1 布教に出る 道場の庭で思い悩む布都 声を掛ける青娥
そもそも、と霍青娥は語った。
「物部様自身、何をしたいということを、明確に持っていないのではないですか?」
うむ、と我は素直に頷いた。自分の恥であれ素直に認めてしまえることは我の美点だと自負している。
「我は我が一族を滅し……神道をただ我の身に押し留めた。これから先は、神道では生き残れぬ。そう断じ、我一人で物部の名を背負うことに決めた。今、こうして不死の身体を持ったからには、我は生きているだけでいい。より研鑽を深め、道術との融合を深める。それはそれで良い。だが……」
「物足りない、と?」
「正直に言ってしまえばそういうことよ。太子様に仕え、付き従うことも一つ、道ではあるが、あのお方も、今すぐにこの幻想郷をどうこうしようというつもりでもないようであるし」
「あの仏教の輩に対しても」
「元より、仏教は我らの敵ではないのだ。我らが里において施政者となろうとすれば、命蓮寺の連中は動くであろうが」
「あなたは妖怪をそこまで嫌ってはおられない」
「いや、正直に言えば未だ怖い。……とは言え……太子様が幻想郷を治めるというのであれば、我も続くだけである。ここは人と妖怪が調和しておる良い場所であるから、人の為だけに動くという訳にはいくまいし。純粋な恐れは未だ感じておるから、ただ、慣れぬ。……そも、今では我らも純粋な人とは呼べぬし、それは太子様とて同じこと。……まぁ、太子様はあくまで人の為に、と思っておるようであるし。我は我、純粋な人とは呼べぬとも、我はどこまで行こうと一個の人間、そう信じておる」
「まぁ、何にせよ。結局のところ、何をすれば良いのか分からない、とそういうことですね」
霍青娥は頭が回る。我はこの霍青娥という仙女は、どうも得体が知れなくて好きではないのだが、賢い奴は嫌いではない。自分の先回りをして考えを発してくれるのは、楽でいい。
「いや。実のところ、一つ考えはあるのじゃ」
「あらあら。それはそれは。では、おやりになればよろしいではありませんか」
「うむ。青娥殿はどう考えるかな。布教をする、というのは。道教を広め、その力を広めるのじゃ。仏教は言わずもがな。神道を広めるにも、この地では別の神がおる。土地神と争うには、いささか分が悪い。神子様のやっておられるように、道教を以て、信仰を広めようと思う。どうだ?」
「それは、大変よろしいことですわ」
「うむ! そうだろう。これが青娥殿に否定されておれば、カンフー使いの道士がキョンシーを退治し、陰陽師と対決する……題を付けるならば『燃えよ布都 哀しみの拳』という映画を撮ろうとでも思っておったが」
それを言った瞬間青娥の表情が一瞬固まったように見えたが、我は気にしないことにした。
「……物部様が布教をすると言うなら、太子様もお喜びになるでしょう。少し助言をするとすれば。やはり、不老不死を強く押し出してゆくことですね。人々は常に若々しく居られる方策を求めているものですから。特に、高貴なる者、富を持つ者、美しい者には、その傾向が強いです。そうした方に取り入るのがよろしいかと」
「うむ。助言、助かる。ではさっそく、今より旅立つとするか! 思い立ったが吉日と言うしな。今はちょうど、朝になったばかりであるし」
「では、物部様、この宮古芳香をお使い下さい。何かと、便利な従者ですよ。それに、どこに参るにせよ、どの勢力の者々も腹に一物抱えているような者ばかり。考えばかりが邪なら良いですが、皆その腹に抱えたものに劣らぬ力を持っております。一人でゆくには危険もあるでしょうから。どうか、お連れ下さいまし。物部様に何かあれば、太子様も悲しみますわ」
「おお、お主のキョンシーは好かぬが、太子様のことはその通りじゃ。太子様の手を煩わすわけには行かぬし、屠自古には太子様の守護がある。何より我は大事な身体じゃ」
青娥が、どこからか宮古芳香を取り出してくる。我はこのキョンシーも主従同様好かぬのだが、使い手のある駒であることには変わりがない。
「私がお手伝いをしてもよろしいのですが」
「お主はキョンシー以上に好かぬ。その手つきが気に入らぬ。暇さえあれば頬だの首筋だのを撫でて、くすぐったいのだ。そんなに我を撫でて面白いか。お主に撫でられるなら、まだ仏像に撫でられる方がましというものじゃ」
「あらあら、ひどい言われようですこと。では、太子様を撫でていることにしましょうか」
青娥はそう言い残すと、ふっと風のように消えてしまった。今しがた話していた青娥も、青娥そのものではないのかもしれぬ。やはり、得体の知れない化け物だ。あれは神子様や我より前から生きているし、封印されている間も何やかやと暗躍しておったのだろうから、余計にそういう色合いが深くなっているのかもしれぬ。
「ふん。……太子様が、あのような者の手管に落ちるものか。……さて、行くか、芳香」
「おう。青娥の言いつけとあれば何でもするぞう。助けになるぞう。何でも言いつけろーぃ」
時刻は朝、道場の庭でのことであった。
日頃悩んでいることが、青娥のようなものの後押しで、あっさりと動き出すこととなる。あのような者がいることで、何かしら動き出す。それが悪徳であれ、何であれ。
我はそうした経緯で、布教を始めることにしたのだ。
『布都ちゃんの布教大作戦』
2 紅い館へ
道場より外に歩み出る。道場というのはどこでもない場所に繋がっておるのであるが、玄関を出る時には、頭で思い描いた場所へと行くことができる。実に便利な秘密道具のようである。
ひとまず、我らは人里へと降り立っていた。朝食代わりに、腹をこなそうというのである。ぱんぱんと裾を払って埃を落とし、茶店ののれんをくぐる。
「まずはどこに行くのだ?」
運ばれてきた吸い物を飲みながら、芳香の口には磯辺焼きを詰め込んでやる。むぐむぐと噛み砕きながら芳香が言う。
「焦るでない。まずは食え。この吸い物はうまいのう」
箸を使って吸い物を掻き込み、芳香に二つ目の磯辺焼きを詰め込んでやる。全く、これだからキョンシーというのは面倒なのだ。面倒になって、残りを全部詰め込んでやった。
「むー。むぐむぐ。ばりばり。それで、どこに行くのだ」
「まずは湖の側の、紅い館よ」
「紅い館?」
「うむ。人里は未だ組織というほどのものもなく、寄り合い所帯でやっておるようじゃ。取り入れるような支配者層が無いのであれば、一軒一軒回るのでは効率が悪い。変な噂ばかり立って困るばかりじゃ」
「道理だ」
「あの紅い館は巨大であるし、少しは名の通った領主が棲んでいると見た。となれば、取り入って自然と広めてもらうのだ!」
「おおー、布都はスゴイのだ。見直した」
「ふふん。そうであろう、貴様ごときの褒め言葉など欠片も嬉しくないが、もっと褒め称えるがよいぞ」
キョンシーごときに褒められようが、大した自慢にもならぬ。だが、このように無邪気に喜ばれるのは嫌いではない。
「おう。見直した。布都はただのぐうたらではなかったのだな。きちんとできるのではないか」
「ん? ……芳香、お主、我を馬鹿にしておらぬか?」
「そんなことはー、なーいーぞーぉぅ」
怪しいな、こやつ。やはり信用はできぬ。
「ホントであろうか? まぁ、よいわ! では湖を目指すぞ。芳香、ちゃきちゃき歩けぃ」
「おーうー」
銭を机に置き、音を立てて立ち上がる。店員に一礼して、辞去する。後からはぴょんぴょん飛んで芳香がついてくる。
紅い館は、遠景から眺めるほどには巨大ではなかった。だが、所詮は地方豪族の一つの館で、さほどの力も持たぬであろう。だが、いささか、趣向の凝らされた造りをしておる。
「ふむ。少しは楽しめそうではないか」
「油断はよくないぞ、布都」
「お主の言う通りであるな。では、ゆくか」
門の前には、門番と思しき異国風の服を着た女が、地面に布を敷き、座り込んで、卓袱台を前に粥を掻き込んでおった。
「たのもう! 我は物部布都と申すもの、館の主人に取り次がれたい!」
我が大声を出すと、その門番はぱちくりと目をしばたかせたあと、あたふたと立ち上がって館を振り返った。
「咲夜さん! 咲夜さーん!」
「何よ朝からうるさいわね」
門番が声をかけたと同時に、その洋風の服を着た女が、門番の後ろに立っておった。こやつ、いつの間に来たのだ? 邪仙と同じような、妙な力の行使者であろうか。油断はできぬ。
それにしてもこやつら、異様に背が高い。巨人か。我より頭一つ二つ分は高い。我の背が低いなどとは言わぬ。これでも神子様より少し背が低いだけなのだ。こやつらがでかいのだ。やはり異人なのであろうか。
「ど、どうしましょう咲夜さん! 大変です! お客さんです!」
「……それが、どうかしたの。客人が来るのは普通でしょう」
「それが、違うんです! きちんと名乗りを上げて正面から来る人なんて、初めてです! 通して良いものでしょうか……?」
咲夜と呼ばれた洋風の女が思案顔になり、銀色がきらめいたかと思うと、美鈴と呼ばれた門番の額に、銀のおぼんがめりこんでいる。おそらくこれは異国風の親愛の証であろう。異国風は何やら楽しそうで、いいのう。今度我も屠自古に同じようにしてみるかのう。
悶絶している門番を放っておいて、咲夜が一礼した。
「門番が失礼を致しまして、申し訳ございません。ようこそ、紅魔館にいらっしゃいました」
「うむ。我は物部布都と申す。主人に取り次がれたい」
「ご丁寧にどうも。私はこの館のメイド長、十六夜咲夜と申します。失礼ですが、ご用件を伺っても?」
