9.
時間は前後するが、陽が物言わぬ姿となって見つかった日の前日。
西地区の自警団分所会議室には大勢の鬼、事件の関係者である風子、“はぐれ蜘蛛”ヤマメ、そして一報を聞いて速やかに駆け付けた自警団の頭、左が、一同に会していた。
ヤマメの報告に一切口を挟むことなく、左はただ耳を傾けていた。
「……以上が、私の体験したことのあらましです」
ヤマメが全てを話し終えると、隣にいる風子が膝から崩れ落ちた。慌ててヤマメと傍にいた鬼が支えるが、流れる涙だけはいかんともしがたかった。
また泣かせてしまった。ただ風子の嗚咽を聞くことしかできない自分の無力さが、ひたすらに憎らしい。そんな中でも、左は依然として黙ったままだった。しかし左が怒り心頭であることは、その場にいる誰の目からも明らかだった。悲痛さをかき消すほどの怒気はそれなりに広い会議室の隅から隅にまで伝わり、ヤマメはもちろんのこと、鬼たちですら、左が口を開くのを固唾を呑んで待つしかなかった。
そして痛いほどの沈黙を破って、とうとうその時が来た。
「なぜ白狼天狗の情報を俺たちにあげなかった」
左の声は静かで低く、それが逆に激昂を越える迫力を演出していた。ヤマメは震えあがりそうになったが、しかしこれは覚悟していた問い、引くわけにはいかない。
「……陽の身柄を生きたまま確保したかったんだよ。旦那たちに任せたら生死問わずってことになる。こちらとしてはそれを受け入れるわけにはいかなかった」
「その娘の意向か」
左がジロリと鋭い目つきで風子を睨む。涙を流しながら震える風子をかばうように、ヤマメは身を寄せた。左は目つきを変えなかったが、ヤマメはそれを受け止める。知らず、握りこぶしになっていた。怒れる左の言葉はまだ続く。
「そうすることで地底に危険が及ぶとは考えなかったのか」
「それは……」
口ごもってはいけないのに、言葉が出てこなかった。左の言うことはもっともで、地底の安全を最優先にするなら、真っ先に情報を渡すべきだったのだ。しかしヤマメにも事情がある。それはどこまでも個人的な理由で、この鬼が納得するとは到底思えなかったが、それでも言うしかなかった。
「全部……私のせいなんです」
口を開けかけたところで、割り込む声があった。
「私がヤマメさんにあんなことをお願いしたから……。私が、あんな馬鹿なことをしたから……」
嗚咽の混じった風子の声は嘆きと悲嘆に満ちていて、荒くれ者の鬼たちにさえ憐憫の情をおこさせるほどであった。しかし風子の言うことの意味を全て理解しているヤマメは、ただただ情けなさでいっぱいだった。過去にいたぶられ続ける風子の姿は、もう見ていられない。
「それは違うよ。風子さんはただ巻き込まれただけだ。貴方が責任を感じることじゃない」
「でも……!」
「そうだ、お前さんは関係ない。これは俺とそこの土蜘蛛の問題だ」
この期に及んでもなお、左は左だった。まさに秩序の鬼である。風子が口を挟む余地もこれでなくなったが、ヤマメにはいっそありがたかった。
左はヤマメを睨みつけながら詰問を続ける。
「俺はこうも言ったはずだ。深入りはするな、とな」
「あの時はああするしかなかった。まさか向こうから仕掛けてくるとは思わなかったし、風子さんを抱えて逃げ切れる自信も無かったんだよ」
「……」
「別に旦那たちの顔に泥を塗るつもりはなかった。そこだけは誤解しないでもらいたいんだけど」
「ふん、その危惧自体が心外だが……まあいい」
左はそこで話を打ち切って、その場にいる全員に声を挙げた。
「仕切り直しだ。まずは白狼天狗を探すことを最優先。そしてこの件にはまだ裏に潜む者がいる可能性が高い。薬の捜査と並行して、そっちの身元を探し出せ」
鬼たちが頷く。風にあおられる炎のように、会議室を満たす士気が上がっていく。
「いいか。俺たちは今完全に後手に回っている。これ以上地底を危険に晒すわけにはいかん。各々次を絶対に起こさせないという気概で臨め」
集った鬼たちが爆音のような鬨の声を挙げ、左の気迫に応えた。すぐさま大きな体を忙しなく動かし、それぞれが役目を果たすべく散っていった。左は残されたヤマメと風子に目を向け、言った。
「黒谷、お前も巣に戻っていったん休め」
「え、でも。私だってまだ動けるよ」
「一戦派手にやらかした身で何を言う。休息も仕事のうちだというのがわからんか、阿呆」
「む……」
「娘は若いのに送らせるから安心しろ」
「いや、それくらいは」
「少しは俺の言うことも聞け。いいな」
左に命じられた鬼に付き添われて、まだ心ここにあらずといった状態の風子がよろよろと立ち上がる。ヤマメが気遣いの視線を向けると、黙礼するように弱々しく頷いた。無論、笑顔はなかった。風子と鬼が会議室から出て行ったのを見計らうように、左は言った。
「明日の同じ時間、いつもの店に来い」
ヤマメの返答も待たずに、左は巨体を揺らして出て行った。これで会議室に残されたのは、ヤマメ一人だけになった。
「……」
適当な椅子に、吸い寄せられるように座る。そうしてみて初めて気がついたが、確かに疲労が溜まっているようだった。しかしこの体の重さは、決して肉体の疲労だけに依るものではないことは明らかだった。
明くる日。陽の遺体があがったという報せを、ヤマメは事務所で受け取った。検死の結果、死因は事故死ではなく、他殺の可能性が高いとのことだった。それは恐らくヤマメだけでなく、事件関係者の誰にとっても意外な話ではなかった。
ソファに身を横たえる。左との約束の時間まで少しでも休もうと目を閉じても、事件のことばかりがまぶたの裏に浮かぶ。
さらにヤマメは、ある一つの疑問を抱き始めていた。初めは爪の先ほどの大きさだったそれは、時を経るにつれて、純白のハンカチに墨が染み渡るように、広くヤマメの頭を占めるようになっていたのである。
「ああくそっ!」
たまらず身を起こして、頭を掻きむしった。自分の疑念が単なる突飛な妄想であって欲しかった。そもそもそんな発想を抱いたことに、自己嫌悪さえ覚えていた。ヤマメは覚書を乱暴にテーブルに投げだし、それとともにヤマメが抱く疑念の根拠となるものを取り出す。
陽と戦った現場に残されていた、真っ白な鳥の羽。
手の中にあるそれを、親の仇でも見るように睨みつける。こんなものが何だというのだ。ただの鳥の羽だ。そこらへんでもよく見るいわばゴミにも等しいものに意味を見出そうとするなんて、牽強付会も甚だしい。疑念を打ち消すように、ずっと自分にそう言い聞かせてきた。
だが、“はぐれ蜘蛛”を継いだ日から培われてきた冷静な思考が、ヤマメの甘さを糾弾する。パルスィの言葉ではないが、疑問する姿勢は真実に近づくための必須条件だ。今考えていることから目を背けるのは、地の底の正義を担ってきた“はぐれ蜘蛛”の名への背信行為にも等しい。
「そんなこと、わかってるんだよ……!」
事務所に、ドンと派手な音が響き渡る。すぐに静謐の中に呑み込まれた音も、テーブルを打ち付けた拳の痛みも、ヤマメの胸中を代弁するかのように空々しいだけだった。どうしようもないやりきれなさとともに、ヤマメはまたソファに寝転がった。閉じた瞳の裏でぐるぐると回る思考を持て余していると、
「……ん?」
気配を感じたと思ったのも一瞬。
考えるより先に、体が動いた。
「っ! ぬおおおおああああ!?」
身をねじってソファから転げ落ち、勢い余ってテーブルの足に頭をぶつけるのと同時。数瞬前までヤマメが寝転がっていた場所に、隕石のごとく落下してくるものがあった。ソファをぶち抜かんほどの衝撃とともに落ちてきたそれは、もはや見慣れすぎて条件反射的に冷や汗が出てくるものだった。異様な存在感を醸し出す落下物――桶から緑色の頭がぴょこんと飛び出す。唖然とするヤマメをよそに、桶の中の少女は自らを力強く親指で指す。
「私、参上」
背を向けていた突然の闖入者キスメは、笑顔とともに振りむいた。例のとことん面倒くさい笑顔だった。
「うわぁ……」
思わず本音が声になる。どこから入ったのか、いつからいたのか、そんなことはもはやどうでもいい。この大先輩の神出鬼没ぶりは今に始まったことではない。重要なのは、この局面でこの面倒くさい妖怪の相手をしなければならないという、その一点に尽きる。
キスメは、丸い頬っぺたに両手の人差し指を当て、一転童女のあどけなさを振りまくように笑った。
「来ちゃった。えへっ」
頭が痛くなる思いだった。思いっきり眉をひそめ、やりたい放題のキスメに抗議した。
「来ちゃった、じゃないよ。いきなり何やらかしてくれるんだ」
「あれ? 可愛くなかった?」
「可愛かったけども」
「ふふん、そうだろうそうだろう。それならヤマメちゃんは何が不満なのさ」
「むしろ不満だらけだけどまず一つ。殺す気か」
「まさか避けられるとはね。いやぁ腕を上げたもんだ、ヤマメちゃんのくせに」
「褒められても全然嬉しくないし、褒めるんならちゃんと褒めてよ」
「はん、ただの挨拶にいちいち文句が多いね」
「こっちは命がけなんだよ」
正直とてもキスメの相手をする余裕はなかったが、現れてしまったものはしょうがない。渋々立ち上がってお茶を淹れていると、キスメはけきゃきゃきゃと奇怪な笑い声をあげた。ヤマメとは反対に、大層ご機嫌そうだ。
「ヤマメちゃんも律儀だねえ。嫌々でもお茶淹れてくれるんだもん」
「仮にも事務所の来客に茶の一つも出せないようじゃ、私のお先も知れてるよ」
「ほほう、言うじゃないか」
「別にお茶くらい大したことじゃないでしょ」
「そう? 私にはとてもそうは見えなかったけど」
意味ありげなキスメの言葉に、思わず手を止めて振り向く。案の定、キスメは例の表情を浮かべていた。どこから見られていたのかは知らないが、見聞きするまでもなくこの面倒くさい大先輩は、ヤマメの心中など何もかもお見通しなのだろう。
ヤマメは何も言わず、お茶と適当なお菓子をテーブルに置く。すかさずお菓子に手を出したキスメの対面に力なく座り込むと、何もかも洗いざらい喋ってしまいたい衝動に駆られた。だが、済んでのところで理性と矜持がそれを押しとどめた。代わりに大きなため息が漏れる。キスメはそれを咎めるように眉をひそめた。
「なんだい辛気臭い。ただでさえ安物の菓子が不味くなるよ」
「……ごめん」
「うわ、これは重症だ」
キスメが心底つまらなさそうにそう言っても、ヤマメは俯いた顔を上げることはできなかった。陽が殺害されたと聞いても、胸に湧き上がってくるのは義憤ではなく、ただ「なぜ」という疑問だけ。霧中を手探りで歩くようなこの気持ち悪い感覚は、どうすることもできなかった。
「守秘義務とかややこしいことがあるんならともかくさあ」
と、キスメが菓子を口に入れたまま、行儀悪く言った。
「愚痴って楽になるんなら、ここでゲロっちゃえばいいじゃん」
それが出来れば苦労はしない。そう心中で呟く。
俯いたまま聞いていると、キスメは続けた。
「今の君は、まるであの頃そっくりだよ」
ハッとして、顔を上げる。未熟者のヤマメでは、今のキスメの表情から心中を察することはできなかった。だが、言葉の意味は嫌になるくらいわかった。
自らの弱さを責め、後悔するばかりで前を向くことも笑うことも忘れ、ただただ自分の殻にこもり続けた日々。そんな無為なことしか出来ない自分にいい加減愛想が尽きたから、ヤマメは強くなろうと決めたのだ。
そして鍛錬の日々を経て、“はぐれ蜘蛛”の名を継いで、結果も出してそれなりに自信も自負もついてきた。自分は変われた、あの頃とはもう違う。近頃はやっと、そんな風に思えるようになってきていた。
だというのに今の自分はどうだ。無様に下を向いて、グジグジと悩んでいるだけだ。あの頃の自分と、いったいどれだけの差があるというのか。そのことに気付いて、自然と口が開いていた。
「……助けたい人がいるんだ」
ポツリとした呟きは、ともすれば対面に陣取るキスメにすら届かないほどの小さな声だった。当のキスメも相変わらず菓子を食べ続けるばかりで、今の声を聞いていたのかどうかわかったものではない。それでもヤマメは続ける。弱さを隠すことは、決して強さなどではない。いくら半人前でも、それくらいはこれまでの経験で学んでいる。昔と同じ過ちを繰り返し続けるのは、もうやめだ。
「でも、正直どうしたもんか、見当もつかない。今や私は、その人の依頼を失敗してしまった身だ。それに……」
ヤマメはそこで口を噤んだ。
陽の所業を止めて無事保護する。その約束は最悪の形で破棄された。自分は本来、とても風子に顔向けできる立場ではない。そして今、この事件には、ヤマメを悩ます無視できない疑問点もある。それこそ事件の構造が根本から覆るような疑惑だ。
それでもなお、ヤマメは風子の助けになりたかった。例え左に分不相応だと言われようと、風子に拒絶されるかもしれないとしても、今なおそれは、ヤマメの裡にくすぶり続ける願いだった。
「キスメさん、私は、どうすれば……!」
ギュッと目を閉じ、苦悶を形にして吐き出された主の言葉を、ヤマメのこれまでを見てきた事務所が受け止める。
膝の上で、血が滲みそうになるくらい拳が固く握られた。ヤマメを苛む無力感、焦燥。それらと同じくらいに胸で強く滾る感情。それこそが“はぐれ蜘蛛”の名が背負い続けるもの。誰にも切ることのできない“正義”の意思なのだということを、今のヤマメはまだ知らない。
ヤマメは目を開いて、答えを求めるようにキスメを見た。熟睡されていた。意地汚く菓子を手に持ったまま。
「………………………………………………」
もう色々と台無しだった。天丼であることは予期し得たことなのに、気の利いたツッコミ一つ入れられない自分の情けなさに涙が出そうだ。苦し紛れにヤマメはスリッパを片手に持った。
「このっ」
「あいたっ! 何すんのさ!」
「うっさい。私を気遣えなんて高望みはしないから、せめてちょっとは空気を読んでくれ」
「心外だね、ちゃんと読んだよ」
「その上でなおボケるか。自由すぎるでしょ」
「ふふん、それが本物の妖怪さ。覚えときなさい小娘」
そう偉ぶって言われても、パルスィの生き様と違ってまるで見習おうという気がしてこないから不思議である。
ヤマメは気勢を削がれて、ヤケクソのようにお菓子を頬張った。キスメは愉快げに笑いながら言った。
「あれあれ? ひょっとして拗ねちゃった?」
「誰のせいだと思ってんの」
「けきゃきゃきゃ。いやなに、ヤマメちゃんがあんまりしょうもないことで悩んでるからね。そりゃあ羊の一匹や二匹数えたくなる」
「む、私は結構本気だったんだよ」
「ふんふんなるほど。やっぱりヤマメちゃんはアホなんだ」
真顔で言われてしまった。嘲られるよりもよっぽどグサリときて、思わず胸を押えた。が、続くキスメの言葉は意外なものだった。
「どうすればいいって、そんなこと決まってるじゃないの」
本当に事もなげに言うものだから、ヤマメはキスメの顔をまじまじと見た。冗談や適当を言っているようには見えなかった。未だ霧中にあると思っていた答えを、キスメは本当に持っているとでもいうのか。ヤマメが信じられない思いで訝しんでいると、キスメは何個目かわからないお菓子に手を付けて、言った。
「いつも通り、やればいいんだよ」
意外な言葉に、ヤマメはただ呆然とするしかなかった。一方キスメはしょうもないことを口にしているとばかりに、茶の席での雑談と同じように気楽な様子で続けた。
「いつも通り足使って、地底の連中とお喋りして、無い頭使って、腕にもの言わして。ヤマメちゃんはどんな事件だろうと、そうやって地味~に解決してきたんじゃないか」
これまで自分が関わってきた事件を思い出す。キスメの言うとおりだった。事件の態様が違えど、自分のやることは変わらない。地味な捜査の積み重ね、それに尽きる。決して華々しい活躍ではなく、地霊殿の主が書く小説の題材には間違っても採用され無さそうである。それでも。
「今回は今までと何が違うのさ。違わないよ。だって君は、他の誰でもない。地の底の涙を拭う“はぐれ蜘蛛”なんだろう?」
それでも、ヤマメの続けてきた地味なことが誰かの笑顔を生んできたのは、紛れもない誇るべき事実なのだ。だから今度の事件も同じこと。
足を棒にして、地底の住人全員に当たる気概で、無い頭だろうがフル回転させて、いざという時は荒事だって覚悟して。
いつも通り、“はぐれ蜘蛛”のお仕事をキッチリとやり遂げて、風子の涙を拭えばいい。
これが答えだった。キスメに呆れられても仕方がないくらいに、単純で当たり前のことだった。
「……だから半人前だって言われるんだ」
自虐的に笑い、弱音のような言葉を吐く。
しかしヤマメの胸でくすぶっていた思いは、次第に情熱となって炎のように猛りだす。表情には気力がみなぎり、その瞳は未だ姿を現さぬ事件の全貌へと向けられていた。
「認めるよキスメさん。やっぱり私はアホだったみたいだ」
「けきゃきゃきゃ。殊勝なのは君の美点だよヤマメちゃん」
「そりゃどうも。でも、褒めるにはまだ早いね」
迷うことだってある。真実への道はいつだって曲がりくねって、また深い霧で覆われている。
そんな手探りでしか進めない悪路を切り開くのは、地味な行動と、決して誰にも切ることのできない意思だ。何度転んでも立ち上がって、回り道をしてでも前に進み、その果てに誰かの涙を拭えるのなら、諦めることなどどうして出来ようか。
「まあ見てなよ。“はぐれ蜘蛛”の紡ぐ糸、必ず真実へと繋げてみせる」
たとえ糸の向かう先にどんな真実が待ち受けていようと、最後まで見届ける。
それが、依頼人のいなくなったこの事件における、“はぐれ蜘蛛”の新たな役目。他ならぬヤマメ自身の意思が用意した立ち位置だった。
よーしと、ヤマメはキスメに負けないくらいの勢いでお菓子を頬張り始めた。ヤマメの気合の入りように、キスメは彼女にしては珍しい苦笑を浮かべていた。
「……世話の焼ける」
「ん? 何か言った?」
「いやいや、私を差し置いてそんなに食うとはいい度胸だってね」
「一応言っとくけどこれ私のだからね?」
左との約束の時間まであと数時間。
どんな話になるにしても、とりあえず彼に情けない顔をさらすことだけはなさそうだった。
10.
左に指定された場所は、旧都の中心からやや外れた場所にある、隠れ家的な小さな飲み屋だった。左は昔からここで一人で飲むことが多かったらしく、ヤマメと腰を据えて話をする際も、いつもこの店だった。
約束の時間より少々早めについたのだが、左は既に席についていた。他に客はなかった。机の上にはいくつかの銚子が置かれていたが、まだ手は付けてはいないようだ。店に入ってきたヤマメを認めると、左は顔を上げた。
「ごめん、待たしちゃったね」
「構わん。俺が早く来ただけのことだ」
「今日も旦那の奢り?」
ヤマメがそう聞いても、左は鼻を鳴らすだけだった。相変わらずの態度に笑いながら対面の席について、自分の分も注文する。せっかくだから普段よりも高い酒だ。ご機嫌なヤマメを見て、左は言った。
「その様子だと、しっかり休息はとれたようだな」
「ああ。喝も入れてもらったからね」
片目を閉じて不敵に笑う。それだけで、ヤマメの状態は左には伝えられたはずである。
ヤマメの注文した酒が運ばれてくる。左が自分で酒を注ごうとしたところを、すかさずヤマメは割って入った。
「いらん気を回さんでいい」
「なーに言ってんのさ。こんな美人に酌させないなんて、無粋の極みだよ」
「言ってて恥ずかしくならんか」
「ちょっと、どういう意味さ」
「……」
「うん? どしたの」
「少し大将の気が知れただけだ」
「星熊の大将の? なんで」
首を傾けつつも、ひとまずは乾杯。ヤマメは景気づけのため、一気に中身を空にする。良い酒というのもあるが、心身にさらなる燃料が投入されたようで、大層美味かった。
「今日呼び立てたのは他でもない。お前にも大方察しはついていると思うが」
二杯目を注ごうというところで、左は話を切り出した。ヤマメも仕事の態勢に切り替えて、身を正す。左はヤマメの眼を見据えて言った。
「こたびのヤマ。首謀者はあの娘だと俺は睨んでいる」
息を呑む。が、驚きはない。
なぜならばそれは、ヤマメとまったく同じ考えだったからだ。
ヤマメは観念するように息を大きくついた。
「まあ、そうくるよね」
「ふん、やはり動じんか」
「動揺はしてるさ。私のバカな妄想であって欲しかったけど、旦那までそう思ってるんじゃあね」
きっかけは、風子の家で見つけた一枚の羽。地獄鴉である彼女のものとは似ても似つかぬ真っ白な羽ではあるが、それを見た瞬間、ヤマメは恐ろしい疑念に囚われた。そもそもヤマメは、事務所で風子と出会った時から幾ばくかの違和感を覚えていた。それはほんの些細なものではあったが、今となっては疑惑をより深める材料になってしまっている。
左も同じ疑念を抱くからこそ、ヤマメに風子の付き添いを許さなかったのだ。会議を早々に切り上げたのも、こうして風子の目が届かないところで話がしたかったからだろう。
「旦那の考えは、自警団の総意かい?」
「まだその段階にはいっていない。状況から見て痴情のもつれの類と推測しただけだからな」
数多くの事件を扱ってきた左らしい発想である。しかし風子の事情はそんなに単純なものではない。ヤマメの複雑な心境を見透かしたかのように、左は言った。
「だが、より事件の細部に触れたお前なら、何か根拠となるものでもつかんでるんじゃないのか」
「……まあね」
苦々しい思いで、持ってきた袋から、傷まないよう紙に挟んだ羽を取り出す。左はそれを手に取って、明かりにかざしながら隈なく検分する。
「陽とやり合った場所に落ちてたものだよ」
「ふむ。現場には何人かやらせているが、今のところ同じような羽は発見されていない」
「じゃあこれは犯人のミス? それとも……」
あごに手を当てて考え込むヤマメに、左は唸りながら言った。
「犯人の意図がどうあれ、これが見つかったということは重要視せねばな……娘は地獄鴉だったな?」
「……わかっちゃあいると思うけど、羽が見つかったからって、地獄鴉である彼女が犯人だと決めつけるのはあまりにも短絡的だよ」
「当然だ。だからこそ裏を取るためにお前も俺たちも動いている」
「うん……そうだね」
「だが、向こうから仕掛けてくるとあれば、話は別だ」
ヤマメは今度こそ目を見開いて動揺した。左はただ彼女を鋭い目つきで見るだけだ。
唾を呑み込んで、震える口を開く。
「それって、風子さんを殺すってこと……?」
「娘かどうかはともかく、次に同じようなことを起こす者が出たら、俺たちはもう逃がさない。当然、お前の言うような手段もあり得るだろう」
「そ、そんな! ちょっと待ってくれよ!」
「考えてもみろ。相手は件の白狼天狗に破壊活動を唆したあげく、最後には使い捨てるように始末している。最近の地底では珍しい類の凶悪犯である可能性が高い」
左の言うとおりだ。まさか義憤にかられた住人が地底のために“怨霊憑き”を討ったわけでもあるまい。そんな楽観視をするほど、ヤマメはおめでたくはなかった。
しかし意地になったように、ヤマメは食い下がる。
「それでも、陽には他に共犯者がいて、風子さんは本当にただの被害者なのかもしれないじゃないか」
「だからそれを今調べているんだろうが」
「あ……」
「落ち着け黒谷。言っていることが支離滅裂だ」
手痛い指摘だった。自分は真実を掴むと決めたのだ。ここで冷静さを欠いては真実は遠のくばかりだ。酒ではなく水を盃に注いで、グイッと飲み干す。
頬を叩いて喝を入れるヤマメを見て、左は大儀そうに息をついて言った。
「黒谷。やはりお前はこの事件から手を引け」
とうとう来たなと、ヤマメは思った。今日の本題も、おそらくはこちらだろう。
今回の事件に限らず元々左は、ヤマメが事件に深入りするのを良しとしていないフシがある。鬼の面子を考えれば当然のことであるし、これまでの事件でもそのあたりの配慮は怠ってこなかったつもりだ。しかし今回ばかりは、はいそうですかと引き下がるわけにはいかなかった。
「それは、できない」
自らの覚悟を示す様に、ヤマメはあらかじめ用意していた答えを決然と言い切った。左は、ヤマメの返答を見越していたかのように、怒るでもなく腕を組んで黙った。ヤマメはじっと、左の次の言葉を待つ。緊張ですっかり酒が抜けていたが、今日は気持ちよく酔いに来たわけではない。
やがて、左は重々しく口を開いた。
「今日は冷えるな」
「え?」
唐突とも言える左の言葉。今更時節の挨拶というわけでもないだろうと、ヤマメは戸惑いながら相槌を打った。
「ああ、うん。そうだね」
「あの事件が起こったのも、こんな風に冷える季節だったか」
左は酒を注ぎながら、そんなことを言った。盃の中身を見つめるその目つきは、気のせいか普段の鋭さがなりを潜めている。
ヤマメは軽い驚きを感じていた。昔の話をするなんて、珍しいこともあったものだ。実際的なこの男にしては意外ではあったものの、ヤマメは茶々も入れず、舐めるように酒を口にして答えた。
「……そうだよ」
「……」
「忘れるわけがない」
呟くようなヤマメの声が掻き消えそうに静かな酒の席で、二人は同じ光景を遠い夢のように見ていた。けれどもそれは、まぎれもなく変えようのない、過ぎた事なのだった。
***
スペルカードルールが成立するよりも遥か以前、地底と地上どころか人妖の距離も今とは比べ物にならないほど遠かった時代。
それでもそれなりに平和で、住人も気楽に暮らしていた地底で、彼らのささやかな日常を粉砕する事件が起きた。
旧都は燃え、炎がまばらに降る雪を尽く呑み込む。そこに生きる妖怪たちはなすすべもなくがれきの間を逃げ回り、悲鳴と怒号が不協和音のように響き渡る。
地の底においてなお地獄と形容するほかない凄惨な光景。
その中心に、一人の鬼がいた。
今でもヤマメは鮮明に思い浮かべることができる。
鬼にしては華奢な体を花魁の纏うもののように華やかな衣装で包み、炎に照らされて立つ姿は、まるで無縁の塚に咲き誇る彼岸花。そして何よりもヤマメの脳裏に刻まれているもの。
鬼は、地獄の中で笑っていた。
誰もが恐怖に泣き叫んでいるなか、鬼はただ一人、地獄を祝福するかのように、絶世と謳われたかんばせを歪ませていた。その様は場違いに、あるいは似つかわしすぎるほど、ひたすらに美しかった。
声をあげることもなく、薄く笑う鬼の表情を認められるほどの距離で、ヤマメはただ震えていた。美しいものを見て恐怖を感じることがあると、生まれて初めて知った。逃げることも叫ぶことも出来ずにいると、やがて鬼と目が合った。やはりその瞳も絶望的なまでに綺麗で、覗きこんだだけで魂が吸われると本気で思った。鬼は口の端を薄く上げたまま、しゃなりしゃなりと近づいてくる。
『――っ』
助けて。そう叫ぼうと思っても、声がかすれて音にならない。それ以前に、こんな地獄で蜘蛛の糸が垂れることを期待して何になるのか。そのことに気がついた瞬間、全身から一切の力が抜けてしゃがみこんでしまう。まるで肉体が生きることを諦めたかのようだった。
鬼の右手に、青白い妖気が集っていく。赤く猛る炎と混じることなく青色に揺らめく鬼火を、ヤマメは半ば呆けた頭で、綺麗だと思った。そして鬼の手から青い炎が放たれたのを見届けると、ヤマメは目を閉じて最期の瞬間を待った。
轟、という音を聞いた。衝撃は熱気を纏う風となって、ヤマメの全身を通り抜けていく。
それだけだった。
死とはこんなにあっさりとしたものなのか。怪訝に思って、目を開く。そうしてヤマメは気づいた。自分はまだ目を開ける、つまり生きていることに。そして目の前で一人の女が、うつぶせになって倒れていることに。
『――ッ!? 姐(あね)さん!』
それはヤマメのよく知る人物であり、地底の有名人でもあった。眼前の光景に、動かなかった体がバネのように弾けた。駆け寄ってみると、女の背中は焼け焦げてほとんど炭になっていた。自分の身代わりとなって鬼火を受けたのだと、ヤマメは上手く回らない頭でようやく理解した。
『姐さん! ……しっかりしてくれ!』
何度も呼びかけながら倒れた体を揺すっていると、女の手が伸びて、ヤマメの目元を拭う。そして焦点の定まらない瞳をヤマメに向けながら言った。
『……何を泣いてるんだ君は』
言われて、自分が涙を流していることに初めて気がついた。一体いつから泣いているのか自分でもわからないが、自覚した途端、次から次へと涙が溢れてきた。そして顔を上げて、目を見開いた。ぼやけた視界の中で、今まさに鬼の手から再び炎が放たれようとしていた。
姐さんを連れて逃げなければ。頭では理解していても、体は鉛のように重くて動いてくれない。
『あ、あ……あああああああああああッ!』
ヤマメが絶望の叫び声をあげたその瞬間、横合いから鬼が吹き飛ばされた。
混乱した頭で見ると、先ほどまで鬼が笑っていた場所には、やはり鬼が立っていた。
星熊勇儀。鬼の四天王が一にして地底最強の抑止力。普段は豪快な笑みを浮かべたその相貌も今は怒りがむき出しになっていて、まさに羅刹そのものだった。
軽々と吹き飛ばされた鬼は、がれきの中からゆらりと立ち上がる。衣装はボロボロだが、血化粧に彩られた顔には依然壮絶な笑みが張りついている。勇儀と鬼が何事か言葉を交わしていたが、ヤマメの頭にはほとんど入ってこなかった。
『おい! お前たち!』
虫の息の女を前にして途方に暮れているところへ、新たな鬼が駆け寄ってくる。星熊勇儀の片腕、左だった。
『旦那! 姐さんが……姐さんが……!』
ヤマメの叫びには応えず、左は女に手当てを施そうとする。が、女の傷を見て、目を見開いて息を呑む。常々冷静な鬼が見せたその表情で、ヤマメは全てを理解してしまった。絶望感が漂う中、二人の心中を察したかのように女は口を開いた。
『左……貴方は大将のところへ行け』
『し、しかし……』
『うろたえるな、貴方らしくもない。貴方には、私よりも、優先するべきものがあるだろう』
『……くっ』
『今の奴は普通じゃない……。大将でも万が一があり得る』
『……』
『行け』
こうしている今も、轟音と熱気が戦闘の凄まじさを伝えてくる。勇儀が地を割りながら吼え、鬼は薄笑いを浮かべて舞うように応戦していた。左は戦場と女を見比べると、意を決して一つ頷いた。そして女の肩をねぎらうように叩いて、勇儀の隣へと飛び込んでいった。
再び取り残されたヤマメは、ただ泣きじゃくっていた。消えようとしている命を目の前にしながら何もできない自分が、憎かった。
『ちくしょう……!』
彼女はヤマメの大切な人だった。無愛想で変わり者だが、曲がったことは決して許さない。持ち前の強さと頭脳、そして誰にも切れない意思を以って誰かを助けるその生き様は、地底の誰よりもカッコ良かった。自分には絶対真似できないと思うからこそ、地底の異端児たる彼女に憧れた。
ここで死んでいいような人ではない。地底にはまだまだ、彼女の助けを必要としている者がいるのだ。ヤマメは涙を拭いて、女を抱き起そうとする。力を失った女の体は、ヤマメの手に余るくらいに重かった。拭ったそばから、雫はとめどなく溢れてくる。
『待ってて。今医者のところへ連れて行く』
そう言ったものの、当てなどない。炎になぶられ続ける都で、まともに医療が機能しているものか。けれど、この時のヤマメには他に方法が思いつかなかった。無意味な抵抗だったとしても、ヤマメは何かしないと頭がどうにかなりそうだった。
肩を貸そうとしたところで、女がヤマメの肩を思いがけないほど強い力で掴む。突然の反応にヤマメが戸惑いの視線を向けると、女は信じられないことを口にした。
『ヤマメ。ここは私に任せて君は逃げろ』
何を言って――そう抗議をしようとして、しかし女の人差し指に唇をおさえられて、続きを言えなかった。女の顔は苦痛に歪み、呼吸も荒かったが、キザな所作だけは、普段の彼女と何も変わらない。それがヤマメにはどうしようもなく辛かった。こんな傷を負ってなお、彼女は自らの責務を果たそうとしている。ヤマメを守ろうとしてくれている。
『いやだ』
それに比べて、自分はこんな駄々っ子のようなことしか言えない。悔しくて悲しくて、気が狂わんほどだった。赤子のように泣きじゃくるヤマメを見て、女はため息をつきながら、やれやれと首を振った。そして命を絞り出すようにして、歯を食いしばりながら立ち上がる。足は隠しようもなく震えていた。
『どうして……そこまで……』
