序.
自分の中に、これほどまでに強い復讐心がくすぶっていたとは思わなかった。
いや、そうではない。
蜃気楼のように儚い希望にすがって、自分を騙していただけだ。希望を否定する周りの声に耳を塞ぎ、心の裡で黒々と渦巻く醜悪な感情から目を背ける。
そんなことに、生の大部分を費やしてきた。実に不毛で、無価値な人生だった。
そして希望はあっけなく壊れた。生きる寄る辺にしていたものを失い、後に残ったものはただ一つ。自らの奥底で沸き立つ暗い感情から目を背けるのを止め、そして自身の望みを遂げる手段を得た時、未来さえも捨て去った。
――復讐だ。
自分たちのささやかな幸せさえ許さず、人生を蹂躙し尽くした者たちへ、憎悪の牙を突きたてる。
元より禊ぎ切れない罪なら、どれだけ重ねても同じこと。
地獄も閻魔も、もう怖くはなかった。
1.
「これはまた……」
都の安酒場が破壊されたという一報を聞きつけ、黒谷ヤマメはいち早く現場に駆けつけていた。
周囲を野次馬が取り囲み、この事件について口々に噂をしあっている。地底の秩序を司る鬼達はせわしなく動き周り、現場の状況の整理に躍起になっていた。
改めて、崩落した建物に目を向ける。地底、特にこのような酒場では喧嘩沙汰は日常茶飯事であり、建物の一角が破損する程度の被害は格別珍しいことではない。店主の頭痛の種にはなるものの、大抵の者は「地底にはよくあることだししょうがない」で済ましてしまう。
そんな気っ風が吹く地底の都においてなお、この建物の惨状は異常と言わざるを得なかった。
まず、三十センチメートルを越えるがれきが、一つとしてなかった。そして、店の調度品、品物、その他店に存在していたもの全てが壊されていた。小さな杯一つまで例外無く、である。
妖怪の胆力であれば、破壊自体は難しいことでもないかもしれないが、ここまで徹底しているとなると話は別である。
「よっぽど鬱憤でも溜まってたのかねえ、いやはや」
「ふざけんな。憂さ晴らしでいちいち店まるごと潰されちゃあ、こっちは商売あがったりだ」
「おっしゃる通りで……おっ」
ヤマメと破壊された店の主が残骸を弄くり回しているところへ、男が近づいてきた。
二メートルをゆうに越える、巌のように隆々とした肉体に法被を無造作に引っかけ、下駄で大地を踏みならすように歩く。精悍な顔つきは平時よりさらに引き締められ、見る者が見れば修羅を連想するかもしれない。
事実、彼は鬼だった。そして地底の秩序を司る鬼たちを取り仕切る鬼の四天王が一人、星熊勇儀の片腕でもある。
彼は鋭い目つきでヤマメを認めると、もともと厳めしい面構えをいっそうしかめてみせた。ヤマメは手にしていたがれきを放り投げ、明るい笑顔で鬼を迎える。
「やあ、左の旦那」
左。
それがこの鬼の通り名である。誰が最初にそう呼んだか、星熊勇儀の忠実な手下である実力者を、伝説の役行者に従った“前鬼・後鬼”になぞらえ、こう称した。次第に地底の住民や星熊勇儀、そして彼自身にもこの呼び名は定着し、今や星熊の“左”という鬼を知らぬ者はなかった。
「またお前か、黒谷」
嘆息するように吐き捨てる左に、ヒラヒラと手を振りながらヤマメは応えた。
「まあまあ、そう邪険にしないでおくれよ。私たちの仲じゃないか」
「たわ言を。……相変わらず耳が早いな」
「そりゃあね。蜘蛛の糸は、至る所に張り巡らされているのさ」
「ふん。わかってると思うが、邪魔になるようならつまみ出すぞ」
「あいあい」
いかにも気安い返事をよこすヤマメをそれ以上追求しようとはせず、左は自らも現場検証に乗り出した。破片を手にとって、眉をひそめる。鬼の彼にとっても、この破壊の仕方は尋常ではないものに映る。が、それ以上に、
「どう? 同じでしょ」
ヤマメがそう言うと、左は腕を組んで唸りだした。
「さすがの地底でも、ここまでしでかすバカはそういない。むしろこの薄気味悪いほどの念の入れ用は、地底のやり方とは真逆だ。旦那、間違いなくこいつは」
「これで三件目、だな」
左の結論は、この場にいる誰もが容易に知れるところだった。
それというのも地底では、今回と非常に似通った破壊事件が立て続けに起こっていた。一件目は宿場、次いで露天市、そのいずれもが、戦場跡のような有様に変えられていたのである。
そしてなによりも、この一連の事件で際だっている特徴がある。
「“怨霊憑き”だよ、くそったれ」
店主が吐き捨てるように言い、ヤマメと左が顔を見合わせる。
「くだらん与太話だと思ってたが、この目で見ちまったもんはしょうがねえ。あのイカレた見た目と暴れっぷり、てめえら鬼どもが可愛く見えるってもんだ」
「良かったね旦那、褒められてるよ」
余計な茶々を入れたヤマメの頭がはたかれる。左にとっては撫でたようなものだが、そこは鬼の胆力である。
「“怨霊憑き”……また怪談じみた呼び名がついたものだが」
「けっ、俺たちが言うことじゃねえだろ」
「それに旦那、こいつは怪談なんかじゃないよ」
涙目で頭をさすりながら、ヤマメが口を挟んだ。
「店主以外にも、その場にいた客がみんな見たって証言してる。中には怨霊憑きを見たのは、これが初めてじゃないってふれ回る奴もいる始末さ」
ヤマメの情報を聞き、いよいよ左は顔つきを厳しくする。
「三度目ともなると、嫌でも信憑性が出てきてしまうな。面倒なことだ」
「でもこれで安心したでしょ。怪談と違って、どうやら腕っ節に任せられる相手みたいだよ」
「拳の振り上げ先が見あたればの話だがな。奴さん、俺たち鬼にはどうあっても尻尾をつかませない腹積もりらしい」
“怨霊憑き”の所行は、いずれも鬼の目が無いところでなされていた。彼らもただ手をあぐねているわけではなく、見回りを強化する等の対策を講じてはいる。しかしそれをあざ笑うかのように発生した今回の事件。鬼たちの努力もむなしく、後手に回っていると言わざるを得ないのが現状であった。
「“怨霊憑き”とか言われる割に、ずいぶんと理性的に行動してるね。もしかしたら本能レベルで鬼にビビってるのかもしれないけど」
「面倒というのはそこのところだ。店主の言うとおりイカレてて、なおかつ頭が回る。これほどタチの悪いものもなかなかない。さて、どうしたものか」
元々鬼たちで結成された自警団の捜査能力自体は、武力に比してそれほど高くはない。鬼の力は一騎当千、目の前で喧嘩が起こっていれば、たとえ何十人暴れまわっていようと、それこそ片手で数えられるほどの人数で鎮圧できる。だが今回のようなケースの場合、聞き込みを始めとする基本的な対応しか出来ないため、鬼の強みを充分に発揮できないのである。
「そういえば旦那、この前回覧板に“地底の住人に聞いたやりたくないことランキング”が載ってたんだけどさ」
「いきなり何の話だ」
「見事一位に輝いたのは“自警団”でした」
「……」
「ちなみに一番多かった理由は“地味だから”だそうで」
渋面を作った左が辺りを見回す。がれきの撤去作業を続けていた鬼たちが、バツの悪そうに顔を背けた。自警団という職務に誇りは持ちつつも、地味なのは否めないらしい。
「まあまあ落ち込むなよ旦那」
「落ち込んでなどいない」
「餅は餅屋って言葉があるようにさ、物事には向き不向きってものがある。そこで、だ」
片目を閉じて不敵に笑い、ヤマメが満を持したように言った。
「ここはこの、“はぐれ蜘蛛”の出番じゃない?」
左は応えず、ただその鋭い目つきで土蜘蛛の少女を睨む。
左にとってこの展開は、ここでヤマメの姿を目にした時から予想出来たものだった。確かにこの手の事件には、鬼よりもこの土蜘蛛の力のほうが向いているのは、左も認めるところである。
一方で、鬼には誇りがある。自分たちが地底の治安を取り仕切っているという、自負がある。それは傲慢さというよりも妖怪の頂点に立つ種族としての、一種の責務である。少なくとも彼ら自身はそう思っていた。それゆえ、事件の解決に他の種族の手を借りるという選択肢は、左としてもそう簡単にとれるものではない。彼には自警団の長という立場があるし、何よりも今回は鬼の面子が潰されているのである。
「いいだろう」
しかし彼はそれ以上に、実際的かつ合理的思考の持ち主だった。
「情報は常に共有、俺たちの邪魔はしない。これが条件だ」
「もちろんさ。さすが旦那、話がわかるね」
「どうせ動くなと言っても聞かないだろう、お前は」
「私のこともわかってるね。そんな旦那が大好きだよ、チューしてあげよっか」
「前言撤回されたいのか、阿呆が」
「ウソウソごめんなさい許してください」
結果のためには時として面子さえもかなぐり捨てる。そんな鬼には似つかわしくない行動理念をもった彼だったからこそ、星熊勇儀は左を片腕に添えたのかもしれない。
「そんじゃま、うるさがたの許可も下りたことだし、早速始めるとするかね」
「誰がうるさがただ。……当てはあるのか」
「どうとでもするさ。じゃあね旦那、何かわかったら連絡するよ」
「黒谷」
身を翻して現場を去ろうとするヤマメの背に、左が呼びかけた。
「無理はせず、荒事は極力避けろ。お前の話ではないが、そういうのは俺たち向きだ」
ヤマメが振り返って、左の顔を見つめる。相変わらず泣く子はもっと泣きそうな強面だったが、ヤマメは笑みを零してヒラヒラと手を振りながら、地底の街へ消えていった。
「……」
後に残された左は、腕を組んでため息を一つ。憂いを帯びたお頭の様子を、手下たちは不思議そうに眺めていた。
2.
地底の土蜘蛛、黒谷ヤマメは“はぐれ蜘蛛”である。
これは自分も含めた地底の住人の共通認識だった。
東に暴力沙汰の事件ありと聞かば鬼に混じって鉄火場に飛び込み、西に失せ物探す人あらば手下の蜘蛛を率いて地底中を駆け回る。
現在のヤマメは、性格はかなり違うがあえて言うなら、地上の外の世界における“警察”や“探偵”のような役割を生業としている。最近はそんなヤマメの評判を聞いて、彼女に事件の解決を依頼しにくる者もいるほどであった。
現在のヤマメの在り方は、元来ひっそりと生活を営む土蜘蛛の気質からすれば、異端ともいうべきものである。病を操るという強力な能力を含めても、土蜘蛛は戦闘が得意な種族ではなく、そもそも厄介事に首を突っ込むような輩は、お人好しの物好きと囁かれた。
地底の秩序を司る鬼、同族の土蜘蛛、その両方から独立した存在。
故に誰が呼んだか“はぐれ蜘蛛”。
ヤマメも性格こそ明るいものの、気ままに生きるだけで、人助けのようなものとはほとんど無縁だった。
彼女がいつから人が変わったように、地底で起こる事件と積極的に関わるようになったのか。それを知らぬ者は首を傾け、時には彼女の変貌ぶりを笑い話の種にした。ヤマメ自身、具体的なことは何も語ろうとせず、彼らの話に笑いながら適当に相づちをうつだけだった。
ともあれ、因果の糸は複雑に絡み合いながらも現在に紡がれ。
黒谷ヤマメは、“はぐれ蜘蛛”として地の底を渡り歩いていた。
***
今後の行動についての指針をまとめるため、ヤマメは住処である洞穴に戻っていた。
ランプの灯をつけると、ぼうっと、鈍い光が洞穴内を照らし出す。人間には薄暗く感じるだろうが、地の底に生きる妖怪たちには、このくらいの明るさで十分である。
やかんを火に掛けて、ヤマメはふと、自室を見渡した。この光景も、もうそろそろ見慣れた頃だった。
以前は必要最低限のものしか置いていない殺風景な部屋だったが、彼女の現状に合わせて少しばかり手が加えられていた。そこらへんで拾ってきたボロの机と椅子は自分用として使い、新たに簡素ながらも丁寧な仕事で作られたテーブル、木製のベンチに座布団を敷いた、ソファのようなものを設置した。いずれもヤマメ手製のものである。土木作業が得意な土蜘蛛にとって、これくらいの工作はお手のものだ。他にも観葉植物や書類棚を置いてみたりして、雰囲気作りに努めている。
これらの改造は、すべて“はぐれ蜘蛛”として人を出迎えることを前提としたものである。知り合いならともかく、身も知らぬ客人を招くことなど、現在の稼業を始める以前のヤマメにはなかったことだった。住居の雰囲気は大きく変わってしまったが、ヤマメは事務所然とした現在の我が家も、これはこれで気に入っていた。
「妖怪でも、変わるもんだ」
そうひとりごちながら、やかんに掛けた火を消す。変わってしまったきっかけを考えると、この稼業を営むことが正しいことなのか、今でもわからないでいる。知り合いからは妙な目で見られるし、“はぐれ蜘蛛”という通り名にも、未だにむず痒さを感じている。
しかし自分のような小回りの利く存在が、地底に一人くらいいても困らないはずだとも、ヤマメは自負していた。事実、ヤマメが本格的にこの稼業を始めてからというものの、事務所に閑古鳥が鳴いて、飯のタネに困るということはなかったのだった。
茶を淹れたヤマメは机に向かい、万年筆を手に取りメモ帳を睨んでいた。調書を作って事件の要旨を視覚化させ、少しでも効率化を図ろうという、素人探偵ヤマメなりの工夫である。
破壊事件をキーワードとして中心に据え、あとは思いつくまま、関連しそうな言葉を並べていく。常軌を逸した破壊、鬼の居ぬ間の犯行、そして、“怨霊憑き”。
他にも適当に書き進め、蜘蛛の巣のように言葉が張り巡らされた、雑多な覚書がとりあえず出来上がる。それを眺めながらヤマメが唸っていると、
「精が出るようだね、ヤマメちゃん」
いつからそこにあったのか、小さな桶がソファに乗っていた。桶からは小さく可愛らしい童女の顔が、ちょこんと飛び出ている。もっともヤマメをからかうようなその表情からは、不自然なほどに幼さというものを感じさせない。
ヤマメは呼びかけのする方へ顔を向けようともせず、メモと睨めっこしながら言った。
「茶菓子なら出せないよ、キスメさん」
ぞんざいなヤマメの対応にも、キスメと呼ばれた娘は気を悪くした様子を見せず、むしろいっそう愉快そうにからかいの色を深めた。
「あらま、気の利いてないこと。天下の“はぐれ蜘蛛”の名が泣くよ」
「いや、買い置きしといた分まであんたが昨日全部食べちゃったんじゃないか。あと、天下取ってたのは私じゃないよ」
「そうだっけ?」
「そうだよ。とうとうボケたか、キスメさん」
「うんうん。ちゃんとツッコみ入れてくれて嬉しいよ、ヤマメちゃん」
「そういう意味じゃなくて……あーもういいや」
けきゃきゃきゃと奇怪な笑い声をあげる桶の中の少女、キスメは、釣瓶落としの妖怪である。
見た目は童女そのものだが、実際は地底に住む住人の中でも最古参にあたる、ヤマメから見れば大先輩とも言うべき存在である。少女の無邪気さと年長者の老獪さを併せ持つ彼女は、地底の住人から、左とはまた違う意味での畏怖と尊敬の目を向けられていた。「昔はブイブイ言わしたもんだ」とはキスメの口癖だが(お年寄りの決まり文句でもある)、今はなぜかヤマメにちょっかいを出すのに精を出しているのだった。
厄介な先輩の人を食った物言いにため息をつきながら、ヤマメはようやくキスメに向かい合った。
「この前回覧板に、地底の住人に聞いた“敵に回したくない性格の悪そうな人物ランキング”が載ってたんだけどさ」
「あのランキングは、なぜそんなネガティブなテーマばかり取り上げるんだろうね」
「地底の回覧板だしそこはしょうがない。で、キスメさんは見事第二位につけていたよ」
「はあ!? 一位じゃないの!?」
「ええ……? そこはトップを回避したのを喜ぶところなんじゃ」
「何バカなこと言ってんだい! この私が性格の悪さで誰かに遅れを取るとかあり得ないよ! わざわざ自分で投票してダブルパンチまで狙ってたのに!」
「あんたいい年して何やってんの」
「ぐぬぬ……で、この私を差し置いたのはどこの馬の骨よ」
「馬の骨って。いや、大方の予想通り姫さんだったよ。ちなみにダブルスコアね」
「きぃー! やっぱりあの嫉妬バカかー!」
桶をソファの上で揺らしながら、キスメが悔しそうに叫んだ。ソファが痛むのでおとなしくして欲しいところだが、ヤマメは何も言わない。注意しても無意味なのはわかりきっている。
「まあまあキスメさん。たかが回覧板の娯楽だ、そう荒れなさんな」
代わりにヤマメは、キスメを慰めてご機嫌をとることにした。面倒な年長者には適当に話を合わせるに限る。
「青いねヤマメちゃん。娯楽こそ本気で打ち込んでなんぼなのよ」
「その結果が自演かい。しかしあれだよ、姫さんは現役バリバリで人の心へし折ってるけど、キスメさんは最近地底じゃおとなしいからね」
「ふん、まあそれはそうかもね。せいぜい茶屋の屋根ぶち破って団子拝借するくらいだし」
「私に言わせればそれも大概だけど。それに、今やキスメさんの見た目に騙される奴なんか地底にはいないでしょ」
「ふふん、昔は私のかわゆさにころっとやられたバカな紳士たちが、大勢いたもんだけどね。あの頃が懐かしいよまったく」
「ロリコンがたくさんいたってことか。なんて嫌な時代なの」
「そうじゃない。私の可愛さは性癖を越えた普遍性を備えているのさ。うふん、私ってば罪な女」
「どちらかといえば、罪深いのはその有象無象の紳士どもの方だと思う」
ヤマメが持ち上げるまでも無く、勝手にキスメは上機嫌になっていた。奇怪な笑い声をあげて自分の全盛期を誇るキスメを見て、とりあえずソファの安全は守られたと安堵しながら、ヤマメは茶をすすった。
「そうそう、それで」
ひとしきり武勇伝を並べて満足したのか、キスメは小さな手でヤマメの持つ覚書を指しながら言った。
「また妙なことに首を突っ込んでいるみたいだね。飽きもせず懲りもせず」
覚書を机に置いてボロ椅子に体を深く埋めながら、ヤマメはキスメの表情を窺った。先ほどの上機嫌な笑顔とはまた違う、人を嘲るかのようないやらしい笑みだった。ヤマメはまぶたを揉みながらため息をつく。この表情を浮かべるときのキスメは、本当に面倒くさいのだ。口火を切るために喉を潤そうと湯飲みを傾けると、中身が空になっていた。仕方なく覚書を手にして立ち上がり、やかんを火に掛け直す。
「まあね。キスメさんも知ってるだろう。例の連続破壊事件」
「ああ、“怨霊憑き”の仕業とかいう。しっかし、センスのかけらもない呼び名だ」
「呼び名はともかく、また起きたんだよ。さっき現場覗いてきたけど、そりゃもうひどい有様だった」
「やれやれ、鬼どもがあんだけ雁首揃えても防げなかったのかい。奴らも舐められたもんね」
「逆だよ。犯人は鬼の方々を最大限に警戒してる。噂の“怨霊憑き”も、鬼との対面だけは避けたいみたいだね」
ヤマメは覚書の一部分を指で叩きながら続ける。
「だからこそ、左の旦那も頭を痛めてるんだ。戦えば勝てるだろうけど、相手にその気はない。圧倒的な強さが仇になった形だね。だから事件の解決には、戦闘以外のアプローチが必要になるわけだけど……」
「ふふん、なるほど。左はまあ別にしても、鬼に頭脳労働を期待してもしょうがない、か」
「そこまでは言ってないけどね。でも、不得意な分野はカバーしあったほうが早い。地底の住人は助け合いでしょ」
「助け合い、ね。それで、ヤマメちゃんが?」
意味ありげに目を細めて笑うキスメの問いに、ヤマメは答えない。キスメと自分の分の茶をテーブルに置いて、ヤマメはキスメの対面のソファに腰を下ろす。茶菓子が出てこないことへの文句は無視した。キスメは自分の手には少し大きい湯飲みを持ちながら言った。
「鬼どもがお手上げになって、次にお鉢が回ってくるのがヤマメちゃんとはね。いやはや、本当に妙な時代だよ」
「あんまりいじめないでくれよ、キスメさん」
にやにや笑いを浮かべるキスメのネチネチとした物言いに、ヤマメは肩をすくめながら苦笑した。
「別に鬼たちに泣きつかれたってわけじゃないさ。私が勝手に首を突っ込んでるだけ」
「勝手にね。ま、今さらそこをどうこう言う気はないけど」
「そうしてくれるとありがたい。ああ、勝手にとは言ったけど、旦那の許可は得てるよ。ほら、ギブアンドテイクってやつさ」
「ふうん。本当に奴はヤマメちゃんに甘いね。よほど弟子が可愛いと見える」
「はぁ? 旦那が? ないわー、いくらキスメさんの言うことでもそれはないわー」
ヤマメは呆れたように首を振った。あの鬼を甘いと評すのは、地霊殿の主を愛嬌の塊と言うようなものである。世話になっているのには違いないが、それにしてもキスメの物言いは的外れもいいところだ。日頃の仕返しも兼ねて、「キスメさんも耄碌したもんだ」と言ってやった。湯飲みが正面から飛んできた。顔に衝撃を感じるのと同時、熱々のお茶を頭から被って、ヤマメは阿鼻叫喚の体である。落ち着いた雰囲気を演出するのに苦心したヤマメの事務所に、しばしヤマメの絶叫とキスメの奇怪な笑い声が広がった。
「前言撤回。キスメさん、あんたまだまだ現役でやってけるよ。私が保証する」
「けきゃきゃきゃ。君に言われなくとも、このキスメさんは最初から最後までクライマックスだよ」
「今度同じようなアンケートがきたら、絶対キスメさんに投票してやる」
顔を拭きながらヤマメが文句を言ったそのとき、洞穴の入り口に設置したドアが突然叩かれた。ドアが開くとともに、カランカランと、澄んだ音が、控えめに鳴り響く。
「ごめんください」
女の声が、ドアに飾り付けた鐘の音と混じりあう。
ヤマメが顔を向けると、入り口には若い女が所在なさげに立っていた。
「こちらが、“はぐれ蜘蛛”黒谷ヤマメ様の住居と伺ってまいりました」
そう言って頭を下げると、墨で塗りつぶしたように真っ黒な長髪が、雨垂れのように流れる。顔を上げた女の瞳は、ヤマメをまっすぐ見据えていた。その不安定に揺れる輝きを宿した視線は、緩んだ時間の終わりと、事件の始まりを感じさせるに十分な切迫さを伴っていた。
「突然の訪問をお許しください。ですが黒谷様。あなたにぜひとも、地底で起こっている破壊事件についてのお話を聞いてもらいたいのです。そのために、こうして不躾にも押し掛けた次第です」
まるで用意していたように、よどみなく女が言葉を並べる。一見落ち着いているが、ヤマメには逆に余裕の無さの表れのようにも思われた。
ヤマメは手ぬぐいを放り投げて立ち上がる。それを見てキスメが愉快げに目を細めて笑った。
「どうぞこちらへ、お客様」
女を落ち着かせるように、ヤマメはゆったりと声を掛ける。
「ちょうどこれからお茶を淹れ直すところだったんだ。ま、それを飲みながらゆっくりと話を聞こうじゃないか」
そして胸に手を当てて片目をつぶりながら、女を事務所へ招き入れる。こんな芝居じみたキザったらしい所作も、ヤマメがこの稼業を始めてから身に付けたものだった。
「ようこそ、我が巣へ」
3.
女をソファに案内し、ヤマメは対面に座る。キスメはヤマメの仕事ぶりを見物することにしたらしく、ヤマメ専用のボロ机に陣取った。それを見てヤマメは顔をしかめたが、邪魔されるよりはマシかと諦めた。
キスメは放っておくことにして、依頼人の方へと向き直る。改めて見ると、依頼人にはまだあどけなさが残っており、女というより少女といったほうがふさわしく思えた。もっとも、妖怪の歳を見た目で判断などできるはずもないが。暇を持て余して、勝手にヤマメの本を読んでいる釣瓶落としが格好の例である。
しかし年月を重ねた者特有の雰囲気、余裕というものは、やはりどこかしらから滲み出るもので、キスメでさえ、ときたまそれを感じさせた。そこへきて、どうも目の前の少女からはそういったものが見受けられない。先ほど落ち着き払っていたように見えたのも、無理をしていただけなのかもしれない。
お茶をすすめたが、手を付けようとする様子はなく、やはりどこかそわそわしている。早く仕事の話をしたほうがよさそうだった。
「それじゃあ早速だけど、破壊事件のお話を聞こうかな。……ああ、その前に自己紹介しておこうか。そっちは私のこと知ってるみたいだけど、一応ね。私は黒谷ヤマメ。気軽にヤマメちゃんとか呼んでくれればいいよ。で、そっちの置物はキスメさん。こちらも知ってるとは思うけど。ちなみに、当事務所の業務とは一切関係が無い」
気を楽にしてもらおうと、ヤマメは努めて快活にふるまった。仕事以前に、元より気さくで話好きの彼女のこと、こういうことはお手の物である。
置物呼ばわりされたキスメから本が飛んできたが、今度はヤマメも予想していたのか、振り返ることもなくキャッチして見せた。勝ち誇ったような笑みをキスメに向けたその瞬間、間髪入れずに飛んできた第二の本が、顔面に突き刺さった。ヤマメの絶叫、キスメの笑い声、以下、省略。
「だ、大丈夫ですか……?」
「し、心配には及ばないよお嬢さん。プロならこれしきのことではうろたえない」
「はあ……」
とんだ醜態を見せたと、ヤマメは依頼人に詫びたが、少女は控えめながらもクスクスと笑っていた。ヤマメが初めて見る依頼人の笑顔は、やはり少女らしく可愛らしいものだった。
「ごめんなさい。でも、とっても仲がよろしいんですね」
「そう見える? 私としては結構命がけなんだけどね」
「先ほども、とっても楽しそうで。私、入るタイミングを逃してしまいました」
「あれを聞かれてたのか……。恥ってレベルじゃないなあ。いやうんまあ、リラックスしてくれたのなら何よりだ」
「じゃあリラックスできたところで娘、さっさと話を始めなさいな」
「いや、あんたが仕切るなよ」
なぜかキスメが話を促すと、依頼人の少女は茶に手を付け、そして決心したように表情を引き締めて口を開いた。
「わたしは津河風子(つがわふうこ)と申します。都の外れに住む、烏です」
風子と名乗った少女は、事件についての話を細い声で、しかし要領よく語った。
聞けば、一連の破壊事件の現場に全て遭遇しており、その度に“怨霊憑き”も目にしたという。
「三回ともに、ね。偶然で済ませられるギリギリのラインだけど……貴方、ええと、風子さんの顔を見るに、そういうわけじゃないんだね?」
ヤマメの問いに、風子は頷いた。その表情は何かに怯えるように険しく、膝に乗せられた手は固く握られていた。
風子は一つ息をついて、言った。
「破壊事件の犯人は、私のかつての恋人です」
思いもよらぬ風子の言葉に、ヤマメが息を呑み、キスメが興味深げに眼を光らせた。これまで目星もついていなかった下手人の、いきなりの有力な情報である。
「恋人って……それは間違いないの?」
「私も最初に見たときはまさかと思いました。人相も雰囲気も月日の積み重ねだけでは説明がつかないくらい、何かに憑りつかれたように変わっていたし……。でも、今日この目で見て、確信しました。やっぱりあれは陽(よう)……私の恋人だった人に違いありません」
最後は消え入るような声でそう言い切り、風子は俯いてしまった。
「……詳しく聞かせてもらえるかな。その、話し辛いのはわかるけど」
彼女の話が事実だとすると、事件はただの無差別破壊というだけではなくなるかもしれない。動機があるのなら、それは捜査の大きな足がかりとなり得る。
ヤマメが促すと、風子は視線をテーブルに固定したまま、独白するように続きを話し始めた。
「陽と出会った正確な年月ははっきりとは思い出せませんが、確かあれは、博麗大結界が出来てしばらくたった頃だったと思います」
ヤマメは付け焼刃で覚えた、幻想郷の年史を思い返してみた。博麗大結界の形成というと今から百年以上前ということになる。やはり目の前の少女は、見た目以上の年月を重ねているらしい。とてもそうは見えないが、キスメを持ち出すまでも無く、そのあたりは自分にも言えることかもしれない。
「陽は……」
風子は躊躇いがちに言葉を濁した。だがそれも束の間、意を決したように顔を上げた。
「陽は、地上から来た白狼天狗でした」
吐き出すような風子の告白は、ヤマメの言葉を失わせるに十分な衝撃を帯びていた。
「なるほどね、つまりお前と昔の男とやらは」
代わりに口を開いたのはキスメだった。どこか愉快げに、口の端を歪めている。
「そうです。私たちの関係は、決して許されるものではありませんでした」
種族の異なる者同士の恋愛。おとぎ話には定番の、使い古されたモチーフである。しかし現実問題、それは人間とは違う、また、種族ごとに多様な価値観を持った妖怪たちでさえ、一様に忌み嫌う大禁忌であった。
ヤマメもそれなりに長く生きているので、タブーを破った妖怪たちは知らないでもなかったが、彼らが幸せになったという話は、ついぞ耳にしたことが無い。異種間の恋物語は、虚実問わず、決まって悲恋譚なのだ。
風子が語ったところによると、その白狼天狗は多数の仲間とともに、地上からの使者としてやってきたらしい。目的はよく覚えていないが、多分博麗大結界に関連することだという。
「そういえばあの時期は、何かと上の連中の出入りが激しくて、都が妙にざわついてたっけ」
「そうそう、私のこと知らないカモがわらわらいて、超楽しかった」
ものすごくいい笑顔で、在りし日を振り返るキスメはさて置き、風子の話が続く。
「きっかけは些細なことだったと思います。私が宴会でもてなした地上の方々の中に、あの人がいた、というような。最初は言葉を少し交わすだけだったのが、段々二人きりで逢瀬を重ねるようになって」
いつの日か地獄烏の女と白狼天狗の男の関係は、恋人と呼べるものにまで発展していった。禁忌を破ることさえいとわず、感情の発露に任せるままに、二人は突き進んでいったのだ。そしてその果てに。
「二人は……貴方たちは、どうなったの?」
わかりきったことを尋ねるのが心苦しかった。それでもヤマメは聞かないわけにはいかなかったし、風子もそれを覚悟して、ここへやってきたのだろう。その証に、風子はヤマメがハッとするほどの意思の強さを瞳に宿らせて、決然と言い切った。
「私たちが一緒になることはありませんでした」
予想通りの返答。しかし澱みなく風子は続けた。
「何度も二人で話し合って、本当に悩みに悩みぬいて。そして最後は納得しあって、私たちの関係を終わらせることにしたんです。すごく悲しかったけど、そのほうがお互いの未来のためだって」
禁忌の壁は、目の前の少女の前にも容赦なく立ちふさがり、そして彼女と思い人は壁を乗り越えることはなかった。絶対的な運命に敗北した形ではあるが、取り返しのつかないことになる前に二人の関係が終わったことは、結果的に良かったのではないかと、ヤマメには思えてならなかった。所詮それも、当事者でないから言えることなのかもしれないが。
「これが、私と陽の関係の顛末です。すみません、つまらないお話を聞かせてしまって」
風子は悲しげに笑っていた。それでもその笑顔は朗らかで、どこか吹っ切れているようにも見えた。
ヤマメはその笑みに安心するように言葉を返した。
「いやいや。辛かっただろうに、こちらこそ話してくれてありがとう。うん、貴方と容疑者の関係はわかった。それで、貴方の元恋人が犯人だったとして、どうしてこんな事件を起こすんだろう。何か心当たりは?」
ヤマメが礼とともに問うと、風子はまた伏し目がちになってしまった。心なしか顔色も青ざめている。
「復讐……だと思います」
「復讐……?」
「最初の事件が起こる数日前のことです。あの人が突然ふらりと現れて、私、本当に驚きました。ずっと音沙汰もなかったのに……。そのときはまだ“怨霊憑き”なんて呼ばれるほど変わったところはなかったんですけど、やっぱりどこか様子がおかしくて、「自分は力を手に入れた、俺たちの痛みを、仲を引き裂いた地底の奴らに、思い知らせてやろう」って、熱に浮かされたように私に言ったんです。私たちは自分で結論を出したのに、それも忘れたみたいで」
理解できないというように、風子はかぶりを振ったが、ヤマメにはなんとなくわかった。「奴ら」というのは特定の誰かを指している訳ではあるまい。強いて言うならば、禁忌を作り出した妖怪たち全て、あるいはそれを容認する地底という世界そのものというところか。いずれにせよ、そんな巨大なものに復讐しようとするなど、正気の沙汰ではない。
「あの人の血走った目を見て、私、怖くなって……。それで、あの人の手を振り払って、逃げちゃったんです。……それからです。私の行く先々で破壊事件が起こリ始めたのは」
風子のいる場所が現場になったのは、やはり偶然などではなかった。
何度も事件に遭遇することになってしまった風子の恐怖はいかほどか。段々と言葉に詰まり始め、とうとう風子は両手で顔を覆ってしまった。
「協力しないと、いつかお前もこうなると見せつけられてるみたいで……。何より私があの人を拒絶したことで、彼にこんな恐ろしいことをさせてしまったのかと考えると、私、もう、どうしたらいいか……」
絞り出すようにそこまで言うと、あとには風子の嗚咽と陰鬱な空気が、事務所を支配していった。ヤマメは居心地の悪さを誤魔化すように、覚書に万年筆を走らせた。「風子と陽」「復讐」というキーワードが、大きく書き足される。だんだん事件の構図が明らかになってきたような気がした。
キスメは今の話をどう捉えたのかが気になって、チラリと視線を向けてみる。快眠されていた。ご丁寧に鼻ちょうちんまでこしらえて。
「……………………」
絶対にツッコまない。そんなことをしたらシリアスな雰囲気が台無しだ。ヤマメは当初の方針通り、キスメを置物として扱うことにして、沈黙だけを破るように風子に声を掛けた。
「今の話、自警団には?」
地底で起こった事件なら、まずは鬼の自警団を頼るのが筋である。しかし、これは予想していたことだが、風子は首を横に振った。
「鬼の方々に話したら、あの人が無事では済まされないような気がして」
「あー……うん。それはその通りかも」
いくら好戦的な鬼でも、好き好んで殺生を行うわけではないが、事件の容疑者と戦闘になった場合、相手の命を気遣うほど優しくはない。特に今回は現場の状況から、犯人はかなり凶暴な人物であることがうかがえる。もし鬼が対応するとなれば、事件の解決イコール犯人の殺害であることは、荒事に縁遠そうな風子でも容易に想像がつくだろう。
「あの人のやったことは許されません。今更無事を願うのは虫が良すぎるのもわかってます。でも、あの人はあんなことになっても、私の……」
風子は涙を拭い、テーブルに額がつかんばかりの勢いで頭を下げて言った。
「勝手を承知でお願いします。ヤマメさん。どうか、どうか……あの人を、止めてやってください」
絞り出された悲痛な叫びは、風子の胸の裡を如実に表しているようだった。たとえ遠い昔に袂を分かったのだとしても、件の白狼天狗は、彼女にとって決して軽い存在ではないのかもしれない。
「顔を上げてちょうだいな。風子さん」
ヤマメの言うとおり顔を上げた風子の目は、泣きはらして真っ赤になっていた。誰かの泣き顔は、ヤマメが最も見たくないものの一つである。
「元々貴方が来なくても、犯人はとっ捕まえるつもりだったしね。風子さんが気に病む必要はない」
風子が何かを言いかけるのを、ヤマメは人差し指を立てて制した。そして「それにね」と片目をつぶって、続ける。
「私はこの地底を泣かす奴を許さない。貴方の涙は、この私が動くのには十分すぎる理由だよ」
キザったらしい所作で繰り出されたセリフは、やはりキザったらしいものであった。ヤマメの言葉を聞いた風子は目を丸くしたが、やがて涙を流しながらも、その顔は笑みをかたどっていった。聞く人が聞いたら笑われそうなキザなセリフも、時には捨てたものではない。ヤマメは強くそう信じていた。
風子はもう一度頭を下げて言った。
「――お願いします、ヤマメさん」
「はいはい、任せといて」
もう風子の声に、悲壮感はなかった。だからヤマメも、明るく笑いながら請け負った。
「じゃあ風子さん、私は早速動いてみることにするよ。色々話してくれてありがとね」
「はい。もし何か私に出来ることがあれば、そのときはいつでもお知らせください」
「うん、そうさせてもらう」
「では私はこれで。……私が言うのもなんですが、その、どうかお気をつけて」
最後にまた律儀に頭を下げて、風子は事務所を辞した。扉の鐘が鳴り止むのと同時、ヤマメはソファにもたれて大きく息を吐いた。
依頼は成立。事件を解決するために、そして風子の涙を止めるために、ヤマメが為さなければならないことは山積みである。
しかし、烏の少女の勇気ある決断は、暗礁に乗りかけていた事件の捜査に一筋の光明を差し出した。これで依頼人の期待に応えられなかったら、“はぐれ蜘蛛”の名が廃る。
「まずは白狼天狗の目撃情報を洗うことからかな……。上の妖怪みたいだから、それなりに目立ってるとは思うんだけど。あとは……“怨霊憑き”についても、この際ちゃんと調べてみようか」
ヤマメが覚書を見ながら改めて方針を組み立てていると、
「どうにも嫌な感じがするね」
いつのまにか桶が、対面のソファに戻っていた。
「ようやくお目覚めか、キスメさん」
「おいおい、なんだか私が居眠りこいてたような言い草だね、ヤマメちゃん」
「ぐっすり寝てるようにしか見えなかったけど」
「私の寝顔、可愛かった?」
「迂闊にも一瞬、普段のあんたの所業を忘れかけたよ。というかやっぱり寝てたんじゃないの」
「けきゃきゃきゃ、いやいや話は聞いてたよ。私くらいにもなると、寝ながら作業なんてお手の物なのさ」
「なにそれすごい。私にも教えてよ」
「ふふん、ヤマメちゃんの誠意次第だね。……いやそれにしても」
キスメがまた、例の面倒くさい笑顔を浮かべて、ヤマメを見た。
「なかなかどうして。堂に入った仕事ぶりじゃないか」
「まだ話を聞いただけだよ」
「それもヤマメちゃんの人柄の為せることさ。それにあのセリフ、君があんなことを言うようになるなんてね。本当に面白い時代だ」
みなまで言わなくとも、キスメが何のことを指しているのか、嫌でもわかった。
――この地底を泣かす奴を許さない
「それくらい地底を愛しているのは、本当だよ。まあ、キスメさんの言うとおり、どうにもまだ口に馴染まないけどね」
こんな正義の味方じみたセリフが似合うほど、自分が立派な妖怪だとは思ってはいない。今の“はぐれ蜘蛛”は半人前ゆえ、地底の涙を拭うどころか、目の前の事件に向き合うだけで手いっぱいなのだ。そしてそもそもヤマメは、自分がそのような正義感を持っていることすら疑問視していた。所詮今やっていることは、過ぎ去りし日々に存在した誰かの真似事に過ぎない。「それでも」と、ヤマメは天井を見上げながら言った。
「こうして口にしてたらさ。いつかはあの人みたいに、こんなセリフが似合う奴になれるかもしれないでしょ?」
「なんだ、あいつみたいになりたいの、ヤマメちゃんは」
「まあね。目下のところ、それが希望さ」
しかし道は遠い――ヤマメが苦笑しながら付け加えると、キスメは薄ら笑いを浮かべることも忘れて嘆息しながら言った。
「あいつみたいにね……それはそれでめんどくさそうな生き方だと、私なんかは思っちゃうんだけど」
「そうだね。私だってそう思う」
「はん、わかってて目指すって、ヤマメちゃんはアホなの? それかドM?」
「それしか思いつかないんだよ。アホだから。ただしドMではない」
ヤマメの答えに、キスメは心底呆れたように首を振った。嫌味の一つも言わないのは、キスメにしては珍しいことだった。
「ヤマメちゃんが決めたことだから、私はあえて止めないけど。見てる分には面白いし」
「なんだキスメさん。今日はやけに絡むね」
「たまには老婆心を発揮したくなる時もあるの」
「ふうん、長い話はやめてくれよ。知ってのとおり、これから忙しくなるんだ」
「私だってそんな物好きじゃないよ、だから一言だけ」
キスメは童女のような顔に幾年の時を乗せて、ヤマメを真っ直ぐ見つめる。この目をしたキスメの話は、襟を正して受け止めるというのが、ヤマメの決まりごとだった。
「無理と後悔はしないこと。以上」
簡潔ながら、ヤマメにはこのうえなく胸にささる忠言だった。どちらも生き方が下手くそなヤマメには、いつだってついてまわることだ。それを承知で、この先輩妖怪はこんな無理難題を突き付けるのだろう。厳しいのやらおせっかいなのやら。キスメともそろそろ付き合いも長いが、ヤマメにとって彼女の心中は、事件の謎よりも計り知れないものなのだった。
少しだけ口の端を上げたヤマメは茶を啜り、覚書を懐に入れて立ち上がる。キスメが陣取ったソファをすり抜けて、ドアに手をかけた。そして振り返って、同じく顔だけこちらに向けたキスメに言う。キスメの気まぐれな老婆心に応えるように、自分の数少ない持ち味と自負する笑顔を浮かべながら。
「行ってくる」
ドアを開けると、地底特有の生温い風が頬を撫でた。
風を受け止めながら、ヤマメは目を閉じる。いつもと変わらない今日にも思えるが、この風の向かう先のどこかに、地底を泣かす者が今も潜んでいるのだ。
「待ってなよ」
目を開く。姿の見えぬ悪党に突きつけるように手を差し出し、ヤマメは不敵に笑った。
「私の糸は、絶対にお前を逃しはしない」
蜘蛛の糸は鋼よりもなお強固。
決して切れない意思をたずさえて、“はぐれ蜘蛛”が地の底を駆ける。
***
キスメはどこかぼんやりとした目で、ヤマメが出て行った扉を見つめていた。自分の忠告に応えたヤマメは、いつも通りの彼女らしい笑顔を浮かべていた。一時期は笑顔を忘れたように塞ぎこんでいたことを考えると、今のヤマメは確かにいい方向に向かっているようにも見える。
しかし、キスメは時折、ヤマメの在り方に靄のような胸騒ぎを覚える。そしてヤマメを変えたきっかけを知る者ならば、きっと同じような感覚を抱いていると彼女は確信していた。
人にも妖怪にも、分に合った生き方というものがある。あるいは悩み傷つきながらそれを探し出すのが、生というものなのかもしれないが、地底の正義を体現し続けるかのような道は、果たしてヤマメのような妖怪が歩むにふさわしいものなのか。
立ち止まるくらいならまだいい。少し休んだらまた進めばいいだけの話だ。だがしかし、もしも道を踏み外して、地の底よりも深く暗い奈落に堕ちてしまうようなことがあれば――。
「はん」
そこまで考えて、首を振った。ヤマメの選ぶ生き方がどうあれ、自分はこうしてヤマメにちょっかいを出して、たまに説教の一つもくれてやる。それ以上は出来ないし、またするつもりもなかった。あの蜘蛛も子供ではない。ただ、さきほどの忠告は少し失敗したかとも思う。
「無理はともかくとしても」
キスメはカタンと桶を傾けて、ため息を一つ。
「後悔しないで生きられる奴なんて、地底どころか世界中探してもいないわな」
我知らず呟いた独り言は、静かな洞穴内に思いの外よく響いた。
自嘲気味に口を歪めたのも一瞬、キスメはけきゃきゃきゃと奇怪な笑い声をあげながら、絶対にどこかにあるはずの、秘蔵の茶菓子を探し始めた。
4.
