私はお空の意見『こいしを嫌うフリをする』を選んだ。
この策には準備も何もいらない。私はさっそく、明日から実行する事に決めた。
「お姉ちゃん、おはよっ♪ 朝だよ」
鍵をかけたはずの自室に響く妹の声。
いまさらながら驚く事でもあるまい。
私はまだぼやける瞳をこすりながら、「ふぁ~っ」と欠伸を洩らす。
「今日は私がご飯を作ったんだよ。
フレンチトーストとお味噌汁だよ。甘~いお砂糖と卵をいっぱい使った私特製のフレントーストなんだよ。
お味噌汁の方はね、わかめと豆腐なの。定番かなとか思っただけど、お姉ちゃんってそういう古風な方が好きじゃない?
美味しいからいっぱい食べてね」
朝から捲し立てるこいしに対して、私は言葉を紡ごうと口を開きかけて――閉じた。
私はこいしを嫌いになるフリをしなければいけないのだ。
ここで朝の古明地劇場を繰り広げてはいけない。
「つーん」
私はそっぽ向いて着替えを始める。
「あれ、お姉ちゃんもしかして食欲がなかった?
だったらお味噌汁だけでも食べてよ。
朝のご飯は一日を快適に過ごすためのパワーの源になるんだよ。
お姉ちゃんはあんまり外に出て運動しないんだから、食生活だけでもきちんとしないとね」
……思ったよりこいしの言葉を無視するのはつらかった。
開始30秒で心が折れてしまいそうだ。
だが、これもこいしの脱姉計画のため。ここは心を鬼にしてこいしを嫌う事にしよう。
私はこいしに「ごめんね」と心の中で言いながら、パジャマを脱いでいつもの服へと着替えた。
手櫛で髪の毛を整えるが寝癖が直りそうにない。
ここは横着せず洗面所に行って整える事にしよう。
「はい、お姉ちゃん。タオルを準備しておいたよ。
えへへっ、私って偉い妹でしょ?」
洗顔の後に差し出してきたタオルを私は無意識のうちに取りかけたが、歯を食いしばり自制する。
普段はこいしの無意識には逆らえないのに、こういう状況では自制する事ができるのはなんとも皮肉な話と言える。
朝食。
こいしが作ってくれているフレンチトーストと味噌汁を素通りして、私は昨日作ったコーンポタージュの残りを温め直す。
こいしの作ってくれた朝ごはんはどれも美味しそうだ。食べなくても匂いで分かる。
それを私は我慢しているのだ。
思えば、私はとても馬鹿な事をしているのかもしれない。
だけど、これもこいしのため。
こいしのため。こいしのため。こいしのため。
私はそう言い聞かせて温め直したコーンポタージュをすするのだった。
……昨日食べた時より美味しくない気がした。
なんでだろ、と考えてすぐに思い至った。
昨日はみんなで――お燐とお空も交えて――、楽しく会話をしながら食べたからだ。
お空の話にお燐がつっこみ、こいしの不作法を私が注意して……。
いつもながらの騒がしい、でも楽しい地霊殿の夕食だったからだ。
今朝はこいしがずっとしゃべりかけてきてくれているけど、私が言葉のキャッチボールを放棄しているせいで、なんだか楽しくない。
☆ ☆ ☆
計画の効果はすぐに現れた。というか、現れるのが早すぎだった。
お昼過ぎからこいしの顔からみるみるうちに元気がなくなっていき、夜には私に話しかける事がなくなった。
夕食時にお燐から「何かあったんですか?」と聞かれたが、私は話すわけにはいかなった。
計画の知っているはずのお空は、わざと知らないフリをしているのか一人で鼻唄を歌いながら夕食を突いている。
食事は気まずい雰囲気のまま終わった。
私がこいしにできるのはここまでである。
後はこいしが『なぜ私に嫌われるようになってしまったのか』を自分で考えれば、この計画は終わる。
それの手助けを私がするわけにはいかなかった。
こいしが自分で答えを探さなければいけないのだ。
「頑張って、こいし」
私は壁の向こうにいるはずのこいしに呟いてから目を閉じた。
夢の中でこいしが泣いているような気がした。
目が覚めてから、私はこいしがベッドの中に入り込んできていない事を確認した。
妹からの過剰な愛情がなくなってしまうと少し哀しい気もするが、これも妹のためと考えればむしろ嬉しい事と言える。
断絶していた地上との関係が回復してきて、こいしはきっと近い将来に大きな問題に突き当たる事だろう。
その時そばに私はいないのだ。たった一人だけで解決しないといけないのだ。
今回はその一歩。私は見守る事しかできない。
「さて……と」
着替えようとして、何か違和感に気付く。
いつもの服がいつもの場所にない。
「……違う。服はちゃんとタンスの中にある」
それは当たり前の話だ。なら、なぜ私はそれを違和感だと思ってしまったのか。
答えは簡単だった。
私は寝る前に朝起きた時に着る服の準備をしない。
それなのに昨日まではその準備がしてあった。いつもの場所に、私がいつも着ている服の準備がしてあったのだ。
「こいし……だったのね」
毎朝こいしは私より先に起きて部屋に忍び込み、服の準備をしてからいつもベッドに潜り込んでいた。
無意識だったから気付かなかった、と言いわけはしたくない。
私のそばにこいしがいる事が当たり前――そう思っているから気付けなかったのだ。
気付けば、こいしの行動は多少行き過ぎた部分があったものの、全ては私のための行動だった。
お風呂に入ってきた時も「背中を洗ってあげるね」と親切に言ってくれた。
妹だったから――いつも一緒だったから、こいしがどれだけ私のためを想って尽くしてくれたのかを考える事はできなかった。
「……私はなんて事をしてしまったのだろう」
私はすぐに部屋を飛び出してこいしの部屋に向かう。
今すぐこいしに謝ろう。「ごめんなさい」と言って、何のためにこいしを無視してしまったのかを全て話そう。
許してくれないのかもしれないけど、それでもこいしには全てを聞いてもらおう。
遠慮をする必要なんてない。気を使う必要だってない。
だって、それが姉妹というものだから。
「こいし!!」
壊れる程の勢いでドアを開けて、私はこいしの部屋に入る。
「こいし!!
