「是非あなたに服を作って欲しい」
「お断りします」
一言で斬って捨てられた。
何故だ。確か幻想郷縁起には、人間友好度・高と記されていたはずだ、と男は落胆の表情を見せた。
気を抜くと、見惚れてしまい会話にならないであろう程の美しさを持つ金髪の少女は、そんな彼を見て嘆息すると、洋風の扉を静かに閉じた。
男は改めて入り口の扉を叩いた。このままではこんな危険な場所に臨戦態勢でやって来た意味が無くなってしまう。
博麗の巫女直筆の『大入』と記された呪(まじな)いが籠められたアミュレット、妖怪の山の神社で購入したヘビとカエルの形をしたお守り、毘沙門天の加護がある命蓮寺で手に入れた虎の姿をした人形、わざわざ病気の時を選んで竹林を案内してもらい、その際、案内人の女性に拝み倒して教えてもらった魔除けの法等。
その全てはこの魔法の森を踏破する為、ひいてはこの魔女であり人形使いでもある彼女に会う為なのであった。
それらが一瞬で無に帰すと言うのはさすがに納得が行かないのだろう。
しかし、何度扉を叩いても帰ってくるのは鉄の沈黙であった。
男は覚悟を決めたのか、主を象徴した様に、孤独に佇む家屋の前で座り込んだ。
四方に塩を撒き、一定時間ごとに「南無本尊界摩利支天、来臨影向、某を守護したまえ」と唱え、妖魔に見つからぬ様に九字の隠行印を結び、ひたすら屋敷の主の目通りを待った。
民間でも扱われる事が多い九字護身法は、並みの人間でも魔除け、厄除け等にある程度の効果を持たせ、『前』に当たる摩利支天隠形印は魔物から姿を隠す事ができる護身の術であると、竹林の案内人に講釈を受けたのである。
しかしこの瘴気が蔓延し、妖魔が跋扈する魔法の森で、生兵法の九字だけでは厳しい。
長居をすれば当然命に関わる。
しかし無常にも彼の扉は開かれる事は無く――森に、夜が降りてくる。
普通であれば、自然の音が辺りを満たしていたのであろうが、この森にあるのは先を見通せぬ闇と、木の葉や風の音すらも聞こえぬ静寂であった。
冷気とはまた違った、空気の異様な冷たさに体の震えが止まらず、空気が冷たいはずなのに汗が噴出す。
行動食として持ち込んだチョコをかじりながら、男は瘴気に満ちた森の中でも荘厳さを失わない――どこか絵本めいた魔女の家から漏れるランプの光を見つめていた。
魔女は森に住んでいる、と大抵の絵本は語り、そして彼の眼前にはそれが実際に現実感を――『幻想』郷で『現実』感とは奇妙だが――伴って存在しているのだった。
それに気を取られていた男は、森から忍び寄る『何か』にも気づく事ができなかったのである。
涎を垂らした何かは、音を立てる事も無く、しかし電光の速さで飛び掛った。
その瞬間、男の背後から重たい物が地に落ちる音が三つ。
すわ化け物か、と慌てて振り向いた男の目に映った光景は、凄惨を極めていた。
どんな種族かはわからないが、獣の様な妖怪が血の海に沈んでいる。
一つ――否、二つは頭から股間までを縦に両断された、元は一つであっただろう妖怪と、もう一つは西洋風の槍に顔面を串刺しにされ、樹木に縫い付けられた妖怪であった。
目端の利く者ならば、闇夜にきらめく一条の糸の様な物が確認できたであろう。
辺りに張り巡らされた不可視に近い魔糸の内、一本が牙を剥き、妖魔を容赦無く切断したのだ。
二つにされた妖怪は、元からそうだったとしか思えない様な滑らかな断面を見せて痙攣しており、顔面を貫いたランスの持ち主は、主の様な美しい金髪と白い肌を持った小さな人形だったのである。
件の歌にもあるが、人がその存在を認めている限り、おばけ(妖怪)は完全には死なず、またどこからか発生するものだ。
しかし、だからと言ってここまで容赦無く相手を惨殺してしまうと言うのは並の神経ではあるまい。
普通に生活していれば、まずお目にかかれないであろう光景を見て、後ずさった男の背をランプの薄暗い光と、可憐な影が覆った。
優美可憐な魔女は、男に声をかける。
妖魔を撃退せしめたのも彼女――アリス・マーガトロイドであった。
「……全く、お入りなさい」
是非も無かった。
魔女は冷厳とも言える表情を湛えていたが、それを気にする余裕は、今の彼には無かった。
◆
「自殺しに来たの?」
扉の内に迎え入れられ、紅茶を出されてから男がかけられた最初の言葉はそれだった。
重ねて、もっと良い場所を紹介しましょうか? とまで言われ、男は「願いを聞き入れられるまでは退くつもりは無かった」と抗弁したが、どう見ても彼は平均的な一般人のそれであり、いくら呪具や術を準備して来ても、森の中では一夜を明かす事も不可能だっただろう。
アリスは意図せず迷い込んでしまった者なら保護もするが、さすがに自分からやって来て勝手に危険に晒されている人間まで守ってやるのは面倒だと思っている。
男が命を拾ったのは、たまたま彼女に研究のイライラが募り、気分転換を求めたと言う点に尽きる。
要するにアリスの気紛れで助かったのだ。
冷や汗を、首にかけた手拭いでふき取りながら、男は恐縮しながらアリスに話しかけた。
「ご迷惑をおかけしまして」
「他にいくらでも迷惑をかける人間がいるから気にはしてないけど」
男は恐縮し通しだが、アリスは優雅に紅茶を飲んでいる。
何という絵になる姿だろうかと、彼はアリスの所作を見て陶然としながら、彼女が炒れたばかりの紅茶を、熱さに頓着する事無く流し込んだ。普通であれば火傷は確実である。
アリスはそれを見て怪訝な顔で尋ねた。
「で、どなた?」
「ええと、人里で鳶をしている者です」
「大工さんね。で?」
「先程もお頼みしました通り、申し訳ないのですが、あなたにお願いが――」
アリスはそれを聞きながら、指先を何やらくねくねと動かしていた。
男が何をしているのかと疑念を抱いた瞬間、彼の四肢の自由は全て奪われた。
見えない何かが彼を縛ったのだ。突如指一本すらも動かせない事態に陥った男は、恐怖を覚えアリスの方を見たが、彼女の表情や仕草からは何も読み取れない。
アリスの指が魔法の糸を操っているのであるが、それにより動かせるのは人形だけでは無い。
直接他者に向ければ、その精密さ等という物を超越した魔技を以って、様々な事に行使できる。
普段は人形を操る事にキャパシティを割いており、且つ手の内を人に余り見せないので知る者がほとんどいない技だ。
モノが糸だから視認は困難で、且つ巨大な人形も操れる様な代物だから切れ難い。
人間を拘束する事は、アリスにとって指先をわずかに動かす程度の労力で済むのだ。
「森の外までは送るから、五体満足な内にお帰りなさい」
「お、お断りしま――」
最後まで言葉を吐き出す前にアリスが少し指先を捻ると、指一本すら動かせない体を、引き千切られる様な苦痛が襲った。
男は「ぎゃあ」と悲鳴を搾り出そうとしたが、それすらも出なかった。
出るのは苦鳴とも言えぬ荒い息使いだけである。
声も出ない、と言うのはこの様な状況を言うのだろうと、彼は奇妙な納得を覚えた。
「ごめんなさい、聞こえなかったわ」
無慈悲とも取られるアリスが平然と放った声に対して、「お断りします」と彼は答えようとしたが、唇が動いたのみで、声は出なかった。
しかしその動きから内容を読み取ったのか、アリスは、
「妙に必死ね」
と言い、彼女がフッと嘆息すると、男の体は自由を取り戻した。縛っていた糸を解いたのだ。
急に動くようになった手や足を確かめ、異常が無い事を確認してから男はアリスに話しかけた。
ただし、声は震えている。
「随分気をもんでおられる様ですね」
「原因はあなたよ。頼みって命まで張る様な事なの?」
「少なくとも私の倫理観では。それで、服なのですが」
「ここはテーラーじゃない」
ぴしゃりと言い放つと、アリスはシッシッと犬猫を追い払う様な仕草で拒否をした。
ややコミカルだが、それすらもアリスの様な美姫が行うと、類を見ない美しさに見えてしまう。
しかしどこか妖艶で冷徹な印象の残る彼女の本質は、やはり魔女なのだろう。
男は部屋の中を無遠慮に見回してから言った。
「以前人形劇の際にお聞きしましたが、この人形達の衣服はあなたが作っているのでしょう。素晴らしい技術じゃあないですか」
「ああ……お客さんだったのね。必要に迫られたから作ってるだけよ。本職に頼んだ方が良いんじゃない?」
「たとえ本職でも、あなた以上の技術を持つ者など、人里には――いや、幻想郷には存在しません」
いかに相手の事を良く思っていなくとも、褒められて悪い気はしない。
わずかにアリスの表情は緩んだが、それでも研究の時間を取られるのは惜しい。
異変クラスの事態でも起きない限り、自分から世間と関わるのは人形が関わる事か、他の妖怪や人間に引っ張り出された時のみである。
人里で行っている人形劇も、彼女にとっては動作テストの様な物だ。
悪魔の紅い館に存在する、バベルの図書館の主とは方向性こそ違うが、やはり自身の真理探究が第一と言うのは、魔女にとって当然の事だった。
しかし、男の見立ては間違っている部分だけではない。
アリスが妖怪の中で屈指とも言えるほど、人との親和性が高いのも事実なのであった。
一言で言えば、彼女は『世話焼き』或いは『面倒見が良い』のである。
「それで」
「は?」
「それで誰の服を作りたいの」
「よろしいので?」
「まだ『聞くだけ』よ。散々帰らないだの何だのって言っておいて、説明できないって言うのかしら」
「滅相も無い」
仏頂面のアリスの指が、再び自分を縛ったのであろう何かを操り始めたのを見て、男は慌てて否定の言を搾り出した。
「なら話してみなさい」
男はありがとうございます! と叫んで大仰に一礼した。
アリスは苦々しい表情だったが、質問してしまった以上は仕方がない。
「では――霧雨魔理沙と言う少女をご存知でしょうか?」
「いいえ」
ぬけぬけとアリスは言ったが、男は、え? と言う表情をしている。
「しかし、博麗の巫女様に相談した限りでは、彼女と交流があり、私の希望も叶えられるのはあなたともう一人位しかいないと」
「余計な事を」
「えっ」
「それでその霧雨魔理沙が?」
「あ、はい。私は彼女に恩返しをしたいのです」
それを聞いてアリスはおかしな表情になった。
窃盗癖のある弾幕オタクに恩返しとは、面倒な事情がありそうだ、と。
それを察したのか、或いは最初から説明するつもりだったのか。男はその出来事を語りだした。
男は、特筆する事の無い幻想郷の民だった。
成人する前は慧音の寺子屋に通い、一通りの読み書きや算術ができる様になった頃、親方の下で働く事になったらしい。
幻想郷では、ある異変において博麗神社が倒壊したと言う事件がある。
ある日、慌てた様子で妖狐が里の顔役の所にやって来て、それを伝え、大工を集めて神社に来て欲しい、との依頼があったそうだ。
人間、妖怪の共通認識として、博麗神社とその巫女がこの地の存在を支えていると言う事は誰でも知っている。
一体誰が、と言う疑問を持つ余裕も無く、幻想郷の危機と泡を食った親方が男や他の大工を連れて博麗神社に向かってみれば、現場にあったのは妖怪達に修復されつつある真新しい社、境内と、傘をさした道服の美女が、蒼穹より青い頭髪の少女に、怒り心頭でネックハンギングを決めている所であった。
男たち大工がやって来たのを見て、彼女達は突然姿を消してしまったが、河童やら鬼やらが神社にとりついていたと言う事は、彼女達が神社を建て直しているのだろう。
驚いたのが男達大工である。
幻想郷では人間も妖怪も互いに一種の敬意を持ってはいるが、それでも人間が出会う妖怪は人里に来る様な理性的な、或いは童女の様な比較的意思疎通の成り易い妖怪ばかりであった。
だがこの時の博麗神社と来たら、鬼、天狗、その他有象無象が神社の修繕或いは見物に来ていたのである。
博麗の巫女も姿が見当たらない。
実の所、巫女は二度の神社倒壊のショックにより、神社の端でしばし茫然としていたのだが――それを今やって来たばかりの人間が知るはずも無い。
彼等は急いで来た道を引き返そうとした。
しかし博麗神社に通じる道と側面の森から歌や騒音、「ヒヒヒ」等と不気味な声が聞こえ、さらに神社を注視している、チェック模様をした赤ベストとスカートの美しい女性――人間友好度最悪とモノの本に記されている風見幽香が、その有象無象の中に佇んで微笑しているのを発見するにあたって、大工一同は愕然とした。
悪い事と言うのは連鎖する物であるかどうかは定かでは無いが、間の悪い事に彼らはおっとり刀で駆けつけた為、護身の為の道具を持っている者は少数だったのだ。
この状況では、もはや命運尽きたか、と諦めるより他に選択肢が浮かばなかった彼らを誰が責める事ができよう。
その時、里と神社を繋ぐ小径をまっすぐ閃光が走った。
神社の修繕にも参加せず、興味本位で寄って来た妖怪を散らしたのは、魔女が放った、たった一発のボムであった。
幽香は微動だにしなかったが、他の妖怪はその威嚇射撃でほとんど逃げ出している。
箒に乗った金髪の美しい少女が滞空しているのに、大工達はその時気がついた。
「さっさと帰らないと野次馬に食われて死ぬぜ。それと幽香は顔が怖いからどいてやってくれ」
それだけ言って、彼女は平然と妖魔達が集っている神社へ踵を返した。
あれは家出した霧雨のお嬢では無いのか、と気付く者が一人や二人はいたが、風見幽香が道をあけたのを見て、確かに戻るなら今しか無いと、慌て転げつ、脱兎の勢いで引き返したのだった。
ただ幽香のフォローをしておくならば、彼女には当然人間に危害を加える気など無く、その表情は魔理沙が声をかけた直後から怖くなったのだ、と言う所だろうか。
大体その様な事を話し終えてから、男は乾いた喉を紅茶で潤してから改めて言った。
「命を助けて頂いた事に対して、私は何もしていません、同僚もそうです。ですからせめて彼女の役に立つ贈り物を」
「私もさっきあなたを助けたわ」
「それに関しても恩返しをしなければと考えています」
「なら、およしなさい」
アリスは相変わらず冷淡に伝え、その言葉に男は戸惑った。
「私は、別に何かを期待してあなたを助けた訳ではない。自己満足の範疇に収まっているわ。たまたま見かけた人間を助けて、名前を告げないで去るなんて格好良くて素敵じゃない。誰でも一度はやってみたい役だと思うでしょう」
「しかしですね」
「それは私に限った話じゃない。あなたの話が本当で、その霧雨某と言う魔法使いが実在したとしましょう。あなたの言った様な事をしたのなら、彼女はもう善行らしき事をして満足しただろうし、あなた自身の生き死には彼女にとっては些細な事なの。あなたに他人の良い夢を覚ます権利は無い」
「どんな理由でも、私の命を助けてくれたと言う事実には変わりありません。聞けば彼女は妖怪絡みの事件があれば飛んで行き、異変があれば解決に奔走し、ボロボロになりながら尽力していると。博麗の巫女様ならばともかく、彼女は普通の人間――のはずです。あのままでは早死にする事は火を見るより明らかです。私は彼女にそんな事になって欲しくは無い。幻想郷には何が起こってもおかしくないのですから。放っておけばそれきりですが、あなたが折れれば何かが生まれるかもしれません」
アリスは彼の言に対して沈黙で返したが、何かの熱に浮かされた様な大工は引く様子を見せなかった。
痛苦を与えようとも、冷たい言葉で突き放そうとも、おそらく霧雨魔理沙への『恩返し』の為に邁進するであろう男に、アリスは、
「魔理沙の代わりに溜息をついても?」
「はあ」
と言葉を交わし、大量の息を吸って、深く深くそれを吐き出した。
彼は悪い人間では無いだろうし、正義感も持ち合わせているのだろう。だが、その意思には狂気すら感じられる。
(ドン・キホーテか)
マンチャの騎士の名を思い出し、アリスは強引に納得した。
かの人物は、騎士道精神に則り、思慮深く倫理や道徳を弁えた郷士だが、狂人であった。
騎士物語に傾倒する余り、物語と現実の境界を超え、自らの事を騎士だと信じ込んでしまったのである。
この男は、同じ境遇にある訳ではなかろうが、その狂気染みた正義感は通じる物がある。
自分が「うん」と言うまで彼は森に留まり、研究の時間を奪い続けるか、或いは森でのたれ死ぬだろう。
それが原因で家族やら友人やらに恨まれたりしたら目も当てられない。
仮令そうならなくても、森に住む人形遣いに会いに行った男が帰ってこなかった、等と噂が立ってしまえば、例のフラワーマスターの様に『危険度極高』等と本に記され、無意味に警戒され恐れられるハメになる。
そう感じたのか、アリスは渋々ではあるが彼の願いを聞き届ける事に決めた。
しかし、何よりそこまで他人の為に殉じようと言う人間を奇特に思った、と言う事をアリスは心の底に押し込めて気づかぬ振りをしている。
たとえ彼女自身が気づかなくとも、世間ではそれを慈愛あるいは慈善、優しさと呼ぶのだ。
アリスは殊更に不機嫌な表情を――それすらも可憐なのだが――強調して言葉を紡いだ。
「あなたもわかってるだろうけど、私も魔女のはしくれよ。だから契約の対価として、あなたが想像している以上の何かを要求するかもしれない」
「わかりました。どうせ拾った命ですし、一生かかってでもお支払いはさせて頂きます」
「命、魂、或いはそれに比肩するモノを頂くと言ったら?」
「その時は、それが私の運命だったと言う事でしょう」
やたらと悟りきったような事を言う大工に、アリスは、
「でも、おかしくない? 命まで捨てる覚悟があるのだったら一人でお礼なり恩返しなりをすれば良いんじゃないかしら」
大工の男は一瞬だけ我に返った様に見えたが、一人でできる事には限度があり、それでは自分が受けた恩を返すには足りない、と言うような主旨を再び長々と説明した。
それに到った後、さすがのアリスも諦めた、と言う風な表情になって、
「なら結構。お仕事の話をしましょう」
と、億劫そうに話の続きを促した。
「――おお、受けていただけるのですね」
「それで、どんな服を作れば良いのかしら。言っておくけど、私にもできる事とできない事があるわ。それで魔理沙の命を守れると言うの?」
「スパイダーシルクと言う生地をご存知でしょうか」
「スパイダー……蜘蛛の糸で作った布と言う事?」
「仰るとおりです」
「私をからかってる訳じゃ――無さそうね」
「私も弟から聞いた話なので、幻想かホラかはわかりませんが、その様な生地が存在すると、いつの頃からか噂にはなっていた様です。その丈夫さは比類無き物であると」
「蜘蛛ねえ」
「はい、何でも蜘蛛の糸は、同じ重さの鋼鉄の五倍の強度を持ち、しなやかさは『ないろん』の倍はあるそうです」
「その布ならば物凄く丈夫な服ができる、と。でも単純な物理防御だけじゃ妖怪に対抗できないと思うわ」
「では、『謂れ』を持つ服ならどうでしょう」
含みのある台詞に、アリスは小首をかしげて、どういう事? と言う意を表した。
気乗りのしない仕事だったが、その素材や服の出来自体には興味はあるらしい。
その辺りは基本が知識の集積にある魔女らしいと言える。
「新しく作られる物に歴史等あるはずも無いですが、最初は全ての物がそうだったはずです。ならば私達が、人間や妖怪に「丈夫だ」或いは「脅威だ」と思われる様な物を仕立てれば良いのではありませんか」
それを聞いてアリスは考え込む様な仕草を見せる。
実際に「民間の口承」の様な物を付加する事ができれば、対妖魔でも防御力は保証できるかもしれない。
例えば、魂魄妖夢の持つ二刀も妖怪と人間の技術力の差がどうの、と言う話ではない。
あれはあくまで『妖怪が鍛えた』と言うエピソードと事実こそが重要なのだ。
ならば特別な歴史が無くとも、『この世ならぬ物から織り上げた布で、魔女が服を作る』と言ういかにもな物を作れば、或いは。
「具体的にどうするつもりなの」
「最初からこの世のモノではあり得ない者から糸を頂くと言うのは」
「あ――なるほど。でもそれだと私はともかく、あなたは危険じゃない?」
「一応考えはあります」
「ふーん。なら後は交渉次第だと思うけど。乗ってくれるかしら」
「まつろわぬ民の変化(へんげ)とは言え、彼女も技術者のはしくれだったと聞きます。興味を示して頂けると考えています」
「どう言う考えでも結果でも、あなたが納得して動くのなら良いんじゃない。失敗したらその時は」
「その時は、そうですね、やはり――」
「まあ、人間は諦めが肝心って言うわよね」
「いえ、別の手を考えます」
めげない依頼人にアリスはさすがに一瞬表情を崩したが、すぐに持ち直し、大工はそれを意に介さず言葉を続けた。
「ええ、それで交渉の場にマーガトロイドさん、あなたにも是非来て頂きたいと」
仕事の依頼に加えて、道中を共にして欲しいと言う願いに、勘気を買うかな、と思いながら大工は切り出した。
だが今までの受け答えを聞いていたアリスには予想できた台詞らしく、空になったティーカップを――仏頂面なのは変わらないが――片付けながら、
「今後どうするにしろ、今夜はここに滞在なさい。このまま表に出たら妖怪の餌食だし、朝まで英気を養う事ね」
と言って、ランプの光を全てかき消すと、闇が支配する部屋へ溶けて消えた。
◆
翌日、大工がアリスを同伴し訪れた場所は、旧地獄跡への入り口の風穴であった。
地底では怨霊が湧いている事もあって、ただならぬ雰囲気だが、地底の妖怪も多少は外に出てきて地上と交流を持つ様になった為、そこからわずかに知れる情報で新たに稗田の者が書き上げた書籍の効果もあり、恐ろしさは多少緩和されていた。
尤も、恐ろしさその物に依然変わりは無く、辺りには当然人っ子一人見当たらず、静けさに包まれている。
特に気温が低いわけでもないのに身震いをすると、大工は不安を紛らわすようにアリスに話しかけた。
「噂では、入り口付近に住まいを設けていると」
「そうだったかしら。確かに、ここに入ってすぐに出会える様な所にいた事はあったけれども、住まいがそことは限らないわね」
「立ち入った事がおありで?」
「間接的にだけど」
魔理沙を唆して地底へ潜入させた時の話である。
事情を知らぬ者が聞いたら謎としか思えない様な返答をし、アリスは指を動かした。
風穴の入り口付近とその内部に、人形を操る為の魔糸を張り巡らせ、走査(スキャン)を行っているのだ。
傍目には突っ立っているだけにしか見えないが、その技を知れば、誰もがアリスの実力に舌を巻くだろう。
闇の中に侵入させた糸が伝えてくる手応えは――岩肌、横穴。他には何も無い。
その時、天井付近に張り巡らせた糸から、岩肌とは違う手応えを感じた。
そこは中空であり、本来空気しか無い場所だ。糸の手応えから推測するに、形は――桶である。
音も無くアリスが後方へ飛び、そこに桶とは思えない重い音を立ててそれが落ちてきた。
足を止めていたら、確実に脳天に直撃していただろう。普通の人間ならば即死は免れない。
アリスは後退と同時に、桶に人形を放り投げていた。
そして閃光と、爆音。
大工には、衝撃で闇の中へ吹っ飛んでいく桶が見えたが、それ以外に何が起きたのかはよくわからず、目を白黒させるばかりであった。
ただ、至近距離で爆発を受けても破壊されない様な桶となると、この世の物ではあるまい。
「今のは何です」
「さて」
どうやらアリスは反射的に反撃を試みたらしいが、出会い頭に即、弾幕勝負の幻想郷ではよくある事だ。
二人はそれだけ言葉を交わして、再び風穴の奥のにわだかまる闇を注視し続けた。
アリスの指は忙しなく動き続けている。
