「ねえ、蓮子」
「なあに、メリー?」
「心中しない?」
「お断りするわ」
「どうして?」
「私はまだ、この世界に絶望しきってはいないから」
「……それは、とても素敵なことね」
「本当に。これは、私がもらった最高のギフトなんじゃないかって思うくらい」
「そうだとしたら、それは本当に素敵なことね」
「メリーはどうして、世界に絶望してしまったの?」
「……どうしてかしら。もしかすると、これが私のもらった、最大のギフトなのかもしれないわね」
「……そうだとしたら、それはとても悲しいことね」
「本当に」
「ねえ、メリー」
「なに、蓮子?」
「秘封倶楽部は、解散ね」
「そうね、悲しいことだけれど」
「さよなら、メリー」
「さよなら、蓮子」
◆ ◆ ◆
「――だっ!」
浮遊感もなく背中に衝撃。ガチャンと音が鳴って、お腹の辺りに温い水の感触と、軽い何かが落ちた感覚。
「せ、先生!?」
ゼミ生たちが騒いでる。ええと……そうだ、確か私はソファで寝てて、今はきっと、寝返りの拍子にでも転がり落ちたんだろう。
薄いコーヒーの香り、誰かが飲んでいたコーヒーカップを転ばせたのか。
少し軋む左手で左目を押さえて、右目をうっすらと開いた。電灯の光が眩しい。
「あー……」
四角の板が並ぶ天井、白く光る電灯、足の低いテーブルやソファも視界に入ってきた。
ああ、床に転がってるんだなとぼんやり思う。で、覗き込んでくるゼミ生が何人か。正確には三人。
「せ、先生、大丈夫ですか?」
「あー……うん、まあ。コーヒーかかった以外はね」
身体を起こす。コーヒーは大した量じゃなくて、見たらシャツに少し染みができているくらいだった。
窮屈な姿勢のまま寝てたせいで身体がギシギシしてる感じがあるけど、いつもの事なので気にしないことにする。
「左目、大丈夫ですか?」
今年ゼミに入ってきたばかりの長野くんが聞いてきた。起きてからずっと左目を押さえていたからだろう。
別に痛いとかいうわけじゃないので、ひらひら手を振ってから左手を退けた。
……ああ、チラチラする。もう五年以上はこの状態のはずなのに、一向に慣れた気がしない。
「先生、着替えたほうがいいんじゃないですか?」
「あー、うん、そうね」
どんな偶然か、着ていた白衣に染みはできていなかったので、とりあえず上のシャツだけ脱ごうとして、ジッとした視線を感じた。
……ああ、そういえば健全なる青少年男子が二人ばっかしいたっけね。
「……見たいの?」
シャツの裾をちょっと持ち上げてやる。
「見たいっす」
「阿呆! 外出てます!」
三文コントみたいなやり取りをして出ていった二人を笑って見送った。
アルファベットの書かれた灰色のシャツを脱いで、紺色の長袖シャツを着る。
ゼミ二年目の栄さんがカラカラ笑った。
「先生、見られるってなったらどうするつもりだったんですか?」
「さあ? 見られなかったんだし、いいじゃない」
シャツをハンガーにかけて、栄さんにコーヒーを頼んで、外の二人に「いいわよ」と声をかける。
栄さんはコーヒーを淹れるのが、まあ、ちゆりさんやマスターには劣るけど、上手かった。
哲学調が混じってきてるとはいえ、科学はまだまだ冷たい世界。コーヒーくらいの温かみがあってもいい。
男子二人が入ってきて、私が一つ欠伸をすると、目の前にカップがそっと置かれた。
また新しい豆でも仕入れたのか、昨日までとは少し香りが違う。
最近行ってないカフェのマスターが少し懐かしく感じた。元気かなあ。
一杯の砂糖を入れていた頃を懐かしみながらブラックを啜る。
「先生、次の時間講義ですよ。のんびりしてていいんですか?」
「あー、そうだっけね」
壁にくっついておいてあるデスクの上を漁る。学生時代から、私のズボラは続いていた。
研究室も自宅も惨憺たる有様で、最初の頃は片付けようとしていた健気な栄さんが匙を投げてしまうくらいに。
積み重なった紙資料(デッドメディア)の中から目当てのファイルを見つけ出す。
足の低いテーブルにそれを放り出して、私はコーヒーをもう一口啜った。
「めんどくさ……」
「まーた言ってるっすね」
ゼミ一年目、欲望にわりと忠実な松本くんの揶揄は聞き流す。流された松本くんは少し消沈していた。
今日も変わらず、コーヒーは美味しい。
私の講義メインのテーマに関わる話をこちらが垂れ流して、思いついた時にレポート課題を提示する方針を取っている。
出席を取ることはないけどレポートが厳しいのでヤバい、みたいな話を聞いたけれど、必修科目とはいえ出席率はなかなかだ。
壁掛け時計の秒針が鳴る。もう、二限の始業時を過ぎていた。
「んー……行くかー」
コーヒーを飲み干して立ち上がる。白衣の胸ポケットに黒の手帳とペンを入れて、引っ張り出した紙資料と携帯端末を脇に抱える。
ゼミ生諸氏は講義がないようで、羨ましい。
「それじゃ栄さん、今日のゼミ発表頑張ってね」
「はーい」
研究室を出て、本部棟五階にある研究室から一号棟三階の教室まで、大体五分と少し。
学生時代のサークル活動がゆえか、まだまだ体力には自信があるので、今までエレベーターを使ったことは数少ない。
少し騒がしいキャンパスの中を、別に慌てることもなく歩く。
宇佐見蓮子、二十代後半。
現在、酉京都大学理学部で、准教授職に就いている。
今の職に就くまでの道程に、あんまり面白みはない。
大学に入って二年と半年ほどをずっとサークル活動に費やしてきたけど、三年生の半ばでサークルが解散。
それ以降は岡崎教授のゼミで研究に没頭。順当に卒業して大学院へ。
大学院で書いたいくらかの論文が認められて、卒業後はしばらく別の大学に務めていた。
けれどこの大学の、超統一物理学の教授が一身上の都合だかで辞職。
岡崎教授の口利きでここに引っ張ってきてもらったという流れ。
専攻が微妙に違うとはいえ、最初の一年くらいは岡崎教授と肩を並べることに緊張があった。
でも、一年を過ぎてしまえばこの有様である。住めば都とはよく言ったもので、そんな現状にも概ね満足だ。
決められた職務を全うする。誰かに教えるのは得意じゃないけれど、大学だからそんなに気負うことはない。
気ままに研究することもできるし、ある程度までは研究費が落ちるから、金銭面でも気楽だった。
今日の講義をすべて終わらせて、その後のゼミも終わらせて、帰宅。
今日は火曜日、水曜日に講義はないので、少し開放的な気分だった。
夜。明かりが落ちて、空気が浄化された京都では、わりとどこからでも星が見える。パタパタと散りばめられたオリオンの三ツ星。
左眼を隠す。その動作にもだいぶ慣れた。私の視界が、今いる場所と時間を映し出す。
「酉京都大学、午後八時三十二分十四秒」
煌々と浮かぶ満月。
かつて人は、そこに兎を見ていたというけれど、今の世界、表面の模様に変化はあるだろうか。
少なくとも、私はそこに兎を見出すことができない。
左手を離して、今度は右手で右眼を隠す。場所と時間が掻き消えて、代わりに、別のものが見えた。
華やかなる月の都。
罅割れた空。
グパリと口を広げる隙間。
――私の左眼は、世界の境界を視ることができる。
※ ※ ※
思えば大学に入ってから、メリーは大概、私と行動していたような気がする。
学部も違う、互いの下宿も近くない、講義も被るほうが少ない。
けれど、サークル活動で、行きつけのカフェで、互いの部屋で。
出会ったきっかけも朧だけれど、メリーのそれはきっと、依存のそれに近かったのだろうと思う。
メリーがそうであるのだから、私の一番近しい人も、当然ながらメリーだったわけで。
彼女に何があったのかはわからない。
けれどメリーが心中を持ちかけて、それを私が拒絶して、秘封倶楽部の解散を告げた時、私にもまた、大きな穴が空いたのだった。
「宇佐見さん、最近ゼミの出席率いいわね」
夏休みが終わって三回目のゼミが終わり、少し自分で資料を整理していると、岡崎教授がそんなことを言ってきた。
「出席率いいって、元からそんなに悪くないですよ?」
どの口が言うのやら、と教授は苦笑いしてコーヒーを啜る。いや、そんなに悪くなかったはずだ。
せいぜい……三回に一回くらいだったはず、うん。
「三回に一回の出席は悪いうちだぜ」
ちゆりさんが笑いながらコーヒーを出してくれた。
とても香り高いこれは、ゼミや講義で張った頭の中の蜘蛛の巣をさっぱり洗い流してくれる。
この研究室では諸雑用の担当のように見えるちゆりさんも、実は岡崎教授の長年連れ添った助手だというのだから驚きだ。
「それがここ三回、毎回来てるものだからねえ。ちょっと驚いたわ、何かあったの?」
ひどい言われようだ。苦笑しながらコーヒーを啜って、思いつく限り最大の理由を口にする。
「サークル、解散したんですよ」
さりげない口調で言ったつもりだったし、実際さりげなかったと思うけど、岡崎教授もちゆりさんも、一瞬コチン、と固まった。
舌にコーヒーの苦みが刺さる。スティックシュガーを一本拝借して、それを入れて掻き回す。
カチャカチャとスプーンを鳴らす頃には、二人とも平常に戻っていた。
どちらも、解散理由については尋ねてこなかった。
「……それじゃ、宇佐見さんは今、サークルもなしバイトもなしのプータローってこと?」
「プータローって……まあ、その通りですけど」
「それじゃ、私の研究の手伝いをしてもらおうかしら」
「ええっ!?」
予想通りの反応をしてしまったか、教授は愉しそうにクスッと笑った。
ちゆりさんにも大いに受けたのか、見れば口元を隠して顔を赤くしている。
ムッとした気分でカップを持ち上げると、空になったカップを指で揺らしながら教授が言った。
「いいじゃない、暇になるんでしょ? 好きなだけこの部屋も使えるようになるし」
「うーん……」
答えあぐねていると、教授はもう一言付け足した。
「バイト代も出すわよ?」
「ぐう」
貧乏学生は弱かった。
「……やります」
「はい、成立」
新しく注がれたコーヒーを啜り、岡崎教授は笑う。
愉快とは言えない心持ちで、私もコーヒーを一口飲んだ。気分に関わらず、ちゆりさんのコーヒーは美味しい。
今思うと、私は驚くほどサークル活動に没頭していた。一にサークル二にサークル、三に勉学四に読書くらいな感じか。
そのサークルが解散になったというのだから、そこに並々ならない事情があったことくらい、簡単にわかるだろうことで。
きっと、気を使ってもらったんだろうなと気付いたのは、それから一年以上も経った後で。
その頃にはもう、私の後ろに戻る道なんて、なくなっていた。
十二月の初旬にはもう、路面はうっすら白んでいた。
息も白く揺れて、屋外にいると鼻の先や耳がジンジンする。京都の夏冬は気温が極端だ。夏はとても暑く、冬はとても寒い。
マイナスに到ってないだけマシか、なんて言い聞かせながら、濃紺のダッフルコートの紐を揺らしつつ大学へ向かう。
寒い時には、歯が融けそうなくらい甘いミルクティーが飲みたい。早々に研究室に行ってちゆりさんに淹れてもらおう。
研究室は程よく暖房が効いていて、いつも通りに赤い服を着た岡崎教授は、カップを片手にくつろいだ様子だった。
ペラペラと本を捲っていたちゆりさんが私に気付いて、何か飲むかと聞いてくれたので、ミルクティーを頼んでソファに座る。
そこで、教授が私を見ながら聞いてきた。
「今日って、アルバイトの日だったかしら?」
「四時限目に一つだけ、講義が入ってるんです」
ちなみに、現在午前八時三十五分。四限開始は十四時五十分。
「成る程、暇潰しね」
納得した様子の教授がチョコレートの袋を投げ渡してきた。予想通りのイチゴ味。
教授お気に入り、市販されてるファミリーパックのチョコレートだ。
ありがたくその中の一つを口に放って、大袋はテーブルに置いた。
……ん、甘い。チョコは普段苦めのを食べるけど、寒い時には甘いのも悪くない。
ミルクティーを出してくれたちゆりさんにお礼を言って、鞄の中から文庫本を取り出す。
衰退しつつある紙の本を家に積み上げていることを、教授は最初こそ訝しんでいたけれど、最近はそういうこともなかった。
ちゆりさんもそうだし、ただ物珍しげに見てくるだけで。
物珍しげに見られているのは、本じゃなくて私なのだけれど。
「電子書籍のほうが便利そうだけどねえ」
「論文や研究資料にはそりゃ、デジタルのテキスト使ってますよ。でも、こっちは趣味ですから」
「懐古趣味、ね」
理解はしたけど共感はしていないような、いつも通りの反応をしてコーヒーを啜る。
秘封倶楽部は懐古趣味の――場合によっては尚古趣味の気もあった――サークルだったと思う。
昔から、古きに霊を視るということは多くあったし、秘封倶楽部もその例に則った感じ。
視て求めるものも結局、『世界の境目』なんていう、昔からオカルト層に好まれていたものだし。
メリーにとってどういうものであったかは、別として。
つまるところ、秘封倶楽部の活動理念は復古的だった、なんて考えたあたりで、私は考えるのをやめにした。
秘封倶楽部はもう、存在しない。
わざとズ、と音を立ててコーヒーを啜る。私もだいぶ、秘封倶楽部に依存していたみたいだった。
まあ、飛び級での大学入学から、それを放棄してサークル活動に興じていたのだから、わかりきっていたことではあるのだけれど。
文庫本を、読んでるような読んでいないような調子でパラパラ捲っていると、気付けばお昼時だった。
自分の昼食を買うついでに、教授とちゆりさんからもお遣いを頼まれ、近所のパン屋で昼食を買った。
そう大きな店じゃないけど、ここのベーグルサンドは絶品だった。
研究室に戻る道中、おまけにともらったラスクを摘みながら歩いていると、不意に携帯がピリリと鳴った。
教授やちゆりさんの番号じゃないから、急かす電話じゃなさそうだ。
見知らぬ番号、心当たりも浮かばないまま電話に出る。
「はい、もしもし」
『宇佐見さんですか?』
聞き覚えのない男の人の声。まだ若い、大学生くらいだろうか。
「はい、そうですけど」
『酉京都大学の相対性精神学ゼミの相原といいます』
名乗られた名前に聞き覚えはない。けれど、そのゼミ名は、聞き流せなかった。
「……相対性精神学ゼミ?」
『ハーンさん、マエリベリー・ハーンさんのことで連絡を。ご友人ということでしたので、伝えたほうがいいかと思って』
足を止めた。冷たい風がコートを通り抜ける。
メリー本人ではなく、別の人からの連絡。それは、つまり……?
