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「河童の里の冷やし中華と串きゅうり」(作品集174) 「迷いの竹林の焼き鳥と目玉親子丼」(作品集174) 「太陽の畑の五目あんかけ焼きそば」(作品集174) 「紅魔館のカレーライスとバーベキュー」(作品集174) 「天狗の里の醤油ラーメンとライス」(作品集175) 「天界の桃のタルトと天ぷら定食」(作品集175) 「守矢神社のソースカツ丼」(作品集175) 「白玉楼のすき焼きと卵かけご飯」(作品集176) 「外の世界のけつねうどんとおにぎり」(作品集176) 「橙のねこまんまとイワナの塩焼き」(ここ) | 「人間の里の豚カルビ丼と豚汁」(作品集162) 「命蓮寺のスープカレー」(作品集162) 「妖怪の山ふもとの焼き芋とスイートポテト」(作品集163) 「中有の道出店のモダン焼き」(作品集164) 「博麗神社の温泉卵かけご飯」(作品集164) 「魔法の森のキノコスパゲッティ弁当」(作品集164) 「旧地獄街道の一人焼肉」(作品集165) 「夜雀の屋台の串焼きとおでん」(作品集165) 「人間の里のきつねうどんといなり寿司」(作品集166) 「八雲紫の牛丼と焼き餃子」(作品集166) |
「はい、今日の授業はここまで」
いつもの算術の授業を終え、私――八雲藍は寺子屋の教室を出た。今日はこのあと歴史の授業があるようで、子供たちは授業の合間の時間に厠に立ったり、談笑したりしている。
職員室で帰り支度を済ませ、授業に向かう上白沢慧音女史を見送って、寺子屋を出た。まだ午前中の人里は、ようやく店が開きはじめ、活気づこうとしている頃だった。
「何か食べて帰るような時間でもないな」
いつもなら蕎麦屋できつねうどんを食べて帰るところだが、今日は授業が朝一番だったのでまだ昼飯という時間でもない。まっすぐ帰って、そのまま結界の見回りに行くか。そんなことを考えながらぼんやり里を歩く。
「お」
その途中、ふと洋菓子屋の前で足が止まった。そうだ、橙におみやげを買っていこう。
いそいそと店の扉を開けると、ショーケースに色とりどりのケーキが並んでいる。ショートケーキ、フルーツタルト、ガトーショコラにモンブラン。ううん、目移りしてしまうな。
「何になさいますか?」
「ああ――ええと、チーズケーキと、モンブランと、ガトーショコラで」
「かしこまりましたー」
モンブランが自分用。チーズケーキが橙、ガトーショコラが紫様の分だ。紫様がお目覚めになったらコーヒーを淹れて、橙を呼んで三人で食べよう。そうしよう。
ケーキの箱を受け取り、代金を払って、うきうき気分で店を出る。マヨヒガに寄って、橙に声を掛けてこよう。里を出て、私はマヨヒガの方へ飛んだ。
「ちぇえええん、いるかー?」
マヨヒガに降り立ち、ケーキの箱を持ち上げて、そう声を掛ける。――が、返事はない。野良猫たちが何匹か、屋根の上から私を見下ろしているばかりだ。
「……なんだ、いないのか」
拍子抜けして、私は息を吐く。どこかに遊びに出かけているのだろう。仕方ない、結界の見回りが済んだらもう一度様子を見に来よう。そう決めて、私は帰り道を急いだ。
誰にも邪魔されず、気を遣わずにものを食べるという、孤高の行為。
この行為こそが、人と妖に平等に与えられた、最高の“癒し”と言えるのである。
狐独のグルメ Season 2
「橙のねこまんまとイワナの塩焼き」
「ただいま戻りました」
八雲邸に帰り着き、玄関でそう声をかける。といっても、まだ昼前のこの時間、紫様はお休みなので、誰が返事をしてくれるわけでもないのだが――。
「あら、おかえり」
居間への襖を開けると、思いがけず返事があり、私は呆気にとられて立ち尽くした。
いつもなら夕方までお休みの紫様が、居間でお茶を飲んでおられた。紫様が昼前に起きてらっしゃるなど、いさかか信じがたいレベルの早起きである。これは夢か幻か? 目を擦ってみたが、居間の座卓の前に正座された紫様のお姿は紛れもなく現実であった。
「どうしたの? 鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして」
「い、いえ。おはようございます、紫様。随分お早いお目覚めで」
「なんだか目が覚めてしまってね。――それはケーキかしら?」
「あ、ええ。あとで橙を呼んで食べようかと、三人分」
「そう。台所に仕舞っておくわね」
「え? あ、いえ、そんな――」
私が抗弁する間もなく、紫様は私の手からケーキの箱を取り上げると、台所の方に歩いて行かれた。私は呆然とそれを見送る。――普段なら紫様が、こういった雑事を私から取り上げてまですることなど考えられない。早起きといい、何かあったのだろうか?
