※途中で視点が変わります。
【1.マフラーを買いに】
「はい」
対をなす碧色のひとみが、差し出した手に載っているものを怪訝な顔で見る。さもこれを目にするのが生まれて初めてで、何をするための道具なのか知らないみたいに。寒さのせいじゃなく色の薄い唇が動いて、疑問形で単語を紡いだ。
「手袋?」
良かった、何に使うものかくらいは知ってたわけね。
「しかも、手編みだし。わざわざいいのに」
「わざわざ作ったんだからちゃんと着けてよ」
「別に寒くはないんだけどなあ」
村紗はそう言って微妙に顔をしかめる。面倒くさそうな反応を返されることなんてとっくに想定済みだ。頼まれて作ったわけでもないから失礼だとは思わない。
しかし着けてもらわなければ困るのだ。ずい、と顔を寄せて凄みの利いた声を出す。かすかな潮の匂いが鼻をくすぐった。
「あんたは私の指を凍傷にしたいのかしら?」
私たちの間にあるほんの僅かな身長差は、こういう時私に有利に働いてくれる。大人しく観念して、村紗は手袋を受け取った。
「……着けますよ、着ければいいんでしょ」
毛糸で編み込まれた厚手のそれの中に、彼女のほっそりした手がきれいに収まる。水兵服の長袖からちらと覗く、白い手首と手袋の濃い青緑の対比が映える。ただ全体的に村紗はかなり薄着なので(本当に、夏場と違うのは袖の長さくらいのものなのだ)ちょっと不恰好かもしれない。
「これでいい?」とこっちに向けられた手のひらを、今度はちゃんと受け入れた。素手の私より二回りくらい大きくなった村紗の手に軽く力がこもる。握り返すとふわふわの毛布を掴んでいるような、我ながらなかなか悪くない感触が返ってきた。
▽
冬が好きかと言われたら、どちらでもないと私は答える。
寒さは嫌いだ。しかし夏と冬では冬の方が好きだし、朝の貴重な時間を温かい布団の中で無駄に消費している一瞬なんかは、冬も案外悪くはないと思えてくる。廊下を歩くと漂ってくるストーブの匂いや、寝る前に飲む温かいお酒も好きだし、年の瀬に向けて賑やかになる今の時期の雰囲気などもわくわくする。しかしやっぱり寒さは嫌いだ。朝起きたくないし手が荒れる。
もしかすると雲山以上に私が一年の大半の時間を一緒に過ごしているかもしれない彼女は、冬という季節にとりたてて感想を抱いてはいないように見えた。村紗は私とは違い、寒さにめっぽう強い。暑さには、ひょっとすると私より弱いかもしれないけれど。
昔、まだそんなに親しくなかった頃、村紗に向かって寒くないのかと問うたことがある。死装束みたいな薄っぺらい着物一枚を纏った彼女からは「別に。我慢できるから」とそっけない返事が返ってきて、会話はそこで途切れた。
その時は何とも思わなかったが、我慢できるということは、寒さを感じないのとは違うということ。そうか、村紗は寒さを我慢せざるを得ない環境にいたんだな、ということ。そのふたつに思い至ったのはずいぶん後の話だ。
「ご主人に聞いたよ。今年の正月は遊覧船やらないんだって?」
「前は寺の宣伝の意味合いが強かったけど、もうこっちに来て数年経つからそろそろゆっくり過ごしてもいいんじゃないか、って聖が」
買い物を終えて部屋に入ると、コタツという文明の利器が私の帰りを待っていた。素晴らしいことにミカンの入った籠までついている。
命蓮寺にある数少ないこの暖房器具には、基本的には絶対に誰かしらが居る。今日は寅丸に呼ばれて来たらしいナズーリンが我が物顔でぬくぬくしていた。それは別にいいけれど、手下のネズミまで布団の中に入れるのはやめてほしい。
「そんなわけで今年は私の仕事お休みでーす」
「あんた別に何もしないでしょ」
「まったくだ。君はいいかげん働かざるもの食うべからずという世の理を知るべきだね」
「いかにもこの船は私が動かしてます、みたいな凛々しくもにこやかな顔して立ってるの結構疲れんのよ」
食べなくても死ぬことはない船幽霊はそうのたまって、「はぁー極楽」とミカンを一切れ口に放り込んだ。もぐもぐと咀嚼しながらごろんと横になる。
命蓮寺による「謹賀新年! 快適な空の旅で初日の出を拝もうツアー」は毎年結構な人気を誇ってきた。商売繁盛の嬉しい悲鳴として、毎年三ヶ日をゆっくり過ごせないという弊害はあったものの、今年はいくらか気楽に正月を迎えられそうだ。
しかしここは寺なのだから、遊覧船営業を差し置いても忙しくなることは請け合いなのだ。はあぁとため息をつく。
「私としてはあのお雑煮振る舞うのがなくなれば楽なんだけどね……」
「それは今年もやるんじゃないか? 数十人分の雑煮を用意する君の苦労は分かるが」
「人里のじいさんの一人くらい、お餅つまらせてコロッと死なないかしら」
「一輪、君は時々非人道的なことをさらっと言うな」
もう人じゃないからねぇ、と適当に返して私もミカンを剥く。天井の隅でもくもくと漂っていた雲山が、お前はいつからそんなことを言うようになってしまったんだと言いたげに悲しそうなひとみで私を見下ろしていた。
パチンといい音がしたと思ったら、村紗が指を鳴らしたようだ。勢い良く起き上がって私を指す。人に指をさしてはいけませんと、生きている頃に彼女は親に教わらなかったのだろうか。
「名案だわ。死ねば死ぬほどうちが葬儀やることになってボロ儲けの極みね」
「拾って手塩にかけて育てたのがこんな不良娘ばっかりで聖が泣くぞ……」
頭を抱えているナズーリンの言葉に、まったくだと言わんばかりのしかめ面で雲山が頷いてみせる。
不良娘たる私たちは知らん顔でもぞもぞとコタツに潜り込んだ。
白い着物を纏った濡れネズミの少女が、打ち付ける荒波から身を守るようにして丸まって凍えている。
むせかえるような磯の匂い。固く結ばれた少女の唇は紫色で、固い岩盤を踏む素足にもまったく血色がない。折れそうな首筋に濡れた黒髪が筋になって張り付いて、まるで白壁に走る亀裂のようだ。普通の人間ならとっくに凍死している寒さに、もう死んでしまった少女はじっと耐えて、ただ耐えることで無尽蔵の時間をやり過ごそうとしている。
全部私の脳が勝手に作り上げた妄想だ。
でも、たぶん、実際にそうだったはずだ。
起きた時にはナズーリンの姿はどこかに消えていた。じりじりと太ももの辺りが熱い。
冷たさを求めて身じろぎをする。足の先が急にひやりとしたものに触れた。村紗はまだ私の向かい側にいて、何をしていたのかはわからないけれど少なくとももうミカンを食べてはいなかった。机の上はきれいに片付いて、食べ残しや皮のひとかけらすら残っていない。
「寝てた?」
ぼんやりとした意識を持て余しながらそんなことを口にした。村紗が私に気付いたようで、視線がこっちに向けられる。コタツに入っていてもなお冷たい足の裏で、私の足を軽く押し返してきた。
「寝てたね。そろそろ聖と寅丸が説法から帰ってくるだろうから、その髪なんとかしといた方がいいんじゃない」
くくっと笑って村紗は自分の耳の上辺りを示した。同じところに指をやってみると、ふわふわと跳ねた自分の髪が指先をくすぐってくる。頭巾のまま眠ってしまうとこういう変な跳ね方をしやすいのが困りものだ。
そろそろ、夕方になるくらいだろうか。まだ姐さんたちが帰っていないせいか、寺の中はひっそりとしている。
このままここで暖まっていたいが、しかし。
「そろそろ夕飯の準備しなきゃ……あー、ここが台所になればいいのに。出たくない」
「横着な。去年はコタツの中に風呂があればいい、とか言ってたね」
「正直言うとお手洗いがコタツの中にあればいいのにとか考えたこともあるわよ」
「一輪はコタツ好きだよね」
「あんたもでしょ。昔嫌いだったくせに」
私の言葉に、村紗は紙をくしゃんと丸めた時のような変な顔をした。けれどもそれは一瞬のことで、すぐいつものような落ち着いた表情に戻る。
