「なあ屠自古、伊達巻はどこにしまったのだ?」
貯蔵庫の蓋から顔だけ出すような恰好をした布都は、煮物の味見をしていた私にそう訊ねてきた。
年末から年始にかけてのこの時期、台所はまさに修羅場と化す。
季節ものとして欠かせないおせち料理。品数は多く、しかも味が染みるよう早めに作っておかなければいけないものがほとんどだ。当然、こなさなければならない料理の過程も普段とは桁違いになってしまう。
こういう時、布都は大抵手伝いをしてくれる。まあ、時々えらい失敗をしでかしてくれるから難しいことは任せられないんだけど。
「あれ、そこにない? 練り物とかは全部入れたと思うんだけど」
「見当たらないぞ。まさか、買い忘れたのではあるまいな」
「いやごめん、たぶんそのまさかだわ。というわけで布都、ちょっと行って買ってきてね」
「我が行くのか!?」
「じゃあ私の代わりに煮物できる? 太子様や青娥さん、芳香は無理だな……とにかく、二人に頼めるの?」
「むう……仕方あるまい。今度からは気をつけてほしいものだな」
「はいはい、すいませんねえ」
わざとらしく怒ってみせた布都に適当に相槌を打つ。
本気で怒っているわけでもないのだから、まともに取り合ったって布都も困るだろう。実際、口元に笑みを浮かべた布都はそのまま台所から出ていった。
ただ伊達巻を買うだけなら、まあ十分くらいで戻るか。それまでには煮物も仕上がるかな。
そんなことを思いつつ、鍋の様子を眺める。手伝ってくれた布都のおかげか、今年の戦場はずいぶんと甘ったるい気がした。
それが、三十分前の出来事だ。
「ったく、どこで油売ってるんでしょうねえあの馬鹿布都は」
台所の隣、炬燵のある居間。
くつろぐ太子様達に茶を出しながら、私はそう零した。
準備はもう終わった。元旦の準備はすっかり済んで、あとは煮物が味を吸うのを待つだけだ。
あれから三十分、まだ布都は帰ってこない。ただ伊達巻を買いに行っただけにしては、あまりにも遅すぎる。
「寄り道でもしてるのかもね」
「余計なものは買わないと思うんですけどね、伊達巻は布都の好物ですし」
「限られた予算の中、自分の好物の量を減らしてまで別のものは買わないと。本当にそうでしょうか?」
「まあ、あいつの子供じみた思考までは私にも分かんないんですけどね」
「うふふ、なんだか一波乱ありそうですわね」
「青娥が言うなら間違いないぞ、きっと修羅場だぞ」
「いやいや、そんな期待しないでよ。それにしても遅いなあ……」
太子様や青娥さんは笑っていたけど、私はどうにも布都のことが心配だった。
普通の者なら、少々遅くなっても特に気にはならない。店が混んでいたかもしれないし、それ以前に街全体が人混みで溢れていたかもしれない。帰りが遅れる理由なんて、それこそいくらだって思いつく。
けれど、遣いに出たのが布都ならば話は別だ。彼女の危なっかしさは昔からずっと変わらない。当然、側にいる私の心配もだ。
「私、様子を見てきます」
待つのが苦手な私は、そう言って立ち上がった。じっと待っているだけというのはどうも性に合わない。
私のそういうところをよく知っている太子様は、止めようという意識の感じられないふんわりとした口調で言ってくる。
「行き違いになったりするかもしれませんし、おとなしく待っていたほうがいいかもしれませんよ」
「そうなんですけど、落ち着かないんですよ。あいつ何しでかすか分からないし……とりあえず、外で待ってようかなと思うんです」
「おお、迎えに出るのはいいことだ! 私もよく分かるぞ、青娥が玄関で待っててくれるとすごくうれしいからな」
「ふふ、そうね芳香。屠自古様の思うようにやるのが一番ですわ」
「そうですよね。じゃあ、ちょっと失礼して」
「ただいま戻りました!」
居間の襖を開けようとした瞬間、布都の声が響く。
やっと帰ってきたか。まったく、心配したじゃないか。心の中で愚痴を零しつつ、玄関へと向かう。
出てみると、布都はもう靴を脱ぎ廊下に上がろうとしていた。満面の笑みを浮かべた彼女に、わざと辛辣な口調で言ってやる。
「遅いよ布都、もう準備終わっちゃったんだけど!」
「おお、すまぬ。少し手間取ってしまって……」
申し訳なさそうに微笑んだ布都は、そう言って手に提げた二つの袋を見せる。
伊達巻だけなら袋は二つもいらないのに、どうして?
そんな疑問が頭を過ぎった直後、うれしそうに彼女は言った。
「せっかくだから、これを皆で食べようと思ってな」
そう言いながら布都が見せたのは、里の和菓子屋の袋。どうやら、青娥さんの読みが当たったらしい。
途中で我慢できなくなったのか? なんにせよ、誘惑に負けて別のものを買ってくるなんて子供かあんたは。そんなことを考え苦笑しつつ、笑顔の彼女に訊ねる。
「皆で? どうせあんたが食べたかっただけなんでしょ」
「違う、我は皆で食べたかったのだ」
「いいよ、言い訳なんかしなくて。伊達巻を買おうとしたら和菓子屋が見えて、つい買っちゃった。そういうことでしょ?」
「だから違うと言っているだろう。誘惑に負けるような真似を我がするはずなかろう」
断固として否定する布都。
普段なら、それ以上追及することもなく彼女を迎えたはずだ。しかし、この時の私は布都の言葉をどうしても信用できなくなっていた。
青娥さんが直前に言っていたからだろうか。布都の言い分が、なぜかすべて言い訳のようにしか聞こえない。
本当は自分のためなんでしょ。皆のために買ったなんて、体のいい口実なんでしょ。そんな思いばかりが心を埋め尽くす。
欲望を抑えられず、人に責任を擦り付ける。いつもなら何とも思わないはずの行動が、この時の私にはそういう許されないもののようにしか受け取れなかった。
「本当のことを言ってよ」
私は笑顔を消した。自分では見えないが、おそらく相当怒りに満ちた表情だったと思う。
「我が嘘を吐いていると? 我は本当に皆と、いやお主と食べたくて」
「言い訳するなっ!!」
つい、声を荒げてしまった。こんなことをすれば、感情に歯止めがきかなくなるのは分かっていたのに。
「どうして嘘を吐くの? ちゃんと話してよ、自分が食べたかっただけなんでしょ?」
「いいや違う。頼む屠自古、話を聞いてくれ。我はお主のためにこれを買ってきたのだ、一緒に食べよう」
「……馬鹿布都」
困った顔でこちらを見てくる布都にそうぽつりと告げて、脇をすり抜ける。
太子様達が心配して出てきたようだけど、そんなの関係ない。この苛立った気分のまま布都と一緒にいたって、ちゃんとこいつと向き合えるはずがない。
後ろで聞こえる太子様の声。布都の泣き出しそうな叫び声。すべてを無視して、私は屋敷から飛び出した。殺風景な仙界を、あてもなく一人駆ける。
今はとにかく布都から離れたい。あいつを信じられない私の気持ちをどうにかしないと、屋敷に戻ることなんてできない。
そんな思いで、適当に外への出口を開ける。
どこへ繋がったのかも分からない空間。一瞬も躊躇することなく、私はそこへ飛び込んだ。
伊達巻一つでこんな思いをするなんて。あの時ちゃんと確認しておけばよかった。
自身の不注意に唇を噛みしめつつ、私は仙界の出口へと急いだ。
* * *
岩のような蓋をどけて外へ出てみると、そこは人間の里の入り口だった。
隣にそびえる大きな岩。里の目印であるそれが、こちら側へやって来たことを実感させる。
布都達のいない、仙界とは別の世界。ここでなら、もう思いが一人歩きすることもないだろう。
自分のことや、布都のこと。もう一度冷静になって振り返ってみよう。それが私達にとって今一番必要なことに違いないから。
私が我慢できなかった布都の行動。それは彼女が嘘を吐いたことだ。
