昨夜遅くから降り始めた雪は、今日になっても止んではいなかった。
これとこれと……こんなもんだな
「あら、店主さん。数え間違えてない?」
差し出された算盤の目を一通り目で追ってから、風見幽香は口を開いた。店主の腕の横にはこの冬の間に読むつもりで買おうと思った本が五冊ほど積まれている。寒風が、立て付けの悪い戸をがたがたと揺らしている。
どうせ年の瀬だ。一冊はタダにしておくよ
店主は算盤を引っ込めながらそう言うと、豪快に笑った。静かだからだろう。お世辞にも明るいとは言えない店内に一際大きくその声は響いた。店主は『さあびす』ってやつだと付け足す。
「本当にいいの?」
タダでもらえるのなら勿論貰うが、念のために幽香はもう一度店主に尋ねる。申し訳ないとかそのような気持ちは一切無い。だが、もし理由があるなら聞いてみたかったのだ。店主は今の今まで笑っていた顔を引き締め、口を開く。
確かにアンタはおっかない妖怪かもしんねえが、ここでは客だ。で、店主は俺だ。よく訪れる客に対して感謝の気持ちって奴をしめしちゃあいけねえのかい?
幽香は薄く微笑んで、金を払う。店主は笑顔に戻るとその金を受け取った。
そういやなあ、さっきまで立ち読みしてた兄ちゃんいたろ?
店主のいきなりの言葉に、幽香は持ってきた手提げの鞄に本を詰めている手を止めた。確かに店に入ってきたときに書生風の男が視界に入ったのを思い出す。言われて店内を見渡すと、帰ったのだろう、その姿は消えていた。
あの兄ちゃんな、アンタに『ぞっこん』らしいぜ。
店主の顔は笑顔というよりもにやけ顔になっている。店主に聞くと、どうやら自分に会うためにこの本屋によく訪れるらしい。一目ぼれなんだとよと店主は結んだ。
何も言わずに鞄を持ち、店を後にする。少し立て付けの悪い引き戸を開けて、幽香は店主に振り返った。
「もし今度あの人間が来たら伝えて頂戴」
私に気があるのなら、こそこそせずに堂々としなさいと。
店を後にしてもなお、店主の笑い声が聞こえていた。
年の瀬も迫っているからか、雪がちらつく人里の大通りはそれでも沢山の人で溢れかえっていた。威勢のいい客引きの声に、井戸端会議をする女性の声。子ども達の大きな声。それらが一つの音楽となって、通りを賑わわせている。
普段とは違う赤い傘と、白いコート。傘を深く差しながら喧騒に耳を傾ける。煩いのは好きではないが、こういうのもたまには悪くないとしばらくの間自然に奏でられる音楽を楽しんだ。
門が視界に入ったところで、小さくなった喧騒の間に何か違う音が入ってきたのに気付いた。少し歩を進めると、横の路地に子ども達の姿があった。兄弟なのだろう、兄のように見える少年が弟の膝を押さえて未だに泣き続けている。転んでしまったようだ。
大きいほうの少年が幽香に気付く。だが、その顔は幽香と目を合わせたところで止まった。緑の髪に赤い瞳。どう見ても里の人間ではないことは分かる。兄が固まる後ろで弟の泣き声は更に大きくなった。
「……どいていなさい」
手でどける仕草で、兄を横に移動させる。弟の前にしゃがみこむ。その膝は赤く擦り切れていた。油断なく自分の挙動を見る兄を視界の片隅に捉えながら、幽香は弟の膝の前に手をかざした。
兄弟の目が見開かれる。幽香のかざした手が淡く光った。発行が収まって幽香がその手をどけると、弟の膝は綺麗な肌色へと戻っていた。その手を戻さずに弟の頭を撫でる。
「今度からは、もっと注意しなさい」
立ち上がり、兄のほうを見る。視線に映ったその顔にはばつの悪さが浮かんでいた。予想外のことに戸惑っていると言った方が正しいかもしれない。
「もっとよく弟を見てあげなさい」
それじゃあねと一言。ありがとうという言葉を背中で聞きながら幽香はその場所を後にした。
嫌いなものの中に人間と弱者と入ることからもわかるように、幽香は人間が好きではない。だがそれはあくまで種族として一括りにした場合であって、例外というのも勿論存在する。
先程まで買い物をしていた古書店の主人は、個人的に気に入っている。妖怪として知られている自分を前にしてもあそこまで素直な自分をさらけ出し、一商人として接してくるところの精神的な強さを見ることが出来る。
人間の中でも、別に子どもは嫌いではない。単純に風見幽香としての興味の対象外であるからだ。もし見た目が子どもでも何かしら強い部分が見受けられるならば話は別だが。博麗霊夢などはいい例だろう。
ただ只管に、自分の最も得意とする暴力で物事を判断していた時代もあった。だが今は、それが基準になるほど世の中は廃れているわけではないし、強さというものを全て闘争の中に求めるものではないと幽香は考えている。