やがて走査が終了したのか、アリスは風穴の入り口から外へ後戻りし、大工もそれに倣った。
「何かわかりましたか」
「巣に引っかかったわ」
こちらの糸が、あちらの糸に触れたのだ。
おそらく、糸の主は、それに気づいてこちらにやって来るだろう、とアリスは言っているのである。
程なくして、金髪に黒いリボン、茶系の服に身を包んだ妖怪が闇の中から現れた。
その表情は見るからに不機嫌そうであった。
「どなた?」
声からも機嫌の悪さが滲み出ている。
目をこすりこすり、億劫そうに歩いてきた所を見ると、睡眠中だったのだろう。
「起こしてしまったかしら」
「巣を綺麗にブッた斬ったのはあんた? と言うかさっきの音は何? やかましいわ寝床を壊されるわで、飛び起きちゃったよ」
「それはそれは」
悪びれる素振りも見せずに感想(?)だけ述べたアリスに、その妖怪は怒りを露にした。
彼女が抑えていた『何か』を開放すると、アリスと大工に怖気が走り、頭痛を併発させ、喉には違和感を、体には倦怠感を生じさせた。
妖怪が開放したのは瘴気と病原菌であった。
二つがミックスされた物が空間に満たされ、それを身に受けた者はじわじわと弱って行き、最後には死ぬ。
瘴気には慣れているアリスですらそう思わされる様な危険なものであった。
「誰だか知らないけど、気持ちよく寝てるのを叩き起こして謝罪も無しじゃあ仕方ない。死んだとしても、すぐ地獄に行けるよ。ここから歩いて五秒だ」
妖怪がそこまで言った時に、アリスがやや青くなった顔で何事かを呟いた。
元々白い肌がさらに青ざめており、端正な顔のつくりも相まって本物の人形の様になってしまっているが、その境地で何を言ったものか。
だが、それを聞いた途端に妖怪は激しく動揺し、瘴気が乱れた。
「……なんだって?」
ヤマメの問いに、アリスはゆっくりと、
「博麗霊夢」
と口にした。
妖怪退治のスペシャリストであり、幻想郷の申し子とも言うべき人間の名である。
スキマ妖怪が作り出した幻想郷の象徴であり、幻想郷その物だ。
名前だけでも効果は抜群であった。
その名を連呼するだけで弱い妖怪なら追い払えるかもしれない。
彼女に否定されると言う事は、幻想郷に否定されると言う事に等しい。
まして、人間がいなければ存在すらできない妖怪ならその末路は――。
「あんた、巫女の友達?」
「知人、ね。私はアリス・マーガトロイド。魔女よ。黒谷ヤマメ……だっけ?」
妖怪は肩を落として病原菌と瘴気をかき消すと、アリスに用件を問い質した。
「土蜘蛛で黒谷ってんなら私の事だね。それで、その紅白の知り合いの魔女が何の用だい」
「ちょっとあなたにお願いがあってね」
「それでわざわざこんな所まで来たって? 冗談はよし子さん」
「八雲ゆか――」
アリスがそれを言い切る前に、ヤマメは慌てて人差し指を口に当てて、それ以上言うな、との意を表した。
隙間妖怪は神出鬼没。どこから覗いているかわからない、巫女との関係が深い妖怪だ。
地底に突撃して来た結界コンビは、それ程までのトラウマを彼女に残したと言うのだろうか。
ヤマメは恐る恐ると言った様子で辺りを見回してから、何も起こらぬ事を確認して口を開いた。
「わかった、わかったよ。とんでもない知り合いが多いな。でも他人の威を借りてってのは感心しないね」
「弱い立場だから」
ぬけぬけと言うアリスに、ヤマメは、
「バケモンどもが」
と毒づいた。
それは霊夢と紫だけでは無く、アリスの事も多分に含まれていた。
文字通りバケモノ並の実力を持っているだろうに、と言う皮肉か。
自分の巣まで糸を伸ばしてきて、しかもその巣は『ついで』とでも言わんばかりに切断されたのである。
糸の扱いに長けたヤマメの糸で作られた巣を、事も無げに糸で両断したのだ。
先ほど瘴気のフィールドを展開した時にも動揺した様子は殆ど見られなかった。
並の妖怪にできるマネではないのはわかっていたが、『あの』巫女やスキマ妖怪を、平然と話のダシに使う所から見ても、ただの魔女であるはずが無いのだ。
「用があるのはこっちの人間だけど」
その魔女は、静かに横に退いて、後ろの人間をヤマメの前に通した。
怪訝そうにその顔を見つめるヤマメに、大工は恐る恐る、と言った様子で話を始めた。
「土蜘蛛の黒谷ヤマメさんですね。私は里で鳶を営んでいる者です。突然の訪問をお詫びします。折り入ってお話があるのですが」
「何だ、同業か。助っ人かえ?」
たまに地底から這い出て建築やらの手伝いをする、と例の本に書かれてしまっているので、何となくヤマメは納得を覚えたが、大工の用件は別にある。
「いえ、あの」
「え? じゃあ私を嫁にもらいに来たとか? いやー、モテる女は辛い」
「ははは」
大工は引きつった顔で乾いた笑いを漏らした。
相手は、危険度が高く友好度は低い、と記されていた地底の妖怪である。
地底の妖怪は殆どが危険度、中・高だ。だとすれば、伝聞と本でしか情報を得られない人間が緊張をするのも無理からぬ事であった。
ただ、幻想郷縁起や求問口授は、事実をそのまま記述してある事以外は、阿求の私見と偏見が多量に入り混じっているので、正確な情報とは言い難い、と言う事を大工は――いや、多くの人間は知らない。
そして、その方が都合が良いと言う事で妖怪側は承知している。
正体や性質などは、情報が錯綜するくらいで良いのだ。
あれもこれも解明されて丸裸にされてしまっては、もはや妖怪として存在できなくなるだろう。
科学の隆盛で妖怪が死滅したのと同じ理屈である。
そう言う訳だから、実際に妖怪と出会って、大工の様に困惑を覚える者も多少はいる。
しかし目の前の土蜘蛛は、アリスにしてやられたと言うのに、殺気や怒気を微塵も感じさせない。
怒っていないのだ。その上、アリスもヤマメの接近を許しているし、ヤマメも平気な顔でアリスに歩み寄った。
その間合いはお互いに必殺の距離であるにも関わらず、である。
アリスは、ヤマメを安全だと判断したのだ。
大工の感想は「思っていたよりも人懐っこそうだな」と言う物である。
尤も、先ほどは殺されかけているのだが、話が通じる、通じないとはまた別の話だ。
「で、お話ってなんだい」
大工は緊張した面持ちでアリスに視線を送ったが、アリスは冷たい目でヤマメを見つめている。
ヤマメに視線を戻し、台詞を噛まぬ様に一息吐いてから、大工はアリスにしたのと同じ話を、簡潔にヤマメに話し始めた。
それを聞き終えると、ヤマメは大仰にうんうんと頷いて、
「たった一夜の宿の恩を――じゃない一度、それも気紛れで命を救われただけだろうに、命を懸けてまで恩返しがしたいとは、中々肝が据わってるねえ」
と感想を漏らした。
気づけば、大工も雄弁になりつつある。ヤマメに気を許しつつあるのだ。他の妖怪ではこうは行かないだろう。
初対面でお友達オーラを、威圧感を感じさせずに表せるのは、黒谷ヤマメの天稟があってこその物であった。
「お褒めに預かり光栄です。で、黒谷さん、ここからが本題なのですが」
「うんうん、なに?」
「あなたの――出した物を私に譲っていただきたい」
聞き様によっては爆弾発言だが、ヤマメは楽しそうに話を聞いていた。
アリスは、膝が落ちようとする瞬間に踏ん張るので精一杯だった。
頼み方を考えろ。言葉足らずにも限度がある、とアリスの眼はそう語っている。
「ヨダレとかおしっことか?」
「え、いやいやいやいや! そう言う話ではないのです」
己のミスを悟った大工は慌てて言葉を訂正した。
相手が相手なら、ここで八つ裂きにされていてもおかしくない台詞だったが、話しているのがヤマメで運が良かったと男はひそかに感謝した。
「あなたの糸をですね、提供して欲しいのです」
「ほー、それで――なんだっけ。『酸っぱい苦しい』を作るって?」
「スパイダーシルク」
ヤマメの苦しいボケにアリスはきっちりツッコミを入れた。
意外にもアリスは、陽気な土蜘蛛を気に入ったのかもしれない。
「なるほど、蜘蛛の糸で布をねぇ」
「仰るとおりで」
「そんなんで良いならいくらでもあげるけどさ、それをやるのは誰なの? 幻想郷に今まで存在しなかったモノを織り上げるって言うんだ。さすがに興味あるね」
「それは勿論、そこにおられるマーガトロイドさんが――」
「えっ」
「えっ」
アリスの困惑した声を大工は初めて聞いた気がした。
その声で、大工も二度目のミスを悟ったようだった。
「ちょっと」
「はい、すみません。先入観と言うのはかくも恐ろしいものだと――」
「その通りね。裁縫までならともかく、紡織は本当に門外漢よ」
「ここまで来て振り出しとは……」
「諦めたら?」
アリスが口にしたのは端的で辛辣極まる言葉だったが、この程度で諦めるようならば、最初に目的を設定した時点で「ムリだな」と考える。
事実、アリスも大工がこれで魔理沙への『恩返し』を諦める等とは微塵も考えていない。
ここまでは全て彼の希望通りに話が進みすぎていたので、少しからかってみた程度の悪戯心だ。
が、次に打つ手が見当もつかない状況も事実であった。
紡織に精通していそうな者など知り合いにはおらず、かと言って誰かに尋ねるにしても、殆ど興味と義務感のみで動いたこの案件で、アリスは余分な借りを他人に作りたくは無かった。
「……」
「……」
「……」
沈黙の応酬である。空気の重い事と言ったら無い。
二人が黙りこんでしまったのを見かねたか、或いはその空気に耐え切れなくなったか、ヤマメが口を開く。
「そう言えば、聖徳王が幻想郷に出たんだってね。部下は元気かな?」
何でもない話題と思われるが、そうでは無かった。
普通なら、いや、今現在の豊聡耳神子を知っている者なら、『物部布都』を連想するだろう。
だが違う。これはヒントなのだ。
幻想郷の人間や妖怪の特徴に、言いたい事をはぐらかして伝えたり、本題と迂遠な話を聞かせ、実はそれが真実に近い等々、回りくどい表現が一般に浸透している、と言うのがある。
これは貴人の言葉遊びに近い文化が浸透しているのだろう。
中にはそう言った言葉遊びとは無縁且つ言いたい事を伝えられなかったりする――氷精や地獄烏の事だが――そう言った知識が文化レベルに満たない様な者達もいるが、彼女らはただ知識が足りていなかったり、単純であったり物忘れが激しかったりするだけで、頭が悪い訳ではないのだ。
そんな理由で、ヤマメのヒントは判り辛い事この上ない。
歴史や知識の集積を行っていないと俗人には理解できない様なヒントを出したのは、アリスにしてやられた事に対するせめてもの意趣返しだろうか。
だが、アリスも伊達に魔女等をやっている訳ではない。
そもそも魔法も知識と技術と経験の集積だ。白魔術と言う『技術』が科学的に研究され、医師が生まれたように。
「なるほど。秦氏」
「へぇ、知ってんだ?」
「まあね。知り合いからその聖徳王の話を聞いてから、ちょっと調べてみたのよ」
「魔女ってのは皆あんたみたいなのばっかりなのかな」
「そんな事も無いけどね。弾幕一辺倒の魔女もいるし」
「あの、『はたし』とは?」
二人の会話をまるで理解できない大工は、置いてけ堀は勘弁してくれと言った風情で疑問を問いかけた。
ヤマメは面倒そうな表情を隠そうともしなかったが、アリスは性格か、それともただ衒学が好きなのか、彼の疑問についての話を広げ始めた。
「聖徳王は知ってる?」
「はぁ、聖徳太子さまですね。最近復活したとか何とか」
「彼――いや、彼女だったわね。生前の彼女の側近には、『秦河勝(はたのかわかつ)』と言う人物がいたのね。河勝は渡来人であり、秦氏の長の様な地位にいたと言う。物部守屋討伐の際にも、その姿があるとか無いとか」
あるのか無いのかはっきりしろ、とヤマメはツッコミを入れる所だったが、話を拗らせても面倒なのでそこは堪える事にした。
アリスの説明を聞いた大工は質問を返す。
「はぁ、で、その秦氏が一体どうしたのですか」
「そこの蜘蛛女が紡織についてのヒントを――」
「こら」
アリスの『蜘蛛女』呼ばわりに、ヤマメは露骨にイヤそうな顔で抗議――事実ではあるのだが――したが、本人はどこ吹く風で説明を続けた。
「秦氏の秦は、機織(はたおり)の秦でもあるのよ。紡織について一過言あってもおかしくない」
「そ、それでは聖徳太子さまの所に行けば――」
「早とちりしない。河勝はどうやら黄泉返りのお供としては選ばれなかったみたいね。今彼女の側にいるのは、物部のナントカって奴と蘇我のナントカって奴に胡散臭い邪仙だけらしいわ」
「では、何故その秦氏が今の状況に対するヒントだと」
「織姫っているじゃない?」
「はい、彦星と天の川を挟んで機織を続けていると」
「そう、機織には川もそうだし、水辺の存在がついてくる。水際に機織棚を設け、糸を引き布を織るって文化があったくらいだものね。秦氏も例外では無く、彼らは水の民だったと言う説がある」
「つまり……どういう事です?」
「わからない? 水の民と言えば――」
「――あ!」
「そう、河童よ」
「しかし、河童は機械いじりが趣味だと私は認識していたのですが――紡織もやるのですか?」
「河童って言うのはすっごく曖昧というか大雑把な存在でね、古今東西あらゆる水神や水怪の最大公約数として習合された様なフシがある。『ひょうすべ』やら、特定の水神を信仰する一族やら、様々な技術を持った水の民やら何やらも、全部ひっくるめて河童の一部として扱われてる。河童は大工であり、紡織職人であり、水神を祀る巫女であり、未知の技術を有する変態集団って事になるのね。相撲が強いって言うのも、相撲の祖である野見宿禰が、水神を祀る――或いは使役する一族だった『かもしれない』所から来ている。大本は安部晴明の式神って話もあるわね」
大工は関心した。
人形以外の事には興味が無いのかと思っていたが、さすがに魔女と言うだけあって、物知りなのだ。
「祖先が多くの子を持つ、と言う事ではなく――多くの祖先が一つの子に収斂したと?」
「理解が早くて結構。まあ難しく考えなくても良いわ。とりあえず、上手く行けば河童から突破口が掴めるかも、くらいに考えておきなさい。この辺の話は遡り過ぎると、人間どころか神代の時代まで行くからキリが無い。ごちゃごちゃ過ぎて訳のわからない妖怪だわ。私の知り合いなら、もっと詳しく知ってるかもしれないけど」
情報を仕入れる為に出向いた図書館と寺子屋を営む者の事である。
知識や知恵を交換する所で、それ程ふさわしい場所と人選は他に無いだろう。
「で、河童ならば糸口が見つかるかもしれないと」
「糸口どころか解決するかもね、希望的観測ではあるけど。でも、仮にできたとしても面倒な話ね」
河童の住まいは玄武の沢辺りに固まっている。
そして玄武の沢は、妖怪の山のテリトリーでもあるのだ。
確かにアリスの言う通り、面倒この上無かった。
面倒で済めば良いが、妖怪の山は縄張り意識の強い妖怪が多数住み着いており、幻想郷でも珍しい官僚方式の縦社会を形成している。
上下関係は勿論、組織の筋立ても明確で、侵入者に対しては常に天狗の一部が眼を光らせており、外部の者が立ち入るのは例え妖怪でも容易では無い。
最近では守矢神社の台頭により山の態度も少々軟化した様だが、一部の妖怪――特に白狼天狗などは未だ彼らに対して敵意を持っている者も少なくない。
かと言って上司や、山の顔とも言える神にかけあって市民権を得ている神社の神々に表立って逆らう訳もいかず、となれば後はその感情を仕事にぶつけるのみだ。
結果として、妖怪の山は警備体制のみが熾烈になりつつある。
いかにアリスが稀代の魔女だとしても、山のような数の天狗の攻撃に晒されたら、逃走ならともかく突破は難しいだろう。
「あんた、色々おっかない知り合いがいるみたいだけどさ。河童にも知り合いとかいないの?」
「顔見知り程度なら、ね。でも『友達の友達』が自分にとっても友達とは限らないじゃない」
「ははっ、確かにそうだね。よく言われるよ」
ヤマメは親友である――と本人は思っている――橋姫を思い浮かべ、苦笑した。
「でも他にアテも無いんでしょ?」
「それは、まぁ」
「私も付き合ってあげようか?」
「何を企んでるのかしらね」
「托卵はカッコウのやる事だよ。時間なら売るほどあるし、たまには外の空気も吸わないとね。それにどっちにしろ私がいないと糸は提供できないよ」
暗に地底からは殆ど外に出ない、或いは出られない、と言うヤマメの台詞を聞いてアリスは、
「いくら?」
とだけ返答した。
アリスの反応を見て、ヤマメは目をぱちくりとさせてから、あははと笑いを漏らして言った。
「冗談も言えるんだね、あんた。今なら大安売りさ」
冗談ではなく、本気に近い印象だと大工は感じたが、良い方向に解釈したのなら黙っていた方がいいだろうと口を噤んだ。賢明であった。
ヤマメは最後まで与り知らぬ事ではあったし実現もしなかったのだが、アリスはこの時、いかにして『ヤマメを生贄にし、山の警戒を出し抜くか』と言う非道な策を巡らせていたのである。
「手伝ってくれるならそれに越した事は無いわ」
と言って、アリスはヤマメの同行を求めた。
弾避けは多いに越した事は無い。ただでさえ、今回は『普通の人間である魔法使い』ではなく、本当に普通の人間がいるのだ。
妖怪の中では穏健派に属するアリスだったが、その辺はシビアであった。
「一応聞いておくけど、目的は何?」
「シャバの空気ってのは中々に美味いもんなのさ」
「外に出ると言うだけならもう約定は意味を為してないわ」
「仰るとおり。私も最近ちょこっとだけど、向日葵を見に行ったり、寺詣でもしたし。でも私らが嫌われ者である事は間違い無いし、そこは履き違えちゃいけない。だからモグラみたいに地下で暮らすってのは自衛もあるし、これ以上嫌われないようにって意味もある。だけど、やっぱり空と太陽ってのは良いもんだ。そう思わないかな」
「意外に繊細ね」
単純な感想だったが、アリスが『意外に』と言う部分を強調した為、ヤマメはその台詞を皮肉と受け取ったらしく、
「ちぇっ、傷つくなぁ」
と言ってから歩き出した。
言葉はどうあれ、本当について来てくれるらしいと言う事を汲み取って、アリスと大工もそれに倣った。
人形師、或いは土建屋。期せずして集まった職人の一行が向かう先は、妖怪の山、玄武の沢である。
◆
守矢神社へ向かう山道を横に外れた辺りで、当然天狗から正規のルートに戻るよう咎められた。
事情をつまびらかにすれば了承を得られるかもしれない、と淡い期待を持ちつつアリス達は天狗に事の説明をしたが、妖怪の山は未だ外の世界にもはびこっている縦社会である。
数名の部下を引き連れ、大ぶりの太刀と、紅葉のワンポイントでペイントされた盾を背負った白狼天狗もその例外ではなく、玄武の沢に行きたいという旨を伝えるなり、断りを入れられた。
「博麗の巫女と守矢の面々だけ例外だって言うのも特別なんですから、一般の人妖を勝手に散策させるって言うのは規定違反ですよ」
いかにも仕事の虫である、と言う感じの言葉だった。
「今回だけ、そのルールを抹消してもらえない?」
「困ります」
アリスの操る上海人形が、名刺を交換するサラリーマンの様な厳かな仕草で一枚のカードを天狗に差し出した。
「こちらでも良いけれど」
(『また』スペルカードか……くそっ)
普通に押し通れば、山を巻き込んだ血戦になってもおかしくないが、命名決闘法を盾にすれば、後はどうにでも言い訳はできる。
隊長格らしき白狼天狗は歯噛みした。それを出されたら、いかに山に風紀があろうと、従わねばならない。
山がどうのと言う話では無く、幻想郷を上手く立ち行かせる為、全てに優先するルールだからだ。
以前守矢の神々が山に来たばかりの時に突っ込んで来た巫女と魔法使いもそうだった。
自分がスペルカードで立会いをする機会など巡ってこないだろうと考えていたこの隊長は、スペルカードを2枚ほどしか考案していない為、どちらかと言うとルール無用の死合の方が得手であった。
問答無用で襲い掛かって来ないだけマシだったと言えるが、このままではどのみち強行突破をするハメになるかな、と考えアリスは嘆息した。
その予想通りかどうかは知らないが、隊長の背後に控えている別の白狼天狗が太刀を抜きながら恫喝を行う。
「侵犯を犯した相手に正々堂々決闘なんかしてやる必要は無いですよ、隊長」
「よせ」
「安心しろ、命だけは取らないでおいてやるよ。腕の一、二本は覚悟してもらうがね」
が、太刀を構えたその瞬間、天狗の腕は付け根から音も無く切断され、その天狗は自分の落ちた腕を呆然と見詰めた後に悲鳴をあげた。
他の天狗は先の恫喝の内容が、そっくりそのまま仲間の身に降りかかった事を理解し、背筋を凍らせた。
しかし、何よりも恐ろしかったのは、アリスの表情であった。
戸惑い、迷いは勿論、殺意や闘志すら感じさせず――本当に感じていないのかもしれない――に、一切の手心を加えずに問答無用で相手の腕を切断した。
アリスの美麗な顔からは想像もつかない冷酷さ、いや、無感動であった事が、天狗達にとって最も恐ろしかった。
つまり、彼女は今、腕を切り落とした天狗を、その程度にしか思っていないと言う事だ。人間が虫の駆除や生死に頓着しない様に。
彼女は必要、或いは邪魔者とあらば、友人や親ですら、何の感慨も無しにこんな目に合わせるのでは無いかと言う程の躊躇の無さ。
それが天狗達を何よりも恐怖せしめた物であった。
隊長らしき白狼天狗は、切り落としたのであろうアリス達に対する咎めを行わず、部下を叱責する。
「誰が抜けと言った!」
隊長はアリス達の実力がわかっていたからこそ、密入山を口頭で注意をするに留まっているのである。
慌てて腕を拾って応急処置を施す部下達を横目で眺めて、隊長は、
「誰にでも噛み付く狂犬は長生きできないって何度言わせれば、全く……あのですね、おとなしく山道に戻っていただければ、今の狼藉は無かった事にして差し上げますが」
と告げた。
さすがに異変でも何でもない平時に、妖怪の山で騒ぎを起こしたとなれば、逆にこちらが討伐されてもおかしくない。
下手をすれば幻想郷の平穏を維持する為と、博麗の巫女や、最近妖怪退治を始めたと言う守矢の風祝が乱入する可能性すらある。
最悪なのは天狗、赤と緑の巫女、並びに保護者(?)のスキマ妖怪と守矢の神、その全てに狙われる事だ。それだけは何としても避けなければならない。
やはり土蜘蛛を利用した生贄作戦を発動させるべきかと、辺りを珍しそうに見回しているヤマメに冷たい視線を向けたアリスが無慈悲な考えに到った時、空から今度は鴉天狗が舞い降りてきた。
隊長格の白狼天狗――犬走椛は大袈裟に頭を抱えた。
「おや? 山道から外れた所に魔法使いがいると聞いてやってくれば――『普通の』魔法使いでは無く、『普通の魔法使い』がいるわね」
ほとんど同じ言葉を話しているに等しいが、天狗の中では『普通の人間である魔法使い』と『種族として普通の魔法使い』を分けたつもりらしい。
大工にも見覚えがある。人里や秘境にも新聞を配っていると言う、珍しい天狗だ。
記事を妖怪の山や天狗社会の話のみに絞らず、幻想郷のあちこちの事象を書く天狗は二名ほどいるが、一人は片方のダブルスポイラーとして、造りを新たに客層や取材方法を改めた新興の新聞であり、以前から人里に現れていた新聞屋の天狗と言うのは主に彼女を指す。
即ち天狗社会の麒麟児、そして異端児である射命丸文であった。
普段なら部下の報告を受けてから動く文が、何故やって来たのか?
