森の中に独りの青年が倒れていた。時は深夜、年は大凡10か20。奇様な格好をしたその青年は、程なくして気がついたようで、ゆっくりと頭をクラクラさせながら起き上がった。
観ると、顔に幾つかの傷跡。青年は辺りを挙動不審に見渡す。
自分がどこにいるのか、そもそもここは何処なのか、さっぱり解っていないらしい。森が動く度にピクリと身を固めている。
天狗は考える。ここで突撃取材と洒落込んでもいいが、彼女はあまり人間と関わった事がない。特に、渡来人なんてもってのほかだ。同族の中には、そんなネタを好き好んで首を突っ込む変わり者もいるが、彼女は専ら専門外。
彼女がどうして渡来人と断定したのか。状況証拠がこれだけあれば、おのずとわかる。
奇様な格好、月も程よく照らし始めた深夜、独り気を失って倒れていた。少なくとも、彼女が夜食を食べている間は。
仮に人里から外れて来たなら、ここまで来るまでに、食われているか保護されているに違いない。里にはあの守護者がいるのだから。
神隠しに会った後直ぐに、彼女が見つけたのだろう。
ならば、この怪我は外で付いたものか?何故神隠しにあったのか?いったい誰の策略なのか?
天狗は想像を巡らし、時折メモを取っていく。
今日は散歩がてらに遠出をしてみたのだけど、運がいい。
神隠しにあった人間なんて、中々お目に預かれるものではない。念のためにと持ってきた手帳を開いて軽くメモ。カメラを持たなかった数刻前の自分が悔やまれるが、まぁいいやと思えたのはそれ程上機嫌であったから。
肝心の青年はというと、ようやくゆっくりと起き上がり、と転んだ。そして、そのままその場で大の字に寝そべった。
先ほどとは違って、随分と落ち着いて曇りがかった空を眺めている。常日頃見る夜空とは雲梯の差もある星空を眺め、ようやく青年はここが自分の全く知らぬ土地であることを再認識した。
不安と安堵、恐怖と好奇心の入り混じる不確定な自分の心が、虚無感と共に襲ってくる。
気がつけば、青年の力ない笑い声が垂れていた。
暇だ。
何かアクションを起こしてくれないと、観察する天狗は困る。彼女としては面白くない。眼前の崖をただただ眺めるのは楽しいだろうか?
ここで天狗は一つ賭をして暇をつぶすことを思いついた。あの渡来人が、無事に人里までたどり着けるか否か。
もし勝ったなら、そう、近くでやっている評判のいい八目鰻の上手い店で一杯。もし負けたら、一週間は晩酌禁止。
天狗に晩酌禁止とは、大層苦痛なものである。故に、胆を飲み、じっくりと考え込む。
現在地から人里まで、人間の距離にして約数里。直線距離でこの長さになるので、実際はもう少々長いだろう。渡来人なのだから、空を飛べるわけはない。すると、闇雲に、この闇の中を、自らの足で進まなければならないというわけだ。
彼女の推測に付け足すならば、加えて土地勘がなく、進む方向も、そもそも人里があるかどうかも、この青年は判っていない。自身が今、どれほど絶望的な状況に身を投じられたのかを理解していないのだ。
だがそれも、すぐに判ることだろう。
青年は腰辺りのポケットから何かを取り出し、その後耳元に翳した。
月明かりのあまり通らぬ森の中、距離的にも見えづらいが、必死に目を凝らしてみると、どうやら外の機械のようだ。その手のひらサイズの、魔力ではなく電力を帯びる小型機械には、見覚えがある。
何時だったか。確か、そう。あれは変わり者の鴉天狗と偶然はち合わせた時。その変わり者を追ってきた、ツインテールの鴉天狗が持っていたものによく似ている。
それもそのはず。
その鴉天狗が持っていたものと、青年のわずかな希望詰まったその小型機械は形こそ違うが、同じ種類のものである。
しかし、彼女は青年が何をしているのかを理解するには至らなかった。
彼女は、その小型機械をカメラの延長上のものだと考えていたからだ。
実際、あの時も使っているところを見ていたが、それはその鴉天狗の能力、念写の媒体としてであった。
だから、彼女にはカメラを耳に当て必死に何かを待っている、という少々理解の出来ない姿にしか見えていないのだ。
青年は、反応のない小型機械に落胆し、ゆっくりと元の場所に戻した。
天狗はというと、ようやくどちらに賭けるかを決め、いよいよ青年の動向に注目する。一週間の禁酒がかかっているのだ。
隠れていた月も、徐々にその姿を表し始め、闇を少しずつ追い払っていく。光は人に力を与えると言うべきか、彼女が想っていたよりも青年の顔色は良かった。