勿論降りかかる火の粉は払うが、それは子どものために鬼にもなる母のようなものだ。自分だけがやたらと暴力至上主義のように思われるのは心外だが、いちいちそれを説明すのも面倒くさい。自分だけが知っていればいいことなのだ。
「優しいのね」
振り向く。里の門に寄りかかっている知り合い……秋穣子の姿を見て軽く息を吐いた。人に近いこの神とは、里の中などでよく合うのだ。相手も自然を愛する者として、話し合ったりする程度の中ではある。
「見てたの」
「意外。子どもには優しいとは聞いたことがあるけど、初めて見たわ」
「別に子どもは嫌いじゃあないわよ。で、何か用かしら?」
怒らない怒らないと笑いながら、穣子は幽香の目の前に酒瓶を差し出すと、それを鞄の中に突っ込んだ。
「……なに、これ」
「いやあ、今年は豊作だったからって色々な所から物を貰っちゃって。私と姉さんは充分すぎるくらいお酒貰っちゃったから貴女にあげるわ。いいもの見せてもらったお礼としてね」
「そう」
二、三の会話を交わして幽香は穣子と別れた。雲は一段と厚く、重くなっている。この様子だと夜はもっと降るだろう。地面は既に雪に覆われている。このまま白い世界を散歩するのも悪くはないかもしれない。
幽香は雪が好きだ。ここまで優しく、そして残酷な自然の創造物は無い。花たちにしてみたら天敵かもしれないが、自然の摂理というものを解っているつもりである。
音の無かった世界に、彼女の足音だけが響く。
家までもう少しというところで、何かが視線の端から飛び込んできた。
無造作に掴む。目線の高さまで持ってくると、後ろ襟を掴まれた春告精……リリーホワイトが目を回していた。
「何をやっているの?」
「はるる……あ、ゆうかさん」
幽香を目の前にしても全く臆する様子も無く、リリーは挨拶をする。この春告精とも付き合いは多いほうだ。茶に招いたりする事もある。話しているとこのふわふわとした雰囲気に疲れることもあるのだが。
事情を聞こうと思ったが、その前に何かの違和感が幽香を止めた。まじまじとリリーを見て、得心する。
「貴女、なんかちいちゃくない?」
「そうなんですよう。助けてくださいよう」
その姿は、両手に乗ってしまうほどにまで小さくなっていた。アリスがリリー人形と言ったら思わず信じそうになってしまうほどのダウンサイズである。
春先に最大の力を出すリリーではあるが、その反動として他の季節では何かしらトラブルを抱えていることが多い。大体は力が出ない、眠いといった程度のものだが、時に不思議なことになることもある。今の状態もその一つなのだろう。
話を聞くと、どうやら小さくなったことで他の妖精たちにからかわれていたらしい。主犯である氷精との弾幕勝負から逃げてきたとの事だった。四六時中、どんな時でも愚かなまでに元気な氷精の姿を浮かべる。正しく彼女の季節なのだ。煩さも普段より倍程度にはなっているだろう。
助けてくださいようと懇願する春告精の姿に、小動物的な感情を抱く。しょうがないわねと呟いて、幽香はリリーをコートの中へと招いた。
「ゆうかさんのなか、あったかいですー」
「……人によっては卑猥に聞こえるわね」
「ひわいって何ですかー?」
「貴女は知らなくていいの」
リリーの頭をコートの中に押し込む。何かもごもごと言っているが気にしないことにした。
しばらく歩くと、噂の氷精が騒ぎながら辺りを飛び回っている。ついてきたのか巻き込まれたのか。大妖精が一緒にいるようだが、あの顔を見る限りでは後者だろう。少しばかり幽香は同情した。
「こ、こんにちは」
「おお、ゆうかだ!流石あたいね。あたいの兵(つわもの)の匂いにつられていろんな奴が集まってくる!」
「……帰り道なだけなのだけれど」
どうやら冬の気配と比例して頭の中は春模様になっていくようだ。その点ではリリーと正反対と言ってもいいだろう。だが、どうやら本調子になって少しばかり増長しているらしい。
幽香の溜息など全く気にせずにチルノは口上を垂れる。どうやら彼女の中では既に弾幕勝負をすることは決定事項になっているようだ。何時もならばいじめてやってもよいのだが、こうも寒いと手を上げるのも億劫に感じられる。そこで、先程よりも冷気が強くなっていることに幽香は気付いた。
「そうね、勝負してもいいわよ」
「ふふふ、やはり兵同士はひかれあう運命に……」
「あんたじゃあないわよ。そこの。出てきなさい」
幽香の目線の先、灰色の空をチルノと大妖精が見上げる。空にあるのは一つの小さな黒点、それが段々と大きくなる。その黒点の正体が影であり、それがレティ・ホワイトロックだと分かるのに、それほどの時間はかからなかった。