「文さん、仕事を抜けちゃったらまずいですよ。何しに来たんです」
椛の言い方は、敬語とは裏腹に「邪魔だからすっこんでろ」と言ったニュアンスであった。
「まぁ、細かい事は言いっこ無し。それと、ここから先は私が受け持つから戻れ」
「ふざけるな」
あくまで邪魔者扱いの文だったが、彼女が急に真面目な顔で、
「聞こえなかったの? 犬走椛、所定の位置に戻りなさい。『誰にでも噛み付く狂犬は長生きできない』。良い言葉よね」
と言うと、椛は言葉に詰まり、数秒ほど睨み合った後、部下を引き連れ蒼穹へ吸い込まれるようにして消えた。
部下は負傷するわ、上司に追い返されるわでロクな事が無い。
腕を落とされた天狗はアリスを睨み付けていたが、この場に留まっていても不毛だと悟ったのか、しばらくして悔しそうに飛び去った。
大工とヤマメは『椛』と呼ばれた天狗に、ささやかな同情の視線を送った。
文はそれを見届けてから、
「最近の若い子は相手の実力もわからない様なのが多くて困るわ」
とアリス達に同意を求めた。
アリス達は憮然とするばかりであったが、最後の言葉には頷いた。
「何故追い返したの?」
「いや、別に。ただ魔法使いって聞いてたから霧雨某かと思ったのよねぇ。まさか人形使いの方だったとは」
「がっかりさせて申し訳無いわね。……で、どうするの? やる?」
アリスは、自分達と事を構えるつもりか、と聞いているのだ。
白狼天狗だけならアリス一人でなんとでもなっただろう。
だが、この天狗はそこらの天狗とは訳が違う。彼女は実力的にも、鬼に追随する様な傑物なのだ。
それなのにわざわざケンカを売るアリスに、ヤマメは自身の能力と関係無い頭痛を発症したが、アリスの指が細かく動いているのを見て、なるほど、と思い直した。
しかし、文の返答は拍子抜けする様なものであった。
「やらない」
アリスは眉をひそめ、ヤマメは大袈裟にずっこけてから、射命丸に問いかけた。
「それはそれで楽だから良いけどさぁ。天狗のお姉さん、お山の風紀みたいなのはどうしたの?」
「勿論わかってるわよ」
「わかってないじゃん。『知ってる』だけだよそれ」
あくまで戦わない、と言う事を強調する文にツッコミを入れたのはヤマメだったが、アリスが文から受け取った印象は違った。
彼女は、自分達の仕掛けたモノに気づいているのだ、と。
それを立証するように、文は辺りを見回してからアリスに問いかけた。
「その辺にあるんでしょ? 糸と、人形。ご丁寧に私の機動力を削ぐための位置に設置してある。迂闊に飛べば頭上の糸に引っかかってバッサリ。正面から行けばその糸が降って動きを封じられた所に人形が来て、これも串刺し。焼き鳥は勘弁ね」
アリスは密かに舌打ちした。気づかれない様に人形を横手と背後に控えさせ、ヤマメは頭上と木立の隙間に糸を張っていたのである。
「ふうん。罠があるから戦わないと、そう言う事?」
「当たり前じゃない。特にこの手をケガでもしたら、ペンが握れなくなってしまう」
「天狗としてはそれで良いのかしら」
「あんまり良くないわ。だから戦った、って言う体(てい)は欲しいかなぁ。部下も怒ってた事だし」
「じゃあ、あのマジメそうな子に任せて高見の見物で良かったんじゃない」
「霧雨某なら匿ってやろうと思って」
またしても霧雨魔理沙であった。
どこに行っても彼女の名前と、その魔理沙とわずかなりとも縁を持った者が現れる。
「実は魔理沙って凄い魔法使いだったのかしら」
「うん? まぁ、魔法使いとしては並かそれ以下だけど。我々妖怪と並ぶ程に容姿端麗で弾幕の第一人者。普通の人間のクセに普通じゃない事は保証するわ。ネタとしては申し分無い」
ヤマメは「えらい評価だね」と感心しているが、あれはただ無謀なだけである、とアリスは分析していた。
怖いもの知らずとは正に彼女の事を指すのだろう。
異界、そして『そちら側』に棲むモノ達、安易に立ち入って良い物ではない。
人は荒ぶるモノ達から身を守る為に、それが仇為さぬよう祈り、崇めて来たのだ。
スキマ妖怪は境界を操る――なるほどわかりやすい。
古来より、人の住む領域より離れた地、村や里より外は正しく別の世界であり、村と外の間には明確な境界があったのだが、現代では村境や国境は形式として存在するのみであり、それを再び蘇らせたのが幻想郷と言う訳だ。
東風谷早苗などは、常識に囚われてはいけない、と自らに戒めを科し、懸命に『異界』に――彼女の常識は外の常識であるから、その常識に囚われない、と言うのは的外れと言うか当然でもあるが――順応しようとしている。
外界での構築して来た常識や己の存在は死に、異界で新たなルールや常識を構築し生を得る。
そう言う意味では東風谷早苗は、異界で生を得る為、諏訪の神に捧げられて現世で死んだ生贄なのだ。
だが、霧雨魔理沙にそれは無い。
異界で自分のスタイルを崩さず、人間としての自分のルールで立ち回る霧雨魔理沙。
自分の住んでいる領域を自分の国、それより外を外国と考えるとわかりやすい。
本来、別の世界で活動したいならば自分を殺し、そちらの世界のルールに従うか、或いはそちら側の人間になるべきなのだ。自分の身を守る為である。
それができないのならば、そこにいる大工がアリスに依頼した様に、案内人を立てるのが賢明だ。
だが、彼女はそれをしない。
その辺は何者にも縛られない紅白の巫女に近いものがある。
並の神経や努力で到達できる物では無い、と言う事は認めるが、アリスには納得し難い事であった。
文は、思考の海に沈んだアリスに訝しげな視線を向け、団扇をひらひらさせながら言った。
「とりあえず人形を退かせてくれない?」
「お断り」
「困るなぁ。最近、魔法使いをかばう事に対して、上から叱責を受けたばかりで」
「私は初犯だから見逃してくれると助かるわね」
「見逃すのは良いけど、おとなしく下山してもらえる?」
「それもお断り」
アリスは相手が軽口を叩いている間も、天狗の動向に注意を払っていた。
その表情は氷の如く冷たく、鉄の如く変化しない。
大げさに表情を変えながら話を進める文とは対照的であった。
「あやや、怖い顔はよした方が良い。美人は笑顔が肝要なんだし」
ほらこの通り、と言って文はにっこりと笑ったが、アリスはそれにも取り合わない。
「お互い様でしょう。心理学では、本心ってのは顔の左半分に現れるって言うのよね」
「突然ね――それが何か?」
「あなた、『左眼』が全然笑ってない。取材の時も。そして今も」
「……」
「大方、さっき団扇を扇いだ時の『風』で、お仲間に合図か何かを送ったんじゃない? さっきのマジメそうな天狗辺りが土蜘蛛の糸を斬ってるとか」
(何だこいつ……)
その通りであった。
わざわざ仲間割れの瞬間を相手に見せてまで白狼天狗を一度この場から撤退させ、アリス達から気づかれぬ様に『土蜘蛛の網を排除しろ』と言う合図の『風』を起こし、然る後に取り押さえると言う手はずだった……のだが。
(もう冷静だとかそういう次元じゃないわね、この魔法使い)
文も柔軟で冷静な方だが、この場合は相手が悪かった。
アリスは射命丸に増して冷静だった。それすらも通り越して冷徹、いや、冷『鉄』だったかもしれない。
文字通り鉄の様な意志と、氷山の様に冷たい瞳で文を観察していたのである。
文は、あっさりと考えを改めた。
敵対するのは得策じゃないか――利に聡い文がそう考えるのも仕方無いだろう。
もちろん、射命丸が実力を発揮すれば制圧も可能だ。
だが今は力こそ全ての時代では無いのだ。弱肉強食には違いないが、鬼が君臨していた時よりも現在はマシになっている。
何より、彼女の天狗としてのプライドは、格下の魔法使い――と本人は思っている――如きにそこまでするのは本位では無いと告げている。
尤も、アリスも実力は最後まで隠しておく性格であり、もしそんな必要があったとしても、その様な状況に陥る前に撤退か方針の転換を選ぶであろう。
(体面はどうしようかな。無条件でってのはさすがに――)
「あの」
話しかけたのは大工であった。
文の方はと言えば、いるのはわかっていただろうに、まるで今初めて存在に気づいたみたいな返答だった。
「ああ、はいはい。で、どなた?」
余計な事を喋って優位を崩したくないと考えたアリスが代わりに答え、文はまたこいつか、と言う表情を作った。
口八丁は文の十八番だが、今回は勝手が違うようであった。
「取引先よ」
「あなたがわざわざ妖怪の山に来た理由が彼って事ね、成る程。それで?」
「どうせ『風』を通じて聞いてたんでしょ。ヘッタクソな芝居はおよしなさい」
文は一瞬だけアリスに鬱陶しそうな視線を送った後、大工当人に話を振ろうとして彼に向き直った。
大工をしげしげと眺めてから、不思議そうに首をかしげたが、その行為の意味はわからない。
「あ、あの、天狗様。私が何か?」
「いや、何でも無いわ。ところで黒谷さん?」
「うん?」
「旧地獄にお住いのあなたなら気づいていると思いますが――」
「そりゃ言いっこ無しだ。良い話じゃないか」
ヤマメの答えも歯切れが悪い。どうやら文と同じ感想を持ったらしい。
彼女と天狗の共通認識に何があったのか。
「ふーん、なるほど。ええと、アリス――さんでしたっけ?」
「何? ちょっと気持ち悪いわ」
急に口調が慇懃な物に変化した事を言っているのだ。
これが文の副業――本人としてはこちらが本業かもしれない――に対する向き合い方だと言う事は、アリスも一応承知している。
だが、横柄で相手をナメた態度から、急に掌を返されると、アリスとしてもさすがに戸惑わざるを得なかった。
「私も傷つきますからキツい言い方はよして下さいよ」
「何を企んでる?」
それを聞いて、隣にいるヤマメが苦笑した。
彼女にも放った、本日二度目の台詞であった。
「企むだなんて滅相も無い。譲歩です、譲歩。ここはバーターにしようと言う話です」
「言葉を扱う職業だけあって横文字も理解できるのか……内容次第ね」
「お褒めに預かりまして。あなた達の一連の行動は美談――の一種ですし、新聞のネタに丁度良い。ちとありきたりですが、記事としても感動物はウケが良いですから。代わりに、あなた達を見逃してやるという事です。いかが?」
「見逃して『やる』?」
「……見逃させて頂きます、ハイ。ただし見逃したのでは無く、あくまで私が撃退し、偶然目的地に追いやられた、と言う事にして頂ければ。勿論用が済んだら即座に退去してもらいます」
「わかったわ。その条件でよろしく」
「そんなにあっさり決めてしまってよろしいので? 私が約束を反故にするとは考えないのですか」
「人間相手の約束じゃないもの」
それを聞いて、わずかだが文の顔に笑みが刻まれた。
確かに彼女は侵入者だ。しかし妖怪としてはある程度の信頼があるらしい事を知ったらしい。
ただ、アリスは軽く言い放ったが、人間の大工には耳の痛い台詞であった。
確かに昔話などで、人間は妖怪相手の約束を破り事態を打開しようとする傾向がある。
逆に妖怪は約束を履行しようとして討伐されたり撃退されたりするのだ。
その辺は油断なのか、約束はそもそも破られないという意識が妖怪の中にあるのか。
「それじゃ、行きます。一応手加減しますけど、お怪我等の責任は持ちませんので」
「余計なお世話」
「はいはい、お気をつけて。あ、そうそう、アリスさんと黒谷さんは問題は無いかと思いますが、人間のあなた。叫ばないと、舌を噛みますよ」
「え? うわぁ!」
言うが早いか文が団扇を横薙ぎに大きく振ると、暴風が生まれる。
三人を一気に空へ舞い上げる程の突風を発生させるとは、どれほどの力を持っていればそんな事が可能だと言うのか。
山の斜面から木々を突き抜け、空中に放り出された三人は、笑顔の文がこちらに手を振っている事にも気づかず、悲鳴をあげるか、風に流される事しかできなかった。
風で眼を開ける事すら困難な状況だが、そこは妖怪二人。慌てず騒がず、大工を糸で引き寄せ、自分達の墜落地点が、眼下に現れた河川付近である事を理解する。
目的地、玄武の沢であった。
(黒谷)
(ほいほい)
アリスがヤマメに目配せをすると、ヤマメが木々と岩の間に網状の糸を展開し、地面に激突するはずの一行を受け止められるように備えた。
「上手く行ったかな」
文がアリス達の軟着陸を確認すると、犬走椛が彼女の横に降り立ち、
「せっかく罠を取り除いたってのに……逃がしちゃって良いんですか。私はもう知りませんよ」
と言う様な文句をブツブツと言った。
しかし、文はアリス達が落ちていくのを眺めながら何やら黄昏ており、心ここにあらずと言った趣であった。
不審に思った椛が二の句を告げる前に、彼女は何とは無しに呟いた。
「きれいな子だなあ」
ギョッとした椛がその言葉の意味を反芻し、何かに思い当たったのか、文に非難の視線を向け、後ずさりながら聞いた。
「文さん、そういう趣味が」
「え?」
「浮いた話の一つも無いと思ってましたが、まさかソッチの人だったとは」
「ちょっと」
「そりゃ、天狗としての実力『だけ』は認めますよ。でもなぁー、いくら妖怪でも同性はいかんです」
「幻想郷は全てを受け入れる、らしいわよ」
使いどころを誤っているが、文は何となくそれっぽい反論をした。
とりあえず名言っぽい台詞を言っておけばこの場は収まるだろうという適当極まりない発想から出た言葉であった。
「だからって好き勝手に生きられるのとは違うですよ。『自由』ってのは自分の力量に理由が跳ね返ってくるって意味なんですから。お金が無いのも、新聞が売れないのも、性格が悪いのも、特殊な性癖を持つのも、カラスが黒いのも、巫女が紅白なのも、ぜーんぶ文さん自身の責任で――」
「あなたが普段私の事をどう思っているか、何となく理解できたわ」
文はそう言って天を仰いだ。
何言ってんだこいつ、と言う意を表したのである。
「私は『綺麗だ』って言っただけ。星空や紅葉を綺麗だって思わないの、あなた」
「え? そりゃ、まぁ――って、あの魔法使いがそれらに匹敵する美しさだと?」
「そこまでじゃない。でも、造詣を極め尽くした人形みたいに綺麗なのは事実。カメラ越しだと気づかなかったけど――ところで椛、アルバイトやんない?」
「またですか。そりゃ、臨時収入はありがたいですけどね、踏み倒しだけは止めてくださいよ」
「誰が踏み倒したって?」
「あんたですよ、アンタ。前に手伝った時は、数回発行した新聞の現物支給だったじゃないですよ。ウチじゃもう火種くらいにしか使ってません。その時は一応文さんの顔を立てましたけど、今回は現金の前払いにして貰いたいもんです」
文は部下の悪罵に耳を塞ぎつつ、何とか新聞作りのアシスタントを確保した。
椛以外で個人的に使える人材がいれば良いのだが、やはり勤勉さと、千里眼と言う能力は魅力的だという事で、基本的に余程の事が無い限りは椛を使っている。
ふと、文は再びアリス達が落ちた方向を見つめてから言った。
「気の毒に」
その台詞は誰に、どんな意味で向けられた物か。
全然気の毒そうでは無い態度でその言葉を紡いだ後、文はネタを記事にする為、身を翻した。
◆
三人はケガをしてないか、落し物は無いか等をヤマメの張った糸の上で確かめて、地上へ降りた。
糸をほどいて降り立った所は川岸である。
岩場のそばに木々が生い茂り、鳥のさえずりと水の音が混在して聞こえる様は、渓流釣り等のイメージにぴたりであった。
「いやあ、割と楽しかったね」
「寿命が縮みましたよ」
ヤマメの楽天的な台詞に、大工は足を震わせながら抗弁した。
人の身で自由落下を体験する機会など普通では有り得ないだろうから、怖がるのも当然の事ではある。
だが、ヤマメはその言葉を聞いて、複雑そうな視線を大工に向けた後、アリスに問いかけた。
「さて、あんたの知り合いはどこにいるのかな」
「知らないわ。けど――」
人影は無いが――奇妙な闖入者に、河童が様子を見に来ている気配はある。
姿が見えないのに気配があると言うのは川底に潜んでいるか、或いは。
アリスは再び糸と人形で走査を行う。
川底には複数の気配があるが、最も気になるのは、何も無いはずの空間に存在する何かだ。
とすれば――目的の妖怪はそこにいるのだ。
風景の一部にアリスが糸を送る。
「ぴゅいっ!」
悲鳴か驚愕かわからないような声が辺りに響いた。
だが、声の主を探してもヤマメと大工の目には何も見えない。
「河童の鳴き声は『ひょん、ひょん』だって本には書いてあったけど、そうでも無いのね。以前は『ひゅい!?』だったけど」
アリスが事も無げにそう言うと、空白だった風景が歪み、人型を為した。
光学迷彩を活用して様子を見に来ていた、河童、河城にとりであった。
「ちょっ、何これ? 動けないんだけど」
「逃げられては困るから――巻いたわ」
何で、何を、いつ巻いた? と言う混乱よりも、にとりは先に文句を言った。
「なんなんだよあんたら――って、アリス、アリスじゃないか。久しぶりだねえ」
「地底の件以来かしら。わざわざ寄って来てくれたのは好都合だったわ。他の河童は?」
「隠れてるよ。『あの』文さんが風でぶっ飛ばした一団が近くに落ちてきたんだよ。関わり合いになりたくないに決まってる」
どうやら、文は河童達の間ですら有名な厄介者らしい。
アリスはその言葉に納得して静かな水面を見つめた。
普通、彼女にまっすぐ見つめられた者は、その可憐さに血迷って突飛な行動に移っても不思議ではないのだが、水底に姿を隠してまともにアリスを確認しなかった事が吉と出、河童達はなんとか平静さを保っていた。
後のにとりの話では、少数だが運悪く――否、運『良く』彼女と眼を合わせてしまった者達もおり、彼らは時折中空を見つめ、恋煩いにかかったかのようにボーッ過ごしていると言う事実が告げられた。
魔女は人を誑かすモノだし、向こうが勝手に見惚れたのだからと、アリスは我関せずを貫いている。
「で、何か用かい」
アリスは黙って大工達の方を指差した。
「なんだい、人間に――土蜘蛛!?」
「えっ、今気づくの」
「土蜘蛛め、今度と言う今度は許さないぞ!」
「お、やるか? 人見知りの河童よ」
「その口縫い付けてやる!」
火花を散らす二人の姿に、大工は慌てて仲裁に入ろうとしたが、罵りあいは突如として止んだ。
一触即発としか見えなかった両者の間に入ったのは、当然アリスの仕業であった。
しかしアリスが表情を変えず、その場から一歩も動いていない所を見て、そうだと判断できる者は少ないだろう。
「ケンカは後にしましょう」
迫力も何も無い台詞だったが、にとりとヤマメは戦慄を禁じえなかった。
何しろ、彼女達はその台詞が放たれる前に、全身が麻痺したかの様な緊縛の憂き目にあったのである。
ヤマメはここまで何度かアリスの技を見て来ていたが、それをもってしても、いつ、どうやって、自分が縛られたのかはさっぱり理解できなかったのだ。
にとりはともかく、ヤマメはその『先』も見ている。
いくら妖怪でも痛いものは痛いのだ。
ここで首や手足を失うのはゴメンとばかりに、視線を交わし、にとりに休戦を持ちかける。
にとりとしても、アリスの性格をよくわかっていない為、何をされるかわからないと言う点で考えると、是非も無い。
アリスは二人の拘束を解いてやり、大工をにとりの前に引き出した。
「あっ、これバナナですけど」
「ど、どうも」
大工はおみやげ、と言うか手付けのバナナをにとりに渡して、事情の説明をした。
それを聞いたにとりの反応はと言えば。
「いいないいな、人間っていいな」
歌うようにその台詞を口ずさみ、キラキラした眼で大工を見つめている。
さすが盟友、とばかりにバンバン肩を叩き、さらに私に任せなさいとばかりに胸を張った。
「なんとかなるの?」
アリスの疑問は素朴そのものだったが、にとりは何を言っているんだ、という表情で、
「え? じゃあ何の為に私を頼ってきたのさ」
と怪訝な顔をアリス達に向けた。
さすがにヒントだけでも見つかれば良いと言う適当な考えでやって来たとは言わない。
アリスはその辺りを誤魔化して、
「いえ、お願いするわ」
と、逃げに入った。
にとりは三人を工房に案内した。
河童の工房など、見たくても見られるような物ではないと、アリス達は珍しそうに辺りを見回した。
工房の奥には布で保護されている機械があり、その覆いを剥ぎ取った所に鎮座しているのは、機織り機であった。ただし埃だらけであり、ここ最近は使用されていない事がわかる。
にとりは埃をはたき、舞い上がったそれを吸い込んだのか、けほけほと咳き込んだ。
ここ数年――いや、数十年以上は手付かずだったらしい。
「年季が入ってるね」