頼まれたものの他に何か買ってきてしまうことは、別に何とも思っていない。子供っぽい布都のことだから、途中で和菓子屋を見ればそちらを買いたくなるというのも分かる。今まで何度か同じようなことがあったが、その時は私だって笑い飛ばすことこそあれ怒ることなんてなかった。
ただ、嘘を吐いているとなれば話は別だ。誘惑に負け和菓子を買った。その責任を「皆で」という言葉で誤魔化そうとするのなら、私は彼女を許すわけにはいかない。
なんで嘘なんか吐くの? あの時の私が抱いた思いは、この一言に尽きる。
だが、私の知る限り布都が自分を偽ったことなどないはずだ。裏工作の類は何度もしてきたが、人を欺くような真似をはたらく布都など今まで一度も見たことがない。
そんな彼女が、初めてともいえる嘘を吐いた。おそらく、これにはなにか特別な理由があったに違いない。だとすれば、それを確かめるのが先決だろうか。
こうして一人考えるうちに、高ぶった気持ちは大分落ち着いてきた。ほんの数分前に布都に対して怒鳴り声を上げたのが嘘のように、私の心は穏やかだった。
気持ちは十分整理できた。あとは嘘の謎を探るだけだが、これは中々骨が折れそうだ。
形のない痕跡を見つけ出す、か。まるで探偵にでもなったみたいだな。
そんなことを考えていると、不意に自分が里の入り口にいることを思い出した。来たときは気にも留めなかったが、なんだよ、これは立派な手がかりじゃないか。
特に指定をしない場合、仙界の出入り口は直前に使った場所に設定される。行先を決めずに飛び出した私が里の近くに出たことは、単なる偶然ではないのだ。
私の前に仙界を出入りした人物、それは布都にほかならない。つまり、彼女はここから里の加工品店および和菓子屋に向かったことになる。
彼女の通った道筋を辿れば、何かつかめるかもしれない。そう確信した私は迷わず里へと足を運んだ。
手がかりは他にない。心のわだかまりを解消するため、藁にもすがる思いで街を行く。
年末の慌ただしさに彩られた町並み。行き交う人々は、皆忙しくも楽しそうに見えた。
あんな穏やかな笑顔でいられたらよかったのに。今更ながら、怒りに身を任せてしまった自分が恥ずかしくなってくる。
悩んでも仕方ない。今は目の前の可能性にかけよう。
再び後ろ向きになる自分自身にそう言い聞かせながら、人波あふれる大通りを進む。
布都はこの道を通って加工品店に行った。なら、その途中に必ず和菓子屋があるはず。店の様子を見れば、彼女が惹かれた理由も分かるかもしれないんだ。
そんなことを思った矢先、大きな看板が目に入った。何気なくそれを小声で読んでみた直後、私は雑踏の中で足を止めていた。
「『水産加工品』……加工品?」
私の正面にそびえるは、活気に満ちた加工品店。思いもしなかったその現実が、私の心を乱し始める。
今の今まで、布都が先に着いたのは和菓子屋だと思っていた。
伊達巻を売る加工品店。そこに行き着く前に和菓子屋を発見、心に迷いが生まれる。結局その誘惑に抗うことができずに菓子を購入、後に加工品店へ向かった。それが私の思い描いた布都の行動だ。
しかしながら、脇目もふらず進む私の目に先に飛び込んできたのは加工品店のほうだった。
布都が先に訪れたのは加工品店。それでは、私の予想した図式は成り立たない。つまり、布都は伊達巻を買った後何らかの目的をもって和菓子屋を訪れたことになる。
だが、いったいなぜだろう。
布都の言葉は嘘でなく、皆で食べたいというのが本心だった? しかし、仮にそうだとして、わざわざこの人混みの中を更に進もうと考えるだろうか。いくら好物とはいえ、飽きっぽい布都がそうまでして買いに行くとは思えない。
何か、別に理由があるのだろうか。いや、きっとあるのだ。だが、それはいったいなんだ。
里へ来たついでというにはあまりに離れた和菓子屋。そこまで布都を突き動かしたものは、いったいなんだったのだろう。
言葉を失い、ただ立ち尽くす。
答えの見つからない謎に埋め尽くされた私の心は、もはや平穏とは呼べなかった。
あんなに気になっていた人々のうれしそうな声も、もう聞こえない。
唯一の手がかりを失くした私にできるのは、ただ唇を噛みしめることだけだ。
布都が何を考え行動したのか。分かってあげたいのに、どうしても分からない。
行き場のない思いが瞳を潤ませる。里を行き交う人々も年末の華やかな風景も、何もかもが霞みゆく。
不意に声をかけられたのは、頬を一筋の雫が伝うのを感じた直後だった。
「ああ、やっぱりあなたでしたか」
唐突な呼びかけに驚き、いつしか沈んでいた顔を上げる。
声の先にいたのは、命蓮寺の本尊である毘沙門天代理であった。
「寅丸星……なぜあんたがここに?」
「いやあ、その……里の方々に呼ばれたんですよ。『不穏な顔をした幽霊がいる。周りに雷みたいなオーラが出ていて危ないからなんとかしてくれ』とのことでした」
「それって私のこと、だよね。不穏な顔って、そんなに悪そうな顔してたかな」
「どうなんでしょうね。とにかく、里ではもっと大人しくしてないと駄目ですよ。我々の交流は互いに危害を加えないことで成り立っているんですから」
そう言って微笑む寅丸の肩には妙な腕章がかけられていた。
「年末防犯週間」、か。里の人々を取り込もうとするこいつらがやりそうなことだ。
「そりゃあごもっとも。で、私はあんたに捕まるのか?」
「そんなことしませんよ、あくまで様子を見に来ただけですから。ただ……」
「ただ?」
「屠自古さんを見て、ちょっと気が変わりました。何か悩み事があるんじゃないですか?」
少し迷ったような顔をした後、寅丸は笑顔でそう訊ねてきた。
なんだこいつは。私にいい印象を持たれていないことくらい、寅丸だって分かっているはず。なのに、どうしてこんなに親しげな顔ができる。
彼女の思わぬ表情に調子を狂わされ、私の返事も少し上ずってしまう。
「はあ? な、悩みなんてないよ」
「隠しても無駄ですよ、あなたの顔を見てすぐに分かりました。さっきだって、思い悩んでいたから里の人々には怖い表情に見えたのでしょう」
「だから悩んでなんかないし……」
「どうしても話してくれませんか……なら仕方ありませんね。取り調べを行います、ちょっと来てください」
そう言うと寅丸は私の腕を掴み歩き出した。
身体の支えなんて持っていない私は、抵抗することもできず彼女に引っ張られてしまう。
「ちょ、やめてよ! 取り調べって、あんたになんの権限があるのさ!」
「一応今は里の治安を預かってますからね、私。自治会の皆さんに頼まれてパトロールの最中でしたから」
「だ、だからってこんな乱暴に」
「そうでもしないと話してくれないでしょう? 屠自古さんは意志が固そうですから、こちらも少々無理をさせてもらいますよ」
そう言いながら歩き続ける寅丸。抵抗したいが、宙に浮いている身としては腕を掴まれるとこちらの力で止めるのは不可能だ。振り払おうにも力が強くて無理だし、雷でどうこうすると今度は人間に迷惑がかかる。いよいよもって、打つ手がない。
「さて、着きましたよ」
諦めて身を任せていると、やがて寅丸は立ち止まった。
その声に顔を上げてみると、そこには団子屋の看板。まさか、ここが取調べ場所だとでもいうのだろうか。
「まさか、ここで取り調べするの?」
「ええ。言葉こそ固いですが、私はただ屠自古さんの力になりたいと思っただけですから。少し話をするくらい、別にかまわないでしょう?」
人懐っこい笑みを浮かべる寅丸。なんだか、その無邪気さが布都に似ているような気がする。
こんな奴に相談なんてごめんだ。そう思う一方で、ここまでしてくれる彼女に感謝する気持ちもあった。
太子様復活の挨拶などで二、三度会っただけ。単なる知り合いにここまで親身になれる奴なんて、聖人かお人よしの馬鹿のどちらかだ。でも、どちらにせよそういう奴は嫌いじゃない。
小さく溜息を吐いて、私はわざと意地悪な口調で言ってみた。