痛々しい女の姿に、ヤマメは目を背けたくなるのをグッとこらえた。彼女を慕ってきた者として、それだけはやってはいけないような気がした。
立って並ぶと、女の方が少しだけ背が高い。顔を見ようとすると自然、見上げる形になる。意識を保つのがやっとである様子の、女の胡乱な瞳には、すがるように彼女を見る自分が映っていた。情けないほどに弱々しい様だった。
女はヤマメの肩にそっと手を沿える。女の口の端がほんの少しだけ上がり、そして言った。
『この地底では、誰にも泣いていて欲しくないんだよ』
それは幾度となく聞いた、彼女の行動理念だった。たとえ誰かがあざ笑おうと、彼女はその夢想のような願いを胸に秘めて、地の底を駆け続けたのだった。そして今この瞬間も、
『君も例外じゃない、ヤマメ』
そこでもう限界だった。女の状態も忘れて、胸に飛び込んだ。
お願いだから死なないで。そのような意味のことを散々喚き散らしたと思う。今思うと滑稽極まりないが、そんなヤマメにも女は困った顔一つ見せず、ヤマメの髪を一撫でした。そしてヤマメをそっと引き離し、目を真っ直ぐ合わせて諭すように言った。
『君はまだ若い。あらゆる生き方を選ぶことのできる、可能性の塊だ。こんな地獄、君の死に場所にはふさわしくない』
女は激しく咳をした。口からは、赤い筋が覗いていた。それでも構わず女は続ける。
『それに君は私の大切な友人だ。身に余る光栄だけれど、随分と私のことも買ってくれた。君を死なせでもしたら、私はたとえ閻魔に許されようとも自分の涙を止められない。だからお願いだ。私の言うことを聞いてくれ』
もう何も言えなかった。女はとっくの前に、命に代えてでもヤマメを守ることを決意してしまっている。どんな引きとめの言葉も、もはや意味をなさない。彼女の意図は、誰にも切れはしないのだ。だからヤマメにできることは、女の言うとおり一刻も早くここから逃げ、どうにか生き延びることだけだ。
ならば、せめて笑顔で。
女の思いに応えるべく、ヤマメは強く拳を握り、唇を噛みしめて涙を拭った。笑顔は自分の数少ない取り柄と自負していたが、今回ばかりは自信がなかった。きっと涙でグジャグジャになって、とても見れたものではないだろう。それでも、精一杯の笑顔で。
『忘れないで。姐さんがいなくなって涙を流すやつもいるってことを』
最後に、悪あがきのようにそう言った。ヤマメの不細工な笑顔と、女の泣き所を的確についたセリフに、女も、笑った。彼女が最後に見せた不器用で控えめなあの笑顔を、ヤマメは生涯忘れることはないだろう。そして彼女がヤマメに向けた、最後のセリフも。
『大丈夫だよヤマメ。私は地の底の涙を拭う、“はぐれ蜘蛛”なのだから』
そして“はぐれ蜘蛛”と呼ばれた地底の異端児は往く。彼女にとって、最後の戦場へと。
いつも目で追い続けた背中が見えなくなると、ヤマメも踵を返してがれきの山を踏みしめる。一度生きることを諦めた体は、ヤマメの中で渦巻く激情に突き動かされるように、炎上する都を足をもつれさせながら駆けた。
走りながら、地の底の天井に向かって、言葉にならない言葉を大きく叫んだ。女の前でこらえていた涙はとうに溢れ出ていた。
幾多の悲しみと絶望が生まれ続ける中、雪は旧都の惨状を覆い隠そうとするかのように、しんしんと、穏やかに振り続ける。
ヤマメに泣いてほしくないという、“はぐれ蜘蛛”の願い。それはあまりにも酷な要求で、有り得ない奇跡を望むに等しかった。
旧都炎上。
後にそう名付けられたこの事件は、時を経た今も、未だに解決を見ていない。首謀者の行方は杳として知れず、そして“はぐれ蜘蛛”と呼ばれた女は二度と帰らない。それが、地の底の現実だった。
***
「あの後しばらくしてだったな。お前が俺の元へやってきたのは」
夢から覚める様に、左がしみじみと言った。
あらゆる生き方を選べる――そう言われたヤマメが後悔と苦悩の日々の果てに選んだのは、彼女がかつて憧れた“はぐれ蜘蛛”という生き方。そしてヤマメは以前から先代との絡みで何かと縁のあった左に頭を下げ、自分を鍛えて欲しいと懇願したのだった。
「自分で言うのもなんだけど、旦那もよく弟子にとってくれたよね」
苦笑しながら、ヤマメは盃を傾けた。
「無論小娘が何をといったところだったが、ああもしつこく粘られてはな」
応える左は相変わらずの仏頂面だが、険はない。ヤマメが弟子にしてもらうべく左の元へ通い詰めた日々。左の施す情け容赦のない特訓。色々あったが、どれも今は懐かしい過去だ。しかし。
「あの事件は、俺の中ではまだ終わっていない」
星熊勇儀、左、そして“はぐれ蜘蛛”。地底の実力者たちを相手にしてなお、事件の首謀者である鬼は、この地底からまんまと逃げおおせた。もちろん無事では済ませなかった。長い間音沙汰がないのが、その証拠である。だがそれはまた、かの鬼が力を蓄えるべく身を隠していることも意味していた。
必ず鬼は地の底へと舞い戻る。だから星熊勇儀を始めとする地底の鬼たちは、道を外れた同族を迎えるその時に備え、有志による自主的な治安維持活動を発展させた組織として、正式に自警団を発足させたのである。
そして左が事件にこだわる理由が、もう一つあった。
「奴は……“右京”は必ず俺が討つ。それが、同じ星熊の片腕としてのケジメだ」
左と右京の名は、星熊勇儀が絶対の信頼を置く忠実な手下の双璧として、地底に雷名を轟かせていた。堅物の左、奔放な右京と、性格こそ真逆ではあったが、勇儀の義侠心に応えるべく、二人して鬼たちの先頭に立ち、存分に力を奮ったのである。
だというのに、右京は壊れた。前兆もなく、唐突に、右京はその美しいかんばせに笑みを浮かべながら、誰の理解も追いつく暇を与えぬ間に、旧都を焼き尽くした。当の右京も地底から消えて、今もってその動機は不明、真相は藪の中だった。
左もまた、後悔していた。都が他ならぬ右京の放った炎に包まれていたにも関わらず、長年の同志を前にして、左の拳はわずかだが鈍った。消しきれぬ甘さが右京を取り逃がすという失態に繋がったかと思うと、自身への怒りと失望が腹の底から湧き上がってくるのだった。そして左が秩序の鬼と呼ばれるほど、以前に増して厳格になったのも、この事件以来のことである。
「俺には戦う理由がある。だがお前はどうなんだ」
「……」
「お前があの事件に責任を感じているとすれば、それは筋違いだ。先代が死んだのも決してお前のせいではない。あのときのお前はただの小娘にすぎんし、どうしようもなかった」
左は再び眼光に鋭さを宿らせ、ヤマメを見据えて言った。
「自分の罪をいくら数えたところで、つまらんだけだぞ、黒谷」
お前たちのセリフではないがな――面白くもなさそうに、左はそう付け加えた。
ヤマメは応えない。しかし視線だけは左から離さない。その瞳には、左にも負けないほどの力強さがあった。
「言っておくが“はぐれ蜘蛛”を継いだことを自分の罪滅ぼしのつもりでいるなら、いつかこの先、お前は潰れる。今回の事件にしてもそうだ。お前はなにか余計な責任を背負っている。散々言い聞かせてきただろうが。事件に入れ込みすぎると碌な結果を生まん」
だからその前に手を引け、というのが左の言い分らしい。
黙って左の話を聞いていたヤマメは、ふと笑みを零した。
なるほど実際的な左らしい理屈だった。まったくもって筋の通った道理だった。
だがしかし、“はぐれ蜘蛛”を動かすのは、理屈や道理を越えた信念――誰にも切れない意思である。
ヤマメは笑みをたたえたまま、静かに口を開いた。
「まあ、罪滅ぼしの気持ちがないって言えば、それは嘘になるね。でもそうじゃない。そうじゃないんだよ、旦那」
幾度の日々と経験を経て、ヤマメもようやくあの事件を、冷静な心境で振り返られるようになった。確かに無力な自分が何をどうしたところで結果は変わらなかったのかもしれない。それでも、事件のことを思い出すたびに、胸の奥に刺さった小さな棘がチクリと痛む。それは消しようもない、罪の意識だった。
今回の事件も、自分は風子の依頼を果たせなかった。依頼を受けた者として当然責任は感じるし、少しでも穴埋めをしたいというのが、未だ事件に関わり続ける動機の一つではある。
しかし、真に今のヤマメを駆り立てるのは、そのような後ろ向きな覚悟ではない。
「この地底で泣いている人がいる。“はぐれ蜘蛛”が動く理由は、今も昔も変わらない」
ヤマメの言葉を受け、左は一層厳しい顔つきになったが、それに対抗するようにヤマメは笑みを深めた。
「きっとその人は、ずっと前から一人で泣き続けてたんだ。誰にも助けを求めることなく、誰にもハンカチを差し出してもらうことなく。そういうの、やっぱり寂しいじゃないか」
今度は左が黙る番だった。酒に手を付けることもせず、ただヤマメの言葉を厳めしい顔で聞いている。小娘の戯言と侮ることなく、真正面から自分の思いの丈を聞いてくれることに心の中で感謝しつつ、ヤマメは続ける。
「だから私が、その誰かになると決めた。私があの人の涙を見たのも、きっと何かの縁なんだよ」
そしてヤマメは笑みを引っ込め、真剣な表情になって言った。
「私は事件の犯人を討ちたいんじゃない。事件で流れた涙を拭いたいんだ。だから旦那たちに全てを委ねて、ただ黙って退場することはできない」
それが、大先輩の釣瓶落としに後押しされ、左の出すであろう宣告に反論するべく、“はぐれ蜘蛛”の信念を芯として、ヤマメが自分で出した答え。決して譲ることのできない、自分の立ち位置だった。
左はヤマメの宣言を受けても、なお黙ったままだった。ヤマメの出した結論は、鬼にしてみれば実に小癪な答えである。さてどんな反応が返ってくるか。握った拳に汗が滲んでくるが、それでも絶対に目は逸らさない。
重い沈黙の中、睨みあいがしばし続いたが、先に口を開いたのは左だった。
「娘に騙されてるとは思わんのか」
どこまでも実際的な鬼だった。当然その反応も織り込み済みだ。
「関係ないね。私は最後まで依頼人を信じてみる。もし本当に騙されてるだけだったとしても、その時はその時だ」
「それでまた地底に被害が出たらどうする」
「その前に止めてみせる。そこは旦那たちと同じだよ」
「ふん、なるほど。つまりどうあっても、事件から手を引くつもりはないと?」
「早い話がそういうことさ」
ヤマメが言い切ると、左はふん、と鼻を鳴らして席を立った。ヤマメの決意は固いとみて、話は済んだということだろう。
左はヤマメを見下ろして言った。予想よりも落ち着いた声色だった。
「ならばもう何も言わん。死ぬも生きるも、お前の勝手だ。そして俺たちのやることも変わらない。お前が何を望もうとな」
それは、事実上の決別宣言だった。いつもの厳めしい表情からは左の感情は読み取れない。だが左の意思が何であれ、自分はもう賽を投げてしまった。左の言うとおり、これからのことは、それこそ自分の責任だ。ヤマメも立ち上がって、厳めしい面を見上げた。厳しい言葉を向けられても、ヤマメの浮かべる表情は、やはり持ち前の笑顔。
「ありがとうございます。旦那」
万感の思いを込めて礼を言い、頭を下げた。
自分のわがままを許してくれた秩序の鬼に、そして弱っちい小娘に過ぎなかった自分を鍛えてくれた師に、最大級の感謝を。
頭を上げて左の表情を伺ってみても、相変わらずの仏頂面。ちゃんと謝意は伝わったのかなとヤマメが頬をかくと、左は大きく息をついた。
「“切り札”……か」
そう呟くと左は今日の分の支払いを済ませて、足早に店から出ていってしまった。
「……“切り札”? 何のこっちゃ」
大きな背中を見送り、一人残されたヤマメは首を傾けながら腰を下ろした。まああの男が意味ありげなことを言うのは今に始まったことではないと、ヤマメは気を取り直して酒を注いだ。せっかくの奢りなのだから英気を養えるだけ養っておくべきである。本当の戦いはこれからなのだ。
「さて、忙しくなるね」
鬼の力はもう当てにできない。そう考えると一抹の不安がよぎるが、あれだけの啖呵を切ったからには、もう弱音など吐いてはいられない。
全ては誰かの涙を拭うために。ヤマメはいつか憧れた“はぐれ蜘蛛”の信念に乾杯し、一気に酒をあおった。結局この日は、ヤマメと左以外の客はなかった。
***
外に出ると、一段と冷気が身に沁みた。例え屈強な鬼だろうと、寒いものは寒い。初雪も近いと、左は地の底の天井を見上げながら思った。
今日の会合は、概ね予想通りに推移した。言われるまでも無く、ヤマメは既に娘に当たりをつけていたし、不肖の弟子がそう簡単に手は引かないことも重々承知していた。
しかし、ヤマメがあれほどまでに強い意思を以って動いていることに、左は少なからず驚いていた。
どんな事件も持ち前の飄々とした態度で臨むというのが、ヤマメに対する左の印象だった。変に気負っても失敗を生むだけではあるし、別に咎め立てするようなことではないが、左の“はぐれ蜘蛛”像とはどうもずれる。
いかなる時も冷静沈着、その立ち振る舞いは小癪なまでにキザ。刃を思わせる鋭い気迫と、蜘蛛の糸のようにどこまでも伸びる強固な意思を携え、地の底の事件を解決する。それが左の知る、先代“はぐれ蜘蛛”だった。
勇儀の片腕として地底の問題に当たっていた左とは何度も顔を合わせる機会があったため、嫌でも彼女のことはよく知っていた。
最初こそ生意気な土蜘蛛だと疎んじていたが、次第にその認識も変わっていった。鬼は強者を好む。単純な腕っぷしもそうだが、強い生き様を見せつける者は、例え小兵であっても尊敬に値するのだ。その点先代“はぐれ蜘蛛”は、自分よりも遥かに小さな体躯の内に鬼にも劣らぬ信念を秘め、誰かの涙を拭うために戦っていた。ついぞ口にすることは無かったが、先代への密かな敬意は、彼女がこの世を去った今も、変わらず左の心に残っている。
それだけに、先代によくくっついていた娘が弟子入りを志願してきたときは、その身の程の知らなさに怒りを通り越して憐憫の情さえ覚えた。先代を失った無念は理解できるものの、“はぐれ蜘蛛”の名は無力な小娘に背負えるものではない。当然相手にするまでも無く門前払いをしたが、娘は諦めなかった。一喝しようと、顔さえ見せなくても、娘はまだ新しかった自警団本部の門前で頭を下げ続けた。その執念は、門番を務める若い衆が娘の肩をもつほどであった。
娘の心意気に打たれたでもないが、これ以上無下に扱っても鬼の沽券に関わる。ある日左は娘に顔を上げる様に言い、そして問うたのだった。
『ならば娘。お前に何が出来るというんだ』
正直なところ、どんな答えが返ってきたところで、態度を改めるつもりはなかった。早々に諦めさせて別の道を歩ませるのが、この娘のためである。だが、娘の口にした答えは、まるで左の想定範囲外にあるものだった。
『泣かない』
唇を噛みしめて、娘はそんなことを言ったのだ。不覚にも虚を突かれて、左は言葉を失った。この娘は一体何をずれたことをぬかしているのか。自分の思惑とは裏腹に、知らず左は重ねて問うていた。初めて左が娘と正面から向き合った瞬間だった。今の言葉、果たしてその心は。
『地底の誰にも、私にも泣いていて欲しくない。姐さんはそう言った』
それは左も幾度となく耳にした、先代のセリフ。思えば初めて聞いた時は、理想論と切って捨てたものだった。
『それに、地の底の涙を拭う“はぐれ蜘蛛”が泣いてるようじゃ、きっと誰の助けにもなれない。だからどんなに辛くても、厳しくされても、自分の弱さが嫌になっても』
娘は全身と声を震わせながら、それでも左の泣く子も黙る面構えを真っ直ぐ見据える。そして最後に往来の目も構わず、娘は声を張り上げた。
『強くなれるまで、もう絶対に泣きません』
娘の表情は今にも泣き出しそうで、しかし決して涙は見せなかった。
思えば、このときのともすれば情けないともとれるヤマメの表情こそ、彼女を弟子にとろうと決意させたきっかけなのだった。自らの弱さを知ってなお強くなりたいという願い。彼女の面構えから垣間見たのは、左をして切れぬと思わせる、強固な意思だった。
「あの時はヤキが回ったと思ったものだが。ある意味で俺の眼に狂いはなかったということか」
自らの言葉通り、ヤマメは左の厳しい特訓に泣きごとは口にしても、涙を流すことだけはついになかった。
そして今日、ヤマメはまた一つ、左を驚かすほどの覚悟を示してみせた。誰にも切れない意思に基づく行動を止める手立てはないならば、さて主はどうしろと言っていたものか。左もまた、自らの立ち位置を再考する必要を感じていた。
「ふん、それにしても」
大きく吐いた息が白く染まるのを見ながら、左は思った。
あの娘は半人前のくせに、弟子にとったときからしばしば左の予想を越えていく。なるほど可能性の塊という主の言もあながち大げさではないもので、知らず自分の弟子を見る目は曇っていたらしい。過保護と言われるのは心外だが、この様ではそれも然りなのかもしれない。
「子は親の知らないうちにデカくなっているとは言うが。いやはや」
左は灯もまばらな夜道を歩きながら、わずかに口の端を歪めた。
それは、堅物の見本のようなこの鬼には珍しい、愉快げな笑みだった。
11.
久しぶりにぐっすりと眠っていたヤマメの目を覚ましたのは、一通の手紙だった。届けてくれた地獄鴉の配達員に礼を言って、早速中を改めてみる。出てきた紙切れを見て、寝ぼけ眼だったヤマメの瞳が鋭く細められる。そこには汚い字でただこう書いてあった。
【例の件について。西区分所まで来られたし】
鉈の署名がなされた手紙を自分の机に投げだし、ヤマメはやかんを火にかけた。湯が沸くのを待つ間、身支度をする。
事件の終わりが近い。そんな予感があった。様々な思惑が蜘蛛の巣のように張り巡らされたこたびの件、果たして完成する絵はどんなものか。地の底に新たな涙が流れるか、はたまた誰かの血を以って終止符が打たれるか。
「どっちも却下だ」
茶を淹れ、慌てることなくゆっくりと飲む。適当に淹れたお茶の味は、風子の家で出されたものには当然及ばないが、体を目覚めさせて一日を始めるには十分。習慣とはそういうものである。
湯飲みを置いて、メモ帳をめくる。今回の事件だけで書き込みの量は相当なものになっていた。どうか自分の働きが少しでも報われて欲しい。自分のため、事件で涙を流した人たちのため、そしてずっと前から泣いていた人のために、そう願った。
懐にメモ帳と鉈からの手紙をしまって、立ち上がる。そして壁にかけてあるリボンの中から、一番のお気に入りを選ぶ。
「じゃ、行きますか」
リボンをくすんだ金髪にキュッと結んで、ヤマメは事務所を後にした。湯飲みからは、まだ湯気が立ち上っていた。
自警団の西区分所を訪れてみると、先日とは違ってほとんど人が出払っていた。数少ない待機組の一人はヤマメを認めると、ギロリと目を剥いた。
「来やがったな」
「呼ばれたからね」
「ふん。会議室に行くぞ。あそこなら邪魔は入らねえ」
ヤマメは鉈の後を歩きながら、ガランとした所内を見回して言った。
「……今日は人が少ないね」
「人員はあらかた駆りだされてるからな」
それはつまり、自警団が事件を詰めにかかった証だ。左はもう犯人を逃がさないと言っていた。彼らが犯人を討つのも、時間の問題だ。
焦りそうになるのを自制する。真相に近づいているのは自分も同じはず。ヤマメは軽く息を吐いて言った。
「ナタさんは行かなくていいの?」
「留守役を下っ端と代わったんだよ。おめえを待つためにな」
「まーた強引なことやったんじゃないでしょうね?」
「けっ、誰のためだと思ってやがる誰の」
ずいとヤマメを指を指しながら、鉈は歯を剥いた。その下っ端さんには悪いが、こちらにも事情がある。後で埋め合わせをしようと決めたところで、会議室についた。適当に座るよう言われ、ヤマメは椅子を引っ張ってきた。先日座った椅子と同じだと気がついたが、胸の内はまるで違う。
鉈もヤマメの対面に陣取り、そして紙束を差し出してきた。
「頼まれてたもんだ」
ゴクリと唾を呑み込む。これでまた、真実への糸が伸びるのだ。
受け取って、パラパラと資料を覗く。字は汚いが、肝心の薬の情報はよく纏められているようで、中にはヤマメが知らない情報も見受けられた。ヤマメは感心して言った。
「すごいや……。ちゃんと情報とってきてくれたのももちろんだけど、ナタさんにこんな丁寧な仕事が出来るなんて」
「てめえそりゃどういう意味だ」
「いやだって、ナタさんにデスクワークのイメージがまるで無いんだもん」
「この野郎、俺がどんだけそれ作るのに苦労したと思ってやがる」
「あ、やっぱり苦労はしたんだ」
「クソッたれ、チンピラども相手にしてる方が百倍楽だぜ……」
よく見ると、鉈の目元にはくっきりと隈が浮かんでいた。いつもならこういう事務的作業は手下に任せるだろうに、左のこともあって慣れぬ仕事に手を出したのだろう。
苦々しげな顔を浮かべていた鉈はゴホンと気を取り直して、言った。
「詳しいことはそいつを見りゃあわかると思うが、お前の知りたがっていた“ヤバいブツ”の正体が知れた」
ヤマメは資料をめくり、該当箇所を探し出す。すぐに大きな文字の下に赤い線で強調された所を見つけた。ヤマメは鋭く目を細め、そのキーワードを噛みしめるように口にする。
「“胡蝶夢丸”……“ナイトメアタイプ”」
悪夢。いかにもなネーミングだ。
「これが、“ヤバいブツ”?」
「いや、そうじゃねえ」
ヤマメが尋ねると、意外にも鉈は首を振った。ヤマメはもう一度資料に目を落とし、鉈は説明を続ける。
「“胡蝶夢丸ナイトメアタイプ”自体は単に悪夢を見るために使う代物に過ぎねえ。上で天狗どもが発行している新聞でも取り上げられる、その程度のもんだ」
「あ、悪夢を……? なにそれ、“胡蝶夢丸”以上に使い道がわからないんだけど」
「俺が知るかっつうんだ。世の中には物好きがいるってこったろ」
釈然としないながらも、とりあえず納得する。どうやら本題はこの先にある。
「問題となる“ヤバいブツ”ってのは、こいつの強化版だ」
「強化版……」
「ああ。どうやら“ナイトメアタイプ”を元に、薬効を捻じ曲げた上で強力にしたもんでな。飲むと過去にあった嫌なことを根こそぎ思い出させるらしい」
「嫌なことを根こそぎ? それってさとりさんみたいにトラウマを想起させるってことなのかな」
「多分な。しかもこいつは、地霊殿の主のように加減が利くもんでもねえ」
資料に目を落としたまま、言葉を失う。なんという残酷な薬か。
人間も妖怪も、長く生きれば生きる分だけ、当然酸いも甘いもより多く噛みしめることになる。その蓄積された過去の痛みを全て引きだされたとしたら、人はもとより、いかに妖怪といえどひとたまりもないのではないか。いや、むしろこの場合妖怪にこそ効果覿面と言った方が正しいだろう。妖怪は、人間よりも遥かに長く生きるのだから。
「まるで、毒薬そのものじゃないか」
そんなものを飲んで、もし自分の過去が引きずり出されたとしたら――。
ヤマメがそう想像した瞬間、燃え盛る旧都と鬼の笑みが、火花のように頭をよぎった。
思わず口を手で押さえる。
「ん? おい黒谷、なんかおめえ顔が青いぞ。どうした、ビビっちまったか?」
「……いや、大丈夫」
「そうか……? なら続けるぞ」
頷いて、深呼吸する。
こんなところで昔に囚われていてもしょうがない。今は一刻も早く前へ進まねばならないのだ。
「で、この薬なんだが……どうやら上の薬師とやらの手によるものじゃねえようだな」
「誰かが元の薬を手に入れて勝手に弄ったってこと? 確かに上の薬師は良心的だって評判らしいし、こんな危ないもの作るとは思えないけど……だとしたら誰が」
「それはわからん」
鉈はきっぱりと言った。いっそ堂々とした態度だったが、もちろんヤマメは見過ごさない。
「ええっ? そこは大事なところでしょ」
「しょうがねえだろ、本当にわからねえんだからよ」
「売人たちを締め上げたんじゃないの?」
「うるせえ、当然締め上げたっつーの。だが並のチンピラはそもそも知らねえって震えるだけだ。俺が情報とったのは骨はあるがいけ好かねえ連中からだが、こいつらもそういう薬があると知ってるだけで、自分では扱ってねえんだよ」
ヤケになったようにまくしたてた鉈は、バツが悪いのか顔を背けた。ヤマメは思わず眉を寄せて呆れたように問う。
「信用できる情報なんでしょうね、それ……。なんかものすごーく胡散臭いんですけど」
「ったりめえだ。そこは取引やら何やら絡め手使ってとったもんだからな。ワルってのはクソ野郎だが、そこらへんの約束はきっちりしてやがるもんだ」
「うーん、まあそれもそうか。で、誰が扱ってるかはわかるの?」
「ああ、何でも地底じゃ見慣れない奴がコソコソやってるらしいな。連中澄ました顔してやがったが、自分のシマが荒らされてんだ。内心穏やかじゃねえだろうよ」
「見慣れない、ね……。もしかしてその売人も地上から?」
「どうだかな。ま、碌でもねえ輩であることは間違いあるめえ」
新情報の分、また別の謎が生まれてしまった気がするが、とりあえず頷く。そしてまた資料をめくり、そこにある記述に目を瞠った。顔を上げて鉈を見る。彼女を見返す鉈の表情も引き締まっていた。
「気づいたか」
「ナタさん、これって」
「そう、こいつが今回の目玉だ」
ヤマメが食い入るように見ている箇所。それはまさしく、“怨霊憑き”誕生のメカニズムだった。
「てめえの睨んだ通りだったな。“怨霊憑き”は怨霊だけじゃあ成立しねえ。むしろこっちの薬が引き金だったってこった」
鉈の話を聞きながら、記述を目で追う。
“ナイトメアタイプ”の強化版は、服用した者の精神を限界まで痛めつける。そこへ傷ついた精神に惹かれて怨霊が集まってくる。
ヤマメがこの目で見た光景とまったく同じだ。
「普通なら精神を乗っ取られてそれでしまいだ。だが、ここで薬の効用が肝になってくる」
鉈が指し示した箇所には“胡蝶夢丸ナイトメアタイプ”強化版の裏の、あるいは真の効用が記されていた。
ヤマメはそれを、自分の頭に叩き込むように声を出して読んだ。
「『この薬は服用者に過去のトラウマを一瞬で追体験させることで、怒りや憎しみ、悲しみといった負の感情を増大させる。そうして負の方向に強化された個は、怨霊による存在の書き換えを防ぐほどになる。結果、個を保ったまま、怨霊を取り込んで力を得ることができるようになる』……」
「どうよ。反吐が出るだろ」
「メチャクチャだ……」
忌まわしい呪詛を唱えたような嫌悪感が、ヤマメの体を奔る。
ここに書いてあることは、言うなれば熱い鉄を何度も叩いて強固にするのと同じ理屈だ。ヤマメも自らの裡に潜む魔と向き合うという、似たような鍛錬を行ってきた。しかし精神の強化とは、本来長い時間を掛けて少しずつ為されるものだ。もし実際に記述通りのことが起これば、妖怪の精神は瞬時に強化されるのと引き換えに、深刻なダメージを負うだろう。いくら強度が強くなったからといって、無理な叩き方で傷がついては元も子もない。
「実際、陽は一見してまともじゃなかった」
精神の書き換えは確かに防げたのかもしれない。だが、ギラギラとした瞳はケダモノのようにおぞましく、暗く燃える妄執の炎を宿していた。あの様子では怨霊が書き換えるまでもなく、ボロボロになった精神は遅かれ早かれ暴走していたに違いない。
「つまり、それが薬の副作用ってことか」
鉈が心底不愉快と言った表情で吐き捨て、ヤマメは神妙な顔で頷く。この薬を捨て置くわけにはいかない。二人はその認識を無言で確認し合った。
そういえばと、ヤマメはふと気になったことを問うた。
「この情報、もう旦那には上げてるの?」
ヤマメとしては確認のつもりだったが、鉈の返答は予想外のものだった。
「ん? まだだがそれがどうした?」
自分の顔が引きつるのを、否応なく自覚した。一方、目の前の鬼は素知らぬ顔である。
「いやいや、それがどうしたって大問題じゃないですか。これ、かなり重要な情報だと思うんだけど、旦那差し置いて私に渡したのはさすがにまずいんじゃ……」
「てめえに言われなくともこの後すぐ上げるっつーの。別に報告しねえってわけじゃなくてちょっと順番が逆になるだけだ」
「いやいやいやいや、そうじゃなくて組織の体裁みたいなもんが、なんかこう、あるでしょ」
ヤマメとしても自警団の秩序を乱すのは本意ではない。そのうえ今のヤマメは左、あるいは自警団と袂を分かったも同然の状態、こうして分所に来るのも本当は好ましくない身である。そんなヤマメの憂慮を鼻で笑い飛ばすように、鉈はいつものぶっきらぼうな調子で言った。
「何をウダウダとぬかしてやがるんだてめえは。薬のことを調べろって押し掛けてきたのはてめえだろうが」
「それはまあ、そうだけど……」
「ならこいつは真っ先にてめえに知らせるのが筋ってもんだろうよ。違うか?」
鉈は当然のようにそう言い、ヤマメは目を丸くする。
納得した。いや、させられた。組織の道理を越えた鬼本来の義侠心に、ヤマメは感嘆の息を漏らす。
「やだナタさん男らしい。さすが鬼っていうか、ナタさんもつくづく義理堅いね」
「あ? 今さら何言ってんだ。俺が約束違えるわけねえだろ。ナメんな」
そう言いながらも、鉈の表情は誇らしげで、得意そうに胸を張っている。この辺が終始厳格な左との違いである。
鉈の厚い義理堅さには感謝しなければならないが、しかしヤマメの現状とはまた別問題である。
「まあでもこのこと、旦那には言わない方がいいね。お互いのためにも」
「あん? 何でだよ」
ヤマメは簡単に昨日のことを話した。すると、鉈はなぜか訝しげに眉をひそめた。
「んん? いやでもよ、俺ァさっきお頭に言われたところだぜ。おめえがなんか言ってきたらそっちを優先して協力しろってよ」
「え、旦那が? さっき?」
「おめえの勘違いじゃねえのか? なんだかんだ言ってお頭はおめえのこと認めてるみたいだしよ。いいか、おめえもっとお頭に感謝しろよ? あの人に目をかけてもらえるなんて、すげえ名誉なことなんだからな」
鉈の話は後半聞き流しながら、ヤマメは首を捻った。
左の真意がどこにあるのかがわからない。しかしよくよく昨日の会話を思い起こしてみると、確かに「勝手にしろ」とは言われたが、「協力しない」とは一言も彼の口からは出ていない。いささか都合の良すぎる解釈ではあるが、もしかすると――。
「おいこら、ボーっとしてんじゃねえ」
そこまで考えが及んだところで、割り込む声があった。鉈は苛立たしげに腕を組んでいる。
「ん、ああごめん」
「おいおい、まだ寝ぼけてんのかよ」
「まさか。こんなに刺激的な情報もらっちゃったんだ。二日酔いも一発で覚めるってもんさ」
「へっ。とりあえず俺が調べたことはその資料に纏めてある。後でよく目ぇ通しとけ」
「ああ、恩に着ますよナタさん。旦那にもよく言っておくね」
「おう、懇切丁寧にな。俺がわざわざ動いてやったんだ。無駄にすんじゃねえぞ」
資料を持参した袋に入れ、頭を下げる。そして会議室を辞そうとしたところへ、「おい」と、ヤマメの背中に鉈が呼びかけた。ヤマメが振り向くと、鉈は戸の向こうを伺うように首を伸ばして、切り出した。
「いいか。今から俺が言うことはお頭に報告しなくていいからな」
ヤマメは訝しげに思いながらも頷くと、鉈は続ける。
「これは俺の勘だが……。今回の事件を終わらせるのは俺たち鬼じゃねえ。黒谷、多分おめえだ」
いきなりそんなことを言われ、ヤマメは戸惑った。よりにもよって鬼の自警団の拠点でなんと大それたことを。思わずヤマメも鉈がやったように戸の方へ首を向けてしまう。慌て顔のヤマメと、余計なことを言ったという風に忌々しげに顔を歪める鉈。妙な気まずさが二人の間を流れたが、それを振り払うように鉈はゴホンと一つ息をつく。
「気張れや、“はぐれ蜘蛛”」
歯を剥いてニッと笑い、鉈は拳を突き出した。
この若き鬼の青年は、事件の中心にいつも半人前扱いしている土蜘蛛の娘を据えた。プライドの高い鬼にそう認められるのは誉れであり、また重責でもあった。思いがけぬプレッシャーに、ヤマメはゴクリと唾を呑み込んだ。しかしこの程度の重圧を背負えずして、どうして“はぐれ蜘蛛”の名を背負えようか。
ヤマメは重圧すら心を奮い立たせる力とし、鉈の拳に応えるように親指を突きたて、笑った。鉈はそれを見て「生意気な」と呟いたが、その顔には依然豪快な笑みが浮かんでいた。
会議室を出て、意気揚々と廊下を歩む。
「言われなくとも」
人が出払ってガランとした自警団の分所に、ヤマメの声が響き渡った。
12.