長年放置されていたであろう機織り機に対するヤマメの皮肉に、にとりは、
「最近は機械いじってた方が面白かったし、仕方ないだろ。私だけじゃない。今の流行は外から流れ着いた機械の事とか、山の神様に頼まれたモノを考えて作る事なんだよ。お前みたいに、採掘と精錬ばっかり続けてられる方が変だよ。モグラか」
「土竜じゃないよ、土蜘蛛。冶金ができなくて困るのはお前さん含めた職人全体なんだから、口利き方には注意する事だね。そりゃあ、最近は精錬も地獄烏と火車に任せきりだけども」
地底には灼熱地獄跡等と言う物があり、その火力の調節は地獄烏に委ねられている。
火車が精錬を行うと言うのは、死体を炉で焼くと金属が上手く溶ける、混ざる、と言う俗信から来ている。
製鉄を行う者が死体を盗んだりする事もあったそうなので、それが火車の伝説に繋がるのだろう。
尤も、火車自体は河童と同じく伝説や説話が多岐に渡るから、それは技能のごく一部でしかないが。
二人がそんな事を話している間に、アリスは工房の入り口に視線を向けた後、そちらへ歩みを進めた。
それに気づいた大工が、アリスへ声をかけた。
「マーガトロイドさん、どちらへ?」
「ちょっと散歩に出てくるわ。蓬莱を置いていくから、準備ができたら呼んで頂戴」
アリスはそう言って、主に似た小さく美しい人形を大工に手渡した。
「ど、どうやって?」
「『彼女』に話しかけても良いし、手を握るなり引っぱたくなりして刺激を与えれば良い」
「それで、伝わるのですか」
「ええ」
素っ気無く言い残して、アリスは工房を出る。
外は相変わらず森と河と岩場があるばかりで、何も変化は無い。
ブーツのコツコツと言う乾いた足音と、川のせせらぎの音が辺りを支配する中、アリスは上流へ向かう。
しばらくすると、大きな滝が見えて来た。
天狗の警戒網のド真ん中であるが、特に異常は感じられない。文が気を利かせたのか、それとも――。
アリスが滝を見上げていると、背後から前触れも無く石の飛礫(つぶて)が飛来した。
頭を狙った弾である。直撃すれば怪我ではすまないだろう。
だがアリスは、頭を軽く横に振ってそれをかわし、ゆっくりと振り向いた。
振り向いた先に、白狼天狗が空から降り立った。
アリスが何事かを問い質す前に、その天狗は、ずらりと大振りの太刀を抜く。
見れば、肩の付け根辺りが真っ赤に染まっており、その表情は怒りを表すように牙をむき出している。
赤く染まっているのは、血の色だった。
「どなた?」
聞くまでも無く、先程アリスが腕を落とした天狗であり、それをアリスもわかってはいたが、相手の反応を探りたかったのだ。
やはりと言うか返答は無かった。
その表情と、不意打ちと言う行動から察するに――。
(意趣返し、ね。仕事熱心なのは良いけれど、上司や隊長さんの忠告は無駄だったと見える)
この天狗が、ずっと自分達を尾行している事はわかっていた。
一人にでもなれば顔を出すかと思い、散策をしてみれば案の定と言う訳であった。
アリスは素早く指を動かして人形をどこからか数体呼び出し、武器を構えさせる。
あれからまださほど時間は経っていない筈だが、もう腕がくっついた所を見ると、そこそこ力のある天狗だったらしい。
尤も、アリスの切断した腕の切り口が鋭すぎた為に、接着が容易だったと言うのもあるだろうが。
ランスを持った人形三体が天狗に踊りかかる。
天狗は人形の動きを緩慢だという風に切り払い、乱れた人形の隙間を縫ってアリス本体へ突撃をかけた。
アリスは動かない。
太刀の間合いに入り、それを振りかぶった状態でもその場を動こうとしないアリスの表情を見て、天狗の頭に浮かんだのは『罠』の文字。
アリスの顔に浮かんでいたのは微笑であった。
文と椛が罠の除去を行っていた事を思い出し、慌てて踏み止まり、後ろへ猛烈な勢いで飛び退る。
アリスの目前を注視すると、わずかにきらめく一本の線――アリスの魔糸が見えたのだ。
天狗はアリスの微笑に一瞬見惚れ、「このまま彼女に看取られて死ぬ」と言う甘い死の誘惑に誘われたが、かろうじてその思考を頭から追い出した。
その反応と動きに、アリスはわずかに感嘆の色を浮かべたが、天狗の運命はどちらでも同じであった。
自らの首に鋭い何かが食い込んでくる感触。
正面の糸を避けたはずなのに何故――。
背後の、人形であった。
一体だけ突撃させずに控えさせておいた人形が、鉄の直剣を横薙ぎに振るい、それが後退するスピードの力を借りて後ろから首に叩きつけられたのである。
何が起きたのかもわからず、しかし、天狗は最後の一矢とばかりに太刀をアリスへ投げつける。
天狗の体は後ろに退った勢いそのまま森の木に激突し、その首は天狗のスピードの凄まじさを象徴するかの如く、空の彼方へすっ飛んでいった。
アリスは、油断していた訳ではない。しかし、事が上手く運びすぎて、少々驚いてしまった事は事実だった。
天狗が最後に投げつけた太刀は、アリスを正確に狙っていた。
「危ない、マーガトロイドさん!」
それ以上に、アリスは人形の手ごたえに一瞬思考を割かれた。
預けたはずの蓬莱からの情報は無く、預けた本人がここに現れたのだ。
投げつけられた太刀をかわしきれないと悟った時、大工が現れ、アリスに飛びついて彼女を庇ったのであった。
太刀は、横に飛んでアリスを突き飛ばした大工の腿の辺りに突き刺さった。
大工は悶絶しながらその太刀を引き抜いた。どろどろした液体が噴水の様に辺りに赤い池を作っている。
切断されなかっただけマシと言えるが、別の観点で見ると、非常に運が悪い。
太刀が突き刺さった場所は大腿動脈の辺りである。太く、無防備なのに、損傷した場合は深刻なダメージを受ける血管だ。
文句無しに致命傷であり、何の処置もできなければ、あと数分保たずに彼は命を落とす。
アリスは素早く血の池を生み出している彼の傍に屈み込み、集中力を高める。
数秒ほど規則正しく呼吸を行い、他の事象は全て滅却して指のみを動かす。
すると、彼の腿から溢れ出る血潮がピタリと止まった。
その魔糸による傷の縫合を一瞬で行い、それ以上の出血を食い止めたのである。
アリスは珍しく力を抜いて、ふう、と無防備に一息ついた。
たったそれだけの作業でアリスの額にうっすらと汗が浮いている所を見るに、短時間でこの神業を行使するのが、いかに厳しい事だったかを物語っている。
もしこの場に永遠亭の天才薬師がいれば、「縫合と切除に関してならば、私より上」と冗談を飛ばすかもしれない。
「大丈夫? 意識はある? 止血だけはしたけど、応急処置よ。事が済んだら医者へ行くのを勧めるわ」
「あ――はい」
大工は出血で朦朧としながら――アリスが思っていたより、はっきりとした声で返事をした。
アリスは彼に肩を貸して立ち上がらせる。
肩を貸した瞬間、アリスは顔を歪めたが、それも一瞬の事であり、ふわりと空中に浮かぶと、ゆっくりとにとりの工房へと向かうのであった。
余談だが、天狗の首は竹林にまで飛んでおり、運良く永遠亭の者に発見された為か、そいつは単独行動を咎められはした物の、治療は早く済んだらしかった。
その天狗はこう述懐した。
「あれはもうこの世のもんじゃないっす。攻撃する時もされる時も、首を落とす瞬間も笑ってたんですよ。あの綺麗な顔で。え? お前もこの世のもんじゃないだろって? 違いますよ、妖怪としては自分らは普通でしょ。あれは例えば――博麗の巫女っているでしょう、こちら側にもあちら側にも属さない、妖怪の匂いがする人間。あんな感じです。でも、巫女とは違う。巫女は幻想郷の子であり、幻想郷そのものでもある。だけどあの魔女はもっと別の――」
◆
天狗の攻撃をアリスが受けてから、数時間が経つ。
ヤマメとにとりは、大工がアリスについて行ったのはわからなかった、と彼の怪我を見て謝罪した。
蓬莱は、どう言う訳か工房に置き去りにされていた。
生きていたから大丈夫と前置きして、アリスは、
「で、肝心のシルクの方はどう?」
と質問をした。
「織機なんて触るの久々だったからさぁ、糸の設置に手間取ったけど、布になるかもって感触はあるよ。あともうちょい時間があればコツが掴めそうだ」
「最初は、まさに蜘蛛の巣みたいな感じでクチャクチャになってたけどね」
「そっちだって糸出すの疲れたーとかってヘタレてた癖に」
「それは私の責任じゃないだろ。普通疲れるだろ」
「私は蜘蛛じゃないから知らんよ」
お互いに罵り合ってはいるものの、作業自体は一瞬たりとも途切れない。
にとりの言葉を信じ、アリスはそれを見守る事にした。
ヤマメは糸を供給しながら、にとりは慎重に、ゆっくりと、正確に、横糸を通す杼(ひ)を左右に繰りながら、機を上下に操作している。
心地良いとすら言えるほどのリズムを刻み、だが確実に布が織りあがっていく。
「おお……素晴らしい」
大工はにとりが自作したのであろう、木材で作った椅子から立ち上がって二人を賞賛した。
それを見てまたアリスは「おや?」と言う表情を作ったが、数秒ほどしてから誰にとも無く頷いて、布の完成を待った。
一時間経ち、二時間経ち、そして日も沈もうと言う時間帯になり、ようやく一丈――約3メートル程の布が織りあがった。
それは黄金に輝いており、まさに秘物と言って良い程の出来であった。
にとりとヤマメは疲弊して工房の地面に座りこんで、水分を補給している。
アリスも、さすがにそれを見てある種の感動を覚えた様だった。
黄金色の輝きを見て、なぜか魔理沙の金髪を夢想した。
誰もが、この輝きと魔理沙の輝きは、素晴らしい相乗効果を生むに違いない、と確信していた。
大工の男も言葉が無い。
「盟友、悪いけど私達じゃこの位が限界っぽい。使う体力も労力もハンパじゃないよ、これ。二度とやりたくないね」
「とんでもない」
それを聞いたにとりが大工に顔を向けて、ギョッとした様な表情で固まった。
彼は透けていた。
存在感だとかそう言う物ではなく、物理的に、である。
ヤマメとアリスはそれを黙って見ていた。
「正直、私もここまでして頂けるとは思っていませんでした。これは私の独善では無いのかと」
「そうね」
アリスが冷や水を浴びせる様な冷たい声で呟いた。
そうこうしている間に、彼の姿はもうほとんど背景と同化するほどに薄くなっている。
「それに、まだ私の仕事が残っているのだけれど」
「もう良いのです。とても満足しました。お三方とも、ご迷惑をおかけしました。河城さん、黒谷さん、ロクにお礼もできずに行く事をお許しください」
ヤマメは手をひらひら振りながら、「ん、じゃあねー」と言い、にとりは訳がわからないが彼は別れを告げているのだと判断し「気にするない、盟友」と胸を張った。
「報酬は――今あなたが決めなさい」
「申し訳ありません。霧雨のお嬢さんへの贈り物にしようと思っていましたが――それを差し上げます」
アリスが頷き、彼はそのまま夕日に溶けるようにして消えた。
それは、長いようで短い仕事が、今ここで終わった事を告げていた。
翌日、アリスはある物を持って、魔法の森の散策に出た。
森の雰囲気は相変わらず剣呑な物だったが、アリスにとっては庭も同然だ。
木々の隙間から差し込む光と、森の闇が入り混じって、その中を歩くアリスを美しく装飾した。
アリスはその魔糸で森を走査しながら、ある探し物をしていた。
糸に集中していたアリスに、昨日聞いたばかりの声がかかる。
「あやややや、アリスさん」
漆黒の羽を散らせながら降り立ったのは、勿論射命丸文である。
文は、意外だ、と言う表情をしながらアリスに話しかけた。
「あなたも気づいてましたか」
「一応、ね。場所はまだわかってないけど」
「案内しましょうか?」
「わかるの?」
「あれから椛――部下に千里眼で探させたんですよ」
「ふーん。なら、よろしく」
職権濫用だとか、野暮な事は言わなかった。アリスにとっては関係の無い事だからだ。
文の先導で歩いていくと、ある場所にたどり着く。木の陰に、何かが寄りかかっている。
「ほら、ありました」
白骨死体である。
その傍には、お供え――とは言い難いが、それらしき物が置いてある。先客か。
「これが、彼の成れの果てって訳です。ご気分は?」
「ムナクソが悪いわね」
「ちょっと、私は別に――いや、言いすぎました。謝罪します。いつ気づかれました?」
アリスは、黙ってその白骨――元はあの大工だったであろう死体を見つめた。
自宅で紅茶を出した時に、出したばかりの熱い紅茶を一気飲みした事。
天狗の襲撃を受けて肩を貸した際に、異様な冷たさだった事。
足に大怪我をしているのに、にとりの工房ではそれを意に介していなかった事。
おかしいとは思っていたが、死人だとまでは推測できなかった。
彼は、おそらく森に入るまでは生きていた。しかし、妖怪、或いは森の瘴気にあてられ、ここで力尽きたのだろう。
「幽霊ってのは普通迷わない物だとモノの本には書いてあったのだけど」
「それは、人間が勝手に思い込んだ事です。確かにどの宗教でも、幽霊の存在は認められていません。死ねばただあの世に行って然るべき場所へ移動するのみ――まあ、概ねはそうでしょう。でもね、そんなのは宗教が『生きている』人間の為に作られたものだからですよ。現実に幽霊がいて、あの世があるなら、例外だってあるって訳で」
「詳しいわね」
「幽霊が恩返しの為に妖怪を訪問。実はですね、それをいざ記事に書こうとしたらあの方が来たんですよ」
「誰?」
「閻魔様です」
アリスは内心驚いたが、見た目には少々眉を歪めただけであった。
文は続けた。
「死神っていますよね? 普通、死んだ場合は死神の案内であの世まで行く物でしょう。では、その死神が仕事をしなかった場合は」
「迷う事もある、と」
「そう言う事ですね。これは是非曲直庁の不始末だから黙っていろ、との仰せで」
「権力に屈して新聞屋が勤まるの?」
「耳が痛い話ですが、そこまでして記事にする理由もありません。特ダネってのはいつでもどこにでも転がってるもんです。あなたの方はどうなんです? この事をあの魔法使いに話すんですか?」
「いいえ」
「何故です?」
「話す必要は無いし、彼女が聞く必要も無い。余計な重荷を背負うだけよ」
「クールに見えますが、意外と優しいんですね、あなたは」
アリスはその言葉を黙殺し、白骨の傍らに持ってきた物を置いた。
「それが彼の墓標――ですか」
アリスは答える事無く振り返り、再び森の闇の中へ姿を同化させた。
優しさを厳しさに。情熱を冷静に。
その後ろ姿には、紛う事無き寂寥の陰があった。
アリスを見送った文は、その『墓標』を見つめてから一人ごちる。
「あの人も案外センチな人なんだなぁ」
そう言って、文もこの場を後にした。
尤も、その文もアリスに様々な事を伝えに来たりと、親切をしているのだが、それについては考慮していないらしい。
木の陰に日差しが差し込み、その周りにある物を鮮明に映し出す。
白骨の横には、一枚の黒い羽、黄金の糸、食べかけのキュウリ、そして――きらめく黄金のスカーフを首に巻いた、霧雨魔理沙の人形が一つ。
「お断りします」
一言で斬って捨てられた。
何故だ。確か幻想郷縁起には、人間友好度・高と記されていたはずだ、と男は落胆の表情を見せた。
気を抜くと、見惚れてしまい会話にならないであろう程の美しさを持つ金髪の少女は、そんな彼を見て嘆息すると、洋風の扉を静かに閉じた。
男は改めて入り口の扉を叩いた。このままではこんな危険な場所に臨戦態勢でやって来た意味が無くなってしまう。
博麗の巫女直筆の『大入』と記された呪(まじな)いが籠められたアミュレット、妖怪の山の神社で購入したヘビとカエルの形をしたお守り、毘沙門天の加護がある命蓮寺で手に入れた虎の姿をした人形、わざわざ病気の時を選んで竹林を案内してもらい、その際、案内人の女性に拝み倒して教えてもらった魔除けの法等。
その全てはこの魔法の森を踏破する為、ひいてはこの魔女であり人形使いでもある彼女に会う為なのであった。
それらが一瞬で無に帰すと言うのはさすがに納得が行かないのだろう。
しかし、何度扉を叩いても帰ってくるのは鉄の沈黙であった。
男は覚悟を決めたのか、主を象徴した様に、孤独に佇む家屋の前で座り込んだ。
四方に塩を撒き、一定時間ごとに「南無本尊界摩利支天、来臨影向、某を守護したまえ」と唱え、妖魔に見つからぬ様に九字の隠行印を結び、ひたすら屋敷の主の目通りを待った。
民間でも扱われる事が多い九字護身法は、並みの人間でも魔除け、厄除け等にある程度の効果を持たせ、『前』に当たる摩利支天隠形印は魔物から姿を隠す事ができる護身の術であると、竹林の案内人に講釈を受けたのである。
しかしこの瘴気が蔓延し、妖魔が跋扈する魔法の森で、生兵法の九字だけでは厳しい。
長居をすれば当然命に関わる。
しかし無常にも彼の扉は開かれる事は無く――森に、夜が降りてくる。
普通であれば、自然の音が辺りを満たしていたのであろうが、この森にあるのは先を見通せぬ闇と、木の葉や風の音すらも聞こえぬ静寂であった。
冷気とはまた違った、空気の異様な冷たさに体の震えが止まらず、空気が冷たいはずなのに汗が噴出す。
行動食として持ち込んだチョコをかじりながら、男は瘴気に満ちた森の中でも荘厳さを失わない――どこか絵本めいた魔女の家から漏れるランプの光を見つめていた。
魔女は森に住んでいる、と大抵の絵本は語り、そして彼の眼前にはそれが実際に現実感を――『幻想』郷で『現実』感とは奇妙だが――伴って存在しているのだった。
それに気を取られていた男は、森から忍び寄る『何か』にも気づく事ができなかったのである。
涎を垂らした何かは、音を立てる事も無く、しかし電光の速さで飛び掛った。
その瞬間、男の背後から重たい物が地に落ちる音が三つ。
すわ化け物か、と慌てて振り向いた男の目に映った光景は、凄惨を極めていた。
どんな種族かはわからないが、獣の様な妖怪が血の海に沈んでいる。
一つ――否、二つは頭から股間までを縦に両断された、元は一つであっただろう妖怪と、もう一つは西洋風の槍に顔面を串刺しにされ、樹木に縫い付けられた妖怪であった。
目端の利く者ならば、闇夜にきらめく一条の糸の様な物が確認できたであろう。
辺りに張り巡らされた不可視に近い魔糸の内、一本が牙を剥き、妖魔を容赦無く切断したのだ。
二つにされた妖怪は、元からそうだったとしか思えない様な滑らかな断面を見せて痙攣しており、顔面を貫いたランスの持ち主は、主の様な美しい金髪と白い肌を持った小さな人形だったのである。
件の歌にもあるが、人がその存在を認めている限り、おばけ(妖怪)は完全には死なず、またどこからか発生するものだ。
しかし、だからと言ってここまで容赦無く相手を惨殺してしまうと言うのは並の神経ではあるまい。
普通に生活していれば、まずお目にかかれないであろう光景を見て、後ずさった男の背をランプの薄暗い光と、可憐な影が覆った。
優美可憐な魔女は、男に声をかける。
妖魔を撃退せしめたのも彼女――アリス・マーガトロイドであった。
「……全く、お入りなさい」
是非も無かった。
魔女は冷厳とも言える表情を湛えていたが、それを気にする余裕は、今の彼には無かった。
◆
「自殺しに来たの?」
扉の内に迎え入れられ、紅茶を出されてから男がかけられた最初の言葉はそれだった。
重ねて、もっと良い場所を紹介しましょうか? とまで言われ、男は「願いを聞き入れられるまでは退くつもりは無かった」と抗弁したが、どう見ても彼は平均的な一般人のそれであり、いくら呪具や術を準備して来ても、森の中では一夜を明かす事も不可能だっただろう。
アリスは意図せず迷い込んでしまった者なら保護もするが、さすがに自分からやって来て勝手に危険に晒されている人間まで守ってやるのは面倒だと思っている。
男が命を拾ったのは、たまたま彼女に研究のイライラが募り、気分転換を求めたと言う点に尽きる。
要するにアリスの気紛れで助かったのだ。
冷や汗を、首にかけた手拭いでふき取りながら、男は恐縮しながらアリスに話しかけた。
「ご迷惑をおかけしまして」
「他にいくらでも迷惑をかける人間がいるから気にはしてないけど」
男は恐縮し通しだが、アリスは優雅に紅茶を飲んでいる。
何という絵になる姿だろうかと、彼はアリスの所作を見て陶然としながら、彼女が炒れたばかりの紅茶を、熱さに頓着する事無く流し込んだ。普通であれば火傷は確実である。
アリスはそれを見て怪訝な顔で尋ねた。
「で、どなた?」
「ええと、人里で鳶をしている者です」
「大工さんね。で?」
「先程もお頼みしました通り、申し訳ないのですが、あなたにお願いが――」
