闇は光を裏切らない。時は未来を夢みない。
海底に降り積もる雪のように、ここでは時間の死骸が堆積してゆく。
音もなく。
影もない。
始点も終点もない、広漠たる均質だけがそこにある。すべて等価値に交じり合い、ゆえに比較されることもない。なだらかに続く横一本線のグラフ、いかなる生の脊髄反射も、そこにはあらわれない。ぎらつく陽光は、はるかに遠い。
緑青にほの光る岩肌だけが、薄闇を区切ってどこまでも続いている。それすら、床なのか壁なのか、判別がつかない。この場所では、天地の差異すら互いを分かちがたく、惰性で手を繋いだままでいるのだ。
分かちがたいという、ただそれだけの愚かしさによって。
波が立つ。
それは羽虫か、のたうつ蚯蚓かというくらいひそやかな気配だったが、凝固した静寂の中では大音声にもひとしい。
「よいしょっと」
続く声はさらに場違いだ。声を伝える空気すら戸惑っているかのようだ。
女は、歴史にはじめてあらわれたその時と同じく、すべてを変質させてしまう。壁に丸くあけた穴から大儀そうに腰を引っ張り上げ、青娥はひとまず、その場にあぐらををかいた。すると尻にしいた岩壁は床となり、果てしない暗がりが天となって、彼女の頭上へ伸長してゆく。
不定形の違和感が白い眼をおくるのもおかまいなく、女仙は鼻歌交じりにごそごそ懐を探り、つまみ出した丸いものに爪を立てる。
硬い皮に傷をつけて、手前にめくりあげ、引き剥がす。
清爽でみずみずしい香り。
二度目の変異が場を襲う。香りはあっという間に拡散し、格差をもたらす。結果としてそれは、果ての見えない広がりに、ただ広がりしかないことをさらけ出してしまう。
闖入者によってあらわになった唯一の秩序は、同時に息も絶え絶えとなりつつあった。
「何をしているのです」
闇が凝縮したような声に、若干恨みがましい気配がにじんだのも、無理からぬことかもしれない。
艶のない深緑の衣を流し、白い顔が見下ろしていた。
「もうちょっと、愛想よくできませんの」
緩慢に振り向いて、青娥は渋面をつくる。
「久しぶりに顔を出しましたのに」
「久しぶりって。何年ぶりか、わかっておられるか」
「さて」
「十七年経つ。貴女が前に、この廟を訪れてから」
「あら、そんなになりますか」
「白々しい」
「蘇我様」
青娥は舞うように歩く。「毒見」と唇にあてがわれたものを、屠自古はためらわず舌に乗せた。
「茘枝ですか」
屠自古は少し驚いている。口中に広がった味覚から、きちんとそれが何であるのか、思い出せたからだ。
「ふふ、珍しいでしょう」
「どこから持ってきたのです」
「ライチー、お好きでしたわよね。豊聡耳様。どうしても食べたいというから、南方の国より切り倒したその木ごと、はるばる運ばせたりしたのは、いい思い出ですわ」
「それは楊貴妃の逸話でしょうに」
「よくご存知で」
「あの方が、そんなこと」
自然と、屠自古の声が小さくなる。羽衣を翻して浮き上がった青娥が、にたり濁った笑みを浮かべて、闇の底をしばし、じっと見透かす。
「お変わりはありませんか」
低い声がにじむ。
「私にわかろうはずもない」うす蒼い照り返しが、屠自古の頬をすべる。「死解の眠りから取り残された私には、ただこの場を守ることしかできません」
冷え冷えと静まる床に、半ば透けた身体を投げ出すようにして、彼女ははるか宙空を見上げる。その瞳は星のように瞬いている。
ふん、と腕を組んで青娥が息をつく。
「別に縛り付けられているわけでなし。自由になさってもいいのに」
