色取り取りの紅葉が散っている。
そんな中で、紅美鈴は苦笑いを浮かべて、頬を掻いた。相手の反応を見て、そりゃそうだろうなーと思う。
彼女の目の前で、ややオレンジっぽい朱のワンピースを着た少女が目を白黒とさせている。この山に住んでいる妖怪か神様だろう。
「……え? あの、それはどういう?」
「いえ、ですからその……言葉通りの意味でして」
何かもっと、別の言葉で言い換えることは出来ないものかと、美鈴はしばし考える。だが、結局は思い浮かばなかった。
“私を殴って下さい”
少女は表情を引きつらせて美鈴からしばし身を引いた。そんな彼女に、美鈴は慌てて両手を横に振って怪しくないですとアピールする。
「いえ、だからそうじゃなくてっ! 決して、怪しい者じゃないです。私、紅魔館というところで門番をやっている紅美鈴といいます。訳あってこの山に修行に来たんです。それで、先ほど拝見した、紅葉を散らすあなたの拳に興味が湧いたといいますかっ! ですので、一度その……どんなものなのかこの身で受けてみたいのです」
「え? 修行……ですか?」
「はい、そうなんです」
「あ、はあ……そうなんですか。分かりました」
納得のいく理由を聞けて、少女が少し安心した表情を見せた。信じてくれた様子に、美鈴もほっと胸を撫で下ろす。
とはいえ、それでもおずおずと、少女はおっかなびっくりといった感じで構えを作る。
「あの……でも本当にいいんですか?」
「はいっ! 大丈夫です。こう見えても私は妖怪。体の丈夫さにはちょっとは自信があります。それに、鍛えていますからっ! ですので、ど~んと来て下さい」
美鈴は胸を反らして、笑顔を浮かべて自分の胸を右手で叩いた。
「わ、分かりました。では……いきますよ?」
「はいっ!」
正直なところ、殴られるのは流石にちょっとだけ恐い。だがしかし、それ以上に少女の拳に対する好奇心の方が勝る。
期待に胸を弾ませながら、美鈴は気合いを込める。静かに呼吸を整え、すべてを受け止めると言わんばかりに、両手両脚を大きく広げる。
“えいっ!”
体に拳が当たる直前、少女が目を瞑るのがはっきりと見えた。そして、掛け声が可愛らしいなとも思った。
だが……。
拳が当たった瞬間、美鈴は目を大きく見開いた。
息が止まる。
じわりと、重い衝撃が拳から広がっていく。
かと思えば、軽やかで鋭い気が美鈴の全身へと伝わる。
美鈴は反射的に……いや、実際にこれまでの修行で身につけた反射で、その衝撃に合わせた気を張って身を守ろうとする。
だが、上手く抵抗が出来ない。その彼女の拳から放たれた衝撃は、重く鋭く……そのくせ、軽やかで……むしろ優しいほどに、美鈴を包み込む。
そこで美鈴の意識は途切れた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
目を開けると、少女が不安げな表情を浮かべて覗き込んでいた。
「ここ……は?」
森の中ではない。布団に寝かされていた。
「あの……すみません。大丈夫ですか? 私、手加減したつもりなんですけど……その、あなた、気を失ってしまって」
「気を……?」
顔を横に向けると、朱いドレスを着た少女が正座をして座っていた。
若干混乱した頭の中で、美鈴は状況を整理する。
直前の記憶を思い出すと、どういうことだったのか少女の言葉の意味を理解した。
「あ……ああ、そうだったんですか。すみません、心配させてしまって。そんなつもりじゃなかったんですが。お恥ずかしい」
照れくさそうに、美鈴は笑って見せた。
「もぅ、お姉ちゃん? ダメじゃない、人様に怪我をさせるなんて」
「だ……だって、仕方ないじゃない穣子。私、本当に手加減したのよ? なのに、こんな事になっちゃうなんて……」
うぅ、と少女が小さく呻く。それに対して、穣子と呼ばれた少女がまったくもうと溜め息を吐いた。
「でも、あなたも本当に大丈夫? お姉ちゃんに聞いたら、山に修行しに来たとか何とか言っていたらしいけど?」
「ああはい、私は大丈夫です。確かに、気を失ってしまいましたが、こう見えても痛みは全然……あれ?」
そこまで言って、美鈴は首を傾げた。
「どうかしたの?」
「……いえ、本当に痛みはありませんね? これは……どういうことなんでしょう?」
美鈴は上半身を起こし、自分の胸を両手でぺたぺたと触ってみる。そして、腕を回したり胴を捻ったりしてみた。だが……やはり痛くない。
「ふ~ん? 痛くないなら、よかったんじゃないの?」
「ほ、本当ですか?」
見ると、ワンピースを着た少女が不安げな表情を浮かべていた。
「ええ、本当です」
そう言って頷くと、彼女はほっと胸を撫で下ろした。やはり、心配させてしまっていたらしい。改めて、美鈴は申し訳なく思った。
「それにしても修行って……、何でまたそんなことを? 紅魔館で門番をやっているってお姉ちゃんに言ってたみたいだけど……お仕事はいいの?」
穣子の言葉に、うんうんと少女も頷いてくる。
「あー、それがですね? 実はこれには訳がありまして――」
その問い掛けに対し、美鈴は照れくさそうに人差し指で頬を掻いた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
紅魔館の幼き主、レミリア・スカーレットの前に立ちながら、美鈴は愛想笑いを浮かべた。こんなものがこの主に通じる訳が無いのだが……あからさまに渋い表情を浮かべるわけにもいくまい。心中を覆い隠す仮面としては実に都合がいいと、ふとそんな不遜なことを考える。
腕を組んで仁王立ちをする主の背後では、その友人であるパチュリー・ノーレッジが力無くベッドの上で横たわっていた。
「おお美鈴よ。負けてしまうとは情けない」
心底失望したと言わんばかりに、レミリアが眉根を寄せて首を横に振る。あまつさえ深く溜息まで吐いてきた。
「いや、そんなこと言われてもですね? 相手は風見幽香ですよ? 正直、これはまだ穏便に済んだ方ではないかと思うのですが? だいたい、大元の原因はパチュリー様にあるわけでしてね? ほら、以前にパチュリー様が庭の花でミステリーサークルを作っちゃったじゃないですか? それを記事にした新聞を見掛けた風見幽香が、『花を玩具にするんじゃない』って……いやもう、会話するどころじゃなかったんですって。見て下さいよ? 私の怪我だってまだ治ってないんですよ? マスパとかダブスパとか、本気で蒸発するかと思いましたよ?」
美鈴は額に張られた絆創膏や腕に巻かれた包帯を指差し、必死にアピールをしてみせた。
だが、レミリアは冷たく見返してくる。
「ほぅ? 無様にも我が紅魔館に侵入者を許し、あまつさえその結果、主の友人を寝たきりにさせておいて、反省はおろか己の保身に回るとは……つくづく、私を怒らせたいようだな、美鈴よ?」
レミリアから物理的にすら感じられる程の、冷たく鋭い怒気が美鈴に叩き付けられる。
「うぅ……、はぁ……はぁ……」
脂汗を流しながら、パチュリーが呻く。「パチュリー様、しっかりしてください」と小悪魔が彼女の手を取って涙を流した。
そんな様子をしばし眺めながら……美鈴は愛想笑いを消した。いい加減、限界だった。
“寝たきりって……ただの筋肉痛じゃないですか”
半眼になって美鈴はぼやいた。
「むきゅううぅぅ。ああ、苦しいわ……私の命もこれまでね」
「パチュリー様~っ!! しっかり、しっかりして下さい~っ!!」
「ですからっ! 筋肉痛で死にはしませんっ! そんな調子で何日寝込む気なんですかっ!? ちょっと小一時間ほど追い掛け回されただけじゃないですか。運動不足にも程があるでしょ?」
わざとらしく……いや、絶対にわざとだ。ゲホゲホと咳き込むパチュリーに対して、美鈴は怒鳴った。
「おい美鈴、お前……主の話を聞いているのか?」
「……何でしょうか?」
こんな茶番劇の為にカリスマオーラだとか威圧的な魔力だとか放たないで欲しいものだと、美鈴は心の中で嘆息した。
「お前は罰として、しばらく門番の任を解く。今後このようなことの無いよう……そうだな、必殺技の一つでも身につけるまで帰ってくるな」
「……ええ~?」
途端、レミリアの形相が変わる。恐怖の主モードから、癇癪モードのそれだ。いよいよ逆鱗に触れてしまったらしい。精神的に余裕が無くなったという意味で。何が何でも修行させたい。その意志だけは痛いほどに理解していた。
「分かったなっ!!」
「……はい」
こうなってしまった主にはどんな言葉も通じない。この結末は最初から分かっていた。……それこそ、風見幽香がやってきたときから。結局、何もかもが茶番であった。
がっくりと、美鈴は肩を落とした。
そんな彼女に、背後に立っていた咲夜が……同情か励ましのつもりだろう、肩に手を置いてきた。せめて、お弁当くらいは豪華なのをお願いしようと思った。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
苦笑いを浮かべ、美鈴は嘆息した。
「――とまあ、こんな感じのことがありまして。いやまあ、お嬢様のことだから数週間もしたら飽きて帰ってこいと言ってくるでしょうけどね? 妖精メイド達にいつまでも門の守りを任せることは難しいですし」
「ふーん、それは大変ね」
「……必殺技……ねえ。それで私の拳が気になったという訳なのね」
しげしげと、少女が自信の両手を見下ろす。
「でもお姉ちゃんってそんなにも強かったの? そうは思えないんだけど? 農作業を手伝って貰っても、体力無いからすぐにヘタれるし」
「うぅ……それは悪いって思っているわ。でも、わ、私も……信じられないんだけど。その、武術とか全然したことなくて。秋だから、力が強くなっているのかしら? そんな実感……無いんだけれど」
「えぇっと? それはどういう? 秋だから? それでどうして木を殴ったり蹴飛ばしたり? 武術の修行ではなかったのですか?」
腑に落ちないといった声を出す美鈴に、穣子が「ああ」と頷く。
「そういえば、まだちゃんとした自己紹介はまだだったわね。私達は秋の神様なの。私は豊穣を司る秋穣子。そして、こっちがお姉ちゃんの――」
「秋静葉です。よろしく。紅葉を司っているわ。それで、木を殴ったり蹴ったりしていたのは、紅葉を散らしていたからなの」
「え? 紅葉を散らす? ――って、ああ、秋だからとか木を殴っていたというのは、そういうことだったんですか。なるほど」
合点がいったと、美鈴は頷いた。同時に、落葉って意外と豪快な方法で行われていたんだなと思う。
「……ところで、一つお願いがあるのですが。よろしいでしょうか?」
「お願い? 何かしら?」
美鈴は布団から下半身を抜き出し、両膝を付いた。
「はい、もしよろしければこの私に静葉様の仕事の手伝いをさせては頂けないでしょうか? 静葉様の落葉の拳。是非とも参考にさせて頂きたいのです」
お願いします、と美鈴は静葉に頭を下げた。
「え? えええ? それは……そんなこといきなり言われても……私、初めてで」
「あ~、でもお姉ちゃん。丁度いいかも知れない」
「え? 丁度いいってどういう事?」
穣子が静葉に頷いた。
「うん、お姉ちゃんは聞いてない? 最近、やたらと凶暴で巨大な熊が出るようになったらしいのよ。詳しい話までは知らないけど……一人よりは二人でやる方が安心じゃない?」
「え? そうなの? 私そんな話全然聞いてないわ。熊って、どのあたりに出るか聞いてない?」
「う~ん、確か東の方が危ないって聞いた気がするわ。ほら、例のあの木のあたりだって」
「ええ? そうなの? ……困ったわね」
不安な表情を静葉が浮かべた。そんな姉に、穣子が快活に笑ってみせる。
「そんなに心配しなくても大丈夫だって、お姉ちゃん。きっと天狗達が何とかしてくれるから」
「う、うん……そうよね」
どうやら、姉は根っからの心配性らしい。まだどこか不安げなものを見せながらも……それでも微笑んだ。
「それじゃあ、私は……その、いいのでしょうか?」
「あ、はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
「有り難うございますっ!」
頭を下げてくる静葉の目の前で「よしっ! やるぞ~!」と美鈴は両拳を握った。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
静かに、美鈴は息を整える。目の前の楓の幹は、両腕で抱えられる程度だ。真っ赤に色付いた紅葉が、消えゆく炎のように見える。
「せいっ!」
真っ直ぐに、美鈴は拳を突き出した。
楓の木が、まるで柳か何かのように大きく揺れる。わさわさと紅葉が美鈴に降り注いできた。
「んー」
美鈴は軽く呻いた。顎に手を当ててしばし考える。どうも、イメージ通りにいかない。
いくらか離れたところに立つ静葉へと、美鈴は目を向けた。彼女の目の前には、先ほど美鈴が突いた木よりも、更に二回りは太い幹を持った巨木だ。
「えいっ!」
静葉が目の前の木に蹴りを入れる。やっぱり声はこう……武術をやっている者が出すような、そんな気迫の篭もったものではなく、たおやかな乙女のそれだった。
だが……。
小刻みに巨木が震える。やがて、はらりはらりと、紅葉が舞い散ってきた。
「あ、あの美鈴さん。どうかしましたか? そんなに見られると、恥ずかしいです」
視線に気付かれ、静葉が顔を赤らめて振り向いてくる。
「ああいえ。やっぱり難しいですよねーって。なかなか、静葉様のようにはいかないなって思いまして」
「……うん、そうみたいね」
静葉はしばし美鈴の突いた木を眺めた後、頷いた。
「え? 分かるんですか?」
「ええ。……これでも秋の神だからかしら? もう少し優しく散らしてくれた方がいいと思う。手伝って貰ってこんな事言っていいのかって思うけれど。木々が傷付いているから……冬を越すのにはちょっと辛いかも知れないわ。美鈴さんに頼んでいるのは、みんな生命力溢れる若い子達ばかりだから、大丈夫だと思うけれど」
「はぁ~。流石ですねえ」
美鈴は腕を組んでうんうんと頷いた。武術を嗜んでいなくとも、この道を続けてきた神にはやはり分かるということなのだろうか。
「いや、実はまさにそこに悩んでいるところでしてね。私も気を付けてはいるんですが、どうにもこう……練り上げた気が突き抜けてしまうんですよ。静葉様のように、もっとこう……全体に気を行き渡らせようとしているんですが……上手くいかなくて。私も武術をやって長いので、いくつかの気の使い方は習得したつもりなのですが……こういうのは初めてですね」
「……気?」
小首を傾げる静葉に、美鈴は苦笑を浮かべた。
「いやまあ、長く武術をやってないとその辺の感覚は分かりにくいかも知れません。簡単に言ってしまえば、目に見えない力という意味で、魔力や妖力に近いものかも。ただ、それらと違うとすれば、気はより純粋な力……特に生命力に近くて、魔法のように何か別の力に変換する源とはならなくてですね? って……あれ?」
ますます頭の上に浮かべる疑問符を増やした静葉に対し、美鈴は照れくさそうに頭を掻いた。簡単に説明するつもりが、こういう話をする機会もないので、つい語りすぎたらしい。
「ええと……まあ、魔力のようなものだと思ってください」
こくこくと、静葉が頷いてくる。
「その……私はよく分からないんだけど、私と同じ様な気の使い方がなかなか出来ないっていうことですか?」
「ええ、そういうことです。ですからつい……静葉様はどのようにして気を練って、そして気に伝えているのか、それを知りたくて」
「でも私、そんな……気なんてよく分からないし……。教えられるといいんだろうけど」
「うーん、そうですよねえ」
美鈴は顎に手を当てて落葉を眺めた。
静葉が突いた巨木からは、まだ葉が散っている。その一方で、美鈴の突いた気はいっぺんに葉が落ち切っている。これが、静葉と美鈴の大きな違いだ。
「静葉様は、いつも何を考えながら落ち葉を散らしているのですか?」
「え? 何を考えながら? ……そんなの、考えたこともなかったわ」
完全に虚を突かれたと、静葉が目を丸くする。
「でも……そうね。全く何も考えてないとか、無心で……というのとは少し違うかも知れない。私は――」
静葉は自分の胸に手を当てて、微笑んだ。
「強いて言うのなら、私は紅葉を司る神だから……落葉もまた美しいものになりますように、とか……さあ、古い衣を脱ぎてて……とか、子守歌? そういう感覚かしら? うん、そんなことを想いながら、この仕事をしているわ」
秋を誇るような静葉の笑顔を見て、美鈴は小さく頷いた。
「なるほど……そういうことでしたか」
「え? 何がですか?」
「いえ、ほんのちょっとだけ、分かったような気がしただけです。静葉様の拳は……まさしく秋の拳なんですね。技術一辺倒であれこれ考えていただけでは、なかなか真似出来ないわけです」
そう言って、美鈴もまた微笑んだ。
彼女の拳を受けたとき、妙に優しくて抵抗が出来なかったこと。気を失い、そして起きたときに痛みがなかったこと。そして、むしろ清々しさすら覚えたこと。その理由が、分かった気がする。
“静葉様。きっと私はこの……あなたの拳を完全にマスターすることは出来ません”
「え?」
「これはきっと、秋の神様であるあなただけが使える拳です。そして、私は秋の神様ではありませんから。ですから……私は、私なりに、秋を想い秋を愛する心を拳に乗せて……少しでも近づけるように気を練ってみようと思います」
「そう。……頑張ってね」
「はいっ!」
美鈴は気合いを入れ直した。光明が見えるなら、あとは突き進むのみ。
「あ、あと美鈴さん。もう一つその……ちょっと、訊いてみたいことというか……その……失礼かも知れないんですけど」
「? はい? 何でしょうか?」
唐突に、そして躊躇いがちに、怖ず怖ずと静葉が口を開く。
「あの……美鈴さんって、強いんでしょうか? 熊とか、恐くないですか?」
「んー? どうなんでしょう? まあ、弱くはないつもりですが……でもお嬢様や八雲紫みたいな大物に比べると……どうなんでしょう? とはいえ、そんじょそこらの熊よりは強いですけど」
「そ? そうなの?」
信じられないといった表情を浮かべてくる静葉に、ふふんと美鈴は胸を張った。
「だって、その……ごめんなさい。私、本当に強くないと思うし、それなのに昨日は美鈴さんがあんなことになっちゃうし……それに、美鈴さんって……武術をやっている割には恐そうに見えないし」
「……じゃあ、試してみますか?」
「え?」
にやりと、美鈴は笑みを浮かべた。
「静葉様が好きなように攻撃してみて下さい。私はそれを捌いてみせましょう」
「え? ……でも」
「大丈夫ですよ。素人の拳や蹴りなんて、まず私には当たりませんから」
どんなに威力の大きな一撃だろうと、当たらなければどうということはないのである。
そして、改めて静葉の動きを見たところ……やはり、武術の経験は無いようだった。目の前の気を打つとき以外は、足の運び方、呼吸の仕方、そういったすべてが武術家のそれとはほど遠い。
静かに笑みを浮かべながら、美鈴は静葉と相対する。秋の神様の喉が上下するのが見えた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
秋姉妹と共に囲炉裏を囲みながら、美鈴は顔をほころばせた。思わず頬に手を当ててしまう。
「はぁ~☆ やっぱり美味しいですねー」
「はいはい、昨日もそうだけどご飯はまだまだあるから、た~んと召し上がれ」
「はいっ! 喜んで。あ、お代わりお願いします」
にこにこと笑う穣子に頭を下げ、美鈴はお茶碗を差し出した。流石に居候の身分、三杯目になると自重気味にお茶碗を出すようにしているが。
「いやー。でも何だか悪い気がしますねえ。正直言って、紅魔館を追い出されたときは野宿生活を覚悟していたんですが……まさか、寝るところはおろかご飯まで用意して頂けるとは」
「いいのいいの。美鈴さんだって、お姉ちゃんと一緒に魚やキノコを捕ってきてくれているんだし。一緒に食べた方が美味しいでしょ?」
「……やっぱり嬉しそうね、穣子」
「そりゃあね。私の作ったお米やお芋を美味しいって言ってくれるんだもの。豊穣の神としては、嬉しくもなるわよ。そりゃあ、お姉ちゃんも言ってくれるけど……」
上機嫌な穣子を見て、静葉もまた嬉しそうに微笑んだ。そんな姉妹を見て、美鈴は紅魔館の主とその妹をふと思い出す。彼女らは、ちゃんと仲良くしているだろうか?
