物心ついた頃には博麗神社に住んでいた。
博麗の姓を名乗り、それなりに修行をしつつ、神社を掃き清める日々。住んでいた――というより、そのまま博麗の子どもと言ったほうが正しいのかもしれない。そう言い切ってしまうことに抵抗を覚えるのは、"母"と呼ぶべき人が時折垣間見せていたよそよそしさの所為である。普段は見せない"その瞬間"が、ふとした拍子に――神事を終えて疲れているときであったり、妖怪退治を終えて帰ってきたときであったり――顔を覗かせたのだ。
お前は私の子ではないよ――と。
言われたことはないのだけれど。
ある意味で直接言われるよりも悪かったのかもしれない、と今になって思うことがある。
当時はそんなことを考えもしなかったのだが。
だから、どうして私を拾ったのか――なんて、訊いてみることを思いつきさえしなかった。
私の世界はほとんど養母と二人きりのそれで、関係を絶ってしまうとどうなるか知れたものではなかった。幼心にそんなことを考えたのかもしれないし、単純に私が莫迦だっただけなのかもしれない。まあ、不満はなかったのだ。神事があるときには里の大店の子だとかいう――それにしてはガサツな子であったのだけれど――友達も訪ねてきてくれたし、私は私なりに満ち足りていた。
だが。
得てしてそういうささやかな幸福は、この幻想郷において長続きしない傾向にある。
死んだのだ。
養母が。
死因はよく覚えていない。病だったのか、妖怪にやられたのか。多分そのどちらかだったと思う。とにかく衝撃を受けてしまって、その周辺の記憶が曖昧になっている。
覚えているのは、渡された骨壷の冷たさだけ。何だか分からないうちに遺体を焼かれ、持ち回りだとか聞かされた里の住職が――こういうどうでもいいことばかりを覚えている――適当な感じでお経を読み上げて帰ってしまったあと、ようやく私は我を取り戻したのだ。
既に里人の姿はなかった。里の外れで行われた葬式には、弔問客の数こそそれなりだったけれど、養母と深い繋がりを持っている人はいなかったからだ。残された私にお悔やみを言い置いて、彼らは三々五々散っていった。
――これからどうすればいいんだろう。
はあ、とため息が白くたなびいた。その白さは私の心細さの現れでもあった。そうして、どうにか即物的なことを考え始めた矢先に――、
私は彼女を見つけたのだ。
雨のない夜だというのに、彼女は装飾の多い日傘を差していた。数時間の間に見慣れてしまった喪服ではなく、紫色の夜会服を着ていて――、つまり他の弔問客とは一線を画する存在感の塊を、どうして見過ごすことができただろうか。里の人たちが皆いなくなってしまったという心細さ。悲しみと日常の狭間に放り出された不安定な思考。そうしたものが寄り集まって、彼女に声を掛けるという決意ができあがった。
「あなたも、母さんの知り合いだったの?」
不審感が不躾な態度となって現れた。人にものを尋ねる態度じゃなかったな、と思ったのは聞いてしまった後のことで、彼女の目が暗闇の中で猫じみた発光を伴っていると気付いてからのことだった。ずいぶんな態度をとったものだが、許してほしい。あの時の私は大人に囲まれるという慣れない環境を乗り切った直後で、他人に対して気遣いをする余裕なんてなかったのだ。
彼女はそんな私に目を止めて、
「物怖じしないのは良いことだけれど、マナーがなっていない子は嫌われますわよ」
と、言った。高めの身長に似合った、しっとりと落ち着いた感じの声だった。そのときの彼女は余所行きの格好で――というか彼女は自在に姿形を変えられる妖怪だったので、その時々の格好は当てにならないのだ――参考にはならなかったのだけれど、少なくとも私を赤面させるだけの力は持っていた。
「そ、そんなのどうだっていいわよ。私を――褒めてくれる人は、もういないんっ?」
吐き捨てるように言いかけると、彼女は人差し指で私の口を塞いで、
「良くないわ。その人はきっと、貴女を見守っているはずなのだから」
微笑した。
……驚いた。
皆、私に腫れ物のように接するばかりで、母のことを口に登らせようとしなかったのに。
「......親しかったの?」
「一度、声を交わしただけよ。里の人間の方がいくらか関わりが深かったでしょうね」
――だったら、どうして。
表情に出ていたのか、彼女は微笑を深めた。
「縁が合う、という言葉通りよ。その縁が――一度きりではあったけれど、強い縁だったの」
「そうなんだ」
「訊く割には無感動なのねえ」
彼女はそう言ったが、母親の交友関係を聞かされたくらいで動じない精神状態だっただけなのだ。私だって人並みに感動したりはするのである。
――だって。
「それ、私に関係あるの?」
口を尖らせて私は言った。
「ない――とも言い切れないけれど」
ちょっと困ったように彼女は首を傾げて、
「これは私とあの子の縁だから。聞かせられるようなものではないわねえ」
「やっぱり」
多分、私は勝ち誇ったのだ。彼女の微笑が、徐々に声を伴うそれへと形を変えて行ったから。思えばこのとき、人並みの言葉を交わしたことで、ようやく私は"私"を取り戻したのかもしれない。忘我から脱したとはいえ、人間らしい心地では到底なかったはずなのだから。
おかしな子ね――と、彼女は言って。けれど、笑い止む気配はなくて。
葬儀の陰鬱な気配を、多少なりとも和らげる笑い声を聞いたことで、私も釣られてくすりと笑うことができた。何だか、明日からの生活も何とかなるような気がした。もちろん、大いに里の人たちの世話になるだろうし、母さんが作り上げてきた信頼関係を食いつぶして行くことになるのだろうと薄々感じてはいたのだけれど、そのときだけは笑ってもいいような気になったのだ。
――そうだ。
名前を聞いていないな、と思い立ったのはそのときで。しかしその作法も分からなかった私は、どう切り出せばいいのかと迷ってしまった。迷ううちに彼女はぱちりと傘を畳んで、帰り支度を始めてしまった。
「あ――」
「? どうかしまして?」
「な、何でも。帰るの?」
「ええ。過ぎた悼みは却って死者を引き止めてしまうものですから」
「……さっきは母さん、見てるって言った癖に」
「見ていることと居ることは別ですわ。縛り付けられることは、生者と死者、どちらにとってもいい結果を招かぬもの。向こう側から時折顔を覗かせて、元気にやっているところを見て帰って行く――これくらいがちょうどいいの」
「向こう側、って」
呟きに、彼女は意味深な笑みを返した。
「気落ちしなくても、貴女だっていつかは行くことになる世界のことよ。では――縁があったら、また会いましょう。■■■」
言うと。
彼女は空間を切り裂いて姿を消した。めきり、と仕草に似合わぬ重苦しい音を残して。
「妖怪、だったんだ……」
ぺたんと地面に座り込む。冷たさが徐々に尻へ伝わった。妖怪なんて、言葉の通じない連中ばかりだと思っていたのに。
退治――するべきだったのだろうか。否。できたとは思えない。それくらいの分別は持っている。
「縁があったら、か」
そのときは。
私と彼女が戦うときだ、と私はそう思った。
◇
奇しくも。
私の想像は当たっていた。ただし、私の側は彼女を忘れてしまっていて――というか、彼女の姿形が変わってしまっていたのだが――、正体に気付くことはなかったのだけれど。異変の首謀者として立ち会った彼女が、あまりにも妖怪然としていたので、見違えるより先に手を出してしまっていた。だからこれは、その一瞬の交錯が終わったあとの会話ということになる。
白玉楼へ続く階段で、彼女は私の頭上の空間に陣取っていた。その構図が気に食わなかったということ。それに、
博麗神社のおめでたい人――。
母さんがいる場所を前に、そんなことを言われて頭へ血が上ってしまったということもある。狐の方には何度か会ったことがあった。しかし、親玉の方には会ったことがなかったのだ。初対面の妖怪が何を――という気持ちが大きかったのである。
「結界が一つや二つだと思って?」
挑発するように言われて。
私は、完全にキレた。
「だったら全部直させてやるわよ!」
「枚数は?」
「アンタごときに見せてやる手の内なんかないっての!」
「あらあら。――手加減は致しませんわよ?」
「上等!」
十一枚。
声と弾幕が重なった。のっけからスペルカードを見せるわけではなく、苦無を利用した円形の弾幕だった。
――小手調べ、ってワケね。
静から動へ。一気に速度を上げ、弾の間を縫うように避ける。狙い澄ました弾は、弾速こそ速いが避けやすい。
「この程度で落とせるとは思わないことね!」
「では」
扇の開く音が、奇妙に大きく響いた。
「一ノ符、結界『夢と現の呪』」
弾源から規則的に大弾が射出される。一定距離を進んだところで、炸裂。大量の小弾を生む。あれは苦無と同じ、狙撃型の弾だ。それだけを弾筋と勘、経験で判断し、横っ飛びに回避する。しかし、行く手方向で炸裂した大弾からは、不規則に楔弾が展開されて道を阻む。空間は空いているから避けられないということはないが、
「鬱陶しい、わね!」
ギリギリを掠めた弾に悪態を吐き、もう一段速度を上げたところで――、
「げ」
反転。
楔弾と小弾の展開が入れ替わる。初手から面倒な弾幕だ。白玉楼へ続く階段が浅葱色に彩られていく。
――くそ。
避けてるだけじゃあ、埒が明かない!