地底といえば、かつて地上で忌み嫌われた妖怪達が封印された、曰く付きの世界である。それゆえさぞかし陰気な場所なのだろうというのが、地上に住む者の大方の認識であり、実際それほど的外れでもないのだが、一方でヤマメは、それが地底の全てを言い表しているとも思っていなかった。
今日も旧都にはそこかしこで客引きや笑い声が入り交じった騒々しさが渦巻いており、陰気とは正反対の雰囲気があたりを支配していた。灯籠がぼんやりと照らし出す通りは、さながら宵に催される祭りのようで、これも旧都独特の活気の形成に一役買っているのかもしれない。
ヤマメ自身も通りを歩いていると、道行く人々に声を掛けられ、その都度足を止めてはたわいもない話に興じた。ヤマメの愛する地底が、そこにはあった。
昨日“怨霊憑き”の被害にあった酒場に足を運ぶと、引き続き鬼たちによる現場検証が行われていた。そのため現場には立ち入り禁止の境界が引かれ、まだ残骸が転がっていたが、検証が終わればすぐにでも鬼や土蜘蛛たちの手によって、店主の新たな城が立て直されることだろう。
店主は己の境遇を嘆くように愚痴を垂れ流していたが、この男は平素もこんな感じなので誰も本気で取り合わない。代わりに新店舗が建った暁にはここで宴会を開くと誰かが提案すると、店主はすぐさま上機嫌になって、自警団の鬼をねぎらい始めた。現金なものである。
ヤマメは現場に顔を出したついでに、左にも会っておこうかとも思ったが、鬼たちによると今日は不在とのことだった。風子の話を左の耳に入れていいものか迷っていたヤマメであったが、いないのではしょうがないと、足早に現場を去った。
「んー、こんなものか」
顔の広さを最大限に活用し、事件に関する情報を集めること数刻。ヤマメは休憩がてら情報の整理をしようと、茶屋の一席に腰を据えていた。あちこち歩き回ったり飛び回ったりしたが、ヤマメは疲れた様子を見せず、むしろその顔には充実感がみなぎっていた。足を使った聞き込みは捜査の基本中の基本であるというのが、ヤマメの信条だった。某引きこもりの性悪さとり妖怪に借りた探偵小説にも、そう書いてあったから間違いない。
探偵らしいことをやってご満悦のヤマメは、メモ帳に情報をまとめていく。筆を進めるうちに、一転難しい顔をして、万年筆の柄で机を叩いた。
「しかし“怨霊憑き”はともかく、陽の情報はもっと出てきてもいいと思ったんだけどねえ」
地上の妖怪の山に属する白狼天狗であれば、地底ではさぞかし目立つに違いない。そう当たりをつけて目撃情報を聞いてまわったが、ヤマメが期待したほどの成果はあげられなかった。破壊事件を立て続けに起こしていることから、それなりの纏まった期間を地底で過ごしているはずだが、たまに目撃談があっても、それは事件が起こった時のものであり、陽の普段の生活というものが一向に見えてこないのだ。拠点を突き止めるとまではいかないでも、せめて生活圏くらいわかれば、大きな手掛かりとなったのだが。
「うーん、普段は一歩も外に出ていないってこと……? でもそれはちょっとなあ」
とりあえず情報がないことは仕方がないので、陽のことはさておくことにする。
そして“怨霊憑き”。これに関しては目新しい情報はなかった。目撃者はこれまたそれなりにいるものの、なぜそんなものが地底に現れたのかを説明できる者はいなかった。当たり前と言えば当たり前なのだが。
メモ帳のページをさかのぼる。目撃者の話をまとめれば、“怨霊憑き”は禍々しい気配を纏って、正気をなくしたように暴力を振りまくのだという。さらに注目すべきは、白狼天狗が異形の化物に変化したという証言だ。
「……嘘くせえ」
思わずヤマメは呟いた。左が怪談と評するのも無理はない。
多くの時間と想念を積み重ねて、現象は想念の元である人の形をとる。規格外に生きた猫が化け猫になるように、九十と九年使われた傘が付喪神となるように。そうして一度“成った”妖怪が元の形に戻るのはともかく、さらなる異形、まして妖怪たちにさえ化物と呼ばれる姿に成り果てることなど、そうそうないはずである。
“怨霊憑き”とはそもそも何なのか。この点がわからないと、事件の解決も遠い。想定される事態のためにも、敵の正体は少しでも掴んでおきたかった。
「おっ」
注文した団子をパクつきながら思案していると、ヤマメは見慣れた赤毛の三つ編みが店内に入ってくるのを認めた。しめた、とヤマメが思ったところへ、向こうもこちらに気がついたのか、頭の耳をピコピコと動かしながらヤマメに近づいてくる。
「あれー? ヤマメちゃんじゃん」
手を振りながら、赤毛の少女は気安く声を掛けてきた。ヤマメはすかさず立ち上がって、少女の肩をがっちりと掴む。
「良いところで会ったね、お燐。まま、こっち来て座りなよ」
お燐と呼ばれた赤毛の少女は“火車”の妖怪であり、本名を火焔猫燐という。以前からヤマメとは古い付き合いであるが、ヤマメが“はぐれ蜘蛛”の稼業を始めて以降、地霊殿の主のペットでもある彼女とはプライベート以外の場面でも、何かと顔を突き合わせることが多かった。
ヤマメに半ば捕らわれた状態のお燐は、訝しげにヤマメを見た。そしてヤマメの一物抱えたようなにやけ顔ですぐに察しがついたのか、面倒くさそうに顔を歪める。
「なになに、またお仕事?」
「さすがに話が早くて助かる。これからあんたを探しに行くところだったんだ。会えて嬉しいよん、心の友よ」
「あたいもだよヤマメちゃん。じゃあお互い今日はご機嫌に過ごせそうだし、あたいはこれで」
「まあ待て。ちょっと話聞かせてほしいんだよ。仕事が行き詰っちゃってさ」
「面倒事にあたいを巻き込まないでほしいなあ。何度も言うけど、別にあたいはヤマメちゃんの仕事に協力する義務はないんだからね」
「わかってるよ。いくら友達だからって、ビジネスの領域をうやむやにするつもりはないよ。私がタダで仕事の協力を頼んだことがあったかい? それに、今は暇なんでしょ? 仕事道具も持ってないし」
ヤマメの言うとおり、お燐はトレードマークともいうべき猫車を手にしていなかった。図星をつかれたお燐は口をとがらせる。
「まあ、そりゃあそうだけど……」
「決まりだね。というわけでここは私の奢りだから、好きなのを選びなよ」
その言葉を聞いた瞬間、お燐の目の色が変わった。それはまさしく哀れな獲物を目の前にした猫の目、野生のハンターの凄味だった。
「おばちゃん! “デラックス地獄極楽ジャンボパフェ~旧都の街角より愛をこめて~”一つ!」
「っておいこら!? 誰がそんな高いのを頼んでいいと言った!」
「好きなのを選べって言ったのはヤマメちゃんだよ。ビジネスの領域はきっちりしないとねー」
ぐっ、と言葉が詰まる。そう言われては反論のしようがない。おばちゃんも滅多にない注文を聞いて、張り切って厨房に引っ込んでしまった。ヤマメは席にどかりと座りながら、メニューの一角を見る。文字通り桁違いの金額とカラフルなイラストが、冗談のように載せられていた。うぎぎとメニューを引きちぎらんばかりに握りしめても、パフェは消えてくれない。
経費で落ちないものかと、ヤマメが無駄な勘定をしていると、対面にお燐が腰を下ろした。先ほどと打って変わって、ほくほくと満足げな表情である。
「さあさあヤマメちゃん、お仕事の話をしようか」
「……奢った分に見合った話は聞かせてもらうよ。絶対に絶対にぜーったいにだ」
「もちろんどーんとこいさ。今のあたいなら、さとり様のスリーサイズだって教えちゃうよ」
「微妙に興味あるけど、お互い後が怖いしやめとこう。――聞きたいのは、“怨霊憑き”のことだ」
お燐の猫耳がピクリと動き、幸せそうな笑顔が一転、鋭い猫の目付きでヤマメを伺う。お燐が本格的に仕事の体勢に入った証だった。
「なるほど、やっぱりヤマメちゃんも動いてたか」
「まあね」
「面白半分じゃないよね?」
「もちろん。ちゃんと依頼人もいる」
「ああ、そりゃあこっちとしても、おいそれと止められないや」
ため息をつきながら、お燐が天井を仰ぐ。
もちろんヤマメが真剣に取り組んでいることはわかっているだろうが、お燐もヤマメの変化のきっかけを知る者の一人だ。物申したいことは色々あるのだろう。しかしお燐は小言の一つも漏らすことなく、「それで?」と続きを促した。仕事の席でお燐はほとんど私情を挟まない。
そんな彼女の流儀に助けられるように、ヤマメは話した。聞き込みで得た“怨霊憑き”の情報、そして風子から聞いた話(もちろん風子の名誉に関わる部分は省いた)を、お燐は適当に相槌を打ちながら耳を傾ける。
「この事件の鍵は“怨霊憑き”だと思う。なんでもいいから正体に繋がる情報が欲しいんだ」
「ふうん、それであたいに」
「そう、怨霊の使い手であるあんたなら、なにかわかるかと思ってさ」
ヤマメの期待を込めたまなざしに、お燐は腕を組んでうーんと唸った。猫耳も項垂れてどこか元気が無い。ヤマメが不安に思っているところへ、お燐の注文した“デラックス(以下略)”が、大きなお盆に乗せられて運ばれてきた。
「……」
「……」
改めて実物を見ると、パフェのような物体は冗談を通り越して悪ふざけの域に達していた。
鬼が好んで使いそうな巨大な盃を思わせる器の底にはアイスクリームが敷き詰められ、中心でソフトクリームがタワーを形成していた。その周りには店にあるものを全部使ってみましたと言わんばかりに様々な果物や白玉、粒餡等々が添えられており、目に鮮やかというよりむしろ目に毒と言うべき彩りを全体に与えていた。近年ようやく地上から洋菓子が浸透してきた地底において、このアバンギャルドなパフェは存在そのものが間違いであるかのようだった。
「頑張れ
「……無理かも」
「はっはっは、何を遠慮してるんだい。どうせ私の奢りだ、残さず食べるんだよ」
「うう、ヤマメちゃんが鬼だよ……」
半べそをかいているお燐をよそに、店内からはその威容に歓声やざわめきが沸き起こっていた。いよいよ後に引けなくなったお燐は泣く泣くスプーンを手に取り、クリームの山を崩し始める。何事もほどほどが一番だと思いながら、ヤマメが団子を口にしていると、
「“怨霊憑き”の話だけどさ」
お燐がスプーンを舐めながら口火を切った。
「へ? あ、ああ。あまりの衝撃に一瞬忘れかけてた」
「うん、すっごく気持ちは分かる。でも美味いよこれ。良かったらヤマメちゃんも食べなよ。むしろ食べて。いや食べてください」
「食べるからそう卑屈になるな。私がいじめてるみたいじゃないか。……どれどれ。あ、ほんとだ。見た目はアレなのに」
二人でパフェのお化けを攻略する作業に取り掛かると、お燐は続きを話し始めた。
「そもそも、“怨霊憑き”のネーミングの出所はどこなの?」
「どこって……そりゃあ都の住民の噂が発端じゃないかな。具体的に、と言われると困るけど」
なぜお燐はそんなところを気にするのか。ヤマメが疑問すると、お燐はスプーンを咥えながら首を捻った。
「いやね? ヤマメちゃんの話を聞く限り、多分怨霊は関係ないんだよ」
「関係ない。ふーん、そうなのか。……は?」
お燐の意外な返答に、ヤマメは思わず素っ頓狂な声をあげた。
「関係ないって……だって、“怨霊憑き”だよ?」
「関係ないというのは語弊があったね。でも怨霊の仕業とすると、色々おかしいことが出ちゃうんだよ」
戸惑うヤマメに、お燐はスプーンを立てながら言った。
「ヤマメちゃんはその“怨霊憑き”とやらの正体をどう考えてる? ふわっとでもいいから」
「うーん、そりゃあまあ、“怨霊憑き”って言うくらいだから、怨霊が妖怪に憑りついて悪さしてるんだろうとは思うけど。それだけで化物に変身したりするっていうのが、どうも納得いかないんだよね」
「ほら、そこだよ」
「へ?」
スプーンをヤマメに突きつけられたヤマメは、思わずたじろいでしまった。
「あれ? もしかして前提からしておかしい?」
「それを確認するためにも、まず怨霊についての基本的なことから話したほうがよさそうだね」
お燐がスプーンを置いた。パフェをいったん横に置いておくほどに重要な話らしい。あるいは単純に疲れただけなのかもしれないが。ヤマメも甘ったるくなった口の中を茶で洗い流し、話を聞く体勢を整える。
「それじゃあ半人前“はぐれ蜘蛛”でもわかるおりんりんの怨霊講座、はっじまっるよー」
「わぁい」
古くからの友人特有のノリを差し挟むことで、殺伐としがちな仕事の話に彩りを添えるというプロの業である。決して遊んでいるわけでもふざけているわけでもない。適当に和んだところで、お燐による講義が開始された。
「なんであたいら妖怪は、怨霊を恐れるんだと思う?」
「質疑応答形式か、望むところだ。そんなの決まってる。精神が汚染されるからだよ。私たちは精神に依る存在だから、存在の寄る辺が汚されちゃあたまったもんじゃない」
「んー、六十点」
「ありゃ、違うのか先生」
「違うというより、怨霊の恐ろしさを言い尽くせてないね。程度は違えど精神が汚染されるのは、人間も同じことだし」
「む……」
首を傾けたヤマメに、お燐は四十点分の不足を思い知らせるように、冷徹ささえ感じさせる声で言った。
「怨霊は、妖怪を殺す」
地底随一の甘味所と評判の茶屋は今日も繁盛し、賑やかな声が絶えない。ただ一角にだけ、喧騒から切り取られるように沈黙が降りた。手が付けられていないパフェのアイスが、じんわりと溶け始めていた。
殺す。結果としての死。肉体的には人間とは比べ物にならないほどの頑強さを誇る妖怪には、縁遠いようにも思える言葉。だがそれはもちろん錯覚でしかない。少しばかり、死を想うのが人に輪をかけて難しいというだけのことだ。
ヤマメは言葉を探るようにスプーンをもてあそびながら、口を開いた。
「確かに怨霊が妖怪の天敵だというのは、誰もが知ってることだよ。でも“殺す”ってのはどうなの。そう簡単に怨霊が、あんた好みの収集品をこしらえられるもんかね」
「そういう意味でなら、答えはノー」
「じゃあ」
「ヤマメちゃんが言ったじゃん。“あたいらは精神に依る存在だ”」
お燐の、正確には自分の言葉で、ヤマメにもすぐにピンときた。お燐は頷いて言った。
「人間なら恨みや悲しみといった負の感情が増幅されるだけですむかもしれない。だけど妖怪の場合はそれでは終わらない。怨霊は憑りついた妖怪の精神を乗っ取る。怨霊の念に食われて個を消失した妖怪は、憑りつかれる以前とはもはや全く別の存在と言っていい。つまり」
「その妖怪は死んだも同然、ってことだね」
「よくできました」
自分が自分でなくなる。あるいはそれは、肉体的な滅びよりも恐ろしいことかもしれない。妖怪が怨霊を恐れる真の理由が、ここにあった。
「いやいやヤマメちゃん。今さら神妙な顔してるけど、本当に知らなかったの?」
「ぶっちゃけ“怨霊はヤバい”くらいにしか思ってなかった」
「呆れた……。その程度の認識でよく今まで生きてこられたね」
「みんなこんなんだと思うけどなー。油断してなけりゃそう簡単に憑かれるもんじゃないし」
「さすがにそれはないと……。いや、ここの連中ならありえるか……」
お燐は頭を抱えてしまった。いつも能天気なのに、妙なところで真面目な友人である。再びスプーンを手に取って溶けかけたアイスを口にしながら、ヤマメは店内を見渡した。お燐の頭痛の種は、みな“怨霊憑き”の事件の影を感じさせることもなく、思い思いのひとときを過ごしていた。
「それで、ここからが本題なんだけど」お燐がフルーツをつまみながら言った。「例の白狼天狗は“怨霊憑き”と呼ばれて、都を暴れまわってる。だからヤマメちゃんは、怨霊のエキスパートであるあたいに話を聞きに来た。そうだね?」
お燐が整理した話に、ヤマメは頷いた。“怨霊憑き”なんてものが現れたのなら、怨霊に原因があると見るのはごく自然な流れだ。
「でも、実際は見当違いかもしれないと、あんたは言いたいんでしょ? どこがおかしいのさ」
「まだわからない? 今した話を踏まえれば、ちゃんと見えてくるよ」
「じらすなよ。パフェも食べなくちゃいけないし、さくっといこう」
「せっかちだねえ、ま、いいけどさ」
お燐は頬杖をつき、空いた手の人差し指を立てる。あれほど面倒そうにしていたにもかかわらず、今やこの会話を楽しんでいるかのようだった。
「怨霊は憑りついた妖怪の精神を乗っ取って、別の存在にしてしまう。これが大原則。それなのに今回の白狼天狗は……」
そこで言葉を切って、お燐は挑戦的な笑みを向ける。それを見たヤマメは顔を俯けてしばし黙考し、やがて一つの事実に思い当たって、あっ、と頭を上げた。
「陽は、別の存在にはなっていない!」
お燐が、ようやく気付いたかと言いたげに首を振った。
「ヤマメちゃんの依頼人の話を聞いた時から、これはおかしいなと思ってたんだよね」
「ああ……。陽は昔とは大分雰囲気が違っていたらしいけど、元恋人である風子さんのことは覚えていたし、かつての恨みを晴らすために復讐を企ててさえいる。根っこの人格は何も変わっていないんだ」
「ちゃんと先のことも考えて行動しているみたいだしね。本当に怨霊に精神を乗っ取られたのなら、こうはいかないよ」
こうして一つ一つの事実をよく検討してみると、怨霊に憑りつかれたケースとは、あまりに違いすぎている。“怨霊憑き”という呼称に囚われすぎて、明白な矛盾に気がつけなかった。この体たらくでは、お燐に呆れられても仕方がない。
「だけど、それなら“怨霊憑き”っていったい何なんだ……?」
結局は、その疑問に戻ってしまう。お燐の力を借りてしても、正体は何もわからないままだ。ヤマメは眉間にしわを寄せながら言った。
「怨霊の仕業にしてはおかしいというのはわかった。けどお燐、あんたは本当に、まったくの無関係だと思う?」
スプーンを咥えたお燐は、うーんと唸りながら答えた。先ほどまでの雄弁さはなりを潜め、どこか遠慮がちな声だった。
「そう聞かれると、なかなか簡単には言い切れないところではあるんだよね」
歯切れの悪いお燐の返答は、しかしヤマメの意見と一致していた。
「怨霊を取り込むことで力が増すということは確かにある。というかあたいがその類だし」
「んん? でもそれじゃあ精神が乗っ取られるんじゃ」
「うちら地獄の妖怪は特別なのさ。長い間怨霊と付き合ってきたからね。でも一朝一夕ではそうもいかない。今までずっと上で暮らしてきた妖怪にはとても無理だ」
「そうは言っても現に力は増している。しかも変身とかするらしいし」
存在が変容しない程度に精神を保ったまま、力だけを得る。そんなことは、怨霊に憑かれるだけではできない。しかし無関係とも思えない。ならば考えられるのは。
「怨霊の他に何か、原因がある。そういうことか」
怨霊だけでは不可能であっても、そこに何らかの外的要素が加われば、都合良く力を得ることも出来るかもしれない。それは根拠に乏しい推測でしかないが。
「うん、あたいもそう思う」お燐は首肯した。「こいつは想像以上にやっかいな相手かもしれないよ、ヤマメちゃん。何しろ話も常識も通じなさそうだ」
怨霊のエキスパートにすらそう言わしめる、地底に病巣のように現れた“怨霊憑き”。得体の知れない存在を敵に回していることを改めて自覚し、ヤマメの掌にじんわりと汗が滲む。そして、ふと思う。
「陽はそんなものに成り果ててまで、復讐を遂げたいのかな」
お燐がパフェをつつく手を止めて、ヤマメの顔を見つめる。
「ずっと長い間、風子さんと陽は離れ離れになってたんだ。それでこれまで何事もなかったのに、今になってどうして復讐なんてバカげたことをおっぱじめたんだろう。それも、到底まともとは思えない方法で」
時間は否応なく過ぎ去り、それゆえに残酷で優しい。少なくとも風子の方は、二人の関係を過去のものとして割り切っていたようであるし、だからこそヤマメに見せたような笑顔を浮かべられたのだと思う。
一方で陽は時間の優しさを被ることなく、ひたすらに愛を募らせ、憎しみを積み重ねていったのだろうか。そして杯から水があふれ出るように、心の奥底で感情が決壊した――。
「まあ、手段があるのなら、魔が差すということもあるかもしれないね」
どこかつまらなさそうに、お燐はそんなことを言う。
「魔が差す……衝動的な犯行ってこと?」
「特に深い意味はないよ。あたいはそんなバカを一人知ってるってだけで」
目を逸らしたお燐の指す人物を、ヤマメはすぐに察した。地霊殿に住む者の中でもきっての平和主義者にして、お燐の無二の親友。地上に引っ越してきたという新参の神々から、太陽の力を授かった一羽の地獄鴉。
霊烏路空。
彼女をよく知る者からはお空と呼ばれる地獄鴉は、ある時膨大な力を手にして、変わってしまった。姿形だけでなく、その精神の在りようまで、二人の知る彼女とは、まるで別人のような変化を遂げたのである。
灼熱地獄の復活、そして地上の破壊という野望を抱えた彼女を止めるために、お燐が主の伺いも立てずに独断で奔走したことは、ヤマメの記憶にも新しい。ヤマメ自身も及ばずながら力を貸したその事件は、最終的には博麗の巫女すら巻き込んで、どうにか事なきを得た。
だが、暴走は収まったと言えども彼女自身はいまだに神の力をその身に宿し、地獄鴉としては異形ともいうべき外見もそのままである。
「いやでも、お空は」
「ヤマメちゃんの話聞いてさ。ちょっとだけ思っちゃったよ。あいつは“怨霊憑き”と何が違うんだろうって」
「お燐」
「わかってるよ。もちろんそんな化物みたいなのとお空は別物さ」
親友の現状に、お燐が複雑な思いを抱いていることは、ヤマメにもよくわかっていた。二人の関係自体は今も良好そのものだ。それでも時折、お空を見つめるお燐の目に差す一抹の影を見出してしまうのだった。
「あたいの器がちっちゃいだけだってのもわかってる。あの時はバカやっちゃったけど、あいつは変わらず能天気でお人好しな奴のままだよ。あんな姿になってもね」
お燐の感情の吐露に、ヤマメは黙って耳を傾けていた。以前は一緒にいる所をよく見かけたお燐とお空だが、最近は今日のように別行動をとっていることが多い。お空は何やら神の力に関係する職務に就いたらしいし、お燐も地霊殿の主力として色々と忙しい身だ。
決して意識的に距離を置いている訳ではないのだろうけど、二人の友人を自負する者として、どうしても気になってしまう。それでもお燐が何も言ってこない以上、ヤマメが必要以上に干渉する筋合いはない。こうして話に付き合うのが関の山である。
「本当に、わかってはいるんだ」
吐き出すようなお燐の声が、茶屋の喧騒に溶けていった。気遣うようなヤマメの視線に気づくと、お燐は苦笑いを浮かべながら頬を掻いた。
「ごめんごめん、ヤマメちゃんに愚痴るつもりはなかったんだけど。しかも全然関係ない話だし」
あー恥ずかし恥ずかしと、お燐は照れ隠しのようにパフェをどんどん口に運ぶ。そんなお燐の様子を見てヤマメは少しの逡巡の後、言った。
「気にするなお燐。それにお忘れかい? 私は地底一のおせっかい、“はぐれ蜘蛛”だよ」
“はぐれ蜘蛛”は地底の涙を拭う。もちろんお燐も例外ではない。そしてそれ以前に友人が助けを欲していたら、“黒谷ヤマメ”はいつだって手を差し出す。そんな意思をキザなセリフにのせる。ウィンクも忘れずに。
お燐はクリームを掬う手を止めて目を丸くした。そしておかしなものを見たように吹きだした。
「似合わないなあ、ヤマメちゃん」
「ううん、ダメか」
ヤマメはため息をついて椅子にもたれかかった。初対面ならともかく、知り合いにもけれんみを発揮するには、まだまだ精進が必要のようだ。お燐はまだ白い歯を見せてニャハハと笑っている。
「うんまあでも、ありがと。そうだね、いざというときは頼りにさせてもらおうかな」
「ああ、猫の手を借りたお返しだ」
そう言ってヤマメは、二人分の代金を置いて立ち上がった。
「行くの?」
「うん。“怨霊憑き”の正体はまだ見えないけど、糸は切れてない。色々攻めてみるよ。世話になったね、お燐」
これから探るべきは、怨霊とは別の“何か”。闇雲に“怨霊憑き”の情報を嗅ぎまわっていた先ほどよりも、一歩前進。たった一歩ではあるが、捜査においてはこの一歩が何よりも重要なのだった。
お燐は去ろうとするヤマメをじっと見つめて、押し黙った。ヤマメはキスメの時と同じように、今の自分について何か言われるものと思ったが、お燐はふと表情を崩して、
「気ぃつけてね」
どれほどの言葉を呑み込んだのかはわからない。しかしお燐はそれだけを言って、ヤマメを見送ろうとしていた。
あるいは彼女も待ってくれているのかもしれない。ヤマメ自身が今の自分をどう思っているのか、それを言葉にするのを。キスメとは少し違う形だが、それも一つの誠意の表れだ。あくまでドライなお燐の在り方に、ヤマメはある種救われるような心地さえした。
ヤマメはお燐に背を向け、首だけで振り返りながら言った。
「お燐、今度は仕事の話抜きで酒でも飲もう」
「またヤマメちゃんの奢りなら喜んで」
悪戯っぽく笑うお燐に向かって、ヤマメはウインクをしながら親指を立てる。そしておばちゃんの大きな声を背に受けながら、ヤマメは意気揚々と茶屋を後にした。
「さて、と」
気を取り直すべく、うーんと伸びをする。依然通りは行き交う人々に溢れ、灯籠のぼんやりとした明かりは大声で笑い合う若者たちを照らし出し、一方でその傍ではみすぼらしい身なりの妖怪が地べたに座り込み、陰気な顔を俯けていた。薄暗い路地裏では、数人の妖怪が声を潜めて何やら怪しげな話をしている。
「……よし。充電完了っと」
そんな、いつも通りの旧都を目にしながら、ヤマメは捜査を再開する。
前途はまだまだ多難。それでもヤマメの歩みは、迷いを踏み抜くかのように力強かった。
***
良い目になったと、お燐は思う。
最初はあんなお気楽な奴に“はぐれ蜘蛛”が務まるわけはないと思っていた。それは一友人として付き合ってきた者としての、それほど的を外していない分析のつもりであったが、お燐の懸念をよそに、ヤマメはその気風を武器として、そして彼女には似合わない血の滲むような鍛錬の成果もあって、立派に仕事をやり遂げている。
しかしそんな結果を見てもなお、お燐は自分の分析を杞憂と切って捨てることはできなかった。さきほどまでのように顔を突き合わせてみても、ヤマメは以前と変わらぬ風に見えた。笑って、バカを言って、どこか飄々としている、つまりはお燐のよく知るヤマメだった。
だけど、変わらぬはずはないのだ。“あの事件”を経て、ヤマメがどれほどの傷を負って、どれほどの後悔をして、どれほどの決意を抱いたのか、所詮は他人であるお燐には想像することしかできない。
お燐は今でも鮮明に思い出す。ヤマメが“はぐれ蜘蛛”を継ぐことを自分に打ち明けた、地底では珍しい雪の降るあの日のことを。その告白を受けて、お燐ははっきりと告げた。あんたには向いていないと。そしてヤマメは「自分でもそう思う」と苦笑したのだ。よほど殴ってでも止めようかと思ったが、しかしヤマメがすぐに真剣な顔で言った。
『悪いねお燐。でも、これが今の私の、精一杯だから』
ヤマメの表情は見たこともないくらいの悲壮感に溢れていて、お燐はそれ以上の追及など出来なかった。何も言えず、爪が食い込むくらい握り込んだ掌の感触。それは今もお燐の胸の奥で、古傷のようにジクジクとうずくのだった。
今のところ、ヤマメはあれ以来昔の傷を思わせるような素振りは見せない。“あの事件”の話題はたまに出るが、それを口にする時も、傍目にはもう割り切っているようにも見える。仕事の方もわりかし上手くやっているし、順調そのものだ。
しかしこの先も“はぐれ蜘蛛”としてあり続けるのなら、いつか必ず、急激な変化の歪みがヤマメを蝕む。もちろんそれはお燐の勘でしかなかったが、今度こそ的外れではない気もしていた。だからお燐もまた雪の降るあの日、掌の痛みとともに、一つの決意をしている。
地の底の涙を拭う“はぐれ蜘蛛”がその役目を全うできるよう、影ながらサポートする。そしてヤマメが一番苦しいその時にこそ、親友の地獄鴉が暴走した時のように、たとえ主の意に背くことになっても、ヤマメの助けになってみせる。あくまでもビジネスだとヤマメには断ってあるが、自分の考え得る精一杯を、厭うつもりはなかった。
「ホントにもう、あたいの周りの連中は、勝手にどんどん変わってくんだから」
恨み言のように、されど表情には笑みを浮かべながら、お燐はそんなことを漏らした。そして、はてそれなら自分はどうなのかと考えながら、しかしすぐにまあいいやとその思考を打ち消し、お燐は再び巨大パフェとの格闘に戻っていった。
「ていうかヤマメちゃん……。せめて半分くらい食べてってよ……」
今度こそ心の底からの恨み言だった。
5.
旧都の中心には、どっしりと建てられた屋敷がある。
そこには鬼の自警団が詰めかけていて、東西南北と大まかに区切られた旧都の全域に、隈なく睨みを利かせている。自警団の詰所は中心に構えられたこの屋敷を本部として、それとは別に四方の区にそれぞれ支部が設置されている。
特に本部の屋敷の大きさは周囲の建物と比べても際立っており、その威容は屈強な鬼たちが何人も出入りすることも相まって、旧都の住人に畏怖の感情を植え付けている。それとともに、何よりも自分たちの生活は、大きな力に守られているのだという安心感を与えていた。そんな秩序の象徴たる自警団本部も、現在は“怨霊憑き”事件の捜査のため、多くの人員が出払っており、数人の留守番がいるのみだった。
いつも以上にガランとした建物の奥、本部の中枢である部屋で、左は普段通りの厳めしい面構えで鎮座していた。そして対面には彼の主である鬼が、対照的に気安い笑みを浮かべながら盃を傾けている。その度に、手にはめている枷の鎖が音を立てた。
「大将、酌なら自分が」
「いいっていいって。今は酒の席じゃない」
主がそう断るのは半ば承知していたが、だからといって主が手酌で酒を飲むのを黙って見ている訳にもいかない。左の愚直ともいえる義理堅さに、左の主――星熊勇儀は呆れと喜びがない交ぜになった笑みを浮かべながら言った。
「お前ねえ、あんまそういうことに気ぃ回さなくていいって、何度もそう言ってるだろう」
「下の者への示しがつきやせん」
「お堅いなあ。もっとちゃらんぽらんに生きても損はないぞ? 幻想郷の連中見てみろよ。素面で頭が酔っぱらった輩ばかりだ」
「性分なんで」
「そうだ、そのむっつりした顔がいけないんだ。年がら年中そんな面してたんじゃ、お前も疲れるだろうに」
「生まれた時からこういう顔でさぁ」
「いやそれは嘘だろお前。ほれ、ニコーッて笑ってみ、ニコーって」
「大将、仕事の話をさせてもらってもよろしいんで?」
左がすげなくそう言うと、勇儀は「かーっ、これだよっ」と大袈裟に嘆いて見せながら盃を空にした。
“力の勇儀”と謳われる腕っぷしの強さはもちろんのこと、嵐の中でもなお力強く咲き誇る一輪の花のごとき美しさ、荒くれぞろいの鬼たちをまとめ上げる度量、どれも申し分なしの主ではあったが、左を堅物扱いしてからかうという悪癖には困ったものだった。
左としては組織の一員として当然のふるまいをしているつもりなのだが、よく言えば懐が広い、悪く言えば大雑把な勇儀にはそれが生真面目と映るようで、顔を合わせるたびにこうしてちょっかいを出してくるのである。挙句の果てには「大将が適当な分、片腕が固い」という風評にも、主は怒ることもせず、それどころか「違いない」と大笑いする始末だった。敬愛する主ではあったが、こういう妙な大らかさにはため息を漏らさずにはいられなかった。
「ん? どうした。幸せが逃げるぞ? 一杯いっとくか?」
「お心遣い痛み入りやすが、それよりも逃がしたくない奴がいるもんで」
主の差し出す酒を丁重に辞して、左は勇儀の顔をじっと見つめた。勇儀は左の真剣な眼差しを受けてやれやれと首を振り、無造作なあぐらの姿勢のまま、表情だけを引き締めた。弛緩していた部屋の空気が芯を入れたように張り詰め、二人を照らす照明の灯がパチリと音を立てて小さく爆ぜた。
「で、首尾はどうだ」
「どうもよくねえですな」
酒場の破壊事件から一夜明け、依然聞き込みと警備を続けてはいるが、目新しい情報はなく、捜査は滞っていた。旧都の住人は元々肝の座ったものばかりであるので、事件による混乱と動揺はそれほど広がってはいないが、やはり下手人が捕まえられないことには、その安穏が破られるのも時間の問題である。
左の報告を聞いて、勇儀は頭を掻きながら言った。
「早いところ解決して、都の連中に枕を高くして寝かせてやりたいところだが。そううまくはいかんか」
「面目ねえ」
「謝るな。これは私たち全体の落ち度だ。まったく、強さにかまけてるとこういう落とし穴がある。教訓にしなきゃな」
勇儀のおどけた物言いに、左は拳を硬く握りしめた。表情こそ飄々とした笑みを浮かべてはいるが、都を荒らす不逞の輩に内心はらわたが煮えくり返っていることは想像に難くない。適当で大雑把ではあるものの、勇儀の地底への思い入れは誰よりも深い。その鋼のごとき義侠心の下に、左を始めとする自警団の鬼たちは集っているのだ。
「そうすると、私の出番はなしか」
「そうなりやす。ただでさえ鬼が警戒されてるところへ、大将まで出張ったら尻尾を掴むどころか、そのままとんずらされる可能性もある」
「だろうな。やれやれ」
「こらえてくだせえ。お気持ちは察しやすが」
「知ってるか? 仕事を手下に丸投げして飲む酒ってな、あんまり美味くないんだよ」
言葉通り顔をしかめて、勇儀は酒をあおった。
勇儀の感じている歯がゆさは、片腕である左には痛いほどわかった。あまりに大きな力を持つが故に、星熊勇儀が動くとただそれだけで、地底が騒ぐ一大事になってしまう。下手人は警戒を強めるだろうし、住人の不安を掻きたてる恐れもあった。
左は主を慰めるように、力をこめて言った。
「丸投げ上等。大将は後ろでふんぞり返ってくれてりゃあそれでいい。面倒事は俺たち下のもんの仕事でさあ」
鬼の四天王が一人、星熊勇儀は地底最大の抑止力。抑止力は使わないからこそ、効果を発揮するのである。
勇儀は「頼りになるねえ」と、苦笑しながら呟いた。結局のところ、現体制が地底にとっての最良だと、勇儀も頭では理解しているのだ。しかし勇儀の心は座して待つのをよしとしない。そんな主の性分も重々承知している左は、重ねて言った。
「なんならそこらで散歩でもしてたらどうです。こんな所で引きこもって一人酒するよか、外で誰かしら捕まえて酌をさせりゃあ、ちったあ酒の味も良くなるってなもんです」
動くなと言われたそばからの提案に、勇儀は訝しげに眉をひそめたが、すぐに左の意図を察したように口の端を上げた。
「ふうん、散歩、ね」
「大将がここを空けても見張りはいやす。もちろん報告も滞りなく」
「あいさわかったよ、お前がそう言うなら甘えさせてもらおう。下の者たちも、私がいない方が気楽だろうしな」
勇儀は機嫌よく笑った。“自警団の大将”ではなく、“ただの”星熊勇儀としてふるまう。この辺りが今回の案件における勇儀の立ち位置の限界だろう。苦肉の策ではあったが、それでも主は気に入ったようだ。
「それで、地霊殿の動きはどうなんだ」
先ほどまでよりは美味そうに酒を飲む勇儀の問いに、左は一瞬言葉に詰まった。主にはそれだけで左の心中が伝わってしまったようで、何やら含みのある笑いを漏らした。一息つき、左は渋々言葉をつないだ。
「主があの調子なもんで、今回も直接は動いてないようです。ただ……」
「“はぐれ蜘蛛”か」
愉快げに笑いながら、勇儀は左の言葉に割り込んだ。左は苦々しげに顔を歪める。
「おいおいそんな顔するない。ただでさえ強面なのに、そんな面してたら女が逃げるぞ」
「あいにく言い寄ってくる女なんていませんや」
「またまたこいつはご冗談を。この前回覧板に、“地底の女性に聞いた抱かれたい男ランキング”ってのがあってだな」
「それはもういい」
一度回覧板の担当者を締め上げてやろうかと半ば本気で考えたが、それは胸にとどめてさておく。これ以上話が脱線されてはたまらない。
「……大将のお察しの通りで。ウチの邪魔をしないという条件で自由にさせてありますが、不味かったですかい」
「まさか。地底のために動く奴はどれだけいてもいいさ。事件解決はウチらの特権というわけでもあるまい」
「しかし、奴が深入りするようなら、当然止めるつもりでいやす」
「うん? いいじゃないか。好きにさせてやったら」
「そうもいかないでしょう。何事にもわきまえるべき分ってもんがある。いくら大将が大雑把で適当だからって、そこはしっかりしてもらいやす」
「お前仮にも大将に向かって酷いこと言うねえ。いくら私でも傷つくときは傷つくんだぞ?」
「大将の肝っ玉は、橋姫の罵詈雑言にも屈しないと心得ておりやす」
「あ、いや、それはどうだろう。ちょっと自信ない。しかしまあなんだ、そう神経質になることもないと思うぞ。それに、“はぐれ蜘蛛”の意図は誰にも切れない。そうだろう、左」
勇儀が顎をさすりながら、意味ありげな視線を向けてくる。そう、確かに主の言うとおりだった。地の底に流れる涙を拭うために、決して切れない意思を以って、己の信ずる道を突き進む。左の知る“はぐれ蜘蛛”とは、まさに地の底の正義を担う強き者だった。しかし、
「それは、先代の話でしょう」吐き捨てるように、そう言った。
「今代――ヤマメは違うと?」
「別に奴が“はぐれ蜘蛛”を継いだことをとやかく言うつもりはありやせん。奴の覚悟は本物だ。それにもう過ぎた話で、しかも自分は半ば襲名の片棒かついじまった身です」
「過ぎた話……。そう、過ぎた話だな、本当に」
勇儀はどこか遠い目で、天井を仰ぎ見た。その手に持った杯が空になっていたが、左はあえて無視して続ける。
「黒谷の捜査能力は見るものがある。実際何度かウチも助けられていやす。戦闘力もまあ、そこらのチンピラは問題にしない程度にはあるでしょう。自分が言うのもなんですが、奴は使える部類に入る」
「お前の太鼓判か。プレミアがつきそうだな」
「しかしそれでも、奴が未熟であることにゃ変わりやせん。“はぐれ蜘蛛”の看板を背負って立つにゃあ、覚悟だけじゃ足りないんですよ。奴が戦う相手は成長を待ってくれないし、何より今回は正体不明の敵が下手人ときている。深入りは、今の奴には荷が重すぎやす」
勇儀はふうんと頷くと、それきり押し黙ってしまった。人気の少ない屋敷にはいつもの慌ただしい喧騒はなく、鬼の集う場所には似つかわしくない静謐がこの場を支配する。左は鷹揚に空の盃を弄ぶ主の姿を、ただ見守っていた。
客観的な評価であると思う。恐らく誰に聞いても、概ね左と同じことを言うはずだ。それに、ヤマメの未熟さは他ならぬ彼女自身が自覚しているだろうから、今さら自分が釘を刺す必要もないのである。そうでなくては困る。
「相変わらず、過保護だねえ、お前は」
唐突に、勇儀が沈黙を破った。それも、左には思いもよらぬ言葉で。
「……過保護? 自分が?」
いったい主は何を言いだすというのか。自分はいつだって、ヤマメには厳しい態度で臨んでいた。甘い顔を見せた覚えなどない。
「大将、自分は別にそんなつもりでは」
「なんだ、おまけに自覚なしかい。困ったもんだ」
呆れたように酒をあおる主の指摘に、左は困惑を隠せなかった。勇儀はどこから取り出したのか、左に盃を差し出す。また断ろうとしたが、なぜだか勇儀は有無を言わせぬ気配を漂わせていたので、渋々盃を受け取って酒を賜った。
勇儀の押しに流されるように乾杯をし、二人同時に、中身を飲み干した。勇儀はこれで何杯目の酒だったか知れたものではないが、鬼の中でも特に強者である彼女が、前後を見失うわけもなし。酒の余韻を楽しむようにほう、と息をつき、そして言った。
「そうだな……お前の言うことももっともだ。ヤマメは先代に比べりゃヒヨッコも同然。名を継いでから日も浅いしな」
「なら」
「しかしな、それは同時に、可能性の塊だってことでもある」
「可能性……」
「そうさ。場数を踏んで、鍛錬も怠らず、奴が“はぐれ蜘蛛”の名に恥じないよう精進し続ければ、先代に並び立つ、いやさひょっとしたら先代を越える存在になるかもしれん。それにだ、奴は持ち前の気質で、先代とは違う独自の“はぐれ蜘蛛”像の片鱗を見せていると思わないか?」
「……というと?」
「まあなんと言ったもんか。親しみやすいというか、地域密着型ってやつなのかな。実際、都の連中の評判も上々みたいだぞ。先代は腕は良かったが、いかんせんちと愛想が足らなかったのが玉に瑕だ」
「……」
「お前みたいにな」
ニヤリと口端を歪めて、杯を持った手で左を指す。隙あらば左をからかうことを忘れない。
「私は期待してるんだよ、左」
勇儀は空になった盃に、ゆっくりと酒を注いでいく。なみなみと注がれた酒が揺れて、その水面に勇儀の穏やかな笑顔が、波打つように映し出された。
「地底のどこで、どんな理由で涙が流れようと、誰にも切れない意思でそれを拭い去る――。黒谷ヤマメが、そんな強く優しい、地の底の“切り札”になることを」
「“切り札”……ですかい」
「酔っぱらいのたわごとだと思うかい? けど、私は大マジだよ」
「……」
「お前も内心、同じ思いなんじゃないのか。じゃなかったら、ここまで目に懸けやしないよ」
主の断定に等しい問いに、左は不義と知りつつも答えない。
左の沈黙をどう捉えたか、勇儀はふと笑みをこぼす。そして何かに乾杯にするように盃を仰ぎ持つと、己の五臓六腑に染み入らせるかのように、一気に中身を流し込んだ。
「なるべく奴の思うままにやらせてやれ。成長にはそれが必要だ。そして未熟だと思うなら、助けになってやればいい。それも、お前の務めだろ?」
口からこぼれる雫を拭う勇儀の表情は、今の一杯が今日一番美味い酒だったことを、如実に物語っていた。ご満悦な様子の主に酒を勧められると、今度こそ左も素直に従った。
6.