早く動いてくれないものか、天狗の握るメモ帳に力がこもる。彼女の考えるように、同じ場所に長時間居座ることは一見良さげに見えるが、都合が悪い。
方向もわからぬまま動けば、最悪人里から遠ざかり、居座っていては近まらず。青年の生命の灯火は刻一刻と弱まり始めるわけである。
天狗の、妖怪としての嗅覚が此方に迫る数匹のにおいを嗅ぎ取った。こんな深夜に、こんな場所で、人間がずっと居座っているのだ。
これで、少なくとも青年はこの場から移動を余儀なくされる。しかも、運のいいことに、方角は人里の丁度真反対。つまり、逃げる場合方角は人里に向かうわけである。
天狗は、やっと自分の望む展開に傾いてきたことにニヤリと口元が上がる。
視線を青年からニオいの方角に移し覗き見る。
遠視をしていると、白狼天狗の目をどうにか移植出来ないものか、と大変物騒な願いが必ず頭に浮かぶようだ。
眼を抉り、自分に入れたところで機能するわけでもないし、食べたところで意味もない。それなら今頃白狼天狗は滅んでる。
あれは、白狼天狗の、白狼天狗が所有する能力なのだから。
ただし、それぐらいしか取り柄がない、と評価する天狗達もいる。上下関係が厳しい天狗社会では、よく聞く話だ。
白狼天狗と交わる場合、能力はどうなるのだろうか、などと考えていると、こちらに向かってくる影を目視した。
青年はまだ気がつかない。当然だ。人間が目視できる距離ではない。
と、慌てて自身の湧き出ている妖気を絶つ。折角向かってきているというのに、自分の妖気で追い返しては、また暇な時間が続いてしまう。
彼女の妖気に気づいた様子はなく、そしてようやく、それは青年の前に姿を表した。
今後の事を考えながら、仰向けに空を見上げていた青年は、いきなり表れたその妖怪に、視線を釘付けとなった。
その妖怪のスカートの中身が見えるか見えないかという絶景の位置にいるのが理由ではない。とはいえ、天狗はこの映像を保存できない事を悔しがった。面白い記事になりそうな一枚をみすみす逃したのだ。
さて、なぜ青年がその妖怪に釘付けになっていたのか。
それは、渡来人ならば当たり前であろう。
その妖怪は、漆黒の生洋服を身にまとい、際立つ金色の髪を夜風に靡かせ、頭上に浮遊していたのだから。
「こんばんは。人間さん」
姿は、人間で言う所の童、青年よりも年下に見えるだろう。紅いリボンがその妖怪の幼さを引き立たせている。
しかし、青年は息をのんだ。
恐怖、青年が真っ先に感じたものはまさしくそれだった。
挨拶を言い、こちらに向けにこりと笑みを見せたその表情で、青年は金縛りが解かれたように一気に起き上がり距離を取った。
汗が湧き出、抜けた腰が上がらないその身体で必死に下がった。視線だけは、その妖怪を一点を見つめ。
妖怪は特に反応する事もなく、ちょいっと地面に足を下ろすと広げていた両手を後ろに組み、上から下へ、折り返して上へとじっくり眺める。
妖怪には、人間を食すものと食さないものとがいる。食すものの中にも、好き好んで食すものもいれば、酒や魚を好むものもいる。妖怪にも好き嫌いがあるのだ。人間がまずいと思う妖怪だっている。
彼女が考えるに、あの妖怪は、前者。
それも、人間が大好物のタイプ、と推測する。
これで賭が面白くなったと言うものだ。わかりきった賭けなど面白くもない。
青年は、荒い呼吸を必死に整えるので精一杯のようだ。
「こんな夜遅くに、どうしたの?」
真夜中の森だ。妖怪の声はよく響く。
「わ、わからないんだ……。君こそ、どうしたんだい?」
意外。しっかりとした声で返したではないか。
いくら異様な恐怖を感じているとはいえ、見た目は可愛らしい童。天狗の予想よりも早く、落ち着きを取り戻すのはまだ難しくはない。
とはいえ、こうもしっかりと受け答えまでしてみせた青年に、天狗は少々感心した。
妖怪は、返答があることが嬉しかったのか、顔が明るくなり、そして応答する。
「今日はいい天気だから河辺に立ち寄ったの。そしたら美味しそうなお魚を、これから食べに来ないって誘われて。危ない巫女も寝てるだろうしね」
「そう、なのか。じゃあ早く、行かないとね」
「そうね。もたもたしてると見つかるかも。でも大丈夫みたい」
手に力が入る。
「所で、人のいる場所はどこか知っているかな?」
「人里?それならあっちにあるよ。夜は中々入れてくれないけど。ま、入っちゃったら大変だしね。私も、あっちも」
あっち、とは青年の背後の方向。聞くことは聞いた。場所も方角も判った。後は、いち早くこの場から離れるだけである。