二種類の弾の隙間を掻い潜る。速度を緩めることなく、方向を直下へ。石段を蹴り、前へと飛ぶ。追尾と速度がキツイ弾幕ではないから、こうすれば追いついて来るまでに多少の時間は生まれるはず。経験則で判断して、
「一枚や二枚で止められるなんて思わないでよね!」
思い切り階段を駆け上がり、だん、と踏み切って今度は直上へ。
狙うは。
大弾の射出点――、彼女の目の前だ。
「まず!」
針を握り込み、
「一枚!」
拳を振り抜いた。タイミングは完璧。射出後の硬直が解けないままの彼女を、針が襲った。
けれど――、
「私だって」
「っ!」
するりと半身を捻って彼女は回避した。
「貴女に本気を出させるまで、落とされる気はありませんわよ?」
スペルブレイク。
言葉とは裏腹に、無理な姿勢になって制御が疎かになったのか。今にして思えば単に時間経過でブレイクしただけのようにも思えるのだけれど、まあその時の私が感じていたのは、
「やっぱウザイわね、っと!」
それだけだった。空中で拳を振り抜いたことにより泳いだ足を、空気を足場に無理矢理攻撃へ転化する。が、当たらなかった。不可思議な空間を経由して大きく離れた彼女は、感情をまるで読み取らせない、胡散臭い笑みを浮かべていた。扇は無い。余裕を失ってくれているのなら結構だが、案外汚すのが嫌なだけだったりするんだろうな、と私は愚にもつかないことを考えていた。
互いに呼吸を整える、僅かな間が流れて。
瞬間。
――ん?
ちり、と脳裏に何かが閃いた。
「……あー、アンタ、もしかして前に会ったことある?」
「どうしてそう思いますの?」
「弾幕は言霊であり、言弾だからよ。アンタの弾筋、見覚えがあるような気がするのよね」
といっても。
あの夜の"彼女"であるとは理解していなかったのだけれど――。
そのとき。
彼女の顔に浮かんだ表情を何と表現すれば良かったのだろうか。
私は未だにその言葉を見つけることができないでいる。それは彼女と出会って、そして数年が経過した現在でも同じである。だから、ここでは仮にとても面白そうな表情だった、とだけ言っておこう。長く生きた、それも人間ごときにはとても生きられないような時間を生きたモノだけが表すことのできる感情だった。
彼女は。
応えなかった。
代わりに、
「二ノ符、結界『静と動の均衡』」
宣言が、来た。
次の弾幕が迫る。
ひゅっ、と細く息を吐いて、私はそれを睨みつけた。答えはこの中にあると、そう信じながら。
◇
じゅういちのふ、ということばをきいたきがした。
顔を上げると、彼女は不思議そうな表情でこちらを見下ろしていた。一枚目の展開と同じ位置関係にある。彼女がそれに気付いたから弾幕を止めたのかどうかは分からない。分からないが、呼吸を整える絶好の機会のように思えた。
――何だっていうのよ。
深く長く息を吐き出した。少しだけ周囲を見渡す余裕が、そこにはあった。
階段をどんどん進みながら戦っていたので、その終わりと白玉楼へ入るための門が見え隠れしている。舞い散る桜の花びらはより一層数を増し、さながら小規模な弾幕のように私の視界を遮っていた。鬱陶しいと思うことすらできないほど、私に余裕はなかったのだけれど。
それでも、
「次で――終わりね」
私は笑って見せた。精一杯不敵に見えるように。そうすることでしか、自分を鼓舞すること手段が残っていなかったから。幾度かの被弾を越えてなお彼女を倒さなければならないと思っていた――思わされていたのは、主犯を叩きのめすのだという気概に他ならなかった。霊力やら気合だとかいうものはとっくに底を突いていて、彼女に対する敵意にも似た挑戦心――あるいは矜恃と呼ばれる感情――だけが私を支えていたのだ。
ああ――いや。
もう一つ、あったっけ。
「やっぱり、アンタ。会ったこと、あるわね。どこでだか、思い出せないけど」
「……それが貴女を奮い立たせる理由なのかしら」
「なんで、訊くの? シュミ――悪いわね」
見抜いたから、彼女は不思議そうな表情をしたのかもしれない。確かに、博麗の巫女としての義務感が勝っているのか、それとも彼女の正体を見極めてやろうとする気持ちが強いのか、私にも分からなくなっていた。
――倒せば分かるわよ。
後にどこぞの半人前が同じことを言うのを聞いてげんなりする心境に――このときは本当にそういう心持ちだったのだから仕方ない――なっていたのだ。その私へ、
「そう――そうね。無粋でしたわ。私らしくもなく」
「でしょう? 余裕が、無いったら」
「ここに相応しい言葉は一つ。美事――という、それだけで十分でしたわね」
一枚として手札を見せなかったことが――と、彼女は言った。弾幕ごっこにおいて、相手を余程挑発したいときか、あるいは下に見ているか。そういうときくらいにしか、一方的な弾幕の展開が行われることはない。被弾は幾度かしたにせよ、彼女の弾幕をスペルカード抜きで乗り切ったことは事実だった。私にとってある意味で名誉なことであり、そして彼女にとってはこれ以上ないほどの屈辱だった。
博麗だし、と私は言った。
「アンタの弾幕、式神のと似過ぎなのよね」
「あら、それは失礼を。藍はまだまだ未熟だから、自分で創意工夫する努力が足りないの」
「結果的に、私は助かってるけどね」
良いからとっとと最後の一枚見せなさいよ――と一息に言って、私は封魔針を突き付けた。それが狐の手札になかった一枚であると、気付いていて尚挑発してやったのだ。
「正直、もうここにいたくないのよ。今のままだと――引っ張られちゃいそうだし」
肩で息をする私を見て、彼女はどう思ったのだろう。何故だかつと柳眉を緩めて、
「人と妖の境界を超え、生死の境をも突破したのですもの。当然のことですわ」
褒めるような声音でそう言った。
――あ?
訝っても、それ以上彼女の表情は変化しなかった。褒められるようなことは何一つしていないというのに。負わせられた傷はどれも、浅い。そう装っているだけなのだとしたら、大した詐欺師だ。
まあ――いいか。
諦め混じりに私は思った。それくらいでなければやりがいがないというものだ。
ふっ、と息を整える。守勢のそれでなく、攻勢のそれへと。同時に、彼女の姿が徐々にかき消えて行く。耐久型か。ここに来て面倒なスペルを残しているものだ――どこか他人事のように私は思った。
「紫奥義『弾幕結界』」
どこからともなく声だけが響く。彼女のいた場所を中心に、環状の弾幕が敷かれていく。弾幕による結界。宣言通り、というわけだ。こいつを耐え切れば私の勝ち。気力が尽きれば私の負け――、
「ホント、分かりやすいったら!」
弾幕結界が押し広げられるように動く。楔弾の隙間を縫うように、私も動く。見た目は規則的で美しい弾幕だ。動きをよく見ていれば避けにくい部分はあまりない。見ることに集中しすぎて、敷かれる結界に轢かれなければ――だけれど。内から外へ弾幕に沿って移動した私は、再び敷かれる弾幕に寄り添うようにしてまた内側へ。弾速が徐々に早まっていく。見切るだけでも大変だ――。
「っ、く」
掠めた。
もういい、投げてしまえと本能が脳裏に囁く。それをしないのは、同じくらい理性が彼女の弾幕を求めているからだ。それだけ彼女との戦いは私を弾幕ごっこへと惹き込んでいた。つまり――、「美しさで相手を魅せることができれば勝ち」という正当なスペルカードルールに則れば私はとっくに負けている。認めたくないのは単純に、
――最後まで見届けたいから、ね。
美しさが勝利であるがゆえに、敗北を認めないこともまた美しさに寄るもの。それが弾幕ごっこの奥深さであり、博麗の巫女が体現するべきことなのだ。
めきり。
異様な音が鳴った。弾幕の展開時間が過ぎようとしているのだ。空間操作が綻び、彼女の姿を薄らと視認できるまでになっている。おそらく、この波を抜け切れば終わり、なのに。
「そう簡単には――、いかないか」
隙間が見当たらない。細分化が進むタイプの弾幕だったから、最後は楔の交差弾幕だと踏んでいたのに。最後まで来て、完全な結界が敷かれてしまった――?