お燐の情報はヤマメに一つの指針を与えた。“怨霊憑き”をそれたらしめる、怨霊以外の“何か”。それを突き止めるのはなかなか骨が折れそうだったが、ヤマメにはとりあえずの当てがあった。
都が形成されている区画を外れて、地底特有のどんよりとした風を受けながら、ゆったりとした速度で飛ぶ。手には土産として用意した茶菓子。これから会う相手が喜ぶかは正直怪しかったが、受け取られなかったらキスメにでもくれてやろうとの心積もりだった。
やがて、橋が見えてきた。地上と地底を結ぶ縦穴の近くに設置されたそれはこじんまりとしていて、いかにも申し訳程度に掛けられたという風である。しかしかの蝉丸の句ではないが、飛行能力を持つ妖怪たちも地上へ赴くとき、そして地底へ帰ってくるときは、皆必ずこの橋を歩いて渡る。別に決まり事ではないけれども、彼らにとってこの橋は、地上と地底の精神的な境界として、重要な意味を持つのである。
地上と地底の交流が活発になり、昔よりは人通りも多くなった場所ではあるが、今は誰も渡る者はない。かといって人っ子一人いない、というわけでもない。
ひっそりとした橋の欄干に、一人の妖怪が気だるげに身を任せていた。ヤマメは橋の手前で着地すると、地底の流儀にならい、歩いて橋を渡って妖怪に近づく。妖怪はヤマメに一瞥をくれたかと思うと、すぐに目を背けてしまった。相変わらずの態度に、ヤマメは苦笑しながら手を振った。
「やあ姫さん。ご機嫌いかがかな」
「貴方には良いように見えるのかしら」
くすんだヤマメのそれとは違って、目を惹くような金髪の持ち主ではあるが、纏う気配はある意味地底の住人にふさわしい陰気そのもの。大きな特徴である緑眼はゾッとするほど鈍い輝きを宿していて、ジッと見つめられると、怪物に深淵から覗かれているような気分になると専らの評判らしい。
嫉妬心の権化、水橋パルスィ。地上と地底の結び目の番人である。
パルスィのすげない応対にも、ヤマメは動じない。
「少なくとも悪いようには見えないね。姫さんはいっつもそんな感じだし」
「相変わらず無駄に前向きだこと。さぞかし人生楽しいんでしょうね。妬ましい」
「いやいや、これでもそれなりに気苦労はあるんだよ。今もでっかいトラブル抱えちゃってるしね」
「トラブル……ああ、そういうこと」
「そういうこと。はいこれ、つまらないものですが」
パルスィは差し出された茶菓子とヤマメの顔を見比べた。半目で見定めるかのような視線を受けても、ヤマメはあくまで笑顔を崩さない。やがて、根負けしたでもないだろうが、パルスィは無言で土産を受け取って欄干に置いた。
ヤマメは満足してうなずき、パルスィの隣に身を置く。そして言葉をかけることもなく、ヤマメは川のせせらぎに耳を傾けた。地上の川に近づくと河童どもがなにかとうるさいが、ここには文句を言ってくる輩はいない。思う存分ゆっくりと、静けさに心を浸す。自分ではなかなか気がつけないが、やはり事件に関わると自然と神経も張ってくるから、どこかでこんな時間も必要だ。しばらくそうしていると、随分のんびりした心地になり、ヤマメはゆったりと息をついた。
「ちょっと、私の隣で勝手に和まないでいただける?」
と、ヤマメの隣から棘のある声が飛んできた。見ると、パルスィは普段に輪をかけて渋い表情を浮かべている。
「うん? いきなりどうしたの姫さん。美人が台無しだよ」
「誰が美人よ」
「姫さんに決まってるじゃないか」
「……」
「そんな引かなくても。いや、姫さんは一緒にいても静かにしてくれるからさ。ついついボーっとしたくなるんだよ。私の知り合いは、基本騒がしい奴らばっかりだし」
「類は友を呼ぶのよ。……だからって私と一緒にいて和まれると、こちらの沽券にかかわるの。おわかり?」
「沽券?」
「この水橋パルスィはいわゆる最悪のレッテルを貼られているわ」
「最悪ね。例のランキング見て、キスメさんが悔しがってたよ」
「当然の結果よ。いちいち喜ぶまでもない」
髪を撫で上げてなぜか誇らしげなパルスィ。どう考えても誇りどころが間違っているが、前例を知っているヤマメはもう何も言わない。
「先日嫉妬心を煽って破局させたカップルの通算数が万の大台に乗り、いまだに恋愛恐怖症が治らない者もいる。この前の娘なんかは「もう恋なんてしない」などという、妬ましいほどに素敵なセリフを残していったわ。何も知らずに言い寄ってくる、間抜けな上の連中の心をへし折って、橋を渡らせないなんてしょっちゅうよ」
「絶好調だなあ姫さん」
ヤマメは本気で感心した。人妖の距離が縮まっていく時代の中で、ちゃんと妖怪の本分を全うしようとするのは、案外難しいことなのである。
「そんな私の隣にいる貴方が地べたに這いつくばることもなく、あろうことかくつろいでいる姿を誰かに見られてみなさいな。『ああ、嫉妬妖怪は最悪でもなんでもなく、ただのツンデレなのね』、なんてふざけた風評が流れかねないわ」
「いやそれはない」
パルスィのデレなど、幻想郷においても金輪際結実しない幻想だろう。キスメとは違う意味で、この嫉妬妖怪の思考もヤマメには掴みかねた。陰気なまま憤慨するという器用なことをやってみせるパルスィは、「それに」と付け加えた。
「その“姫さん”なんておかしな呼び方もやめていただけるかしら。ええ、これを言うのももうかれこれ百五十三回目なのだけれど」
「数えてたのか。さすが姫さん、なんて執念」
「百五十四回目を言わすおつもり?」
「じゃあ私も百五十何回目かの同じこと言わしてもらうけどね。いや、正直“パルスィ”って発音しにくいんだよ。かといって“水橋さん”じゃ他人行儀にも程があるじゃない」
「知らないわよ」
「そこで“姫さん”だ。橋姫と称え畏れられる姫さんの美しさと謂れに敬意を表すとともに、“ヒメサン”というそこはかとなく愛嬌のある響きで親愛の情も示す。手前みそながら、まさに理想的なあだ名だと思うんだけど、いかがだろうか」
「知・ら・な・い・わ・よ」
「まあなんだ。今さら変えるのもアレだし、諦めてよ」
爽やかな笑顔でヤマメがそう言うと、パルスィは心底忌々しげに舌打ちをした。しかしそれ以上の追及はしてこないのを見るに、どうやら何を言っても無駄だと悟ったようである。
パルスィはうんざりした様子で欄干にもたれ直すと、ヤマメの顔も見ずに切り出した。
「……それで?」
「うん?」
「何か聞きたいことがあって来たんじゃないの? “はぐれ蜘蛛(仮)”さん」
カッコカリカッコトジルは勘弁してもらいたかったが、否定は出来ないので苦笑で応じる。そして表情を引き締めた。お仕事の時間だ。
「でっかいトラブルの話だよ。“怨霊憑き”の事件、もちろん知ってるだろうけど」
「鬼たちがあちこちで働いているわね。充実してるようで妬ましいわ」
「あの人たちも大変なのさ。……今日来たのは他でもない。その事件についての情報が欲しい」
あまり知られてはいないが、パルスィには橋の番人という顔の他に、もう一つの側面があった。
水橋パルスィは、地底のあらゆる事情に通じる“情報屋”である。
こちらの知りたいことは、打てば響く鐘のようになんでも教えてくれる、ヤマメのような者にはまさに救世主のような存在だった。
パルスィ曰く、地上と地底の結び目付近に架けられたこの橋には、渡り人とともに古今東西の情報が集積し、ここで佇んでいるだけで自然と事情に明るくなれるのだという。そして、自身が介入することも多いとあって、色恋沙汰等の人間・妖怪関係に関する話には特に強いというのが、“情報屋”水橋パルスィの特徴だった。
ヤマメが仕事の態勢に入っても、パルスィはあくまでマイペースに、淡々と応じた。
「見返りは? まさかそこの茶菓子のことじゃないわよね? それとも、箱の底に山吹色のお菓子でも入っているのかしら」
「それは単なるお近づきの印だよ。というか姫さん、いい加減報酬の相場を決めてくれないか。料金が姫さんの気分次第というのはどうにも具合が悪い」
「私は別に情報屋を商いとしているわけではないわ。文句があるなら他を当たるのね」
「文句だなんてそんな。私がどれだけ姫さんを頼りにしているか、今度文章に纏めて提出してもいい」
「やめなさい。二度と口きかないわよ」
「冗談だって。しかし姫さん、少しは私のことも考えてみてちょうだいな。この前の報酬なんか酷すぎるでしょ。なんだよ、“古明地さとり著の恋愛小説”って」
地霊殿の主にこの件を打診したときのことが思い出される。話を切り出した途端、顔を真っ赤にしたさとり妖怪に、なぜその存在を知っているのか、それを手に入れてどうするつもりなのかを詰問されたあげく、心を読まれたヤマメは一言も口を挟ませてもらえないまま、延々と言葉のツララを浴びせられる羽目になった。
冷や汗がとめどなく流れ続けた、針のむしろのような時間。最後は今後より一層仕事に励むことを、地面に額をこすりつけながら誓うとともに、本のことは他の者には内密にすることを血判を押して約束し、どうにか物を手にしたのである。依頼の達成よりも数倍苦労させられるという、まさに本末転倒というほかない散々な結果だった。
「あのさとり妖怪が自筆の小説を書いているというのは、もはや地底だけでなく上の連中にも知れ渡った公然の秘密だというのに。引きこもりも考え物ね。フフフ」
「絶好調だなあ姫さん」
「まあそうね。あのときは存分に楽しませてもらったし、今回はこの茶菓子でいいわ」
「は?」
拍子抜けするようなパルスィの申し出。さすがに額面通りに受け取るわけにはいかない
「あ、いや、願ってもない話だけど、さすがにそれは安すぎない? なんか絶対裏がありそうで怖いんだけど」
「疑問するその姿勢は評価するけれど、裏なんてないわ。私がいいと言えばいいのよ。貴方の言うとおり、ただの気分」
「そ、そうなの? ううん、なんだか逆に姫さんに悪いな。何だったら今度酒でも奢るけど」
「お気遣い無用よ。酒の席なんて面倒なだけだわ」
「バ、バッサリ断るね……。この際だから姫さんとの距離も縮めたかったんだけど。まあしかし、条件的にはそれこそ文句なしだ」
無駄にしか思えない地獄のような労苦も、案外捨てたものではない。あの時の自分に喝采を送りたい気分だった。
ヤマメは懐からメモ帳を取り出しながら、口火を切った。
「事件についての説明は?」
「必要ないわ。聞きたいことだけ聞きなさい」
「わかった。それじゃあ聞きたいことは二つ。一つは、最近ここを白狼天狗が通らなかったか。もう一つは、最近地底で何か変ったことが起きてないか」
地底に“怨霊憑き”が現れたのは、ごく最近のこと。その時期の前後には、必ず兆候のようなものが存在するはずである。白狼天狗が地上から降りてきたというのもその一つだ。地上と地底を行き来する際には、ほとんどの者がここを通るため、パルスィが陽を目撃している可能性は十分にある。そして兆候の中には、ヤマメが追い求める、“怨霊憑き”が発生する怨霊以外の原因の手掛かりもあるのではないか。ともすれば触れるだけで切れてしまいそうな糸だが、ヤマメには現状この線しか標がない。
「一つ目はともかく、もう片方はえらく漠然とした質問ね」
「なんでもいいんだ。どんな些細なことでも聞かせてくれ」
すがるようにヤマメが言うと、パルスィはあごに手を添えて黙考し始めた。表情を見る限り、真剣に考えてくれているようである。なんだかんだ言いながら、こちらが誠意を見せればきっちり返してくれるパルスィの律義さは、ヤマメが彼女を信頼する大きな理由だった。
待つことしかできないヤマメは、焦れそうになるのを、川の流れを眺めて気をなだめた。こちらが慌ててパルスィのペースを乱しても、得るものは何もない。しばらくして川の水面に浮かぶ花びらの枚数を数え始めたところで、パルスィはふと顔を上げて、人差し指を突きたてた。
「まずは最初の質問に答えましょう」
思わずゴクリと喉を鳴らす。頷いて先を促した。
「白狼天狗だけど……ええ、確かに二週間ほど前、ここを通るのを見たわ」
「ほ、本当かい!?」
「落ち着きなさい。まだ貴方の探している人物とは限らないわ」
「あ、ああ。確かにそうだね。で、そいつは、まだ上には帰ってない?」
「少なくともここからはね」
「そうか……」
ヤマメがパルスィの話を呑み込んでいると、パルスィは「それと」と付け加えた。
「気になるのは、その白狼天狗の雰囲気ね」
「雰囲気?」
「上の連中が下りてくるときというのはね、物見遊山のつもりか、妬ましいくらいに浮かれた顔してるものなのよ」
「ああ、そういう連中が、姫さんやキスメさんの餌食になるわけだ」
「よくわかってるじゃない。でも、あの白狼天狗は違った。なんというか、何かに憑りつかれたみたいに険しい顔だったわね」
「憑りつかれたみたいに……」
「馴れ馴れしく声をかけてくる輩はうっとおしいけど、完全に無視されるというのもそれはそれで気に入らないわ」
「本当に難儀な人だねあんた」
「あら、お世辞がうまいのね。あと、一人でいたのもおかしいといえばおかしいわね。最近よく見る黒白の魔法使いみたいな例外もいるけど、上の連中が一人だけでこんなところに来る理由はないもの」
「なるほどね……。うん、そりゃあ間違いなくビンゴだよ、姫さん」
これで風子の話の裏はほぼとれた。疑っていたわけではないけれど、不確定要素は潰すに限る。そして陽は――地底を、風子を泣かす“怨霊憑き”は、やはりまだ、この地底のどこかにいる。今まで茫漠としていた敵の存在が、ようやく実感できるものとして浮かんできた気がして、ヤマメは改めて身が引き締まる思いだった。
「あなたがそう判断するのなら、私から言うことはないわ。……それで、二つ目の質問ね」
パルスィは指を二本立てて言った。実質、この質問こそが今回の本題である。
「漠然としているとは言ったものの、実のところ以前とは明らかに違った変化があるわね」
言われて、はてそんな変化は見られただろうかと、ヤマメは俯く。パルスィが明らかに、と表現するくらいだから、気づいて然りと暗に言われているも同然である。このままでは観察力不足のそしりは免れないと、ヤマメが必死に記憶の糸を辿っていると、パルスィがあっさり口を開いてしまった。ただし、出てきたのはいつもの毒舌ではなかった。
「怨霊憑きの事件が騒がれ出す少し前からかしら。都で薬が流行りだしたのよ」
「く、薬……?」
まるで想定外の返答に、ヤマメは戸惑う。それを察してか、すぐにパルスィは注釈を入れた。
「といっても、危ない代物ではないわ。知っているかしら。上には凄腕の薬師がいるのだけれど」
「ああ、竹林のお屋敷に住んでるっていう。実際にお目にかかったことはないけど、縁起で読んだよ」
「意外と勉強熱心なのね。それで、今都で流行っている薬はその薬師の手によるもので、何でも夢見が良くなるらしいわ」
「夢見が? そんなもの良くしてどうすんの」
「そうね。さしずめ、せめて夢の中だけでも良い思いして、可哀そうな自分を慰めようということでしょう」
「うわぁ、なんて後ろ向きな薬なんだ」
内心パルスィの解釈が捻くれているだけだと思ったが、ヤマメは例によって口には出さない。
パルスィに薬と言われて、ヤマメもいくらか思い出せるものがあった。
「そういえば最近裏通りなんかで、怪しい取引してるのをちょくちょく見るけど、その薬関連なのかな」
「そうかもね。あとは酒場なんかでも捌かれてるみたいで、少しずつだけど新しい嗜好品として、都の者の間で広まりつつあるようね」
「ふうん。ま、危険な薬だったらまた“はぐれ蜘蛛”の仕事が増えてげんなりするところだけど。姫さんは使ってみたりしないの?」
「生憎、慰めなきゃいけないほど可哀そうな精神は、持ち合わせていませんわ」
「だろうね。姫さんは地底一幸せそうだもん」
どんよりと陰気なのに、ある意味キスメ以上に活き活きとしている。そんな矛盾した存在が、嫉妬妖怪・水橋パルスィなのだった。自分も一妖怪としてなるべくかくありたいと、ヤマメは彼女に会うたびに思う。しかしそれはさておき。
「これで質問には答えたわ。お役には立てたのかしら? “はぐれ蜘蛛”さん」
パルスィの問いに、ヤマメはメモ帳を睨みながら唸った。
果たして今の話は、自分の追っている事件とつながるのだろうか。どちらかといえば、妙なキャッチフレーズを添えられて、新しい健康法として回覧板で紹介されそうな、そんな類の話である。怨霊憑きの事件と時期が重なるのは気になるし、良い夢が見られたら確かに精神的にも安定しそうではある。しかし妖怪を“殺す”と表される、怨霊による精神汚染の脅威を、その程度で抑えられるものか。そんな疑問が、覚書に筆を走らせることを躊躇させていた。
「その、姫さん。他にはなんかないのかな」
「ご不満のようね。そうねだられても、私の知る目立つ変化といえば、これくらいのものよ」
「うーん、やっぱりそうか」
「なんなら、どこそこのカップルが破局したというネタでも提供しましょうか?」
「そこはそっとしておいてやってよ。というか姫さんが話しちゃったら、もうそれマッチポンプ以外の何物でもないじゃない」
「じゃあ、都の娘が最近大胆なイメチェンをしたという話は」
「お断りします」
「どんな些細なこともと言ったのは貴方よ」
「にしても程があるでしょ……」
「あらそう残念」と、まったく残念そうには見えない顔で、パルスィはしれっと言った。なんだかいろんな意味でため息でもつきたい気分だった。しかし地底一とヤマメが信頼しているパルスィでも、これ以上のことは知らないとなると、あとはしらみつぶしに地底を捜査するしかなくなる。幸い、糸は細いながらもまだ繋がっている。
「どうするの。私を締め上げても、もう何も出てこないわよ」
「さらっと人聞きの悪いことを言わないでってば。まあ、もう一度薬の線で聞き込みでもしてみるよ。ひょっとしたら何か出てくるかもしれないしね」
「まるでわらしべ長者ね。得るものがなさそうな辺り、まったく妬ましくないけれど」
「手厳しいねえ」
揶揄するように言うパルスィに、ヤマメは苦笑いで返すしかない。他人のために動くという行為は、パルスィのような特に自分本位の妖怪には、粋狂にしか映らないのかもしれない。誰かの笑顔を取り戻せるとキザったらしく言ったところで、この嫉妬妖怪には鼻で笑われるのがオチだろう。
「それでも、ちゃんと付き合ってくれるんだもんなあ」
クスリと笑ってそう漏らす。パルスィは「何か言った?」と訝しげな顔を向けてくるが、答えない。迂闊なことを言って本気でヘソを曲げられたら、それこそ事である。
「じゃ、私は行くよ姫さん」
「そう」
「また来るよ」
「また来るの?」
「もちろんさ。私は“はぐれ蜘蛛”だからね」
「そうね、貴方は“はぐれ蜘蛛”だったわね」
「貴方に覚えておいてもらえると光栄さ。ありがとう、姫さん」
丁寧に頭を下げて、そして踵を返そうとしたところで、パルスィの方から何かが飛んできた。慌てて受け取ると、手の中にあったのは、ヤマメがパルスィに贈った茶菓子の包みの一つだった。呆気に取られながらパルスィを見ると、彼女は深淵から覗くような緑眼で、じっとりと、しかし真っ直ぐヤマメを見つめていた。
「姫さんは、やめていただけるかしら」
そう言ったきりパルスィはそっぽを向く。もうヤマメなど見えていないかのように、気だるげな気配を纏って欄干にもたれかかっていた。最後はいつも通りのそっけない態度。なんだか安心して、またここに来られるような気がした。
「お断りします」
パルスィには届かない呟きとともに、ヤマメは帰りも歩いて橋を渡った。
振り返ってパルスィの姿も見えなくなったところで、ヤマメは包み紙の封を空ける。一口に頬張った茶菓子は、地底一の最悪が気まぐれに見せた優しさがこもっているようで、顔がほころぶほど美味かった。
それはきっと勝手な思い込みで、当然のごとく本人は否定するだろう。だがしかし、ヤマメは嫉妬妖怪が妬むほどに前向きなのである。
***
パルスィとヤマメの付き合いは、それほど古いものではない。ヤマメが挨拶を向けてくることはあったものの、パルスィにとっての黒谷ヤマメとは、顔と名前が一致するだけの、地底の一妖怪でしかなかった。
そんな両者の関係が変わるのは、その年最後の雪が、冬の終わりを惜しむように降りしきったある日。
『貴方が“情報屋”の、水橋パルスィだね』
見覚えのある妖怪が、パルスィにそう声をかけてきた。
自分のことを“情報屋”扱いするような輩は、地底の住人の中でもごく僅か。少なくとも目の前の妖怪は、その数に入っていないはずだった。不審を沈黙と視線に込めると、妖怪は名乗った。
『黒谷ヤマメ。“はぐれ蜘蛛”をやってる』
“はぐれ蜘蛛”。
地底においては特別な意味を持つ名を背負う者が、昨年起こった事件でこの世を去ったことは、当然パルスィも聞き及んでいた。地底でも随一の腕利きであったあの妖怪の死は、パルスィにも少なからず衝撃をもたらした。どんなに強い者でも、死ぬときはあっさりと死ぬ。死から遠い妖怪たちが忘れそうな摂理を、どんな采配かは知らないが、天は思いもよらぬ形で否応なく知らせてくる。
久しぶりに聞いたその通り名を聞いて、そんな益体もないことを考えたのを思い出す。しかしこの小娘にしか見えない妖怪が“はぐれ蜘蛛”を名乗るとは一体どういう了見か。自然、目つきが険しくなる。
誰に自分のことを聞いたのかを尋ねると、先代の“はぐれ蜘蛛”が遺した文書に、“情報屋”パルスィの記述があったという。そして自分は先代から“はぐれ蜘蛛”の名を継いだ土蜘蛛なのだと、少女は説明した。
『情報が欲しい。事件の解決には、貴方の力が必要なんだ』
ヤマメの申し出は礼を欠かさず、あくまで真摯なものだったが、しかしパルスィはいつになく苛立った。
地底の住人らしからぬ真っ直ぐな態度が、地底一の捻くれ者の気に障ったのか。あるいは当時のセンチな気分が蘇ったのかもしれないが、何よりも気に入らなかったのは、少女の浮かべる表情だった。
少女の表情は、パルスィの記憶に薄らと刻まれた、快活さに溢れた笑顔とは、まったく違っていた。
頼りとする標を失くしてしまった迷子が、その事実を覆い隠そうとして、懸命に強くあろうとしている。ほぼ付き合いのないパルスィにさえあっさりと見抜かれるその仮面は、強がりにしか見えない。不恰好で、何より痛々しかった。
『どこの馬の骨かわからない土蜘蛛風情に、くれてやるものなんてないわ』
『え……』
『通行の邪魔よ、失せなさい』
嫉妬妖怪をして妬む余地のない目の前の少女に、用などなかった。
苛立ちのままに辛辣な言葉を投げかけてやると、ヤマメは何かを言おうとして、しかしそれ以上何も口にすることなく、スゴスゴと橋を引き返してしまった。
大層な名を背負う割に、根性の無い――。
二代目“はぐれ蜘蛛”は、このままパルスィの記憶の片隅にも残ることのないであろう、つまらない妖怪のはずだった。しかし数日後、その予想はあっさりと覆されることとなる。
『先日はどうも』
忘れかけていた頃、ヤマメは再びパルスィの前に姿を現した。
手にはご機嫌取りのつもりか菓子折りらしきものを持ち、なにより以前と違うのはその表情。パルスィの抱いていた第一印象と違わぬ、快活な笑顔だった。あれほどこっぴどくやっつけられたのに、またノコノコとやってくるとは。いよいよ目の前の少女の魂胆がわからなくなり、前以上の不審をこめて、パルスィは嘲るように言った。
『そんなに情報が欲しいのかしら。妬ましくなるほどの意地汚さね』
パルスィの皮肉に、ヤマメは驚いたように目を丸くし、そして苦笑いしながら「噂通りだなあ」などと呟いていた。そして意外なことを言った。
『前の事件ならもう解決したよ』
今度はパルスィが目を丸くする番だった。自力で情報を集めるのが大変だっただの、全然修行が足りないだの、そうしたヤマメの話を聞き流して、パルスィは裡に湧き上がる戸惑いを隠して問うた。
『あらそう。それは重畳で妬ましいことね。それで、なら貴方はわざわざ何をしにきたのかしら。まさかこの私の顔が見たかった、なんてこともないでしょうに』
皮肉のつもりだったが、なぜかヤマメは我が意を得たりというように、笑顔を深めた。そして次に出たヤマメの言葉は、今度こそパルスィを完全に唖然とさせた。
『そうそう。今日はお仕事抜きで、貴方とお話をしてみたいと思ってさ』
『……はあ?』
『いや、「どこの馬の骨かわからない奴にくれてやるものはない」って、確かにその通りだと思ってさ。だから、私のことを知ってもらうために、こうして来てみたんだよ』
『貴方、何を言って』
パルスィが文句を言う暇もなく、ヤマメは嬉々とした表情で勝手に話を進めていく。
『というわけでもう一度自己紹介させてもらうよ……コホン。私は黒谷ヤマメ。“はぐれ蜘蛛”を継がせてもらった土蜘蛛です』
『ちょっと』
『あ、これ、お土産です。都でも行列ができるくらい評判の饅頭なんだ。って、私が言わなくても“情報屋”ならそれくらい知ってるか』
『いえ、それよりも』
『それで、貴方のことはなんて呼べばいいかな』
『……』
『パルスィ? 水橋さん? それともビジネスライクな感じで“情報屋”? ……うーん、なんかどれもしっくりこないなあ』
『……なさい』
『はい?』
主導権をヤマメに握られ、流されるままになっていたパルスィだったが、地底一の最悪と謳われるこの嫉妬妖怪がみすみす黙っているはずもなく、
『とっとと、消えなさーーーいっ!』
とうとう堪忍袋の緒が切れた。
『ええ!? いきなりどうして!』
『その妬ましいほどおめでたい頭で考えなさい! ここではないどこかで!』
『ちょ、ちょっと待って! ええっと……あっ! な、ならせめてお菓子だけでも受け取』
『やかましい! 五秒以内に消えないと五寸釘ブチ込むわよ!』
『なにそれこわい!』
パルスィの激烈な怒気を感じ取ったのだろう。ヤマメの表情はなぜパルスィがこれほどまでに怒り心頭なのか、本気でわからないと物語っていた。そして流儀を守る余裕もなく、ほうぼうの体で橋から飛び去っていった。
土蜘蛛の姿が完全に見えなくなったのを確認すると、パルスィは大きく息を吐いて乱暴に欄干にもたれかかった。我を忘れてペースを乱してしまった自分に自己嫌悪を覚え、忌々しげに舌打ちをする。天下の嫉妬妖怪、近年まれにみる不覚の極みである。
それにつけても馴れ馴れしい妖怪だった。それもあろうことか、最悪たる水橋パルスィに向かってあの態度、怖いもの知らずにも程がある。あるいはただの阿呆か。いずれにせよ、先代の“はぐれ蜘蛛”とはまったく違うタイプだった。しかしあれだけ強く言ってやったのだから、これに懲りてもう来ないはず。もし来たら本物の阿呆だ。
『……何だったのかしら、一体』
ふと、ヤマメの言葉の真意が気になりかけたが、すぐにかぶりを振った。これで縁は切れたのだからと、パルスィは清々する思いだった。
自分の見通しがてんで甘かったことをパルスィが思い知らされるのは、さらに数日後のことである。
あれからヤマメは、パルスィがどれだけ追っ払っても、少し日が空けばまた舞い戻ってくるのだった。相手にするのもバカらしくなって無視を決めこもうと、この前の事件はどうだっただのと、勝手に喋り続けるのだからたまったものではない。これほどしつこい相手は、パルスィの永い人生でも初めてといってよかった。ヤマメが嬉々として話をし、パルスィがしかめ面でそれを聞き流すという日々が、いくらか続いた。
そしてある日気がついた。ヤマメがパルスィの元へやってくる際には、決まって土産として茶菓子と、そして自身の解決した事件の話を持ってくることに。その積み重ねは、いつのまにか結構な数に達していた。
『……いい加減、諦めたらどうなの?』
思わず、声を掛けてしまっていた。しまったと思ってヤマメの方を向くと、彼女は驚きと喜びをない交ぜにしたような、妙な笑顔を浮かべていた。
『貴方の方から話しかけてくれるなんて、初めてだ』
『我慢の限界だったというだけのことよ。なぜ私に付きまとうの? これだけ無下に扱われているのに、まったく理解に苦しむわ』
『そうかなあ』
『そんなに情報が欲しいのなら、別に私じゃなくてもいいでしょう。他を探せばいくらでもいるわよ』
『確かに情報は欲しいんだけど……うーん、そうだな。なんだろう』
ヤマメはしばし逡巡すると、照れたように頭を掻いて言った。
『貴方に認めてもらいたかった、のかな』
パルスィは、頭を抱えそうになるのを何とかこらえた。徹頭徹尾、この土蜘蛛の言うことはまったく意味がわからない。パルスィの表情で察したのか、ヤマメは慌てて付け加えた。
『いや、先代の遺した覚書によると、あの人が情報不足で行き詰ったときに頼ってたのは決まって貴方なんだ。それはもう話したよね』
パルスィは何の反応も返さなかったが、ヤマメは構うことなく続けた。
『貴方の言うとおり、情報をくれる人は地底にもたくさんいるはずだ。それでも先代は、あえて貴方を頼りにし続けた。実を言うと私もそれが不思議だったから、とにかく実際に“情報屋”水橋パルスィに会ってみようと思ったのさ』
滔々と、ヤマメは語る。この自分といるにも関わらず、実に穏やかな顔をしているのが、また気に入らない。
『貴方に最初に会いに行ってコテンパンにやっつけられた時、そりゃもうすっごくへこんだけど、同時にちょっとわかった気がした』
『わかった……?』
『貴方は信頼できる者にしか情報を渡さない。それは逆に言うと、信頼を勝ち取ればきっと大きな力になってくれるってことでしょ。貴方が先代にしたようにね。なら私はそれを受け取るにふさわしい存在になる必要がある。だから、貴方の力を借りる前に、自分の出来ることを精一杯やって事件を解決していこうって、そう決心したんだ』
パルスィは自分の裡に湧く感情が、軽蔑を越えて困惑の域に達していることを自覚していた。
理解できないなりにパルスィが想像の翼を広げてヤマメの話を解釈すると、つまりは自分が気まぐれに言ったことを、この土蜘蛛は何をどう勘違いしたのかは知らないが、事件解決の原動力にしていたというのだ。勝手に意味を見出されても、迷惑なだけだというのに。
それでも、この土蜘蛛は結果を出した。迷子を保護したり地霊殿のペットを探したり、後は精々チンピラ同士の喧嘩を止めたくらい。耳にしたのは、そんな小さな事件ばかりだったが、確かにヤマメは自力で、立派に“はぐれ蜘蛛”としての役目を果たしていたのだ。
『それで? そうやって事件を解決していけば、私が貴方を認めるとでも……?』
暗にお前のやっていることは、ただの自己満足だと言ったつもりだったが、意外にも土蜘蛛は首を横に振った。
『さあ。そればかりは貴方次第だから、私には何とも』
『なら、どうして』
『私は、私自身が満足できるまで、精一杯できることをやりたい。貴方に認めてもらえなくったって、同じことさ』
そしてヤマメは、深淵を恐れることなく、パルスィの緑眼を見据えながら、力強く笑った。
『もう、弱いだけの自分には飽き飽きなんだ』
思わず、目を瞠った。
在りし日の影を、そこに見たような気がした。
地の底に流れる涙を拭う、“はぐれ蜘蛛”。
目の前の少女はどう見ても気迫や威厳とは無縁だったが、その系譜は、あるいは脈々と受け継がれているのでは。ヤマメの笑みは、錯覚でもそうパルスィに思わせるのに十分なほどの決意を秘めていた。
二の句を継げないパルスィを見て、また気分を害してしまったと勘違いしたのか、ヤマメが一転不安げな表情を浮かべる。その情けないほどの落差に、なんだかもう色々と馬鹿馬鹿しくなってきた。あまりに馬鹿馬鹿しすぎて、自然と言葉が口をついて出た。
『報酬は』
『へ?』
『報酬は私の言い値。情報の価値と釣り合おうが釣り合わまいが、文句は一切言わせない。私はビジネスをやっているわけではないの』
『え、ちょ、ちょっと。それって……』
『こちらの条件は提示したわ。返答は?』
睨みつけて問うと、ヤマメはいきなりパルスィの両手をガシッと握ってきた。
虚をつかれて何も出来ないでいると、そのまま興奮しきった様子でブンブン手を振る。とても握手とは呼べない荒々しさに抗議しようと、ヤマメの顔を睨みつけて、そしてギョッとした。
笑顔には違いないのだが、なぜだかヤマメの両の目には涙が浮かんで、今にも溢れそうだった。今日はまだ特に泣かすようなことは言ってないはずだと、パルスィが本気で混乱している間も、ヤマメはしきりに「ありがとう」と繰り返すだけだった。涙は今や滂沱として流れていた。
嗚咽の混じった礼が辺りに響く中、パルスィは、あるいは生まれて初めて思った。勘弁してくれと。
『あっはっは。いやー、お恥ずかしいところを見せちゃったね』
照れたように、しかしすっきりした顔で、ヤマメは快活に言った。目はまだ赤いが、もう落ち着いたようだ。
『本当にね。私が貴方なら、今すぐ橋から飛び降りるレベルの生き恥よ』
『そうでもないさ。地の底に流れる涙の中でも、嬉し涙は拭う必要のない宝石だよ』
『それも“はぐれ蜘蛛”一流のセリフなのかしら。まるで似合っていないし、そもそもセリフ自体が残念ね』
『うぐっ!』
ヤマメはガックリと肩を落とした。ようやく言葉の棘が刺さったようで、いくらか溜飲は下がったが、まだ本調子とはいかない。
『妬ましいほどにおめでとう。さあ、これで貴方の目的は果たせたでしょう。だからもうさっさと帰りなさいな』
なんだかどっと疲れて吐き捨てるように促すと、ヤマメは少し残念がったが、パルスィの様子を見てそうだね、と頷いた。
これで本当に、この訳の分からない土蜘蛛と縁が出来てしまった。この土蜘蛛のことだ、情報をもらえるようになっても、これまでと同様、目的もなくただ話をしに顔を見せるのだろう。今後のことを考えると、パルスィは頭が痛くなる思いだった。
しかし、ヤマメに情報を渡すと決めたのは、気まぐれだろうと気の迷いだろうと、結局はパルスィの意思である。涙が出るほど感謝されてしまっては、さすがに今のは無しとは言えないし、そもそも水橋パルスィは、一度自分で決めた約束を反故にするような精神は持ち合わせていない。汚すことのできぬプライドあってこその、最悪である。
『じゃあ、今日はこれで。ありがとうございました。あ、お土産はちゃんと受け取ってね』
わかったわかったと、パルスィがうんざりしたように手を振ると、ヤマメは先代の“はぐれ蜘蛛”には見られなかった、彼女一流の笑顔を浮かべ、そして言った。
『これからよろしく頼むよ、“姫さん”』
最後の最後で、また唖然とさせられた。
今、この土蜘蛛は誰のことを呼んだ? むしろ何を口走っているのだ?
空いた口がふさがらないまま、無言で問い詰めると、ヤマメは頭を掻きながらしれっと言った。
『いや、“水橋さん”も“パルスィ”もしっくりこなかったからさ。いっそもうあだ名で呼ぼうかと思って』
緩んだ笑みを向けるヤマメに、パルスィはわずかに残された気力を振り絞って、深淵から響くような低い声で言ったのだった。
「『おかしなあだ名は、やめていただけるかしら』。まったく、変わり映えのしない」
あれが最初の一回目。
“はぐれ蜘蛛”と“情報屋”の、嫉妬妖怪のあだ名のようにおかしな関係の始まりだった。
この馴れ馴れしい妖怪とは、長い付き合いになってしまうと思ったのもちょうどこの時で、そして今度こそ、その予感は当たってしまったのだった。
ヤマメがよこした茶菓子を、一つ頬張ってみる。まあまあの味だが、熱くて濃いお茶が怖い。あれももう少し気を利かせられたら、多少は扱いを改めてやらないこともないのに。
そんなことを考えている自分の表情が、人に見られたら最悪の沽券に関わるほど穏やかだったことを、パルスィ自身は知る由もない。
7.