後ろでは芳香が「どったんばったんしてるアレは放っておいていいのかー?」と無神経に声を上げている。実際美鈴がどったんばったんのたうち回っている。咲夜は無視した。我も、同じようにした。
「我は道教を信仰しておる者。力を求める者には、より強い力をもたらそうと思う。聞けば、この紅魔館という館の主人は力のある者だそうではないか。どうだ? 我らが道教を学んでみぬか? 道術を自らのものとすれば、より強い力を得ることができるであろう」
ふむ、と咲夜は少し、考え込んだ。
「分かりました。主人に取り次ぎますわ。では、こちらへ」
やったぞ芳香、と振り返る。ぐったりとなった美鈴の腕を食おうとしていたので、まあ別に美鈴とやらのことはどうでも良いが、心証を損ねると良くないのでしばいて首根っこ捕まえて引っ立てた。
「痛い。これからが本番であるぞ。油断するでない」
「うむ。分かっておるわ」
取り次ぎとやらは実にすぐだった。まず応接間に通された。この館は実に面白い屋敷である。見たことのない装飾が壁や天井を飾り、床には紅い絨毯が敷き詰められておった。点在する灯りは、蝋燭でも電気でもなく、式のようなものが張り巡らされており、咲夜が歩くとそれに合わせて点灯した。おお、と驚くたびに咲夜がくすくすと笑うので、何がおかしいのじゃ、と言いたくなったが心証を損ねてはよくないので止めておいた。
応接間もこれまた、どうであろう? 窓が異様に小さいことだけが気に掛かったが、窓枠の鉄の装飾などは実に細かく体裁されている。椅子なども、木で出来た足や背の装飾など、丸みが目立つ、見たこともないような装飾がされておる。
やはり世は変わったのであるなと思っている頃、座り込む前に菓子と茶が出、それに手を伸ばす前に、館の主人とやらがやってきた。我は最初それが主人であるとは思わなかった。
「いらっしゃい。まともな客人なんて珍しいわ。百年ぶりぐらいかしらね」
うむ、と我は答えたが、何者であろうかと思っていた。まさかそれが主人であるとは思えない。背が低く、背中に羽根のような飾りを身につけ、ふわふわした可愛らしい帽子を被っている。髪は青、目は紅。我よりも背が低い。どう考えても主人ではない。主人の娘であろうか。もしかしたら孫かもしれぬ。
その娘の後ろには咲夜が控えておった。何をしておる。早く主人を呼んでくればよいのだ。とはいえ、我は話しかけられたからには、世間話に言葉を返した。
「うむ。ここは大変珍しい館であるな……こうした屋敷を見るのは初めてで、いささか戸惑っておる」
それから我にはもう一つ気に掛かることがあって、眼前の童女には気を払っておれなかったのだ。
見たこともない洋風の菓子である。小麦色をした焼き菓子で、隣に置いてある、瓶に入った、金色の蜂蜜を見ていると、アレをかけて食うのであろうな、食いたいものだ、と逸る心を抑えることが出来なかった。童女を見ながらも、ちらちらとそちらに目が行ってしまうのである。
「……随分咲夜のスコーンが気になるようね。どうぞ、食べたら?私はそんなことは気にしないわ」
「良いのか? なら、遠慮せずに食うぞ。良いのだな」
我は言葉通り遠慮せずに、スコーンとやらを手に取った。固い焼き菓子だ。蜂蜜をかけて、囓った。ばりばりした食感、スコーン自体に味はあまりないが蜂蜜のふわりとした甘さが口の中に広がった。
「うまいのう」
「布都、布都、我にもよこせ」
芳香が後ろから喚くので口の中に放り込んでから蜂蜜をかけてやった。口の周りを汚しながらばりばりと貪っている。意地汚いやつめ。
「これも使ってよいのか?」
「ええ、どうぞ。ジャムは苺、クランベリーにオレンジ、それからクリームとチョコソースもありますわ」
おおう、と目を輝かせて囓った。目の前の童女も、従者に命じて取り分けさせている。落ち着いた風情でゆっくりと噛んでいたが、そのうちにばしゃりとこぼして胸元を汚してしまった。だが、慌てるでもなく、従者に拭かせて、任せている。その姿には威厳があった。さすがは豪族の娘じゃ。
「それで、何の用? まさか、お菓子を食べに来た訳じゃないでしょう」
「む? ……用、とな? …………おお、よくぞ聞いてくれた」
菓子を運ぶ手が落ち着いた頃、童女がそう切り出した。うむ。当然、本来の目的を忘れた訳ではない。食事を介して心を和らげることに成功したようであるな。童女はどこかしら楽しげであった。当主がまだ出てこないのはこの童女を通して何かしらの試験をしておるのかもしれぬ。娘っこ一人では成果には足りぬが、将を射るには馬からと申す。我は切り出した。後々、当主に口利きする助けになるやもしれぬからな。
「我は物部布都と申す者。布教に参ったのだ」
「私は無宗教よ。勧誘お断り」
「道教はいわゆる神教や仏教などというのとは違う。何かを崇めるのではない。強いて言えば自然より力を得、自らを高めることを理念としておるから、自然崇拝が最も近いかもしれぬが、厳密には何者かを崇拝するということはない」
「ふうん。面白そうね」
「そうであろう。そしてだな、道教の最終目的は、不老不死になるということだ! どうだ、死を逃れたくはないか。地位を、若さを保ったまま、永遠を生きたくはないか。かくいう我も永遠の命を得ていてだな。どうじゃ。こんなに若々しいのに、溢れ出る知性というものは、外見からは想像できぬだろう。我はこれでも千年以上生きておるのだ」
「なあんだ。その程度なの。悪いけど、私には必要なさそうね」
「なぜだ。まだお主は若いから想像できぬのか。自分が永遠に生きられると思っておっては間違いだぞ。若いからこそ、若いうちにできることをし、将来に備えねばならぬのだ」
「……いや、私、吸血鬼だし」
ねえ、と背後の従者を振り返る童女。重々しく従者が頷く。
「吸血鬼? 何だそれは」
「布都、私は知っているぞ。人の生き血を吸い、永遠に若さを保つという怪物だ。日光、十字架、にんにく等に弱く、心臓に杭を打ち込むか、銀でできた武器で殺すしか滅する方法がないという」
「ほう、芳香、お主賢いのう。しかし……ふふ、ははは! 面白いことを言う。そんな化け物のようなモノがこんな幼子の姿をしているはずがないではないか。……本当?」
笑い飛ばしてはみたが、従者も誰も笑わないので、不安になって聞いてみた。目の前の童女は笑うでも、怒るでもない。
「言い忘れたが、この娘、ただものではないぞう。人間の匂いがせぬ。身綺麗にしておっても、生き血をすする凝縮された血の臭いばかりしておる」
「そ、それを早く言わんか。これは大変じゃ。大変なところに来てしまったぞ」
「吸血鬼は血を啜るのは当然だが、狼の姿や霧、蝙蝠などの姿を取ることができ、その怪力は人間を優に凌ぐと言うぞ」
「なんと、それは真か。娘でこれなら、当主ならばどうなる」
余計に怖いことを言う。これでも我は怖いものが苦手なのじゃ。この童女の、娘の姿も仮初めということか? もし、その吸血鬼とやらが、仏よりも恐ろしい姿であったらどうすればよいのじゃ。
焼くか。
焼くしかないのか。
「……挨拶が遅れたわね。私はレミリア・スカーレット。スカーレット家の当主にして、500年を生きる吸血鬼よ」
そう言って、童女は陶然と微笑んだ。
「どうぞ、……よろしく」
沈黙の幕が下りた。
さて、誰かがまた、幕を開けねばならぬ。怯えておってはいけぬ。我は切り抜けねばいけぬ。これでも政争の中を生き延びてきたのだ。
「うむ。承った。だが、我の目的とは些か、相性が悪いようだ。これでお暇させて頂く」
「まぁ、待ちなさいよ。人の枠を外れ、永遠を生きる尸解仙。……その血、興味があるわ。地下室を用意するから、しばらくここにいるといいわ。ところで、歴史は詳しいかしら。エリザベート・バートリって女性がいてね。その娘は異常に若い娘の血が好きだったから、その為の道具さえ発明していたほどなの」
「ははは」
「ふふ、ふふふふ」
声を上げて笑い、レミリアもそれに倣った。それから一瞬の後、地を蹴って跳躍した――窓を蹴破り、最速で外へ逃れ得る道。芳香も我の思考を読み取り、付き添っている。
「窓から出てはいけませんわ。お帰りなら、正面へどうぞ」
従者、十六夜咲夜の声が背後から聞こえる。
我は――部屋の入り口側へと立っている。宙に浮いていたはずだが地に足がついており、感覚が狂う。振り返ると、童女……レミリアの背と、こちらを向いて僅かに笑いかける咲夜の顔が見える。
「咲夜、お帰りだそうよ。玄関まで見送って差し上げなさい」
「はい。分かりました」
にっこりと、咲夜が微笑む。我はその清々しさに背筋が凍るほどの気味の悪さを感じた。
「見送りはいらぬ。一人でも道は分かるでのう!」
何が何だか分からぬが、同じように扉の前に立たされていた芳香を投擲。後ろも見ずに駆けだした。血には興味あるかもしれぬが、死体に興味はあるまい。それほどひどい目には合わぬであろう。もし青娥が怒るなら何か甘いものでもくれてやって機嫌を取ろう。
扉を蹴破り、廊下に出る。窓に蹴りを入れたところで、衝撃が足に帰ってきた。
「少々暴れても大丈夫なように、うちの窓には特殊強化が施してありますの」
従者の声。振り返りもせず、我は駆けた。廊下をひた走る。……だが、おかしい。廊下の端が見えぬ。
「さて。お見送りの前に、少し休まれてはいかがですか? 地下室の用意は、もう、できてますわ」
従者の声がする。走っておる我に対し、息を僅かにすら荒げておらぬ涼しい顔で、我の前に降り立った。
「用意ができておると言われてものう。そんな、暗くてじめじめしたような場所には、我は行かぬ。怖い。身体が動く限りは抵抗するぞ」
