/
qur-r-r-r-r,qur-r-r-r-r...
泣き声が聞こえる。 哀しみと寂しさと、それからたくさんの『どうしようもない気持ち』を抱いたその翠の声を、私はただ、目を閉じて聞いていた。
/
彼女と最後に酒を飲み交わしたのは、まさしく昨晩のことだった。
安楽椅子に腰掛け、膝かけの上で細い手を組んだまま、彼女は「いらっしゃい――なんだ、にとりか。まぁこっち来いよ」と雑な応対で私を迎え、自らと机を隔てて正面に置かれた椅子を勧めてくれた。別に文句もないので荷物を脇に置いてそれに腰掛けると、ギィと不安な音がした。
「魔理沙。この椅子ガタがきてる」
「そりゃあお前、私が一人立ちした時からずーっとそこにあるんだ。ガタもくるだろうよ」
「直そうか?」
随分くたびれたように見える椅子だったが、 少し補強、調整すればまだ長く使えるようだった。大切に使われてきたのだろう。ならば、直してこれからも大切にしていくべきだ。職人柄そう思って提案したのだが、魔理沙は小さく、ゆっくり手を振ってそれを拒否した。
「いや、いいさ。もうその椅子も引退する時期がきてるってこった」
「まだ使えるよ」
私は少しムキになって言ったが、やはり魔理沙はいい、いい、と小さく、ゆっくり手を振るばかりだった。本人がいらぬと言っているものを無理に直すのもおかしいので、何だか納得できないまま、私は引き下がった。
「まったく、お前といい香霖といい、椅子や机の心配ばっかりしやがってからに」
拗ねたような科白を笑って言う魔法使いは、ちょいちょいと指を動かして、――そのものには触れないままに――酒を引き寄せた。どうやら日曜雑貨や食品に魔法の糸でも繋いで、動かずとも生活ができるようにしているらしかった。
「生憎だが胡瓜とかはないぜ」
傷だらけのグラスに並々と酒を注いで、それを私に差し出す。私も「別に、構わないよ」とそれを受け取った。よく冷えていた。
「チルノが氷を配達してくれるんでなぁ。まったく、仲良くしてりゃあ夏に便利なヤツだよ」
もっとも冬は寒いだけだが、と意地悪そうに付け加えて、彼女も自らの手元のグラスに酒を注ぎ込んだ――ただし、なんだかよくわからない色の粉も入れていたが。多分何かの薬だろう。 漢方に似た匂いがした。酒に薬を入れて飲むやつを私は初めて見た。
「これを入れんと体に障るんだとよ。まったく、酒くらい自由に飲ませてくれりゃあいいものを。月のやつはこれだからいけすかん」
「月のって、竹林の薬師もここにくるの?」
「ああ、毎週の初めにな。往診だの何だの言って薬やなんやを置いていくんだ。……ま、それのお陰で多少楽なのは、否定しないが」
素直に感謝しないのは昔からだったが、それは今でも変わってないらしい。
ひねくれ者は、しかしまぁ、と皮肉めいた声で話題を転換した。
「お前も随分ご無沙汰じゃないか。え? 最後に会ったのはいつだったかね」
「……霊夢の葬式の時だね」
「あー、そうか……そうか……」
魔理沙はそうと目を閉じた。きっと霊夢と過ごした日々を思い出しているのだろう。口元には笑みが浮かんでいる。
「楽しかったよなぁ。色んなやつとやりあったが、あいつと勝負してる時が、一番楽しかったよ」
「ほとんど勝てなかったんじゃなかった?」
「あぁ、あぁ。あいつ、羽毛か埃みたいふわふわと避けるんだ。それに、追い詰めたと思ってもテレポートみたいな真似しやがる」
あんなのチートじゃねぇか、と愚痴りながらも、魔理沙は楽しげだった。底抜けに愉快そうだった。
「でも、そうかぁ。お前とも随分ぶりだったんだなぁ」
「ああ、本当にまったく。薄情なヤツだよ、あんたも」
「そういうなぃ」
苦笑が乾いた音をたてて転がった。
魔理沙は掛けていた膝掛けを少し除けてみせた。その脚は、どちらかと言えば枯れ枝に近いほどに、渇き、痩せ細っていた。予想はしていても、少し息をのんだ。そんな私に気づいてか、魔理沙は自嘲気味に、