ヤマメは再び地上と地底を結ぶ橋へ向かった。橋の中心では、先日と変わらぬ様子で橋姫が佇んでいる。ヤマメの姿を認めると、珍しく向こうから声を掛けてきた。
「長引いているようね」
ヤマメは少し面食らったが、肩をすくめながら応じた。
「まあね。でも、もうすぐ終わる」
「それは勘?」
「決意表明さ」
ヤマメの強い意志を込めた眼差しを、橋姫の緑眼が受け止める。ヤマメは定位置となりつつあるパルスィの隣で、欄干にもたれかかった。そして前置きもせず、切り出す。
「姫さんは人の居場所とかはわかる?」
「それは無理」
即座に返答が返ってきた。
「流動的な情報は私向きではないわ。住所ならわかるけど、そういうことではないのでしょう?」
「まあね」
風子が消えた。
その報告が入ったのは、ヤマメが分所を出るというまさにその時だった。重要参考人として話を聞こうと、鬼たちがあの寂しい住居に出向いた時には、家の中はもぬけの殻だったという。ちょっと出かけたという風でもなく、家の中のものは全て処分され、生活の痕跡が消えていた。これをもって鬼の自警団は風子の扱いを重要参考人から事件の容疑者へと切り替え、目下全力を挙げて彼女の行方を捜索中である。
『動きやがったな』
ともに報告を聞いた鉈の呟きが、今もヤマメの耳に残響する。
事件は終わりに向けて急速に収束を始めた。鬼やヤマメの地道な捜査が実を結んだ結果と思いたいところだが、しかしヤマメは嫌な予感がしていた。その予感が見せる事件の完成図は、決してヤマメが望んでいるものではなかった。
一刻も早く、風子に追いつく必要がある。闇雲に探す時間は当然なく、ヤマメはなんでもいいから指針を求めて、パルスィのもとへとやってきたのであるが。
「ご愁傷様。無駄足だったわね」
特になぐさめるでもなく、淡々とパルスィは言う。しかしヤマメは首を横に振った。
「さすがにピタリと居場所を教えてくれるとは思ってないよ」
「そう、意外と賢明ね」
「私が本当に聞きたいのは、昔話。それも多分姫さん向きのね」
パルスィの緑眼がすぅ、と細められた。興味を惹いた証拠だ。パルスィは無言で続きを話せと促す。
「私は依頼人の涙を拭いたいと思った。でも、よくよく考えたら、私はその人のことを何も知らない」
あの日、ヤマメの事務所の扉を叩いた地獄鴉の少女。
彼女はヤマメと出会うまで、どんな風に、どんな思いを抱えて生きてきたのか。そしてこの事件で、何を考え、自らの立ち位置をどこに据えたのか。身勝手な想像を巡らすのはたやすいが、本当に彼女を救おうと願うのなら、今の認識のままでは足りない。
「地獄鴉と白狼天狗の許されない恋。この地底で、かつてそんな話があったはずだ。それを詳しく聞かせてほしい。そこに私の依頼人を助けるヒントがあるかもしれない」
これまでは深く入り込まぬようにしてきた、風子の過去。真実へと糸を通すために、今こそヤマメは知らなければならない。
「力を貸してくれ姫さん。風子さんを救うためには、貴方の力が必要なんだ」
ヤマメは不退転の意思とともにそう言ったが、それを受け止めたパルスィの様子がおかしい。
いつかのようにヤマメの言葉に気分を害したという風でもなく、なぜか彼女は虚を突かれたように、目を丸くしている。怪訝に思って「姫さん?」と声を掛けると、パルスィはハッとし、そして少し思案した様子を見せてから言った。
「……貴方の依頼人の名前は風子というの? 姓はもしかして津河?」
「え? ああ。そうだよ。よかった、やっぱり知ってるんだね」
「それで、貴方が聞きたい地獄鴉と白狼天狗の話というのは、その依頼人の過去。そういうことでいいのかしら……?」
「う、うん」
「その話について、どこまで知っているの?」
「どこまでって……。風子さんに聞いた話だと大結界が出来た頃に相手と出会って好き合ったけど、すぐにお互いの今後のことを考えて、話し合いの末別れたって」
「依頼人がそう言ったのね? 話し合った結果だと」
「そうだけど……姫さん、それがどうかしたの?」
矢継ぎ早に質問を重ねたパルスィは、ヤマメの戸惑いをよそに、そのまま黙りこくってしまった。
ヤマメの胸にくすぶっていた嫌な感覚が、ジリジリと大きくなっていく。風子を疑い始めたときに書き換えられた事件の完成予想図が、また大きく変貌する、そんな予感。
やがてパルスィはいつになく鋭い視線を向けた。見慣れないその真剣さは、ヤマメの予感に真実味を持たせる。そしてパルスィは口を開く。
「ええ、話しましょう。私の知っている、地獄鴉と白狼天狗の昔話を。もっとも、これは悲しくも美しい恋物語、などではないわ」
***
もうすぐ全てが終わる。
彼女は地底の片隅で、一人そんなことを思った。彼女の前には無造作に岩塊が転がっている。
それは墓標だった。墓碑銘は刻まれず、参る者も彼女以外にはいない。誰も寄りつかない廃獄のような場所に転がるその墓標は、そこに眠る者の辿った人生の虚しさを、そのまま表しているようだった。
死んだことさえ誰にも知られず、そして省みられない。そんな結末。
だからこの墓標は、彼女なりの精一杯の抵抗だった。彼の者が確かに存在し、消えていったことを証明するために、どうしても目に見える形が欲しかった。そしてこの墓標には最近、存在証明の他に重要な意味が出来た。いや、その意味合いが強くなったというべきか。
彼女がここを訪れる回数は、ここひと月ほどの間に随分と増えていった。虚しい抵抗の証を前にするたび、彼女の心でマグマのようにグラグラと沸き立つ感情を確認した。決してこの意思が冷え切ってしまわぬように、何度も何度も。
――復讐だ。
何に? という問いは、既に意味を失くしつつあった。計画を思いついたあの瞬間、自分の中でこれほどまでに強い復讐心がくすぶっていたことを、彼女は初めて知った。そしてそのときから、自分にはもう後がないということもわかっていた。
それでいい。
もとより誰かの罪を肩代わりして禊き続けるだけの、意味のない生だ。本懐を遂げられるのであれば、計画で出るであろう犠牲も、自分の命も、もうどうでもよかった。いよいよ自分が畜生にも劣る存在に堕ちたことを自覚しながら、彼女はゆっくりと立ち上がった。
「もうすぐ終わるよ、お母さん」
「終わらせないさ」
墓標に向けて呟いた独り言に、思いがけず応える声があった。
振り向いて目に入ったのは、彼女が利用した駒の一つ。
全てが影絵のように輪郭を失う地の底の暗がりにおいてなお、凛として屹立するその姿は強い存在感を漲らせていた。
「絶対に止めてみせるよ、この私が」
誰からも忘れられた彼女たちだけの場所に、“はぐれ蜘蛛”の糸が届く。
――ああ、この人がいたか。
彼女は我知らず、幻のように微かな微笑みを浮かべた。
13.
「ようやく追いついたよ、風子さん。いや」
ヤマメはそこで言葉を区切り、息を吸う。その先を言ってしまえば、否応なく事件は終わりに向かう。覚悟を決めて、ヤマメは続きを口にした。
「“雪絵(ゆきえ)”さん。それが貴方の本当の名前で、貴方はそこに眠る風子さんの娘だ」
“雪絵”と呼ばれた少女は、ヤマメの指摘にも表情一つ変えない。仮面のような表情のまま、少女は言った。
「その様子ですと、貴方は全てをご存じなのですね」
「さあ、それはどうかな。なにぶん、無い頭ひねって出した解答なもんでね」
ヤマメがあえて冗談めかして言うと、少女はほんの少しだけ笑ったように見えた。
二人の間をさあ、と柔らかい風が通り抜ける。
少女の、雪のように真っ白な長髪が、風に抱かれてゆっくりと揺れた。
「最初から引っ掛かってはいたんだ」
ヤマメはそう切り出した。
「博麗大結界形成の頃に、貴方の言うような大恋愛をしているとすれば、貴方はそれなりの年月と経験を重ねているはず。いくら私たち妖怪の見た目が当てにならないからと言って、やっぱり同じ妖怪が見ればそういうのはわかるんだよ。キスメさんくらいまでいくと上手いことその辺隠したりもするけど、それでも時々大先輩の貫録みたいなのを感じるしね。
でも、貴方からは失礼ながらそういう気配は感じられなかった。少なくとも私より年上とは思えない。私たちは精神に依る存在だ。壮絶な体験を経たのなら精神にも当然影響があるだろうし、精神の変化に引っ張られて纏う雰囲気も、相応のものになるはずなのにも関わらず、だ」
ヤマメは必死で考えを纏めていた。
探偵小説の主人公のようにはいかないまでも、きちんと筋道を立てることに努める。
「それに、貴方が語った過去の話には、曖昧な部分が多かった。陽さんと出会った年月、彼が地底に下りてきた目的、まあこの辺は些細なものだとしても、二人が知り合ったきっかけもはっきりとしないのには、ちょっと違和感を覚える」
もっとも、これらの違和感は風子改め雪絵に疑念を持って初めて、明確に形になったものなのだが。
思えば、キスメは風子の話を聞いた時から「嫌な感じがする」と言っていたか。彼女もまた、同じ違和感をよりはっきりと抱えていたのかもしれない。
「多分母上からの伝え聞きだったから、詳細な部分はぼかさざるを得なかったんじゃないかな。どうだろう」
ヤマメの問いに、雪絵は否定も肯定もしない。
ヤマメはいったん息をつき、気を取り直す。
「ここまではまあ、私の印象の話。本題はこれからだ」
ヤマメが地底中を駆けまわり、人脈を駆使して得た情報。
それらを組み立てて出来上がった絵を、雪絵に提示する。
「貴方が語った話には、嘘がある」
雪絵の顔がわずかに強張る。ヤマメの話に対して見せた初めての反応だ。
無理もない。これからする話は、彼女たち母娘の名誉に関わる部分だ。それでもヤマメは、恨まれるのも承知で続ける。
「貴方は風子さんと陽さんは円満に別れた旨のことを言ったけど、実際はそうじゃない。陽さんは、一方的に風子さんを捨てたんだ。彼女が自分の子どもを宿していることも知らずに」
どうしてそうなったのかは今となってはわからないが、嫌でも想像はつく。
雪絵はお互いの未来のためと語ったが、陽が慮ったのは果たして本当に二人の未来だったのかどうか。
「一人きりになった風子さんを待っていたのは、容赦のない地底の住人の蔑視だった。禁忌を犯した風子さんへの迫害は、当時はかなりのものだったみたいだね」
他人事のように言っているが、自分に彼らを責める資格があるだろうか。もし風子のことを知っていたとして、かつての彼らと同じ視線を注ぐことはないと言い切ることは、できなかった。
「そんな辛い現実の中で、風子さんは娘を授かる。それが貴方だ、雪絵さん」
雪絵の顔の強張りは消えていた。能面のような表情だった。
「風子さんは地底の外れで娘である貴方と暮らし始めたけど、しばらくして亡くなってしまう。貴方はそれをきっかけとして都の方に移り住み、そして今に至る。悪いとは思ったけど、貴方の家も家探しさせてもらったよ。そこでこの場所のことも知ったんだ」
以前彼女と都でバッタリ出会った場所。雪絵の本当の住居があったのは、その近くだった。
「私が招かれたあの家は、昔貴方が風子さんと暮らしていた場所なんだろう。長い間放置されてたのだとすれば、あの家の有様にも納得がいく。あそこに陽さんを匿っていたのかな。誰も近づかないあの場所は、隠れ家にはもってこいだ」
依然雪絵は何も口を挟んでこない。ヤマメはそのことに少しの緊張を覚えていた。気持ちを落ち着かせるために深呼吸をし、言った。
「そして事件の話だ」
いよいよ核心に迫る。ヤマメはあくまで、これまでと変わらない調子で続けた。
「貴方がどこで危険な薬の噂を聞きつけたのかは知らないけど、とにかく貴方は薬の売人と接触し、望みの品を手に入れた」
鉈の資料には、真っ白な髪の女が、地底では見慣れない商人風の人物と話していたという目撃証言が記載されていた。おそらく取引の現場だろう。
「そして貴方は大きな特徴である真っ白な髪と羽根の色を黒に染めて、風子さんそっくりに変装した。私は本物の風子さんを知らないから、どれくらい真に迫っているのかはわからないけど、陽さんを騙せたということは相当似ているんだろうね」
“最近大胆にイメチェンした都の娘の話”。
最初に訪ねた際、既にパルスィが戯れに語ろうとしていたことである。
「姿を変えて地上に赴き、陽さんとも接触を試みた。天狗の山はいやに排他的だから、警備の天狗に手紙か何かを託したのかな。多分、風子さんの名を使って。そして地底におびき出した陽さんに復讐をもちかけ、薬を渡した。貴方が自分で薬を使わなかったのは、副作用のことがあったから。そして何よりも、貴方の本当の復讐の対象は、母親を捨てた陽さんだったからだ」
そこまで言って、ヤマメは少し目を細める。
「都での破壊活動は、単に彼に薬を使わせるきっかけに過ぎない。鬼の警備の手薄なところを貴方が選んで案内し、現場付近に身を隠した陽さんはそれに従って暴れる。一見共犯のような形だけど、貴方の真意は何度も薬を使わせて陽さんを苦しめることにあった。覚えているかな。私たちが陽さんに襲われたとき、彼はこう言ってたね。“話が違う”と。貴方は薬の致命的な副作用を知らせていなかったんだ。あの時にはもう、薬を使い続けた陽さんの精神は手遅れの状態だったんだろう」
ヤマメがそれほど労せずして人狼を倒せたのも、彼が戦闘に不慣れだったというだけではなかったのだ。
「貴方が私をおびき寄せたのか、それともたまたま偶然が重なったのか。とにかく私とぶつかってボロボロの陽さんを、最後は貴方自身の手で葬った。この時に初めて薬を使ったんでしょ?」
ヤマメは真っ白な羽を取り出した。
証拠を見せられても、雪絵の顔色はまったく変わらない。
「陽さんを川に放り捨てて変化を解き、鬼の方々を呼んで現場に戻ってくるとなると、相当なスピードが必要になる。あの竜巻も貴方の仕業だね。まるで鴉天狗、それも大妖怪クラスの力だけど、薬を使えば、それも可能になってしまうってことか。……これで私の話は終わり」
そしてヤマメは右手の人差し指を突きつけ、敢然として言い切った。
「事件の黒幕は貴方だ、雪絵さん」
雪絵はゆったりと目を閉じる。
地底の暗がりに、風の音だけが溶けてゆく。この場所の空気、ヤマメには覚えがあった。以前雪絵、その頃には風子と名乗っていた少女に招かれた、あの寂れた家。彼女に縁のある場所には、寂しさしかない。
やがて、雪絵が静かに口を開いた。
「それが貴方の答えですか?」
相変わらずの無表情だったが、ヤマメを見据える瞳には、強い意思を宿していた。
ヤマメは腕を下ろして、首肯する。すると、雪絵はこの場には似つかわしくない、柔らかな笑みを浮かべた。喜びをたたえているようですらあった。
「では、貴方が終わらせてくれるのですね?」
それは、ヤマメの推理を肯定するも同然の問いであると同時に、事件が最後の局面に入った合図でもあった。
ヤマメは奥歯を噛みしめながら、鋭く目を細めた。
「終わらせるさ。でも、貴方の思い通りの結末にはさせない」
ヤマメの答えに、雪絵が表情を硬くした。
「貴方の計画は、最初から退路を用意していないみたいだ。陽さんを殺してしまったら、彼に一番近い貴方が疑われるのは少し考えればわかることなのに、上手く逃げおおせようという意思がまるで感じられない。多分貴方はこの後都を襲って、その末に鬼に倒されるつもりだったんだろう。地底を騒がせて、陽さんを始末して、そして最後には犯人として討たれる。自分の死さえ織り込み済みの計画。そんなの、無理心中と何も変わらない……!」
絞り出すようなヤマメの声に、雪絵は息を吐く。彼女の髪と同じ白い吐息が、地底の闇と一つになる。
「……そこまでご承知なのですね。正直に言って、貴方を甘く見ていました」
雪絵はまた笑った。その何もかも諦めきったような笑みを見て、ヤマメの表情は対照的に険しくなる。
「もうやめよう、雪絵さん」
地の底よりも遥かに深く暗い闇の中へ自分から突き進む少女に、どうにかして手を差し出す。そんな思いで、ヤマメは必死に呼びかける。
「鬼の自警団にも連絡はしてあるし、じきにここへ到着するはずだ。大人しく出頭すればあの人たちだって、手荒な真似は絶対にしない」
本当は彼らが合流してから事を進めたかったが、時間がそれを許さない。もう少しでも遅れていたら、きっとヤマメは彼女と話をすることも出来なかっただろう。
ヤマメはもはや祈るような思いで、声を投げかけ続ける。
「貴方はこの地底を泣かせている。そして貴方自身をもだ。これ以上罪を重ねたって、意味なんかないよ」
そこまで言って、ヤマメは雪絵の反応を待った。
雪絵はゆるゆると首を振った。笑顔には変わりないが、ヤマメにはそれが今にも泣き出しそうな表情に見えた。
「ヤマメさん、貴方のお話にはいくつか間違いがあります」
先ほど雪絵が自分の犯行を認めるような発言をしたばかりだったので、ヤマメは虚をつかれた。
ヤマメの戸惑いとは裏腹に、雪絵は淡々と話す。
「母が死んで都に移り住んでからも、私に向けられる視線は冷たいままでした。時代も変わって、昔のように露骨な敵意を向けられることはありませんが、そんなの、何の慰めにもなりません」
キュッと、雪絵の顔が引き締まる。口調こそ穏やかだが、それは心中に渦巻く感情を必死で抑制している証にすぎなかった。
ヤマメは初めて、彼女の本当の胸の内を垣間見ているような気がしていた。
「私が何をしたのか。ただ普通に生きたいだけなのに、周りの人たちはそれすらも咎めるように無言で私を追い詰める」
雪絵は自らの真っ白な長髪の束を、恨みをこめるようにギュッと握りしめる。
「この容姿がいけなかったのでしょうか? そう考えて、髪も羽根の色も変えました。せめて同族にくらいは馴染めるよう、真っ黒に。――母のように」
それが、ヤマメの見慣れた雪絵の容姿だった。それは、運命に対する彼女の精一杯の抵抗に他ならなかったのだ。
雪絵は自嘲するように笑って、続ける。
「容姿さえ馴染めれば、私に対する目も少しは変わる。本気でそう信じていました。私は必死で、そして愚かでした」
雪絵は唇を噛んで俯く。
「もちろん何も変わりません。そしてある時、同族の老婆に、こんなことを言われました」
――鬼子がワシらの真似事かい。
「……そんな」
「信じられませんか? でも事実です。嫌われ者たちが集ったこの地底にさえ、私の居場所なんてどこにもなかった」
「違う! それは違うよ雪絵さん!」
「否定してくださるのですか? ふふ、ヤマメさんは優しい方なんですね」
そう言って柔らかく微笑む。この場面で浮かんだ非の打ちようのない笑顔は、逆に一切の同情を拒絶しているようで、ヤマメは言葉を失う。
「ですがそんな私にも、希望はありました。まだ顔も知らなかった父のことです」
微笑みながら、目を閉じる。
「都で迫害されている頃も、あの場所で病床に伏せってしまってからも、母は死ぬまで父のことを悪く言ったことはありませんでした。あの人は優しい人だった。あの人にも立場があったから仕方なかった。全ての罪を自分で被ろうとするみたいに、母はずっと父のことを擁護し続けました。私も信じようとしました。父が母を捨てたという周りの声にも、必死で耳をふさぎました」
彼女は信じようとした、と言った。内心ではもう理解していたのだろう。だが、彼女が辛い現実の中に見出した優しい希望は、もうそれしか残されていなかった。母の語る父の記憶にすがるしかなかったのだ。
「容姿を変えても都の人たちに受け入れられず、ショックを受けていた私は、ふと父に会いたいと強く思うようになりました。その衝動のまま、上の妖怪の山に赴いて、警備の方に、父に会いたいと申し出たのです。名前を出すと会ってくれないかもしれないから、素性は伏せました。――今思えば、これがいけなかったのでしょう。私と会った父は、最初は誰だかわからないみたいに、髪を黒く染めた私をジロジロと見て、やがて目を見開いて、私を呼んだんです」
――風子!
雪絵は全身を震わせ、俯いていた。隠し切れない怒りが、その身から滲み出ている。
しかしヤマメには、雪絵がここまで憤る理由がわからなかった。
「そりゃあ母上と間違われたのは不愉快かもしれないけど……。でも貴方は風子さんの娘なわけだし、その上彼女と同じように髪を黒く染めていたんだ。時間も経っているし間違えてもしょうがないんじゃ」
「違うんです」
雪絵はヤマメの疑問を切り捨てた。思いがけない強い口調に、ヤマメの肩が跳ねる。
そして雪絵は、吐き捨てるようにして言った。
「私たち母娘は、似てなどいないんです」
もう感情を隠すこともやめたように、雪絵の声は、明らかに震えていた。
「貴方は私の容姿が母と相当似ていたのだろうとおっしゃいましたが、そうではありません。血が繋がっている訳ですから、少しは面影はあるかもしれません。でも、仮に二人が並べば、髪の色の違いを除いてもほとんど別人と言っていいほどでした」
雪絵の告白が意味するところ。それは、つまり。
衝撃を受けたヤマメの思考が理解に追いつく前に、雪絵は言った。
「私の父は、母の顔などもう覚えていなかったのです。“母は手癖の悪い好き者の天狗に遊ばれた”。都の評判の通りでした。自分のことを知っている地獄鴉の女なんて限られていますから、とっさに思い出して判断したのでしょう。色々と優しい言葉や贖罪を並べ立てましたが、それが単なる上辺の態度だということは、初めて会う私でもわかりました」
雪絵は強く拳を握りしめる。掌からは血がのぞいていた。
「こんな上っ面だけの男に騙された母も愚かだったのでしょう。でも、母は……母は、最期まであの白狼天狗を愛していました。本当に愚かでしかないけれど、その思いだけは本物だったんです。それなのに。――それなのに!」
悔しさを滲ませた雪絵の小さな叫びが、地底の暗がりの静寂を切り裂いた。泣いているのかと思ったが、涙は落ちなかった。
雪絵は大きく息を吐いて顔を上げる。それで少なくとも表面上は落ち着いて見えた。
「……後は、概ねヤマメさんの言う通りです。薬のことを知って今回の計画を思い立った私は、変装して薬を手に入れました。……元の姿に戻るのに変装というのもおかしな話ですね。そして風子として父と接触を続け、復讐の名目で地底の襲撃を持ちかけました。父は悪びれもせず復讐に同意しましたが、実際のところ、薬の力に目が眩んだんでしょう。母とのこともあって立場が悪い自分の境遇に、相当鬱憤が溜まっていたようでしたから。私の計画にだって、それはもう嬉々として乗ってくれました。……本当に自己中心的で、虚栄心の塊のような男だったんです」
そして雪絵は笑う。
おかしくてたまらないという風に、クスクスと。
「これでわかったでしょう? 結局のところ、私のつまらない事情なんです。都が襲われるのも、父をこの手で殺すのも、そんな恐ろしいことをやった私が死ぬのも、全て私の望んだこと」
「全部望んだこと、だって……?」
その笑みには、これまで見たことの無かった、嘲りの色が含まれていた。
この世の全て、そして自分すらも無価値だという風に嗤う雪絵を見て、ヤマメの胸に、静かな怒りが湧き上がる。
「本気でそんなことを言っているのか、雪絵さん」
「もちろんです。だからヤマメさんのお話も、間違いなんです」
ピタリと笑いを止め、雪絵はこの寂しさに満ちた場所のように空虚な瞳で、ヤマメを見据える。
そして空恐ろしいほど乾いた声で、告げた。
「私に、泣く理由なんてありませんもの」
雪絵はいつの間にか、丸いビー玉のようなものを手にしていた。
14.
「ッ!? やめろ雪絵さん!」
ヤマメは目を見開いた。
気づいた瞬間、弾かれたように走り、全力で止めにかかる。だが、雪絵が丸薬を口にして噛み砕く方が早かった。苦悶の唸り声をあげる雪絵に、無数の怨霊が集まってくる。陽のときと、まったく同じ光景だった。
「雪絵さーーーーーん!」
いくら叫んでも、声は届かない。こうしている間にも、怨霊はどんどん雪絵の体に入り込んでいく。ヤマメはギリリと奥歯を噛みしめながら、両手を広げ目を閉じる。こうなってしまっては、とれる選択肢はただ一つだけ。
怨霊を取り込み続ける雪絵と、己の魔性を解放せんとするヤマメ。
二人の体からほどばしる妖気は逆回転の風となって、荒れ狂うような乱気流を生み出す。寂しさが支配していた地底の暗がりは、今や轟音で満ちていた。
ヤマメが括目して、紫色の妖気を纏う。弾けたリボンは、嵐にのって瞬く間に砂塵と同化していった。
「……くぅ!」
地面から引きはがされそうな強風の中、ヤマメが紫色に妖しく輝く瞳で見たもの。
体格はシャープながらも背は二回りほど高くなり、雪のように白く染まった巨大な翼を背負っている。
頭部は羽毛からくちばしまで真っ白な鴉の形に変貌し、鷹のように鋭い目だけが、その黒色を主張していた。
どこか美しささえ備える、純白の鳥人。それが、今の雪絵の姿だった。
「貴方が終わらせてくれないのなら、私がこの手で幕を下ろしましょう」
不自然な処理がかかったように響く声でそう言って、雪絵は大きく翼をはためかせる。風が渦を巻き、砂煙が容赦なくヤマメに襲い掛かる。たまらず目を覆うと、雪絵は今にも地の底の天へと飛び立とうとしていた。
「くっ! 待て……!」
遮二無二糸を繰り出す。強靭に束ねられた糸のロープは、風にも負けることなく突き進み、雪絵の左足に絡みつく。だが雪絵はそれにも構わず地面を蹴り、地底の空に向かって飛んだ。
「う、わあああぁぁぁぁぁあああああぁぁあぁッ!」
雪絵の翼は地の底の重い空気を裂いて、即座に最高速へと到達する。
「邪魔です!」
雪絵は凄まじい飛行速度に加え、縦横無尽の軌道でヤマメを振り落とそうとする。
「うう……ま、負けるかァッ!」
絡みついたロープはそれに引かれて大きくしなり、たわむ。当然ヤマメも既に天地の感覚が危うくなるほどに振り回されているが、それでも、決して雪絵を離すことはない。
雪絵がロープを断ち切ろうと、自らの羽をナイフのように振るう。しかし鋼鉄を遥かに上回る強度にしなやかさも併せ持つ蜘蛛の糸は、そう簡単に切れるものではない。おまけにヤマメの妖力も纏う、太く束ねられた糸のロープは、例え鬼の胆力でも引きちぎるのは至難の業である。
「……! 本当に、只者ではなかったのですね」
驚嘆の声をあげた雪絵は、攻め手を変える。風を切り続ける翼の一方をヤマメに向かって振るい、真っ白な羽を撃ちだしてきた。
風に乗った無数の羽は、弾丸のようなスピードでヤマメを叩き落とそうと襲い掛かる。ヤマメは薄目を開き、不自由な体勢ながらも最小限の動きでかわそうと身をよじり、ロープを繰った。
「ッ痛!」
ほとんどは、体をかすめながら地の底の空へと消えていく。しかし一本の羽が、ヤマメの右太ももに突き立った。決して大きなダメージではない。しかし今でこそ奇跡的に一撃食らうだけで済んだが、相手に制空権を支配されたこの状況。攻撃を繰り返されたら、針山になるのは時間の問題だ。
歯を食いしばりながら、一気に羽を引き抜く。鋭い痛みが一瞬走り、血が足を伝うが、構わない。それよりも重大なトラブルが目前に迫っていた。
「マズイな……」
眉を寄せる。振り回されているうちに、旧都の上空に出てしまった。旧都の住人が一斉に空を見上げ、二人を指さしながら口々に何事かを叫んでいる。
そんな地上の様相などまるで無視するかのように、雪絵は攻撃の第二陣を展開する。目を疑うような暴挙だった。ヤマメは顔から血の気が引くのを自覚しながら、叫んだ。
「駄目だ雪絵さん! 関係のない人たちまで巻き込む気か!」
「言ったでしょう……全て私の望んだことだと!」
ヤマメの声は届かない。彼女もまた、既に薬の力に飲みこまれていた。もう対象が何だったのかは問題ではなく、ただ復讐という暗い感情の赴くままに、雪絵は躊躇なく羽を撃ちだそうとする。
「くそ!」
とっさにヤマメは、ロープのしなりを利用して雪絵よりも高い位置に跳んだ。ヤマメを付け狙うように、羽は一斉に地底の天井の方へ奔った。完璧な回避を諦め、致命傷を避けるべく、防御の姿勢を取る。だが誘導の動きの分、一手遅れたヤマメの右肩に羽が突き刺さり、左わき腹の肉がわずかに削られた。ヤマメの体が再び雪絵の下へと落ちていく。
顔をしかめて腹を押えたヤマメの視界の隅で、雪絵はもう次の攻撃に移っていた。絶体絶命の危機だったが、ヤマメが眼下を見ると、いつのまにかまた都から外れ、ごつごつした岩場が辺りを取り囲んでいる。地上との距離も近い。
――ここしかない!
ヤマメは攻撃用に残しておいた左手から妖力弾を撃ち、飛んでくる羽を迎え撃つ。多少体をかすめても気にしない。
「!? 何を……」
ヤマメの表情からただならぬものを感じたのか、雪絵が警戒を深める。が、次の瞬間、ヤマメは雪絵の思いもよらぬ行動に出た。
「おおおおりゃあああああ!」
雪絵の高速飛行に振り回されながらも、ヤマメは空いた左手から右手と同じようにロープを繰りだした。だがそれは雪絵に向かうことなく、あらぬ方向へと伸びていく。
手元が狂ったか。
雪絵は、しかしすぐにその考えが間違いだと悟る。糸が伸びる先には、厳としてそびえ立つ岩の壁。糸が岩壁にビタリと張り付くと、ヤマメを中心として左手に岩壁、右手に雪絵が位置する形になる。
「……ッ! う、ぎ、ギギッ……」
大岡裁きの子争いのごとく、限界まで広げられた両腕に、引きちぎれそうな凄まじい負荷がかかる。あまりの痛みに叫び出しそうになるが、それでもヤマメは奥歯を砕かんばかりに噛みしめ、これに耐えた。
なんて無茶を……!