否。
ルール上、完全に避けられない弾幕は存在しないはず。となれば、これもまた避けられる?
考え込むだけの時間は、それこそ、無い。
――……仕方ないわね。
あと一発くらいなら直撃食らっても大丈夫かなー。
投げやりに考えて、けれど私はそこでようやく手札の存在に気付いた。そうだ。手の内にはまだ手付かずのスペルカードがあるじゃないか。これを以て切り抜けることは容易いだろう。単純に相殺してやればいいだけの話だ。
否々。
そんなことをすれば、自ら負けを認めるようなものじゃないか――。
と。
弾幕が動き始めた。
くそ。
やっぱり、抜けられない。
あー。
本当に気合だわ。
広がり押しつぶそうとしてくる弾幕を見据え、私は腹を決めた。来るなら来い。負けるものか。意地でもスペカなんてつかってやるもんか。
そして――。
◇
それから。
永夜の異変があった。
地霊の事件があった。
時に共闘し、時に言弾を交えながら、私は彼女と交流を深めていった。
彼女は雄弁だったけれど、胡散臭くて本音を見せないところが多々あった。ただ、弾幕の中では本音のようなモノを覗かせた。例えば月へ行くための修行であったり、幻想郷を脅かした天人に対する態度であったり。断片的なそれではあったし他の奴らの弾幕よりもよほど分かりづらかったけれど、読み取れないということはなかった(他人が見ると分からないらしいのだが)。まあ、実際のところ神社を倒壊させられたり肝心な時に冬眠していたりで、すぐに感情が揺り動かされることは――少なくとも正の方向へは――なかったのだけれども。
そういうものを見るにつけ、私の中で彼女の位置づけがコロコロ変わって行った。彼女に対する感情を、どう名付ければいいのか分からなくて、遠ざけようとしたこともあった。しかし彼女は持ち前の胡散臭さで私の築いた壁をいとも容易く越えてきた。
彼女が何を考えているのか分からないまま、彼女が生活の中にいることは、半ば当然の光景となりつつあった。そんななし崩しの関係を何季にも渡り続けて、今に至っている――というわけなのだ。
◇
「しっかし、あの時は無茶したもんよねー」
「あの時?」
「ホラ、冬の異変の最後よ。あれは相打ちってことで良かったのよね?」
「ああ――でも、終了と同時に落ちたわよね、貴女」
ルール上は私の勝ち――と言って、蜜柑を剥き剥き彼女は小さく欠伸をした。意地っ張りめ。秋が深い。もうそろそろ、彼女は冬眠に入る時期なのだ。私と狐にとって、面倒ごとが少しばかり増える憂鬱な時期である。まあ、彼女に心酔しているらしいあの狐が苦痛に思っているのかどうかは怪しいところなのだけれど。
普段から仕事をしていないように見えて、彼女はなんだかんだで動いている。弊害が少々大きいので――結界を緩める"ついでに"修復してみたり、外の人間を拉致する"ついでに"帰してきたり――目立たないだけで。
――能ある鷹は、って奴なのかしら。
全てを塗り潰してしまう程に胡散臭いところがまた彼女らしいというか何というか。ある種凄いところではあると思うのだけれど、褒めるところでもないし、困ってしまう。
「ねえ、■■■」
視線を上げると、彼女は手を止めてこちらを見つめていた。
「何よ」
「んん、何というわけでもないのだけれど」
行儀良く一房をちぎって口へ運び、嚥下する。その喉の動きを何とはなしに目で追ってから、
「じゃあ声かけないでくれる? アンタのそういうところは気に入ってるんだからさ」
「あら、嬉しい。……だんまりが気に入られるというのも微妙な心境ですけれどね」
「いいから。用事があるんでしょ」
「本当に何でもないことなのよ。冬に入る前の諸注意という奴ですわ」
「いつものことでしょ?」
「それでも、言葉にしておいた方がいいことはあるものです。ともかく、今年はいつかのように異変の兆候もないから、私は冬が開けるまで眠ることになると思うわ。藍と協力して、博麗大結界と幻想郷をよろしくお願いしますね」
「何だ、本当にいつも通りじゃない」
彼女は軽く苦笑して、
「だからそう言っているじゃないの」
と、言った。それきり、沈黙。用が済んだとでもいうように、蜜柑をちまちまと食べ始めた。要求されて早めに準備した掘り炬燵が妙に馴染んでいる。外の世界では電気炬燵に蜜柑というのがベーシックなんですよ、と友人に聞かされたことがあるが、彼女を見ているとあながち間違いではないような気がしてくる。まあ、内外を隔てる障子は開けっぱなしだから、絵面はともかく実際には少々寒いのだけれど。
――炭代、たかってやろうかなあ。
思い、天板に頬を押し付けた瞬間だった。
「ねえ」
再び、呼ばれた。蜜柑が口に入っているらしい、ちょっともごもごした声だった。
「お行儀悪ー。何よ、話終わったんじゃないの」
「お互い様。人の話は顔をあげて聞くものよ」
「いーの。アンタどうせ"人"じゃないんだから」
珍しくどこぞの仙人めいたことを言う彼女に、私は間延びした声で返す。
「……まあ、その通りですわねえ」
諦めの早さは彼女らしい。どこから話そうかしらね――。迷っている、らしい。雹でも降らなければいいのだが。ぎょっとして、私はあからさまに不審なものを見るように眺めてしまった。どんな言葉でも適当に霞の中から放り投げてくるのが彼女の話法だと思っていたので。却ってそれで落ち着いたのか、彼女は一つ咳払いをして、
「今年から冬眠をお休みする――と言ったら、あなたはどう思うかしら」
と、言った。疑問形のようでそうでもないような、何か複雑な色を秘めた声音だった。
「……やめようと思ってやめられるモンなの、あれって。あれがアンタにとっての休みなんでしょうに」
手持ち無沙汰になるのが嫌で、私は蜜柑を一つ手に取った。何となく不穏なものを感じ取ったのだ――、と言い換えてもいい。彼女は微妙に戸惑うような表情で、
「無理をしようと思わなければ、ね。普段の眠りで事足りるわ。休みということに変わりはないのだけれど」
「何ソレ。妖怪って奴はやっぱり適当なモンなのね」
「貴女はどう思う? 私が眠ることをやめる、と言ったら。少しは喜んでくれるのかしら」
「喜ぶ?」
何でまたそういう結論に達するのか。極限まで訝しげな表情を作ってやったら、今度は怯んだように半身を引いた。
「まあ――ねえ。面倒事が少しでも減ってくれるなら嬉しいっちゃ嬉しいけどさ。アンタが異変解決に行ってくれるわけでもないんだし、私は対して変わんないと思うなあ」
「じゃ、じゃあ」
逆によ――と、彼女は食い下がって、
「ここに住みたいの、なんて言ったら許してくれる?」
ぶしっ、と果汁が炬燵に飛び散った。
――はあ?