「今じゃ、どうにかこうにか動かせるのは上半身だけなんだよ。脚がこんなじゃ、」部屋の片隅に寂しげに立てかけられた愛用していた箒へとしばらく視線を湛え、また魔理沙は私の方を見た。 「箒にも乗れやしない」
その顔は、笑っていた。
きっと、諦念というやつだろうと思った。もともと『諦める』とは、真理を悟って受け入れるという意味だ。今の魔理沙からは、そんな色が濃く感じられた。
「……もう、上空から見る幻想郷がどんなのだったか、忘れちまったよ。今の私の世界は、この部屋だけだ」
もう暗くなった空を窓越しに見る。ほんの少し昔、確かに彼女は、あの夜空を飛んでいた。
こういうとき、どうすればいいのだろうか。どんな言葉をかければいいのか。私には、わからなかった。
私が俯いて黙っていると、魔理沙は苦笑して「辛気くさい顔するなぃ」と新たに酒を注いだ。それで瓶に残っていた酒は最後だったようで、なにかが底でコロリと音をたてた。たぶん薬か何かだろう。
空っぽになった瓶は適当に放られて、部屋の隅に当たって派手に割れ――ない。瓶が落ちた音もしなかった。どこかで見たような小さな人形が、上手に瓶を抱えていた。
「ナイスキャッチ」
放った本人が振り向きもせずに親指を立てると、人形もその小さな指で力強く誇らしげに、自らの功績を示していた。
あれは、森の人形使いのだ。一度だけだが手を焼かされたから覚えている。妖精よりもずっと小さい、操り人形――。
「アリスも、その人形を置いてったきりだ」
薄情者ばっかりだぜ。呟きながら、魔理沙は酒を引き寄せたときと同様に、指を小さく動かした。シャンハイ、と人形が鳴いて寄ってくる。どういう理屈で音声を出しているのか解らなかったが、それを訊ねるのは無粋なことだと思い、訊かないことにした。
薄情者、か――。
人形がシャンハイ、と鳴いた。
「ねぇ、魔理沙。あなた、このままでいるつもりなの?」
彼女の瞳を見詰めて、私は尋ねた。少し言葉の息を止めて、答は返ってきた。
「何のことだか」
「惚けないでよ――どうせ来る人来る人に言われてるんでしょ? あなたはもっと生きる術を知っているはずなのに」
少し、厳しい声で言った。当人はヘラヘラと怖い怖いと笑っていた。
――完全な、種族としての魔法使いになるための魔法。詳しくは知らないが、それさえ使えば彼女は百年でも二百年でも悠々と生きられるはずだ。だのに、それを彼女は使わない。
そのことは私の他もみんな知っていて、きっと昨日訪れたという店主もそれを問い質しに来たのだ。今日、私がこうして訪れたのと同じように。
「……ひと月くらい前、私の同胞が殺されたんだ」
突然振られた話題に、魔理沙は少しばかり目を開いて反応した。沈黙のまま、続きを促した。
「金も家族もある、河童にしちゃ珍しいやつだったよ。そいつが、突然殺されたんだ。犯人はすぐに捕まったよ。同じ河童だった。動機は知らない。いや、動機なんてなかったのかもしらない。あいつは捕まったとき、もう気が違っていたから。
……ううん、それはどうだっていい。ただ、一匹の河童が殺されて、その家族は悲しんだ。筆舌に尽くしがたいくらい、泣き叫んでた。奥さんなんか、犯人より気が違ってたみたいだった」
息をつく。ため息も兼ねた吐息になった。
「ねぇ魔理沙。他人の命を奪うのは、もちろん罪だよね。なんでって、奥さんみたいにおかしくなるほどに哀しむひとが出るから」
「そうだな」
「でもさ、誰かを哀しませることが罪を成立させるなら――自殺も他殺も、病気で死ぬのも、何も変わりやしないんじゃないかな」
私は、机上にちょこんと座っている操り人形を見た。魔理沙が薄情者と言った魔女の、「操り」人形は、無言で魔理沙を見つめていた。
「薄情なのはどっちさ。罪だけ残して消えちゃうなんて……あんまりじゃないか」