「それは残念ですわ。私もお嬢様の命令は果たさねばなりません。少し、元気を奪わなければなりませんね。安心して下さい。流した血は、一滴たりともこぼさず、掬ってお嬢様に届けますから」
誰も安心できぬわ。
それを言う余裕はどこにもなかった。銀の刃が視界に煌めいたと思うと、飛来した。軌跡を見極めて躱さなければ穴がいくつも空いていたところであった。穴を実感するのは男と交わる時だけで良いのだ。
「危ない奴だのう。いつ投げた? 動きが見えなかったぞ」
「うふふ、特技ですわ」
続けて、二十、三十に重なった刃が同時に飛んでくる。こればかりは避けきれぬ。我も、手の内を見せねばならぬ。
細く刻んだ檜の木屑を手の中で握り、指同士を急速に擦り合わす。瞬時に掌中で高められた熱が、火花となって、木屑に移って燃え盛る。炎が燃え続けるには燃料が必要。だが、この神性を帯びた炎は、その神敵を焼き尽くすまでは止まらぬ。
「忌火!」
手を一振りすると、銀の刃は空中で焼き尽くされて消滅した。
「あら」
「我は物部が末子である。神の子じゃ。我に仇為すは神に弓引くと同じぞ!」
炎を振り払って飛ばす。だが、炎は従者のおったところを一凪ぎしただけで、屋敷を焼くこともなく、炎の向こうにはいつ躱したかも分からぬ従者が立っている。ぬう。妙な技を。
炎の作る温度の幕が背後より破られて、風を切って刃が飛来する。背に炎を飛ばし、刃を焼く。正面から、側面から。続けて飛来する刃を全て焼き払ってやった。
「私の刃を溶かすなんて」
「うむ。我はこれが得意でな。試したことはないが、飛んでくる銃弾だろうと、空中で焼き消すくらいのことはできるのじゃ。さて、そこを退けい。地下室どころか、棺の中へ行くことになるぞ。棺にいれる身が残っておればよいがな」
「どちらがかしら」
まずいのう。単純に物量であれば、神性を帯びた炎は我の体力には依存せぬ。永遠に燃え続け、敵を焼き尽くすだろう。
しかし、咲夜の用いる技。瞬間移動するあの動きを捉えられなければ、こちらの体力が奪われるばかりじゃ。相手と体力の損耗を待つ? だが、相手に疲労の色は見えない。
ジリ貧である。
とは言え、相手も困っておるらしい。軽口は失せ、最初の頃のような、物量に頼った投擲は影を潜めた。代わりに、巧みな投擲術を見せるようになり、その分、我もナイフの処理に追われた。炎の揺らぎによる探知も、少し集中を解けば、全身に至るまで刃の餌食になるであろう。
「くっ」
集中が切れるほどの、果断なき刃の来襲――一筋の雷光じみた疾さの刃が、炎の防壁を破って飛来する。
刃が我に接する瞬間、横合いから壁を破ってきた何者かによって、その刃は留められた。
「芳香」
「助けに来たぞ、布都」
自らの腕に刃を突き刺して止めると、続けざまに飛んでくる刃も全て、回転しながら腕を振り回して払った。
「そのままじゃ、芳香」
「お?」
芳香の首根っこを掴むと、窓に向かって放り投げた。芳香は常人を遙かに凌ぐ怪力の持ち主じゃ。自らの腕が痛むのも気にすることなく、窓を叩き割った。続けざまに飛び出る。背後に刃が飛んでくるが、その程度、予測できぬ我ではない。後ろも見ずに焼き消して、館の下へと飛び降りた。従者は追ってくる気配がない。
「なんじゃ。全部、お主の掌の上であったか」
周囲を警戒しながら塀を乗り越えると、外には従者が待っておった。ふわりと笑顔を浮かべるばかりだから、我も気が抜けてしまった。
「殺すなら殺せい。だが、太子様は黙っておらんぞ。その手勢もただものではない。我も黙って殺されてはやらぬ。逃げ延びて攻め上がってやるぞ」
「いやですわ。ほんの戯れです」
「なんと」
戯れ、であるか。幻想郷とは、なんと恐ろしい場所であることか。悪魔の館に、悪魔の従者。誰も彼もが戯れに、力と力を見せびらかせ合う。
「……うむ。我も実は戯れであったよ。見送りご苦労。だが、今度からはあんな脅しはなしじゃ。怯えてしまうでの。……この芳香が」
「我は死体だ。拷問など怖くあるものか」
黙っておれい、と一喝する我に、従者はそっと包みを差し出した。
「なんじゃ。罠か。触ったら手を噛む何かか」
「うふふ。スコーンと、紅茶の茶葉を入れておきました。物部様があまりにお急ぎで出て行かれるものだから、紅茶を味わっては貰えませんでしたから。中に、紅茶の煎れ方のメモを入れておきましたから。ぜひ、味わって下さい」
優雅に、従者が一礼をする。ふん。布教はうまくゆかなかったが、太子様に良い土産ができたわ。
「また来るぞ。それから、お主も、あの主人にも言っておくがよい。道教を学ぶ気が起きたら、いつでも来いとな」
3 山の神社へ
「ふう、ひどい目にあった 次にゆくぞ、芳香」
「次はどこに行くのだ?」
「冥界か竹林なども考えたのだが、冥界には死人しかおらぬし、竹林におるのは蓬莱の薬を飲んだ永遠者ばかりだと言うではないか。そんなところでは道教に取り込める人物はおらぬ」
「うむ。道理じゃ」
「そこでじゃ。少し難しいかも知れぬが、山の神社に向かうことにする。あそこは信仰の拠点であるし、そう簡単には籠絡できぬ。だがのう……逆に言えば、何とか口説き落として趣旨替えさせることができれば、その評判は一気に高まる。ここは力の見せ所であるのう、くふふ」
山の神社、名を守矢神社と言う。聞けばまだこの幻想郷では新興の神であるという。それに、山にあるというのも気に入った。もし何かの手違いで焼いてしまったとしても、人の駆けつけてくる恐れはないということじゃ。取り込めればよし、できぬならできぬで、焼いてしまえばその勢力も弱まる。おいしいのじゃ。
山には天狗達の独特の勢力があることには驚いたが、礼を尽くせば分かってくれるものじゃ。害するつもりなく、ただ山の神社に用があると言えばあっさりと通してくれる。とはいえ、常に天狗の気配は背後にあった。それは、そうだのう。付き従うはあからさまな歩く死体、もしかしたら、我が人間ではないということさえ、割れておるのかもしれぬ。
焼きにくい。だが、焼いてしまえばこちらのものじゃ。天狗のようなものは、直接戦闘に強いものは少ないようじゃ。少なくとも、群れるということは、群れなければいけないという理由があるものじゃ。そうでなければ、同じように群れる者には勝てぬ。山の神についておるのも、その理由の一つだろう。何にせよ、直接事を構えなければ、さほどまずい相手ではない。礼を尽くせばよいのじゃ。
守矢神社は割と見事な面構えだった。少なくとも里の神社よりもよほど綺麗に整えられておる。落葉も多いというのに大変だのう。
一人、巫女を見かけて声をかけた。以前見たことがある顔だ。
「頼もう!」
「はい、何のご用でしょうか?」
「お主は神を信じるか?」
「私ですけど」
「そう! 神は死んだ。だが、心配するな。神の他にも信じるものがある、それはお主自身だ!」
「ですから、私が神ですけどー!」
少しの齟齬があったが、我はともあれ神社の中へと通された。神社の山側には庭園があって、苔生した岩が転がり、山から流れる小さな川が庭内を通って湖の形をとっておった。
その園側で、我と、その自らを神と自称する娘、東風谷早苗と面会した。
「そうか、お主、一度見た顔であったが。神であったのか」
「はい。まだ見習いみたいなものですけど。現人神の東風谷早苗です。よろしく」
あら、と早苗は私の腕を見て、驚いた顔をした。
「そこ、腕のところ、切ってるみたいですね」
「む? うむ、ちょっとした傷じゃ。すぐに治る」
「だからといって、見過ごす訳にもいきませんから」
紅魔館を出るときに、芳香の叩き割った窓の破片でもって腕を傷つけたのかもしれなかった。腕には、我も気付かなかった傷があった。急に痛くなってきた気がする。我は強がって、舌で舐める真似をしてみたが、早苗が我の腕を取って何事か呪文を唱えた。呪法だと、何を、と思った瞬間に、みるみるうちに傷は塞がり、いつも通りの、我のつやつや肌に戻ったのだ! 我は素直な驚きを露わにした。
「おお! 何事だ。スゴイのだな、お主」
「これでも神様ですから。これくらいの奇蹟はちょちょいのちょいですよ」
「まあ、我もそのくらいのことならできるがな。それにしてもスゴイのう。絆創膏いらずではないか」
すごいのうすごいのうと素直に喜んでみせると、早苗はそんなあえへへと嬉しそうにしていた。
「そ、それより」
と、早苗は照れからそう言った。
「一体、何の用でわざわざこの、山の上まで来たんですか? 確か、布都さん……でしたか」
「うむ、そうであったな。我は物部布都。尸解仙である」
我はそう名乗ってから、紅魔館でしたような説明を、繰り返した。早苗は口を挟むこともなく、ふんふんと話を聞いておった。
「大体分かりました」
早苗は全て、聞き終わってからそう答えた。
「でも、申し訳ありませんが、お断りします。私は、神を信仰していますから」
「むう、妙なことを申す。お主は神ではないのか? 道教を修め、自らを高めながら、信仰の神輿に乗るというのも、一つの道ではないのか? どうじゃ」
「神が自らを信仰してはいけないでしょうか。」
早苗は、はっきりとそう言った。
「私は、洩矢諏訪子、八坂神奈子、両二柱、及び、私自身を信仰しております。私もまた、自らを高めようとする修行の内にあります。道術に頼る必要は、ありません」
まずいのう。我は思った。スカスカ頭の、乳ばかりでかいちゃらんぽらん娘だと思っておったが、案外弁も立つ。以前は道場に修練に来ておったというのに、この口ぶり。ぬう。