「貴女は自由ですね」
「ええ。女ですから。第一、退屈でしょうに」
屠自古の目が狐のように細まる。
「侵入者などいなければ、ずっと眠っていられるのだが、ね」
「まあ、ひどい。私たち、家族みたいなものじゃないですの」
「ふっ」
かすれた笑みが、亡霊の背筋をふるわせた。
「どのくらい?」
その声は重なる。どちらが先に口にしたかはわからない。ややあって、青娥が髪にさした鑿を引き抜いた。
「蘇我様。ここは安全です。何者も、あの方々の眠りを妨げることはない。もし訪れるものあらばそのときこそ、約束された目覚めの日なのですわ」
鑿の先端をあてると、床に先刻と同じ穴がするりと開いた。
「およそ五百年といったところね。豊聡耳様と物部様が眠ってから。蘇我様、一度も外へ出ていないのでしょ? 世の中は変わりましたよ。見慣れぬ輩が見慣れぬ風体で、往来を闊歩しています。誰も彼も目を血走らせ、脂ぎり、命を軽く投げ出しています。行く方行く末は誰にもわかりません」
屠自古は表情を変えず、ただ黙って浮かんでいる。それを一顧だにせず、女仙は漆黒の穴のふちに屈みこんだ。
「ライチー、いかがでした」
「まだ熟してませんね。尻の青い小娘だ」
「まあ、なんて言い種」
くすくす笑って、前回りの要領で青娥は暗黒に転がり込む。
「また参ります。今度は、十七年もあけずに」
穴はすぐに消えて、痕跡もない床の表面に、彼女の声だけが転がる。
屠自古は青娥の座っていたあたりに染みのようなものを見つけ、摘み上げた。ごつごつしたライチーの皮が、半ば乾いて丸まっている。
鼻の下に押し当てると、まだ微かに青く匂った。
+++
……辛気くさーい方、ですわねえ。
まっ、死んでるんだからしょうがないわね。
そうしてさっさと忘れるのが常なのに、なぜか数日、青娥は何かにつけて思い出している。肌にからむ暗闇と、見上げる亡霊。
その、眼。
まぶたの裏で、強い陰影として蘇ってくる。
祀廟から足が遠のくのは、陰気くさいのもあるが、屠自古と顔を合わせたくないからでもある。
どうも、滅入るのだ。
「あっ」
なんのことはない壁抜けに失敗したのも、そのせいかもしれない。
ふるう鑿に力が入りすぎた。気がつくと青娥は、まったく見知らぬ街中に一人立ち尽くしていた。
丸窓や赤い屋根は、大陸の風景をどこか思わせる。けれど、路のおもても長くつづく塀も、粉を吹いたように淡く、白く輝いている。よく出来た砂の細工のようで、突っつけばさらさら崩れだしそうだ。
乾いた足音が近づく。角を曲がって現れたのは兎である。
「あら」
可愛らしい。
兎耳を頭から伸ばした娘を、青娥はすっぽり両腕に抱きすくめた。
「ひゃあ!? なにするの!」
「おっと、失礼」
さも、ぶつかった勢いを装うことは忘れない。しっかりとした身体の感触が、青娥に人心地を取り戻させていた。
「ここは、どこかしら」
「え? 桃の丘じゃない。知らないの?」
というと、桃があるのか。いいかもしれない。
求めた答えは、はじめから頭上に広がっていた。漆黒の夜に浮かぶ水鏡を、よもや慣れ親しんだ大地であるとは、さすがに青娥も気づかなかったが、見たこともない星の配置から、ずいぶん遠いところまで来てしまったことはわかる。
じろじろ物問いたげな兎娘から逃れて、丈の高い草がなびく丘をてっぺんまで上ると、静かに広がる海に向かう斜面に、一面桃の木が並んでいる。
