……うちも世襲じゃないから同じようなもんよ。結婚もしない。そのうち紫がどうにかすると思うわ」
「た、他力本願過ぎる……あなた本当にここの巫女なんですか?」
「見て分からないの? 通力が足りてないんじゃない?」
霊夢は軽い冗談のつもりで言ったようだが、うぐ、と早苗は情けないうめき声を上げた。湯呑の縁を噛んで「ううううう……」と唸る。
「ちょっと、何よ。どうしたの」
「……正直なところ、自信ないんですよね。ろくに修行もしていない格下のはずの同業者に負けるし」
「おい」
「外じゃ奇跡扱いされることがこっちじゃ当たり前だったりするし、数百年くらい生きてるのが標準だったりするし、食ったり食われたり殺したり殺されたりが日常だし、かと思えば人と妖怪が仲良く酒盛りしてるし、私はお酒弱いし……」
「最後のが致命的ね」
「もうホント意味分かんなくて、こちらに来てから信仰はそれなりに増えて、神奈子様も諏訪子様も安定して元気になりましたけど、それでもこの世界でやっていけるかどうか不安なんですよう……」
早苗はへなへなと炬燵に突っ伏す。
「何とかなるでしょ。月のものだって別に死ぬわけじゃないんだし。見た目ほどに痛くなし、ってね」
「鼻血と一緒にしないでくださいよ……私は軽い方ですけど、霊夢さんはかなり痛いんでしょう?」
「魔理沙ほどじゃないわ。あの娘は毎月、ベッドで数日間、干飯かじるだけの生活してるから」
「それはあまりにも不健康すぎます」
だから魔理沙は背が低いしぺったんこなのだと早苗は納得した。
しばしの沈黙。
霊夢は口を開くのが億劫であるという雰囲気だった。早苗は何やら難しい顔をして考え込んでいた。やがて思いつき、ぱっと顔を上げた。
「そうだ。先代の博麗の巫女は、どんなお方だったんですか?」
霊夢は炬燵に乗せた頭を傾けた。
「あんたの発想は相変わらず斜め上ね。どうしてそっちに話が飛ぶの」
「あなたはデタラメで適当すぎて参考になりそうにないので、先達の話でも、と」
やれやれと呟いて、霊夢は視線を上にずらした。
「そうね……わりと肉体派だったかな」
「に、肉体派?」
「人間のくせに、神とか妖怪とかと素手で殴り合って命のやりとりをしてたわ」
「人外とステゴロする存在を人間とは呼びません」早苗は真顔で返す。
「スペルカードルールが幻想郷に導入される前のことだったから、妖怪退治も古風だったのよ、きっと」
「んなわけあるかです。どうしてあなたも含めて博麗はデタラメなんですか」
「紫みたいに存在自体がインチキな奴と対等に渡り合うなら、それくらいでないと駄目なんじゃない?」
「訊かないでください。訊いてるのは私です」
「私にも分からないってことよ。察しなさい。だいたい、先代について知りたいなら幻想郷縁起でも読めばいいでしょうに」
「……それじゃあ、そういうことにしときます」
「何を偉そうに」
「でも私は、霊夢さんの視点からの話を聞きたいんです。
あなたはその先代の方からどんな教えを受けたんですか? わざわざスペルカードルールなんてものを制定したわけですし、霊夢さんはあまり肉体派という感じがしないんですけれど」
「なにも」
「……なにも?」
「そ。なにも。私は先代のすることを見ていただけ。ああ、でも、天香香背男命討伐だけは徹底的に覚えさせられたわね……あれは、痛かったわ……」
痛かったらしい。
「そんなことでよく神社が続きますね……あ、お気を悪くされたなら申し訳ないです」
「謝るところは他にいっぱいあるでしょうに……別に、謝らなくていいわよ。あんたのところを見てて初めて気づいたけど、うちが変なんだろうから」
「まあ、妙だとは思います。どうしてそんな形式になっているんですか?」
博麗は幻想郷の要である、と早苗は聞いている。博麗の巫女らの奇妙な有り様の真意を知れば、自分が上手くやっていくヒントになるかもしれないと早苗は思った。
霊夢は湯をすすって言葉を探し、やがて口を開いた。
「そうね……私の解釈だけれど、博麗の巫女は型に嵌ってはいけないのよ。たぶん。誰かに能動的に教わるとか、何かを自発的に学ぼうとか、そういうことをしてはいけないの。己が感じるがままに感じ、覚え、身を置き、流れに委ねるような存在でなければならない。