雪絵がそう思った瞬間、彼女の体が糸に引っ張られてガクンと傾いた。
「あぅっ!?」
高速で飛んでいた分、動きを止められた際にかかる力もまた、大きなものになる。
ヤマメはついに出来た大きな隙を逃さず、左手のロープを振り上げる。雪絵が目をみはるが、体勢は変えられない。
「こ、んのッ!」
裂帛の気合を込め、雪絵の右翼に向かって一気に振り下ろす。空気を弾くように高速でしなるロープは鋭い鞭となり、巨大な白い翼を切り裂く。何枚もの羽が、粉雪のように舞い上がった。信じられないという風に、雪絵はボロボロに裂かれた翼を見やっていた。
二人はほとんど墜落するように、地上に下りる。そしてすぐさま同時に立ち上がり、お互いと向き合う。先ほどまでの激しい攻防が幻と思えるほどに、辺りは静寂に満ちていた。凛と冷える空気が震えて、空から落ちてきた羽をそっと巻き上げる。
「もういいでしょ、雪絵さん」
舞う羽を払いながら、ヤマメは言った。
「その傷ついた翼じゃあ、さっきまでみたいな曲芸飛行は出来ない。ここらが潮時ってやつさ。それに、精神の方ももう限界に近いはずだ」
今の雪絵からは、表情の変化というものが読み取れない。しかし、その身に纏う悲しいまでの執念は、まるで衰えることを知らない。
雪絵は、一瞬彼女のものと判別がつかないくらいに低い声で応える。
「五体満足といかないのは、貴方も同じでしょう」
ヤマメは無言のまま片目を閉じて、右肩に刺さった羽を引き抜く。
雪絵の言うとおりだった。攻撃によるダメージはもちろん、妖力の方もロープの強度維持、そして翼を裂いた起死回生の一撃によってかなりの量が消費されていた。振り落とされて撃墜されなかっただけマシという状態だ。
「そうかもね。でも、貴方を止めるまで、倒れるわけにもいかない」
紫色の瞳は、揺らがない。
ヤマメの意思もまた、決して切れることなく傷だらけの体を支えていた。
半歩、右足を踏み出す。それを見た雪絵も、いつでも動けるように身構えた。
「……どうして、そこまで」
ふと、雪絵が漏らした。今の異形には似つかわしくない、小さな呟きだった。
「どうしてそこまで、私に構うんです。私は貴方を騙したのですよ? あんな、嘘の涙まで流して。今だってそうです。私はヤマメさんを殺そうとしているのに。私には、助けるだけの価値なんてないのに」
不自然に響く低い声には、明らかに戸惑いが混じっていた。善意を向けられることに慣れていないかのような、雪絵の疑問。少しだけ胸が痛んだが、同時に希望も湧いてくる。
雪絵はまだ、完全には精神を復讐心に委ねていない。遅きに失したけれど、まだ手は届く。
「たとえ嘘っぱちの涙だったとしても」
ヤマメはふっと、微かに微笑んだ。雪絵は戸惑いを深めるが、ヤマメは笑みのまま片目をつむる。
そして言った。彼女の背負う名が抱き続ける、不変の願いを。
「この地底では、誰にも泣いていて欲しくないのさ」
雪絵と同じだ。
相手が望まぬおせっかいを焼くのも、結局のところヤマメの事情に過ぎない。だから何と言われようが、ヤマメは自分の願いのままに動く。彼女の意思は、決して誰にも切ることは敵わない。
ヤマメの答えに、一瞬だけ雪絵の戦意が揺らぐ。そしてどこかもの悲しい声で言った。
「……もっと早く、貴方のような人に会えていたら……」
雪絵の呟きは風にかき消されて、ほとんどヤマメの耳に届くことはなかった。だが、ヤマメは確かに見た。
ほんの一滴。
小さな小さな雫だったが、それは紛れもなく、異形の姿になった彼女が流した、本物の涙。
ヤマメの戦う理由が、形となって証明された瞬間だった。
雪絵は自分の涙に気づいていないのか、今一度体に力をこめ、周囲を見渡す。
「……結局、終わりもこの場所なのね」
二人が空中戦の末にたどり着いたのは、崖に囲まれ、朽ち果てた家が孤独に佇む地。奇しくもヤマメと陽が火花を散らし、そして雪絵が母と身を寄せ合って暮らした、あの寂しい地底の果てなのだった。母娘の思い出がひっそりと眠るこの場所に、雪絵は自らの生すら埋めようとしていた。
ヤマメは喝を入れるように、大きく息を吐く。
決着は望むところ。しかしいくら舞台を整えられたところで、雪絵の願う結末は認めない。ヤマメは雪絵の独白を聞きとがめ、鋭く目を細める。
「終わらせないさ。貴方がどれだけ望もうと」
空気が、静寂を破られるのを恐れるように震えた。
半歩、さらに左足を踏み出す。そして祈るように目を閉じながら、ヤマメは切り出した。
「一つ、貴方の依頼を果たせなかったこと」
ヤマメは、怯える空気に溶けるような静かな声で、言葉を紡いでいく。
「二つ、貴方の真意を見抜けなかったこと」
雪絵はヤマメの静かな迫力に圧されるように、身構えたままじっと動かない。
「そして三つ、その結果、貴方を泣かせてしまったこと」
ヤマメはそこで言葉を切り、ゆっくりとまぶたを開く。
耐えきれなくなったように、ヒュウと、風が鳴いた。
「私は自分の罪を数えたよ」
雪絵はヤマメのセリフに反応するように、大きく片翼を振るう。
震えていた空気は一気に弾け、狂ったように泣き叫ぶ嵐が、雪絵母娘の思い出の場所を戦場へと変えていく。
しかしヤマメは決して怯まない。紫色に輝く瞳で雪絵を見据えながら、左手の人差し指を突きつける。
謂れのない業と差別という、地の底の形なき病巣に蝕まれ続けた雪絵。
そんな彼女に、自分の所業を省みて、もう一度やり直してもらうために。
ヤマメはあえて投げかける。地の底の病巣を憎む、“はぐれ蜘蛛”一流の言葉を。
「さあ、お前の罪を数えろ!」
それを皮切りとして、嵐の中へ飛び込む。襲い来るがれきや羽弾をかわし、撃ち落とし、糸の鞭で弾き飛ばす。
「罪……ですって?」
傷ついた翼ではばたきながら、雪絵は憎悪のこもった声で言う。
「罪というならば。禁忌の果てに生まれてしまった私の存在そのものが、既に罪です!」
みるみるうちに傷が増えていく体を引っ張りながら、ヤマメが歯を剥く。
「それは数え間違いだ! やり直せ!」
自らの運命を呪うような雪絵の慟哭と、地の底の病巣に怒れるヤマメの叫びがぶつかり合う。
轟々と荒れ狂う嵐の中においてさえ、それらは微塵もかき消えることなく、彼女たちの意思とともに強く響いた。
***
左は一瞬、その光景に目を奪われた。
地底の空で絡み合う二つの影を追い、鬼たちは陽殺害の現場となった地底の果てに到着していた。しかし“はぐれ蜘蛛”と鳥人の戦闘は、地底の強者である彼らでさえ息を呑むほど、激しいものとなっていた。
どのタイミングであの嵐に割って入るか。その判断は左に委ねられ、鬼たちは戦場から引いた場所で指示を待つ状態だった。だが肝心の左は呆けたように戦場に目を向けるのみ。訝しげに思った手下の鬼に声を掛けられ、彼はようやく我に返った。
「どうかしたんですかい、お頭」
「いや……すまない」
左自身、驚いていた。気を抜いていたわけではなかった。秩序の鬼たる彼が、戦場においてそのような愚挙を犯すはずはない。彼はただ、戦場に魅入っていた。より正確にいうと、鳥人に向けて左手を差し出す、土蜘蛛の少女に。戦闘の凄まじさが些事と思われるくらい、その光景は彼の目に焼き付いて離れなかった。
土蜘蛛の少女のシルエットが、彼の知るキザな女のものとピタリと重なった。地の底の病巣に一流のセリフを突きつけるその姿。まさしくそれは、誰にも切れぬ意思とともに地底の涙を拭い続けた、先代“はぐれ蜘蛛”の生き写しだった。
――地底のどこで、どんな理由で涙が流れようと、誰にも切れない意思でそれを拭い去る。
――黒谷ヤマメが、そんな強く優しい、地の底の“切り札”になることを。
主が穏やかな笑顔とともに寄せた、土蜘蛛の少女への期待。今なら理解できる気がする。いや、おそらくはあの日。今にも泣き出しそうな彼女の覚悟を目の当たりにした時から、左の胸の奥深くで同じ思いが生まれていたのだ。
知らず、左は握り拳を作っていた。固唾を呑むような思いをするのは、本当に久しいことだった。そして左は悟る。この事件における、自らの立ち位置というものを。
彼は手下の鬼に呼びかけた。
「鉈」
土蜘蛛の少女と親しいはずの若き鬼は、頭の真剣な表情を見て、神妙に返事をした。周りの鬼たちも、左の言葉を粛々として待つ。
「お前、黒谷がボロボロにやられる姿を見てもこらえられるか」
鉈が目を見開き、聞き返した。
「そりゃあ……どういう意味で」
「言葉通りだ。奴が殺される寸前まで、手を出さずにいられるかと聞いているんだ」
途端、頭に食って掛かるように、鉈は叫んだ。
「そんなお頭! あいつを見捨てるってんですかい!? いくらお頭の言うことでもそれは……!」
立場を忘れて激昂する若き鬼を見て、中々筋の通った奴だと、左は内心笑みを零した。しかし表の顔はより厳しさを増す。
「無論本気で駄目だと判断した時には俺たちが介入する。だがギリギリの瞬間まで、俺は奴の好きにさせたいと思っている。異論のある奴は遠慮なく申し出ろ。これは俺の勝手なエゴだ」
常に地底の秩序を優先してきた頭の我欲に、手下たちは戸惑いながらお互いの顔を見合わせる。誰にも口を挟めないまま、しばし据わりの悪い沈黙が流れる。
――やはりダメか。
小さくため息をつき、左が意を翻して突入の指示を出そうとした瞬間、
「お、俺は!」
鉈が割って入るように叫んだ。その場にいる全員の視線が、彼に集中する。
「俺は、あいつにケリをつけさせてやりてぇ。いっつもへらへらして変な小娘だが、地底の涙を拭いてえっていうあいつの心意気は、本物だ」
鉈は、頭の目を見据えながら、仲間たちに告げるように声を張り上げた。
「この事件を終わらせんのは、あいつをおいて他にあるめえ!」
顔を真っ赤にして目を剥いた鉈の表情は、左にも負けない迫力を伴っていた。左は無言で鉈の顔を見返す。また沈黙が流れたが、やがて、手下の中から、鉈の言葉に同意する声が次々にあがり始める。
鬼たちはみな、“地底の住人は助け合い”を主義として、鬼たちの、そして地底の住人の信用を勝ち得ようと邁進した、二代目“はぐれ蜘蛛”を知っている。そして今も彼らの眼下で、土蜘蛛の少女は全身を傷だらけにしながらも、揺るがぬ心意気を瞳に宿らせて戦い続けている。その姿を見て、心を動かされない者はいなかった。
左は気勢を上げる手下たちの姿に、一瞬だけ誰も気づかないほどの小さな笑みを浮かべ、すぐに元通り厳めしい顔つきになる。
「異論はないな」
左が言うと、騒いでいた鬼たちの声がピタリと止まり、空気が鋼のように張り詰める。
全員の顔を見渡すと、左は大きく頷き、言った。
「この一帯を囲むぞ。仮に下手人が逃げようとしても絶対に網から出られんようにな」
手下の鬼たちが、一斉に頷く。
そして左は目を見開き、大地が震えんばかりの声をあげる。
「野郎ども! ――地底の番人の意地、見せやがれ!」
吼えるような鬼たちの怒号が、負けじと天を震わせた。
***
お互いが、満身創痍の体だった。
ヤマメの体には何本もの羽が突き立っているが、それを抜く余裕すら、もうなかった。
一方の雪絵も、羽の弾幕の間を縫った正確な反撃を受け続け、片翼のはばたきに力が無くなりつつあった。
「墜ちなさい!」
叫びとともに雪絵が羽を撃ちだす。何本もの羽が集められ、さながら巨大な一つの砲弾と化した塊が、空中に漂うヤマメを狙う。
「ふっ!」
空中でうつ伏せになったような姿勢から、ヤマメは岩肌に糸を飛ばしてくっつけ、伸縮を利用して高速で回避する。そしてヤマメは止まらない。糸を張り付けた壁を蹴り、再び反対側の崖へと糸を伸ばし、移動。同じことをそこらにある障害物を利用して、何度も繰り返した。
「!?」
思いもよらぬスピードで縦横無尽にヤマメが飛び跳ねるのを目の当たりにし、雪絵は驚愕する。翼を折られた今の雪絵ではその動きに追いつくことが出来ず、目で追うのがやっとだった。そしてじきに、ヤマメは雪絵の視界からも消える。
「……ならば!」
雪絵は狙いを定めず、全方位に羽をばら撒いた。嵐が蜘蛛の糸をギシギシと揺らすが、ヤマメを撃ち落としたという手応えはない。雪絵が首を巡らせていると、左後方で微かに風を裂く音がした。とっさに反応して振り向くと、糸を出しながらヤマメが飛び込んでくるところだった。
空中で一回転しながら、ヤマメは雪絵の頭上からかかとを浴びせにかかる。雪絵は交差した腕を掲げ、攻撃を受け止めた。ビリビリと腕をはしる衝撃とともに、雪絵の体は地面にたたき落とされた。
「ぐぅ……!」
ヤマメが着地すると同時に、雪絵が唸り声とともに立ち上がった。今の攻撃は、不意はついたものの防御されて、決定打とはならないようだ。しかし。
「今度こそ貴方の負けだ、雪絵さん」
ヤマメは勝ち誇るでもなく、全身に刺さった羽を抜きながら静かにそう告げた。
「何を……。私はまだ戦えます」
自分の言葉を証明するように、翼をはためかせる。足元もまだしっかりしているようだ。だがヤマメは首を振って、上を指さす。訝しげに思いながら雪絵は天を仰ぎ、そして目を見開いた。
崖と崖の間には、何本もの太い蜘蛛の糸が張り巡らされ、地の底の空を覆っている。糸は地面に横たわる大きながれきの群れにも伸び、天と地を繋いでいるようだった。
ただ闇雲に跳ねている訳ではなかった。雪絵はようやく理解するが、もう遅い。
「ここは既に蜘蛛の巣だ。貴方の飛べる空は、もうない」
この空間で空を飛ぼうとしても高度が知れ、また天地を結ぶ糸の存在もあり、行動は著しく制限される。羽弾も糸の密林となったこの場所では、有効な攻撃として機能しない。よく見るとそこらの糸に羽がくっついていて、先ほどの全方位攻撃が当たらなかった理由を如実に物語っていた。
雪絵の力は三次元空間を目いっぱい使うことを前提としている。今や彼女の力の大部分は、蜘蛛の糸に絡め取られたも同然だった。
ヤマメは紫色の瞳を、狼狽する雪絵に向けて言った。
「お願いだ雪絵さん。もう、自分を痛めつけるようなことはやめてくれ」
圧倒的な優位に立ったというのに、ヤマメのセリフはほとんど懇願だった。顔が悲痛に歪んでいるのは、決して戦闘によるダメージのためだけではない。
祈るような思いで、雪絵の反応を待つ。体を震わせていた雪絵は、やがて一つ息を吐いた。構えが解かれ、全身から強張りが消えた。
雪絵は俯きながら、静かに言った。
「……ありがとうございます、ヤマメさん」
彼女の口から出てきたのは、思いもよらぬセリフ。
「あるいは母を除けば貴方が初めてかもしれません。私なんかに、こんなにもよくしてくれたのは」
礼の言葉が続く。
自分の声がようやく届いたかと、ヤマメが期待の眼差しを向けると、しかし雪絵はゆっくりと首を振った。
「でも、もう遅いんです」
顔を上げた雪絵を見て、ヤマメは目を見開く。
「私の手はもう、いっぱいの罪でグチャグチャに汚れちゃってますから」
どこか幼さの残る口調でそう言った雪絵は、鷹のように鋭い目から大きな涙の粒を流していた。
ヤマメが雪絵の名を呼んで駆け寄ろうとすると、その瞬間、この期に及んで信じがたい光景が展開された。
「……な」
どこからともなく無数の怨霊が湧いてくる。そして張り巡らされた蜘蛛の巣を通り抜けて、異形と化した雪絵の体に次々と入り込んでいった。まるでもう一粒薬を飲んだみたいだが、そんな素振りは見せていない。
言葉にならない叫びをあげる雪絵を見て、ヤマメの混乱は頂点に達する。
「何だよ、これ」
こんな現象、鉈にもらった情報にはなかった。だが、ヤマメは思い当たる。ボロボロに精神を傷つけられた、“怨霊憑き”の末路。強化された精神も、最後には怨霊に飲み込まれて消える。妖怪の力を、暴走するほどに限界まで引き出されながら。それはまるで、ろうそくの炎が消えゆく寸前に放つ、最期の輝きだ。
突然、雪絵を中心として空気が破裂する。膨大な圧力に、ヤマメは為す術もなく吹き飛ばされてしまった。慌てて立ち上がろうとするが、足がよろめいてそれもままならない。戦闘のダメージは、確実に蓄積されていた。
「……冗談でしょ」
周囲を見ると、先ほどまで場に起こっていた風とは、比べ物にならないほどの大旋風が吹き荒れていた。ヤマメの張った蜘蛛の巣は大きくしなりながら、メリメリと音を立てて破れていく。がれきは天高く舞い上がり、そしてあの朽ち果てた家――雪絵の思い出が詰まった場所も、すぐに他のがれきと区別がつかなくなっていった。嵐を生み続ける雪絵を中心としたわずかな空間だけが、台風の目だった。
「雪絵さん! ――雪絵さんッ!」
声を枯らさんばかりに名を呼び続けると、雪絵が鴉の顔をヤマメに向ける。すると雪のように真っ白な髪を持つ少女の姿が、幻影のように現れた。少女の幻影は壊れかけの笑顔を浮かべながら、何かをヤマメに訴えていた。声は聞こえないが、口元を見ると、“ごめんなさい”と動かしているように見える。涙は幻影からも異形の鳥人からも、とめどなく溢れ続けていた。
「――ッ! ……くぅ!」
何がごめんなさいだ。それは諦めの言葉か?
ヤマメは昂ぶり続ける怒りを力に変えて、自由にならない体を無理やり動かす。そして涙を流し続ける幻影に向かって、ヤマメは吼えた。
「そうじゃ、ないだろう」
震える手で、懐から符を取り出す。
「貴方がすべきは、死んで謝るとか、命で償うとか、そういうんじゃ、ないだろう……!」
ダンと大地を踏みしめて、真っ直ぐに立つ。無風の空間で、ヤマメの周りの空気だけが渦を巻いて、くすんだ金髪をなびかせた。
「貴方の都合なんて知ったことか」
ヤマメは天高く、手に持った符を頭上に投げた。符は嵐に巻き込まれようと飛ばされることなく、まるで意思を持ったようにヤマメの頭上で激しく回転する。そして符から溢れ出た紫色の粒子は、光の柱となってヤマメに降り注ぐ。そうして符の力を最大限に解放したヤマメの背に、妖力で象られた巨大な八本足が形成された。
「地獄に堕ちようっていうんなら、蜘蛛の糸でふん縛ってでも引きずり出してやるさ!」
飛び上がりながら糸を飛ばし、雪絵の首に巻きつける。雪絵は一切抵抗しない。ただただ力の暴走にまかせるだけである。力を出し尽くして怨霊に食われる前に、怨霊ごと彼女を打ち倒す。雪絵を救う道は、今やそれだけだ。
無風の空間の限界まで糸のロープが伸び切り、頂点に達した。その瞬間、右足を雪絵に向けて突き出し、態勢を整える。
「ああああああああああああああッ!!」
叫びとともに、妖力が右足に集中していく。背負った八本足に加え、今、幻の九本目が紫色に眩しく輝いた。
ロープが収縮を始め、ヤマメの体はその反動で加速。地の底の空を駆ける流星となって、九本の蜘蛛の足が空気を切り裂いていく。
鳥人の巨体が迫る。少女の幻影は、猛スピードで向かってくるヤマメを、瞬きもせずに見つめていた。
そして少女の幻影と重なろうとするその刹那、ヤマメは確かに見た。
幻影が、涙を流しながら柔らかく微笑むのを。そして声にならない言葉を、その口は伝えていた。
――ありがとう。
「これで決まりだ!!」
OVERDRIVE「スパイダーエクストリーム」
それが切り札の名。今のヤマメが持ち得る力の極限。
全身全霊の飛び蹴りが、幻影を越えて鳥人の顔面に突き刺さると同時、全妖力を込めた八本足のレーザーが全身に炸裂した。
鳥人は吹き飛び、無数の羽が飛び散って、嵐の中に吸い込まれていく。それが決着の合図だった。
「――っは、は……」
乱暴に着地した瞬間、ヤマメの纏っていた妖気が四散し、瞳の色も輝きを失っていく。そのまま意識を手放しそうになるが、しかしまだ倒れるわけにはいかない。
仰向けに倒れこんだ雪絵の体から、まるで逃げるように怨霊が飛び出ては弾けていった。鳥人は元の少女の姿に戻り、それとともに嵐も急速に止んでいく。後には無数のがれきが残され、戦場は台風が通り抜けた後のようになっていた。
よろめきながら雪絵に近づく。が、手の届く所まで辿り着く前に、ヤマメの方も限界を迎える。いけないと思った時には、糸が切れたように体が地面にへたりこんでいた。
その場所からでも雪絵の顔は拝めた。気を失っているようだが、規則的な寝息が聞こえてくる。涙の跡が残るその寝顔は、ヤマメの希望が多分に混じるにしても、安らかに見えた。その表情を見て、自然とヤマメの口から言葉が漏れる。
「大丈夫だよ、雪絵さん」
ともすれば静寂に溶けてしまいそうな、小さな声。雪絵に届いているとは思えない。しかしそれでも良かった。ヤマメは自分にも向けるように、独白を続ける。
「私にも、死んでしまいたいと思うほど悲しいときがあったし、無力な自分が救われてしまったことを、バカみたいに嘆きもした」
目が半分閉じられる。夢と現が曖昧になる中、意識の境目に浮かぶのは、忘れようとも忘れられない、あの不器用な笑顔。
「でも、この地底には、私に手を差し伸べてくれる人が、たくさんいたんだ」
奇怪な笑い声をあげながら、気まぐれに頭の下がる助言をのこしていく、大先輩の釣瓶落とし。
似合わない道を往く自分の不恰好な歩みを、ただ黙って見守りながら支えてくれる、赤毛の友人。
ひよっこの自分の未熟さを糾弾し、そして努力を認めてくれた、最悪の嫉妬妖怪。
自分に力と正義、そしてそれらを振るうことの覚悟を授けてくれた、秩序の鬼。
他にも数えきれないほど多くの人たちの支えがあって、現在の“はぐれ蜘蛛”黒谷ヤマメは紡がれていったのである。
「今度は私が、貴方の力になってみせるから。貴方が泣いているときには、必ずハンカチを差し出すから」
願わくば孤独な少女の笑顔を紡ぐ、一本の糸にならんことを。
ヤマメは改めて、自らの背負う“はぐれ蜘蛛”の名にかけて誓う。
そして投げかける。あるいは安らかに眠る少女にとっては最も残酷かもしれない、罰のようなセリフを。
しかしそれこそはヤマメの、心からの願いでもあった。
「どうか、この地の底でもう一度生きてよ。雪絵さん」
ヤマメの声が雪絵に届いたのか、それは誰にもわからない。
確かなのは、ここに一つの事件の幕が、彼女たちの手で引かれたこと。へたり込むヤマメの耳に、遠くで響く男たちの怒号が微かに聞こえてくる。ヤマメは安心したような笑みを浮かべ、そこで完全にまぶたが落ちた。
***
目を閉じて眠る少女たちに、地の底の真っ暗な空から、戦いの傷跡を癒すように白い欠片が降り注ぐ。天からの贈り物のようなそれは、ふわふわと舞っていた無数の羽。そしてそれに混じる、触れれば消えそうなくらい儚げな、今年最初の雪だった。
エピローグ
……以上が今回の事件の概要である。詳細は別紙にまとめたのでそちらを参考にされたし。
以下は後処理の報告。
雪絵さんは現場に駆け付けた鬼の方々に身柄を拘束され、現在は病院で治療を受けている最中である。薬を使った反動か、眠っている時間が多いけど、使用した薬の危険性の割に、経過は順調らしい。自警団は彼女が話を出来る程度に回復しだい、事情聴取を執り行うとのことである。彼女にとって本当に大変なのは、これからということだ。
で、少し話が逸れるけど、医者がこんな話をした。彼女が手遅れにならずに済んだのは、私の能力によるところが大きいと言うのである。より正確には、瞬間的に病気を叩きこむ私のオーバードライブが、“怨霊憑き”を殺さずに無力化する有効な手段になり得るそうだ。病をもって意識を奪うことで、怨霊が標的とする精神を見失うのか、はたまた病に侵された体を本能的に忌避するのか、色々な仮説を並べていたが、正確なメカニズムはわからない。まあ私としては、この先“怨霊憑き”が関わる事件に際して、力になれるかもしれないという事実があればそれでいい。
……そう。“怨霊憑き”の脅威は、まだ去っていない。今回の事件は無事に解決を見たわけだけど、雪絵さんに薬を売った正体不明の商人のこともそうだが、薬の作成者、流通元などなど、未だベールに覆われた要素が多すぎる。そして既に、薬が地底の住民の手にばら撒かれている可能性も高い。今回はその氷山の一角というわけだ。この地底を蝕みつつある新種の病に、自警団は全力をあげて対処にあたるとのことである。もちろん私も、及ばずながら力を注ぐ所存だ。病をもって地の底の病巣を制す、“はぐれ蜘蛛”の名にかけて。
で、ここからは私の個人的な雑感。読み飛ばしてもらっても一向に差し支えない。
なんとも思うところの多い事件だった。破壊活動が始まったときには、まさかこれほどまでに深く事件に関わることになるなんて、夢にも思わなかった。まして自分が事件の幕を下ろすことになろうとは。名を継いでそれなりに月日も経つけれど、いつまでたっても事件の完成図は最後まで分からないものである。
私はこの事件を通して、自分が多くの人に助けられていることを改めて実感した。皆の協力がなければ事件の真相には辿りつけなかっただろうし、雪絵さんを助けることも出来なかっただろう。また後日それぞれにお礼をして回るつもりだが、ここにも関係者各位への感謝の意を記すことを許されたい。
そして雪絵さんのこと。
先代は常日頃からこう口にしていた。“依頼人のことを最後まで信じとおす。それが“はぐれ蜘蛛”の責任だ”
その点、今回の私はどうだっただろうか。私は事件の途中で彼女を疑ってしまった。そして実際に利用されてしまっていた始末だ。“はぐれ蜘蛛”失格のそしりを受けても仕方がない。だけど、それでも私は、彼女の良心を、そして生きる意志を信じ、それに賭けた。現場に残った証拠は、自分を止めて欲しいという願いの表れ、彼女が嘘だと言った涙は、真に“はぐれ蜘蛛”が拭うべき、悲しみと嘆きの証。姫さん辺りにはおめでたいと言われそうだけど、結果的にはそれで彼女を救うことが出来たのだ。だからその点は、胸を張って誇ろうと思う。
思うのだが、果たして彼女が本当に救われたのかどうかは、今はまだわからない。彼女を蝕む病巣は、簡単に取り除けるものではないし、犯した罪も償わなければならない。この先もきっと、辛い現実が彼女を待ち受けているのだろう。
でも、彼女はもう一人じゃない。遅ればせながら、私は彼女の涙をこの目で見た。一人で泣いていた彼女のことを、見つけることが出来た。ならば、手を差し伸べることだって出来るはずだ。私の力なんて小さなものだけど、それでもゼロじゃない。それに、私の友人は揃いも揃ってくせ者だけれど、みんな気のいい奴らである。彼女の笑顔を紡ぐ糸だって、決して私一本じゃないはずだ。そのことを、彼女には知って欲しい。
私が強引に差し出した手を取ってくれるかどうかは彼女次第だが、しかし私には希望がある。私は自警団に連行される彼女に、こう言ったのだ。「いつか、食べ損なった夕食をご馳走してほしい」と。そしたら雪絵さんは、首を縦に振った。ぼんやりとした目だったけれど、確かに小さく微笑みながら、頷いてくれたのだ。だから私は、遠慮なく彼女の孤独に踏み込もうと思う。笑顔と気さくさは、数少ないヤマメちゃんの取り柄なのだ。
いつもより長くなってしまった上に、報告と呼ぶには取り留めのない内容で申し訳ない。
最後に、来る“怨霊憑き”への脅威に立ち向かうため、そしてそれに伴い流れるであろう地の底の涙を止めるため、より一層、己の職務に励むことを誓い、当報告書の結びとする。
“はぐれ蜘蛛”黒谷 ヤマメ
***
報告書を読み終わり、彼女は小さくため息をついた。
面倒なことになりそうだ。彼女は一番にそう思った。
地底の事件は全て鬼の自警団に一任してあるが、この先も地霊殿が静観を決め込めるかどうかは疑問だった。
こたびの“怨霊憑き”にまつわる事件は、ことが地底だけに収まっていない。地上から流れてくる薬、地底では見慣れない商人風の妖怪。どうにも事件の随所で地上の存在がチラつく。このままでは、地霊殿が直接動かなければならない事態も、十分想定しうる。
鍵となるのは、“はぐれ蜘蛛”。
時に代行として地霊殿に協力する代わりに、“はぐれ蜘蛛”は地底の最高権力のバックアップを受けることが出来るという、先代から続く相互契約。
誰にも切れない意思をもって動く“はぐれ蜘蛛”を思い通りにすることは出来ないが、しかし地霊殿の手札として数えるには十分だ。報告書にある黒谷ヤマメの能力の有効性のこともある。今代の“はぐれ蜘蛛”にもこれからよく働いてもらう必要がありそうだ。
しかし運命とはわからないものである。“旧都炎上”で先代“はぐれ蜘蛛”を失った時にはどうしたものかと頭を抱えたが、しかし実際は今も、同じ名を背負って地底のために戦う者がちゃんといる。まるで、地の底が病巣に対抗するために生み出した防衛機構のようだ。
「ご苦労様でした。引き続き“はぐれ蜘蛛”の支援を頼むわね、お燐」
彼女がそう言うと、お燐と呼ばれた赤毛の少女は黙礼をしながら部屋から出ていった。一人になった私室の中で、彼女は薄らと笑みを浮かべる。
鬼の自警団。“はぐれ蜘蛛”。地底の平和を担う者たちが、新たな脅威に対する覚悟を決めた今、自分は何を為すべきか。彼女もまた、ある種の覚悟を迫られているのかもしれなかった。
笑みをたたえたまま、誰にも届かぬ小さな呟きを漏らす。
「地の底の敵への敗北は許されない。“ジョーカー”を手にした者の辛いところね」
“はぐれ蜘蛛”のよこした報告書を眺めながら、地霊殿の主・古明地さとりはティーカップを傾ける。
読心のサードアイを持つ彼女をしても、地底の行く末を見通すことは敵わない。
***
ヤマメは鼻歌を歌いながら、お茶を淹れていた。
「なんだいなんだい。今日はまたいやにご機嫌だね」
「そう見えるかい?」
「うん、ぶっちゃけ気持ち悪い」
「そこまで言うか。まあそこは勘弁しておくれよ。大きな事件が片付いたばかりなんだしさ」
キスメの罵詈雑言にも、ヤマメはご機嫌な笑顔を崩さない。自分専用の椅子に深く腰を据えて、ゆっくりとお茶の香りを楽しむ。そのキザな所作を見て、キスメはバカにするように言った。
「へん。前はあんなにうじうじしてたくせにさ。現金なもんだよ」
キスメが文句を言いながらパクついているお菓子も、普段より幾分高級なものだ。この奮発ぶりからも、ヤマメの浮かれ具合が知れるというものである。ヤマメは苦笑しながら応えた。
「明るさが持ち味のヤマメちゃんだって、たまには落ち込みもするさ。それに、事件が解決できたのはキスメさんの助言のおかげ。いやホントに。そのお菓子はほんの気持ちだよ」
笑顔とともにそう言われたキスメは、桶の中で小さな胸を張る。
「ふふん、そうだろうそうだろう。このキスメさんの言うことは全て正解だからね。ま、君がそう言うなら、遠慮なく受け取ってあげようじゃないか」
現金なのはどちらか。ヤマメは肩をすくめたが、笑みは引っ込まない。平和だなあと、しみじみ思った。
と、キスメはお菓子に手をつけるのを止め、ヤマメのことをまっすぐと見つめる。そしてどこかいたわりの情さえ感じさせる声で、言った。
「これから忙しくなりそうだけど」
その瞳には、彼女が地の底で越えてきた、幾年の時間が込められていた。ヤマメも茶を置いて襟を正し、まっすぐな視線を受け止める。
「君は負けることなくやっていけそうかい? ヤマメちゃん」
それは、茨の道を走り続ける覚悟を確認するための問い。この面倒くさい大先輩の、厳しさで、優しさだった。
彼女を紡ぐ糸の一本にそっと触れるように、ヤマメは目を閉じた。この温かさを知って欲しい人がいる。そしてあの少女以外にも、ヤマメの助けを必要としている人がきっといる。だからヤマメはこれからも、誰にも切れない意思を胸に秘めて、地の底を駆ける。
ヤマメは片目だけを開き、不敵に笑った。
「大丈夫だよキスメさん。私は地の底の涙を拭う、“はぐれ蜘蛛”なんだからね」
それが答え。今も昔もこの先も、永遠に変わらぬ“彼女たち”の信念である。
キスメはヤマメの意思を聞いて頷く。
「そっか。君がそう言うんなら、もう誰にも止められないね。ま、なんにせよ、さ」
そして笑顔を浮かべながら言った。そこには奇怪な笑い声も、面倒くさい嘲りの感情も無かった。
「今回はよく頑張ったね。偉いぞヤマメちゃん」
ヤマメが驚いて目を丸くする。
その狐につままれたような表情を見て、早速キスメはけきゃきゃきゃと奇怪な笑い声をあげた。
「え、なに今の。もしかして褒めてくれたの?」
「さあねえ。無い頭ひねってよぅく考えてごらんよ」
「デレか。デレなんでしょキスメさん。釣瓶落としの貴重なデレシーンだ!」
「けきゃきゃきゃ。やっぱりヤマメちゃんはアホだなあ」
どこまでもマイペースな大先輩に、ヤマメは呆れたように笑いながらため息をつくしかなかった。
「おっ」
キスメが何かを手に取る。新しく回ってきた回覧板だ。
「またランキングが載ってるよ。なになに、“地底の住人に聞いたいまいちキマらない人物ランキング”だって?」
「なにそれ。決定力不足?」
「ヤマメちゃんこそその微妙なボケはなんなのさ。ようはカッコつけたがるくせに様にならない、残念な奴ってことさ」
「ああ、なるほど。またなんとも嫌らしいテーマだね」
「ふふん、いやでもこいつは中々面白い。名前が載った連中は今ごろ顔真っ赤だろうね」
キスメがウキウキとした表情で、回覧板を眺めている。