それぞれ、枝がたわむくらいに実が生り、伝説の楽園か桃源郷にでも迷い込んだのか、と思っていたところだから、かのフォビドゥン・フルーツがこれだとすれば、有り難味が薄れることおびただしい。ひとつもぎ取って歯をたてた。果実の色は薄く、果肉は硬い。何の変哲もない、甘みの薄っぺらいただの桃である。
桃の根元に仰向けに寝転がる。低くたれこめた夜に、うるさいくらい星が群れている。
もう一口齧って、皮を吐き出した。これでは駄目だ、と思う。ライチーも青娥もこの桃も、ひとしく屠自古を驚かせることはない。彼女は一心に見つめるだけだ。きっと今もそうしている。星のない薄闇を、ありもしない思い人の気配を探して、ひたすらに。
青娥に理解できるのは彼女の単純さだけである。もしかすると、その単純さのみが人型をとっているのかもしれない。青娥にとって彼女の不変は、気味が悪い。顔を合わせれば、亡霊の気配は長く肌の上にとどまる。青娥自身はとっくに放逐したつもりの素朴さを、母親の叱責みたいに引き出し、思い出させる。面白くない。
人の気配がする。桃の根元に膝を折って様子をうかがっていると、兎娘の一団が坂を行進してくる。どうやら全員武装しているようだ。
「よし。ここらで休憩としましょう」
兎たちの最後尾に現れた人物に、青娥は瞑目し息を呑んだ。
おそるべき気魄……姿形こそただの娘だが、一振りの刀をさげ、風に吹かれているさまは、指の先まで油断なく冷たい炎を通わせているようで、彼女はまるで、神と同列にまつられる古代の英雄そのものだった。
青娥の経験がはげしく警鐘を鳴らしている。見つかればおそらく、只ではすまない。退散するなら今のうちで、かつ最良の選択だ。
けれども心が躍る。危険を告げるのが本能なら、それに魅了されるのもまた彼女の本能である。
英雄の部下たちは気楽なもの、桃の葉陰に車座になって、竹筒の飲み物をまわしながら、恋の相手の品定めだの、着るものがどうだ食べ物がなんだと、ピーチク囀っている。
彼女らの話し声を背中で聞くという風で、英雄は目線も高く、天上の青い水盤に見入っていた。
「おしゃべりに加わりたいなら、素直にそうすればよろしいのに」
「うわっ!」
神速。
青娥は己の、無謀で素直な好奇心をあらためて悔やんでいる。喉元に突きつけられた抜き身は、鞘から迸る白光すら見せなかった。
隙を突いて逃げるつもりでいたが、この相手ではそれも難しいかもしれない。青娥は、背中で脱出口を探しつつ、そ知らぬ顔を装う。
「依姫殿。今の貴女は、この桃と同じ」
歯型を隠して、桃をささげ持つ。
「なぜ、私の名を……」
渾身で発散する貴人オーラの甲斐あってか、依姫の鬼気が少し緩んだ。――なに、黙り込んだ後ろの手下の一人の口が「よりひめさま」と動いたから、ね。
「私めは、通りすがりの預言者にございます」
「はあ?」
呆れたように口を歪める依姫だが、青娥はお構いなしだ。
「私には貴女の心が聴こえる。自由でありたい、女でありたいという」
「何を、出任せを」
「果たしてそうでしょうか?」
形のいい小鼻を左右からぴくりとさせ、依姫が刀を引いた。青娥はだんだん愉快になっている。墓守亡霊の能面をちらり思い出した。揺れそうにない女を青娥は、揺らしてみたくて仕方ないことを、自覚していない。
「内なるオンナを溶かすのです。依姫殿。そなたは」もはや自信満々である。「心も身体も大人なのに、情熱だけ成熟しきれていない」
桃にそっと口づける。
「まさにこれね。見かけは立派でも、お尻が青くて、硬い」
「硬い……?」