アリスはそれを聞きながら、指先を何やらくねくねと動かしていた。
男が何をしているのかと疑念を抱いた瞬間、彼の四肢の自由は全て奪われた。
見えない何かが彼を縛ったのだ。突如指一本すらも動かせない事態に陥った男は、恐怖を覚えアリスの方を見たが、彼女の表情や仕草からは何も読み取れない。
アリスの指が魔法の糸を操っているのであるが、それにより動かせるのは人形だけでは無い。
直接他者に向ければ、その精密さ等という物を超越した魔技を以って、様々な事に行使できる。
普段は人形を操る事にキャパシティを割いており、且つ手の内を人に余り見せないので知る者がほとんどいない技だ。
モノが糸だから視認は困難で、且つ巨大な人形も操れる様な代物だから切れ難い。
人間を拘束する事は、アリスにとって指先をわずかに動かす程度の労力で済むのだ。
「森の外までは送るから、五体満足な内にお帰りなさい」
「お、お断りしま――」
最後まで言葉を吐き出す前にアリスが少し指先を捻ると、指一本すら動かせない体を、引き千切られる様な苦痛が襲った。
男は「ぎゃあ」と悲鳴を搾り出そうとしたが、それすらも出なかった。
出るのは苦鳴とも言えぬ荒い息使いだけである。
声も出ない、と言うのはこの様な状況を言うのだろうと、彼は奇妙な納得を覚えた。
「ごめんなさい、聞こえなかったわ」
無慈悲とも取られるアリスが平然と放った声に対して、「お断りします」と彼は答えようとしたが、唇が動いたのみで、声は出なかった。
しかしその動きから内容を読み取ったのか、アリスは、
「妙に必死ね」
と言い、彼女がフッと嘆息すると、男の体は自由を取り戻した。縛っていた糸を解いたのだ。
急に動くようになった手や足を確かめ、異常が無い事を確認してから男はアリスに話しかけた。
ただし、声は震えている。
「随分気をもんでおられる様ですね」
「原因はあなたよ。頼みって命まで張る様な事なの?」
「少なくとも私の倫理観では。それで、服なのですが」
「ここはテーラーじゃない」
ぴしゃりと言い放つと、アリスはシッシッと犬猫を追い払う様な仕草で拒否をした。
ややコミカルだが、それすらもアリスの様な美姫が行うと、類を見ない美しさに見えてしまう。
しかしどこか妖艶で冷徹な印象の残る彼女の本質は、やはり魔女なのだろう。
男は部屋の中を無遠慮に見回してから言った。
「以前人形劇の際にお聞きしましたが、この人形達の衣服はあなたが作っているのでしょう。素晴らしい技術じゃあないですか」
「ああ……お客さんだったのね。必要に迫られたから作ってるだけよ。本職に頼んだ方が良いんじゃない?」
「たとえ本職でも、あなた以上の技術を持つ者など、人里には――いや、幻想郷には存在しません」
いかに相手の事を良く思っていなくとも、褒められて悪い気はしない。
わずかにアリスの表情は緩んだが、それでも研究の時間を取られるのは惜しい。
異変クラスの事態でも起きない限り、自分から世間と関わるのは人形が関わる事か、他の妖怪や人間に引っ張り出された時のみである。
人里で行っている人形劇も、彼女にとっては動作テストの様な物だ。
悪魔の紅い館に存在する、バベルの図書館の主とは方向性こそ違うが、やはり自身の真理探究が第一と言うのは、魔女にとって当然の事だった。
しかし、男の見立ては間違っている部分だけではない。
アリスが妖怪の中で屈指とも言えるほど、人との親和性が高いのも事実なのであった。
一言で言えば、彼女は『世話焼き』或いは『面倒見が良い』のである。
「それで」
「は?」
「それで誰の服を作りたいの」
「よろしいので?」
「まだ『聞くだけ』よ。散々帰らないだの何だのって言っておいて、説明できないって言うのかしら」
「滅相も無い」
仏頂面のアリスの指が、再び自分を縛ったのであろう何かを操り始めたのを見て、男は慌てて否定の言を搾り出した。
「なら話してみなさい」
男はありがとうございます! と叫んで大仰に一礼した。
アリスは苦々しい表情だったが、質問してしまった以上は仕方がない。
「では――霧雨魔理沙と言う少女をご存知でしょうか?」
「いいえ」
ぬけぬけとアリスは言ったが、男は、え? と言う表情をしている。
「しかし、博麗の巫女様に相談した限りでは、彼女と交流があり、私の希望も叶えられるのはあなたともう一人位しかいないと」
「余計な事を」
「えっ」
「それでその霧雨魔理沙が?」
「あ、はい。私は彼女に恩返しをしたいのです」
それを聞いてアリスはおかしな表情になった。
窃盗癖のある弾幕オタクに恩返しとは、面倒な事情がありそうだ、と。
それを察したのか、或いは最初から説明するつもりだったのか。男はその出来事を語りだした。
男は、特筆する事の無い幻想郷の民だった。
成人する前は慧音の寺子屋に通い、一通りの読み書きや算術ができる様になった頃、親方の下で働く事になったらしい。
幻想郷では、ある異変において博麗神社が倒壊したと言う事件がある。
ある日、慌てた様子で妖狐が里の顔役の所にやって来て、それを伝え、大工を集めて神社に来て欲しい、との依頼があったそうだ。
人間、妖怪の共通認識として、博麗神社とその巫女がこの地の存在を支えていると言う事は誰でも知っている。
一体誰が、と言う疑問を持つ余裕も無く、幻想郷の危機と泡を食った親方が男や他の大工を連れて博麗神社に向かってみれば、現場にあったのは妖怪達に修復されつつある真新しい社、境内と、傘をさした道服の美女が、蒼穹より青い頭髪の少女に、怒り心頭でネックハンギングを決めている所であった。
男たち大工がやって来たのを見て、彼女達は突然姿を消してしまったが、河童やら鬼やらが神社にとりついていたと言う事は、彼女達が神社を建て直しているのだろう。
驚いたのが男達大工である。
幻想郷では人間も妖怪も互いに一種の敬意を持ってはいるが、それでも人間が出会う妖怪は人里に来る様な理性的な、或いは童女の様な比較的意思疎通の成り易い妖怪ばかりであった。
だがこの時の博麗神社と来たら、鬼、天狗、その他有象無象が神社の修繕或いは見物に来ていたのである。
博麗の巫女も姿が見当たらない。
実の所、巫女は二度の神社倒壊のショックにより、神社の端でしばし茫然としていたのだが――それを今やって来たばかりの人間が知るはずも無い。
彼等は急いで来た道を引き返そうとした。
しかし博麗神社に通じる道と側面の森から歌や騒音、「ヒヒヒ」等と不気味な声が聞こえ、さらに神社を注視している、チェック模様をした赤ベストとスカートの美しい女性――人間友好度最悪とモノの本に記されている風見幽香が、その有象無象の中に佇んで微笑しているのを発見するにあたって、大工一同は愕然とした。
悪い事と言うのは連鎖する物であるかどうかは定かでは無いが、間の悪い事に彼らはおっとり刀で駆けつけた為、護身の為の道具を持っている者は少数だったのだ。
この状況では、もはや命運尽きたか、と諦めるより他に選択肢が浮かばなかった彼らを誰が責める事ができよう。
その時、里と神社を繋ぐ小径をまっすぐ閃光が走った。
神社の修繕にも参加せず、興味本位で寄って来た妖怪を散らしたのは、魔女が放った、たった一発のボムであった。
幽香は微動だにしなかったが、他の妖怪はその威嚇射撃でほとんど逃げ出している。
箒に乗った金髪の美しい少女が滞空しているのに、大工達はその時気がついた。
「さっさと帰らないと野次馬に食われて死ぬぜ。それと幽香は顔が怖いからどいてやってくれ」
それだけ言って、彼女は平然と妖魔達が集っている神社へ踵を返した。
あれは家出した霧雨のお嬢では無いのか、と気付く者が一人や二人はいたが、風見幽香が道をあけたのを見て、確かに戻るなら今しか無いと、慌て転げつ、脱兎の勢いで引き返したのだった。
ただ幽香のフォローをしておくならば、彼女には当然人間に危害を加える気など無く、その表情は魔理沙が声をかけた直後から怖くなったのだ、と言う所だろうか。
大体その様な事を話し終えてから、男は乾いた喉を紅茶で潤してから改めて言った。
「命を助けて頂いた事に対して、私は何もしていません、同僚もそうです。ですからせめて彼女の役に立つ贈り物を」
「私もさっきあなたを助けたわ」
「それに関しても恩返しをしなければと考えています」
「なら、およしなさい」
アリスは相変わらず冷淡に伝え、その言葉に男は戸惑った。
「私は、別に何かを期待してあなたを助けた訳ではない。自己満足の範疇に収まっているわ。たまたま見かけた人間を助けて、名前を告げないで去るなんて格好良くて素敵じゃない。誰でも一度はやってみたい役だと思うでしょう」
「しかしですね」
「それは私に限った話じゃない。あなたの話が本当で、その霧雨某と言う魔法使いが実在したとしましょう。あなたの言った様な事をしたのなら、彼女はもう善行らしき事をして満足しただろうし、あなた自身の生き死には彼女にとっては些細な事なの。あなたに他人の良い夢を覚ます権利は無い」
「どんな理由でも、私の命を助けてくれたと言う事実には変わりありません。聞けば彼女は妖怪絡みの事件があれば飛んで行き、異変があれば解決に奔走し、ボロボロになりながら尽力していると。博麗の巫女様ならばともかく、彼女は普通の人間――のはずです。あのままでは早死にする事は火を見るより明らかです。私は彼女にそんな事になって欲しくは無い。幻想郷には何が起こってもおかしくないのですから。放っておけばそれきりですが、あなたが折れれば何かが生まれるかもしれません」
アリスは彼の言に対して沈黙で返したが、何かの熱に浮かされた様な大工は引く様子を見せなかった。
痛苦を与えようとも、冷たい言葉で突き放そうとも、おそらく霧雨魔理沙への『恩返し』の為に邁進するであろう男に、アリスは、
「魔理沙の代わりに溜息をついても?」
「はあ」
と言葉を交わし、大量の息を吸って、深く深くそれを吐き出した。
彼は悪い人間では無いだろうし、正義感も持ち合わせているのだろう。だが、その意思には狂気すら感じられる。
(ドン・キホーテか)
マンチャの騎士の名を思い出し、アリスは強引に納得した。
かの人物は、騎士道精神に則り、思慮深く倫理や道徳を弁えた郷士だが、狂人であった。
騎士物語に傾倒する余り、物語と現実の境界を超え、自らの事を騎士だと信じ込んでしまったのである。
この男は、同じ境遇にある訳ではなかろうが、その狂気染みた正義感は通じる物がある。
自分が「うん」と言うまで彼は森に留まり、研究の時間を奪い続けるか、或いは森でのたれ死ぬだろう。
それが原因で家族やら友人やらに恨まれたりしたら目も当てられない。
仮令そうならなくても、森に住む人形遣いに会いに行った男が帰ってこなかった、等と噂が立ってしまえば、例のフラワーマスターの様に『危険度極高』等と本に記され、無意味に警戒され恐れられるハメになる。
そう感じたのか、アリスは渋々ではあるが彼の願いを聞き届ける事に決めた。
しかし、何よりそこまで他人の為に殉じようと言う人間を奇特に思った、と言う事をアリスは心の底に押し込めて気づかぬ振りをしている。
たとえ彼女自身が気づかなくとも、世間ではそれを慈愛あるいは慈善、優しさと呼ぶのだ。
アリスは殊更に不機嫌な表情を――それすらも可憐なのだが――強調して言葉を紡いだ。
「あなたもわかってるだろうけど、私も魔女のはしくれよ。だから契約の対価として、あなたが想像している以上の何かを要求するかもしれない」
「わかりました。どうせ拾った命ですし、一生かかってでもお支払いはさせて頂きます」
「命、魂、或いはそれに比肩するモノを頂くと言ったら?」
「その時は、それが私の運命だったと言う事でしょう」
やたらと悟りきったような事を言う大工に、アリスは、
「でも、おかしくない? 命まで捨てる覚悟があるのだったら一人でお礼なり恩返しなりをすれば良いんじゃないかしら」
大工の男は一瞬だけ我に返った様に見えたが、一人でできる事には限度があり、それでは自分が受けた恩を返すには足りない、と言うような主旨を再び長々と説明した。
それに到った後、さすがのアリスも諦めた、と言う風な表情になって、
「なら結構。お仕事の話をしましょう」
と、億劫そうに話の続きを促した。
「――おお、受けていただけるのですね」
「それで、どんな服を作れば良いのかしら。言っておくけど、私にもできる事とできない事があるわ。それで魔理沙の命を守れると言うの?」
「スパイダーシルクと言う生地をご存知でしょうか」
「スパイダー……蜘蛛の糸で作った布と言う事?」
「仰るとおりです」
「私をからかってる訳じゃ――無さそうね」
「私も弟から聞いた話なので、幻想かホラかはわかりませんが、その様な生地が存在すると、いつの頃からか噂にはなっていた様です。その丈夫さは比類無き物であると」
「蜘蛛ねえ」
「はい、何でも蜘蛛の糸は、同じ重さの鋼鉄の五倍の強度を持ち、しなやかさは『ないろん』の倍はあるそうです」
「その布ならば物凄く丈夫な服ができる、と。でも単純な物理防御だけじゃ妖怪に対抗できないと思うわ」
「では、『謂れ』を持つ服ならどうでしょう」
含みのある台詞に、アリスは小首をかしげて、どういう事? と言う意を表した。
気乗りのしない仕事だったが、その素材や服の出来自体には興味はあるらしい。
その辺りは基本が知識の集積にある魔女らしいと言える。
「新しく作られる物に歴史等あるはずも無いですが、最初は全ての物がそうだったはずです。ならば私達が、人間や妖怪に「丈夫だ」或いは「脅威だ」と思われる様な物を仕立てれば良いのではありませんか」
それを聞いてアリスは考え込む様な仕草を見せる。
実際に「民間の口承」の様な物を付加する事ができれば、対妖魔でも防御力は保証できるかもしれない。
例えば、魂魄妖夢の持つ二刀も妖怪と人間の技術力の差がどうの、と言う話ではない。
あれはあくまで『妖怪が鍛えた』と言うエピソードと事実こそが重要なのだ。
ならば特別な歴史が無くとも、『この世ならぬ物から織り上げた布で、魔女が服を作る』と言ういかにもな物を作れば、或いは。
「具体的にどうするつもりなの」
「最初からこの世のモノではあり得ない者から糸を頂くと言うのは」
「あ――なるほど。でもそれだと私はともかく、あなたは危険じゃない?」
「一応考えはあります」
「ふーん。なら後は交渉次第だと思うけど。乗ってくれるかしら」
「まつろわぬ民の変化(へんげ)とは言え、彼女も技術者のはしくれだったと聞きます。興味を示して頂けると考えています」
「どう言う考えでも結果でも、あなたが納得して動くのなら良いんじゃない。失敗したらその時は」
「その時は、そうですね、やはり――」
「まあ、人間は諦めが肝心って言うわよね」
「いえ、別の手を考えます」
めげない依頼人にアリスはさすがに一瞬表情を崩したが、すぐに持ち直し、大工はそれを意に介さず言葉を続けた。
「ええ、それで交渉の場にマーガトロイドさん、あなたにも是非来て頂きたいと」
仕事の依頼に加えて、道中を共にして欲しいと言う願いに、勘気を買うかな、と思いながら大工は切り出した。
だが今までの受け答えを聞いていたアリスには予想できた台詞らしく、空になったティーカップを――仏頂面なのは変わらないが――片付けながら、
「今後どうするにしろ、今夜はここに滞在なさい。このまま表に出たら妖怪の餌食だし、朝まで英気を養う事ね」
と言って、ランプの光を全てかき消すと、闇が支配する部屋へ溶けて消えた。
◆
翌日、大工がアリスを同伴し訪れた場所は、旧地獄跡への入り口の風穴であった。
地底では怨霊が湧いている事もあって、ただならぬ雰囲気だが、地底の妖怪も多少は外に出てきて地上と交流を持つ様になった為、そこからわずかに知れる情報で新たに稗田の者が書き上げた書籍の効果もあり、恐ろしさは多少緩和されていた。
尤も、恐ろしさその物に依然変わりは無く、辺りには当然人っ子一人見当たらず、静けさに包まれている。
特に気温が低いわけでもないのに身震いをすると、大工は不安を紛らわすようにアリスに話しかけた。
「噂では、入り口付近に住まいを設けていると」
「そうだったかしら。確かに、ここに入ってすぐに出会える様な所にいた事はあったけれども、住まいがそことは限らないわね」
「立ち入った事がおありで?」
「間接的にだけど」
魔理沙を唆して地底へ潜入させた時の話である。
事情を知らぬ者が聞いたら謎としか思えない様な返答をし、アリスは指を動かした。
風穴の入り口付近とその内部に、人形を操る為の魔糸を張り巡らせ、走査(スキャン)を行っているのだ。
傍目には突っ立っているだけにしか見えないが、その技を知れば、誰もがアリスの実力に舌を巻くだろう。
闇の中に侵入させた糸が伝えてくる手応えは――岩肌、横穴。他には何も無い。
その時、天井付近に張り巡らせた糸から、岩肌とは違う手応えを感じた。
そこは中空であり、本来空気しか無い場所だ。糸の手応えから推測するに、形は――桶である。
音も無くアリスが後方へ飛び、そこに桶とは思えない重い音を立ててそれが落ちてきた。
足を止めていたら、確実に脳天に直撃していただろう。普通の人間ならば即死は免れない。
アリスは後退と同時に、桶に人形を放り投げていた。
そして閃光と、爆音。
大工には、衝撃で闇の中へ吹っ飛んでいく桶が見えたが、それ以外に何が起きたのかはよくわからず、目を白黒させるばかりであった。
ただ、至近距離で爆発を受けても破壊されない様な桶となると、この世の物ではあるまい。
「今のは何です」
「さて」
どうやらアリスは反射的に反撃を試みたらしいが、出会い頭に即、弾幕勝負の幻想郷ではよくある事だ。
二人はそれだけ言葉を交わして、再び風穴の奥のにわだかまる闇を注視し続けた。
アリスの指は忙しなく動き続けている。
やがて走査が終了したのか、アリスは風穴の入り口から外へ後戻りし、大工もそれに倣った。
「何かわかりましたか」
「巣に引っかかったわ」
こちらの糸が、あちらの糸に触れたのだ。
おそらく、糸の主は、それに気づいてこちらにやって来るだろう、とアリスは言っているのである。
程なくして、金髪に黒いリボン、茶系の服に身を包んだ妖怪が闇の中から現れた。
その表情は見るからに不機嫌そうであった。
「どなた?」
声からも機嫌の悪さが滲み出ている。
目をこすりこすり、億劫そうに歩いてきた所を見ると、睡眠中だったのだろう。
「起こしてしまったかしら」
「巣を綺麗にブッた斬ったのはあんた? と言うかさっきの音は何? やかましいわ寝床を壊されるわで、飛び起きちゃったよ」
「それはそれは」
悪びれる素振りも見せずに感想(?)だけ述べたアリスに、その妖怪は怒りを露にした。
彼女が抑えていた『何か』を開放すると、アリスと大工に怖気が走り、頭痛を併発させ、喉には違和感を、体には倦怠感を生じさせた。
妖怪が開放したのは瘴気と病原菌であった。
二つがミックスされた物が空間に満たされ、それを身に受けた者はじわじわと弱って行き、最後には死ぬ。
瘴気には慣れているアリスですらそう思わされる様な危険なものであった。
「誰だか知らないけど、気持ちよく寝てるのを叩き起こして謝罪も無しじゃあ仕方ない。死んだとしても、すぐ地獄に行けるよ。ここから歩いて五秒だ」
妖怪がそこまで言った時に、アリスがやや青くなった顔で何事かを呟いた。
元々白い肌がさらに青ざめており、端正な顔のつくりも相まって本物の人形の様になってしまっているが、その境地で何を言ったものか。
だが、それを聞いた途端に妖怪は激しく動揺し、瘴気が乱れた。
「……なんだって?」
ヤマメの問いに、アリスはゆっくりと、
「博麗霊夢」
と口にした。
妖怪退治のスペシャリストであり、幻想郷の申し子とも言うべき人間の名である。
スキマ妖怪が作り出した幻想郷の象徴であり、幻想郷その物だ。
名前だけでも効果は抜群であった。
その名を連呼するだけで弱い妖怪なら追い払えるかもしれない。
彼女に否定されると言う事は、幻想郷に否定されると言う事に等しい。
まして、人間がいなければ存在すらできない妖怪ならその末路は――。
「あんた、巫女の友達?」
「知人、ね。私はアリス・マーガトロイド。魔女よ。黒谷ヤマメ……だっけ?」
妖怪は肩を落として病原菌と瘴気をかき消すと、アリスに用件を問い質した。
「土蜘蛛で黒谷ってんなら私の事だね。それで、その紅白の知り合いの魔女が何の用だい」
「ちょっとあなたにお願いがあってね」
「それでわざわざこんな所まで来たって? 冗談はよし子さん」
「八雲ゆか――」