このいつもと変わらない日常を前にして、ヤマメは思った。
本当に、平和そのものだ。これがヤマメの愛する地底の日常だ。
救われてしまった命の使い道がこれでよかったのかは、未だにわからない。
けれど、このなんでもない光景を守りたいというのは、ヤマメの偽らざる思いである。
「勝手に後ろをついちゃったけどさ。でも、私は頑張るよ」
もう帰らない人に向けて、呟く。受け取り手のいないその言葉は、しかしヤマメ自身の心へしかと刻み込まれた。
今はまだ半人前だが、自分もまた、いつか憧れた彼女のように、自らの背負う名に恥じぬ存在になることを誓って。
“はぐれ蜘蛛”黒谷ヤマメは、過去から繋がれてきた意思を、地の底の明日へと紡いでいく。
「ふんふん、確かに上位陣は納得の残念さだ。“華飾りの伊達男ジョニー”なんかはもうこのランキングにピッタリだね。けきゃきゃきゃ」
他人の不幸を砂糖菓子のように楽しむキスメを見て、ヤマメは苦笑しながら湯飲みを口に運んだ。
ご機嫌に笑っていたキスメだが、ふと何かに気がついたように声を止め、そして言った。
「あ、一位ヤマメちゃんだ」
ブゥーーッ! とヤマメの口から吐き出されたお茶が、霧となって消えた。
(了)
時間は前後するが、陽が物言わぬ姿となって見つかった日の前日。
西地区の自警団分所会議室には大勢の鬼、事件の関係者である風子、“はぐれ蜘蛛”ヤマメ、そして一報を聞いて速やかに駆け付けた自警団の頭、左が、一同に会していた。
ヤマメの報告に一切口を挟むことなく、左はただ耳を傾けていた。
「……以上が、私の体験したことのあらましです」
ヤマメが全てを話し終えると、隣にいる風子が膝から崩れ落ちた。慌ててヤマメと傍にいた鬼が支えるが、流れる涙だけはいかんともしがたかった。
また泣かせてしまった。ただ風子の嗚咽を聞くことしかできない自分の無力さが、ひたすらに憎らしい。そんな中でも、左は依然として黙ったままだった。しかし左が怒り心頭であることは、その場にいる誰の目からも明らかだった。悲痛さをかき消すほどの怒気はそれなりに広い会議室の隅から隅にまで伝わり、ヤマメはもちろんのこと、鬼たちですら、左が口を開くのを固唾を呑んで待つしかなかった。
そして痛いほどの沈黙を破って、とうとうその時が来た。
「なぜ白狼天狗の情報を俺たちにあげなかった」
左の声は静かで低く、それが逆に激昂を越える迫力を演出していた。ヤマメは震えあがりそうになったが、しかしこれは覚悟していた問い、引くわけにはいかない。
「……陽の身柄を生きたまま確保したかったんだよ。旦那たちに任せたら生死問わずってことになる。こちらとしてはそれを受け入れるわけにはいかなかった」
「その娘の意向か」
左がジロリと鋭い目つきで風子を睨む。涙を流しながら震える風子をかばうように、ヤマメは身を寄せた。左は目つきを変えなかったが、ヤマメはそれを受け止める。知らず、握りこぶしになっていた。怒れる左の言葉はまだ続く。
「そうすることで地底に危険が及ぶとは考えなかったのか」
「それは……」
口ごもってはいけないのに、言葉が出てこなかった。左の言うことはもっともで、地底の安全を最優先にするなら、真っ先に情報を渡すべきだったのだ。しかしヤマメにも事情がある。それはどこまでも個人的な理由で、この鬼が納得するとは到底思えなかったが、それでも言うしかなかった。
「全部……私のせいなんです」
口を開けかけたところで、割り込む声があった。
「私がヤマメさんにあんなことをお願いしたから……。私が、あんな馬鹿なことをしたから……」
嗚咽の混じった風子の声は嘆きと悲嘆に満ちていて、荒くれ者の鬼たちにさえ憐憫の情をおこさせるほどであった。しかし風子の言うことの意味を全て理解しているヤマメは、ただただ情けなさでいっぱいだった。過去にいたぶられ続ける風子の姿は、もう見ていられない。
「それは違うよ。風子さんはただ巻き込まれただけだ。貴方が責任を感じることじゃない」
「でも……!」
「そうだ、お前さんは関係ない。これは俺とそこの土蜘蛛の問題だ」
この期に及んでもなお、左は左だった。まさに秩序の鬼である。風子が口を挟む余地もこれでなくなったが、ヤマメにはいっそありがたかった。
左はヤマメを睨みつけながら詰問を続ける。
「俺はこうも言ったはずだ。深入りはするな、とな」
「あの時はああするしかなかった。まさか向こうから仕掛けてくるとは思わなかったし、風子さんを抱えて逃げ切れる自信も無かったんだよ」
「……」
「別に旦那たちの顔に泥を塗るつもりはなかった。そこだけは誤解しないでもらいたいんだけど」
「ふん、その危惧自体が心外だが……まあいい」
左はそこで話を打ち切って、その場にいる全員に声を挙げた。
「仕切り直しだ。まずは白狼天狗を探すことを最優先。そしてこの件にはまだ裏に潜む者がいる可能性が高い。薬の捜査と並行して、そっちの身元を探し出せ」
鬼たちが頷く。風にあおられる炎のように、会議室を満たす士気が上がっていく。
「いいか。俺たちは今完全に後手に回っている。これ以上地底を危険に晒すわけにはいかん。各々次を絶対に起こさせないという気概で臨め」
集った鬼たちが爆音のような鬨の声を挙げ、左の気迫に応えた。すぐさま大きな体を忙しなく動かし、それぞれが役目を果たすべく散っていった。左は残されたヤマメと風子に目を向け、言った。
「黒谷、お前も巣に戻っていったん休め」
「え、でも。私だってまだ動けるよ」
「一戦派手にやらかした身で何を言う。休息も仕事のうちだというのがわからんか、阿呆」
「む……」
「娘は若いのに送らせるから安心しろ」
「いや、それくらいは」
「少しは俺の言うことも聞け。いいな」
左に命じられた鬼に付き添われて、まだ心ここにあらずといった状態の風子がよろよろと立ち上がる。ヤマメが気遣いの視線を向けると、黙礼するように弱々しく頷いた。無論、笑顔はなかった。風子と鬼が会議室から出て行ったのを見計らうように、左は言った。
「明日の同じ時間、いつもの店に来い」
ヤマメの返答も待たずに、左は巨体を揺らして出て行った。これで会議室に残されたのは、ヤマメ一人だけになった。
「……」
適当な椅子に、吸い寄せられるように座る。そうしてみて初めて気がついたが、確かに疲労が溜まっているようだった。しかしこの体の重さは、決して肉体の疲労だけに依るものではないことは明らかだった。
明くる日。陽の遺体があがったという報せを、ヤマメは事務所で受け取った。検死の結果、死因は事故死ではなく、他殺の可能性が高いとのことだった。それは恐らくヤマメだけでなく、事件関係者の誰にとっても意外な話ではなかった。
ソファに身を横たえる。左との約束の時間まで少しでも休もうと目を閉じても、事件のことばかりがまぶたの裏に浮かぶ。
さらにヤマメは、ある一つの疑問を抱き始めていた。初めは爪の先ほどの大きさだったそれは、時を経るにつれて、純白のハンカチに墨が染み渡るように、広くヤマメの頭を占めるようになっていたのである。
「ああくそっ!」
たまらず身を起こして、頭を掻きむしった。自分の疑念が単なる突飛な妄想であって欲しかった。そもそもそんな発想を抱いたことに、自己嫌悪さえ覚えていた。ヤマメは覚書を乱暴にテーブルに投げだし、それとともにヤマメが抱く疑念の根拠となるものを取り出す。
陽と戦った現場に残されていた、真っ白な鳥の羽。
手の中にあるそれを、親の仇でも見るように睨みつける。こんなものが何だというのだ。ただの鳥の羽だ。そこらへんでもよく見るいわばゴミにも等しいものに意味を見出そうとするなんて、牽強付会も甚だしい。疑念を打ち消すように、ずっと自分にそう言い聞かせてきた。
だが、“はぐれ蜘蛛”を継いだ日から培われてきた冷静な思考が、ヤマメの甘さを糾弾する。パルスィの言葉ではないが、疑問する姿勢は真実に近づくための必須条件だ。今考えていることから目を背けるのは、地の底の正義を担ってきた“はぐれ蜘蛛”の名への背信行為にも等しい。
「そんなこと、わかってるんだよ……!」
事務所に、ドンと派手な音が響き渡る。すぐに静謐の中に呑み込まれた音も、テーブルを打ち付けた拳の痛みも、ヤマメの胸中を代弁するかのように空々しいだけだった。どうしようもないやりきれなさとともに、ヤマメはまたソファに寝転がった。閉じた瞳の裏でぐるぐると回る思考を持て余していると、
「……ん?」
気配を感じたと思ったのも一瞬。
考えるより先に、体が動いた。
「っ! ぬおおおおああああ!?」
身をねじってソファから転げ落ち、勢い余ってテーブルの足に頭をぶつけるのと同時。数瞬前までヤマメが寝転がっていた場所に、隕石のごとく落下してくるものがあった。ソファをぶち抜かんほどの衝撃とともに落ちてきたそれは、もはや見慣れすぎて条件反射的に冷や汗が出てくるものだった。異様な存在感を醸し出す落下物――桶から緑色の頭がぴょこんと飛び出す。唖然とするヤマメをよそに、桶の中の少女は自らを力強く親指で指す。
「私、参上」
背を向けていた突然の闖入者キスメは、笑顔とともに振りむいた。例のとことん面倒くさい笑顔だった。
「うわぁ……」
思わず本音が声になる。どこから入ったのか、いつからいたのか、そんなことはもはやどうでもいい。この大先輩の神出鬼没ぶりは今に始まったことではない。重要なのは、この局面でこの面倒くさい妖怪の相手をしなければならないという、その一点に尽きる。
キスメは、丸い頬っぺたに両手の人差し指を当て、一転童女のあどけなさを振りまくように笑った。
「来ちゃった。えへっ」
頭が痛くなる思いだった。思いっきり眉をひそめ、やりたい放題のキスメに抗議した。
「来ちゃった、じゃないよ。いきなり何やらかしてくれるんだ」
「あれ? 可愛くなかった?」
「可愛かったけども」
「ふふん、そうだろうそうだろう。それならヤマメちゃんは何が不満なのさ」
「むしろ不満だらけだけどまず一つ。殺す気か」
「まさか避けられるとはね。いやぁ腕を上げたもんだ、ヤマメちゃんのくせに」
「褒められても全然嬉しくないし、褒めるんならちゃんと褒めてよ」
「はん、ただの挨拶にいちいち文句が多いね」
「こっちは命がけなんだよ」
正直とてもキスメの相手をする余裕はなかったが、現れてしまったものはしょうがない。渋々立ち上がってお茶を淹れていると、キスメはけきゃきゃきゃと奇怪な笑い声をあげた。ヤマメとは反対に、大層ご機嫌そうだ。
「ヤマメちゃんも律儀だねえ。嫌々でもお茶淹れてくれるんだもん」
「仮にも事務所の来客に茶の一つも出せないようじゃ、私のお先も知れてるよ」
「ほほう、言うじゃないか」
「別にお茶くらい大したことじゃないでしょ」
「そう? 私にはとてもそうは見えなかったけど」
意味ありげなキスメの言葉に、思わず手を止めて振り向く。案の定、キスメは例の表情を浮かべていた。どこから見られていたのかは知らないが、見聞きするまでもなくこの面倒くさい大先輩は、ヤマメの心中など何もかもお見通しなのだろう。
ヤマメは何も言わず、お茶と適当なお菓子をテーブルに置く。すかさずお菓子に手を出したキスメの対面に力なく座り込むと、何もかも洗いざらい喋ってしまいたい衝動に駆られた。だが、済んでのところで理性と矜持がそれを押しとどめた。代わりに大きなため息が漏れる。キスメはそれを咎めるように眉をひそめた。
「なんだい辛気臭い。ただでさえ安物の菓子が不味くなるよ」
「……ごめん」
「うわ、これは重症だ」
キスメが心底つまらなさそうにそう言っても、ヤマメは俯いた顔を上げることはできなかった。陽が殺害されたと聞いても、胸に湧き上がってくるのは義憤ではなく、ただ「なぜ」という疑問だけ。霧中を手探りで歩くようなこの気持ち悪い感覚は、どうすることもできなかった。
「守秘義務とかややこしいことがあるんならともかくさあ」
と、キスメが菓子を口に入れたまま、行儀悪く言った。
「愚痴って楽になるんなら、ここでゲロっちゃえばいいじゃん」
それが出来れば苦労はしない。そう心中で呟く。
俯いたまま聞いていると、キスメは続けた。
「今の君は、まるであの頃そっくりだよ」
ハッとして、顔を上げる。未熟者のヤマメでは、今のキスメの表情から心中を察することはできなかった。だが、言葉の意味は嫌になるくらいわかった。
自らの弱さを責め、後悔するばかりで前を向くことも笑うことも忘れ、ただただ自分の殻にこもり続けた日々。そんな無為なことしか出来ない自分にいい加減愛想が尽きたから、ヤマメは強くなろうと決めたのだ。
そして鍛錬の日々を経て、“はぐれ蜘蛛”の名を継いで、結果も出してそれなりに自信も自負もついてきた。自分は変われた、あの頃とはもう違う。近頃はやっと、そんな風に思えるようになってきていた。
だというのに今の自分はどうだ。無様に下を向いて、グジグジと悩んでいるだけだ。あの頃の自分と、いったいどれだけの差があるというのか。そのことに気付いて、自然と口が開いていた。
「……助けたい人がいるんだ」
ポツリとした呟きは、ともすれば対面に陣取るキスメにすら届かないほどの小さな声だった。当のキスメも相変わらず菓子を食べ続けるばかりで、今の声を聞いていたのかどうかわかったものではない。それでもヤマメは続ける。弱さを隠すことは、決して強さなどではない。いくら半人前でも、それくらいはこれまでの経験で学んでいる。昔と同じ過ちを繰り返し続けるのは、もうやめだ。
「でも、正直どうしたもんか、見当もつかない。今や私は、その人の依頼を失敗してしまった身だ。それに……」
ヤマメはそこで口を噤んだ。
陽の所業を止めて無事保護する。その約束は最悪の形で破棄された。自分は本来、とても風子に顔向けできる立場ではない。そして今、この事件には、ヤマメを悩ます無視できない疑問点もある。それこそ事件の構造が根本から覆るような疑惑だ。
それでもなお、ヤマメは風子の助けになりたかった。例え左に分不相応だと言われようと、風子に拒絶されるかもしれないとしても、今なおそれは、ヤマメの裡にくすぶり続ける願いだった。
「キスメさん、私は、どうすれば……!」
ギュッと目を閉じ、苦悶を形にして吐き出された主の言葉を、ヤマメのこれまでを見てきた事務所が受け止める。
膝の上で、血が滲みそうになるくらい拳が固く握られた。ヤマメを苛む無力感、焦燥。それらと同じくらいに胸で強く滾る感情。それこそが“はぐれ蜘蛛”の名が背負い続けるもの。誰にも切ることのできない“正義”の意思なのだということを、今のヤマメはまだ知らない。
ヤマメは目を開いて、答えを求めるようにキスメを見た。熟睡されていた。意地汚く菓子を手に持ったまま。
「………………………………………………」
もう色々と台無しだった。天丼であることは予期し得たことなのに、気の利いたツッコミ一つ入れられない自分の情けなさに涙が出そうだ。苦し紛れにヤマメはスリッパを片手に持った。
「このっ」
「あいたっ! 何すんのさ!」
「うっさい。私を気遣えなんて高望みはしないから、せめてちょっとは空気を読んでくれ」
「心外だね、ちゃんと読んだよ」
「その上でなおボケるか。自由すぎるでしょ」
「ふふん、それが本物の妖怪さ。覚えときなさい小娘」
そう偉ぶって言われても、パルスィの生き様と違ってまるで見習おうという気がしてこないから不思議である。
ヤマメは気勢を削がれて、ヤケクソのようにお菓子を頬張った。キスメは愉快げに笑いながら言った。
「あれあれ? ひょっとして拗ねちゃった?」
「誰のせいだと思ってんの」
「けきゃきゃきゃ。いやなに、ヤマメちゃんがあんまりしょうもないことで悩んでるからね。そりゃあ羊の一匹や二匹数えたくなる」
「む、私は結構本気だったんだよ」
「ふんふんなるほど。やっぱりヤマメちゃんはアホなんだ」
真顔で言われてしまった。嘲られるよりもよっぽどグサリときて、思わず胸を押えた。が、続くキスメの言葉は意外なものだった。
「どうすればいいって、そんなこと決まってるじゃないの」
本当に事もなげに言うものだから、ヤマメはキスメの顔をまじまじと見た。冗談や適当を言っているようには見えなかった。未だ霧中にあると思っていた答えを、キスメは本当に持っているとでもいうのか。ヤマメが信じられない思いで訝しんでいると、キスメは何個目かわからないお菓子に手を付けて、言った。
「いつも通り、やればいいんだよ」
意外な言葉に、ヤマメはただ呆然とするしかなかった。一方キスメはしょうもないことを口にしているとばかりに、茶の席での雑談と同じように気楽な様子で続けた。
「いつも通り足使って、地底の連中とお喋りして、無い頭使って、腕にもの言わして。ヤマメちゃんはどんな事件だろうと、そうやって地味~に解決してきたんじゃないか」
これまで自分が関わってきた事件を思い出す。キスメの言うとおりだった。事件の態様が違えど、自分のやることは変わらない。地味な捜査の積み重ね、それに尽きる。決して華々しい活躍ではなく、地霊殿の主が書く小説の題材には間違っても採用され無さそうである。それでも。
「今回は今までと何が違うのさ。違わないよ。だって君は、他の誰でもない。地の底の涙を拭う“はぐれ蜘蛛”なんだろう?」
それでも、ヤマメの続けてきた地味なことが誰かの笑顔を生んできたのは、紛れもない誇るべき事実なのだ。だから今度の事件も同じこと。
足を棒にして、地底の住人全員に当たる気概で、無い頭だろうがフル回転させて、いざという時は荒事だって覚悟して。
いつも通り、“はぐれ蜘蛛”のお仕事をキッチリとやり遂げて、風子の涙を拭えばいい。
これが答えだった。キスメに呆れられても仕方がないくらいに、単純で当たり前のことだった。
「……だから半人前だって言われるんだ」
自虐的に笑い、弱音のような言葉を吐く。
しかしヤマメの胸でくすぶっていた思いは、次第に情熱となって炎のように猛りだす。表情には気力がみなぎり、その瞳は未だ姿を現さぬ事件の全貌へと向けられていた。
「認めるよキスメさん。やっぱり私はアホだったみたいだ」
「けきゃきゃきゃ。殊勝なのは君の美点だよヤマメちゃん」
「そりゃどうも。でも、褒めるにはまだ早いね」
迷うことだってある。真実への道はいつだって曲がりくねって、また深い霧で覆われている。
そんな手探りでしか進めない悪路を切り開くのは、地味な行動と、決して誰にも切ることのできない意思だ。何度転んでも立ち上がって、回り道をしてでも前に進み、その果てに誰かの涙を拭えるのなら、諦めることなどどうして出来ようか。
「まあ見てなよ。“はぐれ蜘蛛”の紡ぐ糸、必ず真実へと繋げてみせる」
たとえ糸の向かう先にどんな真実が待ち受けていようと、最後まで見届ける。
それが、依頼人のいなくなったこの事件における、“はぐれ蜘蛛”の新たな役目。他ならぬヤマメ自身の意思が用意した立ち位置だった。
よーしと、ヤマメはキスメに負けないくらいの勢いでお菓子を頬張り始めた。ヤマメの気合の入りように、キスメは彼女にしては珍しい苦笑を浮かべていた。
「……世話の焼ける」
「ん? 何か言った?」
「いやいや、私を差し置いてそんなに食うとはいい度胸だってね」
「一応言っとくけどこれ私のだからね?」
左との約束の時間まであと数時間。
どんな話になるにしても、とりあえず彼に情けない顔をさらすことだけはなさそうだった。
10.
左に指定された場所は、旧都の中心からやや外れた場所にある、隠れ家的な小さな飲み屋だった。左は昔からここで一人で飲むことが多かったらしく、ヤマメと腰を据えて話をする際も、いつもこの店だった。
約束の時間より少々早めについたのだが、左は既に席についていた。他に客はなかった。机の上にはいくつかの銚子が置かれていたが、まだ手は付けてはいないようだ。店に入ってきたヤマメを認めると、左は顔を上げた。
「ごめん、待たしちゃったね」
「構わん。俺が早く来ただけのことだ」
「今日も旦那の奢り?」
ヤマメがそう聞いても、左は鼻を鳴らすだけだった。相変わらずの態度に笑いながら対面の席について、自分の分も注文する。せっかくだから普段よりも高い酒だ。ご機嫌なヤマメを見て、左は言った。
「その様子だと、しっかり休息はとれたようだな」
「ああ。喝も入れてもらったからね」
片目を閉じて不敵に笑う。それだけで、ヤマメの状態は左には伝えられたはずである。
ヤマメの注文した酒が運ばれてくる。左が自分で酒を注ごうとしたところを、すかさずヤマメは割って入った。
「いらん気を回さんでいい」
「なーに言ってんのさ。こんな美人に酌させないなんて、無粋の極みだよ」
「言ってて恥ずかしくならんか」
「ちょっと、どういう意味さ」
「……」
「うん? どしたの」
「少し大将の気が知れただけだ」
「星熊の大将の? なんで」
首を傾けつつも、ひとまずは乾杯。ヤマメは景気づけのため、一気に中身を空にする。良い酒というのもあるが、心身にさらなる燃料が投入されたようで、大層美味かった。
「今日呼び立てたのは他でもない。お前にも大方察しはついていると思うが」
二杯目を注ごうというところで、左は話を切り出した。ヤマメも仕事の態勢に切り替えて、身を正す。左はヤマメの眼を見据えて言った。
「こたびのヤマ。首謀者はあの娘だと俺は睨んでいる」
息を呑む。が、驚きはない。
なぜならばそれは、ヤマメとまったく同じ考えだったからだ。
ヤマメは観念するように息を大きくついた。
「まあ、そうくるよね」
「ふん、やはり動じんか」
「動揺はしてるさ。私のバカな妄想であって欲しかったけど、旦那までそう思ってるんじゃあね」
きっかけは、風子の家で見つけた一枚の羽。地獄鴉である彼女のものとは似ても似つかぬ真っ白な羽ではあるが、それを見た瞬間、ヤマメは恐ろしい疑念に囚われた。そもそもヤマメは、事務所で風子と出会った時から幾ばくかの違和感を覚えていた。それはほんの些細なものではあったが、今となっては疑惑をより深める材料になってしまっている。
左も同じ疑念を抱くからこそ、ヤマメに風子の付き添いを許さなかったのだ。会議を早々に切り上げたのも、こうして風子の目が届かないところで話がしたかったからだろう。
「旦那の考えは、自警団の総意かい?」
「まだその段階にはいっていない。状況から見て痴情のもつれの類と推測しただけだからな」
数多くの事件を扱ってきた左らしい発想である。しかし風子の事情はそんなに単純なものではない。ヤマメの複雑な心境を見透かしたかのように、左は言った。
「だが、より事件の細部に触れたお前なら、何か根拠となるものでもつかんでるんじゃないのか」
「……まあね」
苦々しい思いで、持ってきた袋から、傷まないよう紙に挟んだ羽を取り出す。左はそれを手に取って、明かりにかざしながら隈なく検分する。
「陽とやり合った場所に落ちてたものだよ」
「ふむ。現場には何人かやらせているが、今のところ同じような羽は発見されていない」
「じゃあこれは犯人のミス? それとも……」
あごに手を当てて考え込むヤマメに、左は唸りながら言った。
「犯人の意図がどうあれ、これが見つかったということは重要視せねばな……娘は地獄鴉だったな?」
「……わかっちゃあいると思うけど、羽が見つかったからって、地獄鴉である彼女が犯人だと決めつけるのはあまりにも短絡的だよ」
「当然だ。だからこそ裏を取るためにお前も俺たちも動いている」
「うん……そうだね」
「だが、向こうから仕掛けてくるとあれば、話は別だ」
ヤマメは今度こそ目を見開いて動揺した。左はただ彼女を鋭い目つきで見るだけだ。
唾を呑み込んで、震える口を開く。
「それって、風子さんを殺すってこと……?」
「娘かどうかはともかく、次に同じようなことを起こす者が出たら、俺たちはもう逃がさない。当然、お前の言うような手段もあり得るだろう」
「そ、そんな! ちょっと待ってくれよ!」
「考えてもみろ。相手は件の白狼天狗に破壊活動を唆したあげく、最後には使い捨てるように始末している。最近の地底では珍しい類の凶悪犯である可能性が高い」
左の言うとおりだ。まさか義憤にかられた住人が地底のために“怨霊憑き”を討ったわけでもあるまい。そんな楽観視をするほど、ヤマメはおめでたくはなかった。
しかし意地になったように、ヤマメは食い下がる。
「それでも、陽には他に共犯者がいて、風子さんは本当にただの被害者なのかもしれないじゃないか」
「だからそれを今調べているんだろうが」
「あ……」
「落ち着け黒谷。言っていることが支離滅裂だ」
手痛い指摘だった。自分は真実を掴むと決めたのだ。ここで冷静さを欠いては真実は遠のくばかりだ。酒ではなく水を盃に注いで、グイッと飲み干す。
頬を叩いて喝を入れるヤマメを見て、左は大儀そうに息をついて言った。
「黒谷。やはりお前はこの事件から手を引け」
とうとう来たなと、ヤマメは思った。今日の本題も、おそらくはこちらだろう。
今回の事件に限らず元々左は、ヤマメが事件に深入りするのを良しとしていないフシがある。鬼の面子を考えれば当然のことであるし、これまでの事件でもそのあたりの配慮は怠ってこなかったつもりだ。しかし今回ばかりは、はいそうですかと引き下がるわけにはいかなかった。
「それは、できない」
自らの覚悟を示す様に、ヤマメはあらかじめ用意していた答えを決然と言い切った。左は、ヤマメの返答を見越していたかのように、怒るでもなく腕を組んで黙った。ヤマメはじっと、左の次の言葉を待つ。緊張ですっかり酒が抜けていたが、今日は気持ちよく酔いに来たわけではない。
やがて、左は重々しく口を開いた。
「今日は冷えるな」
「え?」
唐突とも言える左の言葉。今更時節の挨拶というわけでもないだろうと、ヤマメは戸惑いながら相槌を打った。
「ああ、うん。そうだね」
「あの事件が起こったのも、こんな風に冷える季節だったか」
左は酒を注ぎながら、そんなことを言った。盃の中身を見つめるその目つきは、気のせいか普段の鋭さがなりを潜めている。
ヤマメは軽い驚きを感じていた。昔の話をするなんて、珍しいこともあったものだ。実際的なこの男にしては意外ではあったものの、ヤマメは茶々も入れず、舐めるように酒を口にして答えた。
「……そうだよ」
「……」
「忘れるわけがない」
呟くようなヤマメの声が掻き消えそうに静かな酒の席で、二人は同じ光景を遠い夢のように見ていた。けれどもそれは、まぎれもなく変えようのない、過ぎた事なのだった。
***
スペルカードルールが成立するよりも遥か以前、地底と地上どころか人妖の距離も今とは比べ物にならないほど遠かった時代。
それでもそれなりに平和で、住人も気楽に暮らしていた地底で、彼らのささやかな日常を粉砕する事件が起きた。
旧都は燃え、炎がまばらに降る雪を尽く呑み込む。そこに生きる妖怪たちはなすすべもなくがれきの間を逃げ回り、悲鳴と怒号が不協和音のように響き渡る。
地の底においてなお地獄と形容するほかない凄惨な光景。
その中心に、一人の鬼がいた。
今でもヤマメは鮮明に思い浮かべることができる。
鬼にしては華奢な体を花魁の纏うもののように華やかな衣装で包み、炎に照らされて立つ姿は、まるで無縁の塚に咲き誇る彼岸花。そして何よりもヤマメの脳裏に刻まれているもの。
鬼は、地獄の中で笑っていた。
誰もが恐怖に泣き叫んでいるなか、鬼はただ一人、地獄を祝福するかのように、絶世と謳われたかんばせを歪ませていた。その様は場違いに、あるいは似つかわしすぎるほど、ひたすらに美しかった。
声をあげることもなく、薄く笑う鬼の表情を認められるほどの距離で、ヤマメはただ震えていた。美しいものを見て恐怖を感じることがあると、生まれて初めて知った。逃げることも叫ぶことも出来ずにいると、やがて鬼と目が合った。やはりその瞳も絶望的なまでに綺麗で、覗きこんだだけで魂が吸われると本気で思った。鬼は口の端を薄く上げたまま、しゃなりしゃなりと近づいてくる。
『――っ』
助けて。そう叫ぼうと思っても、声がかすれて音にならない。それ以前に、こんな地獄で蜘蛛の糸が垂れることを期待して何になるのか。そのことに気がついた瞬間、全身から一切の力が抜けてしゃがみこんでしまう。まるで肉体が生きることを諦めたかのようだった。
鬼の右手に、青白い妖気が集っていく。赤く猛る炎と混じることなく青色に揺らめく鬼火を、ヤマメは半ば呆けた頭で、綺麗だと思った。そして鬼の手から青い炎が放たれたのを見届けると、ヤマメは目を閉じて最期の瞬間を待った。
轟、という音を聞いた。衝撃は熱気を纏う風となって、ヤマメの全身を通り抜けていく。
それだけだった。
死とはこんなにあっさりとしたものなのか。怪訝に思って、目を開く。そうしてヤマメは気づいた。自分はまだ目を開ける、つまり生きていることに。そして目の前で一人の女が、うつぶせになって倒れていることに。
『――ッ!? 姐(あね)さん!』
それはヤマメのよく知る人物であり、地底の有名人でもあった。眼前の光景に、動かなかった体がバネのように弾けた。駆け寄ってみると、女の背中は焼け焦げてほとんど炭になっていた。自分の身代わりとなって鬼火を受けたのだと、ヤマメは上手く回らない頭でようやく理解した。
『姐さん! ……しっかりしてくれ!』
何度も呼びかけながら倒れた体を揺すっていると、女の手が伸びて、ヤマメの目元を拭う。そして焦点の定まらない瞳をヤマメに向けながら言った。
『……何を泣いてるんだ君は』
言われて、自分が涙を流していることに初めて気がついた。一体いつから泣いているのか自分でもわからないが、自覚した途端、次から次へと涙が溢れてきた。そして顔を上げて、目を見開いた。ぼやけた視界の中で、今まさに鬼の手から再び炎が放たれようとしていた。
姐さんを連れて逃げなければ。頭では理解していても、体は鉛のように重くて動いてくれない。
『あ、あ……あああああああああああッ!』
ヤマメが絶望の叫び声をあげたその瞬間、横合いから鬼が吹き飛ばされた。
混乱した頭で見ると、先ほどまで鬼が笑っていた場所には、やはり鬼が立っていた。
星熊勇儀。鬼の四天王が一にして地底最強の抑止力。普段は豪快な笑みを浮かべたその相貌も今は怒りがむき出しになっていて、まさに羅刹そのものだった。
軽々と吹き飛ばされた鬼は、がれきの中からゆらりと立ち上がる。衣装はボロボロだが、血化粧に彩られた顔には依然壮絶な笑みが張りついている。勇儀と鬼が何事か言葉を交わしていたが、ヤマメの頭にはほとんど入ってこなかった。
『おい! お前たち!』
虫の息の女を前にして途方に暮れているところへ、新たな鬼が駆け寄ってくる。星熊勇儀の片腕、左だった。
『旦那! 姐さんが……姐さんが……!』
ヤマメの叫びには応えず、左は女に手当てを施そうとする。が、女の傷を見て、目を見開いて息を呑む。常々冷静な鬼が見せたその表情で、ヤマメは全てを理解してしまった。絶望感が漂う中、二人の心中を察したかのように女は口を開いた。
『左……貴方は大将のところへ行け』
『し、しかし……』
『うろたえるな、貴方らしくもない。貴方には、私よりも、優先するべきものがあるだろう』
『……くっ』
『今の奴は普通じゃない……。大将でも万が一があり得る』
『……』
『行け』
こうしている今も、轟音と熱気が戦闘の凄まじさを伝えてくる。勇儀が地を割りながら吼え、鬼は薄笑いを浮かべて舞うように応戦していた。左は戦場と女を見比べると、意を決して一つ頷いた。そして女の肩をねぎらうように叩いて、勇儀の隣へと飛び込んでいった。
再び取り残されたヤマメは、ただ泣きじゃくっていた。消えようとしている命を目の前にしながら何もできない自分が、憎かった。
『ちくしょう……!』
彼女はヤマメの大切な人だった。無愛想で変わり者だが、曲がったことは決して許さない。持ち前の強さと頭脳、そして誰にも切れない意思を以って誰かを助けるその生き様は、地底の誰よりもカッコ良かった。自分には絶対真似できないと思うからこそ、地底の異端児たる彼女に憧れた。
ここで死んでいいような人ではない。地底にはまだまだ、彼女の助けを必要としている者がいるのだ。ヤマメは涙を拭いて、女を抱き起そうとする。力を失った女の体は、ヤマメの手に余るくらいに重かった。拭ったそばから、雫はとめどなく溢れてくる。
『待ってて。今医者のところへ連れて行く』
そう言ったものの、当てなどない。炎になぶられ続ける都で、まともに医療が機能しているものか。けれど、この時のヤマメには他に方法が思いつかなかった。無意味な抵抗だったとしても、ヤマメは何かしないと頭がどうにかなりそうだった。
肩を貸そうとしたところで、女がヤマメの肩を思いがけないほど強い力で掴む。突然の反応にヤマメが戸惑いの視線を向けると、女は信じられないことを口にした。
『ヤマメ。ここは私に任せて君は逃げろ』
何を言って――そう抗議をしようとして、しかし女の人差し指に唇をおさえられて、続きを言えなかった。女の顔は苦痛に歪み、呼吸も荒かったが、キザな所作だけは、普段の彼女と何も変わらない。それがヤマメにはどうしようもなく辛かった。こんな傷を負ってなお、彼女は自らの責務を果たそうとしている。ヤマメを守ろうとしてくれている。