「もしも私が話したことに解決策を出せなかったら、あんたどうする?」
「そうですねえ……屠自古さんが暗い顔をせずに済むまで、つきっきりでサポートします。どうか私に任せてください」
そう言って寅丸はニコリと微笑む。
経験則からいって、こういう奴のこういう発言は本気だ。最後の最後まで面倒をみる、そう彼女は言ったのだ。
こんな奴になら、話してみてもいいのかもしれない。手がかりをなくした私の意志は、そんな決断を安易に下してしまえるほどに脆弱だった。
仏教の連中なんかに助けてもらうものか。そんな思いは不思議と湧いてこない。
今はただ、寅丸の厚意に甘えるとしよう。そう心に決めて、私は彼女に全てを話した。
先程の出来事から私の気持ちまで、なにもかも包み隠さず晒す。その間、彼女は温かな微笑みを浮かべて話を聞いてくれた。
「……なるほど。布都さんの気持ちがここにきて分からなくなってしまったんですね」
「そうなんだ。ねえ、あんたはどう? 何が目的で、わざわざこの寒い中和菓子屋まで足を伸ばしたんだと思う?」
「もし私だったら、という前提ならば答えは単純です。ただ、屠自古さんと和菓子を食べたかっただけではないでしょうか」
実にあっさりとした口調で、寅丸はそう言ってのけた。
もっと悩むものだと思っていた。いや、それ以前にこんな返事がくるとは予想だにしなかった。
私と食べようと思った。確かに、布都は最後にそう言い直していた。けれど、それだけでわざわざ和菓子屋まで行くだろうか。寄り道するのならまだしも、遠くの店まで買いに出かけるとはどうしても思えない。
自分の好物を減らしてまで買わない。本当にそうでしょうか。
そんな青娥さんの言葉が、未だに頭から離れてくれない。
納得いかない。そんな思いが顔に出ていたのか、寅丸は少し困ったように微笑みながら言う。
「ああ、あくまでも私だったらですよ。用事が終わったのにその先まで足を伸ばす理由、それを考えたらこれくらいしか思いつかなかったんです」
「そんなわけが、ってこれを否定しても意味ないか。それじゃあ聞くけど、実際そうした経験はあるの?」
「ええ、何度か。大切な人が待っていると思うと、何か買って帰らずにはいられなくなるときもあるんですよ。布都さんが同じ気持ちだったかは分かりませんが、屠自古さんと一緒に食べたかったという思いは本物だったと私は思います」
はっきりとした口調で寅丸はそう言い切った。
まだ少し恥ずかしそうな表情をしているのは、自分自身の経験を語ったからか。なんにせよ、彼女の言葉に衝撃を受けたのは事実だ。
皆で、いや私と食べたいと言った布都。あの時は単なる言い訳にしか聞こえなかったそれが布都の本心なら、私は彼女にひどいことをしてしまったことになる。
私の勘違いで、一方的に嘘吐きと罵った。それじゃあ、悪いのは私じゃないか。
「落ち込む必要はありませんよ、勘違いは誰にでもあります」
私の気持ちを察した寅丸が優しくそう言う。
相手の気持ちを察知し、すぐに言葉をかける。太子様もそうだが、それがあまりに的確だと気後れしてしまうのはなぜだろう。
顔を上げた私を見て安心したのか、寅丸は少しおどけた調子で言う。
「ありますよね、ついうっかり失敗することって。私もそういうことが多くて、いつも皆に助けてもらうんです」
「寺の人達か。さっき言ってた大切な人って、その人達のこと?」
「まあそうなんですけど……一緒に食べたいと思って無茶をしてしまう相手となると、私には一人くらいしかいませんね。私がイメージしていたのはその人でした」
「大切な仲間達より、もっと大事な人なの?」
「ええ。困った時、彼女はずっと一緒にいてくれましたから。私にとって、彼女は大事な宝物なんです」
本人の前では恥ずかしくて言えないんですけどね。頬を赤く染めながら寅丸はそう付け加える。
彼女を見ているうちに、なんだか自分が悩んでいたのが馬鹿らしくなってきた。
布都は私と和菓子を食べたかったのだと言った。寅丸と話して分かったが、きっとそれは疑う余地のない彼女の本心だ。
うっかり者という寅丸に、思い込みの激しい布都。タイプは違うが、二人はどことなく似ているような気がする。
布都と同じ感性を持っているであろう寅丸。その彼女が誰かと食べたいだけで無茶をすると言ったのだ。ならば、布都も同じように思ってわざわざ和菓子屋へ足を運んだという話も説得力が増す。
そうだ、はじめから布都のことを疑ったりしなければよかったのだ。そんな当たり前のこともせず、一方的に怒ってしまった。
悪いのは私だ、ちゃんと布都に謝らなきゃ。
私の心に、もはや迷いなんてない。
目の前の寅丸に負けないくらい明るい笑顔を浮かべて、私は彼女に言った。
「もしかして、私の取り越し苦労なのかもね」
「ええ、きっとそうですよ。布都さんの話を聞いてみれば、悩みなんてきっとすぐ解決すると思います」
「そうしてみるよ。ありがとう、その……ずいぶん世話になっちゃったね」
「気にしないでください。私も屠自古さんの笑顔が見られてよかったです」
満面の笑みでそう言う寅丸。その笑顔が喜ぶ布都にそっくりで、思わず吹き出しそうになる。
「ふふ、変なの」
「え? どうかしましたか?」
「いや、なんでもないよ。さて、そろそろ行かなくちゃ。取調べ、終わりにしてくれるよね?」
「もちろん。問題は解決してますし、起訴猶予処分ですね」
「なんか気になる言い方だな」
「布都さんの話を聞かず、問題をこじらせたのは屠自古さんでしょう? 責めに帰すべき事由には十分なり得ると思いますが」
「そ、そりゃそうなんだけどさ……」
「ちゃんと反省しないと駄目ですよ、なんて言える立場でもないですけどね、私。さあ、早く行ってあげてください」
「うん。ありがとう」
笑顔の寅丸に背中を押され、団子屋の縁台から立ち上がる。
早く屋敷に戻ろう。ちゃんと布都に謝って、もう一度話を聞いて。一方的にこじらせてしまった関係を、早く元通りにしよう。
そんな思いを胸に、出入り口を開けるべく隙間を探す。しかし、通り抜けるのにちょうどよさそうな大きさの隙間は中々見当たらなかった。
自在に出入りできるといっても、その入り口でつっかえたりしたらかっこ悪いなんてもんじゃない。仙界への出入り、便利なようで実際は色々と制約があるものなのだ。
これじゃあ、最初の岩まで戻るしかないか。そんな思いが頭を過ぎる。
仕方なしに来た道を戻ろうとしたその直後、ふと前方の雑踏の中に何かが見えた。
見覚えのある形。あれは間違いなく烏帽子だ。
人混みの中から辛うじて顔を覗かせる、見慣れた烏帽子。流れに逆らうように、それは人波の中でゆらゆらと揺れていた。
持ち主の姿までは見えないが、私が彼女を見間違えるはずがない。
溢れる思いそのままに、私は声を振り絞る。
「布都!!」
揺れる烏帽子の動きが止まる。
泣き出しそうな表情で雑踏を抜け出した少女、それは紛れもなく私の大切な友人であった。
「屠自古! よかった、見つからなかったらどうしようと思っていた」
「探しに来てくれたの?」
「ああ。お主が出ていった後すぐにでも追いかけたかったが、少し考える時間をやれと太子様に言われてしまってな。それで、その……もう怒ってないか?」
「うん、もう落ち着いた。ごめんね、急に怒ったりして」
「いや、それならよいのだ」
そう言うと布都はほっと息を吐いた。本当に、私を心から心配してくれたらしい。
ありがとう、そしてごめん。そう告げようと口を開いたが、私はそれを伝えることができなかった。
うれしそうに笑っていた布都に、先に謝られてしまったのだ。
「すまなかった。我の言葉が足らなかったせいで、勘違いをさせてしまったな。嫌な気持ちにもなっただろう、本当に申し訳ない」