「でもお姉ちゃん? 今日はやけに疲れていたみたいだけど、何かあったの?」
「え? ああうん。ちょっとね? 美鈴さんが本当に強いのかなって思って。ほら……あの風見幽香と渡り合ったとか、ちょっと信じられなくて。それで、美鈴さんに手合わせして貰ったんだけど……」
「……それで、どうなったの?」
静葉がくすりと微笑んだ。
「美鈴さん、本当に強かったわ。私の攻撃がまるで、掠りもしないの。凄く動きが早くて当たらないとかそんなのじゃなくて……私の腕とか脚が、何されているのか分からないくらいに鮮やかに受け流されちゃうっていうのかしら? そんじょそこらの熊には負けないって言っていたけど……本当みたい」
どうも攻撃が当たらないのが不思議でありそして面白かったのか、静葉は目を輝かせながらいつまでも止めようとしなかった。その様子は、じゃれつく子犬を美鈴に連想させた。
「ふっふっふっ。長年の功夫の賜物ですよ」
「へー、美鈴さんって凄いのねー」
ぺたぺたと美鈴の茶碗にご飯を盛り付け、穣子が渡してくる。美鈴は軽く頭を下げて受け取った。
「あ、そうそう穣子。熊で思い出したけど、例の巨大熊について何か聞いてるかしら? 今日、天狗達のところに行ってきたのよね?」
「ええ、三~四日後くらいから五個小隊……白狼天狗が百人くらいで山狩りするらしいわ。スケジュールの調整や編成に時間が掛かっているみたいだけど、流石にこれなら、すぐに退治されるでしょ」
「そう……。でも東の方なのよね。何事もなければいいのだけれど」
もっきゅもっきゅと新米を堪能しつつ、美鈴は小首を傾げた。
「あの~、昨日も気になったんですが……。何かあるんですか?」
「ええ、東の方にね……多分、問題の熊が出るあたりだと思う。そこには山の主とも言える特別な木があるの。秋を集め、その一帯の季節の象徴となる……秋を締めるためにも大切な木で、だから……」
「その木が落葉しないと、秋を終えることが出来ないっていうことですか?」
「その通りよ」
重々しく、静葉は頷いた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
犬走椛は表情を引き締めて仲間を見る。
誰にも緩みはない。そのことを確認し、椛はささやかな満足感と安堵感を覚えた。
「えいっ☆」
「うひゃふひゃんっ!?」
突如として尻尾から伝わる面妖な感触。
ぞわりとしたものが背中を駆け上がり、思わず椛は悲鳴を上げた。
慌ててお尻を押さえて後ろを振り返る。
「あ……文さんっ!? いきなり何をするんですかっ? 尻尾……そんなとこいきなり触らないでください。驚くじゃないですかっ!」
顔を赤らめ、犬歯を剥き出しにして椛は文に怒鳴った。緊張感もなく笑っている文が憎らしい。部下の前でみっともない姿を見せてしまい、恥ずかしく思う。
「すみません椛。いつまでもそんな顔されていると、どうしてもですね?」
くっくっ、と文は口元に手を当てて笑った。
「ただ……ちょっと、気負いすぎですよ? 初めて小隊を任されて気合いが入っているのは分かりますが、もう少しだけ気楽にした方がいいと思います。いきなり泰然自若とした隊長たれとまでは言いませんが……張りつめすぎると、かえって視野を狭めますよ」
「ん……む……」
気負いすぎていた? そんなつもりは無い……のだが、自分のことは自分ではよく分からない。
しかし、もしそれが本当ならと思い、反論することも出来ない。
「何、安心していいですよ椛」
ぽん、と文が肩に手を置いてくる。
「あなたの責任感の強さ、長年の経験。今回、小隊長を任されたのはそういったものすべてを総合的に判断した上で、あなたが相応しいと判断されたということなのです。大丈夫、あなたならやれますよ。部下の命を背負うこと、その責任をよく分かっているあなたですから」
「……いきなり何を恥ずかしいこと言い出すんですか。まったく」
赤面しながら、椛は毒づいた。
嬉しいのだが、いつも顔を合わせれば茶化してばかりの相手に言われると、正直言って面食らう。ありがとうとは、恥ずかしくて口に出せない。
「もうすぐ出発の時間ですね。頑張ってください」
「はい」
椛は微笑みを返して、空を見上げた。
澄み切った秋空はどこまでも高く広がっていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
はらりはらりと落ち葉が舞う。
呼吸を整え、木を練り上げ、そして心に秋を刻み込む。
「はいやっ!」
大気が揺れ、そして静かな音が周囲に響く。
美鈴が突いた木が細かく震える。その姿は、濡れた獣が体を揺すって水をはじき飛ばしているようにも思えた。
「頑張るわね。美鈴さん。それに……少しずつだけど、あなたの拳に秋が宿っているのを感じるわ」
少し離れたところから静葉に声を掛けられ、美鈴は振り返った。
「ははは。いやー、まだまだ……私のものにするには、道は遠いですよ」
「ふふ……そうね、それはそうなのかも知れないわね」
美鈴が受け持つことが出来るのは、やはりまだ割と若い木のみ。それに対して、静葉は巨木でも一撃で落ち葉を舞い散らせることが出来る。
やればやるほど、自分のものにしたといえるほどにまで習得する道のりが遠いことを思い知らされる気がする。
けれども、まったく進んでいないわけではない。だからこそ、打ち込める。
「でも、冬が来て……そのときには私は紅魔館には帰りますが、それでも私は秋の心を忘れずに修行を続けます」
はっきりと、美鈴は宣言した。
と、静葉が顔を赤らめる。
「あの……美鈴さんは、秋のこと好きですか?」
「ええ、好きですよ。冬も春も夏も好きですが、秋には秋の良さがあります。ひんやりと澄んだ風の中で高い空を見上げたり、色取り取りの紅葉を眺めたり、一面に広がる黄金の稲穂を見渡したり。そういうのを見て……落ち着いた美しさが楽しめますから」
「紅葉は……綺麗でしたか?」
「はい、とても綺麗でした」
心の底から、美鈴はそう思う。
褒められ慣れていないのだろうか、静葉がそれこそ紅葉のように顔を真っ赤にさせて笑顔を浮かべてくる。
そんな神様のことを美鈴は可愛いと思った。
「でも、それももうすぐ終わりね」
切なそうな瞳を浮かべて、静葉が呟く。
「そうですね。少しだけ、寂しい気もしますね」
「そうね。私もこの仕事は……少し、寂しいの。この前、何を考えているのかって訊かれたときは言えなかったけどね」
そう言って、静葉は寂しげに微笑む。
「ですが私は今、秋を満喫しているのだと思います」
「え?」
「その寂しさもまた、秋を愉しむということだと、私は思いますので」
その言葉に、静葉が目を丸くして押し黙る。
そして、小さく笑った。それはさっき浮かべたものとは違う、寂しさの混じらない笑顔だった。
「ありがとう。美鈴さん」
「何がです?」
「秋を愉しんでくれて。そして、秋を愉しむってどういう事か、私に思い出させてくれて。私の心から失われていた訳じゃないし、決して失われることはないのだけれど……言葉にして貰って、それがどういうことか、改めて私の中で形作られた気がする」
静葉が頷いてくる。
「今年は、いつも以上に綺麗な落葉を見せてあげるわ。美鈴さん」
「それは、楽しみです」
素直に美鈴はそう思う。いずれ秋が終わるのは確かに寂しい。だが……ここで最高の秋を見せてくれるというのなら、その寂しさも悪くない。
「それと美鈴さん。もう一つ、聞かせて貰っていいですか?」
「はい、何でしょうか?」
「美鈴さんは、どうしてそんなにも武術に打ち込むのですか? 私の拳は落ち葉を散らし美しい秋を彩る為。美鈴さんはいつも何を考えて武術をしているのかと、ちょっと興味が湧いたというか」
「ん? うーん、それは……そうですねえ。まあ、好きだからっていうのもあるんですが。守りたいものがあるから……ですかね?」
「守りたいものですか?」
美鈴は頷く。
「はい。私は紅魔館の生活が気に入っています。そりゃまあ、こうしてお嬢様達の我が儘に振り回されたりもして大変だったりすることもありますよ? ですが、こう……お嬢様を初めとして、みんないつも賑やかで楽しい……私の居場所なんです。ですから、あそこを守る為なら……私のこの身、惜しくはありません」
胸に手を当てて、言葉を口にする。静葉ではないが、改めて口にすることで、いつも当たり前に思っていたことを再認識した。
「私はお嬢様達には遠く力は及びません。しかし、露払いくらいなら出来ます。そんな……ちょっとでもお役に立てるのなら、嬉しいんですよ」
言っていて、ちょっと照れくさくもあるが。
「美鈴さん」
「はい、何でしょうか?」
見ると静葉が何やら決意を固めたような顔をしていた。
“私を殴ってくださいっ!”
「…………え?」
美鈴は目を丸くした。彼女の言葉は全く想像していなかった。
「あ……あの?」
「い、いえ変な意味じゃないんですよ? 美鈴さんの拳ってどんな感じなのか私もちょっと知りたくて……ですから……その……よかったら」
恥ずかしそうに静葉が口ごもる。
「ええ、いいですよ?」
「あ、有り難うございます。でも、……手加減してくださいよ?」
「分かってますよ。ちゃんと、手加減します」
美鈴は静葉に近付いていく。
「ちょっと力を抜いて下さいねー。こんな感じで構えてください」
「は、はい」
そして、静葉の腕や脚を動かして構えを作らせる。
「うん、こんな感じかな?」
静葉の胸の前に両腕を縦に並べて壁を作り、そして両脚を内股気味にして重心をやや落とさせる。空手で言うところの三戦立ちを少々崩して、両腕の幅を極端に狭めたような形だ。
「その格好で、太股とお腹に力を込めてください。心持ち、重心を落とすイメージで」
静葉が頷くのを見て、美鈴は彼女から数歩前に離れた。
「それじゃあ、いきますよ? 腕を突きますから……」
静葉の顔が緊張と共に引き締まる。
すぅっと、美鈴は息を吸った。
「はいっ!」
そのまま、真っ直ぐに静葉の腕へと掌底を打ち込む。
“きゃあああああああああああああああぁぁぁぁぁぁっ!?”
信じられない。まさにそんな表情を浮かべて静葉は構えた姿のまま後方へと吹き飛ばされていく。地面の上を足が滑っていき、背面からスキーで滑っているかのような格好だ。
静葉は、最初に立っていたところから二間(約3.6m)ほど吹き飛ばされて、ようやく止まった。
「……如何でしょう?」
目を丸くしたまま固まる静葉に、美鈴は訊く。それでようやく静葉は我に返ったようだった。
「え……えっと、その」
「……はい」
「よく分からないけど……上手く言えないけど、凄く……真っ直ぐで揺るぎない気がしたわ。ものに喩えるなら、鋼のように。これが、美鈴さんの拳……なのね」
うん、と静葉が頷く。
「私、美鈴さんがどうしてそんなに強くなったのか、少しだけ分かった気がするわ」
そんな静葉の言葉を聞きながら、自分も今真っ赤な顔しているんだろうなーと、美鈴は思った。
“お姉ちゃ~んっ! 大変っ! 大変だよ~っ!”
そんな穏やかな時間を……不意に穣子の声が引き裂いてきた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
これが悪夢なら……ただの悪夢ならどんなにもよかったことか。
椛は歯を食いしばる。
ここで、心を折るわけにはいかない。
「腕が……腕がああああぁぁぁぁ~~っ!? 私の腕、私の腕~っ!?」
「落ち着けっ! まだ繋がっているっ! しっかりしろ、お前は後ろに下がれっ!」
「畜生っ! 畜生っ! この……畜生がああああぁぁぁ~~っ!」
常に最悪の事態を想定しろ。
命を預かる職務である以上、それは徹底して心がけていたつもりだ。想定外? そんなものは、何を言っても言い訳にしかならない。
「連携を崩すなっ! 必ず三人以上で固まれっ!」
気を付けてはいた。いたはずだった。
森の中で、問題の熊と思われる熊を追い掛けたら……その実、それは彼らの罠だった。
熊が……成獣したなら単独で行動するはずの熊が、自分達を待ち伏せていた。突如として巨木の上から飛び降りてきた。
ぎりぎり……ほんの少しだけ変わった風に乗った臭いで潜んでいた敵の存在に気付き、完全には囲まれなかったのはまだ幸いだったのかも知れないが……。
だが、それも時間の問題だったかも知れない。
姿を現した熊の数は、前方に四頭、後方に一頭、合計で五頭。いずれも目測で体長八尺(約2.4m)はある大熊だが、それならまだ戦える。椛はそう判断した。ここで取り逃がしたら、次はいつ退治出来るか分からない。
“ゴフォオオオオオオオォォォッ!!”
椛の背後で、部下の何人かが小さく悲鳴を上げるのが聞こえた。既に士気はガタガタにヒビが入っている。いつ崩壊しても不思議ではない。むしろ……これでもまだよく保っている方だと、椛は部下を褒めてやりたいくらいだ。
「……化け物めっ!」
怨嗟を込めて、椛は前方の奥に立つ巨大な熊を睨む。部下達と共に相手にしている大熊ですら子供に思える。身の丈にして、彼女の五倍はあるだろうか? 頭頂部から背中にかけて赤毛が混じった片目の熊は、まるで意に介さないと言わんばかりに……嗤っているように見えた。
最初は、確かに勝負になっていた。なっていたはずだった。硬い毛皮や分厚い脂肪に阻まれて各自なかなか有効打を与えられないようだったが、それでも時間の問題だと思った。
だが、そいつが現れたとき、戦況は一変した。
戦場を真横から突進し、部隊の三分の一を吹き飛ばした。
即座に撤退を命令するが……間に合わなかった。それでも、真っ先に逃げろと伝えた新人の三人が無事に逃げられたのは幸いか。
逃げ遅れた負傷者の救出、そして陣形の再編成。負傷者を円陣の中央に固め、外周を無事だった者で防ぐ。
とは言え、実際のところはほとんど陣形も何もない状態だ。常に攻撃に晒され、飛んで逃げる隙など無い。
陣の中央にいる負傷者も、ろくに戦えない状態で、互いをかばい合いながら、必死で外周から時折漏れてくる攻撃を避けている。
全滅。そんな、最も避けるべき最悪の状況が、椛の脳裏をよぎる。逃げ延びた新人達に別部隊への増援を頼んだが……。
防戦一方でジリ貧。いつ崩壊してもおかしくない士気。そして、……これは完全に弄ばれている。敵にはあの、赤毛の化け物がいるのだ。奴はいつでもこちらを全滅させられるのに、それをしない。
戦いながらも、希望は捨てずに……一人の犠牲者も出すまいと指揮していたが……もう、限界だ。
椛は覚悟を決めた。
隊長とは、部下の命を預かる者。彼らの命に責任を負う者。
「時雨っ! 楓っ! 朱音っ! 庚牙っ! お前達はまだ無事だなっ!?」
背中越しに、視線は一切合わせること無く椛は叫ぶ。
「何とか……こちらは全員無事ですっ!」
悲鳴と疲労が入り交じった朱音の声が返ってくる。彼女らには退路を切り開く役目を頼んだ。部隊の中でも腕利きの連中を当てたつもりだったが……倒すのが難しい状況のようだった。
そして、殿は……自分達が担っている。こいつもまた、体格こそ朱音達の相手より少しだけ小さいが、動作の素早さではこちらの方が上かも知れない。
「私がこれから隙を作る。合図をしたらお前達はそこから離れろ。他は一斉退避っ! 空に飛べっ! いいなっ!」
「隊長? 一体何を?」
すぐ傍にいる紅雪が訊ねてくる。だが、それに答える気は椛には無い。代わりに、別の命を下す。
「紅雪と幻十郎は負傷者のサポートだっ!」
そして、椛は盾を捨てた。両手で刀を構える。守りを気にして、片手の力でダメージを与えられるような連中ではない。
大きく息を吸う。
両脚、両腕に力を込める。これはまさに、全身全霊の一撃。
“うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉ~~~~~っ!!”
椛は吠えた。
手にした刀を大きく振りかぶり、身を沈める。
「グオオオオオオオオオオオオォォォォォッ!」
数歩先の熊が僅かにたじろぐ、だがそれも一瞬。椛を叩き潰す勢いで、大きく腕を振り上げる。そんなものをまともに喰らえば、まず間違いなく命は無い。
だが、たじろいだほんの一瞬が勝敗を分ける。爪が振り下ろされるよりも早く、椛の刀は目の前の熊の右手首を切り飛ばした。
そのまま椛は体当たりし、立ちすくむ熊のバランスを崩す。そして、すぐさま踵を返した。目の前にいた熊のことは、既に彼女の意識から外れている。
椛は退路を切り開こうとする部下達へ……その相手の巨熊へと狙いを定めた。
“今だっ! お前達。逃げろ~~~~~~~~~~~~~~っ!!”
「隊長~っ!」
背中から、部下の誰かの声が聞こえた気がした。
だが、それもあっという間に遠ざかっていく。一歩、また一歩と足を進めるたびに、彼女の体は加速する。
「どけええええええええええええぇぇぇぇぇぇ~~~~っ!!」
振り返る四人の部下。目の前の敵から目を放すとは何事かと……命令通りにさっさと横にどけと、椛は心の中で彼らを叱責した。
熊の胸元へと、真っ直ぐに椛は突撃した。
「うああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁ~~~~~~っ!!