だが、それをあっさりと口にしてしまうのは、まだ早い。我は何か良い方策でも浮かばぬかと、差し出されておった菓子を口に運んだ。黒い、瑞々しく光る、四角い菓子だ。爪楊枝を差してみると柔らかい。口の中で、小さな弾力を歯に残しながら、優しく崩れた。
「水羊羹です。口に合えばよいですが」
「うむ。うまいのう。実にうまい。水が良いのかな」
「神奈子さまお手製です。神奈子様が聞いたら喜びますよ、あまり披露する場がないから」
む。あの神か。タケミカヅチに追い回されたタケミカナタの累の者だとは聞く。うまいことはうまいが、そんなことで我が信仰したと思われては困るからな。だが、出されたものは突き返さぬ。無心で食った。水羊羹を平らげ、芳香の分を芳香の口に突っ込んでやり、出された茶をすすった。山で栽培されておる茶葉を使っているという。熱すぎて舌に痛い温度でもなく、その心遣いが心地よい。ぬう。我を籠絡しようとするか。その手には乗らんぞ。
「世話になったのう。では、最後に聞くが、道教を信仰し修行するつもりはないのだな」
「ええ。ありませんわ」
「惜しいのう。実に惜しい。これが最後の機会だというのにのう。勿体ないことをしたのう」
早苗はにこにこと笑顔を浮かべているばかりで、全く動じる雰囲気がなかった。我は諦めた。見込みがないと分かると、さっさと次の場へと行って次のカモを探すのじゃ。
「では」
「うむ」
早苗は御幣を振りかざすと、我に向かって風を飛ばした。それを払ってから、何をするのじゃ、と言葉を返した。
「ありゃ。あっさり返すんですね。さすがは自然を司る神道の力」
「何のつもりじゃ」
「あら。だって、布都さん、道教の力を使うんでしょう。試したいじゃ、ないですか」
くすくす、早苗は笑った。我を試しておるのか。やれやれ、里の神社の巫女とは違って、熱心じゃのう。我は少しばかり付き合ってやることにした。どのみち戯れじゃ。
「芳香、そこで待っておるがよいぞ。神を名乗る者に天罰じゃ」
「あなたも私も、神の子孫。立場は同じなのに、その物言い、自らに帰ってきますよ。でも、許してあげます。神はいつでも反対する者の罵声と暴力に向き合ってきました。ですが、その者達は滅び、神は以前として立っている。そのことが神が神たる所以なのです。私は私を罵る者を倒しましょう。神は時に荒御霊の姿を表すものですから」
「何を偉そうに。要は侵攻じゃろうが。神を祀ることなど、自分の都合のよいようにしておっただけじゃ。我は物部の末子、ただ一人ニギハヤヒノミコトを背負う者ぞ」
「私は東風谷早苗。人の身にして風を呼ぶ、現人神です」
現人神。厄介だのう。人にして信仰を得る神。その身あるところが信仰の礎。他の地へ行った神が背負う制約がない。まして、この地は自らの氏神のある神社の中。
「負ける気はせんがな」
火を散らし、早苗の前に立った。
風は吹きすさぶからこそ風なのだが、その威は我には届かぬ。自然の内に風は入っておるからして、逸らす術などは風水の基本。
……だが、その基本が通じない力を、眼前の現人神は持っておった。
竜巻じみて我にぶち当たった風は、質量を持っているかのようじゃ。逸らすなど、思いも寄らぬ。大きく後ろに飛んで、回避せねばならなかった。ひらり、暴風の向こうに御幣を振りかざす早苗が見える。
失策であった。
風は、吹いたと気付いた時には我の背へと飛び抜けておる。早苗の操る暴風が、その疾さを持つのは当然であった。身体を吹き抜けた風に巻き上げられて、我の身体は空中へと吹き上げられた。服も破れたし、身体にも衝撃が走っておる。骨までは傷付いておらんが。痛いは、痛いのう。
「お返しをせねばのう」
眼前に、追いすがる早苗が見える。我を吹き飛ばした暴風とは違う、ふわりとした優しい風で、自身も飛び上がってきたのだ。我も、一つ手を打っておる。
天が光り輝き、そこから金色に輝く船が下りてくる。
「磐船!」
天磐船。天孫降臨じゃ。民を従える、神の御幸。
「早苗。貴様は神であると同時に人、神の威光には抗えぬ。圧し潰されよ!」
「ぐっ!」
我はその舳先に飛び乗った。暴風の威など、意に介さぬ。それよりも早い。風を切り裂いて早苗へと向かった。
「そのくらいでは!」
早苗は風を巧みに操り、直撃を避けて、船上の我へと御幣を突き翳す。
「なんとぉ!」
我は驚きを素直に表し、素手を以て御幣を受け止めた。風の威は、この磐船の上には届かぬ。
「神の乗る船に土足で踏み込むとは、不敬者め! 神威を恐れず穢す者には、神罰が下るぞ! 三代後まで焼き尽くしてくれる!」
風を操る者の前では、火は無力。全て弾き返されるだけだ。だが、この船の上ならば。掌に炎を燃やし、早苗に殴りかかった。素早く身体を飛ばし、私の上空を超えて船の逆側に下りる。手を伸ばし、炎を飛ばす。だが、炎を弾く程度の風は、磐船の上でも操れるようだ。
だから我は、炎を目隠しに、炎に紛れて飛ぶ。足に火を纏い、蹴りを放つ。
炎に気を取られて、早苗が気付くのに一瞬遅れる。驚きに目を見開き、御幣で辛うじて我が蹴りを受ける。
「く、ぅ、ああ!」
「愚か! 神を僭称した者よ、堕ちよ! 地に落ち、人としてその身を以て償うのじゃ!」
御幣ごと蹴り飛ばされた早苗は、風に煽られ、墜ちて行った。眷属である風を操る術すら、我が神威の前で喪ったのじゃ。
「……何?」
「我を呼ぶのは何処の人ぞ」
地面から競り立った柱が、磐船を擦って天へと伸びた。その柱に座る者に、早苗がしっかと抱き締められておった。
「……誰にも、呼ばれてませんよ、神奈子様」
「おや、そうかい。早苗が助けを呼ぶ声が聞こえた気がしたのさ」
「そうそう。困った時は素直に助けを呼びなって」
背後から声が聞こえて、我ははっとして振り返った。妙に小さいのに圧力を放っている者が、にたにたして座っておる。曳矢諏訪子。そして、背後にいるのは八坂神奈子。
大窮地!
我は色々と覚悟した。まさか遊び半分の腕試しに神が出張ってくるとは。まさか本気ではないだろうのう。
「おい、そこのあんた。さっさと帰りなよ。こいつ連れてさ」
「言われずとも帰るわ。これは喧嘩ではないぞ。ただの腕試しじゃ。ほんの小遊びじゃ」
「小遊びで、うちの早苗を殺されちゃ、たまったもんじゃないね。いいからさっさとお帰り」
ぽーん、と神奈子が芳香を放り、おう? と声を上げて芳香が磐船の上に転がった。立ち上がって、神奈子を振り返る。
「お前が神奈子か?」
「いかにも」
「水羊羹、うまかったぞ。ごちそうさま」
神奈子も早苗もぽかん、と口を開けた。それから、神奈子が口を開けて大笑いした。
「気に入った。また、遊びに来るがいいさ。ただし、お前の飼い主は嫌いだ。まあ、神は来る者拒まずだ。悪いことをしないなら遊びに来ていいと伝えておきな」
「おう、任せろ。また水羊羹をくれるなら遊びに来てやってもよいぞ」
「面白い奴だ。ますます気に入った」
神奈子はからからと笑うと、ぽーんと透明な箱に入ったものを投げてよこし、芳香はそれを器用に口で受けた。紙袋も、投げて船に乗せた。
「水羊羹の残りだよ。どうせ腐らせても勿体ないしねえ。袋はお茶だよ。神子にも、一度挨拶に来い、って伝えておきな」
「うむ。承った。さて、友誼も結べたことであるし、めでたしめでたし、だのう! さて、帰るか芳香。そら、蛙神、さっさと退くが良いぞ」
「祟るぞ小娘」
お主の祟りなど怖くもないわ。そう、諏訪子に答えてやったが、内心はびくびくであった。あそこで本気になられれば、我などあっさりと潰されてしまう。奴らは本物の神なのだ。未だ、神の末裔とは言え、少し人間離れしただけの死体に過ぎぬ我など、あっさりと潰されてしまうことであろう。危ないところであった。
こんな危ないところに布教ができると思った我が阿呆であった。我は、さっさとそこを後にした。
「全く、酷い目にあったわ」
「自業自得の感もあるぞぅ」
「やかましいわ」
「それで、どこに行くのだ」
「うむ。正直に言って自信がなくなってきた。難しい奴に挑戦せず、里で人間相手にちまちま勧誘するとしようかのう」
「では、里に?」
「うむ。もう磐船の進路を里へと向けておる。うむ? あれは……」
4 ついでに寺に行って挨拶
薪を積む。
小枝を重ねておく。
ちり紙を一枚準備する。
「よっしできた。芳香、火をくれい」
「おーうー」
芳香が燐寸を擦って、我に手渡してくる。ちり紙に火を移した瞬間、ばしゃり、と水がかけられて我も芳香もちり紙もびしょ濡れになった。
「何をナチュラルに放火しようとしてくれとんじゃおのれらは!」
「厄介な奴が来た。幽霊は嫌いじゃ」
水の飛んできた方を振り向くと、柄杓を構えた幽霊がいる。舌打ちを一つすると、我は背を向けて逃げ去ろうとした。背後に風の動きを感じる。横っ飛びに身を躱すと、その場を巨大な拳が吹き抜ける。地上に降り立つ積乱雲から尼僧が飛び出してきて、我の前に立ちはだかった。
「尼に幽霊。……面倒なことになったのう」
背後には村紗水蜜。……正面には雲居一輪。船幽霊と入道使いの尼僧。どちらも、正面から挑むには面倒な相手じゃ。
「ここは分が悪い。芳香、何とか切り抜けるぞ」
「おー」
「任せろぅ」
「切り抜けるー」
振り向いて、我は驚く。
芳香が大量にいた。うじゃうじゃと溢れておったのじゃ。きもちわるい。
「うぬ。妖術か。これでは、どれが芳香か分からんではないか。だが、こういう時の手はある」
「ほんとか布都」
「な、何だと! 我らをどうやって見分けるというのだ……! これらは全て貴様の仲間に見えているというのに!」
「おいぬえ、この作戦は失敗じゃないのかい」
芳香はこんな賢しらな口が利ける死体だったか?まあよいわ!