だから、博麗の巫女は努力家であってはならない。それは自らを型に嵌める行為だから。博麗の努力は報われないのよ」
故に、魔理沙は博麗の奥義を夢想天生と名付けた。彼女のせめてもの抵抗だったのだろう。
禅問答のような霊夢の言をしばらく咀嚼していた早苗だったが、ふと気づいて顔を上げた。
「……ん? それ、自分が天才だって言ってませんか?」
「その通りだけど」さらりと言ったものである。
しかし、羨ましいという感情は、なぜか湧かなかった。
霊夢の言葉には自得の響きが塵ほども含まれていなかったからであり、早苗が努力の価値を知る人間だからでもある。
「それって、つまらなく、ないんですか?」
「なにが?」
「だって、努力できないって、つまらないじゃないですか。一生懸命になれない人生なんて、つまらないじゃないですか」
他人のことなのに、早苗の言葉には苛立ちの熱がこもった。
似た立場の者として、霊夢に己を重ね合わせたのかもしれない。
霊夢は湯呑を空にし、鼻から大きく息をついた。
「まともなのね」片眉をそびやかせて、意地悪げに言った。
そのたった一言が、早苗を黙らせた。
初めて出会った時、巫女としての覚悟はあるのかと早苗は霊夢に問うた。
愚問だった。的外れだった。
神になってもならなくても関係ないと言った、霊夢の言は博麗の巫女として正しかったのだ。本人は売り言葉に買い言葉のつもりだったのかもしれないが、むしろ無意識的な発言にまで博麗の概念が骨身に染みついているのだ。
沈鬱な表情になった早苗を見て、霊夢は髪を掻いた。
「ごめん。八つ当たりだった。
そうね。確かに、つまらないと思うことが、無いでもないわ。
だから私は魔理沙のことが好きだし、羨ましいんでしょうね。努力することを許された存在だから。価値のある努力をできるのって、幸せなことだと思うわよ」
完全な自由は、完璧な不自由である。
外の世界にいた頃は、そんなことなど思いもよらなかった。風祝の役職を疎ましく思っていたわけではないが、自由な存在を羨ましいとも思っていた。自由は許されるものであり、努力は強いられるものだと思っていた。自由と不自由は反比例するものであるというのが早苗の常識だった。しかしそれは、まったく偏狭な見方に過ぎなかったのだ。
「ここでは、常識に囚われてはいけないのですね」
湯呑に視線を落としたまま、早苗はひとりごちた。
ふん、と霊夢は鼻を鳴らした。
「喋りすぎたわね。あんたのせいよ」
「いえいえ、生理が重いせいですよ、きっと」
「魔理沙には言わないでよ」
「言いませんよ」
それきり、二人は炬燵でじっとしていた。
やがて湯が空になった。
「お水、汲んできますね。あと、お礼に今日の晩ご飯を作りますよ」
「あら、あんたのとこの神様の世話はいいの?」
「今日は神奈子様が当番ですので。未熟とはいえ私も神様ですからね。立場上は対等なんです」
えっへん、と早苗は胸を張る。
「なにそれ……まあ、ありがたい話だけど。大根が届いているから、煮つけにしてちょうだい」
「了解です。ご飯はお粥にしますね。梅干しと玉子、どちらにします?」
「梅干しで。大根の葉は味噌汁にして」
「はあい。霊夢さんはじっとしていてくださいね」
「言われなくてもそうするわよ」
障子から出て炊事場に向かう途中。
結局、あまり参考にはならなかったな、と早苗は思った。
少なくとも博麗の巫女のようにはなれまい。彼女らは幻想郷という環境を制御するために高度に特殊化した存在なのだから。
頼るべき常識が無いのであれば、己が内に礎を築くより他は無い。
それが分かっただけでも収穫だった。
自らに由って、励むしかない。
それが命蓮寺の一件であのように弾けるのだから、早苗の発想はやはり斜め上なのだが。
元旦は、外の世界とは勝手が違う初詣に四苦八苦した。秋口に幻想郷に腰を落ち着けて以来、氏子が急に増えたのだが、その氏子の長がこぞって夜明かしに来るのだ。無論、二柱の神と宴会をするのである。一応は神であるというのに、早苗は給仕のようにくるくると働かねばならなかった。妖怪の長ばかりだから、騒ぐにしても年長者の威厳がある。大天狗などはことさらだった。実力と権威はあれど、見かけ通りの歳月しか経ていない早苗は緊張のし通しだった。