『実は――』
相原さんの声で正気に戻る。端末を持つ手がみっともないくらいに震えていた。
彼の話す内容を聞き留めて、そうして通話を切って、走った。
道路には薄く氷が張っていて、転びそうになりながらも、減速とかそんなこと考えず、転んだりもしながら大学に着いた。
階段を駆け登って、ゼエゼエと息を切らしたまま、研究室のドアを乱暴に開く。
「宇佐見、どうかしたか?」
ちゆりさんがギョッとした様子で聞いてくる。岡崎教授はチョコレートを唇に当てたまま、視線だけで説明を求めていた。
胸が裂けるような息切れを必死に整えて、言葉を発しようとするけれど、嗚咽のような喘ぎのような、そんな声しか出てこない。
「め、メリー、が……」
少しだけ落ち着いた呼吸、それを懸命に絞り出して。
「……メリー、が……事故に、遭ったって……」
そのことを、きっと泣きそうな顔と声で、言った。
――ちゆりさんが運転する車で、相原さんが言っていた病院に向かう。
教授は大学に残っていた。教授としての職務を蔑ろにすることはできないだろうし、当然だろう。
それでも助手のちゆりさんを同行させたのは、きっと、私がどうしようもなく取り乱していたから。
車は制限速度を超えるくらいの速さで走る。
私は助手席に座って、急かされるまでシートベルトも着けないで、よくわからない思考に呑み込まれたままだった。
二十分ほどして病院に着き、ちゆりさんが何かしらをしに受付に行って、その間、私はソファで陰鬱な空気を発していた。
視界は茫洋としていて、涙さえも浮かんではこない。
今、肩をポンと押されたら、倒れるか崩れるかしてしまいそうなくらいの自己喪失。
メリーが、事故。
交通事故、らしい。
最悪の想像。歪に折れ曲がった腕、ひしゃげた脚、臓物をまき散らす肉体、血涙を垂れ流す虚ろな眼窩。
自分で抱いたイメージに吐き気がこみ上げる。
「宇佐見、平気か?」
戻ってきたちゆりさんにそう聞かれて、思わず首を振りたくなったけど、なんとか頷いた。
看護師さんに先導されて、微妙な静けさに包まれた院内を歩く。
コツ、コツ、と足音が響く。その音が、幾重にも頭に反響する。
集中治療室前。赤く灯る『手術中』のランプ。壁際に寄せられたソファに、男の人が座っていた。
私たちが傍に寄ったことに気付くと、男の人は顔を上げて、立ち上がった。
「宇佐見さんですか?」
気遣う響きを混ぜなきゃいけないくらい、私はひどい顔をしてるんだろう。
頷くと、彼は相原と名乗った。電話をかけてきた人だった。ちゆりさんが私を座らせて、相原さんと話を始める。
断片は聞こえた。
交通事故、ひき逃げ、僕も同行、助けられなかった。
怪我の度合い、骨折、内臓が、左の眼球が、頭部にダメージ、最善は尽くす
――絶望。
聞こえる響きは空虚。どの言葉にも現実感がない。謝罪の言葉も聞こえた気がしたけど、実際どうだかわからない。
足音が一つ離れていって、横から頭を抱き締められた。男の人の腕ではないと思うし、ちゆりさんだろう。
泣いてもいいんだぜ、ってことなのかもしれなかったけど、どうにも涙は浮かばなくて。
もうなんか、現実から逃げ去ってしまいたいと思って、ふいにコーヒーの香りを感じたときには、意識を意図して切っていた。
――気が付いたら、私は研究室のソファで眠っていて、反対側のソファではちゆりさんも、身体を丸めて眠っていた。
暖房の効いた研究室は、毛布一枚でも寝やすくて、けれどやはり窮屈な姿勢だったからか、少し身体が軋む。
コツン、と軽い何かが頭に当たった。
「……教授」
「甘いものでも食べておきなさい」
いつも通り赤い色彩の教授は、珍しく缶コーヒーを飲んでいた。いつもはちゆりさんの淹れたコーヒーなのに。
投げられたのは例のイチゴチョコで、いただきますと言って口に放る。いかにもなイチゴの味と露骨な甘さが目を覚ましてくれた。
コーヒーの缶を放り投げて、教授はコートを片手に立ち上がった。
缶は見事にゴミ箱に入って、なかなかコントロールいいなあ、なんて思ったりした。
「今日は私が連れていくから、宇佐見さんも準備して」
少しずれたちゆりさんの毛布を直しながらの言葉に合点がいかなくて首を傾げる。
どうしてか、気の毒げに私を見た教授はコートを着て、今度はそのポケットに入っていた缶コーヒーを放ってきた。
受け取ると、もう冷めていた。
少し固いプルタブに苦戦していると、
「……ハーンさんの病院に行くわよ」
教授が、そう言って。
私はようやく、喪失から脱した。
ある病室。「マエリベリー・ハーン」という名前。ああ、メリーは本当はマエリベリーなんだっけ。
病室の引き戸が開かれる。怖い、怖い、何が怖い? 傷付いたメリーを見るのが? 怖い、怖い、今すぐに逃げ出してしまいた。
看護士さんは無慈悲に私を招く。
今時、真っ白な病室なんてない。目に優しいクリームイエロー、私には黄ばんだ壁紙にしか見えない。
宇佐見さん、と教授の声。それに押されて、私は一歩踏み入った。
中には、ベッド。相原さん、白衣の男性。盛り上がった白い布団。横たわる、金色の髪。
「……メ、リー」
その顔は、思っていたより綺麗だった。古い漫画を思い出す。
きれいな顔してるだろ、ウソみたいだろ――。
「メリー、は……」
医師なのだろう男の人は、ちら、と相原さんと、教授を見て。
相原さんは、苦しそうに目を、閉じる。
「……うそ」
震える脚が動く。メリーの横たわるベッドの縁に膝が当たった。膝がガクンと折れて、リノリウムの床が痛い。
掻き寄せるようにして、メリーの胸元に手を当てた。柔らかかった。
静かだった。
冷たかった。
涙が落ちた。
「あ……ぁ、ぁ……」
か細い嗚咽だけ、漏れた。
※ ※ ※
デスク備え付けの椅子に腰掛けて、私は文庫本のページを繰った。
デスクの上を埋め尽くす紙の上にチョコレートをザラリと広げて、その一つを適当に口に放り込む。
この時間は栄さんが講義に出ているので、残念ながらコーヒーはない。露骨な甘さを口に湛えたまま、甘くもない小説を雑に読む。
昨今、電子書籍は大いに普及している。
大学のテキスト、参考書、研究論文、それらすべてが端末一つで閲覧できる。娯楽所、文芸等々もまた然り。
けれど紙媒体が完全に滅んだわけじゃない。昔ながらの本屋もまだ残っている。
大学の研究なんかでは完全なデッドメディア扱いで、文系理系問わず、紙を多用するところが少ないだけで。
私は秘封倶楽部時代の影響か生来の気質か、失われゆく紙という媒体に愛着を覚え、研究資料の類いにも紙を利用していた。
これは教授職に就いた影響だ。研究室というフリースペースがあるから管理がとてもしやすい。学生時代はこうはいかなかった。
こうして紙を利用し続けていたら、いつの間にか岡崎先生と並び称される程度の変人扱いを受けるようになるくらいに。
紙が欲しけりゃ宇佐見の研究室へ、と言われるようになった。
変人扱いは大いに結構だし、不要な紙は腐るほどあるので構わない。
けれど未だに、一人も「紙をください」と言って訪ねてきた人はいなかった。残念。
チョコレートをまた一つ放る。文庫本の明朝体をぼんやりと追う。
この間、久々にメリーの夢を見てから、左眼の自己主張が少しばかり酷かった。
文章の合間に隙間を広げられると、内容が頭に入らなくて困る。
私にはもう、幻想を追う気なんてないのに。
一度に二つ、チョコを口に放って、左眼をそっと隠す。もう、落ち着いてほしい。
眼帯でもあれば便利かな、とか少し思うけど、多分煩わしいんだろうな、って思うとあまり着ける気が湧かない。
特に意識せずにチョコを摘み続けていたら、デスクの上は個包装の残骸だらけで、口の中はでろりと甘かった。
一番下の引き出しから新しいチョコの袋を出して、中身をぶちまける前に残骸を片付ける。
ふと、コーヒーが飲みたくなった。
栄さんや、ちゆりさんが淹れたこだわりのものじゃなくて、美味いとも不味いともつかない、中途半端な缶コーヒーが。
「失礼します」
律儀な挨拶と一緒に、長野くんが入ってきた。
「ああ、長野くんちょうどよかった。缶コーヒーとか持ってない?」
「えらく唐突ですね。持ってはないですけど、買ってきましょうか?」
「うん、お願い。なんでもいいから。お金は後で渡すわ」
長野くんは気が利いてくれるから嬉しい。付き合って三か月の彼女さんにも幸せになってもらいたいところだ。
おそらくは十分以内に戻るだろう長野くんを本片手に待つ。
五分ちょっとで、長野くんは戻ってきた。
「買ってきましたよ。これで大丈夫ですか?」
趣味の悪い金ピカのスチール缶。
「うん、大丈夫大丈夫。ありがとね」
お金と、駄賃としてチョコを二つ渡す。またチョコばかり食べてるんですね、とか言いつつ、長野くんはその一つを口に含んだ。
本に栞を挟んでプルタブに指をかける。カポッ、とか、気の抜ける音がして、開いた。
「文庫本、ですか。何読んでるんです?」
顔だけは文学青年っぽいのにほぼ一切本を読まない長野くんが聞いてくる。
彼の手には、青と白が不自然なコントラストの缶コーヒー。一緒に買ってきたらしい。
『智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。』
「はい?」
「『草枕』よ。夏目漱石」
コーヒーを一口呷る。甘い。缶には微糖の文字が踊っているけれど、それは嘘に違いない。
長野くんはピンとこない様子で首を傾げていた。
「長野くんって、文学青年っぽいのに全然そんなことないわよね」
「いい意味には聞こえないんですが……」
そっか、文豪漱石も幻想に消える時代ですか、なんて、少ししんみりした気分になる。
ビキリ、となんだか、境界が増えた気がした。
「で、『草枕』でしたっけ? さっき何か言ってましたけど、どういう意味で取ればいいんです?」
「智に働けば角が立つ?」
「はい」
歪みが、グパリと。
――ちょっとした、回想。
秘封倶楽部は二人で一つ。
子どもの約束みたいなことを言っていた私たちは、互いの部屋によく行っていて、とりわけメリーは、私の部屋に来たがった。
当時の私は自他共に認める知識の亡者みたいな奴だった。
専攻の超統一物理学関係の本から、関係のない政治や経済、宗教、文学作品やら何かまで、とにかくたくさんの本を持っていた。
私が学生の頃から電子書籍の普及は始まっていて、メリーはきっと、こんなに多くの本があるということが珍しかったんだろう。
文系寄りの嗜好だったこととか、私の影響とかあるのだろうけど、メリーもまた、私の部屋にある本を読むようになっていった。
相対性精神学関係の本もあったし、メリーは文学作品にも興味を抱いていたらしい。心惹かれるタイトルが多かったとか。成る程。
海外文学に関しては、海外の原書を取り寄せていたあたり、メリーは外国人だったんだな、なんて思ったりはした。
たしかその時は日本近現代文学ウィークだったか月間だったかを定めて、漱石や村上春樹やらを読み耽っていた記憶がある。
部屋の布団に寝そべって坂口安吾の『桜の森の満開の下』を読んでいた時、座椅子で本を読んでいたメリーが唐突に聞いてきた。
「ねえ、蓮子」
「なあに、メリー」
「夏目漱石の『草枕』なんだけど」
「その冒頭がどうかした?」
「どういう意味?」
「そのままじゃないの?」
「よくわかんないのよ」
『桜の森の満開の下』はちょうどラスト、桜に消える場面だった。
栞を挟んで本を置いて、枕にぽすりと顔を埋める。
「そうねえ――」
「――先生?」
長野くんの声で現実に戻る。缶コーヒーを呷って、頭にこびりつく過去の残滓を押し流した。
代わりに長野くんの質問を思い返して、ああ、答え変わんないな、と思う。
「『草枕』の冒頭、ねえ。名文だとは思うけど……」
コーヒーの缶を置いて、チョコを口に放り込む。
「何が言いたいんでしょうねえ」
少しもごもごとした口調で、かつてメリーに返したものと、まったく同じ言葉を投げた。
※ ※ ※
メリーに両親はなく、親類縁者もいないという。
そのため、お坊さんを呼んでの葬式といったものはせず、ただ火葬をして、共同墓地に葬るという形がとられることになった。
火葬の時には私とちゆりさん、あとは相原さんや、あちらのゼミの奈良井教授など、ごくごく少ない人数が集まっていた。
寒い季節。当然、時間を待つための部屋もあったけれど、なんとなくいる気にならなくて。
なにより一人になりたくて、私はその建物を出て、駐車場の傍にあるベンチに座っていた。
建物の中、メリーのそれのために来ている人は、少ない。改めて、彼女の交友関係の狭さを認識する。
『心中しない?』
頭と胸がズキリと痛む。あの言葉の裏の意を考える。
心中。相愛の関係にある二人が共に死ぬこと。複数人が共に死ぬこと。
この言葉を聞いて浮かぶイメージだ。
厳密にいえば他の意味もあるけれど、真っ先に浮かぶのはこれらのイメージで、メリーも多分、この意味で言っていたはず。
要するに、メリーは――。
「……宇佐見さん、大丈夫ですか?」
ふと、男の人の声。聞き覚えがある、相原さんだ。
見れば横に、缶の紅茶を差し出してくる彼がいた。顔色が悪く見えたのか、ひどく心配しているような面持ちだった。
メリーの事故があってから、相原さんには何かと気を遣ってもらっていた。
私の四つ上で現在四年生であるのだけれど、年下の私にも偉ぶったことはない。
私とメリーが秘封倶楽部を結成して、互いに無二と言って過言でないくらいの関係であったことも承知しているらしかった。
私が思い詰めた様子でいると、気付いて声を掛けてくれたりする。良い人だ。
今もまた、安心させようとするような柔らかい微笑を浮かべて、手の中の紅茶缶を差し出してきている。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
お礼を言って缶を受け取る。けれど正直な話、今は一人でいたい気分だった。このまま無為に時間が過ぎてくれれば、と。
でも独りで思い詰めていたら、私も事故か何かに遭ってしまったかもしれないなんて気もしたので、よかったのかもとも思った。
手がかじかんでプルタブに苦戦していると、相原さんがそれを代わりに開けてくれた。改めてお礼を言って紅茶に口を付ける。
何となく、今の気分に合っていた。
息が白く濁る。寒さが身に染みた。
「寒さは、平気ですか?」
内心を読んだかのように、相原さんが聞いてくる。
「平気です。慣れてますから」
なぜだか少しムッとして、痩せ我慢だけどそう返した。そうですか、と笑って、相原さんもコーヒーを飲む。
コーヒーのほうが好きだったな、とかちょっと思いつつ、もう一口紅茶を飲んだ。
ふと、空を見上げた。まだ昼間だし、そうでなくても灰色の空が垂れ込めているので、星も月も見ようがない。
時計を持ち歩いてないので、外に出て何分経ったとか、今が何時かとかはわからない。携帯を開くのもなんか気が向かなかった。
相原さんは腕時計をチラ、と見て、コーヒーを一息に飲み干した。
「もうじき終わる時間です。戻りましょうか」
一度断ろうかとも思ったけれど、身体はひどく冷え切っていて、暖かい場所を求めている。
もう一口飲んで、まだ半分くらい残ってる紅茶の缶を持ったまま、私は相原さんの後に続いて、建物の中に戻った。
◆ ◆ ◆
――長野くんと少しばかり話していると、いきなり私の電話が鳴り出した。
個別に着信音の設定なんかしてないので、誰からかはわからない。
そういえばもうじき学会とかいろいろあったっけな、なんて思いつつ、コーヒーを呷ってディスプレイを見た。
「……相原さん?」
珍しい。今日はメリー関係の何かがあったっけか。
端末を持ったままチョコを口に放って、噛み砕きながら研究室を出る。
咀嚼を嚥下を終わらせてから通話ボタンを押して、耳に当てた。
「もしもし」
『もしもし、宇佐見さん?』
「私の端末だもの、これ」
少し雑な答え方だけれど、改めるつもりはなかった。
相原さんとは大学在籍中、それ以降もいくらか連絡を取っていた。
何度か繰り返していくうちに気を遣った話し方が面倒臭くなって、今のように雑な対応をするようになった。
相原さんは特に文句も言ってこないし、いいんだろうと思う。
彼が連絡してくるときは大概、メリーに関する何かがある時だった。今回もその類いだろう。
「で、この時期は何かあったかしら?」
『ああ、今週末はハーンさんの月命日だから。宇佐見さんはどうするかなって』
やっぱり、と、声にならないように吐き出す。
「行かなーい」
いつも通りの返事をした。だって、メリーには悪いけど、行く理由がない。
『そうだろうとは思ったけどね』
なんて言って、相原さんの苦笑気味の声が聞こえた。
『でも、来月は来るんでしょう?』
来月、と聞いて、ようやく今月が何月かを思い出す。
「あー……命日か」
今は、十一月。
「流石に、まあ、行くわよ。そりゃね」
『よかった。命日にまで行かないなんて言われたらハーンさんが可哀想だ』
メリーに関わることばかりで連絡してきたり、こういったことを言うあたり、彼はメリーに気があったんじゃないか、なんて考える。
けれど、死んじゃった今では関係ない。
『それにあたって、今月のどこかで会えないかな? 都合は宇佐見さんに合わせるから』
合わせる、と言っても、一般企業に勤めてる相原さんに平日の自由なんてあるとは思えない。
「休日は暇だから、どこでも構わないけど」
『そっか。それじゃあ近いけど、来週末でもいいかな? 集まる場所とかはまた連絡するよ』
「はいはい、平気」
『うん。それじゃあ、また』
「ええ、また」
相原さんが切る前に通話を切る。
何となしに廊下に首を回すと、傍に栄さんと松本くんが立っていた。
「入らないの?」
私が研究室の戸を開けると、二人は足早に中へ入った。
喉が渇いたので、私は研究室に入らないまま一階に降りて、缶コーヒーを買おうと思ってやめて、ホットのミルクティーを買った。
缶コーヒーより太い寸胴で、少しお得な感じがする。
熱い缶を遊んで冷えた手を温めつつ研究室に戻ると、なんだか中が騒がしかった。
プルタブを起こして、一つ口を付けてから入ると、ワッと跳ねる栄さんと松本くんの声。
「ものの数分で、ずいぶん騒がしくなったこと……」
デスクに戻ってゼミ生の顔を見回す。いきいきとした二人に対して、長野くんは辟易とした顔だった。
「長野くん、何かあった?」
クッキーを齧った彼が溜め息交じりに答える。
「宇佐見先生の電話のお相手に関心があるそうですよ」
「へえ」
栄さんがズイ、と身を乗り出す。
「電話の相手、どなたですか? 結構親しそうでしたよね?」
「しかも今度会うんすよね? 彼氏っすか? 彼氏なんすか?」
ゴシップ好きは時代を問わないらしい。
昔は私もこんなだったのかなーなんて思いつつ、長野くんから一枚クッキーをもらう。
「別に、そういうのじゃないんだけどねえ」
「本当ですかあ?」
ああ、こういう問いを向けられる側はイラッとするわ。
「本当。相原さんは友人伝いの知り合い。その友人関係で連絡くれるだけ」
ちら、と時計を見る。あと三十分ほどで、講義の始まる時間だった。
紅茶を飲んで、右眼を隠す。
頭痛がしそうなくらい、境界がチラチラと煩わしかった。
◆ ◆ ◆
服装の流行の大通りから少し外れた、脇道を行くような服で待ち合わせの場所に行くと、相原さんはもういた。
集合時間は十時、現在九時五十五分。遅刻はない。
「待たせてごめんなさい」
「いいよ、僕も今来たところ」
テンプレート。
別段何を買うとか、そういうのはなくて、とりあえずあってないような段取りなんかを話そうと近場の喫茶店に入った。
朝に何も食べていなかったので、私はサンドイッチとコーヒーもしくは紅茶がセットになったモーニングセットを頼んだ。
相原さんはマンダリンというコーヒーを頼んで、私はダージリンを注文した。
運ばれてきたサンドイッチを小さく齧りながら話をする。と言っても、大して話すようなこともない。
天涯孤独のメリーで、手厚く葬られたわけでもないのだから、云回忌とかをやる人もいない。私たちが勝手にやっているだけだ。
けれど、そんな私も、今回が何回忌にあたるのか、覚えてない。
結局、来る人は来る人で、少し堅苦しいことは私たち二人でやればいいだろうということになった。
サンドイッチの最後の一切れを口に放り込んで、紅茶の残りで流し込む。
銘柄をキチッと出しているわりに、紅茶は大して美味しくなかった。
その後も少し話をしたりしてから店を出る。会計をしようと思ったら、相原さんが全部払ってしまった。
私も支払おうとしたけれど断られたので、ありがたく奢られることにした。安月給にいいことは少ない。
よく晴れた昼だけど、店の外に出ると寒い。ふと、事故の日の空を思い浮かべようとする。思い出せなかった。
時刻はまだ正午も越えない。
相原さんにこれからどうするのか尋ねると、適当に少し歩こうかと提案された。頷いて、並んで歩く。
息はまだ白まないけれど、空気は冷たい。相原さんの頬は少し赤くて、風邪気味なのかと聞いたらそうじゃないと返された。
他愛のない話をしながら歩いて、昼食時に洋食屋に入って、本屋や雑貨やなんかを適当に回って、喫茶店で息をついた。
そこはパン屋を併設した喫茶店で、ケーキの他に色々なパンが店内に並んでいた。
私はモンブランと紅茶を、相原さんはほうれん草とベーコンにキッシュとコーヒーを注文した。
モンブランをつつきながらぼんやり相原さんを見ていると、左眼が突然ズキリと痛んで、彼の背後にグパリと境界が開いた。
「っ!」
フォークを取り落しながら左眼を押さえる。
少し焦った様子で大丈夫かと問われて、ズキズキとした痛みがちょっと落ち着いてから、大丈夫と頷いた。
「やっぱり、痛むものなの?」
「他の例を知らないから、なんとも」
多分、相原さんは別の事を思い浮かべた。私が言わんとしたのとは、別の事を。彼は私の眼を知らないから。
元々から、変な眼を二つも持っていたわけじゃない。
この境界を視る瞳――かつてメリーが持っていた眼が私に宿ったのは、半分が事故。
もう半分は、よくわからないメリーの遺志。
私は事故で、本来の左眼を重度に損傷した。
視力回復には角膜移植が必要と告げられ、それを承諾した私の左目には、どんな偶然か、メリーの角膜がやってきた。
メリーがいつ、アイバンクに角膜を提供したのかはわからない。その理由も。
移植にあたっての入院を終えてから、いくら探しても、彼女の遺志がわかるようなものは見つからなかった。
結局のところ、私は私のものとは違う幻想の瞳を得てしまって、それは私を幻想から逃れさせず、むしろよりそれに深く沈ませた。
メリーが死んで以来、幻想を追う気のなかった私はそこから必死に目を逸らして、それまで以上に研究に身を費やして。
それでもその手を振りほどけないまま、私は今までを過ごしてきた。
左眼がズクン、と疼く。思い出して、意識してしまうといつもこうだ。
相原さんはこの眼を知らない。きっと、移植した角膜が馴染んでないとか、そんな風に思っているのだろう。
実の所、相性は抜群にいいらしかった。
けれど、いい。
それでいい。そうでいて。
貴方は私を現実に引き留めてくれる、数少ない一人なのだから。
大分時間をかけてモンブランを食べきって、時間も遅いのでそろそろ帰ろうかという話になった。
私はいいよ、と言ったのだけど、危ないからと相原さんがアパートまで送ってくれた。
学生時代から場所を変えていない、私のアパートに。
また今度会えるかな、と相原さんが言った。時間がある時ならいつでも、と答えた。
また連絡するよ、と言って、彼は手を振って帰っていった。
姿が見えなくなるまでそこにいて、私は学生時代から変わらない、一〇一号室に入る。
相変わらず、雑然とした私の部屋。それでも昔よりは帰っているから、幾分かはマシになっているはずだ。
このアパート、この建物。
今の所有者は私だ。そういうことになっているらしい。
このアパートには学生時代から私と、私が一年生の時に四年生だった人が一人入居していただけで、最後には私一人だけだった。
そんなわけで大家さんとはわりと親しかったのだけれど、私が今の職に就いたくらいの頃になくなってしまった。
親類縁者に先立たれてしまっていた大家さんが、私にこの土地の権利やら建物やらをくれた、という話らしい。
権利云々に関しては詳しくないけど、何も言われてはいないし大丈夫だろう。大層なものを遺してくれて、とは、少し思ったけど。
現在に到る道程はともかくとして、アパート全体を自由に使えるのは便利だ。
アナログ系変人の私はよく本を買う。データではなく、本。
今は一〇一号室を自室にして、一〇二から一〇四を書庫代わりにして、分類ごとの本を保管している、
二階はすべて空き部屋。電気もガスも止めてある。
ここにいると、隣室の住人に気を遣うこともなくて、楽だ。
冷蔵庫のミネラルウォーターに口を付け、そのペットボトルを持ったまま、万年床に腰を下ろす。
入ったときには、篭っているせいで少し暖かく感じた部屋の空気だけれど、じっとしていると少し寒かった。
横になる。月も星もない。だから右眼は機能しない。
けれど左眼はひどく盛んに、空間に開く境界を映す。
「……二人で一つに秘封倶楽部、か」
言い出したのはメリーだ。あれはいつだったろう、確か、私もメリーも一年生で、夏休みの終わり頃だった気がする。
メリーが忙しくて一緒に来れなくて、私が一人で探索の下見に行った時、少し無茶して、一日か二日、入院する羽目になった時。
……うん、確か、そうだ。
メリーはすごい顔で病室に駆け込んできて、私が一人で先走ったことを怒って。
もうじき用事も終わるから、その後に一緒に行きましょうって言ってた彼女の言葉を無視していた私は、ただ謝るしかなくて。
そうしてボロボロ泣いた彼女は、
『私たちは……二人で一つの秘封倶楽部でしょう?』
って、そう言って。
その時の私は、うん、と一つ頷いて。
けれど今の私は、溜め息一つ、首を振って。
「……そういう意味じゃ、ないだろうにね」
静かに、両目を閉じた。
※ ※ ※
メリーの消えた十二月。
それから四か月も経てば、大学も新年度を迎える。
瑞々しい新入生たちが大学デビューを期待してやってくる入学式の朝、私は岡崎教授の研究室で目を覚ました。
欠伸を手で隠しながらソファの上の身体を起こし、備え付けの冷蔵庫のミネラルウォーターに口を付ける。
建物の外の騒がしさを若干鬱陶しく思いながら端末を起動。
実験や種々論文をまとめたデータを見ながら、どうやって論文に仕立ててやろうかを考える。
テーブルの上のイチゴチョコを口に放り込んで、箇条書きを雑把にまとめたテキストデータを開いた。
「お、宇佐見。早いじゃないか」
研究室に入ってきたちゆりさんの言葉に頷いて、もう一つ欠伸をする。
何か飲むかと聞かれたので、ブラックコーヒーをお願いした。
「どうせ今日も、ここで夜を明かしたんでしょう?」
続いて入ってきた教授にも一つ頷いて、鞄から取り出したノートにガリガリと系統樹的なものを書き込んでいく。
そうしていくうちに頭の中で考えがまとまってきて、そのタイミングでコーヒーが出された。
「ありがとうございます」
一口啜ると、苦味に舌が縮こまった。
カップを置いて一つ息をつくと、不意にガクリと首が落ちた。ノートの上のペンがコロコロ転がって床に落ちる。
おかしい、カフェインは眠気を誘発するものだっけ?