「それじゃあ、貴方も質問に答えてくれる?」
妖怪は言う。
「アナタはたべてもいいニンゲン?」
妖怪の言葉を理解する頃には、青年は駆け出していた。力の入りが不安定な両足を必死に鼓舞しながら、あっちの方角へと一直線で向かった。
闇だった。
深夜、月明かりも疎らな森で、確かに青年は目撃した。
妖怪の背後に広がる、一点の曇りのない闇を。
初めて青年は、それを、異形な存在であると認識したのだ。
妖怪の、あの顔は、あの笑みは、ただの笑みではない。好物を前に、今食べようとする童そのものではないか。
そして、その食意は青年へ向けて放たれている。
青年は、体験したこともない未知の恐怖から必死に逃げる。
それもそのはず。彼は渡来人。
本来は、自分が好物に対して放っているそれが、まさか自分に向けて放たれる事などまずない世界の住人。
恐怖から、闇から、妖怪から必死に逃げ惑う青年を、天狗はただただ見ている。青年からしてみては、生と死の境界線を渡っているだろうが、彼女にしてみれば、唯の賭事。
お酒を飲めるか、禁酒になるかの大事な賭けでしかないのだ。
その、いよいよ判らなくなってきた賭けに、ずいぶん前から手がまっていたメモ帳がギュギュギュと握りしめられていく。
青年は走る。
生存本能なのか、火事場の底力なのか、普段は歩くことも面倒な彼の全力疾走は、妖怪の追撃から辛くも逃れるに至っている。
木々が丁度、浮遊する彼女の障害物と成っているおかげだ。しかし、それでも足りない。
辛くも、なのだ。
それはつまり、少し傾けば途端に彼女が優勢に成ると言うことだ。
天狗は、妖怪に気づかれぬよう、視力内ギリギリの距離見届ける。このままいけば、時期に捕まるのは彼女の目からも明らかだ。
多少頑張ったようだが、やはりこうなったか、と今日の遅めの晩酌メニューを頭の片隅で考え始める。
と、ここで妙な動きを見せる青年。先程まで弄くっていた小型機械を取り出し、今度はあろう事か走りながらいじり始めた。
なにをしようと言うのだろうか。天狗は妖怪との距離をわざわざ縮め、青年の奇行を探る。
みるみる青年と妖怪との距離は狭まっていき、そして妖怪の闇は青年の背を捉える距離あと一歩まで迫ってくる。
途端、青年は茂みに頭から突っ込む。見れば、この辺りは茂みと木々の無法地帯。
しかし、悪あがきにしては、少々雑だ。
妖怪は妖気を込めたレーザーを茂みに向かい放射。只の人間が食らえば悲鳴ですむだろうか。
よし、今日あの屋台にしよう、と決めるに至った天狗。
そして、同時に機械音が夜の森に木霊する。
一定のリズムの音色がなる茂みに向かい、妖怪は満面の笑みで突貫する。それは、天狗に闇も笑顔を見せているように錯覚させた。
しかし、妖々としたその笑みの先には、誰もいなかった。
これには、妖怪は元より、気持ちは既に別の方へと向かっていた天狗も驚く。
音の鳴る下を見れば、そこには青年の持っていた小型機械。
あの小型機械から、音が鳴っていたようだ。天狗はますます驚いた。なんと面妖な。
妖怪は親指と人差し指で摘むと上下左右裏表と興味深げに観察する。
妖怪からしてみれば、青年がこの小型機械になったように錯覚させられるのだ。もちろん、妖怪もそんなこと微塵も思っていない。
意を決し、口の中に入れて一噛みするが、やはりそこは機械。鉄の味しかしない。万に一つ、先程の青年が化けたと考えた妖怪だったが、直ぐに吐き出し、周囲を見渡す。
そして、残念と無念がため息として口から出された。
妖怪からは、もう青年の姿はみえない。妖怪は、せっかくのご馳走を取り逃がした悔しさを胸に、友人の帰りを待つべく、飛び立った。
天狗は、あの小型機械にあんな機能があったのかとペンを取るが、直ぐに止めた。
肝心のメモ帳は、既に拳に握り締められ、書ける代物ではなくなっていた。
小型機械の残骸を見る。確かに、河童辺りなら直せそうかもしれないが、あの妖怪の口から吐かれたあれを、進んで触りたがるものはいない。
気晴らしの散歩にしては、楽しめたとそこは考えなおし、逃げゆく青年を見送り、晩酌へと羽を広げた。
走る、走る、走る。
青年は、懸命に前に進む。
先程の、あの少女の皮を被った得体の知れないバケモノが追ってくる様子はない。
目の前には、この両目には微かではあるがぼんやりと明かりか見える。
明かりだ。
この暗い森の中に、明かりが見える。
人工の光の一線。
唯それを目指し、カラカラになりながらも走りつづける。
と、光は進めど進めど、小さく成っていく。
待て、待ってくれ!