――思い出すのは、春先のことだ。紫様が長引いた冬眠からお目覚めになられたばかりの夕方。あのとき、紫様が随分と久しぶりに食事を作ってくださった。牛丼と焼き餃子という、紫様の好物ふたつ。その食事のあと、紫様がぽつりと漏らされた言葉を、私は想起する。
『……冬眠している間、長い夢を見ていたわ』
それは、紫様が一番幸せだった頃の夢だったという。
あるいは紫様は、またそんな夢を見られたのだろうか。私が式となる前の、私の知らない紫様の過去。紫様が探し求めているはずの、この幻想郷には無い何か――。
私は決して、その代わりにはなれないのだろう。そんなことは、解っているのだけれど。
「……何を考えているんだか」
呟いて、私は首を振る。私が考えても仕方のないことだ。それより、紫様が起きていらっしゃるのなら、お昼は紫様の分も支度しなければならない。ひとりなら軽く弁当でも作って結界の見回りに出るところだが、紫様がいらっしゃるならお昼を一緒に食べてからにしよう。そう思って、私は台所の方に向かいかけ――そこへ、紫様がお戻りになられた。
「あ、紫様、お昼は何か――」
「あら、藍。少し、髪伸びてないかしら?」
「え?」
唐突にそんなことを言われて、私は自分の髪に触れる。そんなに伸びているだろうか? 自分ではあまり気にならないが、しかし紫様が仰られるということはぱっと見に気になる程度には伸びているのかもしれない。前に散髪したのはいつだったか――。
と、紫様の手が私の髪に触れた。髪を梳かれ、紫様の顔が間近に迫る。目のやり場に困って私が俯くと、紫様はひとつ鼻を鳴らされた。
「藍、こっちにおいでなさい」
「ゆ、紫様?」
紫様に手を引かれて、出たのは庭に面した縁側である。縁側に腰掛けるように促され、わけのわからぬまま腰を下ろした私に、紫様はどこからかシーツを取り出して、私の身体に巻き付けるようにして、首元に織り込まれた。
「あの、紫様、これは」
「はいはいじっとして。私が散髪してあげるわ」
鋏と櫛を手に、紫様はにっこりと笑ってそう仰られた。「ゆ、紫様にそのような――」と私が慌てると、「あら、私の腕前は信用ならない?」と紫様は口を尖らせられる。そう言われてしまっては返す言葉もなく、私は借りてきた猫のように大人しくなるしかなかった。
帽子を脱がされ、紫様の櫛が私の髪を梳き、鋏が毛先に当てられる。しょき、しょき、と耳元で音がして、ぱらぱらとシーツの上に私の髪の毛が散った。
ぽかぽかとした小春日和の陽気が、庭に降りそそいでいる。昼寝でもしたくなりそうな暖かさだ。そう思うとうっかり欠伸が漏れてしまい、耳元で紫様が小さく笑われた。
「寺子屋での授業はどう?」
「授業ですか。そうですね――教えるということは、難しいですが、楽しくもあります」
「手の掛かる子もいるでしょう」
「ええ、九九がどうしても覚えられない子は多いですね。九九は覚えても、音として覚えるだけで応用ができない子もいますし。『1+1はどうして2なのか』なんてなかなか高度な質問をしてくる子もいます」
「純粋なことは時として恐ろしいわね」
「全くです。しかし、それ故にこそ真理に近いとも言えます。数字という概念をどう理解させるか、本当の基礎の四則演算から教える必要があるからこそ、教える側としても根本的なことを考えさせられますね」
しょき、しょき。髪がシーツに落ちていくとともに、言葉が行き交う。ああ――そういえば、こんな風に紫様とゆっくり何もせずに話す時間というのも、最近とっていなかったような気がする。こういうのも、たまにはいいな。
「昔の貴方も似たようなものだったわよ、藍」
「私が、ですか?」
「《塩少々》が何グラムか聞いてくるような、純粋な子だったわねえ」