一心不乱に、椛は目の前の熊に斬撃を叩き込む。
手にした刀は既に限界だった。さっきまで相手していた熊の右手を切り飛ばして、それがもう最後だろう。刃はほとんど潰れている。
どすん、と鈍い音が響く。
そのまま、椛は熊を木にぶつかるまで押し切った。距離にして、五間くらいだろうか。
そして、そこが……本当に、限界だった。
「ぜぇ~っ! はぁ~っ! ぜぇ~っ! はぁ~っ!」
荒い息と共に、椛の動きが止まった。
脚が……腕が、もう力が入らない。時間にしてほんの数秒の出来事。その短時間に筋力と妖力すべてを使い果たした。
かくんと、脚が折れ曲がり椛はその場に崩れ落ちる。
「フシュ……フゴ……グゴゴゴ」
「……く……そ……」
やはり、仕留めきれなかった。手応えはあったと思うのに……。
もう、自分はここまでか? 分かっている。分かってはいる。それを覚悟はしていたのに……。
椛は目を瞑った。
“グぶっ!? ゴ? オオ……”
「……え?」
椛の顔に、生温く粘っこい液体が滴り落ちてくる。
唾液? そう思ったが……違う。それにしては濃密な鉄の臭いがする。
見上げると……熊の口から刀が生えていた。
「お前なんかに……お前なんかに、椛を喰わせるかあああああああああああああああああああぁぁぁ~~~~っ!!」
「なっ!?」
状況が分からない。だが、突然何者かに抱きかかえられ椛は浮遊感を覚える。
あっという間に、視界が一面の青空となった。
ぎゅうっと、体を抱きすくめられる。自分を抱えるその腕は痛いほどに力が込められていて、震えていた。
「あ、あああ……危ない……ところでしたね。椛」
聞き慣れたその声の主は、ガチガチと歯を鳴らしていた。
その顔に血の気はない。氷のように真っ白になっていた。
「文……さん?」
「ま……まったく……あんたって子は、むむ……無茶する……するんです……から。ひっ……ひっく……」
嗚咽が聞こえる。
「あなたの部下は……ぶぶ……全員、無事ですよ? わた……私、ごめんなさい。やっぱり気になって……記事にしようと思って……見付け……思っ……そしたら、椛が……だから、脱出した仲間から……刀を借りて……ひっく……うぅ……うぅ。ごめ……隙が……近づけ……」
生きてる? 生きてる? ……まだ自分は、生きている?
椛の目から熱いものが溢れ出す。
「う…………うわああああ……ああ、あああああああああああぁぁぁぁぁ~~~~っ!!」
椛は文にしがみついた。しがみついて、子供のように泣いた。
恐くて恐くて……本当に恐くて……今さらながらに、文と同じように、椛は震えて歯を鳴らした。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
天狗達の住む集落にある、警護隊の詰め所。
美鈴の隣で、静葉は厳しい表情を浮かべていた。
いつも儚げに、けれども穏やかな雰囲気を纏った彼女がこんな表情をするとは、よほど彼女にとって譲れないものなのだと美鈴は思った。
「……他に方法はありません」
そう、厳しい口調で言ってくる白狼天狗に静葉は反論しない。天狗達の言い分も痛いほど分かるのだろう。
だがそれでも承伏はし難いのか、静葉は唇を噛んで肩を振るわせる。
「静葉さん、どうか分かってください」
そう言ってくるのは中隊長ではない。中隊長の傍らに立つ別の天狗だ。熊達と遭遇して無事だったものの一人らしい。
「奴らはもう……ただの熊なんかじゃない。このまま放っておけば、時間が経てば経つほど手に負えないことになる。一刻の猶予も無いんですよ」
その表情は、もはや静葉を睨み付けているのかというほどに厳しい。彼女もまた、絶対に譲れないのだろう。
「妖怪の私が言うのも変かも知れないですけどね。あれはもう、化け物ですよ。真っ当な熊なんかじゃない。地上からどうこう出来るような連中じゃないんです。鴉天狗に頼んで上空から奴らを追跡して貰い、牙城を撮影しましたが……見て下さい」
そう言って、白狼天狗が静葉に一枚の写真を渡した。
それを見て、静葉の顔が強張る。
鴉天狗は上空から近付くことすら恐れたのだろう。写真の真ん中に、写された範囲そのものは狭い。だがそれが巨大であることはあることは分かる。一本の巨木の元に、大量の木や岩で築かれた要塞が写されていた。
「こいつらがどこからやって来て、どこに潜んでいたのかは知りません。いつの間にこんなものを築き上げたのかも分かりません」
「……そんな。私が葉に色を付けに行ったときは……こんなものどこにも……」
「そして、これも見て下さい」
そう言って、天狗はもう一枚写真を取り出した。
「なに、これ?」
静葉と一緒に写真を覗き込んだ穣子が小さく悲鳴を上げる。牙城のすぐ傍らにある巨木。何百年、いや千年以上は生きている大木なのか。そこに大きく空いた虚から、上半身を出す赤毛混じりの熊がそこにいた。
その大きさは尋常ではない。写真に一緒に映った木の大きさから推測するに、普通の熊の三倍はあるのではないだろうか。
「分かるでしょう? こんなものを……こんな連中を地上から攻めることがどんなに無謀かということが」
そこまで言って、天狗は震えた。体を抱える。恐怖を思い出したのだろう。その顔は蒼い。
「事情は、分かっております。ですが、我々には他に手がないのです」
重々しく、重ねて中隊長が静葉に頭を下げてきた。
“明日、あの辺り一帯を空から焼き払います”
それは、牙城だけではなく、この巨木も含めてということだろう。
「分かりました」
重苦しい空気の中、静葉は小さく頷いた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
その夜の食事は暗いものだった。
静葉は一言も発しなかった。
焼き払う役目は霧雨魔理沙と風見幽香に頼むという。彼女らなら高威力で、そして範囲を絞って牙城や巨木を破壊することが出来るはずだろう。場合によっては、熊だけを標的にして貰えるかも知れない。
そう言っては見たものの、静葉の返答はずっと無かった。押し黙ったままだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
椛は目を開けた。
全身が鉛のように重く、思うように動かない。
「……ここ……は?」
薄暗い天井を見上げる。
「よかった。気が付いたんですね、椛。妖力を切らして、気を失っていたんですよあなたは」
「文、さん?」
見知った顔の声を聞いて、椛は軽く安堵を覚える。どうやら、彼岸に連れてこられたわけではないらしい。
椛は視線を文の声がした方に向ける。枕元に彼女は座っていた。どうやら外はすっかり暗くなっているらしいが、ずっと傍に付き添っていてくれたのだろうか。
椛は気付く。ここは詰め所にある診療所だ。見覚えがある。そして……周囲からは呻き声が漏れていた。
「…………くっ」
それがどういうことかを思い出し、椛は呻いた。
「どなたも、命には別状はないそうです。どれくらい時間が掛かるかは分かりませんが、そのうち、職務にも復帰出来ることでしょう。一人の死者も出なかったのは、むしろ幸いでしょう」
それはそうなのかも知れない。
だが、だからといって自分を許すことが、椛には出来ない。文の優しい慰めが、むしろ心を抉ってくるようだった。
「……んぐっ!? くっ」
不意に、椛の顔が苦痛に歪んだ。左腕から激痛が伝わってくる。
「左腕ですか? 骨にヒビが入っているそうですよ」
「……あ」
椛は思い出す。そういえば、何度か盾で熊の一撃を防いだ。戦っている最中は気にならなかったが、そのときにやられたのだろう。
「文さん」
「何ですか?」
「……熊は、どうなりましたか?」
その問い掛けに、文は口ごもった。
「明日、魔理沙さんと幽香さんが奴らの牙城ごと空から焼き尽くします。私が頼みに行って、引き受けてくれたらの話になりますが」
「そうですか」
そこまで聞いて、椛は自分の心から感情が抜け落ちていくのを自覚した。その代わりに、再び涙で視界が滲む。
「文さん。……私は、やっぱり部隊長失格だったのでしょうか」
「そんなことは――」
椛は首を横に振った。
「最初に奴らと遭ったとき、私は五分で戦えると思いました。でも、すぐに逃げるべきだったと思います。五分は……有利ではないのですから」
自嘲を含めて嘆息する。
「功を焦っていたのかも知れません。それで、部下を危険な目に遭わせしまいました」
自分の事情で部下の命を危険にさらすなど、有ってはならないことだ。長いこと逆の立場だったから分かる、そんな隊長の下で命を危険に晒すなど堪ったものではない。
「功を焦った……ですか。あなたでも、そんなことはあるんですね。何かあったんですか? 部隊長になったことで、浮かれていたようにも、ことさら結果を出そうといった風にも見えませんでしたが」
そんなことはないと思う。嬉しかったと言えば嘘になるし、出来るなら結果も出したいと思っていた。もっとも、そういうのは緩みに繋がるから、抑えていたが。
「いえ、私は……嬉しかったんですよ」
「昇進したことが?」
「いいえ、そうじゃないんですよ」
椛は数日前のことを振り返る。
「昇進も確かに嬉しかったですが……。秋の神様から、白狼天狗達に陣中見舞いを頂きましてね。何でも、熊の出るようになったあたりに、紅葉の神様にとって大切な木があるんだって……。頑張ってと言われて……ああ、頼りにされているんだなって、嬉しくて。なら、早くあの熊達を何とかしないといけないって思っちゃって」
声が震える。
「最低ですね。私……人のせいにして……ふっ……ぐぅ」
椛の口から、嗚咽が漏れた。
「文さん、でも……お願い……ですから、秋の神様の為にも……魔理沙さんと幽香さんに……お願いします」
「椛……今は自分を責めず、ゆっくりと休んでください」
そう言って、文が優しく折れていない右腕に手を添えてくる。
椛は頷いた。そして抵抗することもなく、目を瞑って涙を流し続けた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
美鈴は目を開けて小さく溜息を吐いた。
暗がりの中で、目を細める。
「どこへ行こうっていうんですか?」
玄関で、人影がびくりと震えた。
逃げ出すのかと思ったけれど、彼女はそうしなかった。
美鈴は布団から抜け出て、人影へと近付く。
「……起きていたんですか? 完全に眠っていたと思ったのに」
「いいえ、眠っていましたよ? 職業柄、眠っていても周囲には気を張り巡らせているものですから。それと……何となくこんな気はしていたんですよ。あなたは、どこまでも秋を愛し、秋の仕事に責任と誇りを持つ方ですから」
静葉は振り向かない。
美鈴は優しく静葉の肩に手を置いた。
「やっぱり……私を止めるんですか?」
「はい」
美鈴は即答する。
静葉はわなわなと肩を振るわせた。
「秋は……私は、秋をきちんと終わらせなくちゃいけないの。そうしないと……季節がちゃんと巡ってこないの。そんなことになったら、あの山は……あの山は……それでも……美鈴さんは……」
静葉は項垂れた。
「お願いします。行かせてください」
「ダメです」
一歩踏み出そうとする静葉。だが、美鈴は肩を掴む手に力を込めてそれをさせない。
“必ず守ります。ですから、ごめんなさい”
美鈴は静葉の肩から手を離し、背後から彼女の肩に……秋を込めた掌底を打ち込んだ。
「……え?」
その途端、静葉の体がバランスを崩す。
美鈴は素早く彼女を抱きかかえた。
焦点を失った双眸が大きく開かれ、涙が流れていた。それを美鈴はそっと閉じさせる。
「ん? んぅ? お姉ちゃん?」
「すみません穣子様。起こしてしまいましたか」
美鈴は静葉を抱えて、布団から身を起こす穣子へと近付いた。
「え? 何?」
寝ぼけ眼の穣子の傍らに、静葉を横たえる。
「穣子様。静葉様をよろしくお願いします」
「え? ちょっと? 美鈴さん?」
そして、美鈴は彼女らに背を向けて、夜明けの森へと飛び出していった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
彼らの牙城に辿り着いたときには、既に日は昇っていた。
目的の場所はすぐに分かった。遠くから見ても分かる。東の山の中腹で抜きんでて大きな巨木。いつからあるものか、真っ暗な虚が木の幹に穿たれていた。そこに、あの赤毛の化け物がいるはず。
美鈴は巨木の周囲一対の開けた場所へと入っていった。
秋の象徴……秋を蓄えた木が傍にある所為なのだろう。秋姉妹達の住まい周辺は、冬の訪れを感じさせる冷え込みが迫っていたというのに、ここは明らかにまだ温もりが残っていた。
牙城の奥にそびえ立つ巨木の葉は、鬱血したような赤黒さに染まっていた。
美鈴は無言のまま、牙城へと歩いていく。熊の姿は見えない。
いや、牙城の傍らに死体が一体転がっていた。頭を叩き潰された片腕の熊の死体に、鴉が群がっている。
そういえば、白狼天狗の一人が腕を切り飛ばしたという話を聞いた気がする。彼らの間で何があったのかは知らないが、役立たずには死を……ということなのだろうか。
白狼天狗達が出会った熊は合計で六頭。一頭を倒し、そしてもう一頭がこうして死体となっている。残りは四頭。
「でも……どうやら、数はそれだけのようですね」
美鈴は周囲から気を読みとった。気配は牙城の中に三つ、そして少し離れた木の上に一つ。
美鈴は茂みへと体を向け、右手をかざした。
右手の先に、無数の白い光弾が浮かび上がる。
“幻符「華想夢葛」”
美鈴は光弾を茂みの中へと打ち込んだ。
「グォッ!? バロオオオォォォォォッ!!」
怒り狂った咆吼と共に、茂みが揺れる。
がさがさと音を立てて咆吼が移動し、その主は茂みから現れた。
「ゴァアアアアアアアアアアアァァァァァッ!!」
怒りに目を血走らせ、そいつは二本の脚で直立する。両手を広げて威嚇しながら、美鈴へと近付いてきた。
だが、美鈴もまた恐れることなく目の前の熊へと近付き、間合いを詰めていく。
「グルルルルルルルルルル」
唸り声を上げながら、待ちかまえる熊の間合いのぎりぎり手前、そこで初めて美鈴は構えを作った。
熊に向かって左半身となり、左腕を直角に、右腕を水平に……弓をつがえたような姿だ。
熊もそこが美鈴の間合いなのだと感づいたのだろう、そこで止まる。
「やはり、どうしようも無いですね」
天狗達はこの熊達を普通じゃないと言っていた。それを美鈴もまた、相対して再確認する。
この熊はもう、手の施しようがない。血と殺戮に飢えている。自然の中に住まう獣としての生き様すら、もはや望めない。乱れきった気の流れには、殺気や憎悪といった、ありとあらゆる負の感情のみが渦巻いていた。
睨み合いに先に屈したのは、熊の方だった。いつまでも自分の間合いに入ってこないことに苛立ちを抑えきれなくなったのだろう。
「ゴファアアァァァァァァァッ!!」
間合いを一歩詰め、熊が右腕を振り上げた。まともに喰らえば、妖怪である美鈴といえども、一撃で首が胴からちぎれ飛ぶだろう。
“華符「彩光蓮華掌」”
腕を振り上げる? そんな予備動作は美鈴にとって隙にしかならない。そういった行動に移ろうという気を読むだけで、美鈴には容易に先の先が取れる。それを防ぎたければ、無拍子で攻撃する方法を習得するしかないが、熊に望めるわけがない。
振り下ろそうとする姿のまま、熊は白目を剥いて硬直している。腕を振り上げた一瞬で、美鈴は熊の胸元へと飛び込んでいた。
熊の喉元……白い三日月を鮮血が染めた。掌打と共に弾幕を打ち込み、首の血管を破り、骨すら砕いた。既に意識は……いや、命は無いだろう。一撃で仕留めるのはせめてもの慈悲だ。
美鈴は踵を返し、牙城へと体を向けてそちらへと歩を進めた。どさりと、背後で熊が地に倒れ伏す音が響く。
牙城から、のそりと二頭の熊が姿を現した。唸り声を上げて、牙城の麓に降り立つ。
距離にして、十間(約20m)ほどか。熊の脚力なら、2~3秒もあれば美鈴へと辿り着く距離だ。
「ガフォオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォォッ!」
「ゴルガハァアアアアアアアアアアァァァァァァァァァァッ!」
獣なりに頭を使っているということか、二頭の熊は同時に、そして喉を攻撃されないように四つ足のまま突進してきた。
美鈴は一歩前に足を踏み出し、身を沈めた。
まさしく、3秒にも満たない時間で二頭の熊が美鈴の手前まで辿り着き、その勢いのまま丸太の如き各の腕を叩き付けてくる。
だが、いくら速かろうと直進するだけ。力があろうと、脇が甘い。
横薙ぎに振るわれる腕の下をくぐり抜け、美鈴は左から襲ってきた熊の側面に立つ。魔法という概念もまた、熊に有ろうはずがないが、捉えたはずの獲物が目の前から掻き消えたとしか思えないその動きは、まさに魔法にしか思えないことだっただろう。
一瞬だが、勢いあまった熊は困惑と共に動きを止めた。
そしてその困惑が、彼の最後の思考だった。
“気符「地龍天龍脚」”
美鈴が側面から熊の心臓目掛けて蹴りを叩き込のと同時、熊の体が震えた。口を大きく開けて、倒れ込む。心臓目掛けて真っ直ぐに気を叩き込み、破裂させた。既に絶命しているだろう。
「バルロオオオオオオォォォォォォッ!!」
仲間が倒れたことを意に介しない、むしろただの隙ぐらいにしか思っていないのかも知れない。残りの一頭が回り込んで再び美鈴に突進してくる。
「ゴガハアアアアアアアアァァァァァァッ!!」
美鈴も一頭を倒した程度で油断はしない。残る一頭の動きは常に気の流れから追っている。
飛びかかってくる熊を迎え撃つ形で、美鈴もまた跳躍する。
“彩翔「飛花落葉」”
勝敗の差を分けたのは、相手の動きに対する予想、予測の差に他ならない。いつまでもその場に留まっているとでも思っていたのだろう、熊の目算は狂い、両腕の間を抜けて美鈴の跳び蹴りが熊の額に突き刺さった。
「ちぃっ!」
美鈴は舌打ちした。
妖怪である以上、人間に比べれば体力、筋力は上だが、やはり体格の差は熊に劣る。勢いに負けて美鈴は数歩程度、後ろに押し負ける。
だが、それが熊の限界だった。
熊の眼球がぐるりと天を向く。口からは泡となった唾液が零れた。
美鈴は蹴りと共に気を打ち込み、熊の脳を大きく揺らした。よろよろと、熊が数歩前に歩いて、前から倒れ込む。
……まだ、息はある。
若干押し負けた分、仕留めきれなかった。それが少し、美鈴を陰鬱な気分にさせた。
“ゴファアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァ~~~~~~~~~ッ!!”