カラカラの喉を震わせ、青年は負いつがる。
後少し、後少しなんだ!
光はみるみる小さくなっていく。
一線は、細く細くなっていく。
後少し、後少し!
両目をガンと見開き光の唯一点だけを目指す。
辺りは何も映らない。
光はみるみる小さくなる。
そしてポツリと見えなくなった。
イタダキマス
観ると、顔に幾つかの傷跡。青年は辺りを挙動不審に見渡す。
自分がどこにいるのか、そもそもここは何処なのか、さっぱり解っていないらしい。森が動く度にピクリと身を固めている。
天狗は考える。ここで突撃取材と洒落込んでもいいが、彼女はあまり人間と関わった事がない。特に、渡来人なんてもってのほかだ。同族の中には、そんなネタを好き好んで首を突っ込む変わり者もいるが、彼女は専ら専門外。
彼女がどうして渡来人と断定したのか。状況証拠がこれだけあれば、おのずとわかる。
奇様な格好、月も程よく照らし始めた深夜、独り気を失って倒れていた。少なくとも、彼女が夜食を食べている間は。
仮に人里から外れて来たなら、ここまで来るまでに、食われているか保護されているに違いない。里にはあの守護者がいるのだから。
神隠しに会った後直ぐに、彼女が見つけたのだろう。
ならば、この怪我は外で付いたものか?何故神隠しにあったのか?いったい誰の策略なのか?
天狗は想像を巡らし、時折メモを取っていく。
今日は散歩がてらに遠出をしてみたのだけど、運がいい。
神隠しにあった人間なんて、中々お目に預かれるものではない。念のためにと持ってきた手帳を開いて軽くメモ。カメラを持たなかった数刻前の自分が悔やまれるが、まぁいいやと思えたのはそれ程上機嫌であったから。
肝心の青年はというと、ようやくゆっくりと起き上がり、と転んだ。そして、そのままその場で大の字に寝そべった。
先ほどとは違って、随分と落ち着いて曇りがかった空を眺めている。常日頃見る夜空とは雲梯の差もある星空を眺め、ようやく青年はここが自分の全く知らぬ土地であることを再認識した。
不安と安堵、恐怖と好奇心の入り混じる不確定な自分の心が、虚無感と共に襲ってくる。
気がつけば、青年の力ない笑い声が垂れていた。
暇だ。
何かアクションを起こしてくれないと、観察する天狗は困る。彼女としては面白くない。眼前の崖をただただ眺めるのは楽しいだろうか?