「え? ちょっと、謝るのは私のほうだよ。一方的に布都が嘘を吐いてるって決めつけて怒りだした私のほうが悪いに決まってるじゃん」
「しかし、きっかけを作ってしまったのは我のせいであろう? はじめから伝えておけばよかったのだ、お主を労いたかったのだと」
「違う、私が……ん? 労うってどういうこと?」
布都への気持ちで高ぶり始めた心が急激に落ち着いていく。
意味が分からない。労われるようなことをしていた記憶はないし、このタイミングでそれを実行に移すというのも引っかかる。
布都だから、と言ってしまえばそれまでなのかもしれないが、どうにも私には納得がいかなかった。
困惑する私には目もくれず、布都は真面目な口調で続ける。
「屠自古、いつもお主には負担ばかりかけてしまってすまないと思っているのだ。昔はともに太子様を支えていたが、こちらに来てからは家事をお主に押しつけるような形になってしまった。できる限り手伝いたいのだが、力及ばず手伝ってやれないことも多い。いつもお主に任せっきりになってしまうのが辛くてな」
「じゃあ、感謝の気持ちとして和菓子を買ってきたの? なんでまたこんな忙しい時期に?」
「この時期だからこそ、ちゃんと伝えておきたかったのだ。新たな年を迎える前に、どうしてもお主に気持ちを伝えたかった。言うなれば、これも我にとっては新年の準備だったわけだな」
そう言って布都はなぜか得意気に胸を張る。
私に感謝するため、わざわざ和菓子屋まで行き菓子を買ってきた。布都のそんな行動は、まさに寅丸が言っていた無茶そのものだ。
本当に馬鹿だな、こいつは。ただ一言「いつもありがとう」とでも言えば、それで済んだだろうに。まあ、そんな気持ちを汲みとれずに怒ってしまった私が言えることじゃないけど。
そんなことを考えて苦笑しつつ、私は誇らしげな布都に言う。
「だったら、ちゃんとそれを言ってくれないと困るな。さっきは否定したけど、私が勘違いしちゃったのってやっぱり布都のせいじゃん」
「ま、まあ確かにそうだな」
「なんで最初に言ってくれなかったの? そのせいで大変なことになっちゃったんだけど」
「面と向かって感謝するのは恥ずかしいだろう……それに、一方的に決めつけをしたのは屠自古自身の過ちではないのか?」
「うん、まあそれを言われるとねえ……それじゃあさ、全部なかったことにしようよ」
「全部? 我の感謝の気持ちまでもか!?」
「馬鹿、それじゃ意味ないじゃん! 布都が恥ずかしがってうまく伝えなかったのも、私が勘違いして怒りだしたのもなし。布都が感謝の気持ちとして和菓子を買ってきてくれて、私はそれを笑顔で受け取った。そういうことにしようよ、ね?」
口元に笑みを浮かべて、不思議そうに首を傾げる布都にそう提案する。
仙界を飛び出したときの暗い気持ち。そんなものはもうすっかり消えてなくなった。
布都は嘘を吐いていなかった。それどころか、私へのプレゼントとして和菓子を買ってきてくれていたのだ。それが分かった今、笑顔を浮かべずにはいられない。
私の顔をじっと見て話を聞いた布都も、やがて微笑みながら答えた。
「それがいい。我の気持ちも無事に伝わったようだしな」
「いや、別に今更布都に感謝されてもうれしくないけどね」
なんとなく恥ずかしくて、慌てて布都の言葉を否定する。
もちろん、本当はとてもうれしかった。
いつも感謝してくれている。長い付き合いの彼女だからこそ、私はその事実がなによりうれしかった。
太子様のために集った仲間。私達は、単なる腐れ縁。今の今まで、ずっとそう思ってきた。
けれど、私達の関係はそんな単純なものではなかった。私達は、もっと確かな絆で結ばれている。布都はそう心から言ってくれたのだ。
口元が自然と緩んでしまう。
うれしくなんてない。いくらそう口で言っても、表情の変化まで止めることはできなかった。
私の顔を見た布都はうれしそうに微笑んだ後、気取った顔をして言ってくる。
「まあ、そういうことにしておこう」
「なにその言い方! 言っとくけどね、私は別にあんたに感謝されてもねえ」
「あのー、お取り込み中すみません」
不意に聞こえた声に振り返る。
声のしたほうは団子屋の縁台。まさか、と思ったが……そのまさかだった。
暖簾の影から顔を覗かせたのは寅丸星。彼女を見た瞬間、頬が急に熱くなっていくのを感じた。
「ききき、聞いてたの!?」
「ええ、ばっちりと。ああ、盗み聞きしようとしたわけじゃないんですよ、ただ出ていくタイミングを見失って仕方なくここで待っていたら全部聞こえてしまっただけでしてね」
「おお、星じゃないか」
「こんにちは布都さん」
「あれ、二人ってそんな仲良かったんだ」
「ええ、布都さんとはこの団子屋さんで出会ったんです」
「あの日は熱かったな。みたらしとあんこの魅力について一日中語っていた。あそこまで深いやり取りのできる者など星以外におらぬだろうな」
「はあ……で、どうかした?」
「いや、皆さん仙界で待っているんじゃないかなと思いまして。正直私もそろそろ寺へ帰りたいんですが……」
寅丸に言われるまですっかり忘れていた。私が心配させたのは、布都だけじゃなかったんだっけ。
「そうだ、早く帰らないと。あの……星、と呼んでも?」
「もちろんかまいませんよ」
「ありがとう、星。布都と仲直りできたのはあんたのおかげだよ。あと待たせてごめんね」
「そうか、星が話を聞いてくれたのか。助かったぞ、また今度団子片手に語り明かそうではないか」
「ええ、是非。それじゃあお二人とも、よいお年を」
暖簾をくぐり外へ出た星はそう言って笑顔で手を振り、寺の方へと歩いていった。
「じゃあ私達も帰ろうか」
「そうだな。この辺の隙間はいまいちか……やはり入口の岩まで歩くほかないな」
「まあ、しょうがないよね。じゃあ行こう」
布都の手を取り、来た道を引き返す。
行き交う人々は、相変わらず楽しそうに見える。
けれど、今はもうそれをうらやましくなんて思わない。
だって、今の私もきっと同じような顔をしているから。
「ねえ布都」
「ん? どうした?」
「……ありがとう」
「……ああ」
それ以上、言葉はいらなかった。
十分すぎるほど、布都の気持ちは分かっているから。
ついさっきまで、私は布都に怒ってしまったことを後悔していた。
けれど、もしかしたら本当はそれが正解だったのかもしれない。
確かに、布都には嫌な思いをさせてしまった。しかし、一度離れたことで私達は互いの気持ちをよく知ることができた。
自分を見つめ直し、布都に向き合った。彼女の気持ちを知ることができたのは、その成果なんだと思う。それなら、短絡的に思える私の行動も実際は正しかったといえるのではないか。
「顔がにやけているぞ」
不意にそう言われて一瞬たじろぐ。
取り繕うことも考えたが、いっそ開き直ってしまうことにした。
「うれしいときに笑っちゃいけないの?」
「そうではないが、お主さっきはうれしくないと言っておったぞ」
「うるさいなあ、どうでもいいんだよそんなの」
「まあ、確かにどうでもよいがな」
「……ばか布都」
そう言って手を握ってやると、布都は驚いて体を震わせた。
どうだ、これでおあいこでしょ? そんなことを考えていると、不意に冷たい風が吹きつけてきた。
思わず顔をしかめ、息を漏らす。白くなった吐息の昇る先を眺めると、そこには青く透き通った空が広がっていた。
雲一つない、快晴そのものの空。まさに今の私の心そのものだ。
こんな素敵な気分になれるなら、年の瀬も悪くないかな。そんなことを思いつつ、人混みの中を行く。
忙しい時期、おせち地獄。今までずっと変わらなかった、私の年末。
けれど、今年からは少し違ったものになりそうだ。
物部布都。腐れ縁の友人ではなく、私の大切な人。
その人に手伝ってもらいながら過ごす年の瀬は、どんなものだろうか。