こいし?
……こいし。
…………こいし」
こいしは部屋にいなかった。
きっとこいしはもう起きて行動を開始しているのだろう。
そんな甘い期待が過ぎって、私は地霊殿中を探しまわった。
お燐やお空、他のペット達をみんな起こしてしまったが説明する時間がなかった。
探し回って、探し回って、探し回って――。
こいしはどこにもいなかった。
☆ ☆ ☆
「なるほど、そんな事があったんですか……」
取り乱す私にお燐がコーヒーを出してくれた。
暖かいコーヒーはすぐに身体中に響き渡り脳を活性化させ、それと同時にこいしにしてしまった過ちをも思い出させる事となった。
「ごめんなさい、さとり様。私がそんなアイデアを出すから……」
「ううん、お空は何にも悪くないわ。お空はとっても素晴らしいアイデアを出してくれたわ。
悪いのは私。もっとこいしの事を考えて実行すればよかったのよ」
準備がいらないからすぐに実行できる。その考え自体が甘かったのだ。
たしかにこのアイデアには道具の準備は何もいらない。
だが、順序というものが必要だった。
いきなり姉に拒絶されて、それでまともにいられる妹がどこに存在するというのだろうか。
私はこいしに思いもよらないダメージを与えてしまったのだ。
「私は……こいしの痛みを知っているはずだったのに」
こいしのサードアイが閉じてしまった時、そばにいてやれたのは私だけだった。
その時の私は長い時間をかけてゆっくりとこいしを治した。
その甲斐もあってこいしは元気になり、地霊殿にいる皆に笑顔を振りまくようになった。
その笑顔の眩しさを一番嬉しかったのは私のはずなのに、今回は私がその笑顔を奪ってしまった。
「なんて事をしてしまったんだろう……。
私は最低な姉だわ。最愛の妹を、自分の身勝手な都合だけで傷つけてしまうなんて……」
「そうではありません、さとり様」
「お燐……」
お燐が優しく頭を撫でてくれた。
その優しさが身にしみる。
今は主だとかペットだとかそういう関係は考えられなくて、ただ単純に頭を撫でてくれるその行為に甘えたかった。
「さとり様の行動は身勝手な都合ではありません。
さとり様はこいし様を一番に思って、それが最高の選択肢だと思って行動したんです。
自分の選択を悔やまないでください」
「そうだよ、さとり様。
傷つけたのなら謝っちゃえばいいんだよ。こいし様だってさとり様の事が大好きなんだから、ごめんなさいって言えばきっと許してくれるよ」
あぁ、私はなんて素晴らしいペットを持ったのだろう。
今なら心の底からこの言葉を言える。
「ありがとう……」
お燐とお空の言う通りだった。
私の選択は間違っていないのだ。現に、この選択によって気付けたではないか。
こいしの私への愛情も深かったけど、私の愛情も同じくらい深かった事を。
これをこいしに伝えればいい。言葉を交わせばいい。
それで分かりあえる。
「お燐、お空。命令よ。
地霊殿の全ペット達にこいし探索を命じなさい。
そして旧都の連中にも私の名前を出して協力を求めなさい。
私は何が何でもこいしを連れてここに戻ってきてやるわ」
☆ ☆ ☆
地底全土を巻き込んでのこいし捜索が始まった。
だが、それは困難を極めた。
当然といえば当然の話なのだ。
こいしは無意識を操る妖怪であり、自分が見つからないようにその能力を発動させれば、誰も認識する事ができなくなるのだ。
史上最悪の難易度を誇る鬼ごっこ。だが、私は諦めるつもりは毛頭なかった。
こいしの言葉、表情、仕草を思い出すたびに、私にはまだこいしが必要不可欠である事を教えてくれる。
こいしの姉離れ計画から始まったこの騒動だったけど、本当のところは逆だったのだ。
私が妹離れするための計画であったのだ。
だけど、それは失敗に終わりそうだ。
なぜなら私はこんなにもこいしが好きなのだから。
今朝ご飯を食べようとしてスプーンを掴んだら、いつの間にかこいしの使用済みのスプーンに変わっていた?