それはまた本当に懐かしい記憶である。私がまだ紫様の式になりたてだった頃の追憶。レシピ通りに料理を作ろうとして、そこに内包された曖昧な《美味しさ》という概念を知らなかった私に、それを教えて下さったのは紫様だった。
気恥ずかしさに思わず俯くと、「動かないの」と紫様に顔の位置を直されてしまった。紫様の鋏が、後ろ髪をしょき、しょきと刻んでいく。
「――私も、そんな純粋で愚かな子供だったわ」
「紫様?」
「無知故に、自分には世界の全てが見えていると思っていて、自分に見えない世界を探し求めて――それがどんな結果を呼ぶのかも知らずに、無邪気に夢を見ていた、そんな愚かな子供」
「…………」
「もう、取り戻せないほど遠い昔の話だけれど、ね」
呟くような紫様の言葉に、私はどんな言葉を返したらいいのだろう。
私の知らない紫様の遠い過去について、私が言えることなど、おそらく何一つとして無い。ただの道具に、主の心の奥深くに分け入る権利などありはしないのだ。
ただ……だとしたら、私はあのとき、なぜあのふたりの少女とすれ違ったのだろう。
いったい何が、あの紫様の気配を纏った少女たちの元へ、私を導いたのだろう――。
「藍」
「はい」
「動かないの」
何事もなかったかのように私の頭の位置を直して、紫様は黙して鋏を動かされた。
太陽の匂いがする庭先に、ただ鋏の音だけが響いている。
「少しはさっぱりしたかしら?」
「はい――ありがとうございます」
散髪を終え、シーツを払う紫様に、私は頭を下げた。手鏡を覗くと、肩に届くか届かないかぐらいだった髪が、頬のあたりで切りそろえられている。
私が毛先を指で弄っていると、不意に尻尾に紫様の手が触れた。振り返ると、今度はブラシを手に紫様が私の尻尾を梳いている。
「紫様? いや、そこまでしていただかなくとも――」
「いいのいいの。切った髪の毛がついてるわ」
そう言われては、やはりまた大人しくするしかなかった。紫様のブラッシングは丁寧で優しく、私は縁側に腰を下ろしたまま思わず呆けたような息をつく。ああ――僭越ながら幸せだ。
とろんと瞼が重くなってくるが、しかし同時に胃の方も切実な訴えを始めていた。そういえば、そろそろお昼だ。いい加減昼食の支度を始めなければ。
「あの、紫様。お昼はどうなさいますか」
「ああ――それはいいのよ、藍」
「え?」
紫様の言葉の意味を計りかねて眉を寄せた瞬間――不意に、鼻腔をくすぐる匂いに気付いた。
これは……魚の焼ける匂い? しかし、私も紫様もここにいるのに、いったい誰が?
「紫様、この匂いは――」
「あら、バレちゃった。幽々子並みの嗅覚ねえ」
紫様はまるでいたずらを見つかった子供のような顔をされて、ブラシを置いて立ち上がった。そうして、閉ざしていた居間への障子を開け放つ。そこには――。
「……橙?」
居間の中央にある囲炉裏。その周りに串に刺した魚が並んでいた。あれは――イワナか。そして、焼け具合を見ながらその串を回しているのは、私の式、橙である。
「あにゃっ!?」
橙は私の視線に気付いて、ぴんと耳と尻尾を逆立てた。――マヨヒガにいないと思ったら、まさかここにいたとは。というか、なぜ橙が囲炉裏で魚を焼いているのだ?
「あの、これはいったい」
「この前、貴方が結界の外に放り出されたでしょう?」
混乱して紫様を振り返ると、紫様は扇子を広げて口元を隠しながら苦笑された。
「橙が、自分の失敗で貴方に迷惑をかけたから、自分で貴方にご飯を作ってあげたい、って言ってね。妖怪の山の川でイワナを獲ってきたのよ」
私は橙を見やる。橙はどこか不安げな顔をして私を見上げた。
――ああ、橙、お前がそんな、私のために! お昼ご飯を!