アリスがそれを言い切る前に、ヤマメは慌てて人差し指を口に当てて、それ以上言うな、との意を表した。
隙間妖怪は神出鬼没。どこから覗いているかわからない、巫女との関係が深い妖怪だ。
地底に突撃して来た結界コンビは、それ程までのトラウマを彼女に残したと言うのだろうか。
ヤマメは恐る恐ると言った様子で辺りを見回してから、何も起こらぬ事を確認して口を開いた。
「わかった、わかったよ。とんでもない知り合いが多いな。でも他人の威を借りてってのは感心しないね」
「弱い立場だから」
ぬけぬけと言うアリスに、ヤマメは、
「バケモンどもが」
と毒づいた。
それは霊夢と紫だけでは無く、アリスの事も多分に含まれていた。
文字通りバケモノ並の実力を持っているだろうに、と言う皮肉か。
自分の巣まで糸を伸ばしてきて、しかもその巣は『ついで』とでも言わんばかりに切断されたのである。
糸の扱いに長けたヤマメの糸で作られた巣を、事も無げに糸で両断したのだ。
先ほど瘴気のフィールドを展開した時にも動揺した様子は殆ど見られなかった。
並の妖怪にできるマネではないのはわかっていたが、『あの』巫女やスキマ妖怪を、平然と話のダシに使う所から見ても、ただの魔女であるはずが無いのだ。
「用があるのはこっちの人間だけど」
その魔女は、静かに横に退いて、後ろの人間をヤマメの前に通した。
怪訝そうにその顔を見つめるヤマメに、大工は恐る恐る、と言った様子で話を始めた。
「土蜘蛛の黒谷ヤマメさんですね。私は里で鳶を営んでいる者です。突然の訪問をお詫びします。折り入ってお話があるのですが」
「何だ、同業か。助っ人かえ?」
たまに地底から這い出て建築やらの手伝いをする、と例の本に書かれてしまっているので、何となくヤマメは納得を覚えたが、大工の用件は別にある。
「いえ、あの」
「え? じゃあ私を嫁にもらいに来たとか? いやー、モテる女は辛い」
「ははは」
大工は引きつった顔で乾いた笑いを漏らした。
相手は、危険度が高く友好度は低い、と記されていた地底の妖怪である。
地底の妖怪は殆どが危険度、中・高だ。だとすれば、伝聞と本でしか情報を得られない人間が緊張をするのも無理からぬ事であった。
ただ、幻想郷縁起や求問口授は、事実をそのまま記述してある事以外は、阿求の私見と偏見が多量に入り混じっているので、正確な情報とは言い難い、と言う事を大工は――いや、多くの人間は知らない。
そして、その方が都合が良いと言う事で妖怪側は承知している。
正体や性質などは、情報が錯綜するくらいで良いのだ。
あれもこれも解明されて丸裸にされてしまっては、もはや妖怪として存在できなくなるだろう。
科学の隆盛で妖怪が死滅したのと同じ理屈である。
そう言う訳だから、実際に妖怪と出会って、大工の様に困惑を覚える者も多少はいる。
しかし目の前の土蜘蛛は、アリスにしてやられたと言うのに、殺気や怒気を微塵も感じさせない。
怒っていないのだ。その上、アリスもヤマメの接近を許しているし、ヤマメも平気な顔でアリスに歩み寄った。
その間合いはお互いに必殺の距離であるにも関わらず、である。
アリスは、ヤマメを安全だと判断したのだ。
大工の感想は「思っていたよりも人懐っこそうだな」と言う物である。
尤も、先ほどは殺されかけているのだが、話が通じる、通じないとはまた別の話だ。
「で、お話ってなんだい」
大工は緊張した面持ちでアリスに視線を送ったが、アリスは冷たい目でヤマメを見つめている。
ヤマメに視線を戻し、台詞を噛まぬ様に一息吐いてから、大工はアリスにしたのと同じ話を、簡潔にヤマメに話し始めた。
それを聞き終えると、ヤマメは大仰にうんうんと頷いて、
「たった一夜の宿の恩を――じゃない一度、それも気紛れで命を救われただけだろうに、命を懸けてまで恩返しがしたいとは、中々肝が据わってるねえ」
と感想を漏らした。
気づけば、大工も雄弁になりつつある。ヤマメに気を許しつつあるのだ。他の妖怪ではこうは行かないだろう。
初対面でお友達オーラを、威圧感を感じさせずに表せるのは、黒谷ヤマメの天稟があってこその物であった。
「お褒めに預かり光栄です。で、黒谷さん、ここからが本題なのですが」
「うんうん、なに?」
「あなたの――出した物を私に譲っていただきたい」
聞き様によっては爆弾発言だが、ヤマメは楽しそうに話を聞いていた。
アリスは、膝が落ちようとする瞬間に踏ん張るので精一杯だった。
頼み方を考えろ。言葉足らずにも限度がある、とアリスの眼はそう語っている。
「ヨダレとかおしっことか?」
「え、いやいやいやいや! そう言う話ではないのです」
己のミスを悟った大工は慌てて言葉を訂正した。
相手が相手なら、ここで八つ裂きにされていてもおかしくない台詞だったが、話しているのがヤマメで運が良かったと男はひそかに感謝した。
「あなたの糸をですね、提供して欲しいのです」
「ほー、それで――なんだっけ。『酸っぱい苦しい』を作るって?」
「スパイダーシルク」
ヤマメの苦しいボケにアリスはきっちりツッコミを入れた。
意外にもアリスは、陽気な土蜘蛛を気に入ったのかもしれない。
「なるほど、蜘蛛の糸で布をねぇ」
「仰るとおりで」
「そんなんで良いならいくらでもあげるけどさ、それをやるのは誰なの? 幻想郷に今まで存在しなかったモノを織り上げるって言うんだ。さすがに興味あるね」
「それは勿論、そこにおられるマーガトロイドさんが――」
「えっ」
「えっ」
アリスの困惑した声を大工は初めて聞いた気がした。
その声で、大工も二度目のミスを悟ったようだった。
「ちょっと」
「はい、すみません。先入観と言うのはかくも恐ろしいものだと――」
「その通りね。裁縫までならともかく、紡織は本当に門外漢よ」
「ここまで来て振り出しとは……」
「諦めたら?」
アリスが口にしたのは端的で辛辣極まる言葉だったが、この程度で諦めるようならば、最初に目的を設定した時点で「ムリだな」と考える。
事実、アリスも大工がこれで魔理沙への『恩返し』を諦める等とは微塵も考えていない。
ここまでは全て彼の希望通りに話が進みすぎていたので、少しからかってみた程度の悪戯心だ。
が、次に打つ手が見当もつかない状況も事実であった。
紡織に精通していそうな者など知り合いにはおらず、かと言って誰かに尋ねるにしても、殆ど興味と義務感のみで動いたこの案件で、アリスは余分な借りを他人に作りたくは無かった。
「……」
「……」
「……」
沈黙の応酬である。空気の重い事と言ったら無い。
二人が黙りこんでしまったのを見かねたか、或いはその空気に耐え切れなくなったか、ヤマメが口を開く。
「そう言えば、聖徳王が幻想郷に出たんだってね。部下は元気かな?」
何でもない話題と思われるが、そうでは無かった。
普通なら、いや、今現在の豊聡耳神子を知っている者なら、『物部布都』を連想するだろう。
だが違う。これはヒントなのだ。
幻想郷の人間や妖怪の特徴に、言いたい事をはぐらかして伝えたり、本題と迂遠な話を聞かせ、実はそれが真実に近い等々、回りくどい表現が一般に浸透している、と言うのがある。
これは貴人の言葉遊びに近い文化が浸透しているのだろう。
中にはそう言った言葉遊びとは無縁且つ言いたい事を伝えられなかったりする――氷精や地獄烏の事だが――そう言った知識が文化レベルに満たない様な者達もいるが、彼女らはただ知識が足りていなかったり、単純であったり物忘れが激しかったりするだけで、頭が悪い訳ではないのだ。
そんな理由で、ヤマメのヒントは判り辛い事この上ない。
歴史や知識の集積を行っていないと俗人には理解できない様なヒントを出したのは、アリスにしてやられた事に対するせめてもの意趣返しだろうか。
だが、アリスも伊達に魔女等をやっている訳ではない。
そもそも魔法も知識と技術と経験の集積だ。白魔術と言う『技術』が科学的に研究され、医師が生まれたように。
「なるほど。秦氏」
「へぇ、知ってんだ?」
「まあね。知り合いからその聖徳王の話を聞いてから、ちょっと調べてみたのよ」
「魔女ってのは皆あんたみたいなのばっかりなのかな」
「そんな事も無いけどね。弾幕一辺倒の魔女もいるし」
「あの、『はたし』とは?」
二人の会話をまるで理解できない大工は、置いてけ堀は勘弁してくれと言った風情で疑問を問いかけた。
ヤマメは面倒そうな表情を隠そうともしなかったが、アリスは性格か、それともただ衒学が好きなのか、彼の疑問についての話を広げ始めた。
「聖徳王は知ってる?」
「はぁ、聖徳太子さまですね。最近復活したとか何とか」
「彼――いや、彼女だったわね。生前の彼女の側近には、『秦河勝(はたのかわかつ)』と言う人物がいたのね。河勝は渡来人であり、秦氏の長の様な地位にいたと言う。物部守屋討伐の際にも、その姿があるとか無いとか」
あるのか無いのかはっきりしろ、とヤマメはツッコミを入れる所だったが、話を拗らせても面倒なのでそこは堪える事にした。
アリスの説明を聞いた大工は質問を返す。
「はぁ、で、その秦氏が一体どうしたのですか」
「そこの蜘蛛女が紡織についてのヒントを――」
「こら」
アリスの『蜘蛛女』呼ばわりに、ヤマメは露骨にイヤそうな顔で抗議――事実ではあるのだが――したが、本人はどこ吹く風で説明を続けた。
「秦氏の秦は、機織(はたおり)の秦でもあるのよ。紡織について一過言あってもおかしくない」
「そ、それでは聖徳太子さまの所に行けば――」
「早とちりしない。河勝はどうやら黄泉返りのお供としては選ばれなかったみたいね。今彼女の側にいるのは、物部のナントカって奴と蘇我のナントカって奴に胡散臭い邪仙だけらしいわ」
「では、何故その秦氏が今の状況に対するヒントだと」
「織姫っているじゃない?」
「はい、彦星と天の川を挟んで機織を続けていると」
「そう、機織には川もそうだし、水辺の存在がついてくる。水際に機織棚を設け、糸を引き布を織るって文化があったくらいだものね。秦氏も例外では無く、彼らは水の民だったと言う説がある」
「つまり……どういう事です?」
「わからない? 水の民と言えば――」
「――あ!」
「そう、河童よ」
「しかし、河童は機械いじりが趣味だと私は認識していたのですが――紡織もやるのですか?」
「河童って言うのはすっごく曖昧というか大雑把な存在でね、古今東西あらゆる水神や水怪の最大公約数として習合された様なフシがある。『ひょうすべ』やら、特定の水神を信仰する一族やら、様々な技術を持った水の民やら何やらも、全部ひっくるめて河童の一部として扱われてる。河童は大工であり、紡織職人であり、水神を祀る巫女であり、未知の技術を有する変態集団って事になるのね。相撲が強いって言うのも、相撲の祖である野見宿禰が、水神を祀る――或いは使役する一族だった『かもしれない』所から来ている。大本は安部晴明の式神って話もあるわね」
大工は関心した。
人形以外の事には興味が無いのかと思っていたが、さすがに魔女と言うだけあって、物知りなのだ。
「祖先が多くの子を持つ、と言う事ではなく――多くの祖先が一つの子に収斂したと?」
「理解が早くて結構。まあ難しく考えなくても良いわ。とりあえず、上手く行けば河童から突破口が掴めるかも、くらいに考えておきなさい。この辺の話は遡り過ぎると、人間どころか神代の時代まで行くからキリが無い。ごちゃごちゃ過ぎて訳のわからない妖怪だわ。私の知り合いなら、もっと詳しく知ってるかもしれないけど」
情報を仕入れる為に出向いた図書館と寺子屋を営む者の事である。
知識や知恵を交換する所で、それ程ふさわしい場所と人選は他に無いだろう。
「で、河童ならば糸口が見つかるかもしれないと」
「糸口どころか解決するかもね、希望的観測ではあるけど。でも、仮にできたとしても面倒な話ね」
河童の住まいは玄武の沢辺りに固まっている。
そして玄武の沢は、妖怪の山のテリトリーでもあるのだ。
確かにアリスの言う通り、面倒この上無かった。
面倒で済めば良いが、妖怪の山は縄張り意識の強い妖怪が多数住み着いており、幻想郷でも珍しい官僚方式の縦社会を形成している。
上下関係は勿論、組織の筋立ても明確で、侵入者に対しては常に天狗の一部が眼を光らせており、外部の者が立ち入るのは例え妖怪でも容易では無い。
最近では守矢神社の台頭により山の態度も少々軟化した様だが、一部の妖怪――特に白狼天狗などは未だ彼らに対して敵意を持っている者も少なくない。
かと言って上司や、山の顔とも言える神にかけあって市民権を得ている神社の神々に表立って逆らう訳もいかず、となれば後はその感情を仕事にぶつけるのみだ。
結果として、妖怪の山は警備体制のみが熾烈になりつつある。
いかにアリスが稀代の魔女だとしても、山のような数の天狗の攻撃に晒されたら、逃走ならともかく突破は難しいだろう。
「あんた、色々おっかない知り合いがいるみたいだけどさ。河童にも知り合いとかいないの?」
「顔見知り程度なら、ね。でも『友達の友達』が自分にとっても友達とは限らないじゃない」
「ははっ、確かにそうだね。よく言われるよ」
ヤマメは親友である――と本人は思っている――橋姫を思い浮かべ、苦笑した。
「でも他にアテも無いんでしょ?」
「それは、まぁ」
「私も付き合ってあげようか?」
「何を企んでるのかしらね」
「托卵はカッコウのやる事だよ。時間なら売るほどあるし、たまには外の空気も吸わないとね。それにどっちにしろ私がいないと糸は提供できないよ」
暗に地底からは殆ど外に出ない、或いは出られない、と言うヤマメの台詞を聞いてアリスは、
「いくら?」
とだけ返答した。
アリスの反応を見て、ヤマメは目をぱちくりとさせてから、あははと笑いを漏らして言った。
「冗談も言えるんだね、あんた。今なら大安売りさ」
冗談ではなく、本気に近い印象だと大工は感じたが、良い方向に解釈したのなら黙っていた方がいいだろうと口を噤んだ。賢明であった。
ヤマメは最後まで与り知らぬ事ではあったし実現もしなかったのだが、アリスはこの時、いかにして『ヤマメを生贄にし、山の警戒を出し抜くか』と言う非道な策を巡らせていたのである。
「手伝ってくれるならそれに越した事は無いわ」
と言って、アリスはヤマメの同行を求めた。
弾避けは多いに越した事は無い。ただでさえ、今回は『普通の人間である魔法使い』ではなく、本当に普通の人間がいるのだ。
妖怪の中では穏健派に属するアリスだったが、その辺はシビアであった。
「一応聞いておくけど、目的は何?」
「シャバの空気ってのは中々に美味いもんなのさ」
「外に出ると言うだけならもう約定は意味を為してないわ」
「仰るとおり。私も最近ちょこっとだけど、向日葵を見に行ったり、寺詣でもしたし。でも私らが嫌われ者である事は間違い無いし、そこは履き違えちゃいけない。だからモグラみたいに地下で暮らすってのは自衛もあるし、これ以上嫌われないようにって意味もある。だけど、やっぱり空と太陽ってのは良いもんだ。そう思わないかな」
「意外に繊細ね」
単純な感想だったが、アリスが『意外に』と言う部分を強調した為、ヤマメはその台詞を皮肉と受け取ったらしく、
「ちぇっ、傷つくなぁ」
と言ってから歩き出した。
言葉はどうあれ、本当について来てくれるらしいと言う事を汲み取って、アリスと大工もそれに倣った。
人形師、或いは土建屋。期せずして集まった職人の一行が向かう先は、妖怪の山、玄武の沢である。
◆
守矢神社へ向かう山道を横に外れた辺りで、当然天狗から正規のルートに戻るよう咎められた。
事情をつまびらかにすれば了承を得られるかもしれない、と淡い期待を持ちつつアリス達は天狗に事の説明をしたが、妖怪の山は未だ外の世界にもはびこっている縦社会である。
数名の部下を引き連れ、大ぶりの太刀と、紅葉のワンポイントでペイントされた盾を背負った白狼天狗もその例外ではなく、玄武の沢に行きたいという旨を伝えるなり、断りを入れられた。
「博麗の巫女と守矢の面々だけ例外だって言うのも特別なんですから、一般の人妖を勝手に散策させるって言うのは規定違反ですよ」
いかにも仕事の虫である、と言う感じの言葉だった。
「今回だけ、そのルールを抹消してもらえない?」
「困ります」
アリスの操る上海人形が、名刺を交換するサラリーマンの様な厳かな仕草で一枚のカードを天狗に差し出した。
「こちらでも良いけれど」
(『また』スペルカードか……くそっ)
普通に押し通れば、山を巻き込んだ血戦になってもおかしくないが、命名決闘法を盾にすれば、後はどうにでも言い訳はできる。
隊長格らしき白狼天狗は歯噛みした。それを出されたら、いかに山に風紀があろうと、従わねばならない。
山がどうのと言う話では無く、幻想郷を上手く立ち行かせる為、全てに優先するルールだからだ。
以前守矢の神々が山に来たばかりの時に突っ込んで来た巫女と魔法使いもそうだった。
自分がスペルカードで立会いをする機会など巡ってこないだろうと考えていたこの隊長は、スペルカードを2枚ほどしか考案していない為、どちらかと言うとルール無用の死合の方が得手であった。
問答無用で襲い掛かって来ないだけマシだったと言えるが、このままではどのみち強行突破をするハメになるかな、と考えアリスは嘆息した。
その予想通りかどうかは知らないが、隊長の背後に控えている別の白狼天狗が太刀を抜きながら恫喝を行う。
「侵犯を犯した相手に正々堂々決闘なんかしてやる必要は無いですよ、隊長」
「よせ」
「安心しろ、命だけは取らないでおいてやるよ。腕の一、二本は覚悟してもらうがね」
が、太刀を構えたその瞬間、天狗の腕は付け根から音も無く切断され、その天狗は自分の落ちた腕を呆然と見詰めた後に悲鳴をあげた。
他の天狗は先の恫喝の内容が、そっくりそのまま仲間の身に降りかかった事を理解し、背筋を凍らせた。
しかし、何よりも恐ろしかったのは、アリスの表情であった。
戸惑い、迷いは勿論、殺意や闘志すら感じさせず――本当に感じていないのかもしれない――に、一切の手心を加えずに問答無用で相手の腕を切断した。
アリスの美麗な顔からは想像もつかない冷酷さ、いや、無感動であった事が、天狗達にとって最も恐ろしかった。
つまり、彼女は今、腕を切り落とした天狗を、その程度にしか思っていないと言う事だ。人間が虫の駆除や生死に頓着しない様に。
彼女は必要、或いは邪魔者とあらば、友人や親ですら、何の感慨も無しにこんな目に合わせるのでは無いかと言う程の躊躇の無さ。
それが天狗達を何よりも恐怖せしめた物であった。
隊長らしき白狼天狗は、切り落としたのであろうアリス達に対する咎めを行わず、部下を叱責する。
「誰が抜けと言った!」
隊長はアリス達の実力がわかっていたからこそ、密入山を口頭で注意をするに留まっているのである。
慌てて腕を拾って応急処置を施す部下達を横目で眺めて、隊長は、
「誰にでも噛み付く狂犬は長生きできないって何度言わせれば、全く……あのですね、おとなしく山道に戻っていただければ、今の狼藉は無かった事にして差し上げますが」
と告げた。
さすがに異変でも何でもない平時に、妖怪の山で騒ぎを起こしたとなれば、逆にこちらが討伐されてもおかしくない。
下手をすれば幻想郷の平穏を維持する為と、博麗の巫女や、最近妖怪退治を始めたと言う守矢の風祝が乱入する可能性すらある。
最悪なのは天狗、赤と緑の巫女、並びに保護者(?)のスキマ妖怪と守矢の神、その全てに狙われる事だ。それだけは何としても避けなければならない。
やはり土蜘蛛を利用した生贄作戦を発動させるべきかと、辺りを珍しそうに見回しているヤマメに冷たい視線を向けたアリスが無慈悲な考えに到った時、空から今度は鴉天狗が舞い降りてきた。
隊長格の白狼天狗――犬走椛は大袈裟に頭を抱えた。
「おや? 山道から外れた所に魔法使いがいると聞いてやってくれば――『普通の』魔法使いでは無く、『普通の魔法使い』がいるわね」
ほとんど同じ言葉を話しているに等しいが、天狗の中では『普通の人間である魔法使い』と『種族として普通の魔法使い』を分けたつもりらしい。
大工にも見覚えがある。人里や秘境にも新聞を配っていると言う、珍しい天狗だ。
記事を妖怪の山や天狗社会の話のみに絞らず、幻想郷のあちこちの事象を書く天狗は二名ほどいるが、一人は片方のダブルスポイラーとして、造りを新たに客層や取材方法を改めた新興の新聞であり、以前から人里に現れていた新聞屋の天狗と言うのは主に彼女を指す。
即ち天狗社会の麒麟児、そして異端児である射命丸文であった。
普段なら部下の報告を受けてから動く文が、何故やって来たのか?