薬の線で聞き込みを進めてみると、これまでは聞くことができなかった話が色々と出てきた。
パルスィの言うとおり、確かに夢見がよくなるという薬は、地底の住人の間に浸透しつつあるようだ。薬のことを知っているかとそこかしこで話を投げかけてみると、ヤマメが意外に思うほど良い反応が返ってくる。
「おいおい知らなかったのか。“はぐれ蜘蛛”がそんな体たらくでどうするんだい」
薬の情報と一緒に、決まって頂戴したからかいの言葉である。ごもっともと、肩をすくめるしかない。
話によると、夢見がよくなる薬の正式名称は“胡蝶夢丸”というらしい。なるほど蝶になってヒラヒラと舞うような、気持ちの良い夢が見られそうなネーミングである。入手経路は様々で、酒の席で知人から分けてもらったり、売人から直接買うのが主であり、公に流通しているものではないようだ。値段はやや高め。件の薬師は良心的な商売をすると聞くが、地底の暗がりで生きる者に、同じ心がけを期待してもしょうがない。それでも、効果は覿面ときているので、誰も騙されたとは思っていないらしい。
「ま、上等の酒を飲む代わりと思えば、悪い買い物じゃあないさ」
そういうものかと首を傾げながら、高い金を払ってまで良い夢を見たいという感覚は、やはりよくわからなかった。精神が健全な証拠なのかしらんと、ヤマメは嫉妬妖怪を思いながら結論づけた。
そして聞き込みを続けていくうちに、ヤマメの気を惹く情報が出てきた。
「上から流れてきた薬の中には、ヤバいブツも混じっているらしい」
「ヤバいブツ? それ、危険な薬ってこと?」
「詳しくは知らないよ。そういうのがあるって噂さ」
ヤマメはこの新たな糸を辿って、都を隅々まで渡り歩いた。さすがにこれまでのように順調とはいかなかった。そもそも知らないという者がほとんどだったし、知っていそうな者もみな一様に口が重かった。
そこでヤマメは、西区に建てられた鬼の詰所に足を運んだ。本部とまではいかないが、図体の大きい鬼たちが集まる場所というだけあって、分所といえど周りの建物とは一線を画す巨大さだ。詰所に来るたびに感じる緊張を、一つ深呼吸してほぐす。そして、あくまでリラックスした態度を取り繕って、ヤマメは戸を開けた。
「ちわー」
「ん、どうかされたか……ってげえっ! 黒谷!」
「どうもご苦労様です。しかしナタさん。いきなりげえ、とはひどいね」
ヤマメを出迎えたのは、顔なじみである、自警団の中でも比較的若手の鬼だった。通り名を鉈(なた)といい、半人前のヤマメを何かと厄介者扱いする困った人だったが、これまでも何度か力を貸し借りしあっていることもあって、信頼できる相手ではあった。また、性格にもどこか憎めない部分があって、ヤマメはこの鬼が嫌いではなかった。他にも数人の鬼がいて、挨拶を向けてきたり、ヤマメと鉈のやりとりを面白がるように笑っていた。
ヤマメは適当に椅子を引っ張ってきて、そこへ座る。勝手知ったるというようなヤマメの馴染みぶりが気に入らないのか、鉈は顔をしかめた。同僚と指していた将棋を中断し、ヤマメの対面にどしっと腰を据える。
「ふん、てめえが来ると面倒事の気配しかしねえんだよ」
「まあ実際その通りなんだけど、貴方がたが面倒事避けてちゃあ仕事にならんでしょう」
「相変わらず口の減らんやつめ。ちょっとお頭に可愛がられているからって、いい気になるなよ」
「前も誰だか言ってたけど、旦那が私に甘くするわけないって。それより、ナタさん。今日もちょっと力を借りたいんだ。これ、お土産ね」
「けっ、またバカの一つ覚えみたいに手土産か。どこぞの菓子屋が言ってたぞ。気前のいい常連が出来て大助かりだとよ」
「なんだ、いらないの?」
「おう、これしまっとけ」
あっさりと受け取った鉈と苦笑しながら奥に引っ込んだ同僚の鬼を見比べ、ヤマメはやれやれと首を振った。気難しいのやら扱いやすいのやら、よくわからない鬼である。
「つーかよ。そう毎度毎度、力を貸してもらえると思ったら大間違いだ」
「え? なんで?」
「そこでキョトンとするところがなんかもうおかしいだろ。いいか、俺たちも例の事件追ってて暇じゃねえんだよ」
「思いっきり将棋指してたじゃないか。しかも負け寸前」
「うるせえ。とにかく、てめえなんぞに付き合う義理はねえんだ。帰れ帰れ」
取りつく島もない。周りを見ても、他の鬼たちは面白そうにニヤニヤと笑って、すっかり傍観の体である。
ヤマメはわざとらしいくらい大きなため息をつく。彼女が諦めたとみて、鉈は勝ち誇ったように鼻をフンと鳴らした。ヤマメは残念そうに立ち上がりながら、ポツリと呟いた。
「あーあ、せっかく左の旦那に良い報告が出来ると思ったのになあ」
ピクリと、鉈の体が跳ねた。気にすることなく、ヤマメはあくまで独り言のように続けた。
「ナタさんの大手柄のおかげでスパッと事件解決! 旦那も喜んでくれただろうに。ああ残念無念」
チラリと鉈を見る。聞こえてない振りを装っていたが、落ち着きなく体が震えている。顔も真っ赤だ。周りの鬼たちは必死で笑いをこらえていた。
「でもナタさんに言われたんじゃあしょうがない。雷が落ちる前に、今日はもうお暇しよう」
「待て」
「ん? どうしたの。とっとと帰るから怒らないでちょうだいな」
「まあ待てと言っている」
たまらず鬼の一人が噴き出した。ヤマメはしれっとした顔で席に戻る。
「今の話。どういうことだ」
「今のって?」
「とぼけんな。お頭がどうこう言ってたあれだ」
「やだ聞かれてたの? 恥ずかしいなあもう」
「頬を染めんじゃねえ気色悪い。で、どうなんだおい」
「いやいや、私もこれまで何度も、ナタさんに助けてもらったじゃない。そのたんびに、旦那には報告してるんだよ。ナタさんの力添えで、ヤマメちゃん大助かりって」
「ほ、ほほう……。ま、まあそうだな。報告はきちんとしねえとな。で、それで?」
「うん。話聞いて、旦那感心してたよ。ナタさんは若いのに見所があるって。ほら、心当たりない? なんかこう、褒められたりとか」
「心当たり……。お、おおそうだ! 確かに酒の席で、「お前もつくづく大変だな」ってねぎらってもらったぜ。なんかそう言うお頭の方がすげえ疲れた顔してたが」
「ん、んんっ? なんか思ってた反応と違うな。まあいいや。でも、今回はナタさんも忙しそうだし、無理は言わないよ。じゃ、私はこれで」
しゅたっと手を挙げて立ち上がろうとするヤマメの肩を、鉈はガッチリと抑え込んだ。仮にも鬼の胆力なので、それなりに痛い。
「水臭えな。話、聞かせろや」
何よりもズイと寄せたその顔が、必死すぎて鬼の形相とはまた違う恐ろしさを醸し出していた。妙な迫力に圧されて、ヤマメはブンブンと首を縦に振るしかなかった。どうやら上手くお膳立てできたようだが、薬が効きすぎた。周りの鬼たちは、今や笑い声を押し殺して腹を抱えていた。
「薬だあ?」
素っ頓狂な声を挙げた鉈に、ヤマメは自分が集めた薬の情報を聞かせた。
そんなものが事件となんの関係があるのかと疑問をぶつけてきたが、それについてはまだわからないと、正直に言うしかなかった。その疑問は、ヤマメ自身も抱えているものなのだ。
「つーかどっからそんな発想が出てきやがんだ」
「姫さんに聞いたのさ。都で変わってることはないかって」
「姫さんって、あの橋姫のことだよな。……お前よくあの最悪から情報が取れるな……」
「いや、そんな真っ青な顔で感心されても困るんだけど」
何かトラウマでもあるのか、思いっきり顔をしかめてみせる鉈はさておき。
ヤマメは噂になっている“ヤバいブツ”の情報がカギと睨んでいるが、自分がその情報を得るのは困難だという認識だった。情けない話ではあるが、長らく地底の暗闇を蠢いてきた者たちの口は、そう簡単に割れるものではないのだ。
だが、聴き手が鬼ともなると話は別である。地底最強の種族である彼らを前に、なお口を開かぬ者たちはそうそういない。鬼にも屈しない本物のアウトローも中にはいるだろうが、それでもヤマメが動くよりは遥かに情報集めも捗るだろう。
と、こうして机上に論を描くのは簡単だが、しかしプライドの高い鬼の手を借りるのは、そう容易なことではない。
「どうだろうナタさん。調べてみてくれないかな」
「また面倒なことを……と言いたいところだが、確かにきな臭え。わかった、そこらのチンピラどもを締め上げりゃいいんだな?」
「なるべくお手柔らかにね」
「どうだかな。あ、おいそうだ。くれぐれもお頭への報告は、正確に、きっちりと、やるんだぞ。いいな、絶対だぞ」
「わかってるって。そっちこそ頼みましたよ。旦那に嘘を言うわけにはいかないからね」
「へっ、生意気な」
早速鉈は、肩をいからせて意気揚々と出て行った。あの気合の入りようなら、多分大丈夫だろう。
背中を共に見送った鬼の青年が、愉快そうに話しかけてきた。
「鉈の扱い方も、堂に入ったもんだな。ヤマメちゃん」
「そんなんじゃないさ。根がいい人なんだよ、きっと」
「違いない」
その後、ヤマメは土産に持ってきた茶菓子を囲んで、鬼たちとの歓談を楽しんだ。鬼と茶を飲むなど、“はぐれ蜘蛛”襲名当初は考えられないことだった。
今回わりかし簡単に話が運んだのも、“地底の住人は助け合い”をポリシーに掲げ、ヤマメが粘り強く積み重ねてきた信頼ゆえなのである。
薬のことはひとまずこれで良しとすることにして、ヤマメはいったん事務所に戻ることにした。とりあえず今やれることはなくなったし、ここらで今後の方針を立て直す必要がある。
ヤマメはひとつ大きなあくびをした。ここ数日は十分な睡眠がとれていない。まさか自分が寝る間も惜しんで働くようになるとは、昔は考えもしなかったが、“はぐれ蜘蛛”を継いでからは、それも珍しくない生活を送るようになっていた。大変ではあるが、しかし文句は湧いてこない。キツイ役目であるのは襲名前からわかっていたことであるし、昔の気ままな生活とはまた違う、充実感のようなものが、ヤマメの今を彩っていた。
ついでに切れそうな茶葉でも買っていこうかと、雑貨屋へ向けて通りを歩いていると、ヤマメは知っている顔を見つけた。それも最近知り合ったばかりの娘だった。
「風子さん」
ヤマメが声をかけると、娘は肩を跳ね上げ、墨で塗りつぶしたように真っ黒な長髪を翻しながら振り向いた。驚いたように目を丸くしながらも、風子ははにかみがちに微笑んで頭を下げた。
「こんな所で奇遇ですね。買い物?」
「はい、夕餉の買い出しに。ヤマメさんはやっぱり」
「うん、お仕事さ。今日はもう帰るところだけどね」
「そうでしたか。お疲れ様です。その、私のためにこのような大変なことを」
申し訳なさそうな顔をしながら、また深く礼をする。風子の謙虚な態度を見て、ヤマメは傍若無人な知り合いたちに、彼女の爪の垢を飲ませてやりたい気分だった。主に桶の人とか桶の人とか。
「私が自分で引き受けたことさ。大丈夫、ここ数日で色々進展もあったし、すぐに解決するよ
「本当ですか。ありがとうございます」
「そうだ。時間があれば少し話せないかな」
「お話、ですか?」
ヤマメの申し出に、風子は少し考えるような表情を浮かべた。
ヤマメとしては、依頼人である彼女にこれまでの経過を報告がてら、彼女との親交を深めるつもりだった。仕事柄人脈を広げるにこしたことはないし、そういうことを抜きにしても、人懐っこいヤマメにとって友人が増えるのは望ましいことだった。
風子は、やや遠慮がちに言った。
「では、私の家にいらっしゃいませんか」
「ん、この近くなの?」
「はい、この西地区の外れに住んでます。と言っても、大したおもてなしは出来ませんが……」
「いえいえ、お構いなく。じゃあお言葉に甘えて、お邪魔しようかな」
二人は風子の家に向けて歩き出した。
ここらは中央から離れるため、人通りはあまりなく、ヤマメにはなじみ深い喧騒も耳に入ってこない。なるほどこの物静かな娘には、これくらいの気風が性に合っているのかもしれなかった。
「……というわけでさ。ホント、キスメさんのイタズラにも困ったもんだよ」
「なんだかお話を聞く限り、イタズラで済ますようなことではない気が……」
少しばかり話してみて、風子は物静かではあるが、決して陰気な性格ではないことがうかがえた。ヤマメの恥ずかしい失敗談に目を丸くして驚いてみせ、下らないジョークにも控えめではあるが笑ってくれる。一言で言うと良い子なのだった。ヤマメの知り合いはくせ者が顔を連ねているので、こういう素直な反応には貴重ささえ感じてしまう。
しばらく歩を進めていくと、ぱったりと人通りが絶えてしまい、建物も見られなくなった。足音がやけに響き、草木の揺れる音まではっきりと聞き取れるような、活気とはかけ離れた雰囲気が漂っていた。崖に回りをとり囲まれた地帯まで進み、どこまで行くのだろうと、ヤマメが訝しげに思っていたところへ、ようやくポツンと建つ、住居らしきものが見えてきた。
「あれが、私の家です」
ヤマメがその家を見て真っ先に抱いた印象は、“寂しい”だった。
家屋は今にも崩れ落ちるのではないかと思うぐらい、ところどころ傷んでいる。ガタガタと派手な音がしたので見ると、建てつけの悪そうな戸を、風子が苦労しながら開けているところだった。その苦労する開け方にすら、風子はもう慣れているようだった。
お邪魔しますと、ヤマメが家に踏み入れると、音を立てて床がきしんだ。風子は座布団を勧めてきたものの、どうやら一枚しかないもののようだ。ヤマメはどうしようかと一瞬悩んだが、断るのも失礼な気がして、素直に頂戴しておいた。風子がお茶を淹れてくれている間、ヤマメは薄い座布団に座りながら、家中を見回した。一人の娘が生活するのに、最低限必要なものしか置いていなく、人を招くことなど最初から想定していないかのようだった。なんだか、ひどく侘しい気持ちに駆られた。
「驚いたでしょう、こんな家で」
ヤマメに茶を渡しながら、風子は儚げな苦笑いを浮かべた。孤独を当然のこととして受け入れている者の顔だった。ヤマメは胸にチクリと生じた痛みをはぐらかすように、冗談めかして言った。
「正直少しね。まあこんなのどうってことないさ。いいかい、そこらの鬼や私の同族に酒奢って、後はちょっとおだてていい気分にさせるんだ。そうすればすぐに直してくれるよ。風子さん、可愛らしいしね」
クスリと笑って、しかし風子は首を振った。
「いいんです。今のままでも困ってはいないし」
「うーん、そう? でもねえ」
「それに、何分肩身が狭い身ですので」
風子が何気なく言ったセリフに、ヤマメはハッとした。
妖怪たちの禁忌に手を出したという、彼女の過去。その消せない烙印によって、彼女が地底でどんな扱いをうけてきたか、ヤマメのようなお気楽者といえど、想像に難くはない。そして今なお、小さな身に刻むにはあまりに壮絶で悲しい出来事は、遠い時間を越えてなおその鎖を伸ばし、彼女を雁字搦めにしている。寂しい地の底の果てに立った寂しい家、そして彼女の儚げな笑顔こそ、その表れなのかもしれない。
ヤマメがらしくなく、言葉に迷っていると、風子は穏やかに笑いながらお茶を勧めてきた。これでは最初に事務所で会った時と真逆である。仮にも自分は風子の依頼を受けているのだ。こんなことではダメだなと、ヤマメは苦笑いしながらお茶を口にした。家の有様とは裏腹に、丁寧に淹れられたようで、とても美味かった。
「じゃあ、早速中間報告といかせてもらうよ」
ヤマメはこれまで自分が調べたことを、かいつまんで説明した。“怨霊憑き”の正体、薬の情報。それらを風子は黙って耳を傾けていたが、陽についての話に及ぶと、おずおずと躊躇うように口を挟んだ。
「その……陽は、まだ鬼の方々には」
「大丈夫……と言っていいのかはわからないけど、とにかく鬼だけじゃなく、誰も彼の居場所を突き止めた者はいないっていうのが現状だね」
「……そうですか」
「心配?」
「……」
「ごめん。今のは意地悪だった」
風子の複雑な胸中は察するに余りある。
どう取り繕っても、陽が地底の平穏を揺るがし続ける、危険人物であることに変わりはない。まだ死者が出ていないのは単に運が良かっただけで、陽をどうにかしないかぎり、この先も同じように済む保証はまったくないのだ。
一方で、陽の身を案じる彼女の気持ちも理解できた。恋心とは違えど、ヤマメも大切な人を持ち、そして失った身だ。長年接触の無かった者とはいえ、みすみす陽の死を容認できるほど、風子は果たして冷淡でいられるのかどうか。
涙が、ポタリと落ちた。風子は慌てて俯いたが、ヤマメには見て見ぬふりはとてもできなかった。
「風子さん……」
「ごめんなさい。私、駄目ですね。泣く資格なんて、あるわけないのに」
声が震えていた。次から次へと、雫が静かに零れていく。寂しさと孤独を湛えた家に、さらに風子の悲しみが沁みこんでいくようだった。
ヤマメは拳を握りしめた。これは、流さなくてもよい涙だ。自分で拭えぬのなら、誰かがハンカチを差し出して然るべき涙だ。
「大丈夫」
自然、言葉が出ていた。
「陽さんは、必ず私が止めてみせる。そして、風子さんを泣かせたこと、貴方の目の前で土下座させてやる」
安請け合いはするな。経験で得た教訓の一つだ。けれど、涙に暮れる少女を前にして、ヤマメはそう言わずにはいられなかった。
「約束するよ。だから泣かないで」
ヤマメは安心してもらえるよう、にこやかに笑いかけた。
風子への約束は、そのままヤマメ自身の心を決める誓いでもあった。
ヤマメの言葉を聞いて、風子は詫びを入れながら涙を拭い、弱々しくではあるが、笑みを返してくれた。事件が解決した暁には、家を纏う悲しみを吹き飛ばせるくらいに笑って欲しい。そう願うばかりだった。
その後は風子も落ち着き、つつがなく報告は進んだ。ヤマメの話を聞いた上で、何か心当たりがあるかと問うてみたが、芳しい反応は得られなかった。このような人が近寄りそうにない辺境に住んでいては、事情にうとくなるのも無理からぬことではあるのだが。
「ヤマメさん、よろしければ夕飯を召し上がっていきませんか」
報告が一通り済み、ヤマメが家を辞そうとしたとき、風子の方から申し出があった。鬼の詰所で茶菓子は頂いたものの、そろそろ腹の虫が鳴きそうな頃合いだった。それに、先ほどのお茶の味からも、風子の料理は期待できるという予感があった。ちなみにヤマメ自身は、そちらの方面はかなりおろそかにしてしまっていて、飯をたかりにくる某釣瓶落としに文句を言われてたりする。
風子の腕前が楽しみというのもあるが、自分と食事をすることで、少しでも風子の気が紛れればと思った。飯は誰かと食う方が、美味い。
「そうだね、迷惑じゃなければ喜んで」
断られると思っていたのか、風子はどこかホッとした表情を浮かべた。つくづく奥ゆかしい娘である。
「それでは水を汲んできますね。何もないところですが、ゆっくりしていて下さい」
風子が出ていくと、ヤマメはメモ帳を取りだそうとして、やめた。ごろんと寝転がって、目を閉じる。
思えば、色んな人が動いている事件だった。鬼たちは今も寝る間を惜しんで、警邏・捜査に勤しんでいるはずだ。全ては彼らの愛する地底の平和のため。文句の付けどころがない、揺るぎ無き正義である。
しかし彼らの中で、誰も目の届かぬ場所で流された涙を知る者がいるだろうか。独り寂しく、地底の平和と自らの思いの間で葛藤する、小さな存在を知る者がいるだろうか。
例えば左に風子のことを話したとする。合理的な彼のことだ、それでも地底全体のために、陽を討つことを躊躇わないだろう。たとえ非情であってもそれは、地底の安全を担う彼が、当然取らなければならない選択肢である。いつだって彼はそうだったし、これからもその姿勢は変わらないだろう。
だがその正義では、風子が救われない。
“はぐれ蜘蛛”は地の底の涙を拭う。彼女自身の正義に、例外など作りたくはなかった。
「でも、旦那には甘いって言われるんだろうなあ」
正義を全うしたければ、相応の力を持て。
何度となく左に叩き込まれたセリフだった。事件に関われば関わるほど、この言葉の意味をひしひしと思い知らされる。力なき正義は、ただの虚しい遠吠えと同じである。
情報を全面的に鬼に渡して、ヤマメはさっさと舞台から去るのが、地底の安全のためには一番良いのだろう。いくら白狼天狗が逃げ回ろうと、追い詰められるのは時間の問題だ。それでも、ヤマメは“はぐれ蜘蛛”として――彼女の涙を見てしまった者として――風子の力になってやりたかった。こんな堂々巡りに陥ってしまうのも、力の無さ故だ。
「強く、なりたいな」
我知らず呟いた、その時である。
ガタンと、なにか大きな物音がすると同時、ヤマメの目を一気に開かせるものが耳に届いた。壁一枚隔てているが、明らかに風子の悲鳴だとわかった。
急いで飛び起きて、立てつけの悪い戸を躊躇なく蹴破り、外に躍り出る。そこでヤマメが目にしたものは、顔を蒼白にした風子。地面に転がった桶は、中身をぶちまけたようで空だった。そして、風子の視線の先。切り立った崖の上に、人影があった。
細身ではあるもののガッチリとした体格で男だとわかるが、男性にしては長く、そして真っ白な髪をなびかせて、一心にこちらを見下ろしていた。
「……陽!」
風子がかすれた声で呟くと、人影は崖から飛び降りてきた。一歩も動けない様子の風子に、妄執が暗く滾る目を向ける。ヤマメのことなど、まったく見えていないようだった。白狼天狗は低く唸るように、風子に言葉を投げつけた。
「話が違うぞ、風子……!」
話が違う? 言葉の意味をヤマメが考える前に、陽は懐から何かを取り出す。ビー玉のようにも見えるそれを、陽は口に放り込み、一気に噛み砕いて飲み干す。そして胸をかきむしりながら飢えた狼のように唸りだすと、どこからともなく、無数の怨霊が沸いてきた。ヤマメは驚愕とともにその光景を見ていたが、次の瞬間、今度こそヤマメは戦慄した。
陽がその身に無数の怨霊を取り込むと、まず細身の体格が、鬼と見紛うくらいに大きく、強靭に膨れ上がった。白い体毛が見る見るうちに伸びて全身を覆い、ご丁寧に尾まで生えている。そして口が裂けて鋭利な犬歯が覗き、顔まで毛むくじゃらになって、血走った目は飢えた獣を思わせた。
「……嘘でしょ」
白狼天狗は瞬く間に、先祖返りを起こしたように、話で聞く狼男のような風貌に変わり果ててしまった。これで月まで見えたら出来過ぎのところだ。
真っ白な人狼は、狼そのものの遠吠えを響かせ、準備は整ったと言わんばかりに風子を見据える。風子はようやく後ずさりをするが、足が震えてそれもままならない。
「こっちだ! ガルガル野郎!」
今にも風子に飛びかかりそうな気配を感じ取ったヤマメは、とっさに声をあげて、注意をこちらに引き付けようとする。人狼は初めて気づいたというように、血走った目でヤマメを一瞥した。しかしすぐに興味をなくして風子に向き直り、ついに人狼の牙が、恐怖に震える娘に襲い掛かった。
「ちっ!」
ヤマメは風子に向かって手を突き出した。右手から放たれ、ロープのように編まれた糸が風子に巻きつく。そのまま高く持ち上げて、一本釣りの要領でヤマメの方へと引き寄せた。すんでのところで人狼の攻撃をかわすも、すぐさま人狼は次の行動に移った。ギロリとこちらを横目で睨むと、今度はヤマメのほうへと向かってくる。
手の中にある風子へ、無我夢中で叫んだ。
「逃げて風子さん! 安全なところへ隠れてるんだ!」
「で、でも……!」
「いいから! ぶっちゃけ邪魔なの!」
ヤマメの剣幕に圧されるように、風子はすぐに身を翻した。その間に、少しでも時間を稼ごうと牽制の妖力弾を撃ちこむ。しかし人狼は俊敏にそれらをかわしていく。
「弾幕ごっこなら百点の動きだね、ちくしょうめ」
思わず恨み言を漏らす。だが時間稼ぎの甲斐あってか、風子の姿は見えなくなっていた。安心したところへ、人狼の爪がヤマメを引き裂こうと振り下ろされる。
「へん、食らうか!」
地面に飛び込むようにして攻撃をかわした。ヤマメを取り逃がした爪は、代わりに恐るべき威力を以って地面を砕いた。ヤマメは勢い余ってゴロゴロと転がったのち、すぐさま片膝立ちになって身構える。
出合い頭の攻防を経て、ようやく出来た間。砕かれた地面を見て、ゾッとした。見た目に違わず、軽く見積もっても鬼と同等の力を持っていそうである。まともに攻撃を食らえば、自分の体など簡単に肉片と化すだろう。
一方人狼はヤマメのことを、今や完全に邪魔者として認識したようで、血走った目で睨みつけてくる。口からはダラダラとよだれが垂れていて、ケダモノのおぞましさを彷彿とさせる。
「探したよ、陽さん。出来るなら穏便に済ましたかったけど、どうやらそうもいかないみたいだ」
視線を交わすこと一瞬。先に口を開いたのはヤマメだった。自分を煩わせる存在に苛つくように、唸り声をあげていた人狼だったが、
「貴様……何者だ」
意外にも、唸り声に混じって聞き取りづらくはあったが、人の言葉を発した。どうやら話は出来るらしい。もっとも、話が通用するかどうかはまた別問題だが。
それにしてもこの化物は自分のことを何者だときた。地底の住人なら、そんな質問はしない。ヤマメの背負う名は、知らぬ者はいないと言い切れるほどに、地の底に轟いている。ならば、地上からはるばるやって来たこのおのぼりさんにも、教えてやらねばなるまい。
ヤマメは片目を閉じて、不敵に笑った。
「そうだね。上のお友達への土産話にするといい。もっとも、あんたは地の底の暗がりで、臭い飯を食う羽目になるんだけど」
その名の意味を。
背負うことの覚悟を。
地底を泣かす者に突きつける。
「私はヤマメ。――地の底の病巣を病で制す、一介の“はぐれ蜘蛛”さ」
人目も月明かりも届かない地の底の果てで、ケダモノの牙と蜘蛛の糸が交差する。
8.
妖怪にとって強くなるということは、すなわちどこまで自分を妖として純化できるかに尽きる。
ヤマメに戦いを仕込んだ師の言葉である。
例えばただひたすらに強く、凶暴で、決して抗えぬ力の象徴として人間がイメージした、“鬼という現象”。
例えば朝廷の敵として恐れられ、果てには病をまき散らす祟りのような存在として認識されるようになった、“土蜘蛛という現象”。
自らの存在の根源ともいうべき幻想に、どこまで近づけるか。あるいはそこからどれだけ力を取り出せるか。
戦闘訓練においては技、体の部分を徹底的に叩き込まれるのはもちろんだが、もっとも重要視されたのは心の部分の鍛錬だった。人のそれとは違い、妖怪にとって心の部分を鍛えるとは、自らの能力の基盤となる幻想を理解し、自分のものにすることをいう。
自らの裡をひっくり返してルーツを探るかのような修行は、鏡の向こうのさらにその先にある、己の魔性を無理やり覗かされるようで、ひどく精神が消耗した。だが、もはや自分でさえ忘れそうになる、純粋な妖としての己を認識することは、間違いなく強さにつながった。
精神の強さは妖怪の強さ。幻想郷では妖怪が平和ボケするようになって久しいが、強者とはそんな時代においてもなお、妖怪としての本分を忘れることのない、確固たる自己を持つ者のことをいう。ヤマメは血の滲むような特訓の日々を経て、それを理解したのである。
「さしずめあれは、何かを使って、無理やり力を引き出したってところかな」
目の前の人狼の異形は、白狼天狗という幻想により近づいた証拠だ。それにしたって姿形まで変わるのは行き過ぎだが。
陽は何かを口に含みながら怨霊を取り込んだ。謎めいていた“怨霊憑き”の正体が、いよいよ見えてきた。
「まったく、楽して強くなったつもりかもしれないけどね。そういうのって、後で必ずツケ払わされるもんなんだよ、“怨霊憑き”」
言いながら立ち上がると、ヤマメは腰元で両手を広げて、そっと目を閉じる。
戦闘の真っ最中にも関わらず、あまりに無防備な態勢になった獲物を、人狼が見逃すはずも無かった。獰猛な叫び声をあげながら人狼が距離を詰めてきても、ヤマメは動かない。が、人狼は一瞬、足を止めそうになった。
突然ヤマメの周りだけで風が吹いているかのように、彼女の髪が、衣服が、激しくなびき出した。獲物の不可解な様子に、それでも人狼は構うことなく突っ込んできた。ヤマメはまだ目を閉じて佇んでいる。そして薙ぐように振り出された爪が、ヤマメに届くかというその瞬間、ヤマメはカッと目を見開いた。
纏っていた風は暴力的に膨れ上がって嵐となり、近づいてきた人狼を一気に吹き飛ばす。思わぬ反撃に合い、毛むくじゃらの顔を歪めながら立ち上がると、獲物の様子は一変していた。
「なに……!?」
結んでいたリボンが弾け、くすんだ短めの金髪は、風に流されるままになっている。人狼を見据える瞳は紫色に妖しく輝き、その全身に、紫煙のように揺らめく妖気を纏っていた。姿形はほとんど変わらないのに、存在の密度が先ほどまでとは比べ物にならないほどに上がっていた。
裡に秘められた土蜘蛛という幻想を見つめ、己が魔性を解放する。これこそが、喧嘩の域を越えた戦闘をするための、ヤマメの本気だった。
ヤマメが顔の横で妖気を振り払うように右の手首を振ると、本能的に畏れを感じ取ったのか、人狼は一歩後ずさった。しかしヤマメはその後退を咎めるように、左手の人差し指を人狼に突きつける。
この地底を泣かせる者は決して逃がさない――。
誰にも切れないその意思を込め、地の底に巣食う病巣に“はぐれ蜘蛛”が投げかけ続ける言葉。
「さあ、お前の罪を数えろ」
都を荒らしまわったこと、地底の住人に不安の影をもたらしたこと、何よりも、風子を泣かせたこと。
復讐などという大義名分を掲げたところで、自らの行為が正当化されるはずのないことを、きっちりわからせる。聞く耳持たぬのなら、体に叩き込むまでだ。
「行くよ」
初めてヤマメが攻勢に打って出る。突き出していた左手と、その反対の手の両方を使って、糸を吐き出した。それぞれの五指から繰り出された十本の糸は、縦横無尽の軌道を描きながら、人狼に向かって突っ走る。
「ガ、アァァァァァァッ!」
自らを奮い立たせるようにおぞましい雄叫びをあげ、人狼は襲い掛かってくる糸を爪で薙ぎ払う。何本かは切り落とされたが、残る数本が意思を持つように、振るった腕に絡みついた。引きはがそうとするも、粘るような糸は恐るべき頑丈さで人狼の腕を掴んで離さない。その隙を見逃すほど、今のヤマメは甘くはなかった。
「こんのっ!」
ヤマメが叫ぶと同時、人狼の足が地から離れる。重力が無くなるような感覚を覚えたのも一瞬、そのまま崖の岩肌に叩き付けられた。
投げ飛ばした人狼の体が落下しきるのも待たず、ヤマメは妖力弾を撃ちながら一気に距離を詰めにかかる。しかし甘くないのは人狼も同じだった。
落下している最中にも関わらず、猫のようなバランス感覚で態勢を整え、ヤマメの撃った妖力弾を尽く弾いていく。そして着地と同時、ヤマメの放った右拳に合わせるように、自らの腕を突き出してきた。
「――くっ!」
「グ、ヌ……!」
互いに紙一重で攻撃をかわし合い、人狼は攻撃の勢いのまま、ヤマメの横を走り抜けた。再び距離が空く。
崖を背負ったヤマメは、ちらりと上を仰ぎ見る。人狼をぶつけた箇所には亀裂が走っており、衝撃の大きさを物語っていたのだが。
「なるほど、丈夫なのね」
引きつった笑いと冷や汗が同時にこみ上げる。先ほどの攻撃もきっちり決まると思ったが、相手もさるもの、姿に違わぬ化物ぶりである。しかし、ヤマメはこれまでの攻防で、ある推察を立てていた。
「すごい力ではあるけど……どうやらそんなに戦いが得意ってわけじゃあなさそうだね」
これまでの攻撃は、力任せに爪を突き出す、あるいは薙ぐ。そのどちらかだった。当たれば当然ただでは済まないだろうが、単調な攻撃は、どれほどのスピードで繰り出されようと、見切るのは難しいことではない。
それに鬼からはあれほど逃げ回っていながら、実際に対峙しているこちらの手を警戒することなく、無闇に突っ込んでくるのも、ヤマメの予想を裏付けていた。臆病であるのに慎重さに欠けている。突然己が身に降って湧いた力に溺れていると同時に、見た目小娘であるヤマメを侮っている証拠だ。
「上ではさぞかし安穏と生きてたんだろうに。馬鹿やっちゃったね」
そのような相手に警戒はともかく、無闇に恐怖を感じる必要はない。ヤマメは意を決したように、どっしりと身構えた。
対する人狼も今度こそ爪を突きたててやろうと、ヤマメを狙って飛びかかってくる。
――芸のない。
攻撃を待ち構えていたヤマメは、顔面に向かって一直線に繰り出された突きを、引きつけるようにしてかわす。頬をかすめ、血が飛び、岩壁が崩れる音がしたが、ヤマメは動じない。
「さっきのお返し!」
左足で地面を踏み抜き、人狼の分厚い胸元に紫色の妖力を纏った肘を叩き込む。相手の勢いも利用したカウンターは、今度こそ着実にダメージを与えたようで、たまらず人狼がよろける。この機は逃す手はなく、ヤマメはすぐさま追撃に入る。
「もういっちょ!」
相手と入れ替わる形になったヤマメは大きく飛び上がって、正面の岩肌に糸を放ち貼り付ける。そして振り子の要領で加速し、人狼の後頭部に強烈な両足蹴りを見舞った。人狼の巨体は、めり込まんばかりの衝撃とともに崖へと突っ込む。
人狼の頭を踏み台にし、宙返りしながら着地する。手ごたえはあったが、しかし人狼は崩れた岩肌を押しのけて、のっそりと立ち上がる。桁外れのタフさにいっそ呆れたが、上等。倒れるまでいくらでも付き合ってやると、ヤマメは大きく息を吐いた。紫色の瞳は薄く細められ、普段の陽気な彼女からは想像もつかない、静かな鋭さを伴っている。
だが人狼はそれ以上に、異様な目つきでヤマメを睨んでいた。
「小娘がぁ……!」
それなりに肝の据わった者ですら震えあがりそうな、凄まじい形相。だがヤマメは見抜いていた。あれは、ケダモノが追い詰められた時に見せる表情であることを。
ヤマメはだらりと腕を下げて構えを解く。そしてあえて挑発するように、不敵に笑いかけた。
「獲物に噛みつかれて怒っちゃったかな? お生憎様、あんたが蜘蛛を食おうとしたって、逆に巣にかかるのがオチだよ」
牙をむき出しにして憎々しげに唸っていた人狼の怒りは、ヤマメの挑発によってついに爆発した。辺りの空気を震わせるほどの雄叫びを上げ、今度こそヤマメを食いちぎろうと、大口を開けて突進してくる。が、
「こんな風に、ね!」
そう言いながら腕を引くと、人狼はガクンと糸に足をとられ、地面に背中から倒れ込みそうになる。だがそれすらもヤマメは許さなかった。倒れかかった体は、いつの間にか張り巡らされた巨大な蜘蛛の巣に突っ込み、人狼の四肢をさらに伸びてきた糸が絡みつく。あっという間に、人狼の巨体は十字に張り付けられるように、蜘蛛の巣に拘束された。
それらはヤマメの挑発に人狼が気を取られている隙を狙って、密かに仕掛けてあったものだった。冷静さを失ったケダモノが、巧妙に隠された細い糸に気づけるはずもない。
「そんじゃ、ちょっと神妙にしてもらおうか、“怨霊憑き”」
懐から、符を取り出す。それも弾幕決闘で使うようなただの紙切れではなく、戦闘用に力を封じてある特別性だ。
符を天高く放り投げると、紫色に淡く輝く光の粒子が符を包んだ。秘めた力を解放することで、ヤマメの妖力が一瞬、さらに膨れ上がる。ざあっ、とヤマメの金髪が激しくなびいた。
照準を付けるように左手を突き出すと、背負った妖力は蜘蛛の足を象った八本のレーザーと化す。ただならぬ気配を察して人狼がもがくが、全身に纏わりつく強固な糸から逃れる術はない。もはや人狼は、蜘蛛の巣にかかった哀れな獲物でしかなかった。
「――これで決まりだ」
突き出した手を握り込むと、それを合図として、八本足のレーザーが次々に人狼の巨体へ突き刺さった。容赦のない攻撃が巣ごと人狼を吹き飛ばし、幾度も地面で跳ねた後、その体はようやく動きを止めた。
ヤマメは残心のようにしばらく構えを解かないままでいたが、人狼はもう起き上がってくることはなかった。
「ふぃー……。やれやれ」
張っていた気を緩めるように息をつく。妖しく輝いていた瞳の色は元に戻り、纏っていた妖気も霧散していった。
予備のリボンを取り出して、髪を留める。戦闘の度にリボンがおじゃんになるのはどうにかならないものかと、そんな緊張感のないことを考えていると、倒れ伏した人狼の体に変化があった。全身から取り込まれていた怨霊が次々と飛び出ては弾け、そのまま空気に溶けていく。それに伴い、陽の体も化物じみた人狼から、元の姿である白狼天狗へと戻っていった。これまた異様な光景ではあったが、もう動じない。化物に変化するのと比べれば可愛いものである。
ヤマメはもう一度ため息をつきながら、頭を掻いた。まだ後処理が残っているが、とりあえずは陽の身柄を鬼に差し出せば、事件も一区切りつくと思っていいだろう。
「これから散々、鬼の方々に絞られるんだろうなあ。お気の毒さま」
同情はしないが、手だけは合わせておく。寝てる間に糸で拘束しようと、ヤマメは陽に近づこうとしたが。
「……?」
不意に、頬を撫でる風を感じた。
はてと思った次の瞬間、凄まじい勢いで突風が吹いた。辺りの木々がしなるように揺れ、戦闘で砕けた石くれが転がる。
「なっ、なんだあ!?」
立っているのがやっとなほどの強風に混乱していると、強風はやがて局所的な竜巻となり、辺りのがれきや砂ぼこりを舞い上げ始める。もはや目を開けることも出来なくなったヤマメは、竜巻に巻き込まれないように我が身を守るだけで精いっぱいだった。
「……くっ!」
なんとか安全圏には退避できたが、よしと出来るはずはない。中の様子は見えないが、あの竜巻はちょうど陽が倒れていた場所を完全に飲みこんでしまっていた。安易に近づくことも出来ず、ただ歯噛みするしかない。その間も竜巻は、轟音を立てながら暴虐の限りを尽くしていた。
「陽さん!」
やがて竜巻が収まっていくと、すぐにヤマメは元の場所に駆け寄った。が、転がっているのはがれきだけで、倒れていたはずの白狼天狗の姿は、影も形も残っていなかった。今や辺りは静寂を取り戻し、戦闘によって荒らされたこの場所は、本来沁みこませていた寂しげな雰囲気をより深めたようだった。
ヤマメは、呆然と立ち尽くすしかなかった。
「……何なんだよ、これ」
思わず呟く。そうするとどっと疲れが押し寄せてきて、地べたにへたりこんだ。
一体何が? 陽はどこへ消えた? あの竜巻は何だったのか?
事件は解決に向かうとばかり思われたのに、次から次へと疑問が湧いてくる。しかし答えがわかるわけもない。全てが振り出しに戻ったような気分だった。
しばらくそうしていたが、やがて弾かれるように立ち上がる。
「そうだ、風子さん!」
まだ彼女の無事を確認できていない。上手く逃げおおせたとは思うが、あの竜巻の後ではそんな悠長なことは言っていられない。
「くそっ、こんなんだから半人前って言われるんだ……!」
必死になって探すものの、風子の姿はどこにも見当たらない。
まさか竜巻に巻き込まれて?
最悪の事態が思い浮かんでヤマメの焦りが頂点になりかけた頃、遠くで声がした。声の出所は、ヤマメが風子と歩いてきた道の方向からだった。
「ヤマメさん、御無事ですか!」
意外なほどの速さで空を飛んできたのは、他ならぬ風子だった。彼女は背に自身の長髪と同じ、墨で塗りつぶしたように真っ黒な翼を広げていた。その姿を認めてヤマメは、安心して大きく息を吐く。
「私はこの通りピンピンしてるよ」
「そうですか、良かった……」
「私のことよりも貴方だよ。一体どこに行ってたのさ。戦いに巻き込まれたんじゃないかって、心配してたんだよ」
ビクっと風子の肩が跳ねたのを見て、ヤマメは知らず詰問するようになっていることに気がついた。
「ごめん。ちょっと今余裕なくて」
「い、いえ、お気になさらず。でも、どうかされたんですか?」
「うん、まあ、それはこれから話すけど……。でも、本当に今までどこに?」
「あ、はい。このままではヤマメさんが危ないと思いまして。あの後急いで自警団の皆さんのところへ飛んでったんです。こう見えて、飛行速度には自信がありますので」
落ち着いてみれば、翼をしまった風子の方も息を切らし、長く伸びた黒髪も乱れているという有様だった。風子は風子で必死だったのだ。
それに、風子としては自警団の介入は避けたかったことのはずだ。それを曲げて、ヤマメのために動いてくれたのである。感謝こそすれ、怒るのは筋違いだった。
「応援が来ることを一刻も早く知らせようと、先に飛んできたのですが……」
「ああ……そりゃあ本当に世話かけちゃったね。貴方は依頼人なのに申し訳ない」
「いえそんな……あ、鬼の方々も追いつかれたようですね」
見ると、先刻一緒にお茶をした鬼たちが、慌てた様子でこちらに来た。体を気遣う言葉に、ヤマメは苦笑いを浮かべながら手をヒラヒラさせた。双方の無事を確認できて落ち着いたところへ、「あの……」と、風子が躊躇いがちに口を開いた。
「それで……陽は、どうなったんでしょうか……?」
風子の問いに、事情はまだ聴いていないのか、鬼たちが首を傾け合う。ヤマメは、答えられなかった。まだわからないことだらけだったが、陽の辿った運命だけは、嫌でも察しがついた。それを風子に伝えるのは、そうはいかないとは理解していても、どうしてもはばかられた。
「ヤマメさん……?」
「ヤマメちゃん、本当に大丈夫なのか? えらく疲れた顔しているが」
それでも、いつまでもこうして無為に時間を過ごす訳にもいかない。皆に頷いて、言った。
「詰所を借りられるかな。できたらそこで報告したい」
「ああ、もちろんだ。大至急、お頭にも連絡する」
「ありがとうございます。それと、風子さん」
水を向けられた風子は、ヤマメの真剣な表情で何かを察したのか、さあっと顔が青くなった。
「貴方も一緒に来てくれないかな。その……辛い話になるかもしれないけど」
風子は、返事をしようとして、しかし息を飲みこむしかできなかった。無理を言ってしまったかと思ったが、それでも風子は頷いた。やはり芯は気丈な娘だったが、今はそれも沈痛さを感じさせるものでしかなかった。
鬼たちも漠然と察したか、ことさら風子を気遣うようにして、詰所までの同行を促した。
「……」
天を仰いでみても見えるのは空ではなく、夜のように暗い、地の底の天井。上ならもう一番星が見えるころだろうか。
地の底を泣かす者は打ち倒した。そのはずなのに、事件を解決するたびに湧き上がるほのかな達成感は、微塵もヤマメの胸を満たさないのだった。
決着の戦場となったこの場所を見渡しても、ここにあるのはうすら寒くなるような空虚さだけ。本当に、風子はよくもこんな寂しい所で独り生きていけるものだ。そんなことを考えていると、
「……ん?」
ヤマメは、地面に散らばったがれきの中に、場違いなものが紛れているのに気がついた。
手に取ってみるとそれは、大きく、真っ白な、鳥の羽だった。
***
翌日。
西区を流れる川の岸で、白狼天狗が遺体となって発見された。
無論、これで事件は解決したと楽観する者は、一人としていなかった。
自分の中に、これほどまでに強い復讐心がくすぶっていたとは思わなかった。
いや、そうではない。
蜃気楼のように儚い希望にすがって、自分を騙していただけだ。希望を否定する周りの声に耳を塞ぎ、心の裡で黒々と渦巻く醜悪な感情から目を背ける。
そんなことに、生の大部分を費やしてきた。実に不毛で、無価値な人生だった。
そして希望はあっけなく壊れた。生きる寄る辺にしていたものを失い、後に残ったものはただ一つ。自らの奥底で沸き立つ暗い感情から目を背けるのを止め、そして自身の望みを遂げる手段を得た時、未来さえも捨て去った。
――復讐だ。
自分たちのささやかな幸せさえ許さず、人生を蹂躙し尽くした者たちへ、憎悪の牙を突きたてる。
元より禊ぎ切れない罪なら、どれだけ重ねても同じこと。
地獄も閻魔も、もう怖くはなかった。
1.