「くろまくー」
「一年ぶりね」
「レティ!」
先程までの挑戦的な態度とは打って変わって、チルノは元気よくレティの胸に飛び込んだ。
「いつ来たの?」
「ついさっきよ」
「こんにちわ、レティさん」
「ええ。大妖精もお久しぶりね」
チルノの頭を撫でながら、レティは幽香に視線を向ける。その目はひどく穏やかなものだった。
お互いの好きな季節の関係か、あまり付き合いの噂などは流れないが、幽香はレティのことを嫌ってはいない。レティも同様だった。会えば酒くらいは酌み交わす仲である。
幽香は胸元に違和感を感じた。見るとコートが微かだが動いている。リリーも挨拶がしたいのだろう。そこらの妖精などよりは余程大人な対応をするレティは、リリーも好いていた。別に出しても構わないのだが、折角やかましい氷精が大人しくなったのである。ここでまた面倒なことになるのも御免だと、幽香は軽く胸元を叩いた。
「ねえレティ、遊ぼうよ。あたいとっても強くなったんだ!」
「去年も同じ台詞を言ってたわよ。そうねえ、それだったら神社に行きなさい。巫女はきっと炬燵に入っているから」
「強いの?」
「無理矢理炬燵から出してみなさい。幻想郷最強の姿が拝めるわよ」
「おお!大ちゃん、行こう!」
「えっ、ちょっ、チルノちゃあん」
慌しく飛んでいく二匹の妖精を眺めて、レティはもう出てきていいわよと口を開いた。幽香の胸元からリリーが顔を出す。
「レティさん、ふゆですよお」
「ふふっ、相変わらずね。こんにちは、リリー」
にぱっと笑うリリーの笑顔に、つられてレティも笑顔を返す。そのままレティが軽く指を鳴らすと、周囲の冷気が穏やかになった。冷気を操ったのだろう。
「寄ってく?お茶くらいならご馳走するわよ」
「遠慮しておくわ。今日は散歩をしたい気分だから」
「そう」
良い冬を。そう言ったレティの周りに雪が舞い上がる。吹雪が止んだ時にはレティの姿は消えていた。少ししてから、また寒さがぶり返してきた。先程まで嬉々としてレティと話していたリリーは大きく身震いしてから再び幽香のコートの中に潜り込んだ。
「一々きざったらしいわねえ」
「かっこいいですー」
あんなことを言ってはいたが、あれで意外と気まぐれなのを幽香は知っている。何時の冬だったかは忘れてしまったが、さっきと同じようなことを言って突然家に押しかけられたことがある。その時は幽香は既に寝てしまっていたので後日知ることになったのだが。
その時に色々と文句を言われたことを思い出して、今日は鍵を開けておこうと幽香は溜息を吐いた。
「どうしたのですか?」
「なんでもないわよ」
「はい、どうぞ」
「うわあ……ありがとうなのですよ」
自宅へと着いた幽香は暖炉前の椅子に座るリリーにマグカップを差し出した。中に注がれているココアを見て、リリーは元々輝いている瞳を更に光らせている。そこにだけ小さな春が訪れたようで、幽香は目を細めた。
ふと幽香が窓を見ると、雲に阻まれながらも届いていた日の光はすっかりと消えており、雪の日特有の不思議な明るさに包まれている。雪は人里にいたときよりも少しではあるが、激しさを増していた。
「美味しいですよー」
「ふふっ、それはよかった。舌、火傷しないようにね」
「はいですよー」
普段よりも二回り以上小さいリリーにとっては、マグカップも随分と大きく見える。ちびちびと飲んではとろけた表情を浮かべる様子は、まさしく小動物である。リリーの隣に安楽椅子を動かし、自分も座ると先程買った本を開いた。
幽香から見れば人間は弱い。勿論例外はいるが。だが、それと同じくらいに面白い生き物であるとも考えていた。
例えばこの本にしても、同じテーマを取り扱ってもその内容は書き手によって千差万別になる。どのように物語が進んでいくのか、そして結末はどうなるのか。少なくとも本を読んでいる時、幽香は大妖怪などではなく、一読書家となる。暇つぶしのために始めた行為は、いつしか幽香の個人的な趣味となっていた。
読書に関して、幽香は雑食である。難解な西洋の推理小説に嬉々として取り組むこともあれば、子供向けの寝物語や童話なども読む。ゆっくりと味わいながら読むことで、存分に自分の感性と作者の用意した物語の世界に浸るのだ。
あそこの本屋はどういう経緯を辿っているかは分からないが、外の世界の本も仕入れている。書物といえば半妖が営む古道具屋やビブリオマニアの魔女がいる大図書館もあるが、ただ本を読むという行為で使うことはあまり無い。個人的に古書店の主人を気に入っているのだろう。