「文さん、仕事を抜けちゃったらまずいですよ。何しに来たんです」
椛の言い方は、敬語とは裏腹に「邪魔だからすっこんでろ」と言ったニュアンスであった。
「まぁ、細かい事は言いっこ無し。それと、ここから先は私が受け持つから戻れ」
「ふざけるな」
あくまで邪魔者扱いの文だったが、彼女が急に真面目な顔で、
「聞こえなかったの? 犬走椛、所定の位置に戻りなさい。『誰にでも噛み付く狂犬は長生きできない』。良い言葉よね」
と言うと、椛は言葉に詰まり、数秒ほど睨み合った後、部下を引き連れ蒼穹へ吸い込まれるようにして消えた。
部下は負傷するわ、上司に追い返されるわでロクな事が無い。
腕を落とされた天狗はアリスを睨み付けていたが、この場に留まっていても不毛だと悟ったのか、しばらくして悔しそうに飛び去った。
大工とヤマメは『椛』と呼ばれた天狗に、ささやかな同情の視線を送った。
文はそれを見届けてから、
「最近の若い子は相手の実力もわからない様なのが多くて困るわ」
とアリス達に同意を求めた。
アリス達は憮然とするばかりであったが、最後の言葉には頷いた。
「何故追い返したの?」
「いや、別に。ただ魔法使いって聞いてたから霧雨某かと思ったのよねぇ。まさか人形使いの方だったとは」
「がっかりさせて申し訳無いわね。……で、どうするの? やる?」
アリスは、自分達と事を構えるつもりか、と聞いているのだ。
白狼天狗だけならアリス一人でなんとでもなっただろう。
だが、この天狗はそこらの天狗とは訳が違う。彼女は実力的にも、鬼に追随する様な傑物なのだ。
それなのにわざわざケンカを売るアリスに、ヤマメは自身の能力と関係無い頭痛を発症したが、アリスの指が細かく動いているのを見て、なるほど、と思い直した。
しかし、文の返答は拍子抜けする様なものであった。
「やらない」
アリスは眉をひそめ、ヤマメは大袈裟にずっこけてから、射命丸に問いかけた。
「それはそれで楽だから良いけどさぁ。天狗のお姉さん、お山の風紀みたいなのはどうしたの?」
「勿論わかってるわよ」
「わかってないじゃん。『知ってる』だけだよそれ」
あくまで戦わない、と言う事を強調する文にツッコミを入れたのはヤマメだったが、アリスが文から受け取った印象は違った。
彼女は、自分達の仕掛けたモノに気づいているのだ、と。
それを立証するように、文は辺りを見回してからアリスに問いかけた。
「その辺にあるんでしょ? 糸と、人形。ご丁寧に私の機動力を削ぐための位置に設置してある。迂闊に飛べば頭上の糸に引っかかってバッサリ。正面から行けばその糸が降って動きを封じられた所に人形が来て、これも串刺し。焼き鳥は勘弁ね」
アリスは密かに舌打ちした。気づかれない様に人形を横手と背後に控えさせ、ヤマメは頭上と木立の隙間に糸を張っていたのである。
「ふうん。罠があるから戦わないと、そう言う事?」
「当たり前じゃない。特にこの手をケガでもしたら、ペンが握れなくなってしまう」
「天狗としてはそれで良いのかしら」
「あんまり良くないわ。だから戦った、って言う体(てい)は欲しいかなぁ。部下も怒ってた事だし」
「じゃあ、あのマジメそうな子に任せて高見の見物で良かったんじゃない」
「霧雨某なら匿ってやろうと思って」
またしても霧雨魔理沙であった。
どこに行っても彼女の名前と、その魔理沙とわずかなりとも縁を持った者が現れる。
「実は魔理沙って凄い魔法使いだったのかしら」
「うん? まぁ、魔法使いとしては並かそれ以下だけど。我々妖怪と並ぶ程に容姿端麗で弾幕の第一人者。普通の人間のクセに普通じゃない事は保証するわ。ネタとしては申し分無い」
ヤマメは「えらい評価だね」と感心しているが、あれはただ無謀なだけである、とアリスは分析していた。
怖いもの知らずとは正に彼女の事を指すのだろう。
異界、そして『そちら側』に棲むモノ達、安易に立ち入って良い物ではない。
人は荒ぶるモノ達から身を守る為に、それが仇為さぬよう祈り、崇めて来たのだ。
スキマ妖怪は境界を操る――なるほどわかりやすい。
古来より、人の住む領域より離れた地、村や里より外は正しく別の世界であり、村と外の間には明確な境界があったのだが、現代では村境や国境は形式として存在するのみであり、それを再び蘇らせたのが幻想郷と言う訳だ。
東風谷早苗などは、常識に囚われてはいけない、と自らに戒めを科し、懸命に『異界』に――彼女の常識は外の常識であるから、その常識に囚われない、と言うのは的外れと言うか当然でもあるが――順応しようとしている。
外界での構築して来た常識や己の存在は死に、異界で新たなルールや常識を構築し生を得る。
そう言う意味では東風谷早苗は、異界で生を得る為、諏訪の神に捧げられて現世で死んだ生贄なのだ。
だが、霧雨魔理沙にそれは無い。
異界で自分のスタイルを崩さず、人間としての自分のルールで立ち回る霧雨魔理沙。
自分の住んでいる領域を自分の国、それより外を外国と考えるとわかりやすい。
本来、別の世界で活動したいならば自分を殺し、そちらの世界のルールに従うか、或いはそちら側の人間になるべきなのだ。自分の身を守る為である。
それができないのならば、そこにいる大工がアリスに依頼した様に、案内人を立てるのが賢明だ。
だが、彼女はそれをしない。
その辺は何者にも縛られない紅白の巫女に近いものがある。
並の神経や努力で到達できる物では無い、と言う事は認めるが、アリスには納得し難い事であった。
文は、思考の海に沈んだアリスに訝しげな視線を向け、団扇をひらひらさせながら言った。
「とりあえず人形を退かせてくれない?」
「お断り」
「困るなぁ。最近、魔法使いをかばう事に対して、上から叱責を受けたばかりで」
「私は初犯だから見逃してくれると助かるわね」
「見逃すのは良いけど、おとなしく下山してもらえる?」
「それもお断り」
アリスは相手が軽口を叩いている間も、天狗の動向に注意を払っていた。
その表情は氷の如く冷たく、鉄の如く変化しない。
大げさに表情を変えながら話を進める文とは対照的であった。
「あやや、怖い顔はよした方が良い。美人は笑顔が肝要なんだし」
ほらこの通り、と言って文はにっこりと笑ったが、アリスはそれにも取り合わない。
「お互い様でしょう。心理学では、本心ってのは顔の左半分に現れるって言うのよね」
「突然ね――それが何か?」
「あなた、『左眼』が全然笑ってない。取材の時も。そして今も」
「……」
「大方、さっき団扇を扇いだ時の『風』で、お仲間に合図か何かを送ったんじゃない? さっきのマジメそうな天狗辺りが土蜘蛛の糸を斬ってるとか」
(何だこいつ……)
その通りであった。
わざわざ仲間割れの瞬間を相手に見せてまで白狼天狗を一度この場から撤退させ、アリス達から気づかれぬ様に『土蜘蛛の網を排除しろ』と言う合図の『風』を起こし、然る後に取り押さえると言う手はずだった……のだが。
(もう冷静だとかそういう次元じゃないわね、この魔法使い)
文も柔軟で冷静な方だが、この場合は相手が悪かった。
アリスは射命丸に増して冷静だった。それすらも通り越して冷徹、いや、冷『鉄』だったかもしれない。
文字通り鉄の様な意志と、氷山の様に冷たい瞳で文を観察していたのである。
文は、あっさりと考えを改めた。
敵対するのは得策じゃないか――利に聡い文がそう考えるのも仕方無いだろう。
もちろん、射命丸が実力を発揮すれば制圧も可能だ。
だが今は力こそ全ての時代では無いのだ。弱肉強食には違いないが、鬼が君臨していた時よりも現在はマシになっている。
何より、彼女の天狗としてのプライドは、格下の魔法使い――と本人は思っている――如きにそこまでするのは本位では無いと告げている。
尤も、アリスも実力は最後まで隠しておく性格であり、もしそんな必要があったとしても、その様な状況に陥る前に撤退か方針の転換を選ぶであろう。
(体面はどうしようかな。無条件でってのはさすがに――)
「あの」
話しかけたのは大工であった。
文の方はと言えば、いるのはわかっていただろうに、まるで今初めて存在に気づいたみたいな返答だった。
「ああ、はいはい。で、どなた?」
余計な事を喋って優位を崩したくないと考えたアリスが代わりに答え、文はまたこいつか、と言う表情を作った。
口八丁は文の十八番だが、今回は勝手が違うようであった。
「取引先よ」
「あなたがわざわざ妖怪の山に来た理由が彼って事ね、成る程。それで?」
「どうせ『風』を通じて聞いてたんでしょ。ヘッタクソな芝居はおよしなさい」
文は一瞬だけアリスに鬱陶しそうな視線を送った後、大工当人に話を振ろうとして彼に向き直った。
大工をしげしげと眺めてから、不思議そうに首をかしげたが、その行為の意味はわからない。
「あ、あの、天狗様。私が何か?」
「いや、何でも無いわ。ところで黒谷さん?」
「うん?」
「旧地獄にお住いのあなたなら気づいていると思いますが――」
「そりゃ言いっこ無しだ。良い話じゃないか」
ヤマメの答えも歯切れが悪い。どうやら文と同じ感想を持ったらしい。
彼女と天狗の共通認識に何があったのか。
「ふーん、なるほど。ええと、アリス――さんでしたっけ?」
「何? ちょっと気持ち悪いわ」
急に口調が慇懃な物に変化した事を言っているのだ。
これが文の副業――本人としてはこちらが本業かもしれない――に対する向き合い方だと言う事は、アリスも一応承知している。
だが、横柄で相手をナメた態度から、急に掌を返されると、アリスとしてもさすがに戸惑わざるを得なかった。
「私も傷つきますからキツい言い方はよして下さいよ」
「何を企んでる?」
それを聞いて、隣にいるヤマメが苦笑した。
彼女にも放った、本日二度目の台詞であった。
「企むだなんて滅相も無い。譲歩です、譲歩。ここはバーターにしようと言う話です」
「言葉を扱う職業だけあって横文字も理解できるのか……内容次第ね」
「お褒めに預かりまして。あなた達の一連の行動は美談――の一種ですし、新聞のネタに丁度良い。ちとありきたりですが、記事としても感動物はウケが良いですから。代わりに、あなた達を見逃してやるという事です。いかが?」
「見逃して『やる』?」
「……見逃させて頂きます、ハイ。ただし見逃したのでは無く、あくまで私が撃退し、偶然目的地に追いやられた、と言う事にして頂ければ。勿論用が済んだら即座に退去してもらいます」
「わかったわ。その条件でよろしく」
「そんなにあっさり決めてしまってよろしいので? 私が約束を反故にするとは考えないのですか」
「人間相手の約束じゃないもの」
それを聞いて、わずかだが文の顔に笑みが刻まれた。
確かに彼女は侵入者だ。しかし妖怪としてはある程度の信頼があるらしい事を知ったらしい。
ただ、アリスは軽く言い放ったが、人間の大工には耳の痛い台詞であった。
確かに昔話などで、人間は妖怪相手の約束を破り事態を打開しようとする傾向がある。
逆に妖怪は約束を履行しようとして討伐されたり撃退されたりするのだ。
その辺は油断なのか、約束はそもそも破られないという意識が妖怪の中にあるのか。
「それじゃ、行きます。一応手加減しますけど、お怪我等の責任は持ちませんので」
「余計なお世話」
「はいはい、お気をつけて。あ、そうそう、アリスさんと黒谷さんは問題は無いかと思いますが、人間のあなた。叫ばないと、舌を噛みますよ」
「え? うわぁ!」
言うが早いか文が団扇を横薙ぎに大きく振ると、暴風が生まれる。
三人を一気に空へ舞い上げる程の突風を発生させるとは、どれほどの力を持っていればそんな事が可能だと言うのか。
山の斜面から木々を突き抜け、空中に放り出された三人は、笑顔の文がこちらに手を振っている事にも気づかず、悲鳴をあげるか、風に流される事しかできなかった。
風で眼を開ける事すら困難な状況だが、そこは妖怪二人。慌てず騒がず、大工を糸で引き寄せ、自分達の墜落地点が、眼下に現れた河川付近である事を理解する。
目的地、玄武の沢であった。
(黒谷)
(ほいほい)
アリスがヤマメに目配せをすると、ヤマメが木々と岩の間に網状の糸を展開し、地面に激突するはずの一行を受け止められるように備えた。
「上手く行ったかな」
文がアリス達の軟着陸を確認すると、犬走椛が彼女の横に降り立ち、
「せっかく罠を取り除いたってのに……逃がしちゃって良いんですか。私はもう知りませんよ」
と言う様な文句をブツブツと言った。
しかし、文はアリス達が落ちていくのを眺めながら何やら黄昏ており、心ここにあらずと言った趣であった。
不審に思った椛が二の句を告げる前に、彼女は何とは無しに呟いた。
「きれいな子だなあ」
ギョッとした椛がその言葉の意味を反芻し、何かに思い当たったのか、文に非難の視線を向け、後ずさりながら聞いた。
「文さん、そういう趣味が」
「え?」
「浮いた話の一つも無いと思ってましたが、まさかソッチの人だったとは」
「ちょっと」
「そりゃ、天狗としての実力『だけ』は認めますよ。でもなぁー、いくら妖怪でも同性はいかんです」
「幻想郷は全てを受け入れる、らしいわよ」
使いどころを誤っているが、文は何となくそれっぽい反論をした。
とりあえず名言っぽい台詞を言っておけばこの場は収まるだろうという適当極まりない発想から出た言葉であった。
「だからって好き勝手に生きられるのとは違うですよ。『自由』ってのは自分の力量に理由が跳ね返ってくるって意味なんですから。お金が無いのも、新聞が売れないのも、性格が悪いのも、特殊な性癖を持つのも、カラスが黒いのも、巫女が紅白なのも、ぜーんぶ文さん自身の責任で――」
「あなたが普段私の事をどう思っているか、何となく理解できたわ」
文はそう言って天を仰いだ。
何言ってんだこいつ、と言う意を表したのである。
「私は『綺麗だ』って言っただけ。星空や紅葉を綺麗だって思わないの、あなた」
「え? そりゃ、まぁ――って、あの魔法使いがそれらに匹敵する美しさだと?」
「そこまでじゃない。でも、造詣を極め尽くした人形みたいに綺麗なのは事実。カメラ越しだと気づかなかったけど――ところで椛、アルバイトやんない?」
「またですか。そりゃ、臨時収入はありがたいですけどね、踏み倒しだけは止めてくださいよ」
「誰が踏み倒したって?」
「あんたですよ、アンタ。前に手伝った時は、数回発行した新聞の現物支給だったじゃないですよ。ウチじゃもう火種くらいにしか使ってません。その時は一応文さんの顔を立てましたけど、今回は現金の前払いにして貰いたいもんです」
文は部下の悪罵に耳を塞ぎつつ、何とか新聞作りのアシスタントを確保した。
椛以外で個人的に使える人材がいれば良いのだが、やはり勤勉さと、千里眼と言う能力は魅力的だという事で、基本的に余程の事が無い限りは椛を使っている。
ふと、文は再びアリス達が落ちた方向を見つめてから言った。
「気の毒に」
その台詞は誰に、どんな意味で向けられた物か。
全然気の毒そうでは無い態度でその言葉を紡いだ後、文はネタを記事にする為、身を翻した。
◆
三人はケガをしてないか、落し物は無いか等をヤマメの張った糸の上で確かめて、地上へ降りた。
糸をほどいて降り立った所は川岸である。
岩場のそばに木々が生い茂り、鳥のさえずりと水の音が混在して聞こえる様は、渓流釣り等のイメージにぴたりであった。
「いやあ、割と楽しかったね」
「寿命が縮みましたよ」
ヤマメの楽天的な台詞に、大工は足を震わせながら抗弁した。
人の身で自由落下を体験する機会など普通では有り得ないだろうから、怖がるのも当然の事ではある。
だが、ヤマメはその言葉を聞いて、複雑そうな視線を大工に向けた後、アリスに問いかけた。
「さて、あんたの知り合いはどこにいるのかな」
「知らないわ。けど――」
人影は無いが――奇妙な闖入者に、河童が様子を見に来ている気配はある。
姿が見えないのに気配があると言うのは川底に潜んでいるか、或いは。
アリスは再び糸と人形で走査を行う。
川底には複数の気配があるが、最も気になるのは、何も無いはずの空間に存在する何かだ。
とすれば――目的の妖怪はそこにいるのだ。
風景の一部にアリスが糸を送る。
「ぴゅいっ!」
悲鳴か驚愕かわからないような声が辺りに響いた。
だが、声の主を探してもヤマメと大工の目には何も見えない。
「河童の鳴き声は『ひょん、ひょん』だって本には書いてあったけど、そうでも無いのね。以前は『ひゅい!?』だったけど」
アリスが事も無げにそう言うと、空白だった風景が歪み、人型を為した。
光学迷彩を活用して様子を見に来ていた、河童、河城にとりであった。
「ちょっ、何これ? 動けないんだけど」
「逃げられては困るから――巻いたわ」
何で、何を、いつ巻いた? と言う混乱よりも、にとりは先に文句を言った。
「なんなんだよあんたら――って、アリス、アリスじゃないか。久しぶりだねえ」
「地底の件以来かしら。わざわざ寄って来てくれたのは好都合だったわ。他の河童は?」
「隠れてるよ。『あの』文さんが風でぶっ飛ばした一団が近くに落ちてきたんだよ。関わり合いになりたくないに決まってる」
どうやら、文は河童達の間ですら有名な厄介者らしい。
アリスはその言葉に納得して静かな水面を見つめた。
普通、彼女にまっすぐ見つめられた者は、その可憐さに血迷って突飛な行動に移っても不思議ではないのだが、水底に姿を隠してまともにアリスを確認しなかった事が吉と出、河童達はなんとか平静さを保っていた。
後のにとりの話では、少数だが運悪く――否、運『良く』彼女と眼を合わせてしまった者達もおり、彼らは時折中空を見つめ、恋煩いにかかったかのようにボーッ過ごしていると言う事実が告げられた。
魔女は人を誑かすモノだし、向こうが勝手に見惚れたのだからと、アリスは我関せずを貫いている。
「で、何か用かい」
アリスは黙って大工達の方を指差した。
「なんだい、人間に――土蜘蛛!?」
「えっ、今気づくの」
「土蜘蛛め、今度と言う今度は許さないぞ!」
「お、やるか? 人見知りの河童よ」
「その口縫い付けてやる!」
火花を散らす二人の姿に、大工は慌てて仲裁に入ろうとしたが、罵りあいは突如として止んだ。