『いやだ』
それに比べて、自分はこんな駄々っ子のようなことしか言えない。悔しくて悲しくて、気が狂わんほどだった。赤子のように泣きじゃくるヤマメを見て、女はため息をつきながら、やれやれと首を振った。そして命を絞り出すようにして、歯を食いしばりながら立ち上がる。足は隠しようもなく震えていた。
『どうして……そこまで……』
痛々しい女の姿に、ヤマメは目を背けたくなるのをグッとこらえた。彼女を慕ってきた者として、それだけはやってはいけないような気がした。
立って並ぶと、女の方が少しだけ背が高い。顔を見ようとすると自然、見上げる形になる。意識を保つのがやっとである様子の、女の胡乱な瞳には、すがるように彼女を見る自分が映っていた。情けないほどに弱々しい様だった。
女はヤマメの肩にそっと手を沿える。女の口の端がほんの少しだけ上がり、そして言った。
『この地底では、誰にも泣いていて欲しくないんだよ』
それは幾度となく聞いた、彼女の行動理念だった。たとえ誰かがあざ笑おうと、彼女はその夢想のような願いを胸に秘めて、地の底を駆け続けたのだった。そして今この瞬間も、
『君も例外じゃない、ヤマメ』
そこでもう限界だった。女の状態も忘れて、胸に飛び込んだ。
お願いだから死なないで。そのような意味のことを散々喚き散らしたと思う。今思うと滑稽極まりないが、そんなヤマメにも女は困った顔一つ見せず、ヤマメの髪を一撫でした。そしてヤマメをそっと引き離し、目を真っ直ぐ合わせて諭すように言った。
『君はまだ若い。あらゆる生き方を選ぶことのできる、可能性の塊だ。こんな地獄、君の死に場所にはふさわしくない』
女は激しく咳をした。口からは、赤い筋が覗いていた。それでも構わず女は続ける。
『それに君は私の大切な友人だ。身に余る光栄だけれど、随分と私のことも買ってくれた。君を死なせでもしたら、私はたとえ閻魔に許されようとも自分の涙を止められない。だからお願いだ。私の言うことを聞いてくれ』
もう何も言えなかった。女はとっくの前に、命に代えてでもヤマメを守ることを決意してしまっている。どんな引きとめの言葉も、もはや意味をなさない。彼女の意図は、誰にも切れはしないのだ。だからヤマメにできることは、女の言うとおり一刻も早くここから逃げ、どうにか生き延びることだけだ。
ならば、せめて笑顔で。
女の思いに応えるべく、ヤマメは強く拳を握り、唇を噛みしめて涙を拭った。笑顔は自分の数少ない取り柄と自負していたが、今回ばかりは自信がなかった。きっと涙でグジャグジャになって、とても見れたものではないだろう。それでも、精一杯の笑顔で。
『忘れないで。姐さんがいなくなって涙を流すやつもいるってことを』
最後に、悪あがきのようにそう言った。ヤマメの不細工な笑顔と、女の泣き所を的確についたセリフに、女も、笑った。彼女が最後に見せた不器用で控えめなあの笑顔を、ヤマメは生涯忘れることはないだろう。そして彼女がヤマメに向けた、最後のセリフも。
『大丈夫だよヤマメ。私は地の底の涙を拭う、“はぐれ蜘蛛”なのだから』
そして“はぐれ蜘蛛”と呼ばれた地底の異端児は往く。彼女にとって、最後の戦場へと。
いつも目で追い続けた背中が見えなくなると、ヤマメも踵を返してがれきの山を踏みしめる。一度生きることを諦めた体は、ヤマメの中で渦巻く激情に突き動かされるように、炎上する都を足をもつれさせながら駆けた。
走りながら、地の底の天井に向かって、言葉にならない言葉を大きく叫んだ。女の前でこらえていた涙はとうに溢れ出ていた。
幾多の悲しみと絶望が生まれ続ける中、雪は旧都の惨状を覆い隠そうとするかのように、しんしんと、穏やかに振り続ける。
ヤマメに泣いてほしくないという、“はぐれ蜘蛛”の願い。それはあまりにも酷な要求で、有り得ない奇跡を望むに等しかった。
旧都炎上。
後にそう名付けられたこの事件は、時を経た今も、未だに解決を見ていない。首謀者の行方は杳として知れず、そして“はぐれ蜘蛛”と呼ばれた女は二度と帰らない。それが、地の底の現実だった。
***
「あの後しばらくしてだったな。お前が俺の元へやってきたのは」
夢から覚める様に、左がしみじみと言った。
あらゆる生き方を選べる――そう言われたヤマメが後悔と苦悩の日々の果てに選んだのは、彼女がかつて憧れた“はぐれ蜘蛛”という生き方。そしてヤマメは以前から先代との絡みで何かと縁のあった左に頭を下げ、自分を鍛えて欲しいと懇願したのだった。
「自分で言うのもなんだけど、旦那もよく弟子にとってくれたよね」
苦笑しながら、ヤマメは盃を傾けた。
「無論小娘が何をといったところだったが、ああもしつこく粘られてはな」
応える左は相変わらずの仏頂面だが、険はない。ヤマメが弟子にしてもらうべく左の元へ通い詰めた日々。左の施す情け容赦のない特訓。色々あったが、どれも今は懐かしい過去だ。しかし。
「あの事件は、俺の中ではまだ終わっていない」
星熊勇儀、左、そして“はぐれ蜘蛛”。地底の実力者たちを相手にしてなお、事件の首謀者である鬼は、この地底からまんまと逃げおおせた。もちろん無事では済ませなかった。長い間音沙汰がないのが、その証拠である。だがそれはまた、かの鬼が力を蓄えるべく身を隠していることも意味していた。
必ず鬼は地の底へと舞い戻る。だから星熊勇儀を始めとする地底の鬼たちは、道を外れた同族を迎えるその時に備え、有志による自主的な治安維持活動を発展させた組織として、正式に自警団を発足させたのである。
そして左が事件にこだわる理由が、もう一つあった。
「奴は……“右京”は必ず俺が討つ。それが、同じ星熊の片腕としてのケジメだ」
左と右京の名は、星熊勇儀が絶対の信頼を置く忠実な手下の双璧として、地底に雷名を轟かせていた。堅物の左、奔放な右京と、性格こそ真逆ではあったが、勇儀の義侠心に応えるべく、二人して鬼たちの先頭に立ち、存分に力を奮ったのである。
だというのに、右京は壊れた。前兆もなく、唐突に、右京はその美しいかんばせに笑みを浮かべながら、誰の理解も追いつく暇を与えぬ間に、旧都を焼き尽くした。当の右京も地底から消えて、今もってその動機は不明、真相は藪の中だった。
左もまた、後悔していた。都が他ならぬ右京の放った炎に包まれていたにも関わらず、長年の同志を前にして、左の拳はわずかだが鈍った。消しきれぬ甘さが右京を取り逃がすという失態に繋がったかと思うと、自身への怒りと失望が腹の底から湧き上がってくるのだった。そして左が秩序の鬼と呼ばれるほど、以前に増して厳格になったのも、この事件以来のことである。
「俺には戦う理由がある。だがお前はどうなんだ」
「……」
「お前があの事件に責任を感じているとすれば、それは筋違いだ。先代が死んだのも決してお前のせいではない。あのときのお前はただの小娘にすぎんし、どうしようもなかった」
左は再び眼光に鋭さを宿らせ、ヤマメを見据えて言った。
「自分の罪をいくら数えたところで、つまらんだけだぞ、黒谷」
お前たちのセリフではないがな――面白くもなさそうに、左はそう付け加えた。
ヤマメは応えない。しかし視線だけは左から離さない。その瞳には、左にも負けないほどの力強さがあった。
「言っておくが“はぐれ蜘蛛”を継いだことを自分の罪滅ぼしのつもりでいるなら、いつかこの先、お前は潰れる。今回の事件にしてもそうだ。お前はなにか余計な責任を背負っている。散々言い聞かせてきただろうが。事件に入れ込みすぎると碌な結果を生まん」
だからその前に手を引け、というのが左の言い分らしい。
黙って左の話を聞いていたヤマメは、ふと笑みを零した。
なるほど実際的な左らしい理屈だった。まったくもって筋の通った道理だった。
だがしかし、“はぐれ蜘蛛”を動かすのは、理屈や道理を越えた信念――誰にも切れない意思である。
ヤマメは笑みをたたえたまま、静かに口を開いた。
「まあ、罪滅ぼしの気持ちがないって言えば、それは嘘になるね。でもそうじゃない。そうじゃないんだよ、旦那」
幾度の日々と経験を経て、ヤマメもようやくあの事件を、冷静な心境で振り返られるようになった。確かに無力な自分が何をどうしたところで結果は変わらなかったのかもしれない。それでも、事件のことを思い出すたびに、胸の奥に刺さった小さな棘がチクリと痛む。それは消しようもない、罪の意識だった。
今回の事件も、自分は風子の依頼を果たせなかった。依頼を受けた者として当然責任は感じるし、少しでも穴埋めをしたいというのが、未だ事件に関わり続ける動機の一つではある。
しかし、真に今のヤマメを駆り立てるのは、そのような後ろ向きな覚悟ではない。
「この地底で泣いている人がいる。“はぐれ蜘蛛”が動く理由は、今も昔も変わらない」
ヤマメの言葉を受け、左は一層厳しい顔つきになったが、それに対抗するようにヤマメは笑みを深めた。
「きっとその人は、ずっと前から一人で泣き続けてたんだ。誰にも助けを求めることなく、誰にもハンカチを差し出してもらうことなく。そういうの、やっぱり寂しいじゃないか」
今度は左が黙る番だった。酒に手を付けることもせず、ただヤマメの言葉を厳めしい顔で聞いている。小娘の戯言と侮ることなく、真正面から自分の思いの丈を聞いてくれることに心の中で感謝しつつ、ヤマメは続ける。
「だから私が、その誰かになると決めた。私があの人の涙を見たのも、きっと何かの縁なんだよ」
そしてヤマメは笑みを引っ込め、真剣な表情になって言った。
「私は事件の犯人を討ちたいんじゃない。事件で流れた涙を拭いたいんだ。だから旦那たちに全てを委ねて、ただ黙って退場することはできない」
それが、大先輩の釣瓶落としに後押しされ、左の出すであろう宣告に反論するべく、“はぐれ蜘蛛”の信念を芯として、ヤマメが自分で出した答え。決して譲ることのできない、自分の立ち位置だった。
左はヤマメの宣言を受けても、なお黙ったままだった。ヤマメの出した結論は、鬼にしてみれば実に小癪な答えである。さてどんな反応が返ってくるか。握った拳に汗が滲んでくるが、それでも絶対に目は逸らさない。
重い沈黙の中、睨みあいがしばし続いたが、先に口を開いたのは左だった。
「娘に騙されてるとは思わんのか」
どこまでも実際的な鬼だった。当然その反応も織り込み済みだ。
「関係ないね。私は最後まで依頼人を信じてみる。もし本当に騙されてるだけだったとしても、その時はその時だ」
「それでまた地底に被害が出たらどうする」
「その前に止めてみせる。そこは旦那たちと同じだよ」
「ふん、なるほど。つまりどうあっても、事件から手を引くつもりはないと?」
「早い話がそういうことさ」
ヤマメが言い切ると、左はふん、と鼻を鳴らして席を立った。ヤマメの決意は固いとみて、話は済んだということだろう。
左はヤマメを見下ろして言った。予想よりも落ち着いた声色だった。
「ならばもう何も言わん。死ぬも生きるも、お前の勝手だ。そして俺たちのやることも変わらない。お前が何を望もうとな」
それは、事実上の決別宣言だった。いつもの厳めしい表情からは左の感情は読み取れない。だが左の意思が何であれ、自分はもう賽を投げてしまった。左の言うとおり、これからのことは、それこそ自分の責任だ。ヤマメも立ち上がって、厳めしい面を見上げた。厳しい言葉を向けられても、ヤマメの浮かべる表情は、やはり持ち前の笑顔。
「ありがとうございます。旦那」
万感の思いを込めて礼を言い、頭を下げた。
自分のわがままを許してくれた秩序の鬼に、そして弱っちい小娘に過ぎなかった自分を鍛えてくれた師に、最大級の感謝を。
頭を上げて左の表情を伺ってみても、相変わらずの仏頂面。ちゃんと謝意は伝わったのかなとヤマメが頬をかくと、左は大きく息をついた。
「“切り札”……か」
そう呟くと左は今日の分の支払いを済ませて、足早に店から出ていってしまった。
「……“切り札”? 何のこっちゃ」
大きな背中を見送り、一人残されたヤマメは首を傾けながら腰を下ろした。まああの男が意味ありげなことを言うのは今に始まったことではないと、ヤマメは気を取り直して酒を注いだ。せっかくの奢りなのだから英気を養えるだけ養っておくべきである。本当の戦いはこれからなのだ。
「さて、忙しくなるね」
鬼の力はもう当てにできない。そう考えると一抹の不安がよぎるが、あれだけの啖呵を切ったからには、もう弱音など吐いてはいられない。
全ては誰かの涙を拭うために。ヤマメはいつか憧れた“はぐれ蜘蛛”の信念に乾杯し、一気に酒をあおった。結局この日は、ヤマメと左以外の客はなかった。
***
外に出ると、一段と冷気が身に沁みた。例え屈強な鬼だろうと、寒いものは寒い。初雪も近いと、左は地の底の天井を見上げながら思った。
今日の会合は、概ね予想通りに推移した。言われるまでも無く、ヤマメは既に娘に当たりをつけていたし、不肖の弟子がそう簡単に手は引かないことも重々承知していた。
しかし、ヤマメがあれほどまでに強い意思を以って動いていることに、左は少なからず驚いていた。
どんな事件も持ち前の飄々とした態度で臨むというのが、ヤマメに対する左の印象だった。変に気負っても失敗を生むだけではあるし、別に咎め立てするようなことではないが、左の“はぐれ蜘蛛”像とはどうもずれる。
いかなる時も冷静沈着、その立ち振る舞いは小癪なまでにキザ。刃を思わせる鋭い気迫と、蜘蛛の糸のようにどこまでも伸びる強固な意思を携え、地の底の事件を解決する。それが左の知る、先代“はぐれ蜘蛛”だった。
勇儀の片腕として地底の問題に当たっていた左とは何度も顔を合わせる機会があったため、嫌でも彼女のことはよく知っていた。
最初こそ生意気な土蜘蛛だと疎んじていたが、次第にその認識も変わっていった。鬼は強者を好む。単純な腕っぷしもそうだが、強い生き様を見せつける者は、例え小兵であっても尊敬に値するのだ。その点先代“はぐれ蜘蛛”は、自分よりも遥かに小さな体躯の内に鬼にも劣らぬ信念を秘め、誰かの涙を拭うために戦っていた。ついぞ口にすることは無かったが、先代への密かな敬意は、彼女がこの世を去った今も、変わらず左の心に残っている。
それだけに、先代によくくっついていた娘が弟子入りを志願してきたときは、その身の程の知らなさに怒りを通り越して憐憫の情さえ覚えた。先代を失った無念は理解できるものの、“はぐれ蜘蛛”の名は無力な小娘に背負えるものではない。当然相手にするまでも無く門前払いをしたが、娘は諦めなかった。一喝しようと、顔さえ見せなくても、娘はまだ新しかった自警団本部の門前で頭を下げ続けた。その執念は、門番を務める若い衆が娘の肩をもつほどであった。
娘の心意気に打たれたでもないが、これ以上無下に扱っても鬼の沽券に関わる。ある日左は娘に顔を上げる様に言い、そして問うたのだった。
『ならば娘。お前に何が出来るというんだ』
正直なところ、どんな答えが返ってきたところで、態度を改めるつもりはなかった。早々に諦めさせて別の道を歩ませるのが、この娘のためである。だが、娘の口にした答えは、まるで左の想定範囲外にあるものだった。
『泣かない』
唇を噛みしめて、娘はそんなことを言ったのだ。不覚にも虚を突かれて、左は言葉を失った。この娘は一体何をずれたことをぬかしているのか。自分の思惑とは裏腹に、知らず左は重ねて問うていた。初めて左が娘と正面から向き合った瞬間だった。今の言葉、果たしてその心は。
『地底の誰にも、私にも泣いていて欲しくない。姐さんはそう言った』
それは左も幾度となく耳にした、先代のセリフ。思えば初めて聞いた時は、理想論と切って捨てたものだった。
『それに、地の底の涙を拭う“はぐれ蜘蛛”が泣いてるようじゃ、きっと誰の助けにもなれない。だからどんなに辛くても、厳しくされても、自分の弱さが嫌になっても』
娘は全身と声を震わせながら、それでも左の泣く子も黙る面構えを真っ直ぐ見据える。そして最後に往来の目も構わず、娘は声を張り上げた。
『強くなれるまで、もう絶対に泣きません』
娘の表情は今にも泣き出しそうで、しかし決して涙は見せなかった。
思えば、このときのともすれば情けないともとれるヤマメの表情こそ、彼女を弟子にとろうと決意させたきっかけなのだった。自らの弱さを知ってなお強くなりたいという願い。彼女の面構えから垣間見たのは、左をして切れぬと思わせる、強固な意思だった。
「あの時はヤキが回ったと思ったものだが。ある意味で俺の眼に狂いはなかったということか」
自らの言葉通り、ヤマメは左の厳しい特訓に泣きごとは口にしても、涙を流すことだけはついになかった。
そして今日、ヤマメはまた一つ、左を驚かすほどの覚悟を示してみせた。誰にも切れない意思に基づく行動を止める手立てはないならば、さて主はどうしろと言っていたものか。左もまた、自らの立ち位置を再考する必要を感じていた。
「ふん、それにしても」
大きく吐いた息が白く染まるのを見ながら、左は思った。
あの娘は半人前のくせに、弟子にとったときからしばしば左の予想を越えていく。なるほど可能性の塊という主の言もあながち大げさではないもので、知らず自分の弟子を見る目は曇っていたらしい。過保護と言われるのは心外だが、この様ではそれも然りなのかもしれない。
「子は親の知らないうちにデカくなっているとは言うが。いやはや」
左は灯もまばらな夜道を歩きながら、わずかに口の端を歪めた。
それは、堅物の見本のようなこの鬼には珍しい、愉快げな笑みだった。
11.
久しぶりにぐっすりと眠っていたヤマメの目を覚ましたのは、一通の手紙だった。届けてくれた地獄鴉の配達員に礼を言って、早速中を改めてみる。出てきた紙切れを見て、寝ぼけ眼だったヤマメの瞳が鋭く細められる。そこには汚い字でただこう書いてあった。
【例の件について。西区分所まで来られたし】
鉈の署名がなされた手紙を自分の机に投げだし、ヤマメはやかんを火にかけた。湯が沸くのを待つ間、身支度をする。
事件の終わりが近い。そんな予感があった。様々な思惑が蜘蛛の巣のように張り巡らされたこたびの件、果たして完成する絵はどんなものか。地の底に新たな涙が流れるか、はたまた誰かの血を以って終止符が打たれるか。
「どっちも却下だ」
茶を淹れ、慌てることなくゆっくりと飲む。適当に淹れたお茶の味は、風子の家で出されたものには当然及ばないが、体を目覚めさせて一日を始めるには十分。習慣とはそういうものである。
湯飲みを置いて、メモ帳をめくる。今回の事件だけで書き込みの量は相当なものになっていた。どうか自分の働きが少しでも報われて欲しい。自分のため、事件で涙を流した人たちのため、そしてずっと前から泣いていた人のために、そう願った。
懐にメモ帳と鉈からの手紙をしまって、立ち上がる。そして壁にかけてあるリボンの中から、一番のお気に入りを選ぶ。
「じゃ、行きますか」
リボンをくすんだ金髪にキュッと結んで、ヤマメは事務所を後にした。湯飲みからは、まだ湯気が立ち上っていた。
自警団の西区分所を訪れてみると、先日とは違ってほとんど人が出払っていた。数少ない待機組の一人はヤマメを認めると、ギロリと目を剥いた。
「来やがったな」
「呼ばれたからね」
「ふん。会議室に行くぞ。あそこなら邪魔は入らねえ」
ヤマメは鉈の後を歩きながら、ガランとした所内を見回して言った。
「……今日は人が少ないね」
「人員はあらかた駆りだされてるからな」
それはつまり、自警団が事件を詰めにかかった証だ。左はもう犯人を逃がさないと言っていた。彼らが犯人を討つのも、時間の問題だ。
焦りそうになるのを自制する。真相に近づいているのは自分も同じはず。ヤマメは軽く息を吐いて言った。
「ナタさんは行かなくていいの?」
「留守役を下っ端と代わったんだよ。おめえを待つためにな」
「まーた強引なことやったんじゃないでしょうね?」
「けっ、誰のためだと思ってやがる誰の」
ずいとヤマメを指を指しながら、鉈は歯を剥いた。その下っ端さんには悪いが、こちらにも事情がある。後で埋め合わせをしようと決めたところで、会議室についた。適当に座るよう言われ、ヤマメは椅子を引っ張ってきた。先日座った椅子と同じだと気がついたが、胸の内はまるで違う。
鉈もヤマメの対面に陣取り、そして紙束を差し出してきた。
「頼まれてたもんだ」
ゴクリと唾を呑み込む。これでまた、真実への糸が伸びるのだ。
受け取って、パラパラと資料を覗く。字は汚いが、肝心の薬の情報はよく纏められているようで、中にはヤマメが知らない情報も見受けられた。ヤマメは感心して言った。
「すごいや……。ちゃんと情報とってきてくれたのももちろんだけど、ナタさんにこんな丁寧な仕事が出来るなんて」
「てめえそりゃどういう意味だ」
「いやだって、ナタさんにデスクワークのイメージがまるで無いんだもん」
「この野郎、俺がどんだけそれ作るのに苦労したと思ってやがる」
「あ、やっぱり苦労はしたんだ」
「クソッたれ、チンピラども相手にしてる方が百倍楽だぜ……」
よく見ると、鉈の目元にはくっきりと隈が浮かんでいた。いつもならこういう事務的作業は手下に任せるだろうに、左のこともあって慣れぬ仕事に手を出したのだろう。
苦々しげな顔を浮かべていた鉈はゴホンと気を取り直して、言った。
「詳しいことはそいつを見りゃあわかると思うが、お前の知りたがっていた“ヤバいブツ”の正体が知れた」
ヤマメは資料をめくり、該当箇所を探し出す。すぐに大きな文字の下に赤い線で強調された所を見つけた。ヤマメは鋭く目を細め、そのキーワードを噛みしめるように口にする。
「“胡蝶夢丸”……“ナイトメアタイプ”」
悪夢。いかにもなネーミングだ。
「これが、“ヤバいブツ”?」
「いや、そうじゃねえ」
ヤマメが尋ねると、意外にも鉈は首を振った。ヤマメはもう一度資料に目を落とし、鉈は説明を続ける。
「“胡蝶夢丸ナイトメアタイプ”自体は単に悪夢を見るために使う代物に過ぎねえ。上で天狗どもが発行している新聞でも取り上げられる、その程度のもんだ」
「あ、悪夢を……? なにそれ、“胡蝶夢丸”以上に使い道がわからないんだけど」
「俺が知るかっつうんだ。世の中には物好きがいるってこったろ」
釈然としないながらも、とりあえず納得する。どうやら本題はこの先にある。
「問題となる“ヤバいブツ”ってのは、こいつの強化版だ」
「強化版……」
「ああ。どうやら“ナイトメアタイプ”を元に、薬効を捻じ曲げた上で強力にしたもんでな。飲むと過去にあった嫌なことを根こそぎ思い出させるらしい」
「嫌なことを根こそぎ? それってさとりさんみたいにトラウマを想起させるってことなのかな」
「多分な。しかもこいつは、地霊殿の主のように加減が利くもんでもねえ」
資料に目を落としたまま、言葉を失う。なんという残酷な薬か。
人間も妖怪も、長く生きれば生きる分だけ、当然酸いも甘いもより多く噛みしめることになる。その蓄積された過去の痛みを全て引きだされたとしたら、人はもとより、いかに妖怪といえどひとたまりもないのではないか。いや、むしろこの場合妖怪にこそ効果覿面と言った方が正しいだろう。妖怪は、人間よりも遥かに長く生きるのだから。
「まるで、毒薬そのものじゃないか」
そんなものを飲んで、もし自分の過去が引きずり出されたとしたら――。
ヤマメがそう想像した瞬間、燃え盛る旧都と鬼の笑みが、火花のように頭をよぎった。
思わず口を手で押さえる。
「ん? おい黒谷、なんかおめえ顔が青いぞ。どうした、ビビっちまったか?」
「……いや、大丈夫」
「そうか……? なら続けるぞ」
頷いて、深呼吸する。
こんなところで昔に囚われていてもしょうがない。今は一刻も早く前へ進まねばならないのだ。
「で、この薬なんだが……どうやら上の薬師とやらの手によるものじゃねえようだな」
「誰かが元の薬を手に入れて勝手に弄ったってこと? 確かに上の薬師は良心的だって評判らしいし、こんな危ないもの作るとは思えないけど……だとしたら誰が」
「それはわからん」
鉈はきっぱりと言った。いっそ堂々とした態度だったが、もちろんヤマメは見過ごさない。
「ええっ? そこは大事なところでしょ」
「しょうがねえだろ、本当にわからねえんだからよ」
「売人たちを締め上げたんじゃないの?」
「うるせえ、当然締め上げたっつーの。だが並のチンピラはそもそも知らねえって震えるだけだ。俺が情報とったのは骨はあるがいけ好かねえ連中からだが、こいつらもそういう薬があると知ってるだけで、自分では扱ってねえんだよ」
ヤケになったようにまくしたてた鉈は、バツが悪いのか顔を背けた。ヤマメは思わず眉を寄せて呆れたように問う。
「信用できる情報なんでしょうね、それ……。なんかものすごーく胡散臭いんですけど」
「ったりめえだ。そこは取引やら何やら絡め手使ってとったもんだからな。ワルってのはクソ野郎だが、そこらへんの約束はきっちりしてやがるもんだ」
「うーん、まあそれもそうか。で、誰が扱ってるかはわかるの?」
「ああ、何でも地底じゃ見慣れない奴がコソコソやってるらしいな。連中澄ました顔してやがったが、自分のシマが荒らされてんだ。内心穏やかじゃねえだろうよ」
「見慣れない、ね……。もしかしてその売人も地上から?」
「どうだかな。ま、碌でもねえ輩であることは間違いあるめえ」
新情報の分、また別の謎が生まれてしまった気がするが、とりあえず頷く。そしてまた資料をめくり、そこにある記述に目を瞠った。顔を上げて鉈を見る。彼女を見返す鉈の表情も引き締まっていた。
「気づいたか」
「ナタさん、これって」
「そう、こいつが今回の目玉だ」
ヤマメが食い入るように見ている箇所。それはまさしく、“怨霊憑き”誕生のメカニズムだった。
「てめえの睨んだ通りだったな。“怨霊憑き”は怨霊だけじゃあ成立しねえ。むしろこっちの薬が引き金だったってこった」
鉈の話を聞きながら、記述を目で追う。
“ナイトメアタイプ”の強化版は、服用した者の精神を限界まで痛めつける。そこへ傷ついた精神に惹かれて怨霊が集まってくる。
ヤマメがこの目で見た光景とまったく同じだ。
「普通なら精神を乗っ取られてそれでしまいだ。だが、ここで薬の効用が肝になってくる」
鉈が指し示した箇所には“胡蝶夢丸ナイトメアタイプ”強化版の裏の、あるいは真の効用が記されていた。
ヤマメはそれを、自分の頭に叩き込むように声を出して読んだ。
「『この薬は服用者に過去のトラウマを一瞬で追体験させることで、怒りや憎しみ、悲しみといった負の感情を増大させる。そうして負の方向に強化された個は、怨霊による存在の書き換えを防ぐほどになる。結果、個を保ったまま、怨霊を取り込んで力を得ることができるようになる』……」
「どうよ。反吐が出るだろ」
「メチャクチャだ……」
忌まわしい呪詛を唱えたような嫌悪感が、ヤマメの体を奔る。
ここに書いてあることは、言うなれば熱い鉄を何度も叩いて強固にするのと同じ理屈だ。ヤマメも自らの裡に潜む魔と向き合うという、似たような鍛錬を行ってきた。しかし精神の強化とは、本来長い時間を掛けて少しずつ為されるものだ。もし実際に記述通りのことが起これば、妖怪の精神は瞬時に強化されるのと引き換えに、深刻なダメージを負うだろう。いくら強度が強くなったからといって、無理な叩き方で傷がついては元も子もない。
「実際、陽は一見してまともじゃなかった」
精神の書き換えは確かに防げたのかもしれない。だが、ギラギラとした瞳はケダモノのようにおぞましく、暗く燃える妄執の炎を宿していた。あの様子では怨霊が書き換えるまでもなく、ボロボロになった精神は遅かれ早かれ暴走していたに違いない。
「つまり、それが薬の副作用ってことか」
鉈が心底不愉快と言った表情で吐き捨て、ヤマメは神妙な顔で頷く。この薬を捨て置くわけにはいかない。二人はその認識を無言で確認し合った。
そういえばと、ヤマメはふと気になったことを問うた。
「この情報、もう旦那には上げてるの?」
ヤマメとしては確認のつもりだったが、鉈の返答は予想外のものだった。
「ん? まだだがそれがどうした?」
自分の顔が引きつるのを、否応なく自覚した。一方、目の前の鬼は素知らぬ顔である。
「いやいや、それがどうしたって大問題じゃないですか。これ、かなり重要な情報だと思うんだけど、旦那差し置いて私に渡したのはさすがにまずいんじゃ……」
「てめえに言われなくともこの後すぐ上げるっつーの。別に報告しねえってわけじゃなくてちょっと順番が逆になるだけだ」
「いやいやいやいや、そうじゃなくて組織の体裁みたいなもんが、なんかこう、あるでしょ」
ヤマメとしても自警団の秩序を乱すのは本意ではない。そのうえ今のヤマメは左、あるいは自警団と袂を分かったも同然の状態、こうして分所に来るのも本当は好ましくない身である。そんなヤマメの憂慮を鼻で笑い飛ばすように、鉈はいつものぶっきらぼうな調子で言った。
「何をウダウダとぬかしてやがるんだてめえは。薬のことを調べろって押し掛けてきたのはてめえだろうが」
「それはまあ、そうだけど……」
「ならこいつは真っ先にてめえに知らせるのが筋ってもんだろうよ。違うか?」
鉈は当然のようにそう言い、ヤマメは目を丸くする。
納得した。いや、させられた。組織の道理を越えた鬼本来の義侠心に、ヤマメは感嘆の息を漏らす。
「やだナタさん男らしい。さすが鬼っていうか、ナタさんもつくづく義理堅いね」
「あ? 今さら何言ってんだ。俺が約束違えるわけねえだろ。ナメんな」
そう言いながらも、鉈の表情は誇らしげで、得意そうに胸を張っている。この辺が終始厳格な左との違いである。
鉈の厚い義理堅さには感謝しなければならないが、しかしヤマメの現状とはまた別問題である。
「まあでもこのこと、旦那には言わない方がいいね。お互いのためにも」
「あん? 何でだよ」
ヤマメは簡単に昨日のことを話した。すると、鉈はなぜか訝しげに眉をひそめた。
「んん? いやでもよ、俺ァさっきお頭に言われたところだぜ。おめえがなんか言ってきたらそっちを優先して協力しろってよ」
「え、旦那が? さっき?」
「おめえの勘違いじゃねえのか? なんだかんだ言ってお頭はおめえのこと認めてるみたいだしよ。いいか、おめえもっとお頭に感謝しろよ? あの人に目をかけてもらえるなんて、すげえ名誉なことなんだからな」
鉈の話は後半聞き流しながら、ヤマメは首を捻った。
左の真意がどこにあるのかがわからない。しかしよくよく昨日の会話を思い起こしてみると、確かに「勝手にしろ」とは言われたが、「協力しない」とは一言も彼の口からは出ていない。いささか都合の良すぎる解釈ではあるが、もしかすると――。
「おいこら、ボーっとしてんじゃねえ」
そこまで考えが及んだところで、割り込む声があった。鉈は苛立たしげに腕を組んでいる。
「ん、ああごめん」
「おいおい、まだ寝ぼけてんのかよ」
「まさか。こんなに刺激的な情報もらっちゃったんだ。二日酔いも一発で覚めるってもんさ」
「へっ。とりあえず俺が調べたことはその資料に纏めてある。後でよく目ぇ通しとけ」
「ああ、恩に着ますよナタさん。旦那にもよく言っておくね」
「おう、懇切丁寧にな。俺がわざわざ動いてやったんだ。無駄にすんじゃねえぞ」
資料を持参した袋に入れ、頭を下げる。そして会議室を辞そうとしたところへ、「おい」と、ヤマメの背中に鉈が呼びかけた。ヤマメが振り向くと、鉈は戸の向こうを伺うように首を伸ばして、切り出した。
「いいか。今から俺が言うことはお頭に報告しなくていいからな」
ヤマメは訝しげに思いながらも頷くと、鉈は続ける。
「これは俺の勘だが……。今回の事件を終わらせるのは俺たち鬼じゃねえ。黒谷、多分おめえだ」
いきなりそんなことを言われ、ヤマメは戸惑った。よりにもよって鬼の自警団の拠点でなんと大それたことを。思わずヤマメも鉈がやったように戸の方へ首を向けてしまう。慌て顔のヤマメと、余計なことを言ったという風に忌々しげに顔を歪める鉈。妙な気まずさが二人の間を流れたが、それを振り払うように鉈はゴホンと一つ息をつく。
「気張れや、“はぐれ蜘蛛”」
歯を剥いてニッと笑い、鉈は拳を突き出した。
この若き鬼の青年は、事件の中心にいつも半人前扱いしている土蜘蛛の娘を据えた。プライドの高い鬼にそう認められるのは誉れであり、また重責でもあった。思いがけぬプレッシャーに、ヤマメはゴクリと唾を呑み込んだ。しかしこの程度の重圧を背負えずして、どうして“はぐれ蜘蛛”の名を背負えようか。
ヤマメは重圧すら心を奮い立たせる力とし、鉈の拳に応えるように親指を突きたて、笑った。鉈はそれを見て「生意気な」と呟いたが、その顔には依然豪快な笑みが浮かんでいた。
会議室を出て、意気揚々と廊下を歩む。
「言われなくとも」
人が出払ってガランとした自警団の分所に、ヤマメの声が響き渡った。
12.