何だか――彼女の口から出るには物凄く違和感のあることを言わなかったか。
「……もう一回言ってくれる? よく聞こえなかったわ」
「同棲しましょ?」
「あー……」
重症だ。
「小春日和の陽気にでもやられた? それとも炬燵があったか過ぎて寝ぼけてるの? 違うわね。ボケてるんだ。長く生き過ぎると駄目なのは人間ばっかりだと思ってたのに。意外とアンタたちも同じようなもんなのかしら。早い所眠らないと本当はヤバいんじゃないの? け、結界のことなら私と藍でどうにかするから。アンタは自分を大切にしなさいってば。ここのところ立て続けに変な奴らが入って来たから疲れてるのよ。でなきゃアンタがそんなこと――」
「■■■」
その声は。
あまりに儚く――切実で。
私は口に上らせようとした言葉をひゅっと飲み込んだ。
「真剣な話なの」
「……理由は何なの? また何か企んでるんじゃないでしょうね」
半ば睨みつけるように彼女を見る。といっても、彼女が首謀者となって起こした異変なんて、一つとして――あ、一つくらいは微妙か――ありはしないのだが。
言葉の意味は分かる。同棲。有り体に言えばこれは、その、何だ。告白――の範疇に入る、んだろう。けれど、
――はあ。
呆れた。ため息を一つ。こんな当たり前のことを、どうして彼女なんかに説明しなきゃいけないんだろう。
「あのね、人と妖が結ばれることに関して私は否定も肯定もしないけど、でも博麗の巫女として越えちゃいけない一線っていうのはあると思うのよね」
あくまでも博麗は中立を保つべき存在である――そう思うからだ。
「誰とも深く交わりすぎることなく、唯幻想郷に在りて幻想郷を想う。そういう風に母さんに教えられたし、今じゃ私だってそう思ってる。それが私の存在する意味であり、変わることも変えることもない第一義よ。誰に何と言われようとね」
大体ね、と強いて強調するように私は言った。
「女でしょうが、私もアンタも」
我ながら。
力のない言葉だとは――思うけれど。
何故なら。
彼女に対して抱いている気持ちには、未だ名前を付けられていないのだから。
答えのような、切っ掛けのような――そんな言葉をもらったところで、一朝一夕に解決するような問題ではないのだ。
「あら、性別の境界を弄ることなんて、雑作もないことですわ」
案の定彼女はそう言って、口元を扇で覆い隠した。そういうことをするから私の気持ちが定まらないのだ、と半ば八つ当たりのように思う。
本心が――読めない。
これが弾幕ごっこの最中だったらな、と少しだけそんなことを考えた。それなら、きっと本心も読めただろうにと。だからこそ、こんな何でもない場面を彼女は選んだのだろうけれど。
いつもの戯言?
それにしては、目が笑っていないようにも思える。
「……どうして私なのよ。言っちゃ何だけど普通の人間でしょうが、私なんて」
「普通――という言葉が適当なのかしらね、貴女の場合は」
「何が」
「分かるでしょうに。自分のことなのだから」
彼女はすうと目を細めた。
「だって――」
あまりにも。
あまりにも、脈絡とかそういうものが無さ過ぎはしないだろうか。
せめてこう、それらしい場所とか選んでくれれば返事のしがいもあったと思うんだけど。
それこそ、弾幕ごっこの最中とか?
……駄目か。
「この方が私らしいと思ったのだけれどね。貴女を――困らせるだけだったかしら」
「まあ、うん」
「夢と現の境なんて、どこにでもあるのだということが分かったでしょう?」
「……まさか、そういうことが言いたくて」
「それこそ真逆、ですわ。けれど、そうね。貴女がそう受け取って、これを忘れてくれるのなら――そういうことにしておこうかしらね」
「って、ちょっと!」
めきり、といつかのように重苦しい音を立てて、彼女は唐突に去ろうとする。
――いつ、か?
そのとき私を襲ったのは、強烈なまでの違和感だった。私が彼女と出会ったのは、あの冬の異変であるはずだ。その前から知っていることはあり得ない。それを思い出してはいない。後で姿形を変化させられると分かったことは事実だが、そのことと彼女を結びつけて考えたことは一度としてなかったのだから。
ならば。
どうして今になってそんなことが――浮かんだのだ?
――待ってよ。
恐怖感に苛まれ、私は切羽詰まった声を出す。
「■■■、アンタ――一体、誰なの?」
私は、
「私の考えてることなんか――」
"私"にしか、
「分かるはずないんだから――」
"私"に、
「私に訊きなさいよ!」
あれ?
私?
私は何を――言っているんだ?
「■■■?」
怪訝な顔で、■■■が言う。
「私は」
私が、
「私?」
私って――、
誰?
◆
ばぢ、と無理矢理切り離されるような感覚を残して、私の意識は"博麗霊夢の夢"から乖離した。シミュレーションの結果が実際の博麗霊夢に追いつけなくなり、エラーを吐いたのだ。
シミュレーション。
そう。
今までの光景は全て、霊夢自身の記憶でもなければ、彼女の見る夢中に入り込んで観測した出来事ですらない。
全ては私の見ていた夢であり、過去の博麗霊夢と――そして、これからの彼女をトレースしたものである。
記憶にある行動から感情を逆算し、その者の思いを追想する。容易ならざることではあるが、全ての能力を演算に回せば不可能ではないという程度の行為だった。逆を言えば人間一人でこれなのだから、千年――あるいはそれ以上を生きる者に通用する行為ではないのだけれど。
夢現の境界線上から望む世界は、過去未来の境界すら曖昧になる世界だから、追憶や予知の全てが簡単になる――はず、なのだ。それなのに、虚像の彼女は自分が虚構であることにどこかのタイミングで気付いてしまい、私の望む答えが存在するステージにまでたどり着くことができないでいる。
――どうして。
目を開ける。
たそがれか、あるいはかわたれか。薄い光が淡く照らす室内からは判断がつかない。明けと暮れの境界が漠然とするよう、この屋敷は設計されている。特に私の寝室は、幾つかの窓が存在するにも関わらず、一日中日の光が差さない薄闇の部屋である。日頃からよく眠る私にとっては、この方が楽なのだ。
ただ。
冬眠という習慣は――本当に、霊夢と出会うまで持ち合わせていない習慣だった。演算時間。できることであるとは言っても、それなりに時間を要してしまうことであるから、どうせならとまとまった時間を確保したのである。
当然、式神は良い顔をしなかったのだけれど、あたかも初めからそうであったかのようにプログラムすることで問題を解決した。他にこの習慣がなかったことを知る人妖とて、いないことはないのだが、彼女たちとは互いに深入りしない暗黙の行動協定が結ばれている。長く生きるということはそういうことなのである。
博麗――。
その存在は、幻想郷にとってなくてはならないそれである。
博麗が途絶える時、"この"幻想郷もまた、絶える。自分一人が独占しようと考えることは、駄目なことだと分かっているのに。
どうしてだか、彼女に対してだけは独占欲めいたものが生まれてしまう。
それは。
私が外の世界で捨てられていた彼女を拾ったという、母性じみた感情の表れであるのかもしれない。
美しいものを愛でたいという妖怪の多くに共通する欲望であるのかもしれない。
あるいはもっと分かりやすく、恋心の表れであるのかもしれない。
いずれを取っても、久しく味わっていない思いである。六十年周期で記憶があやふやになっていく妖怪には、よくあることだ。実際には体験したことのある行動や感情であっても、新しく新鮮な衝撃を得るために独自の進化を遂げたのだ。それは分かっている。分かっているのだけれど、
――こういうときばかりは。
恨めしくも――なってしまう。
先刻、夢に出てきた霊夢ではないけれど。この感情に名前をつけることができないのだ。私の中で決着がついていないことだから、そうなのだろうか。可能性はある。となると、解決策は外の人間よろしく自分探しでもすることなのか。それは嫌だな、とうつ伏せになりながら苦笑する。今更どこへ探しに行けば、自分なんてモノが見つかるというのだ。最近入ってきた聖徳太子にでも聞いてもらうか? ……馬鹿馬鹿しいにも程がある。
私なんかが行ったところで――と、考えかけて、やめた。思考がループに陥っている。このまま考えていても、自分探しと同じような場所に行き着くばかりだ。
シミュレーションが上手く行かないのなら、本人に――。
そう考えかけて、また止めた。これも考えたことは何度となくあるのである。けれど言い寄られるばかりで自分から何かをしたことなんて、私にそんな経験はないのだ。第一、この感情が彼らの抱いていたものと同じものなのかという"謎"に答えは出ていないのだし。
「ああもう」
小娘のように髪を掻き上げる。もう少しパラメータを弄って――今回は"恋"の方向に値を増やしすぎた感があるので――シミュレーションを再開しよう。今度こそ私の望む答えが得られるかもしれないから。
しかし。
同時に。
――無駄なことをしているのね。
声を、聞いた気がして。
私は頭からすっぽりと布団を被り、聞こえないふりをするしかないのだった。
◆◇◆
紫は眠る。昏々と。
己の観測した結果を恐れるがゆえに、観測したくない――体験したいのだという気持ちが芽生えていることも知らないで。
シュレディンガーの猫は、箱を開けるまで生死が分からないものなのだ。猫が強ければ強いほどに。
