布都が記憶喪失になったという知らせを聞き、いち早く「これで昨日トランプゲームで負けた罰ゲームはチャラだな」などと打算を巡らせた事は、私の心の中に留めておくべきなのだろう。
ところがどっこい、その知らせをくれた太子様には私の醜い欲望がばれてしまったようで、彼女の表情は一瞬で呆れたものに変わる。
「……屠自古、何かもっと、他に思う事は無いのですか」
「しかし太子様、その罰ゲームの内容が『ムーンウォークで博麗神社の賽銭箱へ近づいたのちミキプルーンをぶちまけて逃げる』というものでして」
「それなら仕方ないですね」
太子様も納得してくれたようである。なにしろ巫女にバレたら問答無用で爆発四散させられるレベルの危険な罰ゲームなのだから、無理もあるまい。
それにしても、唐突な話だなあと私は思った。記憶喪失展開そのものはベタなのだけれど、こうも突然だとベタもクソもないような気がする。
「太子様、どうして布都の奴は記憶喪失などになったのですか」
「……今日は幻想郷中が大雪に見舞われて、至る所の地面が凍っていまして」太子様は1つ溜め息をついて、続けた。「バナナの皮を踏んでこけたらしいです」
「大雪と何の関係があったんですかね」
ともあれ布都はズッコケた拍子に後頭部を強打して、そのまま記憶がアッチへ逝ってしまった、との事だった。
よくもまあ毎度毎度、アホみたいなキッカケからトラブルを生み出すものだと感心せずにはいられない。奴にトラブルメーカーの才能がある事くらい昔から知っていたけれど、それにしても限度があると言うものだ。
「それで、今布都はどこにいるのですか」
「彼女の部屋にいますよ。恐らくは眠っていると思いますが」
「そうですか」
それを聞くと、私は太子様に一礼して道場の居間を後にしようとする。
ところが、私の後ろから「ええーっ?」と素っ頓狂な声が聞こえてきて、私は思わず太子様に向き直った。
「どうしたんですか、マスオさんみたいな声出して」
「マスオさん……って、そんな事はどうでもよいのです。屠自古、そちらは布都の部屋とは逆方向ですよね」
「え、ああ」1度だけ進路方向へ視線をやる。「まあ、そうですね」
「布都の様子を見には行かないのですか?」
……要するに、お見舞いへ行かないのかと訊かれているのだろうか。
失礼な事とは分かっていたが、私は思わず吹き出してしまった。「私が布都のお見舞いを、ですか?」
「……何かおかしな事でも言ったでしょうか」
「いえいえ。しかし太子様、考えてもみて下さい」双眸を閉じてフッと笑う。「太子様もご存じの通り、私と布都は犬猿の仲と形容できるほど仲が悪い。どれぐらい仲が悪いかって、毎晩命がけの罰ゲームが懸かった闇のデュエルもとい闇のトランプゲームに興じてしまう程。これを聞いて太子様はどう思われますか」
「貴方達はたいへん仲が良いのですね」
「何を仰る太子様。とにかく、私が天敵である布都を見舞いに行くなど、決して! ……あり得ないのです」
私の言葉に、いよいよ太子様は口をつぐんでしまった。決まった、と思いつつ私は太子様に背を向ける。そのまま向かった場所は台所だ。
最早使う必要の無くなってしまったミキプルーンの蓋を開けて、一口舐める。果実の甘酸っぱさが私の舌へひりひりと伝わった。
◇
