Coolier - 新生・東方創想話

シンデレラ・タイム

2012/12/30 00:27:50
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反射する現象―――七色の光が重なった橋。
吸着する事象―――静かに消えるトリコじかけの光。
二人の事情―――いびつな瞳。
二人の幻象―――追い続けてきた形。

長い長い雨があけた。
それは幻想郷に住まう者にとっては宴を行う理由の一つでしかない。何かにつけて騒ぎたいという意志は蓄積していくストレスを発散させる重要な本能であるが八雲紫はその輪の中に加わらず、盛り上がる博麗神社の境内から裏手に回った霊夢の自宅の縁側で一人、月と杯を交わしていた。
三八万kmという途方もない二者を隔てる距離は過去の憎しみを感じさせない適度な距離。
手を伸ばせば手のひらに収まるように小さくて丸い月。
それだけで、手に入れたと感じるのは些か横暴だろうか。
地上へと降り注ぐ白い光はとても月が地獄であったとは思わせない、汚れなき光であった。
葉に垂れる水の滴は月の光を跳ね返し、少し塩辛い思いになった。
ただ感傷に浸るにはすこしざわめきすぎているか。自嘲気味に歪む彼女の唇へと杯は傾き、鬼の酒が喉を焼く。

「なにしてんの」

低く、けれど透き通って耳に届く声。この神社の巫女である、博麗霊夢が本殿の方から裏へと回って近づいてきていた。神社の陰となっていた姿が月の光を浴びて色を取り戻す。焼き鳥が数本乗った皿を手に、頬は赤みがかっているものの足取りは確かで酔っているようには見えなかった。

「霊夢も、どう?」

お猪口を一つ、彼女の方へと差し出す仕草。
霊夢は紫の隣へと腰掛ける。霊夢はお猪口を受け取り、紫が酌をする。

「珍しいじゃない。あんたがこんなところで一人で呑んでるなんて」
「たまにはそういう気分になるときもあるのよ」
「明日は雨が降りそうね」
「昨日まで大雨だったじゃない」
「ものの喩えよ」

霊夢は手にしていた焼き鳥を一本くわえる。そして一口で猪口の酒を呷った。

「よくもまあ、あんなものを見ながらお酒なんて呑めるわね」

そう言って霊夢が串で指すのは天に輝く、月。

「綺麗じゃない、遠くから見る分には」
「私にはそうは見えないわね」

忌々しげな気持ちを隠そうとしない霊夢を紫はじっと見つめていた。そういう素直なところが好きだった。
口から漏れる強烈なアルコールの匂い。眼がとろけ始めたようにも見え、さすがにきついものを与えてしまったか。

「昔のこと懐かしむのはいいけど久しぶりの宴会なんだから、あっちのほうにも顔出しなさいよ」

曲がりなりにも妖怪の賢者なんだし、と霊夢は立ち上がり、おぼつかない指先で本殿のほうを指す。

「ええ、しばらくしたら向かうわ」

紫の返事を聞くより早く霊夢は宴の中心へと戻っていった。左右へ不安定に揺れる彼女の後ろ姿を眼で追うだけに留めて、空になった自分のお猪口に酌をする。月を照らす太陽の光が静かに地球によって呑まれようとしていた。



―――虹はどこから生えてくるんだろう。



そんな疑問を抱いたのは宇佐見蓮子が十一歳の時であった。
思い立ったが吉日という言葉がある。当時の彼女はその言葉に従い雨上がりの青空の下、自転車に跨り虹を目指して舗装もされていない水たまりの点在する田んぼ道を駆け抜けた。雨上がり独特の臭みと泥濘んだ道は不快だったが初夏の日差しと自転車で感じる風はそれ以上に心地よくもあった。
目指したのは虹の根本。
たったそれだけの目的でも知りたいという欲求には抗えなかった。
絵画のように青空と不釣合な七色の橋。東京も都心の住宅街から離れた田んぼばかりの目印もない田舎道。
虹は果てしなく遠いものにも限りなく近いものにも思えてただ虹の見える前だけを見つめてペダルを漕ぎ続けた。
やがて日は傾き、空は青から橙、やがて藍色へと変化していく、その中でいつの間にか虹も姿を消していた。
届かないとわかっていたのかもしれない。それでも諦められない意地があったのだろう。
それくらい純粋な子どもだったのだ。
闇夜だけが蓮子を取り巻いていた。
もう帰るしかないと思い、空から目を落とした時、自分の帰り道を見失っていた。
サークルの仲間であるマエリベリー・ハーンに話したら、「蓮子のそそっかしい、というか考えるより先に行動に移しちゃうのはいつになっても変わらないのね」と笑われた。
そそっかしい。
確かに今も変わっていないのだろうな、と蓮子は思った。



しとしと。

しとしと。

雨が降っていた。
ほんの少し前まではぽつりぽつりと弱かった雨足は次第に地面の土を濡らす面積を広げていき、今では屋根のある内と外とを隔絶するような豪雨へと強まってしまった。
不幸中の幸い、降り始めたのが目的地まであと少しの距離だったため屋根のある場所まで本降りになる前に駆け込むことができた。
屋根はあっても縁側、手を伸ばせば数十センチ先の雨に触れてしまう。
出発前に確認した天気予報では全国的に快晴だと言っていたのにとんだ誤報である。傘を持ってくるなんて考えは当然なかった。
「しばらくは止みそうにないみたいね」ため息混じりのメリーの声。薄手のハンカチはメリーの濡れた髪と肌を拭うとあっと言う間に機能を失った。

「よかったじゃない、土砂降りになる前に辿りつけて」
「今は大丈夫だけど、雨漏りしないのかしら」

メリーが顔を上げたから蓮子も見上げる。おそらく天然物であろう木の木目が時代の経過とともに黒ずんだ屋根。
自分が、母が、祖母が生まれるよりもずっと前から雨、風をしのいできたであろうそれは不安よりも逞しさがあった。
縁側から見える位置では少なくとも雨漏りしている箇所は見あたらない。昔の人の知恵が活かされた造りは時代を経ても衰えていないということ。
一つではただの材木でも複雑に重ね合わされ一つの社を形成している構造には懐かしささえ抱く。
まだ東京に住んでいたころ、祖母と一緒に夏祭りで行った近所の神社。両手に参道に並んだ屋台で買った焼きそばと綿飴を携えて、本店の石段に腰を下ろして休んでいた。
家族やカップル。子どもと大人。色んな人が浴衣と私服入り乱れて神社に居る。普段、祖母と散歩で訪れるときの人気のなさとは対照的な光景だった。
もしかしたらここも昔はそんな人の賑わいがあったのだろうか。
蓮子は博麗神社本殿を支える柱の一つを撫で、木目の凹凸を肌で感じた。ここも随分と歴史を重ねてきたのだろう、乾燥した木の表面は脆く軽く触っただけで欠片が落ちた。
雨に塗れた肌を寄せあい互いの熱で暖をとるだけではまだ寒く、蓮子は用意してきた水筒から珈琲を紙コップに注いでメリーに渡す。
白いコップが黒褐色の海に満ちた。だけど湯気は白い。
手渡すと鼻先をラベンダーのような甘い、メリーの匂いが掠めた。

「ありがとう」

そう言ってメリーはコップからの熱で手を暖めつつ、少しだけ口へと含んだ。
蓮子は自分の分も注ぎ、一口。
苦くて熱くてゆっくりとしか飲めない褐色の液体。美味しいとは思えず砂糖も持ってくればよかったな、と思ったが冷えた身体が芯から温まっていく感覚は悪くない。
雨音はつづく。
空も、木々も、灰に染まる。
雷鳴。
音は小さく、まだ遠くのもの。
これから近づいてくるとしたらまだまだ雨は止まないだろう。
昔から雨は嫌いだ。
外で遊べないし、濡れるのが嫌だった。
何より天気というのは気分までも左右してしまう。
雨や曇り空は心までどんよりと濁らせる。
雨音は、
うるさい。
はずなのに、
気持ちは静かだ。
《人》という雑然とした意識の消失。
一人。
それは、寂しいものだ。
こういう憂鬱な天気を洗い流したい。
そう意識したらすぐにポケットからぐしゃりと潰れた白を主体にした箱だったものを取り出し、そこから煙草を一本口に咥えた。
これで残りも四本になってしまったからそろそろ新しいものを買わなければならない。苦学生の財布が一段と薄くなる要因が生じて憂鬱になってしまう。
同じポケットからプラスティック製の簡素なライターを取り出したところで咥えていた一本をメリーに取り上げられた。