何回かページを捲ったところで、足元に微かな違和感があることに気付く。視線を本から離すと、足元でリリーが幽香のスカートを掴んでいた。マグカップが無いということは、既にココアは飲み終えているようだ。
「おかわり?」
「よんでください」
思いもよらないリリーの一言に、幽香は思わず、はあと聞き返してしまった。言うが早いか、幽香の膝元にリリーがちょこんと座る。どうやら帰る気は無いらしい。
「読みたいの?」
「リリーもごほんをよみたいのですよ」
「……難しいわよ。これ」
「ゆうかさんがよんでくれればいいのですよ!」
「……はあ」
溜息を一つ。読書の邪魔をされるのは確かに腹立たしいが、流石に問答無用で放り出すのは気が引けた。この大妖怪、存外純粋なものに弱いのである。
今読んでいる推理小説は多分リリーでは理解するのは難しいだろう。仕方が無いので読む本を変えることにした。幽香が手を軽く上げると、窓際に置いてある鉢植えから蔓が伸びた。それは本棚へと向かうと、一冊の本を器用に絡めとって幽香の前に差し出す。今さっきまで読んでいた本を蔓に渡すと、それは本棚へと綺麗に納められた。
「おおー……かっこいいですよー」
「大したことじゃないわ。それより、これ読んであげるから終わったら帰りなさい」
「はいですよー」
持ってきた本は、誰でも知っている英雄の話である。表紙を開くと、リリーは描かれている絵をじっと見つめた。どうやら興味津々のようだ。その様子を見て、幽香は軽く息を吸い込んだ。
「むかしむかし、あるところに……」
「……めでたし、めでたし」
幽香は本を閉じると、先程と同じように蔓に本を渡した。リリーは既に可愛い寝息を立てている。分かってはいたが、途中でやめるのも野暮な気がしたのだ。蔓はそのまま戻らずに、廊下の奥へと伸びていく。
そっとリリーの帽子を取って、幽香はその髪を撫でる。何度か手で梳いている間に、蔓が幽香の前へと戻ってくる。そこには、厚手の毛布が絡まっていた。
気付かれないように、ゆっくりと毛布をかける。暖炉の火が、ぱちぱちと鳴っていた。
窓を見る。雪が止む気配は無い。仕方が無いわねえと誰に聞こえるとも無く呟き、幽香はリリーを深く抱き寄せる。永い妖怪の生。時にはこんな時間の使い方もいいだろう。そう思って幽香も瞼を閉じた。
「嫌ねえ全く。寒いったらありゃあしない」
「いいじゃない。雪を見ながらお酒を楽しめるのだから。ねえ女将さん」
夜雀が営む屋台に、秋の神達の姿はあった。他に客はいない。女将の料理の音だけが、薄暗い世界に響いている。
静葉と穣子は時々自分達で食材を持ち寄って、屋台に来ることがある。やはり冬だと客の数も少なくなる。静かな場を好む姉妹にとっては、好きではないが、嫌いでもなかった。
「春は桜、夏は花火。秋は紅葉冬は雪。お酒を楽しめるだけ私達は幸せよ」
「そんなものかしら」
静葉の言葉に穣子は言葉を濁したが、追及はしない。たしかに酒は美味いのだから。
「いらっしゃいませ」
「あら、お二人さん」
「げっ、雪女」
暖簾をくぐったレティを見て、穣子は露骨に顔を歪める。静葉は特に表情を変えず、レティを隣に勧める。
「花妖怪に絡もうと思ったのだけれど、先客がいたのよ」
「あーあー、これからしばらくは寒い日が続くわ」
「ごめんなさいね、妹の口が悪くて」
構わないわとレティが口を開くと、その前にグラスが置かれる。安物だけどというミスティアの言葉を聞いて、レティは微笑んだ。
「まあとりあえず、今年の秋もお疲れ様」
「ありがとう。いい冬を期待しているわ」
「寒くしすぎないでよね」
それぞれに、酒を掲げる。いつの間にかミスティアもその輪に加わっていた。
「乾杯」
ある冬の夜は、静かに過ぎていく。
これとこれと……こんなもんだな
「あら、店主さん。数え間違えてない?」
差し出された算盤の目を一通り目で追ってから、風見幽香は口を開いた。店主の腕の横にはこの冬の間に読むつもりで買おうと思った本が五冊ほど積まれている。寒風が、立て付けの悪い戸をがたがたと揺らしている。
どうせ年の瀬だ。一冊はタダにしておくよ
店主は算盤を引っ込めながらそう言うと、豪快に笑った。静かだからだろう。お世辞にも明るいとは言えない店内に一際大きくその声は響いた。店主は『さあびす』ってやつだと付け足す。
「本当にいいの?」
タダでもらえるのなら勿論貰うが、念のために幽香はもう一度店主に尋ねる。申し訳ないとかそのような気持ちは一切無い。だが、もし理由があるなら聞いてみたかったのだ。店主は今の今まで笑っていた顔を引き締め、口を開く。
確かにアンタはおっかない妖怪かもしんねえが、ここでは客だ。で、店主は俺だ。よく訪れる客に対して感謝の気持ちって奴をしめしちゃあいけねえのかい?