村紗は顔の造形が整っている。でも端正な顔立ちと色の白さや目元の影なんかが相まって、表情が少ない時はちょっと暗く見える。笑っている時は本当にはつらつとした、ごく普通の明るい少女にしか見えないのだけれど。
本人もそれを自覚していて、お寺のみんな以外の前に立つ時はなるべく愛想良く笑うようにしている。猫かぶりという点ではたぶん命蓮寺の誰よりも器用にやってのけるはずだ。でも気を許した相手には時々ボロが出ることも、私はよく知っている。
「そうだね。昔は熱すぎて苦手だったけど今は平気になったかな。お風呂も」
「あんた真冬でも冷水風呂だったしね」
「海の水はいつも冷たかったから。今でも普通に冷たい水の中入れるけど、お風呂をそうしようとは思わないわぁ」
そんなこと言ってたら熱いお風呂入りたくなってきた、とぼやいて村紗は大きく伸びをする。
コタツ布団を抜けて立ち上がり、してやったり顔で私を見下ろしてきた。普段よくやる、ちょっと人をおちょくるような表情に戻っている。
「一抜け。あーネズミが先だから二抜けかな。一輪はせいぜいコタツから抜け出せない苦しみを味わうが良いわ」
そうしてあっさりと部屋を出て行こうとする細身の背中に、寝そべったまま私は声だけを投げかけた。
「手袋、ちゃんと着けてよね」
スルーされるかと思ったけどちゃんと立ち止まってくれた。振り返った、光を映した水面みたいなひとみが揺れて私を見下ろしている。
丁寧にたたまれた私の手袋は、彼女の半ズボンのポケットに収まりきらずこんにちはしていた。くしゃっと適当にしまい込まないところが彼女らしいと思う。何か返そうとする村紗にそのまま畳みかけるように、私は続けた。
「寒いのに耐性あるのは時々羨ましくもなるけど。手袋なしじゃ我慢できなくなるくらい寒さに弱くなるまで、ちゃんと着けててよ。もういくらでもあったかい場所がその辺りに転がってるのに、自分から寒い方に行くような真似しないで」
「……そうだね。その通りだ」
村紗はかすれた声でそう答える。
しばらく考えたようにその場に立ち止まっていた。それから、ふいに白い歯をのぞかせて笑う。
「編んでくれてありがとう。大事にする」
言い残してするりと襖の向こうに消えていった。ろくに足音も立てず彼女が風呂場の方へ向かっていくのを、ぺたりと耳を床にくっつけたまま見送る。
完全に村紗の気配が消えたのを確認してから、そっと息を吐いた。長年、言おうと思ってずっと伝えるのをためらっていたこと。言葉にしてしまえば胸のうちにしまい込んでいた時より、気化したように軽くなった気がする。それでも、ちゃんと伝わっていてくれたらいい。
大事にすると言ってくれた、それが村紗の答えなのだと思った。そう考えると何だか満足気な気分になってきて、眠気はもう覚めたのにもう一度目をつむる。やたらと体温の高くなった自分の腕に顔をうずめて、もうしばらくだけぬくぬくと怠けていることにした。
完全にコタツを抜けるタイミングを見失ってしまって、その後だいぶ苦労したけれど。
▽
結論から言うと村紗は、以前よりは厚着を心がけるようになった。
しかしながら差し当たっての問題は、彼女には厚着をするための防寒具がないというところにあった。この寺で自分用のマフラーを持っていないのなんて村紗くらいのものだ。
そんなわけで私に手編みの依頼を持ちかけてきたので、指を二本立てて示してやる。
「一円札二枚ほど頂きます」
「高っ。えっ何、防寒を勧めてきたのはそっちじゃん!」
「ちゃんと作ろうとすると今から編んでも年が明けちゃうわよ。買ったほうがお手軽なんじゃない」
というか、本心を言うと結構面倒くさかったりする。しかも一旦作り始めると細部の編みこみやら模様やらにこだわってしまう自分の性格も理解しているので、この忙しい年の瀬に編み物に手を出したくないだけだったりする。
村紗はたいそうショックを受けたようで、よろめきながら壁に腕をついた。やたらと様になっていて演技なのか本心なのか分かりづらい。
「出たよ……一輪の面倒くさがりが……ただ私のためにあんまり時間割きたくないだけじゃん……」
ばれていた。
「ていうかどこに売ってんのマフラーって」
「……里の服屋とかで普通に売ってるわよ。今日び、重度の引きこもりですらマフラーがどこで売ってるのかくらい知ってるっての」
そんなことを言ってしまったせいで、せっかく入道屋が休みだというのに一緒に人里に行くことになってしまった。
寒空の下二人で歩いていると、やっぱり一人で行かせるべきだったのかと後悔が湧き出てくる。寒い。きんと空気が張り詰めていて、雪は降っていなくともとにかく寒い。剥き出しの耳がいつぽろっと落ちてもおかしくないくらい寒い。
対して村紗はやけに楽しそうで、音程を外した鼻歌なんぞ歌っているものだからそこがちょっと腹が立つ。たぶん鼻も頬も真っ赤にしているであろう私に比べて彼女は平然としたもので、顔はいつものように青白かったし、私のように白い息を吐き出すこともない。
その両手が当然のように青緑色の毛糸の手袋に覆われているのが、嬉しくはあったけれど。
「ていうか、飛んでった方が早いんじゃん?」
「何が楽しくてこのくそ寒い中飛んでいかなきゃいけないの? あんた凍死したいの?」
「どうどう、落ち着こうか一輪。私も歩くの好きだからいいけどね。そもそもそんなに完全武装しててまだ寒いの?」
もこもこと着膨れしている私を横目に、村紗は長袖水兵服に帽子に手袋と軽装だ。タイツだけは私が貸してあげたので、いつものように脚が剥き出しでないぶんはましだが、それでも真冬の寒さに耐えうる服装では決してない。
私の方は外套に手袋は基本として、マフラーと頭巾を両立させるとなかなか愉快な格好になるので、今は頭巾は脱いでいる。ほどほどの寒さならマフラーがなくても耐えられるけれど、今日はだめだ。尼僧の格好というアイデンティティを捨ててまで暖を取る必要がある。そのぶん耳が冷えて冷えて仕方がないのが難点だ。今日、里で耳あてを買ったほうがいいかもしれない。
ぶんぶんと頷いて問いを肯定する私を、呆れたような目で見ていた村紗はふいに思いついたように指をパチンと鳴ら……そうとして手袋をしていたことに気付き、ちょっと残念そうな顔をした。
「そうそう。買う前にちょっとマフラー体験しておきたいんだけど。一瞬貸し」
「絶対に嫌」
即答する。幽霊よろしく恨めしそうな視線を向けられたけれど、気にしない。
「ちょっと寒いくらいじゃ死なないわよ。強情一輪め」
「私は死ぬの。これほどいたらあっさり死ぬの。そしたらあんたは一人でよく知らない人里に行って、右往左往しつつ結局マフラー買えずじまい、みじめな気持ちで帰ることになるんだわ」
「よくもまあすらすらと、そんなしょうもないこと思いつくよね……」
はぁーと大きく息を吐くようなそぶりをして、村紗は前を向いた。大人しく諦めてくれたようなので私もそれ以上反論はしない。
少しの間、二人が土を踏むざくざくという足音だけが響く。幻想郷にはまだ雪が積もっていない。今年は初雪が遅くなりそうだと、天狗の新聞が告げていたのを思いだす。
そろそろ、降ってきてはくれるだろうか。隣を歩く船幽霊に無理矢理厚着させるための理由になってくれたらいい。
瑣末なことに気を取られていたから、村紗の接近に気付くのが少し遅れた。青緑色の大きな手が私のマフラーをやや解いて、自分の白い首筋に巻きつける。
二人でひとつのマフラーを共有するのは存外に窮屈なのだと初めて知った。村紗の冷たい体温が近い。
「まあこうすればいいわけか」
一人で勝手に納得してうんうん頷いていたけれど、ひっつかれると私が寒いので肘打ちを食らわせてやった。
【2.燗を飲む】
冬が好きかと言われたら、どちらでもないと私は答える。