「あぁ、ごめん」

そう言ってメリーの取った一本を受け取り、箱へと戻した。

「まだ、やめてなかったのね」

メリーの怒気を含んだ声。

「ちゃんとマナーは心得ているわよ」

そういって肩に掛けていたバッグから小型の空気清浄機を取り出し、二人の間に置いた。

「そんな問題じゃない。あなたを思って言ってるの」

メリーは人差し指と中指を合わせて、蓮子の額を小突く。

「め、でしょ」
「…気をつけてるわよ」

科学の発達により利便性はある程度の段階で頭打ちとなり、次に目指したのは健康性の増進だった。
そこで真っ先に白羽の矢が立ったのが旧世紀から人体への害ばかり取り沙汰されてきた煙草である。
そのため一般に市販されている煙草の及ぼす害は極めて小さいものとなった。形骸化した煙草はもうファッションの一部となって久しく、所謂ポーズでしかない。味も格段に落ちた。
メリーもそんな蓮子にとってはつまらない味わいの煙草なら止めなかったかもしれない。
しかし、蓮子が口にしていたものは違う。
裏表ルートで流れる現代では規制となっておかしくない種類のもの。希にルートで流通するそれを蓮子は愛好していた。
一箱とほぼ同じ額で京都と東京を往復できるという法外な値段、昔の大人のように一日に数本、数十本呑むなんて贅沢は考えられない。
リフレッシュをしたいときに一本くらいの気持ちによる消費である。
普段は締め切り前日のレポートに息詰まるとベランダで夜風を浴びながら一人で吸っていたのだが、一度だけメリーが来ていたときに吸ったらこっぴどく怒られた。
身体に悪いという自覚はあるからメリーの意見を否定しない。ただ、気分の問題だから誰にも迷惑をかけない一人の時だけ吸うようにしていた。
メリーを認識していたはずなのに寂しさを紛らわしたい気持ちが無意識に優先されていた自分を蓮子は嫌悪する。
メリーと呼吸を合わせる。
まだ熱い珈琲を一息に飲み干した。食道を流れる熱に身を悶えながらも気分は落ち着いてきた。
二人で見る景色。
見る対象は同じでも見えるモノが同じとは限らない。

「何か、見える?」

蓮子の言葉をメリーは首を左右に振って答えた。

「何も見えないわ」

何も。

「怖いくらいにね」

メリーの変わった瞳。それは結界の境目が見えるというもの。見えると言われても蓮子にはいまいち実感がわかない。見えないものを説明するほど難しいことはない。
だからといって存在を否定する愚かな行為を蓮子はしなかった。蓮子も似たような眼を持っているからこそ理解ができるのだ。
京都の霊的地場を抑える為に張り巡らされ、管理される結界。
だがそれはあくまで京都が首都という特例。
管理された環境の京都から離れれば、結界の境目というのは虫のように道ばたでも見かけるとメリーは言った。霊的スポットともなれば大小さまざまなものが見えるとも。
それが、何も、見えない。
蓮子は、笑った。なら考えられるのは一つだ。
メリーは驚きに目を見開くも直ぐに蓮子の意図を察して、「どうしたの?」と言葉を繋げる。

「これを見て、メリー」

蓮子がメリーへと見せたのは携帯。
光を放つ画面には現在地の天気が記されていた。
位置情報の送信とその地点の天気の受信。
手のひらに収まる小さい箱から繋がった無数の世界。
世界は繋がっている。
情報は地球上どこに居ても変わることはない。
今日一日の天気が二時間単位で記されたそれはどれも《晴れ》を意味する赤く黄色いマークが表示されていた。
山の天気は変わりやすい。しかし、リアルタイムで更新される衛星からの航空写真には雲一つ見えず、森の緑の中にぽつんと開けた神社の敷地が確認できた。
二人が直面している状況を否定する情報。
それは、つまり―――

「つまり、何かある。ということね」
「そういうこと」

蓮子は親指を立てて笑顔を見せる。新しいおもちゃを与えられた子供のような眩しい笑顔に先ほどまでの陰りはない。
結界。オカルトにある程度興味があるなら、そうでなくとも子供の頃の噂でさえ日本人は一度や二度耳にする単語。結界が様々な怪異を押さえ込んでいると。
霊的環境の衰退。霊そのものの衰退。
それは人の心が生み出す潜在的な恐怖を妖怪という存在に肩代わりさせることで正当化させていた。
しかし科学の発達により世界の理、その多くが説明、理解の及ぶ範囲で起こる事象だと人間は知り、次第に妖怪さえ否定された。
果たして、そうだろか。
違う。
二人は知っている。
人の心が妖怪を殺したのではない。人の力が妖怪を殺したのだ。
それが世界をこちら側とむこう側に二分させた結界の働き。こちら側は人間の領域。向こう側は妖怪の領域。
人は自身の理解できない存在を拒絶するのは何も人間と妖怪の間に限ったことではない。
だが人間同士の文化や宗教の違いで起こる諍いと人間と妖怪のなまじ言語によるコミュニケーションがとれる関係で生じる衝突は違う。
種族の違いは理解よりも先に恐怖を生み出す。
何より人間よりも力も知恵も優れていた妖怪は人間を捕食する。
それを防ぐために遥か昔の人間には妖怪を祈祷し退治する力を持つ者がいた。
時代の変化し人のあり方も変わった。
科学という人の力が妖怪を封じるようになる。
そして実体を持つ物だけが残り、妖怪をはじめとした多くの人間の理解の範囲に及ばない存在は否定された。
そんな人間が理解できない存在を認めてしまう力を手にした人間は自らの力を幸せに思うのだろうか。
マエリベリー・ハーン。彼女はどの眼で世界を見るのか。
結界暴きというタブー。その禁忌へと踏み入れるに連れて自らの手が黒く染まっていることを彼女たちは気づいていない。
枝に付いた葉が季節の変化とともに緑から黄へそして茶へと変わり最後は枝から遺棄されるようなゆっくりとした変化。人の嫌う変化の道だ。
かつては人が住み、多くの人の信仰を集めたであろうこの神社は寂れて久しい。
結界は現代の科学力でもまだ不安定で首都を除いて完全な結界の展開には至っていない。なのにこんな辺鄙な神社で境目の一つも見えず、雲一つないはずの空は雨雲に染められている。
何かある。確証のない確信。
引き返せないところまで来たのだ。
蓮子は立ち上がり、本殿の中へと踏み入った。
ぎし、と木がしなりをあげる。随分と人の手から放れたものと思っていたが床が抜けることはなかった。

「メリー」

立ち上がるように相方へと手を差し伸べる。
メリーは迷うことなく蓮子の手を握り返した。柔らかくて細い手は見た目に反して力強く、蓮子を安心させた。
何かがある。
何がある。
それを探すのが秘封倶楽部であろう。
蓮子の心に先ほどまでの寂しい感情はない。
その理由が目の前の状況によって紛らわせているだけにしても、隣にメリーが居て、不思議を見つめられればそれは幸せなことだろうと思った。



しかし。
結論からいえば結界、ないしその先に通じるものを見つけるには至らなかった。
外は雨。傘のない二人には雨を凌げる場所だけしか詮索できず、それは本殿と裏の平屋建ての住居だけ。
その狭い範囲の中で発見がなかったわけではない。
信仰の衰退か、周囲の土地の人口減少か理由はわからないが人の手から長く、少なくとも二人が生まれるよりも以前から離れたはずの神社。
それなのに住居の中はまるで先ほどまで誰かが生活をしていたのではないかと思えるほどに整っていた。
蛇口を回せば水がでるし、コンロからは火が点く。電球も光を灯した。水道もガスも電気も通っている。
都市部であれば当たり前のこと。だけどここは廃村だけが立ち並ぶ、中途半端な首都との距離で人間から手放された一帯。
水道、ガス、電気。そのどれもがこの周辺は打ち切られていた。
詮索で発見できたのはさらなる不可解な事象だけだった。
携帯で時刻を確認すると小一時間ほど経過しており、雨はさらに強さを増していた。予定では帰路に就こうと考えていた時間。この雨量で下山はままならないだろう。
蓮子の次の言葉が言わずともわかるのかメリーはため息をこぼす。