たぶん、私は厳しい目をしていたと思う。怒っていたのかもしれない。まだ生きる術を持ちながらそれを行使せずに消えようとしている薄情な罪人予備軍に。これだけ色んな者たちから手厚い世話を受けながら、生き長らえる気のない人間に。
そんな盟友に。
「私――魔理沙が死んだら、哀しいよ」
カランコロンと、二人分のグラスの中で妖精の氷が立て続けに溶けて、音を立てた。
言いたかったことを言ってしまって、私は魔理沙の話を待つことにした。また、沈黙することが自然に思われて、促すことはしなかった。
魔理沙はしばらく私をじっと見つめていたが、もうひとつ氷が鳴ったのを境に、念入りに――紅魔館のそれのように丹念に――手入れされた窓へ視線を移した。
窓からは空が見えた。圧倒的な黒はただ夜だけのものではなく、月影さえ閉ざす分厚い雲が、幻想郷を覆っているためだった。
私は好きな空だ。雨を予感させる。けれど、魔理沙は嫌いな空だ。いつだったか、つまらなさそうにそう言っていた。星が見えないからだそうだ。そのときは、彼女らしいと思ったのだった。
不意に――。
彼女の口角が、愉快そうにつり上がった。
「にとり。スーパーノヴァって、知ってるか」
スーパーノヴァ――。巨大な星がその一生を終えるときに起こす大爆発、だったか。天文に関心のない私は、その程度の知識の持ち合わせしかなかったが、一応は、と彼女に頷いた。よしよし、と満足気に笑った。
「超新星は星じゃあない。星の最後の吐息だ。だけど、それは通常の星よりひどく明るくって、新星すらも凌駕する。そして、そのあとにはブラックホールなんかが残ることもある」
楽しげに魔理沙は語る。
「ブラックホールといえば宙(そら)の墓場だ。つまり星というのは手前で手前の墓を建てちまうのさ」
どうだ、面白いだろう、と笑う声に、私は何も笑えなかった。
ヒュゥ、と枯れた息が漏れた。柔らかな微笑みに調子を下げて、魔理沙はまた話し始めた。
「お前と似たような文句を、いろんなヤツが言っていったよ。お前が言う罪ってのも、たぶん遺していくんだろう」
窓の外を眺め続ける横顔は穏やかで、静かな星空を思わせた。
「だから、罪滅ぼしくらいは一緒に遺していくさ。それがどんなもんかは、まぁ後のお楽しみだが……そうさな。強いて言うなら、私はな、にとり」
魔理沙がやっとこちらを向いた。懐かしい、変わらない、いたずらっ子のような笑顔で、こう言った。
「最後の魔法を、用意してるんだ」
それきり、彼女は何を聞いても笑ってはぐらかし、沈黙とした。
それから、少しだけ話をして、私は彼女の家を後にした。
/
森を抜ける直前、白銀の髪に琥珀の瞳の男と出くわ した。透明迷彩スーツを機能させることも忘れていたらしく、私は逆に驚きの声を上げられた。見知った顔 で良かったとつくづく思った。
「珍しいね、こんな時間に、そんな姿でふらつくなんて」
森近霖之助はそれこそ珍しい、柔らかな笑みを浮かべて、私に皮肉を飛ばした。
「ああ……どうも、どうかしてるみたいだ。だけど、霖之助」
「ああ、僕もこんな時間にふらつくなんて――どうかしている」
夜の森は、危ない。そして彼は、賢い。そんなことはわかっているから、平素では夜に外出などしないのに、今日、彼はここで私と出会った。
「あの子に、会ってきたのかい」
あの子――。
私は振り返って、歩いてきた道の、その奥を見た。木々が夜風にざわめく外はみな沈黙を決め込んでいる闇の奥。たぶん、その暗がりの中、八卦炉のほの灯り に横顔を照らされながら、彼女は窓を見ているのだと思う。私が出ていったときのまま、あのままに。
「魔理沙が、ね」
ポツリと、言葉が転び出た。
「自分は星だって、そう言ったんだ」 「星、か」
「そう。私は星だ、それもとびっきりの一等星だ、って。自慢げに、笑って言ったんだ。それで、私は――私は、それがなんだか、嫌だった」
嫌だったんだ。
だから私は、魔理沙は星なんかじゃない、って言った。
「そうしたらあいつ、首を振って言ったんだ。
私は星だ。やっと星になれたんだ。