一際大きな雄叫びが間近で湧き上がる。
黒い影が美鈴を包み込むと同時、落雷の如き一撃がその場に叩き付けられた。
大地が揺れる。
赤毛を持つ巨熊の前脚の下から、赤い血が広がっていった。
「まったく、あなた達には本当に仲間意識とかそういうのは無いんですか」
大きく間合いを取りながら、美鈴は冷や汗を流した。殺気は感じていたが、予想よりも速かった。主を初めとした幻想郷の大妖達とはまた違う、ケダモノの重圧。
「ヴゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォォォォォ~~~~~~っ!!」
配下の熊のことなど、まるで知ったことではないと言わんばかりに、赤毛の熊は吠えた。
ついさっきまで虫の息だった配下の熊は、赤毛の化け物の脚の下で、今度こそ絶命していることだろう。
美鈴は胸の前に気を集め、そこを中心に腕を回す。
白く輝く大きな光弾。それを美鈴は掌で押し出した。
“気符「星脈弾」”
巨大な熊の顔目掛け、光弾が飛び、破裂する。
熊が僅かに呻き声を上げる。だが、それだけ。
「なら、これならっ!」
ハンマーでぶん殴った程度の威力はあるはずだが、それでもこれだけで倒せるとは期待していない。倒す気は勿論あったが、それでも様子見と時間稼ぎの方が意味合いとしては大きい。
美鈴は大きく息を吸い、再び気を胸の前に集めた。素早く、強く気を込める。
虹色に輝く光弾は、先ほど放ったものよりも既に二回りは大きい。
いや、それどころではない。美鈴は目くらましの一撃で作った僅かな時間から、ぎりぎりまで気を集め続けていく。虹色の光弾は破裂知らずの風船のように、どこまでも大きくなっていった。
唸り声を上げながら、熊はじりじりと美鈴へと顔を近づけていく。立ち上がってもいないというのに、その顔の位置は美鈴の身長よりも遙かに高い。
その牙に食らいつかれたら、クッキーよりも容易く、一瞬で全身を砕かれることだろう。
“グルォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォォォォォ~~~~~~っ”
“星気「星脈地転弾」”
咆吼が響くのと同時、美鈴は自分の体よりも膨らんだ虹色の光弾を放った。これほどの気を込めて放ったことは、これまでもない。どれほどの威力かは、自分でも分からない。
「ゴガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァ~~~~~っ!!」
光弾が熊の顔を覆い尽くす。それはすぐに霧散はせず、渦を巻いて光をまき散らしていく。
四つ脚のまま、獣にとって非常に安定した姿のまま、熊が押し戻されていく。
虹色の暴力は花火のような破裂音を繰り返し、徐々に小さくなっていく。そして、たっぷり二十秒は時間を掛けて、ようやく消えた。
熊の顔はぐしゃぐしゃに潰れ、べったりと血に染まっていた。
まだ倒れてはいないが……流石にただで済んではいないだろう。これで、勝負はあったと思いたいが……。
「グルァアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァ~~~~~~っ!!」
「そんなっ!?」
美鈴は悲鳴を上げた。
熊が突進し、腕を振り上げた。
その一瞬後には、美鈴の体が横薙ぎにされ、吹き飛ばされた。
ボールか何かのように地面の上を転がっていく。
地面に叩き付けられるのではなく、それでも美鈴は転がりながら衝撃を和らげた。
転がるのが止まったのと同時に、美鈴は顔を上げる。先ほど立っていた位置から、二十間(約36m)ほどは離れていた。
体が重い。
ほとんど反射的に防御の型を取り、自分の立ち位置を爪から外して肉球へと移動させつつ、身を浮かせ……最小限にダメージを殺せたのは、まだこれでもマシなのだろう。一歩間違えれば上半身と下半身が分かれていただろう。
「バルアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァ~~~~ッ!!」
「くそっ!」
ダメージで脚が言うことを聞かない。
咆吼を上げて熊がトドメを刺しに来るが、立ち上がる暇は無い。
あっという間に熊が間近に迫ってくる。
美鈴は立ち上がることなく、横たわったまま地面を蹴った。そして、地面すれすれを飛ぶ。
その一瞬後、美鈴の足下で地面から衝撃が広がった。
低空飛行しながら、美鈴は熊に目を向ける。逃げながらも姿勢を制御し、相対した格好を作って姿勢を達直した。
着地して再び間合いを取る。距離は、五間(約10m)も無い。
「はぁ……はぁ……」
美鈴の額から汗が噴き出した。
無謀だったか?
まさか、ありったけの気を込めた光弾まで耐えるとは思っていなかった。倒せなかったら、そのときはそのときですぐに退却し別の作戦を考えるつもりだったが……あのダメージでこの動きをするというのが、信じられない。故に不意を付かれた。
ここから、逃げるか?
一瞬、その考えが美鈴の脳裏をよぎったが、却下した。飛ぶことは出来る。だが今の自分のスピードで、上昇しようとしてあの巨体の熊の爪牙から逃れられるかを考えると、難しい。
べろりと舌で口を嘗め、今度こそ止めだと熊が……ゆっくりと迫ってくる。その目は血と怒りに染まっていた。
あと、まともに体を動かせるのは……全身の力を振り絞って、一撃だと美鈴は自分の体を見積もった。気も、さきほどの攻撃で大半を使ってしまった。
「やっぱりこれをやるしか……ないんですか」
静葉から学んだ秋の拳。
もし、一時的だとしても倒すことが出来るとすれば、可能性があるのはこれしかない。
近付く危険を避ける為に、光弾で攻撃をした。実戦で使ったことが無い……失敗するかも知れないというリスクを避ける為、今まで通りの技で戦った。
守りたいものがある。だから、ここで死ぬことは許されない。必ず生きて帰る。
でも、やれるのか?
美鈴の顔が強張る。
緊張と焦り……自分がコントロール仕切れていないことを美鈴は自覚してしまう。これまでも、死線を乗り越えた経験など幾度もあったというのにだ。
秋の心からはほど遠い。こんな状況で、本当に出来るのか?
“いいでしょう。見せてあげます。あなたに……最後の秋を”
美鈴は覚悟を決めた。
出来るだけ心を……今出来る限りでも心を静め、思う限りの秋を心に宿す。
半身になり、美鈴は右腕を引き絞る。あとは放つだけ。
“グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォ~~~~~~~~ッ!!”
一足飛びに、熊が飛びかかってくる。
瞬きすらする暇もなく、美鈴の眼前に熊の口が迫っていた。
美鈴もまた、一歩を踏み出す。
滑らかに、軽やかに、美鈴は直進する牙の射程から身をずらした。そしてこれが、最後の回避で、最後の一撃。ここでしくじれば、もう後は無い。今度こそ爪に引き裂かれて終わりだろう。
美鈴は右腕を発射させる。
“まずいっ!?”
その瞬間、美鈴の見ている刻が止まった。
思考とも言えない思考で、美鈴は敗北を悟ってしまう。
失敗した。この右腕には……やはり、自分が思うような秋はもう宿っていない。打ち込む瞬間、やはりまだ長年の癖を抜くことが出来なかったのか、あるいは死の恐怖から無意識に最も長い付き合いの戦闘スタイルを選択してしまったのか……。
守りたい場所、守りたい人達。
紅魔館の幼い主達、瀟洒でそのくせ惚けたところがあるメイド長、屁理屈ばかりの魔法使い達の姿が見える。
これもまた、走馬燈というのだろうか? 死を覚悟したがために、思い出す大切な人達。そして彼女らとの思い出。
“落葉もまた美しいものになりますように、とか……”
一瞬のうちに溢れる思い出の中で、そんな静葉の声が聞こえた気がした。
“ああ、そうだった”
美鈴は歓喜する。
生き残れるかも知れないということではなく、それもあるが……取り戻したい秋、終わらせたい秋、楽しんだ秋がどんなものだったか、束の間でも忘れていたものを思い出せて、嬉しかった。
美鈴は薄く微笑んだ。
拳を突き出し、熊のこめかみを打ち据える。
「グ? ……オ?」
熊の突進が止まった。
僅かに、熊の体が震える。まるで何かに耐えようとするように。決して認めまいと意固地になるかのように。
だが、それも長くは掛からない。眠りに耐えきれない赤子のように、美鈴が拳を放った数秒後に、熊はそのまま崩れ落ちた。
「…………ふぅ~」
揺れる地面の上で、美鈴は大きく息を吐いた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
風見幽香は不機嫌だった。
どうしてこう、冬も近いというのに朝っぱらから叩き起こされて、熊退治なぞしなくてはならないのだろうか。昼まで寝かせてくれてもいいじゃないか。
ちらりと、幽香は傍らで飛んでいる魔理沙を見る。こちらは自分とは反対に上機嫌だ。報酬云々はともかく、何でも屋として依頼が来たことが嬉しいらしい。
「もう~、幽香さん? もうちょっと早く飛べないんですか?」
「五月蠅いわね。私はいつ如何なる時も優雅でありたいの。あんまりごちゃごちゃ言っていると、焼き鳥にするわよ?」
「それと、何度も言いますけど出来ることなら熊だけを攻撃してくださいよ? 無理にとは言いませんけど」
「分かっているわよ。まったく。手加減なんて出来るか知らないけれど」
紅魔館の門番が一人で熊のところに行った?
それで、だからどうした等と言うほど薄情ではないが……。
並んで飛行している、不安げな表情を浮かべている秋の神様達を見て、幽香はこれで何度目か分からない溜息を吐いた。もう少し、あの門番を信頼してやってもいいじゃないかと思ってしまう。
信じていても、それでも心配してしまうのが、彼女らの性格なのだろうが。
「ああん? おい文? 例の木だとか熊だとかって、この辺りでいいんだよな?」
「え? ああはい、そうですよね? お二人とも」
目的地として言われていた場所の上空へとたどり着く。
魔理沙と文に視線を向けられ、秋の神様がこくこくと頷いた。
幽香は眼前を見下ろし、くすりと笑みを浮かべた。
なるほど、鴉天狗が化け物などと言ってくるのも納得の大きさの熊だ。それが地面で大の字になって寝そべっている。
その傍らで、美鈴が額の汗を拭っていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
美鈴は空を見上げた。
「美鈴さ~ん。ご無事でしたか~っ!」
額の上に掌を当てて影を作り、美鈴は目をこらした。視線の先には、静葉と穣子、そして射命丸文に魔理沙と幽香がいた。
大声を上げるだけの力も、ちょっと残ってはいない。なので美鈴は笑顔だけ浮かべて、彼女らに手を振って見せた。
ゆっくりと、彼女らの姿が近付き、少し離れたところに降り立った。
彼女らの元へと、美鈴は歩み寄る。
「美鈴さんっ!」
「おわっと?」
と、静葉が突然駆け寄ってきて、抱きついてきた。
「よかった。本当に無事でよかった。私……本当に心配したんですよ? もし美鈴さんが熊に食べられちゃったらって……。そしたら、紅魔館の方達に何て言えばいいか」
「あー、はは。そう……ですね。すみません。ご心配をおかけしました」
よほど不安だったのだろう。笑顔を見せながらも、静葉の目には涙が浮かんでいた。
でも……危なかったけれど、何とか自分はやり遂げることが出来た。そんな充実感に、美鈴は顔をほころばせる。
“危ないっ!”
穣子の悲鳴が、不意に聞こえてきた。
「え?」
そう思う間もなく、突如として視界に影が入る。
振り返ると、そこには赤毛の化け物が立っていた。
胸元の静葉が短く悲鳴を上げるのが、どこか遠くの出来事のように思えた。
美鈴の思考が停止する。
“マスタスパーク”
白く輝く光が、熊の巨体を包み込んだ。
……ゆっくりと、声も無く熊が再び倒れる。
熊の上半身からは焦げ臭い煙が立ち上っている。ぴくりとも動かない。近距離からのマスタースパーク。しかも幽香と魔理沙のダブルでだ。これは、流石に死んだだろう。
幽香の溜め息が聞こえた。
「ダメじゃないの。止めも刺していない熊に背を向けるなんて」
くすくすと笑みを零してくる幽香に、美鈴は頭を下げた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
美鈴は静かに、扉を開けて館の中へと入った。表で門番をしていた妖精達に挨拶はしているのだが……。
内心、びくびくしていたりする。
「帰ってきたなら、ただいまくらい言いなさい」
「おおぅっ!?」
いきなり目の前に咲夜が現れた。時間を止めて移動してきたのだろう。まったくもうと額に人差し指を当てて怒ってくる。
「い、いやー。なんだかこう……そろそろ、ほとぼりは冷めたかなーと思ったんですが、本当に帰って大丈夫かなーとですね? 見付かったら追い出されないかなあと」
「そんなことしないわよ。まったく」
そう言って、咲夜は笑みを浮かべた。
「安心しなさい。お嬢様の怒りは既に収まっているわ。むしろ、機嫌がいいくらいよ?」
「そうなんですか?」
「ええ。ブン屋が新聞を持ってきたのよ。『紅魔館の紅美鈴。新必殺技・秋の拳を以て化け物熊を退治する』って」
「え? あれもう新聞になったんですか? どれだけ早いんですかあの鴉天狗は!?」
「そうよ? それでお嬢様もお喜びになられてね? 『ふふっ、それでこそ我が紅魔館の門番よ。これで少しは……いや、改めて我らの力も幻想郷に知れ渡ったことだろう』とかなんとか……。雪辱をはらす為に訓練に励む白狼天狗達のことも記事になっていたけど、それを見て『ふはははは、我が門番はまさしく一騎当千よ』とも言っていたわね」
美鈴は苦笑し、頬を掻いた。
「いやー。まあ喜んでくれて何よりです。でも、まーた、よからぬ事を起こすフラグにならなければいいんですけどねえ」
「止めなさい、そういうことを言うと本当に起こしかねないから」
「それもそうですね」
咲夜と共に顔を突き合わせて、美鈴は笑った。
“誰が何を起こすって?”
突如として響いてきたその声に、思わず二人は飛び上がった。
デビルイヤーは地獄耳。そんな言葉を思い出す。
慌てて美鈴は声の方へと向き、主へと頭を下げた。
「お嬢様。不肖、紅美鈴。ただいま戻って参りましたっ!」
廊下の脇からレミリア・スカーレットが姿を現す。
「うむ、ご苦労だったな、美鈴。それと、先ほどのお前達の戯れ言は不問にする。今日の私は機嫌がいい。感謝しろ」
「ははっ。有り難うございます」
つかつかと、幼い主の足音が近付いてくる。
そして、美鈴の目の前で止まった。
「それで……だ」
「はい?」
美鈴は顔を上げた。
「その、新必殺技。どの程度のものか私が見極めてやるから、やってみろ」
美鈴の目の前には、両腕と両脚を大きく広げて立つ、幼い主の姿があった。
ふっふっふっ、と不敵な笑みを零しながら、好奇心いっぱいに目を輝かせている。
「ええ? それは流石に、畏れ多いと言いますか」
「構わん。許すっ!」
普段なら絶対に有り得ない台詞に、子供の好奇心って凄いなあと美鈴は思った。似たようなことを自分も頼んだのだけれど。
「えーと、いいんですか?」
うんうんと、レミリアは頷いた。
「じゃ……じゃあ、いきますよ?」
熊を退治した後、秋を締める巨木の落葉は、美鈴も手伝ったけれど……静葉に比べると、やはりまだ未熟だなと思う。
そんな拳で、主に秋を伝えることが出来るのだろうか? ある意味、熊と相対したときも重い重圧を美鈴は感じた。
「はいやっ!」
秋を込めて、美鈴はレミリアの胸元へと拳を打ち込んだ。
だが、レミリアは答えない。
「……お嬢様?」
心なしか、主の目に焦点が合っていないような?
「お嬢様~? 大丈夫ですか~?」
ちょっと心配になって、美鈴はレミリアの目の前で掌をひらひらさせてみた。
「……お前は何をしているんだ?」
「うわっ!?」
レミリアが睨んでくる。
慌てて美鈴はレミリアから飛び退いた。両腕を上げ、盆踊りのような格好で固まる。
そんな美鈴の前で、レミリアは満足げに微笑んで見せた。
「なるほど、これが秋の拳か。美しく、そして澄み切って儚い秋を堪能したぞ。美鈴」
「は……はぁ」
「よし、門番の任務に復帰することを許す。今後も精進するがいい」
「あ、ありがとうございます」
「うむ」
それだけ言って。レミリアは踵を返した。
のっしのっしと美鈴達から遠ざかっていく。
そんな……熊すら気を失わせる拳を打ち込んで平然としているレミリアの後ろ姿を見送りながら、改めて美鈴は主のカリスマに感服するのであった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
レミリア・スカーレットの寝室。
棺桶の中で、紅魔館の幼い主は一筋の汗を流していた。
危なかった。もう少しで、配下達の目の前で意識を失い倒れるなどという醜態を見せるところであった。カリスマたるもの、そのような無様を晒してはならないというのに。
自分こそが最強にして最速であるということに疑いは持ってはいない。
だが、あまり戯れをし過ぎれば、足下を掬われる事もあるかも知れない。
今後は、もうちょっとお遊びのような真似は控えよう……当社比10%減くらいで、などと考えるレミリアであった。
―END―
そんな中で、紅美鈴は苦笑いを浮かべて、頬を掻いた。相手の反応を見て、そりゃそうだろうなーと思う。
彼女の目の前で、ややオレンジっぽい朱のワンピースを着た少女が目を白黒とさせている。この山に住んでいる妖怪か神様だろう。
「……え? あの、それはどういう?」
「いえ、ですからその……言葉通りの意味でして」
何かもっと、別の言葉で言い換えることは出来ないものかと、美鈴はしばし考える。だが、結局は思い浮かばなかった。
“私を殴って下さい”
少女は表情を引きつらせて美鈴からしばし身を引いた。そんな彼女に、美鈴は慌てて両手を横に振って怪しくないですとアピールする。
「いえ、だからそうじゃなくてっ! 決して、怪しい者じゃないです。私、紅魔館というところで門番をやっている紅美鈴といいます。訳あってこの山に修行に来たんです。それで、先ほど拝見した、紅葉を散らすあなたの拳に興味が湧いたといいますかっ! ですので、一度その……どんなものなのかこの身で受けてみたいのです」
「え? 修行……ですか?」
「はい、そうなんです」
「あ、はあ……そうなんですか。分かりました」
納得のいく理由を聞けて、少女が少し安心した表情を見せた。信じてくれた様子に、美鈴もほっと胸を撫で下ろす。
とはいえ、それでもおずおずと、少女はおっかなびっくりといった感じで構えを作る。
「あの……でも本当にいいんですか?」
「はいっ! 大丈夫です。こう見えても私は妖怪。体の丈夫さにはちょっとは自信があります。それに、鍛えていますからっ! ですので、ど~んと来て下さい」
美鈴は胸を反らして、笑顔を浮かべて自分の胸を右手で叩いた。
「わ、分かりました。では……いきますよ?」
「はいっ!」
正直なところ、殴られるのは流石にちょっとだけ恐い。だがしかし、それ以上に少女の拳に対する好奇心の方が勝る。
期待に胸を弾ませながら、美鈴は気合いを込める。静かに呼吸を整え、すべてを受け止めると言わんばかりに、両手両脚を大きく広げる。
“えいっ!”