「どうやらここで一泊するしかなさそうね」
「仕方ない、のよね…」落胆の声。

「幸い設備は整ってるんだから一泊しましょうよ」自分の置かれた状況に不安よりも好奇心を抱いている蓮子は軽い足取りで客間の電球を点ける。
蛍光灯ではない白熱電球のフィラメントの輝きは普段から夜を照らす光が身近に溢れている身にはないよりはまし程度の淡いものだ。
「一泊で済めばいいけどね」そう言ってメリーは客間から出ていった。
どこへ向かうのか気にかかるが狭い屋内、少しでも異変があれば声で知らせられると思い蓮子は台所へと向かう。
食器も鍋などの器具も棚の中にあったのは予想通り、鍋に水を汲んで湯を沸かす。
蓮子を写す銀の鍋底に水が広がる。
まるで卸したてような輝き。
いや、卸したて―――二人のために作られた物だろう。この鍋だけではない。ここにある食器も器具もどれもがこの状況を作り出した者の手による物としか思えない。
状況を作り出した者。蓮子はこれが偶然の結果ではないと考えていた。
ここは既に現実ではない。可能性の示唆。
かつてここと同じこちら側とかけ離れた空間に立ったことを思い出す。場所の名は《トリフネ》。緑と蒼に彩られた理想の世界。
生命の進化の歴史に仮に人間という不純物が含まれていなければ宇宙ステーションという小さな箱に収まらず、地球そのものがなり得たかもしれない未来の縮図。
二人の人間はそこでは血液に含まれる雑菌に等しい。白血球の防衛機構が働いた。
キメラ。先に気づいたのはメリーだった。獣の放つ汗と土と幾日も累積汚れが交わった臭い。蓮子は懐かしさを覚えた。
メリーは恐怖、蓮子は好奇心で反応ができないまま、キメラは二人に牙をむいた。
二人にとってはキメラがあるはずのない存在だが、《トリフネ》においては二人が居るはずのない存在。
プログラムされた異物の排除を実行したのだった。
机上の存在でしかなかったはずのキメラの実在。
地球の再生を目的とした独自の生態系が生み出した進化か、退化か。
それともトリフネの人の手を離れた環境を利用しようと考えた科学者の児戯か。今となってはわからない。
《トリフネ》が残されたわずかな推進剤によって地球圏から離脱したという情報はキメラによる傷でメリーが隔離、療養後完治、退院してから直ぐのことである。
完治したと言っても未だにメリーの左手首には傷の塞がった皮だけが他の白い肌の中で赤く傷跡として残っている。二度と消えることのない傷。
メリーにだけ残された印。
蓮子に外傷はなかった。
認識の違い。夢。現実。
眼が原因で何度も反転を繰り返す世界にメリーの認識は曖昧なものへと変化していた。
《現実》と判断した世界の痛みは実際の現実においても痛みを傷をトレスする。
それは怖いことだった。
今の蓮子はここを本質的には現実と判断して行動している。夢と考えるにはどうしても現実味がありすぎた。
もちろん、雨に濡れて下山を試み車まで戻るという選択肢もあった。
しかし、現実の天気が雲一つない快晴ということは今、二人のいる博麗神社が車を停車している場所へとつながっている保証はないということ。
ならば下手に視界の悪い雨中へ出て、《トリフネ》におけるキメラのようなこちらへ危害を加える要因と接触する可能性は排除しておきたいのが心情だ。
そこにどのような意図があるにしても、何もわからない状況下では流れに身を任せた方が得策だろう。
ぷつりぷつりと気化した液体が弾ける。
蓮子は沸騰したのを確認した後、火を消して棚から急須と湯呑を取り出した。
当然のようにあった茶葉でお茶を淹れて客間へと戻るとメリーすでに戻っていて、どこからか持ってきたのだろう本を所狭しと広げていた。
「何してたの?」蓮子は中央の座敷机に座り、急須から湯呑へと茶を注ぐ。濁った緑の液体が白い湯気を上げて湯呑を満たす。

「境目は見つからなかったから今度は珍しい物がないか物色してたの」

メリーは手にしていた本の見開きを蓮子へ広げる。

「気になったのは紙メディアの本くらいだったけど」

机を挟んで向かい合っている蓮子は身を乗り出して本に書かれた文字を追った。

「なんて書いてあるの?」

文字は漢字とかなが使われているようにみえるが字体は酷く歪んでいた。

「さあ」

「さあって」呆れてため息が出た。「本を持ってきたって読めないんだったら意味ないじゃない」

「珍しいからついね」メリーは照れくさそうに笑う。
お茶の満たされたに二客の湯呑。片方をメリーの近くへとやってから、蓮子は手元の一客を口にする。
熱くて少しずつしか飲めないけれど喉の奥に張り付くような珈琲の残り香を洗い流してくれる緑茶の渋みのある味は心地いい。
「珍しい…ね」それは独り言であり、メリーの耳までは届かない。
メリーのことだから本にさえ境目を見出したのではないかという期待があったが無駄だったようだ。
蓮子が半分ほど飲んだところでメリーも読めもしない本を読むのも疲れたのか机のほうへ身を寄せる。
だが彼女は湯呑に手をつけたもののその水面を見つめるだけで口にする素振りを見せない。
「冷めるわよ」メリーが猫舌だったなんて覚えはない。さっきも熱い珈琲を飲んでいたではないか。
「これってさ」と渡された湯呑みを訝しげに眉を歪めるメリー。

「飲んで大丈夫なの?」

思い切り眼を細めた。

「葉はしけってなかったし匂いもいいから大丈夫よ」

投げやりにそれだけ言うとメリーも納得したようで一口。

「うん。大丈夫よね、そうよね」

二、三度頷いて自分に言い聞かせるメリー。何もそこまで怯えなくてもいいだろうと蓮子は湯呑が空になるまで一気に飲み干した。
沸かした湯はまだ残っている。茶葉の近くに置かれていた煎餅や最中を取り出してお茶請けにしながら何杯か談笑を交えつつ飲んだ。
メリーの話。夢の話。彼女にはどれも曖昧で現実との境界のない物語。
私が初めての聞き手であり、この世界でたった二人しか知らない御伽噺。
メリーは人の心を惹きつける話し方ができる人間だ。
尚且つ一つ一つの物語はどれも幻想的で面白い。
将来は絵本作家にでもなれるのではないかと蓮子は思っていたがそれをメリーに言ったことはない。
真摯に聞き入れるだけ。自分の言葉で彼女の純白な言葉たちを穢してしまうのが嫌だからだ。
話に聞き入っているうちに時間はあっという間に経過した。
雨の勢いは弱まることを知らないまま、厚い雲越しの光が次第に失われ空は黒ずんでいく。
そうした変化は二人の身体にもみられた。
空腹感。
ここへ向かう途中の車内で摂ったファストフードが最後の食事。もう七時間も前のこと、斜面を登るなんて負担のかかることまでやったのだから空腹を身体が訴えてくるのも無理はない。

「食べ物は…作らなくちゃいけないのよね」

メリーの言葉に頷く。いくら至れり尽くせりと云えども出来合いのものがあるなんて気の利いた展開はない。ここに居るのは二人だけ。自分の手で作るしかないのだ。
蓮子は立ち上がって台所へと向かう。それにメリーもついていく。
台所にあったのは白米と味噌、そして諸々の野菜。

「すごいわね。こんな野菜、教科書でしか見たことないわ」ザルに乱雑に乗せられた野菜を一つ一つ手に取りながらメリーは感嘆する。

東京で祖母の作っていた野菜の収穫を手伝い、食べたことのあった蓮子でも、目の前の野菜は今まで触れたものより身が締まっていながらも大きく、驚いた。
さっそく米を研いで、鍋で炊く。
トマトとレタスは洗って切り分けるだけでいいだろう。
カボチャやレタス、ジャガイモは味噌汁へ。
現代人としては慣れた手つきで料理をこなしていく蓮子。
メリーが素直に感心すると、
「実家じゃこれくらい出来ないと嫁にもいけないって言われて仕込まれたからね」と苦笑を返す。
蓮子の指示もあって手慣れていないメリーもある程度のことを手伝ったため、米が炊けるまで持て余すくらい短時間で準備ができた。
でも、と蓮子は手元に切り分けられた野菜と煮込んでいる味噌汁を見て思う。
これだけでは、足りない。
何が足りないのか。
考えるまでもなく簡単なもの。
思い出した記憶。
同じだった。
小学校の高学年、課外学習と称して山の中に作られたダムのそばに建てられた研究と子どもへの研修を目的とした施設に泊まった時のこと。
学校からバスでわずか三十分、たったそれだけしか離れていないのにビルも民家も商店もない、施設から見えるのは木、木、木。
蓮子は自分の家を木にばかり囲まれた田舎だと思っていたがそれとはまた違う。
ここの木はみずみずしい緑の葉をつけ力強く天に伸びていて、まるで異世界にでも飛ばされたようだ。
初めての景色に驚く子どもたちを前に施設の大人は言った。
ここは地球の環境を再生させようとする場所だと。
ここの植物も、動物も、昆虫も昔は日本中に生息していたと。
それを失わせたのは大人よりももっと大人の人たちだけど、人間が失わせたのならそれを取り戻すのも人間の役割だと。
当時の蓮子には上手くわからなかったが、こんな綺麗な木々がどこにでも生えていたらきっと気持ちいいだろうなと思った。
学習と言っても机にノートを広げる退屈な勉強ばかりではない。
森の生物や植物を携帯端末の情報と照らし併せてレポートにまとめるフィールドワークが一日の大半を占めた。
はじめの説明を聞く限り退屈そうに思えたが、これまで画面越しの映像や画像でしか見たことのなかった生き物が目の前で生きて、動いている姿を見ればいつの間にかグループの中で一番没頭していた。
四泊五日という長い時間もあっという間に過ぎていった。
友達と一緒に一つの部屋で夜を過ごす時間。
そんな楽しい時間たちはいつもすぐに過ぎてしまう。刻は不可抗力、誰にだって平等だ。
何事もなく最後の夜は訪れた。
これまでと変わらず夕飯は用意のされた食材を用いてグループ別に料理の実習。
合成ではない食材たち。
最後の夕飯だから豪華にバーベキューをやろうと担任は言った。
なのに用意されていたのは野菜ばかり。
口々に肉を食べたいという文句があがる。
二日前に作ったカレーには牛肉が使われた。
赤い固形が熱せられた鍋で次第に黒く焼かれていく。
少しかたい、だけど噛めば噛むほど甘みが広がる魅力があった。
だから最後の晩、豪華にいくと言われれば肉の期待もでてしまう。
先生はとっておきのがあるから安心しなさいと少し、席を外した。
なにがあるのだろうと期待を高まらせながらほかの準備をあらかた片づけ終わった頃に先生は戻ってきた。
両手にいくつかの袋を提げて。
麻でできた袋は外から中身を確認できない。
歩きに合わせて左右に揺れる袋からそれなりに重みのあるものだと見て取れた。
手の空いているみんなが先生を囲む。
何が入っているのだろう。
そんな興味ばかりがみんなの心にあった。
先生は袋を下ろして、その一つを手に取った。
縛られた口の紐が解かれる。
そして取り出される、中に閉じ込められたモノ。
それは―――