よく勘違いされるけれど、私だって「寒い」という感覚自体はちゃんと理解できる。ただ苦痛に繋がらないというだけだ。
ここに、今にも薄氷が張りそうな冷たい池がひとつあるとしよう。私は何のためらいもなく水中に手を腕を浸す。すると自分の手のひらから感覚の名のつくもの――痛覚だとか触覚だとか――がすうっと溶けてなくなっていくように感じる。それが私にとっての寒さだった。
一種の慣れだ。ほぼ一年中凍える場所に長年居たからそんなふうになってしまったのだと思う。今では昔よりは寒さに弱くなった――逆を言えば暑さには強くなった――気がするが。
これに限らず、私の身体はもう死んでいるくせになかなか融通がきいた。何も食べられない環境に居たら空腹を我慢できるようになったし、いっときは歩く必要がなかったから二本の足でろくに立つこともできなくなってしまったのに、今ではもう平気で走れるし跳べる。身体に馴染んだ感覚を別の環境に慣らすには、どうしてもいくらかの時間がかかるのが面倒だが。
ともかく、今私が自分の足で歩けているのも、至って当然のように空腹を感じるのも、昔よりは寒さに弱くなったのも、自分が「そういう」環境に置かれているからなのだろう。貰ったばかりの手袋を眺めながらふと考えた。
▽
「結構な量じゃのう。どこで処分すればええんじゃ」
「里の近くに、共同の回収場所がありまして。里長さんのご好意で私共も使わせて頂いているのですよ」
マミゾウさんと聖の会話を横目に、私たちは黙々と柱を水拭きする。濡れ縁での掃除担当をしきりに嫌がっていたぬえも、聖の前だからかいつもに比べれば真面目に掃除に取り組んでいるように見えた。感心感心……と思って黒い後ろ姿をこっそり覗きこんだら、雑巾を濡らさずに乾拭きしてやがることに気付いた。反射的に頭をはたく。
「いっ!」
ぬえは勢い良く振り返ってぎらついた瞳で私を睨んだ。目つきは悪いけれど下から見上げられる格好なので、いまひとつ迫力に欠ける。
「ムラサなにしてくれんのよ? あ?」
「手ぇ抜くんじゃないわよ。頭から水ぶっかけてやりましょーか」
「私はあんたと違ってデリケートなのよ。こんなクソ寒い日に何が悲しくて濡れた雑巾触んなきゃいけないの」
「みんな寒いの我慢してるの。あんただけじゃないのよ」
そう口にしながら、ちょっとした罪悪感に駆られた。「みんな」だなんて、私を除いた「みんな」だ。いつもは白粉をはたいたみたいに真っ白いぬえの手は充血して赤くなっているのに、私の手は死蝋よろしく青白いまま。
少し離れたところで瓦礫の山を前にしていた聖が「ぬえ、ムラサ、一年最後の日に喧嘩はよくありませんよ」と声をかけてくる。「分かってますから!」と私は返して、改めてぬえに向き直った。
「ちゃちゃっと拭けばすぐ終わんの。おーけー?」
「……わーったわよ。やりゃいいんでしょ。やれば」
ため息をついてぬえがバケツの方へ向かう。ぬえは天邪鬼だけど見た目ほど子どもではないし、一同にわざと迷惑をかけるようなことはしない。昔よりずっと素直になったと思う。地底で知り合ったばかりの頃の彼女じゃ、何があっても集団での大掃除を手伝おうなんてしなかったに違いない。
大晦日、だった。今日でこの一年が終わり、また新しい年がやってくる。
今日ちらほらこの寺を訪れる人々と同じように、私たちはうきたっていた。私たち命蓮寺の連中はもうかなり長い間生きているので(私はさておき)、彼ら人間にとっての一年は私たちにとっての一年とまるで重みが違うだろう。それでも、年の瀬のこの雰囲気はいつだって、どこにいたって楽しい。千年前だろうと、暗くて湿った地底だろうと、この幻想郷だろうと。
しきたりを重んじる命蓮寺では、大掃除は毎年大晦日に行われるものと決まっている。かなりの敷地なので正直大変なのだけれど、自分たちの住む場所が汚れを落として清潔になっていく様子は心地よいものがある。私たちの寺であるのと同時に、私の船でもあるのだからなおさらだ。
ぬえより先に柱拭きを終え、黒くなった雑巾を水で洗う。ざぶざぶと波に似た音がするなあとぼんやり考えた。嵐の後の海みたいに、バケツの水は黒く濁ってしまう。
かたく絞りながら立ち上がると、「これだけ多いと、荷車を納屋から出してきた方が良いかしら……」という聖の声が聞こえた。
何かしら悩んでいるようなニュアンスだったので、縁側に寄せてあった靴を履き、そちらに駆け寄る。後ろから投げつけられる「えっムラサもう終わったの。ずるい」という声は無視して、聖の側に立った。
「拭き掃除終わりました。お手伝いしましょうか」
「ありがとうね、ムラサ。この廃材を荷車で里の近くまで運ぼうと思うのだけれど」
足元には割れた瓦やら古びた板切れやらがうず高く積まれていた。命蓮寺は建物自体がだいぶ古いので、劣化した部分を星が新しく付け替えたり修理してくれたのだという。ここにあるがらくたはその余りらしい。
私はちょっと顔をしかめる。運ぶ事自体はいいとして。
「人里ですか……」
「あまり里が得意でないなら、別の仕事をしていてくれて良いのよ」
「……行きます」
自分から申し出ておいて、聖の頼みを断るわけにはいかない。
とはいえ、私一人が行ったところで里の方がまともな対応をしてくれるかは甚だ疑問だ。稗田の何代目だかが発刊した求聞口授のせいで、私の里での評判はすこぶる良くない。そりゃあ、顔も知らない人間だからとちょっかいをかけていた私が悪いのは承知しているけれど。
少し考えてから、名案を思い付いてぽんと手を打った。
「一輪連れて行っていいですか」
「本人の了承が得られたらね」
あっさり聖がそう答えたので、「はぁい」と返事をして踵を返す。彼女は確か、台所の掃除を任されていたはずだ。入道屋なんてものをやっているおかげで、彼女は聖や星並に里で顔が利く。問題は、この寒いのに一輪がわざわざ外で力仕事をやりたがるがどうか、だが。
多分断られるだろうなあ、と思った。彼女はああ見えて面倒くさいことが嫌いだ。寒さも嫌いだ。好き好んで寒い上に面倒くさい仕事に乗り気になってくれるとは考えにくい。
駄目で元々、と割り切って私は小走りに廊下を駆け出した。
案の定、すごくすごく嫌そうな顔をされた。
「一人で行ってきなさいよ。貨車引くのは雲山貸したげるから」
「私じゃ雲山の言葉分かんないんだけど」
「今更何の会話が必要だってのよ。指示なら身振り手振りでできるでしょ」
それはそうなのだが、雲山と私の間の問題じゃなくて、人里と私の間の問題なのだ、これは。
流し台の下をせっせと拭いていた手を休めて、割烹着姿の彼女は冷めた目で私を見上げている。一輪がしゃがんでいるので、いつもより目線をかなり下にやらなければいけないのが何となく落ち着かない。
「一輪いなきゃ人間が心開いてくれない」
「別に、見た感じいつもそんなに酷い扱いされてないと思うけど?」
「怖がられてるから相手の態度も丁寧なの。居心地悪いのよ」
この寺は人妖平等を謳っているけれど、人間が好きな妖怪ばかりではない。少なくとも私はそうだ。用もなければ……というか、他人の用に付き合わされる時でもなければ滅多に自分から里には行かない。そして一番、自分の用事に付き合わせてくるのが目の前の旧友だったりする。
一輪は渋ったけれど、通りに並んでいるであろう出店のりんご飴を条件にあっさりと釣られた。彼女は甘党なのだ。
そんなわけで雲山が貨車を引き、私がその横をてくてく歩き、貨車の後ろに一輪が座って揺られている、奇妙な一行が完成した。小石を踏んで車輪が跳ねるたび、積まれた材木や瓦が崩れて荷台から落ちそうになる。一輪はのんびりした動きでそれをキャッチして崩れないところに置き直す。
がらがらがら、と規則的な音を立てて貨車が進む。たまにがこん、と石に乗り上げた衝撃で揺れる。退屈そうな顔をして、一輪がふうっと白い息を吐いた。彼女のくちなし色の手袋に包まれた後、あっけなく消えていってしまう。