なぜか射命丸文も来ていたが、ひどくつまらなそうにしており、彼女が早苗に声をかけることはなかった。
閑話休題。
鳥居をくぐる。
境内は閑散としていた。鳥の声も聞こえなかったが、掃除は毎日なされているようだ。
表から声をかけても返事が無かった。裏手に回る。
裏庭に面した縁側は、雨戸が閉じられていなかった。
障子を小さく開け、中を覗く。
「なによ」
いた。
「あのう、すみません。今、いいですか?」
博麗の巫女は掘り炬燵に顎を乗せたまま、横目で早苗を見やった。いつもの紅白ではなく、白い襦袢の上から紺色をした綿入れのどてらを羽織っている。髪のリボンも無い。
「障子、寒いからとっとと閉めて」
音を立てないよう障子を閉め、霊夢の正面に回って炬燵を指差す。炬燵に両手まで突っ込んだ霊夢は気だるげに頷いた。早苗はいそいそと足を差し入れる。ほどよく温い。
「失礼します……私、掘り炬燵に入ったの、初めてです」
「火傷とかしないでよ……それよりあんた、その格好で寒くなかったの」
早苗は脇を露出させた、いつもの服装だった。
「大丈夫ですよ。なにせ私、風祝ですから。土蔵に夏の熱気を溜めてあるんです。冬は少しずつそれを使うんですよ」
「神徳の無駄遣いじゃないの、それ……でも便利ね。改宗しようかしら」
「間に合ってます」
「それは残念。白湯でいい?」
「はあ、構いませんけど……」
霊夢は足を炬燵に残したまま畳に寝そべり、火鉢に手を伸ばした。鉄瓶をかけてある。その下には水を張ったたらいに布巾がかけてある。霊夢は濡れ布巾を取り、鉄瓶に指をかけた。
「んっ……おっとと」
鉄瓶が傾く。早苗が慌てて炬燵を抜けた。
「あああ、危ないですから! 自分で取ります!」
「そ。客人なのに悪いわね。あ、湯呑はそこの戸棚にあるから」
ならば白湯など取らせるなという話である。早苗は布巾を受け取り、慎重に鉄瓶の湯を湯呑に注ぐ。対面に戻ると、霊夢は最初に見た時と同じ姿勢に戻っていた。
「あの、厚かましいとは思いますが、お茶とか無いんですか?」
「あるけど、厠が近くなるでしょ」
「どれだけ炬燵から離れたくないんですか……あ、さては私の声、聞こえてましたね?」
「どうでもいいことなら帰るし、大事な用事ならこっちに回ってくるでしょ。手間が省けて楽なの。しばらく動きたくないのよ」
早苗は呆れ果てて溜息をついた。白湯をすする。
ただの湯だというのに旨い。何よりカルキの臭いがしない。水が旨いと感じるのは、つまり舌と鼻が飽きているということだと諏訪子が言っていたことを早苗は思いだした。目を閉じると青や緑の光が見えるように、無味を味わおうとする作用として感覚が反転するのだそうだ。なお、もはや感覚が壊れている場合はこの限りではない。
湯面に視線を落とし、どう話を切り出したものかと早苗は逡巡する。
うろんげにしていた霊夢が、やがて面倒臭そうに口を開いた。
「で、何?」
「はい……ええと、ですね」
気くばりに感謝しつつ咳払いする。
「んっん……あ、他に誰もいませんよね?」
「萃香はどっかに遊びに行ったわよ。早く用件だけ言いなさい」
「はい。少しの間だけ、外の世界に戻りたいのです」
案の定、霊夢は露骨に嫌そうな顔をした。幻想郷の仕組みについては、早苗も神奈子から聞き及んでいる。博麗大結界、八雲紫、博麗の巫女。それでも早苗には、無理を通したいだけの切実な理由があった。
「故郷が寂しくなったのです?」
「あっ、いいえ! そういうわけでは、なくてですね」
口調の変化を茶化されたことにも気づかなかった。
悩む。
上手く伝わり、自身も恥ずかしくないような婉曲的な表現はないものか。
百数えても言葉が見つからなかった。
結局、ありのまま言うしかなかった。
「その……霊夢さんって、生理の時にはどうしているんですか?」
霊夢は眉間にしわを刻み、早苗をじろりとねめつけた。
「……あんたやっぱり馬鹿なの?」
「へ?」
「見ての通り、うちには整理するほどの物なんて無いわよ。蔵の掃除くらいはするけどね」