「磐船!」
宙に待機させておいた磐船を降下させる。芳香どもを掬い上げて磐船に飛び乗り、眼下の二人を見下ろした。急上昇。二人の姿が遠ざかる。
「ふはは! どうだ追いつけまい! このまま道場に帰り、青娥にどれが本物か見分けさせてくれる! 残りは太子様と蘇我の阿呆が片付けてくれるわ! さらばだ仏教の輩ども! ……ん?」
磐船ががくん、と上昇するのを止める。何じゃ、何が起こっておる? 船のへりから身を乗り出して見下ろすと、巨大な入道が船に向かって手を差し伸べ、その手の平の上に乗った尼僧が船の竜骨を掴んでおる。
腕一本で磐船を留めるなどと。神仏に近しい力の持ち主でなければ、できることはない。ましてや密度の低い、雲入道などに。
この界隈でそれが成せる者は、一人しか思い当たらぬ。
「まあ、座りなさい。ゆっくりと説法を聞かせて差し上げますから」
「聖、白蓮!」
白蓮の声は、怒鳴った訳でもなく静かなのに、圧力を伴って我の耳に届いた。そう言って尼僧、白蓮は磐船を地上に向けて投げ下ろした。自身は入道の巨大な手を蹴り、落ちる磐船の上に飛び乗る。
磐船が萎縮したようにその浮力を失っている。強化されたとは言え、単純な膂力で神の船を鎮撫さしめるとは。信仰を強制する。仏教らしい、乱暴なやり方じゃ。こんなやり方を許してはおけぬ。
「さあ、せっかくですから、私達に歓迎をさせてくださいな。このような争いは、私達、大変慣れているし大好きなのですよ。ですからどうぞ歓迎のご相伴に預かって下さいな」
「愚かよ、聖白蓮! 貴様、我の力を知らぬ訳でもあるまい」
我は腕を一振りし、風を起こすと瞬く間に風が火を煽り、大火となって辺りを暁に染めた。白蓮を燃やし尽くさんとする廃仏の炎風。
「我を誰と心得る。かつて仏道を消滅させんとし、事実その力も持ち得た物部の一族、その最後の一人ぞ。仏を、寺を、焼き尽くすのに我以上の使い手はおらぬわ。ましてや尼僧一人ごとき、貴様と言えど、塵とするなど造作もないぞ!」
「おや。妙なことを申される。あなたは寺や仏を焼いたら、それで信仰が終わりだと思っていらっしゃいますか? あなたの力はその程度。寺や仏を焼き尽くすことはできても、一人の宗徒を焼き消すことはできない。ましてや信仰心などは。そして、私はたった一つの信仰心です。あなたに焼くことはできない」
何、と意気込んだ我の肩に、圧力がかかる。しまった、と思った。眼前の宿敵に気を取られすぎた。埋伏の毒を抱え込んでいたというに。
「まあまあ、座るがよいよ。お主のような輩にも、満足のできるもてなしを寺の連中はしてくれるじゃろう」
「してくれるじゃろー」
佐渡の古狸……二ッ岩マミゾウが肩をがっちりと掴んでいる。その後ろでは、芳香を組み伏せた封獣ぬえが私を見ている。ふん、と息をついた。白蓮がにこにこ笑っている。磐船が地上に落ちる。
こうして我は俘虜の憂き目にあったのだ。あっさりじゃ。太子様に顔向けができんのう。
寺の廊下を歩いておる時は、吐き気のするような気分がした。ここにおる妖怪どもが、仏教などと唾棄すべきものを信じておるとは言え、その心魂まで腐りきっておる訳ではない。一人一人を見れば良い心であるに違いない。ましてや建物が。柱が、床板の一つが。ここに停滞しておる空気が、悪意に染まっておるという訳ではない。
だが、我はどうしても駄目なのじゃ。仏教に関わるというだけで、我には全て悪しきものに思えてしまう。太子様は和を以て望めと言うが、我にはまだ分からぬ。人ならばよい。言葉が通るし、理解できぬ考えを持とうとも、対話で和を結ぶこともできよう。仏を信じる心を持つ人間とも、争わぬことはできるであろう。
だが、仏は人であるか。言葉は通じるのか。我らと同じような言葉を放つ異質な物体ではないのか。
太子様の言う和を取り持つというのが、人間に対するものならば、人以外を失くし人のみの世にせよということか。我には分からぬ。
強気であろうとし、吸血鬼に、その従者に、現人神に、神に……向かってきたが、やはり、我は怖いのじゃ。怖くなければ、側においても、焼き払おうとなど思わなかったであろう。我は怖いのじゃ。焼き払ってしまわなければ、我が滅びるかもしれぬのじゃ。
恐怖が自然と心に満ちるのは、致し方ないことであった。何しろ、寺の中で、我は一人なのじゃ。通された客間は、四畳半の畳敷きで、わびた品の良い佇まいであったが、そこは牢獄にも等しかった。我はそこに膝を揃えて座しておった。
我の座る側に、にまにまと笑いながら我を見詰めておる化け狸がいるとなっては、余計に恐れを感じるのもおかしくはなかろう。だが、我は最後の虚栄心でもって、何事もないような涼しい顔をしておった。
「お主も災難にのぅ。あやつらはあやつらで難物じゃ。人というものの根底を信じておらん。あれでは人は不気味と思うわの。特に、妖怪を恐れるごく常識的な人間はの」
唐突に、化け狸が口を開く。
「マミゾウとか言ったの」
「おう。いかにも。儂は佐渡の二ッ岩、今は命蓮寺の雇われ狸よ」
奇妙に諧謔味のある笑みは、外の世界を知っているという自信と自虐故か。気楽に構えておるのを見ておれば、我も少しは気が楽になってきた。だが、舌戦において、気楽に黙って構えておるという訳にはいかぬ。
「流石は人間に化けて暮らしておった狸。よく人間をご存念のようじゃ。我はまだ寝起きじゃ。妖怪が平気な顔をして人間に混じって暮らしておるなどと信じられぬ。我はどこまでも人間じゃ。人間でい続けるつもりでおる」
「この幻想郷ではお主らのが異端よ。人と妖怪の融和を目指しておる、少なくとも今の幻想郷の主はの。……人以外の者を随分と恐れておるようじゃの、お主」
「妖怪が力を持ちすぎては人を喰らう。自然の摂理であろ? となれば、人は人として、ある程度妖怪とは距離をとって暮らさねばならぬ。人が妖怪と拮抗する力を得ればより良い」
「力をもった人間が果たして人間かの。お主はどうじゃ、物部布都。数百年の眠りを経、人ならざる力を持ったお主を、人は人として見るかのう? 人から見ればどうじゃ。お主こそ、異端の中におると、見られておるのではないかな」
こやつらは政治を知らぬ。いや、この古狸は、少しは知っておるのかな。政治とは要は見え方じゃ。他人がどう見ようと構わぬ。『どう見られようとしておるように見える』それが肝要じゃ。この寺は『人と妖怪が同じ地平で生きられる世を作る』我々は、『人と妖怪が拮抗できる力を、一人一人に授ける』。どのような形ででも、人が存続できるだけの力を持てばよいのじゃ。殺されるなら、殺されるがままというような、ただ相手を信じ抜くだけの力を人々は持てぬであろう。力がないなら尚更。力を持つことができて初めて、人は妖怪と並び立てるであろう。
ましてやあの聖白蓮というような者を、我は信じぬ。力がある者は、力のない者の心を解せぬ。果たして白蓮よりも力のある妖怪が、白蓮を喰らおうとしておる時に、同じことを言えるであろうか。あやつには力がある者の奢りが透けて見える。好かぬ。飛鳥の頃、権勢を得た仏教によく似ておる。
とは、思いはしても、この古狸には言わぬ。我ただ一人の考えを、もし太子様、引いては我らの総意と見られてはたまらぬ。ひとまずは、当たり障りのないことを言っておくことにした。
「我は人よ。どんなに異形に成り果てようとも、我は人だという確固たる自信があれば、我は人でいられる。如何に民衆が化け物と呼ぼうが、我は我、一人の人間よ」
「うむうむ。儂はどこに属していようとも、己がどの地平に立っておるのかを信じている、お主のような奴が好きじゃよ。まぁ、ただ気分の好悪だけで生きられたらこれ以上のことはないのじゃが」
「相見互いだのう。古狸、己は少し話せるようだの。少し、好きになってきたぞ」
「そういうことをあまり明け透けに言うでないわ。誰が聞いておるか分からん。……ほれ、来たようじゃぞ」
廊下を進んできた白蓮が、襖を開いた時には、マミゾウの姿は消え失せていた。
白蓮が我の前に座った時、傍らには寅丸星が座った。星は芳香を連れておった。芳香を我の側に放つと、座らせようとしたが、座れないので放っておくように示した。こやつは労働力じゃ。悠長に座っておって仕事ができるか。
我は、目の前に、きちんと正座しておる白蓮を見た。白蓮は大柄な女じゃ。背が高い上、召しておるものが大きいから、姿見は大きく見える。だが表情は柔和で、態度も静かで落ち着いており、威圧する部分がない。かと思うと、包み込むような雄大さを見せるという評判じゃ。こうして一目見ただけでは分からぬ。
人間。
……そう、元人間じゃ。この聖白蓮という女は、人間という枠組みを外れておらぬように見える。魔法を使うという。身体を若々しく保ち、妖怪じみた膂力を発揮する魔法じゃ。生き延びる為の力。
迫害された過去を持つこやつは、複雑ではおれなかったのだろう。
「さて、これから受けるもてなしとやらが率直に言って責め苦なのか処刑なのかは分からんが、それにしたって少しの慰みくらいはあっては良いのではないか? そう言えば腹が減ったのう、のう、芳香」
「そうだー、そうだー、腹が減ったぞーぅ」
こやつは存外に便利な道具じゃ。空気というものを読まぬから、話題を我の方へ持ってくることができるし、自然と場が明るくなる。あのきなくさい青色が、その後ろ暗さを見事に隠しておるのは、この血色の悪いゾンビの功績かもしれぬ。
「……物部様、物部様は随分と妖怪がお嫌いなようですね」
「……うむ? そんなことは良いから食う物をよこせと言うておるのだ。お主と自説を振りかざしてやりあう気など更々ないのじゃ」
「まあまあ。さっきまで、マミゾウさんと楽しそうに話していたではありませんか。あの程度で良いのです。何、ただの戯れです。物部様と友誼を結びたいのですよ」
「我はお主となど友誼を結びとうないわ。仏などという訳の分からぬものに心を尽くしておるような輩などと」
訳の分からぬとは、と白蓮は心外そうに言った。だが、その心外さも、計算された呆れのような表し方で、嫌味がない。
「仏を好かないのは仕方ありません。物部様の信仰を思えば当然のことですから。ですが、妖怪も訳が分からぬからお嫌いなのですか?」
「当たり前じゃ」
「妖怪を嫌うように、人を嫌っている訳でもないのでしょう。……妖怪は、人と何の変わりも、ありませんよ」