「動かないと余計寒いと思うよ」
「動くと余計寒いの。あんたも乗れば」
「雲山に悪いからいいよ」
私一人が乗ったところで、雲山にしてみればはあまり変わらないだろうけれど。歩きたい気分だった。
巻き方が下手だったのか、もう緩みかけていたマフラーを直す。つい先日、初めて買ったものだ。首周りが覆われている感覚に最初なかなか慣れなかったけれど、今はそうでもなくなった。薄くて柔らかい布の深い紺青。私ではどうしても選べなかったので、選んでもらった。
この前貰った手編みの手袋もちゃんと嵌めた。考えてみれば、マフラーを買いに行って以来二人でまともに出かけるのは初めてだ。
「帰ったらちょっと休憩して、それからまた忙しくなるね。特に一輪は」
「うちのお寺に百人以上も鐘撞きに来るもんなの? とか思うけど、毎年ちゃんと来るのよね」
「うちしか寺がないからじゃない。他に煩悩の打ち消しようがないから」
命蓮寺では毎年、ちゃんと百八回除夜の鐘を鳴らす。参拝客に鐘を撞いてもらうのにあたって案内と作法の指導をするのが一輪の役目のひとつだ。その間ずっと冷え込む屋外に立っていることになるので、本当は私が引き受けるべき仕事なのかもしれないが。
煩悩ねえ、と一輪が小さく呟いた瞬間びゅうと風が吹きつけて、「おー寒っ」と顔をしかめた。里がそろそろ近いのもあって道を歩く人の姿が増えつつある。突然の寒風に大抵の人間たちはぎゅうと身を丸めるばかりだけれど、少し離れたところを歩く若い男女の二人組は寄り添うようにして身を固めていた。
ははあ、ああいう暖のとり方もあるんだなと妙に感心していたら、何となく背中に視線を感じた。振り返ると一輪がじっと私を凝視している。何も言わずにただこっちを見ているから、居心地が悪くなって「どしたの」と訊いてみる。
「ああいうのやりたいなら私にしてもいいわよ」
「私は寒くないからいいわ……」
「私は寒いのよ」
「やりたいなら一輪が私にしてもいいよ」
「あんたにひっついたって寒いだけでしょ。コタツが恋人なら良かったわ」
「あのさぁ」
自分から言い出したくせに。そう文句を言おうとしたけれど、雲山が何やらこっちを見ていることに気付いて口を閉じた。諌めようとしているのかとも思ったが違うらしい。
「そろそろ着くぞ、って言ってる」
一輪の言葉通り、目的地が見えてきたようだった。ばちばち、と爆ぜるような音。立ち上る白い煙。
しばらく歩くと全貌が見えてきた。何人かの男たちが燃え盛る火を囲んで、運び込まれるがらくたを次々に放り込んでいる。燃えそうにない素材のものは横に分別され積まれている。里中のごみをこうして燃やして、灰をまとめて埋めるなりして片付けるつもりなのだろう。新しくごみが投入されるたびに、ごうごうと勢いを増す火の赤さに目が眩みそうになった。
一人の男がこちらに気付いて、気さくに手を挙げる。私は知らない顔だったけれど一輪と雲山は顔見知りらしく、雲山は強面のまま会釈をし、一輪は親しげに男の名前を呼んだ。
「やあ、入道屋の姉ちゃん。久しぶりだな。それ片付ければいいのかい」
「ええ、お願いします。ちょっと量が多いんだけれど」
「燃やしちまうんだから変わらんわな。こっちにその車持ってきてくれ、後は俺達がやるから。若い娘には危険なんでな」
「若いって言われるような歳でもないんだけどねぇ」
二人の談笑を、私は何をするでもなく横で突っ立って聞いていた。よくあることだから何とも思わない。二人で人間の多い場所に出向くと大抵こういうことになる。
しかし、急に男がくるりとこっちを向いたのには少し面食らった。不自然じゃない程度に笑顔を作って「どうも」と挨拶をする。私の声のトーンが上がるのが面白いらしく、一輪が小さく「くっ」と笑うのが聞こえたので、横目でこっそり睨みつけてやった。
「そっちは船長さんか。今年も遊覧船、楽しみにしてるからな」
「ああ、すみません。今回は遊覧船やらないんですよ」
「えっ、何だそうなのか。正月の命蓮寺といえばあれだったのにな。里の連中ががっかりしちまう」
心底残念そうに男はそう言って、気を取り直したのか「じゃあ、ちょっくら待っててな。積荷を車から下ろして燃やしちまうから。来るまでに冷えただろうし、嬢さん方は火に当たって暖まっててくれ」と言い残して、雲山と一緒にがらくたを下ろし始めた。手伝おうか迷ったが、自然な仕草で一輪が私の手を引いて火の側まで寄ったものだから黙ってついてゆく。
私たちの背丈よりずっと高いオレンジ色の炎に手をかざして、一輪は「はぁ、あったかい」と呟いた。私にしてみれば少し暑いくらいだったけれど。青緑色の手袋を嵌めた手をポケットに突っ込んで、私は空に立ち上る煙をじっと眺めていた。
「親切な人だね」
「そうね。人間もそう悪い人ばっかりじゃないでしょ」
「それとこれとは別」
別に全員が悪人だなんてもともと思っていない。私が人間とは仲良くできない、「そういう」妖怪であるというだけだ。それに、今の男は確かにとても親切で人が好さそうではあったが、私はあまり好きになれない気がした。
そんなことをわざわざ言う必要もないので唇を閉じる。そんな私と対照的に、一輪は思い出したように口にした。
「あの人八百屋さんなんだけど、いつも何かサービスしてくれるからありがたいのよねぇ」
「一輪に気があるんじゃないの」
何気ないはずの一言が、自分で思っていたよりずっと嫌な響き方をしてしまってびっくりした。喧騒とも言えない周囲の賑やかさが耳の中で増したようで、私は呆然としてしまう。
助かったのは、一輪の耳にはそんなに悪いようには聞こえなかったらしいことだ。一瞬きょとんとした顔をして、それからふいに笑い出す。
「何でそんな勘違いしてんのよ。ひょっとして嫉妬してる? あーおかしっ」
けらけらと心底おかしそうに軽快な声を上げる。嫉妬、と私は胸の内で呟いた。火に当たって充分すぎるくらい暖かいのに、心臓の真上辺りにぴしぴしと薄い氷が張るようなこの感覚。溶けない。
「……嫉妬なのかな」
「そぉよ」
一輪は何でもないことのようにそう答え、一度は離した手のひらで私の手首を掴んで、ポケットから引っ張り出す。現れた私の手を握ったことが、手袋越しの感触でも分かった。
おずおずと力を込めると握り返される。だというのに、彼女の体温がひどく離れたところにあるような気がしていた。
私はまぎれもなく、さっきの二人連れの男女がそうしていたように、隣にあるからだに身を寄せたいと思っていた。自分でも驚くくらいに強い衝動だった。触れるくらい近くまで頬と頬を寄せ合って、火を眺めていたかった。
でも、そうするわけにはいかなかった。そんなことをしても温かいのは私だけで、一輪のもとには彼女の嫌う寒さしか訪れないことも知っていたのだ。だから私は黙って手を繋がれたまま、乾いた空気を舐める炎を見つめ続ける。
一輪は私の様子に気付いてはいない。また笑われてしまいそうだから、気付いてくれなくて良かった。ふいに背後から声がかけられる。
「おーい、これで車は空になったからな。二人ともご苦労さん」
野太いその声によって、私たちの静寂は、私の逡巡は、あっさりと破られてしまった。
▽
日が沈むのはあっという間だった。何しろやることがたくさんありすぎたのだ。
大掃除の仕上げをし、いつもより豪勢な夕食を食べ、それぞれ風呂に入り、翌日から参拝客に振る舞う雑煮の下ごしらえをして(これはほぼ一輪と聖の仕事だった)、私は参拝客への案内の張り紙を寺のあちこちに張った。年越しそばを食べながら当然のようにマミゾウさんはお酒を飲み始め、聖に見つかって怒られている。響子は年越しゲリラライブだとか言って、仲間たちと一緒にこの寒空の下を楽しそうに走っていった。ゲリラ?