兵(つわもの)を生業とする者にとって、長きの平定は敵なのだという。平和なんだからいいじゃないかという単純な話では無くて、彼らにとっては平和すなわち失業なのだから、不満に思うのも無理は無い。
突然何を言い出すのかと言えば、今の私が似通った状況に陥っていたからであった。
布都が記憶喪失になったと聞いてから数日。毎夜の交戦相手を失った私は一種の欲求不満に襲われていた。私の身体は戦いを求めているのだろうか。一歩間違えればミキプルーンを片手に博麗神社へムーンウォークしなければならない、そんな戦いを――――私は。
「あら屠自古、おかえりなさい」
「太子様、ただいま戻りました」
太子様への挨拶も程々に、私は居間をすぅと通り過ぎていく。無論目的地は台所などでは無くて、私の宿敵が鎮座する一室だ。
そんな私の動向に太子様も気付いたのであろう。不意に「屠自古」と声を掛けられて、まさか無視する訳にもいかず私は振り向く。
「なにかご用でしょうか」
「用事という訳ではないけれど、貴方もしかして……布都のお見舞いに行くのですか?」
「そんな訳ないじゃないですか」私は小さく笑った。「私はこれから戦いに行くのです。毎晩のように対峙していた宿敵のもとへ」
「はあ」
何を言っているのか分からないと言った様子の太子様だったけれど、少しの間を置いて彼女は「とりあえず」と切り出してくる。
「屠自古、1つ訊いてもいいかしら」
「なんでしょうか」
「貴方、どうしてそんなに中二病をこじらせた子供みたいな顔をしているのですか?」精神攻撃やめて!
少なからずダメージを受けて笑顔が引きつる私に、太子様は「冗談ですよ」と笑った。
「あの子は……布都はまだ記憶が戻っていませんが、貴方に会えば何かが変わるかもしれませんね」
「はあ」
まあ、宿敵を目の前にすれば記憶が戻るという事もあるかもしれないけれど。
なんて考えていると、太子様は「そういう事では無いですよ」と困ったように頭を掻いた。
よくよく考えてみれば、足が地に着かない私はどうやってムーンウォークをすればよいのだろう。なんて考えているうち布都の部屋は目の前にあった。
扉をノックしても返事が無かったので勝手に押し入る事にする。鍵はかかっていないようで、扉を開けると布都が布団に横たわったまま寝息を立てている。
いつもの布都ならば野良犬の如く常に周囲を警戒しているから、こんな風に鍵もかけず眠りに落ちる事は無いだろう。やっぱり、記憶が無くなっているというのは本当なんだ。
「――――」
音をたてないように眠っている布都へ近づいていく。穏やかな寝顔を見るに、まだ起きるという事は無さそうだ。
などという私の果糖並みに甘い試算は、自分のスネをちゃぶ台に思い切りぶつけるという空前絶後の天然ギャグによって崩れ落ちる事になる。
「ぎゃあっ!」
弁慶の泣き所とはよく言ったもので、どうしようもない程どうしようもない痛みが私の神経を逆立てる。ああもう折れた、これは骨が折れた。
不運はこの程度では終わらない。目尻に滲む涙を拭った時、私の視線の先には怯えた様子で布団から飛び起きた布都の姿があった。
「……だ、誰だお主は。何者だ」
私と布都の視線が交錯する。奴の視線はまっすぐ私の目を向いていたけれど、その瞳には確かな怯えの色があった。
――――私が誰かって? 私は、お前と夜な夜な熱い戦いを繰り広げてきた飛鳥からの好敵手だ!