ヤマメは再び地上と地底を結ぶ橋へ向かった。橋の中心では、先日と変わらぬ様子で橋姫が佇んでいる。ヤマメの姿を認めると、珍しく向こうから声を掛けてきた。
「長引いているようね」
ヤマメは少し面食らったが、肩をすくめながら応じた。
「まあね。でも、もうすぐ終わる」
「それは勘?」
「決意表明さ」
ヤマメの強い意志を込めた眼差しを、橋姫の緑眼が受け止める。ヤマメは定位置となりつつあるパルスィの隣で、欄干にもたれかかった。そして前置きもせず、切り出す。
「姫さんは人の居場所とかはわかる?」
「それは無理」
即座に返答が返ってきた。
「流動的な情報は私向きではないわ。住所ならわかるけど、そういうことではないのでしょう?」
「まあね」
風子が消えた。
その報告が入ったのは、ヤマメが分所を出るというまさにその時だった。重要参考人として話を聞こうと、鬼たちがあの寂しい住居に出向いた時には、家の中はもぬけの殻だったという。ちょっと出かけたという風でもなく、家の中のものは全て処分され、生活の痕跡が消えていた。これをもって鬼の自警団は風子の扱いを重要参考人から事件の容疑者へと切り替え、目下全力を挙げて彼女の行方を捜索中である。
『動きやがったな』
ともに報告を聞いた鉈の呟きが、今もヤマメの耳に残響する。
事件は終わりに向けて急速に収束を始めた。鬼やヤマメの地道な捜査が実を結んだ結果と思いたいところだが、しかしヤマメは嫌な予感がしていた。その予感が見せる事件の完成図は、決してヤマメが望んでいるものではなかった。
一刻も早く、風子に追いつく必要がある。闇雲に探す時間は当然なく、ヤマメはなんでもいいから指針を求めて、パルスィのもとへとやってきたのであるが。
「ご愁傷様。無駄足だったわね」
特になぐさめるでもなく、淡々とパルスィは言う。しかしヤマメは首を横に振った。
「さすがにピタリと居場所を教えてくれるとは思ってないよ」
「そう、意外と賢明ね」
「私が本当に聞きたいのは、昔話。それも多分姫さん向きのね」
パルスィの緑眼がすぅ、と細められた。興味を惹いた証拠だ。パルスィは無言で続きを話せと促す。
「私は依頼人の涙を拭いたいと思った。でも、よくよく考えたら、私はその人のことを何も知らない」
あの日、ヤマメの事務所の扉を叩いた地獄鴉の少女。
彼女はヤマメと出会うまで、どんな風に、どんな思いを抱えて生きてきたのか。そしてこの事件で、何を考え、自らの立ち位置をどこに据えたのか。身勝手な想像を巡らすのはたやすいが、本当に彼女を救おうと願うのなら、今の認識のままでは足りない。
「地獄鴉と白狼天狗の許されない恋。この地底で、かつてそんな話があったはずだ。それを詳しく聞かせてほしい。そこに私の依頼人を助けるヒントがあるかもしれない」
これまでは深く入り込まぬようにしてきた、風子の過去。真実へと糸を通すために、今こそヤマメは知らなければならない。
「力を貸してくれ姫さん。風子さんを救うためには、貴方の力が必要なんだ」
ヤマメは不退転の意思とともにそう言ったが、それを受け止めたパルスィの様子がおかしい。
いつかのようにヤマメの言葉に気分を害したという風でもなく、なぜか彼女は虚を突かれたように、目を丸くしている。怪訝に思って「姫さん?」と声を掛けると、パルスィはハッとし、そして少し思案した様子を見せてから言った。
「……貴方の依頼人の名前は風子というの? 姓はもしかして津河?」
「え? ああ。そうだよ。よかった、やっぱり知ってるんだね」
「それで、貴方が聞きたい地獄鴉と白狼天狗の話というのは、その依頼人の過去。そういうことでいいのかしら……?」
「う、うん」
「その話について、どこまで知っているの?」
「どこまでって……。風子さんに聞いた話だと大結界が出来た頃に相手と出会って好き合ったけど、すぐにお互いの今後のことを考えて、話し合いの末別れたって」
「依頼人がそう言ったのね? 話し合った結果だと」
「そうだけど……姫さん、それがどうかしたの?」
矢継ぎ早に質問を重ねたパルスィは、ヤマメの戸惑いをよそに、そのまま黙りこくってしまった。
ヤマメの胸にくすぶっていた嫌な感覚が、ジリジリと大きくなっていく。風子を疑い始めたときに書き換えられた事件の完成予想図が、また大きく変貌する、そんな予感。
やがてパルスィはいつになく鋭い視線を向けた。見慣れないその真剣さは、ヤマメの予感に真実味を持たせる。そしてパルスィは口を開く。
「ええ、話しましょう。私の知っている、地獄鴉と白狼天狗の昔話を。もっとも、これは悲しくも美しい恋物語、などではないわ」
***
もうすぐ全てが終わる。
彼女は地底の片隅で、一人そんなことを思った。彼女の前には無造作に岩塊が転がっている。
それは墓標だった。墓碑銘は刻まれず、参る者も彼女以外にはいない。誰も寄りつかない廃獄のような場所に転がるその墓標は、そこに眠る者の辿った人生の虚しさを、そのまま表しているようだった。
死んだことさえ誰にも知られず、そして省みられない。そんな結末。
だからこの墓標は、彼女なりの精一杯の抵抗だった。彼の者が確かに存在し、消えていったことを証明するために、どうしても目に見える形が欲しかった。そしてこの墓標には最近、存在証明の他に重要な意味が出来た。いや、その意味合いが強くなったというべきか。
彼女がここを訪れる回数は、ここひと月ほどの間に随分と増えていった。虚しい抵抗の証を前にするたび、彼女の心でマグマのようにグラグラと沸き立つ感情を確認した。決してこの意思が冷え切ってしまわぬように、何度も何度も。
――復讐だ。
何に? という問いは、既に意味を失くしつつあった。計画を思いついたあの瞬間、自分の中でこれほどまでに強い復讐心がくすぶっていたことを、彼女は初めて知った。そしてそのときから、自分にはもう後がないということもわかっていた。
それでいい。
もとより誰かの罪を肩代わりして禊き続けるだけの、意味のない生だ。本懐を遂げられるのであれば、計画で出るであろう犠牲も、自分の命も、もうどうでもよかった。いよいよ自分が畜生にも劣る存在に堕ちたことを自覚しながら、彼女はゆっくりと立ち上がった。
「もうすぐ終わるよ、お母さん」
「終わらせないさ」
墓標に向けて呟いた独り言に、思いがけず応える声があった。
振り向いて目に入ったのは、彼女が利用した駒の一つ。
全てが影絵のように輪郭を失う地の底の暗がりにおいてなお、凛として屹立するその姿は強い存在感を漲らせていた。
「絶対に止めてみせるよ、この私が」
誰からも忘れられた彼女たちだけの場所に、“はぐれ蜘蛛”の糸が届く。
――ああ、この人がいたか。
彼女は我知らず、幻のように微かな微笑みを浮かべた。
13.
「ようやく追いついたよ、風子さん。いや」
ヤマメはそこで言葉を区切り、息を吸う。その先を言ってしまえば、否応なく事件は終わりに向かう。覚悟を決めて、ヤマメは続きを口にした。
「“雪絵(ゆきえ)”さん。それが貴方の本当の名前で、貴方はそこに眠る風子さんの娘だ」
“雪絵”と呼ばれた少女は、ヤマメの指摘にも表情一つ変えない。仮面のような表情のまま、少女は言った。
「その様子ですと、貴方は全てをご存じなのですね」
「さあ、それはどうかな。なにぶん、無い頭ひねって出した解答なもんでね」
ヤマメがあえて冗談めかして言うと、少女はほんの少しだけ笑ったように見えた。
二人の間をさあ、と柔らかい風が通り抜ける。
少女の、雪のように真っ白な長髪が、風に抱かれてゆっくりと揺れた。
「最初から引っ掛かってはいたんだ」
ヤマメはそう切り出した。
「博麗大結界形成の頃に、貴方の言うような大恋愛をしているとすれば、貴方はそれなりの年月と経験を重ねているはず。いくら私たち妖怪の見た目が当てにならないからと言って、やっぱり同じ妖怪が見ればそういうのはわかるんだよ。キスメさんくらいまでいくと上手いことその辺隠したりもするけど、それでも時々大先輩の貫録みたいなのを感じるしね。
でも、貴方からは失礼ながらそういう気配は感じられなかった。少なくとも私より年上とは思えない。私たちは精神に依る存在だ。壮絶な体験を経たのなら精神にも当然影響があるだろうし、精神の変化に引っ張られて纏う雰囲気も、相応のものになるはずなのにも関わらず、だ」
ヤマメは必死で考えを纏めていた。
探偵小説の主人公のようにはいかないまでも、きちんと筋道を立てることに努める。
「それに、貴方が語った過去の話には、曖昧な部分が多かった。陽さんと出会った年月、彼が地底に下りてきた目的、まあこの辺は些細なものだとしても、二人が知り合ったきっかけもはっきりとしないのには、ちょっと違和感を覚える」
もっとも、これらの違和感は風子改め雪絵に疑念を持って初めて、明確に形になったものなのだが。
思えば、キスメは風子の話を聞いた時から「嫌な感じがする」と言っていたか。彼女もまた、同じ違和感をよりはっきりと抱えていたのかもしれない。
「多分母上からの伝え聞きだったから、詳細な部分はぼかさざるを得なかったんじゃないかな。どうだろう」
ヤマメの問いに、雪絵は否定も肯定もしない。
ヤマメはいったん息をつき、気を取り直す。
「ここまではまあ、私の印象の話。本題はこれからだ」
ヤマメが地底中を駆けまわり、人脈を駆使して得た情報。
それらを組み立てて出来上がった絵を、雪絵に提示する。
「貴方が語った話には、嘘がある」
雪絵の顔がわずかに強張る。ヤマメの話に対して見せた初めての反応だ。
無理もない。これからする話は、彼女たち母娘の名誉に関わる部分だ。それでもヤマメは、恨まれるのも承知で続ける。
「貴方は風子さんと陽さんは円満に別れた旨のことを言ったけど、実際はそうじゃない。陽さんは、一方的に風子さんを捨てたんだ。彼女が自分の子どもを宿していることも知らずに」
どうしてそうなったのかは今となってはわからないが、嫌でも想像はつく。
雪絵はお互いの未来のためと語ったが、陽が慮ったのは果たして本当に二人の未来だったのかどうか。
「一人きりになった風子さんを待っていたのは、容赦のない地底の住人の蔑視だった。禁忌を犯した風子さんへの迫害は、当時はかなりのものだったみたいだね」
他人事のように言っているが、自分に彼らを責める資格があるだろうか。もし風子のことを知っていたとして、かつての彼らと同じ視線を注ぐことはないと言い切ることは、できなかった。
「そんな辛い現実の中で、風子さんは娘を授かる。それが貴方だ、雪絵さん」
雪絵の顔の強張りは消えていた。能面のような表情だった。
「風子さんは地底の外れで娘である貴方と暮らし始めたけど、しばらくして亡くなってしまう。貴方はそれをきっかけとして都の方に移り住み、そして今に至る。悪いとは思ったけど、貴方の家も家探しさせてもらったよ。そこでこの場所のことも知ったんだ」
以前彼女と都でバッタリ出会った場所。雪絵の本当の住居があったのは、その近くだった。
「私が招かれたあの家は、昔貴方が風子さんと暮らしていた場所なんだろう。長い間放置されてたのだとすれば、あの家の有様にも納得がいく。あそこに陽さんを匿っていたのかな。誰も近づかないあの場所は、隠れ家にはもってこいだ」
依然雪絵は何も口を挟んでこない。ヤマメはそのことに少しの緊張を覚えていた。気持ちを落ち着かせるために深呼吸をし、言った。
「そして事件の話だ」
いよいよ核心に迫る。ヤマメはあくまで、これまでと変わらない調子で続けた。
「貴方がどこで危険な薬の噂を聞きつけたのかは知らないけど、とにかく貴方は薬の売人と接触し、望みの品を手に入れた」
鉈の資料には、真っ白な髪の女が、地底では見慣れない商人風の人物と話していたという目撃証言が記載されていた。おそらく取引の現場だろう。
「そして貴方は大きな特徴である真っ白な髪と羽根の色を黒に染めて、風子さんそっくりに変装した。私は本物の風子さんを知らないから、どれくらい真に迫っているのかはわからないけど、陽さんを騙せたということは相当似ているんだろうね」
“最近大胆にイメチェンした都の娘の話”。
最初に訪ねた際、既にパルスィが戯れに語ろうとしていたことである。
「姿を変えて地上に赴き、陽さんとも接触を試みた。天狗の山はいやに排他的だから、警備の天狗に手紙か何かを託したのかな。多分、風子さんの名を使って。そして地底におびき出した陽さんに復讐をもちかけ、薬を渡した。貴方が自分で薬を使わなかったのは、副作用のことがあったから。そして何よりも、貴方の本当の復讐の対象は、母親を捨てた陽さんだったからだ」
そこまで言って、ヤマメは少し目を細める。
「都での破壊活動は、単に彼に薬を使わせるきっかけに過ぎない。鬼の警備の手薄なところを貴方が選んで案内し、現場付近に身を隠した陽さんはそれに従って暴れる。一見共犯のような形だけど、貴方の真意は何度も薬を使わせて陽さんを苦しめることにあった。覚えているかな。私たちが陽さんに襲われたとき、彼はこう言ってたね。“話が違う”と。貴方は薬の致命的な副作用を知らせていなかったんだ。あの時にはもう、薬を使い続けた陽さんの精神は手遅れの状態だったんだろう」
ヤマメがそれほど労せずして人狼を倒せたのも、彼が戦闘に不慣れだったというだけではなかったのだ。
「貴方が私をおびき寄せたのか、それともたまたま偶然が重なったのか。とにかく私とぶつかってボロボロの陽さんを、最後は貴方自身の手で葬った。この時に初めて薬を使ったんでしょ?」
ヤマメは真っ白な羽を取り出した。
証拠を見せられても、雪絵の顔色はまったく変わらない。
「陽さんを川に放り捨てて変化を解き、鬼の方々を呼んで現場に戻ってくるとなると、相当なスピードが必要になる。あの竜巻も貴方の仕業だね。まるで鴉天狗、それも大妖怪クラスの力だけど、薬を使えば、それも可能になってしまうってことか。……これで私の話は終わり」
そしてヤマメは右手の人差し指を突きつけ、敢然として言い切った。
「事件の黒幕は貴方だ、雪絵さん」
雪絵はゆったりと目を閉じる。
地底の暗がりに、風の音だけが溶けてゆく。この場所の空気、ヤマメには覚えがあった。以前雪絵、その頃には風子と名乗っていた少女に招かれた、あの寂れた家。彼女に縁のある場所には、寂しさしかない。
やがて、雪絵が静かに口を開いた。
「それが貴方の答えですか?」
相変わらずの無表情だったが、ヤマメを見据える瞳には、強い意思を宿していた。
ヤマメは腕を下ろして、首肯する。すると、雪絵はこの場には似つかわしくない、柔らかな笑みを浮かべた。喜びをたたえているようですらあった。
「では、貴方が終わらせてくれるのですね?」
それは、ヤマメの推理を肯定するも同然の問いであると同時に、事件が最後の局面に入った合図でもあった。
ヤマメは奥歯を噛みしめながら、鋭く目を細めた。
「終わらせるさ。でも、貴方の思い通りの結末にはさせない」
ヤマメの答えに、雪絵が表情を硬くした。
「貴方の計画は、最初から退路を用意していないみたいだ。陽さんを殺してしまったら、彼に一番近い貴方が疑われるのは少し考えればわかることなのに、上手く逃げおおせようという意思がまるで感じられない。多分貴方はこの後都を襲って、その末に鬼に倒されるつもりだったんだろう。地底を騒がせて、陽さんを始末して、そして最後には犯人として討たれる。自分の死さえ織り込み済みの計画。そんなの、無理心中と何も変わらない……!」
絞り出すようなヤマメの声に、雪絵は息を吐く。彼女の髪と同じ白い吐息が、地底の闇と一つになる。
「……そこまでご承知なのですね。正直に言って、貴方を甘く見ていました」
雪絵はまた笑った。その何もかも諦めきったような笑みを見て、ヤマメの表情は対照的に険しくなる。
「もうやめよう、雪絵さん」
地の底よりも遥かに深く暗い闇の中へ自分から突き進む少女に、どうにかして手を差し出す。そんな思いで、ヤマメは必死に呼びかける。
「鬼の自警団にも連絡はしてあるし、じきにここへ到着するはずだ。大人しく出頭すればあの人たちだって、手荒な真似は絶対にしない」
本当は彼らが合流してから事を進めたかったが、時間がそれを許さない。もう少しでも遅れていたら、きっとヤマメは彼女と話をすることも出来なかっただろう。
ヤマメはもはや祈るような思いで、声を投げかけ続ける。
「貴方はこの地底を泣かせている。そして貴方自身をもだ。これ以上罪を重ねたって、意味なんかないよ」
そこまで言って、ヤマメは雪絵の反応を待った。
雪絵はゆるゆると首を振った。笑顔には変わりないが、ヤマメにはそれが今にも泣き出しそうな表情に見えた。
「ヤマメさん、貴方のお話にはいくつか間違いがあります」
先ほど雪絵が自分の犯行を認めるような発言をしたばかりだったので、ヤマメは虚をつかれた。
ヤマメの戸惑いとは裏腹に、雪絵は淡々と話す。
「母が死んで都に移り住んでからも、私に向けられる視線は冷たいままでした。時代も変わって、昔のように露骨な敵意を向けられることはありませんが、そんなの、何の慰めにもなりません」
キュッと、雪絵の顔が引き締まる。口調こそ穏やかだが、それは心中に渦巻く感情を必死で抑制している証にすぎなかった。
ヤマメは初めて、彼女の本当の胸の内を垣間見ているような気がしていた。
「私が何をしたのか。ただ普通に生きたいだけなのに、周りの人たちはそれすらも咎めるように無言で私を追い詰める」
雪絵は自らの真っ白な長髪の束を、恨みをこめるようにギュッと握りしめる。
「この容姿がいけなかったのでしょうか? そう考えて、髪も羽根の色も変えました。せめて同族にくらいは馴染めるよう、真っ黒に。――母のように」
それが、ヤマメの見慣れた雪絵の容姿だった。それは、運命に対する彼女の精一杯の抵抗に他ならなかったのだ。
雪絵は自嘲するように笑って、続ける。
「容姿さえ馴染めれば、私に対する目も少しは変わる。本気でそう信じていました。私は必死で、そして愚かでした」
雪絵は唇を噛んで俯く。
「もちろん何も変わりません。そしてある時、同族の老婆に、こんなことを言われました」
――鬼子がワシらの真似事かい。
「……そんな」
「信じられませんか? でも事実です。嫌われ者たちが集ったこの地底にさえ、私の居場所なんてどこにもなかった」
「違う! それは違うよ雪絵さん!」
「否定してくださるのですか? ふふ、ヤマメさんは優しい方なんですね」
そう言って柔らかく微笑む。この場面で浮かんだ非の打ちようのない笑顔は、逆に一切の同情を拒絶しているようで、ヤマメは言葉を失う。
「ですがそんな私にも、希望はありました。まだ顔も知らなかった父のことです」
微笑みながら、目を閉じる。
「都で迫害されている頃も、あの場所で病床に伏せってしまってからも、母は死ぬまで父のことを悪く言ったことはありませんでした。あの人は優しい人だった。あの人にも立場があったから仕方なかった。全ての罪を自分で被ろうとするみたいに、母はずっと父のことを擁護し続けました。私も信じようとしました。父が母を捨てたという周りの声にも、必死で耳をふさぎました」
彼女は信じようとした、と言った。内心ではもう理解していたのだろう。だが、彼女が辛い現実の中に見出した優しい希望は、もうそれしか残されていなかった。母の語る父の記憶にすがるしかなかったのだ。
「容姿を変えても都の人たちに受け入れられず、ショックを受けていた私は、ふと父に会いたいと強く思うようになりました。その衝動のまま、上の妖怪の山に赴いて、警備の方に、父に会いたいと申し出たのです。名前を出すと会ってくれないかもしれないから、素性は伏せました。――今思えば、これがいけなかったのでしょう。私と会った父は、最初は誰だかわからないみたいに、髪を黒く染めた私をジロジロと見て、やがて目を見開いて、私を呼んだんです」
――風子!
雪絵は全身を震わせ、俯いていた。隠し切れない怒りが、その身から滲み出ている。
しかしヤマメには、雪絵がここまで憤る理由がわからなかった。
「そりゃあ母上と間違われたのは不愉快かもしれないけど……。でも貴方は風子さんの娘なわけだし、その上彼女と同じように髪を黒く染めていたんだ。時間も経っているし間違えてもしょうがないんじゃ」
「違うんです」
雪絵はヤマメの疑問を切り捨てた。思いがけない強い口調に、ヤマメの肩が跳ねる。
そして雪絵は、吐き捨てるようにして言った。
「私たち母娘は、似てなどいないんです」
もう感情を隠すこともやめたように、雪絵の声は、明らかに震えていた。
「貴方は私の容姿が母と相当似ていたのだろうとおっしゃいましたが、そうではありません。血が繋がっている訳ですから、少しは面影はあるかもしれません。でも、仮に二人が並べば、髪の色の違いを除いてもほとんど別人と言っていいほどでした」
雪絵の告白が意味するところ。それは、つまり。
衝撃を受けたヤマメの思考が理解に追いつく前に、雪絵は言った。
「私の父は、母の顔などもう覚えていなかったのです。“母は手癖の悪い好き者の天狗に遊ばれた”。都の評判の通りでした。自分のことを知っている地獄鴉の女なんて限られていますから、とっさに思い出して判断したのでしょう。色々と優しい言葉や贖罪を並べ立てましたが、それが単なる上辺の態度だということは、初めて会う私でもわかりました」
雪絵は強く拳を握りしめる。掌からは血がのぞいていた。
「こんな上っ面だけの男に騙された母も愚かだったのでしょう。でも、母は……母は、最期まであの白狼天狗を愛していました。本当に愚かでしかないけれど、その思いだけは本物だったんです。それなのに。――それなのに!」
悔しさを滲ませた雪絵の小さな叫びが、地底の暗がりの静寂を切り裂いた。泣いているのかと思ったが、涙は落ちなかった。
雪絵は大きく息を吐いて顔を上げる。それで少なくとも表面上は落ち着いて見えた。
「……後は、概ねヤマメさんの言う通りです。薬のことを知って今回の計画を思い立った私は、変装して薬を手に入れました。……元の姿に戻るのに変装というのもおかしな話ですね。そして風子として父と接触を続け、復讐の名目で地底の襲撃を持ちかけました。父は悪びれもせず復讐に同意しましたが、実際のところ、薬の力に目が眩んだんでしょう。母とのこともあって立場が悪い自分の境遇に、相当鬱憤が溜まっていたようでしたから。私の計画にだって、それはもう嬉々として乗ってくれました。……本当に自己中心的で、虚栄心の塊のような男だったんです」
そして雪絵は笑う。
おかしくてたまらないという風に、クスクスと。
「これでわかったでしょう? 結局のところ、私のつまらない事情なんです。都が襲われるのも、父をこの手で殺すのも、そんな恐ろしいことをやった私が死ぬのも、全て私の望んだこと」
「全部望んだこと、だって……?」
その笑みには、これまで見たことの無かった、嘲りの色が含まれていた。
この世の全て、そして自分すらも無価値だという風に嗤う雪絵を見て、ヤマメの胸に、静かな怒りが湧き上がる。
「本気でそんなことを言っているのか、雪絵さん」
「もちろんです。だからヤマメさんのお話も、間違いなんです」
ピタリと笑いを止め、雪絵はこの寂しさに満ちた場所のように空虚な瞳で、ヤマメを見据える。
そして空恐ろしいほど乾いた声で、告げた。
「私に、泣く理由なんてありませんもの」
雪絵はいつの間にか、丸いビー玉のようなものを手にしていた。
14.
「ッ!? やめろ雪絵さん!」
ヤマメは目を見開いた。
気づいた瞬間、弾かれたように走り、全力で止めにかかる。だが、雪絵が丸薬を口にして噛み砕く方が早かった。苦悶の唸り声をあげる雪絵に、無数の怨霊が集まってくる。陽のときと、まったく同じ光景だった。
「雪絵さーーーーーん!」
いくら叫んでも、声は届かない。こうしている間にも、怨霊はどんどん雪絵の体に入り込んでいく。ヤマメはギリリと奥歯を噛みしめながら、両手を広げ目を閉じる。こうなってしまっては、とれる選択肢はただ一つだけ。
怨霊を取り込み続ける雪絵と、己の魔性を解放せんとするヤマメ。
二人の体からほどばしる妖気は逆回転の風となって、荒れ狂うような乱気流を生み出す。寂しさが支配していた地底の暗がりは、今や轟音で満ちていた。
ヤマメが括目して、紫色の妖気を纏う。弾けたリボンは、嵐にのって瞬く間に砂塵と同化していった。
「……くぅ!」
地面から引きはがされそうな強風の中、ヤマメが紫色に妖しく輝く瞳で見たもの。
体格はシャープながらも背は二回りほど高くなり、雪のように白く染まった巨大な翼を背負っている。
頭部は羽毛からくちばしまで真っ白な鴉の形に変貌し、鷹のように鋭い目だけが、その黒色を主張していた。
どこか美しささえ備える、純白の鳥人。それが、今の雪絵の姿だった。
「貴方が終わらせてくれないのなら、私がこの手で幕を下ろしましょう」
不自然な処理がかかったように響く声でそう言って、雪絵は大きく翼をはためかせる。風が渦を巻き、砂煙が容赦なくヤマメに襲い掛かる。たまらず目を覆うと、雪絵は今にも地の底の天へと飛び立とうとしていた。
「くっ! 待て……!」
遮二無二糸を繰り出す。強靭に束ねられた糸のロープは、風にも負けることなく突き進み、雪絵の左足に絡みつく。だが雪絵はそれにも構わず地面を蹴り、地底の空に向かって飛んだ。
「う、わあああぁぁぁぁぁあああああぁぁあぁッ!」
雪絵の翼は地の底の重い空気を裂いて、即座に最高速へと到達する。
「邪魔です!」
雪絵は凄まじい飛行速度に加え、縦横無尽の軌道でヤマメを振り落とそうとする。
「うう……ま、負けるかァッ!」
絡みついたロープはそれに引かれて大きくしなり、たわむ。当然ヤマメも既に天地の感覚が危うくなるほどに振り回されているが、それでも、決して雪絵を離すことはない。
雪絵がロープを断ち切ろうと、自らの羽をナイフのように振るう。しかし鋼鉄を遥かに上回る強度にしなやかさも併せ持つ蜘蛛の糸は、そう簡単に切れるものではない。おまけにヤマメの妖力も纏う、太く束ねられた糸のロープは、例え鬼の胆力でも引きちぎるのは至難の業である。
「……! 本当に、只者ではなかったのですね」
驚嘆の声をあげた雪絵は、攻め手を変える。風を切り続ける翼の一方をヤマメに向かって振るい、真っ白な羽を撃ちだしてきた。
風に乗った無数の羽は、弾丸のようなスピードでヤマメを叩き落とそうと襲い掛かる。ヤマメは薄目を開き、不自由な体勢ながらも最小限の動きでかわそうと身をよじり、ロープを繰った。
「ッ痛!」
ほとんどは、体をかすめながら地の底の空へと消えていく。しかし一本の羽が、ヤマメの右太ももに突き立った。決して大きなダメージではない。しかし今でこそ奇跡的に一撃食らうだけで済んだが、相手に制空権を支配されたこの状況。攻撃を繰り返されたら、針山になるのは時間の問題だ。
歯を食いしばりながら、一気に羽を引き抜く。鋭い痛みが一瞬走り、血が足を伝うが、構わない。それよりも重大なトラブルが目前に迫っていた。
「マズイな……」
眉を寄せる。振り回されているうちに、旧都の上空に出てしまった。旧都の住人が一斉に空を見上げ、二人を指さしながら口々に何事かを叫んでいる。
そんな地上の様相などまるで無視するかのように、雪絵は攻撃の第二陣を展開する。目を疑うような暴挙だった。ヤマメは顔から血の気が引くのを自覚しながら、叫んだ。
「駄目だ雪絵さん! 関係のない人たちまで巻き込む気か!」
「言ったでしょう……全て私の望んだことだと!」
ヤマメの声は届かない。彼女もまた、既に薬の力に飲みこまれていた。もう対象が何だったのかは問題ではなく、ただ復讐という暗い感情の赴くままに、雪絵は躊躇なく羽を撃ちだそうとする。
「くそ!」
とっさにヤマメは、ロープのしなりを利用して雪絵よりも高い位置に跳んだ。ヤマメを付け狙うように、羽は一斉に地底の天井の方へ奔った。完璧な回避を諦め、致命傷を避けるべく、防御の姿勢を取る。だが誘導の動きの分、一手遅れたヤマメの右肩に羽が突き刺さり、左わき腹の肉がわずかに削られた。ヤマメの体が再び雪絵の下へと落ちていく。
顔をしかめて腹を押えたヤマメの視界の隅で、雪絵はもう次の攻撃に移っていた。絶体絶命の危機だったが、ヤマメが眼下を見ると、いつのまにかまた都から外れ、ごつごつした岩場が辺りを取り囲んでいる。地上との距離も近い。
――ここしかない!
ヤマメは攻撃用に残しておいた左手から妖力弾を撃ち、飛んでくる羽を迎え撃つ。多少体をかすめても気にしない。
「!? 何を……」
ヤマメの表情からただならぬものを感じたのか、雪絵が警戒を深める。が、次の瞬間、ヤマメは雪絵の思いもよらぬ行動に出た。
「おおおおりゃあああああ!」
雪絵の高速飛行に振り回されながらも、ヤマメは空いた左手から右手と同じようにロープを繰りだした。だがそれは雪絵に向かうことなく、あらぬ方向へと伸びていく。
手元が狂ったか。
雪絵は、しかしすぐにその考えが間違いだと悟る。糸が伸びる先には、厳としてそびえ立つ岩の壁。糸が岩壁にビタリと張り付くと、ヤマメを中心として左手に岩壁、右手に雪絵が位置する形になる。
「……ッ! う、ぎ、ギギッ……」
大岡裁きの子争いのごとく、限界まで広げられた両腕に、引きちぎれそうな凄まじい負荷がかかる。あまりの痛みに叫び出しそうになるが、それでもヤマメは奥歯を砕かんばかりに噛みしめ、これに耐えた。
なんて無茶を……!