ぼんやりと、腰のうしろに手を這わしてから、依姫の頬がさあっと赤らむ。
そこで、空気の読めないのが一人いた。
「あー! 依姫様、そいつです。さっきお話しした、あやしい女」
立ち上がって青娥を指さした娘は、さっき往来で会った兎である。
青娥の尻が石垣にぶつかる。迷わず彼女は、鑿を引き抜いた。依姫の瞳がすっと細まる。
「貴様! よもや、穢土からの侵入者か!」
余裕で逃げ切れるつもりでいた。青娥はまたしても、相手の力量を見誤ったこととなる。
急いだあまり小さめに穿った穴に、腰を押し込むのに手間取った。刀を納めた依姫の鞘が、尻の真ん中をしたたか打ち据えた。
「きゃん!」
勢い余って、邪仙は闇に転げ落ちる。
まさにこの直後。地上より月へと、境界の妖怪に先導される百鬼夜行が攻め込んだのである。
海と海とをつなぐ秘術により、彼らは空を飛び越えた。いわば青娥は、その大量移動で生じた余波に翻弄されたのだ。
彼女が悲鳴を残してどうにか依姫から逃げおおせてから、およそ一秒半。
38万キロ彼方、我らがふるさと。
昼なお暗い、とある寂れた墓地で、盛り土を跳ね上げてひょっこり指が、腕が、顔が現れる。
「んー……。せーが? 呼んだかー?」
ふるふる頭を振って帽子にのった土を払い落とし、芳香は暗く広がる森の奥を見渡す。
「呼んでない、かー?」
そして死体らしくもない大あくび。
+++
あの仙人には、きっと嫌われているのだろうて。
無理もない、と首肯する。気の利かない、私は無骨な女だ。これまでも、これからも……。
目が開いた。
手足に打ち寄せる鼠色を見下ろして、屠自古は軽くうろたえている。らしくもない感傷的な肉声に揺り起こされた気がするが、何も思い出せない。
冷たい指で首を、胸元を、上腿を撫でこする。亡霊となってから、意識せずやってしまう癖である。そうやって確認してはじめて、手足を自由に動かせる気がするのだ。
腕を組んで見上げる、薄暗い空洞。
この薄明こそが大祀廟の心髄だ。死解の眠りの間、心を宿しておくための依り代は存在するが、剣だの器だのはただの物に過ぎず、その正確な在り処は屠自古ですら知らない。物部の図った過剰な用心ともとれるが、神子を除く誰をも平等に信用していなかった彼女の有り様は、人ならぬものとなった今となっては、むしろ懐かしく覚えるくらいだ。
屠自古にとってはこの広大な空白こそがすべてだ。肉体をうしなった彼女には、その愛着は共感とひとしい。
神子のなつかしい気配が、佇まいが、ここに充ちている。
まどろみに意識を解き放つと、大祀廟はまるで巨大な心室のように収縮しており、脈動がゆるやかに屠自古を握る。神子は死んではいない、生きているんだと、涙が出るほどにうれしくなる。あたたかな血肉と重なり、一番深いところで抱きしめられているかのよう。――物部の気質も、わずかに混じるのが玉に瑕、だが。
屠自古はつねに幸福だった。眠っているかぎりにおいては。
廟に変化や侵入者があれば、彼女は無辺際の闇からすべり落ち、我に返る。幸せの中にいた満足感と、それから引き剥がされる苦痛が心を引き裂き、手ひどい混乱を招く。かくして、青娥の対面する屠自古はいつも仏頂面になるわけで、いたし方ないことである。
粘っこい空気をかきわけてふらりと泳ぐ。異常は感じられず、どうやらただ少し覚醒しただけらしい。青娥の来訪で、眠りの周期を乱されたか。
彼女はなぜ戻ってくるのだろう。たとえ五年、十年と間を開けたとて。ふと、不思議に思った。
寂しい?