そんな言葉を用意していたのに、私の唇は震えたまま、思う通りに動いてくれない。布都の敵を見るような視線が、ひたすらに私の全身を貫いている。
「……なんなのだ、これは。もうイヤだ、こんな前も後ろも分からない世界なんて」
不意の布都の叫びが私の鼓膜をビリビリと揺さぶる。「…………布、都」
「もう、殺すなら殺してくれ」布都は両手で頭を抱えた。「もうこれ以上苦しみたくない。頼むから、殺してくれ」
現実というものを私は目にしていた。再び布都と戦を――――……お遊戯で遊ぶなんて事は幻想だったのだと、私自身の心が苛んでいる。
思えばこの数日、どうして私は呑気に日常を過ごす事など出来たのだろう。とっくに壊れてしまった日常に、これほどまでしがみ付きたかったのか。
そんな日常の残骸も、たった今深淵に呑まれどこかへ行ってしまった。私だって、もう右も左も分からない。
……なんなんだ。なんなんだよ。
「……布都」
「っ……な、何だ。何か言ったのか」
「……布都、の」
「『フト』って、何のことだ。いったい何をしようと――――」
布都が何か言っているのを無視して、私は近くの燭台を取り上げて。
「布都の……馬鹿あ――――――――――――ッッ!!」
力のままに、自らの腕を振り回した。
横に凪いだ燭台は、風を切って布都の頭上をかすめる。ひい、と布都が腹の底から出たような呻き声を上げた。
「ま、待て、殺すならもう少し楽な方法を」
「うるせええええええええええええ!! 布都のクソ馬鹿! 死ね、いや殺す、絶対に殺す!!」
「ひいい?! 何故突然そんなに怒り狂って、やめろ、話せば分かる!」
「話しても分かってくれないから殺すんでしょッ!!」私の視界が急速に歪み出す。頬に一筋の雫が垂れる。「アンタを殺したら私も死ぬ。そうすれば全部リセットされるもの、アハハ」
「あ、あわわ、あわわあわ」
そうだ。私のしがみ付いていた日常がとっくに姿を消したというのなら、もうこんな世界に生きている理由は無い。だから私は、布都を殺して自身をも殺すのだ。
燭台を持つ手を強く握りしめて、布団の上を後ずさる布都に近づいていく。さっきまで「殺してくれ」なんて言っていたのに、彼女の表情には生への執着が嫌と言う程滲み出ていた。
「ちょ、お願いだから、いやお願いですから凶行に出ないで」
「貴方は死ぬわ、私が殺すもの」
「うわああもうほんと冷静になれ、屠自古!!」
何を言うのか。私は冷静だ、冷静沈着に布都の息の根を止めようと今奮闘して――――
――――え?
「……ねえ」
「は、はいいっ」
「あんた今……屠自古、って」
視界の先に居る布都は、私の言葉にパチクリと瞬きをする。それから「あれ」と呆けた声を漏らした。
「お主……屠自古、というのか?」
「え、ええと、どういう」私は半ば混乱状態に陥りつつも、どうにかして口を開く。「……私の名前、どうして分かるの?」
私の問いかけに、布都もまた混乱した様子で首を傾げる。けれど、コイツは今確かに私の名前を呼んだ。忘れてしまった筈の私の名前を。
握りしめていた右こぶしがほどけて、持っていた燭台は布団の上に落ちる。力が抜けたように足が震えて、ガクリと膝から崩れ落ちてしまう。
でも、視線だけは布都に釘付けだった。気付いた時には、私の両手は布都の肩を掴んでいた。
「記憶が、戻ったの?!」
「い、いや、そういう事とは思えないが……でもお主の名前は屠自古で、それで」
「それで……?」
「……駄目だ、思い出せない。でもお主の名が屠自古だという事は、ハッキリ分かる」
戻った記憶は私の名前だけ。それでも余りに大きな進歩だと私は感じた。
すっかり失念していた『記憶が戻る可能性』とやらに、すがるべき場所を見つけたのだった。私の視界が再び歪み始める。
「ん…………しかし、お主は『敵』のような気がしてきた」
ところが布都は、そんな事を言い始めるのだ。
「え……ど、どうして」
「どうしても何も、たった今お主に殺されかけたではないか」
「そ、そうだけど」うろたえる私へ、布都は更に一言続ける。「それにお主は――――好敵手、というような感じがする」