幽香は薄く微笑んで、金を払う。店主は笑顔に戻るとその金を受け取った。
そういやなあ、さっきまで立ち読みしてた兄ちゃんいたろ?
店主のいきなりの言葉に、幽香は持ってきた手提げの鞄に本を詰めている手を止めた。確かに店に入ってきたときに書生風の男が視界に入ったのを思い出す。言われて店内を見渡すと、帰ったのだろう、その姿は消えていた。
あの兄ちゃんな、アンタに『ぞっこん』らしいぜ。
店主の顔は笑顔というよりもにやけ顔になっている。店主に聞くと、どうやら自分に会うためにこの本屋によく訪れるらしい。一目ぼれなんだとよと店主は結んだ。
何も言わずに鞄を持ち、店を後にする。少し立て付けの悪い引き戸を開けて、幽香は店主に振り返った。
「もし今度あの人間が来たら伝えて頂戴」
私に気があるのなら、こそこそせずに堂々としなさいと。
店を後にしてもなお、店主の笑い声が聞こえていた。
年の瀬も迫っているからか、雪がちらつく人里の大通りはそれでも沢山の人で溢れかえっていた。威勢のいい客引きの声に、井戸端会議をする女性の声。子ども達の大きな声。それらが一つの音楽となって、通りを賑わわせている。
普段とは違う赤い傘と、白いコート。傘を深く差しながら喧騒に耳を傾ける。煩いのは好きではないが、こういうのもたまには悪くないとしばらくの間自然に奏でられる音楽を楽しんだ。
門が視界に入ったところで、小さくなった喧騒の間に何か違う音が入ってきたのに気付いた。少し歩を進めると、横の路地に子ども達の姿があった。兄弟なのだろう、兄のように見える少年が弟の膝を押さえて未だに泣き続けている。転んでしまったようだ。
大きいほうの少年が幽香に気付く。だが、その顔は幽香と目を合わせたところで止まった。緑の髪に赤い瞳。どう見ても里の人間ではないことは分かる。兄が固まる後ろで弟の泣き声は更に大きくなった。
「……どいていなさい」
手でどける仕草で、兄を横に移動させる。弟の前にしゃがみこむ。その膝は赤く擦り切れていた。油断なく自分の挙動を見る兄を視界の片隅に捉えながら、幽香は弟の膝の前に手をかざした。
兄弟の目が見開かれる。幽香のかざした手が淡く光った。発行が収まって幽香がその手をどけると、弟の膝は綺麗な肌色へと戻っていた。その手を戻さずに弟の頭を撫でる。
「今度からは、もっと注意しなさい」
立ち上がり、兄のほうを見る。視線に映ったその顔にはばつの悪さが浮かんでいた。予想外のことに戸惑っていると言った方が正しいかもしれない。
「もっとよく弟を見てあげなさい」
それじゃあねと一言。ありがとうという言葉を背中で聞きながら幽香はその場所を後にした。
嫌いなものの中に人間と弱者と入ることからもわかるように、幽香は人間が好きではない。だがそれはあくまで種族として一括りにした場合であって、例外というのも勿論存在する。
先程まで買い物をしていた古書店の主人は、個人的に気に入っている。妖怪として知られている自分を前にしてもあそこまで素直な自分をさらけ出し、一商人として接してくるところの精神的な強さを見ることが出来る。
人間の中でも、別に子どもは嫌いではない。単純に風見幽香としての興味の対象外であるからだ。もし見た目が子どもでも何かしら強い部分が見受けられるならば話は別だが。博麗霊夢などはいい例だろう。
ただ只管に、自分の最も得意とする暴力で物事を判断していた時代もあった。だが今は、それが基準になるほど世の中は廃れているわけではないし、強さというものを全て闘争の中に求めるものではないと幽香は考えている。
勿論降りかかる火の粉は払うが、それは子どものために鬼にもなる母のようなものだ。自分だけがやたらと暴力至上主義のように思われるのは心外だが、いちいちそれを説明すのも面倒くさい。自分だけが知っていればいいことなのだ。
「優しいのね」
振り向く。里の門に寄りかかっている知り合い……秋穣子の姿を見て軽く息を吐いた。人に近いこの神とは、里の中などでよく合うのだ。相手も自然を愛する者として、話し合ったりする程度の中ではある。
「見てたの」
「意外。子どもには優しいとは聞いたことがあるけど、初めて見たわ」
「別に子どもは嫌いじゃあないわよ。で、何か用かしら?」