それはあり得ない、と即座に否定する。外界の自由はあの女仙を、存分に満たしているはずだ。
それがどういうことなのか、屠自古には想像もつかない。生前の屠自古は、青娥の頭の中をこうやって考えてみることすら、しなかった。
もし、この先二度と青娥が姿を見せなければ、どうだろうか。
別に問題はないだろう。尸解仙の術をそそのかした当の本人ではあるけれど、神子たちが目覚めるまで、彼女の助けはもう必要ないはずだ。そして彼女の言うとおり、侵入を試みる者などそうそう現れはしないだろう。屠自古はずっと、墓守の亡霊として、廟に漂ういとしい肌合いに浸っていられる。
眠っている間は。
だから嘘なのだ。
屠自古は時折、蘇我屠自古を強く疑う。
ここは貴人の墓所などではない、ただのほら穴に過ぎず、自分を屠自古と思っているのは、迷い込んだ欲や未練が転じた憑き物でしかないのではないか、と。
夢にみる温かみは、さもしい幻覚なのではないかと。
疑いは頂点を過ぎると、安らぎへ転じる。すべてまぼろしであったなら、もう少し楽なのかもしれない。
神子は確かに存在した。ぬくもりだけが嘘なのだ。
いや、かつて神子は、そうやって手を差し伸べてくれた。彼女は言説にすぐれ、それゆえ言葉に気を許さないところがあり、ただ黙って触れてきたり、隣に座ったり、ごく身内に対しては無口な子供のように振舞った。
けれど、生きている屠自古はそんな神子を素直に受け入れられなかった。彼女の体温を感じれば、折れ曲がった羞恥心が元に戻ろうとつっかえ、心のかたちがむちゃくちゃになる。神子の人懐こさが勿体無くて、取りこぼしてしまいそうで、居てもたってもいられない。堅物を装い、立場の違いなど言い募って逃げ出してしまう。……もちろん、堅物はきっと事実でもあるのだけれど。
そのくせ神子に距離を置かれれば、心はぽっかり蓋が外れたようになる。無表情の重石の下で、頼りない甘え声が疼いている。世人にして、剛毅な娘、などと称されつつ、中身ときたら橋の下で啼く子猫と同じだ。
布都や青娥、他にも、やわらかく器用な心栄えの者たちに囲まれ、神子はいつしか、独りではいられなくなり、そんな姿を、遠くからからただ眺めている、足元の影。記憶の中でもっとも鮮明な光景は、自分の影の輪郭だ。
それでも、ましだ。泡沫の夢に溺れているよりは。寂しい影はまぎれもなく、屠自古が屠自古であると証明してくれるのだから。
ねっとりと対流する闇に身を任せ、這い上がっていく。
五百年過ぎた、と青娥は言った。
あと五百年だろうか。さらに加えて五百年だろうか。
千年でも二千年でもかまわないじゃないか。いっそのこと、二人の目覚める日が永劫訪れなければいい。
夢でもいいじゃないか。自分に似た声がささやく。
こうしている限り、屠自古は神子の、一番近くに居られるのだ。手を握り、頬を肌に埋め、永久につづく寝息に寄り添っていられる。――それと意識すればどうせ、また逃げ出してしまうのだろう?