「疲れてるのよ、宇佐見さん」
教授がコンビニの袋を差し出してきた。受け取ると、中身はサンドイッチとメンチカツパンだった。
「一週間くらい籠りきりだから、コーヒーが睡眠薬になるのよ」
「もう少しでまとまるので……」
レタスとハムとチーズのサンドイッチを齧る。眠気の所為で思考は茫洋としてきているけれど、幸い論文の形は崩れていない。
目ばかり冴えてる。ある種のトリップ状態なのかもしれない。
教授が溜め息をつく。
「別に講義の課題でもないでしょうに、熱心ねえ」
「です、かね?」
もそもそとサンドイッチを食べつつタッチパネルと叩く。
新規のテキストファイルに明朝体がパタパタと並んでいく。
別のアプリケーションを開いて、ノートの中の系統樹的な図を作成する。
サンドイッチの一切れを食べ終えたとき、教授はいなくなっていた。
対面のソファに座ったちゆりさんがうんざりした目でこっちを見ている。
「……どうしました?」
「いや、集中力あるなと」
言われて何気なく画面の右下を見ると、眼を醒ましてから三時間経っていた。
サンドイッチはまだ一切れ残っていて、コーヒーも半分以上残っている。
三時間でサンドイッチ一切れしか食べてなかったんだとか、少し見当違いな驚きを覚えた。
「岡崎教授は?」
「出かけたぜ、二時間ちょい前にな」
「あー……」
気付かなかった。
もう一つの、卵サンドイッチに手を伸ばす。コーヒーは当然ながら、もう冷めていた。
一息に飲み干してしまって、ちゆりさんにお代わりを頼む。よくやるぜ、なんて言いながら、彼女はカップを持って立ち上がった。
今度は少し落ち着いてサンドイッチを食べて、その合間に途中まで書いた論文を見返す。
論の大筋に乱れはない。文章の洗練も時間をかければできるのだろうけれど、論文の主眼はそこじゃない。後回し。
サンドイッチを食べ終わったタイミングで、ちゆりさんがコーヒーを持ってきてくれた。
早速一口飲んで、続けてもう一口啜る。
ちゆりさんが、起動したままの端末を覗いてきた。
「お、なかなかよく書けてそうだな。研究云々は当然専門家にゃ及んでないが、学生の身分なら上々だぜ」
字数カウンターは一万云千字とかいう数字を表示しているけれど、ちゆりさんはもう全部読んで、内容も把握したというのだろうか。
忘れかけてしまうけれど、ちゆりさんは岡崎教授の助手で、また碩学と呼ばれるに相応しい一人なのだと再認する。
サンドイッチのゴミを捨てて、メンチカツパンの袋を開ける。
ちゆりさんに箇条書きのテキストとノートを見せると、幾らかのダメ出しが入った。
幸い、研究に関してじゃなくて論のまとめ方だったので、一からやり直しとかにはならなそうだった。
キーンコーンカーンコーンとチャイムが鳴る。時計を見たら、正午だった。
メンチカツパンを昼食にしつつ、手直しを交えながら論文を進める。
そのうちにちゆりさんも何かしらの用事で出ていった。
入学式の日に研究室まで来るような奇特な人も少なくて、当分の間、室内には私一人だった。
パンもコーヒーも終わってしまって、口寂しさを紛らわすのに、ミネラルウォーターとチョコばかり口に入れていた。
どこからかオルゴールのような音楽が聞こえてくる。午後五時を告げる赤とんぼ。
一段落つけてミネラルウォーターを飲み干してしまうと、岡崎教授が研究室に戻ってきた。
「なに、まだやってたの?」
教授はおかしなものでも見るような目で聞いてきた。
はい、と頷いて、端末の画面をスライドさせる。ダメ出しされたところも直して、そこそこにはまとめられただろう。
ページの冒頭を表示した状態で、端末を教授に差し出した。
「一応、この間話した研究をレポート化したんですけど」
「へえ」
変な声を出しながら教授が端末を受け取り、対面に座る。眠気を堪えながらちらりと見た教授の眼は、怖いほど鋭い。
できるだけ見ないようにしながら、私は少し態度悪くソファにもたれた。流石に、身体がダルい。
「……へえ」
スライド以外の何かの操作をしたあと、教授が端末を返してきた。
私が受け取ると、教授は自分の端末を取り出した。
緑色のライトがチカチカ光っているのを見るに、私のレポートをメールで送ったんだろう。
「宇佐見さんの論文は毎回、着眼点が面白いわねえ」
教授の表情が少し緩くなっている気がした。
でも私も疲れていたので、はあとかへえとか、いまいち気の入ってない返事をしてしまった。
教授は別に気にしてないようだったけれど。
「とりあえず、今日明日くらいでしっかり読んでおくわ。宇佐見さんは帰ってベッドで寝るように」
「……私の部屋、ベッドないんですけど」
「それなら布団で横になって寝なさい。ソファで毛布はしばらくお休み」
そう言い渡されたタイミングでちゆりさんが入ってきた。
教授の命令により研究室を追い出された私は、ちゆりさんの車でアパートまで連行されることになった。
連行と言う表現は正直、言い得て妙だと思っていた。
私をアパートまで送って、缶コーヒーを放ってきて、ゆっくり休みなとか言って、ちゆりさんは来た道を戻っていった。
実に一週間ぶりの我がアパートを見上げつつ溜め息をついて、ポケットから取り出した鍵で一〇一号室のドアを開けた。
外の空気はまだ少し肌寒いのに、閉め切ったままだった室内の空気はむう、と籠っている。
内心的にはそんなに弾んだ気分じゃないので、それがひどく鬱陶しかった。
冷蔵庫のコンセントは引っこ抜いて久しい。保存食の買い込みも特にない。
食料なんてない台所をスルーして、万年床になった布団の上に座り込む。缶コーヒーを開けて、ぼんやりと部屋の中を見回した。
背の高い本棚と、そこに詰め込まれた本たち。入りきらずに床に積まれた本、紙。
一週間前には無事だった気がしたのだけれど、幾らかの山は崩壊してしまっていた。
「生活感ないなあ……」
生活してないんだからまあ、当然なんだけど。
メリーが生きていた時は、まだマシだったと思うけど、堕落というのかなんというのか。
感傷に浸るつもりもないので、缶コーヒーをさっさと飲み干して、シャワーを浴びることにした。
研究室で泊まり込んでばかりだから、しっかりとシャワーを浴びるのは久々だった。図々しい身体と健康に少し感謝する。
シャワーを浴びて、洋服箪笥から出した下着と寝巻を着て、髪を乾かしながら布団に座る。
眠気は存外あっさりとやってきた。隠すこともなく欠伸をして、布団に横になって、低くて固い枕に頭を置く。
掛け布団を被ると、意識はふーっ、と暗くなった。
夢は見ないで済みそうだった。
カーテンから漏れ出た陽光に一度目を覚まして、けれど眠かったからまた眠って。
静かな時間にまた目が覚めて、けれどまたもう一度寝て。
陽射しの眩しさに起こされて、ようやく活動することにした。
携帯の日付を見ると、丸一日を睡眠に費やしていたことを知った。
時間は、午前十時四十二分十一秒。
日付と時間を確認したついでに、来ていた三通のメールを確認した。
一通目は教授。時間は今日の午前八時三十二分。
『論文、読みました。相変わらず面白いテーマを研究するわね。
色々と言いたいこともあるので、ゆっくり休んでから研究室に来るように』
二通目はちゆりさん。時間は今日の午前八時四十分。
『論文お疲れさん。私も軽く読んだけど、楽しい研究するよな、宇佐見は。
ご主人様もなかなか機嫌がいいぜ、もしかしたら昼飯くらいは奢ってくれるかもしれん。美味いもんねだる準備しときな。
P.S. そろそろ単位申請の時期だ。四年生だからそんなにみっちり取る必要もないが、申請は忘れないようにな』
三通目は……珍しい、相原さんだった。
『そちらの学部の友人から、宇佐見さんが研究に没入していると聞きました。
熱心なのはいいことで、僕も応援していますが、どうか身体には気を付けてください』
どれにも返信せずに、私は端末を放り出した。
シャワーを浴びて、着替えをして、軽く化粧をしてから部屋を出る。
天気が良かった。陽射しが眩しい。
研修室に行って教授からお褒めの言葉や諸々をもらって、お昼にラーメンを奢ってもらって、単位申請の準備を整えて。
私は論文の研究を更に進めるための実験に没頭した。
万全の研究や実験ができていたわけじゃない。返信されてきたレポートには赤と青のチェックがビッシリ入っていた。
メリーが死んで以降からそうだったけれど、私の生活域は必然的に研究室を中心としたものになっていった。
部屋に帰るのは一週間ないし二週間に一度くらい。一月近く戻らないこともあった。
友人付き合いも減っていって、まともに会話する相手は教授とちゆりさんの他には数人くらいしか残らなかった。
耳に入る『変人』の揶揄を聞き流す。
心の中に余裕はなかった。ひたすらに研究に没頭し、それ以外を顧みない。
ふと、それだけメリーという存在が大きかったのだな、なんて思った。
眠らずに、何日目か。世間が少し五月蠅くなってくる、夏。
対面のソファでちゆりさんが丸まっている。
教授か、ちゆりさんか、私が泊まり込むようになってから、二人のどちらかが研究室に泊まるようになっていた。
私を心配してのことなんだろう。
ブゥン、と羽音のような音を立てる端末をそのままに、欠伸を噛み殺して研究室を出る。
コーヒーが飲みたかったけれど、ちゆりさんを起こすのは憚られたので、一階の自販機に向かった。
窓から、月と星が見える。
「……午前二時十三分二十二秒。酉京都大学」
少し、それもぼやけて見えた。
虚ろに稼働を続ける自販機のボタンに、赤い光が灯っている。
「……えー」
どうしたことだろう。缶コーヒーが、ホットもアイスも軒並み売り切れなんて、そうそう見られる光景じゃない。
仕方なしに、冷えたミルクティーを買った。
前までは同じ値で多く飲めてお得、とか思っていたけれど、結局は何が飲みたいかというのが大事なのだと最近は思う。
軽く缶を振りつつ、ぼやけた頭で欠伸して、時折ふらふらとして壁にぶつかったりしながら研究室に戻る。
こんなにも疲れているのか。末期かもしれない、それでも休もうとは思わないのは。
研究室に入る。ちゆりさんは寝返りを打ったか、ソファの上でテーブルに背を向けて寝ている。
暗闇の中、プルタブを起こしつつあるく。長らくの放置で端末の画面も暗くなっていた。
カーテンも閉め切られた室内に明かりはない。
紅茶の香りが、ふわりと。
「ぐえ」
膝が何かにぶつかる。多分テーブルだ。
普段なら痛がるだけだっただろうけど、何もなしにふらつくくらいの身体だったせいか、身体が傾いだ。
スローモーション? まさか。感覚は変わらず、私の身体が、倒れ――
――ブヅン。
「あ゛っ!?」
ひだり、めに、なにか、が――。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っっっ!!」
激痛、左目、異物感、激痛、絶叫、激痛、液体、激痛、激痛――!
「あ゛、あ゛ああ、あが、が、あ゛、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛――っっ!!!」
「っ!? 宇佐見! どした大丈夫か!?」
研究室に明かり、右目が涙に滲んだ天井を。
端に映り込む、およそ目からは生えない異物。
痛い、痛い、痛い――!
左の、わたしの、ひだりめが――
――プツン。
――視界が狭くなった気がする。
気付けば、私は病院のベッドの上。
そばにはちゆりさんがいて、少し離れた所からは岡崎教授の声が聞こえた。
起きたか、調子はどうだ? とちゆりさんが聞いてきて、声を出そうとしたけれど、うまく出なかった。
ちゆりさんの声で私が起きたのに気付いたか、教授とあと二人、ベッドに近付いてきた。
その二人は、どういうわけかお父さんとお母さんだった。
年末も春休みもゴールデンウィークも帰らなかったから、顔を見たのは久しぶりだった。
二人は泣いていた。
教授は複雑な顔をして病室を出ていった。開く感覚のない左目に鈍痛があって、左手を軽く添えると、固い布の感触があった。
お母さんがなにか言っていた。
けれど、嗚咽混じりなのと、私の意識が茫漠としているのとで、何を言っているのかよくわからなかった。
教授が白衣の男の人と一緒に戻ってきた。医師なのだろう、「岡谷」という名札がついていた。
意識に残らない質問にぼんやり答えてから、岡谷医師が色々と説明してくれた。
病院に運び込まれたのは二日前。教授が両親に連絡して、到着は今日の朝。現在時刻、午前十一時三分。
私の左目。診断は角膜穿孔外傷。角膜に外的要因による穴が開いたのだという。
著しい視力の低下、視力を取り戻すには角膜移植手術が必要。
角膜穿孔外傷の要因は、研究室に置いていた私物。とりとめのないメモ書きを刺し留める状差しだった。
ぐっさりと奥まで突き刺さっていたら命すら危うかったらしいけれど、咄嗟に身体を捻るなりして、そうはならなかったらしい。
ノーマルな視力を失いはしたけど、そうならなくてよかった。心底ほっとした。
私はまだ、死にたくない。
角膜移植という話が出た時、私はお父さんとお母さんを見ていた。
とりあえずお金だけが心配で、それさえなんとかなるなら、私は迷わず手術を頼むつもりだった。
お父さんが頷いて、お金のことは心配するなと言った。
本当に大丈夫? 借金とか嫌よ?
と言うと、お父さんはもう一度頷いた。
お金のかかる趣味を持たず、家族のためにくらいしかお金を使わない父だと、思い出した。
両親は次の日の朝に東京へ帰った。病室での付き添いは教授かちゆりさん。
お世話になってばかりだな、とか口にしたら、ご主人様のお気に入りだからな、とちゆりさんは笑った。
相原さんがお見舞いに来てくれたこともあった。
少し重たい表情の彼に、そのうち手術があるのだと言うと、心配そうな顔で、成功を願ってますと言ってきた。
お土産の焼き菓子は、どこか懐かしい味だった。マスターは元気かな、と少し思う。
手術の前日の付き添いは岡崎教授だった。暇を持て余して徒然とまとめた研究案を見せたりして過ごしていた。
教授はいつも通りの少し怖い瞳でそれを見て、私はそっと、左目を覆う包帯に手をやった。固い。
迷わず手術を選んだわね、と教授が言った。頷くと、どうしてと問われた。
外は気付けば夜だった。窓を開けて、月と星を見る。
午後八時二十八分十六秒。酉京都総合病院。
呟いて、教授を見て、ちょっと笑う。
何も見えない、普通の瞳にもちょっと、憧れがありまして。
手術終了。体感時間はあっという間。
包帯が外れるまではもう少しかかる。相変わらず狭い視界のまま、私は研究に必要な論文を読んでいる。
病室には教授もちゆりさんもいない。一人。
字面だけをつるつると撫でながら、私は私の右眼を考えた。
星を見れば時間がわかり、月を見れば場所がわかる。私の瞳。おかしな瞳。
これは私の幻想だ。私だけが持つ神秘のものだ。
次いで、左眼を考える。
星を見ても時はわからず、月を見ても場所はわからない。誰かの瞳。普通の瞳。
これは私の現実だ。大多数が持つ普通のものだ。
私が持っていた幻想二つ。その一つが現実に挿げ替えられる。
陰陽太極図、その陰中の陽、陽中の陰のような具合で、ただ一つ、私の右眼が幻想である。
そんな今が、私は嫌だ。
呑まれたい。右眼の幻想さえ捨て去って、すべて現実に呑まれたい。
幻想はもう、物語の中にだけ委ねて、普遍的な現実に浸っていたい。
だから、私は幻想を追うことをやめた。
メリーといた時はいつも着ていた、白のブラウスに黒のスカートという服装をやめて、トレードマークの帽子も箱にしまった。
ひたすら研究に没頭して、できる限りその他を見ないようにしてきた。
そして今。一つの幻想を失って、この一時、幻想に目を向けなければならなくなった今、わかったこと。
私にとっての幻想は、つまりメリーだった。境界も、神隠しも、夢の世界の旅も違う。
私にとって、すべての幻想というのはメリーであって。
その彼女が死んでしまった今、いくら時間や場所が見えても、夢の中でどんな風景を見たとしても、私の幻想はすべて潰えて。
だから私は、現実との迎合を望む。
幻想が潰えてしまった今、それを追う道を歩いていても、先には暗闇しかないのだから。
暗闇を歩き続けるなんて強さは、私にはない。
包帯が外されるこの日は、世間では休日だった。
私はずっと休日だったから、あまり感じることはなかったけれど。
休日なので病室には二人とも来ていた。大学での保護者みたいな感じで、何から何までお世話になって、感謝しきれないくらい。
何か、親に感謝の意を示す休日とかなかったっけ。勤労感謝? 敬老の日とか言ったら怒られるかな。
いつか機会があれば、何かお礼をしよう。
そう思いつつ、私は目を閉じたまま、包帯が解かれるのを待った。
拘束感が薄れていって、少し違和感さえ覚えてしまう。
やがて、完全な解放感。
目を開く。
教授の赤、ちゆりさんの黄色、岡谷医師の白、病室の風景が、それまでの視界よりも広がって――
「――――」
――筋肉の硬直を感じる。主に表情筋、けれど全身。
「こ、れ、は……?」
この、グパリと口を開くものは。
「これ、まさ、か……」
この、不気味な紫色の裂け目は。
「メ、リー……?」
そうして。
退院後に真っ先にすることを、私は今、この時決めた。
※ ※ ※
昼食のベーグルサンドを齧りつつ、栄さんや松本くんと話をしていると、相原さんからメールが届いた。
今週末に会えないかという内容だった。
スケジュールで予定を確認しつつ、メリー関係でも話すこと別にないよなあ、なんて考える。まあいいけど。
OKの返事をすると、簡単にいつどこでってことが返ってきて、細かいことはまた後で書かれていた。
丁寧だなあ、と思う。私とは大違いだ。
ああ、左の視界が歪む。今日も、元気だ。
時計を見る。昼休みも終わりに近い。
「さ、もうじき講義が始まるわよ」
「げ、ヤッベ」
松本くんは慌てて飛び出していくけれど、栄さんはそれを見送るだけだった。
「栄さんは講義ないの?」
「今日はあと五限だけです」
「あら、そう」
少し残念。正直、一人になりたい気分だった。
日曜日。
前より寒くなったな、と思いつつ待ち合わせの場所に行くと、缶コーヒーを飲みながら相原さんがベンチに座っていた。
声をかけると、別の缶コーヒーを渡してくれた。前に好みを言ったからか、最近はコーヒーをくれる。
なんとなくテンプレートが嫌だったので、待たせてごめんなさいとは言わない。
今日の集合はそんなに早い時間じゃない。もうすぐ昼だった。
とりあえずランチでも行こうかと、少しずつ混み始める店に入る。
それとなくレトロな内装の、おしゃれな洋食屋だった。けれど気負うほどのそれではなくて、少し落ち着いた。
私はシーフードがふんだんに入ったパスタを、相原さんはハンバーグランチを頼んで、それとコーヒーを二つ頼んだ。
セットで付いてくるらしいサラダを食べながら、少し話をする。弾んでいるような、そうでもないような、曖昧な感じ。
注文した料理が来てからも、そんな感じの会話をした。
何となく、今日の相原さんはぎこちなかった。話の振り方とか、視線とか。つられるみたいに、私も少し調子ではなかったと思う。
コーヒーは美味しかった。会計は今回も相原さんが払ってしまって、少し申し訳なさがあった。
なので、どこか喫茶店にでも入ったなら、そこの支払いは私がしようと思った。
その後、小さな雑貨屋に行ったり、映画館に行ったり、のんびりと喫茶店に入ったりした。
なんかデートみたいね、とか、感じたことをそのまま言うと、相原さんははにかんだ笑顔で、そうだねと言った。
喫茶店での紅茶とケーキの代金は私が払った。
日が沈んだ頃、景色のいい高台に来た。
京都の夜景は星のようで、けれど時間は知れないから、ただ純粋に綺麗だな、と思えた。
並んで缶コーヒーを飲む。
相原さんの頬は少し赤くて、風邪気味かと聞いたらそうじゃないと返された。
「宇佐見さん」
答えて、私を真っ直ぐに見た。
「うん?」
コーヒーに口を付けつつ、顔だけを彼に向ける。
少し真剣な雰囲気になったように思えたけれど、私の行動はあまり変わらなかった。
何度か息を呼吸させて、私が缶コーヒーから口を放した、そのタイミングで。
「――――」
「……え?」
吃驚して、何と言われたかよくわからなかった。
大きく目を開いて呆然としている私に、相原さんはもう一度言ってくる。
「好きです」
と。
これは、何? 要するに、これは告白で、今日のあれはみたいとかじゃなく本当にデートで、相原さんが、私のことを、好き?