「何を?」
「妖怪とは、そもそもが、人の世から追われた者が妖怪となった者が多い。特に、粗暴な妖怪は。いえ、そもそものその粗暴さこそ、人間が恐れたが故にそうした属性をつけられたのです。人間が行った暴虐を、更に暴虐をもって返すのではないかと。同じ人間であるというのに」
「人に由来せぬ妖もおろうが」
「ええ。ですが、人に由来せぬ妖精などは、元来が無邪気なものです。力も人間より弱く、むしろ人間に迫害されておるほど」
「ふん」
「人と妖怪は同じもの。人ならざる者の域に片足を踏み込んでおられる、物部様なら分かるはずです。そもそも、物部という血筋は、神の血を引くもの。神とは、巨大な妖でもあるのですよ。神などはただ力。人であれ妖怪であれ、巨大なるものは神と呼ばれた。その神を知る貴女ならば」
ふむ、神か。我は我の中にいる神を感じている。だが、白蓮、お主は知らぬものを随分易々と口にするのう。白蓮は続けた。
「それに。……ここでは、あなたを物部の女と蔑む者は、おりませんよ。人ならざる異能の娘と」
「知っておったか」
「歴史で語られている程度には、ですけれど。歴史家の筆に残されていないような事柄があるのは分かります。仏教によって滅び、最後の血筋となって生きようとする娘を、人々がどのような目で見たか、ある程度は想像することはできます。それから、人々の代わりに、何を信じたかも」
かつて我は、人ではないと罵られた。同じ人にじゃ。物部は政治の場で強い勢力を持っておったから、その分静かに溜まっておった敵意の膿もあったのだろう。物部の秘術を使えた我のことは知れ渡っておったし、内外で色々と言われたものじゃ。だが、そのことは最早気にしておらぬ。気にしておって蘇我に輿入れなどできようか。
大枠であれ、こやつがそれを知っておるのなら、我には何も言うことはないわ。ただ袂を分かつのみよ。こやつは、こやつらは、皆同じじゃ。皆救う、皆許す、全て委ねよ、と言わんばかりの言い草じゃ。そんなものに縋るほど、我は弱くはないわ。我は神の子じゃ。我が仏に頭を垂れるなど、天が許しても我の血が許さぬ。我が許さぬ。
「お主の言うことは、合っておる。我のことに通じておる。だがのう、白蓮。お主、妖怪が好きならば妖怪として暮らすが良い。違うか? 今更人と交わろうとすることはなかろう。お主は、人であることを捨てられぬだけじゃ。中途半端に、魔道に身を落とし、それを仏の教えなどに縋って、我が身を律しておるだけじゃ」
我は白蓮を責め立てた。どのみち、我はこやつと相容れぬ仲なのじゃ。ああ、とは言っても最低限の言い訳だけはしておかねば。宣戦布告と取られても困る。面倒じゃ。
「よいか、人あってこその妖怪ぞ。妖怪に歴史は記せぬし、記したとして信じなどすまい。妖怪のことも、残すのは人間じゃ。妖怪を保護したとして、果たしてお主は妖怪全てを律しておるのか?お主の身体を守る護法は、妖怪に人間を襲わぬようにできるというのか?もし人間を滅すればどうする。例え妖怪の世になろうと、生き残ることはできんぞ。あとにあるのは、妖怪同士の終わりなき殺し合いぞ。あとには何も残らぬ。もし残るとしても、残った妖怪は文明を築き、自らを『人』と名乗るじゃろうの。よいか、妖怪は、人と争うことで、均衡を保っておるのじゃ」
言い過ぎたかのう、と思った。まあ、我はお主らとは同調できぬ、ということだけ伝わればよい。元より少し考えておったことじゃ。
書物より、我らの記述は極端に省かれた。我らが祖神も同じじゃ。要は記録よ。それは人だけが担うものじゃ。妖怪の間にも書き物を流行らせればよいのではないのかのう。単純な思いつきではあったが、人間に力を与えるように、妖怪にも文化を与えれば、幸せになるのではないのかの。人が記さぬものを、自らで記せば良いのじゃ。肉を与えるように、知識を与えるのじゃ。帰ったら太子様に話してみようかと考えた。
長々と話してしまったが、白蓮は黙ってにこにことしておるだけであった。我は、『慌てて付け加えたように』言った。
「……とまあ高説を並べ立ててはみたが、全て我の個人的な考えじゃ。それも、ただ、お主らとは迎合できぬというだけでの」
白蓮は何も言わなかった。我にはこの沈黙が恐ろしい。黙っておったが我は虜囚なのじゃ。ううむ。我は殺されるのかのう。尸解仙とはどれほど頑丈なのじゃ? もっと、あの青色に、尸解仙とはどんなことができるのか教えて貰っておけばよかったのう。
我は強がった。
「さあて、そろそろ何かしら食うものを寄越しても良いのじゃないのかのう。こやつなどは怖いぞ。飯を与えぬと、何でも食らうのじゃぞ。早く何かしら与えぬと何があっても知らぬぞーぅ」
「腹が減ったぞーぅ」
そう言った時、襖が開き、村紗が我と芳香の前に膳を置いた。まるで見計らったように出すんじゃのう。まるで相手の掌に乗っておるようで、いささか居心地が悪い。
「ええ。そう言われると思って、今用意させておりました。晩餐もありますが、ひとまずはこちらをご賞味下さい」
朱い漆器と箸、それから香の物が付け合わせに置かれておる。蓋を取ると、ふわりと甘い匂いと共に、一筋湯気があがった。
「ぜんざいか」
「ええ。甘いものはお好きですか?」
「うむ」
箸を持つと、団子の浮かぶ黒い汁を啜った。ほどよくほどけたあずきの皮が、口の中で崩れる食感が心地よい。黒光りする汁は甘いばかりではなく、ほのかな渋みがあるのが、上品な味わいじゃ。芳香が箸を握りつぶして苦労しておったので、いつものように口の中に引っ繰り返してやる。椀までばりばり食べたら怒るじゃろうのうと思って椀は戻した。
「うーまーいぞーぉ」
「うむ。ならばここに置いていってやるから毎日飲ませてもらうがよい」
「青娥がここに来るなら考えるぞぉ」
こやつは素直じゃのう。青娥がおればどこでも良いのじゃ。ささっと食って椀を膳に戻す。もう少し欲しい、と思える量なのが心憎いわ。寺でもうまいものはうまいのう。
「さて……長居してしまったの。そろそろお暇させて頂こうかのう」
「あら。せっかくもてなしを用意させましたのに。もう少しゆっくりしていって下さいな」
「お主ももう分かっておろうが。お主らと同調はできぬ、早う帰らせい」
「まあまあ、そう言わずに」
「帰るったら帰るのじゃ」
白蓮が引き止めるのを聞きながら、我は廊下を進んだ。後ろから芳香がぴょんぴょんついてくる。
「せっかく用意してくれたのですよ、寺の皆が」
「ええい、うるさいのう」
「食事に按摩師、湯浴みに寝床」
「用意しすぎじゃ。誰も彼もにそんな豪勢なもてなしをする訳じゃなかろう。我の首を取るなら錆刀一本でよかろうが」
「あら嫌ですわ、私の腕一本で充分です」
うふふ、と白蓮が笑うが怖いわ。玄関まで辿り着くと星が靴を靴箱から下ろして我の前に置いた。この態度は何なのじゃ。
「では帰る。お主らも変な気を起こすのじゃないぞ。世話になったな。ほれ、芳香、お主も頭を下げんか」
「下りぬのじゃ。腰が曲がらぬ。だが、できぬこともないぞ」
「腰を文字通り折るでないわ。怖い。気持ち悪いわ。では帰る。お主らも何か考えがあって宗旨替えする時は道場に来るがよいぞ」
「残念です。また、来て下さいね。今度はもてなしをさせて下さいね」
もう来ぬわ、とは言い残さなかった。今度は焼くにしてもきちんと体勢を整えてからでないと危ないのう。
「どう考えてもやり過ぎですよ」
「そうかしら」
「ええ。まさか響子とナズを側女につけると言い出すなんて……一晩だけとは言え……」
「私が同衾してあげればよかったのかな」
「……性欲は禁じられているのでは」
「目的の為ならば手段は選ぶべきではありません。私は教え以上に、世を救えるならばそうするべきだと思っています。だから、誰かと寝ることも時には必要ですわ。……まぁ、あの方達も、仏教をいつか信仰するかも、と思えばこそ、手厚くして差し上げるべきです。あの方々の頂点にいる方は、どう転ぶか分かりませんわ。あの方々を殺す時は、自ら死を望む時だけで良い。ひとまずのところは」
「そういうものですか」
「ですから、あなた方も、ひとまずは無理押しも抗いもせず、自らの命を第一に考えて動くのですよ。あの方々を殺そうとか思う必要はどこにも、ありません。……ええ、いまのところは」
5 人里にて
殊更に余裕を見せつける為に、磐船を呼ばず、すてすてと歩いておった。そのうちに寺が見えなくなったので、我は安堵して溜息をついた。
「酷い目にあったのじゃ」
「うむ。殺されるかと思ったぞ。布都はいつでもあのような態度なのか。殺されても仕方ないのではないか」
「頭を下ろして生き長らえられるという訳でもあるまい。とくに、人死には厄介じゃぞ。この幻想郷で。そう簡単には殺せないと思っておったからこそあの態度に出れたのじゃ。命ある限り、強気で行くのは大事じゃ」
「そういうものか?」
「態度は大切じゃ。世の時流などはどう流れるか分からん。死ぬ時は死ぬのじゃ。誇りだけは死なせてはならん。自らを高みに保ったまま、下ろしてはならん。我は蘇我の頭領にそう教わった。死ぬ時は死ぬ時じゃぞ、芳香」
「我はもう死んでおる」
「そうであったな」
ひとしきり笑い声を上げると、気分も良くなった。切り替えが大事じゃ。
「勉強させて貰ったぞ、布都」
「うむ。お主も自らを高めて青娥の助けになるのじゃ。そして青娥が誤った道へ行かぬようにきちんと見ておるのだぞ」
「うむ。我は青娥には逆らえぬ。だが、布都の言うことも一理じゃ。我は我を高めようぞ。だが、青娥の道云々については、もう手遅れではないのかな。我はそう思うぞ、布都」
違いない、と我はもう一つ笑い声を上げた。
「さて、で、どこに行くのじゃ、布都」
「元々の目的地じゃ。元より、あんな寺などは遊びにちょっと寄っただけで、本当の目的ではないわ。里じゃ。里で、声を掛けて回るのじゃ。お主は遠くに離れておるか、できるだけまともな人らしくしておれよ。気味悪がるからのう」
そういうわけで我は人里へと下りた。人里は人で溢れておった。やはりこの人里はよいのう。我は騒がしいところが好きじゃ。生きているという実感を肌で感じられる。いっそここに住んでしまってもよいかもしれぬのう。
「里におれば信仰もしやすいし、もし仙人として弟子を取るならば里の方が何かと都合が良い。橋頭堡となるのも良いかも知れぬな」