じんと一層冷え込む深夜、聖と星と一輪も席を立った。あと数刻ほどで日付が変わろうとしているから、ちらほら見え始める参拝客の相手をするためだ。新しい年がすぐそこまで迫っていた。
残された私たちはコタツでぬくぬく暖まりながらミカンを食べ、甘酒を飲む。
「しかしまあ、最近は光陰矢のごとしに磨きがかかっている気がするね」
しみじみとナズーリンが呟いた。「何回目の正月だろう。さすがにありがたみもなくなってきたな」。
とはいえ、「命蓮寺」として年を越したのはまだ片手の指におさまるくらいの回数だ。年明けの瞬間を全員で揃って迎えることはできなくとも、私たちが居て、聖の教えに多少なりとも感化された多くの人妖が寺に訪れる年越しや正月は、聖にとっても大切な行事なのだろう。ならば私たちもこの日を大事にするべきだ。
何の予兆もなく、ごおおおぉぉぉん……と地響きのような、しかし澄んだ音が聞こえてきた。何かを言おうとしていたぬえも口を閉じて、音のした方向を見る。命蓮寺では普段は使われていないから、この音を聞けるのは今から日付が変わるまでの、限られた時間だけだ。
「鐘が始まったね」
誰かが呟く。数秒置いて、またひとつ聞こえた。
誰もがそちらに気を取られている間に、おもむろに襖が開いて、席を立っていたマミゾウさんが戻ってきた。両手に湯気の立ち上る徳利を数本持っているのだからさすがに呆れる。
「まだ飲んでたんですか」
「めでたい瞬間に飲まんでどうするんじゃ。お前さん方もほれ」
お猪口もちゃんと数人分用意されていた。気楽な動作でぬえがそれをひとつ受け取り、酒を注ぐ。
「マミゾウはまた聖に怒られるね」
「年越しくらい白蓮は怒ったりせんよ。星は飲むなら後から自分も混ぜてほしいと言っとった」
ちゃっかりした毘沙門天代理だ。これからどんどん忙しくなってくるのに、揃って酒盛りする時間があるかどうかは怪しいが。
私もお猪口を引き寄せ、手酌で注ぐとそっと口をつけた。火傷しそうに熱いものが喉を伝い、花が広がるように胸のあたりをじんわりと温めてくれる。今夜はここ最近で一番の冷え込みだったので、久々に飲んだ熱燗はやたらと美味く感じた。
外はどれほどの寒さなのだろう。絶えず鳴り続ける除夜の鐘に耳を傾けながら考える。何回目の鐘なのか、もうわからなくなってしまった。
「マミゾウさん、これ一本貰っていっていいですか」
「おう、構わんよ」
「ムラサ、どっか行くの?」
「差し入れしてくる。こっちだけ飲んでたって知ったら後から文句言われそうだから」
コタツ布団をするりと抜け、立ち上がる。寒気に触れた太ももが強張るのもほんの一瞬のことだった。徳利とお猪口ふたつを手にする私をちらと見て、ナズーリンはひとつあくびをした。あまり酒に強いわけではない彼女はもう眠そうだ。
「それ渡す時に、人前で堂々と飲むのはやめろと伝えておいてくれ」
「了解。行ってきまーす」
返事をして、私は部屋を出た。人口密度の高かった空間から出たせいで一気に気温がぐっと下がる。
そのままの格好でも平気だったけれど、何となくわざわざ自分の部屋まで引き返して、手袋とマフラーを身に着けた。指先に、首筋に、溶けていた感覚が戻ってくる。
それから小走りで暗い廊下を行く。酒が冷めてしまっては元も子もないが、徳利は俺に任せろと言わんばかりに頼もしげな熱を私の手袋越しに伝えてきてくれていた。当分、冷めそうにはない。靴を履いて、外に出た。
本堂の表側は参拝客やその対応をしている聖と星がいることが分かっているので、裏側から鐘撞き堂に回りこむ。徐々に鐘の音が近くなってゆき、鼓膜が心地良い震え方をするようになった。やがていくつもの明かりの向こうに、順番待ちをして並んでいる人間たちと、傍らで鼻の頭を赤くして立っている一輪を見つけた。
「一輪!」
私の声に彼女はこっちを振り向き、驚いたような顔をした。
列にいる大柄な男――昼間の八百屋の男だ――に何かを言ってから、私の方に駆け寄ってくる。
「どうしたの」
「差し入れ。……って言っても今飲める状況じゃなかったかな」
後ろ手で隠していた徳利をこっそり示す。その口から息のようにとめどなく立ち上る薄い湯気を見て、一輪は心底嬉しそうに顔をほころばせた。
「村紗、あんた最高。よし、どっかで飲みましょうか」
「えー……案内はいいの?」
「作法の指導役なんていらなかったなって、ちょうど後悔してたとこ。寒いし。大体手ぇ合わせて鐘撞くのなんて、毎年毎年教わるほど難しいことでもないでしょ」
それはそうだけど、と横目で見れば、しかし列に並ぶ人間たちはまったくよどみない動作で鐘を撞き続けていた。
手を擦り合わせたり足踏みをしたりして寒さに耐えながら順番を待っているのは、基本的には老人や、中年の男女ばかりだ。毎年鐘を撞きにきている顔ぶれだろう。
さっきまで一輪と話していた男と目が合う。列の中で、彼が一番若いようだ。男は困ったように笑って、私に向かってちょっと頭を下げた。ひどく残念そうな、しかし諦めの入り混じった笑みだった。
(ごめんね)
内心で謝りながら、それでも一輪に手を引かれてその場を後にする。ほらやっぱり勘違いなんかじゃなかったでしょう、とも考えつつ。
今日はあちこちに明かりが設置してあるから、夜目の効かない一輪も本堂の裏まで戻るのに苦労はしなかった。人々の談笑がうっすらと聞こえる程度の位置までやってきて、「この辺りなら見つからないわね」と一輪は足を止める。
よいしょ、と壁にもたれて座り込む彼女の横に、私も腰を下ろした。背中とお尻が冷たい。足元に置いてある行灯の柔らかい光に照らされて、一輪の横顔が照らし出される。少し開かれた唇の間から漏れる白い息が、彼女の感じている寒さを物語っているようだ。
「ていうか、鐘数える人が残ってないとまずくない?」
「雲山いるし、私も回数くらいは数えてる。これで七十……あれ、三だっけ、四だっけ」
部屋の中よりだいぶ近くなった鐘の音を背景に、一輪は難しそうな顔をして指を折っていた。駄目じゃんと突っ込みを入れて私は笑う。それから改まった動作で、ふたつのお猪口に酒を注いだ。
ひとつを一輪に手渡す。手袋を嵌めているせいか掴みづらそうに、しかしちゃんと受け取って一輪が嬉しそうにはにかんだ。
「じゃ、今年一年、お疲れさま」
「ん、お疲れ」
軽く盃を交わしてから一気に煽る。
まだ充分に温かいとはいえ、やはりさっきまでの目に染みるような熱さは失われてしまっていた。部屋に寄り道せずに真っ直ぐこちらへ来れば良かったと後悔する。
「少し冷めてる。ごめん」
「いいの、私猫舌だからぬる燗が一番好き。あー五臓六腑に染み渡るわぁ」
舌の先で唇を軽く舐め、一輪が二杯目を注ぐ。今度はちびちびと口に含むようにして飲み始めた。徳利一本分なんて、気を抜けばすぐなくなってしまうことを知っているのだ。
今年も平穏無事に過ぎていってくれたな、と思う。昔に比べれば今の幻想郷での暮らしは平和そのものだ。時々起こる小さな異変など気にもならないくらいに。
人生において良いことと悪いことはトータルでは半分になる、そんな言葉があった気がする。ならばきっと今は、昔私たちがどん底を這っていたぶんのもう半分だ。何もない日常がいつまでも続くだなんて、夢のようなことは信じられないけれど、今飲んでいるお酒があまりに美味しすぎて、そう信じてしまっても良い気がした。
「お酒はあったかいけど、やっぱりどうしても寒いわよね」