だから。
紫はひたすら眠り続ける。彼女の不在を不審がられる、春のその瞬間まで。
博麗の姓を名乗り、それなりに修行をしつつ、神社を掃き清める日々。住んでいた――というより、そのまま博麗の子どもと言ったほうが正しいのかもしれない。そう言い切ってしまうことに抵抗を覚えるのは、"母"と呼ぶべき人が時折垣間見せていたよそよそしさの所為である。普段は見せない"その瞬間"が、ふとした拍子に――神事を終えて疲れているときであったり、妖怪退治を終えて帰ってきたときであったり――顔を覗かせたのだ。
お前は私の子ではないよ――と。
言われたことはないのだけれど。
ある意味で直接言われるよりも悪かったのかもしれない、と今になって思うことがある。
当時はそんなことを考えもしなかったのだが。
だから、どうして私を拾ったのか――なんて、訊いてみることを思いつきさえしなかった。
私の世界はほとんど養母と二人きりのそれで、関係を絶ってしまうとどうなるか知れたものではなかった。幼心にそんなことを考えたのかもしれないし、単純に私が莫迦だっただけなのかもしれない。まあ、不満はなかったのだ。神事があるときには里の大店の子だとかいう――それにしてはガサツな子であったのだけれど――友達も訪ねてきてくれたし、私は私なりに満ち足りていた。
だが。
得てしてそういうささやかな幸福は、この幻想郷において長続きしない傾向にある。
死んだのだ。
養母が。
死因はよく覚えていない。病だったのか、妖怪にやられたのか。多分そのどちらかだったと思う。とにかく衝撃を受けてしまって、その周辺の記憶が曖昧になっている。
覚えているのは、渡された骨壷の冷たさだけ。何だか分からないうちに遺体を焼かれ、持ち回りだとか聞かされた里の住職が――こういうどうでもいいことばかりを覚えている――適当な感じでお経を読み上げて帰ってしまったあと、ようやく私は我を取り戻したのだ。
既に里人の姿はなかった。里の外れで行われた葬式には、弔問客の数こそそれなりだったけれど、養母と深い繋がりを持っている人はいなかったからだ。残された私にお悔やみを言い置いて、彼らは三々五々散っていった。
――これからどうすればいいんだろう。
はあ、とため息が白くたなびいた。その白さは私の心細さの現れでもあった。そうして、どうにか即物的なことを考え始めた矢先に――、
私は彼女を見つけたのだ。
雨のない夜だというのに、彼女は装飾の多い日傘を差していた。数時間の間に見慣れてしまった喪服ではなく、紫色の夜会服を着ていて――、つまり他の弔問客とは一線を画する存在感の塊を、どうして見過ごすことができただろうか。里の人たちが皆いなくなってしまったという心細さ。悲しみと日常の狭間に放り出された不安定な思考。そうしたものが寄り集まって、彼女に声を掛けるという決意ができあがった。
「あなたも、母さんの知り合いだったの?」
不審感が不躾な態度となって現れた。人にものを尋ねる態度じゃなかったな、と思ったのは聞いてしまった後のことで、彼女の目が暗闇の中で猫じみた発光を伴っていると気付いてからのことだった。ずいぶんな態度をとったものだが、許してほしい。あの時の私は大人に囲まれるという慣れない環境を乗り切った直後で、他人に対して気遣いをする余裕なんてなかったのだ。
彼女はそんな私に目を止めて、
「物怖じしないのは良いことだけれど、マナーがなっていない子は嫌われますわよ」
と、言った。高めの身長に似合った、しっとりと落ち着いた感じの声だった。そのときの彼女は余所行きの格好で――というか彼女は自在に姿形を変えられる妖怪だったので、その時々の格好は当てにならないのだ――参考にはならなかったのだけれど、少なくとも私を赤面させるだけの力は持っていた。
「そ、そんなのどうだっていいわよ。私を――褒めてくれる人は、もういないんっ?」
吐き捨てるように言いかけると、彼女は人差し指で私の口を塞いで、
「良くないわ。その人はきっと、貴女を見守っているはずなのだから」
微笑した。
……驚いた。
皆、私に腫れ物のように接するばかりで、母のことを口に登らせようとしなかったのに。
「......親しかったの?」
「一度、声を交わしただけよ。里の人間の方がいくらか関わりが深かったでしょうね」
――だったら、どうして。
表情に出ていたのか、彼女は微笑を深めた。
「縁が合う、という言葉通りよ。その縁が――一度きりではあったけれど、強い縁だったの」
「そうなんだ」
「訊く割には無感動なのねえ」
彼女はそう言ったが、母親の交友関係を聞かされたくらいで動じない精神状態だっただけなのだ。私だって人並みに感動したりはするのである。
――だって。
「それ、私に関係あるの?」
口を尖らせて私は言った。
「ない――とも言い切れないけれど」
ちょっと困ったように彼女は首を傾げて、
「これは私とあの子の縁だから。聞かせられるようなものではないわねえ」
「やっぱり」
多分、私は勝ち誇ったのだ。彼女の微笑が、徐々に声を伴うそれへと形を変えて行ったから。思えばこのとき、人並みの言葉を交わしたことで、ようやく私は"私"を取り戻したのかもしれない。忘我から脱したとはいえ、人間らしい心地では到底なかったはずなのだから。
おかしな子ね――と、彼女は言って。けれど、笑い止む気配はなくて。
葬儀の陰鬱な気配を、多少なりとも和らげる笑い声を聞いたことで、私も釣られてくすりと笑うことができた。何だか、明日からの生活も何とかなるような気がした。もちろん、大いに里の人たちの世話になるだろうし、母さんが作り上げてきた信頼関係を食いつぶして行くことになるのだろうと薄々感じてはいたのだけれど、そのときだけは笑ってもいいような気になったのだ。
――そうだ。
名前を聞いていないな、と思い立ったのはそのときで。しかしその作法も分からなかった私は、どう切り出せばいいのかと迷ってしまった。迷ううちに彼女はぱちりと傘を畳んで、帰り支度を始めてしまった。
「あ――」
「? どうかしまして?」
「な、何でも。帰るの?」
「ええ。過ぎた悼みは却って死者を引き止めてしまうものですから」
「……さっきは母さん、見てるって言った癖に」
「見ていることと居ることは別ですわ。縛り付けられることは、生者と死者、どちらにとってもいい結果を招かぬもの。向こう側から時折顔を覗かせて、元気にやっているところを見て帰って行く――これくらいがちょうどいいの」
「向こう側、って」
呟きに、彼女は意味深な笑みを返した。
「気落ちしなくても、貴女だっていつかは行くことになる世界のことよ。では――縁があったら、また会いましょう。■■■」
言うと。
彼女は空間を切り裂いて姿を消した。めきり、と仕草に似合わぬ重苦しい音を残して。
「妖怪、だったんだ……」
ぺたんと地面に座り込む。冷たさが徐々に尻へ伝わった。妖怪なんて、言葉の通じない連中ばかりだと思っていたのに。
退治――するべきだったのだろうか。否。できたとは思えない。それくらいの分別は持っている。
「縁があったら、か」
そのときは。
私と彼女が戦うときだ、と私はそう思った。
◇
奇しくも。
私の想像は当たっていた。ただし、私の側は彼女を忘れてしまっていて――というか、彼女の姿形が変わってしまっていたのだが――、正体に気付くことはなかったのだけれど。異変の首謀者として立ち会った彼女が、あまりにも妖怪然としていたので、見違えるより先に手を出してしまっていた。だからこれは、その一瞬の交錯が終わったあとの会話ということになる。
白玉楼へ続く階段で、彼女は私の頭上の空間に陣取っていた。その構図が気に食わなかったということ。それに、
博麗神社のおめでたい人――。
母さんがいる場所を前に、そんなことを言われて頭へ血が上ってしまったということもある。狐の方には何度か会ったことがあった。しかし、親玉の方には会ったことがなかったのだ。初対面の妖怪が何を――という気持ちが大きかったのである。
「結界が一つや二つだと思って?」
挑発するように言われて。
私は、完全にキレた。
「だったら全部直させてやるわよ!」
「枚数は?」
「アンタごときに見せてやる手の内なんかないっての!」
「あらあら。――手加減は致しませんわよ?」
「上等!」
十一枚。
声と弾幕が重なった。のっけからスペルカードを見せるわけではなく、苦無を利用した円形の弾幕だった。
――小手調べ、ってワケね。
静から動へ。一気に速度を上げ、弾の間を縫うように避ける。狙い澄ました弾は、弾速こそ速いが避けやすい。
「この程度で落とせるとは思わないことね!」
「では」
扇の開く音が、奇妙に大きく響いた。
「一ノ符、結界『夢と現の呪』」
弾源から規則的に大弾が射出される。一定距離を進んだところで、炸裂。大量の小弾を生む。あれは苦無と同じ、狙撃型の弾だ。それだけを弾筋と勘、経験で判断し、横っ飛びに回避する。しかし、行く手方向で炸裂した大弾からは、不規則に楔弾が展開されて道を阻む。空間は空いているから避けられないということはないが、
「鬱陶しい、わね!」
ギリギリを掠めた弾に悪態を吐き、もう一段速度を上げたところで――、
「げ」
反転。
楔弾と小弾の展開が入れ替わる。初手から面倒な弾幕だ。白玉楼へ続く階段が浅葱色に彩られていく。
――くそ。
避けてるだけじゃあ、埒が明かない!