雪絵がそう思った瞬間、彼女の体が糸に引っ張られてガクンと傾いた。
「あぅっ!?」
高速で飛んでいた分、動きを止められた際にかかる力もまた、大きなものになる。
ヤマメはついに出来た大きな隙を逃さず、左手のロープを振り上げる。雪絵が目をみはるが、体勢は変えられない。
「こ、んのッ!」
裂帛の気合を込め、雪絵の右翼に向かって一気に振り下ろす。空気を弾くように高速でしなるロープは鋭い鞭となり、巨大な白い翼を切り裂く。何枚もの羽が、粉雪のように舞い上がった。信じられないという風に、雪絵はボロボロに裂かれた翼を見やっていた。
二人はほとんど墜落するように、地上に下りる。そしてすぐさま同時に立ち上がり、お互いと向き合う。先ほどまでの激しい攻防が幻と思えるほどに、辺りは静寂に満ちていた。凛と冷える空気が震えて、空から落ちてきた羽をそっと巻き上げる。
「もういいでしょ、雪絵さん」
舞う羽を払いながら、ヤマメは言った。
「その傷ついた翼じゃあ、さっきまでみたいな曲芸飛行は出来ない。ここらが潮時ってやつさ。それに、精神の方ももう限界に近いはずだ」
今の雪絵からは、表情の変化というものが読み取れない。しかし、その身に纏う悲しいまでの執念は、まるで衰えることを知らない。
雪絵は、一瞬彼女のものと判別がつかないくらいに低い声で応える。
「五体満足といかないのは、貴方も同じでしょう」
ヤマメは無言のまま片目を閉じて、右肩に刺さった羽を引き抜く。
雪絵の言うとおりだった。攻撃によるダメージはもちろん、妖力の方もロープの強度維持、そして翼を裂いた起死回生の一撃によってかなりの量が消費されていた。振り落とされて撃墜されなかっただけマシという状態だ。
「そうかもね。でも、貴方を止めるまで、倒れるわけにもいかない」
紫色の瞳は、揺らがない。
ヤマメの意思もまた、決して切れることなく傷だらけの体を支えていた。
半歩、右足を踏み出す。それを見た雪絵も、いつでも動けるように身構えた。
「……どうして、そこまで」
ふと、雪絵が漏らした。今の異形には似つかわしくない、小さな呟きだった。
「どうしてそこまで、私に構うんです。私は貴方を騙したのですよ? あんな、嘘の涙まで流して。今だってそうです。私はヤマメさんを殺そうとしているのに。私には、助けるだけの価値なんてないのに」
不自然に響く低い声には、明らかに戸惑いが混じっていた。善意を向けられることに慣れていないかのような、雪絵の疑問。少しだけ胸が痛んだが、同時に希望も湧いてくる。
雪絵はまだ、完全には精神を復讐心に委ねていない。遅きに失したけれど、まだ手は届く。
「たとえ嘘っぱちの涙だったとしても」
ヤマメはふっと、微かに微笑んだ。雪絵は戸惑いを深めるが、ヤマメは笑みのまま片目をつむる。
そして言った。彼女の背負う名が抱き続ける、不変の願いを。
「この地底では、誰にも泣いていて欲しくないのさ」
雪絵と同じだ。
相手が望まぬおせっかいを焼くのも、結局のところヤマメの事情に過ぎない。だから何と言われようが、ヤマメは自分の願いのままに動く。彼女の意思は、決して誰にも切ることは敵わない。
ヤマメの答えに、一瞬だけ雪絵の戦意が揺らぐ。そしてどこかもの悲しい声で言った。
「……もっと早く、貴方のような人に会えていたら……」
雪絵の呟きは風にかき消されて、ほとんどヤマメの耳に届くことはなかった。だが、ヤマメは確かに見た。
ほんの一滴。
小さな小さな雫だったが、それは紛れもなく、異形の姿になった彼女が流した、本物の涙。
ヤマメの戦う理由が、形となって証明された瞬間だった。
雪絵は自分の涙に気づいていないのか、今一度体に力をこめ、周囲を見渡す。
「……結局、終わりもこの場所なのね」
二人が空中戦の末にたどり着いたのは、崖に囲まれ、朽ち果てた家が孤独に佇む地。奇しくもヤマメと陽が火花を散らし、そして雪絵が母と身を寄せ合って暮らした、あの寂しい地底の果てなのだった。母娘の思い出がひっそりと眠るこの場所に、雪絵は自らの生すら埋めようとしていた。
ヤマメは喝を入れるように、大きく息を吐く。
決着は望むところ。しかしいくら舞台を整えられたところで、雪絵の願う結末は認めない。ヤマメは雪絵の独白を聞きとがめ、鋭く目を細める。
「終わらせないさ。貴方がどれだけ望もうと」
空気が、静寂を破られるのを恐れるように震えた。
半歩、さらに左足を踏み出す。そして祈るように目を閉じながら、ヤマメは切り出した。
「一つ、貴方の依頼を果たせなかったこと」
ヤマメは、怯える空気に溶けるような静かな声で、言葉を紡いでいく。
「二つ、貴方の真意を見抜けなかったこと」
雪絵はヤマメの静かな迫力に圧されるように、身構えたままじっと動かない。
「そして三つ、その結果、貴方を泣かせてしまったこと」
ヤマメはそこで言葉を切り、ゆっくりとまぶたを開く。
耐えきれなくなったように、ヒュウと、風が鳴いた。
「私は自分の罪を数えたよ」
雪絵はヤマメのセリフに反応するように、大きく片翼を振るう。
震えていた空気は一気に弾け、狂ったように泣き叫ぶ嵐が、雪絵母娘の思い出の場所を戦場へと変えていく。
しかしヤマメは決して怯まない。紫色に輝く瞳で雪絵を見据えながら、左手の人差し指を突きつける。
謂れのない業と差別という、地の底の形なき病巣に蝕まれ続けた雪絵。
そんな彼女に、自分の所業を省みて、もう一度やり直してもらうために。
ヤマメはあえて投げかける。地の底の病巣を憎む、“はぐれ蜘蛛”一流の言葉を。
「さあ、お前の罪を数えろ!」
それを皮切りとして、嵐の中へ飛び込む。襲い来るがれきや羽弾をかわし、撃ち落とし、糸の鞭で弾き飛ばす。
「罪……ですって?」
傷ついた翼ではばたきながら、雪絵は憎悪のこもった声で言う。
「罪というならば。禁忌の果てに生まれてしまった私の存在そのものが、既に罪です!」
みるみるうちに傷が増えていく体を引っ張りながら、ヤマメが歯を剥く。
「それは数え間違いだ! やり直せ!」
自らの運命を呪うような雪絵の慟哭と、地の底の病巣に怒れるヤマメの叫びがぶつかり合う。
轟々と荒れ狂う嵐の中においてさえ、それらは微塵もかき消えることなく、彼女たちの意思とともに強く響いた。
***
左は一瞬、その光景に目を奪われた。
地底の空で絡み合う二つの影を追い、鬼たちは陽殺害の現場となった地底の果てに到着していた。しかし“はぐれ蜘蛛”と鳥人の戦闘は、地底の強者である彼らでさえ息を呑むほど、激しいものとなっていた。
どのタイミングであの嵐に割って入るか。その判断は左に委ねられ、鬼たちは戦場から引いた場所で指示を待つ状態だった。だが肝心の左は呆けたように戦場に目を向けるのみ。訝しげに思った手下の鬼に声を掛けられ、彼はようやく我に返った。
「どうかしたんですかい、お頭」
「いや……すまない」
左自身、驚いていた。気を抜いていたわけではなかった。秩序の鬼たる彼が、戦場においてそのような愚挙を犯すはずはない。彼はただ、戦場に魅入っていた。より正確にいうと、鳥人に向けて左手を差し出す、土蜘蛛の少女に。戦闘の凄まじさが些事と思われるくらい、その光景は彼の目に焼き付いて離れなかった。
土蜘蛛の少女のシルエットが、彼の知るキザな女のものとピタリと重なった。地の底の病巣に一流のセリフを突きつけるその姿。まさしくそれは、誰にも切れぬ意思とともに地底の涙を拭い続けた、先代“はぐれ蜘蛛”の生き写しだった。
――地底のどこで、どんな理由で涙が流れようと、誰にも切れない意思でそれを拭い去る。
――黒谷ヤマメが、そんな強く優しい、地の底の“切り札”になることを。
主が穏やかな笑顔とともに寄せた、土蜘蛛の少女への期待。今なら理解できる気がする。いや、おそらくはあの日。今にも泣き出しそうな彼女の覚悟を目の当たりにした時から、左の胸の奥深くで同じ思いが生まれていたのだ。
知らず、左は握り拳を作っていた。固唾を呑むような思いをするのは、本当に久しいことだった。そして左は悟る。この事件における、自らの立ち位置というものを。
彼は手下の鬼に呼びかけた。
「鉈」
土蜘蛛の少女と親しいはずの若き鬼は、頭の真剣な表情を見て、神妙に返事をした。周りの鬼たちも、左の言葉を粛々として待つ。
「お前、黒谷がボロボロにやられる姿を見てもこらえられるか」
鉈が目を見開き、聞き返した。
「そりゃあ……どういう意味で」
「言葉通りだ。奴が殺される寸前まで、手を出さずにいられるかと聞いているんだ」
途端、頭に食って掛かるように、鉈は叫んだ。
「そんなお頭! あいつを見捨てるってんですかい!? いくらお頭の言うことでもそれは……!」
立場を忘れて激昂する若き鬼を見て、中々筋の通った奴だと、左は内心笑みを零した。しかし表の顔はより厳しさを増す。
「無論本気で駄目だと判断した時には俺たちが介入する。だがギリギリの瞬間まで、俺は奴の好きにさせたいと思っている。異論のある奴は遠慮なく申し出ろ。これは俺の勝手なエゴだ」
常に地底の秩序を優先してきた頭の我欲に、手下たちは戸惑いながらお互いの顔を見合わせる。誰にも口を挟めないまま、しばし据わりの悪い沈黙が流れる。
――やはりダメか。
小さくため息をつき、左が意を翻して突入の指示を出そうとした瞬間、
「お、俺は!」
鉈が割って入るように叫んだ。その場にいる全員の視線が、彼に集中する。
「俺は、あいつにケリをつけさせてやりてぇ。いっつもへらへらして変な小娘だが、地底の涙を拭いてえっていうあいつの心意気は、本物だ」
鉈は、頭の目を見据えながら、仲間たちに告げるように声を張り上げた。
「この事件を終わらせんのは、あいつをおいて他にあるめえ!」
顔を真っ赤にして目を剥いた鉈の表情は、左にも負けない迫力を伴っていた。左は無言で鉈の顔を見返す。また沈黙が流れたが、やがて、手下の中から、鉈の言葉に同意する声が次々にあがり始める。
鬼たちはみな、“地底の住人は助け合い”を主義として、鬼たちの、そして地底の住人の信用を勝ち得ようと邁進した、二代目“はぐれ蜘蛛”を知っている。そして今も彼らの眼下で、土蜘蛛の少女は全身を傷だらけにしながらも、揺るがぬ心意気を瞳に宿らせて戦い続けている。その姿を見て、心を動かされない者はいなかった。
左は気勢を上げる手下たちの姿に、一瞬だけ誰も気づかないほどの小さな笑みを浮かべ、すぐに元通り厳めしい顔つきになる。
「異論はないな」
左が言うと、騒いでいた鬼たちの声がピタリと止まり、空気が鋼のように張り詰める。
全員の顔を見渡すと、左は大きく頷き、言った。
「この一帯を囲むぞ。仮に下手人が逃げようとしても絶対に網から出られんようにな」
手下の鬼たちが、一斉に頷く。
そして左は目を見開き、大地が震えんばかりの声をあげる。
「野郎ども! ――地底の番人の意地、見せやがれ!」
吼えるような鬼たちの怒号が、負けじと天を震わせた。
***
お互いが、満身創痍の体だった。
ヤマメの体には何本もの羽が突き立っているが、それを抜く余裕すら、もうなかった。
一方の雪絵も、羽の弾幕の間を縫った正確な反撃を受け続け、片翼のはばたきに力が無くなりつつあった。
「墜ちなさい!」
叫びとともに雪絵が羽を撃ちだす。何本もの羽が集められ、さながら巨大な一つの砲弾と化した塊が、空中に漂うヤマメを狙う。
「ふっ!」
空中でうつ伏せになったような姿勢から、ヤマメは岩肌に糸を飛ばしてくっつけ、伸縮を利用して高速で回避する。そしてヤマメは止まらない。糸を張り付けた壁を蹴り、再び反対側の崖へと糸を伸ばし、移動。同じことをそこらにある障害物を利用して、何度も繰り返した。
「!?」
思いもよらぬスピードで縦横無尽にヤマメが飛び跳ねるのを目の当たりにし、雪絵は驚愕する。翼を折られた今の雪絵ではその動きに追いつくことが出来ず、目で追うのがやっとだった。そしてじきに、ヤマメは雪絵の視界からも消える。
「……ならば!」
雪絵は狙いを定めず、全方位に羽をばら撒いた。嵐が蜘蛛の糸をギシギシと揺らすが、ヤマメを撃ち落としたという手応えはない。雪絵が首を巡らせていると、左後方で微かに風を裂く音がした。とっさに反応して振り向くと、糸を出しながらヤマメが飛び込んでくるところだった。
空中で一回転しながら、ヤマメは雪絵の頭上からかかとを浴びせにかかる。雪絵は交差した腕を掲げ、攻撃を受け止めた。ビリビリと腕をはしる衝撃とともに、雪絵の体は地面にたたき落とされた。
「ぐぅ……!」
ヤマメが着地すると同時に、雪絵が唸り声とともに立ち上がった。今の攻撃は、不意はついたものの防御されて、決定打とはならないようだ。しかし。
「今度こそ貴方の負けだ、雪絵さん」
ヤマメは勝ち誇るでもなく、全身に刺さった羽を抜きながら静かにそう告げた。
「何を……。私はまだ戦えます」
自分の言葉を証明するように、翼をはためかせる。足元もまだしっかりしているようだ。だがヤマメは首を振って、上を指さす。訝しげに思いながら雪絵は天を仰ぎ、そして目を見開いた。
崖と崖の間には、何本もの太い蜘蛛の糸が張り巡らされ、地の底の空を覆っている。糸は地面に横たわる大きながれきの群れにも伸び、天と地を繋いでいるようだった。
ただ闇雲に跳ねている訳ではなかった。雪絵はようやく理解するが、もう遅い。
「ここは既に蜘蛛の巣だ。貴方の飛べる空は、もうない」
この空間で空を飛ぼうとしても高度が知れ、また天地を結ぶ糸の存在もあり、行動は著しく制限される。羽弾も糸の密林となったこの場所では、有効な攻撃として機能しない。よく見るとそこらの糸に羽がくっついていて、先ほどの全方位攻撃が当たらなかった理由を如実に物語っていた。
雪絵の力は三次元空間を目いっぱい使うことを前提としている。今や彼女の力の大部分は、蜘蛛の糸に絡め取られたも同然だった。
ヤマメは紫色の瞳を、狼狽する雪絵に向けて言った。
「お願いだ雪絵さん。もう、自分を痛めつけるようなことはやめてくれ」
圧倒的な優位に立ったというのに、ヤマメのセリフはほとんど懇願だった。顔が悲痛に歪んでいるのは、決して戦闘によるダメージのためだけではない。
祈るような思いで、雪絵の反応を待つ。体を震わせていた雪絵は、やがて一つ息を吐いた。構えが解かれ、全身から強張りが消えた。
雪絵は俯きながら、静かに言った。
「……ありがとうございます、ヤマメさん」
彼女の口から出てきたのは、思いもよらぬセリフ。
「あるいは母を除けば貴方が初めてかもしれません。私なんかに、こんなにもよくしてくれたのは」
礼の言葉が続く。
自分の声がようやく届いたかと、ヤマメが期待の眼差しを向けると、しかし雪絵はゆっくりと首を振った。
「でも、もう遅いんです」
顔を上げた雪絵を見て、ヤマメは目を見開く。
「私の手はもう、いっぱいの罪でグチャグチャに汚れちゃってますから」
どこか幼さの残る口調でそう言った雪絵は、鷹のように鋭い目から大きな涙の粒を流していた。
ヤマメが雪絵の名を呼んで駆け寄ろうとすると、その瞬間、この期に及んで信じがたい光景が展開された。
「……な」
どこからともなく無数の怨霊が湧いてくる。そして張り巡らされた蜘蛛の巣を通り抜けて、異形と化した雪絵の体に次々と入り込んでいった。まるでもう一粒薬を飲んだみたいだが、そんな素振りは見せていない。
言葉にならない叫びをあげる雪絵を見て、ヤマメの混乱は頂点に達する。
「何だよ、これ」
こんな現象、鉈にもらった情報にはなかった。だが、ヤマメは思い当たる。ボロボロに精神を傷つけられた、“怨霊憑き”の末路。強化された精神も、最後には怨霊に飲み込まれて消える。妖怪の力を、暴走するほどに限界まで引き出されながら。それはまるで、ろうそくの炎が消えゆく寸前に放つ、最期の輝きだ。
突然、雪絵を中心として空気が破裂する。膨大な圧力に、ヤマメは為す術もなく吹き飛ばされてしまった。慌てて立ち上がろうとするが、足がよろめいてそれもままならない。戦闘のダメージは、確実に蓄積されていた。
「……冗談でしょ」
周囲を見ると、先ほどまで場に起こっていた風とは、比べ物にならないほどの大旋風が吹き荒れていた。ヤマメの張った蜘蛛の巣は大きくしなりながら、メリメリと音を立てて破れていく。がれきは天高く舞い上がり、そしてあの朽ち果てた家――雪絵の思い出が詰まった場所も、すぐに他のがれきと区別がつかなくなっていった。嵐を生み続ける雪絵を中心としたわずかな空間だけが、台風の目だった。
「雪絵さん! ――雪絵さんッ!」
声を枯らさんばかりに名を呼び続けると、雪絵が鴉の顔をヤマメに向ける。すると雪のように真っ白な髪を持つ少女の姿が、幻影のように現れた。少女の幻影は壊れかけの笑顔を浮かべながら、何かをヤマメに訴えていた。声は聞こえないが、口元を見ると、“ごめんなさい”と動かしているように見える。涙は幻影からも異形の鳥人からも、とめどなく溢れ続けていた。
「――ッ! ……くぅ!」
何がごめんなさいだ。それは諦めの言葉か?
ヤマメは昂ぶり続ける怒りを力に変えて、自由にならない体を無理やり動かす。そして涙を流し続ける幻影に向かって、ヤマメは吼えた。
「そうじゃ、ないだろう」
震える手で、懐から符を取り出す。
「貴方がすべきは、死んで謝るとか、命で償うとか、そういうんじゃ、ないだろう……!」
ダンと大地を踏みしめて、真っ直ぐに立つ。無風の空間で、ヤマメの周りの空気だけが渦を巻いて、くすんだ金髪をなびかせた。
「貴方の都合なんて知ったことか」
ヤマメは天高く、手に持った符を頭上に投げた。符は嵐に巻き込まれようと飛ばされることなく、まるで意思を持ったようにヤマメの頭上で激しく回転する。そして符から溢れ出た紫色の粒子は、光の柱となってヤマメに降り注ぐ。そうして符の力を最大限に解放したヤマメの背に、妖力で象られた巨大な八本足が形成された。
「地獄に堕ちようっていうんなら、蜘蛛の糸でふん縛ってでも引きずり出してやるさ!」
飛び上がりながら糸を飛ばし、雪絵の首に巻きつける。雪絵は一切抵抗しない。ただただ力の暴走にまかせるだけである。力を出し尽くして怨霊に食われる前に、怨霊ごと彼女を打ち倒す。雪絵を救う道は、今やそれだけだ。
無風の空間の限界まで糸のロープが伸び切り、頂点に達した。その瞬間、右足を雪絵に向けて突き出し、態勢を整える。
「ああああああああああああああッ!!」
叫びとともに、妖力が右足に集中していく。背負った八本足に加え、今、幻の九本目が紫色に眩しく輝いた。
ロープが収縮を始め、ヤマメの体はその反動で加速。地の底の空を駆ける流星となって、九本の蜘蛛の足が空気を切り裂いていく。
鳥人の巨体が迫る。少女の幻影は、猛スピードで向かってくるヤマメを、瞬きもせずに見つめていた。
そして少女の幻影と重なろうとするその刹那、ヤマメは確かに見た。
幻影が、涙を流しながら柔らかく微笑むのを。そして声にならない言葉を、その口は伝えていた。
――ありがとう。
「これで決まりだ!!」
OVERDRIVE「スパイダーエクストリーム」
それが切り札の名。今のヤマメが持ち得る力の極限。
全身全霊の飛び蹴りが、幻影を越えて鳥人の顔面に突き刺さると同時、全妖力を込めた八本足のレーザーが全身に炸裂した。
鳥人は吹き飛び、無数の羽が飛び散って、嵐の中に吸い込まれていく。それが決着の合図だった。
「――っは、は……」
乱暴に着地した瞬間、ヤマメの纏っていた妖気が四散し、瞳の色も輝きを失っていく。そのまま意識を手放しそうになるが、しかしまだ倒れるわけにはいかない。
仰向けに倒れこんだ雪絵の体から、まるで逃げるように怨霊が飛び出ては弾けていった。鳥人は元の少女の姿に戻り、それとともに嵐も急速に止んでいく。後には無数のがれきが残され、戦場は台風が通り抜けた後のようになっていた。
よろめきながら雪絵に近づく。が、手の届く所まで辿り着く前に、ヤマメの方も限界を迎える。いけないと思った時には、糸が切れたように体が地面にへたりこんでいた。
その場所からでも雪絵の顔は拝めた。気を失っているようだが、規則的な寝息が聞こえてくる。涙の跡が残るその寝顔は、ヤマメの希望が多分に混じるにしても、安らかに見えた。その表情を見て、自然とヤマメの口から言葉が漏れる。
「大丈夫だよ、雪絵さん」
ともすれば静寂に溶けてしまいそうな、小さな声。雪絵に届いているとは思えない。しかしそれでも良かった。ヤマメは自分にも向けるように、独白を続ける。
「私にも、死んでしまいたいと思うほど悲しいときがあったし、無力な自分が救われてしまったことを、バカみたいに嘆きもした」
目が半分閉じられる。夢と現が曖昧になる中、意識の境目に浮かぶのは、忘れようとも忘れられない、あの不器用な笑顔。
「でも、この地底には、私に手を差し伸べてくれる人が、たくさんいたんだ」
奇怪な笑い声をあげながら、気まぐれに頭の下がる助言をのこしていく、大先輩の釣瓶落とし。
似合わない道を往く自分の不恰好な歩みを、ただ黙って見守りながら支えてくれる、赤毛の友人。
ひよっこの自分の未熟さを糾弾し、そして努力を認めてくれた、最悪の嫉妬妖怪。
自分に力と正義、そしてそれらを振るうことの覚悟を授けてくれた、秩序の鬼。
他にも数えきれないほど多くの人たちの支えがあって、現在の“はぐれ蜘蛛”黒谷ヤマメは紡がれていったのである。
「今度は私が、貴方の力になってみせるから。貴方が泣いているときには、必ずハンカチを差し出すから」
願わくば孤独な少女の笑顔を紡ぐ、一本の糸にならんことを。
ヤマメは改めて、自らの背負う“はぐれ蜘蛛”の名にかけて誓う。
そして投げかける。あるいは安らかに眠る少女にとっては最も残酷かもしれない、罰のようなセリフを。
しかしそれこそはヤマメの、心からの願いでもあった。
「どうか、この地の底でもう一度生きてよ。雪絵さん」
ヤマメの声が雪絵に届いたのか、それは誰にもわからない。
確かなのは、ここに一つの事件の幕が、彼女たちの手で引かれたこと。へたり込むヤマメの耳に、遠くで響く男たちの怒号が微かに聞こえてくる。ヤマメは安心したような笑みを浮かべ、そこで完全にまぶたが落ちた。
***
目を閉じて眠る少女たちに、地の底の真っ暗な空から、戦いの傷跡を癒すように白い欠片が降り注ぐ。天からの贈り物のようなそれは、ふわふわと舞っていた無数の羽。そしてそれに混じる、触れれば消えそうなくらい儚げな、今年最初の雪だった。
エピローグ
……以上が今回の事件の概要である。詳細は別紙にまとめたのでそちらを参考にされたし。
以下は後処理の報告。
雪絵さんは現場に駆け付けた鬼の方々に身柄を拘束され、現在は病院で治療を受けている最中である。薬を使った反動か、眠っている時間が多いけど、使用した薬の危険性の割に、経過は順調らしい。自警団は彼女が話を出来る程度に回復しだい、事情聴取を執り行うとのことである。彼女にとって本当に大変なのは、これからということだ。
で、少し話が逸れるけど、医者がこんな話をした。彼女が手遅れにならずに済んだのは、私の能力によるところが大きいと言うのである。より正確には、瞬間的に病気を叩きこむ私のオーバードライブが、“怨霊憑き”を殺さずに無力化する有効な手段になり得るそうだ。病をもって意識を奪うことで、怨霊が標的とする精神を見失うのか、はたまた病に侵された体を本能的に忌避するのか、色々な仮説を並べていたが、正確なメカニズムはわからない。まあ私としては、この先“怨霊憑き”が関わる事件に際して、力になれるかもしれないという事実があればそれでいい。
……そう。“怨霊憑き”の脅威は、まだ去っていない。今回の事件は無事に解決を見たわけだけど、雪絵さんに薬を売った正体不明の商人のこともそうだが、薬の作成者、流通元などなど、未だベールに覆われた要素が多すぎる。そして既に、薬が地底の住民の手にばら撒かれている可能性も高い。今回はその氷山の一角というわけだ。この地底を蝕みつつある新種の病に、自警団は全力をあげて対処にあたるとのことである。もちろん私も、及ばずながら力を注ぐ所存だ。病をもって地の底の病巣を制す、“はぐれ蜘蛛”の名にかけて。
で、ここからは私の個人的な雑感。読み飛ばしてもらっても一向に差し支えない。
なんとも思うところの多い事件だった。破壊活動が始まったときには、まさかこれほどまでに深く事件に関わることになるなんて、夢にも思わなかった。まして自分が事件の幕を下ろすことになろうとは。名を継いでそれなりに月日も経つけれど、いつまでたっても事件の完成図は最後まで分からないものである。
私はこの事件を通して、自分が多くの人に助けられていることを改めて実感した。皆の協力がなければ事件の真相には辿りつけなかっただろうし、雪絵さんを助けることも出来なかっただろう。また後日それぞれにお礼をして回るつもりだが、ここにも関係者各位への感謝の意を記すことを許されたい。
そして雪絵さんのこと。
先代は常日頃からこう口にしていた。“依頼人のことを最後まで信じとおす。それが“はぐれ蜘蛛”の責任だ”
その点、今回の私はどうだっただろうか。私は事件の途中で彼女を疑ってしまった。そして実際に利用されてしまっていた始末だ。“はぐれ蜘蛛”失格のそしりを受けても仕方がない。だけど、それでも私は、彼女の良心を、そして生きる意志を信じ、それに賭けた。現場に残った証拠は、自分を止めて欲しいという願いの表れ、彼女が嘘だと言った涙は、真に“はぐれ蜘蛛”が拭うべき、悲しみと嘆きの証。姫さん辺りにはおめでたいと言われそうだけど、結果的にはそれで彼女を救うことが出来たのだ。だからその点は、胸を張って誇ろうと思う。
思うのだが、果たして彼女が本当に救われたのかどうかは、今はまだわからない。彼女を蝕む病巣は、簡単に取り除けるものではないし、犯した罪も償わなければならない。この先もきっと、辛い現実が彼女を待ち受けているのだろう。
でも、彼女はもう一人じゃない。遅ればせながら、私は彼女の涙をこの目で見た。一人で泣いていた彼女のことを、見つけることが出来た。ならば、手を差し伸べることだって出来るはずだ。私の力なんて小さなものだけど、それでもゼロじゃない。それに、私の友人は揃いも揃ってくせ者だけれど、みんな気のいい奴らである。彼女の笑顔を紡ぐ糸だって、決して私一本じゃないはずだ。そのことを、彼女には知って欲しい。
私が強引に差し出した手を取ってくれるかどうかは彼女次第だが、しかし私には希望がある。私は自警団に連行される彼女に、こう言ったのだ。「いつか、食べ損なった夕食をご馳走してほしい」と。そしたら雪絵さんは、首を縦に振った。ぼんやりとした目だったけれど、確かに小さく微笑みながら、頷いてくれたのだ。だから私は、遠慮なく彼女の孤独に踏み込もうと思う。笑顔と気さくさは、数少ないヤマメちゃんの取り柄なのだ。
いつもより長くなってしまった上に、報告と呼ぶには取り留めのない内容で申し訳ない。
最後に、来る“怨霊憑き”への脅威に立ち向かうため、そしてそれに伴い流れるであろう地の底の涙を止めるため、より一層、己の職務に励むことを誓い、当報告書の結びとする。
“はぐれ蜘蛛”黒谷 ヤマメ
***
報告書を読み終わり、彼女は小さくため息をついた。
面倒なことになりそうだ。彼女は一番にそう思った。
地底の事件は全て鬼の自警団に一任してあるが、この先も地霊殿が静観を決め込めるかどうかは疑問だった。
こたびの“怨霊憑き”にまつわる事件は、ことが地底だけに収まっていない。地上から流れてくる薬、地底では見慣れない商人風の妖怪。どうにも事件の随所で地上の存在がチラつく。このままでは、地霊殿が直接動かなければならない事態も、十分想定しうる。
鍵となるのは、“はぐれ蜘蛛”。
時に代行として地霊殿に協力する代わりに、“はぐれ蜘蛛”は地底の最高権力のバックアップを受けることが出来るという、先代から続く相互契約。
誰にも切れない意思をもって動く“はぐれ蜘蛛”を思い通りにすることは出来ないが、しかし地霊殿の手札として数えるには十分だ。報告書にある黒谷ヤマメの能力の有効性のこともある。今代の“はぐれ蜘蛛”にもこれからよく働いてもらう必要がありそうだ。
しかし運命とはわからないものである。“旧都炎上”で先代“はぐれ蜘蛛”を失った時にはどうしたものかと頭を抱えたが、しかし実際は今も、同じ名を背負って地底のために戦う者がちゃんといる。まるで、地の底が病巣に対抗するために生み出した防衛機構のようだ。
「ご苦労様でした。引き続き“はぐれ蜘蛛”の支援を頼むわね、お燐」
彼女がそう言うと、お燐と呼ばれた赤毛の少女は黙礼をしながら部屋から出ていった。一人になった私室の中で、彼女は薄らと笑みを浮かべる。
鬼の自警団。“はぐれ蜘蛛”。地底の平和を担う者たちが、新たな脅威に対する覚悟を決めた今、自分は何を為すべきか。彼女もまた、ある種の覚悟を迫られているのかもしれなかった。
笑みをたたえたまま、誰にも届かぬ小さな呟きを漏らす。
「地の底の敵への敗北は許されない。“ジョーカー”を手にした者の辛いところね」
“はぐれ蜘蛛”のよこした報告書を眺めながら、地霊殿の主・古明地さとりはティーカップを傾ける。
読心のサードアイを持つ彼女をしても、地底の行く末を見通すことは敵わない。
***
ヤマメは鼻歌を歌いながら、お茶を淹れていた。
「なんだいなんだい。今日はまたいやにご機嫌だね」
「そう見えるかい?」
「うん、ぶっちゃけ気持ち悪い」
「そこまで言うか。まあそこは勘弁しておくれよ。大きな事件が片付いたばかりなんだしさ」
キスメの罵詈雑言にも、ヤマメはご機嫌な笑顔を崩さない。自分専用の椅子に深く腰を据えて、ゆっくりとお茶の香りを楽しむ。そのキザな所作を見て、キスメはバカにするように言った。
「へん。前はあんなにうじうじしてたくせにさ。現金なもんだよ」
キスメが文句を言いながらパクついているお菓子も、普段より幾分高級なものだ。この奮発ぶりからも、ヤマメの浮かれ具合が知れるというものである。ヤマメは苦笑しながら応えた。
「明るさが持ち味のヤマメちゃんだって、たまには落ち込みもするさ。それに、事件が解決できたのはキスメさんの助言のおかげ。いやホントに。そのお菓子はほんの気持ちだよ」
笑顔とともにそう言われたキスメは、桶の中で小さな胸を張る。
「ふふん、そうだろうそうだろう。このキスメさんの言うことは全て正解だからね。ま、君がそう言うなら、遠慮なく受け取ってあげようじゃないか」
現金なのはどちらか。ヤマメは肩をすくめたが、笑みは引っ込まない。平和だなあと、しみじみ思った。
と、キスメはお菓子に手をつけるのを止め、ヤマメのことをまっすぐと見つめる。そしてどこかいたわりの情さえ感じさせる声で、言った。
「これから忙しくなりそうだけど」
その瞳には、彼女が地の底で越えてきた、幾年の時間が込められていた。ヤマメも茶を置いて襟を正し、まっすぐな視線を受け止める。
「君は負けることなくやっていけそうかい? ヤマメちゃん」
それは、茨の道を走り続ける覚悟を確認するための問い。この面倒くさい大先輩の、厳しさで、優しさだった。
彼女を紡ぐ糸の一本にそっと触れるように、ヤマメは目を閉じた。この温かさを知って欲しい人がいる。そしてあの少女以外にも、ヤマメの助けを必要としている人がきっといる。だからヤマメはこれからも、誰にも切れない意思を胸に秘めて、地の底を駆ける。
ヤマメは片目だけを開き、不敵に笑った。
「大丈夫だよキスメさん。私は地の底の涙を拭う、“はぐれ蜘蛛”なんだからね」
それが答え。今も昔もこの先も、永遠に変わらぬ“彼女たち”の信念である。
キスメはヤマメの意思を聞いて頷く。
「そっか。君がそう言うんなら、もう誰にも止められないね。ま、なんにせよ、さ」
そして笑顔を浮かべながら言った。そこには奇怪な笑い声も、面倒くさい嘲りの感情も無かった。
「今回はよく頑張ったね。偉いぞヤマメちゃん」
ヤマメが驚いて目を丸くする。
その狐につままれたような表情を見て、早速キスメはけきゃきゃきゃと奇怪な笑い声をあげた。
「え、なに今の。もしかして褒めてくれたの?」
「さあねえ。無い頭ひねってよぅく考えてごらんよ」
「デレか。デレなんでしょキスメさん。釣瓶落としの貴重なデレシーンだ!」
「けきゃきゃきゃ。やっぱりヤマメちゃんはアホだなあ」
どこまでもマイペースな大先輩に、ヤマメは呆れたように笑いながらため息をつくしかなかった。
「おっ」
キスメが何かを手に取る。新しく回ってきた回覧板だ。
「またランキングが載ってるよ。なになに、“地底の住人に聞いたいまいちキマらない人物ランキング”だって?」
「なにそれ。決定力不足?」
「ヤマメちゃんこそその微妙なボケはなんなのさ。ようはカッコつけたがるくせに様にならない、残念な奴ってことさ」
「ああ、なるほど。またなんとも嫌らしいテーマだね」
「ふふん、いやでもこいつは中々面白い。名前が載った連中は今ごろ顔真っ赤だろうね」
キスメがウキウキとした表情で、回覧板を眺めている。
このいつもと変わらない日常を前にして、ヤマメは思った。
本当に、平和そのものだ。これがヤマメの愛する地底の日常だ。
救われてしまった命の使い道がこれでよかったのかは、未だにわからない。
けれど、このなんでもない光景を守りたいというのは、ヤマメの偽らざる思いである。
「勝手に後ろをついちゃったけどさ。でも、私は頑張るよ」
もう帰らない人に向けて、呟く。受け取り手のいないその言葉は、しかしヤマメ自身の心へしかと刻み込まれた。
今はまだ半人前だが、自分もまた、いつか憧れた彼女のように、自らの背負う名に恥じぬ存在になることを誓って。
“はぐれ蜘蛛”黒谷ヤマメは、過去から繋がれてきた意思を、地の底の明日へと紡いでいく。
「ふんふん、確かに上位陣は納得の残念さだ。“華飾りの伊達男ジョニー”なんかはもうこのランキングにピッタリだね。けきゃきゃきゃ」
他人の不幸を砂糖菓子のように楽しむキスメを見て、ヤマメは苦笑しながら湯飲みを口に運んだ。
ご機嫌に笑っていたキスメだが、ふと何かに気がついたように声を止め、そして言った。
「あ、一位ヤマメちゃんだ」
ブゥーーッ! とヤマメの口から吐き出されたお茶が、霧となって消えた。
(了)
逆にヤマメという文字を見て開いた自分に感謝したい。
全体を通して主要キャラの性格がわかっていき、それが作品内のところどころででているので、読み進めるのが楽しかったです。
また、風子が実際には雪絵だったということも、私は予想はできませんでしたが、思い返すと
ヤマメの言動にヒントがあったりと、色々仕組まれてるんですね。
前後編と240kbと長いですが、長いと感じさせないほど面白かったです。
過去の事件や商人の暗躍の謎などが今後の作品で語られることを楽しみに待っています。
ヤマメちゃんカッコいい!
探偵物にダブルの要素、主人公を中心とした人間関係に、解き明かされていく真実。
読み進めるのが止まらない、長編の書き方の参考にさせていただきます。
……犯人の名前を風子にしたのはグッジョブ。
一文字違っていたら登場時点で話の概要がほとんど読めてしまうギリギリラインでしたね。
ただどうにもオリキャラが話から浮いている感じが付きまといました
この話に出てくるキャラクター達は癖がありながらも本質的に「良い人」ばかりなので
迫害されてたという点がどうにも実感できない、地底の陰湿な部分を世界観から感じられませんでした
時代が変わったといっても妖怪は長命なわけでそこのところがどうも……
物語の構築もお見事でしたし久方ぶりに創想話出読み応えのある長編に出会えました
読ませていただけて本当にありがとうございました
これからも頑張れ仮面ライダーYw
やはり地霊殿とWの親和性は異常だ…… すごく面白かったです!
がっちりキャラの立ってるオリキャラは大好物です。わーい
「左」のたった1文字でプッと吹き出しがっちり掴まれた前半w、既に100点入れようと決意してました。
ただ後半は手堅くまとまりすぎた印象だったかなー 犯人がさらっとわかっちゃう構成のせいか……いや、すごく面白かったんですが、前半がツボだったせいで期待が大きくなりすぎたのかもしれません。貴方なら、もっともっと盛り上げられたんじゃないかと思ってしまった。
でも100点! だって面白かったんだもの。また書いてください!
シリーズ物ですよね?ね?
王道的で面白かったのですが、津川親子への迫害の話がどうも浮いてしまっているのと、欲を言えば、話をもう少し捻って欲しかったです。
パルスィの"大胆にイメチェン"云々の台詞で、風子が素性を隠していることも察してしまいましたし、何より依頼の時点で、犯人がなんとなく分かってしまったのが何とも物悲しい。
そこだけが勿体無いなぁと。個人的に、言い回しなんかは好みでした。
良作感謝です。
このヤマメちゃんの活躍をもっとみたいので続きに期待します。
……失礼しました、いやほんとに面白かったです。
なんと言ってもオリキャラを含めた各キャラの味がしっかり出てますし(姫さんが個人的にはお気に入り)、仮面ライダーWはよく知らないのですが問題なく楽しめました。
ヤマメちゃんと先代はぐれ蜘蛛の関係について描写が薄いかなあとは思いましたが続きがあるなら問題ないよね!!! さあ書いて下さいお願いします
まさに王道を貫いた内容で、安定して楽しむこともできました。
こんなカッコいいヤマメちゃんもアリですね!
パルスィが異様に大人びていて、パル好きの自分には狂喜乱舞モノでしたw
地底はかっこいい雰囲気似合うw
やっぱヤマメちゃんはこうじゃねーと。
先代の活躍は過去編で読めるんだよね!?
右京さんの苗字は杉下だよね!?
そうだと信じてます。
「上質なSS」とはこのような作品のことを言うのだろうかと思った次第です。
ブラボー!
オリジナル設定と原作キャラタクターが良さを殺し合わずに互いを引き立てているのが素晴らしい。
面白い長編が読めたことを作者様に感謝いたします。続編も希望!
オマージュ元は知らなかったけどそれでも面白かった
仮面ライダーの中ではWが一番好きなので、ラストバトルはW-B-Xを脳内再生しながら読んでいました!地底の「切り札」(ジョーカー)、黒谷ヤマメの活躍に期待です!
ーーーこれで決まりだ‼︎