貯蔵庫の蓋から顔だけ出すような恰好をした布都は、煮物の味見をしていた私にそう訊ねてきた。
年末から年始にかけてのこの時期、台所はまさに修羅場と化す。
季節ものとして欠かせないおせち料理。品数は多く、しかも味が染みるよう早めに作っておかなければいけないものがほとんどだ。当然、こなさなければならない料理の過程も普段とは桁違いになってしまう。
こういう時、布都は大抵手伝いをしてくれる。まあ、時々えらい失敗をしでかしてくれるから難しいことは任せられないんだけど。
「あれ、そこにない? 練り物とかは全部入れたと思うんだけど」
「見当たらないぞ。まさか、買い忘れたのではあるまいな」
「いやごめん、たぶんそのまさかだわ。というわけで布都、ちょっと行って買ってきてね」
「我が行くのか!?」
「じゃあ私の代わりに煮物できる? 太子様や青娥さん、芳香は無理だな……とにかく、二人に頼めるの?」
「むう……仕方あるまい。今度からは気をつけてほしいものだな」
「はいはい、すいませんねえ」
わざとらしく怒ってみせた布都に適当に相槌を打つ。
本気で怒っているわけでもないのだから、まともに取り合ったって布都も困るだろう。実際、口元に笑みを浮かべた布都はそのまま台所から出ていった。
ただ伊達巻を買うだけなら、まあ十分くらいで戻るか。それまでには煮物も仕上がるかな。
そんなことを思いつつ、鍋の様子を眺める。手伝ってくれた布都のおかげか、今年の戦場はずいぶんと甘ったるい気がした。
それが、三十分前の出来事だ。
「ったく、どこで油売ってるんでしょうねえあの馬鹿布都は」
台所の隣、炬燵のある居間。
くつろぐ太子様達に茶を出しながら、私はそう零した。
準備はもう終わった。元旦の準備はすっかり済んで、あとは煮物が味を吸うのを待つだけだ。
あれから三十分、まだ布都は帰ってこない。ただ伊達巻を買いに行っただけにしては、あまりにも遅すぎる。
「寄り道でもしてるのかもね」
「余計なものは買わないと思うんですけどね、伊達巻は布都の好物ですし」
「限られた予算の中、自分の好物の量を減らしてまで別のものは買わないと。本当にそうでしょうか?」
「まあ、あいつの子供じみた思考までは私にも分かんないんですけどね」
「うふふ、なんだか一波乱ありそうですわね」
「青娥が言うなら間違いないぞ、きっと修羅場だぞ」
「いやいや、そんな期待しないでよ。それにしても遅いなあ……」
太子様や青娥さんは笑っていたけど、私はどうにも布都のことが心配だった。
普通の者なら、少々遅くなっても特に気にはならない。店が混んでいたかもしれないし、それ以前に街全体が人混みで溢れていたかもしれない。帰りが遅れる理由なんて、それこそいくらだって思いつく。
けれど、遣いに出たのが布都ならば話は別だ。彼女の危なっかしさは昔からずっと変わらない。当然、側にいる私の心配もだ。
「私、様子を見てきます」
待つのが苦手な私は、そう言って立ち上がった。じっと待っているだけというのはどうも性に合わない。
私のそういうところをよく知っている太子様は、止めようという意識の感じられないふんわりとした口調で言ってくる。
「行き違いになったりするかもしれませんし、おとなしく待っていたほうがいいかもしれませんよ」
「そうなんですけど、落ち着かないんですよ。あいつ何しでかすか分からないし……とりあえず、外で待ってようかなと思うんです」
「おお、迎えに出るのはいいことだ! 私もよく分かるぞ、青娥が玄関で待っててくれるとすごくうれしいからな」
「ふふ、そうね芳香。屠自古様の思うようにやるのが一番ですわ」
「そうですよね。じゃあ、ちょっと失礼して」
「ただいま戻りました!」
居間の襖を開けようとした瞬間、布都の声が響く。
やっと帰ってきたか。まったく、心配したじゃないか。心の中で愚痴を零しつつ、玄関へと向かう。
出てみると、布都はもう靴を脱ぎ廊下に上がろうとしていた。満面の笑みを浮かべた彼女に、わざと辛辣な口調で言ってやる。
「遅いよ布都、もう準備終わっちゃったんだけど!」
「おお、すまぬ。少し手間取ってしまって……」
申し訳なさそうに微笑んだ布都は、そう言って手に提げた二つの袋を見せる。
伊達巻だけなら袋は二つもいらないのに、どうして?
そんな疑問が頭を過ぎった直後、うれしそうに彼女は言った。
「せっかくだから、これを皆で食べようと思ってな」
そう言いながら布都が見せたのは、里の和菓子屋の袋。どうやら、青娥さんの読みが当たったらしい。
途中で我慢できなくなったのか? なんにせよ、誘惑に負けて別のものを買ってくるなんて子供かあんたは。そんなことを考え苦笑しつつ、笑顔の彼女に訊ねる。
「皆で? どうせあんたが食べたかっただけなんでしょ」
「違う、我は皆で食べたかったのだ」
「いいよ、言い訳なんかしなくて。伊達巻を買おうとしたら和菓子屋が見えて、つい買っちゃった。そういうことでしょ?」
「だから違うと言っているだろう。誘惑に負けるような真似を我がするはずなかろう」
断固として否定する布都。
普段なら、それ以上追及することもなく彼女を迎えたはずだ。しかし、この時の私は布都の言葉をどうしても信用できなくなっていた。
青娥さんが直前に言っていたからだろうか。布都の言い分が、なぜかすべて言い訳のようにしか聞こえない。
本当は自分のためなんでしょ。皆のために買ったなんて、体のいい口実なんでしょ。そんな思いばかりが心を埋め尽くす。
欲望を抑えられず、人に責任を擦り付ける。いつもなら何とも思わないはずの行動が、この時の私にはそういう許されないもののようにしか受け取れなかった。
「本当のことを言ってよ」
私は笑顔を消した。自分では見えないが、おそらく相当怒りに満ちた表情だったと思う。
「我が嘘を吐いていると? 我は本当に皆と、いやお主と食べたくて」
「言い訳するなっ!!」
つい、声を荒げてしまった。こんなことをすれば、感情に歯止めがきかなくなるのは分かっていたのに。
「どうして嘘を吐くの? ちゃんと話してよ、自分が食べたかっただけなんでしょ?」
「いいや違う。頼む屠自古、話を聞いてくれ。我はお主のためにこれを買ってきたのだ、一緒に食べよう」
「……馬鹿布都」
困った顔でこちらを見てくる布都にそうぽつりと告げて、脇をすり抜ける。
太子様達が心配して出てきたようだけど、そんなの関係ない。この苛立った気分のまま布都と一緒にいたって、ちゃんとこいつと向き合えるはずがない。
後ろで聞こえる太子様の声。布都の泣き出しそうな叫び声。すべてを無視して、私は屋敷から飛び出した。殺風景な仙界を、あてもなく一人駆ける。
今はとにかく布都から離れたい。あいつを信じられない私の気持ちをどうにかしないと、屋敷に戻ることなんてできない。
そんな思いで、適当に外への出口を開ける。
どこへ繋がったのかも分からない空間。一瞬も躊躇することなく、私はそこへ飛び込んだ。
伊達巻一つでこんな思いをするなんて。あの時ちゃんと確認しておけばよかった。
自身の不注意に唇を噛みしめつつ、私は仙界の出口へと急いだ。
* * *
岩のような蓋をどけて外へ出てみると、そこは人間の里の入り口だった。
隣にそびえる大きな岩。里の目印であるそれが、こちら側へやって来たことを実感させる。
布都達のいない、仙界とは別の世界。ここでなら、もう思いが一人歩きすることもないだろう。
自分のことや、布都のこと。もう一度冷静になって振り返ってみよう。それが私達にとって今一番必要なことに違いないから。
私が我慢できなかった布都の行動。それは彼女が嘘を吐いたことだ。
頼まれたものの他に何か買ってきてしまうことは、別に何とも思っていない。子供っぽい布都のことだから、途中で和菓子屋を見ればそちらを買いたくなるというのも分かる。今まで何度か同じようなことがあったが、その時は私だって笑い飛ばすことこそあれ怒ることなんてなかった。