頭巾の奥に覗く細い首筋をさすりながら、一輪が言う。鼻の頭や頬なんかに比べるとずいぶんと白い。
「首元寒そう」
「超寒い。あんたはマフラーあって羨ましいわー」
「貸そうか?」
一輪がこの寒いのにマフラーをしていないのは、人前で頭巾を脱がないという彼女の信条があるからだ。私含め、命蓮寺のごく一部の前でしか彼女は頭巾を外さない。下に首元まで襟のある服を着ていてもやっぱり寒いだろう。
一輪はちらりと私を見、「……半分貸して」と呟くと頭巾を脱いだ。肩の下辺りまで長い髪が溢れて、間からさぞ冷たくなっているであろう赤い耳が控えめに顔を覗かせている。
半分? と口に出して尋ねる前に彼女の手が伸びて、器用に私のマフラーを少しだけ解いて自分の方に巻きつける。細いくせっ毛が私の頬を撫でて、呼吸の音が近くなった。
すう、とひとつ息を吸う。
「……前に私がやった時は嫌がったくせに」
「今はそういう気分なのよ」
「私がくっつくのは寒いから嫌だって言ったのどこの誰よ」
「寒いのは嫌よ。でもそれとは別でしょう、こういうのって」
違いない、と答えて私は黙り込んだ。すぐ隣から向けられている視線に気付かないふりをして、空になったお猪口に酒を注ぐ。
あれほど切望していたことが叶って、どうしたらいいか分からなかった。髪を撫でたり手を握ったり、気の利いたことはいくらでも思い付く。でも、それさえも必要ない気がしていた。
二人とも、どこか遠くに言葉を置き去りにしてきてしまったように黙りこむ。このまま取りに戻らずとも良い気がした。あとほんのわずかで終わってしまうであろうこの一年の間は、少なくとも。
だから鐘の音を聞いていた。相変わらず一定の間隔で鳴り続けるこの鐘は、聖が、私たちが積み上げてきたものの結晶だ。同時に、過去の精算だ。一度ばらばらに砕けて、またひとところに集った私たちの現在を約束するための音だ。響くたびにいらないものをひとつずつ打ち消して、本当に大切なものだけを私たちの中に残しては消えてゆく。
列に並んでいた男の顔を思い出す。彼はもう鐘を鳴らしたのだろうか。もしかすると、あわよくば一輪の隣で年を越そうなんて考えていたのかもしれない。そのためにせっせとこの寒い中、うちの寺まで足を運んでくれたのかもしれない。
でも、この位置はそう簡単に渡す気はない。私にとって譲れないもののひとつなのだ。
「ひゃく、はち」
一輪が呟く。ごおおぉぉん、という鐘の音と共に、どこか遠くから火薬の爆ぜるような音がいくつも聞こえてきた。
多分、どこかで鳴らされた花火だろう。ここからは見えないけれど、音につられて人々のかすかなざわめきがわっと増したようだ。年が明けたのだ。
徳利の口から最後の一滴が滴って、それがそのまま一輪の舌の上で転がされてゆく。
「あけましておめでとう」
空になった徳利を置いて、少し酔っ払っているらしい一輪は「これからもよろしく」と上機嫌に笑った。
【3.きみにねがいを】
目が覚めると一段と寒かった。
ああそろそろお寺勤務なんてやめて常夏の島にでも引っ越そうかしら。なんて寝起きの頭で考えて、頬の辺りがピリピリ引き攣るので完全に布団に潜り込んだ。
もう少しこうしていたい。眠いというよりは寒い。何が悲しくてこの暖かな布団から出て、わざわざ極寒の世界に身を置かねばならぬのか。このまま布団を恋人にして一生丸まっていたい。
しかし残念なことに、理想通りにゆかないのが人生というものだ。そして往々にして、予想よりはるかに悪い方向に傾いてしまうものなのだ。どたどたどた、と騒がしい足音がこっちに近づいてくる時点で、嫌な予感はしていた。
「いちりんさあぁぁぁぁん! 起きてくださぁぁぁい!」
厚いはずの布団をあっさりと貫通して響く轟音に、私はうめいた。
「……あのね、きょうこ」
「おはようございます! 外! 外すっごいんですよ! 起きてください!」
ゆさゆさと揺さぶられる。起きてはいる。目はすっかり覚めているのだ。ただここから出たくないだけで。
しかしこのままでは声の第二波がやってきそうなので、緩慢に覚悟を固めつつのっそりと這い出る。布団を恋しがって全身が悲鳴を上げるが耐えた。響子は無邪気な顔で一輪さんて冬だけ朝弱いですよねー意外ですよねーなんてのたまっている。悪意がないのがタチが悪い。
外がどうしたの、と声に出してみても、口の中が乾いてろくに音にならなかった。響子はにこにこ笑いながら、「見てください!」と部屋の障子を勢い良く開ける。その無邪気さが憎い。別に見せてほしいなんて誰も言っていない。
「ちょっ、ほんとやめ、寒いから! 寒い、から」
途端に、目に染みるような冷たい空気が入ってきた。思わず悲鳴を上げかけたけれど、繰り返す言葉尻が途切れる。ひやりとした空気をひとつ吸い込んで、私は目の前の光景に目を奪われた。
昨日まではごくいつも通りだった命蓮寺の庭が、一晩にして一面真っ白く染め上げられている。昇り始める朝日をきらきらと反射していた。
「大晦日から元旦にかけて一夜で銀世界に、ってなんかいいわねえ」
「夜中に降り始めて、それ見た雪女がテンション上がったからこうなったらしいよ。よくもまあ短時間でここまで積もったね」
「迷惑だわー。誰が雪かきすると思ってんの」
「少なくともあんたがやらないことは断言できる」
昼食の雑煮を食べながら私たち三人は会話をする。
今朝は元旦だけあってずいぶん忙しかった。ろくに朝食を食べる暇もなく互いの仕事をこなして、昼頃にはやっと落ち着いた。それでも寅丸と姐さんが拘束されているのはお馴染みだ。寺としての専門的なあれこれはあの二人にしか分からない。
ほのかに甘い白味噌の雑煮を、火傷しないようにふうふう冷ましながら食べる。三つ葉とゆずが効いていて、作った本人ながらなかなか美味しい。
「初詣は夕方からだってさ」
「お決まりね」
村紗の言葉に、どうでもよさそうにぬえが答える。
命蓮寺の全員が顔を合わせての新年の挨拶、初詣は夕方頃になるのがお馴染みだった。理論上はあの寅に向かって願掛けをすることになるので、正直まったく期待していないが、こういうのはお約束を守ることが大事なのだと思っている。
しかしお約束事があまり好きではないぬえは、たいそう乗り気でないようだった。
「初詣って言ってもさぁ、この歳にもなるとそう願い事なんて浮かんでこないっての」
「あんたはそれより手ぇパンパン叩いて怒られるのいいかげんやめた方がいいわよ」
「こちとらあんたらと違って仏門に入って日が浅いのよ。普通叩くでしょ」
「残念、お寺で手を叩くのは仏様に失礼ですわ」
なむなむ、と手を合わせてみせる。
私だってお酒は飲むし座禅中にうたた寝するし、たまにお肉も食べるのだから充分破戒僧に当たる。それを言ったら村紗なんてお経のひとつをそらんじるのもちょっと危ないし、命蓮寺で本当に戒律を守っているのは姐さんくらいなのだから元も子もない。
結局、昼食を終えてしまうとすることもなくなり、ぬえはマミゾウさんの部屋にお酒をねだりに行った。私と村紗も誘われたけれど丁重にお断りし、二人でコタツを陣取る。
洗い物を先に済ませるため、鍋とお椀を流しに運ぼうとしたら村紗がそれを止めた。「私洗うからいいよ」との言葉にありがたく甘えることにする。そうして洗い物をしに行く細い背中を何となく見送った。