ここで天狗は一つ賭をして暇をつぶすことを思いついた。あの渡来人が、無事に人里までたどり着けるか否か。
もし勝ったなら、そう、近くでやっている評判のいい八目鰻の上手い店で一杯。もし負けたら、一週間は晩酌禁止。
天狗に晩酌禁止とは、大層苦痛なものである。故に、胆を飲み、じっくりと考え込む。
現在地から人里まで、人間の距離にして約数里。直線距離でこの長さになるので、実際はもう少々長いだろう。渡来人なのだから、空を飛べるわけはない。すると、闇雲に、この闇の中を、自らの足で進まなければならないというわけだ。
彼女の推測に付け足すならば、加えて土地勘がなく、進む方向も、そもそも人里があるかどうかも、この青年は判っていない。自身が今、どれほど絶望的な状況に身を投じられたのかを理解していないのだ。
だがそれも、すぐに判ることだろう。
青年は腰辺りのポケットから何かを取り出し、その後耳元に翳した。
月明かりのあまり通らぬ森の中、距離的にも見えづらいが、必死に目を凝らしてみると、どうやら外の機械のようだ。その手のひらサイズの、魔力ではなく電力を帯びる小型機械には、見覚えがある。
何時だったか。確か、そう。あれは変わり者の鴉天狗と偶然はち合わせた時。その変わり者を追ってきた、ツインテールの鴉天狗が持っていたものによく似ている。
それもそのはず。
その鴉天狗が持っていたものと、青年のわずかな希望詰まったその小型機械は形こそ違うが、同じ種類のものである。
しかし、彼女は青年が何をしているのかを理解するには至らなかった。
彼女は、その小型機械をカメラの延長上のものだと考えていたからだ。
実際、あの時も使っているところを見ていたが、それはその鴉天狗の能力、念写の媒体としてであった。
だから、彼女にはカメラを耳に当て必死に何かを待っている、という少々理解の出来ない姿にしか見えていないのだ。
青年は、反応のない小型機械に落胆し、ゆっくりと元の場所に戻した。
天狗はというと、ようやくどちらに賭けるかを決め、いよいよ青年の動向に注目する。一週間の禁酒がかかっているのだ。
隠れていた月も、徐々にその姿を表し始め、闇を少しずつ追い払っていく。光は人に力を与えると言うべきか、彼女が想っていたよりも青年の顔色は良かった。
早く動いてくれないものか、天狗の握るメモ帳に力がこもる。彼女の考えるように、同じ場所に長時間居座ることは一見良さげに見えるが、都合が悪い。
方向もわからぬまま動けば、最悪人里から遠ざかり、居座っていては近まらず。青年の生命の灯火は刻一刻と弱まり始めるわけである。
天狗の、妖怪としての嗅覚が此方に迫る数匹のにおいを嗅ぎ取った。こんな深夜に、こんな場所で、人間がずっと居座っているのだ。
これで、少なくとも青年はこの場から移動を余儀なくされる。しかも、運のいいことに、方角は人里の丁度真反対。つまり、逃げる場合方角は人里に向かうわけである。
天狗は、やっと自分の望む展開に傾いてきたことにニヤリと口元が上がる。
視線を青年からニオいの方角に移し覗き見る。
遠視をしていると、白狼天狗の目をどうにか移植出来ないものか、と大変物騒な願いが必ず頭に浮かぶようだ。
眼を抉り、自分に入れたところで機能するわけでもないし、食べたところで意味もない。それなら今頃白狼天狗は滅んでる。
あれは、白狼天狗の、白狼天狗が所有する能力なのだから。
ただし、それぐらいしか取り柄がない、と評価する天狗達もいる。上下関係が厳しい天狗社会では、よく聞く話だ。
白狼天狗と交わる場合、能力はどうなるのだろうか、などと考えていると、こちらに向かってくる影を目視した。
青年はまだ気がつかない。当然だ。人間が目視できる距離ではない。
と、慌てて自身の湧き出ている妖気を絶つ。折角向かってきているというのに、自分の妖気で追い返しては、また暇な時間が続いてしまう。
彼女の妖気に気づいた様子はなく、そしてようやく、それは青年の前に姿を表した。
今後の事を考えながら、仰向けに空を見上げていた青年は、いきなり表れたその妖怪に、視線を釘付けとなった。
その妖怪のスカートの中身が見えるか見えないかという絶景の位置にいるのが理由ではない。とはいえ、天狗はこの映像を保存できない事を悔しがった。面白い記事になりそうな一枚をみすみす逃したのだ。