二種類の弾の隙間を掻い潜る。速度を緩めることなく、方向を直下へ。石段を蹴り、前へと飛ぶ。追尾と速度がキツイ弾幕ではないから、こうすれば追いついて来るまでに多少の時間は生まれるはず。経験則で判断して、
「一枚や二枚で止められるなんて思わないでよね!」
思い切り階段を駆け上がり、だん、と踏み切って今度は直上へ。
狙うは。
大弾の射出点――、彼女の目の前だ。
「まず!」
針を握り込み、
「一枚!」
拳を振り抜いた。タイミングは完璧。射出後の硬直が解けないままの彼女を、針が襲った。
けれど――、
「私だって」
「っ!」
するりと半身を捻って彼女は回避した。
「貴女に本気を出させるまで、落とされる気はありませんわよ?」
スペルブレイク。
言葉とは裏腹に、無理な姿勢になって制御が疎かになったのか。今にして思えば単に時間経過でブレイクしただけのようにも思えるのだけれど、まあその時の私が感じていたのは、
「やっぱウザイわね、っと!」
それだけだった。空中で拳を振り抜いたことにより泳いだ足を、空気を足場に無理矢理攻撃へ転化する。が、当たらなかった。不可思議な空間を経由して大きく離れた彼女は、感情をまるで読み取らせない、胡散臭い笑みを浮かべていた。扇は無い。余裕を失ってくれているのなら結構だが、案外汚すのが嫌なだけだったりするんだろうな、と私は愚にもつかないことを考えていた。
互いに呼吸を整える、僅かな間が流れて。
瞬間。
――ん?
ちり、と脳裏に何かが閃いた。
「……あー、アンタ、もしかして前に会ったことある?」
「どうしてそう思いますの?」
「弾幕は言霊であり、言弾だからよ。アンタの弾筋、見覚えがあるような気がするのよね」
といっても。
あの夜の"彼女"であるとは理解していなかったのだけれど――。
そのとき。
彼女の顔に浮かんだ表情を何と表現すれば良かったのだろうか。
私は未だにその言葉を見つけることができないでいる。それは彼女と出会って、そして数年が経過した現在でも同じである。だから、ここでは仮にとても面白そうな表情だった、とだけ言っておこう。長く生きた、それも人間ごときにはとても生きられないような時間を生きたモノだけが表すことのできる感情だった。
彼女は。
応えなかった。
代わりに、
「二ノ符、結界『静と動の均衡』」
宣言が、来た。
次の弾幕が迫る。
ひゅっ、と細く息を吐いて、私はそれを睨みつけた。答えはこの中にあると、そう信じながら。
◇
じゅういちのふ、ということばをきいたきがした。
顔を上げると、彼女は不思議そうな表情でこちらを見下ろしていた。一枚目の展開と同じ位置関係にある。彼女がそれに気付いたから弾幕を止めたのかどうかは分からない。分からないが、呼吸を整える絶好の機会のように思えた。
――何だっていうのよ。
深く長く息を吐き出した。少しだけ周囲を見渡す余裕が、そこにはあった。
階段をどんどん進みながら戦っていたので、その終わりと白玉楼へ入るための門が見え隠れしている。舞い散る桜の花びらはより一層数を増し、さながら小規模な弾幕のように私の視界を遮っていた。鬱陶しいと思うことすらできないほど、私に余裕はなかったのだけれど。
それでも、
「次で――終わりね」
私は笑って見せた。精一杯不敵に見えるように。そうすることでしか、自分を鼓舞すること手段が残っていなかったから。幾度かの被弾を越えてなお彼女を倒さなければならないと思っていた――思わされていたのは、主犯を叩きのめすのだという気概に他ならなかった。霊力やら気合だとかいうものはとっくに底を突いていて、彼女に対する敵意にも似た挑戦心――あるいは矜恃と呼ばれる感情――だけが私を支えていたのだ。
ああ――いや。
もう一つ、あったっけ。
「やっぱり、アンタ。会ったこと、あるわね。どこでだか、思い出せないけど」
「……それが貴女を奮い立たせる理由なのかしら」
「なんで、訊くの? シュミ――悪いわね」
見抜いたから、彼女は不思議そうな表情をしたのかもしれない。確かに、博麗の巫女としての義務感が勝っているのか、それとも彼女の正体を見極めてやろうとする気持ちが強いのか、私にも分からなくなっていた。
――倒せば分かるわよ。
後にどこぞの半人前が同じことを言うのを聞いてげんなりする心境に――このときは本当にそういう心持ちだったのだから仕方ない――なっていたのだ。その私へ、
「そう――そうね。無粋でしたわ。私らしくもなく」
「でしょう? 余裕が、無いったら」
「ここに相応しい言葉は一つ。美事――という、それだけで十分でしたわね」
一枚として手札を見せなかったことが――と、彼女は言った。弾幕ごっこにおいて、相手を余程挑発したいときか、あるいは下に見ているか。そういうときくらいにしか、一方的な弾幕の展開が行われることはない。被弾は幾度かしたにせよ、彼女の弾幕をスペルカード抜きで乗り切ったことは事実だった。私にとってある意味で名誉なことであり、そして彼女にとってはこれ以上ないほどの屈辱だった。
博麗だし、と私は言った。
「アンタの弾幕、式神のと似過ぎなのよね」
「あら、それは失礼を。藍はまだまだ未熟だから、自分で創意工夫する努力が足りないの」
「結果的に、私は助かってるけどね」
良いからとっとと最後の一枚見せなさいよ――と一息に言って、私は封魔針を突き付けた。それが狐の手札になかった一枚であると、気付いていて尚挑発してやったのだ。
「正直、もうここにいたくないのよ。今のままだと――引っ張られちゃいそうだし」
肩で息をする私を見て、彼女はどう思ったのだろう。何故だかつと柳眉を緩めて、
「人と妖の境界を超え、生死の境をも突破したのですもの。当然のことですわ」
褒めるような声音でそう言った。
――あ?
訝っても、それ以上彼女の表情は変化しなかった。褒められるようなことは何一つしていないというのに。負わせられた傷はどれも、浅い。そう装っているだけなのだとしたら、大した詐欺師だ。
まあ――いいか。
諦め混じりに私は思った。それくらいでなければやりがいがないというものだ。
ふっ、と息を整える。守勢のそれでなく、攻勢のそれへと。同時に、彼女の姿が徐々にかき消えて行く。耐久型か。ここに来て面倒なスペルを残しているものだ――どこか他人事のように私は思った。
「紫奥義『弾幕結界』」
どこからともなく声だけが響く。彼女のいた場所を中心に、環状の弾幕が敷かれていく。弾幕による結界。宣言通り、というわけだ。こいつを耐え切れば私の勝ち。気力が尽きれば私の負け――、
「ホント、分かりやすいったら!」
弾幕結界が押し広げられるように動く。楔弾の隙間を縫うように、私も動く。見た目は規則的で美しい弾幕だ。動きをよく見ていれば避けにくい部分はあまりない。見ることに集中しすぎて、敷かれる結界に轢かれなければ――だけれど。内から外へ弾幕に沿って移動した私は、再び敷かれる弾幕に寄り添うようにしてまた内側へ。弾速が徐々に早まっていく。見切るだけでも大変だ――。
「っ、く」
掠めた。
もういい、投げてしまえと本能が脳裏に囁く。それをしないのは、同じくらい理性が彼女の弾幕を求めているからだ。それだけ彼女との戦いは私を弾幕ごっこへと惹き込んでいた。つまり――、「美しさで相手を魅せることができれば勝ち」という正当なスペルカードルールに則れば私はとっくに負けている。認めたくないのは単純に、
――最後まで見届けたいから、ね。
美しさが勝利であるがゆえに、敗北を認めないこともまた美しさに寄るもの。それが弾幕ごっこの奥深さであり、博麗の巫女が体現するべきことなのだ。
めきり。
異様な音が鳴った。弾幕の展開時間が過ぎようとしているのだ。空間操作が綻び、彼女の姿を薄らと視認できるまでになっている。おそらく、この波を抜け切れば終わり、なのに。
「そう簡単には――、いかないか」
隙間が見当たらない。細分化が進むタイプの弾幕だったから、最後は楔の交差弾幕だと踏んでいたのに。最後まで来て、完全な結界が敷かれてしまった――?