……って」
それを聞いて、霖之助が笑い声を上げた。
「そうかそうか、あの子がそんなことをね。ふふ、面白いじゃないか」
「なにが」
眉を顰める私に、彼はクツクツと喉を鳴らして答えた。
「あの子は昔から星が好きでね、ずっと自分の手で星を掴もうとしていた。いつからだったかは、忘れてしまったけれどね。
だけど、そうか。自分を星にしてしまったか。なるほど、それならいくらでも掴めるというものだ」
「そんなトンチみたいな……」
「ああ、トンチかもしれないね」
霖之助はまだ声に笑いの余韻を残したまま肯定した。
「定義など言葉からなるものだ。即席案だろうが目的を果たせるならば、彼女には何だってよかったのかもしれない。畢竟、自分に一番近い星を手にいれたのだから、彼女の意志は遂げられたのだろうね」
ケタケタと笑う様が、なるほどよく似たものだと思わせた。やはり飼い主に似るものなのかもしれない。なんとなれば、彼女の悪事の半分くらいは彼にも問題があるのではあるまいか。
彼女が遺そうとしている罪も――。
もしかするといつか、この男も星になるなどと言い出して、同じように罪を遺していくのかもしれない。
「霖之助も、星になりたいと思う?」
恐る恐る訊ねる私を、まさか、と笑い飛ばした。
「あの子が星になったのはあの子が霧雨魔理沙だったからさ。他の者では不恰好だよ」
「それじゃ……アイツは、なるべくして星になったの?」
どうかな、と霖之助は首を振った。
「別に、何にだってなれたと思う。彼女が願えば風にも月にもなれたろう。だけど、彼女が選びとったのは星だった。それが必然か偶然かなんてのは、たぶん――」
――――。
彼の言葉は、そこで途切れた。何か大きく、爆発したときに生じるような、腹の底に響く音に掻き消されたのだ。爆音はそれに見合うくらいの大きな光を伴っ て現れ、私たちを照らした。
私たちを照らし出したそれは、最初推定した以上に大きなもので、眩しさから逃れるために瞑った目を再び開いたとき、夜は終わっ ていた。
「――これは」
霖之助が刹那、目を見開いた。私は口を開けて呆けていた。間抜けに上を仰いで立ち竦む私たちは、同じ光輝に照らし出されていた。
「スーパーノヴァだ」
どちらともなく、その名を呼んだ。
/
qur-r-r-r-r,qur-r-r-r-r...
泣き声が聞こえる。 哀しみと寂しさと、それからたくさんの『どうしようもない気持ち』を抱いたその翠の声を、私はただ、目を閉じて聞いていた。
/
彼女と最後に酒を飲み交わしたのは、まさしく昨晩のことだった。
安楽椅子に腰掛け、膝かけの上で細い手を組んだまま、彼女は「いらっしゃい――なんだ、にとりか。まぁこっち来いよ」と雑な応対で私を迎え、自らと机を隔てて正面に置かれた椅子を勧めてくれた。別に文句もないので荷物を脇に置いてそれに腰掛けると、ギィと不安な音がした。
「魔理沙。この椅子ガタがきてる」
「そりゃあお前、私が一人立ちした時からずーっとそこにあるんだ。ガタもくるだろうよ」
「直そうか?」
随分くたびれたように見える椅子だったが、 少し補強、調整すればまだ長く使えるようだった。大切に使われてきたのだろう。ならば、直してこれからも大切にしていくべきだ。職人柄そう思って提案したのだが、魔理沙は小さく、ゆっくり手を振ってそれを拒否した。
「いや、いいさ。もうその椅子も引退する時期がきてるってこった」
「まだ使えるよ」
私は少しムキになって言ったが、やはり魔理沙はいい、いい、と小さく、ゆっくり手を振るばかりだった。本人がいらぬと言っているものを無理に直すのもおかしいので、何だか納得できないまま、私は引き下がった。
「まったく、お前といい香霖といい、椅子や机の心配ばっかりしやがってからに」
拗ねたような科白を笑って言う魔法使いは、ちょいちょいと指を動かして、――そのものには触れないままに――酒を引き寄せた。どうやら日曜雑貨や食品に魔法の糸でも繋いで、動かずとも生活ができるようにしているらしかった。