今年初の驚きは、今朝の一面の雪景色で、二番目は食の細い村紗が雑煮を二杯ぺろりとたいらげたことだった。朝食を食べていなかったようだしお腹が空いていたのだろうが、普段は小食に徹しているのに。
厳密に言えば、もう死んでいるのだから食べる必要すらないのだろう。実際、私たちのもとに来たばかりの頃は決して皆と一緒に食事を摂ろうとしなかったし、隠れて何かを食べていた様子もなかった。彼女がいつ頃からちゃんと食事を摂るようになったのか、正直に言うとあまり覚えていない。
そんなことを考えていると村紗が帰ってきた。手の拭き方がいいかげんなのでまだちょっと濡れている。
「ありがと。あんた今日よく食べたわよね」
「うん。おいしかったから」
「お。光栄ね」
軽くそう答えたけれど内心は結構嬉しかったりする。作った側にしてみれば、よく食べておいしいと言ってもらえることほど嬉しいことはないのだ。
私たちはすることもなく、かといってそれほど話すこともなく、私はおざなりに爪の手入れを始め村紗はぼんやり机の上を眺めていた。昨日の夜から今朝にかけて、互いに忙しかったから少しばかり疲れていたのかもしれない。
そういえば、一対一でのあけましておめでとうございますはもう言ったんだっけ? そんなことに思い当たったのは、ちょうど村紗が口を開いたのとほぼ同時だった。
「ぬえもああ言ってたけどさ」
「うん? ……っと」
唐突だったので、うっかりと爪やすりを落としてしまった。
拾おうとしたそれに骨ばった白い手が伸びてきて、「はい」と手渡される。礼を言おうとするとそれより早く、村紗が先ほどの続きを喋った。
「一輪、去年の初詣で何お願いしたか覚えてる?」
「……まるで覚えてないわね」
「でしょ。私も思い出せなくてさ。今年はどうしようかなって悩んでたとこ」
村紗は妙に神妙な顔でそんなことを言う。それからふいに力が抜けたように、机にべちゃりと伏せた。
「何だろなあ。どうせその程度の願いなんだもんなあ。衣食住保証されてるし、聖はいるし? って考えると、本当に願うことなくて我ながらどうなのって思いました。まる」
「あんた物欲少ないから。私なんか欲しい物挙げたらキリないし。今年は里の和菓子屋の福袋でいいのが当たりますように、とか願おうかな」
「えー、私にだって欲しいものくらいあるよ、……」
村紗は何か言いたげな顔で、しかし言葉を切ってしまった。
続きを喋るかと思ったけれどそうでもなかったので、私は爪磨きを再開する。水仕事のせいか少し凹凸の生じた爪の表面を、なるべく平らに保っておくのだ。
村紗と一緒に里に行っても、店先を見てあれが欲しいこれが欲しいと言うのは私で、彼女は曖昧に頷いたり首を傾げたりしているだけだ。傍目からは村紗は物欲がかなり薄いように見える。私は厚手の靴下が欲しいし、そろそろ焦げ付いてきた鍋も新しくしたい。
でもそれを一年に一度の願い事のチャンスに費やしてしまうのはちょっとばかり悲しい。どうせ願うならもっと大きなこと、自分の力ではどうにもならないようなことを神頼みしたい。そんなの、あまり多くは思い付かないけれど。
ひとつ言うなれば。私が死ぬまでは、村紗に成仏しないでほしい、と思っている。
それはいつのことだろう。あの時代じゃ、五十年も生きることが出来ない人間だった私は、こうして妖怪になって千年の時を生きた。まだ当分死ぬつもりはないし、死ぬ時はなるべくなら苦しまず死にたい。
ただその後、私を失った後の村紗水蜜が何を思うのか、私にはよく分からない。涙を流してくれるかもしれないし、幽霊の仲間が増えただなんて喜ぶのかもしれない(幽霊になるつもりはないけど)。ひょっとしたら、置いていかれるのは嫌だと思ってくれるのかもしれない。
長年一緒にいて彼女のことをよく知っているつもりでも、このことを考えると私の頭はいつも混乱して、見慣れた横顔を眺めることしが出来なくなってしまうのだ。
「何でこっち見てるのよ」
「あ、バレた」
視線に気付かれた。適当に笑ってごまかして、いつの間にか止まっていた手をまた動かす。まだ片手の指の爪すら綺麗に出来ていない。
「願掛けの内容考えてたの」
「ほう。どうせ新品の靴下が欲しいとか、いいかげん鍋替えたいとか、そんな程度のことでしょう」
「気持ち悪っ! なんでそんな当たってるのよ」
「穴うざいー床冷たいーとか焦げ洗うのだるいーとか、一輪いつも言ってんじゃん」
そもそも穴の開いた靴下を平気で履くのが女としてどうかと思うよね、なんて言われたけれど聞こえないふりをする。尼僧たるもの、貧乏性なくらいでちょうどいいと思うのだ。ちょっとほつれたくらいでぽいぽい衣服を捨てる方がどうなのか。
可能なら何だって簡単に捨てたくないし、手放したくない。そんなことを考えていたからだろうか。ぽろりと口からこぼれた。
「あんたさぁ、いつか成仏したい?」
もしかしたら失礼な質問だったのかもしれない。しかし村紗本人は特に気に障った様子もないようだった。ひとつまばたきをして、きょとんと私を見る。
「それ答えたら、一輪はそれお願いすんの?」
「……わからないわ」
正直に答える。いくら妖怪になったとはいえ、彼女は幽霊だ。いつまでも永遠にここに留まれる不老不死とは違う。
それでも私はやっぱり、私が生きている間は村紗にいきていてほしいと思う。でも私が死ぬことで村紗に何かしら感じるところがあるのなら、私は彼女を見送ってから逝きたいとも、それまで生き延びなくてはならないとも思う。上辺だけの願掛けでそれが叶うのなら願いたい。
飲み下したはずの雑煮のかすかな甘さが口の中に残っていて、水が飲みたい気分だった。口の中がからからなのは緊張しているからだと、この時ではなく後になって気付いた。
村紗はくくっと可笑しそうに笑う。声に少し揶揄するような響きが含まれていた。
「一輪は本当に私のことが好きね」
「前から思ってたけど、あんたって結構うぬぼれ屋よね?」
「まあ否定はしない」
そんなことを平然と答えて、村紗は立ち上がった。お茶でも淹れに行くのか、もしかしたらこの会話を打ち切って席を立つつもりなのかと考えたけれど、どちらも違っていた。
いつも通りの落ち着いた口調で、村紗はあっさりと言ってのける。
「一輪。雪だるま作りに行こう」
「……はぁ?」
▽
何が楽しくてこの寒空の下、千ウン歳二人が並んで雪だるまを作らねばならぬのか。
……とか思っていたら意外に楽しすぎた。元々手作業が好きなのはあるけれど、やたらと楽しい。何だこれは。手袋をしているから冷たさもあまり気にならない。村紗は手袋を濡らしたくないからと素手で作っていたけれど。
手のひら大の小さな雪だるまを量産して、濡れ縁にひとつずつ並べる。参拝客がここまでやってきたらびっくりされてしまいそうだが、まあいいか。
「一輪は単純だから絶対作り始めたらはまると思ったよね」
村紗はしみじみひとりごちている。そんな彼女は雪だるまとぎりぎり呼べないような、むしろ限りなく雲山に近いもこもことした白い塊を作っていた。マフラーが濃い紺色なものだから、顔の白さが余計に際立って見える。雪の色と大差ない。
相変わらず小顔で羨ましいわぁ、なんて思っていたら目が合った。村紗の視線はついと横に逸れ、私の作品群をじっと眺める。
「ていうか一輪うまいね……」
「子供の頃に散々作ったし、ね。あんたのちょっとひどすぎ」
雪玉を転がすやり方でもすればいいのに、村紗は雪をかき集めて自分で盛っていくものだからどんどん変な形になってゆく。足跡がついて黒くなっている部分があるから、それを避けているのかもしれないが。