「これはまた……」
都の安酒場が破壊されたという一報を聞きつけ、黒谷ヤマメはいち早く現場に駆けつけていた。
周囲を野次馬が取り囲み、この事件について口々に噂をしあっている。地底の秩序を司る鬼達はせわしなく動き周り、現場の状況の整理に躍起になっていた。
改めて、崩落した建物に目を向ける。地底、特にこのような酒場では喧嘩沙汰は日常茶飯事であり、建物の一角が破損する程度の被害は格別珍しいことではない。店主の頭痛の種にはなるものの、大抵の者は「地底にはよくあることだししょうがない」で済ましてしまう。
そんな気っ風が吹く地底の都においてなお、この建物の惨状は異常と言わざるを得なかった。
まず、三十センチメートルを越えるがれきが、一つとしてなかった。そして、店の調度品、品物、その他店に存在していたもの全てが壊されていた。小さな杯一つまで例外無く、である。
妖怪の胆力であれば、破壊自体は難しいことでもないかもしれないが、ここまで徹底しているとなると話は別である。
「よっぽど鬱憤でも溜まってたのかねえ、いやはや」
「ふざけんな。憂さ晴らしでいちいち店まるごと潰されちゃあ、こっちは商売あがったりだ」
「おっしゃる通りで……おっ」
ヤマメと破壊された店の主が残骸を弄くり回しているところへ、男が近づいてきた。
二メートルをゆうに越える、巌のように隆々とした肉体に法被を無造作に引っかけ、下駄で大地を踏みならすように歩く。精悍な顔つきは平時よりさらに引き締められ、見る者が見れば修羅を連想するかもしれない。
事実、彼は鬼だった。そして地底の秩序を司る鬼たちを取り仕切る鬼の四天王が一人、星熊勇儀の片腕でもある。
彼は鋭い目つきでヤマメを認めると、もともと厳めしい面構えをいっそうしかめてみせた。ヤマメは手にしていたがれきを放り投げ、明るい笑顔で鬼を迎える。
「やあ、左の旦那」
左。
それがこの鬼の通り名である。誰が最初にそう呼んだか、星熊勇儀の忠実な手下である実力者を、伝説の役行者に従った“前鬼・後鬼”になぞらえ、こう称した。次第に地底の住民や星熊勇儀、そして彼自身にもこの呼び名は定着し、今や星熊の“左”という鬼を知らぬ者はなかった。
「またお前か、黒谷」
嘆息するように吐き捨てる左に、ヒラヒラと手を振りながらヤマメは応えた。
「まあまあ、そう邪険にしないでおくれよ。私たちの仲じゃないか」
「たわ言を。……相変わらず耳が早いな」
「そりゃあね。蜘蛛の糸は、至る所に張り巡らされているのさ」
「ふん。わかってると思うが、邪魔になるようならつまみ出すぞ」
「あいあい」
いかにも気安い返事をよこすヤマメをそれ以上追求しようとはせず、左は自らも現場検証に乗り出した。破片を手にとって、眉をひそめる。鬼の彼にとっても、この破壊の仕方は尋常ではないものに映る。が、それ以上に、
「どう? 同じでしょ」
ヤマメがそう言うと、左は腕を組んで唸りだした。
「さすがの地底でも、ここまでしでかすバカはそういない。むしろこの薄気味悪いほどの念の入れ用は、地底のやり方とは真逆だ。旦那、間違いなくこいつは」
「これで三件目、だな」
左の結論は、この場にいる誰もが容易に知れるところだった。
それというのも地底では、今回と非常に似通った破壊事件が立て続けに起こっていた。一件目は宿場、次いで露天市、そのいずれもが、戦場跡のような有様に変えられていたのである。
そしてなによりも、この一連の事件で際だっている特徴がある。
「“怨霊憑き”だよ、くそったれ」
店主が吐き捨てるように言い、ヤマメと左が顔を見合わせる。
「くだらん与太話だと思ってたが、この目で見ちまったもんはしょうがねえ。あのイカレた見た目と暴れっぷり、てめえら鬼どもが可愛く見えるってもんだ」
「良かったね旦那、褒められてるよ」
余計な茶々を入れたヤマメの頭がはたかれる。左にとっては撫でたようなものだが、そこは鬼の胆力である。
「“怨霊憑き”……また怪談じみた呼び名がついたものだが」
「けっ、俺たちが言うことじゃねえだろ」
「それに旦那、こいつは怪談なんかじゃないよ」
涙目で頭をさすりながら、ヤマメが口を挟んだ。
「店主以外にも、その場にいた客がみんな見たって証言してる。中には怨霊憑きを見たのは、これが初めてじゃないってふれ回る奴もいる始末さ」
ヤマメの情報を聞き、いよいよ左は顔つきを厳しくする。
「三度目ともなると、嫌でも信憑性が出てきてしまうな。面倒なことだ」
「でもこれで安心したでしょ。怪談と違って、どうやら腕っ節に任せられる相手みたいだよ」
「拳の振り上げ先が見あたればの話だがな。奴さん、俺たち鬼にはどうあっても尻尾をつかませない腹積もりらしい」
“怨霊憑き”の所行は、いずれも鬼の目が無いところでなされていた。彼らもただ手をあぐねているわけではなく、見回りを強化する等の対策を講じてはいる。しかしそれをあざ笑うかのように発生した今回の事件。鬼たちの努力もむなしく、後手に回っていると言わざるを得ないのが現状であった。
「“怨霊憑き”とか言われる割に、ずいぶんと理性的に行動してるね。もしかしたら本能レベルで鬼にビビってるのかもしれないけど」
「面倒というのはそこのところだ。店主の言うとおりイカレてて、なおかつ頭が回る。これほどタチの悪いものもなかなかない。さて、どうしたものか」
元々鬼たちで結成された自警団の捜査能力自体は、武力に比してそれほど高くはない。鬼の力は一騎当千、目の前で喧嘩が起こっていれば、たとえ何十人暴れまわっていようと、それこそ片手で数えられるほどの人数で鎮圧できる。だが今回のようなケースの場合、聞き込みを始めとする基本的な対応しか出来ないため、鬼の強みを充分に発揮できないのである。
「そういえば旦那、この前回覧板に“地底の住人に聞いたやりたくないことランキング”が載ってたんだけどさ」
「いきなり何の話だ」
「見事一位に輝いたのは“自警団”でした」
「……」
「ちなみに一番多かった理由は“地味だから”だそうで」
渋面を作った左が辺りを見回す。がれきの撤去作業を続けていた鬼たちが、バツの悪そうに顔を背けた。自警団という職務に誇りは持ちつつも、地味なのは否めないらしい。
「まあまあ落ち込むなよ旦那」
「落ち込んでなどいない」
「餅は餅屋って言葉があるようにさ、物事には向き不向きってものがある。そこで、だ」
片目を閉じて不敵に笑い、ヤマメが満を持したように言った。
「ここはこの、“はぐれ蜘蛛”の出番じゃない?」
左は応えず、ただその鋭い目つきで土蜘蛛の少女を睨む。
左にとってこの展開は、ここでヤマメの姿を目にした時から予想出来たものだった。確かにこの手の事件には、鬼よりもこの土蜘蛛の力のほうが向いているのは、左も認めるところである。
一方で、鬼には誇りがある。自分たちが地底の治安を取り仕切っているという、自負がある。それは傲慢さというよりも妖怪の頂点に立つ種族としての、一種の責務である。少なくとも彼ら自身はそう思っていた。それゆえ、事件の解決に他の種族の手を借りるという選択肢は、左としてもそう簡単にとれるものではない。彼には自警団の長という立場があるし、何よりも今回は鬼の面子が潰されているのである。
「いいだろう」
しかし彼はそれ以上に、実際的かつ合理的思考の持ち主だった。
「情報は常に共有、俺たちの邪魔はしない。これが条件だ」
「もちろんさ。さすが旦那、話がわかるね」
「どうせ動くなと言っても聞かないだろう、お前は」
「私のこともわかってるね。そんな旦那が大好きだよ、チューしてあげよっか」
「前言撤回されたいのか、阿呆が」
「ウソウソごめんなさい許してください」
結果のためには時として面子さえもかなぐり捨てる。そんな鬼には似つかわしくない行動理念をもった彼だったからこそ、星熊勇儀は左を片腕に添えたのかもしれない。
「そんじゃま、うるさがたの許可も下りたことだし、早速始めるとするかね」
「誰がうるさがただ。……当てはあるのか」
「どうとでもするさ。じゃあね旦那、何かわかったら連絡するよ」
「黒谷」
身を翻して現場を去ろうとするヤマメの背に、左が呼びかけた。
「無理はせず、荒事は極力避けろ。お前の話ではないが、そういうのは俺たち向きだ」
ヤマメが振り返って、左の顔を見つめる。相変わらず泣く子はもっと泣きそうな強面だったが、ヤマメは笑みを零してヒラヒラと手を振りながら、地底の街へ消えていった。
「……」
後に残された左は、腕を組んでため息を一つ。憂いを帯びたお頭の様子を、手下たちは不思議そうに眺めていた。
2.
地底の土蜘蛛、黒谷ヤマメは“はぐれ蜘蛛”である。
これは自分も含めた地底の住人の共通認識だった。
東に暴力沙汰の事件ありと聞かば鬼に混じって鉄火場に飛び込み、西に失せ物探す人あらば手下の蜘蛛を率いて地底中を駆け回る。
現在のヤマメは、性格はかなり違うがあえて言うなら、地上の外の世界における“警察”や“探偵”のような役割を生業としている。最近はそんなヤマメの評判を聞いて、彼女に事件の解決を依頼しにくる者もいるほどであった。
現在のヤマメの在り方は、元来ひっそりと生活を営む土蜘蛛の気質からすれば、異端ともいうべきものである。病を操るという強力な能力を含めても、土蜘蛛は戦闘が得意な種族ではなく、そもそも厄介事に首を突っ込むような輩は、お人好しの物好きと囁かれた。
地底の秩序を司る鬼、同族の土蜘蛛、その両方から独立した存在。
故に誰が呼んだか“はぐれ蜘蛛”。
ヤマメも性格こそ明るいものの、気ままに生きるだけで、人助けのようなものとはほとんど無縁だった。
彼女がいつから人が変わったように、地底で起こる事件と積極的に関わるようになったのか。それを知らぬ者は首を傾け、時には彼女の変貌ぶりを笑い話の種にした。ヤマメ自身、具体的なことは何も語ろうとせず、彼らの話に笑いながら適当に相づちをうつだけだった。
ともあれ、因果の糸は複雑に絡み合いながらも現在に紡がれ。
黒谷ヤマメは、“はぐれ蜘蛛”として地の底を渡り歩いていた。
***
今後の行動についての指針をまとめるため、ヤマメは住処である洞穴に戻っていた。
ランプの灯をつけると、ぼうっと、鈍い光が洞穴内を照らし出す。人間には薄暗く感じるだろうが、地の底に生きる妖怪たちには、このくらいの明るさで十分である。
やかんを火に掛けて、ヤマメはふと、自室を見渡した。この光景も、もうそろそろ見慣れた頃だった。
以前は必要最低限のものしか置いていない殺風景な部屋だったが、彼女の現状に合わせて少しばかり手が加えられていた。そこらへんで拾ってきたボロの机と椅子は自分用として使い、新たに簡素ながらも丁寧な仕事で作られたテーブル、木製のベンチに座布団を敷いた、ソファのようなものを設置した。いずれもヤマメ手製のものである。土木作業が得意な土蜘蛛にとって、これくらいの工作はお手のものだ。他にも観葉植物や書類棚を置いてみたりして、雰囲気作りに努めている。
これらの改造は、すべて“はぐれ蜘蛛”として人を出迎えることを前提としたものである。知り合いならともかく、身も知らぬ客人を招くことなど、現在の稼業を始める以前のヤマメにはなかったことだった。住居の雰囲気は大きく変わってしまったが、ヤマメは事務所然とした現在の我が家も、これはこれで気に入っていた。
「妖怪でも、変わるもんだ」
そうひとりごちながら、やかんに掛けた火を消す。変わってしまったきっかけを考えると、この稼業を営むことが正しいことなのか、今でもわからないでいる。知り合いからは妙な目で見られるし、“はぐれ蜘蛛”という通り名にも、未だにむず痒さを感じている。
しかし自分のような小回りの利く存在が、地底に一人くらいいても困らないはずだとも、ヤマメは自負していた。事実、ヤマメが本格的にこの稼業を始めてからというものの、事務所に閑古鳥が鳴いて、飯のタネに困るということはなかったのだった。
茶を淹れたヤマメは机に向かい、万年筆を手に取りメモ帳を睨んでいた。調書を作って事件の要旨を視覚化させ、少しでも効率化を図ろうという、素人探偵ヤマメなりの工夫である。
破壊事件をキーワードとして中心に据え、あとは思いつくまま、関連しそうな言葉を並べていく。常軌を逸した破壊、鬼の居ぬ間の犯行、そして、“怨霊憑き”。
他にも適当に書き進め、蜘蛛の巣のように言葉が張り巡らされた、雑多な覚書がとりあえず出来上がる。それを眺めながらヤマメが唸っていると、
「精が出るようだね、ヤマメちゃん」
いつからそこにあったのか、小さな桶がソファに乗っていた。桶からは小さく可愛らしい童女の顔が、ちょこんと飛び出ている。もっともヤマメをからかうようなその表情からは、不自然なほどに幼さというものを感じさせない。
ヤマメは呼びかけのする方へ顔を向けようともせず、メモと睨めっこしながら言った。
「茶菓子なら出せないよ、キスメさん」
ぞんざいなヤマメの対応にも、キスメと呼ばれた娘は気を悪くした様子を見せず、むしろいっそう愉快そうにからかいの色を深めた。
「あらま、気の利いてないこと。天下の“はぐれ蜘蛛”の名が泣くよ」
「いや、買い置きしといた分まであんたが昨日全部食べちゃったんじゃないか。あと、天下取ってたのは私じゃないよ」
「そうだっけ?」
「そうだよ。とうとうボケたか、キスメさん」
「うんうん。ちゃんとツッコみ入れてくれて嬉しいよ、ヤマメちゃん」
「そういう意味じゃなくて……あーもういいや」
けきゃきゃきゃと奇怪な笑い声をあげる桶の中の少女、キスメは、釣瓶落としの妖怪である。
見た目は童女そのものだが、実際は地底に住む住人の中でも最古参にあたる、ヤマメから見れば大先輩とも言うべき存在である。少女の無邪気さと年長者の老獪さを併せ持つ彼女は、地底の住人から、左とはまた違う意味での畏怖と尊敬の目を向けられていた。「昔はブイブイ言わしたもんだ」とはキスメの口癖だが(お年寄りの決まり文句でもある)、今はなぜかヤマメにちょっかいを出すのに精を出しているのだった。
厄介な先輩の人を食った物言いにため息をつきながら、ヤマメはようやくキスメに向かい合った。
「この前回覧板に、地底の住人に聞いた“敵に回したくない性格の悪そうな人物ランキング”が載ってたんだけどさ」
「あのランキングは、なぜそんなネガティブなテーマばかり取り上げるんだろうね」
「地底の回覧板だしそこはしょうがない。で、キスメさんは見事第二位につけていたよ」
「はあ!? 一位じゃないの!?」
「ええ……? そこはトップを回避したのを喜ぶところなんじゃ」
「何バカなこと言ってんだい! この私が性格の悪さで誰かに遅れを取るとかあり得ないよ! わざわざ自分で投票してダブルパンチまで狙ってたのに!」
「あんたいい年して何やってんの」
「ぐぬぬ……で、この私を差し置いたのはどこの馬の骨よ」
「馬の骨って。いや、大方の予想通り姫さんだったよ。ちなみにダブルスコアね」
「きぃー! やっぱりあの嫉妬バカかー!」
桶をソファの上で揺らしながら、キスメが悔しそうに叫んだ。ソファが痛むのでおとなしくして欲しいところだが、ヤマメは何も言わない。注意しても無意味なのはわかりきっている。
「まあまあキスメさん。たかが回覧板の娯楽だ、そう荒れなさんな」
代わりにヤマメは、キスメを慰めてご機嫌をとることにした。面倒な年長者には適当に話を合わせるに限る。
「青いねヤマメちゃん。娯楽こそ本気で打ち込んでなんぼなのよ」
「その結果が自演かい。しかしあれだよ、姫さんは現役バリバリで人の心へし折ってるけど、キスメさんは最近地底じゃおとなしいからね」
「ふん、まあそれはそうかもね。せいぜい茶屋の屋根ぶち破って団子拝借するくらいだし」
「私に言わせればそれも大概だけど。それに、今やキスメさんの見た目に騙される奴なんか地底にはいないでしょ」
「ふふん、昔は私のかわゆさにころっとやられたバカな紳士たちが、大勢いたもんだけどね。あの頃が懐かしいよまったく」
「ロリコンがたくさんいたってことか。なんて嫌な時代なの」
「そうじゃない。私の可愛さは性癖を越えた普遍性を備えているのさ。うふん、私ってば罪な女」
「どちらかといえば、罪深いのはその有象無象の紳士どもの方だと思う」
ヤマメが持ち上げるまでも無く、勝手にキスメは上機嫌になっていた。奇怪な笑い声をあげて自分の全盛期を誇るキスメを見て、とりあえずソファの安全は守られたと安堵しながら、ヤマメは茶をすすった。
「そうそう、それで」
ひとしきり武勇伝を並べて満足したのか、キスメは小さな手でヤマメの持つ覚書を指しながら言った。
「また妙なことに首を突っ込んでいるみたいだね。飽きもせず懲りもせず」
覚書を机に置いてボロ椅子に体を深く埋めながら、ヤマメはキスメの表情を窺った。先ほどの上機嫌な笑顔とはまた違う、人を嘲るかのようないやらしい笑みだった。ヤマメはまぶたを揉みながらため息をつく。この表情を浮かべるときのキスメは、本当に面倒くさいのだ。口火を切るために喉を潤そうと湯飲みを傾けると、中身が空になっていた。仕方なく覚書を手にして立ち上がり、やかんを火に掛け直す。
「まあね。キスメさんも知ってるだろう。例の連続破壊事件」
「ああ、“怨霊憑き”の仕業とかいう。しっかし、センスのかけらもない呼び名だ」
「呼び名はともかく、また起きたんだよ。さっき現場覗いてきたけど、そりゃもうひどい有様だった」
「やれやれ、鬼どもがあんだけ雁首揃えても防げなかったのかい。奴らも舐められたもんね」
「逆だよ。犯人は鬼の方々を最大限に警戒してる。噂の“怨霊憑き”も、鬼との対面だけは避けたいみたいだね」
ヤマメは覚書の一部分を指で叩きながら続ける。
「だからこそ、左の旦那も頭を痛めてるんだ。戦えば勝てるだろうけど、相手にその気はない。圧倒的な強さが仇になった形だね。だから事件の解決には、戦闘以外のアプローチが必要になるわけだけど……」
「ふふん、なるほど。左はまあ別にしても、鬼に頭脳労働を期待してもしょうがない、か」
「そこまでは言ってないけどね。でも、不得意な分野はカバーしあったほうが早い。地底の住人は助け合いでしょ」
「助け合い、ね。それで、ヤマメちゃんが?」
意味ありげに目を細めて笑うキスメの問いに、ヤマメは答えない。キスメと自分の分の茶をテーブルに置いて、ヤマメはキスメの対面のソファに腰を下ろす。茶菓子が出てこないことへの文句は無視した。キスメは自分の手には少し大きい湯飲みを持ちながら言った。
「鬼どもがお手上げになって、次にお鉢が回ってくるのがヤマメちゃんとはね。いやはや、本当に妙な時代だよ」
「あんまりいじめないでくれよ、キスメさん」
にやにや笑いを浮かべるキスメのネチネチとした物言いに、ヤマメは肩をすくめながら苦笑した。
「別に鬼たちに泣きつかれたってわけじゃないさ。私が勝手に首を突っ込んでるだけ」
「勝手にね。ま、今さらそこをどうこう言う気はないけど」
「そうしてくれるとありがたい。ああ、勝手にとは言ったけど、旦那の許可は得てるよ。ほら、ギブアンドテイクってやつさ」
「ふうん。本当に奴はヤマメちゃんに甘いね。よほど弟子が可愛いと見える」
「はぁ? 旦那が? ないわー、いくらキスメさんの言うことでもそれはないわー」
ヤマメは呆れたように首を振った。あの鬼を甘いと評すのは、地霊殿の主を愛嬌の塊と言うようなものである。世話になっているのには違いないが、それにしてもキスメの物言いは的外れもいいところだ。日頃の仕返しも兼ねて、「キスメさんも耄碌したもんだ」と言ってやった。湯飲みが正面から飛んできた。顔に衝撃を感じるのと同時、熱々のお茶を頭から被って、ヤマメは阿鼻叫喚の体である。落ち着いた雰囲気を演出するのに苦心したヤマメの事務所に、しばしヤマメの絶叫とキスメの奇怪な笑い声が広がった。
「前言撤回。キスメさん、あんたまだまだ現役でやってけるよ。私が保証する」
「けきゃきゃきゃ。君に言われなくとも、このキスメさんは最初から最後までクライマックスだよ」
「今度同じようなアンケートがきたら、絶対キスメさんに投票してやる」
顔を拭きながらヤマメが文句を言ったそのとき、洞穴の入り口に設置したドアが突然叩かれた。ドアが開くとともに、カランカランと、澄んだ音が、控えめに鳴り響く。
「ごめんください」
女の声が、ドアに飾り付けた鐘の音と混じりあう。
ヤマメが顔を向けると、入り口には若い女が所在なさげに立っていた。
「こちらが、“はぐれ蜘蛛”黒谷ヤマメ様の住居と伺ってまいりました」
そう言って頭を下げると、墨で塗りつぶしたように真っ黒な長髪が、雨垂れのように流れる。顔を上げた女の瞳は、ヤマメをまっすぐ見据えていた。その不安定に揺れる輝きを宿した視線は、緩んだ時間の終わりと、事件の始まりを感じさせるに十分な切迫さを伴っていた。
「突然の訪問をお許しください。ですが黒谷様。あなたにぜひとも、地底で起こっている破壊事件についてのお話を聞いてもらいたいのです。そのために、こうして不躾にも押し掛けた次第です」
まるで用意していたように、よどみなく女が言葉を並べる。一見落ち着いているが、ヤマメには逆に余裕の無さの表れのようにも思われた。
ヤマメは手ぬぐいを放り投げて立ち上がる。それを見てキスメが愉快げに目を細めて笑った。
「どうぞこちらへ、お客様」
女を落ち着かせるように、ヤマメはゆったりと声を掛ける。
「ちょうどこれからお茶を淹れ直すところだったんだ。ま、それを飲みながらゆっくりと話を聞こうじゃないか」
そして胸に手を当てて片目をつぶりながら、女を事務所へ招き入れる。こんな芝居じみたキザったらしい所作も、ヤマメがこの稼業を始めてから身に付けたものだった。
「ようこそ、我が巣へ」
3.
女をソファに案内し、ヤマメは対面に座る。キスメはヤマメの仕事ぶりを見物することにしたらしく、ヤマメ専用のボロ机に陣取った。それを見てヤマメは顔をしかめたが、邪魔されるよりはマシかと諦めた。
キスメは放っておくことにして、依頼人の方へと向き直る。改めて見ると、依頼人にはまだあどけなさが残っており、女というより少女といったほうがふさわしく思えた。もっとも、妖怪の歳を見た目で判断などできるはずもないが。暇を持て余して、勝手にヤマメの本を読んでいる釣瓶落としが格好の例である。
しかし年月を重ねた者特有の雰囲気、余裕というものは、やはりどこかしらから滲み出るもので、キスメでさえ、ときたまそれを感じさせた。そこへきて、どうも目の前の少女からはそういったものが見受けられない。先ほど落ち着き払っていたように見えたのも、無理をしていただけなのかもしれない。
お茶をすすめたが、手を付けようとする様子はなく、やはりどこかそわそわしている。早く仕事の話をしたほうがよさそうだった。
「それじゃあ早速だけど、破壊事件のお話を聞こうかな。……ああ、その前に自己紹介しておこうか。そっちは私のこと知ってるみたいだけど、一応ね。私は黒谷ヤマメ。気軽にヤマメちゃんとか呼んでくれればいいよ。で、そっちの置物はキスメさん。こちらも知ってるとは思うけど。ちなみに、当事務所の業務とは一切関係が無い」
気を楽にしてもらおうと、ヤマメは努めて快活にふるまった。仕事以前に、元より気さくで話好きの彼女のこと、こういうことはお手の物である。
置物呼ばわりされたキスメから本が飛んできたが、今度はヤマメも予想していたのか、振り返ることもなくキャッチして見せた。勝ち誇ったような笑みをキスメに向けたその瞬間、間髪入れずに飛んできた第二の本が、顔面に突き刺さった。ヤマメの絶叫、キスメの笑い声、以下、省略。
「だ、大丈夫ですか……?」
「し、心配には及ばないよお嬢さん。プロならこれしきのことではうろたえない」
「はあ……」
とんだ醜態を見せたと、ヤマメは依頼人に詫びたが、少女は控えめながらもクスクスと笑っていた。ヤマメが初めて見る依頼人の笑顔は、やはり少女らしく可愛らしいものだった。
「ごめんなさい。でも、とっても仲がよろしいんですね」
「そう見える? 私としては結構命がけなんだけどね」
「先ほども、とっても楽しそうで。私、入るタイミングを逃してしまいました」
「あれを聞かれてたのか……。恥ってレベルじゃないなあ。いやうんまあ、リラックスしてくれたのなら何よりだ」
「じゃあリラックスできたところで娘、さっさと話を始めなさいな」
「いや、あんたが仕切るなよ」
なぜかキスメが話を促すと、依頼人の少女は茶に手を付け、そして決心したように表情を引き締めて口を開いた。
「わたしは津河風子(つがわふうこ)と申します。都の外れに住む、烏です」
風子と名乗った少女は、事件についての話を細い声で、しかし要領よく語った。
聞けば、一連の破壊事件の現場に全て遭遇しており、その度に“怨霊憑き”も目にしたという。
「三回ともに、ね。偶然で済ませられるギリギリのラインだけど……貴方、ええと、風子さんの顔を見るに、そういうわけじゃないんだね?」
ヤマメの問いに、風子は頷いた。その表情は何かに怯えるように険しく、膝に乗せられた手は固く握られていた。
風子は一つ息をついて、言った。
「破壊事件の犯人は、私のかつての恋人です」
思いもよらぬ風子の言葉に、ヤマメが息を呑み、キスメが興味深げに眼を光らせた。これまで目星もついていなかった下手人の、いきなりの有力な情報である。
「恋人って……それは間違いないの?」
「私も最初に見たときはまさかと思いました。人相も雰囲気も月日の積み重ねだけでは説明がつかないくらい、何かに憑りつかれたように変わっていたし……。でも、今日この目で見て、確信しました。やっぱりあれは陽(よう)……私の恋人だった人に違いありません」
最後は消え入るような声でそう言い切り、風子は俯いてしまった。
「……詳しく聞かせてもらえるかな。その、話し辛いのはわかるけど」
彼女の話が事実だとすると、事件はただの無差別破壊というだけではなくなるかもしれない。動機があるのなら、それは捜査の大きな足がかりとなり得る。
ヤマメが促すと、風子は視線をテーブルに固定したまま、独白するように続きを話し始めた。
「陽と出会った正確な年月ははっきりとは思い出せませんが、確かあれは、博麗大結界が出来てしばらくたった頃だったと思います」
ヤマメは付け焼刃で覚えた、幻想郷の年史を思い返してみた。博麗大結界の形成というと今から百年以上前ということになる。やはり目の前の少女は、見た目以上の年月を重ねているらしい。とてもそうは見えないが、キスメを持ち出すまでも無く、そのあたりは自分にも言えることかもしれない。
「陽は……」
風子は躊躇いがちに言葉を濁した。だがそれも束の間、意を決したように顔を上げた。
「陽は、地上から来た白狼天狗でした」
吐き出すような風子の告白は、ヤマメの言葉を失わせるに十分な衝撃を帯びていた。
「なるほどね、つまりお前と昔の男とやらは」
代わりに口を開いたのはキスメだった。どこか愉快げに、口の端を歪めている。
「そうです。私たちの関係は、決して許されるものではありませんでした」
種族の異なる者同士の恋愛。おとぎ話には定番の、使い古されたモチーフである。しかし現実問題、それは人間とは違う、また、種族ごとに多様な価値観を持った妖怪たちでさえ、一様に忌み嫌う大禁忌であった。
ヤマメもそれなりに長く生きているので、タブーを破った妖怪たちは知らないでもなかったが、彼らが幸せになったという話は、ついぞ耳にしたことが無い。異種間の恋物語は、虚実問わず、決まって悲恋譚なのだ。
風子が語ったところによると、その白狼天狗は多数の仲間とともに、地上からの使者としてやってきたらしい。目的はよく覚えていないが、多分博麗大結界に関連することだという。
「そういえばあの時期は、何かと上の連中の出入りが激しくて、都が妙にざわついてたっけ」
「そうそう、私のこと知らないカモがわらわらいて、超楽しかった」
ものすごくいい笑顔で、在りし日を振り返るキスメはさて置き、風子の話が続く。
「きっかけは些細なことだったと思います。私が宴会でもてなした地上の方々の中に、あの人がいた、というような。最初は言葉を少し交わすだけだったのが、段々二人きりで逢瀬を重ねるようになって」
いつの日か地獄烏の女と白狼天狗の男の関係は、恋人と呼べるものにまで発展していった。禁忌を破ることさえいとわず、感情の発露に任せるままに、二人は突き進んでいったのだ。そしてその果てに。
「二人は……貴方たちは、どうなったの?」
わかりきったことを尋ねるのが心苦しかった。それでもヤマメは聞かないわけにはいかなかったし、風子もそれを覚悟して、ここへやってきたのだろう。その証に、風子はヤマメがハッとするほどの意思の強さを瞳に宿らせて、決然と言い切った。
「私たちが一緒になることはありませんでした」
予想通りの返答。しかし澱みなく風子は続けた。
「何度も二人で話し合って、本当に悩みに悩みぬいて。そして最後は納得しあって、私たちの関係を終わらせることにしたんです。すごく悲しかったけど、そのほうがお互いの未来のためだって」
禁忌の壁は、目の前の少女の前にも容赦なく立ちふさがり、そして彼女と思い人は壁を乗り越えることはなかった。絶対的な運命に敗北した形ではあるが、取り返しのつかないことになる前に二人の関係が終わったことは、結果的に良かったのではないかと、ヤマメには思えてならなかった。所詮それも、当事者でないから言えることなのかもしれないが。
「これが、私と陽の関係の顛末です。すみません、つまらないお話を聞かせてしまって」
風子は悲しげに笑っていた。それでもその笑顔は朗らかで、どこか吹っ切れているようにも見えた。
ヤマメはその笑みに安心するように言葉を返した。
「いやいや。辛かっただろうに、こちらこそ話してくれてありがとう。うん、貴方と容疑者の関係はわかった。それで、貴方の元恋人が犯人だったとして、どうしてこんな事件を起こすんだろう。何か心当たりは?」
ヤマメが礼とともに問うと、風子はまた伏し目がちになってしまった。心なしか顔色も青ざめている。
「復讐……だと思います」
「復讐……?」
「最初の事件が起こる数日前のことです。あの人が突然ふらりと現れて、私、本当に驚きました。ずっと音沙汰もなかったのに……。そのときはまだ“怨霊憑き”なんて呼ばれるほど変わったところはなかったんですけど、やっぱりどこか様子がおかしくて、「自分は力を手に入れた、俺たちの痛みを、仲を引き裂いた地底の奴らに、思い知らせてやろう」って、熱に浮かされたように私に言ったんです。私たちは自分で結論を出したのに、それも忘れたみたいで」
理解できないというように、風子はかぶりを振ったが、ヤマメにはなんとなくわかった。「奴ら」というのは特定の誰かを指している訳ではあるまい。強いて言うならば、禁忌を作り出した妖怪たち全て、あるいはそれを容認する地底という世界そのものというところか。いずれにせよ、そんな巨大なものに復讐しようとするなど、正気の沙汰ではない。
「あの人の血走った目を見て、私、怖くなって……。それで、あの人の手を振り払って、逃げちゃったんです。……それからです。私の行く先々で破壊事件が起こリ始めたのは」
風子のいる場所が現場になったのは、やはり偶然などではなかった。
何度も事件に遭遇することになってしまった風子の恐怖はいかほどか。段々と言葉に詰まり始め、とうとう風子は両手で顔を覆ってしまった。
「協力しないと、いつかお前もこうなると見せつけられてるみたいで……。何より私があの人を拒絶したことで、彼にこんな恐ろしいことをさせてしまったのかと考えると、私、もう、どうしたらいいか……」
絞り出すようにそこまで言うと、あとには風子の嗚咽と陰鬱な空気が、事務所を支配していった。ヤマメは居心地の悪さを誤魔化すように、覚書に万年筆を走らせた。「風子と陽」「復讐」というキーワードが、大きく書き足される。だんだん事件の構図が明らかになってきたような気がした。
キスメは今の話をどう捉えたのかが気になって、チラリと視線を向けてみる。快眠されていた。ご丁寧に鼻ちょうちんまでこしらえて。
「……………………」
絶対にツッコまない。そんなことをしたらシリアスな雰囲気が台無しだ。ヤマメは当初の方針通り、キスメを置物として扱うことにして、沈黙だけを破るように風子に声を掛けた。
「今の話、自警団には?」
地底で起こった事件なら、まずは鬼の自警団を頼るのが筋である。しかし、これは予想していたことだが、風子は首を横に振った。
「鬼の方々に話したら、あの人が無事では済まされないような気がして」
「あー……うん。それはその通りかも」
いくら好戦的な鬼でも、好き好んで殺生を行うわけではないが、事件の容疑者と戦闘になった場合、相手の命を気遣うほど優しくはない。特に今回は現場の状況から、犯人はかなり凶暴な人物であることがうかがえる。もし鬼が対応するとなれば、事件の解決イコール犯人の殺害であることは、荒事に縁遠そうな風子でも容易に想像がつくだろう。
「あの人のやったことは許されません。今更無事を願うのは虫が良すぎるのもわかってます。でも、あの人はあんなことになっても、私の……」
風子は涙を拭い、テーブルに額がつかんばかりの勢いで頭を下げて言った。
「勝手を承知でお願いします。ヤマメさん。どうか、どうか……あの人を、止めてやってください」
絞り出された悲痛な叫びは、風子の胸の裡を如実に表しているようだった。たとえ遠い昔に袂を分かったのだとしても、件の白狼天狗は、彼女にとって決して軽い存在ではないのかもしれない。
「顔を上げてちょうだいな。風子さん」
ヤマメの言うとおり顔を上げた風子の目は、泣きはらして真っ赤になっていた。誰かの泣き顔は、ヤマメが最も見たくないものの一つである。
「元々貴方が来なくても、犯人はとっ捕まえるつもりだったしね。風子さんが気に病む必要はない」
風子が何かを言いかけるのを、ヤマメは人差し指を立てて制した。そして「それにね」と片目をつぶって、続ける。
「私はこの地底を泣かす奴を許さない。貴方の涙は、この私が動くのには十分すぎる理由だよ」
キザったらしい所作で繰り出されたセリフは、やはりキザったらしいものであった。ヤマメの言葉を聞いた風子は目を丸くしたが、やがて涙を流しながらも、その顔は笑みをかたどっていった。聞く人が聞いたら笑われそうなキザなセリフも、時には捨てたものではない。ヤマメは強くそう信じていた。
風子はもう一度頭を下げて言った。
「――お願いします、ヤマメさん」
「はいはい、任せといて」
もう風子の声に、悲壮感はなかった。だからヤマメも、明るく笑いながら請け負った。
「じゃあ風子さん、私は早速動いてみることにするよ。色々話してくれてありがとね」
「はい。もし何か私に出来ることがあれば、そのときはいつでもお知らせください」
「うん、そうさせてもらう」
「では私はこれで。……私が言うのもなんですが、その、どうかお気をつけて」
最後にまた律儀に頭を下げて、風子は事務所を辞した。扉の鐘が鳴り止むのと同時、ヤマメはソファにもたれて大きく息を吐いた。
依頼は成立。事件を解決するために、そして風子の涙を止めるために、ヤマメが為さなければならないことは山積みである。
しかし、烏の少女の勇気ある決断は、暗礁に乗りかけていた事件の捜査に一筋の光明を差し出した。これで依頼人の期待に応えられなかったら、“はぐれ蜘蛛”の名が廃る。
「まずは白狼天狗の目撃情報を洗うことからかな……。上の妖怪みたいだから、それなりに目立ってるとは思うんだけど。あとは……“怨霊憑き”についても、この際ちゃんと調べてみようか」
ヤマメが覚書を見ながら改めて方針を組み立てていると、
「どうにも嫌な感じがするね」
いつのまにか桶が、対面のソファに戻っていた。
「ようやくお目覚めか、キスメさん」
「おいおい、なんだか私が居眠りこいてたような言い草だね、ヤマメちゃん」
「ぐっすり寝てるようにしか見えなかったけど」
「私の寝顔、可愛かった?」
「迂闊にも一瞬、普段のあんたの所業を忘れかけたよ。というかやっぱり寝てたんじゃないの」
「けきゃきゃきゃ、いやいや話は聞いてたよ。私くらいにもなると、寝ながら作業なんてお手の物なのさ」
「なにそれすごい。私にも教えてよ」
「ふふん、ヤマメちゃんの誠意次第だね。……いやそれにしても」
キスメがまた、例の面倒くさい笑顔を浮かべて、ヤマメを見た。
「なかなかどうして。堂に入った仕事ぶりじゃないか」
「まだ話を聞いただけだよ」
「それもヤマメちゃんの人柄の為せることさ。それにあのセリフ、君があんなことを言うようになるなんてね。本当に面白い時代だ」
みなまで言わなくとも、キスメが何のことを指しているのか、嫌でもわかった。
――この地底を泣かす奴を許さない
「それくらい地底を愛しているのは、本当だよ。まあ、キスメさんの言うとおり、どうにもまだ口に馴染まないけどね」
こんな正義の味方じみたセリフが似合うほど、自分が立派な妖怪だとは思ってはいない。今の“はぐれ蜘蛛”は半人前ゆえ、地底の涙を拭うどころか、目の前の事件に向き合うだけで手いっぱいなのだ。そしてそもそもヤマメは、自分がそのような正義感を持っていることすら疑問視していた。所詮今やっていることは、過ぎ去りし日々に存在した誰かの真似事に過ぎない。「それでも」と、ヤマメは天井を見上げながら言った。
「こうして口にしてたらさ。いつかはあの人みたいに、こんなセリフが似合う奴になれるかもしれないでしょ?」
「なんだ、あいつみたいになりたいの、ヤマメちゃんは」
「まあね。目下のところ、それが希望さ」
しかし道は遠い――ヤマメが苦笑しながら付け加えると、キスメは薄ら笑いを浮かべることも忘れて嘆息しながら言った。
「あいつみたいにね……それはそれでめんどくさそうな生き方だと、私なんかは思っちゃうんだけど」
「そうだね。私だってそう思う」
「はん、わかってて目指すって、ヤマメちゃんはアホなの? それかドM?」
「それしか思いつかないんだよ。アホだから。ただしドMではない」
ヤマメの答えに、キスメは心底呆れたように首を振った。嫌味の一つも言わないのは、キスメにしては珍しいことだった。
「ヤマメちゃんが決めたことだから、私はあえて止めないけど。見てる分には面白いし」
「なんだキスメさん。今日はやけに絡むね」
「たまには老婆心を発揮したくなる時もあるの」
「ふうん、長い話はやめてくれよ。知ってのとおり、これから忙しくなるんだ」
「私だってそんな物好きじゃないよ、だから一言だけ」
キスメは童女のような顔に幾年の時を乗せて、ヤマメを真っ直ぐ見つめる。この目をしたキスメの話は、襟を正して受け止めるというのが、ヤマメの決まりごとだった。
「無理と後悔はしないこと。以上」
簡潔ながら、ヤマメにはこのうえなく胸にささる忠言だった。どちらも生き方が下手くそなヤマメには、いつだってついてまわることだ。それを承知で、この先輩妖怪はこんな無理難題を突き付けるのだろう。厳しいのやらおせっかいなのやら。キスメともそろそろ付き合いも長いが、ヤマメにとって彼女の心中は、事件の謎よりも計り知れないものなのだった。
少しだけ口の端を上げたヤマメは茶を啜り、覚書を懐に入れて立ち上がる。キスメが陣取ったソファをすり抜けて、ドアに手をかけた。そして振り返って、同じく顔だけこちらに向けたキスメに言う。キスメの気まぐれな老婆心に応えるように、自分の数少ない持ち味と自負する笑顔を浮かべながら。
「行ってくる」
ドアを開けると、地底特有の生温い風が頬を撫でた。
風を受け止めながら、ヤマメは目を閉じる。いつもと変わらない今日にも思えるが、この風の向かう先のどこかに、地底を泣かす者が今も潜んでいるのだ。
「待ってなよ」
目を開く。姿の見えぬ悪党に突きつけるように手を差し出し、ヤマメは不敵に笑った。
「私の糸は、絶対にお前を逃しはしない」
蜘蛛の糸は鋼よりもなお強固。
決して切れない意思をたずさえて、“はぐれ蜘蛛”が地の底を駆ける。
***
キスメはどこかぼんやりとした目で、ヤマメが出て行った扉を見つめていた。自分の忠告に応えたヤマメは、いつも通りの彼女らしい笑顔を浮かべていた。一時期は笑顔を忘れたように塞ぎこんでいたことを考えると、今のヤマメは確かにいい方向に向かっているようにも見える。
しかし、キスメは時折、ヤマメの在り方に靄のような胸騒ぎを覚える。そしてヤマメを変えたきっかけを知る者ならば、きっと同じような感覚を抱いていると彼女は確信していた。
人にも妖怪にも、分に合った生き方というものがある。あるいは悩み傷つきながらそれを探し出すのが、生というものなのかもしれないが、地底の正義を体現し続けるかのような道は、果たしてヤマメのような妖怪が歩むにふさわしいものなのか。
立ち止まるくらいならまだいい。少し休んだらまた進めばいいだけの話だ。だがしかし、もしも道を踏み外して、地の底よりも深く暗い奈落に堕ちてしまうようなことがあれば――。
「はん」
そこまで考えて、首を振った。ヤマメの選ぶ生き方がどうあれ、自分はこうしてヤマメにちょっかいを出して、たまに説教の一つもくれてやる。それ以上は出来ないし、またするつもりもなかった。あの蜘蛛も子供ではない。ただ、さきほどの忠告は少し失敗したかとも思う。
「無理はともかくとしても」
キスメはカタンと桶を傾けて、ため息を一つ。
「後悔しないで生きられる奴なんて、地底どころか世界中探してもいないわな」
我知らず呟いた独り言は、静かな洞穴内に思いの外よく響いた。
自嘲気味に口を歪めたのも一瞬、キスメはけきゃきゃきゃと奇怪な笑い声をあげながら、絶対にどこかにあるはずの、秘蔵の茶菓子を探し始めた。
4.