否。
ルール上、完全に避けられない弾幕は存在しないはず。となれば、これもまた避けられる?
考え込むだけの時間は、それこそ、無い。
――……仕方ないわね。
あと一発くらいなら直撃食らっても大丈夫かなー。
投げやりに考えて、けれど私はそこでようやく手札の存在に気付いた。そうだ。手の内にはまだ手付かずのスペルカードがあるじゃないか。これを以て切り抜けることは容易いだろう。単純に相殺してやればいいだけの話だ。
否々。
そんなことをすれば、自ら負けを認めるようなものじゃないか――。
と。
弾幕が動き始めた。
くそ。
やっぱり、抜けられない。
あー。
本当に気合だわ。
広がり押しつぶそうとしてくる弾幕を見据え、私は腹を決めた。来るなら来い。負けるものか。意地でもスペカなんてつかってやるもんか。
そして――。
◇
それから。
永夜の異変があった。
地霊の事件があった。
時に共闘し、時に言弾を交えながら、私は彼女と交流を深めていった。
彼女は雄弁だったけれど、胡散臭くて本音を見せないところが多々あった。ただ、弾幕の中では本音のようなモノを覗かせた。例えば月へ行くための修行であったり、幻想郷を脅かした天人に対する態度であったり。断片的なそれではあったし他の奴らの弾幕よりもよほど分かりづらかったけれど、読み取れないということはなかった(他人が見ると分からないらしいのだが)。まあ、実際のところ神社を倒壊させられたり肝心な時に冬眠していたりで、すぐに感情が揺り動かされることは――少なくとも正の方向へは――なかったのだけれども。
そういうものを見るにつけ、私の中で彼女の位置づけがコロコロ変わって行った。彼女に対する感情を、どう名付ければいいのか分からなくて、遠ざけようとしたこともあった。しかし彼女は持ち前の胡散臭さで私の築いた壁をいとも容易く越えてきた。
彼女が何を考えているのか分からないまま、彼女が生活の中にいることは、半ば当然の光景となりつつあった。そんななし崩しの関係を何季にも渡り続けて、今に至っている――というわけなのだ。
◇
「しっかし、あの時は無茶したもんよねー」
「あの時?」
「ホラ、冬の異変の最後よ。あれは相打ちってことで良かったのよね?」
「ああ――でも、終了と同時に落ちたわよね、貴女」
ルール上は私の勝ち――と言って、蜜柑を剥き剥き彼女は小さく欠伸をした。意地っ張りめ。秋が深い。もうそろそろ、彼女は冬眠に入る時期なのだ。私と狐にとって、面倒ごとが少しばかり増える憂鬱な時期である。まあ、彼女に心酔しているらしいあの狐が苦痛に思っているのかどうかは怪しいところなのだけれど。
普段から仕事をしていないように見えて、彼女はなんだかんだで動いている。弊害が少々大きいので――結界を緩める"ついでに"修復してみたり、外の人間を拉致する"ついでに"帰してきたり――目立たないだけで。
――能ある鷹は、って奴なのかしら。
全てを塗り潰してしまう程に胡散臭いところがまた彼女らしいというか何というか。ある種凄いところではあると思うのだけれど、褒めるところでもないし、困ってしまう。
「ねえ、■■■」
視線を上げると、彼女は手を止めてこちらを見つめていた。
「何よ」
「んん、何というわけでもないのだけれど」
行儀良く一房をちぎって口へ運び、嚥下する。その喉の動きを何とはなしに目で追ってから、
「じゃあ声かけないでくれる? アンタのそういうところは気に入ってるんだからさ」
「あら、嬉しい。……だんまりが気に入られるというのも微妙な心境ですけれどね」
「いいから。用事があるんでしょ」
「本当に何でもないことなのよ。冬に入る前の諸注意という奴ですわ」
「いつものことでしょ?」
「それでも、言葉にしておいた方がいいことはあるものです。ともかく、今年はいつかのように異変の兆候もないから、私は冬が開けるまで眠ることになると思うわ。藍と協力して、博麗大結界と幻想郷をよろしくお願いしますね」
「何だ、本当にいつも通りじゃない」
彼女は軽く苦笑して、
「だからそう言っているじゃないの」
と、言った。それきり、沈黙。用が済んだとでもいうように、蜜柑をちまちまと食べ始めた。要求されて早めに準備した掘り炬燵が妙に馴染んでいる。外の世界では電気炬燵に蜜柑というのがベーシックなんですよ、と友人に聞かされたことがあるが、彼女を見ているとあながち間違いではないような気がしてくる。まあ、内外を隔てる障子は開けっぱなしだから、絵面はともかく実際には少々寒いのだけれど。
――炭代、たかってやろうかなあ。
思い、天板に頬を押し付けた瞬間だった。
「ねえ」
再び、呼ばれた。蜜柑が口に入っているらしい、ちょっともごもごした声だった。
「お行儀悪ー。何よ、話終わったんじゃないの」
「お互い様。人の話は顔をあげて聞くものよ」
「いーの。アンタどうせ"人"じゃないんだから」
珍しくどこぞの仙人めいたことを言う彼女に、私は間延びした声で返す。
「……まあ、その通りですわねえ」
諦めの早さは彼女らしい。どこから話そうかしらね――。迷っている、らしい。雹でも降らなければいいのだが。ぎょっとして、私はあからさまに不審なものを見るように眺めてしまった。どんな言葉でも適当に霞の中から放り投げてくるのが彼女の話法だと思っていたので。却ってそれで落ち着いたのか、彼女は一つ咳払いをして、
「今年から冬眠をお休みする――と言ったら、あなたはどう思うかしら」
と、言った。疑問形のようでそうでもないような、何か複雑な色を秘めた声音だった。
「……やめようと思ってやめられるモンなの、あれって。あれがアンタにとっての休みなんでしょうに」
手持ち無沙汰になるのが嫌で、私は蜜柑を一つ手に取った。何となく不穏なものを感じ取ったのだ――、と言い換えてもいい。彼女は微妙に戸惑うような表情で、
「無理をしようと思わなければ、ね。普段の眠りで事足りるわ。休みということに変わりはないのだけれど」
「何ソレ。妖怪って奴はやっぱり適当なモンなのね」
「貴女はどう思う? 私が眠ることをやめる、と言ったら。少しは喜んでくれるのかしら」
「喜ぶ?」
何でまたそういう結論に達するのか。極限まで訝しげな表情を作ってやったら、今度は怯んだように半身を引いた。
「まあ――ねえ。面倒事が少しでも減ってくれるなら嬉しいっちゃ嬉しいけどさ。アンタが異変解決に行ってくれるわけでもないんだし、私は対して変わんないと思うなあ」
「じゃ、じゃあ」
逆によ――と、彼女は食い下がって、
「ここに住みたいの、なんて言ったら許してくれる?」
ぶしっ、と果汁が炬燵に飛び散った。
――はあ?
何だか――彼女の口から出るには物凄く違和感のあることを言わなかったか。
「……もう一回言ってくれる? よく聞こえなかったわ」
「同棲しましょ?」
「あー……」
重症だ。
「小春日和の陽気にでもやられた? それとも炬燵があったか過ぎて寝ぼけてるの? 違うわね。ボケてるんだ。長く生き過ぎると駄目なのは人間ばっかりだと思ってたのに。意外とアンタたちも同じようなもんなのかしら。早い所眠らないと本当はヤバいんじゃないの? け、結界のことなら私と藍でどうにかするから。アンタは自分を大切にしなさいってば。ここのところ立て続けに変な奴らが入って来たから疲れてるのよ。でなきゃアンタがそんなこと――」
「■■■」
その声は。
あまりに儚く――切実で。
私は口に上らせようとした言葉をひゅっと飲み込んだ。
「真剣な話なの」
「……理由は何なの? また何か企んでるんじゃないでしょうね」
半ば睨みつけるように彼女を見る。といっても、彼女が首謀者となって起こした異変なんて、一つとして――あ、一つくらいは微妙か――ありはしないのだが。
言葉の意味は分かる。同棲。有り体に言えばこれは、その、何だ。告白――の範疇に入る、んだろう。けれど、
――はあ。
呆れた。ため息を一つ。こんな当たり前のことを、どうして彼女なんかに説明しなきゃいけないんだろう。
「あのね、人と妖が結ばれることに関して私は否定も肯定もしないけど、でも博麗の巫女として越えちゃいけない一線っていうのはあると思うのよね」
あくまでも博麗は中立を保つべき存在である――そう思うからだ。
「誰とも深く交わりすぎることなく、唯幻想郷に在りて幻想郷を想う。そういう風に母さんに教えられたし、今じゃ私だってそう思ってる。それが私の存在する意味であり、変わることも変えることもない第一義よ。誰に何と言われようとね」
大体ね、と強いて強調するように私は言った。
「女でしょうが、私もアンタも」
我ながら。
力のない言葉だとは――思うけれど。
何故なら。
彼女に対して抱いている気持ちには、未だ名前を付けられていないのだから。
答えのような、切っ掛けのような――そんな言葉をもらったところで、一朝一夕に解決するような問題ではないのだ。
「あら、性別の境界を弄ることなんて、雑作もないことですわ」
案の定彼女はそう言って、口元を扇で覆い隠した。そういうことをするから私の気持ちが定まらないのだ、と半ば八つ当たりのように思う。
本心が――読めない。
これが弾幕ごっこの最中だったらな、と少しだけそんなことを考えた。それなら、きっと本心も読めただろうにと。だからこそ、こんな何でもない場面を彼女は選んだのだろうけれど。
いつもの戯言?