さて、なぜ青年がその妖怪に釘付けになっていたのか。
それは、渡来人ならば当たり前であろう。
その妖怪は、漆黒の生洋服を身にまとい、際立つ金色の髪を夜風に靡かせ、頭上に浮遊していたのだから。
「こんばんは。人間さん」
姿は、人間で言う所の童、青年よりも年下に見えるだろう。紅いリボンがその妖怪の幼さを引き立たせている。
しかし、青年は息をのんだ。
恐怖、青年が真っ先に感じたものはまさしくそれだった。
挨拶を言い、こちらに向けにこりと笑みを見せたその表情で、青年は金縛りが解かれたように一気に起き上がり距離を取った。
汗が湧き出、抜けた腰が上がらないその身体で必死に下がった。視線だけは、その妖怪を一点を見つめ。
妖怪は特に反応する事もなく、ちょいっと地面に足を下ろすと広げていた両手を後ろに組み、上から下へ、折り返して上へとじっくり眺める。
妖怪には、人間を食すものと食さないものとがいる。食すものの中にも、好き好んで食すものもいれば、酒や魚を好むものもいる。妖怪にも好き嫌いがあるのだ。人間がまずいと思う妖怪だっている。
彼女が考えるに、あの妖怪は、前者。
それも、人間が大好物のタイプ、と推測する。
これで賭が面白くなったと言うものだ。わかりきった賭けなど面白くもない。
青年は、荒い呼吸を必死に整えるので精一杯のようだ。
「こんな夜遅くに、どうしたの?」
真夜中の森だ。妖怪の声はよく響く。
「わ、わからないんだ……。君こそ、どうしたんだい?」
意外。しっかりとした声で返したではないか。
いくら異様な恐怖を感じているとはいえ、見た目は可愛らしい童。天狗の予想よりも早く、落ち着きを取り戻すのはまだ難しくはない。
とはいえ、こうもしっかりと受け答えまでしてみせた青年に、天狗は少々感心した。
妖怪は、返答があることが嬉しかったのか、顔が明るくなり、そして応答する。
「今日はいい天気だから河辺に立ち寄ったの。そしたら美味しそうなお魚を、これから食べに来ないって誘われて。危ない巫女も寝てるだろうしね」
「そう、なのか。じゃあ早く、行かないとね」
「そうね。もたもたしてると見つかるかも。でも大丈夫みたい」
手に力が入る。
「所で、人のいる場所はどこか知っているかな?」
「人里?それならあっちにあるよ。夜は中々入れてくれないけど。ま、入っちゃったら大変だしね。私も、あっちも」
あっち、とは青年の背後の方向。聞くことは聞いた。場所も方角も判った。後は、いち早くこの場から離れるだけである。
「それじゃあ、貴方も質問に答えてくれる?」
妖怪は言う。
「アナタはたべてもいいニンゲン?」
妖怪の言葉を理解する頃には、青年は駆け出していた。力の入りが不安定な両足を必死に鼓舞しながら、あっちの方角へと一直線で向かった。
闇だった。
深夜、月明かりも疎らな森で、確かに青年は目撃した。
妖怪の背後に広がる、一点の曇りのない闇を。
初めて青年は、それを、異形な存在であると認識したのだ。
妖怪の、あの顔は、あの笑みは、ただの笑みではない。好物を前に、今食べようとする童そのものではないか。
そして、その食意は青年へ向けて放たれている。
青年は、体験したこともない未知の恐怖から必死に逃げる。
それもそのはず。彼は渡来人。
本来は、自分が好物に対して放っているそれが、まさか自分に向けて放たれる事などまずない世界の住人。
恐怖から、闇から、妖怪から必死に逃げ惑う青年を、天狗はただただ見ている。青年からしてみては、生と死の境界線を渡っているだろうが、彼女にしてみれば、唯の賭事。
お酒を飲めるか、禁酒になるかの大事な賭けでしかないのだ。
その、いよいよ判らなくなってきた賭けに、ずいぶん前から手がまっていたメモ帳がギュギュギュと握りしめられていく。
青年は走る。
生存本能なのか、火事場の底力なのか、普段は歩くことも面倒な彼の全力疾走は、妖怪の追撃から辛くも逃れるに至っている。
木々が丁度、浮遊する彼女の障害物と成っているおかげだ。しかし、それでも足りない。
辛くも、なのだ。
それはつまり、少し傾けば途端に彼女が優勢に成ると言うことだ。
天狗は、妖怪に気づかれぬよう、視力内ギリギリの距離見届ける。このままいけば、時期に捕まるのは彼女の目からも明らかだ。
多少頑張ったようだが、やはりこうなったか、と今日の遅めの晩酌メニューを頭の片隅で考え始める。