「私これが初雪だるまなんだけど」
「うっそ! どんな悲しい子供時代過ごしてきたのよあんた」
「ほんと。これでも箱入りのお嬢様でしたんでー。お外遊びとかそういうのなかったもん。前言わなかったっけ?」
言ったかもしれないが、多分言われていたとしても数百年くらい昔だ。
全然覚えてないと言うと村紗は非常に複雑な顔をした。私は知らん顔で口笛を吹きつつ、新作に取りかかるために雪を手に掬う。昨日降ったのはぼたん雪だったようで、水気を含んでいて少し重い。
私は。私は、ごく普通の人間の家庭に生まれた。
あの時代の「ごく普通」はあんまり豊かではなくて、明日の食べ物にも困るような生活をしていたのをうっすら覚えている。遊び盛りの子どもは娯楽にも飢えていて、退屈のあまりにひとつ妖怪退治でもしてやろうと決めた、その地点から私の人生は変わったのだ。
たくさんのことを経験してきたなと思う。良いことも悪いことも。妖怪になって尼僧に身をやつして、その果てに新年早々、童心に返って雪だるまなんか作っていたりするから、人生何があるか分からない。
「私さ、もう死んじゃったけど、やりたいこと結構あるんだよね」
呟くような声に顔を上げた。
空気は冷たいけれど陽は燦々と降り注いでいて、雪がそれを跳ね返してくるので少し眩しい。
「例えば?」
「一輪がたまに言ってる、里のおそば屋さんのきつねそばを食べる」
「あそこ山菜そばも美味しいわよ」
「そんなに動物好きじゃないけど、一回くらいめちゃくちゃ可愛がってみたい」
「村紗はいつも犬猫に逃げられるもんね」
「こっそり幻想郷抜け出して海見に行きたいし」
「うーん、それは色んな人から怒られちゃうかも」
「……でさ、そういうの全部、一輪と一緒に出来たらいいなあって思うのよ。成し遂げるまでは成仏したくないし、一輪にもいなくなってほしくない」
彼女が幽霊でなかったら、ここでひとつ息を吸い込む音が聞こえていたのだと思う。
呼吸が出来なくても生きていた頃の癖なのか、村紗はよく息を吐いて吸うような仕草をする。今もそうだった。それから私の方をまっすぐに見る。
「だから、なるべく長く一輪が私と居てくれますようにって今日は願おうかなって。さっき決めた」
「……願掛けって人に話すと駄目、みたいなのなかった?」
「願った後に話すといけないんじゃない? 詣でる前ならセーフじゃないかな」
食べ物の三秒ルールみたいね、なんて茶化せる雰囲気でもないのでやめた。
「私が先に成仏してもさ、一輪が先に死んじゃってもさ、別にどっちでもいいんだ。一緒に死にでもしない限り、絶対にそのどっちかになるんだから。どっちになっても後悔しないように、この先も」
そこまで言うと村紗は唇をきゅっと結び、止めていた手を再び動かして、またぺたぺたと雪を固め始めた。そこでようやく、私は濡れた手袋のせいで自分の指先が冷たくなっていたことを意識する。
しかしその頃には、村紗はとっくに自作の雪だるまと向かい合ってむつかしい顔つきをしていた。
よく分からない形をした雪の塊は、無表情に彼女を見つめ返している。
「……これ雲山だわ」
「雲山ね。まずはまともな雪だるまの作り方から覚えましょ」
時間はたくさんあるんだし、と言いかけたけれど口を閉じ、濡れた手をぽんと村紗の頭に置く。
「うひ、冷たい」と抗議の声が上がっても無視して、墨色のくせっ毛をくしゃくしゃに撫で回してやった。
▽
陽が傾き始める頃。村紗の雲山が高さ四尺を越して、私が二十体目の小さな雪だるまを完成させた頃。
寅丸が私たちを迎えにきた。
「もう。二人とも、ずいぶん探したんですよ」
「あ、星だ。おつかれさまー」
「疲れましたよ……。そちらは楽しそうですね……」
「寅丸も作ってみれば? 楽しいわよ、これ」
「遠慮しときます。私は寒いの苦手なんです」
「猫はコタツで丸くなってたらいいのにねぇ」
「誰が猫ですか。誰が」
そうして私たちはざくざく足を運ぶ。途中で雲山と合流もした。
本堂に着くとまだぬえとマミゾウさんが来ていないが、他は全員揃っている。
「ムラサに一輪、おつかれさま」
「おつかれさまです、聖」
「そういや昼頃から君たちの姿を見かけなかったな。どこにいたんだ」
「雪だるま作ってたのよ」
「そいつはまた、結構なことで」
「楽しそうですね! 今度私も混ぜてくださいよぉ」
やがてぬえとマミゾウさんがやってくる。人を待たせていても急ごうとしない二人の姿勢は相変わらずだ。
「おっつー」
「あっ、この匂い……また飲んでましたね、二人とも……」
「あっさりばれたのう」
「ねー」
「まあ聖、めでたいお正月ですから。ほら、ね?」
「毘沙門天代理のあなたがそんなこと言っててどうするんです。仏道にお正月休みはありませんよ?」
「たまには姐さんも飲んでもいいと思いますけど。お酌しますよ」
「実際、聖はもう少し頭を柔らかくしてもいいとは思うね、私も」
「みんなこう言ってますよぉ」
「聖、今度の神社の宴会ではとことん飲みましょうよ。あの憎らしい霊廟の連中をギャフンと言わせてやりましょう!」
「……わたしは誘惑に負けませんからね……」
冷たい手水でお清めをしてから、西日に照らされた命蓮寺本堂の前に肩を並べる。
まだ参拝客の姿はちらほらと見えたけれども、もうお参りを済ませたらしい彼らは私たち一行の姿を興味深そうに眺めていた。
その視線を受けて少し居心地悪そうに、「全員揃って顔出すことなんてあんまりないもんねえ」と私の隣で村紗がぼやく。確かに、全員で宴会なんかに出向いてもそれぞれ好き勝手に飲んでしまうので、それこそこの初詣の時だけかもしれない。あとは普段の食事くらいだろうか。
まずは姐さん、寅丸、ナズーリン、響子が横並びにお祈りをした。四人の背中からは何を祈っているのか汲み取れない。彼女たちは一体何をお願いしたのだろう? 詮索するのも無粋なので、それ以上は考えないことにする。
続いて雲山、私、村紗、ぬえ、マミゾウさんの順に並び、各々が紙に包んだ賽銭を投げ入れるとよい音がした。どっちにしろ私たちの懐に戻ってくるのだから、まるで貯金箱みたいだな、なんて思う。
「手は叩いちゃ駄目よ、ぬえ」
「わかってるってば、しつこいわぁ」
交わされる会話を横目に、雲山がこほんと咳払いをした。私たちは胸の前で手を合わせ、お喋りをやめて命蓮寺と向かい合う。
目を閉じる前に、村紗の横顔を見ておきたいと思った。
かたく瞼を下ろした白い横顔を想像しながらちらと隣を見たら、同じようにこちらを見ていた碧色のひとみとばっちり目が合う。
お互い一瞬置いた後に、どちらからともなくこっそり笑い合った。長年一緒にいると、考えることまで似てきてしまうものだ。かすかに香る彼女の潮の匂いは、気付いていないだけでとっくに私にも移っているのかもしれない。
いつまでもこうしているわけにもいかないから、二人して前を向く。そして多分同時にそっと瞼を下ろした。
穏やかな暗闇の中、私はひとつ願いをかける。
.
別視点というかお寺の首脳二人の仕事ぶりとか見てみたいかも…
来年も再来年も、毎年毎年おんなじふうにいられたらいいね
しみじみといいなぁと思います。
年明けに身を寄せ合う二人がかわいすぎました。
ピクシブのムラいちとあわせて二度美味しい!
序盤の炬燵での会話が妖怪ばっかりの寺らしくて面白かった。