好敵手。それは私と布都の間で本来あるべき日常。
先程まで自分でも考えていた事だ。飛鳥からの好敵手、それが物部布都。私の願う日常への回帰、その道筋がくっきりと姿を現す。
「――――違う」
本当にそれでいいのか。そう心中で自問した結果は、ノーだ。
突然に、私の思考が高速で回り始める。私は好敵手に戻りたい訳では無い。ならばどうするのか、私は今布都とどんな関係を望んでいるのか。
怪訝な表情で布都がこちらを見ている。そろそろ考えを巡らせられる時間も終わりか。それでも私の脳は確かな結論を見出していた。
「――――私は」
「……私は?」合いの手を打つ布都の言葉に、私はこれ以上ない笑顔を見せて――――答える。
「私は、神です」
私はこの瞬間、神となった。
◇
「……ええと、お主は何を言って」
「物部布都。それが貴方の名前です。そして私は、貴方の世界に覆う暗闇を一筋の光で貫く神です」
「意味が分からないです」
布都は、頭上にクエスチョンマークが無数に浮かんでいるような表情をした。
しかし、私はそのような事には構わない。何故なら私は、今この瞬間から神になったのだから。
「物部布都。貴方は今、神の啓示を受けているのです」
「えっ」
「疑うなかれ、貴方の視界に浮かぶ私は神なのです。貴方は疑う事を知らない、今この瞬間から」
「燭台を振り回して本格的に殺そうとしてくる神なんて聞いた事ないんですが」
「アレは私ではありません。先程までの私は神として覚醒する前の私――――その名はソッガーノ=トジコ」
「ソッガーノ=トジコ?!」
「ペロポネソス半島に生を授けられた全くの別人です」
布都の表情に困惑の色が強まる。うわごとを呟きながら、今にも頭を抱えんという勢いだ。
今が好機だと私は確信する。すうと心を静めて、普段では浮かべる事も無い営業用の微笑みを顔面に貼り付け、言うのだ。
「私は、貴方を救う為に現れたのです。私は貴方を愛します、ですから貴方も私を――――寵愛しなさい。さすれば、救われる」
布都は目を丸くしたまま、私の目を見つめてくる。私もまた視線を決して逸らさないように努めた。まっすぐな瞳にこそ説得力は生まれると考えたからだ。
後になって考えてみれば、とてつもなく杜撰なお話だったと思う。今時カルト宗教ですらこんなやり方はしない。金とか名誉とか、そういうもので釣った方がまだ現実的かもしれない。
けれど、布都の記憶は今穴だらけだ。新たな情報で彼女の記憶を埋め尽くすのは、容易い。
――――そして何より、彼女はあの『純真ですぐに騙されるトラブルメーカー』の、物部布都なのだ。
「我は、神に選ばれたのか?」
布都はポツリと呟いた。私は笑顔で返す。
「選ばれただけではない、その寵愛を一身に受けているのです」
「寵愛を……! 普通の人間では、そんなこと」
「貴方だから、貴方が物部布都だからこそ、私は現れたのです。貴方は特別な人間だ」
雲行きが良くなると同時に、ある事無い事をマシンガンのように叩き込んでいく。布都の瞳は少しずつ輝いていく。
「ですから、貴方は私を愛しなさい。私を愛せば、救われる」
何度だって、繰り返す。効果はテキメンだった。その言葉の直後、布都は私の懐に飛び込んでくる。
「我は、救われたのか」
「私は貴方を愛し、救いましょう。貴方が私を愛するならば、ですが」
「愛そう! 愛そうとも! 我はお主を――――いいや、神を愛そう!」
その言葉を聞いて、私は布都を強く抱きしめた。布都の呼吸もまた穏やかなものだ。まさしく、彼女は救われたのだ。
――――なんて、まるでお笑いである。私はこれから神になるという。いや自分で言った事なのだけれど。
それでもいいのだ。布都の世界に映っているのは私だけ。私の世界に映っているのも――――物部布都、彼女1人だけ。
「ああ、満たされる」
確かな充足感が、私を満たす。抱きしめている布都の温もりが、それをしっかりと表していた。
~ハッピーエンド~
序盤が、どうにもギャグの定型文を用いたようなものなのが惜しい。