体に拳が当たる直前、少女が目を瞑るのがはっきりと見えた。そして、掛け声が可愛らしいなとも思った。
だが……。
拳が当たった瞬間、美鈴は目を大きく見開いた。
息が止まる。
じわりと、重い衝撃が拳から広がっていく。
かと思えば、軽やかで鋭い気が美鈴の全身へと伝わる。
美鈴は反射的に……いや、実際にこれまでの修行で身につけた反射で、その衝撃に合わせた気を張って身を守ろうとする。
だが、上手く抵抗が出来ない。その彼女の拳から放たれた衝撃は、重く鋭く……そのくせ、軽やかで……むしろ優しいほどに、美鈴を包み込む。
そこで美鈴の意識は途切れた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
目を開けると、少女が不安げな表情を浮かべて覗き込んでいた。
「ここ……は?」
森の中ではない。布団に寝かされていた。
「あの……すみません。大丈夫ですか? 私、手加減したつもりなんですけど……その、あなた、気を失ってしまって」
「気を……?」
顔を横に向けると、朱いドレスを着た少女が正座をして座っていた。
若干混乱した頭の中で、美鈴は状況を整理する。
直前の記憶を思い出すと、どういうことだったのか少女の言葉の意味を理解した。
「あ……ああ、そうだったんですか。すみません、心配させてしまって。そんなつもりじゃなかったんですが。お恥ずかしい」
照れくさそうに、美鈴は笑って見せた。
「もぅ、お姉ちゃん? ダメじゃない、人様に怪我をさせるなんて」
「だ……だって、仕方ないじゃない穣子。私、本当に手加減したのよ? なのに、こんな事になっちゃうなんて……」
うぅ、と少女が小さく呻く。それに対して、穣子と呼ばれた少女がまったくもうと溜め息を吐いた。
「でも、あなたも本当に大丈夫? お姉ちゃんに聞いたら、山に修行しに来たとか何とか言っていたらしいけど?」
「ああはい、私は大丈夫です。確かに、気を失ってしまいましたが、こう見えても痛みは全然……あれ?」
そこまで言って、美鈴は首を傾げた。
「どうかしたの?」
「……いえ、本当に痛みはありませんね? これは……どういうことなんでしょう?」
美鈴は上半身を起こし、自分の胸を両手でぺたぺたと触ってみる。そして、腕を回したり胴を捻ったりしてみた。だが……やはり痛くない。
「ふ~ん? 痛くないなら、よかったんじゃないの?」
「ほ、本当ですか?」
見ると、ワンピースを着た少女が不安げな表情を浮かべていた。
「ええ、本当です」
そう言って頷くと、彼女はほっと胸を撫で下ろした。やはり、心配させてしまっていたらしい。改めて、美鈴は申し訳なく思った。
「それにしても修行って……、何でまたそんなことを? 紅魔館で門番をやっているってお姉ちゃんに言ってたみたいだけど……お仕事はいいの?」
穣子の言葉に、うんうんと少女も頷いてくる。
「あー、それがですね? 実はこれには訳がありまして――」
その問い掛けに対し、美鈴は照れくさそうに人差し指で頬を掻いた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
紅魔館の幼き主、レミリア・スカーレットの前に立ちながら、美鈴は愛想笑いを浮かべた。こんなものがこの主に通じる訳が無いのだが……あからさまに渋い表情を浮かべるわけにもいくまい。心中を覆い隠す仮面としては実に都合がいいと、ふとそんな不遜なことを考える。
腕を組んで仁王立ちをする主の背後では、その友人であるパチュリー・ノーレッジが力無くベッドの上で横たわっていた。
「おお美鈴よ。負けてしまうとは情けない」
心底失望したと言わんばかりに、レミリアが眉根を寄せて首を横に振る。あまつさえ深く溜息まで吐いてきた。
「いや、そんなこと言われてもですね? 相手は風見幽香ですよ? 正直、これはまだ穏便に済んだ方ではないかと思うのですが? だいたい、大元の原因はパチュリー様にあるわけでしてね? ほら、以前にパチュリー様が庭の花でミステリーサークルを作っちゃったじゃないですか? それを記事にした新聞を見掛けた風見幽香が、『花を玩具にするんじゃない』って……いやもう、会話するどころじゃなかったんですって。見て下さいよ? 私の怪我だってまだ治ってないんですよ? マスパとかダブスパとか、本気で蒸発するかと思いましたよ?」
美鈴は額に張られた絆創膏や腕に巻かれた包帯を指差し、必死にアピールをしてみせた。
だが、レミリアは冷たく見返してくる。
「ほぅ? 無様にも我が紅魔館に侵入者を許し、あまつさえその結果、主の友人を寝たきりにさせておいて、反省はおろか己の保身に回るとは……つくづく、私を怒らせたいようだな、美鈴よ?」
レミリアから物理的にすら感じられる程の、冷たく鋭い怒気が美鈴に叩き付けられる。
「うぅ……、はぁ……はぁ……」
脂汗を流しながら、パチュリーが呻く。「パチュリー様、しっかりしてください」と小悪魔が彼女の手を取って涙を流した。
そんな様子をしばし眺めながら……美鈴は愛想笑いを消した。いい加減、限界だった。
“寝たきりって……ただの筋肉痛じゃないですか”
半眼になって美鈴はぼやいた。
「むきゅううぅぅ。ああ、苦しいわ……私の命もこれまでね」
「パチュリー様~っ!! しっかり、しっかりして下さい~っ!!」
「ですからっ! 筋肉痛で死にはしませんっ! そんな調子で何日寝込む気なんですかっ!? ちょっと小一時間ほど追い掛け回されただけじゃないですか。運動不足にも程があるでしょ?」
わざとらしく……いや、絶対にわざとだ。ゲホゲホと咳き込むパチュリーに対して、美鈴は怒鳴った。
「おい美鈴、お前……主の話を聞いているのか?」
「……何でしょうか?」
こんな茶番劇の為にカリスマオーラだとか威圧的な魔力だとか放たないで欲しいものだと、美鈴は心の中で嘆息した。
「お前は罰として、しばらく門番の任を解く。今後このようなことの無いよう……そうだな、必殺技の一つでも身につけるまで帰ってくるな」
「……ええ~?」
途端、レミリアの形相が変わる。恐怖の主モードから、癇癪モードのそれだ。いよいよ逆鱗に触れてしまったらしい。精神的に余裕が無くなったという意味で。何が何でも修行させたい。その意志だけは痛いほどに理解していた。
「分かったなっ!!」
「……はい」
こうなってしまった主にはどんな言葉も通じない。この結末は最初から分かっていた。……それこそ、風見幽香がやってきたときから。結局、何もかもが茶番であった。
がっくりと、美鈴は肩を落とした。
そんな彼女に、背後に立っていた咲夜が……同情か励ましのつもりだろう、肩に手を置いてきた。せめて、お弁当くらいは豪華なのをお願いしようと思った。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
苦笑いを浮かべ、美鈴は嘆息した。
「――とまあ、こんな感じのことがありまして。いやまあ、お嬢様のことだから数週間もしたら飽きて帰ってこいと言ってくるでしょうけどね? 妖精メイド達にいつまでも門の守りを任せることは難しいですし」
「ふーん、それは大変ね」
「……必殺技……ねえ。それで私の拳が気になったという訳なのね」
しげしげと、少女が自信の両手を見下ろす。
「でもお姉ちゃんってそんなにも強かったの? そうは思えないんだけど? 農作業を手伝って貰っても、体力無いからすぐにヘタれるし」
「うぅ……それは悪いって思っているわ。でも、わ、私も……信じられないんだけど。その、武術とか全然したことなくて。秋だから、力が強くなっているのかしら? そんな実感……無いんだけれど」
「えぇっと? それはどういう? 秋だから? それでどうして木を殴ったり蹴飛ばしたり? 武術の修行ではなかったのですか?」
腑に落ちないといった声を出す美鈴に、穣子が「ああ」と頷く。
「そういえば、まだちゃんとした自己紹介はまだだったわね。私達は秋の神様なの。私は豊穣を司る秋穣子。そして、こっちがお姉ちゃんの――」
「秋静葉です。よろしく。紅葉を司っているわ。それで、木を殴ったり蹴ったりしていたのは、紅葉を散らしていたからなの」
「え? 紅葉を散らす? ――って、ああ、秋だからとか木を殴っていたというのは、そういうことだったんですか。なるほど」
合点がいったと、美鈴は頷いた。同時に、落葉って意外と豪快な方法で行われていたんだなと思う。
「……ところで、一つお願いがあるのですが。よろしいでしょうか?」
「お願い? 何かしら?」
美鈴は布団から下半身を抜き出し、両膝を付いた。
「はい、もしよろしければこの私に静葉様の仕事の手伝いをさせては頂けないでしょうか? 静葉様の落葉の拳。是非とも参考にさせて頂きたいのです」
お願いします、と美鈴は静葉に頭を下げた。
「え? えええ? それは……そんなこといきなり言われても……私、初めてで」
「あ~、でもお姉ちゃん。丁度いいかも知れない」
「え? 丁度いいってどういう事?」
穣子が静葉に頷いた。
「うん、お姉ちゃんは聞いてない? 最近、やたらと凶暴で巨大な熊が出るようになったらしいのよ。詳しい話までは知らないけど……一人よりは二人でやる方が安心じゃない?」
「え? そうなの? 私そんな話全然聞いてないわ。熊って、どのあたりに出るか聞いてない?」
「う~ん、確か東の方が危ないって聞いた気がするわ。ほら、例のあの木のあたりだって」
「ええ? そうなの? ……困ったわね」
不安な表情を静葉が浮かべた。そんな姉に、穣子が快活に笑ってみせる。
「そんなに心配しなくても大丈夫だって、お姉ちゃん。きっと天狗達が何とかしてくれるから」
「う、うん……そうよね」
どうやら、姉は根っからの心配性らしい。まだどこか不安げなものを見せながらも……それでも微笑んだ。
「それじゃあ、私は……その、いいのでしょうか?」
「あ、はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
「有り難うございますっ!」
頭を下げてくる静葉の目の前で「よしっ! やるぞ~!」と美鈴は両拳を握った。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
静かに、美鈴は息を整える。目の前の楓の幹は、両腕で抱えられる程度だ。真っ赤に色付いた紅葉が、消えゆく炎のように見える。
「せいっ!」
真っ直ぐに、美鈴は拳を突き出した。
楓の木が、まるで柳か何かのように大きく揺れる。わさわさと紅葉が美鈴に降り注いできた。
「んー」
美鈴は軽く呻いた。顎に手を当ててしばし考える。どうも、イメージ通りにいかない。
いくらか離れたところに立つ静葉へと、美鈴は目を向けた。彼女の目の前には、先ほど美鈴が突いた木よりも、更に二回りは太い幹を持った巨木だ。
「えいっ!」
静葉が目の前の木に蹴りを入れる。やっぱり声はこう……武術をやっている者が出すような、そんな気迫の篭もったものではなく、たおやかな乙女のそれだった。
だが……。
小刻みに巨木が震える。やがて、はらりはらりと、紅葉が舞い散ってきた。
「あ、あの美鈴さん。どうかしましたか? そんなに見られると、恥ずかしいです」
視線に気付かれ、静葉が顔を赤らめて振り向いてくる。
「ああいえ。やっぱり難しいですよねーって。なかなか、静葉様のようにはいかないなって思いまして」
「……うん、そうみたいね」
静葉はしばし美鈴の突いた木を眺めた後、頷いた。
「え? 分かるんですか?」
「ええ。……これでも秋の神だからかしら? もう少し優しく散らしてくれた方がいいと思う。手伝って貰ってこんな事言っていいのかって思うけれど。木々が傷付いているから……冬を越すのにはちょっと辛いかも知れないわ。美鈴さんに頼んでいるのは、みんな生命力溢れる若い子達ばかりだから、大丈夫だと思うけれど」
「はぁ~。流石ですねえ」
美鈴は腕を組んでうんうんと頷いた。武術を嗜んでいなくとも、この道を続けてきた神にはやはり分かるということなのだろうか。
「いや、実はまさにそこに悩んでいるところでしてね。私も気を付けてはいるんですが、どうにもこう……練り上げた気が突き抜けてしまうんですよ。静葉様のように、もっとこう……全体に気を行き渡らせようとしているんですが……上手くいかなくて。私も武術をやって長いので、いくつかの気の使い方は習得したつもりなのですが……こういうのは初めてですね」
「……気?」
小首を傾げる静葉に、美鈴は苦笑を浮かべた。
「いやまあ、長く武術をやってないとその辺の感覚は分かりにくいかも知れません。簡単に言ってしまえば、目に見えない力という意味で、魔力や妖力に近いものかも。ただ、それらと違うとすれば、気はより純粋な力……特に生命力に近くて、魔法のように何か別の力に変換する源とはならなくてですね? って……あれ?」
ますます頭の上に浮かべる疑問符を増やした静葉に対し、美鈴は照れくさそうに頭を掻いた。簡単に説明するつもりが、こういう話をする機会もないので、つい語りすぎたらしい。
「ええと……まあ、魔力のようなものだと思ってください」
こくこくと、静葉が頷いてくる。
「その……私はよく分からないんだけど、私と同じ様な気の使い方がなかなか出来ないっていうことですか?」
「ええ、そういうことです。ですからつい……静葉様はどのようにして気を練って、そして気に伝えているのか、それを知りたくて」
「でも私、そんな……気なんてよく分からないし……。教えられるといいんだろうけど」
「うーん、そうですよねえ」
美鈴は顎に手を当てて落葉を眺めた。
静葉が突いた巨木からは、まだ葉が散っている。その一方で、美鈴の突いた気はいっぺんに葉が落ち切っている。これが、静葉と美鈴の大きな違いだ。
「静葉様は、いつも何を考えながら落ち葉を散らしているのですか?」
「え? 何を考えながら? ……そんなの、考えたこともなかったわ」
完全に虚を突かれたと、静葉が目を丸くする。
「でも……そうね。全く何も考えてないとか、無心で……というのとは少し違うかも知れない。私は――」
静葉は自分の胸に手を当てて、微笑んだ。
「強いて言うのなら、私は紅葉を司る神だから……落葉もまた美しいものになりますように、とか……さあ、古い衣を脱ぎてて……とか、子守歌? そういう感覚かしら? うん、そんなことを想いながら、この仕事をしているわ」
秋を誇るような静葉の笑顔を見て、美鈴は小さく頷いた。
「なるほど……そういうことでしたか」
「え? 何がですか?」
「いえ、ほんのちょっとだけ、分かったような気がしただけです。静葉様の拳は……まさしく秋の拳なんですね。技術一辺倒であれこれ考えていただけでは、なかなか真似出来ないわけです」
そう言って、美鈴もまた微笑んだ。
彼女の拳を受けたとき、妙に優しくて抵抗が出来なかったこと。気を失い、そして起きたときに痛みがなかったこと。そして、むしろ清々しさすら覚えたこと。その理由が、分かった気がする。
“静葉様。きっと私はこの……あなたの拳を完全にマスターすることは出来ません”
「え?」
「これはきっと、秋の神様であるあなただけが使える拳です。そして、私は秋の神様ではありませんから。ですから……私は、私なりに、秋を想い秋を愛する心を拳に乗せて……少しでも近づけるように気を練ってみようと思います」
「そう。……頑張ってね」
「はいっ!」
美鈴は気合いを入れ直した。光明が見えるなら、あとは突き進むのみ。
「あ、あと美鈴さん。もう一つその……ちょっと、訊いてみたいことというか……その……失礼かも知れないんですけど」
「? はい? 何でしょうか?」
唐突に、そして躊躇いがちに、怖ず怖ずと静葉が口を開く。
「あの……美鈴さんって、強いんでしょうか? 熊とか、恐くないですか?」
「んー? どうなんでしょう? まあ、弱くはないつもりですが……でもお嬢様や八雲紫みたいな大物に比べると……どうなんでしょう? とはいえ、そんじょそこらの熊よりは強いですけど」
「そ? そうなの?」
信じられないといった表情を浮かべてくる静葉に、ふふんと美鈴は胸を張った。
「だって、その……ごめんなさい。私、本当に強くないと思うし、それなのに昨日は美鈴さんがあんなことになっちゃうし……それに、美鈴さんって……武術をやっている割には恐そうに見えないし」
「……じゃあ、試してみますか?」
「え?」
にやりと、美鈴は笑みを浮かべた。
「静葉様が好きなように攻撃してみて下さい。私はそれを捌いてみせましょう」
「え? ……でも」
「大丈夫ですよ。素人の拳や蹴りなんて、まず私には当たりませんから」
どんなに威力の大きな一撃だろうと、当たらなければどうということはないのである。
そして、改めて静葉の動きを見たところ……やはり、武術の経験は無いようだった。目の前の気を打つとき以外は、足の運び方、呼吸の仕方、そういったすべてが武術家のそれとはほど遠い。
静かに笑みを浮かべながら、美鈴は静葉と相対する。秋の神様の喉が上下するのが見えた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
秋姉妹と共に囲炉裏を囲みながら、美鈴は顔をほころばせた。思わず頬に手を当ててしまう。
「はぁ~☆ やっぱり美味しいですねー」
「はいはい、昨日もそうだけどご飯はまだまだあるから、た~んと召し上がれ」
「はいっ! 喜んで。あ、お代わりお願いします」
にこにこと笑う穣子に頭を下げ、美鈴はお茶碗を差し出した。流石に居候の身分、三杯目になると自重気味にお茶碗を出すようにしているが。
「いやー。でも何だか悪い気がしますねえ。正直言って、紅魔館を追い出されたときは野宿生活を覚悟していたんですが……まさか、寝るところはおろかご飯まで用意して頂けるとは」
「いいのいいの。美鈴さんだって、お姉ちゃんと一緒に魚やキノコを捕ってきてくれているんだし。一緒に食べた方が美味しいでしょ?」
「……やっぱり嬉しそうね、穣子」
「そりゃあね。私の作ったお米やお芋を美味しいって言ってくれるんだもの。豊穣の神としては、嬉しくもなるわよ。そりゃあ、お姉ちゃんも言ってくれるけど……」
上機嫌な穣子を見て、静葉もまた嬉しそうに微笑んだ。そんな姉妹を見て、美鈴は紅魔館の主とその妹をふと思い出す。彼女らは、ちゃんと仲良くしているだろうか?