感極まって、私は飛びつくように橙を抱きしめた。「ら、藍様ぁ」と悲鳴のような声をあげる橙を力いっぱい抱いて、その頭をわしわしと撫でる。橙が、橙が私のために! いかん、それだけでもう泣きそうだ。なんだろう、この嬉しさは。
「橙、ちぇええええん、私はお前を誇りに思うぞ!」
「藍しゃま、く、苦しいです~」
抱きしめて撫でて頬ずりして、全身全霊で橙を愛でていると、「はいはい、そこまで」と紫様に尻尾を引っ張られてしまった。ああ、もっと橙をむぎゅむぎゅとしたいのに――。
「魚が焦げるわ。ご飯とお味噌汁も出来ているんでしょう?」
「えっ?」
「はっ、はい!」
橙は慌てて立ち上がり、台所の方へ走っていく。魚を焼くだけならまだしも――いや、それでも内臓を取ったりする必要がある。橙にそんなことが出来るのか? ましてご飯を炊いたり味噌汁を作ったりなんて――。
と、ほどなく橙がおひつを抱えて戻ってくる。中には炊きたてのご飯が詰まっていた。私は目を見張る。いつの間に橙にこんな芸当が? それとも私が戻ってくる前に紫様がお手伝いされたのだろうか。
いや、もしそうだとしても――。私は囲炉裏で焼かれるイワナに目をやる。明らかに見た目からして内臓は取り去られている。紫様は先ほどまでずっと私の散髪をされていたのだから、少なくともイワナの処理を手伝えたはずはない。
「橙、これを全部お前が?」
「あ、えっと――」
私が問うと、橙は気まずそうに紫様を振り返った。紫様は「そこは橙がひとりでやったと黙って受け取ってあげるのが優しさじゃないかしら?」と苦笑された。――あ、やっぱり誰か手伝いがいたのか。まあ、そんなことだろうとは思ったが。
出てきていいわよ、と紫様が襖の向こうに声をかけられ、味噌汁の鍋を持った見覚えのある影が姿を現す。私はその姿に納得して頷いた。
「……なるほど、君か」
「どうも、お邪魔してます。なんか勝手に連行されたんですけども」
困り顔でそう言ったのは、白玉楼の家事手伝いをしている鈴仙・優曇華院・イナバだった。なるほど、紫様が幽々子様と話をつけて連れてきたのだろう。彼女は以前の騒動のときに、この家に短期間ではあるが滞在したこともあるし。
「でも、私はほとんどやり方を教えただけですよ。ご飯を鍋で炊いたのも、イワナの内臓を取ったのも、八割方はその子がやったんです。一生懸命でしたよ」
鈴仙はそう言って、橙を見やった。橙は恥ずかしそうに俯く。――よく見れば、その指にいくつか絆創膏が巻かれていた。私は目を細め、心の中で猛省する。橙にこんなことが出来るはずないと侮ったのは、主としてあるべからざる態度だった。橙はこんなに一生懸命に、先日の失敗をカバーしようと頑張ってくれたのだ。
「橙、疑ってすまない。お前は私のために本当に頑張ってくれたんだな。――ありがとう」
もう一度、強く橙の頭を撫でる。橙は目を見開いて、それから気持ちよさそうに目を細めた。ああ、私はいい式を持った。心の底から今、そう実感している。
「……ええと、私はこれでお役御免ですか?」
「ええ、ご苦労様。幽々子によろしくね」
「あの、できれば誘拐みたいにスキマに落とすのは止めてほしいんですけ――」
鈴仙が言い終える前に、その足元にスキマが開き、鈴仙の姿はその中に消えた。今ごろスキマを通って白玉楼に戻っているだろう。――今度の白玉楼の月見のときは、こっちが手伝いにいかないと。そんなことを思った。
「ほらほら、もう良い具合に焼けてるわ」
「あっ、はい!」
橙がおひつから茶碗にご飯をよそって、私に差し出す。囲炉裏のイワナもこんがりといい焼け具合だ。私は急いで手を洗ってくると、囲炉裏のそばに腰を下ろした。
「いただきます」
手を合わせ、囲炉裏に立てられた串を手に取る。よく焼けたイワナに、尻尾から遠慮無くがぶりとかぶりついた。ほふ、ほふ。おお、熱々だ。皮はパリパリ、中はふっくら。骨まで食べられるぐらい柔らかいのに、外は香ばしい。このシンプルな塩味がいいんだよ。素材の味っていうか、イワナの新鮮さをそのまま丸かじりしているかのようだ。