退路は残されていない。
『運命』。蓮子はそんな言葉で全ての出来事を纏めてしまうのが嫌だった。だが、時に『運命』としか言えない事態は発生する。
今。この時のように。
蓮子は台所の勝手口を開く。壁という隔たりを失い、室内の雨音が強まった。
雨粒のカーテンの先にぼんやりと見える小屋。聞こえるのは甲高い鳴き声。
獣の、鶏の鳴き声だ。予感は確信へと変わる。一瞬、躊躇ったものの、雨に身体を濡らして小屋を目指した。
錆びて歪んだ鉄格子を開き、中へと踏み込む。小屋の中で蓮子は突然発生した異物に他ならない。
鶏は一層強く警戒の声をあげる。目を合わせないように手早く、抑え両足を紐で縛り上げて袋に詰めて台所へと戻った。
雨を吸った服が肌に張り付き、不快な気分だ。
それに手の内で蠢く袋の中の生命に蓮子は嫌悪感を抱く。
人ではない命。両手で持てる命。とても軽いはずなのにもがく力は強い。生きている強い光。それが、怖い。
だから―――嫌いだ。



「…それは?」

メリーの疑問は当然だろう。突然外へ出たかと思えば、帰ってきたら手には見慣れぬ袋を提げているのだから。
せわしく散漫に揺れる袋。

「夕飯、よ」

そういって袋を開く。黒から白への転換。光を得た鶏の叫びが部屋に反響し、メリーは怯えて腰を引いた。
無理はない。異物への恐怖は当然の反応だ。だから私たちも襲われたんでしょ、と蓮子は口元を歪める。

「食べるの・・・?」生きているのに。

「絞める、のよ」殺すのだ、生きるため。

「別に私は野菜だけでも構わないわ」

「だめよ」これも運命だ。「小屋の中に、鶏はこの一羽しかいなかった。なら食べるのがここにおける原理原則だと思わない?」

言葉はない。
蓮子は一本の包丁を取り出し外へ。部屋を汚すわけにはいかない。
雨に汚れた肌。洗い流すのはもう一つ汚れを重ねてからでもいいだろう。
「メリーも見ていて。生きていくために知らなきゃいけないことだから」出来るだけ、自分を抑えるように静かに言った。
包丁の鏡面。自分の顔はそこに映る世界と同じく歪んでいて表情は読めない。見たくもない。
理由はどうであれこれから命を奪おうとする者の顔を直視できるほど大人にはなりきれていない。
首元まで外へだし、首筋に刃を当て力を込める。一段と強い鳴き声があがる。痛み。ぷっくらと血が切り口から浮かび上がってくる。
失われる血。生きようと手の平の触れる鶏の身体、その心臓の鼓動は一段と高まっている。
夕焼けのように赤い液体。止まらない。次第に、次第に。刃先も、手も赤く、染まっていく。しばらくすると鼓動が弱まってきたと感じ、血は、勢いを失って、止まる。
―――鶏はもう鳴かなかった。

「ずっとずっと昔、人間は狩猟によって生計をたてていた。ほかの動物、ほかの命を犠牲にして成立する食物連鎖の中に組み込まれた生存本能。痛みを知る生き方」

蓮子は手を止めずにメリーへと語りかける。
味噌汁とは別に沸かしていた釜で鶏をさっとゆで、次に手を伸ばしたのは全身に生える羽毛だ。
一片、二片、三片。茶色の毛が本来あるべき場所から失われ、地面へとひらひらと舞う。そして見えてくる薄く白くなった桃色の肌。

「だけど人は次第に自らの役割を細分かさせ、マーケットが生まれた。市場にパッケージされた誰かが殺して誰かが加工した鶏肉。それをかつては生命を宿していた鶏だったとわかっていても違う。自分が手を下していない、加工されるところを見ていないから違うと無意識のうちに思ってしまう」

羽を失った鶏。生物として本来の形を失ったそれの肛門に刃で切れ込みを入れて、内蔵を引きずり出す。
赤黒いもの。緑や青、紫をした異質なもの。弾力を持ったいろいろな形が長く、一つに繋がって出てきた。

「そして私たちの時代。科学の発達で食物連鎖から人間は抜け出した。人間が食べるのは味も形も精巧に似せられたタンパク質のかたまり。人間の行いによって減少した動物たちに変わる栄養素として開発された食べ物は人間の観念まで変えてしまった。生きることは食べること、食べることは他者の死を知ること。他者の死は自身の死にたいする恐怖を生む。だから恐怖の寄り代として人は心に神を生み出した」

それが信仰の始まり。

「なのに人間が食事による死を感じることさえなくなってしまえば死に対する恐怖もなくなる。神は、死んだ」

血のついた物からまだ光を反射する他の包丁へと握り換え、喉から腹の中心を通るように刃をたてていく。

「人間が殺した」

翼を、股を、腹をバラバラに可能な限り骨を排除するように切り分けてゆく。
形あるものは、いつか壊れる。

「自らが生み出したものを同じ種族が失わせる。理不尽かもしれないけれど、神社が廃れたのも人間が死を怯えないだけの力を持ったからじゃないかな」

切り分けられた『肉』。生き物としての鶏から食べ物としての鶏肉への変容。光は失われた。
一仕事を終え安堵のため息。やろうと思えばできるものだと感じていても手は震えている。まだ先ほどまで脈動していた鶏の心臓の感触を手が覚えていた。
鶏肉は塩と胡椒だけで焼いた。それが一番鶏の味を感じられると思う。赤い肉が白身を帯び、皮が茶褐色の焦げ目をつけたところで水洗いしたレタスとトマトと一緒に皿に盛りつけた。
炊きあがった白米と煮込んでいた味噌汁も一緒に配膳する。
二人は机に向かい合い箸を取る。

「いただきます」

「…いただきます」

一つひとつ、確かめるように箸をつけていく。
白米のねっとりとした少し物足りない甘さ。
野菜の新鮮な触感。トマトのはちきれないばかりの肉質。
味噌汁の様々な食材が持つ味を内包した味わい。
そして、自分の手で作り出した鶏肉。
前歯で肉と皮を噛みきって、奥歯で噛みしめる。
じんわりと肉から染み出してゆく肉汁。
見た目は質素なもののオーガニックで有機的な味は淡白な普段の食事よりもおいしいと思う。
だけど。
ちらとメリーを見やり、
「メリーも、食べたら?」
メリーは米も野菜も味噌汁も食べているのに鳥にだけは触れていない。

「好きでしょ、鶏肉」

蓮子は理由がわかっていながら自分でも意地悪な言い回しができるものだと感心する。
怒り。恐怖。悲哀。そんなまっさらな感情を一緒くたにしてメリーの瞳は強く見開かれた。
まるで昔の自分、鏡のようだ。
あのとき、自分は触れられなかった。口にすることができなかった。怖さ、違う。これは弱さだ。黒い瞳はじっと蓮子を見つめていた。
「この鳥は私が殺した」蓮子は箸を置き、言葉を切り出す。
少しずつ。少しずつ。苦しめて。朱よりも紅い液体を首もとから滴り落として。真っ白な皿の上に乗せられた肉になった。

「殺すのならひと思いに殺して心臓を止めてしまえばいい。なのにしなかったのはそうやって殺しても肉を食べることはできないから。心臓を動かさせ、血を、吐き出さなければ血の残った肉は食べられない。苦しめて殺したことでようやく人は、口にできる。それを無駄にしてはいけないんじゃない?」

昔の自分は幼すぎて思い至らなかった。ずっと考えていた想い。
メリーならきっとわかってくれるだろう。
沈黙。
それは葛藤。
だけど蓮子には確証のない確信があった。長い付き合いから生まれるメリーという強い女の子への信頼。
ここに来てからずいぶん長い時間が経ったはずなのにまだ雨は止むことを知らず大地を濡らしていった。
メリーは箸を手に、皿の上に乱雑に転がる肉塊、そのひとかけらを口へと運んだ。
おそるおそるの一口目。色素の薄い桃色の唇から闇の中へと消えた。ゆっくりと薄白い頬が揺れる。
そして飲み込み、喉をすぎていく。
そこからは早かった。
もう一口。もう一口、と合間に白米を挟みながら、目の前の少女は箍がはずれたように口へと食べ物を送っていく。そして味噌汁で胃へと流した。