それにしては、目が笑っていないようにも思える。
「……どうして私なのよ。言っちゃ何だけど普通の人間でしょうが、私なんて」
「普通――という言葉が適当なのかしらね、貴女の場合は」
「何が」
「分かるでしょうに。自分のことなのだから」
彼女はすうと目を細めた。
「だって――」
あまりにも。
あまりにも、脈絡とかそういうものが無さ過ぎはしないだろうか。
せめてこう、それらしい場所とか選んでくれれば返事のしがいもあったと思うんだけど。
それこそ、弾幕ごっこの最中とか?
……駄目か。
「この方が私らしいと思ったのだけれどね。貴女を――困らせるだけだったかしら」
「まあ、うん」
「夢と現の境なんて、どこにでもあるのだということが分かったでしょう?」
「……まさか、そういうことが言いたくて」
「それこそ真逆、ですわ。けれど、そうね。貴女がそう受け取って、これを忘れてくれるのなら――そういうことにしておこうかしらね」
「って、ちょっと!」
めきり、といつかのように重苦しい音を立てて、彼女は唐突に去ろうとする。
――いつ、か?
そのとき私を襲ったのは、強烈なまでの違和感だった。私が彼女と出会ったのは、あの冬の異変であるはずだ。その前から知っていることはあり得ない。それを思い出してはいない。後で姿形を変化させられると分かったことは事実だが、そのことと彼女を結びつけて考えたことは一度としてなかったのだから。
ならば。
どうして今になってそんなことが――浮かんだのだ?
――待ってよ。
恐怖感に苛まれ、私は切羽詰まった声を出す。
「■■■、アンタ――一体、誰なの?」
私は、
「私の考えてることなんか――」
"私"にしか、
「分かるはずないんだから――」
"私"に、
「私に訊きなさいよ!」
あれ?
私?
私は何を――言っているんだ?
「■■■?」
怪訝な顔で、■■■が言う。
「私は」
私が、
「私?」
私って――、
誰?
◆
ばぢ、と無理矢理切り離されるような感覚を残して、私の意識は"博麗霊夢の夢"から乖離した。シミュレーションの結果が実際の博麗霊夢に追いつけなくなり、エラーを吐いたのだ。
シミュレーション。
そう。
今までの光景は全て、霊夢自身の記憶でもなければ、彼女の見る夢中に入り込んで観測した出来事ですらない。
全ては私の見ていた夢であり、過去の博麗霊夢と――そして、これからの彼女をトレースしたものである。
記憶にある行動から感情を逆算し、その者の思いを追想する。容易ならざることではあるが、全ての能力を演算に回せば不可能ではないという程度の行為だった。逆を言えば人間一人でこれなのだから、千年――あるいはそれ以上を生きる者に通用する行為ではないのだけれど。
夢現の境界線上から望む世界は、過去未来の境界すら曖昧になる世界だから、追憶や予知の全てが簡単になる――はず、なのだ。それなのに、虚像の彼女は自分が虚構であることにどこかのタイミングで気付いてしまい、私の望む答えが存在するステージにまでたどり着くことができないでいる。
――どうして。
目を開ける。
たそがれか、あるいはかわたれか。薄い光が淡く照らす室内からは判断がつかない。明けと暮れの境界が漠然とするよう、この屋敷は設計されている。特に私の寝室は、幾つかの窓が存在するにも関わらず、一日中日の光が差さない薄闇の部屋である。日頃からよく眠る私にとっては、この方が楽なのだ。
ただ。
冬眠という習慣は――本当に、霊夢と出会うまで持ち合わせていない習慣だった。演算時間。できることであるとは言っても、それなりに時間を要してしまうことであるから、どうせならとまとまった時間を確保したのである。
当然、式神は良い顔をしなかったのだけれど、あたかも初めからそうであったかのようにプログラムすることで問題を解決した。他にこの習慣がなかったことを知る人妖とて、いないことはないのだが、彼女たちとは互いに深入りしない暗黙の行動協定が結ばれている。長く生きるということはそういうことなのである。
博麗――。
その存在は、幻想郷にとってなくてはならないそれである。
博麗が途絶える時、"この"幻想郷もまた、絶える。自分一人が独占しようと考えることは、駄目なことだと分かっているのに。
どうしてだか、彼女に対してだけは独占欲めいたものが生まれてしまう。
それは。
私が外の世界で捨てられていた彼女を拾ったという、母性じみた感情の表れであるのかもしれない。
美しいものを愛でたいという妖怪の多くに共通する欲望であるのかもしれない。
あるいはもっと分かりやすく、恋心の表れであるのかもしれない。
いずれを取っても、久しく味わっていない思いである。六十年周期で記憶があやふやになっていく妖怪には、よくあることだ。実際には体験したことのある行動や感情であっても、新しく新鮮な衝撃を得るために独自の進化を遂げたのだ。それは分かっている。分かっているのだけれど、
――こういうときばかりは。
恨めしくも――なってしまう。
先刻、夢に出てきた霊夢ではないけれど。この感情に名前をつけることができないのだ。私の中で決着がついていないことだから、そうなのだろうか。可能性はある。となると、解決策は外の人間よろしく自分探しでもすることなのか。それは嫌だな、とうつ伏せになりながら苦笑する。今更どこへ探しに行けば、自分なんてモノが見つかるというのだ。最近入ってきた聖徳太子にでも聞いてもらうか? ……馬鹿馬鹿しいにも程がある。
私なんかが行ったところで――と、考えかけて、やめた。思考がループに陥っている。このまま考えていても、自分探しと同じような場所に行き着くばかりだ。
シミュレーションが上手く行かないのなら、本人に――。
そう考えかけて、また止めた。これも考えたことは何度となくあるのである。けれど言い寄られるばかりで自分から何かをしたことなんて、私にそんな経験はないのだ。第一、この感情が彼らの抱いていたものと同じものなのかという"謎"に答えは出ていないのだし。
「ああもう」
小娘のように髪を掻き上げる。もう少しパラメータを弄って――今回は"恋"の方向に値を増やしすぎた感があるので――シミュレーションを再開しよう。今度こそ私の望む答えが得られるかもしれないから。
しかし。
同時に。
――無駄なことをしているのね。
声を、聞いた気がして。
私は頭からすっぽりと布団を被り、聞こえないふりをするしかないのだった。
◆◇◆
紫は眠る。昏々と。
己の観測した結果を恐れるがゆえに、観測したくない――体験したいのだという気持ちが芽生えていることも知らないで。
シュレディンガーの猫は、箱を開けるまで生死が分からないものなのだ。猫が強ければ強いほどに。
だから。
紫はひたすら眠り続ける。彼女の不在を不審がられる、春のその瞬間まで。
恋心は魔物かもしれませんが、魔物の恋心は、思ったより可憐なのかもしれませんね。
面白かったです
評価・コメントありがとうございました。
>>冷やかしたくなりますね。
ゆるーく見守りたくなるような雰囲気を目指しました。
そういうキャラクタとして書ききれなかった気がするので、精進したいところです。
>>雰囲気
雰囲気を出せていたでしょうか。
文章での表現を選んだ以上、雰囲気や空気感をしっかり書いて行きたいのですが、難しいものですね。
それでは、今年もよろしくお願いします。
乙女なゆかりんには違和感あるけど妖怪らしさが混ざるとこれはこれで良いと思えちゃう