内臓を取るときに少し失敗したのか、腹のあたりがいびつな形をしているけれど、それもまた橙のがんばりを示しているかのようで、余計に美味しく感じてしまう。そもそもこんな新鮮なイワナ、山の上流の方まで行かないと獲れないだろうに、橙が私のために一生懸命に獲ってきて、料理してくれたと思うと、いかんいかん、また感極まってきたぞ。
心を落ち着けよう、と味噌汁を啜る。ちょっと味が薄いかな……。いや、結構結構。というか、おお、具は油揚げ、油揚げじゃないか! ああ、橙が私のために油揚げを! 落ち着け私、飯を食いながら泣いてどうする。味噌汁が急にしょっぱくなってきたじゃないか。
「ら、藍様?」
はっと顔を上げると、橙が心配そうに私の顔を覗きこんでいた。私は慌てて顔を拭って、串に残っていたイワナを丸ごと口に運び、何度も頷きながら咀嚼する。
「美味しいぞ、橙。本当に美味しい。ほら、お前も食べなさい」
「あ……はいっ!」
私の言葉に、橙はぱっと顔をほころばせて、そして私の差し出したイワナにかぶりついた。途端、「はちち、はち」と串を取り落とす。ああ、そりゃ猫舌の橙につい今まで火にかかっていた塩焼きは熱いに決まっている。
「だ、大丈夫か?」
「は、はひ、はひ」
ふー、ふー、と息を吹きかけてイワナを冷まそうとする橙に笑みを漏らしつつ、私は二本目にかぶりついた。ああ、ちょっと焦げてるな……。いや、これでいい。これがいい。はふ、はふ。おお、美味い、美味い。イワナ、美味し。橙の気持ち、なお美味し。
と、橙のぶんのご飯と味噌汁が出ていないことに気付いて、私は二本目のイワナを飲みこむと、おひつからご飯を茶碗によそい、その上に鍋から味噌汁をかけた。橙の好きなねこまんまである。私が差し出すと、「ありがとうございます、藍様!」と橙はイワナをはぐはぐと咀嚼しながら幸せそうな笑みを浮かべた。ああ、可愛いなあ、橙は。
「らーん、私のご飯とお味噌汁は?」
「あ、ゆ、紫様、申し訳ありません!」
しまった、ついお客様気分でイワナを食べていて、すっかり紫様のことを忘れていた。慌てて私が紫様のお茶碗にご飯をよそうと、紫様はいたずらっぽい笑みを浮かべて、
「そうだ、私もねこまんまにして頂戴」
「は? はあ」
思わぬリクエストに、私は目をしばたたかせつつ、紫様のご飯に味噌汁をかける。紫様がこんな下品な食べ方をされるなんて――と思いつつ差し出すと、紫様は「たまにはいいわね、こういうのも」と美味しそうにねこまんまを啜られた。
橙も幸せそうにイワナにかぶりつき、ねこまんまを啜っている。――ええい、私もねこまんまにしてしまえ。お椀に入っていた味噌汁を茶碗にぶちまける。ああ、なんと下品な食べ方だろう。しかし――。
「ずずっ……ううん、美味い」
味噌とご飯、油揚げとご飯、これもまた美しい連立方程式だ。どうせ口の中で一緒になるなら、最初から混ぜて食べてしまえというこの品の無い食べ物が、しかし品の無いがゆえにこんなにも美味い。味噌汁と一緒に流れ込んでくる米粒の柔らかさがなんと優しいことか。
「あむ、むぐ……ん、ずずっ」
囲炉裏を囲み、私と橙と紫様、三人で黙々とイワナを食べ、ねこまんまを啜る。
言葉はなくとも、それだけで何か、私も橙も紫様も、どこかで繋がっているような気がした。
それは多分に錯覚なのかもしれないけれど、今はその感覚に、身を委ねていたかった。
食後。お腹が膨れると眠くなったのか、橙は私の膝で寝息を立てていた。
私がその髪を撫でていると、紫様がお茶の入った湯飲みを手に私の横に腰を下ろされる。振り返ると、紫様は優しげな顔で、私の膝で眠る橙を見つめた。
「藍」
「はい」
「貴方は、いい式を持ったわね」
「――はい」
紫様の言葉に、私が返すべきは、ただ頷くことだけだった。橙は、私の自慢の式だ。
――私は、紫様にとって、そんな自慢の式であれているだろうか?