「おいしい。おいしいわ、蓮子」顔を上げたメリーの表情は初めての体験に対する驚きで輝いている。
「それが生き物の味よ」

生きていた。今では決して味わうことのできないもの。
受け入れたメリーはやはり強い女の子だと蓮子は思った。

「このご飯も、味噌汁も、野菜も、そして肉もどれもいつも口にしている風味を似せただけのものよりごちゃごちゃしていて複雑な味。それに食べたら歯と歯の隙間に挟まってしまう不便なところ。乱暴なはずなのにおいしい…」
「それが本当の『食べる』という行為よ。食べることを目的とした合成食材にはないもの。人の手が加わってしまえば人が不便に思わないようにするのを第一と考えるからね。それでもおいしいと思えるのは人間…いや、生き物がずっと昔から持っていた本来の食事における不便さをいくら科学が発達した時代になっても潜在的に考えてしまうのよ」
「大人ね、蓮子は」

「え?」面と向かって言われると少し気恥ずかしく思う言葉に戸惑い、つい聞き返してしまった。

「この鶏、蓮子が捌いてくれた。もう二十年も生きてきたのに私は見ているだけだったから」
「そんなこと、ないわ」蓮子は自嘲気味に笑う。
「私はメリーほど強くない」

それは謙遜ではない本音。
少しだけ考える時間を作ってから蓮子は口を開く。

「私ね。鳥を絞めるの、今日が初めてだったの」

メリーは言葉を返さない。ただ、先ほどまで持っていた箸と食器は机の上にのせ、蓮子の次の言葉を待っていた。
蓮子は語る。
あの日のこと。
担任が持ってきた麻袋の中身は生きた鶏だった。
足を縛られ袋から逆さにして取り出される鶏。
白い羽毛に赤い鶏冠。勇ましささえ感じる生き物をクラスメィトたちは興奮気味に見つめている。
そんな光景が蓮子には不自然だった。
どうして生き物を縛って不自由にしているの。
嫌がっているから鳴き声を発しているんでしょ。
だけど言葉にはできなかった。
端から見ているだけの自分。
引き抜かれる鶏をただじっと。見つめていると、赤い鶏冠、その中で埋もれるように蠢く漆黒の瞳と目が、合った。
ぐるりぐるりと水玉のように弾けてしまいそうな繊細な色をしていた。
そして担任は口を開く。

「これが今日の夕飯だ」
「でも先生…生きてますよ?」誰かが言った。
「そう。だからみんなで食べられるようにするんだ」

そこでようやくクラスメイトの何人かが恐怖を抱き腰を引いた。
担任もそうなることがわかっていたのだろう、嫌な者は終わるまで目に入らないところまで離れていても構わないと付け足した。
言われた通り数人が離れていった。蓮子は、離れなかった。
離れられなかった。
だからといって残ったみんなと一緒に目の前の命を摘むこともできなかった。
中途半端。
立って目の前で鶏が肉へと変わる行程を眺めるだけ。
蓮子に声をかける者は誰も居なかった。
肉塊となった鶏は切り分けられて野菜と一緒に焼かれた。
みんなは、離れていった者も残って絞めた者も誰も焼かれた肉を躊躇いなく口へと運んで食べた。
だけど蓮子には口にすることも箸で触れることさえも出来ず、野菜だけを食べた。少し焦げ目のついたそれは何の味もせず、腹だけが膨れる。
その日は眠れなかった。閉じた瞼の裏に繊細な瞳の色がこびりついていた。

「そんなことがあったから。絞めるって知識はあってもねずっと手は震えていたの。だからさ、メリーは強いよ。私が十年かかって理解したことをちゃんと受け入れてくれた」
「それは…蓮子が教えてくれたからよ。ありがとう」

「なんだか、恥ずかしいな」右手で頬を掻く。
二人は皿に欠片を残すことなく食べきった。

「ごちそうさまでした」「ごちそうさまでした」

両手のひらを重ねて生きるための糧となったものへ感謝を示す。
それからお茶をしながら腹をならし、風呂が沸いたら交代で入った。そして二人分、用意されていた布団を隣り合わせに敷いて電球の光を消す。
じっと蓮子は天井を見つめる。ほかに向ける場所がないからだ。
暗闇に目が慣れ、天井の木目が人の顔に見え少しおかしく思っていると隣からメリーの寝息が聞こえてきた。
物音を立てないよう静かに立ち上がって縁側の方へと向かう。雨音はいつしか聞こえなくなっていた。

夜に慣れた眼に星の光は眩しく輝く。

戸を開き、夜風を感じながら見える空は実家で見るものと同じくらい広いと思えた。景色を害するものは何一つなく、星が無数に散らばっている。
月は見えない。不思議に思ったものの皆既月食という言葉を数日前にニュースで言っていたのを思い出し納得する。
夜風は少し冷たく、珈琲が適度に温めてくれて心地いい。
苦味と熱さが脳を刺激する。
1/4ほど残してコップを端に置いた。
スカートのポケットからくしゃくしゃに縒れた白い箱を取り出す。その中に収めた一本をくわえ、ぶらりぶらりと唇で弄びながらライターも取り出した。透明感のあるピンクのプラスチックの安価な物だ。
ほんのりと漂う葉の香りを確かめながら火を点した。
柔らかな音をあげて詰まれた葉に火が侵攻を始める。呼吸にあわせた火の明滅。ちりちりと煙草の先から赤は下り、白い紙を黒い灰へと変えていく。
フィルタ越しに肺へと流れ込んでくるくすんだ紫煙。肺胞の一つ一つを苦しませるように吸い込む。濁り歪んだ甘い味。苦しい。
しかし一酸化炭素による軽い酸欠が起こす浮遊感と相まって苦しさは心地よさに変わっていく。
珈琲が通り過ぎたあとの乾いた喉が犯される。
身体がダメになっていく感覚。自分自身の手で悪くしている背徳感。不自由の無い息苦しい社会では決して感じることのできない生きていると認識できる気持ち。
人差し指と中指で挟み、親指で支えて煙草を一端口からはなして息を吐く。吐き出される青みがかった白い煙。穏やかな風にのせられて初夏の空にねっとりと溶け込んで消えていく。
白から黒へ。反転。
冷めた珈琲の紙コップへと灰を落とす。崩れた欠片は褐色の液体、その底を目指して静かに沈下していった。
眼を瞑る。夜。蓮子の眼にとって星と月は重要な要因ではあるものの一方的に受け取るだけの情報は時に煩わしくもある。一時的な、遮断。
静かだ。夜のにおい。まとわりつく煙草の臭い。首を少しだけ上に傾けると凝っていた首筋に力が加わる感覚は悪いものではなく、その姿勢を維持する。
ああ、と声にならない声が漏れた。瞼の裏にぷつりぷつり浮かび上がる黒い瞳。見たくないもの。思い出してしまったもの。あの日と同じだ。
だけどそれだけではない。十年越しにやり遂げたという高揚感が睡魔を寄せ付けない。
夜風がいっそう思考を明瞭なものとしていった。瞼に覆われた瞳のある位置を左手で触れる。『肉』と血の臭い。何度石鹸で洗っても薄まるだけの臭い。
命の鼓動が手のひらの中で弱まり止まる感触とともに今夜は消えそうになかった。
しばらく、刻がすぎるのを口元の煙草だけを感じながら待つ。まだ自分の心臓がいつもより早い周期で鼓動している。

「眠れないの?」

耳慣れた、友人のものにも思えたがどことなく背筋をなぞられるような粘り気のある大人の女の声。
どれくらい経った頃か、声をかけられて蓮子はゆっくりと瞼を開いた。星の座標はまだ十分ほどしか経過していないことを教えてくれる。
その間、灰へと変わりながらも形を保っていた部分をコップへ落とす。
布団を敷いた寝室へと通ずる廊下、声のした方向へと視線だけを向ける。
月光さえない夜、屋根の陰となってこちらへ歩み寄ってくる少女の表情は読めない。
少女は蓮子の傍らに腰を下ろす。林檎のような甘く酸味のある匂いが鼻腔を擽る。ウェーブのかかったブロンドの髪の隙間から紫の虹彩が蓮子へと向けられる。
「ええ」と蓮子はくわえていた半分以上が灰として消えた煙草を珈琲の中へと沈めて答える。じゅ、と短く火の潰える音がした。
「あんたの計らいでしょう」頬杖をついて、少女の方を見つめる。「メリーのそっくりさん」