ただ、嘘を吐いているとなれば話は別だ。誘惑に負け和菓子を買った。その責任を「皆で」という言葉で誤魔化そうとするのなら、私は彼女を許すわけにはいかない。
なんで嘘なんか吐くの? あの時の私が抱いた思いは、この一言に尽きる。
だが、私の知る限り布都が自分を偽ったことなどないはずだ。裏工作の類は何度もしてきたが、人を欺くような真似をはたらく布都など今まで一度も見たことがない。
そんな彼女が、初めてともいえる嘘を吐いた。おそらく、これにはなにか特別な理由があったに違いない。だとすれば、それを確かめるのが先決だろうか。
こうして一人考えるうちに、高ぶった気持ちは大分落ち着いてきた。ほんの数分前に布都に対して怒鳴り声を上げたのが嘘のように、私の心は穏やかだった。
気持ちは十分整理できた。あとは嘘の謎を探るだけだが、これは中々骨が折れそうだ。
形のない痕跡を見つけ出す、か。まるで探偵にでもなったみたいだな。
そんなことを考えていると、不意に自分が里の入り口にいることを思い出した。来たときは気にも留めなかったが、なんだよ、これは立派な手がかりじゃないか。
特に指定をしない場合、仙界の出入り口は直前に使った場所に設定される。行先を決めずに飛び出した私が里の近くに出たことは、単なる偶然ではないのだ。
私の前に仙界を出入りした人物、それは布都にほかならない。つまり、彼女はここから里の加工品店および和菓子屋に向かったことになる。
彼女の通った道筋を辿れば、何かつかめるかもしれない。そう確信した私は迷わず里へと足を運んだ。
手がかりは他にない。心のわだかまりを解消するため、藁にもすがる思いで街を行く。
年末の慌ただしさに彩られた町並み。行き交う人々は、皆忙しくも楽しそうに見えた。
あんな穏やかな笑顔でいられたらよかったのに。今更ながら、怒りに身を任せてしまった自分が恥ずかしくなってくる。
悩んでも仕方ない。今は目の前の可能性にかけよう。
再び後ろ向きになる自分自身にそう言い聞かせながら、人波あふれる大通りを進む。
布都はこの道を通って加工品店に行った。なら、その途中に必ず和菓子屋があるはず。店の様子を見れば、彼女が惹かれた理由も分かるかもしれないんだ。
そんなことを思った矢先、大きな看板が目に入った。何気なくそれを小声で読んでみた直後、私は雑踏の中で足を止めていた。
「『水産加工品』……加工品?」
私の正面にそびえるは、活気に満ちた加工品店。思いもしなかったその現実が、私の心を乱し始める。
今の今まで、布都が先に着いたのは和菓子屋だと思っていた。
伊達巻を売る加工品店。そこに行き着く前に和菓子屋を発見、心に迷いが生まれる。結局その誘惑に抗うことができずに菓子を購入、後に加工品店へ向かった。それが私の思い描いた布都の行動だ。
しかしながら、脇目もふらず進む私の目に先に飛び込んできたのは加工品店のほうだった。
布都が先に訪れたのは加工品店。それでは、私の予想した図式は成り立たない。つまり、布都は伊達巻を買った後何らかの目的をもって和菓子屋を訪れたことになる。
だが、いったいなぜだろう。
布都の言葉は嘘でなく、皆で食べたいというのが本心だった? しかし、仮にそうだとして、わざわざこの人混みの中を更に進もうと考えるだろうか。いくら好物とはいえ、飽きっぽい布都がそうまでして買いに行くとは思えない。
何か、別に理由があるのだろうか。いや、きっとあるのだ。だが、それはいったいなんだ。
里へ来たついでというにはあまりに離れた和菓子屋。そこまで布都を突き動かしたものは、いったいなんだったのだろう。
言葉を失い、ただ立ち尽くす。
答えの見つからない謎に埋め尽くされた私の心は、もはや平穏とは呼べなかった。
あんなに気になっていた人々のうれしそうな声も、もう聞こえない。
唯一の手がかりを失くした私にできるのは、ただ唇を噛みしめることだけだ。
布都が何を考え行動したのか。分かってあげたいのに、どうしても分からない。
行き場のない思いが瞳を潤ませる。里を行き交う人々も年末の華やかな風景も、何もかもが霞みゆく。
不意に声をかけられたのは、頬を一筋の雫が伝うのを感じた直後だった。
「ああ、やっぱりあなたでしたか」
唐突な呼びかけに驚き、いつしか沈んでいた顔を上げる。
声の先にいたのは、命蓮寺の本尊である毘沙門天代理であった。
「寅丸星……なぜあんたがここに?」
「いやあ、その……里の方々に呼ばれたんですよ。『不穏な顔をした幽霊がいる。周りに雷みたいなオーラが出ていて危ないからなんとかしてくれ』とのことでした」
「それって私のこと、だよね。不穏な顔って、そんなに悪そうな顔してたかな」
「どうなんでしょうね。とにかく、里ではもっと大人しくしてないと駄目ですよ。我々の交流は互いに危害を加えないことで成り立っているんですから」
そう言って微笑む寅丸の肩には妙な腕章がかけられていた。
「年末防犯週間」、か。里の人々を取り込もうとするこいつらがやりそうなことだ。
「そりゃあごもっとも。で、私はあんたに捕まるのか?」
「そんなことしませんよ、あくまで様子を見に来ただけですから。ただ……」
「ただ?」
「屠自古さんを見て、ちょっと気が変わりました。何か悩み事があるんじゃないですか?」
少し迷ったような顔をした後、寅丸は笑顔でそう訊ねてきた。
なんだこいつは。私にいい印象を持たれていないことくらい、寅丸だって分かっているはず。なのに、どうしてこんなに親しげな顔ができる。
彼女の思わぬ表情に調子を狂わされ、私の返事も少し上ずってしまう。
「はあ? な、悩みなんてないよ」
「隠しても無駄ですよ、あなたの顔を見てすぐに分かりました。さっきだって、思い悩んでいたから里の人々には怖い表情に見えたのでしょう」
「だから悩んでなんかないし……」
「どうしても話してくれませんか……なら仕方ありませんね。取り調べを行います、ちょっと来てください」
そう言うと寅丸は私の腕を掴み歩き出した。
身体の支えなんて持っていない私は、抵抗することもできず彼女に引っ張られてしまう。
「ちょ、やめてよ! 取り調べって、あんたになんの権限があるのさ!」
「一応今は里の治安を預かってますからね、私。自治会の皆さんに頼まれてパトロールの最中でしたから」
「だ、だからってこんな乱暴に」
「そうでもしないと話してくれないでしょう? 屠自古さんは意志が固そうですから、こちらも少々無理をさせてもらいますよ」
そう言いながら歩き続ける寅丸。抵抗したいが、宙に浮いている身としては腕を掴まれるとこちらの力で止めるのは不可能だ。振り払おうにも力が強くて無理だし、雷でどうこうすると今度は人間に迷惑がかかる。いよいよもって、打つ手がない。
「さて、着きましたよ」
諦めて身を任せていると、やがて寅丸は立ち止まった。
その声に顔を上げてみると、そこには団子屋の看板。まさか、ここが取調べ場所だとでもいうのだろうか。
「まさか、ここで取り調べするの?」
「ええ。言葉こそ固いですが、私はただ屠自古さんの力になりたいと思っただけですから。少し話をするくらい、別にかまわないでしょう?」
人懐っこい笑みを浮かべる寅丸。なんだか、その無邪気さが布都に似ているような気がする。
こんな奴に相談なんてごめんだ。そう思う一方で、ここまでしてくれる彼女に感謝する気持ちもあった。
太子様復活の挨拶などで二、三度会っただけ。単なる知り合いにここまで親身になれる奴なんて、聖人かお人よしの馬鹿のどちらかだ。でも、どちらにせよそういう奴は嫌いじゃない。
小さく溜息を吐いて、私はわざと意地悪な口調で言ってみた。
「もしも私が話したことに解決策を出せなかったら、あんたどうする?」