私は紫様を振り返る。――と、今度は紫様が、私の空いたもう片方の膝を枕に寝そべられた。
「紫様?」
「私も眠いわ」
「はあ。それならどうぞ、おやすみください」
苦笑して、私は紫様の髪にそっと触れた。紫様は目を閉じたまま、小さく口を開く。
「藍。今度から橙に、食事の支度を手伝わせるようになさいな」
私はその言葉に目を見開いた。――橙に食事の支度を手伝わせる、ということは、橙を日常的にこの屋敷に置いておくということになる。それは即ち、
「――それは、橙をこちらに住まわせるという意味ですか?」
「貴方が、橙の教育にそろそろ本気で取り組むならね」
「――はいっ」
私は強く頷いた。そして、眠る橙の耳を撫でる。
――式にしてしばらく経つけれど、私はまだ、ほとんど何も橙に教えていないに等しいのだ。妖術にしろ、計算にしろ、家事にしろ。私が本来育てるべきは、里の子供ではなく、自分の式だというのに、これでは本分を見失っていたと言われても仕方ない。
もちろん、引き受けたからには寺子屋の仕事も続けるけれども。――私の持てるものを一番に伝えるべき相手は、ここにいる私の式なのだ。
それは紫様が、私に美味しい食事という概念を教えてくださったように――。
「少なくとも、食事の支度に関しては、将来性がありそうだわ。貴方がその食い道楽で、美味しいものを食べさせているからかしら?」
紫様は膝の上から私を見上げられて、そう仰る。私は笑って、首を横に振った。
「それは、紫様が私に教えてくださったことですよ」
「――あら、人を幽々子みたいな食い道楽扱いしないでほしいわ」
苦笑されて、紫様は目を閉じられた。おやすみなさいませ、と小声で囁き、私は思う。
紫様の抱える何かに、私ができることはきっとない。それは私の手を伸ばすべきことではないからだ。けれど、だからといって、私が八雲藍として紫様に仕えていることに、意味が無いわけでは、決してない。
私は、自ら式を使う力を与えられた式。それは、私自身が紫様から与えられたものを、私の式へと伝えていけるということだ。
紫様が私にくださった全てのものを、私は橙にこれから、ゆっくりと教えていこう。
それがきっと、私が紫様に対してできる、一番大切なことなのだ。
紫様の想いを、その一部であっても、私は受け継いで、伝えていく。
いつかもし、紫様との別れの日が訪れても、そうすることで、想いは残る。
紫様が、私、八雲藍を式として、伝えて下さった全てのことが、橙を介して残っていく。
それはきっと、人間が家族を作り、子孫を残していくのと、よく似ているのだろう。そんなことを、ぼんやりと思った。
膝の上で、私の主と、私の式が、幸せそうな顔で眠っている。
その両方の髪を撫でながら、私は世界一の幸せ者だろう、と思った。
私は八雲藍。紫様の式で、橙の主。紫様の手足となり、その想いを伝えていく者。
――さあ、今晩は紫様と橙と、三人で何を食べようか。どんな美味しい幸せを、紫様から橙へと伝えていこうか。
それはきっと、どんな言葉よりもかけがえのないものとなって、この世界に残るだろう。
食べるという孤独な営みが、卓を囲んで寄り添うことで、あたたかな温もりに変わっていくように。そんな風に私たちは寄り添っていられればいい。ただ、私はそう願った。
紫様にはきっと、一番幸せだった頃は戻って来ないことも、何より三人で食事をしている今が、何よりも大切だという事もわかってるんでしょうね
さて、味噌汁作るか・・・
しかし魚をおかずにご飯モリモリ食べたい
6の人に賛同は出来ないけど、単発読み切りとかで食道楽話をもっと読みたいな、と思います
ネタ切れならリクや意見などをやってみたらどうですか?
まぁ、私はメリ蓮もグルメも好きなんで、気長に待ちます。
最後まで楽しく読ませていただきました
どんべえを美味しく書ける作家なら知ってるけど、まさかねこまんまを美味しく書ける作家がいるなんて。
お魚は塩焼きが単純かつ最高ですよねー
ケーキ達「あの、私達の出番は・・・」
まあでもシリーズ化が得意な作者さんですし、何よりそれを無くしたら浅木原さんの小説の魅力も半減ですしね。
なお、岩魚はじめ川魚類は、釣り上げたらただちに殺し、
エラをとり、腹を割いて肝臓以外の内臓を外し、背骨に沿った血合いをとり、
そして氷や保冷剤で冷やして保存すると美味しいです
とても美味しい物語でした、ごちそうさまでした