「あら、せっかく服装も同じにしたのに気づいたの」
「まずは声から似せることね、えっと…」
「八雲紫」

少女は笑う。そして身につけていた紫を主体とした薄手の服が一瞬でドレスのようなフリルとリボンで彩られたものへ変化する。

「そんななりでえらく日本的な名前なのね」
「妖怪の名前なんて形式的な存在でしかないからね」
「判断さえできれば何でもいいと」

人間と同じように四肢が生え、こうして会話も交わせる相手を妖怪という異質な存在と思うには違和がありが口には出さない。

「そういうこと。それでどうだった? 私の計らい」
「…性格がいいとは思えないわね」蓮子は自分の指を見る。思った通りに動く自由な指だ。
「よく言われるわ」紫という少女は足を重ねて手の甲を顎に当てる。
「まるで私のことがわかっているみたい」蓮子は目を細めて紫を見やる。意識しなくても唇は弧の字を描いた。
「わかっているわよ、あなたのことなら…」そこで言葉は濁されたが、蓮子は腹部を布越しになぞってくる紫の繊細な指の蛇のような動きがこそばゆく気にしなかった。
「ちょっと、やめてよ」言いながら、蓮子は二人の距離を広げるべく身を横に動かす。名残惜しげな指の動きだけが虚空で揺れた。
「あらあら、初ね」蓮子を撫でていた方の手を口に当て、紫は笑う。
「気持ち悪いこと言わないで」
「いいじゃない、せっかく時間を作ったのに」
「それが、あなたの目的?」
「ええ」

言うやいなや紫の右手付近の空間が、裂けた。二つに分かれた空間はまるでそれが自然であるように歪みのない分断。彼女は両手を差し込む。
結界の裂け目。深い深い黒い色。
こちら側へと引き抜いたとき、差し込まれた時にはなにもなかったはずの手には一升瓶と二口の猪口あった。
「気が利いてるじゃない」先ほどまでの訝しげな表情を猫のようにいっぺんさせて見せる隠しきれない笑顔。アルコールは口にせずとも存在だけで人を嬉しい気分にする。
蓮子は一口の猪口を受け取った。
紫は一緒瓶を傾けて自分のものと蓮子のもの、二つを強く甘いアルコール臭を放つ透き通った液体で満たした。

「何年あなたとつきあってきたと思っているの」

二人は猪口を交わす。
小さな輪の中、手の動きに呼応して揺れ動く自分の虚像は不格好で口の中へと注ぎ込むと、むせた。
普段飲み慣れた日本酒よりも明らかに度数が高く、喉が焼けるように熱い。一口で浮遊感が身体中に広がった。
ポケットからハンカチを取り出して口元を拭う。
拭ったハンカチを再びポケットへ戻そうと紫から視線を外した時、両頬を強く掴まれた。
それは視界の固定。蓮子と紫、二人の目と目が見つめ合う。見つめさせられる。細い指からは考えられない強い力で蓮子の顔は完全に固定された。
その指は冷たかった。生きているとは思えなかった。それとも彼女が既に人間ではないからだろうか。

「どういう…意味よ」

身を引こうともがきながら蓮子は辛うじてそれだけ言葉にできた。彼女の指からは逃れられない。

「私も」

紫は蓮子へと顔を近づける。息も触れ合うほどに。魅惑的な彼女との距離に蓮子は息を飲む。

「マエリベリー・ハーンだと言っているの」

紫の瞳。月光の遮られた夜でさえ瞳は水晶玉のような人の心を舐め回す不可思議な輝きを持っている。
瞳の奥で紫とも黒ともつかぬ艶やかな煌きが羽ばたいた。
それが蝶だと蓮子は知っている。知識でもない、記憶でもない。人間の本能がその羽ばたきは蝶であると知っているのだ。
遠い過去、二匹の蝶が幾重にも交じり合った。世界中で明滅を繰り返す光の華を覆い尽くす。
羽ばたきの巻き起こす鱗粉。光は次第に色合いを薄めていった。
鱗粉が触れ合った物質の分解を始めたのだ。
全てを終わらせるために。
全てを始めるために。
緑。黄。青。紫。
様々な色彩の調和。
様々な物質の調和。
全ての魂の調和。
青虫から蛹、そして蝶へと昇華する過程と同じだ。汚れに溢れた物を全て交わらせ、新しい綺麗な物体へと変化する。
それは希望であり、恐怖だ。
だからそんな過去は知るはずのない人間という種、全ての記憶の根源に恐怖として刻まれている。
本能。
紫の見せた蝶は結界の境目を開き、空へと溶けていく。
「へぇ」掴み取られたまま蓮子は口を開いた。
素っ気のない言葉に紫は、
「もっと驚いてもいいんじゃない」と耳元で囁いた。

「どうしてだろうね…。声は似ていないし、仕草もスタイルも違うのに漂う雰囲気というのかな…そういうのがどことなくメリーと他人にしてはに過ぎていると感じたのよ」

紫は、掴んでいた手を離す。すると蓮子は支えを失ってか身体が傾き、紫に身体を預ける形になる。
肌の弾力。わずかに触れる絹糸のように繊細なブロンドの髪。冷たい肌なのに温かさを覚える。
メリーと同じ温かさ。
それはたった猪口一杯で火照った身体でも感じられた。
蓮子は手にしていた空の猪口を自分の脇に置く。何杯も立て続けに飲むにはきついと判断したからだ。

「お酒だけじゃ物足りない?」

その紫の問いに蓮子は無言の肯定をみせる。
再び隙間が開かれた。
次に取り出されたのは皿の上に盛りつけられた焼き鳥だ。
「皮肉のつもり?」蓮子は笑った。アルコールで気分が高まると彼女の笑いはトーンが一段階高くなる。
鶏肉と一括りされても皿の上には皮に、ねぎまに、つくねと種類豊かだった。
手近な皮の串を一本とって先端から一口食べるとタレの濃い味付けが美味しい。

「でも美味しいでしょう?」
「そりゃあ…」

言い返しながらも口へと運ぶ手を止めないのが蓮子の答えだ。

「それね、私が絞めた鶏よ」紫は口元を歪め、猫のようにねっとりとした視線で咀嚼する蓮子を見つめる。
「どおりで美味しいわけだ」

串に付いていた最後の一つを飲み込んで、蓮子は皿の上から一本を手に取った。

「そう言ってもらえて嬉しいわ」

刺された半分を横へずらして口にする。くちゃりくちゃり。皮の粘っこい弾力は程よい噛みごたえ。

「結界を越えてから、焼鳥屋にでもなったの?」

紫は言葉はなく高笑いを返事とした。

「相変わらず面白くない冗談ね、安心した」
「…悪かったわね」
「蓮子はいつもそうだったわ。お酒が入れば笑いどころのないことばっかり口にして」
「そう…だっけ」酒が入れば自身の記憶まで薄れてしまうのが蓮子だ。
「そうだったわよ」
「…ごめんね」
「謝ることじゃないわ、楽しかったから」

二人は腹を抱えて笑った。
紫は空になっている蓮子の猪口に酒を注ぐ。淵にかかり溢れそうなそれを蓮子は少しだけ口に含んだ。
辛口の味わいはタレの濃さを適度に洗い流してくれて一層美味しいと感じられた。

「今はどうなの?」
「え?」紫が聞き返したのは会話の流れが途切れてしばらく経ってから蓮子が聞いてきたからだ。
「楽しい? そっちの世界は」
「楽しいわよ、幻想郷は何モノも受け入れてくれるから」紫は正面に広がる夜空を見つめて答えた。

幻想郷。二人が目指した結界の向こう側にある世界の名。蓮子はその名を初めて知った。幻想。現実と対なるもっともらしい名前だと思った。

「何モノも…」
「ええ。現実から忘却された、忌避された存在を受け入れるための世界。科学に飲まれ人々の心から失われた妖怪や神の桃源郷」

紫は自らの目元を軽く触れる。結界の境目が見える瞳。
結界もそんな力も本来あってはならないもの。だからオカルトサークルという体面を繕って活動してきた。
「それって、さ」蓮子はすでに空になった猪口を両手で弄びながら口を開く。
空の猪口。両手で側面を撫でると凹凸のない滑らかさを感じる。両手を広げればあっさりと手の内に納まる小さな器。含める量は小さい故に少ない。
その眼は紫にではなく、足下の青黒い地面に向けられていた。
数刻前までの雨が蒸発できずに滞っている本来は黄土色の土。紫の眼を長く見続けることはできなかった。引きずり込まれてしまいそうな恐怖感。

「私一人じゃメリーを受け止められきれなかったんだよね」

蓮子は紫を見つめず言う。

「こうしてあなたが私に会いに来たのは幻想郷に私が居ないからなんでしょ」

紫は何も言わなかった。だから肯定と捉えた。
宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーン。奇妙な瞳を持っているから生まれた関係。
本質も力の重さも違っていても人とは違うという共通は互いを意識するには充分な理由となる。
そして生まれた関係は次第に心を、身体を許しあうまでになった。
そう蓮子は思っていた。
なのに幻想郷に宇佐見蓮子は居ない。
現実にマエリベリー・ハーンは居ない。
八雲紫には過去であっても宇佐見蓮子にはこれから今は寝室で眠るマエリベリー・ハーンと共に訪れる事態。
しばらくの静寂を経て、紫は首を左右に振った。衣服の擦れる音だけが闇夜で聞こえた。