地底といえば、かつて地上で忌み嫌われた妖怪達が封印された、曰く付きの世界である。それゆえさぞかし陰気な場所なのだろうというのが、地上に住む者の大方の認識であり、実際それほど的外れでもないのだが、一方でヤマメは、それが地底の全てを言い表しているとも思っていなかった。
今日も旧都にはそこかしこで客引きや笑い声が入り交じった騒々しさが渦巻いており、陰気とは正反対の雰囲気があたりを支配していた。灯籠がぼんやりと照らし出す通りは、さながら宵に催される祭りのようで、これも旧都独特の活気の形成に一役買っているのかもしれない。
ヤマメ自身も通りを歩いていると、道行く人々に声を掛けられ、その都度足を止めてはたわいもない話に興じた。ヤマメの愛する地底が、そこにはあった。
昨日“怨霊憑き”の被害にあった酒場に足を運ぶと、引き続き鬼たちによる現場検証が行われていた。そのため現場には立ち入り禁止の境界が引かれ、まだ残骸が転がっていたが、検証が終わればすぐにでも鬼や土蜘蛛たちの手によって、店主の新たな城が立て直されることだろう。
店主は己の境遇を嘆くように愚痴を垂れ流していたが、この男は平素もこんな感じなので誰も本気で取り合わない。代わりに新店舗が建った暁にはここで宴会を開くと誰かが提案すると、店主はすぐさま上機嫌になって、自警団の鬼をねぎらい始めた。現金なものである。
ヤマメは現場に顔を出したついでに、左にも会っておこうかとも思ったが、鬼たちによると今日は不在とのことだった。風子の話を左の耳に入れていいものか迷っていたヤマメであったが、いないのではしょうがないと、足早に現場を去った。
「んー、こんなものか」
顔の広さを最大限に活用し、事件に関する情報を集めること数刻。ヤマメは休憩がてら情報の整理をしようと、茶屋の一席に腰を据えていた。あちこち歩き回ったり飛び回ったりしたが、ヤマメは疲れた様子を見せず、むしろその顔には充実感がみなぎっていた。足を使った聞き込みは捜査の基本中の基本であるというのが、ヤマメの信条だった。某引きこもりの性悪さとり妖怪に借りた探偵小説にも、そう書いてあったから間違いない。
探偵らしいことをやってご満悦のヤマメは、メモ帳に情報をまとめていく。筆を進めるうちに、一転難しい顔をして、万年筆の柄で机を叩いた。
「しかし“怨霊憑き”はともかく、陽の情報はもっと出てきてもいいと思ったんだけどねえ」
地上の妖怪の山に属する白狼天狗であれば、地底ではさぞかし目立つに違いない。そう当たりをつけて目撃情報を聞いてまわったが、ヤマメが期待したほどの成果はあげられなかった。破壊事件を立て続けに起こしていることから、それなりの纏まった期間を地底で過ごしているはずだが、たまに目撃談があっても、それは事件が起こった時のものであり、陽の普段の生活というものが一向に見えてこないのだ。拠点を突き止めるとまではいかないでも、せめて生活圏くらいわかれば、大きな手掛かりとなったのだが。
「うーん、普段は一歩も外に出ていないってこと……? でもそれはちょっとなあ」
とりあえず情報がないことは仕方がないので、陽のことはさておくことにする。
そして“怨霊憑き”。これに関しては目新しい情報はなかった。目撃者はこれまたそれなりにいるものの、なぜそんなものが地底に現れたのかを説明できる者はいなかった。当たり前と言えば当たり前なのだが。
メモ帳のページをさかのぼる。目撃者の話をまとめれば、“怨霊憑き”は禍々しい気配を纏って、正気をなくしたように暴力を振りまくのだという。さらに注目すべきは、白狼天狗が異形の化物に変化したという証言だ。
「……嘘くせえ」
思わずヤマメは呟いた。左が怪談と評するのも無理はない。
多くの時間と想念を積み重ねて、現象は想念の元である人の形をとる。規格外に生きた猫が化け猫になるように、九十と九年使われた傘が付喪神となるように。そうして一度“成った”妖怪が元の形に戻るのはともかく、さらなる異形、まして妖怪たちにさえ化物と呼ばれる姿に成り果てることなど、そうそうないはずである。
“怨霊憑き”とはそもそも何なのか。この点がわからないと、事件の解決も遠い。想定される事態のためにも、敵の正体は少しでも掴んでおきたかった。
「おっ」
注文した団子をパクつきながら思案していると、ヤマメは見慣れた赤毛の三つ編みが店内に入ってくるのを認めた。しめた、とヤマメが思ったところへ、向こうもこちらに気がついたのか、頭の耳をピコピコと動かしながらヤマメに近づいてくる。
「あれー? ヤマメちゃんじゃん」
手を振りながら、赤毛の少女は気安く声を掛けてきた。ヤマメはすかさず立ち上がって、少女の肩をがっちりと掴む。
「良いところで会ったね、お燐。まま、こっち来て座りなよ」
お燐と呼ばれた赤毛の少女は“火車”の妖怪であり、本名を火焔猫燐という。以前からヤマメとは古い付き合いであるが、ヤマメが“はぐれ蜘蛛”の稼業を始めて以降、地霊殿の主のペットでもある彼女とはプライベート以外の場面でも、何かと顔を突き合わせることが多かった。
ヤマメに半ば捕らわれた状態のお燐は、訝しげにヤマメを見た。そしてヤマメの一物抱えたようなにやけ顔ですぐに察しがついたのか、面倒くさそうに顔を歪める。
「なになに、またお仕事?」
「さすがに話が早くて助かる。これからあんたを探しに行くところだったんだ。会えて嬉しいよん、心の友よ」
「あたいもだよヤマメちゃん。じゃあお互い今日はご機嫌に過ごせそうだし、あたいはこれで」
「まあ待て。ちょっと話聞かせてほしいんだよ。仕事が行き詰っちゃってさ」
「面倒事にあたいを巻き込まないでほしいなあ。何度も言うけど、別にあたいはヤマメちゃんの仕事に協力する義務はないんだからね」
「わかってるよ。いくら友達だからって、ビジネスの領域をうやむやにするつもりはないよ。私がタダで仕事の協力を頼んだことがあったかい? それに、今は暇なんでしょ? 仕事道具も持ってないし」
ヤマメの言うとおり、お燐はトレードマークともいうべき猫車を手にしていなかった。図星をつかれたお燐は口をとがらせる。
「まあ、そりゃあそうだけど……」
「決まりだね。というわけでここは私の奢りだから、好きなのを選びなよ」
その言葉を聞いた瞬間、お燐の目の色が変わった。それはまさしく哀れな獲物を目の前にした猫の目、野生のハンターの凄味だった。
「おばちゃん! “デラックス地獄極楽ジャンボパフェ~旧都の街角より愛をこめて~”一つ!」
「っておいこら!? 誰がそんな高いのを頼んでいいと言った!」
「好きなのを選べって言ったのはヤマメちゃんだよ。ビジネスの領域はきっちりしないとねー」
ぐっ、と言葉が詰まる。そう言われては反論のしようがない。おばちゃんも滅多にない注文を聞いて、張り切って厨房に引っ込んでしまった。ヤマメは席にどかりと座りながら、メニューの一角を見る。文字通り桁違いの金額とカラフルなイラストが、冗談のように載せられていた。うぎぎとメニューを引きちぎらんばかりに握りしめても、パフェは消えてくれない。
経費で落ちないものかと、ヤマメが無駄な勘定をしていると、対面にお燐が腰を下ろした。先ほどと打って変わって、ほくほくと満足げな表情である。
「さあさあヤマメちゃん、お仕事の話をしようか」
「……奢った分に見合った話は聞かせてもらうよ。絶対に絶対にぜーったいにだ」
「もちろんどーんとこいさ。今のあたいなら、さとり様のスリーサイズだって教えちゃうよ」
「微妙に興味あるけど、お互い後が怖いしやめとこう。――聞きたいのは、“怨霊憑き”のことだ」
お燐の猫耳がピクリと動き、幸せそうな笑顔が一転、鋭い猫の目付きでヤマメを伺う。お燐が本格的に仕事の体勢に入った証だった。
「なるほど、やっぱりヤマメちゃんも動いてたか」
「まあね」
「面白半分じゃないよね?」
「もちろん。ちゃんと依頼人もいる」
「ああ、そりゃあこっちとしても、おいそれと止められないや」
ため息をつきながら、お燐が天井を仰ぐ。
もちろんヤマメが真剣に取り組んでいることはわかっているだろうが、お燐もヤマメの変化のきっかけを知る者の一人だ。物申したいことは色々あるのだろう。しかしお燐は小言の一つも漏らすことなく、「それで?」と続きを促した。仕事の席でお燐はほとんど私情を挟まない。
そんな彼女の流儀に助けられるように、ヤマメは話した。聞き込みで得た“怨霊憑き”の情報、そして風子から聞いた話(もちろん風子の名誉に関わる部分は省いた)を、お燐は適当に相槌を打ちながら耳を傾ける。
「この事件の鍵は“怨霊憑き”だと思う。なんでもいいから正体に繋がる情報が欲しいんだ」
「ふうん、それであたいに」
「そう、怨霊の使い手であるあんたなら、なにかわかるかと思ってさ」
ヤマメの期待を込めたまなざしに、お燐は腕を組んでうーんと唸った。猫耳も項垂れてどこか元気が無い。ヤマメが不安に思っているところへ、お燐の注文した“デラックス(以下略)”が、大きなお盆に乗せられて運ばれてきた。
「……」
「……」
改めて実物を見ると、パフェのような物体は冗談を通り越して悪ふざけの域に達していた。
鬼が好んで使いそうな巨大な盃を思わせる器の底にはアイスクリームが敷き詰められ、中心でソフトクリームがタワーを形成していた。その周りには店にあるものを全部使ってみましたと言わんばかりに様々な果物や白玉、粒餡等々が添えられており、目に鮮やかというよりむしろ目に毒と言うべき彩りを全体に与えていた。近年ようやく地上から洋菓子が浸透してきた地底において、このアバンギャルドなパフェは存在そのものが間違いであるかのようだった。
「頑張れ
「……無理かも」
「はっはっは、何を遠慮してるんだい。どうせ私の奢りだ、残さず食べるんだよ」
「うう、ヤマメちゃんが鬼だよ……」
半べそをかいているお燐をよそに、店内からはその威容に歓声やざわめきが沸き起こっていた。いよいよ後に引けなくなったお燐は泣く泣くスプーンを手に取り、クリームの山を崩し始める。何事もほどほどが一番だと思いながら、ヤマメが団子を口にしていると、
「“怨霊憑き”の話だけどさ」
お燐がスプーンを舐めながら口火を切った。
「へ? あ、ああ。あまりの衝撃に一瞬忘れかけてた」
「うん、すっごく気持ちは分かる。でも美味いよこれ。良かったらヤマメちゃんも食べなよ。むしろ食べて。いや食べてください」
「食べるからそう卑屈になるな。私がいじめてるみたいじゃないか。……どれどれ。あ、ほんとだ。見た目はアレなのに」
二人でパフェのお化けを攻略する作業に取り掛かると、お燐は続きを話し始めた。
「そもそも、“怨霊憑き”のネーミングの出所はどこなの?」
「どこって……そりゃあ都の住民の噂が発端じゃないかな。具体的に、と言われると困るけど」
なぜお燐はそんなところを気にするのか。ヤマメが疑問すると、お燐はスプーンを咥えながら首を捻った。
「いやね? ヤマメちゃんの話を聞く限り、多分怨霊は関係ないんだよ」
「関係ない。ふーん、そうなのか。……は?」
お燐の意外な返答に、ヤマメは思わず素っ頓狂な声をあげた。
「関係ないって……だって、“怨霊憑き”だよ?」
「関係ないというのは語弊があったね。でも怨霊の仕業とすると、色々おかしいことが出ちゃうんだよ」
戸惑うヤマメに、お燐はスプーンを立てながら言った。
「ヤマメちゃんはその“怨霊憑き”とやらの正体をどう考えてる? ふわっとでもいいから」
「うーん、そりゃあまあ、“怨霊憑き”って言うくらいだから、怨霊が妖怪に憑りついて悪さしてるんだろうとは思うけど。それだけで化物に変身したりするっていうのが、どうも納得いかないんだよね」
「ほら、そこだよ」
「へ?」
スプーンをヤマメに突きつけられたヤマメは、思わずたじろいでしまった。
「あれ? もしかして前提からしておかしい?」
「それを確認するためにも、まず怨霊についての基本的なことから話したほうがよさそうだね」
お燐がスプーンを置いた。パフェをいったん横に置いておくほどに重要な話らしい。あるいは単純に疲れただけなのかもしれないが。ヤマメも甘ったるくなった口の中を茶で洗い流し、話を聞く体勢を整える。
「それじゃあ半人前“はぐれ蜘蛛”でもわかるおりんりんの怨霊講座、はっじまっるよー」
「わぁい」
古くからの友人特有のノリを差し挟むことで、殺伐としがちな仕事の話に彩りを添えるというプロの業である。決して遊んでいるわけでもふざけているわけでもない。適当に和んだところで、お燐による講義が開始された。
「なんであたいら妖怪は、怨霊を恐れるんだと思う?」
「質疑応答形式か、望むところだ。そんなの決まってる。精神が汚染されるからだよ。私たちは精神に依る存在だから、存在の寄る辺が汚されちゃあたまったもんじゃない」
「んー、六十点」
「ありゃ、違うのか先生」
「違うというより、怨霊の恐ろしさを言い尽くせてないね。程度は違えど精神が汚染されるのは、人間も同じことだし」
「む……」
首を傾けたヤマメに、お燐は四十点分の不足を思い知らせるように、冷徹ささえ感じさせる声で言った。
「怨霊は、妖怪を殺す」
地底随一の甘味所と評判の茶屋は今日も繁盛し、賑やかな声が絶えない。ただ一角にだけ、喧騒から切り取られるように沈黙が降りた。手が付けられていないパフェのアイスが、じんわりと溶け始めていた。
殺す。結果としての死。肉体的には人間とは比べ物にならないほどの頑強さを誇る妖怪には、縁遠いようにも思える言葉。だがそれはもちろん錯覚でしかない。少しばかり、死を想うのが人に輪をかけて難しいというだけのことだ。
ヤマメは言葉を探るようにスプーンをもてあそびながら、口を開いた。
「確かに怨霊が妖怪の天敵だというのは、誰もが知ってることだよ。でも“殺す”ってのはどうなの。そう簡単に怨霊が、あんた好みの収集品をこしらえられるもんかね」
「そういう意味でなら、答えはノー」
「じゃあ」
「ヤマメちゃんが言ったじゃん。“あたいらは精神に依る存在だ”」
お燐の、正確には自分の言葉で、ヤマメにもすぐにピンときた。お燐は頷いて言った。
「人間なら恨みや悲しみといった負の感情が増幅されるだけですむかもしれない。だけど妖怪の場合はそれでは終わらない。怨霊は憑りついた妖怪の精神を乗っ取る。怨霊の念に食われて個を消失した妖怪は、憑りつかれる以前とはもはや全く別の存在と言っていい。つまり」
「その妖怪は死んだも同然、ってことだね」
「よくできました」
自分が自分でなくなる。あるいはそれは、肉体的な滅びよりも恐ろしいことかもしれない。妖怪が怨霊を恐れる真の理由が、ここにあった。
「いやいやヤマメちゃん。今さら神妙な顔してるけど、本当に知らなかったの?」
「ぶっちゃけ“怨霊はヤバい”くらいにしか思ってなかった」
「呆れた……。その程度の認識でよく今まで生きてこられたね」
「みんなこんなんだと思うけどなー。油断してなけりゃそう簡単に憑かれるもんじゃないし」
「さすがにそれはないと……。いや、ここの連中ならありえるか……」
お燐は頭を抱えてしまった。いつも能天気なのに、妙なところで真面目な友人である。再びスプーンを手に取って溶けかけたアイスを口にしながら、ヤマメは店内を見渡した。お燐の頭痛の種は、みな“怨霊憑き”の事件の影を感じさせることもなく、思い思いのひとときを過ごしていた。
「それで、ここからが本題なんだけど」お燐がフルーツをつまみながら言った。「例の白狼天狗は“怨霊憑き”と呼ばれて、都を暴れまわってる。だからヤマメちゃんは、怨霊のエキスパートであるあたいに話を聞きに来た。そうだね?」
お燐が整理した話に、ヤマメは頷いた。“怨霊憑き”なんてものが現れたのなら、怨霊に原因があると見るのはごく自然な流れだ。
「でも、実際は見当違いかもしれないと、あんたは言いたいんでしょ? どこがおかしいのさ」
「まだわからない? 今した話を踏まえれば、ちゃんと見えてくるよ」
「じらすなよ。パフェも食べなくちゃいけないし、さくっといこう」
「せっかちだねえ、ま、いいけどさ」
お燐は頬杖をつき、空いた手の人差し指を立てる。あれほど面倒そうにしていたにもかかわらず、今やこの会話を楽しんでいるかのようだった。
「怨霊は憑りついた妖怪の精神を乗っ取って、別の存在にしてしまう。これが大原則。それなのに今回の白狼天狗は……」
そこで言葉を切って、お燐は挑戦的な笑みを向ける。それを見たヤマメは顔を俯けてしばし黙考し、やがて一つの事実に思い当たって、あっ、と頭を上げた。
「陽は、別の存在にはなっていない!」
お燐が、ようやく気付いたかと言いたげに首を振った。
「ヤマメちゃんの依頼人の話を聞いた時から、これはおかしいなと思ってたんだよね」
「ああ……。陽は昔とは大分雰囲気が違っていたらしいけど、元恋人である風子さんのことは覚えていたし、かつての恨みを晴らすために復讐を企ててさえいる。根っこの人格は何も変わっていないんだ」
「ちゃんと先のことも考えて行動しているみたいだしね。本当に怨霊に精神を乗っ取られたのなら、こうはいかないよ」
こうして一つ一つの事実をよく検討してみると、怨霊に憑りつかれたケースとは、あまりに違いすぎている。“怨霊憑き”という呼称に囚われすぎて、明白な矛盾に気がつけなかった。この体たらくでは、お燐に呆れられても仕方がない。
「だけど、それなら“怨霊憑き”っていったい何なんだ……?」
結局は、その疑問に戻ってしまう。お燐の力を借りてしても、正体は何もわからないままだ。ヤマメは眉間にしわを寄せながら言った。
「怨霊の仕業にしてはおかしいというのはわかった。けどお燐、あんたは本当に、まったくの無関係だと思う?」
スプーンを咥えたお燐は、うーんと唸りながら答えた。先ほどまでの雄弁さはなりを潜め、どこか遠慮がちな声だった。
「そう聞かれると、なかなか簡単には言い切れないところではあるんだよね」
歯切れの悪いお燐の返答は、しかしヤマメの意見と一致していた。
「怨霊を取り込むことで力が増すということは確かにある。というかあたいがその類だし」
「んん? でもそれじゃあ精神が乗っ取られるんじゃ」
「うちら地獄の妖怪は特別なのさ。長い間怨霊と付き合ってきたからね。でも一朝一夕ではそうもいかない。今までずっと上で暮らしてきた妖怪にはとても無理だ」
「そうは言っても現に力は増している。しかも変身とかするらしいし」
存在が変容しない程度に精神を保ったまま、力だけを得る。そんなことは、怨霊に憑かれるだけではできない。しかし無関係とも思えない。ならば考えられるのは。
「怨霊の他に何か、原因がある。そういうことか」
怨霊だけでは不可能であっても、そこに何らかの外的要素が加われば、都合良く力を得ることも出来るかもしれない。それは根拠に乏しい推測でしかないが。
「うん、あたいもそう思う」お燐は首肯した。「こいつは想像以上にやっかいな相手かもしれないよ、ヤマメちゃん。何しろ話も常識も通じなさそうだ」
怨霊のエキスパートにすらそう言わしめる、地底に病巣のように現れた“怨霊憑き”。得体の知れない存在を敵に回していることを改めて自覚し、ヤマメの掌にじんわりと汗が滲む。そして、ふと思う。
「陽はそんなものに成り果ててまで、復讐を遂げたいのかな」
お燐がパフェをつつく手を止めて、ヤマメの顔を見つめる。
「ずっと長い間、風子さんと陽は離れ離れになってたんだ。それでこれまで何事もなかったのに、今になってどうして復讐なんてバカげたことをおっぱじめたんだろう。それも、到底まともとは思えない方法で」
時間は否応なく過ぎ去り、それゆえに残酷で優しい。少なくとも風子の方は、二人の関係を過去のものとして割り切っていたようであるし、だからこそヤマメに見せたような笑顔を浮かべられたのだと思う。
一方で陽は時間の優しさを被ることなく、ひたすらに愛を募らせ、憎しみを積み重ねていったのだろうか。そして杯から水があふれ出るように、心の奥底で感情が決壊した――。
「まあ、手段があるのなら、魔が差すということもあるかもしれないね」
どこかつまらなさそうに、お燐はそんなことを言う。
「魔が差す……衝動的な犯行ってこと?」
「特に深い意味はないよ。あたいはそんなバカを一人知ってるってだけで」
目を逸らしたお燐の指す人物を、ヤマメはすぐに察した。地霊殿に住む者の中でもきっての平和主義者にして、お燐の無二の親友。地上に引っ越してきたという新参の神々から、太陽の力を授かった一羽の地獄鴉。
霊烏路空。
彼女をよく知る者からはお空と呼ばれる地獄鴉は、ある時膨大な力を手にして、変わってしまった。姿形だけでなく、その精神の在りようまで、二人の知る彼女とは、まるで別人のような変化を遂げたのである。
灼熱地獄の復活、そして地上の破壊という野望を抱えた彼女を止めるために、お燐が主の伺いも立てずに独断で奔走したことは、ヤマメの記憶にも新しい。ヤマメ自身も及ばずながら力を貸したその事件は、最終的には博麗の巫女すら巻き込んで、どうにか事なきを得た。
だが、暴走は収まったと言えども彼女自身はいまだに神の力をその身に宿し、地獄鴉としては異形ともいうべき外見もそのままである。
「いやでも、お空は」
「ヤマメちゃんの話聞いてさ。ちょっとだけ思っちゃったよ。あいつは“怨霊憑き”と何が違うんだろうって」
「お燐」
「わかってるよ。もちろんそんな化物みたいなのとお空は別物さ」
親友の現状に、お燐が複雑な思いを抱いていることは、ヤマメにもよくわかっていた。二人の関係自体は今も良好そのものだ。それでも時折、お空を見つめるお燐の目に差す一抹の影を見出してしまうのだった。
「あたいの器がちっちゃいだけだってのもわかってる。あの時はバカやっちゃったけど、あいつは変わらず能天気でお人好しな奴のままだよ。あんな姿になってもね」
お燐の感情の吐露に、ヤマメは黙って耳を傾けていた。以前は一緒にいる所をよく見かけたお燐とお空だが、最近は今日のように別行動をとっていることが多い。お空は何やら神の力に関係する職務に就いたらしいし、お燐も地霊殿の主力として色々と忙しい身だ。
決して意識的に距離を置いている訳ではないのだろうけど、二人の友人を自負する者として、どうしても気になってしまう。それでもお燐が何も言ってこない以上、ヤマメが必要以上に干渉する筋合いはない。こうして話に付き合うのが関の山である。
「本当に、わかってはいるんだ」
吐き出すようなお燐の声が、茶屋の喧騒に溶けていった。気遣うようなヤマメの視線に気づくと、お燐は苦笑いを浮かべながら頬を掻いた。
「ごめんごめん、ヤマメちゃんに愚痴るつもりはなかったんだけど。しかも全然関係ない話だし」
あー恥ずかし恥ずかしと、お燐は照れ隠しのようにパフェをどんどん口に運ぶ。そんなお燐の様子を見てヤマメは少しの逡巡の後、言った。
「気にするなお燐。それにお忘れかい? 私は地底一のおせっかい、“はぐれ蜘蛛”だよ」
“はぐれ蜘蛛”は地底の涙を拭う。もちろんお燐も例外ではない。そしてそれ以前に友人が助けを欲していたら、“黒谷ヤマメ”はいつだって手を差し出す。そんな意思をキザなセリフにのせる。ウィンクも忘れずに。
お燐はクリームを掬う手を止めて目を丸くした。そしておかしなものを見たように吹きだした。
「似合わないなあ、ヤマメちゃん」
「ううん、ダメか」
ヤマメはため息をついて椅子にもたれかかった。初対面ならともかく、知り合いにもけれんみを発揮するには、まだまだ精進が必要のようだ。お燐はまだ白い歯を見せてニャハハと笑っている。
「うんまあでも、ありがと。そうだね、いざというときは頼りにさせてもらおうかな」
「ああ、猫の手を借りたお返しだ」
そう言ってヤマメは、二人分の代金を置いて立ち上がった。
「行くの?」
「うん。“怨霊憑き”の正体はまだ見えないけど、糸は切れてない。色々攻めてみるよ。世話になったね、お燐」
これから探るべきは、怨霊とは別の“何か”。闇雲に“怨霊憑き”の情報を嗅ぎまわっていた先ほどよりも、一歩前進。たった一歩ではあるが、捜査においてはこの一歩が何よりも重要なのだった。
お燐は去ろうとするヤマメをじっと見つめて、押し黙った。ヤマメはキスメの時と同じように、今の自分について何か言われるものと思ったが、お燐はふと表情を崩して、
「気ぃつけてね」
どれほどの言葉を呑み込んだのかはわからない。しかしお燐はそれだけを言って、ヤマメを見送ろうとしていた。
あるいは彼女も待ってくれているのかもしれない。ヤマメ自身が今の自分をどう思っているのか、それを言葉にするのを。キスメとは少し違う形だが、それも一つの誠意の表れだ。あくまでドライなお燐の在り方に、ヤマメはある種救われるような心地さえした。
ヤマメはお燐に背を向け、首だけで振り返りながら言った。
「お燐、今度は仕事の話抜きで酒でも飲もう」
「またヤマメちゃんの奢りなら喜んで」
悪戯っぽく笑うお燐に向かって、ヤマメはウインクをしながら親指を立てる。そしておばちゃんの大きな声を背に受けながら、ヤマメは意気揚々と茶屋を後にした。
「さて、と」
気を取り直すべく、うーんと伸びをする。依然通りは行き交う人々に溢れ、灯籠のぼんやりとした明かりは大声で笑い合う若者たちを照らし出し、一方でその傍ではみすぼらしい身なりの妖怪が地べたに座り込み、陰気な顔を俯けていた。薄暗い路地裏では、数人の妖怪が声を潜めて何やら怪しげな話をしている。
「……よし。充電完了っと」
そんな、いつも通りの旧都を目にしながら、ヤマメは捜査を再開する。
前途はまだまだ多難。それでもヤマメの歩みは、迷いを踏み抜くかのように力強かった。
***
良い目になったと、お燐は思う。
最初はあんなお気楽な奴に“はぐれ蜘蛛”が務まるわけはないと思っていた。それは一友人として付き合ってきた者としての、それほど的を外していない分析のつもりであったが、お燐の懸念をよそに、ヤマメはその気風を武器として、そして彼女には似合わない血の滲むような鍛錬の成果もあって、立派に仕事をやり遂げている。
しかしそんな結果を見てもなお、お燐は自分の分析を杞憂と切って捨てることはできなかった。さきほどまでのように顔を突き合わせてみても、ヤマメは以前と変わらぬ風に見えた。笑って、バカを言って、どこか飄々としている、つまりはお燐のよく知るヤマメだった。
だけど、変わらぬはずはないのだ。“あの事件”を経て、ヤマメがどれほどの傷を負って、どれほどの後悔をして、どれほどの決意を抱いたのか、所詮は他人であるお燐には想像することしかできない。
お燐は今でも鮮明に思い出す。ヤマメが“はぐれ蜘蛛”を継ぐことを自分に打ち明けた、地底では珍しい雪の降るあの日のことを。その告白を受けて、お燐ははっきりと告げた。あんたには向いていないと。そしてヤマメは「自分でもそう思う」と苦笑したのだ。よほど殴ってでも止めようかと思ったが、しかしヤマメがすぐに真剣な顔で言った。
『悪いねお燐。でも、これが今の私の、精一杯だから』
ヤマメの表情は見たこともないくらいの悲壮感に溢れていて、お燐はそれ以上の追及など出来なかった。何も言えず、爪が食い込むくらい握り込んだ掌の感触。それは今もお燐の胸の奥で、古傷のようにジクジクとうずくのだった。
今のところ、ヤマメはあれ以来昔の傷を思わせるような素振りは見せない。“あの事件”の話題はたまに出るが、それを口にする時も、傍目にはもう割り切っているようにも見える。仕事の方もわりかし上手くやっているし、順調そのものだ。
しかしこの先も“はぐれ蜘蛛”としてあり続けるのなら、いつか必ず、急激な変化の歪みがヤマメを蝕む。もちろんそれはお燐の勘でしかなかったが、今度こそ的外れではない気もしていた。だからお燐もまた雪の降るあの日、掌の痛みとともに、一つの決意をしている。
地の底の涙を拭う“はぐれ蜘蛛”がその役目を全うできるよう、影ながらサポートする。そしてヤマメが一番苦しいその時にこそ、親友の地獄鴉が暴走した時のように、たとえ主の意に背くことになっても、ヤマメの助けになってみせる。あくまでもビジネスだとヤマメには断ってあるが、自分の考え得る精一杯を、厭うつもりはなかった。
「ホントにもう、あたいの周りの連中は、勝手にどんどん変わってくんだから」
恨み言のように、されど表情には笑みを浮かべながら、お燐はそんなことを漏らした。そして、はてそれなら自分はどうなのかと考えながら、しかしすぐにまあいいやとその思考を打ち消し、お燐は再び巨大パフェとの格闘に戻っていった。
「ていうかヤマメちゃん……。せめて半分くらい食べてってよ……」
今度こそ心の底からの恨み言だった。
5.
旧都の中心には、どっしりと建てられた屋敷がある。
そこには鬼の自警団が詰めかけていて、東西南北と大まかに区切られた旧都の全域に、隈なく睨みを利かせている。自警団の詰所は中心に構えられたこの屋敷を本部として、それとは別に四方の区にそれぞれ支部が設置されている。
特に本部の屋敷の大きさは周囲の建物と比べても際立っており、その威容は屈強な鬼たちが何人も出入りすることも相まって、旧都の住人に畏怖の感情を植え付けている。それとともに、何よりも自分たちの生活は、大きな力に守られているのだという安心感を与えていた。そんな秩序の象徴たる自警団本部も、現在は“怨霊憑き”事件の捜査のため、多くの人員が出払っており、数人の留守番がいるのみだった。
いつも以上にガランとした建物の奥、本部の中枢である部屋で、左は普段通りの厳めしい面構えで鎮座していた。そして対面には彼の主である鬼が、対照的に気安い笑みを浮かべながら盃を傾けている。その度に、手にはめている枷の鎖が音を立てた。
「大将、酌なら自分が」
「いいっていいって。今は酒の席じゃない」
主がそう断るのは半ば承知していたが、だからといって主が手酌で酒を飲むのを黙って見ている訳にもいかない。左の愚直ともいえる義理堅さに、左の主――星熊勇儀は呆れと喜びがない交ぜになった笑みを浮かべながら言った。
「お前ねえ、あんまそういうことに気ぃ回さなくていいって、何度もそう言ってるだろう」
「下の者への示しがつきやせん」
「お堅いなあ。もっとちゃらんぽらんに生きても損はないぞ? 幻想郷の連中見てみろよ。素面で頭が酔っぱらった輩ばかりだ」
「性分なんで」
「そうだ、そのむっつりした顔がいけないんだ。年がら年中そんな面してたんじゃ、お前も疲れるだろうに」
「生まれた時からこういう顔でさぁ」
「いやそれは嘘だろお前。ほれ、ニコーッて笑ってみ、ニコーって」
「大将、仕事の話をさせてもらってもよろしいんで?」
左がすげなくそう言うと、勇儀は「かーっ、これだよっ」と大袈裟に嘆いて見せながら盃を空にした。
“力の勇儀”と謳われる腕っぷしの強さはもちろんのこと、嵐の中でもなお力強く咲き誇る一輪の花のごとき美しさ、荒くれぞろいの鬼たちをまとめ上げる度量、どれも申し分なしの主ではあったが、左を堅物扱いしてからかうという悪癖には困ったものだった。
左としては組織の一員として当然のふるまいをしているつもりなのだが、よく言えば懐が広い、悪く言えば大雑把な勇儀にはそれが生真面目と映るようで、顔を合わせるたびにこうしてちょっかいを出してくるのである。挙句の果てには「大将が適当な分、片腕が固い」という風評にも、主は怒ることもせず、それどころか「違いない」と大笑いする始末だった。敬愛する主ではあったが、こういう妙な大らかさにはため息を漏らさずにはいられなかった。
「ん? どうした。幸せが逃げるぞ? 一杯いっとくか?」
「お心遣い痛み入りやすが、それよりも逃がしたくない奴がいるもんで」
主の差し出す酒を丁重に辞して、左は勇儀の顔をじっと見つめた。勇儀は左の真剣な眼差しを受けてやれやれと首を振り、無造作なあぐらの姿勢のまま、表情だけを引き締めた。弛緩していた部屋の空気が芯を入れたように張り詰め、二人を照らす照明の灯がパチリと音を立てて小さく爆ぜた。
「で、首尾はどうだ」
「どうもよくねえですな」
酒場の破壊事件から一夜明け、依然聞き込みと警備を続けてはいるが、目新しい情報はなく、捜査は滞っていた。旧都の住人は元々肝の座ったものばかりであるので、事件による混乱と動揺はそれほど広がってはいないが、やはり下手人が捕まえられないことには、その安穏が破られるのも時間の問題である。
左の報告を聞いて、勇儀は頭を掻きながら言った。
「早いところ解決して、都の連中に枕を高くして寝かせてやりたいところだが。そううまくはいかんか」
「面目ねえ」
「謝るな。これは私たち全体の落ち度だ。まったく、強さにかまけてるとこういう落とし穴がある。教訓にしなきゃな」
勇儀のおどけた物言いに、左は拳を硬く握りしめた。表情こそ飄々とした笑みを浮かべてはいるが、都を荒らす不逞の輩に内心はらわたが煮えくり返っていることは想像に難くない。適当で大雑把ではあるものの、勇儀の地底への思い入れは誰よりも深い。その鋼のごとき義侠心の下に、左を始めとする自警団の鬼たちは集っているのだ。
「そうすると、私の出番はなしか」
「そうなりやす。ただでさえ鬼が警戒されてるところへ、大将まで出張ったら尻尾を掴むどころか、そのままとんずらされる可能性もある」
「だろうな。やれやれ」
「こらえてくだせえ。お気持ちは察しやすが」
「知ってるか? 仕事を手下に丸投げして飲む酒ってな、あんまり美味くないんだよ」
言葉通り顔をしかめて、勇儀は酒をあおった。
勇儀の感じている歯がゆさは、片腕である左には痛いほどわかった。あまりに大きな力を持つが故に、星熊勇儀が動くとただそれだけで、地底が騒ぐ一大事になってしまう。下手人は警戒を強めるだろうし、住人の不安を掻きたてる恐れもあった。
左は主を慰めるように、力をこめて言った。
「丸投げ上等。大将は後ろでふんぞり返ってくれてりゃあそれでいい。面倒事は俺たち下のもんの仕事でさあ」
鬼の四天王が一人、星熊勇儀は地底最大の抑止力。抑止力は使わないからこそ、効果を発揮するのである。
勇儀は「頼りになるねえ」と、苦笑しながら呟いた。結局のところ、現体制が地底にとっての最良だと、勇儀も頭では理解しているのだ。しかし勇儀の心は座して待つのをよしとしない。そんな主の性分も重々承知している左は、重ねて言った。
「なんならそこらで散歩でもしてたらどうです。こんな所で引きこもって一人酒するよか、外で誰かしら捕まえて酌をさせりゃあ、ちったあ酒の味も良くなるってなもんです」
動くなと言われたそばからの提案に、勇儀は訝しげに眉をひそめたが、すぐに左の意図を察したように口の端を上げた。
「ふうん、散歩、ね」
「大将がここを空けても見張りはいやす。もちろん報告も滞りなく」
「あいさわかったよ、お前がそう言うなら甘えさせてもらおう。下の者たちも、私がいない方が気楽だろうしな」
勇儀は機嫌よく笑った。“自警団の大将”ではなく、“ただの”星熊勇儀としてふるまう。この辺りが今回の案件における勇儀の立ち位置の限界だろう。苦肉の策ではあったが、それでも主は気に入ったようだ。
「それで、地霊殿の動きはどうなんだ」
先ほどまでよりは美味そうに酒を飲む勇儀の問いに、左は一瞬言葉に詰まった。主にはそれだけで左の心中が伝わってしまったようで、何やら含みのある笑いを漏らした。一息つき、左は渋々言葉をつないだ。
「主があの調子なもんで、今回も直接は動いてないようです。ただ……」
「“はぐれ蜘蛛”か」
愉快げに笑いながら、勇儀は左の言葉に割り込んだ。左は苦々しげに顔を歪める。
「おいおいそんな顔するない。ただでさえ強面なのに、そんな面してたら女が逃げるぞ」
「あいにく言い寄ってくる女なんていませんや」
「またまたこいつはご冗談を。この前回覧板に、“地底の女性に聞いた抱かれたい男ランキング”ってのがあってだな」
「それはもういい」
一度回覧板の担当者を締め上げてやろうかと半ば本気で考えたが、それは胸にとどめてさておく。これ以上話が脱線されてはたまらない。
「……大将のお察しの通りで。ウチの邪魔をしないという条件で自由にさせてありますが、不味かったですかい」
「まさか。地底のために動く奴はどれだけいてもいいさ。事件解決はウチらの特権というわけでもあるまい」
「しかし、奴が深入りするようなら、当然止めるつもりでいやす」
「うん? いいじゃないか。好きにさせてやったら」
「そうもいかないでしょう。何事にもわきまえるべき分ってもんがある。いくら大将が大雑把で適当だからって、そこはしっかりしてもらいやす」
「お前仮にも大将に向かって酷いこと言うねえ。いくら私でも傷つくときは傷つくんだぞ?」
「大将の肝っ玉は、橋姫の罵詈雑言にも屈しないと心得ておりやす」
「あ、いや、それはどうだろう。ちょっと自信ない。しかしまあなんだ、そう神経質になることもないと思うぞ。それに、“はぐれ蜘蛛”の意図は誰にも切れない。そうだろう、左」
勇儀が顎をさすりながら、意味ありげな視線を向けてくる。そう、確かに主の言うとおりだった。地の底に流れる涙を拭うために、決して切れない意思を以って、己の信ずる道を突き進む。左の知る“はぐれ蜘蛛”とは、まさに地の底の正義を担う強き者だった。しかし、
「それは、先代の話でしょう」吐き捨てるように、そう言った。
「今代――ヤマメは違うと?」
「別に奴が“はぐれ蜘蛛”を継いだことをとやかく言うつもりはありやせん。奴の覚悟は本物だ。それにもう過ぎた話で、しかも自分は半ば襲名の片棒かついじまった身です」
「過ぎた話……。そう、過ぎた話だな、本当に」
勇儀はどこか遠い目で、天井を仰ぎ見た。その手に持った杯が空になっていたが、左はあえて無視して続ける。
「黒谷の捜査能力は見るものがある。実際何度かウチも助けられていやす。戦闘力もまあ、そこらのチンピラは問題にしない程度にはあるでしょう。自分が言うのもなんですが、奴は使える部類に入る」
「お前の太鼓判か。プレミアがつきそうだな」
「しかしそれでも、奴が未熟であることにゃ変わりやせん。“はぐれ蜘蛛”の看板を背負って立つにゃあ、覚悟だけじゃ足りないんですよ。奴が戦う相手は成長を待ってくれないし、何より今回は正体不明の敵が下手人ときている。深入りは、今の奴には荷が重すぎやす」
勇儀はふうんと頷くと、それきり押し黙ってしまった。人気の少ない屋敷にはいつもの慌ただしい喧騒はなく、鬼の集う場所には似つかわしくない静謐がこの場を支配する。左は鷹揚に空の盃を弄ぶ主の姿を、ただ見守っていた。
客観的な評価であると思う。恐らく誰に聞いても、概ね左と同じことを言うはずだ。それに、ヤマメの未熟さは他ならぬ彼女自身が自覚しているだろうから、今さら自分が釘を刺す必要もないのである。そうでなくては困る。
「相変わらず、過保護だねえ、お前は」
唐突に、勇儀が沈黙を破った。それも、左には思いもよらぬ言葉で。
「……過保護? 自分が?」
いったい主は何を言いだすというのか。自分はいつだって、ヤマメには厳しい態度で臨んでいた。甘い顔を見せた覚えなどない。
「大将、自分は別にそんなつもりでは」
「なんだ、おまけに自覚なしかい。困ったもんだ」
呆れたように酒をあおる主の指摘に、左は困惑を隠せなかった。勇儀はどこから取り出したのか、左に盃を差し出す。また断ろうとしたが、なぜだか勇儀は有無を言わせぬ気配を漂わせていたので、渋々盃を受け取って酒を賜った。
勇儀の押しに流されるように乾杯をし、二人同時に、中身を飲み干した。勇儀はこれで何杯目の酒だったか知れたものではないが、鬼の中でも特に強者である彼女が、前後を見失うわけもなし。酒の余韻を楽しむようにほう、と息をつき、そして言った。
「そうだな……お前の言うことももっともだ。ヤマメは先代に比べりゃヒヨッコも同然。名を継いでから日も浅いしな」
「なら」
「しかしな、それは同時に、可能性の塊だってことでもある」
「可能性……」
「そうさ。場数を踏んで、鍛錬も怠らず、奴が“はぐれ蜘蛛”の名に恥じないよう精進し続ければ、先代に並び立つ、いやさひょっとしたら先代を越える存在になるかもしれん。それにだ、奴は持ち前の気質で、先代とは違う独自の“はぐれ蜘蛛”像の片鱗を見せていると思わないか?」
「……というと?」
「まあなんと言ったもんか。親しみやすいというか、地域密着型ってやつなのかな。実際、都の連中の評判も上々みたいだぞ。先代は腕は良かったが、いかんせんちと愛想が足らなかったのが玉に瑕だ」
「……」
「お前みたいにな」
ニヤリと口端を歪めて、杯を持った手で左を指す。隙あらば左をからかうことを忘れない。
「私は期待してるんだよ、左」
勇儀は空になった盃に、ゆっくりと酒を注いでいく。なみなみと注がれた酒が揺れて、その水面に勇儀の穏やかな笑顔が、波打つように映し出された。
「地底のどこで、どんな理由で涙が流れようと、誰にも切れない意思でそれを拭い去る――。黒谷ヤマメが、そんな強く優しい、地の底の“切り札”になることを」
「“切り札”……ですかい」
「酔っぱらいのたわごとだと思うかい? けど、私は大マジだよ」
「……」
「お前も内心、同じ思いなんじゃないのか。じゃなかったら、ここまで目に懸けやしないよ」
主の断定に等しい問いに、左は不義と知りつつも答えない。
左の沈黙をどう捉えたか、勇儀はふと笑みをこぼす。そして何かに乾杯にするように盃を仰ぎ持つと、己の五臓六腑に染み入らせるかのように、一気に中身を流し込んだ。
「なるべく奴の思うままにやらせてやれ。成長にはそれが必要だ。そして未熟だと思うなら、助けになってやればいい。それも、お前の務めだろ?」
口からこぼれる雫を拭う勇儀の表情は、今の一杯が今日一番美味い酒だったことを、如実に物語っていた。ご満悦な様子の主に酒を勧められると、今度こそ左も素直に従った。
6.