怒らない怒らないと笑いながら、穣子は幽香の目の前に酒瓶を差し出すと、それを鞄の中に突っ込んだ。
「……なに、これ」
「いやあ、今年は豊作だったからって色々な所から物を貰っちゃって。私と姉さんは充分すぎるくらいお酒貰っちゃったから貴女にあげるわ。いいもの見せてもらったお礼としてね」
「そう」
二、三の会話を交わして幽香は穣子と別れた。雲は一段と厚く、重くなっている。この様子だと夜はもっと降るだろう。地面は既に雪に覆われている。このまま白い世界を散歩するのも悪くはないかもしれない。
幽香は雪が好きだ。ここまで優しく、そして残酷な自然の創造物は無い。花たちにしてみたら天敵かもしれないが、自然の摂理というものを解っているつもりである。
音の無かった世界に、彼女の足音だけが響く。
家までもう少しというところで、何かが視線の端から飛び込んできた。
無造作に掴む。目線の高さまで持ってくると、後ろ襟を掴まれた春告精……リリーホワイトが目を回していた。
「何をやっているの?」
「はるる……あ、ゆうかさん」
幽香を目の前にしても全く臆する様子も無く、リリーは挨拶をする。この春告精とも付き合いは多いほうだ。茶に招いたりする事もある。話しているとこのふわふわとした雰囲気に疲れることもあるのだが。
事情を聞こうと思ったが、その前に何かの違和感が幽香を止めた。まじまじとリリーを見て、得心する。
「貴女、なんかちいちゃくない?」
「そうなんですよう。助けてくださいよう」
その姿は、両手に乗ってしまうほどにまで小さくなっていた。アリスがリリー人形と言ったら思わず信じそうになってしまうほどのダウンサイズである。
春先に最大の力を出すリリーではあるが、その反動として他の季節では何かしらトラブルを抱えていることが多い。大体は力が出ない、眠いといった程度のものだが、時に不思議なことになることもある。今の状態もその一つなのだろう。
話を聞くと、どうやら小さくなったことで他の妖精たちにからかわれていたらしい。主犯である氷精との弾幕勝負から逃げてきたとの事だった。四六時中、どんな時でも愚かなまでに元気な氷精の姿を浮かべる。正しく彼女の季節なのだ。煩さも普段より倍程度にはなっているだろう。
助けてくださいようと懇願する春告精の姿に、小動物的な感情を抱く。しょうがないわねと呟いて、幽香はリリーをコートの中へと招いた。
「ゆうかさんのなか、あったかいですー」
「……人によっては卑猥に聞こえるわね」
「ひわいって何ですかー?」
「貴女は知らなくていいの」
リリーの頭をコートの中に押し込む。何かもごもごと言っているが気にしないことにした。
しばらく歩くと、噂の氷精が騒ぎながら辺りを飛び回っている。ついてきたのか巻き込まれたのか。大妖精が一緒にいるようだが、あの顔を見る限りでは後者だろう。少しばかり幽香は同情した。
「こ、こんにちは」
「おお、ゆうかだ!流石あたいね。あたいの兵(つわもの)の匂いにつられていろんな奴が集まってくる!」
「……帰り道なだけなのだけれど」
どうやら冬の気配と比例して頭の中は春模様になっていくようだ。その点ではリリーと正反対と言ってもいいだろう。だが、どうやら本調子になって少しばかり増長しているらしい。
幽香の溜息など全く気にせずにチルノは口上を垂れる。どうやら彼女の中では既に弾幕勝負をすることは決定事項になっているようだ。何時もならばいじめてやってもよいのだが、こうも寒いと手を上げるのも億劫に感じられる。そこで、先程よりも冷気が強くなっていることに幽香は気付いた。
「そうね、勝負してもいいわよ」
「ふふふ、やはり兵同士はひかれあう運命に……」
「あんたじゃあないわよ。そこの。出てきなさい」
幽香の目線の先、灰色の空をチルノと大妖精が見上げる。空にあるのは一つの小さな黒点、それが段々と大きくなる。その黒点の正体が影であり、それがレティ・ホワイトロックだと分かるのに、それほどの時間はかからなかった。
「くろまくー」
「一年ぶりね」
「レティ!」
先程までの挑戦的な態度とは打って変わって、チルノは元気よくレティの胸に飛び込んだ。
「いつ来たの?」
「ついさっきよ」
「こんにちわ、レティさん」
「ええ。大妖精もお久しぶりね」