「そうではなくて! ええと、そう月経です」
霊夢の眉根がいっそう強く寄る。
「月桂? 優曇華のこと?」月に生えている木のことである。
「竹林の月兎さんが何故この流れで!?」
「いや、あの兎には院が付くから……じゃあ何なのよ」
「ですから、女の子の日ですよ! 月に一度来るアレ――あっつうい!?」
慌てて右足を引き抜く。興奮するあまり、炬燵の炭に母指が触れたらしい。白足袋の先が茶に焦げてしまった。
「ああ、なんだ、月の障りか」
「こちらの勝手が分からなくて困ってるんです……あ、来てます?」
「来てるわよ」どういう意味だ、と言外に。「あんたのとこの神様に訊けばいいじゃない。年長者でしょ」
「なんとなく訊きづらいんですよ……お二人のせいで慣れないことをさせている、なんて思わせたくないんです。加えて、お二人とも受肉こそしていますけど、そういう都合の悪いことは忘れて現界していますし」人の身を持つ現人神の悩ましいところである。
「あんた、自分の神をどれだけ信用してないのよ……」
「失礼な。信頼はしてます。でも、あの時代の方法となると……」
「ああ……小屋に籠って藁の上か……それは嫌すぎるわね……」
二人して鬱々となることしばし。
「でも、今までに何回かあったはずでしょ。どうしていたのよ」
「外から持ってきたナプキンを使っていたんですけれど、ついに切れてしまいまして……」
「待ちなさい、外じゃそんなもの使うの!? ナプキンって紅魔館で食事の時に――」
「違います」
詳しく説明した。
霊夢は目を丸くして早苗の話を聞いた。
「へえ、そんなに便利なものがあるんだ。欲しいわね」
「じゃあ――」早苗の顔がぱっと輝く。
「でもダメよ」ぴしゃりと言われてしまった。「必然的に外から流れ着くものについては、幻想郷は分け隔てなく受け入れるわ。でもホイホイと内から出られるのは困るのよ。それをしていいのは紫だけ」
「そこをどうにか……こればかりは……私、多いんですよお……」
「知らんがな。使い捨ての消耗品なんでしょ。還暦迎えるまで定期的に外に出るつもり?」
「それは、そうですけど……せめて慣れるまでは……」
「そう言う奴は決まっていつまでも慣れないものよ。とっとと慣れなさい」
全くの正論に、早苗は涙目になりながら押し黙る。現人神といえど、一人の少女である。
霊夢は長々と溜息をつき、髪を掻いた。
「こっちだと月帯と脱脂綿を使うのよ。上手いやり方、教えてあげるから」
「ご迷惑をおかけします……」
「気にしなくていいわよ。どうせそろそろ交換しなきゃならなかったからね」
どうやらそれで機嫌が斜めだったらしい。
☆ # ☆ # ☆
早苗も試しに着用してみた。
「なんだか、ごわごわしますね……」
「あんたみたいに多い人はこまめに替えないと染みるのが困りものなのよね……やっぱりナプキンとかいうの、欲しいわね。便利すぎるわ」
「河童の皆さんに、薄くて柔らかくて水分が染み出さない素材を作ってもらいましょう」
「まあ、それはそれで蒸れそうだけど……」
一旦部屋の換気をして、二人は再び炬燵に戻った。室内で長く火を焚くと毒気が溜まるというのは幻想郷でも経験則として知られているようだった。
二人して、白湯をゆっくりと飲む。痛みがきつい時には腹を温め、軽くさすると良い。冷やすのは厳禁だ。霊夢が両手を突っ込んでいるのは、寒いこともあるが、重いのだろう。
「そういえば。霊夢さんは、将来はどうなさるんですか?」
「何よ、藪から棒に」
早苗は湯呑で口元を隠しつつ首を縮める。
「そのう……生理のことを考えていたら、子供がどうのというところまで行きついてしまいまして。うちは一子相伝ですけど世襲ではありませんので、里から養子を取ることになると思うんですね。
それに私は灰になった後も神を続けると思いますから、殿方と結婚することはないと思うんですけれど、霊夢さんのところはどうなのかなって」
「なんで火葬前提なのか分かんないけど……うちも世襲じゃないから同じようなもんよ。結婚もしない。そのうち紫がどうにかすると思うわ」
「た、他力本願過ぎる……あなた本当にここの巫女なんですか?」