「でもお姉ちゃん? 今日はやけに疲れていたみたいだけど、何かあったの?」
「え? ああうん。ちょっとね? 美鈴さんが本当に強いのかなって思って。ほら……あの風見幽香と渡り合ったとか、ちょっと信じられなくて。それで、美鈴さんに手合わせして貰ったんだけど……」
「……それで、どうなったの?」
静葉がくすりと微笑んだ。
「美鈴さん、本当に強かったわ。私の攻撃がまるで、掠りもしないの。凄く動きが早くて当たらないとかそんなのじゃなくて……私の腕とか脚が、何されているのか分からないくらいに鮮やかに受け流されちゃうっていうのかしら? そんじょそこらの熊には負けないって言っていたけど……本当みたい」
どうも攻撃が当たらないのが不思議でありそして面白かったのか、静葉は目を輝かせながらいつまでも止めようとしなかった。その様子は、じゃれつく子犬を美鈴に連想させた。
「ふっふっふっ。長年の功夫の賜物ですよ」
「へー、美鈴さんって凄いのねー」
ぺたぺたと美鈴の茶碗にご飯を盛り付け、穣子が渡してくる。美鈴は軽く頭を下げて受け取った。
「あ、そうそう穣子。熊で思い出したけど、例の巨大熊について何か聞いてるかしら? 今日、天狗達のところに行ってきたのよね?」
「ええ、三~四日後くらいから五個小隊……白狼天狗が百人くらいで山狩りするらしいわ。スケジュールの調整や編成に時間が掛かっているみたいだけど、流石にこれなら、すぐに退治されるでしょ」
「そう……。でも東の方なのよね。何事もなければいいのだけれど」
もっきゅもっきゅと新米を堪能しつつ、美鈴は小首を傾げた。
「あの~、昨日も気になったんですが……。何かあるんですか?」
「ええ、東の方にね……多分、問題の熊が出るあたりだと思う。そこには山の主とも言える特別な木があるの。秋を集め、その一帯の季節の象徴となる……秋を締めるためにも大切な木で、だから……」
「その木が落葉しないと、秋を終えることが出来ないっていうことですか?」
「その通りよ」
重々しく、静葉は頷いた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
犬走椛は表情を引き締めて仲間を見る。
誰にも緩みはない。そのことを確認し、椛はささやかな満足感と安堵感を覚えた。
「えいっ☆」
「うひゃふひゃんっ!?」
突如として尻尾から伝わる面妖な感触。
ぞわりとしたものが背中を駆け上がり、思わず椛は悲鳴を上げた。
慌ててお尻を押さえて後ろを振り返る。
「あ……文さんっ!? いきなり何をするんですかっ? 尻尾……そんなとこいきなり触らないでください。驚くじゃないですかっ!」
顔を赤らめ、犬歯を剥き出しにして椛は文に怒鳴った。緊張感もなく笑っている文が憎らしい。部下の前でみっともない姿を見せてしまい、恥ずかしく思う。
「すみません椛。いつまでもそんな顔されていると、どうしてもですね?」
くっくっ、と文は口元に手を当てて笑った。
「ただ……ちょっと、気負いすぎですよ? 初めて小隊を任されて気合いが入っているのは分かりますが、もう少しだけ気楽にした方がいいと思います。いきなり泰然自若とした隊長たれとまでは言いませんが……張りつめすぎると、かえって視野を狭めますよ」
「ん……む……」
気負いすぎていた? そんなつもりは無い……のだが、自分のことは自分ではよく分からない。
しかし、もしそれが本当ならと思い、反論することも出来ない。
「何、安心していいですよ椛」
ぽん、と文が肩に手を置いてくる。
「あなたの責任感の強さ、長年の経験。今回、小隊長を任されたのはそういったものすべてを総合的に判断した上で、あなたが相応しいと判断されたということなのです。大丈夫、あなたならやれますよ。部下の命を背負うこと、その責任をよく分かっているあなたですから」
「……いきなり何を恥ずかしいこと言い出すんですか。まったく」
赤面しながら、椛は毒づいた。
嬉しいのだが、いつも顔を合わせれば茶化してばかりの相手に言われると、正直言って面食らう。ありがとうとは、恥ずかしくて口に出せない。
「もうすぐ出発の時間ですね。頑張ってください」
「はい」
椛は微笑みを返して、空を見上げた。
澄み切った秋空はどこまでも高く広がっていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
はらりはらりと落ち葉が舞う。
呼吸を整え、木を練り上げ、そして心に秋を刻み込む。
「はいやっ!」
大気が揺れ、そして静かな音が周囲に響く。
美鈴が突いた木が細かく震える。その姿は、濡れた獣が体を揺すって水をはじき飛ばしているようにも思えた。
「頑張るわね。美鈴さん。それに……少しずつだけど、あなたの拳に秋が宿っているのを感じるわ」
少し離れたところから静葉に声を掛けられ、美鈴は振り返った。
「ははは。いやー、まだまだ……私のものにするには、道は遠いですよ」
「ふふ……そうね、それはそうなのかも知れないわね」
美鈴が受け持つことが出来るのは、やはりまだ割と若い木のみ。それに対して、静葉は巨木でも一撃で落ち葉を舞い散らせることが出来る。
やればやるほど、自分のものにしたといえるほどにまで習得する道のりが遠いことを思い知らされる気がする。
けれども、まったく進んでいないわけではない。だからこそ、打ち込める。
「でも、冬が来て……そのときには私は紅魔館には帰りますが、それでも私は秋の心を忘れずに修行を続けます」
はっきりと、美鈴は宣言した。
と、静葉が顔を赤らめる。
「あの……美鈴さんは、秋のこと好きですか?」
「ええ、好きですよ。冬も春も夏も好きですが、秋には秋の良さがあります。ひんやりと澄んだ風の中で高い空を見上げたり、色取り取りの紅葉を眺めたり、一面に広がる黄金の稲穂を見渡したり。そういうのを見て……落ち着いた美しさが楽しめますから」
「紅葉は……綺麗でしたか?」
「はい、とても綺麗でした」
心の底から、美鈴はそう思う。
褒められ慣れていないのだろうか、静葉がそれこそ紅葉のように顔を真っ赤にさせて笑顔を浮かべてくる。
そんな神様のことを美鈴は可愛いと思った。
「でも、それももうすぐ終わりね」
切なそうな瞳を浮かべて、静葉が呟く。
「そうですね。少しだけ、寂しい気もしますね」
「そうね。私もこの仕事は……少し、寂しいの。この前、何を考えているのかって訊かれたときは言えなかったけどね」
そう言って、静葉は寂しげに微笑む。
「ですが私は今、秋を満喫しているのだと思います」
「え?」
「その寂しさもまた、秋を愉しむということだと、私は思いますので」
その言葉に、静葉が目を丸くして押し黙る。
そして、小さく笑った。それはさっき浮かべたものとは違う、寂しさの混じらない笑顔だった。
「ありがとう。美鈴さん」
「何がです?」
「秋を愉しんでくれて。そして、秋を愉しむってどういう事か、私に思い出させてくれて。私の心から失われていた訳じゃないし、決して失われることはないのだけれど……言葉にして貰って、それがどういうことか、改めて私の中で形作られた気がする」
静葉が頷いてくる。
「今年は、いつも以上に綺麗な落葉を見せてあげるわ。美鈴さん」
「それは、楽しみです」
素直に美鈴はそう思う。いずれ秋が終わるのは確かに寂しい。だが……ここで最高の秋を見せてくれるというのなら、その寂しさも悪くない。
「それと美鈴さん。もう一つ、聞かせて貰っていいですか?」
「はい、何でしょうか?」
「美鈴さんは、どうしてそんなにも武術に打ち込むのですか? 私の拳は落ち葉を散らし美しい秋を彩る為。美鈴さんはいつも何を考えて武術をしているのかと、ちょっと興味が湧いたというか」
「ん? うーん、それは……そうですねえ。まあ、好きだからっていうのもあるんですが。守りたいものがあるから……ですかね?」
「守りたいものですか?」
美鈴は頷く。
「はい。私は紅魔館の生活が気に入っています。そりゃまあ、こうしてお嬢様達の我が儘に振り回されたりもして大変だったりすることもありますよ? ですが、こう……お嬢様を初めとして、みんないつも賑やかで楽しい……私の居場所なんです。ですから、あそこを守る為なら……私のこの身、惜しくはありません」
胸に手を当てて、言葉を口にする。静葉ではないが、改めて口にすることで、いつも当たり前に思っていたことを再認識した。
「私はお嬢様達には遠く力は及びません。しかし、露払いくらいなら出来ます。そんな……ちょっとでもお役に立てるのなら、嬉しいんですよ」
言っていて、ちょっと照れくさくもあるが。
「美鈴さん」
「はい、何でしょうか?」
見ると静葉が何やら決意を固めたような顔をしていた。
“私を殴ってくださいっ!”
「…………え?」
美鈴は目を丸くした。彼女の言葉は全く想像していなかった。
「あ……あの?」
「い、いえ変な意味じゃないんですよ? 美鈴さんの拳ってどんな感じなのか私もちょっと知りたくて……ですから……その……よかったら」
恥ずかしそうに静葉が口ごもる。
「ええ、いいですよ?」
「あ、有り難うございます。でも、……手加減してくださいよ?」
「分かってますよ。ちゃんと、手加減します」
美鈴は静葉に近付いていく。
「ちょっと力を抜いて下さいねー。こんな感じで構えてください」
「は、はい」
そして、静葉の腕や脚を動かして構えを作らせる。
「うん、こんな感じかな?」
静葉の胸の前に両腕を縦に並べて壁を作り、そして両脚を内股気味にして重心をやや落とさせる。空手で言うところの三戦立ちを少々崩して、両腕の幅を極端に狭めたような形だ。
「その格好で、太股とお腹に力を込めてください。心持ち、重心を落とすイメージで」
静葉が頷くのを見て、美鈴は彼女から数歩前に離れた。
「それじゃあ、いきますよ? 腕を突きますから……」
静葉の顔が緊張と共に引き締まる。
すぅっと、美鈴は息を吸った。
「はいっ!」
そのまま、真っ直ぐに静葉の腕へと掌底を打ち込む。
“きゃあああああああああああああああぁぁぁぁぁぁっ!?”
信じられない。まさにそんな表情を浮かべて静葉は構えた姿のまま後方へと吹き飛ばされていく。地面の上を足が滑っていき、背面からスキーで滑っているかのような格好だ。
静葉は、最初に立っていたところから二間(約3.6m)ほど吹き飛ばされて、ようやく止まった。
「……如何でしょう?」
目を丸くしたまま固まる静葉に、美鈴は訊く。それでようやく静葉は我に返ったようだった。
「え……えっと、その」
「……はい」
「よく分からないけど……上手く言えないけど、凄く……真っ直ぐで揺るぎない気がしたわ。ものに喩えるなら、鋼のように。これが、美鈴さんの拳……なのね」
うん、と静葉が頷く。
「私、美鈴さんがどうしてそんなに強くなったのか、少しだけ分かった気がするわ」
そんな静葉の言葉を聞きながら、自分も今真っ赤な顔しているんだろうなーと、美鈴は思った。
“お姉ちゃ~んっ! 大変っ! 大変だよ~っ!”
そんな穏やかな時間を……不意に穣子の声が引き裂いてきた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
これが悪夢なら……ただの悪夢ならどんなにもよかったことか。
椛は歯を食いしばる。
ここで、心を折るわけにはいかない。
「腕が……腕がああああぁぁぁぁ~~っ!? 私の腕、私の腕~っ!?」
「落ち着けっ! まだ繋がっているっ! しっかりしろ、お前は後ろに下がれっ!」
「畜生っ! 畜生っ! この……畜生がああああぁぁぁ~~っ!」
常に最悪の事態を想定しろ。
命を預かる職務である以上、それは徹底して心がけていたつもりだ。想定外? そんなものは、何を言っても言い訳にしかならない。
「連携を崩すなっ! 必ず三人以上で固まれっ!」
気を付けてはいた。いたはずだった。
森の中で、問題の熊と思われる熊を追い掛けたら……その実、それは彼らの罠だった。
熊が……成獣したなら単独で行動するはずの熊が、自分達を待ち伏せていた。突如として巨木の上から飛び降りてきた。
ぎりぎり……ほんの少しだけ変わった風に乗った臭いで潜んでいた敵の存在に気付き、完全には囲まれなかったのはまだ幸いだったのかも知れないが……。
だが、それも時間の問題だったかも知れない。
姿を現した熊の数は、前方に四頭、後方に一頭、合計で五頭。いずれも目測で体長八尺(約2.4m)はある大熊だが、それならまだ戦える。椛はそう判断した。ここで取り逃がしたら、次はいつ退治出来るか分からない。
“ゴフォオオオオオオオォォォッ!!”
椛の背後で、部下の何人かが小さく悲鳴を上げるのが聞こえた。既に士気はガタガタにヒビが入っている。いつ崩壊しても不思議ではない。むしろ……これでもまだよく保っている方だと、椛は部下を褒めてやりたいくらいだ。
「……化け物めっ!」
怨嗟を込めて、椛は前方の奥に立つ巨大な熊を睨む。部下達と共に相手にしている大熊ですら子供に思える。身の丈にして、彼女の五倍はあるだろうか? 頭頂部から背中にかけて赤毛が混じった片目の熊は、まるで意に介さないと言わんばかりに……嗤っているように見えた。
最初は、確かに勝負になっていた。なっていたはずだった。硬い毛皮や分厚い脂肪に阻まれて各自なかなか有効打を与えられないようだったが、それでも時間の問題だと思った。
だが、そいつが現れたとき、戦況は一変した。
戦場を真横から突進し、部隊の三分の一を吹き飛ばした。
即座に撤退を命令するが……間に合わなかった。それでも、真っ先に逃げろと伝えた新人の三人が無事に逃げられたのは幸いか。
逃げ遅れた負傷者の救出、そして陣形の再編成。負傷者を円陣の中央に固め、外周を無事だった者で防ぐ。
とは言え、実際のところはほとんど陣形も何もない状態だ。常に攻撃に晒され、飛んで逃げる隙など無い。
陣の中央にいる負傷者も、ろくに戦えない状態で、互いをかばい合いながら、必死で外周から時折漏れてくる攻撃を避けている。
全滅。そんな、最も避けるべき最悪の状況が、椛の脳裏をよぎる。逃げ延びた新人達に別部隊への増援を頼んだが……。
防戦一方でジリ貧。いつ崩壊してもおかしくない士気。そして、……これは完全に弄ばれている。敵にはあの、赤毛の化け物がいるのだ。奴はいつでもこちらを全滅させられるのに、それをしない。
戦いながらも、希望は捨てずに……一人の犠牲者も出すまいと指揮していたが……もう、限界だ。
椛は覚悟を決めた。
隊長とは、部下の命を預かる者。彼らの命に責任を負う者。
「時雨っ! 楓っ! 朱音っ! 庚牙っ! お前達はまだ無事だなっ!?」
背中越しに、視線は一切合わせること無く椛は叫ぶ。
「何とか……こちらは全員無事ですっ!」
悲鳴と疲労が入り交じった朱音の声が返ってくる。彼女らには退路を切り開く役目を頼んだ。部隊の中でも腕利きの連中を当てたつもりだったが……倒すのが難しい状況のようだった。
そして、殿は……自分達が担っている。こいつもまた、体格こそ朱音達の相手より少しだけ小さいが、動作の素早さではこちらの方が上かも知れない。
「私がこれから隙を作る。合図をしたらお前達はそこから離れろ。他は一斉退避っ! 空に飛べっ! いいなっ!」
「隊長? 一体何を?」
すぐ傍にいる紅雪が訊ねてくる。だが、それに答える気は椛には無い。代わりに、別の命を下す。
「紅雪と幻十郎は負傷者のサポートだっ!」
そして、椛は盾を捨てた。両手で刀を構える。守りを気にして、片手の力でダメージを与えられるような連中ではない。
大きく息を吸う。
両脚、両腕に力を込める。これはまさに、全身全霊の一撃。
“うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉ~~~~~っ!!”
椛は吠えた。
手にした刀を大きく振りかぶり、身を沈める。
「グオオオオオオオオオオオオォォォォォッ!」
数歩先の熊が僅かにたじろぐ、だがそれも一瞬。椛を叩き潰す勢いで、大きく腕を振り上げる。そんなものをまともに喰らえば、まず間違いなく命は無い。
だが、たじろいだほんの一瞬が勝敗を分ける。爪が振り下ろされるよりも早く、椛の刀は目の前の熊の右手首を切り飛ばした。
そのまま椛は体当たりし、立ちすくむ熊のバランスを崩す。そして、すぐさま踵を返した。目の前にいた熊のことは、既に彼女の意識から外れている。
椛は退路を切り開こうとする部下達へ……その相手の巨熊へと狙いを定めた。
“今だっ! お前達。逃げろ~~~~~~~~~~~~~~っ!!”
「隊長~っ!」
背中から、部下の誰かの声が聞こえた気がした。
だが、それもあっという間に遠ざかっていく。一歩、また一歩と足を進めるたびに、彼女の体は加速する。
「どけええええええええええええぇぇぇぇぇぇ~~~~っ!!」
振り返る四人の部下。目の前の敵から目を放すとは何事かと……命令通りにさっさと横にどけと、椛は心の中で彼らを叱責した。
熊の胸元へと、真っ直ぐに椛は突撃した。
「うああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁ~~~~~~っ!!
一心不乱に、椛は目の前の熊に斬撃を叩き込む。
手にした刀は既に限界だった。さっきまで相手していた熊の右手を切り飛ばして、それがもう最後だろう。刃はほとんど潰れている。
どすん、と鈍い音が響く。
そのまま、椛は熊を木にぶつかるまで押し切った。距離にして、五間くらいだろうか。
そして、そこが……本当に、限界だった。
「ぜぇ~っ! はぁ~っ! ぜぇ~っ! はぁ~っ!」
荒い息と共に、椛の動きが止まった。
脚が……腕が、もう力が入らない。時間にしてほんの数秒の出来事。その短時間に筋力と妖力すべてを使い果たした。
かくんと、脚が折れ曲がり椛はその場に崩れ落ちる。
「フシュ……フゴ……グゴゴゴ」
「……く……そ……」
やはり、仕留めきれなかった。手応えはあったと思うのに……。
もう、自分はここまでか? 分かっている。分かってはいる。それを覚悟はしていたのに……。
椛は目を瞑った。
“グぶっ!? ゴ? オオ……”
「……え?」
椛の顔に、生温く粘っこい液体が滴り落ちてくる。
唾液? そう思ったが……違う。それにしては濃密な鉄の臭いがする。
見上げると……熊の口から刀が生えていた。
「お前なんかに……お前なんかに、椛を喰わせるかあああああああああああああああああああぁぁぁ~~~~っ!!」
「なっ!?」
状況が分からない。だが、突然何者かに抱きかかえられ椛は浮遊感を覚える。
あっという間に、視界が一面の青空となった。
ぎゅうっと、体を抱きすくめられる。自分を抱えるその腕は痛いほどに力が込められていて、震えていた。
「あ、あああ……危ない……ところでしたね。椛」
聞き慣れたその声の主は、ガチガチと歯を鳴らしていた。
その顔に血の気はない。氷のように真っ白になっていた。
「文……さん?」
「ま……まったく……あんたって子は、むむ……無茶する……するんです……から。ひっ……ひっく……」
嗚咽が聞こえる。
「あなたの部下は……ぶぶ……全員、無事ですよ? わた……私、ごめんなさい。やっぱり気になって……記事にしようと思って……見付け……思っ……そしたら、椛が……だから、脱出した仲間から……刀を借りて……ひっく……うぅ……うぅ。ごめ……隙が……近づけ……」
生きてる? 生きてる? ……まだ自分は、生きている?