お燐の情報はヤマメに一つの指針を与えた。“怨霊憑き”をそれたらしめる、怨霊以外の“何か”。それを突き止めるのはなかなか骨が折れそうだったが、ヤマメにはとりあえずの当てがあった。
都が形成されている区画を外れて、地底特有のどんよりとした風を受けながら、ゆったりとした速度で飛ぶ。手には土産として用意した茶菓子。これから会う相手が喜ぶかは正直怪しかったが、受け取られなかったらキスメにでもくれてやろうとの心積もりだった。
やがて、橋が見えてきた。地上と地底を結ぶ縦穴の近くに設置されたそれはこじんまりとしていて、いかにも申し訳程度に掛けられたという風である。しかしかの蝉丸の句ではないが、飛行能力を持つ妖怪たちも地上へ赴くとき、そして地底へ帰ってくるときは、皆必ずこの橋を歩いて渡る。別に決まり事ではないけれども、彼らにとってこの橋は、地上と地底の精神的な境界として、重要な意味を持つのである。
地上と地底の交流が活発になり、昔よりは人通りも多くなった場所ではあるが、今は誰も渡る者はない。かといって人っ子一人いない、というわけでもない。
ひっそりとした橋の欄干に、一人の妖怪が気だるげに身を任せていた。ヤマメは橋の手前で着地すると、地底の流儀にならい、歩いて橋を渡って妖怪に近づく。妖怪はヤマメに一瞥をくれたかと思うと、すぐに目を背けてしまった。相変わらずの態度に、ヤマメは苦笑しながら手を振った。
「やあ姫さん。ご機嫌いかがかな」
「貴方には良いように見えるのかしら」
くすんだヤマメのそれとは違って、目を惹くような金髪の持ち主ではあるが、纏う気配はある意味地底の住人にふさわしい陰気そのもの。大きな特徴である緑眼はゾッとするほど鈍い輝きを宿していて、ジッと見つめられると、怪物に深淵から覗かれているような気分になると専らの評判らしい。
嫉妬心の権化、水橋パルスィ。地上と地底の結び目の番人である。
パルスィのすげない応対にも、ヤマメは動じない。
「少なくとも悪いようには見えないね。姫さんはいっつもそんな感じだし」
「相変わらず無駄に前向きだこと。さぞかし人生楽しいんでしょうね。妬ましい」
「いやいや、これでもそれなりに気苦労はあるんだよ。今もでっかいトラブル抱えちゃってるしね」
「トラブル……ああ、そういうこと」
「そういうこと。はいこれ、つまらないものですが」
パルスィは差し出された茶菓子とヤマメの顔を見比べた。半目で見定めるかのような視線を受けても、ヤマメはあくまで笑顔を崩さない。やがて、根負けしたでもないだろうが、パルスィは無言で土産を受け取って欄干に置いた。
ヤマメは満足してうなずき、パルスィの隣に身を置く。そして言葉をかけることもなく、ヤマメは川のせせらぎに耳を傾けた。地上の川に近づくと河童どもがなにかとうるさいが、ここには文句を言ってくる輩はいない。思う存分ゆっくりと、静けさに心を浸す。自分ではなかなか気がつけないが、やはり事件に関わると自然と神経も張ってくるから、どこかでこんな時間も必要だ。しばらくそうしていると、随分のんびりした心地になり、ヤマメはゆったりと息をついた。
「ちょっと、私の隣で勝手に和まないでいただける?」
と、ヤマメの隣から棘のある声が飛んできた。見ると、パルスィは普段に輪をかけて渋い表情を浮かべている。
「うん? いきなりどうしたの姫さん。美人が台無しだよ」
「誰が美人よ」
「姫さんに決まってるじゃないか」
「……」
「そんな引かなくても。いや、姫さんは一緒にいても静かにしてくれるからさ。ついついボーっとしたくなるんだよ。私の知り合いは、基本騒がしい奴らばっかりだし」
「類は友を呼ぶのよ。……だからって私と一緒にいて和まれると、こちらの沽券にかかわるの。おわかり?」
「沽券?」
「この水橋パルスィはいわゆる最悪のレッテルを貼られているわ」
「最悪ね。例のランキング見て、キスメさんが悔しがってたよ」
「当然の結果よ。いちいち喜ぶまでもない」
髪を撫で上げてなぜか誇らしげなパルスィ。どう考えても誇りどころが間違っているが、前例を知っているヤマメはもう何も言わない。
「先日嫉妬心を煽って破局させたカップルの通算数が万の大台に乗り、いまだに恋愛恐怖症が治らない者もいる。この前の娘なんかは「もう恋なんてしない」などという、妬ましいほどに素敵なセリフを残していったわ。何も知らずに言い寄ってくる、間抜けな上の連中の心をへし折って、橋を渡らせないなんてしょっちゅうよ」
「絶好調だなあ姫さん」
ヤマメは本気で感心した。人妖の距離が縮まっていく時代の中で、ちゃんと妖怪の本分を全うしようとするのは、案外難しいことなのである。
「そんな私の隣にいる貴方が地べたに這いつくばることもなく、あろうことかくつろいでいる姿を誰かに見られてみなさいな。『ああ、嫉妬妖怪は最悪でもなんでもなく、ただのツンデレなのね』、なんてふざけた風評が流れかねないわ」
「いやそれはない」
パルスィのデレなど、幻想郷においても金輪際結実しない幻想だろう。キスメとは違う意味で、この嫉妬妖怪の思考もヤマメには掴みかねた。陰気なまま憤慨するという器用なことをやってみせるパルスィは、「それに」と付け加えた。
「その“姫さん”なんておかしな呼び方もやめていただけるかしら。ええ、これを言うのももうかれこれ百五十三回目なのだけれど」
「数えてたのか。さすが姫さん、なんて執念」
「百五十四回目を言わすおつもり?」
「じゃあ私も百五十何回目かの同じこと言わしてもらうけどね。いや、正直“パルスィ”って発音しにくいんだよ。かといって“水橋さん”じゃ他人行儀にも程があるじゃない」
「知らないわよ」
「そこで“姫さん”だ。橋姫と称え畏れられる姫さんの美しさと謂れに敬意を表すとともに、“ヒメサン”というそこはかとなく愛嬌のある響きで親愛の情も示す。手前みそながら、まさに理想的なあだ名だと思うんだけど、いかがだろうか」
「知・ら・な・い・わ・よ」
「まあなんだ。今さら変えるのもアレだし、諦めてよ」
爽やかな笑顔でヤマメがそう言うと、パルスィは心底忌々しげに舌打ちをした。しかしそれ以上の追及はしてこないのを見るに、どうやら何を言っても無駄だと悟ったようである。
パルスィはうんざりした様子で欄干にもたれ直すと、ヤマメの顔も見ずに切り出した。
「……それで?」
「うん?」
「何か聞きたいことがあって来たんじゃないの? “はぐれ蜘蛛(仮)”さん」
カッコカリカッコトジルは勘弁してもらいたかったが、否定は出来ないので苦笑で応じる。そして表情を引き締めた。お仕事の時間だ。
「でっかいトラブルの話だよ。“怨霊憑き”の事件、もちろん知ってるだろうけど」
「鬼たちがあちこちで働いているわね。充実してるようで妬ましいわ」
「あの人たちも大変なのさ。……今日来たのは他でもない。その事件についての情報が欲しい」
あまり知られてはいないが、パルスィには橋の番人という顔の他に、もう一つの側面があった。
水橋パルスィは、地底のあらゆる事情に通じる“情報屋”である。
こちらの知りたいことは、打てば響く鐘のようになんでも教えてくれる、ヤマメのような者にはまさに救世主のような存在だった。
パルスィ曰く、地上と地底の結び目付近に架けられたこの橋には、渡り人とともに古今東西の情報が集積し、ここで佇んでいるだけで自然と事情に明るくなれるのだという。そして、自身が介入することも多いとあって、色恋沙汰等の人間・妖怪関係に関する話には特に強いというのが、“情報屋”水橋パルスィの特徴だった。
ヤマメが仕事の態勢に入っても、パルスィはあくまでマイペースに、淡々と応じた。
「見返りは? まさかそこの茶菓子のことじゃないわよね? それとも、箱の底に山吹色のお菓子でも入っているのかしら」
「それは単なるお近づきの印だよ。というか姫さん、いい加減報酬の相場を決めてくれないか。料金が姫さんの気分次第というのはどうにも具合が悪い」
「私は別に情報屋を商いとしているわけではないわ。文句があるなら他を当たるのね」
「文句だなんてそんな。私がどれだけ姫さんを頼りにしているか、今度文章に纏めて提出してもいい」
「やめなさい。二度と口きかないわよ」
「冗談だって。しかし姫さん、少しは私のことも考えてみてちょうだいな。この前の報酬なんか酷すぎるでしょ。なんだよ、“古明地さとり著の恋愛小説”って」
地霊殿の主にこの件を打診したときのことが思い出される。話を切り出した途端、顔を真っ赤にしたさとり妖怪に、なぜその存在を知っているのか、それを手に入れてどうするつもりなのかを詰問されたあげく、心を読まれたヤマメは一言も口を挟ませてもらえないまま、延々と言葉のツララを浴びせられる羽目になった。
冷や汗がとめどなく流れ続けた、針のむしろのような時間。最後は今後より一層仕事に励むことを、地面に額をこすりつけながら誓うとともに、本のことは他の者には内密にすることを血判を押して約束し、どうにか物を手にしたのである。依頼の達成よりも数倍苦労させられるという、まさに本末転倒というほかない散々な結果だった。
「あのさとり妖怪が自筆の小説を書いているというのは、もはや地底だけでなく上の連中にも知れ渡った公然の秘密だというのに。引きこもりも考え物ね。フフフ」
「絶好調だなあ姫さん」
「まあそうね。あのときは存分に楽しませてもらったし、今回はこの茶菓子でいいわ」
「は?」
拍子抜けするようなパルスィの申し出。さすがに額面通りに受け取るわけにはいかない
「あ、いや、願ってもない話だけど、さすがにそれは安すぎない? なんか絶対裏がありそうで怖いんだけど」
「疑問するその姿勢は評価するけれど、裏なんてないわ。私がいいと言えばいいのよ。貴方の言うとおり、ただの気分」
「そ、そうなの? ううん、なんだか逆に姫さんに悪いな。何だったら今度酒でも奢るけど」
「お気遣い無用よ。酒の席なんて面倒なだけだわ」
「バ、バッサリ断るね……。この際だから姫さんとの距離も縮めたかったんだけど。まあしかし、条件的にはそれこそ文句なしだ」
無駄にしか思えない地獄のような労苦も、案外捨てたものではない。あの時の自分に喝采を送りたい気分だった。
ヤマメは懐からメモ帳を取り出しながら、口火を切った。
「事件についての説明は?」
「必要ないわ。聞きたいことだけ聞きなさい」
「わかった。それじゃあ聞きたいことは二つ。一つは、最近ここを白狼天狗が通らなかったか。もう一つは、最近地底で何か変ったことが起きてないか」
地底に“怨霊憑き”が現れたのは、ごく最近のこと。その時期の前後には、必ず兆候のようなものが存在するはずである。白狼天狗が地上から降りてきたというのもその一つだ。地上と地底を行き来する際には、ほとんどの者がここを通るため、パルスィが陽を目撃している可能性は十分にある。そして兆候の中には、ヤマメが追い求める、“怨霊憑き”が発生する怨霊以外の原因の手掛かりもあるのではないか。ともすれば触れるだけで切れてしまいそうな糸だが、ヤマメには現状この線しか標がない。
「一つ目はともかく、もう片方はえらく漠然とした質問ね」
「なんでもいいんだ。どんな些細なことでも聞かせてくれ」
すがるようにヤマメが言うと、パルスィはあごに手を添えて黙考し始めた。表情を見る限り、真剣に考えてくれているようである。なんだかんだ言いながら、こちらが誠意を見せればきっちり返してくれるパルスィの律義さは、ヤマメが彼女を信頼する大きな理由だった。
待つことしかできないヤマメは、焦れそうになるのを、川の流れを眺めて気をなだめた。こちらが慌ててパルスィのペースを乱しても、得るものは何もない。しばらくして川の水面に浮かぶ花びらの枚数を数え始めたところで、パルスィはふと顔を上げて、人差し指を突きたてた。
「まずは最初の質問に答えましょう」
思わずゴクリと喉を鳴らす。頷いて先を促した。
「白狼天狗だけど……ええ、確かに二週間ほど前、ここを通るのを見たわ」
「ほ、本当かい!?」
「落ち着きなさい。まだ貴方の探している人物とは限らないわ」
「あ、ああ。確かにそうだね。で、そいつは、まだ上には帰ってない?」
「少なくともここからはね」
「そうか……」
ヤマメがパルスィの話を呑み込んでいると、パルスィは「それと」と付け加えた。
「気になるのは、その白狼天狗の雰囲気ね」
「雰囲気?」
「上の連中が下りてくるときというのはね、物見遊山のつもりか、妬ましいくらいに浮かれた顔してるものなのよ」
「ああ、そういう連中が、姫さんやキスメさんの餌食になるわけだ」
「よくわかってるじゃない。でも、あの白狼天狗は違った。なんというか、何かに憑りつかれたみたいに険しい顔だったわね」
「憑りつかれたみたいに……」
「馴れ馴れしく声をかけてくる輩はうっとおしいけど、完全に無視されるというのもそれはそれで気に入らないわ」
「本当に難儀な人だねあんた」
「あら、お世辞がうまいのね。あと、一人でいたのもおかしいといえばおかしいわね。最近よく見る黒白の魔法使いみたいな例外もいるけど、上の連中が一人だけでこんなところに来る理由はないもの」
「なるほどね……。うん、そりゃあ間違いなくビンゴだよ、姫さん」
これで風子の話の裏はほぼとれた。疑っていたわけではないけれど、不確定要素は潰すに限る。そして陽は――地底を、風子を泣かす“怨霊憑き”は、やはりまだ、この地底のどこかにいる。今まで茫漠としていた敵の存在が、ようやく実感できるものとして浮かんできた気がして、ヤマメは改めて身が引き締まる思いだった。
「あなたがそう判断するのなら、私から言うことはないわ。……それで、二つ目の質問ね」
パルスィは指を二本立てて言った。実質、この質問こそが今回の本題である。
「漠然としているとは言ったものの、実のところ以前とは明らかに違った変化があるわね」
言われて、はてそんな変化は見られただろうかと、ヤマメは俯く。パルスィが明らかに、と表現するくらいだから、気づいて然りと暗に言われているも同然である。このままでは観察力不足のそしりは免れないと、ヤマメが必死に記憶の糸を辿っていると、パルスィがあっさり口を開いてしまった。ただし、出てきたのはいつもの毒舌ではなかった。
「怨霊憑きの事件が騒がれ出す少し前からかしら。都で薬が流行りだしたのよ」
「く、薬……?」
まるで想定外の返答に、ヤマメは戸惑う。それを察してか、すぐにパルスィは注釈を入れた。
「といっても、危ない代物ではないわ。知っているかしら。上には凄腕の薬師がいるのだけれど」
「ああ、竹林のお屋敷に住んでるっていう。実際にお目にかかったことはないけど、縁起で読んだよ」
「意外と勉強熱心なのね。それで、今都で流行っている薬はその薬師の手によるもので、何でも夢見が良くなるらしいわ」
「夢見が? そんなもの良くしてどうすんの」
「そうね。さしずめ、せめて夢の中だけでも良い思いして、可哀そうな自分を慰めようということでしょう」
「うわぁ、なんて後ろ向きな薬なんだ」
内心パルスィの解釈が捻くれているだけだと思ったが、ヤマメは例によって口には出さない。
パルスィに薬と言われて、ヤマメもいくらか思い出せるものがあった。
「そういえば最近裏通りなんかで、怪しい取引してるのをちょくちょく見るけど、その薬関連なのかな」
「そうかもね。あとは酒場なんかでも捌かれてるみたいで、少しずつだけど新しい嗜好品として、都の者の間で広まりつつあるようね」
「ふうん。ま、危険な薬だったらまた“はぐれ蜘蛛”の仕事が増えてげんなりするところだけど。姫さんは使ってみたりしないの?」
「生憎、慰めなきゃいけないほど可哀そうな精神は、持ち合わせていませんわ」
「だろうね。姫さんは地底一幸せそうだもん」
どんよりと陰気なのに、ある意味キスメ以上に活き活きとしている。そんな矛盾した存在が、嫉妬妖怪・水橋パルスィなのだった。自分も一妖怪としてなるべくかくありたいと、ヤマメは彼女に会うたびに思う。しかしそれはさておき。
「これで質問には答えたわ。お役には立てたのかしら? “はぐれ蜘蛛”さん」
パルスィの問いに、ヤマメはメモ帳を睨みながら唸った。
果たして今の話は、自分の追っている事件とつながるのだろうか。どちらかといえば、妙なキャッチフレーズを添えられて、新しい健康法として回覧板で紹介されそうな、そんな類の話である。怨霊憑きの事件と時期が重なるのは気になるし、良い夢が見られたら確かに精神的にも安定しそうではある。しかし妖怪を“殺す”と表される、怨霊による精神汚染の脅威を、その程度で抑えられるものか。そんな疑問が、覚書に筆を走らせることを躊躇させていた。
「その、姫さん。他にはなんかないのかな」
「ご不満のようね。そうねだられても、私の知る目立つ変化といえば、これくらいのものよ」
「うーん、やっぱりそうか」
「なんなら、どこそこのカップルが破局したというネタでも提供しましょうか?」
「そこはそっとしておいてやってよ。というか姫さんが話しちゃったら、もうそれマッチポンプ以外の何物でもないじゃない」
「じゃあ、都の娘が最近大胆なイメチェンをしたという話は」
「お断りします」
「どんな些細なこともと言ったのは貴方よ」
「にしても程があるでしょ……」
「あらそう残念」と、まったく残念そうには見えない顔で、パルスィはしれっと言った。なんだかいろんな意味でため息でもつきたい気分だった。しかし地底一とヤマメが信頼しているパルスィでも、これ以上のことは知らないとなると、あとはしらみつぶしに地底を捜査するしかなくなる。幸い、糸は細いながらもまだ繋がっている。
「どうするの。私を締め上げても、もう何も出てこないわよ」
「さらっと人聞きの悪いことを言わないでってば。まあ、もう一度薬の線で聞き込みでもしてみるよ。ひょっとしたら何か出てくるかもしれないしね」
「まるでわらしべ長者ね。得るものがなさそうな辺り、まったく妬ましくないけれど」
「手厳しいねえ」
揶揄するように言うパルスィに、ヤマメは苦笑いで返すしかない。他人のために動くという行為は、パルスィのような特に自分本位の妖怪には、粋狂にしか映らないのかもしれない。誰かの笑顔を取り戻せるとキザったらしく言ったところで、この嫉妬妖怪には鼻で笑われるのがオチだろう。
「それでも、ちゃんと付き合ってくれるんだもんなあ」
クスリと笑ってそう漏らす。パルスィは「何か言った?」と訝しげな顔を向けてくるが、答えない。迂闊なことを言って本気でヘソを曲げられたら、それこそ事である。
「じゃ、私は行くよ姫さん」
「そう」
「また来るよ」
「また来るの?」
「もちろんさ。私は“はぐれ蜘蛛”だからね」
「そうね、貴方は“はぐれ蜘蛛”だったわね」
「貴方に覚えておいてもらえると光栄さ。ありがとう、姫さん」
丁寧に頭を下げて、そして踵を返そうとしたところで、パルスィの方から何かが飛んできた。慌てて受け取ると、手の中にあったのは、ヤマメがパルスィに贈った茶菓子の包みの一つだった。呆気に取られながらパルスィを見ると、彼女は深淵から覗くような緑眼で、じっとりと、しかし真っ直ぐヤマメを見つめていた。
「姫さんは、やめていただけるかしら」
そう言ったきりパルスィはそっぽを向く。もうヤマメなど見えていないかのように、気だるげな気配を纏って欄干にもたれかかっていた。最後はいつも通りのそっけない態度。なんだか安心して、またここに来られるような気がした。
「お断りします」
パルスィには届かない呟きとともに、ヤマメは帰りも歩いて橋を渡った。
振り返ってパルスィの姿も見えなくなったところで、ヤマメは包み紙の封を空ける。一口に頬張った茶菓子は、地底一の最悪が気まぐれに見せた優しさがこもっているようで、顔がほころぶほど美味かった。
それはきっと勝手な思い込みで、当然のごとく本人は否定するだろう。だがしかし、ヤマメは嫉妬妖怪が妬むほどに前向きなのである。
***
パルスィとヤマメの付き合いは、それほど古いものではない。ヤマメが挨拶を向けてくることはあったものの、パルスィにとっての黒谷ヤマメとは、顔と名前が一致するだけの、地底の一妖怪でしかなかった。
そんな両者の関係が変わるのは、その年最後の雪が、冬の終わりを惜しむように降りしきったある日。
『貴方が“情報屋”の、水橋パルスィだね』
見覚えのある妖怪が、パルスィにそう声をかけてきた。
自分のことを“情報屋”扱いするような輩は、地底の住人の中でもごく僅か。少なくとも目の前の妖怪は、その数に入っていないはずだった。不審を沈黙と視線に込めると、妖怪は名乗った。
『黒谷ヤマメ。“はぐれ蜘蛛”をやってる』
“はぐれ蜘蛛”。
地底においては特別な意味を持つ名を背負う者が、昨年起こった事件でこの世を去ったことは、当然パルスィも聞き及んでいた。地底でも随一の腕利きであったあの妖怪の死は、パルスィにも少なからず衝撃をもたらした。どんなに強い者でも、死ぬときはあっさりと死ぬ。死から遠い妖怪たちが忘れそうな摂理を、どんな采配かは知らないが、天は思いもよらぬ形で否応なく知らせてくる。
久しぶりに聞いたその通り名を聞いて、そんな益体もないことを考えたのを思い出す。しかしこの小娘にしか見えない妖怪が“はぐれ蜘蛛”を名乗るとは一体どういう了見か。自然、目つきが険しくなる。
誰に自分のことを聞いたのかを尋ねると、先代の“はぐれ蜘蛛”が遺した文書に、“情報屋”パルスィの記述があったという。そして自分は先代から“はぐれ蜘蛛”の名を継いだ土蜘蛛なのだと、少女は説明した。
『情報が欲しい。事件の解決には、貴方の力が必要なんだ』
ヤマメの申し出は礼を欠かさず、あくまで真摯なものだったが、しかしパルスィはいつになく苛立った。
地底の住人らしからぬ真っ直ぐな態度が、地底一の捻くれ者の気に障ったのか。あるいは当時のセンチな気分が蘇ったのかもしれないが、何よりも気に入らなかったのは、少女の浮かべる表情だった。
少女の表情は、パルスィの記憶に薄らと刻まれた、快活さに溢れた笑顔とは、まったく違っていた。
頼りとする標を失くしてしまった迷子が、その事実を覆い隠そうとして、懸命に強くあろうとしている。ほぼ付き合いのないパルスィにさえあっさりと見抜かれるその仮面は、強がりにしか見えない。不恰好で、何より痛々しかった。
『どこの馬の骨かわからない土蜘蛛風情に、くれてやるものなんてないわ』
『え……』
『通行の邪魔よ、失せなさい』
嫉妬妖怪をして妬む余地のない目の前の少女に、用などなかった。
苛立ちのままに辛辣な言葉を投げかけてやると、ヤマメは何かを言おうとして、しかしそれ以上何も口にすることなく、スゴスゴと橋を引き返してしまった。
大層な名を背負う割に、根性の無い――。
二代目“はぐれ蜘蛛”は、このままパルスィの記憶の片隅にも残ることのないであろう、つまらない妖怪のはずだった。しかし数日後、その予想はあっさりと覆されることとなる。
『先日はどうも』
忘れかけていた頃、ヤマメは再びパルスィの前に姿を現した。
手にはご機嫌取りのつもりか菓子折りらしきものを持ち、なにより以前と違うのはその表情。パルスィの抱いていた第一印象と違わぬ、快活な笑顔だった。あれほどこっぴどくやっつけられたのに、またノコノコとやってくるとは。いよいよ目の前の少女の魂胆がわからなくなり、前以上の不審をこめて、パルスィは嘲るように言った。
『そんなに情報が欲しいのかしら。妬ましくなるほどの意地汚さね』
パルスィの皮肉に、ヤマメは驚いたように目を丸くし、そして苦笑いしながら「噂通りだなあ」などと呟いていた。そして意外なことを言った。
『前の事件ならもう解決したよ』
今度はパルスィが目を丸くする番だった。自力で情報を集めるのが大変だっただの、全然修行が足りないだの、そうしたヤマメの話を聞き流して、パルスィは裡に湧き上がる戸惑いを隠して問うた。
『あらそう。それは重畳で妬ましいことね。それで、なら貴方はわざわざ何をしにきたのかしら。まさかこの私の顔が見たかった、なんてこともないでしょうに』
皮肉のつもりだったが、なぜかヤマメは我が意を得たりというように、笑顔を深めた。そして次に出たヤマメの言葉は、今度こそパルスィを完全に唖然とさせた。
『そうそう。今日はお仕事抜きで、貴方とお話をしてみたいと思ってさ』
『……はあ?』
『いや、「どこの馬の骨かわからない奴にくれてやるものはない」って、確かにその通りだと思ってさ。だから、私のことを知ってもらうために、こうして来てみたんだよ』
『貴方、何を言って』
パルスィが文句を言う暇もなく、ヤマメは嬉々とした表情で勝手に話を進めていく。
『というわけでもう一度自己紹介させてもらうよ……コホン。私は黒谷ヤマメ。“はぐれ蜘蛛”を継がせてもらった土蜘蛛です』
『ちょっと』
『あ、これ、お土産です。都でも行列ができるくらい評判の饅頭なんだ。って、私が言わなくても“情報屋”ならそれくらい知ってるか』
『いえ、それよりも』
『それで、貴方のことはなんて呼べばいいかな』
『……』
『パルスィ? 水橋さん? それともビジネスライクな感じで“情報屋”? ……うーん、なんかどれもしっくりこないなあ』
『……なさい』
『はい?』
主導権をヤマメに握られ、流されるままになっていたパルスィだったが、地底一の最悪と謳われるこの嫉妬妖怪がみすみす黙っているはずもなく、
『とっとと、消えなさーーーいっ!』
とうとう堪忍袋の緒が切れた。
『ええ!? いきなりどうして!』
『その妬ましいほどおめでたい頭で考えなさい! ここではないどこかで!』
『ちょ、ちょっと待って! ええっと……あっ! な、ならせめてお菓子だけでも受け取』
『やかましい! 五秒以内に消えないと五寸釘ブチ込むわよ!』
『なにそれこわい!』
パルスィの激烈な怒気を感じ取ったのだろう。ヤマメの表情はなぜパルスィがこれほどまでに怒り心頭なのか、本気でわからないと物語っていた。そして流儀を守る余裕もなく、ほうぼうの体で橋から飛び去っていった。
土蜘蛛の姿が完全に見えなくなったのを確認すると、パルスィは大きく息を吐いて乱暴に欄干にもたれかかった。我を忘れてペースを乱してしまった自分に自己嫌悪を覚え、忌々しげに舌打ちをする。天下の嫉妬妖怪、近年まれにみる不覚の極みである。
それにつけても馴れ馴れしい妖怪だった。それもあろうことか、最悪たる水橋パルスィに向かってあの態度、怖いもの知らずにも程がある。あるいはただの阿呆か。いずれにせよ、先代の“はぐれ蜘蛛”とはまったく違うタイプだった。しかしあれだけ強く言ってやったのだから、これに懲りてもう来ないはず。もし来たら本物の阿呆だ。
『……何だったのかしら、一体』
ふと、ヤマメの言葉の真意が気になりかけたが、すぐにかぶりを振った。これで縁は切れたのだからと、パルスィは清々する思いだった。
自分の見通しがてんで甘かったことをパルスィが思い知らされるのは、さらに数日後のことである。
あれからヤマメは、パルスィがどれだけ追っ払っても、少し日が空けばまた舞い戻ってくるのだった。相手にするのもバカらしくなって無視を決めこもうと、この前の事件はどうだっただのと、勝手に喋り続けるのだからたまったものではない。これほどしつこい相手は、パルスィの永い人生でも初めてといってよかった。ヤマメが嬉々として話をし、パルスィがしかめ面でそれを聞き流すという日々が、いくらか続いた。
そしてある日気がついた。ヤマメがパルスィの元へやってくる際には、決まって土産として茶菓子と、そして自身の解決した事件の話を持ってくることに。その積み重ねは、いつのまにか結構な数に達していた。
『……いい加減、諦めたらどうなの?』
思わず、声を掛けてしまっていた。しまったと思ってヤマメの方を向くと、彼女は驚きと喜びをない交ぜにしたような、妙な笑顔を浮かべていた。
『貴方の方から話しかけてくれるなんて、初めてだ』
『我慢の限界だったというだけのことよ。なぜ私に付きまとうの? これだけ無下に扱われているのに、まったく理解に苦しむわ』
『そうかなあ』
『そんなに情報が欲しいのなら、別に私じゃなくてもいいでしょう。他を探せばいくらでもいるわよ』
『確かに情報は欲しいんだけど……うーん、そうだな。なんだろう』
ヤマメはしばし逡巡すると、照れたように頭を掻いて言った。
『貴方に認めてもらいたかった、のかな』
パルスィは、頭を抱えそうになるのを何とかこらえた。徹頭徹尾、この土蜘蛛の言うことはまったく意味がわからない。パルスィの表情で察したのか、ヤマメは慌てて付け加えた。
『いや、先代の遺した覚書によると、あの人が情報不足で行き詰ったときに頼ってたのは決まって貴方なんだ。それはもう話したよね』
パルスィは何の反応も返さなかったが、ヤマメは構うことなく続けた。
『貴方の言うとおり、情報をくれる人は地底にもたくさんいるはずだ。それでも先代は、あえて貴方を頼りにし続けた。実を言うと私もそれが不思議だったから、とにかく実際に“情報屋”水橋パルスィに会ってみようと思ったのさ』
滔々と、ヤマメは語る。この自分といるにも関わらず、実に穏やかな顔をしているのが、また気に入らない。
『貴方に最初に会いに行ってコテンパンにやっつけられた時、そりゃもうすっごくへこんだけど、同時にちょっとわかった気がした』
『わかった……?』
『貴方は信頼できる者にしか情報を渡さない。それは逆に言うと、信頼を勝ち取ればきっと大きな力になってくれるってことでしょ。貴方が先代にしたようにね。なら私はそれを受け取るにふさわしい存在になる必要がある。だから、貴方の力を借りる前に、自分の出来ることを精一杯やって事件を解決していこうって、そう決心したんだ』
パルスィは自分の裡に湧く感情が、軽蔑を越えて困惑の域に達していることを自覚していた。
理解できないなりにパルスィが想像の翼を広げてヤマメの話を解釈すると、つまりは自分が気まぐれに言ったことを、この土蜘蛛は何をどう勘違いしたのかは知らないが、事件解決の原動力にしていたというのだ。勝手に意味を見出されても、迷惑なだけだというのに。
それでも、この土蜘蛛は結果を出した。迷子を保護したり地霊殿のペットを探したり、後は精々チンピラ同士の喧嘩を止めたくらい。耳にしたのは、そんな小さな事件ばかりだったが、確かにヤマメは自力で、立派に“はぐれ蜘蛛”としての役目を果たしていたのだ。
『それで? そうやって事件を解決していけば、私が貴方を認めるとでも……?』
暗にお前のやっていることは、ただの自己満足だと言ったつもりだったが、意外にも土蜘蛛は首を横に振った。
『さあ。そればかりは貴方次第だから、私には何とも』
『なら、どうして』
『私は、私自身が満足できるまで、精一杯できることをやりたい。貴方に認めてもらえなくったって、同じことさ』
そしてヤマメは、深淵を恐れることなく、パルスィの緑眼を見据えながら、力強く笑った。
『もう、弱いだけの自分には飽き飽きなんだ』
思わず、目を瞠った。
在りし日の影を、そこに見たような気がした。
地の底に流れる涙を拭う、“はぐれ蜘蛛”。
目の前の少女はどう見ても気迫や威厳とは無縁だったが、その系譜は、あるいは脈々と受け継がれているのでは。ヤマメの笑みは、錯覚でもそうパルスィに思わせるのに十分なほどの決意を秘めていた。
二の句を継げないパルスィを見て、また気分を害してしまったと勘違いしたのか、ヤマメが一転不安げな表情を浮かべる。その情けないほどの落差に、なんだかもう色々と馬鹿馬鹿しくなってきた。あまりに馬鹿馬鹿しすぎて、自然と言葉が口をついて出た。
『報酬は』
『へ?』
『報酬は私の言い値。情報の価値と釣り合おうが釣り合わまいが、文句は一切言わせない。私はビジネスをやっているわけではないの』
『え、ちょ、ちょっと。それって……』
『こちらの条件は提示したわ。返答は?』
睨みつけて問うと、ヤマメはいきなりパルスィの両手をガシッと握ってきた。
虚をつかれて何も出来ないでいると、そのまま興奮しきった様子でブンブン手を振る。とても握手とは呼べない荒々しさに抗議しようと、ヤマメの顔を睨みつけて、そしてギョッとした。
笑顔には違いないのだが、なぜだかヤマメの両の目には涙が浮かんで、今にも溢れそうだった。今日はまだ特に泣かすようなことは言ってないはずだと、パルスィが本気で混乱している間も、ヤマメはしきりに「ありがとう」と繰り返すだけだった。涙は今や滂沱として流れていた。
嗚咽の混じった礼が辺りに響く中、パルスィは、あるいは生まれて初めて思った。勘弁してくれと。
『あっはっは。いやー、お恥ずかしいところを見せちゃったね』
照れたように、しかしすっきりした顔で、ヤマメは快活に言った。目はまだ赤いが、もう落ち着いたようだ。
『本当にね。私が貴方なら、今すぐ橋から飛び降りるレベルの生き恥よ』
『そうでもないさ。地の底に流れる涙の中でも、嬉し涙は拭う必要のない宝石だよ』
『それも“はぐれ蜘蛛”一流のセリフなのかしら。まるで似合っていないし、そもそもセリフ自体が残念ね』
『うぐっ!』
ヤマメはガックリと肩を落とした。ようやく言葉の棘が刺さったようで、いくらか溜飲は下がったが、まだ本調子とはいかない。
『妬ましいほどにおめでとう。さあ、これで貴方の目的は果たせたでしょう。だからもうさっさと帰りなさいな』
なんだかどっと疲れて吐き捨てるように促すと、ヤマメは少し残念がったが、パルスィの様子を見てそうだね、と頷いた。
これで本当に、この訳の分からない土蜘蛛と縁が出来てしまった。この土蜘蛛のことだ、情報をもらえるようになっても、これまでと同様、目的もなくただ話をしに顔を見せるのだろう。今後のことを考えると、パルスィは頭が痛くなる思いだった。
しかし、ヤマメに情報を渡すと決めたのは、気まぐれだろうと気の迷いだろうと、結局はパルスィの意思である。涙が出るほど感謝されてしまっては、さすがに今のは無しとは言えないし、そもそも水橋パルスィは、一度自分で決めた約束を反故にするような精神は持ち合わせていない。汚すことのできぬプライドあってこその、最悪である。
『じゃあ、今日はこれで。ありがとうございました。あ、お土産はちゃんと受け取ってね』
わかったわかったと、パルスィがうんざりしたように手を振ると、ヤマメは先代の“はぐれ蜘蛛”には見られなかった、彼女一流の笑顔を浮かべ、そして言った。
『これからよろしく頼むよ、“姫さん”』
最後の最後で、また唖然とさせられた。
今、この土蜘蛛は誰のことを呼んだ? むしろ何を口走っているのだ?
空いた口がふさがらないまま、無言で問い詰めると、ヤマメは頭を掻きながらしれっと言った。
『いや、“水橋さん”も“パルスィ”もしっくりこなかったからさ。いっそもうあだ名で呼ぼうかと思って』
緩んだ笑みを向けるヤマメに、パルスィはわずかに残された気力を振り絞って、深淵から響くような低い声で言ったのだった。
「『おかしなあだ名は、やめていただけるかしら』。まったく、変わり映えのしない」
あれが最初の一回目。
“はぐれ蜘蛛”と“情報屋”の、嫉妬妖怪のあだ名のようにおかしな関係の始まりだった。
この馴れ馴れしい妖怪とは、長い付き合いになってしまうと思ったのもちょうどこの時で、そして今度こそ、その予感は当たってしまったのだった。
ヤマメがよこした茶菓子を、一つ頬張ってみる。まあまあの味だが、熱くて濃いお茶が怖い。あれももう少し気を利かせられたら、多少は扱いを改めてやらないこともないのに。
そんなことを考えている自分の表情が、人に見られたら最悪の沽券に関わるほど穏やかだったことを、パルスィ自身は知る由もない。
7.