「見て分からないの? 通力が足りてないんじゃない?」
霊夢は軽い冗談のつもりで言ったようだが、うぐ、と早苗は情けないうめき声を上げた。湯呑の縁を噛んで「ううううう……」と唸る。
「ちょっと、何よ。どうしたの」
「……正直なところ、自信ないんですよね。ろくに修行もしていない格下のはずの同業者に負けるし」
「おい」
「外じゃ奇跡扱いされることがこっちじゃ当たり前だったりするし、数百年くらい生きてるのが標準だったりするし、食ったり食われたり殺したり殺されたりが日常だし、かと思えば人と妖怪が仲良く酒盛りしてるし、私はお酒弱いし……」
「最後のが致命的ね」
「もうホント意味分かんなくて、こちらに来てから信仰はそれなりに増えて、神奈子様も諏訪子様も安定して元気になりましたけど、それでもこの世界でやっていけるかどうか不安なんですよう……」
早苗はへなへなと炬燵に突っ伏す。
「何とかなるでしょ。月のものだって別に死ぬわけじゃないんだし。見た目ほどに痛くなし、ってね」
「鼻血と一緒にしないでくださいよ……私は軽い方ですけど、霊夢さんはかなり痛いんでしょう?」
「魔理沙ほどじゃないわ。あの娘は毎月、ベッドで数日間、干飯かじるだけの生活してるから」
「それはあまりにも不健康すぎます」
だから魔理沙は背が低いしぺったんこなのだと早苗は納得した。
しばしの沈黙。
霊夢は口を開くのが億劫であるという雰囲気だった。早苗は何やら難しい顔をして考え込んでいた。やがて思いつき、ぱっと顔を上げた。
「そうだ。先代の博麗の巫女は、どんなお方だったんですか?」
霊夢は炬燵に乗せた頭を傾けた。
「あんたの発想は相変わらず斜め上ね。どうしてそっちに話が飛ぶの」
「あなたはデタラメで適当すぎて参考になりそうにないので、先達の話でも、と」
やれやれと呟いて、霊夢は視線を上にずらした。
「そうね……わりと肉体派だったかな」
「に、肉体派?」
「人間のくせに、神とか妖怪とかと素手で殴り合って命のやりとりをしてたわ」
「人外とステゴロする存在を人間とは呼びません」早苗は真顔で返す。
「スペルカードルールが幻想郷に導入される前のことだったから、妖怪退治も古風だったのよ、きっと」
「んなわけあるかです。どうしてあなたも含めて博麗はデタラメなんですか」
「紫みたいに存在自体がインチキな奴と対等に渡り合うなら、それくらいでないと駄目なんじゃない?」
「訊かないでください。訊いてるのは私です」
「私にも分からないってことよ。察しなさい。だいたい、先代について知りたいなら幻想郷縁起でも読めばいいでしょうに」
「……それじゃあ、そういうことにしときます」
「何を偉そうに」
「でも私は、霊夢さんの視点からの話を聞きたいんです。
あなたはその先代の方からどんな教えを受けたんですか? わざわざスペルカードルールなんてものを制定したわけですし、霊夢さんはあまり肉体派という感じがしないんですけれど」
「なにも」
「……なにも?」
「そ。なにも。私は先代のすることを見ていただけ。ああ、でも、天香香背男命討伐だけは徹底的に覚えさせられたわね……あれは、痛かったわ……」
痛かったらしい。
「そんなことでよく神社が続きますね……あ、お気を悪くされたなら申し訳ないです」
「謝るところは他にいっぱいあるでしょうに……別に、謝らなくていいわよ。あんたのところを見てて初めて気づいたけど、うちが変なんだろうから」
「まあ、妙だとは思います。どうしてそんな形式になっているんですか?」
博麗は幻想郷の要である、と早苗は聞いている。博麗の巫女らの奇妙な有り様の真意を知れば、自分が上手くやっていくヒントになるかもしれないと早苗は思った。
霊夢は湯をすすって言葉を探し、やがて口を開いた。
「そうね……私の解釈だけれど、博麗の巫女は型に嵌ってはいけないのよ。たぶん。誰かに能動的に教わるとか、何かを自発的に学ぼうとか、そういうことをしてはいけないの。己が感じるがままに感じ、覚え、身を置き、流れに委ねるような存在でなければならない。
だから、博麗の巫女は努力家であってはならない。それは自らを型に嵌める行為だから。博麗の努力は報われないのよ」