一触即発としか見えなかった両者の間に入ったのは、当然アリスの仕業であった。
しかしアリスが表情を変えず、その場から一歩も動いていない所を見て、そうだと判断できる者は少ないだろう。
「ケンカは後にしましょう」
迫力も何も無い台詞だったが、にとりとヤマメは戦慄を禁じえなかった。
何しろ、彼女達はその台詞が放たれる前に、全身が麻痺したかの様な緊縛の憂き目にあったのである。
ヤマメはここまで何度かアリスの技を見て来ていたが、それをもってしても、いつ、どうやって、自分が縛られたのかはさっぱり理解できなかったのだ。
にとりはともかく、ヤマメはその『先』も見ている。
いくら妖怪でも痛いものは痛いのだ。
ここで首や手足を失うのはゴメンとばかりに、視線を交わし、にとりに休戦を持ちかける。
にとりとしても、アリスの性格をよくわかっていない為、何をされるかわからないと言う点で考えると、是非も無い。
アリスは二人の拘束を解いてやり、大工をにとりの前に引き出した。
「あっ、これバナナですけど」
「ど、どうも」
大工はおみやげ、と言うか手付けのバナナをにとりに渡して、事情の説明をした。
それを聞いたにとりの反応はと言えば。
「いいないいな、人間っていいな」
歌うようにその台詞を口ずさみ、キラキラした眼で大工を見つめている。
さすが盟友、とばかりにバンバン肩を叩き、さらに私に任せなさいとばかりに胸を張った。
「なんとかなるの?」
アリスの疑問は素朴そのものだったが、にとりは何を言っているんだ、という表情で、
「え? じゃあ何の為に私を頼ってきたのさ」
と怪訝な顔をアリス達に向けた。
さすがにヒントだけでも見つかれば良いと言う適当な考えでやって来たとは言わない。
アリスはその辺りを誤魔化して、
「いえ、お願いするわ」
と、逃げに入った。
にとりは三人を工房に案内した。
河童の工房など、見たくても見られるような物ではないと、アリス達は珍しそうに辺りを見回した。
工房の奥には布で保護されている機械があり、その覆いを剥ぎ取った所に鎮座しているのは、機織り機であった。ただし埃だらけであり、ここ最近は使用されていない事がわかる。
にとりは埃をはたき、舞い上がったそれを吸い込んだのか、けほけほと咳き込んだ。
ここ数年――いや、数十年以上は手付かずだったらしい。
「年季が入ってるね」
長年放置されていたであろう機織り機に対するヤマメの皮肉に、にとりは、
「最近は機械いじってた方が面白かったし、仕方ないだろ。私だけじゃない。今の流行は外から流れ着いた機械の事とか、山の神様に頼まれたモノを考えて作る事なんだよ。お前みたいに、採掘と精錬ばっかり続けてられる方が変だよ。モグラか」
「土竜じゃないよ、土蜘蛛。冶金ができなくて困るのはお前さん含めた職人全体なんだから、口利き方には注意する事だね。そりゃあ、最近は精錬も地獄烏と火車に任せきりだけども」
地底には灼熱地獄跡等と言う物があり、その火力の調節は地獄烏に委ねられている。
火車が精錬を行うと言うのは、死体を炉で焼くと金属が上手く溶ける、混ざる、と言う俗信から来ている。
製鉄を行う者が死体を盗んだりする事もあったそうなので、それが火車の伝説に繋がるのだろう。
尤も、火車自体は河童と同じく伝説や説話が多岐に渡るから、それは技能のごく一部でしかないが。
二人がそんな事を話している間に、アリスは工房の入り口に視線を向けた後、そちらへ歩みを進めた。
それに気づいた大工が、アリスへ声をかけた。
「マーガトロイドさん、どちらへ?」
「ちょっと散歩に出てくるわ。蓬莱を置いていくから、準備ができたら呼んで頂戴」
アリスはそう言って、主に似た小さく美しい人形を大工に手渡した。
「ど、どうやって?」
「『彼女』に話しかけても良いし、手を握るなり引っぱたくなりして刺激を与えれば良い」
「それで、伝わるのですか」
「ええ」
素っ気無く言い残して、アリスは工房を出る。
外は相変わらず森と河と岩場があるばかりで、何も変化は無い。
ブーツのコツコツと言う乾いた足音と、川のせせらぎの音が辺りを支配する中、アリスは上流へ向かう。
しばらくすると、大きな滝が見えて来た。
天狗の警戒網のド真ん中であるが、特に異常は感じられない。文が気を利かせたのか、それとも――。
アリスが滝を見上げていると、背後から前触れも無く石の飛礫(つぶて)が飛来した。
頭を狙った弾である。直撃すれば怪我ではすまないだろう。
だがアリスは、頭を軽く横に振ってそれをかわし、ゆっくりと振り向いた。
振り向いた先に、白狼天狗が空から降り立った。
アリスが何事かを問い質す前に、その天狗は、ずらりと大振りの太刀を抜く。
見れば、肩の付け根辺りが真っ赤に染まっており、その表情は怒りを表すように牙をむき出している。
赤く染まっているのは、血の色だった。
「どなた?」
聞くまでも無く、先程アリスが腕を落とした天狗であり、それをアリスもわかってはいたが、相手の反応を探りたかったのだ。
やはりと言うか返答は無かった。
その表情と、不意打ちと言う行動から察するに――。
(意趣返し、ね。仕事熱心なのは良いけれど、上司や隊長さんの忠告は無駄だったと見える)
この天狗が、ずっと自分達を尾行している事はわかっていた。
一人にでもなれば顔を出すかと思い、散策をしてみれば案の定と言う訳であった。
アリスは素早く指を動かして人形をどこからか数体呼び出し、武器を構えさせる。
あれからまださほど時間は経っていない筈だが、もう腕がくっついた所を見ると、そこそこ力のある天狗だったらしい。
尤も、アリスの切断した腕の切り口が鋭すぎた為に、接着が容易だったと言うのもあるだろうが。
ランスを持った人形三体が天狗に踊りかかる。
天狗は人形の動きを緩慢だという風に切り払い、乱れた人形の隙間を縫ってアリス本体へ突撃をかけた。
アリスは動かない。
太刀の間合いに入り、それを振りかぶった状態でもその場を動こうとしないアリスの表情を見て、天狗の頭に浮かんだのは『罠』の文字。
アリスの顔に浮かんでいたのは微笑であった。
文と椛が罠の除去を行っていた事を思い出し、慌てて踏み止まり、後ろへ猛烈な勢いで飛び退る。
アリスの目前を注視すると、わずかにきらめく一本の線――アリスの魔糸が見えたのだ。
天狗はアリスの微笑に一瞬見惚れ、「このまま彼女に看取られて死ぬ」と言う甘い死の誘惑に誘われたが、かろうじてその思考を頭から追い出した。
その反応と動きに、アリスはわずかに感嘆の色を浮かべたが、天狗の運命はどちらでも同じであった。
自らの首に鋭い何かが食い込んでくる感触。
正面の糸を避けたはずなのに何故――。
背後の、人形であった。
一体だけ突撃させずに控えさせておいた人形が、鉄の直剣を横薙ぎに振るい、それが後退するスピードの力を借りて後ろから首に叩きつけられたのである。
何が起きたのかもわからず、しかし、天狗は最後の一矢とばかりに太刀をアリスへ投げつける。
天狗の体は後ろに退った勢いそのまま森の木に激突し、その首は天狗のスピードの凄まじさを象徴するかの如く、空の彼方へすっ飛んでいった。
アリスは、油断していた訳ではない。しかし、事が上手く運びすぎて、少々驚いてしまった事は事実だった。
天狗が最後に投げつけた太刀は、アリスを正確に狙っていた。
「危ない、マーガトロイドさん!」
それ以上に、アリスは人形の手ごたえに一瞬思考を割かれた。
預けたはずの蓬莱からの情報は無く、預けた本人がここに現れたのだ。
投げつけられた太刀をかわしきれないと悟った時、大工が現れ、アリスに飛びついて彼女を庇ったのであった。
太刀は、横に飛んでアリスを突き飛ばした大工の腿の辺りに突き刺さった。
大工は悶絶しながらその太刀を引き抜いた。どろどろした液体が噴水の様に辺りに赤い池を作っている。
切断されなかっただけマシと言えるが、別の観点で見ると、非常に運が悪い。
太刀が突き刺さった場所は大腿動脈の辺りである。太く、無防備なのに、損傷した場合は深刻なダメージを受ける血管だ。
文句無しに致命傷であり、何の処置もできなければ、あと数分保たずに彼は命を落とす。
アリスは素早く血の池を生み出している彼の傍に屈み込み、集中力を高める。
数秒ほど規則正しく呼吸を行い、他の事象は全て滅却して指のみを動かす。
すると、彼の腿から溢れ出る血潮がピタリと止まった。
その魔糸による傷の縫合を一瞬で行い、それ以上の出血を食い止めたのである。
アリスは珍しく力を抜いて、ふう、と無防備に一息ついた。
たったそれだけの作業でアリスの額にうっすらと汗が浮いている所を見るに、短時間でこの神業を行使するのが、いかに厳しい事だったかを物語っている。
もしこの場に永遠亭の天才薬師がいれば、「縫合と切除に関してならば、私より上」と冗談を飛ばすかもしれない。
「大丈夫? 意識はある? 止血だけはしたけど、応急処置よ。事が済んだら医者へ行くのを勧めるわ」
「あ――はい」
大工は出血で朦朧としながら――アリスが思っていたより、はっきりとした声で返事をした。
アリスは彼に肩を貸して立ち上がらせる。
肩を貸した瞬間、アリスは顔を歪めたが、それも一瞬の事であり、ふわりと空中に浮かぶと、ゆっくりとにとりの工房へと向かうのであった。
余談だが、天狗の首は竹林にまで飛んでおり、運良く永遠亭の者に発見された為か、そいつは単独行動を咎められはした物の、治療は早く済んだらしかった。
その天狗はこう述懐した。
「あれはもうこの世のもんじゃないっす。攻撃する時もされる時も、首を落とす瞬間も笑ってたんですよ。あの綺麗な顔で。え? お前もこの世のもんじゃないだろって? 違いますよ、妖怪としては自分らは普通でしょ。あれは例えば――博麗の巫女っているでしょう、こちら側にもあちら側にも属さない、妖怪の匂いがする人間。あんな感じです。でも、巫女とは違う。巫女は幻想郷の子であり、幻想郷そのものでもある。だけどあの魔女はもっと別の――」
◆
天狗の攻撃をアリスが受けてから、数時間が経つ。
ヤマメとにとりは、大工がアリスについて行ったのはわからなかった、と彼の怪我を見て謝罪した。
蓬莱は、どう言う訳か工房に置き去りにされていた。
生きていたから大丈夫と前置きして、アリスは、
「で、肝心のシルクの方はどう?」
と質問をした。
「織機なんて触るの久々だったからさぁ、糸の設置に手間取ったけど、布になるかもって感触はあるよ。あともうちょい時間があればコツが掴めそうだ」
「最初は、まさに蜘蛛の巣みたいな感じでクチャクチャになってたけどね」
「そっちだって糸出すの疲れたーとかってヘタレてた癖に」
「それは私の責任じゃないだろ。普通疲れるだろ」
「私は蜘蛛じゃないから知らんよ」
お互いに罵り合ってはいるものの、作業自体は一瞬たりとも途切れない。
にとりの言葉を信じ、アリスはそれを見守る事にした。
ヤマメは糸を供給しながら、にとりは慎重に、ゆっくりと、正確に、横糸を通す杼(ひ)を左右に繰りながら、機を上下に操作している。
心地良いとすら言えるほどのリズムを刻み、だが確実に布が織りあがっていく。
「おお……素晴らしい」
大工はにとりが自作したのであろう、木材で作った椅子から立ち上がって二人を賞賛した。
それを見てまたアリスは「おや?」と言う表情を作ったが、数秒ほどしてから誰にとも無く頷いて、布の完成を待った。
一時間経ち、二時間経ち、そして日も沈もうと言う時間帯になり、ようやく一丈――約3メートル程の布が織りあがった。
それは黄金に輝いており、まさに秘物と言って良い程の出来であった。
にとりとヤマメは疲弊して工房の地面に座りこんで、水分を補給している。
アリスも、さすがにそれを見てある種の感動を覚えた様だった。
黄金色の輝きを見て、なぜか魔理沙の金髪を夢想した。
誰もが、この輝きと魔理沙の輝きは、素晴らしい相乗効果を生むに違いない、と確信していた。
大工の男も言葉が無い。
「盟友、悪いけど私達じゃこの位が限界っぽい。使う体力も労力もハンパじゃないよ、これ。二度とやりたくないね」
「とんでもない」
それを聞いたにとりが大工に顔を向けて、ギョッとした様な表情で固まった。
彼は透けていた。
存在感だとかそう言う物ではなく、物理的に、である。
ヤマメとアリスはそれを黙って見ていた。
「正直、私もここまでして頂けるとは思っていませんでした。これは私の独善では無いのかと」
「そうね」
アリスが冷や水を浴びせる様な冷たい声で呟いた。
そうこうしている間に、彼の姿はもうほとんど背景と同化するほどに薄くなっている。
「それに、まだ私の仕事が残っているのだけれど」
「もう良いのです。とても満足しました。お三方とも、ご迷惑をおかけしました。河城さん、黒谷さん、ロクにお礼もできずに行く事をお許しください」
ヤマメは手をひらひら振りながら、「ん、じゃあねー」と言い、にとりは訳がわからないが彼は別れを告げているのだと判断し「気にするない、盟友」と胸を張った。
「報酬は――今あなたが決めなさい」
「申し訳ありません。霧雨のお嬢さんへの贈り物にしようと思っていましたが――それを差し上げます」
アリスが頷き、彼はそのまま夕日に溶けるようにして消えた。
それは、長いようで短い仕事が、今ここで終わった事を告げていた。
翌日、アリスはある物を持って、魔法の森の散策に出た。
森の雰囲気は相変わらず剣呑な物だったが、アリスにとっては庭も同然だ。
木々の隙間から差し込む光と、森の闇が入り混じって、その中を歩くアリスを美しく装飾した。
アリスはその魔糸で森を走査しながら、ある探し物をしていた。
糸に集中していたアリスに、昨日聞いたばかりの声がかかる。
「あやややや、アリスさん」
漆黒の羽を散らせながら降り立ったのは、勿論射命丸文である。
文は、意外だ、と言う表情をしながらアリスに話しかけた。
「あなたも気づいてましたか」
「一応、ね。場所はまだわかってないけど」
「案内しましょうか?」
「わかるの?」
「あれから椛――部下に千里眼で探させたんですよ」
「ふーん。なら、よろしく」
職権濫用だとか、野暮な事は言わなかった。アリスにとっては関係の無い事だからだ。
文の先導で歩いていくと、ある場所にたどり着く。木の陰に、何かが寄りかかっている。
「ほら、ありました」
白骨死体である。
その傍には、お供え――とは言い難いが、それらしき物が置いてある。先客か。
「これが、彼の成れの果てって訳です。ご気分は?」
「ムナクソが悪いわね」
「ちょっと、私は別に――いや、言いすぎました。謝罪します。いつ気づかれました?」
アリスは、黙ってその白骨――元はあの大工だったであろう死体を見つめた。
自宅で紅茶を出した時に、出したばかりの熱い紅茶を一気飲みした事。
天狗の襲撃を受けて肩を貸した際に、異様な冷たさだった事。
足に大怪我をしているのに、にとりの工房ではそれを意に介していなかった事。
おかしいとは思っていたが、死人だとまでは推測できなかった。
彼は、おそらく森に入るまでは生きていた。しかし、妖怪、或いは森の瘴気にあてられ、ここで力尽きたのだろう。
「幽霊ってのは普通迷わない物だとモノの本には書いてあったのだけど」
「それは、人間が勝手に思い込んだ事です。確かにどの宗教でも、幽霊の存在は認められていません。死ねばただあの世に行って然るべき場所へ移動するのみ――まあ、概ねはそうでしょう。でもね、そんなのは宗教が『生きている』人間の為に作られたものだからですよ。現実に幽霊がいて、あの世があるなら、例外だってあるって訳で」
「詳しいわね」
「幽霊が恩返しの為に妖怪を訪問。実はですね、それをいざ記事に書こうとしたらあの方が来たんですよ」
「誰?」
「閻魔様です」
アリスは内心驚いたが、見た目には少々眉を歪めただけであった。
文は続けた。
「死神っていますよね? 普通、死んだ場合は死神の案内であの世まで行く物でしょう。では、その死神が仕事をしなかった場合は」
「迷う事もある、と」
「そう言う事ですね。これは是非曲直庁の不始末だから黙っていろ、との仰せで」
「権力に屈して新聞屋が勤まるの?」
「耳が痛い話ですが、そこまでして記事にする理由もありません。特ダネってのはいつでもどこにでも転がってるもんです。あなたの方はどうなんです? この事をあの魔法使いに話すんですか?」
「いいえ」
「何故です?」
「話す必要は無いし、彼女が聞く必要も無い。余計な重荷を背負うだけよ」
「クールに見えますが、意外と優しいんですね、あなたは」
アリスはその言葉を黙殺し、白骨の傍らに持ってきた物を置いた。
「それが彼の墓標――ですか」
アリスは答える事無く振り返り、再び森の闇の中へ姿を同化させた。
優しさを厳しさに。情熱を冷静に。
その後ろ姿には、紛う事無き寂寥の陰があった。
アリスを見送った文は、その『墓標』を見つめてから一人ごちる。
「あの人も案外センチな人なんだなぁ」
そう言って、文もこの場を後にした。
尤も、その文もアリスに様々な事を伝えに来たりと、親切をしているのだが、それについては考慮していないらしい。
木の陰に日差しが差し込み、その周りにある物を鮮明に映し出す。
白骨の横には、一枚の黒い羽、黄金の糸、食べかけのキュウリ、そして――きらめく黄金のスカーフを首に巻いた、霧雨魔理沙の人形が一つ。
一つ気になったのはにとりの描写、今作は口授系からも設定を引っ張っているから
アリスや文が真面目に妖怪やってる中、盟友盟友とただ一人無害なのは違和感がが
いくつかかっこいいアリス作品を読んできたけど,この作品も印象に残りました.
クールって言うかハードボイルド的なかっこよさだーね
誤字がいくつか。
最も→尤も
懸命であった→賢明であった
是非曲直丁→是非曲直庁
検討もつかない→見当
と思ってたけど、死んじゃったらなあ
クエストの如く進んでいく物語にどんどん引き込まれ、最後はちょっぴりセンチ。
素敵でした。
大工さんをもう少し掘り下げてみて欲しかったです。
死の少女らしくて
優しい彼女の物語、いつかまたお願いします。
パワフルでクールなアリスを堪能させていただきありがとうございます。
同じ設定でもっとエピソードを読んでみたいです。