椛の目から熱いものが溢れ出す。
「う…………うわああああ……ああ、あああああああああああぁぁぁぁぁ~~~~っ!!」
椛は文にしがみついた。しがみついて、子供のように泣いた。
恐くて恐くて……本当に恐くて……今さらながらに、文と同じように、椛は震えて歯を鳴らした。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
天狗達の住む集落にある、警護隊の詰め所。
美鈴の隣で、静葉は厳しい表情を浮かべていた。
いつも儚げに、けれども穏やかな雰囲気を纏った彼女がこんな表情をするとは、よほど彼女にとって譲れないものなのだと美鈴は思った。
「……他に方法はありません」
そう、厳しい口調で言ってくる白狼天狗に静葉は反論しない。天狗達の言い分も痛いほど分かるのだろう。
だがそれでも承伏はし難いのか、静葉は唇を噛んで肩を振るわせる。
「静葉さん、どうか分かってください」
そう言ってくるのは中隊長ではない。中隊長の傍らに立つ別の天狗だ。熊達と遭遇して無事だったものの一人らしい。
「奴らはもう……ただの熊なんかじゃない。このまま放っておけば、時間が経てば経つほど手に負えないことになる。一刻の猶予も無いんですよ」
その表情は、もはや静葉を睨み付けているのかというほどに厳しい。彼女もまた、絶対に譲れないのだろう。
「妖怪の私が言うのも変かも知れないですけどね。あれはもう、化け物ですよ。真っ当な熊なんかじゃない。地上からどうこう出来るような連中じゃないんです。鴉天狗に頼んで上空から奴らを追跡して貰い、牙城を撮影しましたが……見て下さい」
そう言って、白狼天狗が静葉に一枚の写真を渡した。
それを見て、静葉の顔が強張る。
鴉天狗は上空から近付くことすら恐れたのだろう。写真の真ん中に、写された範囲そのものは狭い。だがそれが巨大であることはあることは分かる。一本の巨木の元に、大量の木や岩で築かれた要塞が写されていた。
「こいつらがどこからやって来て、どこに潜んでいたのかは知りません。いつの間にこんなものを築き上げたのかも分かりません」
「……そんな。私が葉に色を付けに行ったときは……こんなものどこにも……」
「そして、これも見て下さい」
そう言って、天狗はもう一枚写真を取り出した。
「なに、これ?」
静葉と一緒に写真を覗き込んだ穣子が小さく悲鳴を上げる。牙城のすぐ傍らにある巨木。何百年、いや千年以上は生きている大木なのか。そこに大きく空いた虚から、上半身を出す赤毛混じりの熊がそこにいた。
その大きさは尋常ではない。写真に一緒に映った木の大きさから推測するに、普通の熊の三倍はあるのではないだろうか。
「分かるでしょう? こんなものを……こんな連中を地上から攻めることがどんなに無謀かということが」
そこまで言って、天狗は震えた。体を抱える。恐怖を思い出したのだろう。その顔は蒼い。
「事情は、分かっております。ですが、我々には他に手がないのです」
重々しく、重ねて中隊長が静葉に頭を下げてきた。
“明日、あの辺り一帯を空から焼き払います”
それは、牙城だけではなく、この巨木も含めてということだろう。
「分かりました」
重苦しい空気の中、静葉は小さく頷いた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
その夜の食事は暗いものだった。
静葉は一言も発しなかった。
焼き払う役目は霧雨魔理沙と風見幽香に頼むという。彼女らなら高威力で、そして範囲を絞って牙城や巨木を破壊することが出来るはずだろう。場合によっては、熊だけを標的にして貰えるかも知れない。
そう言っては見たものの、静葉の返答はずっと無かった。押し黙ったままだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
椛は目を開けた。
全身が鉛のように重く、思うように動かない。
「……ここ……は?」
薄暗い天井を見上げる。
「よかった。気が付いたんですね、椛。妖力を切らして、気を失っていたんですよあなたは」
「文、さん?」
見知った顔の声を聞いて、椛は軽く安堵を覚える。どうやら、彼岸に連れてこられたわけではないらしい。
椛は視線を文の声がした方に向ける。枕元に彼女は座っていた。どうやら外はすっかり暗くなっているらしいが、ずっと傍に付き添っていてくれたのだろうか。
椛は気付く。ここは詰め所にある診療所だ。見覚えがある。そして……周囲からは呻き声が漏れていた。
「…………くっ」
それがどういうことかを思い出し、椛は呻いた。
「どなたも、命には別状はないそうです。どれくらい時間が掛かるかは分かりませんが、そのうち、職務にも復帰出来ることでしょう。一人の死者も出なかったのは、むしろ幸いでしょう」
それはそうなのかも知れない。
だが、だからといって自分を許すことが、椛には出来ない。文の優しい慰めが、むしろ心を抉ってくるようだった。
「……んぐっ!? くっ」
不意に、椛の顔が苦痛に歪んだ。左腕から激痛が伝わってくる。
「左腕ですか? 骨にヒビが入っているそうですよ」
「……あ」
椛は思い出す。そういえば、何度か盾で熊の一撃を防いだ。戦っている最中は気にならなかったが、そのときにやられたのだろう。
「文さん」
「何ですか?」
「……熊は、どうなりましたか?」
その問い掛けに、文は口ごもった。
「明日、魔理沙さんと幽香さんが奴らの牙城ごと空から焼き尽くします。私が頼みに行って、引き受けてくれたらの話になりますが」
「そうですか」
そこまで聞いて、椛は自分の心から感情が抜け落ちていくのを自覚した。その代わりに、再び涙で視界が滲む。
「文さん。……私は、やっぱり部隊長失格だったのでしょうか」
「そんなことは――」
椛は首を横に振った。
「最初に奴らと遭ったとき、私は五分で戦えると思いました。でも、すぐに逃げるべきだったと思います。五分は……有利ではないのですから」
自嘲を含めて嘆息する。
「功を焦っていたのかも知れません。それで、部下を危険な目に遭わせしまいました」
自分の事情で部下の命を危険にさらすなど、有ってはならないことだ。長いこと逆の立場だったから分かる、そんな隊長の下で命を危険に晒すなど堪ったものではない。
「功を焦った……ですか。あなたでも、そんなことはあるんですね。何かあったんですか? 部隊長になったことで、浮かれていたようにも、ことさら結果を出そうといった風にも見えませんでしたが」
そんなことはないと思う。嬉しかったと言えば嘘になるし、出来るなら結果も出したいと思っていた。もっとも、そういうのは緩みに繋がるから、抑えていたが。
「いえ、私は……嬉しかったんですよ」
「昇進したことが?」
「いいえ、そうじゃないんですよ」
椛は数日前のことを振り返る。
「昇進も確かに嬉しかったですが……。秋の神様から、白狼天狗達に陣中見舞いを頂きましてね。何でも、熊の出るようになったあたりに、紅葉の神様にとって大切な木があるんだって……。頑張ってと言われて……ああ、頼りにされているんだなって、嬉しくて。なら、早くあの熊達を何とかしないといけないって思っちゃって」
声が震える。
「最低ですね。私……人のせいにして……ふっ……ぐぅ」
椛の口から、嗚咽が漏れた。
「文さん、でも……お願い……ですから、秋の神様の為にも……魔理沙さんと幽香さんに……お願いします」
「椛……今は自分を責めず、ゆっくりと休んでください」
そう言って、文が優しく折れていない右腕に手を添えてくる。
椛は頷いた。そして抵抗することもなく、目を瞑って涙を流し続けた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
美鈴は目を開けて小さく溜息を吐いた。
暗がりの中で、目を細める。
「どこへ行こうっていうんですか?」
玄関で、人影がびくりと震えた。
逃げ出すのかと思ったけれど、彼女はそうしなかった。
美鈴は布団から抜け出て、人影へと近付く。
「……起きていたんですか? 完全に眠っていたと思ったのに」
「いいえ、眠っていましたよ? 職業柄、眠っていても周囲には気を張り巡らせているものですから。それと……何となくこんな気はしていたんですよ。あなたは、どこまでも秋を愛し、秋の仕事に責任と誇りを持つ方ですから」
静葉は振り向かない。
美鈴は優しく静葉の肩に手を置いた。
「やっぱり……私を止めるんですか?」
「はい」
美鈴は即答する。
静葉はわなわなと肩を振るわせた。
「秋は……私は、秋をきちんと終わらせなくちゃいけないの。そうしないと……季節がちゃんと巡ってこないの。そんなことになったら、あの山は……あの山は……それでも……美鈴さんは……」
静葉は項垂れた。
「お願いします。行かせてください」
「ダメです」
一歩踏み出そうとする静葉。だが、美鈴は肩を掴む手に力を込めてそれをさせない。
“必ず守ります。ですから、ごめんなさい”
美鈴は静葉の肩から手を離し、背後から彼女の肩に……秋を込めた掌底を打ち込んだ。
「……え?」
その途端、静葉の体がバランスを崩す。
美鈴は素早く彼女を抱きかかえた。
焦点を失った双眸が大きく開かれ、涙が流れていた。それを美鈴はそっと閉じさせる。
「ん? んぅ? お姉ちゃん?」
「すみません穣子様。起こしてしまいましたか」
美鈴は静葉を抱えて、布団から身を起こす穣子へと近付いた。
「え? 何?」
寝ぼけ眼の穣子の傍らに、静葉を横たえる。
「穣子様。静葉様をよろしくお願いします」
「え? ちょっと? 美鈴さん?」
そして、美鈴は彼女らに背を向けて、夜明けの森へと飛び出していった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
彼らの牙城に辿り着いたときには、既に日は昇っていた。
目的の場所はすぐに分かった。遠くから見ても分かる。東の山の中腹で抜きんでて大きな巨木。いつからあるものか、真っ暗な虚が木の幹に穿たれていた。そこに、あの赤毛の化け物がいるはず。
美鈴は巨木の周囲一対の開けた場所へと入っていった。
秋の象徴……秋を蓄えた木が傍にある所為なのだろう。秋姉妹達の住まい周辺は、冬の訪れを感じさせる冷え込みが迫っていたというのに、ここは明らかにまだ温もりが残っていた。
牙城の奥にそびえ立つ巨木の葉は、鬱血したような赤黒さに染まっていた。
美鈴は無言のまま、牙城へと歩いていく。熊の姿は見えない。
いや、牙城の傍らに死体が一体転がっていた。頭を叩き潰された片腕の熊の死体に、鴉が群がっている。
そういえば、白狼天狗の一人が腕を切り飛ばしたという話を聞いた気がする。彼らの間で何があったのかは知らないが、役立たずには死を……ということなのだろうか。
白狼天狗達が出会った熊は合計で六頭。一頭を倒し、そしてもう一頭がこうして死体となっている。残りは四頭。
「でも……どうやら、数はそれだけのようですね」
美鈴は周囲から気を読みとった。気配は牙城の中に三つ、そして少し離れた木の上に一つ。
美鈴は茂みへと体を向け、右手をかざした。
右手の先に、無数の白い光弾が浮かび上がる。
“幻符「華想夢葛」”
美鈴は光弾を茂みの中へと打ち込んだ。
「グォッ!? バロオオオォォォォォッ!!」
怒り狂った咆吼と共に、茂みが揺れる。
がさがさと音を立てて咆吼が移動し、その主は茂みから現れた。
「ゴァアアアアアアアアアアアァァァァァッ!!」
怒りに目を血走らせ、そいつは二本の脚で直立する。両手を広げて威嚇しながら、美鈴へと近付いてきた。
だが、美鈴もまた恐れることなく目の前の熊へと近付き、間合いを詰めていく。
「グルルルルルルルルルル」
唸り声を上げながら、待ちかまえる熊の間合いのぎりぎり手前、そこで初めて美鈴は構えを作った。
熊に向かって左半身となり、左腕を直角に、右腕を水平に……弓をつがえたような姿だ。
熊もそこが美鈴の間合いなのだと感づいたのだろう、そこで止まる。
「やはり、どうしようも無いですね」
天狗達はこの熊達を普通じゃないと言っていた。それを美鈴もまた、相対して再確認する。
この熊はもう、手の施しようがない。血と殺戮に飢えている。自然の中に住まう獣としての生き様すら、もはや望めない。乱れきった気の流れには、殺気や憎悪といった、ありとあらゆる負の感情のみが渦巻いていた。
睨み合いに先に屈したのは、熊の方だった。いつまでも自分の間合いに入ってこないことに苛立ちを抑えきれなくなったのだろう。
「ゴファアアァァァァァァァッ!!」
間合いを一歩詰め、熊が右腕を振り上げた。まともに喰らえば、妖怪である美鈴といえども、一撃で首が胴からちぎれ飛ぶだろう。
“華符「彩光蓮華掌」”
腕を振り上げる? そんな予備動作は美鈴にとって隙にしかならない。そういった行動に移ろうという気を読むだけで、美鈴には容易に先の先が取れる。それを防ぎたければ、無拍子で攻撃する方法を習得するしかないが、熊に望めるわけがない。
振り下ろそうとする姿のまま、熊は白目を剥いて硬直している。腕を振り上げた一瞬で、美鈴は熊の胸元へと飛び込んでいた。
熊の喉元……白い三日月を鮮血が染めた。掌打と共に弾幕を打ち込み、首の血管を破り、骨すら砕いた。既に意識は……いや、命は無いだろう。一撃で仕留めるのはせめてもの慈悲だ。
美鈴は踵を返し、牙城へと体を向けてそちらへと歩を進めた。どさりと、背後で熊が地に倒れ伏す音が響く。
牙城から、のそりと二頭の熊が姿を現した。唸り声を上げて、牙城の麓に降り立つ。
距離にして、十間(約20m)ほどか。熊の脚力なら、2~3秒もあれば美鈴へと辿り着く距離だ。
「ガフォオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォォッ!」
「ゴルガハァアアアアアアアアアアァァァァァァァァァァッ!」
獣なりに頭を使っているということか、二頭の熊は同時に、そして喉を攻撃されないように四つ足のまま突進してきた。
美鈴は一歩前に足を踏み出し、身を沈めた。
まさしく、3秒にも満たない時間で二頭の熊が美鈴の手前まで辿り着き、その勢いのまま丸太の如き各の腕を叩き付けてくる。
だが、いくら速かろうと直進するだけ。力があろうと、脇が甘い。
横薙ぎに振るわれる腕の下をくぐり抜け、美鈴は左から襲ってきた熊の側面に立つ。魔法という概念もまた、熊に有ろうはずがないが、捉えたはずの獲物が目の前から掻き消えたとしか思えないその動きは、まさに魔法にしか思えないことだっただろう。
一瞬だが、勢いあまった熊は困惑と共に動きを止めた。
そしてその困惑が、彼の最後の思考だった。
“気符「地龍天龍脚」”
美鈴が側面から熊の心臓目掛けて蹴りを叩き込のと同時、熊の体が震えた。口を大きく開けて、倒れ込む。心臓目掛けて真っ直ぐに気を叩き込み、破裂させた。既に絶命しているだろう。
「バルロオオオオオオォォォォォォッ!!」
仲間が倒れたことを意に介しない、むしろただの隙ぐらいにしか思っていないのかも知れない。残りの一頭が回り込んで再び美鈴に突進してくる。
「ゴガハアアアアアアアアァァァァァァッ!!」
美鈴も一頭を倒した程度で油断はしない。残る一頭の動きは常に気の流れから追っている。
飛びかかってくる熊を迎え撃つ形で、美鈴もまた跳躍する。
“彩翔「飛花落葉」”
勝敗の差を分けたのは、相手の動きに対する予想、予測の差に他ならない。いつまでもその場に留まっているとでも思っていたのだろう、熊の目算は狂い、両腕の間を抜けて美鈴の跳び蹴りが熊の額に突き刺さった。
「ちぃっ!」
美鈴は舌打ちした。
妖怪である以上、人間に比べれば体力、筋力は上だが、やはり体格の差は熊に劣る。勢いに負けて美鈴は数歩程度、後ろに押し負ける。
だが、それが熊の限界だった。
熊の眼球がぐるりと天を向く。口からは泡となった唾液が零れた。
美鈴は蹴りと共に気を打ち込み、熊の脳を大きく揺らした。よろよろと、熊が数歩前に歩いて、前から倒れ込む。
……まだ、息はある。
若干押し負けた分、仕留めきれなかった。それが少し、美鈴を陰鬱な気分にさせた。
“ゴファアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァ~~~~~~~~~ッ!!”