缶が手からストンと落ちて、カァンと高い音を立てた。心臓がバクバクと鳴って、少し息が苦しくなる。
相原さんは真剣な眼差しを私に向けてきている。止まりかけた呼吸を意識しているうちに、あはは、なんて笑いが漏れた。
「は、はは、あはは……あは、は……その……ほ、本気?」
うん、と、彼は一つ、頷いた。
「……正直に言うと、一目惚れだった。不謹慎を承知で言えば……あの、病院から」
何年前の話だろう。それで、告白が今?
「……ハーンさんに、申し訳ない気がして」
――メリー。
「……あはっ。本当に、ちょっとメリーに、申し訳ないなあ」
相原さんが私の反応を窺っている。
少し頬を緩ませて、私は相原さんを真っ直ぐに見やった。
「……えっと」
あまり目につかないように、シャツの裾を少しいじる。
「……この場合、OKの返事って、なんて言えばいいのかな?」
◆ ◆ ◆
経験は、あった。
高校時代、まだ東京にいた頃に、一度か二度。
そんなにいいものだった記憶はないし、そこに愛情があったかさえ定かじゃないけれど、とりあえず、処女ではなかった。
経験はあったけれど、流石に何年振りだろう、数えるのも億劫なくらいだから、もう未経験と言って構わなかったと思う。
だから、余韻は次の朝まで残って、私はボーっとした頭で研究室のソファに横になっていた。
行為の最中の激しい熱ではなくて、三十七度五分くらいの熱でぼんやりしてしまう感じ。
風邪かと思って熱も測ったけれど、平熱より少し下くらいだった。
キスの記憶も朧に蘇る。
ゆっくり近づいてくる相原さんの顔に、自分の頬が熱くなって、心臓の鼓動が苦しいくらい激しくなるのがわかった。
あんな緊張感。教授に論文を提出した時にも、この大学への採用面接に行った時にもなかった。
……メリーの事故を聞いた時には、少し違う緊張を覚えはしたけれど。
メリー。私の幻想。かつての無二の友人。
口付けは、彼女ともした記憶がある。
私はスキンシップと思っていたから、特に緊張はなかった。
メリーは、私との心中を願い、角膜という形で私と一つになった彼女は、そうでなかったのかもしれない。
思えば一度、メリーから愛を向けられて、それに応えようとしたこともあった気がする。
二人で一つの秘封倶楽部。以心伝心。一心同体。
今ならわかる。私は異端になりたかったんだ。
世間にとって異質であることが、幻想に手を伸ばすための資格である気がして。
マエリベリー・ハーンだけの宇佐見蓮子であることが、秘封倶楽部の資格であった気がして。
ああ、メリー。かつて、私の幻想だった少女。
私はもう、貴女を求めない。貴女に焦がれない。
遅刻しがちで、貴女とふたりぼっちであった、秘封倶楽部の宇佐見蓮子じゃなくて。
五分前に行動して、相原さんと寄り合っていく、酉京都大学の宇佐見准教授として。
私は、世間に紛れて生きる。人並みに働いて、人並みに恋して、人並みに命を育んで、人並みに死ぬ。
貴女の瞳が私にあるから、私は貴女を忘れないけど。
そんな記憶も笑い話として、そっと片隅に置いておく。
私にとっての幻想は、もうそれだけで十分だから。
チャイムが鳴る。私の講義は三限からだ。
研究室のドアが開いて、栄さんが入ってくる。
「おはようござ……って、先生またそんなだらしない格好して」
「おはよう、栄さん」
そういえば、最近はスカートを穿いてないな、なんて思った。
ミニスカートは……年齢的にも好みとしてもあれだけれど。
ロングスカートとか穿いてみせたら、相原さんはどんな反応をくれるだろうか。
可愛い、とか言われる年齢ではないけれど、似合ってるくらいは、言ってくれるかな。
「……宇佐見先生」
「……ん?」
気付いたら、栄さんの顔が近かった。別に胸が高鳴ったりはしない。うん、大丈夫。レズビアンの気とかは存在していない。
ムムム、と面白く眉根を寄せた栄さんが、私の耳元で膝を折って、誰もいないのにそっと、内緒話のように囁いてきた。
「先生、誰にも言わないのでちょっと、聞きたいんですけど」
「うん」
「……彼氏とか、できました?」
「へ?」
変な声が出て、少し頬の熱が増したのを感じた。
気付けば栄さんはニヤッと笑っていて、やられた、と思った。
「できたんですね?」
黙秘は無理だな、と確信してしまったので、
「……言わないでね」
と念を押して、頷いた。
ニパア、と広がった笑顔に、箝口令は失敗だな、と他人事のように思った。
古来から、人の口に戸は立てられぬ、なんて言われるように、噂の広がりを止めることなんてできない。
一週間くらいの内に、変人宇佐見に彼氏ができたという噂は、尾ひれ背ひれをくっつけてキャンパス中に知れ渡った。
三時間くらいは噂の収束を図ったけれど、四限の講義が終わって研究室にいる時、ドアを蹴り開けたちゆりさんが
「おー宇佐見! 彼氏ができたんだって?」
なんて、大きな声で言ってきたので、もう諦めた。
それに、そんな噂が流れているのは、むず痒いけれど、少し嬉しかった。
相原さんはわりと頻繁に――それでもきっと、若い恋人たちよりは少ないだろうけれど――連絡をくれる。
私の端末がチカチカ光ったり、私が電話に出たりすると、相手は彼氏かどんな内容かと栄さんたちが聞いてくるのが厄介だった。
会うことも、それなりに。平日の昼間はお互い仕事があったりするけれど、夜には普通に会うことができる。
相原さんも京都に一人暮らしで、メリーと互いの部屋を行ったり来たりしていたみたいに、相原さんの家に訪ねることもあった。
相原さんは料理が上手くて、美味しいものを何度かご馳走してもらっていた。
私もお返しに何か作ろうと思ったけど、まともに料理をしたのはいつ振りだろうなんてくらいで、少し失敗したりした。
相原さんも、電子書籍版だけれど色々な文学作品を読んだりしていて、共通して読んだ作品について話したりもした。
いつか長野くんにも聞かれた、『草枕』の冒頭が何を言いたいのか、とか。
メリーが死んでから、いや、秘封倶楽部が解散してから、私もきっと、寂しかったんだろうな、と思う。
付き合い出して、私は結構相原さんに甘えた。
用事もなく家を訪ねて、長らく居座って。
脈絡なく手を握ったり、キスを求めたり。……その、先も。
きっと私は寂しくて、それも研究に沈もうとした理由なんだろうと思う。
胸が苦しくならないように。
ひとりぼっちを意識しないでいられるように。
メリー。メリー。私と似ていた、ひとりぼっちが嫌いな貴女。
私は、寄り添う相手も見つけました。
世界に絶望していた貴女は、死んでしまったけれど。
私と別れたそのあとに、寄り添う相手を見つけましたか?
◆ ◆ ◆
十二月。メリーの命日。
メリーの墓前。相原さんと二人。
手を合わせて、目を閉じて。私が目を開けたとき、相原さんはまだそうしていた。
墓石の周囲に、境界が口を開けている。鈍い空、もっと暗ければさぞ、それらは不気味であっただろう。
どれだけ闇が深くても、隙間がそれに消えることはない。
相原さんが頭を上げたので、黙ったまま促して、私たちは霊園の外に出た。
駐車してある相原さんの車の助手席に乗って、帰る。
「……相原さん」
信号待ちの時に声をかける。
「なに?」
「その……」
信号が青に変わる。
「……今日の夜、私の家に来ない?」
相原さんはすんなり了承してくれた。
多分、メリー関係で寂しくなったと思われたのだろう。半分くらい正解、でも、少し外れ。
相原さんが家に来て、ご飯を食べて、少し話をして、私のほうから、してほしいとキスをした。
彼は少し迷っていたけれど、もう一度お願いしたら、うん、と頷いてくれた。
これまで何回か、こうしてセックスもしたけれど、その中で一番、私は貪欲に求めたと思う。
そもそも「しよう」って言ったのは私で、そういうつもりで「したい」と言ったのだから、当然なのだけれど。
身体に熱が残っていて、この季節なのに、裸でいても平気なくらいだった。
火照った身体の熱。相原さんは私を抱き締めて眠っていた。
息が白む。このまま寝たら風邪をひいてしまうかもしれない。
腕だけで掛け布団と毛布を引き寄せて、雑にだけれど、相原さんと私にかけた。小さく、彼がもぞりと動く。
視界の端で、境界が蠢いていた。
それも、もういい。
これは、決別だ。
彼の胸に抱かれるようにして、私は目を閉じる。
寒い空気の中の、相原さんの熱と、鼓動がとても心地よくて、それからすぐに、眠りに落ちた。
※ ※ ※
顔が浮かぶ。メリーの顔。
メリーの顔を見るのは久しぶりだった。写真はすべて段ボールに詰めたし、夢に顔が出てくることもなかった。
何か、口を動かしていた。語りかけるように。
蓮子、という声。なあに、と返す。
『貴女と私は、二人で一つの――』
二人で、一つの……?
『だから――』
だから……何?
――一人で出張って、ひどい怪我をした時だ。
ひどい、とはいっても一日二日の入院で済む程度のもので、私個人としては「あちゃ、しくじった」くらいの気分だった。
病院のベッドでのんびりするのも悪くないかな、とも思ってたけれど、病室に来たメリーは、ひどく怒っていて。
「なに、勝手にそんな怪我してるのよ!?」
「い、いや、大した怪我じゃないわよ? すぐ退院だし、痕が残るとかでもないし」
「そういう問題じゃないわよ!」
「メ、メリー、声大きい……」
幸い、周りに人はいなかったけれど、聞き付けた看護師さんが駆けつけてきそうなくらいの声で、少し肝を冷やす。
メリーの瞳は、今にも泣きそうなくらい、潤んでいた。
「……メリー」
「一人で、どこかに行かないでよ……」
ひどい涙声で、頬に雫を伝わせて、私の手を、震える両手で掴んできて。
「私たち……二人で一つの、秘封倶楽部でしょう?」
どこか、自分で言ったその言葉に縋るような風を漂わせながら、震えた声で、そう言って。
「……うん」
「危ない所へ行くのも、綺麗な所へ行くのも、怖い所に行くのも、楽しい所に行くのも。
私たち、二人で、一緒に……そうでしょう、ねえ、蓮子?」
「……うん、ごめんね、メリー」
悲しみの籠ったその言葉に、私は本当に、メリーに申し訳なく思った。本当に。
それから、私たちの関係は密になって、深くなったと思う。
今までよりも、一緒に行動して。
今までよりも、二人でいる時間が長くなって。
今までよりも、肉体的に求め合って。
今までよりも、精神的に求め合って。
一つの閉ざされた円の中、白と黒が寄り添った様。
陰陽太極図のような、それ以降の秘封倶楽部は、そんな様相で動いていた。
その時、それを疑問には思わなかった。今も、あまり思っていない。
けれど、今ならわかる気がする。
メリーが心中を望んだ理由。メリーが、独りで死ぬことを望まなかった理由。
彼女が、世界に絶望してしまった理由は、私には知ることができないけれど。
そう、貴女は、いえ、私たちは――
「――ひとりぼっちが、嫌いだったわよね」
頷くように、夢が蠢く。
『だから――』
「だから……何?」
囁くような、声。
『――行きましょう、蓮子』
それは、音だったかもしれない。
◆ ◆ ◆
目が覚めた。部屋は薄暗い。
今は何時だろうかと端末を開くと、午前五時十五分二十八秒だった。普段から考えると、ありえないくらい早い起床。
なんだか、妙な臭いがした。鼻にこびりつく、鉄錆のような臭い。発生源というか、臭いの元は近いように思う。
重たく感じる身体、腕だけを伸ばして電灯のリモコンを掴み、電気を点けた。
「――――」
眩しい。眩しくて、目が眩む。
こんなにも、眩しい、紅い色――。
「…………ぁ」
部屋が紅い。ペンキでもぶちまけたように。眼球に紅のフィルターでも貼り付けたように。
壁が、床が、布団が、本が、服が、私が。
そうして、彼が。
「あいはら、さん」
相原さんと思しき身体が、だくだくと血を流した肉体が。
首のない、真っ赤な死体が、そこにあって。
「ぁ…………ぁ……」
首なしの死体。部屋の中に、あるべき首がない。食い千切られたような首の断面が、何か冗談みたいに覗いている。
そうして、そのすぐ上で
くぱりと、ぐぱりと口を開いた、大きな隙間が、私を見ていた。
「ああ――」
ああ、そうか。そういうことか。
「そっか……そうね」
そうだ。昔に、約束したじゃない。
ねえ。
「そうだったわね、メリー」
頷くように、境界が蠢いて。
私は着替えをするために、ひとまずシャワーを浴びることにした。
◆ ◆ ◆
研究室には栄さん、長野くん、松本くんがいてくれた。ちょうどいい。
「おはようみんな。早速だけど、手伝ってほしいことがあるの」
三人は顔を見合わせて、代表した松本くんが質問してきた。
「……宇佐見先生、珍しいカッコしてるっすね」
「え、そう?」
白のブラウス、黒のロングスカート。
寒いのでマフラーとか、ケープとかの防寒具は着てるけど、そんなに珍しくもないと思うんだけどな。
「ま、いいわ。ちょっと荷物を掘り出したいの。手伝ってくれる?」
三人は頷いてくれた。
デスクの椅子を収めるあたりに積もった諸々の物を退かしていく。大半は論文や資料を印刷した紙だ。
この段ボール箱を研究室に置いた理由は、すぐに散らかって目に留まらなくなるから、って理由だった気がする。
確かにその通りで、流石は私だ。
「段ボールってこれっすか?」
「そうそれ! さ、引っ張り出すわよ!」
発掘された段ボールは、色々なものが載っていたせいで少しへこんだりしていた。
けれどまだしっかりしていて、少し安心しながら、私は封していたガムテープを引き剥がす。
「うわお」
「わっ」
松本くんと栄さんが声を漏らした。
中身は、秘封倶楽部の活動記録だ。秘封倶楽部に関わるものすべて、私はこの中に詰め込んだ。
その一番上に入っていた、私のトレードマークをひょいとつまみ出す。
「あーあー、なんだかんだよれちゃって」
長らく放置してた黒の帽子。新調も考えたけど、やっぱりこの帽子がしっくりきそうだ。持つだけでわかる。
帽子をデスクにおいて、段ボールの中から白いリボンを取り出す。
髪を一房分けて、それをそのリボンで結ぶ。箱の中身はあと、写真や日誌、それくらい。
それはいい、もう必要ないだろうから。
帽子を手に取り、くるんと回して頭に被る。
うん、やっぱり馴染む。
「宇佐見先生……お出かけで?」
長野くんが聞いてきて、私はうんと頷いた。
私の右眼と、私たちの左眼が、ジ、と中空を見る。導くように開く隙間に、キラキラと光る星空があった。
「午前八時四十七分十一秒」
ニ、と唇を歪める。
「少し早いけど、活動再開ね」
ありがと、と三人に声をかけて、私は部屋を駆け出した。
「え、ちょ、先生講義は!?」
「そんなの知らなーい!」
戸惑いの声も無視、私には関係ない。
大学の講義も、博士号も、研究のすべて、私には関係ない――!