「生憎だが胡瓜とかはないぜ」
傷だらけのグラスに並々と酒を注いで、それを私に差し出す。私も「別に、構わないよ」とそれを受け取った。よく冷えていた。
「チルノが氷を配達してくれるんでなぁ。まったく、仲良くしてりゃあ夏に便利なヤツだよ」
もっとも冬は寒いだけだが、と意地悪そうに付け加えて、彼女も自らの手元のグラスに酒を注ぎ込んだ――ただし、なんだかよくわからない色の粉も入れていたが。多分何かの薬だろう。 漢方に似た匂いがした。酒に薬を入れて飲むやつを私は初めて見た。
「これを入れんと体に障るんだとよ。まったく、酒くらい自由に飲ませてくれりゃあいいものを。月のやつはこれだからいけすかん」
「月のって、竹林の薬師もここにくるの?」
「ああ、毎週の初めにな。往診だの何だの言って薬やなんやを置いていくんだ。……ま、それのお陰で多少楽なのは、否定しないが」
素直に感謝しないのは昔からだったが、それは今でも変わってないらしい。
ひねくれ者は、しかしまぁ、と皮肉めいた声で話題を転換した。
「お前も随分ご無沙汰じゃないか。え? 最後に会ったのはいつだったかね」
「……霊夢の葬式の時だね」
「あー、そうか……そうか……」
魔理沙はそうと目を閉じた。きっと霊夢と過ごした日々を思い出しているのだろう。口元には笑みが浮かんでいる。
「楽しかったよなぁ。色んなやつとやりあったが、あいつと勝負してる時が、一番楽しかったよ」
「ほとんど勝てなかったんじゃなかった?」
「あぁ、あぁ。あいつ、羽毛か埃みたいふわふわと避けるんだ。それに、追い詰めたと思ってもテレポートみたいな真似しやがる」
あんなのチートじゃねぇか、と愚痴りながらも、魔理沙は楽しげだった。底抜けに愉快そうだった。
「でも、そうかぁ。お前とも随分ぶりだったんだなぁ」
「ああ、本当にまったく。薄情なヤツだよ、あんたも」
「そういうなぃ」
苦笑が乾いた音をたてて転がった。
魔理沙は掛けていた膝掛けを少し除けてみせた。その脚は、どちらかと言えば枯れ枝に近いほどに、渇き、痩せ細っていた。予想はしていても、少し息をのんだ。そんな私に気づいてか、魔理沙は自嘲気味に、
「今じゃ、どうにかこうにか動かせるのは上半身だけなんだよ。脚がこんなじゃ、」部屋の片隅に寂しげに立てかけられた愛用していた箒へとしばらく視線を湛え、また魔理沙は私の方を見た。 「箒にも乗れやしない」
その顔は、笑っていた。
きっと、諦念というやつだろうと思った。もともと『諦める』とは、真理を悟って受け入れるという意味だ。今の魔理沙からは、そんな色が濃く感じられた。
「……もう、上空から見る幻想郷がどんなのだったか、忘れちまったよ。今の私の世界は、この部屋だけだ」
もう暗くなった空を窓越しに見る。ほんの少し昔、確かに彼女は、あの夜空を飛んでいた。
こういうとき、どうすればいいのだろうか。どんな言葉をかければいいのか。私には、わからなかった。
私が俯いて黙っていると、魔理沙は苦笑して「辛気くさい顔するなぃ」と新たに酒を注いだ。それで瓶に残っていた酒は最後だったようで、なにかが底でコロリと音をたてた。たぶん薬か何かだろう。
空っぽになった瓶は適当に放られて、部屋の隅に当たって派手に割れ――ない。瓶が落ちた音もしなかった。どこかで見たような小さな人形が、上手に瓶を抱えていた。
「ナイスキャッチ」
放った本人が振り向きもせずに親指を立てると、人形もその小さな指で力強く誇らしげに、自らの功績を示していた。
あれは、森の人形使いのだ。一度だけだが手を焼かされたから覚えている。妖精よりもずっと小さい、操り人形――。
「アリスも、その人形を置いてったきりだ」
薄情者ばっかりだぜ。呟きながら、魔理沙は酒を引き寄せたときと同様に、指を小さく動かした。シャンハイ、と人形が鳴いて寄ってくる。どういう理屈で音声を出しているのか解らなかったが、それを訊ねるのは無粋なことだと思い、訊かないことにした。