薬の線で聞き込みを進めてみると、これまでは聞くことができなかった話が色々と出てきた。
パルスィの言うとおり、確かに夢見がよくなるという薬は、地底の住人の間に浸透しつつあるようだ。薬のことを知っているかとそこかしこで話を投げかけてみると、ヤマメが意外に思うほど良い反応が返ってくる。
「おいおい知らなかったのか。“はぐれ蜘蛛”がそんな体たらくでどうするんだい」
薬の情報と一緒に、決まって頂戴したからかいの言葉である。ごもっともと、肩をすくめるしかない。
話によると、夢見がよくなる薬の正式名称は“胡蝶夢丸”というらしい。なるほど蝶になってヒラヒラと舞うような、気持ちの良い夢が見られそうなネーミングである。入手経路は様々で、酒の席で知人から分けてもらったり、売人から直接買うのが主であり、公に流通しているものではないようだ。値段はやや高め。件の薬師は良心的な商売をすると聞くが、地底の暗がりで生きる者に、同じ心がけを期待してもしょうがない。それでも、効果は覿面ときているので、誰も騙されたとは思っていないらしい。
「ま、上等の酒を飲む代わりと思えば、悪い買い物じゃあないさ」
そういうものかと首を傾げながら、高い金を払ってまで良い夢を見たいという感覚は、やはりよくわからなかった。精神が健全な証拠なのかしらんと、ヤマメは嫉妬妖怪を思いながら結論づけた。
そして聞き込みを続けていくうちに、ヤマメの気を惹く情報が出てきた。
「上から流れてきた薬の中には、ヤバいブツも混じっているらしい」
「ヤバいブツ? それ、危険な薬ってこと?」
「詳しくは知らないよ。そういうのがあるって噂さ」
ヤマメはこの新たな糸を辿って、都を隅々まで渡り歩いた。さすがにこれまでのように順調とはいかなかった。そもそも知らないという者がほとんどだったし、知っていそうな者もみな一様に口が重かった。
そこでヤマメは、西区に建てられた鬼の詰所に足を運んだ。本部とまではいかないが、図体の大きい鬼たちが集まる場所というだけあって、分所といえど周りの建物とは一線を画す巨大さだ。詰所に来るたびに感じる緊張を、一つ深呼吸してほぐす。そして、あくまでリラックスした態度を取り繕って、ヤマメは戸を開けた。
「ちわー」
「ん、どうかされたか……ってげえっ! 黒谷!」
「どうもご苦労様です。しかしナタさん。いきなりげえ、とはひどいね」
ヤマメを出迎えたのは、顔なじみである、自警団の中でも比較的若手の鬼だった。通り名を鉈(なた)といい、半人前のヤマメを何かと厄介者扱いする困った人だったが、これまでも何度か力を貸し借りしあっていることもあって、信頼できる相手ではあった。また、性格にもどこか憎めない部分があって、ヤマメはこの鬼が嫌いではなかった。他にも数人の鬼がいて、挨拶を向けてきたり、ヤマメと鉈のやりとりを面白がるように笑っていた。
ヤマメは適当に椅子を引っ張ってきて、そこへ座る。勝手知ったるというようなヤマメの馴染みぶりが気に入らないのか、鉈は顔をしかめた。同僚と指していた将棋を中断し、ヤマメの対面にどしっと腰を据える。
「ふん、てめえが来ると面倒事の気配しかしねえんだよ」
「まあ実際その通りなんだけど、貴方がたが面倒事避けてちゃあ仕事にならんでしょう」
「相変わらず口の減らんやつめ。ちょっとお頭に可愛がられているからって、いい気になるなよ」
「前も誰だか言ってたけど、旦那が私に甘くするわけないって。それより、ナタさん。今日もちょっと力を借りたいんだ。これ、お土産ね」
「けっ、またバカの一つ覚えみたいに手土産か。どこぞの菓子屋が言ってたぞ。気前のいい常連が出来て大助かりだとよ」
「なんだ、いらないの?」
「おう、これしまっとけ」
あっさりと受け取った鉈と苦笑しながら奥に引っ込んだ同僚の鬼を見比べ、ヤマメはやれやれと首を振った。気難しいのやら扱いやすいのやら、よくわからない鬼である。
「つーかよ。そう毎度毎度、力を貸してもらえると思ったら大間違いだ」
「え? なんで?」
「そこでキョトンとするところがなんかもうおかしいだろ。いいか、俺たちも例の事件追ってて暇じゃねえんだよ」
「思いっきり将棋指してたじゃないか。しかも負け寸前」
「うるせえ。とにかく、てめえなんぞに付き合う義理はねえんだ。帰れ帰れ」
取りつく島もない。周りを見ても、他の鬼たちは面白そうにニヤニヤと笑って、すっかり傍観の体である。
ヤマメはわざとらしいくらい大きなため息をつく。彼女が諦めたとみて、鉈は勝ち誇ったように鼻をフンと鳴らした。ヤマメは残念そうに立ち上がりながら、ポツリと呟いた。
「あーあ、せっかく左の旦那に良い報告が出来ると思ったのになあ」
ピクリと、鉈の体が跳ねた。気にすることなく、ヤマメはあくまで独り言のように続けた。
「ナタさんの大手柄のおかげでスパッと事件解決! 旦那も喜んでくれただろうに。ああ残念無念」
チラリと鉈を見る。聞こえてない振りを装っていたが、落ち着きなく体が震えている。顔も真っ赤だ。周りの鬼たちは必死で笑いをこらえていた。
「でもナタさんに言われたんじゃあしょうがない。雷が落ちる前に、今日はもうお暇しよう」
「待て」
「ん? どうしたの。とっとと帰るから怒らないでちょうだいな」
「まあ待てと言っている」
たまらず鬼の一人が噴き出した。ヤマメはしれっとした顔で席に戻る。
「今の話。どういうことだ」
「今のって?」
「とぼけんな。お頭がどうこう言ってたあれだ」
「やだ聞かれてたの? 恥ずかしいなあもう」
「頬を染めんじゃねえ気色悪い。で、どうなんだおい」
「いやいや、私もこれまで何度も、ナタさんに助けてもらったじゃない。そのたんびに、旦那には報告してるんだよ。ナタさんの力添えで、ヤマメちゃん大助かりって」
「ほ、ほほう……。ま、まあそうだな。報告はきちんとしねえとな。で、それで?」
「うん。話聞いて、旦那感心してたよ。ナタさんは若いのに見所があるって。ほら、心当たりない? なんかこう、褒められたりとか」
「心当たり……。お、おおそうだ! 確かに酒の席で、「お前もつくづく大変だな」ってねぎらってもらったぜ。なんかそう言うお頭の方がすげえ疲れた顔してたが」
「ん、んんっ? なんか思ってた反応と違うな。まあいいや。でも、今回はナタさんも忙しそうだし、無理は言わないよ。じゃ、私はこれで」
しゅたっと手を挙げて立ち上がろうとするヤマメの肩を、鉈はガッチリと抑え込んだ。仮にも鬼の胆力なので、それなりに痛い。
「水臭えな。話、聞かせろや」
何よりもズイと寄せたその顔が、必死すぎて鬼の形相とはまた違う恐ろしさを醸し出していた。妙な迫力に圧されて、ヤマメはブンブンと首を縦に振るしかなかった。どうやら上手くお膳立てできたようだが、薬が効きすぎた。周りの鬼たちは、今や笑い声を押し殺して腹を抱えていた。
「薬だあ?」
素っ頓狂な声を挙げた鉈に、ヤマメは自分が集めた薬の情報を聞かせた。
そんなものが事件となんの関係があるのかと疑問をぶつけてきたが、それについてはまだわからないと、正直に言うしかなかった。その疑問は、ヤマメ自身も抱えているものなのだ。
「つーかどっからそんな発想が出てきやがんだ」
「姫さんに聞いたのさ。都で変わってることはないかって」
「姫さんって、あの橋姫のことだよな。……お前よくあの最悪から情報が取れるな……」
「いや、そんな真っ青な顔で感心されても困るんだけど」
何かトラウマでもあるのか、思いっきり顔をしかめてみせる鉈はさておき。
ヤマメは噂になっている“ヤバいブツ”の情報がカギと睨んでいるが、自分がその情報を得るのは困難だという認識だった。情けない話ではあるが、長らく地底の暗闇を蠢いてきた者たちの口は、そう簡単に割れるものではないのだ。
だが、聴き手が鬼ともなると話は別である。地底最強の種族である彼らを前に、なお口を開かぬ者たちはそうそういない。鬼にも屈しない本物のアウトローも中にはいるだろうが、それでもヤマメが動くよりは遥かに情報集めも捗るだろう。
と、こうして机上に論を描くのは簡単だが、しかしプライドの高い鬼の手を借りるのは、そう容易なことではない。
「どうだろうナタさん。調べてみてくれないかな」
「また面倒なことを……と言いたいところだが、確かにきな臭え。わかった、そこらのチンピラどもを締め上げりゃいいんだな?」
「なるべくお手柔らかにね」
「どうだかな。あ、おいそうだ。くれぐれもお頭への報告は、正確に、きっちりと、やるんだぞ。いいな、絶対だぞ」
「わかってるって。そっちこそ頼みましたよ。旦那に嘘を言うわけにはいかないからね」
「へっ、生意気な」
早速鉈は、肩をいからせて意気揚々と出て行った。あの気合の入りようなら、多分大丈夫だろう。
背中を共に見送った鬼の青年が、愉快そうに話しかけてきた。
「鉈の扱い方も、堂に入ったもんだな。ヤマメちゃん」
「そんなんじゃないさ。根がいい人なんだよ、きっと」
「違いない」
その後、ヤマメは土産に持ってきた茶菓子を囲んで、鬼たちとの歓談を楽しんだ。鬼と茶を飲むなど、“はぐれ蜘蛛”襲名当初は考えられないことだった。
今回わりかし簡単に話が運んだのも、“地底の住人は助け合い”をポリシーに掲げ、ヤマメが粘り強く積み重ねてきた信頼ゆえなのである。
薬のことはひとまずこれで良しとすることにして、ヤマメはいったん事務所に戻ることにした。とりあえず今やれることはなくなったし、ここらで今後の方針を立て直す必要がある。
ヤマメはひとつ大きなあくびをした。ここ数日は十分な睡眠がとれていない。まさか自分が寝る間も惜しんで働くようになるとは、昔は考えもしなかったが、“はぐれ蜘蛛”を継いでからは、それも珍しくない生活を送るようになっていた。大変ではあるが、しかし文句は湧いてこない。キツイ役目であるのは襲名前からわかっていたことであるし、昔の気ままな生活とはまた違う、充実感のようなものが、ヤマメの今を彩っていた。
ついでに切れそうな茶葉でも買っていこうかと、雑貨屋へ向けて通りを歩いていると、ヤマメは知っている顔を見つけた。それも最近知り合ったばかりの娘だった。
「風子さん」
ヤマメが声をかけると、娘は肩を跳ね上げ、墨で塗りつぶしたように真っ黒な長髪を翻しながら振り向いた。驚いたように目を丸くしながらも、風子ははにかみがちに微笑んで頭を下げた。
「こんな所で奇遇ですね。買い物?」
「はい、夕餉の買い出しに。ヤマメさんはやっぱり」
「うん、お仕事さ。今日はもう帰るところだけどね」
「そうでしたか。お疲れ様です。その、私のためにこのような大変なことを」
申し訳なさそうな顔をしながら、また深く礼をする。風子の謙虚な態度を見て、ヤマメは傍若無人な知り合いたちに、彼女の爪の垢を飲ませてやりたい気分だった。主に桶の人とか桶の人とか。
「私が自分で引き受けたことさ。大丈夫、ここ数日で色々進展もあったし、すぐに解決するよ
「本当ですか。ありがとうございます」
「そうだ。時間があれば少し話せないかな」
「お話、ですか?」
ヤマメの申し出に、風子は少し考えるような表情を浮かべた。
ヤマメとしては、依頼人である彼女にこれまでの経過を報告がてら、彼女との親交を深めるつもりだった。仕事柄人脈を広げるにこしたことはないし、そういうことを抜きにしても、人懐っこいヤマメにとって友人が増えるのは望ましいことだった。
風子は、やや遠慮がちに言った。
「では、私の家にいらっしゃいませんか」
「ん、この近くなの?」
「はい、この西地区の外れに住んでます。と言っても、大したおもてなしは出来ませんが……」
「いえいえ、お構いなく。じゃあお言葉に甘えて、お邪魔しようかな」
二人は風子の家に向けて歩き出した。
ここらは中央から離れるため、人通りはあまりなく、ヤマメにはなじみ深い喧騒も耳に入ってこない。なるほどこの物静かな娘には、これくらいの気風が性に合っているのかもしれなかった。
「……というわけでさ。ホント、キスメさんのイタズラにも困ったもんだよ」
「なんだかお話を聞く限り、イタズラで済ますようなことではない気が……」
少しばかり話してみて、風子は物静かではあるが、決して陰気な性格ではないことがうかがえた。ヤマメの恥ずかしい失敗談に目を丸くして驚いてみせ、下らないジョークにも控えめではあるが笑ってくれる。一言で言うと良い子なのだった。ヤマメの知り合いはくせ者が顔を連ねているので、こういう素直な反応には貴重ささえ感じてしまう。
しばらく歩を進めていくと、ぱったりと人通りが絶えてしまい、建物も見られなくなった。足音がやけに響き、草木の揺れる音まではっきりと聞き取れるような、活気とはかけ離れた雰囲気が漂っていた。崖に回りをとり囲まれた地帯まで進み、どこまで行くのだろうと、ヤマメが訝しげに思っていたところへ、ようやくポツンと建つ、住居らしきものが見えてきた。
「あれが、私の家です」
ヤマメがその家を見て真っ先に抱いた印象は、“寂しい”だった。
家屋は今にも崩れ落ちるのではないかと思うぐらい、ところどころ傷んでいる。ガタガタと派手な音がしたので見ると、建てつけの悪そうな戸を、風子が苦労しながら開けているところだった。その苦労する開け方にすら、風子はもう慣れているようだった。
お邪魔しますと、ヤマメが家に踏み入れると、音を立てて床がきしんだ。風子は座布団を勧めてきたものの、どうやら一枚しかないもののようだ。ヤマメはどうしようかと一瞬悩んだが、断るのも失礼な気がして、素直に頂戴しておいた。風子がお茶を淹れてくれている間、ヤマメは薄い座布団に座りながら、家中を見回した。一人の娘が生活するのに、最低限必要なものしか置いていなく、人を招くことなど最初から想定していないかのようだった。なんだか、ひどく侘しい気持ちに駆られた。
「驚いたでしょう、こんな家で」
ヤマメに茶を渡しながら、風子は儚げな苦笑いを浮かべた。孤独を当然のこととして受け入れている者の顔だった。ヤマメは胸にチクリと生じた痛みをはぐらかすように、冗談めかして言った。
「正直少しね。まあこんなのどうってことないさ。いいかい、そこらの鬼や私の同族に酒奢って、後はちょっとおだてていい気分にさせるんだ。そうすればすぐに直してくれるよ。風子さん、可愛らしいしね」
クスリと笑って、しかし風子は首を振った。
「いいんです。今のままでも困ってはいないし」
「うーん、そう? でもねえ」
「それに、何分肩身が狭い身ですので」
風子が何気なく言ったセリフに、ヤマメはハッとした。
妖怪たちの禁忌に手を出したという、彼女の過去。その消せない烙印によって、彼女が地底でどんな扱いをうけてきたか、ヤマメのようなお気楽者といえど、想像に難くはない。そして今なお、小さな身に刻むにはあまりに壮絶で悲しい出来事は、遠い時間を越えてなおその鎖を伸ばし、彼女を雁字搦めにしている。寂しい地の底の果てに立った寂しい家、そして彼女の儚げな笑顔こそ、その表れなのかもしれない。
ヤマメがらしくなく、言葉に迷っていると、風子は穏やかに笑いながらお茶を勧めてきた。これでは最初に事務所で会った時と真逆である。仮にも自分は風子の依頼を受けているのだ。こんなことではダメだなと、ヤマメは苦笑いしながらお茶を口にした。家の有様とは裏腹に、丁寧に淹れられたようで、とても美味かった。
「じゃあ、早速中間報告といかせてもらうよ」
ヤマメはこれまで自分が調べたことを、かいつまんで説明した。“怨霊憑き”の正体、薬の情報。それらを風子は黙って耳を傾けていたが、陽についての話に及ぶと、おずおずと躊躇うように口を挟んだ。
「その……陽は、まだ鬼の方々には」
「大丈夫……と言っていいのかはわからないけど、とにかく鬼だけじゃなく、誰も彼の居場所を突き止めた者はいないっていうのが現状だね」
「……そうですか」
「心配?」
「……」
「ごめん。今のは意地悪だった」
風子の複雑な胸中は察するに余りある。
どう取り繕っても、陽が地底の平穏を揺るがし続ける、危険人物であることに変わりはない。まだ死者が出ていないのは単に運が良かっただけで、陽をどうにかしないかぎり、この先も同じように済む保証はまったくないのだ。
一方で、陽の身を案じる彼女の気持ちも理解できた。恋心とは違えど、ヤマメも大切な人を持ち、そして失った身だ。長年接触の無かった者とはいえ、みすみす陽の死を容認できるほど、風子は果たして冷淡でいられるのかどうか。
涙が、ポタリと落ちた。風子は慌てて俯いたが、ヤマメには見て見ぬふりはとてもできなかった。
「風子さん……」
「ごめんなさい。私、駄目ですね。泣く資格なんて、あるわけないのに」
声が震えていた。次から次へと、雫が静かに零れていく。寂しさと孤独を湛えた家に、さらに風子の悲しみが沁みこんでいくようだった。
ヤマメは拳を握りしめた。これは、流さなくてもよい涙だ。自分で拭えぬのなら、誰かがハンカチを差し出して然るべき涙だ。
「大丈夫」
自然、言葉が出ていた。
「陽さんは、必ず私が止めてみせる。そして、風子さんを泣かせたこと、貴方の目の前で土下座させてやる」
安請け合いはするな。経験で得た教訓の一つだ。けれど、涙に暮れる少女を前にして、ヤマメはそう言わずにはいられなかった。
「約束するよ。だから泣かないで」
ヤマメは安心してもらえるよう、にこやかに笑いかけた。
風子への約束は、そのままヤマメ自身の心を決める誓いでもあった。
ヤマメの言葉を聞いて、風子は詫びを入れながら涙を拭い、弱々しくではあるが、笑みを返してくれた。事件が解決した暁には、家を纏う悲しみを吹き飛ばせるくらいに笑って欲しい。そう願うばかりだった。
その後は風子も落ち着き、つつがなく報告は進んだ。ヤマメの話を聞いた上で、何か心当たりがあるかと問うてみたが、芳しい反応は得られなかった。このような人が近寄りそうにない辺境に住んでいては、事情にうとくなるのも無理からぬことではあるのだが。
「ヤマメさん、よろしければ夕飯を召し上がっていきませんか」
報告が一通り済み、ヤマメが家を辞そうとしたとき、風子の方から申し出があった。鬼の詰所で茶菓子は頂いたものの、そろそろ腹の虫が鳴きそうな頃合いだった。それに、先ほどのお茶の味からも、風子の料理は期待できるという予感があった。ちなみにヤマメ自身は、そちらの方面はかなりおろそかにしてしまっていて、飯をたかりにくる某釣瓶落としに文句を言われてたりする。
風子の腕前が楽しみというのもあるが、自分と食事をすることで、少しでも風子の気が紛れればと思った。飯は誰かと食う方が、美味い。
「そうだね、迷惑じゃなければ喜んで」
断られると思っていたのか、風子はどこかホッとした表情を浮かべた。つくづく奥ゆかしい娘である。
「それでは水を汲んできますね。何もないところですが、ゆっくりしていて下さい」
風子が出ていくと、ヤマメはメモ帳を取りだそうとして、やめた。ごろんと寝転がって、目を閉じる。
思えば、色んな人が動いている事件だった。鬼たちは今も寝る間を惜しんで、警邏・捜査に勤しんでいるはずだ。全ては彼らの愛する地底の平和のため。文句の付けどころがない、揺るぎ無き正義である。
しかし彼らの中で、誰も目の届かぬ場所で流された涙を知る者がいるだろうか。独り寂しく、地底の平和と自らの思いの間で葛藤する、小さな存在を知る者がいるだろうか。
例えば左に風子のことを話したとする。合理的な彼のことだ、それでも地底全体のために、陽を討つことを躊躇わないだろう。たとえ非情であってもそれは、地底の安全を担う彼が、当然取らなければならない選択肢である。いつだって彼はそうだったし、これからもその姿勢は変わらないだろう。
だがその正義では、風子が救われない。
“はぐれ蜘蛛”は地の底の涙を拭う。彼女自身の正義に、例外など作りたくはなかった。
「でも、旦那には甘いって言われるんだろうなあ」
正義を全うしたければ、相応の力を持て。
何度となく左に叩き込まれたセリフだった。事件に関われば関わるほど、この言葉の意味をひしひしと思い知らされる。力なき正義は、ただの虚しい遠吠えと同じである。
情報を全面的に鬼に渡して、ヤマメはさっさと舞台から去るのが、地底の安全のためには一番良いのだろう。いくら白狼天狗が逃げ回ろうと、追い詰められるのは時間の問題だ。それでも、ヤマメは“はぐれ蜘蛛”として――彼女の涙を見てしまった者として――風子の力になってやりたかった。こんな堂々巡りに陥ってしまうのも、力の無さ故だ。
「強く、なりたいな」
我知らず呟いた、その時である。
ガタンと、なにか大きな物音がすると同時、ヤマメの目を一気に開かせるものが耳に届いた。壁一枚隔てているが、明らかに風子の悲鳴だとわかった。
急いで飛び起きて、立てつけの悪い戸を躊躇なく蹴破り、外に躍り出る。そこでヤマメが目にしたものは、顔を蒼白にした風子。地面に転がった桶は、中身をぶちまけたようで空だった。そして、風子の視線の先。切り立った崖の上に、人影があった。
細身ではあるもののガッチリとした体格で男だとわかるが、男性にしては長く、そして真っ白な髪をなびかせて、一心にこちらを見下ろしていた。
「……陽!」
風子がかすれた声で呟くと、人影は崖から飛び降りてきた。一歩も動けない様子の風子に、妄執が暗く滾る目を向ける。ヤマメのことなど、まったく見えていないようだった。白狼天狗は低く唸るように、風子に言葉を投げつけた。
「話が違うぞ、風子……!」
話が違う? 言葉の意味をヤマメが考える前に、陽は懐から何かを取り出す。ビー玉のようにも見えるそれを、陽は口に放り込み、一気に噛み砕いて飲み干す。そして胸をかきむしりながら飢えた狼のように唸りだすと、どこからともなく、無数の怨霊が沸いてきた。ヤマメは驚愕とともにその光景を見ていたが、次の瞬間、今度こそヤマメは戦慄した。
陽がその身に無数の怨霊を取り込むと、まず細身の体格が、鬼と見紛うくらいに大きく、強靭に膨れ上がった。白い体毛が見る見るうちに伸びて全身を覆い、ご丁寧に尾まで生えている。そして口が裂けて鋭利な犬歯が覗き、顔まで毛むくじゃらになって、血走った目は飢えた獣を思わせた。
「……嘘でしょ」
白狼天狗は瞬く間に、先祖返りを起こしたように、話で聞く狼男のような風貌に変わり果ててしまった。これで月まで見えたら出来過ぎのところだ。
真っ白な人狼は、狼そのものの遠吠えを響かせ、準備は整ったと言わんばかりに風子を見据える。風子はようやく後ずさりをするが、足が震えてそれもままならない。
「こっちだ! ガルガル野郎!」
今にも風子に飛びかかりそうな気配を感じ取ったヤマメは、とっさに声をあげて、注意をこちらに引き付けようとする。人狼は初めて気づいたというように、血走った目でヤマメを一瞥した。しかしすぐに興味をなくして風子に向き直り、ついに人狼の牙が、恐怖に震える娘に襲い掛かった。
「ちっ!」
ヤマメは風子に向かって手を突き出した。右手から放たれ、ロープのように編まれた糸が風子に巻きつく。そのまま高く持ち上げて、一本釣りの要領でヤマメの方へと引き寄せた。すんでのところで人狼の攻撃をかわすも、すぐさま人狼は次の行動に移った。ギロリとこちらを横目で睨むと、今度はヤマメのほうへと向かってくる。
手の中にある風子へ、無我夢中で叫んだ。
「逃げて風子さん! 安全なところへ隠れてるんだ!」
「で、でも……!」
「いいから! ぶっちゃけ邪魔なの!」
ヤマメの剣幕に圧されるように、風子はすぐに身を翻した。その間に、少しでも時間を稼ごうと牽制の妖力弾を撃ちこむ。しかし人狼は俊敏にそれらをかわしていく。
「弾幕ごっこなら百点の動きだね、ちくしょうめ」
思わず恨み言を漏らす。だが時間稼ぎの甲斐あってか、風子の姿は見えなくなっていた。安心したところへ、人狼の爪がヤマメを引き裂こうと振り下ろされる。
「へん、食らうか!」
地面に飛び込むようにして攻撃をかわした。ヤマメを取り逃がした爪は、代わりに恐るべき威力を以って地面を砕いた。ヤマメは勢い余ってゴロゴロと転がったのち、すぐさま片膝立ちになって身構える。
出合い頭の攻防を経て、ようやく出来た間。砕かれた地面を見て、ゾッとした。見た目に違わず、軽く見積もっても鬼と同等の力を持っていそうである。まともに攻撃を食らえば、自分の体など簡単に肉片と化すだろう。
一方人狼はヤマメのことを、今や完全に邪魔者として認識したようで、血走った目で睨みつけてくる。口からはダラダラとよだれが垂れていて、ケダモノのおぞましさを彷彿とさせる。
「探したよ、陽さん。出来るなら穏便に済ましたかったけど、どうやらそうもいかないみたいだ」
視線を交わすこと一瞬。先に口を開いたのはヤマメだった。自分を煩わせる存在に苛つくように、唸り声をあげていた人狼だったが、
「貴様……何者だ」
意外にも、唸り声に混じって聞き取りづらくはあったが、人の言葉を発した。どうやら話は出来るらしい。もっとも、話が通用するかどうかはまた別問題だが。
それにしてもこの化物は自分のことを何者だときた。地底の住人なら、そんな質問はしない。ヤマメの背負う名は、知らぬ者はいないと言い切れるほどに、地の底に轟いている。ならば、地上からはるばるやって来たこのおのぼりさんにも、教えてやらねばなるまい。
ヤマメは片目を閉じて、不敵に笑った。
「そうだね。上のお友達への土産話にするといい。もっとも、あんたは地の底の暗がりで、臭い飯を食う羽目になるんだけど」
その名の意味を。
背負うことの覚悟を。
地底を泣かす者に突きつける。
「私はヤマメ。――地の底の病巣を病で制す、一介の“はぐれ蜘蛛”さ」
人目も月明かりも届かない地の底の果てで、ケダモノの牙と蜘蛛の糸が交差する。
8.
妖怪にとって強くなるということは、すなわちどこまで自分を妖として純化できるかに尽きる。
ヤマメに戦いを仕込んだ師の言葉である。
例えばただひたすらに強く、凶暴で、決して抗えぬ力の象徴として人間がイメージした、“鬼という現象”。
例えば朝廷の敵として恐れられ、果てには病をまき散らす祟りのような存在として認識されるようになった、“土蜘蛛という現象”。
自らの存在の根源ともいうべき幻想に、どこまで近づけるか。あるいはそこからどれだけ力を取り出せるか。
戦闘訓練においては技、体の部分を徹底的に叩き込まれるのはもちろんだが、もっとも重要視されたのは心の部分の鍛錬だった。人のそれとは違い、妖怪にとって心の部分を鍛えるとは、自らの能力の基盤となる幻想を理解し、自分のものにすることをいう。
自らの裡をひっくり返してルーツを探るかのような修行は、鏡の向こうのさらにその先にある、己の魔性を無理やり覗かされるようで、ひどく精神が消耗した。だが、もはや自分でさえ忘れそうになる、純粋な妖としての己を認識することは、間違いなく強さにつながった。
精神の強さは妖怪の強さ。幻想郷では妖怪が平和ボケするようになって久しいが、強者とはそんな時代においてもなお、妖怪としての本分を忘れることのない、確固たる自己を持つ者のことをいう。ヤマメは血の滲むような特訓の日々を経て、それを理解したのである。
「さしずめあれは、何かを使って、無理やり力を引き出したってところかな」
目の前の人狼の異形は、白狼天狗という幻想により近づいた証拠だ。それにしたって姿形まで変わるのは行き過ぎだが。
陽は何かを口に含みながら怨霊を取り込んだ。謎めいていた“怨霊憑き”の正体が、いよいよ見えてきた。
「まったく、楽して強くなったつもりかもしれないけどね。そういうのって、後で必ずツケ払わされるもんなんだよ、“怨霊憑き”」
言いながら立ち上がると、ヤマメは腰元で両手を広げて、そっと目を閉じる。
戦闘の真っ最中にも関わらず、あまりに無防備な態勢になった獲物を、人狼が見逃すはずも無かった。獰猛な叫び声をあげながら人狼が距離を詰めてきても、ヤマメは動かない。が、人狼は一瞬、足を止めそうになった。
突然ヤマメの周りだけで風が吹いているかのように、彼女の髪が、衣服が、激しくなびき出した。獲物の不可解な様子に、それでも人狼は構うことなく突っ込んできた。ヤマメはまだ目を閉じて佇んでいる。そして薙ぐように振り出された爪が、ヤマメに届くかというその瞬間、ヤマメはカッと目を見開いた。
纏っていた風は暴力的に膨れ上がって嵐となり、近づいてきた人狼を一気に吹き飛ばす。思わぬ反撃に合い、毛むくじゃらの顔を歪めながら立ち上がると、獲物の様子は一変していた。
「なに……!?」
結んでいたリボンが弾け、くすんだ短めの金髪は、風に流されるままになっている。人狼を見据える瞳は紫色に妖しく輝き、その全身に、紫煙のように揺らめく妖気を纏っていた。姿形はほとんど変わらないのに、存在の密度が先ほどまでとは比べ物にならないほどに上がっていた。
裡に秘められた土蜘蛛という幻想を見つめ、己が魔性を解放する。これこそが、喧嘩の域を越えた戦闘をするための、ヤマメの本気だった。
ヤマメが顔の横で妖気を振り払うように右の手首を振ると、本能的に畏れを感じ取ったのか、人狼は一歩後ずさった。しかしヤマメはその後退を咎めるように、左手の人差し指を人狼に突きつける。
この地底を泣かせる者は決して逃がさない――。
誰にも切れないその意思を込め、地の底に巣食う病巣に“はぐれ蜘蛛”が投げかけ続ける言葉。
「さあ、お前の罪を数えろ」
都を荒らしまわったこと、地底の住人に不安の影をもたらしたこと、何よりも、風子を泣かせたこと。
復讐などという大義名分を掲げたところで、自らの行為が正当化されるはずのないことを、きっちりわからせる。聞く耳持たぬのなら、体に叩き込むまでだ。
「行くよ」
初めてヤマメが攻勢に打って出る。突き出していた左手と、その反対の手の両方を使って、糸を吐き出した。それぞれの五指から繰り出された十本の糸は、縦横無尽の軌道を描きながら、人狼に向かって突っ走る。
「ガ、アァァァァァァッ!」
自らを奮い立たせるようにおぞましい雄叫びをあげ、人狼は襲い掛かってくる糸を爪で薙ぎ払う。何本かは切り落とされたが、残る数本が意思を持つように、振るった腕に絡みついた。引きはがそうとするも、粘るような糸は恐るべき頑丈さで人狼の腕を掴んで離さない。その隙を見逃すほど、今のヤマメは甘くはなかった。
「こんのっ!」
ヤマメが叫ぶと同時、人狼の足が地から離れる。重力が無くなるような感覚を覚えたのも一瞬、そのまま崖の岩肌に叩き付けられた。
投げ飛ばした人狼の体が落下しきるのも待たず、ヤマメは妖力弾を撃ちながら一気に距離を詰めにかかる。しかし甘くないのは人狼も同じだった。
落下している最中にも関わらず、猫のようなバランス感覚で態勢を整え、ヤマメの撃った妖力弾を尽く弾いていく。そして着地と同時、ヤマメの放った右拳に合わせるように、自らの腕を突き出してきた。
「――くっ!」
「グ、ヌ……!」
互いに紙一重で攻撃をかわし合い、人狼は攻撃の勢いのまま、ヤマメの横を走り抜けた。再び距離が空く。
崖を背負ったヤマメは、ちらりと上を仰ぎ見る。人狼をぶつけた箇所には亀裂が走っており、衝撃の大きさを物語っていたのだが。
「なるほど、丈夫なのね」
引きつった笑いと冷や汗が同時にこみ上げる。先ほどの攻撃もきっちり決まると思ったが、相手もさるもの、姿に違わぬ化物ぶりである。しかし、ヤマメはこれまでの攻防で、ある推察を立てていた。
「すごい力ではあるけど……どうやらそんなに戦いが得意ってわけじゃあなさそうだね」
これまでの攻撃は、力任せに爪を突き出す、あるいは薙ぐ。そのどちらかだった。当たれば当然ただでは済まないだろうが、単調な攻撃は、どれほどのスピードで繰り出されようと、見切るのは難しいことではない。
それに鬼からはあれほど逃げ回っていながら、実際に対峙しているこちらの手を警戒することなく、無闇に突っ込んでくるのも、ヤマメの予想を裏付けていた。臆病であるのに慎重さに欠けている。突然己が身に降って湧いた力に溺れていると同時に、見た目小娘であるヤマメを侮っている証拠だ。
「上ではさぞかし安穏と生きてたんだろうに。馬鹿やっちゃったね」
そのような相手に警戒はともかく、無闇に恐怖を感じる必要はない。ヤマメは意を決したように、どっしりと身構えた。
対する人狼も今度こそ爪を突きたててやろうと、ヤマメを狙って飛びかかってくる。
――芸のない。
攻撃を待ち構えていたヤマメは、顔面に向かって一直線に繰り出された突きを、引きつけるようにしてかわす。頬をかすめ、血が飛び、岩壁が崩れる音がしたが、ヤマメは動じない。
「さっきのお返し!」
左足で地面を踏み抜き、人狼の分厚い胸元に紫色の妖力を纏った肘を叩き込む。相手の勢いも利用したカウンターは、今度こそ着実にダメージを与えたようで、たまらず人狼がよろける。この機は逃す手はなく、ヤマメはすぐさま追撃に入る。
「もういっちょ!」
相手と入れ替わる形になったヤマメは大きく飛び上がって、正面の岩肌に糸を放ち貼り付ける。そして振り子の要領で加速し、人狼の後頭部に強烈な両足蹴りを見舞った。人狼の巨体は、めり込まんばかりの衝撃とともに崖へと突っ込む。
人狼の頭を踏み台にし、宙返りしながら着地する。手ごたえはあったが、しかし人狼は崩れた岩肌を押しのけて、のっそりと立ち上がる。桁外れのタフさにいっそ呆れたが、上等。倒れるまでいくらでも付き合ってやると、ヤマメは大きく息を吐いた。紫色の瞳は薄く細められ、普段の陽気な彼女からは想像もつかない、静かな鋭さを伴っている。
だが人狼はそれ以上に、異様な目つきでヤマメを睨んでいた。
「小娘がぁ……!」
それなりに肝の据わった者ですら震えあがりそうな、凄まじい形相。だがヤマメは見抜いていた。あれは、ケダモノが追い詰められた時に見せる表情であることを。
ヤマメはだらりと腕を下げて構えを解く。そしてあえて挑発するように、不敵に笑いかけた。
「獲物に噛みつかれて怒っちゃったかな? お生憎様、あんたが蜘蛛を食おうとしたって、逆に巣にかかるのがオチだよ」
牙をむき出しにして憎々しげに唸っていた人狼の怒りは、ヤマメの挑発によってついに爆発した。辺りの空気を震わせるほどの雄叫びを上げ、今度こそヤマメを食いちぎろうと、大口を開けて突進してくる。が、
「こんな風に、ね!」
そう言いながら腕を引くと、人狼はガクンと糸に足をとられ、地面に背中から倒れ込みそうになる。だがそれすらもヤマメは許さなかった。倒れかかった体は、いつの間にか張り巡らされた巨大な蜘蛛の巣に突っ込み、人狼の四肢をさらに伸びてきた糸が絡みつく。あっという間に、人狼の巨体は十字に張り付けられるように、蜘蛛の巣に拘束された。
それらはヤマメの挑発に人狼が気を取られている隙を狙って、密かに仕掛けてあったものだった。冷静さを失ったケダモノが、巧妙に隠された細い糸に気づけるはずもない。
「そんじゃ、ちょっと神妙にしてもらおうか、“怨霊憑き”」
懐から、符を取り出す。それも弾幕決闘で使うようなただの紙切れではなく、戦闘用に力を封じてある特別性だ。
符を天高く放り投げると、紫色に淡く輝く光の粒子が符を包んだ。秘めた力を解放することで、ヤマメの妖力が一瞬、さらに膨れ上がる。ざあっ、とヤマメの金髪が激しくなびいた。
照準を付けるように左手を突き出すと、背負った妖力は蜘蛛の足を象った八本のレーザーと化す。ただならぬ気配を察して人狼がもがくが、全身に纏わりつく強固な糸から逃れる術はない。もはや人狼は、蜘蛛の巣にかかった哀れな獲物でしかなかった。
「――これで決まりだ」
突き出した手を握り込むと、それを合図として、八本足のレーザーが次々に人狼の巨体へ突き刺さった。容赦のない攻撃が巣ごと人狼を吹き飛ばし、幾度も地面で跳ねた後、その体はようやく動きを止めた。
ヤマメは残心のようにしばらく構えを解かないままでいたが、人狼はもう起き上がってくることはなかった。
「ふぃー……。やれやれ」
張っていた気を緩めるように息をつく。妖しく輝いていた瞳の色は元に戻り、纏っていた妖気も霧散していった。
予備のリボンを取り出して、髪を留める。戦闘の度にリボンがおじゃんになるのはどうにかならないものかと、そんな緊張感のないことを考えていると、倒れ伏した人狼の体に変化があった。全身から取り込まれていた怨霊が次々と飛び出ては弾け、そのまま空気に溶けていく。それに伴い、陽の体も化物じみた人狼から、元の姿である白狼天狗へと戻っていった。これまた異様な光景ではあったが、もう動じない。化物に変化するのと比べれば可愛いものである。
ヤマメはもう一度ため息をつきながら、頭を掻いた。まだ後処理が残っているが、とりあえずは陽の身柄を鬼に差し出せば、事件も一区切りつくと思っていいだろう。
「これから散々、鬼の方々に絞られるんだろうなあ。お気の毒さま」
同情はしないが、手だけは合わせておく。寝てる間に糸で拘束しようと、ヤマメは陽に近づこうとしたが。
「……?」
不意に、頬を撫でる風を感じた。
はてと思った次の瞬間、凄まじい勢いで突風が吹いた。辺りの木々がしなるように揺れ、戦闘で砕けた石くれが転がる。
「なっ、なんだあ!?」
立っているのがやっとなほどの強風に混乱していると、強風はやがて局所的な竜巻となり、辺りのがれきや砂ぼこりを舞い上げ始める。もはや目を開けることも出来なくなったヤマメは、竜巻に巻き込まれないように我が身を守るだけで精いっぱいだった。
「……くっ!」
なんとか安全圏には退避できたが、よしと出来るはずはない。中の様子は見えないが、あの竜巻はちょうど陽が倒れていた場所を完全に飲みこんでしまっていた。安易に近づくことも出来ず、ただ歯噛みするしかない。その間も竜巻は、轟音を立てながら暴虐の限りを尽くしていた。
「陽さん!」
やがて竜巻が収まっていくと、すぐにヤマメは元の場所に駆け寄った。が、転がっているのはがれきだけで、倒れていたはずの白狼天狗の姿は、影も形も残っていなかった。今や辺りは静寂を取り戻し、戦闘によって荒らされたこの場所は、本来沁みこませていた寂しげな雰囲気をより深めたようだった。
ヤマメは、呆然と立ち尽くすしかなかった。
「……何なんだよ、これ」
思わず呟く。そうするとどっと疲れが押し寄せてきて、地べたにへたりこんだ。
一体何が? 陽はどこへ消えた? あの竜巻は何だったのか?
事件は解決に向かうとばかり思われたのに、次から次へと疑問が湧いてくる。しかし答えがわかるわけもない。全てが振り出しに戻ったような気分だった。
しばらくそうしていたが、やがて弾かれるように立ち上がる。
「そうだ、風子さん!」
まだ彼女の無事を確認できていない。上手く逃げおおせたとは思うが、あの竜巻の後ではそんな悠長なことは言っていられない。
「くそっ、こんなんだから半人前って言われるんだ……!」
必死になって探すものの、風子の姿はどこにも見当たらない。
まさか竜巻に巻き込まれて?
最悪の事態が思い浮かんでヤマメの焦りが頂点になりかけた頃、遠くで声がした。声の出所は、ヤマメが風子と歩いてきた道の方向からだった。
「ヤマメさん、御無事ですか!」
意外なほどの速さで空を飛んできたのは、他ならぬ風子だった。彼女は背に自身の長髪と同じ、墨で塗りつぶしたように真っ黒な翼を広げていた。その姿を認めてヤマメは、安心して大きく息を吐く。
「私はこの通りピンピンしてるよ」
「そうですか、良かった……」
「私のことよりも貴方だよ。一体どこに行ってたのさ。戦いに巻き込まれたんじゃないかって、心配してたんだよ」
ビクっと風子の肩が跳ねたのを見て、ヤマメは知らず詰問するようになっていることに気がついた。
「ごめん。ちょっと今余裕なくて」
「い、いえ、お気になさらず。でも、どうかされたんですか?」
「うん、まあ、それはこれから話すけど……。でも、本当に今までどこに?」
「あ、はい。このままではヤマメさんが危ないと思いまして。あの後急いで自警団の皆さんのところへ飛んでったんです。こう見えて、飛行速度には自信がありますので」
落ち着いてみれば、翼をしまった風子の方も息を切らし、長く伸びた黒髪も乱れているという有様だった。風子は風子で必死だったのだ。
それに、風子としては自警団の介入は避けたかったことのはずだ。それを曲げて、ヤマメのために動いてくれたのである。感謝こそすれ、怒るのは筋違いだった。
「応援が来ることを一刻も早く知らせようと、先に飛んできたのですが……」
「ああ……そりゃあ本当に世話かけちゃったね。貴方は依頼人なのに申し訳ない」
「いえそんな……あ、鬼の方々も追いつかれたようですね」
見ると、先刻一緒にお茶をした鬼たちが、慌てた様子でこちらに来た。体を気遣う言葉に、ヤマメは苦笑いを浮かべながら手をヒラヒラさせた。双方の無事を確認できて落ち着いたところへ、「あの……」と、風子が躊躇いがちに口を開いた。
「それで……陽は、どうなったんでしょうか……?」
風子の問いに、事情はまだ聴いていないのか、鬼たちが首を傾け合う。ヤマメは、答えられなかった。まだわからないことだらけだったが、陽の辿った運命だけは、嫌でも察しがついた。それを風子に伝えるのは、そうはいかないとは理解していても、どうしてもはばかられた。
「ヤマメさん……?」
「ヤマメちゃん、本当に大丈夫なのか? えらく疲れた顔しているが」
それでも、いつまでもこうして無為に時間を過ごす訳にもいかない。皆に頷いて、言った。
「詰所を借りられるかな。できたらそこで報告したい」
「ああ、もちろんだ。大至急、お頭にも連絡する」
「ありがとうございます。それと、風子さん」
水を向けられた風子は、ヤマメの真剣な表情で何かを察したのか、さあっと顔が青くなった。
「貴方も一緒に来てくれないかな。その……辛い話になるかもしれないけど」
風子は、返事をしようとして、しかし息を飲みこむしかできなかった。無理を言ってしまったかと思ったが、それでも風子は頷いた。やはり芯は気丈な娘だったが、今はそれも沈痛さを感じさせるものでしかなかった。
鬼たちも漠然と察したか、ことさら風子を気遣うようにして、詰所までの同行を促した。
「……」
天を仰いでみても見えるのは空ではなく、夜のように暗い、地の底の天井。上ならもう一番星が見えるころだろうか。
地の底を泣かす者は打ち倒した。そのはずなのに、事件を解決するたびに湧き上がるほのかな達成感は、微塵もヤマメの胸を満たさないのだった。
決着の戦場となったこの場所を見渡しても、ここにあるのはうすら寒くなるような空虚さだけ。本当に、風子はよくもこんな寂しい所で独り生きていけるものだ。そんなことを考えていると、
「……ん?」
ヤマメは、地面に散らばったがれきの中に、場違いなものが紛れているのに気がついた。
手に取ってみるとそれは、大きく、真っ白な、鳥の羽だった。
***
翌日。
西区を流れる川の岸で、白狼天狗が遺体となって発見された。
無論、これで事件は解決したと楽観する者は、一人としていなかった。
むしろこのキスメちゃんのほうがいいかわいいかも
長いのにそれが苦にならない面白さでした
後半にも期待
後編行ってきます。
ただ一点、決めるべきシーンで他所のネタを脈絡なく拝借したことで浮いてしまったのが残念です
後編も楽しみです。
けど、シリアスな作品にパロディは浮くと思うな。
続けて後編を読ませていただきます。
特にキスメが…
後編行く前に誤字報告を
ヤマメとお燐がパフェを食べようとするシーンより、
> 「頑張れ
“」”が抜けています
詳細な感想は後編まで読んでから書きたいと思いますが久しぶりに面白い長編を読む事が出来て作者様には本当に感謝です。
得点率とコメント率の高さにも納得がいきます。
読んでいて描き手が時間をかけてしっかりと描いた事がわかる作品でした。
後編をこれから読める事がとても幸せです。
ヤマメさんかっこよすぎです。
後編読んできます。
>>裡
内 『裡』は『その状態のまま』と言う意味だそうで、どうやら『内側』の意は無いようです。
>>「私が自分で引き受けたことさ。大丈夫、ここ数日で色々進展もあったし、すぐに解決するよ
括弧の閉じ忘れ
「助け合いでしょ」や「最初から最後までクライマックス」、
「お前の罪を数えろ」など仮面ライダーネタの宝庫で、
非常に楽しませていただきました!
後編も楽しみにしています!