と、ここで妙な動きを見せる青年。先程まで弄くっていた小型機械を取り出し、今度はあろう事か走りながらいじり始めた。
なにをしようと言うのだろうか。天狗は妖怪との距離をわざわざ縮め、青年の奇行を探る。
みるみる青年と妖怪との距離は狭まっていき、そして妖怪の闇は青年の背を捉える距離あと一歩まで迫ってくる。
途端、青年は茂みに頭から突っ込む。見れば、この辺りは茂みと木々の無法地帯。
しかし、悪あがきにしては、少々雑だ。
妖怪は妖気を込めたレーザーを茂みに向かい放射。只の人間が食らえば悲鳴ですむだろうか。
よし、今日あの屋台にしよう、と決めるに至った天狗。
そして、同時に機械音が夜の森に木霊する。
一定のリズムの音色がなる茂みに向かい、妖怪は満面の笑みで突貫する。それは、天狗に闇も笑顔を見せているように錯覚させた。
しかし、妖々としたその笑みの先には、誰もいなかった。
これには、妖怪は元より、気持ちは既に別の方へと向かっていた天狗も驚く。
音の鳴る下を見れば、そこには青年の持っていた小型機械。
あの小型機械から、音が鳴っていたようだ。天狗はますます驚いた。なんと面妖な。
妖怪は親指と人差し指で摘むと上下左右裏表と興味深げに観察する。
妖怪からしてみれば、青年がこの小型機械になったように錯覚させられるのだ。もちろん、妖怪もそんなこと微塵も思っていない。
意を決し、口の中に入れて一噛みするが、やはりそこは機械。鉄の味しかしない。万に一つ、先程の青年が化けたと考えた妖怪だったが、直ぐに吐き出し、周囲を見渡す。
そして、残念と無念がため息として口から出された。
妖怪からは、もう青年の姿はみえない。妖怪は、せっかくのご馳走を取り逃がした悔しさを胸に、友人の帰りを待つべく、飛び立った。
天狗は、あの小型機械にあんな機能があったのかとペンを取るが、直ぐに止めた。
肝心のメモ帳は、既に拳に握り締められ、書ける代物ではなくなっていた。
小型機械の残骸を見る。確かに、河童辺りなら直せそうかもしれないが、あの妖怪の口から吐かれたあれを、進んで触りたがるものはいない。
気晴らしの散歩にしては、楽しめたとそこは考えなおし、逃げゆく青年を見送り、晩酌へと羽を広げた。
走る、走る、走る。
青年は、懸命に前に進む。
先程の、あの少女の皮を被った得体の知れないバケモノが追ってくる様子はない。
目の前には、この両目には微かではあるがぼんやりと明かりか見える。
明かりだ。
この暗い森の中に、明かりが見える。
人工の光の一線。
唯それを目指し、カラカラになりながらも走りつづける。
と、光は進めど進めど、小さく成っていく。
待て、待ってくれ!
カラカラの喉を震わせ、青年は負いつがる。
後少し、後少しなんだ!
光はみるみる小さくなっていく。
一線は、細く細くなっていく。
後少し、後少し!
両目をガンと見開き光の唯一点だけを目指す。
辺りは何も映らない。
光はみるみる小さくなる。
そしてポツリと見えなくなった。
イタダキマス
ルーミアの様子を見るに、外の人間は別の妖怪に食べられたのかな?
誤字報告を後書きのところより、
>今日のはネタとしてはおもしとかったんですけど、
おもしとかった→面白かった、でしょうか
食べた妖怪のヒントとしては
①ルーミアの知り合いである。②最後の描写は青年視点。③決して明かりが小さくなったわけではない。
これで、わかりますかね?バレバレだとは思います。あとがきにも登場してますし。
コメントありがとうございます。
行の最初に1文字空けて、一文で一段落ではなく適当に段落分けをすれば、
それだけでぐっと見やすくなると思うのですが……
あとは、一人称で成り立つ書き方を三人称でやっているのも気になりました。
>不安と安堵、恐怖と好奇心の入り混じる不確定な自分の心が、虚無感と共に襲ってくる。
とかですね。
それを言ってしまうと、空白の多い時点で駄文ですし。
地の文が多いので、読みにくいとは思いましたが、ある程度はわざとです。
今回は三人称で書きましたが、一人称的な表現が多くなったのは、単に普段一人称で書いている癖ですかね。
三人称は、状況を説明する点では大変いいですが、心境を説明する際、少々足かせになりやすい印象です。まぁ、単に私がまだ未熟なだけですけど。