薄情者、か――。
人形がシャンハイ、と鳴いた。
「ねぇ、魔理沙。あなた、このままでいるつもりなの?」
彼女の瞳を見詰めて、私は尋ねた。少し言葉の息を止めて、答は返ってきた。
「何のことだか」
「惚けないでよ――どうせ来る人来る人に言われてるんでしょ? あなたはもっと生きる術を知っているはずなのに」
少し、厳しい声で言った。当人はヘラヘラと怖い怖いと笑っていた。
――完全な、種族としての魔法使いになるための魔法。詳しくは知らないが、それさえ使えば彼女は百年でも二百年でも悠々と生きられるはずだ。だのに、それを彼女は使わない。
そのことは私の他もみんな知っていて、きっと昨日訪れたという店主もそれを問い質しに来たのだ。今日、私がこうして訪れたのと同じように。
「……ひと月くらい前、私の同胞が殺されたんだ」
突然振られた話題に、魔理沙は少しばかり目を開いて反応した。沈黙のまま、続きを促した。
「金も家族もある、河童にしちゃ珍しいやつだったよ。そいつが、突然殺されたんだ。犯人はすぐに捕まったよ。同じ河童だった。動機は知らない。いや、動機なんてなかったのかもしらない。あいつは捕まったとき、もう気が違っていたから。
……ううん、それはどうだっていい。ただ、一匹の河童が殺されて、その家族は悲しんだ。筆舌に尽くしがたいくらい、泣き叫んでた。奥さんなんか、犯人より気が違ってたみたいだった」
息をつく。ため息も兼ねた吐息になった。
「ねぇ魔理沙。他人の命を奪うのは、もちろん罪だよね。なんでって、奥さんみたいにおかしくなるほどに哀しむひとが出るから」
「そうだな」
「でもさ、誰かを哀しませることが罪を成立させるなら――自殺も他殺も、病気で死ぬのも、何も変わりやしないんじゃないかな」
私は、机上にちょこんと座っている操り人形を見た。魔理沙が薄情者と言った魔女の、「操り」人形は、無言で魔理沙を見つめていた。
「薄情なのはどっちさ。罪だけ残して消えちゃうなんて……あんまりじゃないか」
たぶん、私は厳しい目をしていたと思う。怒っていたのかもしれない。まだ生きる術を持ちながらそれを行使せずに消えようとしている薄情な罪人予備軍に。これだけ色んな者たちから手厚い世話を受けながら、生き長らえる気のない人間に。
そんな盟友に。
「私――魔理沙が死んだら、哀しいよ」
カランコロンと、二人分のグラスの中で妖精の氷が立て続けに溶けて、音を立てた。
言いたかったことを言ってしまって、私は魔理沙の話を待つことにした。また、沈黙することが自然に思われて、促すことはしなかった。
魔理沙はしばらく私をじっと見つめていたが、もうひとつ氷が鳴ったのを境に、念入りに――紅魔館のそれのように丹念に――手入れされた窓へ視線を移した。
窓からは空が見えた。圧倒的な黒はただ夜だけのものではなく、月影さえ閉ざす分厚い雲が、幻想郷を覆っているためだった。
私は好きな空だ。雨を予感させる。けれど、魔理沙は嫌いな空だ。いつだったか、つまらなさそうにそう言っていた。星が見えないからだそうだ。そのときは、彼女らしいと思ったのだった。
不意に――。
彼女の口角が、愉快そうにつり上がった。
「にとり。スーパーノヴァって、知ってるか」
スーパーノヴァ――。巨大な星がその一生を終えるときに起こす大爆発、だったか。天文に関心のない私は、その程度の知識の持ち合わせしかなかったが、一応は、と彼女に頷いた。よしよし、と満足気に笑った。
「超新星は星じゃあない。星の最後の吐息だ。だけど、それは通常の星よりひどく明るくって、新星すらも凌駕する。そして、そのあとにはブラックホールなんかが残ることもある」
楽しげに魔理沙は語る。
「ブラックホールといえば宙(そら)の墓場だ。つまり星というのは手前で手前の墓を建てちまうのさ」