ふと、廊下の先に赤い服の人が見えた。サンタクロース? そんなわけ。
岡崎教授だ。ちゆりさんも。
「お、宇佐見。珍しい格好してるな」
「松本くんにも言われましたけど、そんなに珍しいですか?」
立ち止まって、軽くスカートを抓んだりしながら言う。
「ええ、珍しいわね」
ちゆりさんが何か言おうとしたのを、岡崎教授が遮って。
「秘封倶楽部の宇佐見さん」
そんなことを、言ってきて。
それがたまらなく嬉しく思えて、私はまたニッと笑った。
「……研究室とかアパートとかに色々と物があるので、もしよかったらもらってください」
「考えておくわ」
「あと、これはもらってください」
私は端末を投げる。教授は簡単にそれを受け取った。
「論文とか、レポートとか、雑多なメモとか、そんなデータが入ってます。餞別というか、そんな感じとして、受け取ってください」
「……期待してるわ」
端末をポケットに入れて、代わりにチョコレートが抓み出される。
ファミリーパックの、教授御用達のイチゴチョコ。
「餞別に、チョコレートはいる?」
「いえ、結構です」
教授も、ニッと笑った。
「……それじゃあね、宇佐見さん」
「それでは、岡崎教授。お世話になりました」
帽子を押さえつつ小さく会釈して、私は二人の横を通り過ぎた。
その後は、誰にも会わなかった。
果て無く続くリノリウムの廊下。それが、やがて途切れて。
目の前に、大きな扉が開く。
導くような境界に、私は勢いのまま飛び込んだ。
そこには、いつか感じたような温もりが合って。
囁くような声が、優しく聞こえた。
おかえり、と。
「なあに、メリー?」
「心中しない?」
「お断りするわ」
「どうして?」
「私はまだ、この世界に絶望しきってはいないから」
「……それは、とても素敵なことね」
「本当に。これは、私がもらった最高のギフトなんじゃないかって思うくらい」
「そうだとしたら、それは本当に素敵なことね」
「メリーはどうして、世界に絶望してしまったの?」
「……どうしてかしら。もしかすると、これが私のもらった、最大のギフトなのかもしれないわね」
「……そうだとしたら、それはとても悲しいことね」
「本当に」
「ねえ、メリー」
「なに、蓮子?」
「秘封倶楽部は、解散ね」
「そうね、悲しいことだけれど」
「さよなら、メリー」
「さよなら、蓮子」
◆ ◆ ◆
「――だっ!」
浮遊感もなく背中に衝撃。ガチャンと音が鳴って、お腹の辺りに温い水の感触と、軽い何かが落ちた感覚。
「せ、先生!?」
ゼミ生たちが騒いでる。ええと……そうだ、確か私はソファで寝てて、今はきっと、寝返りの拍子にでも転がり落ちたんだろう。
薄いコーヒーの香り、誰かが飲んでいたコーヒーカップを転ばせたのか。
少し軋む左手で左目を押さえて、右目をうっすらと開いた。電灯の光が眩しい。
「あー……」
四角の板が並ぶ天井、白く光る電灯、足の低いテーブルやソファも視界に入ってきた。
ああ、床に転がってるんだなとぼんやり思う。で、覗き込んでくるゼミ生が何人か。正確には三人。
「せ、先生、大丈夫ですか?」
「あー……うん、まあ。コーヒーかかった以外はね」
身体を起こす。コーヒーは大した量じゃなくて、見たらシャツに少し染みができているくらいだった。
窮屈な姿勢のまま寝てたせいで身体がギシギシしてる感じがあるけど、いつもの事なので気にしないことにする。
「左目、大丈夫ですか?」
今年ゼミに入ってきたばかりの長野くんが聞いてきた。起きてからずっと左目を押さえていたからだろう。
別に痛いとかいうわけじゃないので、ひらひら手を振ってから左手を退けた。
……ああ、チラチラする。もう五年以上はこの状態のはずなのに、一向に慣れた気がしない。
「先生、着替えたほうがいいんじゃないですか?」
「あー、うん、そうね」
どんな偶然か、着ていた白衣に染みはできていなかったので、とりあえず上のシャツだけ脱ごうとして、ジッとした視線を感じた。
……ああ、そういえば健全なる青少年男子が二人ばっかしいたっけね。
「……見たいの?」
シャツの裾をちょっと持ち上げてやる。
「見たいっす」
「阿呆! 外出てます!」
三文コントみたいなやり取りをして出ていった二人を笑って見送った。
アルファベットの書かれた灰色のシャツを脱いで、紺色の長袖シャツを着る。
ゼミ二年目の栄さんがカラカラ笑った。
「先生、見られるってなったらどうするつもりだったんですか?」
「さあ? 見られなかったんだし、いいじゃない」
シャツをハンガーにかけて、栄さんにコーヒーを頼んで、外の二人に「いいわよ」と声をかける。
栄さんはコーヒーを淹れるのが、まあ、ちゆりさんやマスターには劣るけど、上手かった。
哲学調が混じってきてるとはいえ、科学はまだまだ冷たい世界。コーヒーくらいの温かみがあってもいい。
男子二人が入ってきて、私が一つ欠伸をすると、目の前にカップがそっと置かれた。
また新しい豆でも仕入れたのか、昨日までとは少し香りが違う。
最近行ってないカフェのマスターが少し懐かしく感じた。元気かなあ。
一杯の砂糖を入れていた頃を懐かしみながらブラックを啜る。
「先生、次の時間講義ですよ。のんびりしてていいんですか?」
「あー、そうだっけね」
壁にくっついておいてあるデスクの上を漁る。学生時代から、私のズボラは続いていた。
研究室も自宅も惨憺たる有様で、最初の頃は片付けようとしていた健気な栄さんが匙を投げてしまうくらいに。
積み重なった紙資料(デッドメディア)の中から目当てのファイルを見つけ出す。
足の低いテーブルにそれを放り出して、私はコーヒーをもう一口啜った。
「めんどくさ……」
「まーた言ってるっすね」
ゼミ一年目、欲望にわりと忠実な松本くんの揶揄は聞き流す。流された松本くんは少し消沈していた。
今日も変わらず、コーヒーは美味しい。
私の講義メインのテーマに関わる話をこちらが垂れ流して、思いついた時にレポート課題を提示する方針を取っている。
出席を取ることはないけどレポートが厳しいのでヤバい、みたいな話を聞いたけれど、必修科目とはいえ出席率はなかなかだ。
壁掛け時計の秒針が鳴る。もう、二限の始業時を過ぎていた。
「んー……行くかー」
コーヒーを飲み干して立ち上がる。白衣の胸ポケットに黒の手帳とペンを入れて、引っ張り出した紙資料と携帯端末を脇に抱える。
ゼミ生諸氏は講義がないようで、羨ましい。
「それじゃ栄さん、今日のゼミ発表頑張ってね」
「はーい」
研究室を出て、本部棟五階にある研究室から一号棟三階の教室まで、大体五分と少し。
学生時代のサークル活動がゆえか、まだまだ体力には自信があるので、今までエレベーターを使ったことは数少ない。
少し騒がしいキャンパスの中を、別に慌てることもなく歩く。
宇佐見蓮子、二十代後半。
現在、酉京都大学理学部で、准教授職に就いている。
今の職に就くまでの道程に、あんまり面白みはない。
大学に入って二年と半年ほどをずっとサークル活動に費やしてきたけど、三年生の半ばでサークルが解散。
それ以降は岡崎教授のゼミで研究に没頭。順当に卒業して大学院へ。
大学院で書いたいくらかの論文が認められて、卒業後はしばらく別の大学に務めていた。
けれどこの大学の、超統一物理学の教授が一身上の都合だかで辞職。
岡崎教授の口利きでここに引っ張ってきてもらったという流れ。
専攻が微妙に違うとはいえ、最初の一年くらいは岡崎教授と肩を並べることに緊張があった。
でも、一年を過ぎてしまえばこの有様である。住めば都とはよく言ったもので、そんな現状にも概ね満足だ。
決められた職務を全うする。誰かに教えるのは得意じゃないけれど、大学だからそんなに気負うことはない。
気ままに研究することもできるし、ある程度までは研究費が落ちるから、金銭面でも気楽だった。
今日の講義をすべて終わらせて、その後のゼミも終わらせて、帰宅。
今日は火曜日、水曜日に講義はないので、少し開放的な気分だった。
夜。明かりが落ちて、空気が浄化された京都では、わりとどこからでも星が見える。パタパタと散りばめられたオリオンの三ツ星。
左眼を隠す。その動作にもだいぶ慣れた。私の視界が、今いる場所と時間を映し出す。
「酉京都大学、午後八時三十二分十四秒」
煌々と浮かぶ満月。
かつて人は、そこに兎を見ていたというけれど、今の世界、表面の模様に変化はあるだろうか。
少なくとも、私はそこに兎を見出すことができない。
左手を離して、今度は右手で右眼を隠す。場所と時間が掻き消えて、代わりに、別のものが見えた。
華やかなる月の都。
罅割れた空。
グパリと口を広げる隙間。
――私の左眼は、世界の境界を視ることができる。
※ ※ ※
思えば大学に入ってから、メリーは大概、私と行動していたような気がする。
学部も違う、互いの下宿も近くない、講義も被るほうが少ない。
けれど、サークル活動で、行きつけのカフェで、互いの部屋で。
出会ったきっかけも朧だけれど、メリーのそれはきっと、依存のそれに近かったのだろうと思う。
メリーがそうであるのだから、私の一番近しい人も、当然ながらメリーだったわけで。
彼女に何があったのかはわからない。
けれどメリーが心中を持ちかけて、それを私が拒絶して、秘封倶楽部の解散を告げた時、私にもまた、大きな穴が空いたのだった。
「宇佐見さん、最近ゼミの出席率いいわね」
夏休みが終わって三回目のゼミが終わり、少し自分で資料を整理していると、岡崎教授がそんなことを言ってきた。
「出席率いいって、元からそんなに悪くないですよ?」
どの口が言うのやら、と教授は苦笑いしてコーヒーを啜る。いや、そんなに悪くなかったはずだ。
せいぜい……三回に一回くらいだったはず、うん。
「三回に一回の出席は悪いうちだぜ」
ちゆりさんが笑いながらコーヒーを出してくれた。
とても香り高いこれは、ゼミや講義で張った頭の中の蜘蛛の巣をさっぱり洗い流してくれる。
この研究室では諸雑用の担当のように見えるちゆりさんも、実は岡崎教授の長年連れ添った助手だというのだから驚きだ。
「それがここ三回、毎回来てるものだからねえ。ちょっと驚いたわ、何かあったの?」
ひどい言われようだ。苦笑しながらコーヒーを啜って、思いつく限り最大の理由を口にする。
「サークル、解散したんですよ」
さりげない口調で言ったつもりだったし、実際さりげなかったと思うけど、岡崎教授もちゆりさんも、一瞬コチン、と固まった。
舌にコーヒーの苦みが刺さる。スティックシュガーを一本拝借して、それを入れて掻き回す。
カチャカチャとスプーンを鳴らす頃には、二人とも平常に戻っていた。
どちらも、解散理由については尋ねてこなかった。
「……それじゃ、宇佐見さんは今、サークルもなしバイトもなしのプータローってこと?」
「プータローって……まあ、その通りですけど」
「それじゃ、私の研究の手伝いをしてもらおうかしら」
「ええっ!?」
予想通りの反応をしてしまったか、教授は愉しそうにクスッと笑った。
ちゆりさんにも大いに受けたのか、見れば口元を隠して顔を赤くしている。
ムッとした気分でカップを持ち上げると、空になったカップを指で揺らしながら教授が言った。
「いいじゃない、暇になるんでしょ? 好きなだけこの部屋も使えるようになるし」
「うーん……」
答えあぐねていると、教授はもう一言付け足した。
「バイト代も出すわよ?」
「ぐう」
貧乏学生は弱かった。
「……やります」
「はい、成立」
新しく注がれたコーヒーを啜り、岡崎教授は笑う。
愉快とは言えない心持ちで、私もコーヒーを一口飲んだ。気分に関わらず、ちゆりさんのコーヒーは美味しい。
今思うと、私は驚くほどサークル活動に没頭していた。一にサークル二にサークル、三に勉学四に読書くらいな感じか。
そのサークルが解散になったというのだから、そこに並々ならない事情があったことくらい、簡単にわかるだろうことで。
きっと、気を使ってもらったんだろうなと気付いたのは、それから一年以上も経った後で。
その頃にはもう、私の後ろに戻る道なんて、なくなっていた。
十二月の初旬にはもう、路面はうっすら白んでいた。
息も白く揺れて、屋外にいると鼻の先や耳がジンジンする。京都の夏冬は気温が極端だ。夏はとても暑く、冬はとても寒い。
マイナスに到ってないだけマシか、なんて言い聞かせながら、濃紺のダッフルコートの紐を揺らしつつ大学へ向かう。
寒い時には、歯が融けそうなくらい甘いミルクティーが飲みたい。早々に研究室に行ってちゆりさんに淹れてもらおう。
研究室は程よく暖房が効いていて、いつも通りに赤い服を着た岡崎教授は、カップを片手にくつろいだ様子だった。
ペラペラと本を捲っていたちゆりさんが私に気付いて、何か飲むかと聞いてくれたので、ミルクティーを頼んでソファに座る。
そこで、教授が私を見ながら聞いてきた。
「今日って、アルバイトの日だったかしら?」
「四時限目に一つだけ、講義が入ってるんです」
ちなみに、現在午前八時三十五分。四限開始は十四時五十分。
「成る程、暇潰しね」
納得した様子の教授がチョコレートの袋を投げ渡してきた。予想通りのイチゴ味。
教授お気に入り、市販されてるファミリーパックのチョコレートだ。
ありがたくその中の一つを口に放って、大袋はテーブルに置いた。
……ん、甘い。チョコは普段苦めのを食べるけど、寒い時には甘いのも悪くない。
ミルクティーを出してくれたちゆりさんにお礼を言って、鞄の中から文庫本を取り出す。
衰退しつつある紙の本を家に積み上げていることを、教授は最初こそ訝しんでいたけれど、最近はそういうこともなかった。
ちゆりさんもそうだし、ただ物珍しげに見てくるだけで。
物珍しげに見られているのは、本じゃなくて私なのだけれど。
「電子書籍のほうが便利そうだけどねえ」
「論文や研究資料にはそりゃ、デジタルのテキスト使ってますよ。でも、こっちは趣味ですから」
「懐古趣味、ね」
理解はしたけど共感はしていないような、いつも通りの反応をしてコーヒーを啜る。
秘封倶楽部は懐古趣味の――場合によっては尚古趣味の気もあった――サークルだったと思う。
昔から、古きに霊を視るということは多くあったし、秘封倶楽部もその例に則った感じ。
視て求めるものも結局、『世界の境目』なんていう、昔からオカルト層に好まれていたものだし。
メリーにとってどういうものであったかは、別として。
つまるところ、秘封倶楽部の活動理念は復古的だった、なんて考えたあたりで、私は考えるのをやめにした。
秘封倶楽部はもう、存在しない。
わざとズ、と音を立ててコーヒーを啜る。私もだいぶ、秘封倶楽部に依存していたみたいだった。
まあ、飛び級での大学入学から、それを放棄してサークル活動に興じていたのだから、わかりきっていたことではあるのだけれど。
文庫本を、読んでるような読んでいないような調子でパラパラ捲っていると、気付けばお昼時だった。
自分の昼食を買うついでに、教授とちゆりさんからもお遣いを頼まれ、近所のパン屋で昼食を買った。
そう大きな店じゃないけど、ここのベーグルサンドは絶品だった。
研究室に戻る道中、おまけにともらったラスクを摘みながら歩いていると、不意に携帯がピリリと鳴った。
教授やちゆりさんの番号じゃないから、急かす電話じゃなさそうだ。
見知らぬ番号、心当たりも浮かばないまま電話に出る。
「はい、もしもし」
『宇佐見さんですか?』
聞き覚えのない男の人の声。まだ若い、大学生くらいだろうか。
「はい、そうですけど」
『酉京都大学の相対性精神学ゼミの相原といいます』
名乗られた名前に聞き覚えはない。けれど、そのゼミ名は、聞き流せなかった。
「……相対性精神学ゼミ?」
『ハーンさん、マエリベリー・ハーンさんのことで連絡を。ご友人ということでしたので、伝えたほうがいいかと思って』
足を止めた。冷たい風がコートを通り抜ける。
メリー本人ではなく、別の人からの連絡。それは、つまり……?
『実は――』
相原さんの声で正気に戻る。端末を持つ手がみっともないくらいに震えていた。
彼の話す内容を聞き留めて、そうして通話を切って、走った。
道路には薄く氷が張っていて、転びそうになりながらも、減速とかそんなこと考えず、転んだりもしながら大学に着いた。
階段を駆け登って、ゼエゼエと息を切らしたまま、研究室のドアを乱暴に開く。
「宇佐見、どうかしたか?」
ちゆりさんがギョッとした様子で聞いてくる。岡崎教授はチョコレートを唇に当てたまま、視線だけで説明を求めていた。
胸が裂けるような息切れを必死に整えて、言葉を発しようとするけれど、嗚咽のような喘ぎのような、そんな声しか出てこない。
「め、メリー、が……」
少しだけ落ち着いた呼吸、それを懸命に絞り出して。
「……メリー、が……事故に、遭ったって……」
そのことを、きっと泣きそうな顔と声で、言った。
――ちゆりさんが運転する車で、相原さんが言っていた病院に向かう。
教授は大学に残っていた。教授としての職務を蔑ろにすることはできないだろうし、当然だろう。
それでも助手のちゆりさんを同行させたのは、きっと、私がどうしようもなく取り乱していたから。
車は制限速度を超えるくらいの速さで走る。
私は助手席に座って、急かされるまでシートベルトも着けないで、よくわからない思考に呑み込まれたままだった。
二十分ほどして病院に着き、ちゆりさんが何かしらをしに受付に行って、その間、私はソファで陰鬱な空気を発していた。
視界は茫洋としていて、涙さえも浮かんではこない。
今、肩をポンと押されたら、倒れるか崩れるかしてしまいそうなくらいの自己喪失。
メリーが、事故。
交通事故、らしい。
最悪の想像。歪に折れ曲がった腕、ひしゃげた脚、臓物をまき散らす肉体、血涙を垂れ流す虚ろな眼窩。
自分で抱いたイメージに吐き気がこみ上げる。
「宇佐見、平気か?」
戻ってきたちゆりさんにそう聞かれて、思わず首を振りたくなったけど、なんとか頷いた。
看護師さんに先導されて、微妙な静けさに包まれた院内を歩く。
コツ、コツ、と足音が響く。その音が、幾重にも頭に反響する。
集中治療室前。赤く灯る『手術中』のランプ。壁際に寄せられたソファに、男の人が座っていた。
私たちが傍に寄ったことに気付くと、男の人は顔を上げて、立ち上がった。
「宇佐見さんですか?」
気遣う響きを混ぜなきゃいけないくらい、私はひどい顔をしてるんだろう。
頷くと、彼は相原と名乗った。電話をかけてきた人だった。ちゆりさんが私を座らせて、相原さんと話を始める。
断片は聞こえた。
交通事故、ひき逃げ、僕も同行、助けられなかった。
怪我の度合い、骨折、内臓が、左の眼球が、頭部にダメージ、最善は尽くす
――絶望。
聞こえる響きは空虚。どの言葉にも現実感がない。謝罪の言葉も聞こえた気がしたけど、実際どうだかわからない。
足音が一つ離れていって、横から頭を抱き締められた。男の人の腕ではないと思うし、ちゆりさんだろう。
泣いてもいいんだぜ、ってことなのかもしれなかったけど、どうにも涙は浮かばなくて。
もうなんか、現実から逃げ去ってしまいたいと思って、ふいにコーヒーの香りを感じたときには、意識を意図して切っていた。
――気が付いたら、私は研究室のソファで眠っていて、反対側のソファではちゆりさんも、身体を丸めて眠っていた。
暖房の効いた研究室は、毛布一枚でも寝やすくて、けれどやはり窮屈な姿勢だったからか、少し身体が軋む。
コツン、と軽い何かが頭に当たった。
「……教授」
「甘いものでも食べておきなさい」
いつも通り赤い色彩の教授は、珍しく缶コーヒーを飲んでいた。いつもはちゆりさんの淹れたコーヒーなのに。
投げられたのは例のイチゴチョコで、いただきますと言って口に放る。いかにもなイチゴの味と露骨な甘さが目を覚ましてくれた。
コーヒーの缶を放り投げて、教授はコートを片手に立ち上がった。
缶は見事にゴミ箱に入って、なかなかコントロールいいなあ、なんて思ったりした。
「今日は私が連れていくから、宇佐見さんも準備して」
少しずれたちゆりさんの毛布を直しながらの言葉に合点がいかなくて首を傾げる。
どうしてか、気の毒げに私を見た教授はコートを着て、今度はそのポケットに入っていた缶コーヒーを放ってきた。
受け取ると、もう冷めていた。
少し固いプルタブに苦戦していると、
「……ハーンさんの病院に行くわよ」
教授が、そう言って。
私はようやく、喪失から脱した。
ある病室。「マエリベリー・ハーン」という名前。ああ、メリーは本当はマエリベリーなんだっけ。
病室の引き戸が開かれる。怖い、怖い、何が怖い? 傷付いたメリーを見るのが? 怖い、怖い、今すぐに逃げ出してしまいた。
看護士さんは無慈悲に私を招く。
今時、真っ白な病室なんてない。目に優しいクリームイエロー、私には黄ばんだ壁紙にしか見えない。
宇佐見さん、と教授の声。それに押されて、私は一歩踏み入った。
中には、ベッド。相原さん、白衣の男性。盛り上がった白い布団。横たわる、金色の髪。
「……メ、リー」
その顔は、思っていたより綺麗だった。古い漫画を思い出す。
きれいな顔してるだろ、ウソみたいだろ――。
「メリー、は……」
医師なのだろう男の人は、ちら、と相原さんと、教授を見て。
相原さんは、苦しそうに目を、閉じる。
「……うそ」
震える脚が動く。メリーの横たわるベッドの縁に膝が当たった。膝がガクンと折れて、リノリウムの床が痛い。
掻き寄せるようにして、メリーの胸元に手を当てた。柔らかかった。
静かだった。
冷たかった。
涙が落ちた。
「あ……ぁ、ぁ……」
か細い嗚咽だけ、漏れた。
※ ※ ※
デスク備え付けの椅子に腰掛けて、私は文庫本のページを繰った。