故に、魔理沙は博麗の奥義を夢想天生と名付けた。彼女のせめてもの抵抗だったのだろう。
禅問答のような霊夢の言をしばらく咀嚼していた早苗だったが、ふと気づいて顔を上げた。
「……ん? それ、自分が天才だって言ってませんか?」
「その通りだけど」さらりと言ったものである。
しかし、羨ましいという感情は、なぜか湧かなかった。
霊夢の言葉には自得の響きが塵ほども含まれていなかったからであり、早苗が努力の価値を知る人間だからでもある。
「それって、つまらなく、ないんですか?」
「なにが?」
「だって、努力できないって、つまらないじゃないですか。一生懸命になれない人生なんて、つまらないじゃないですか」
他人のことなのに、早苗の言葉には苛立ちの熱がこもった。
似た立場の者として、霊夢に己を重ね合わせたのかもしれない。
霊夢は湯呑を空にし、鼻から大きく息をついた。
「まともなのね」片眉をそびやかせて、意地悪げに言った。
そのたった一言が、早苗を黙らせた。
初めて出会った時、巫女としての覚悟はあるのかと早苗は霊夢に問うた。
愚問だった。的外れだった。
神になってもならなくても関係ないと言った、霊夢の言は博麗の巫女として正しかったのだ。本人は売り言葉に買い言葉のつもりだったのかもしれないが、むしろ無意識的な発言にまで博麗の概念が骨身に染みついているのだ。
沈鬱な表情になった早苗を見て、霊夢は髪を掻いた。
「ごめん。八つ当たりだった。
そうね。確かに、つまらないと思うことが、無いでもないわ。
だから私は魔理沙のことが好きだし、羨ましいんでしょうね。努力することを許された存在だから。価値のある努力をできるのって、幸せなことだと思うわよ」
完全な自由は、完璧な不自由である。
外の世界にいた頃は、そんなことなど思いもよらなかった。風祝の役職を疎ましく思っていたわけではないが、自由な存在を羨ましいとも思っていた。自由は許されるものであり、努力は強いられるものだと思っていた。自由と不自由は反比例するものであるというのが早苗の常識だった。しかしそれは、まったく偏狭な見方に過ぎなかったのだ。
「ここでは、常識に囚われてはいけないのですね」
湯呑に視線を落としたまま、早苗はひとりごちた。
ふん、と霊夢は鼻を鳴らした。
「喋りすぎたわね。あんたのせいよ」
「いえいえ、生理が重いせいですよ、きっと」
「魔理沙には言わないでよ」
「言いませんよ」
それきり、二人は炬燵でじっとしていた。
やがて湯が空になった。
「お水、汲んできますね。あと、お礼に今日の晩ご飯を作りますよ」
「あら、あんたのとこの神様の世話はいいの?」
「今日は神奈子様が当番ですので。未熟とはいえ私も神様ですからね。立場上は対等なんです」
えっへん、と早苗は胸を張る。
「なにそれ……まあ、ありがたい話だけど。大根が届いているから、煮つけにしてちょうだい」
「了解です。ご飯はお粥にしますね。梅干しと玉子、どちらにします?」
「梅干しで。大根の葉は味噌汁にして」
「はあい。霊夢さんはじっとしていてくださいね」
「言われなくてもそうするわよ」
障子から出て炊事場に向かう途中。
結局、あまり参考にはならなかったな、と早苗は思った。
少なくとも博麗の巫女のようにはなれまい。彼女らは幻想郷という環境を制御するために高度に特殊化した存在なのだから。
頼るべき常識が無いのであれば、己が内に礎を築くより他は無い。
それが分かっただけでも収穫だった。
自らに由って、励むしかない。
それが命蓮寺の一件であのように弾けるのだから、早苗の発想はやはり斜め上なのだが。
やはり現実と幻想郷とのギャップに遭遇するシーンは妙な面白味があって良い。お互いに抜けて見えると言うか。
・・・つかぬことを伺いますが、東方歌壇の人ですか?
hai
いや、男性にはそうそう思いつけない内容ですねぇw
(筆者が男性か女性かは置いといてw)
>>9さん 早苗がまず困ることと考えたらこういう話に
>>11さん 月経少女マジカルメンスというゲスい漫画を参考にしています
(面倒そうだけど色々教えてくれる感じ)