「昔、虹の話をしてくれたでしょ」

紫の言葉。自分が彼女へ話したこと、当然蓮子は覚えている。

「あのときの蓮子みたいにがむしゃらに結界の向こう側だけを目指して、越えたら帰り道も蓮子も見失っていただけなの。蓮子に不満があったんじゃない、ただ私が愚かだっただけよ」

結界を越えて現実から失われたメリー。そのとき自分はどうしたのだろう。わからない。考えたくもなかった。
嘆くことしかできないのではないかと未来への不安が蓮子の心に積もっていく。
蓮子は再び白い箱を取り出した。ビニル加工された外箱にべっとりと汗が付着している。一本を取り出し、火を点ける。気分を落ち着かせるためゆっくりと紫煙を飲みこんだ。
「蓮子」紫を見る。人差し指だけを立てた右手。「一本もらえるかしら」
何も言わずに紫へと箱を差し出す。葉に巻かれた白い包装よりも細く白くみえる指先は不慣れな様子で一本を取り出した。茶色く染まった側を口にする。
蓮子は自分のものを吸いながら紫へとライタを渡そうとした。
しかし、その必要はなかった。
紫は蓮子へと顔を寄せる。
長く、リボンで結ばれた金の髪が肌にかかってこそばゆい。
整った鼻から流線的に結ばれる細い眉毛。
その下の睫が案外長いのだな、と蓮子は間近で見て初めて気づいた。
二つの先端が触れ合う。
手の着けられていない白。
火を得て侵攻を開始した黒。
元は同じだったもの。
同じになるように触れ合った。
息を吸う。
あわせて煙草の先端は赤く強さを増す。
流し目でこちらを見る紫にはメリーとは違う『女』の色気を感じた。
じゅ、と紙に火の移る音。
葉の焼ける甘い匂い。
目が慣れてもなお暗い夜の下、一つの火だけが二人を照らしていた。
紫は離れる。また同じ距離になる。

「へぇ、吸えるようになったんだ」
「実はずっと蓮子が吸っているの、気になってたの」紫はタバコを離し、紫煙を吐き出す。
「身体に障るわよ」これまで何度となくメリーから心配された言葉。皮肉を込めて言う。
「もうこんな身体になってしまったら気にすることでもないでしょ」紫は両手をあげる仕草。
「それは妖怪が人間よりも寿命の長い存在だと?」

「そういうこと。数十、数百倍長く生きていたら本質が人間の私にはただただ退屈な時間感覚なの」紫は話している間に燃え落ちた灰をコップへ落としながら息を吐く。
刻の経過は有機物と無機物、魂の存在に関わらず変化を与える。容姿も変われば考えも変わる。それが成長という緩やかな過程であれば蓮子も受け止め切れただろう、だが目の前の少女の出現はあまりにも唐突で、思考や言動の相違もあってどうしてもメリーの姿形を真似た別のものにしか思えなかった。
同じ存在だからこそ尚更嫌悪感も募ってしまう。

「それで、自分の身体を痛めつけていると」
「ええ」

紫の肯定が蓮子には悲しかった。
口から煙草を離して空に向かって吐く。
青白い煙は夜風に連れ去られて消えていく。
目元が熱くなる感覚。だけど今、誰かに、いや、隣に座る女に見られるのだけは嫌で見上げた姿勢で堪える。
甘い。甘い。苦い。苦しい。
じわりじわりと星が流れて、苦しみは、終わる。
「紫」声が聞こえた。少し離れた場所から土を蹴る足音と共に。
蓮子の記憶にはないその声は第三者の介入を意味した。
空から声の方へと視線をずらす。
本殿の裏。境内から回ってきたと思える位置に彼女はいた。
暗くてもそれが巫女装束であることがわかった。ここからは本殿に隠れて光しか確認できないが、境内側はいつの間にか明かりが灯り、人の喧噪が聞こえる。
「霊夢」隣に座っていた紫は立ち上がり、少女の方へと近づいていく。蓮子は立ち上がることなく二人を見つめた。

「どうしたのよ。折角の宴会なのにこんなところで飲んでるなんて」

「ごめんなさい。少し、懐かしい人と会ってね」こちらへと視線を向ける紫。霊夢と呼ばれた少女もそこで初めて蓮子の存在に気づいた。
「あんたは?」彼女は蓮子を珍しい、異質なものと捉えたのか訝しげに言葉をぶつけてくる。

「名乗るなら、まずは自分からじゃない?」

ち、と舌を打つ音。それは蓮子にとっていい印象を抱くものではなかったが、
「私は博麗霊夢。この神社の巫女よ」と返してくれたため根は悪い人ではないのだと思えた。

「それであんたは?」
「私は宇佐見蓮子。秘封倶楽部ってオカルトサークルをやってるわ」

立ち上がり、手を差し出す。『蓮子』と言ったとき彼女の目が細められたように見えた。その手が何を意味するか、霊夢もすぐにわかり握り返す。
霊夢の手は華奢な体躯に反して力強かった。
手を離す。握られた手の触れた部分が赤く染まっている。
蓮子は再び縁側に腰を下ろした。

「行ってきたら、メリー。私と話してばっかりでも詰まらないでしょ」

その言葉に紫は戸惑いの表情を向ける。本当にいいのかと。

「それに、今の関係の中に私は居ないでしょ。過去は大事だけど今はもっと大事なものよ」

紫の返答は手を差し伸べる行為だった。

「蓮子も、一緒に来ない?」

迷いのない純白の素肌。

「幻想郷は何ものも受け入れる。それは人間だっておんなじよ」

ずっと探し続けたもの。たどり着く機会がこんなときに訪れるとは思わず驚いた。彼女の手を掴めば、その先にあるのは幻想。だから蓮子は手を伸ばす。
しかし。
互いの指先が触れ合う直前で蓮子は手早く掴んだ。紫の手首を。
そして蓮子は彼女を引っ張る。紙のように軽い身体。
引き寄せた紫の唇へ、蓮子は自らの唇を重ねた。目は閉じる。紫の瞳を近くで見たくなかった。
ながいながい、永遠には決して届かない長い時間、唇は触れ合い続けた。
紫の力が唇まで弱くなっていくのがわかった。
だけど、そんな彼女の両肩を抱けるほどの覚悟を蓮子は持っていなかった。
唇を離す。

「誘ってくれたのはうれしいわ」それが蓮子の本心。
「でもね、私のメリーは貴女じゃない。今はぐっすりと眠ってるメリーだけが私のメリーよ。だから私は貴女の手を掴めない」
しっかりと、紫の瞳を見つめて蓮子は言った。
「…わかっていたわ」そう言って笑う紫の瞳が僅かに濡れていることに蓮子は気づかなかった。
紫は一人で立ち上がり、蓮子から離れるように歩を進める。
「あの虹の話。まだ続きがあるの」

そんな紫の姿を見つめて蓮子は口を開いた。紫も蓮子の言葉を聞いて振り返らずに歩を止める。
あの日、蓮子は帰る手段を失った。太陽は地平線へと沈み、闇が訪れる。
夜風が起こす木々のざわめきも、夏虫の鳴き声も暗ければ電気の光を灯すものと思い成長した子どもには怖いと感じる要因の一つでしかなかった。
見渡せる範囲に民家の光はなく、道を示すのは数十メートル置きに立てられた電柱に備え付けられた今にも切れてしまいそうな白色の蛍光灯の光だけだった。
泣いていてもどうしようもない。
そう思い、当てずっぽうでありながらも果ての見えない道を進む。
どれくらい進んだのか。営みの光が見えないまま時間だけが過ぎていった。
ここから先に進んでどこにたどり着くのだろうか。
戻って別の道を探すには気力がない。
ただ闇雲にペダルを漕ぐことしかできなかった。
そんな諦めと意地とが綯い交ぜになったどうしようもないもどかしさで自転車を蹴飛ばして、地面に横たわったときのこと。
星が写す時間と月が写す座標が見えた。
深夜と呼べる時間、何時の間にという驚きもあったが何よりも自分の居場所がわかったことへの喜びが大きかった。
地面に横たわった自転車を起こしてもう一度跨りペダルを漕ぐ。今度は当てずっぽうではない、月が帰るべき場所までの道しるべになってくれた。
それから小一時間かけて家に着いたら両親にこっぴどく叱られて、それから無事でよかったと優しく抱きしめられた。
月は蓮子の居場所を教えてくれる。

「だから私はメリーが帰るところを見失なわないように手を繋いでメリーの眼になる。メリーが私に幻想を見せてくれるようにね」

蓮子は立ち上がる。靴を履いていても土がぬかるんでいることがわかった。

「さよなら紫。霊夢さん、彼女をよろしくね」

ええ、と霊夢は素っ気なく。
「さよなら、蓮子」と顔は合わせずに紫は境内の方へと向かい、消えた。そこにあったはずの灯りと喧噪も今はなく、夜の静けさだけが残っていた。
靴を脱ぎ縁側へと上がる。
そこにうっすらと陰が浮かんでいた。
後ろを振り返る。
白く丸い月。
ここが現実の博麗神社である教えてくれる。
ふいに襲いかかってくる眠気。
アルコールの接種によるものだろうがこの感覚は悪くない。
月を後に蓮子はメリーの眠る部屋を目指した。
月はいつもそこにある。
そんな安心感が蓮子を深い眠りへと誘った。