デスクの上を埋め尽くす紙の上にチョコレートをザラリと広げて、その一つを適当に口に放り込む。
この時間は栄さんが講義に出ているので、残念ながらコーヒーはない。露骨な甘さを口に湛えたまま、甘くもない小説を雑に読む。
昨今、電子書籍は大いに普及している。
大学のテキスト、参考書、研究論文、それらすべてが端末一つで閲覧できる。娯楽所、文芸等々もまた然り。
けれど紙媒体が完全に滅んだわけじゃない。昔ながらの本屋もまだ残っている。
大学の研究なんかでは完全なデッドメディア扱いで、文系理系問わず、紙を多用するところが少ないだけで。
私は秘封倶楽部時代の影響か生来の気質か、失われゆく紙という媒体に愛着を覚え、研究資料の類いにも紙を利用していた。
これは教授職に就いた影響だ。研究室というフリースペースがあるから管理がとてもしやすい。学生時代はこうはいかなかった。
こうして紙を利用し続けていたら、いつの間にか岡崎先生と並び称される程度の変人扱いを受けるようになるくらいに。
紙が欲しけりゃ宇佐見の研究室へ、と言われるようになった。
変人扱いは大いに結構だし、不要な紙は腐るほどあるので構わない。
けれど未だに、一人も「紙をください」と言って訪ねてきた人はいなかった。残念。
チョコレートをまた一つ放る。文庫本の明朝体をぼんやりと追う。
この間、久々にメリーの夢を見てから、左眼の自己主張が少しばかり酷かった。
文章の合間に隙間を広げられると、内容が頭に入らなくて困る。
私にはもう、幻想を追う気なんてないのに。
一度に二つ、チョコを口に放って、左眼をそっと隠す。もう、落ち着いてほしい。
眼帯でもあれば便利かな、とか少し思うけど、多分煩わしいんだろうな、って思うとあまり着ける気が湧かない。
特に意識せずにチョコを摘み続けていたら、デスクの上は個包装の残骸だらけで、口の中はでろりと甘かった。
一番下の引き出しから新しいチョコの袋を出して、中身をぶちまける前に残骸を片付ける。
ふと、コーヒーが飲みたくなった。
栄さんや、ちゆりさんが淹れたこだわりのものじゃなくて、美味いとも不味いともつかない、中途半端な缶コーヒーが。
「失礼します」
律儀な挨拶と一緒に、長野くんが入ってきた。
「ああ、長野くんちょうどよかった。缶コーヒーとか持ってない?」
「えらく唐突ですね。持ってはないですけど、買ってきましょうか?」
「うん、お願い。なんでもいいから。お金は後で渡すわ」
長野くんは気が利いてくれるから嬉しい。付き合って三か月の彼女さんにも幸せになってもらいたいところだ。
おそらくは十分以内に戻るだろう長野くんを本片手に待つ。
五分ちょっとで、長野くんは戻ってきた。
「買ってきましたよ。これで大丈夫ですか?」
趣味の悪い金ピカのスチール缶。
「うん、大丈夫大丈夫。ありがとね」
お金と、駄賃としてチョコを二つ渡す。またチョコばかり食べてるんですね、とか言いつつ、長野くんはその一つを口に含んだ。
本に栞を挟んでプルタブに指をかける。カポッ、とか、気の抜ける音がして、開いた。
「文庫本、ですか。何読んでるんです?」
顔だけは文学青年っぽいのにほぼ一切本を読まない長野くんが聞いてくる。
彼の手には、青と白が不自然なコントラストの缶コーヒー。一緒に買ってきたらしい。
『智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。』
「はい?」
「『草枕』よ。夏目漱石」
コーヒーを一口呷る。甘い。缶には微糖の文字が踊っているけれど、それは嘘に違いない。
長野くんはピンとこない様子で首を傾げていた。
「長野くんって、文学青年っぽいのに全然そんなことないわよね」
「いい意味には聞こえないんですが……」
そっか、文豪漱石も幻想に消える時代ですか、なんて、少ししんみりした気分になる。
ビキリ、となんだか、境界が増えた気がした。
「で、『草枕』でしたっけ? さっき何か言ってましたけど、どういう意味で取ればいいんです?」
「智に働けば角が立つ?」
「はい」
歪みが、グパリと。
――ちょっとした、回想。
秘封倶楽部は二人で一つ。
子どもの約束みたいなことを言っていた私たちは、互いの部屋によく行っていて、とりわけメリーは、私の部屋に来たがった。
当時の私は自他共に認める知識の亡者みたいな奴だった。
専攻の超統一物理学関係の本から、関係のない政治や経済、宗教、文学作品やら何かまで、とにかくたくさんの本を持っていた。
私が学生の頃から電子書籍の普及は始まっていて、メリーはきっと、こんなに多くの本があるということが珍しかったんだろう。
文系寄りの嗜好だったこととか、私の影響とかあるのだろうけど、メリーもまた、私の部屋にある本を読むようになっていった。
相対性精神学関係の本もあったし、メリーは文学作品にも興味を抱いていたらしい。心惹かれるタイトルが多かったとか。成る程。
海外文学に関しては、海外の原書を取り寄せていたあたり、メリーは外国人だったんだな、なんて思ったりはした。
たしかその時は日本近現代文学ウィークだったか月間だったかを定めて、漱石や村上春樹やらを読み耽っていた記憶がある。
部屋の布団に寝そべって坂口安吾の『桜の森の満開の下』を読んでいた時、座椅子で本を読んでいたメリーが唐突に聞いてきた。
「ねえ、蓮子」
「なあに、メリー」
「夏目漱石の『草枕』なんだけど」
「その冒頭がどうかした?」
「どういう意味?」
「そのままじゃないの?」
「よくわかんないのよ」
『桜の森の満開の下』はちょうどラスト、桜に消える場面だった。
栞を挟んで本を置いて、枕にぽすりと顔を埋める。
「そうねえ――」
「――先生?」
長野くんの声で現実に戻る。缶コーヒーを呷って、頭にこびりつく過去の残滓を押し流した。
代わりに長野くんの質問を思い返して、ああ、答え変わんないな、と思う。
「『草枕』の冒頭、ねえ。名文だとは思うけど……」
コーヒーの缶を置いて、チョコを口に放り込む。
「何が言いたいんでしょうねえ」
少しもごもごとした口調で、かつてメリーに返したものと、まったく同じ言葉を投げた。
※ ※ ※
メリーに両親はなく、親類縁者もいないという。
そのため、お坊さんを呼んでの葬式といったものはせず、ただ火葬をして、共同墓地に葬るという形がとられることになった。
火葬の時には私とちゆりさん、あとは相原さんや、あちらのゼミの奈良井教授など、ごくごく少ない人数が集まっていた。
寒い季節。当然、時間を待つための部屋もあったけれど、なんとなくいる気にならなくて。
なにより一人になりたくて、私はその建物を出て、駐車場の傍にあるベンチに座っていた。
建物の中、メリーのそれのために来ている人は、少ない。改めて、彼女の交友関係の狭さを認識する。
『心中しない?』
頭と胸がズキリと痛む。あの言葉の裏の意を考える。
心中。相愛の関係にある二人が共に死ぬこと。複数人が共に死ぬこと。
この言葉を聞いて浮かぶイメージだ。
厳密にいえば他の意味もあるけれど、真っ先に浮かぶのはこれらのイメージで、メリーも多分、この意味で言っていたはず。
要するに、メリーは――。
「……宇佐見さん、大丈夫ですか?」
ふと、男の人の声。聞き覚えがある、相原さんだ。
見れば横に、缶の紅茶を差し出してくる彼がいた。顔色が悪く見えたのか、ひどく心配しているような面持ちだった。
メリーの事故があってから、相原さんには何かと気を遣ってもらっていた。
私の四つ上で現在四年生であるのだけれど、年下の私にも偉ぶったことはない。
私とメリーが秘封倶楽部を結成して、互いに無二と言って過言でないくらいの関係であったことも承知しているらしかった。
私が思い詰めた様子でいると、気付いて声を掛けてくれたりする。良い人だ。
今もまた、安心させようとするような柔らかい微笑を浮かべて、手の中の紅茶缶を差し出してきている。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
お礼を言って缶を受け取る。けれど正直な話、今は一人でいたい気分だった。このまま無為に時間が過ぎてくれれば、と。
でも独りで思い詰めていたら、私も事故か何かに遭ってしまったかもしれないなんて気もしたので、よかったのかもとも思った。
手がかじかんでプルタブに苦戦していると、相原さんがそれを代わりに開けてくれた。改めてお礼を言って紅茶に口を付ける。
何となく、今の気分に合っていた。
息が白く濁る。寒さが身に染みた。
「寒さは、平気ですか?」
内心を読んだかのように、相原さんが聞いてくる。
「平気です。慣れてますから」
なぜだか少しムッとして、痩せ我慢だけどそう返した。そうですか、と笑って、相原さんもコーヒーを飲む。
コーヒーのほうが好きだったな、とかちょっと思いつつ、もう一口紅茶を飲んだ。
ふと、空を見上げた。まだ昼間だし、そうでなくても灰色の空が垂れ込めているので、星も月も見ようがない。
時計を持ち歩いてないので、外に出て何分経ったとか、今が何時かとかはわからない。携帯を開くのもなんか気が向かなかった。
相原さんは腕時計をチラ、と見て、コーヒーを一息に飲み干した。
「もうじき終わる時間です。戻りましょうか」
一度断ろうかとも思ったけれど、身体はひどく冷え切っていて、暖かい場所を求めている。
もう一口飲んで、まだ半分くらい残ってる紅茶の缶を持ったまま、私は相原さんの後に続いて、建物の中に戻った。
◆ ◆ ◆
――長野くんと少しばかり話していると、いきなり私の電話が鳴り出した。
個別に着信音の設定なんかしてないので、誰からかはわからない。
そういえばもうじき学会とかいろいろあったっけな、なんて思いつつ、コーヒーを呷ってディスプレイを見た。
「……相原さん?」
珍しい。今日はメリー関係の何かがあったっけか。
端末を持ったままチョコを口に放って、噛み砕きながら研究室を出る。
咀嚼を嚥下を終わらせてから通話ボタンを押して、耳に当てた。
「もしもし」
『もしもし、宇佐見さん?』
「私の端末だもの、これ」
少し雑な答え方だけれど、改めるつもりはなかった。
相原さんとは大学在籍中、それ以降もいくらか連絡を取っていた。
何度か繰り返していくうちに気を遣った話し方が面倒臭くなって、今のように雑な対応をするようになった。
相原さんは特に文句も言ってこないし、いいんだろうと思う。
彼が連絡してくるときは大概、メリーに関する何かがある時だった。今回もその類いだろう。
「で、この時期は何かあったかしら?」
『ああ、今週末はハーンさんの月命日だから。宇佐見さんはどうするかなって』
やっぱり、と、声にならないように吐き出す。
「行かなーい」
いつも通りの返事をした。だって、メリーには悪いけど、行く理由がない。
『そうだろうとは思ったけどね』
なんて言って、相原さんの苦笑気味の声が聞こえた。
『でも、来月は来るんでしょう?』
来月、と聞いて、ようやく今月が何月かを思い出す。
「あー……命日か」
今は、十一月。
「流石に、まあ、行くわよ。そりゃね」
『よかった。命日にまで行かないなんて言われたらハーンさんが可哀想だ』
メリーに関わることばかりで連絡してきたり、こういったことを言うあたり、彼はメリーに気があったんじゃないか、なんて考える。
けれど、死んじゃった今では関係ない。
『それにあたって、今月のどこかで会えないかな? 都合は宇佐見さんに合わせるから』
合わせる、と言っても、一般企業に勤めてる相原さんに平日の自由なんてあるとは思えない。
「休日は暇だから、どこでも構わないけど」
『そっか。それじゃあ近いけど、来週末でもいいかな? 集まる場所とかはまた連絡するよ』
「はいはい、平気」
『うん。それじゃあ、また』
「ええ、また」
相原さんが切る前に通話を切る。
何となしに廊下に首を回すと、傍に栄さんと松本くんが立っていた。
「入らないの?」
私が研究室の戸を開けると、二人は足早に中へ入った。
喉が渇いたので、私は研究室に入らないまま一階に降りて、缶コーヒーを買おうと思ってやめて、ホットのミルクティーを買った。
缶コーヒーより太い寸胴で、少しお得な感じがする。
熱い缶を遊んで冷えた手を温めつつ研究室に戻ると、なんだか中が騒がしかった。
プルタブを起こして、一つ口を付けてから入ると、ワッと跳ねる栄さんと松本くんの声。
「ものの数分で、ずいぶん騒がしくなったこと……」
デスクに戻ってゼミ生の顔を見回す。いきいきとした二人に対して、長野くんは辟易とした顔だった。
「長野くん、何かあった?」
クッキーを齧った彼が溜め息交じりに答える。
「宇佐見先生の電話のお相手に関心があるそうですよ」
「へえ」
栄さんがズイ、と身を乗り出す。
「電話の相手、どなたですか? 結構親しそうでしたよね?」
「しかも今度会うんすよね? 彼氏っすか? 彼氏なんすか?」
ゴシップ好きは時代を問わないらしい。
昔は私もこんなだったのかなーなんて思いつつ、長野くんから一枚クッキーをもらう。
「別に、そういうのじゃないんだけどねえ」
「本当ですかあ?」
ああ、こういう問いを向けられる側はイラッとするわ。
「本当。相原さんは友人伝いの知り合い。その友人関係で連絡くれるだけ」
ちら、と時計を見る。あと三十分ほどで、講義の始まる時間だった。
紅茶を飲んで、右眼を隠す。
頭痛がしそうなくらい、境界がチラチラと煩わしかった。
◆ ◆ ◆
服装の流行の大通りから少し外れた、脇道を行くような服で待ち合わせの場所に行くと、相原さんはもういた。
集合時間は十時、現在九時五十五分。遅刻はない。
「待たせてごめんなさい」
「いいよ、僕も今来たところ」
テンプレート。
別段何を買うとか、そういうのはなくて、とりあえずあってないような段取りなんかを話そうと近場の喫茶店に入った。
朝に何も食べていなかったので、私はサンドイッチとコーヒーもしくは紅茶がセットになったモーニングセットを頼んだ。
相原さんはマンダリンというコーヒーを頼んで、私はダージリンを注文した。
運ばれてきたサンドイッチを小さく齧りながら話をする。と言っても、大して話すようなこともない。
天涯孤独のメリーで、手厚く葬られたわけでもないのだから、云回忌とかをやる人もいない。私たちが勝手にやっているだけだ。
けれど、そんな私も、今回が何回忌にあたるのか、覚えてない。
結局、来る人は来る人で、少し堅苦しいことは私たち二人でやればいいだろうということになった。
サンドイッチの最後の一切れを口に放り込んで、紅茶の残りで流し込む。
銘柄をキチッと出しているわりに、紅茶は大して美味しくなかった。
その後も少し話をしたりしてから店を出る。会計をしようと思ったら、相原さんが全部払ってしまった。
私も支払おうとしたけれど断られたので、ありがたく奢られることにした。安月給にいいことは少ない。
よく晴れた昼だけど、店の外に出ると寒い。ふと、事故の日の空を思い浮かべようとする。思い出せなかった。
時刻はまだ正午も越えない。
相原さんにこれからどうするのか尋ねると、適当に少し歩こうかと提案された。頷いて、並んで歩く。
息はまだ白まないけれど、空気は冷たい。相原さんの頬は少し赤くて、風邪気味なのかと聞いたらそうじゃないと返された。
他愛のない話をしながら歩いて、昼食時に洋食屋に入って、本屋や雑貨やなんかを適当に回って、喫茶店で息をついた。
そこはパン屋を併設した喫茶店で、ケーキの他に色々なパンが店内に並んでいた。
私はモンブランと紅茶を、相原さんはほうれん草とベーコンにキッシュとコーヒーを注文した。
モンブランをつつきながらぼんやり相原さんを見ていると、左眼が突然ズキリと痛んで、彼の背後にグパリと境界が開いた。
「っ!」
フォークを取り落しながら左眼を押さえる。
少し焦った様子で大丈夫かと問われて、ズキズキとした痛みがちょっと落ち着いてから、大丈夫と頷いた。
「やっぱり、痛むものなの?」
「他の例を知らないから、なんとも」
多分、相原さんは別の事を思い浮かべた。私が言わんとしたのとは、別の事を。彼は私の眼を知らないから。
元々から、変な眼を二つも持っていたわけじゃない。
この境界を視る瞳――かつてメリーが持っていた眼が私に宿ったのは、半分が事故。
もう半分は、よくわからないメリーの遺志。
私は事故で、本来の左眼を重度に損傷した。
視力回復には角膜移植が必要と告げられ、それを承諾した私の左目には、どんな偶然か、メリーの角膜がやってきた。
メリーがいつ、アイバンクに角膜を提供したのかはわからない。その理由も。
移植にあたっての入院を終えてから、いくら探しても、彼女の遺志がわかるようなものは見つからなかった。
結局のところ、私は私のものとは違う幻想の瞳を得てしまって、それは私を幻想から逃れさせず、むしろよりそれに深く沈ませた。
メリーが死んで以来、幻想を追う気のなかった私はそこから必死に目を逸らして、それまで以上に研究に身を費やして。
それでもその手を振りほどけないまま、私は今までを過ごしてきた。
左眼がズクン、と疼く。思い出して、意識してしまうといつもこうだ。
相原さんはこの眼を知らない。きっと、移植した角膜が馴染んでないとか、そんな風に思っているのだろう。
実の所、相性は抜群にいいらしかった。
けれど、いい。
それでいい。そうでいて。
貴方は私を現実に引き留めてくれる、数少ない一人なのだから。
大分時間をかけてモンブランを食べきって、時間も遅いのでそろそろ帰ろうかという話になった。
私はいいよ、と言ったのだけど、危ないからと相原さんがアパートまで送ってくれた。
学生時代から場所を変えていない、私のアパートに。
また今度会えるかな、と相原さんが言った。時間がある時ならいつでも、と答えた。
また連絡するよ、と言って、彼は手を振って帰っていった。
姿が見えなくなるまでそこにいて、私は学生時代から変わらない、一〇一号室に入る。
相変わらず、雑然とした私の部屋。それでも昔よりは帰っているから、幾分かはマシになっているはずだ。
このアパート、この建物。
今の所有者は私だ。そういうことになっているらしい。
このアパートには学生時代から私と、私が一年生の時に四年生だった人が一人入居していただけで、最後には私一人だけだった。
そんなわけで大家さんとはわりと親しかったのだけれど、私が今の職に就いたくらいの頃になくなってしまった。
親類縁者に先立たれてしまっていた大家さんが、私にこの土地の権利やら建物やらをくれた、という話らしい。
権利云々に関しては詳しくないけど、何も言われてはいないし大丈夫だろう。大層なものを遺してくれて、とは、少し思ったけど。
現在に到る道程はともかくとして、アパート全体を自由に使えるのは便利だ。
アナログ系変人の私はよく本を買う。データではなく、本。
今は一〇一号室を自室にして、一〇二から一〇四を書庫代わりにして、分類ごとの本を保管している、
二階はすべて空き部屋。電気もガスも止めてある。
ここにいると、隣室の住人に気を遣うこともなくて、楽だ。
冷蔵庫のミネラルウォーターに口を付け、そのペットボトルを持ったまま、万年床に腰を下ろす。
入ったときには、篭っているせいで少し暖かく感じた部屋の空気だけれど、じっとしていると少し寒かった。
横になる。月も星もない。だから右眼は機能しない。
けれど左眼はひどく盛んに、空間に開く境界を映す。
「……二人で一つに秘封倶楽部、か」
言い出したのはメリーだ。あれはいつだったろう、確か、私もメリーも一年生で、夏休みの終わり頃だった気がする。
メリーが忙しくて一緒に来れなくて、私が一人で探索の下見に行った時、少し無茶して、一日か二日、入院する羽目になった時。
……うん、確か、そうだ。
メリーはすごい顔で病室に駆け込んできて、私が一人で先走ったことを怒って。
もうじき用事も終わるから、その後に一緒に行きましょうって言ってた彼女の言葉を無視していた私は、ただ謝るしかなくて。
そうしてボロボロ泣いた彼女は、
『私たちは……二人で一つの秘封倶楽部でしょう?』
って、そう言って。
その時の私は、うん、と一つ頷いて。
けれど今の私は、溜め息一つ、首を振って。
「……そういう意味じゃ、ないだろうにね」
静かに、両目を閉じた。
※ ※ ※
メリーの消えた十二月。
それから四か月も経てば、大学も新年度を迎える。
瑞々しい新入生たちが大学デビューを期待してやってくる入学式の朝、私は岡崎教授の研究室で目を覚ました。
欠伸を手で隠しながらソファの上の身体を起こし、備え付けの冷蔵庫のミネラルウォーターに口を付ける。
建物の外の騒がしさを若干鬱陶しく思いながら端末を起動。
実験や種々論文をまとめたデータを見ながら、どうやって論文に仕立ててやろうかを考える。
テーブルの上のイチゴチョコを口に放り込んで、箇条書きを雑把にまとめたテキストデータを開いた。
「お、宇佐見。早いじゃないか」
研究室に入ってきたちゆりさんの言葉に頷いて、もう一つ欠伸をする。
何か飲むかと聞かれたので、ブラックコーヒーをお願いした。
「どうせ今日も、ここで夜を明かしたんでしょう?」
続いて入ってきた教授にも一つ頷いて、鞄から取り出したノートにガリガリと系統樹的なものを書き込んでいく。
そうしていくうちに頭の中で考えがまとまってきて、そのタイミングでコーヒーが出された。
「ありがとうございます」
一口啜ると、苦味に舌が縮こまった。
カップを置いて一つ息をつくと、不意にガクリと首が落ちた。ノートの上のペンがコロコロ転がって床に落ちる。
おかしい、カフェインは眠気を誘発するものだっけ?