「色々と考えておるのだな布都」
「うむ。我は意外と色々と考えるのだ。ただ邪仙に言われるがままに無茶振りをこなしておるわけではないぞ。しかし、あやつの無茶振りは何なのだ。こないだは『蓬莱の玉の枝を探してきなさい』とか言われたぞ」
「青娥の無茶振りはいつものことだ。それで、布都はどうしたのだ?」
「うむ。竹林の姫から貰ってきて差し出した。だのにあやつは『偽物』と抜かしおってのう。『ていうか本物持って来てどうするんですか。無理だってしょんぼりする物部様の顔を見て楽しみたかったのに。私が偽物だって言うものは全部偽物』とか騒いでおった」
「枝はどうしたのだ」
「裏庭に埋めた。我にはいらぬものだからのう」
ぐだぐだ益体もないことを喋りながら、里をうろつく。店屋に押し入っては迷惑であろうし。
さて、と考え込む前に腹ごなしが必要じゃな。道の端に露店を見かけて歩み寄った。何やら子供が群れておったが、我は気にせずに顔を突っ込んだ。
「頼もう。一つくれんか」
「はいよ。……ん?お前、あれじゃないのか。近頃復活した」
中では、熱気の中、背の高い女が針を操って、鉄板の穴に入れた小麦粉を焼いて引っ繰り返しておった。はだけた作業着を腰でくくって、肩と腕を露出した格好で、頭には布を巻いておる。髪の毛が落ちんようにじゃのう。その女が、我の方を見て、訝しげに眉をひそめる。子供達が皆我を注目しておる。
「うむ? そんなに我は有名になっておったか」
「ああ。有名だよ。太子の取り巻きだろう。一体何の用だ。里に手を出すのなら容赦はしないぞ」
やれやれどうしてこうもこの幻想郷の者というのは好戦的なのであるか。まあ、異邦人に強く当たるのは狭い、閉ざされた世界の住人の常である。
「害意はない。ちょっと布教に来ただけのこと。今はそれを食いに来ただけじゃ。それより、我は物部布都じゃ。取り巻きなどと、そんな雑多な物言いをするでないわ。お主は誰じゃ」
「私か? 私は上白沢慧音、里で先生をやってる」
「先生? 博士のことか? ……博士とは文書を読んだりする輩のことであろう、それがどうして露店を出しておる。変であろう」
「あぁ。この店の主人が倒れたもんだから、里の手が空いている者で手伝ってるんだ。今日は私が担当。それより、話をするなら、こっちに入れ。客が来てるんだろ」
慧音が針を内側に示して、我と芳香はその通りに従った。
慧音と名乗った背の高い女はちゃかちゃか針を回して、ひょいひょい掬って、丸く焼いた粉物を船の上にのせてゆく。うまいものじゃ。たれを塗って、かつぶし、青のりを振る。香ばしい、刺激的な匂いが広がる。
笑顔と共に袋に詰めた船を渡し、慧音は我に振り向いた。
「うまそうじゃのう」
「あぁ、お前も食うか。すぐにしてやるよ。待っていな」
「うむ。急ぎで頼むぞ。こやつも腹が空いておる」
芳香も涎を垂らして焼き物を見ておる。実にうまそうだ。甘いものもよいが辛いものもよい。早く食いたいのう。
生地を、穴の空いた鉄板に流し込む。軽い音が上がる。中に葱やら天かすやら蛸の足を入れて、ひょいひょいくるくる、簡単そうに回していく。手慣れたもんじゃのう。
「すごいのう」
「すごかなんてないさ。一日してればすぐ慣れる」
「我でもできるか」
「あぁ、誰でもできるよ」
焼けたものを船に乗せて、仕上げをして。我に手渡してくる。湯気が上がっておって実にうまそうじゃ。
「ほれ」
「うむ。実にうまそうじゃ。ではこれで」
「待ちな」
「うむ?」
食う前に、芳香の分を口の中に放り込む。熱い熱いと言いながら芳香はあっさり平らげた。今日はこればっかり見たせいで見慣れたのう。
「なんじゃ。我は別に用はないぞ。これさえ貰えれば文句はないのじゃ」
「さっき、布教とか言ってたろ。私は一介の教師だが、人間が好きなんだ。お前らみたいな訳の分からない連中に、里で変な考えをばらまかれても困るんだ」
「うむ。それは実にもっともなことじゃな。だが、心配はいらぬ。我らも心は同じじゃ。太子様のことを知っているなら、少しは我らのことを知っておろう。我らは人間の味方。人間に、妖怪に負けぬ力を授ける為に来たのじゃ」
そこまで語って、爪楊枝を焼物に刺し、口に放り込んだ。熱い! 熱いのう。思わず悶絶した。しかし、少し空気を送ってやって口の中に馴染ませると、その感触に驚いた。何じゃこれは。たれの甘辛い味が、とろっとろのものに絡まって口の中に広がるのじゃ。
「はふ、ほふ、熱い! 熱いのう! だが、これはうまい。うまいぞ。面白いではないか」
「そんなに喜ばれると、なんだか困るな。それより、力って何のことだ。そんな怪しげなこと、許さないぞ」
「うぬ? 我は食うておるのじゃ、もう少しゆっくり食わせい」
一つ目のを噛んで飲み込んで、次のを口の中に放る。口の中が温度に慣れて、さっきよりも楽に食える。
「うむうむ。実にうまい。なんじゃ、芳香。まだ欲しいのか。我のはやらんぞ。おい、慧音とやら、もう一つこいつにやってくれい。それから、それとは別に三つしてくれんか。持って帰って土産にするのじゃ」
「ああいいよ。いい客だ。しかし、お前、金はあるんだろうね」
「あるに決まっておろうが。太子様から貰ったお小遣いがあるわ。だが、今は使ってしまって手持ちがない。道場の屠自古にツケておくがよい」
「いいけどさ、道場ってどこにあるんだよ」
食い終わると、慧音が我を向き直った。
「さあ、食ったろ。話すんだ。力を与えるって何のことだ」
「うむ。せっかちな奴じゃのう、茶くらい出したらどうじゃ」
慧音は黙って、湯飲みに冷茶を入れて差し出した。うむありがたいと受け取り、これまで通りのことを繰り返した。
「そういう訳でじゃ。我は妖怪に対抗するための力を、道術という力を広める為にここに来たのじゃ」
「そうか。だが、それは許せんな」
「何が嫌なのじゃ。ここの里の者は、皆お主の息子か。そうでなければ、お主が里の者に対して口を出すこともできまい」
「………………」
「そもそも、お主は人里に対して何かしら責務を感じておるようだが、力が良き物であれ悪しき物であれ、望むなら与えるが道理ではないのか。お主は里を、人間を守ることを心地よく思っておるかもしれんが、里の人間が望んでおることなのか?」
慧音は黙って腕を組み、考え込んだ。やがて、ぽつりと呟くように言った。
「……そう言われたら、自信がないよ」
「ほれ見い。お主が好きでやっておることじゃろう。我が好きでやることを留められはせんわ」
「だけど、里の人間が困ってたり、害されそうな時は、やはり私は守りたい。それで、人は人で、妖怪との付き合い方を考えるよ。私達の言うことじゃない」
「何を。人間は妖怪に襲われ、食われるがままではないか。施政者が禁じておるとは言え、無駄なこと。力を持てば、妖怪に怯えることもなくなる。怯えることも自由だと言うか?」
「……それは、それで暴力だよ。力を持った結果、妖怪に対抗できるようになるかもしれない。だけど、その力が元で、人間同士で争いが起きるかもしれない。持つべきではないんだ。できれば、力なんて」
「甘っちょろいことを。では聞くが、お主は力がないのか。力を持った者は、皆お主のように自らを律すればよいのじゃ。そも、力がないから平和に暮らしてられるというなら、永遠に力ある者に飼われておればいいのか。どうじゃ」
「ああもう分かった。ここを通りたけりゃ私を倒して行け! 訳の分からん力を広められてたまるものか」
「やはりそうじゃ。だが、それでよいのじゃ。分かり易く、簡単な方法じゃ。では行くぞ、慧音とやら。お主が人間であれ、この物部布都容赦はせん」
慧音が頭の布を取り、私に向き直った時、場違いな声が響いたのじゃ。
「こーんにーちはっ。慧音さーん、たこ焼き一つ下さ……あれ? 慧音さん? そこにいるのは?」
着物を着たおかっぱ頭の娘が、露店の中を覗いておった。
「阿求。悪いな、少し立て込んでるんだ。また持っていくから、今は待っていてくれないか」
「あなたは物部布都さんに宮古芳香さんですね。珍しいですね、芳香さんが青娥さんと離れて一人でいるなんて」
「おう? 我もたまには別行動をする。命じられれば特にじゃ」
「お主何者じゃ。何故我の名前を知っておる」
「あら、これは申し遅れました」
おかっぱ頭の娘は頭をぺこりと一つ、下げた。それから、懐から手帳と筆を取り出し、言った。
「私は稗田阿求と言います。幻想郷の妖怪、妖精、それから幽霊や神、あと英雄的人物
…まあ、とにかく、幻想郷の不思議生物全般を記録することを責務としております。当然、お二方のことも存じております。直接お会いするのは初めてですが」
「おお、これは丁寧に。そうか、我のことも知っておるのか。我も有名になったもんじゃのう」
「では、さっそく取材を」
「うむうむ。実によいぞ。だが、今はしばらく待ってくれんか。こやつを叩き付せねばならぬでのう」
「喧嘩ですか? いいですねえ、やれやれ。もっとやれ。できるだけ派手にやってください。書くことも増えます。その間に私は芳香さんに取材してますね」
「うぬ? 我への取材は、全て青娥を通してくれい。我はのーこめんとじゃ」
まあまあそう言わずに、と阿求は芳香に食い下がっておる。放って置いて、我は慧音に向き直った。さて、やるか、慧音とやら。
「あっ、そう言えば、どうして喧嘩になんてなったんですか?」
「こいつが布教なんてしようとしてるから、断ってるんだよ。迷惑だろ、阿求。里の人間が皆道術なんて使い始めたら」
「迷惑とは何じゃ。皆長生きしたいに決まっておろう。例え死神や地獄の民を困らせたとて、皆永遠に生きたいはずじゃ。その為の力を広めて何が悪いのじゃ」
阿求がぱちくりと目を見開いた。何を驚いておるのじゃこの娘は。
「永遠の命、ですか?」
「うむ。当然じゃ。道術とはそう言ったことも可能にするのじゃ」
「駄目ですよ、それは。それは認める訳には行きません」
阿求は突然、強い口調で言った。うぬ。誰も彼も邪魔をするのじゃのう。保守的な国じゃ。まあ、我らは侵攻者に見えるのも仕方ないのかも知れぬ。ここは牧歌的な国じゃ。
「お主がそこの慧音と同じように否定しようと、我のすることは変わらん。慧音と同じ問答を繰り返すのも面倒じゃ。邪魔立てするなら慧音と一緒に突き倒すぞ。それでも良いか」