この永続が失われないためにこそ、全力をつくすべきだ。廟をくまなく探し、神子の眠る棺から、心を宿した神器を取り出して、壊したならば。復活を絶たれた精神は、屠自古に近いものと成り果て、あるいは屠自古すら飲み込むかもしれない。
廟にはより単純な精神のみが残る。闇は純度を増し、ひたすら己自身を満たすためだけに存在し続けるだろう。外の人間たちは、彼女のことを忘れるだろう……。
そんなことが許せるか。
ふっ、と青い香りが鼻をつく。歯を食いしばり自らへの怒りに堪えながらも、屠自古は、青娥の持ってきたライチーがどこかに残っていたのか、などと思う。
思い出したのは、広大な桃園だった。もはや処もわからないが、一面みごとな花をつけ、その光景に驚き喜んだ神子は、屠自古の手を握って感激をあらわにした。
たまたま、近くを歩いていたからだと思う。その証拠に、手をとってから、彼女は屠自古と気づき、小さく驚いたのだから。目を見開き、唇を開きかけ、そして何も言わずに。
神子はずっと手を離さなかった。
布都も青娥も、その日は穏やかに笑っていた。春だった。
ぼたぼたと涙が、何百年ぶりかに頬を落ちる。身を溶かすほどの雷を生み、己のすべてを焼き尽くしてしまいたかった。
「失せよ、亡霊め。ここを何処と心得る」
貴きあの方と、腐れ縁の友とが眠る場所だ。
闇が息を呑んで引き下がる。
剣ほどもある雷の矢がまばゆく輝く。逆手に握ると、屠自古は胸の真ん中にそれを突き立てた。
「失せよ!」
服が、髪が、激しく逆立つ。痛みのような、甘みのような痺れが全身をかけめぐる。雷鳴が遠く低く、長くたれこめて吠えた。
静寂が上昇していく。枯葉のように落ちているのだ。暗さに目が慣れないのは、久々の感覚だ。
死者の悩みは、死ねないことである。
ぐったり虚脱して闇を吸い込んだ。また、あの香りがする。
ライチーとは少し違うようだ。
「あのう」
うす闇の底で、膝を抱える青娥から呼びかけられ、屠自古は驚きのあまり後方二回宙返り一回ひねりを披露してしまう。
のちのムーンサルトである。
「蘇我様。なんだか、怒っておられるみたいね。ごめんなさい、きっと私が悪いのね」
深々と頭を下げる、殊勝な姿。
青い羽衣はほつれて破れているし、髪はほどけてボサボサだ。
手足には痣があるし、靴は泥にまみれ、木の枝やら葉やら、草の種やらが髪から服からへばりついている。
いつも整えている頬は乾き、眉はにじんで唇の朱は剥げ落ち、目の下には隈がある。極めつけに頭のてっぺんに小鳥がとまってピリピリさえずっているではないか。
「青娥殿、これはいったい」
「大丈夫です」壁抜けの鑿を抱えた膝にはさみ、よく見れば全身細かく震えている。「見せかけの結界を何度もくぐり、痕跡は残していません。ここへ辿られる可能性は万に一つもありませんわ」
「うん、いや、そういうことは心配していないけれど」
「どのくらいぶりでしょう?」
「え?」
「私が、この前ここへ来てから」
小鳥がはたはたと闇に飛び立つ。けれど視界が悪いのだろう、すぐ青娥の肩へ戻ってしまう。
「そう、五日ぐらいか」
「そう……。ひどい目にあいましたわ」
手を腰の脇について、しなをつくる彼女に、さすがに可笑しさがこらえられなくなる。
「笑い事じゃありませんのよ!」
思えば。
屠自古が、弱い考えに取り付かれると、ちょうど図ったように、青娥は姿を見せるのだった。
食べ物や書物、着物などに加えて、見知らぬ世界の土産話をたずさえて。
それらのすべてに、屠自古は気を惹かれたことはない。けれども屠自古は今はじめて、青娥と自分をひとしく通り抜けていく風のはためきを聞いた。
冷たくも新鮮で、なつかしい風を。
憮然とした青娥の肩を叩く。鳥が屠自古の指に乗ってきた。ひとまず、これを外へ出してやらねばなるまい。
それから。
「髪を結ってさしあげる。しばらくここで、待っていて欲しい」
「え?」
振り返った拍子に、座り込んだ青娥の腰から腿をつたって、床に転がり落ちたもの。
噛みあとのついた、大きな桃だった。
【了】
良い雰囲気で楽しめました。
面白かったです
雰囲気が素晴らしかったです
なんだかんだ言って、青娥は屠自古のことを放っておけないのかな、なんて思います。
いい二人でした。
目に浮かぶ描写力、たまりません。
千年以上待ち続けるなんて恐ろしいですけれど、ちょっと羨ましくもあります。
皆様どうぞ、よいお年を。