「そうですねえ……屠自古さんが暗い顔をせずに済むまで、つきっきりでサポートします。どうか私に任せてください」
そう言って寅丸はニコリと微笑む。
経験則からいって、こういう奴のこういう発言は本気だ。最後の最後まで面倒をみる、そう彼女は言ったのだ。
こんな奴になら、話してみてもいいのかもしれない。手がかりをなくした私の意志は、そんな決断を安易に下してしまえるほどに脆弱だった。
仏教の連中なんかに助けてもらうものか。そんな思いは不思議と湧いてこない。
今はただ、寅丸の厚意に甘えるとしよう。そう心に決めて、私は彼女に全てを話した。
先程の出来事から私の気持ちまで、なにもかも包み隠さず晒す。その間、彼女は温かな微笑みを浮かべて話を聞いてくれた。
「……なるほど。布都さんの気持ちがここにきて分からなくなってしまったんですね」
「そうなんだ。ねえ、あんたはどう? 何が目的で、わざわざこの寒い中和菓子屋まで足を伸ばしたんだと思う?」
「もし私だったら、という前提ならば答えは単純です。ただ、屠自古さんと和菓子を食べたかっただけではないでしょうか」
実にあっさりとした口調で、寅丸はそう言ってのけた。
もっと悩むものだと思っていた。いや、それ以前にこんな返事がくるとは予想だにしなかった。
私と食べようと思った。確かに、布都は最後にそう言い直していた。けれど、それだけでわざわざ和菓子屋まで行くだろうか。寄り道するのならまだしも、遠くの店まで買いに出かけるとはどうしても思えない。
自分の好物を減らしてまで買わない。本当にそうでしょうか。
そんな青娥さんの言葉が、未だに頭から離れてくれない。
納得いかない。そんな思いが顔に出ていたのか、寅丸は少し困ったように微笑みながら言う。
「ああ、あくまでも私だったらですよ。用事が終わったのにその先まで足を伸ばす理由、それを考えたらこれくらいしか思いつかなかったんです」
「そんなわけが、ってこれを否定しても意味ないか。それじゃあ聞くけど、実際そうした経験はあるの?」
「ええ、何度か。大切な人が待っていると思うと、何か買って帰らずにはいられなくなるときもあるんですよ。布都さんが同じ気持ちだったかは分かりませんが、屠自古さんと一緒に食べたかったという思いは本物だったと私は思います」
はっきりとした口調で寅丸はそう言い切った。
まだ少し恥ずかしそうな表情をしているのは、自分自身の経験を語ったからか。なんにせよ、彼女の言葉に衝撃を受けたのは事実だ。
皆で、いや私と食べたいと言った布都。あの時は単なる言い訳にしか聞こえなかったそれが布都の本心なら、私は彼女にひどいことをしてしまったことになる。
私の勘違いで、一方的に嘘吐きと罵った。それじゃあ、悪いのは私じゃないか。
「落ち込む必要はありませんよ、勘違いは誰にでもあります」
私の気持ちを察した寅丸が優しくそう言う。
相手の気持ちを察知し、すぐに言葉をかける。太子様もそうだが、それがあまりに的確だと気後れしてしまうのはなぜだろう。
顔を上げた私を見て安心したのか、寅丸は少しおどけた調子で言う。
「ありますよね、ついうっかり失敗することって。私もそういうことが多くて、いつも皆に助けてもらうんです」
「寺の人達か。さっき言ってた大切な人って、その人達のこと?」
「まあそうなんですけど……一緒に食べたいと思って無茶をしてしまう相手となると、私には一人くらいしかいませんね。私がイメージしていたのはその人でした」
「大切な仲間達より、もっと大事な人なの?」
「ええ。困った時、彼女はずっと一緒にいてくれましたから。私にとって、彼女は大事な宝物なんです」
本人の前では恥ずかしくて言えないんですけどね。頬を赤く染めながら寅丸はそう付け加える。
彼女を見ているうちに、なんだか自分が悩んでいたのが馬鹿らしくなってきた。
布都は私と和菓子を食べたかったのだと言った。寅丸と話して分かったが、きっとそれは疑う余地のない彼女の本心だ。
うっかり者という寅丸に、思い込みの激しい布都。タイプは違うが、二人はどことなく似ているような気がする。
布都と同じ感性を持っているであろう寅丸。その彼女が誰かと食べたいだけで無茶をすると言ったのだ。ならば、布都も同じように思ってわざわざ和菓子屋へ足を運んだという話も説得力が増す。
そうだ、はじめから布都のことを疑ったりしなければよかったのだ。そんな当たり前のこともせず、一方的に怒ってしまった。
悪いのは私だ、ちゃんと布都に謝らなきゃ。
私の心に、もはや迷いなんてない。
目の前の寅丸に負けないくらい明るい笑顔を浮かべて、私は彼女に言った。
「もしかして、私の取り越し苦労なのかもね」
「ええ、きっとそうですよ。布都さんの話を聞いてみれば、悩みなんてきっとすぐ解決すると思います」
「そうしてみるよ。ありがとう、その……ずいぶん世話になっちゃったね」
「気にしないでください。私も屠自古さんの笑顔が見られてよかったです」
満面の笑みでそう言う寅丸。その笑顔が喜ぶ布都にそっくりで、思わず吹き出しそうになる。
「ふふ、変なの」
「え? どうかしましたか?」
「いや、なんでもないよ。さて、そろそろ行かなくちゃ。取調べ、終わりにしてくれるよね?」
「もちろん。問題は解決してますし、起訴猶予処分ですね」
「なんか気になる言い方だな」
「布都さんの話を聞かず、問題をこじらせたのは屠自古さんでしょう? 責めに帰すべき事由には十分なり得ると思いますが」
「そ、そりゃそうなんだけどさ……」
「ちゃんと反省しないと駄目ですよ、なんて言える立場でもないですけどね、私。さあ、早く行ってあげてください」
「うん。ありがとう」
笑顔の寅丸に背中を押され、団子屋の縁台から立ち上がる。
早く屋敷に戻ろう。ちゃんと布都に謝って、もう一度話を聞いて。一方的にこじらせてしまった関係を、早く元通りにしよう。
そんな思いを胸に、出入り口を開けるべく隙間を探す。しかし、通り抜けるのにちょうどよさそうな大きさの隙間は中々見当たらなかった。
自在に出入りできるといっても、その入り口でつっかえたりしたらかっこ悪いなんてもんじゃない。仙界への出入り、便利なようで実際は色々と制約があるものなのだ。
これじゃあ、最初の岩まで戻るしかないか。そんな思いが頭を過ぎる。
仕方なしに来た道を戻ろうとしたその直後、ふと前方の雑踏の中に何かが見えた。
見覚えのある形。あれは間違いなく烏帽子だ。
人混みの中から辛うじて顔を覗かせる、見慣れた烏帽子。流れに逆らうように、それは人波の中でゆらゆらと揺れていた。
持ち主の姿までは見えないが、私が彼女を見間違えるはずがない。
溢れる思いそのままに、私は声を振り絞る。
「布都!!」
揺れる烏帽子の動きが止まる。
泣き出しそうな表情で雑踏を抜け出した少女、それは紛れもなく私の大切な友人であった。
「屠自古! よかった、見つからなかったらどうしようと思っていた」
「探しに来てくれたの?」
「ああ。お主が出ていった後すぐにでも追いかけたかったが、少し考える時間をやれと太子様に言われてしまってな。それで、その……もう怒ってないか?」
「うん、もう落ち着いた。ごめんね、急に怒ったりして」
「いや、それならよいのだ」
そう言うと布都はほっと息を吐いた。本当に、私を心から心配してくれたらしい。
ありがとう、そしてごめん。そう告げようと口を開いたが、私はそれを伝えることができなかった。
うれしそうに笑っていた布都に、先に謝られてしまったのだ。
「すまなかった。我の言葉が足らなかったせいで、勘違いをさせてしまったな。嫌な気持ちにもなっただろう、本当に申し訳ない」
「え? ちょっと、謝るのは私のほうだよ。一方的に布都が嘘を吐いてるって決めつけて怒りだした私のほうが悪いに決まってるじゃん」