「疲れてるのよ、宇佐見さん」
教授がコンビニの袋を差し出してきた。受け取ると、中身はサンドイッチとメンチカツパンだった。
「一週間くらい籠りきりだから、コーヒーが睡眠薬になるのよ」
「もう少しでまとまるので……」
レタスとハムとチーズのサンドイッチを齧る。眠気の所為で思考は茫洋としてきているけれど、幸い論文の形は崩れていない。
目ばかり冴えてる。ある種のトリップ状態なのかもしれない。
教授が溜め息をつく。
「別に講義の課題でもないでしょうに、熱心ねえ」
「です、かね?」
もそもそとサンドイッチを食べつつタッチパネルと叩く。
新規のテキストファイルに明朝体がパタパタと並んでいく。
別のアプリケーションを開いて、ノートの中の系統樹的な図を作成する。
サンドイッチの一切れを食べ終えたとき、教授はいなくなっていた。
対面のソファに座ったちゆりさんがうんざりした目でこっちを見ている。
「……どうしました?」
「いや、集中力あるなと」
言われて何気なく画面の右下を見ると、眼を醒ましてから三時間経っていた。
サンドイッチはまだ一切れ残っていて、コーヒーも半分以上残っている。
三時間でサンドイッチ一切れしか食べてなかったんだとか、少し見当違いな驚きを覚えた。
「岡崎教授は?」
「出かけたぜ、二時間ちょい前にな」
「あー……」
気付かなかった。
もう一つの、卵サンドイッチに手を伸ばす。コーヒーは当然ながら、もう冷めていた。
一息に飲み干してしまって、ちゆりさんにお代わりを頼む。よくやるぜ、なんて言いながら、彼女はカップを持って立ち上がった。
今度は少し落ち着いてサンドイッチを食べて、その合間に途中まで書いた論文を見返す。
論の大筋に乱れはない。文章の洗練も時間をかければできるのだろうけれど、論文の主眼はそこじゃない。後回し。
サンドイッチを食べ終わったタイミングで、ちゆりさんがコーヒーを持ってきてくれた。
早速一口飲んで、続けてもう一口啜る。
ちゆりさんが、起動したままの端末を覗いてきた。
「お、なかなかよく書けてそうだな。研究云々は当然専門家にゃ及んでないが、学生の身分なら上々だぜ」
字数カウンターは一万云千字とかいう数字を表示しているけれど、ちゆりさんはもう全部読んで、内容も把握したというのだろうか。
忘れかけてしまうけれど、ちゆりさんは岡崎教授の助手で、また碩学と呼ばれるに相応しい一人なのだと再認する。
サンドイッチのゴミを捨てて、メンチカツパンの袋を開ける。
ちゆりさんに箇条書きのテキストとノートを見せると、幾らかのダメ出しが入った。
幸い、研究に関してじゃなくて論のまとめ方だったので、一からやり直しとかにはならなそうだった。
キーンコーンカーンコーンとチャイムが鳴る。時計を見たら、正午だった。
メンチカツパンを昼食にしつつ、手直しを交えながら論文を進める。
そのうちにちゆりさんも何かしらの用事で出ていった。
入学式の日に研究室まで来るような奇特な人も少なくて、当分の間、室内には私一人だった。
パンもコーヒーも終わってしまって、口寂しさを紛らわすのに、ミネラルウォーターとチョコばかり口に入れていた。
どこからかオルゴールのような音楽が聞こえてくる。午後五時を告げる赤とんぼ。
一段落つけてミネラルウォーターを飲み干してしまうと、岡崎教授が研究室に戻ってきた。
「なに、まだやってたの?」
教授はおかしなものでも見るような目で聞いてきた。
はい、と頷いて、端末の画面をスライドさせる。ダメ出しされたところも直して、そこそこにはまとめられただろう。
ページの冒頭を表示した状態で、端末を教授に差し出した。
「一応、この間話した研究をレポート化したんですけど」
「へえ」
変な声を出しながら教授が端末を受け取り、対面に座る。眠気を堪えながらちらりと見た教授の眼は、怖いほど鋭い。
できるだけ見ないようにしながら、私は少し態度悪くソファにもたれた。流石に、身体がダルい。
「……へえ」
スライド以外の何かの操作をしたあと、教授が端末を返してきた。
私が受け取ると、教授は自分の端末を取り出した。
緑色のライトがチカチカ光っているのを見るに、私のレポートをメールで送ったんだろう。
「宇佐見さんの論文は毎回、着眼点が面白いわねえ」
教授の表情が少し緩くなっている気がした。
でも私も疲れていたので、はあとかへえとか、いまいち気の入ってない返事をしてしまった。
教授は別に気にしてないようだったけれど。
「とりあえず、今日明日くらいでしっかり読んでおくわ。宇佐見さんは帰ってベッドで寝るように」
「……私の部屋、ベッドないんですけど」
「それなら布団で横になって寝なさい。ソファで毛布はしばらくお休み」
そう言い渡されたタイミングでちゆりさんが入ってきた。
教授の命令により研究室を追い出された私は、ちゆりさんの車でアパートまで連行されることになった。
連行と言う表現は正直、言い得て妙だと思っていた。
私をアパートまで送って、缶コーヒーを放ってきて、ゆっくり休みなとか言って、ちゆりさんは来た道を戻っていった。
実に一週間ぶりの我がアパートを見上げつつ溜め息をついて、ポケットから取り出した鍵で一〇一号室のドアを開けた。
外の空気はまだ少し肌寒いのに、閉め切ったままだった室内の空気はむう、と籠っている。
内心的にはそんなに弾んだ気分じゃないので、それがひどく鬱陶しかった。
冷蔵庫のコンセントは引っこ抜いて久しい。保存食の買い込みも特にない。
食料なんてない台所をスルーして、万年床になった布団の上に座り込む。缶コーヒーを開けて、ぼんやりと部屋の中を見回した。
背の高い本棚と、そこに詰め込まれた本たち。入りきらずに床に積まれた本、紙。
一週間前には無事だった気がしたのだけれど、幾らかの山は崩壊してしまっていた。
「生活感ないなあ……」
生活してないんだからまあ、当然なんだけど。
メリーが生きていた時は、まだマシだったと思うけど、堕落というのかなんというのか。
感傷に浸るつもりもないので、缶コーヒーをさっさと飲み干して、シャワーを浴びることにした。
研究室で泊まり込んでばかりだから、しっかりとシャワーを浴びるのは久々だった。図々しい身体と健康に少し感謝する。
シャワーを浴びて、洋服箪笥から出した下着と寝巻を着て、髪を乾かしながら布団に座る。
眠気は存外あっさりとやってきた。隠すこともなく欠伸をして、布団に横になって、低くて固い枕に頭を置く。
掛け布団を被ると、意識はふーっ、と暗くなった。
夢は見ないで済みそうだった。
カーテンから漏れ出た陽光に一度目を覚まして、けれど眠かったからまた眠って。
静かな時間にまた目が覚めて、けれどまたもう一度寝て。
陽射しの眩しさに起こされて、ようやく活動することにした。
携帯の日付を見ると、丸一日を睡眠に費やしていたことを知った。
時間は、午前十時四十二分十一秒。
日付と時間を確認したついでに、来ていた三通のメールを確認した。
一通目は教授。時間は今日の午前八時三十二分。
『論文、読みました。相変わらず面白いテーマを研究するわね。
色々と言いたいこともあるので、ゆっくり休んでから研究室に来るように』
二通目はちゆりさん。時間は今日の午前八時四十分。
『論文お疲れさん。私も軽く読んだけど、楽しい研究するよな、宇佐見は。
ご主人様もなかなか機嫌がいいぜ、もしかしたら昼飯くらいは奢ってくれるかもしれん。美味いもんねだる準備しときな。
P.S. そろそろ単位申請の時期だ。四年生だからそんなにみっちり取る必要もないが、申請は忘れないようにな』
三通目は……珍しい、相原さんだった。
『そちらの学部の友人から、宇佐見さんが研究に没入していると聞きました。
熱心なのはいいことで、僕も応援していますが、どうか身体には気を付けてください』
どれにも返信せずに、私は端末を放り出した。
シャワーを浴びて、着替えをして、軽く化粧をしてから部屋を出る。
天気が良かった。陽射しが眩しい。
研修室に行って教授からお褒めの言葉や諸々をもらって、お昼にラーメンを奢ってもらって、単位申請の準備を整えて。
私は論文の研究を更に進めるための実験に没頭した。
万全の研究や実験ができていたわけじゃない。返信されてきたレポートには赤と青のチェックがビッシリ入っていた。
メリーが死んで以降からそうだったけれど、私の生活域は必然的に研究室を中心としたものになっていった。
部屋に帰るのは一週間ないし二週間に一度くらい。一月近く戻らないこともあった。
友人付き合いも減っていって、まともに会話する相手は教授とちゆりさんの他には数人くらいしか残らなかった。
耳に入る『変人』の揶揄を聞き流す。
心の中に余裕はなかった。ひたすらに研究に没頭し、それ以外を顧みない。
ふと、それだけメリーという存在が大きかったのだな、なんて思った。
眠らずに、何日目か。世間が少し五月蠅くなってくる、夏。
対面のソファでちゆりさんが丸まっている。
教授か、ちゆりさんか、私が泊まり込むようになってから、二人のどちらかが研究室に泊まるようになっていた。
私を心配してのことなんだろう。
ブゥン、と羽音のような音を立てる端末をそのままに、欠伸を噛み殺して研究室を出る。
コーヒーが飲みたかったけれど、ちゆりさんを起こすのは憚られたので、一階の自販機に向かった。
窓から、月と星が見える。
「……午前二時十三分二十二秒。酉京都大学」
少し、それもぼやけて見えた。
虚ろに稼働を続ける自販機のボタンに、赤い光が灯っている。
「……えー」
どうしたことだろう。缶コーヒーが、ホットもアイスも軒並み売り切れなんて、そうそう見られる光景じゃない。
仕方なしに、冷えたミルクティーを買った。
前までは同じ値で多く飲めてお得、とか思っていたけれど、結局は何が飲みたいかというのが大事なのだと最近は思う。
軽く缶を振りつつ、ぼやけた頭で欠伸して、時折ふらふらとして壁にぶつかったりしながら研究室に戻る。
こんなにも疲れているのか。末期かもしれない、それでも休もうとは思わないのは。
研究室に入る。ちゆりさんは寝返りを打ったか、ソファの上でテーブルに背を向けて寝ている。
暗闇の中、プルタブを起こしつつあるく。長らくの放置で端末の画面も暗くなっていた。
カーテンも閉め切られた室内に明かりはない。
紅茶の香りが、ふわりと。
「ぐえ」
膝が何かにぶつかる。多分テーブルだ。
普段なら痛がるだけだっただろうけど、何もなしにふらつくくらいの身体だったせいか、身体が傾いだ。
スローモーション? まさか。感覚は変わらず、私の身体が、倒れ――
――ブヅン。
「あ゛っ!?」
ひだり、めに、なにか、が――。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っっっ!!」
激痛、左目、異物感、激痛、絶叫、激痛、液体、激痛、激痛――!
「あ゛、あ゛ああ、あが、が、あ゛、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛――っっ!!!」
「っ!? 宇佐見! どした大丈夫か!?」
研究室に明かり、右目が涙に滲んだ天井を。
端に映り込む、およそ目からは生えない異物。
痛い、痛い、痛い――!
左の、わたしの、ひだりめが――
――プツン。
――視界が狭くなった気がする。
気付けば、私は病院のベッドの上。
そばにはちゆりさんがいて、少し離れた所からは岡崎教授の声が聞こえた。
起きたか、調子はどうだ? とちゆりさんが聞いてきて、声を出そうとしたけれど、うまく出なかった。
ちゆりさんの声で私が起きたのに気付いたか、教授とあと二人、ベッドに近付いてきた。
その二人は、どういうわけかお父さんとお母さんだった。
年末も春休みもゴールデンウィークも帰らなかったから、顔を見たのは久しぶりだった。
二人は泣いていた。
教授は複雑な顔をして病室を出ていった。開く感覚のない左目に鈍痛があって、左手を軽く添えると、固い布の感触があった。
お母さんがなにか言っていた。
けれど、嗚咽混じりなのと、私の意識が茫漠としているのとで、何を言っているのかよくわからなかった。
教授が白衣の男の人と一緒に戻ってきた。医師なのだろう、「岡谷」という名札がついていた。
意識に残らない質問にぼんやり答えてから、岡谷医師が色々と説明してくれた。
病院に運び込まれたのは二日前。教授が両親に連絡して、到着は今日の朝。現在時刻、午前十一時三分。
私の左目。診断は角膜穿孔外傷。角膜に外的要因による穴が開いたのだという。
著しい視力の低下、視力を取り戻すには角膜移植手術が必要。
角膜穿孔外傷の要因は、研究室に置いていた私物。とりとめのないメモ書きを刺し留める状差しだった。
ぐっさりと奥まで突き刺さっていたら命すら危うかったらしいけれど、咄嗟に身体を捻るなりして、そうはならなかったらしい。
ノーマルな視力を失いはしたけど、そうならなくてよかった。心底ほっとした。
私はまだ、死にたくない。
角膜移植という話が出た時、私はお父さんとお母さんを見ていた。
とりあえずお金だけが心配で、それさえなんとかなるなら、私は迷わず手術を頼むつもりだった。
お父さんが頷いて、お金のことは心配するなと言った。
本当に大丈夫? 借金とか嫌よ?
と言うと、お父さんはもう一度頷いた。
お金のかかる趣味を持たず、家族のためにくらいしかお金を使わない父だと、思い出した。
両親は次の日の朝に東京へ帰った。病室での付き添いは教授かちゆりさん。
お世話になってばかりだな、とか口にしたら、ご主人様のお気に入りだからな、とちゆりさんは笑った。
相原さんがお見舞いに来てくれたこともあった。
少し重たい表情の彼に、そのうち手術があるのだと言うと、心配そうな顔で、成功を願ってますと言ってきた。
お土産の焼き菓子は、どこか懐かしい味だった。マスターは元気かな、と少し思う。
手術の前日の付き添いは岡崎教授だった。暇を持て余して徒然とまとめた研究案を見せたりして過ごしていた。
教授はいつも通りの少し怖い瞳でそれを見て、私はそっと、左目を覆う包帯に手をやった。固い。
迷わず手術を選んだわね、と教授が言った。頷くと、どうしてと問われた。
外は気付けば夜だった。窓を開けて、月と星を見る。
午後八時二十八分十六秒。酉京都総合病院。
呟いて、教授を見て、ちょっと笑う。
何も見えない、普通の瞳にもちょっと、憧れがありまして。
手術終了。体感時間はあっという間。
包帯が外れるまではもう少しかかる。相変わらず狭い視界のまま、私は研究に必要な論文を読んでいる。
病室には教授もちゆりさんもいない。一人。
字面だけをつるつると撫でながら、私は私の右眼を考えた。
星を見れば時間がわかり、月を見れば場所がわかる。私の瞳。おかしな瞳。
これは私の幻想だ。私だけが持つ神秘のものだ。
次いで、左眼を考える。
星を見ても時はわからず、月を見ても場所はわからない。誰かの瞳。普通の瞳。
これは私の現実だ。大多数が持つ普通のものだ。
私が持っていた幻想二つ。その一つが現実に挿げ替えられる。
陰陽太極図、その陰中の陽、陽中の陰のような具合で、ただ一つ、私の右眼が幻想である。
そんな今が、私は嫌だ。
呑まれたい。右眼の幻想さえ捨て去って、すべて現実に呑まれたい。
幻想はもう、物語の中にだけ委ねて、普遍的な現実に浸っていたい。
だから、私は幻想を追うことをやめた。
メリーといた時はいつも着ていた、白のブラウスに黒のスカートという服装をやめて、トレードマークの帽子も箱にしまった。
ひたすら研究に没頭して、できる限りその他を見ないようにしてきた。
そして今。一つの幻想を失って、この一時、幻想に目を向けなければならなくなった今、わかったこと。
私にとっての幻想は、つまりメリーだった。境界も、神隠しも、夢の世界の旅も違う。
私にとって、すべての幻想というのはメリーであって。
その彼女が死んでしまった今、いくら時間や場所が見えても、夢の中でどんな風景を見たとしても、私の幻想はすべて潰えて。
だから私は、現実との迎合を望む。
幻想が潰えてしまった今、それを追う道を歩いていても、先には暗闇しかないのだから。
暗闇を歩き続けるなんて強さは、私にはない。
包帯が外されるこの日は、世間では休日だった。
私はずっと休日だったから、あまり感じることはなかったけれど。
休日なので病室には二人とも来ていた。大学での保護者みたいな感じで、何から何までお世話になって、感謝しきれないくらい。
何か、親に感謝の意を示す休日とかなかったっけ。勤労感謝? 敬老の日とか言ったら怒られるかな。
いつか機会があれば、何かお礼をしよう。
そう思いつつ、私は目を閉じたまま、包帯が解かれるのを待った。
拘束感が薄れていって、少し違和感さえ覚えてしまう。
やがて、完全な解放感。
目を開く。
教授の赤、ちゆりさんの黄色、岡谷医師の白、病室の風景が、それまでの視界よりも広がって――
「――――」
――筋肉の硬直を感じる。主に表情筋、けれど全身。
「こ、れ、は……?」
この、グパリと口を開くものは。
「これ、まさ、か……」
この、不気味な紫色の裂け目は。
「メ、リー……?」
そうして。
退院後に真っ先にすることを、私は今、この時決めた。
※ ※ ※
昼食のベーグルサンドを齧りつつ、栄さんや松本くんと話をしていると、相原さんからメールが届いた。
今週末に会えないかという内容だった。
スケジュールで予定を確認しつつ、メリー関係でも話すこと別にないよなあ、なんて考える。まあいいけど。
OKの返事をすると、簡単にいつどこでってことが返ってきて、細かいことはまた後で書かれていた。
丁寧だなあ、と思う。私とは大違いだ。
ああ、左の視界が歪む。今日も、元気だ。
時計を見る。昼休みも終わりに近い。
「さ、もうじき講義が始まるわよ」
「げ、ヤッベ」
松本くんは慌てて飛び出していくけれど、栄さんはそれを見送るだけだった。
「栄さんは講義ないの?」
「今日はあと五限だけです」
「あら、そう」
少し残念。正直、一人になりたい気分だった。
日曜日。
前より寒くなったな、と思いつつ待ち合わせの場所に行くと、缶コーヒーを飲みながら相原さんがベンチに座っていた。
声をかけると、別の缶コーヒーを渡してくれた。前に好みを言ったからか、最近はコーヒーをくれる。
なんとなくテンプレートが嫌だったので、待たせてごめんなさいとは言わない。
今日の集合はそんなに早い時間じゃない。もうすぐ昼だった。
とりあえずランチでも行こうかと、少しずつ混み始める店に入る。
それとなくレトロな内装の、おしゃれな洋食屋だった。けれど気負うほどのそれではなくて、少し落ち着いた。
私はシーフードがふんだんに入ったパスタを、相原さんはハンバーグランチを頼んで、それとコーヒーを二つ頼んだ。
セットで付いてくるらしいサラダを食べながら、少し話をする。弾んでいるような、そうでもないような、曖昧な感じ。
注文した料理が来てからも、そんな感じの会話をした。
何となく、今日の相原さんはぎこちなかった。話の振り方とか、視線とか。つられるみたいに、私も少し調子ではなかったと思う。
コーヒーは美味しかった。会計は今回も相原さんが払ってしまって、少し申し訳なさがあった。
なので、どこか喫茶店にでも入ったなら、そこの支払いは私がしようと思った。
その後、小さな雑貨屋に行ったり、映画館に行ったり、のんびりと喫茶店に入ったりした。
なんかデートみたいね、とか、感じたことをそのまま言うと、相原さんははにかんだ笑顔で、そうだねと言った。
喫茶店での紅茶とケーキの代金は私が払った。
日が沈んだ頃、景色のいい高台に来た。
京都の夜景は星のようで、けれど時間は知れないから、ただ純粋に綺麗だな、と思えた。
並んで缶コーヒーを飲む。
相原さんの頬は少し赤くて、風邪気味かと聞いたらそうじゃないと返された。
「宇佐見さん」
答えて、私を真っ直ぐに見た。
「うん?」
コーヒーに口を付けつつ、顔だけを彼に向ける。
少し真剣な雰囲気になったように思えたけれど、私の行動はあまり変わらなかった。
何度か息を呼吸させて、私が缶コーヒーから口を放した、そのタイミングで。
「――――」
「……え?」
吃驚して、何と言われたかよくわからなかった。
大きく目を開いて呆然としている私に、相原さんはもう一度言ってくる。
「好きです」
と。
これは、何? 要するに、これは告白で、今日のあれはみたいとかじゃなく本当にデートで、相原さんが、私のことを、好き?