チルノの頭を撫でながら、レティは幽香に視線を向ける。その目はひどく穏やかなものだった。
お互いの好きな季節の関係か、あまり付き合いの噂などは流れないが、幽香はレティのことを嫌ってはいない。レティも同様だった。会えば酒くらいは酌み交わす仲である。
幽香は胸元に違和感を感じた。見るとコートが微かだが動いている。リリーも挨拶がしたいのだろう。そこらの妖精などよりは余程大人な対応をするレティは、リリーも好いていた。別に出しても構わないのだが、折角やかましい氷精が大人しくなったのである。ここでまた面倒なことになるのも御免だと、幽香は軽く胸元を叩いた。
「ねえレティ、遊ぼうよ。あたいとっても強くなったんだ!」
「去年も同じ台詞を言ってたわよ。そうねえ、それだったら神社に行きなさい。巫女はきっと炬燵に入っているから」
「強いの?」
「無理矢理炬燵から出してみなさい。幻想郷最強の姿が拝めるわよ」
「おお!大ちゃん、行こう!」
「えっ、ちょっ、チルノちゃあん」
慌しく飛んでいく二匹の妖精を眺めて、レティはもう出てきていいわよと口を開いた。幽香の胸元からリリーが顔を出す。
「レティさん、ふゆですよお」
「ふふっ、相変わらずね。こんにちは、リリー」
にぱっと笑うリリーの笑顔に、つられてレティも笑顔を返す。そのままレティが軽く指を鳴らすと、周囲の冷気が穏やかになった。冷気を操ったのだろう。
「寄ってく?お茶くらいならご馳走するわよ」
「遠慮しておくわ。今日は散歩をしたい気分だから」
「そう」
良い冬を。そう言ったレティの周りに雪が舞い上がる。吹雪が止んだ時にはレティの姿は消えていた。少ししてから、また寒さがぶり返してきた。先程まで嬉々としてレティと話していたリリーは大きく身震いしてから再び幽香のコートの中に潜り込んだ。
「一々きざったらしいわねえ」
「かっこいいですー」
あんなことを言ってはいたが、あれで意外と気まぐれなのを幽香は知っている。何時の冬だったかは忘れてしまったが、さっきと同じようなことを言って突然家に押しかけられたことがある。その時は幽香は既に寝てしまっていたので後日知ることになったのだが。
その時に色々と文句を言われたことを思い出して、今日は鍵を開けておこうと幽香は溜息を吐いた。
「どうしたのですか?」
「なんでもないわよ」
「はい、どうぞ」
「うわあ……ありがとうなのですよ」
自宅へと着いた幽香は暖炉前の椅子に座るリリーにマグカップを差し出した。中に注がれているココアを見て、リリーは元々輝いている瞳を更に光らせている。そこにだけ小さな春が訪れたようで、幽香は目を細めた。
ふと幽香が窓を見ると、雲に阻まれながらも届いていた日の光はすっかりと消えており、雪の日特有の不思議な明るさに包まれている。雪は人里にいたときよりも少しではあるが、激しさを増していた。
「美味しいですよー」
「ふふっ、それはよかった。舌、火傷しないようにね」
「はいですよー」
普段よりも二回り以上小さいリリーにとっては、マグカップも随分と大きく見える。ちびちびと飲んではとろけた表情を浮かべる様子は、まさしく小動物である。リリーの隣に安楽椅子を動かし、自分も座ると先程買った本を開いた。
幽香から見れば人間は弱い。勿論例外はいるが。だが、それと同じくらいに面白い生き物であるとも考えていた。
例えばこの本にしても、同じテーマを取り扱ってもその内容は書き手によって千差万別になる。どのように物語が進んでいくのか、そして結末はどうなるのか。少なくとも本を読んでいる時、幽香は大妖怪などではなく、一読書家となる。暇つぶしのために始めた行為は、いつしか幽香の個人的な趣味となっていた。
読書に関して、幽香は雑食である。難解な西洋の推理小説に嬉々として取り組むこともあれば、子供向けの寝物語や童話なども読む。ゆっくりと味わいながら読むことで、存分に自分の感性と作者の用意した物語の世界に浸るのだ。
あそこの本屋はどういう経緯を辿っているかは分からないが、外の世界の本も仕入れている。書物といえば半妖が営む古道具屋やビブリオマニアの魔女がいる大図書館もあるが、ただ本を読むという行為で使うことはあまり無い。個人的に古書店の主人を気に入っているのだろう。