「しかし、きっかけを作ってしまったのは我のせいであろう? はじめから伝えておけばよかったのだ、お主を労いたかったのだと」
「違う、私が……ん? 労うってどういうこと?」
布都への気持ちで高ぶり始めた心が急激に落ち着いていく。
意味が分からない。労われるようなことをしていた記憶はないし、このタイミングでそれを実行に移すというのも引っかかる。
布都だから、と言ってしまえばそれまでなのかもしれないが、どうにも私には納得がいかなかった。
困惑する私には目もくれず、布都は真面目な口調で続ける。
「屠自古、いつもお主には負担ばかりかけてしまってすまないと思っているのだ。昔はともに太子様を支えていたが、こちらに来てからは家事をお主に押しつけるような形になってしまった。できる限り手伝いたいのだが、力及ばず手伝ってやれないことも多い。いつもお主に任せっきりになってしまうのが辛くてな」
「じゃあ、感謝の気持ちとして和菓子を買ってきたの? なんでまたこんな忙しい時期に?」
「この時期だからこそ、ちゃんと伝えておきたかったのだ。新たな年を迎える前に、どうしてもお主に気持ちを伝えたかった。言うなれば、これも我にとっては新年の準備だったわけだな」
そう言って布都はなぜか得意気に胸を張る。
私に感謝するため、わざわざ和菓子屋まで行き菓子を買ってきた。布都のそんな行動は、まさに寅丸が言っていた無茶そのものだ。
本当に馬鹿だな、こいつは。ただ一言「いつもありがとう」とでも言えば、それで済んだだろうに。まあ、そんな気持ちを汲みとれずに怒ってしまった私が言えることじゃないけど。
そんなことを考えて苦笑しつつ、私は誇らしげな布都に言う。
「だったら、ちゃんとそれを言ってくれないと困るな。さっきは否定したけど、私が勘違いしちゃったのってやっぱり布都のせいじゃん」
「ま、まあ確かにそうだな」
「なんで最初に言ってくれなかったの? そのせいで大変なことになっちゃったんだけど」
「面と向かって感謝するのは恥ずかしいだろう……それに、一方的に決めつけをしたのは屠自古自身の過ちではないのか?」
「うん、まあそれを言われるとねえ……それじゃあさ、全部なかったことにしようよ」
「全部? 我の感謝の気持ちまでもか!?」
「馬鹿、それじゃ意味ないじゃん! 布都が恥ずかしがってうまく伝えなかったのも、私が勘違いして怒りだしたのもなし。布都が感謝の気持ちとして和菓子を買ってきてくれて、私はそれを笑顔で受け取った。そういうことにしようよ、ね?」
口元に笑みを浮かべて、不思議そうに首を傾げる布都にそう提案する。
仙界を飛び出したときの暗い気持ち。そんなものはもうすっかり消えてなくなった。
布都は嘘を吐いていなかった。それどころか、私へのプレゼントとして和菓子を買ってきてくれていたのだ。それが分かった今、笑顔を浮かべずにはいられない。
私の顔をじっと見て話を聞いた布都も、やがて微笑みながら答えた。
「それがいい。我の気持ちも無事に伝わったようだしな」
「いや、別に今更布都に感謝されてもうれしくないけどね」
なんとなく恥ずかしくて、慌てて布都の言葉を否定する。
もちろん、本当はとてもうれしかった。
いつも感謝してくれている。長い付き合いの彼女だからこそ、私はその事実がなによりうれしかった。
太子様のために集った仲間。私達は、単なる腐れ縁。今の今まで、ずっとそう思ってきた。
けれど、私達の関係はそんな単純なものではなかった。私達は、もっと確かな絆で結ばれている。布都はそう心から言ってくれたのだ。
口元が自然と緩んでしまう。
うれしくなんてない。いくらそう口で言っても、表情の変化まで止めることはできなかった。
私の顔を見た布都はうれしそうに微笑んだ後、気取った顔をして言ってくる。
「まあ、そういうことにしておこう」
「なにその言い方! 言っとくけどね、私は別にあんたに感謝されてもねえ」
「あのー、お取り込み中すみません」
不意に聞こえた声に振り返る。
声のしたほうは団子屋の縁台。まさか、と思ったが……そのまさかだった。
暖簾の影から顔を覗かせたのは寅丸星。彼女を見た瞬間、頬が急に熱くなっていくのを感じた。
「ききき、聞いてたの!?」
「ええ、ばっちりと。ああ、盗み聞きしようとしたわけじゃないんですよ、ただ出ていくタイミングを見失って仕方なくここで待っていたら全部聞こえてしまっただけでしてね」
「おお、星じゃないか」
「こんにちは布都さん」
「あれ、二人ってそんな仲良かったんだ」
「ええ、布都さんとはこの団子屋さんで出会ったんです」
「あの日は熱かったな。みたらしとあんこの魅力について一日中語っていた。あそこまで深いやり取りのできる者など星以外におらぬだろうな」
「はあ……で、どうかした?」
「いや、皆さん仙界で待っているんじゃないかなと思いまして。正直私もそろそろ寺へ帰りたいんですが……」
寅丸に言われるまですっかり忘れていた。私が心配させたのは、布都だけじゃなかったんだっけ。
「そうだ、早く帰らないと。あの……星、と呼んでも?」
「もちろんかまいませんよ」
「ありがとう、星。布都と仲直りできたのはあんたのおかげだよ。あと待たせてごめんね」
「そうか、星が話を聞いてくれたのか。助かったぞ、また今度団子片手に語り明かそうではないか」
「ええ、是非。それじゃあお二人とも、よいお年を」
暖簾をくぐり外へ出た星はそう言って笑顔で手を振り、寺の方へと歩いていった。
「じゃあ私達も帰ろうか」
「そうだな。この辺の隙間はいまいちか……やはり入口の岩まで歩くほかないな」
「まあ、しょうがないよね。じゃあ行こう」
布都の手を取り、来た道を引き返す。
行き交う人々は、相変わらず楽しそうに見える。
けれど、今はもうそれをうらやましくなんて思わない。
だって、今の私もきっと同じような顔をしているから。
「ねえ布都」
「ん? どうした?」
「……ありがとう」
「……ああ」
それ以上、言葉はいらなかった。
十分すぎるほど、布都の気持ちは分かっているから。
ついさっきまで、私は布都に怒ってしまったことを後悔していた。
けれど、もしかしたら本当はそれが正解だったのかもしれない。
確かに、布都には嫌な思いをさせてしまった。しかし、一度離れたことで私達は互いの気持ちをよく知ることができた。
自分を見つめ直し、布都に向き合った。彼女の気持ちを知ることができたのは、その成果なんだと思う。それなら、短絡的に思える私の行動も実際は正しかったといえるのではないか。
「顔がにやけているぞ」
不意にそう言われて一瞬たじろぐ。
取り繕うことも考えたが、いっそ開き直ってしまうことにした。
「うれしいときに笑っちゃいけないの?」
「そうではないが、お主さっきはうれしくないと言っておったぞ」
「うるさいなあ、どうでもいいんだよそんなの」
「まあ、確かにどうでもよいがな」
「……ばか布都」
そう言って手を握ってやると、布都は驚いて体を震わせた。
どうだ、これでおあいこでしょ? そんなことを考えていると、不意に冷たい風が吹きつけてきた。
思わず顔をしかめ、息を漏らす。白くなった吐息の昇る先を眺めると、そこには青く透き通った空が広がっていた。
雲一つない、快晴そのものの空。まさに今の私の心そのものだ。
こんな素敵な気分になれるなら、年の瀬も悪くないかな。そんなことを思いつつ、人混みの中を行く。
忙しい時期、おせち地獄。今までずっと変わらなかった、私の年末。
けれど、今年からは少し違ったものになりそうだ。
物部布都。腐れ縁の友人ではなく、私の大切な人。
その人に手伝ってもらいながら過ごす年の瀬は、どんなものだろうか。
この後二人でちゅっちゅですね、わかりますw
何というか、ご都合主義的に動いているように思えてしまいます。