――上等じゃないか。こいしが私を愛してくれる証拠だ。
お風呂に入って髪を洗っていたら、いつの間にかこいしが湯船の中に入っていた?
――望むところだ。スキンシップは心以上にその本質を伝えてくれる。
昨日寝ようとしてベッドの布団を持ち上げたら、いつの間にかこいしが入り込んでいた?
――嬉しいじゃないか。こいしは私の大切で愛らしい妹だ。
ダメだ……。こいしの事を考えれば考える程、もっともっとこいしの事を好きになってしまう。
こいしに会いたい。
こいしに触れたい。
こいしと言葉を交わしたい。
ちっぽけで、なんとも情けない望みだけど、それが私の今の原動力だった。
でも、これだけあれば私は諦めずにこいしを探す事ができる。
例え一縷の望みすら叶わない可能性であっても諦めずにいる事ができる。
あぁ、こいし……。
「あなたは今どこにいるの?」
――その時、私は自分の目を疑いそうになった。
妄想の世界にどっぷりと浸かっている状態だったから、きっとこれも妄想の続きだと勘違いしていた。
目をこすり、頭を揺すり、軽くジャンプして身体を動かし、もう一度現実を見直す。
「こいしが……いた」
何気なく訪れた地霊殿のすぐ近くにある湖畔。
そこに私の探していた最愛の妹は一人たたずんでいた。
すぐに駆け寄ろうとして、足を踏み出すその瞬間。こいしの身体が少し傾いたように見えた。
その瞬間、私の中に嫌な想像が過る。
姉に身捨てられ絶望した妹は、その身を水の中へと沈める気では?
ネガティブな想像であると信じたいし、きっとこいしは湖に描かれる波紋を見ているだけだとは思うのだけど、何度頭を振っても悪夢が消える事はなかった。
「こいし――!!」
そこからの私の行動は早かった。
普段運動不足の私にしては考えられない程のスピードでこいしの元へと駆けより、
――そして、躓いた。
「え? ……お姉ちゃん……きゃわああ~!!」
姉妹一緒に湖にダイブ!
私の望んでいたスキンシップがこんな形で叶うとは思っていなかった。
っていうか、私ってドジ。
☆ ☆ ☆
びしょびしょになって陸へと上がってきた私とこいし。
泣きたいのに、というか涙が出てるはずなのにこんなびしょ濡れの顔ではどっちが涙でどっちが水なのか分からない。
感動の姉妹再会シーンが笑劇の姉妹再会シーンになってしまった。
「ばか……」
「ごめん」
無表情のまま奏でられたこいしの旋律に、私はただただ謝る事ができなかった。
せめてこいしだけでも拭いてあげようポケットからハンカチを探すが、そもそも全身びしょ濡れだからどうしようもない。
「あほ、まぬけ、とんちんかん、ちりとてちん」
「ごめ……――って、ちりとてちんって何!?」
「お姉ちゃんの幼稚園児服」
「私のファッションセンスまで否定っ!?」
こいしの罵倒にツッコんでいて分かった。
やっぱり私はこいしといるのが楽しい。
何も考えずに、それこそサードアイを全く発動させなくても自然と会話ができる。
こいしは言いたい事を言って、私も言いたい事を言い返す。
自然同士の私とこいし。そんな関係はとても素敵。
「でも……、私、お姉ちゃんが大好きだよ」
「そうね、ごめんなさい」
「振られた!? 妹が決死の覚悟で挑んだ愛の告白だったのにっ」
「ふふっ、なぜかしらね。たぶん私はその愛の告白を1万回以上聞いてるからじゃないのかしらね」
「1万回目の決死の覚悟だったんだね」
「それだけ聞くと、こいしがまるで波乱万丈な人生を送ってるように聞こえてくるわね」
「波乱万丈だよ。一番身近にいる人が大好きで大好きで堪らないのに、一線を越えたら駄目なんだもん」
「あれで自制してたつもり?」
「そうだよ~。理性を失くした妹は狼になっちゃうんだからっ。がお~っ」
こいしが狼のマネをして、私がそれを見て笑う。
楽しい。楽しいな。
「帰りましょうか。私たちのおうちに」
「うん♪」
言いたい事、謝らなければならない事はいっぱいあったはずだったのに、こいしの顔を見たら全て吹き飛んでしまった。
こいしと会話ができるのか正直不安だったけど、そんな事は杞憂だった。
普段通りの会話で、普段通りに笑いあったら、心が繋がっているような気分がする。
それが姉妹というものなんだろう。
「でも……一つだけこいしに言わないといけない事があったわね」
「えぅ? なぁに、お姉ちゃん?」
地霊殿の目の前。
私たちのおうちに着いたところで、私はこいしに振りかえり言った。
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