翌日の朝。快晴。
起きて早々に二人は下山の準備を進めたものの蓮子の足取りは重い。
目覚めたときから酷い二日酔いが襲っていた。
口を開けば漏れるのはアルコールの臭いだけ。メリーは何時の間に私に黙って飲んでいたのかと蓮子を軽く小突いたら、蓮子は脳の揺れるような痛みが反響し数分悶絶した。
まともに立って歩けず、仕方がないので下山にはメリーが肩を貸した。それでも一歩一歩、歩くたびに軽い痛みが蓮子を襲う。

「…メリー…もっと、優しく歩いてよ」
「十分優しくしてるわよ」

はぁ、とメリーはため息をつく。「あと少しで車だからそれまで我慢なさい」

「うー」

痛みをこらえ舗装のされていない砂利道を進むと路傍に停められた緑の車が見えてきた。助手席に蓮子を寝かせて、運転席にはメリーが座る。
少し進んだ先にある少し幅の広まった道路で方向転換。あとは京都まで数時間、車中で揺らされるだけだ。

「どこでお酒なんかみつけたの?」
「覚えてない…」
「まったく。京都に帰ったら一杯奢ってよ」メリーは笑いながらアクセルを強める。

一層車内は揺れ、蓮子は「うん」と唸るように答えるのが精一杯だった。
蓮子は一つ嘘をついた。つかざるを得ない嘘だった。せめてもの償いにもう一杯くらい奢ってあげようと蓮子は思った。
京都までの道のりはまだ遠い。





宴というのは騒がしいと思っていても終わってしまうと寂しさが心を占める。
霊夢と紫は本殿に座り、月明かりを肴に余り物の酒で飲み交わしていた。
博麗神社は二人を除いて誰も居ない。

「あの子が、蓮子…ね。悪い子じゃなさそうで安心したわ」

品定めをするように霊夢は数刻前に逢った一人の人間を思い出す。黒と白の中に赤を交えた人間にしてはしっかりした服装を着た人間。差し出した手はか細く頼りないものだったが。
あの子。まるで昔から言葉として知っていたように口にする霊夢の様子に紫は背筋が凍る。幻想郷に来てからこれまでかつての親友の名を口にした記憶はない。
ならば何故?

「紫の宇佐見蓮子って寝言、少なくとも私と藍は聞いたことあるわよ」

言葉を失い、酔いは一瞬で覚めた。
「そんなに怯えないでよ」霊夢は気にとめていない仕草で杯を進める。

「蓮子って言うのは過去の女でしょ。幻想郷に居ない相手も、過去を捨てきれないあんたも恨む気はないわよ」

そこまで言って、霊夢は紫を押し倒す。抵抗する気はない。霊夢の考えを否定する気も。
背中に木のひんやりとした感覚、反する正面は目の前の少女に対して火照っているのがわかる。

「だから今は私のもの」

紫は言葉を返さない。霊夢の近づける唇を拒むことなく受け入れた。
せめて今だけは彼女に癒されるても罰はないだろう。
それは八雲紫の甘さでしかない。
「おかえりなさいませ、紫様」
霊夢と別れを告げ、現実とも幻想郷とも乖離した彼女ただ一人の世界へと紫は帰ってきた。ただ一人。
ここにあるのは一つの家屋とそれを囲む畑だけ。家の戸を開くと声がかけられた。
彼女を出迎えた八雲藍は彼女の式神。創造主たる八雲紫の利益を第一と考える主なくして存在し得ない生命。
紫は返事を返さずそのまま寝室へと向かい、うつ伏せに突っ伏した。
藍はそんな主人を溜息をついて付き従うも、寝室という個人の空間へ踏み込む愚は犯さない。それぞれの距離をとる。
「また、ダメだったんですね」
否定の言葉はない。藍は感情を表すことなく言葉を続ける。
「たった一人の少女、それも妖怪でもないただの人間がどうして諦めないのですか。今の巫女は随分とあなたを好いているように端から見ても思えます。あの巫女の愛では満足してよいのではないでしょうか」
まだ藍は言い終わるつもりはなかった。
しかし、それは遮られる。
紫の右手が藍の居る方向へと横凪に払う。
藍は「うるさい」という紫の小さな声を確かに聞いた。
その認知と同時に藍の肩から上が砕け散った。ぽっかりと肩と頭がなくなった空間。後方へと飛び散った肉片が廊下を、壁を、襖を赤く染め上げた。
しかし。
浮かび上がった染みは一瞬で、消えた。フィルムを巻き戻すように飛び散った肉片と血液が再び藍であった身体へと舞い戻り、藍を形づくる。
痛みは少しだけ、それが式だ。
相当荒れているな。そんな紫とは関わらないに越したことはない。彼女は一晩経てば落ち着いてくれる聡明さのある妖怪だ。
廊下を進む。
式の力はそれを生み出した術者の力量に左右される。
術者が強ければ強い式、弱ければ弱い式しか生まれない。
そして術者に敷が勝ることは決してない。
だから紫より結界の管理、博麗の巫女のサポートから毎日の家事まで任された藍は他の式とは比較にならないほど強い力を持っているのだ。
それは八雲紫が強大な力の持ち主であることに他ならない。なのになぜ式ではないこの妖怪はこうも非合理的であるのか。
八雲藍がいくら優れた頭脳を八雲紫から与えられていても一生理解できる日は来ない。
それでも紫の行為を否定する気は毛頭ない。
藍は橙の眠る寝室の襖を開けた。
開いた襖から差し込む光を感じたのだろう橙は寝ぼけ眼で、
「藍様、おはようございます」
また寝ぼけているな、と藍は微笑んだ。
「ちゃんと布団を被らないと風邪をひいてしまうよ」
寝相ではだけていた橙の布団を整え、藍も同じ布団に身を沈めた。
「はい」と返す橙の声はか細く、すぐに寝息が聞こえてきた。
こうして式でありながら自らの式を愛し、肌を合わせられるという幸せがあれば否定できないのだ。
意思を持つすべてのモノは非合理的だ。
自らの欲望は永遠に生まれ、決して満たされない。それでも少しでも満たすための行動に合理性など存在しない。
頭脳の優劣もない。
誰もが着飾った言葉で覆い隠していても欲望を満たすという本質は同じなのだ。
八雲紫さえも。
宇佐見蓮子という一人の少女。
失ってしまった彼女を取り戻すために紫は自分が生きるための世界を作り出し、その管理をするための式を作った。
ならば、満たされてしまえばどうなるのだろうか。
藍は未来視の力を持ち合わせていない。あくまで可能性でしかない。
それでも、八雲紫が宇佐見蓮子という存在で満たされてしまえばそれを除く全てが彼女にとって不要なものになるのではないか。
そう考えてしまうほど、八雲紫の情熱は熱いものに思えた。
だから満たされなければいい。
今回の宇佐見蓮子もハズレだった。
八雲紫の欲望を満たせる『宇佐見蓮子』は一人しかいない。
八雲紫がマエリベリー・ハーンという人間であった頃、行動を共にしていた宇佐見蓮子だ。
人の思考や予想が無数にあるのと同じく、世界も無数に存在する。その中からたった一人の人間を見つけることは砂漠に落とされた一カラットのダイヤモンドを見つけるに等しい。
途方もない時間と労力。
しかし紫にはそのどちらも持ち合わせている。
何れは訪れる終わり。
藍は不安であったが、目の前の橙の寝息だけは確かなもので彼女と離れ離れにならないように手をつないで眠りに落ちた。




―――二六四八五人目の宇佐見蓮子でも。
―――六三五代目の博麗の名を継ぐ少女でも。
八雲紫の中にぽっかりと抜けた穴を埋めることはできなかった。
閉じた瞼の隙間からこぼれ落ちる雫は枕に大きな染みとなって残る。
彼女の雫はやがて大きな虹の橋を築く。
八雲紫は深い眠りに落ちた。
夢を見る暇などない。
森矢司
http://shiraitomochi.blog.fc2.com/
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コメント



0.430簡易評価
7.100名前が無い程度の能力削除
甘い秘封だー!と思ったらどこか恐ろしいお話だった…!
特に後半の奇妙な雰囲気がとても良かったです。
8.100キリク削除
ooooo
10.90名前が無い程度の能力削除
説明的な描写がややくどいと感じましたが、邂逅からの所はとても見事でした。二人のこれからにに幸を
12.無評価名前が無い程度の能力削除
いい!
13.100名前が無い程度の能力削除
↑評価付け忘れました、ごめんなさい!
15.100名前が無い程度の能力削除
よかった
16.703削除
力作というのは感じました。
しかしどうにも伝わってくるものが薄かったというか……