一際大きな雄叫びが間近で湧き上がる。
黒い影が美鈴を包み込むと同時、落雷の如き一撃がその場に叩き付けられた。
大地が揺れる。
赤毛を持つ巨熊の前脚の下から、赤い血が広がっていった。
「まったく、あなた達には本当に仲間意識とかそういうのは無いんですか」
大きく間合いを取りながら、美鈴は冷や汗を流した。殺気は感じていたが、予想よりも速かった。主を初めとした幻想郷の大妖達とはまた違う、ケダモノの重圧。
「ヴゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォォォォォ~~~~~~っ!!」
配下の熊のことなど、まるで知ったことではないと言わんばかりに、赤毛の熊は吠えた。
ついさっきまで虫の息だった配下の熊は、赤毛の化け物の脚の下で、今度こそ絶命していることだろう。
美鈴は胸の前に気を集め、そこを中心に腕を回す。
白く輝く大きな光弾。それを美鈴は掌で押し出した。
“気符「星脈弾」”
巨大な熊の顔目掛け、光弾が飛び、破裂する。
熊が僅かに呻き声を上げる。だが、それだけ。
「なら、これならっ!」
ハンマーでぶん殴った程度の威力はあるはずだが、それでもこれだけで倒せるとは期待していない。倒す気は勿論あったが、それでも様子見と時間稼ぎの方が意味合いとしては大きい。
美鈴は大きく息を吸い、再び気を胸の前に集めた。素早く、強く気を込める。
虹色に輝く光弾は、先ほど放ったものよりも既に二回りは大きい。
いや、それどころではない。美鈴は目くらましの一撃で作った僅かな時間から、ぎりぎりまで気を集め続けていく。虹色の光弾は破裂知らずの風船のように、どこまでも大きくなっていった。
唸り声を上げながら、熊はじりじりと美鈴へと顔を近づけていく。立ち上がってもいないというのに、その顔の位置は美鈴の身長よりも遙かに高い。
その牙に食らいつかれたら、クッキーよりも容易く、一瞬で全身を砕かれることだろう。
“グルォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォォォォォ~~~~~~っ”
“星気「星脈地転弾」”
咆吼が響くのと同時、美鈴は自分の体よりも膨らんだ虹色の光弾を放った。これほどの気を込めて放ったことは、これまでもない。どれほどの威力かは、自分でも分からない。
「ゴガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァ~~~~~っ!!」
光弾が熊の顔を覆い尽くす。それはすぐに霧散はせず、渦を巻いて光をまき散らしていく。
四つ脚のまま、獣にとって非常に安定した姿のまま、熊が押し戻されていく。
虹色の暴力は花火のような破裂音を繰り返し、徐々に小さくなっていく。そして、たっぷり二十秒は時間を掛けて、ようやく消えた。
熊の顔はぐしゃぐしゃに潰れ、べったりと血に染まっていた。
まだ倒れてはいないが……流石にただで済んではいないだろう。これで、勝負はあったと思いたいが……。
「グルァアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァ~~~~~~っ!!」
「そんなっ!?」
美鈴は悲鳴を上げた。
熊が突進し、腕を振り上げた。
その一瞬後には、美鈴の体が横薙ぎにされ、吹き飛ばされた。
ボールか何かのように地面の上を転がっていく。
地面に叩き付けられるのではなく、それでも美鈴は転がりながら衝撃を和らげた。
転がるのが止まったのと同時に、美鈴は顔を上げる。先ほど立っていた位置から、二十間(約36m)ほどは離れていた。
体が重い。
ほとんど反射的に防御の型を取り、自分の立ち位置を爪から外して肉球へと移動させつつ、身を浮かせ……最小限にダメージを殺せたのは、まだこれでもマシなのだろう。一歩間違えれば上半身と下半身が分かれていただろう。
「バルアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァ~~~~ッ!!」
「くそっ!」
ダメージで脚が言うことを聞かない。
咆吼を上げて熊がトドメを刺しに来るが、立ち上がる暇は無い。
あっという間に熊が間近に迫ってくる。
美鈴は立ち上がることなく、横たわったまま地面を蹴った。そして、地面すれすれを飛ぶ。
その一瞬後、美鈴の足下で地面から衝撃が広がった。
低空飛行しながら、美鈴は熊に目を向ける。逃げながらも姿勢を制御し、相対した格好を作って姿勢を達直した。
着地して再び間合いを取る。距離は、五間(約10m)も無い。
「はぁ……はぁ……」
美鈴の額から汗が噴き出した。
無謀だったか?
まさか、ありったけの気を込めた光弾まで耐えるとは思っていなかった。倒せなかったら、そのときはそのときですぐに退却し別の作戦を考えるつもりだったが……あのダメージでこの動きをするというのが、信じられない。故に不意を付かれた。
ここから、逃げるか?
一瞬、その考えが美鈴の脳裏をよぎったが、却下した。飛ぶことは出来る。だが今の自分のスピードで、上昇しようとしてあの巨体の熊の爪牙から逃れられるかを考えると、難しい。
べろりと舌で口を嘗め、今度こそ止めだと熊が……ゆっくりと迫ってくる。その目は血と怒りに染まっていた。
あと、まともに体を動かせるのは……全身の力を振り絞って、一撃だと美鈴は自分の体を見積もった。気も、さきほどの攻撃で大半を使ってしまった。
「やっぱりこれをやるしか……ないんですか」
静葉から学んだ秋の拳。
もし、一時的だとしても倒すことが出来るとすれば、可能性があるのはこれしかない。
近付く危険を避ける為に、光弾で攻撃をした。実戦で使ったことが無い……失敗するかも知れないというリスクを避ける為、今まで通りの技で戦った。
守りたいものがある。だから、ここで死ぬことは許されない。必ず生きて帰る。
でも、やれるのか?
美鈴の顔が強張る。
緊張と焦り……自分がコントロール仕切れていないことを美鈴は自覚してしまう。これまでも、死線を乗り越えた経験など幾度もあったというのにだ。
秋の心からはほど遠い。こんな状況で、本当に出来るのか?
“いいでしょう。見せてあげます。あなたに……最後の秋を”
美鈴は覚悟を決めた。
出来るだけ心を……今出来る限りでも心を静め、思う限りの秋を心に宿す。
半身になり、美鈴は右腕を引き絞る。あとは放つだけ。
“グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォ~~~~~~~~ッ!!”
一足飛びに、熊が飛びかかってくる。
瞬きすらする暇もなく、美鈴の眼前に熊の口が迫っていた。
美鈴もまた、一歩を踏み出す。
滑らかに、軽やかに、美鈴は直進する牙の射程から身をずらした。そしてこれが、最後の回避で、最後の一撃。ここでしくじれば、もう後は無い。今度こそ爪に引き裂かれて終わりだろう。
美鈴は右腕を発射させる。
“まずいっ!?”
その瞬間、美鈴の見ている刻が止まった。
思考とも言えない思考で、美鈴は敗北を悟ってしまう。
失敗した。この右腕には……やはり、自分が思うような秋はもう宿っていない。打ち込む瞬間、やはりまだ長年の癖を抜くことが出来なかったのか、あるいは死の恐怖から無意識に最も長い付き合いの戦闘スタイルを選択してしまったのか……。
守りたい場所、守りたい人達。
紅魔館の幼い主達、瀟洒でそのくせ惚けたところがあるメイド長、屁理屈ばかりの魔法使い達の姿が見える。
これもまた、走馬燈というのだろうか? 死を覚悟したがために、思い出す大切な人達。そして彼女らとの思い出。
“落葉もまた美しいものになりますように、とか……”
一瞬のうちに溢れる思い出の中で、そんな静葉の声が聞こえた気がした。
“ああ、そうだった”
美鈴は歓喜する。
生き残れるかも知れないということではなく、それもあるが……取り戻したい秋、終わらせたい秋、楽しんだ秋がどんなものだったか、束の間でも忘れていたものを思い出せて、嬉しかった。
美鈴は薄く微笑んだ。
拳を突き出し、熊のこめかみを打ち据える。
「グ? ……オ?」
熊の突進が止まった。
僅かに、熊の体が震える。まるで何かに耐えようとするように。決して認めまいと意固地になるかのように。
だが、それも長くは掛からない。眠りに耐えきれない赤子のように、美鈴が拳を放った数秒後に、熊はそのまま崩れ落ちた。
「…………ふぅ~」
揺れる地面の上で、美鈴は大きく息を吐いた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
風見幽香は不機嫌だった。
どうしてこう、冬も近いというのに朝っぱらから叩き起こされて、熊退治なぞしなくてはならないのだろうか。昼まで寝かせてくれてもいいじゃないか。
ちらりと、幽香は傍らで飛んでいる魔理沙を見る。こちらは自分とは反対に上機嫌だ。報酬云々はともかく、何でも屋として依頼が来たことが嬉しいらしい。
「もう~、幽香さん? もうちょっと早く飛べないんですか?」
「五月蠅いわね。私はいつ如何なる時も優雅でありたいの。あんまりごちゃごちゃ言っていると、焼き鳥にするわよ?」
「それと、何度も言いますけど出来ることなら熊だけを攻撃してくださいよ? 無理にとは言いませんけど」
「分かっているわよ。まったく。手加減なんて出来るか知らないけれど」
紅魔館の門番が一人で熊のところに行った?
それで、だからどうした等と言うほど薄情ではないが……。
並んで飛行している、不安げな表情を浮かべている秋の神様達を見て、幽香はこれで何度目か分からない溜息を吐いた。もう少し、あの門番を信頼してやってもいいじゃないかと思ってしまう。
信じていても、それでも心配してしまうのが、彼女らの性格なのだろうが。
「ああん? おい文? 例の木だとか熊だとかって、この辺りでいいんだよな?」
「え? ああはい、そうですよね? お二人とも」
目的地として言われていた場所の上空へとたどり着く。
魔理沙と文に視線を向けられ、秋の神様がこくこくと頷いた。
幽香は眼前を見下ろし、くすりと笑みを浮かべた。
なるほど、鴉天狗が化け物などと言ってくるのも納得の大きさの熊だ。それが地面で大の字になって寝そべっている。
その傍らで、美鈴が額の汗を拭っていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
美鈴は空を見上げた。
「美鈴さ~ん。ご無事でしたか~っ!」
額の上に掌を当てて影を作り、美鈴は目をこらした。視線の先には、静葉と穣子、そして射命丸文に魔理沙と幽香がいた。
大声を上げるだけの力も、ちょっと残ってはいない。なので美鈴は笑顔だけ浮かべて、彼女らに手を振って見せた。
ゆっくりと、彼女らの姿が近付き、少し離れたところに降り立った。
彼女らの元へと、美鈴は歩み寄る。
「美鈴さんっ!」
「おわっと?」
と、静葉が突然駆け寄ってきて、抱きついてきた。
「よかった。本当に無事でよかった。私……本当に心配したんですよ? もし美鈴さんが熊に食べられちゃったらって……。そしたら、紅魔館の方達に何て言えばいいか」
「あー、はは。そう……ですね。すみません。ご心配をおかけしました」
よほど不安だったのだろう。笑顔を見せながらも、静葉の目には涙が浮かんでいた。
でも……危なかったけれど、何とか自分はやり遂げることが出来た。そんな充実感に、美鈴は顔をほころばせる。
“危ないっ!”
穣子の悲鳴が、不意に聞こえてきた。
「え?」
そう思う間もなく、突如として視界に影が入る。
振り返ると、そこには赤毛の化け物が立っていた。
胸元の静葉が短く悲鳴を上げるのが、どこか遠くの出来事のように思えた。
美鈴の思考が停止する。
“マスタスパーク”
白く輝く光が、熊の巨体を包み込んだ。
……ゆっくりと、声も無く熊が再び倒れる。
熊の上半身からは焦げ臭い煙が立ち上っている。ぴくりとも動かない。近距離からのマスタースパーク。しかも幽香と魔理沙のダブルでだ。これは、流石に死んだだろう。
幽香の溜め息が聞こえた。
「ダメじゃないの。止めも刺していない熊に背を向けるなんて」
くすくすと笑みを零してくる幽香に、美鈴は頭を下げた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
美鈴は静かに、扉を開けて館の中へと入った。表で門番をしていた妖精達に挨拶はしているのだが……。
内心、びくびくしていたりする。
「帰ってきたなら、ただいまくらい言いなさい」
「おおぅっ!?」
いきなり目の前に咲夜が現れた。時間を止めて移動してきたのだろう。まったくもうと額に人差し指を当てて怒ってくる。
「い、いやー。なんだかこう……そろそろ、ほとぼりは冷めたかなーと思ったんですが、本当に帰って大丈夫かなーとですね? 見付かったら追い出されないかなあと」
「そんなことしないわよ。まったく」
そう言って、咲夜は笑みを浮かべた。
「安心しなさい。お嬢様の怒りは既に収まっているわ。むしろ、機嫌がいいくらいよ?」
「そうなんですか?」
「ええ。ブン屋が新聞を持ってきたのよ。『紅魔館の紅美鈴。新必殺技・秋の拳を以て化け物熊を退治する』って」
「え? あれもう新聞になったんですか? どれだけ早いんですかあの鴉天狗は!?」
「そうよ? それでお嬢様もお喜びになられてね? 『ふふっ、それでこそ我が紅魔館の門番よ。これで少しは……いや、改めて我らの力も幻想郷に知れ渡ったことだろう』とかなんとか……。雪辱をはらす為に訓練に励む白狼天狗達のことも記事になっていたけど、それを見て『ふはははは、我が門番はまさしく一騎当千よ』とも言っていたわね」
美鈴は苦笑し、頬を掻いた。
「いやー。まあ喜んでくれて何よりです。でも、まーた、よからぬ事を起こすフラグにならなければいいんですけどねえ」
「止めなさい、そういうことを言うと本当に起こしかねないから」
「それもそうですね」
咲夜と共に顔を突き合わせて、美鈴は笑った。
“誰が何を起こすって?”
突如として響いてきたその声に、思わず二人は飛び上がった。
デビルイヤーは地獄耳。そんな言葉を思い出す。
慌てて美鈴は声の方へと向き、主へと頭を下げた。
「お嬢様。不肖、紅美鈴。ただいま戻って参りましたっ!」
廊下の脇からレミリア・スカーレットが姿を現す。
「うむ、ご苦労だったな、美鈴。それと、先ほどのお前達の戯れ言は不問にする。今日の私は機嫌がいい。感謝しろ」
「ははっ。有り難うございます」
つかつかと、幼い主の足音が近付いてくる。
そして、美鈴の目の前で止まった。
「それで……だ」
「はい?」
美鈴は顔を上げた。
「その、新必殺技。どの程度のものか私が見極めてやるから、やってみろ」
美鈴の目の前には、両腕と両脚を大きく広げて立つ、幼い主の姿があった。
ふっふっふっ、と不敵な笑みを零しながら、好奇心いっぱいに目を輝かせている。
「ええ? それは流石に、畏れ多いと言いますか」
「構わん。許すっ!」
普段なら絶対に有り得ない台詞に、子供の好奇心って凄いなあと美鈴は思った。似たようなことを自分も頼んだのだけれど。
「えーと、いいんですか?」
うんうんと、レミリアは頷いた。
「じゃ……じゃあ、いきますよ?」
熊を退治した後、秋を締める巨木の落葉は、美鈴も手伝ったけれど……静葉に比べると、やはりまだ未熟だなと思う。
そんな拳で、主に秋を伝えることが出来るのだろうか? ある意味、熊と相対したときも重い重圧を美鈴は感じた。
「はいやっ!」
秋を込めて、美鈴はレミリアの胸元へと拳を打ち込んだ。
だが、レミリアは答えない。
「……お嬢様?」
心なしか、主の目に焦点が合っていないような?
「お嬢様~? 大丈夫ですか~?」
ちょっと心配になって、美鈴はレミリアの目の前で掌をひらひらさせてみた。
「……お前は何をしているんだ?」
「うわっ!?」
レミリアが睨んでくる。
慌てて美鈴はレミリアから飛び退いた。両腕を上げ、盆踊りのような格好で固まる。
そんな美鈴の前で、レミリアは満足げに微笑んで見せた。
「なるほど、これが秋の拳か。美しく、そして澄み切って儚い秋を堪能したぞ。美鈴」
「は……はぁ」
「よし、門番の任務に復帰することを許す。今後も精進するがいい」
「あ、ありがとうございます」
「うむ」
それだけ言って。レミリアは踵を返した。
のっしのっしと美鈴達から遠ざかっていく。
そんな……熊すら気を失わせる拳を打ち込んで平然としているレミリアの後ろ姿を見送りながら、改めて美鈴は主のカリスマに感服するのであった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
レミリア・スカーレットの寝室。
棺桶の中で、紅魔館の幼い主は一筋の汗を流していた。
危なかった。もう少しで、配下達の目の前で意識を失い倒れるなどという醜態を見せるところであった。カリスマたるもの、そのような無様を晒してはならないというのに。
自分こそが最強にして最速であるということに疑いは持ってはいない。
だが、あまり戯れをし過ぎれば、足下を掬われる事もあるかも知れない。
今後は、もうちょっとお遊びのような真似は控えよう……当社比10%減くらいで、などと考えるレミリアであった。
―END―
口授の静葉の項目と中国拳法、さらに紅と紅葉だけに親和性が高いだろうと言うアイディアはあったのですが、先に形にされるとやはり悔しい物ですね
その筆の速さが妬ましい、パルパル
そんな切なさを体に叩き込むとか、秋鬼畜。
口授というよりは、ダブルスポイラーで既に静葉の落葉の方法は語られていたのので、ネタそのものは当時からちくちくと考えていました。
匿名なのでどなたが分かりませんが、もしも秋姉妹と紅美鈴を書かれるのなら、どのような作品として形になるのか、自分も楽しみにしています。
お読み頂き、ありがとうございました。
>3さん
誤字……有りましたね。幽香を優香とか(滝汗
何度も読み返して誤字チェックしたのに。orz
見直して、気付いたところは直しました。まだあるかも知れませんが。(こら
100点を頂き、有り難うございます。
>11さん
秋とは、残酷なほどに美しい。そんなことを言ってみる。
抵抗の出来ない滅びとか、言いようによっては確かに恐ろしいのかも。
お読み頂き、ありがとうございました。
>12
まさか待って頂ける方がおられるとは、恐縮です。
今後ともお付き合い頂けると、嬉しい限りです。
白狼天狗と熊の戦いは、緊迫感を出そうと結構唸りました。美鈴もですが。
格好いいと言っていた抱けて、嬉しい限りです。
お読み頂き、ありがとうございました。
静葉の格闘の腕が素人並みというのが、いい味出してますね。
そういう解釈の仕方もあったか、と目から鱗です。
どれだけ熊が強いのかを示すエピソードだと理解していますが、
個人的には、椛関連のところはばっさり削っても良かったかなと思います。
その分、美鈴に奮闘してもらう形のほうが視点のブレも無くより迫力が出るものになったのではないでしょうか。
自分の中では、静葉はどうしてもたおやかなイメージになってしまうので、こうなりました。
武闘派の静葉って、何だかイメージし辛くて。
熊と白狼天狗のところは、ご指摘の通り熊の強さを説明する為のエピソードなのですが、削った方がよくなる可能性があったのかも……ですか、なるほど、貴重なご意見有り難うございます。
ちなみに、白狼天狗達が熊を倒せなかったのは、彼女らが弱いからではなく、美鈴のように気を使った内部からの攻撃が出来ないために、相性が悪かったからです。
お読み頂き、ありがとうございました。
期待を裏切らぬ戦闘描写にわたくし大歓喜
熊を一撃で葬る美鈴も凄いがラスボス熊の強さも凄い!ラスボスはこうでなくっちゃね!
そして最後のレミリアのカリスマぶりも楽しいw
白狼天狗と熊軍団の戦いは、美鈴が熊退治に乗り出す理由付けに説得力を持たせる為に重要だと思います
これがないと物語が一本道になる上、「大樹もろとも燃やす」という通達が外部から降って沸く、御都合主義の世界になってしまいます
そして何より椛たちを辛い目に合わせた熊が自然に悪役になります!
読者にとっても「熊は殺すべし」となり美鈴の行為は全て肯定されるのです