何回かページを捲ったところで、足元に微かな違和感があることに気付く。視線を本から離すと、足元でリリーが幽香のスカートを掴んでいた。マグカップが無いということは、既にココアは飲み終えているようだ。
「おかわり?」
「よんでください」
思いもよらないリリーの一言に、幽香は思わず、はあと聞き返してしまった。言うが早いか、幽香の膝元にリリーがちょこんと座る。どうやら帰る気は無いらしい。
「読みたいの?」
「リリーもごほんをよみたいのですよ」
「……難しいわよ。これ」
「ゆうかさんがよんでくれればいいのですよ!」
「……はあ」
溜息を一つ。読書の邪魔をされるのは確かに腹立たしいが、流石に問答無用で放り出すのは気が引けた。この大妖怪、存外純粋なものに弱いのである。
今読んでいる推理小説は多分リリーでは理解するのは難しいだろう。仕方が無いので読む本を変えることにした。幽香が手を軽く上げると、窓際に置いてある鉢植えから蔓が伸びた。それは本棚へと向かうと、一冊の本を器用に絡めとって幽香の前に差し出す。今さっきまで読んでいた本を蔓に渡すと、それは本棚へと綺麗に納められた。
「おおー……かっこいいですよー」
「大したことじゃないわ。それより、これ読んであげるから終わったら帰りなさい」
「はいですよー」
持ってきた本は、誰でも知っている英雄の話である。表紙を開くと、リリーは描かれている絵をじっと見つめた。どうやら興味津々のようだ。その様子を見て、幽香は軽く息を吸い込んだ。
「むかしむかし、あるところに……」
「……めでたし、めでたし」
幽香は本を閉じると、先程と同じように蔓に本を渡した。リリーは既に可愛い寝息を立てている。分かってはいたが、途中でやめるのも野暮な気がしたのだ。蔓はそのまま戻らずに、廊下の奥へと伸びていく。
そっとリリーの帽子を取って、幽香はその髪を撫でる。何度か手で梳いている間に、蔓が幽香の前へと戻ってくる。そこには、厚手の毛布が絡まっていた。
気付かれないように、ゆっくりと毛布をかける。暖炉の火が、ぱちぱちと鳴っていた。
窓を見る。雪が止む気配は無い。仕方が無いわねえと誰に聞こえるとも無く呟き、幽香はリリーを深く抱き寄せる。永い妖怪の生。時にはこんな時間の使い方もいいだろう。そう思って幽香も瞼を閉じた。
「嫌ねえ全く。寒いったらありゃあしない」
「いいじゃない。雪を見ながらお酒を楽しめるのだから。ねえ女将さん」
夜雀が営む屋台に、秋の神達の姿はあった。他に客はいない。女将の料理の音だけが、薄暗い世界に響いている。
静葉と穣子は時々自分達で食材を持ち寄って、屋台に来ることがある。やはり冬だと客の数も少なくなる。静かな場を好む姉妹にとっては、好きではないが、嫌いでもなかった。
「春は桜、夏は花火。秋は紅葉冬は雪。お酒を楽しめるだけ私達は幸せよ」
「そんなものかしら」
静葉の言葉に穣子は言葉を濁したが、追及はしない。たしかに酒は美味いのだから。
「いらっしゃいませ」
「あら、お二人さん」
「げっ、雪女」
暖簾をくぐったレティを見て、穣子は露骨に顔を歪める。静葉は特に表情を変えず、レティを隣に勧める。
「花妖怪に絡もうと思ったのだけれど、先客がいたのよ」
「あーあー、これからしばらくは寒い日が続くわ」
「ごめんなさいね、妹の口が悪くて」
構わないわとレティが口を開くと、その前にグラスが置かれる。安物だけどというミスティアの言葉を聞いて、レティは微笑んだ。
「まあとりあえず、今年の秋もお疲れ様」
「ありがとう。いい冬を期待しているわ」
「寒くしすぎないでよね」
それぞれに、酒を掲げる。いつの間にかミスティアもその輪に加わっていた。
「乾杯」
ある冬の夜は、静かに過ぎていく。
季節や自然に関わる者達が仲良くしていると和みますねぇ…。
あと、ちっさいリリーが可愛かったです!
大ちゃんはとばっちりをくってなければいいがw
手乗りリリーは可愛いなあ。
彼女らが仲良くしているSSは初めて読んだかも。
柔らかいと言っても、曖昧な物でなく、骨子がある
確固としたキャラの解釈と描写による物なんでしょうが
かっちりとした柔らかさとでも言えば良いのか
読み進めるのに適したテンポや、曖昧な柔らかさじゃない所は好感が持てます(特に幽香とレティ)