缶が手からストンと落ちて、カァンと高い音を立てた。心臓がバクバクと鳴って、少し息が苦しくなる。
相原さんは真剣な眼差しを私に向けてきている。止まりかけた呼吸を意識しているうちに、あはは、なんて笑いが漏れた。
「は、はは、あはは……あは、は……その……ほ、本気?」
うん、と、彼は一つ、頷いた。
「……正直に言うと、一目惚れだった。不謹慎を承知で言えば……あの、病院から」
何年前の話だろう。それで、告白が今?
「……ハーンさんに、申し訳ない気がして」
――メリー。
「……あはっ。本当に、ちょっとメリーに、申し訳ないなあ」
相原さんが私の反応を窺っている。
少し頬を緩ませて、私は相原さんを真っ直ぐに見やった。
「……えっと」
あまり目につかないように、シャツの裾を少しいじる。
「……この場合、OKの返事って、なんて言えばいいのかな?」
◆ ◆ ◆
経験は、あった。
高校時代、まだ東京にいた頃に、一度か二度。
そんなにいいものだった記憶はないし、そこに愛情があったかさえ定かじゃないけれど、とりあえず、処女ではなかった。
経験はあったけれど、流石に何年振りだろう、数えるのも億劫なくらいだから、もう未経験と言って構わなかったと思う。
だから、余韻は次の朝まで残って、私はボーっとした頭で研究室のソファに横になっていた。
行為の最中の激しい熱ではなくて、三十七度五分くらいの熱でぼんやりしてしまう感じ。
風邪かと思って熱も測ったけれど、平熱より少し下くらいだった。
キスの記憶も朧に蘇る。
ゆっくり近づいてくる相原さんの顔に、自分の頬が熱くなって、心臓の鼓動が苦しいくらい激しくなるのがわかった。
あんな緊張感。教授に論文を提出した時にも、この大学への採用面接に行った時にもなかった。
……メリーの事故を聞いた時には、少し違う緊張を覚えはしたけれど。
メリー。私の幻想。かつての無二の友人。
口付けは、彼女ともした記憶がある。
私はスキンシップと思っていたから、特に緊張はなかった。
メリーは、私との心中を願い、角膜という形で私と一つになった彼女は、そうでなかったのかもしれない。
思えば一度、メリーから愛を向けられて、それに応えようとしたこともあった気がする。
二人で一つの秘封倶楽部。以心伝心。一心同体。
今ならわかる。私は異端になりたかったんだ。
世間にとって異質であることが、幻想に手を伸ばすための資格である気がして。
マエリベリー・ハーンだけの宇佐見蓮子であることが、秘封倶楽部の資格であった気がして。
ああ、メリー。かつて、私の幻想だった少女。
私はもう、貴女を求めない。貴女に焦がれない。
遅刻しがちで、貴女とふたりぼっちであった、秘封倶楽部の宇佐見蓮子じゃなくて。
五分前に行動して、相原さんと寄り合っていく、酉京都大学の宇佐見准教授として。
私は、世間に紛れて生きる。人並みに働いて、人並みに恋して、人並みに命を育んで、人並みに死ぬ。
貴女の瞳が私にあるから、私は貴女を忘れないけど。
そんな記憶も笑い話として、そっと片隅に置いておく。
私にとっての幻想は、もうそれだけで十分だから。
チャイムが鳴る。私の講義は三限からだ。
研究室のドアが開いて、栄さんが入ってくる。
「おはようござ……って、先生またそんなだらしない格好して」
「おはよう、栄さん」
そういえば、最近はスカートを穿いてないな、なんて思った。
ミニスカートは……年齢的にも好みとしてもあれだけれど。
ロングスカートとか穿いてみせたら、相原さんはどんな反応をくれるだろうか。
可愛い、とか言われる年齢ではないけれど、似合ってるくらいは、言ってくれるかな。
「……宇佐見先生」
「……ん?」
気付いたら、栄さんの顔が近かった。別に胸が高鳴ったりはしない。うん、大丈夫。レズビアンの気とかは存在していない。
ムムム、と面白く眉根を寄せた栄さんが、私の耳元で膝を折って、誰もいないのにそっと、内緒話のように囁いてきた。
「先生、誰にも言わないのでちょっと、聞きたいんですけど」
「うん」
「……彼氏とか、できました?」
「へ?」
変な声が出て、少し頬の熱が増したのを感じた。
気付けば栄さんはニヤッと笑っていて、やられた、と思った。
「できたんですね?」
黙秘は無理だな、と確信してしまったので、
「……言わないでね」
と念を押して、頷いた。
ニパア、と広がった笑顔に、箝口令は失敗だな、と他人事のように思った。
古来から、人の口に戸は立てられぬ、なんて言われるように、噂の広がりを止めることなんてできない。
一週間くらいの内に、変人宇佐見に彼氏ができたという噂は、尾ひれ背ひれをくっつけてキャンパス中に知れ渡った。
三時間くらいは噂の収束を図ったけれど、四限の講義が終わって研究室にいる時、ドアを蹴り開けたちゆりさんが
「おー宇佐見! 彼氏ができたんだって?」
なんて、大きな声で言ってきたので、もう諦めた。
それに、そんな噂が流れているのは、むず痒いけれど、少し嬉しかった。
相原さんはわりと頻繁に――それでもきっと、若い恋人たちよりは少ないだろうけれど――連絡をくれる。
私の端末がチカチカ光ったり、私が電話に出たりすると、相手は彼氏かどんな内容かと栄さんたちが聞いてくるのが厄介だった。
会うことも、それなりに。平日の昼間はお互い仕事があったりするけれど、夜には普通に会うことができる。
相原さんも京都に一人暮らしで、メリーと互いの部屋を行ったり来たりしていたみたいに、相原さんの家に訪ねることもあった。
相原さんは料理が上手くて、美味しいものを何度かご馳走してもらっていた。
私もお返しに何か作ろうと思ったけど、まともに料理をしたのはいつ振りだろうなんてくらいで、少し失敗したりした。
相原さんも、電子書籍版だけれど色々な文学作品を読んだりしていて、共通して読んだ作品について話したりもした。
いつか長野くんにも聞かれた、『草枕』の冒頭が何を言いたいのか、とか。
メリーが死んでから、いや、秘封倶楽部が解散してから、私もきっと、寂しかったんだろうな、と思う。
付き合い出して、私は結構相原さんに甘えた。
用事もなく家を訪ねて、長らく居座って。
脈絡なく手を握ったり、キスを求めたり。……その、先も。
きっと私は寂しくて、それも研究に沈もうとした理由なんだろうと思う。
胸が苦しくならないように。
ひとりぼっちを意識しないでいられるように。
メリー。メリー。私と似ていた、ひとりぼっちが嫌いな貴女。
私は、寄り添う相手も見つけました。
世界に絶望していた貴女は、死んでしまったけれど。
私と別れたそのあとに、寄り添う相手を見つけましたか?
◆ ◆ ◆
十二月。メリーの命日。
メリーの墓前。相原さんと二人。
手を合わせて、目を閉じて。私が目を開けたとき、相原さんはまだそうしていた。
墓石の周囲に、境界が口を開けている。鈍い空、もっと暗ければさぞ、それらは不気味であっただろう。
どれだけ闇が深くても、隙間がそれに消えることはない。
相原さんが頭を上げたので、黙ったまま促して、私たちは霊園の外に出た。
駐車してある相原さんの車の助手席に乗って、帰る。
「……相原さん」
信号待ちの時に声をかける。
「なに?」
「その……」
信号が青に変わる。
「……今日の夜、私の家に来ない?」
相原さんはすんなり了承してくれた。
多分、メリー関係で寂しくなったと思われたのだろう。半分くらい正解、でも、少し外れ。
相原さんが家に来て、ご飯を食べて、少し話をして、私のほうから、してほしいとキスをした。
彼は少し迷っていたけれど、もう一度お願いしたら、うん、と頷いてくれた。
これまで何回か、こうしてセックスもしたけれど、その中で一番、私は貪欲に求めたと思う。
そもそも「しよう」って言ったのは私で、そういうつもりで「したい」と言ったのだから、当然なのだけれど。
身体に熱が残っていて、この季節なのに、裸でいても平気なくらいだった。
火照った身体の熱。相原さんは私を抱き締めて眠っていた。
息が白む。このまま寝たら風邪をひいてしまうかもしれない。
腕だけで掛け布団と毛布を引き寄せて、雑にだけれど、相原さんと私にかけた。小さく、彼がもぞりと動く。
視界の端で、境界が蠢いていた。
それも、もういい。
これは、決別だ。
彼の胸に抱かれるようにして、私は目を閉じる。
寒い空気の中の、相原さんの熱と、鼓動がとても心地よくて、それからすぐに、眠りに落ちた。
※ ※ ※
顔が浮かぶ。メリーの顔。
メリーの顔を見るのは久しぶりだった。写真はすべて段ボールに詰めたし、夢に顔が出てくることもなかった。
何か、口を動かしていた。語りかけるように。
蓮子、という声。なあに、と返す。
『貴女と私は、二人で一つの――』
二人で、一つの……?
『だから――』
だから……何?
――一人で出張って、ひどい怪我をした時だ。
ひどい、とはいっても一日二日の入院で済む程度のもので、私個人としては「あちゃ、しくじった」くらいの気分だった。
病院のベッドでのんびりするのも悪くないかな、とも思ってたけれど、病室に来たメリーは、ひどく怒っていて。
「なに、勝手にそんな怪我してるのよ!?」
「い、いや、大した怪我じゃないわよ? すぐ退院だし、痕が残るとかでもないし」
「そういう問題じゃないわよ!」
「メ、メリー、声大きい……」
幸い、周りに人はいなかったけれど、聞き付けた看護師さんが駆けつけてきそうなくらいの声で、少し肝を冷やす。
メリーの瞳は、今にも泣きそうなくらい、潤んでいた。
「……メリー」
「一人で、どこかに行かないでよ……」
ひどい涙声で、頬に雫を伝わせて、私の手を、震える両手で掴んできて。
「私たち……二人で一つの、秘封倶楽部でしょう?」
どこか、自分で言ったその言葉に縋るような風を漂わせながら、震えた声で、そう言って。
「……うん」
「危ない所へ行くのも、綺麗な所へ行くのも、怖い所に行くのも、楽しい所に行くのも。
私たち、二人で、一緒に……そうでしょう、ねえ、蓮子?」
「……うん、ごめんね、メリー」
悲しみの籠ったその言葉に、私は本当に、メリーに申し訳なく思った。本当に。
それから、私たちの関係は密になって、深くなったと思う。
今までよりも、一緒に行動して。
今までよりも、二人でいる時間が長くなって。
今までよりも、肉体的に求め合って。
今までよりも、精神的に求め合って。
一つの閉ざされた円の中、白と黒が寄り添った様。
陰陽太極図のような、それ以降の秘封倶楽部は、そんな様相で動いていた。
その時、それを疑問には思わなかった。今も、あまり思っていない。
けれど、今ならわかる気がする。
メリーが心中を望んだ理由。メリーが、独りで死ぬことを望まなかった理由。
彼女が、世界に絶望してしまった理由は、私には知ることができないけれど。
そう、貴女は、いえ、私たちは――
「――ひとりぼっちが、嫌いだったわよね」
頷くように、夢が蠢く。
『だから――』
「だから……何?」
囁くような、声。
『――行きましょう、蓮子』
それは、音だったかもしれない。
◆ ◆ ◆
目が覚めた。部屋は薄暗い。
今は何時だろうかと端末を開くと、午前五時十五分二十八秒だった。普段から考えると、ありえないくらい早い起床。
なんだか、妙な臭いがした。鼻にこびりつく、鉄錆のような臭い。発生源というか、臭いの元は近いように思う。
重たく感じる身体、腕だけを伸ばして電灯のリモコンを掴み、電気を点けた。
「――――」
眩しい。眩しくて、目が眩む。
こんなにも、眩しい、紅い色――。
「…………ぁ」
部屋が紅い。ペンキでもぶちまけたように。眼球に紅のフィルターでも貼り付けたように。
壁が、床が、布団が、本が、服が、私が。
そうして、彼が。
「あいはら、さん」
相原さんと思しき身体が、だくだくと血を流した肉体が。
首のない、真っ赤な死体が、そこにあって。
「ぁ…………ぁ……」
首なしの死体。部屋の中に、あるべき首がない。食い千切られたような首の断面が、何か冗談みたいに覗いている。
そうして、そのすぐ上で
くぱりと、ぐぱりと口を開いた、大きな隙間が、私を見ていた。
「ああ――」
ああ、そうか。そういうことか。
「そっか……そうね」
そうだ。昔に、約束したじゃない。
ねえ。
「そうだったわね、メリー」
頷くように、境界が蠢いて。
私は着替えをするために、ひとまずシャワーを浴びることにした。
◆ ◆ ◆
研究室には栄さん、長野くん、松本くんがいてくれた。ちょうどいい。
「おはようみんな。早速だけど、手伝ってほしいことがあるの」
三人は顔を見合わせて、代表した松本くんが質問してきた。
「……宇佐見先生、珍しいカッコしてるっすね」
「え、そう?」
白のブラウス、黒のロングスカート。
寒いのでマフラーとか、ケープとかの防寒具は着てるけど、そんなに珍しくもないと思うんだけどな。
「ま、いいわ。ちょっと荷物を掘り出したいの。手伝ってくれる?」
三人は頷いてくれた。
デスクの椅子を収めるあたりに積もった諸々の物を退かしていく。大半は論文や資料を印刷した紙だ。
この段ボール箱を研究室に置いた理由は、すぐに散らかって目に留まらなくなるから、って理由だった気がする。
確かにその通りで、流石は私だ。
「段ボールってこれっすか?」
「そうそれ! さ、引っ張り出すわよ!」
発掘された段ボールは、色々なものが載っていたせいで少しへこんだりしていた。
けれどまだしっかりしていて、少し安心しながら、私は封していたガムテープを引き剥がす。
「うわお」
「わっ」
松本くんと栄さんが声を漏らした。
中身は、秘封倶楽部の活動記録だ。秘封倶楽部に関わるものすべて、私はこの中に詰め込んだ。
その一番上に入っていた、私のトレードマークをひょいとつまみ出す。
「あーあー、なんだかんだよれちゃって」
長らく放置してた黒の帽子。新調も考えたけど、やっぱりこの帽子がしっくりきそうだ。持つだけでわかる。
帽子をデスクにおいて、段ボールの中から白いリボンを取り出す。
髪を一房分けて、それをそのリボンで結ぶ。箱の中身はあと、写真や日誌、それくらい。
それはいい、もう必要ないだろうから。
帽子を手に取り、くるんと回して頭に被る。
うん、やっぱり馴染む。
「宇佐見先生……お出かけで?」
長野くんが聞いてきて、私はうんと頷いた。
私の右眼と、私たちの左眼が、ジ、と中空を見る。導くように開く隙間に、キラキラと光る星空があった。
「午前八時四十七分十一秒」
ニ、と唇を歪める。
「少し早いけど、活動再開ね」
ありがと、と三人に声をかけて、私は部屋を駆け出した。
「え、ちょ、先生講義は!?」
「そんなの知らなーい!」
戸惑いの声も無視、私には関係ない。
大学の講義も、博士号も、研究のすべて、私には関係ない――!
ふと、廊下の先に赤い服の人が見えた。サンタクロース? そんなわけ。
岡崎教授だ。ちゆりさんも。
「お、宇佐見。珍しい格好してるな」
「松本くんにも言われましたけど、そんなに珍しいですか?」
立ち止まって、軽くスカートを抓んだりしながら言う。
「ええ、珍しいわね」
ちゆりさんが何か言おうとしたのを、岡崎教授が遮って。
「秘封倶楽部の宇佐見さん」
そんなことを、言ってきて。
それがたまらなく嬉しく思えて、私はまたニッと笑った。
「……研究室とかアパートとかに色々と物があるので、もしよかったらもらってください」
「考えておくわ」
「あと、これはもらってください」
私は端末を投げる。教授は簡単にそれを受け取った。
「論文とか、レポートとか、雑多なメモとか、そんなデータが入ってます。餞別というか、そんな感じとして、受け取ってください」
「……期待してるわ」
端末をポケットに入れて、代わりにチョコレートが抓み出される。
ファミリーパックの、教授御用達のイチゴチョコ。
「餞別に、チョコレートはいる?」
「いえ、結構です」
教授も、ニッと笑った。
「……それじゃあね、宇佐見さん」
「それでは、岡崎教授。お世話になりました」
帽子を押さえつつ小さく会釈して、私は二人の横を通り過ぎた。
その後は、誰にも会わなかった。
果て無く続くリノリウムの廊下。それが、やがて途切れて。
目の前に、大きな扉が開く。
導くような境界に、私は勢いのまま飛び込んだ。
そこには、いつか感じたような温もりが合って。
囁くような声が、優しく聞こえた。
おかえり、と。
現実的な部分もあれば夢のような部分もある、恐ろしくも良い話でした。
メリーの独占欲がもたらしたこの結果は、幸せと言っていいのか私には分かりませんが
蓮子が幸せならそれで良いのでしょう。
とても良い秘封でした。
左目に移植された角膜の見せ続ける境界、という強烈さと比べると、現実に干渉するアレコレは、ちゃちなグロテスクさとしか感じられないのが少し残念と感じました。
自身を追い込む視界に耐えて、あるいはそれを引き受けて、蓮子にはもっと力強い意思を見せてほしかった。それがひとえに、境界の向こう側のメリーを、単に執着する死者というだけでなく、もっと魅力的な存在として引っ張り出すことにつながっただろうから。
でも、いろいろ考えられる、とてもいい「間」のある小説だと思いました。
あと、コーヒー紅茶、飲むシーンお好きですねw
しかしせっかくなら前後編にして、メリーとの幸せな日々・相原さんに癒される時間をもっと描けばラストが更にパンチの効いた物になったかと。
人間的に弱く自己中心的なメリーを、現実の何もかもを捨てて蓮子が選ぶのが理解できず、不自然に感じた。
蓮メリの間に入り込んでくる男は死んでしかるべきなんだけど、作中の人物までもそう振舞うのは如何なものか。
仮にも交際相手を殺されたら、怒るか悲しむかしてメリーを拒絶するのが普通でしょ。
何故あっさり受け入れてしまうのか。
メリーが冒頭にしか出てこないので蓮子がメリーをどれだけ重要に思っていたのかも分からず、
超展開で分かりにくいことが輪をかけて分かりにくい。
万が一メリーを受け入れるような人物なら、心中しようと請われたときにも受け入れるのでは?
自分が死ぬのは嫌だけど他人が死ぬのは受け入れるというなら
蓮子はメリー以下の最低な人間になってしまう。
心中のときは気持ちの整理が付いておらず、
人が殺されて初めてメリーを思う気持ちに気づいたのなら、
蓮子はメリーを追って死ぬ(せめて死のうとする)べきだった。
人が死んでるのにあのラストでは生ぬるいと思う。
普段はここまで思ったことは書かないけど、
とにかくラスト以外は良かったのでついヒートアップしてしまった。
作者様の他の作品も読んできます。
相原さんいい人だったけどメリーには敵わぬな・・・
素晴らしい秘封でした。