「ええ。私、お相手しますよ。死んだってあなたと同じ考えは持てません」
うぬ。見たところ、背が高く健康的そうな慧音とは違って、阿求は見るからに貧弱で幼く、弱そうじゃ。だが、ここまで口火を切った以上そのまま引き下がることもできん。火球の一つや二つ、脅しに飛ばしてやれば引っ込むかのう。
「良い度胸じゃ。ではゆくぞ!」
「阿求、馬鹿!」
慧音が素早く動いて、我がわざと緩やかに放った火球を、掌で受けて握りつぶした。
「阿求はただの人間だぞ! 殺す気か!?」
「こ、殺すとはひどい言い草じゃのう。我は良いかと聞いたぞ。そ、それに、我は別に洗脳も誘拐も、ましてや殺すなどとも言うておらん。なぜ我を悪者にしようとするのじゃ」
「どう見ても悪人だぞ」
後ろから芳香が声を掛けてくる。うるさいのう。そもそも、人間が弱いから悪いのじゃ。弱いことを盾にするというのは、何よりも悪徳じゃ。
「お前がそのつもりなら、私もそのつもりだ。覚悟はいいな」
「本気にならなくても良かろうに」
慧音の声とともに、その威圧の色も変わった。空気すら揺らいで見えるようじゃ。だが、これまでやり合った相手に比べれば、それほどでもないように見える。殺されはすまい。
だが、慧音の腕を脇に押しやり、阿求が一歩進み出た。何を、と我は思った。慧音も引き止めようとしたが、阿求は我の前まで歩み寄った。
「次は、私の番ですよ」
「ふん。その細腕で、何ができるというのじゃ」
脳に衝撃が走って、痛みよりも衝撃にびっくりして我は一歩、二歩、下がった。な、何をするのじゃ。
阿求は手に分厚い本を持っておった。それでもって、我の脳天を一撃したらしい。なんてことを。
「い、痛い。痛いではないか。何をする」
「いいですか。人には道術やら訳の分からない力なんて、必要ないんです。皆、それぞれの才能を持って、別々のことができる。それを、道術なんて一つの力でまとめてしまったら、それしかできなくなる。それのために生きるようになる。そんな必要はありません。皆、別々に好き勝手に、興味が向くままに好きなことをする。それでいいんです。あなたが出しゃばる必要はありません」
「だ、だが、妖怪が」
「妖怪もクソもないです! 妖怪に食われたから何ですか。それで終わりですか。妖怪に襲われないようにする努力を皆してます。そりゃ夜道なんて歩けないけど、それで何か困りますか。逆に言えば、夜道を堂々と歩けて何になるんですか。妖怪を叩きのめして、何になりますか。そんなヒマありませんよ。人間は寿命が短いんだから。皆自分のしたいことしてます。妖怪の住処を奪って人間の生活基盤を広げますか。そんな必要はありません。今で充分暮らせてます。それに、道術だってしたい人がいたら、自分からそちらの道場の門を叩きます。無理押しに布教をして何になるんですか。どうせ皆断りますよ。皆、そんなことに興味はありません」
「言ったな。では、本当に興味がないか、試すぞ」
「ええ、構いません」
「お、おい阿求」
「慧音さん、大丈夫ですよ。どうせ皆断ります」
困ったような顔をしている慧音の前で、阿求は自信満々にふんぞり返っておる。本の一撃と、口撃は少しびっくりしたし堪えたが、だが布教の言質はとったぞ。これで大手を振って布教ができるという訳じゃ。ちょろいのう人里。
だが、それがなんと、阿求の言う通りになったのじゃ。
我は必死に説いても、『長生きはしたいけど、どのみち面倒なこと必要だし、絶対できるって訳じゃないんでしょ。別に、したいことあるし』だの、『別に長生きしたって、妖怪に食われたら終わりだし』だの、『いやあ道術も面白そうだけど、別に楽しいこともいっぱいあるしねえ』だの、『仕事が忙しいから』だのと言った答えが返ってきた。これだから衆生というやつは御しがたいのだ。
十件も回ったあたりで、阿求はくすくすと笑った。
「ね、言った通りでしょう。いくら布教してもいいけれど、同じですよ。もし若い子が釣られて道場に入っても、どのみちすぐに飽きて出てきます。ここは、他の楽しみも沢山ありますから」
「負けだぞ布都」
「くっ。覚えておれよ。また来るからな」
「ええ。今度からは強情を張らないで、仲良くしましょうね」
こやつ。何という余裕を見せつけるのだ。
「また遊びに来るぞ! よいか、我は諦めぬ。人々に混じり、我をより見せつけて、道術の魅力をひたすらに説くぞ。お主らの頭さえ道術一色に染めてやるからな」
「楽しみにお待ちしてますよ。あなたのことも、もっと知りたいですから」
完敗じゃ。
今日のところは、ひとまず、完敗じゃ。人間は強いのう。死んでもよいとは。何かしら、人間は残すことができる。我はどうじゃろう。今更何かを残すことはできるものかのう。
もう日も暮れるし、今日のところは帰ってやることにしたのだ。
6 道場に帰還じゃ
道場に戻った我は、青娥に芳香を帰し、太子様に会いにゆくことにした。太子様の部屋には屠自古も侍っておった。我が闖入したことが気に入らないのか、我を睨み付けておった。何を怒っておるのかのう。
「おや。布都、帰ったのですね。どうでした」
「うむ。大変有意義でした」
「それは良かったですね。私にとっても喜ばしいことです。具体的には、どうでしたか」
「まず、紅魔館のデザートは大変美味でした。スコーンと呼んでおったか、紅茶に大変合う、焼き菓子である。太子様にも味わってもらおうと思い、紅茶の葉と一緒に貰ってきましたぞ。
山では水羊羹を貰ってきました。水が違うのでしょうな。味に全く濁りがない。すっきりとして喉を通り過ぎてゆくようじゃ。あまり熱を与えたらよくないというので、ほれ屠自古、抱いておれ。お主は冷たいからの。早めに食べた方が良いでしょうな。
そして、寺では一度捕まったのですが、なんの我は怯えることなく甘味を所望してやりましたぞ。ぜんざいが出てきおったが、小癪にもうまい。手慣れた者が作っておるのでしょうな。近頃少し冷えてきた折であることも増して、美味しく頂いてしまいました。
里では妙な焼物を買ってきましたぞ。近いうちに請求が来るであろうから、屠自古、払っておけい。これは甘辛いたれで食うもので、中は半熟でとろとろになっており、熱いのに気をつければ大変美味い代物ですぞ。少し冷えておるから、火をおこして、温め直して食べるが良いと思われます」
「甘味の説明は良いので。布教の方は、どうでした」
「うむ。実に実りがありませんでした」
太子様にはこの程度でよいのだ。我が何を欲しておるのか、いささか複雑な心境とは言え、読み取ってくれるだろう。太子様はうむうむと頷いた。実に簡単でよい。屠自古にほれ、と土産を投げるように渡してやると、「もっと早く帰って来ないと、夕食ができないだろ」とぶつくさ呟いて、台所へと向かって行った。
「それで、どうでした」
「今言った通りですぞ」
「いえ、首尾ではなくて」
「甘味は大変美味しかったです」
「甘味の感想でもなくて。あなたの、生の感情ですよ。どんな風に感じたのか」
どんな風に。難しいことを言うのう。
「一言で言えば、一筋縄で行かぬ、というところでしょうな」
「ほう」
「皆それぞれ生きておる。それも、食や金など、それのみを求めておるようには見えませぬ。むしろ、もっと精神的な部分を求めておるようでした」
……太子様は、ゆっくりと瞳を閉じた。
「そういう相手は、厄介ですよ。……一つの方法では、押し通れませんから。無理押しせず。ゆっくりとやっていきましょう、布都」
「ええ。勿論です」
変わらぬ日常であることよ。これも我の、一つの変わらぬ日常なのじゃ。あぁ、あの飛鳥の里におった頃から、何も変わらぬ。
我はこのお方に近付きすぎた。我の思想は、殆ど太子様の者じゃ。だが、今更、離れるということも思いつかぬ。
太子様を盲信しておる訳にも行かぬのだろう。あの時代でこそ太子様は至高の者であったが、ここではこれまで通りには行かぬようじゃ。どの勢力も一筋縄では行かぬ。我ももっと自らを高め、より太子様を支えねばならんのう。
要は、立ち位置と見方の問題ですよね。ある意味里人達のゴーイングマイウェイが一番確固としている気がする。大衆なんて、いざってときにならなければこんなもんでしょ、と。
全体的に一触即発でも食い物をねだってみたりおみやげ沢山だったりで楽しそうなのがなんともよろしい。
布都ちゃんの言を借りると牧歌的という感じ。
楽しそうで面白かったです
布都はボス勢のような大人物ではありませんが、普通人ならではの強さと小物さがいいですね。
作中で最初から限度は弁えてるのに、それを一歩二歩踏み越えるチャレンジしてて楽しそう。
布都と青娥の関係も面白いなー、どっちが大人でどっちが子供なのかよく分からん。
小心のようでブレない布都がいいですね。
毎度毎度ちゃんと芳香に食わせてやってるのもいいw
アホのようでしっかりものを考えているし、尊大なようでいて繊細で距離感をよくわかっているし、ヘタレそうに見えて意外と強いし、怖いもの知らずに見えて無理なものは無理としっかり判断してくる。
いや、ほんと布都の次の言動がまったく読めなかった。
しかしキャラとしてブレている印象もあまり感じなかったのがすげえ。
言うことはビシッと言う芳香と、ちゃんと芳香にものを食わせてやる布都に和んだw
布都と芳香のコンビってのもホント目新しい。
終わりが特に意外性なく終わったのが寂しいようなこれでいいような。
里人のブレなさには若干の違和感。そんなに悟ってんのか里の人? それを踏まえて振り返ると慧音と阿求の敵対行動も意味がわからんし・・・。
しかし姫様本物渡しちゃったんです?
この芳香ちゃんすごく気に入りました。素敵です!
また見たいと思いました
楽しそうなこのコンビ、好きです!!
ひっそり一緒に楽しんでる芳香ツッコミかわいい。
>屠自古、払っておけい。
散々な物言いが続いてきた中、ここで我慢できずにふいてしまいましたw
なんだかのほほんとするお話でした
思想パートもアクションパートもいうことありませんでした!
くどくなく程よくこっていて程よく大雑把でみていて楽しかったです
気持ちいい加減というか距離感ですね
ある意味程度というか距離感というのが弾幕ごっこのコツというか平和や調和のコツなのかも知れません
魔法バトルが仙道っぽい感じがして特に良かったです!!
最高でした!!!