どうだ、面白いだろう、と笑う声に、私は何も笑えなかった。
ヒュゥ、と枯れた息が漏れた。柔らかな微笑みに調子を下げて、魔理沙はまた話し始めた。
「お前と似たような文句を、いろんなヤツが言っていったよ。お前が言う罪ってのも、たぶん遺していくんだろう」
窓の外を眺め続ける横顔は穏やかで、静かな星空を思わせた。
「だから、罪滅ぼしくらいは一緒に遺していくさ。それがどんなもんかは、まぁ後のお楽しみだが……そうさな。強いて言うなら、私はな、にとり」
魔理沙がやっとこちらを向いた。懐かしい、変わらない、いたずらっ子のような笑顔で、こう言った。
「最後の魔法を、用意してるんだ」
それきり、彼女は何を聞いても笑ってはぐらかし、沈黙とした。
それから、少しだけ話をして、私は彼女の家を後にした。
/
森を抜ける直前、白銀の髪に琥珀の瞳の男と出くわ した。透明迷彩スーツを機能させることも忘れていたらしく、私は逆に驚きの声を上げられた。見知った顔 で良かったとつくづく思った。
「珍しいね、こんな時間に、そんな姿でふらつくなんて」
森近霖之助はそれこそ珍しい、柔らかな笑みを浮かべて、私に皮肉を飛ばした。
「ああ……どうも、どうかしてるみたいだ。だけど、霖之助」
「ああ、僕もこんな時間にふらつくなんて――どうかしている」
夜の森は、危ない。そして彼は、賢い。そんなことはわかっているから、平素では夜に外出などしないのに、今日、彼はここで私と出会った。
「あの子に、会ってきたのかい」
あの子――。
私は振り返って、歩いてきた道の、その奥を見た。木々が夜風にざわめく外はみな沈黙を決め込んでいる闇の奥。たぶん、その暗がりの中、八卦炉のほの灯り に横顔を照らされながら、彼女は窓を見ているのだと思う。私が出ていったときのまま、あのままに。
「魔理沙が、ね」
ポツリと、言葉が転び出た。
「自分は星だって、そう言ったんだ」 「星、か」
「そう。私は星だ、それもとびっきりの一等星だ、って。自慢げに、笑って言ったんだ。それで、私は――私は、それがなんだか、嫌だった」
嫌だったんだ。
だから私は、魔理沙は星なんかじゃない、って言った。
「そうしたらあいつ、首を振って言ったんだ。
私は星だ。やっと星になれたんだ。
……って」
それを聞いて、霖之助が笑い声を上げた。
「そうかそうか、あの子がそんなことをね。ふふ、面白いじゃないか」
「なにが」
眉を顰める私に、彼はクツクツと喉を鳴らして答えた。
「あの子は昔から星が好きでね、ずっと自分の手で星を掴もうとしていた。いつからだったかは、忘れてしまったけれどね。
だけど、そうか。自分を星にしてしまったか。なるほど、それならいくらでも掴めるというものだ」
「そんなトンチみたいな……」
「ああ、トンチかもしれないね」
霖之助はまだ声に笑いの余韻を残したまま肯定した。
「定義など言葉からなるものだ。即席案だろうが目的を果たせるならば、彼女には何だってよかったのかもしれない。畢竟、自分に一番近い星を手にいれたのだから、彼女の意志は遂げられたのだろうね」
ケタケタと笑う様が、なるほどよく似たものだと思わせた。やはり飼い主に似るものなのかもしれない。なんとなれば、彼女の悪事の半分くらいは彼にも問題があるのではあるまいか。
彼女が遺そうとしている罪も――。
もしかするといつか、この男も星になるなどと言い出して、同じように罪を遺していくのかもしれない。
「霖之助も、星になりたいと思う?」
恐る恐る訊ねる私を、まさか、と笑い飛ばした。
「あの子が星になったのはあの子が霧雨魔理沙だったからさ。他の者では不恰好だよ」
「それじゃ……アイツは、なるべくして星になったの?」
どうかな、と霖之助は首を振った。
「別に、何にだってなれたと思う。彼女が願えば風にも月にもなれたろう。だけど、彼女が選びとったのは星だった。それが必然か偶然かなんてのは、たぶん――」
――――。
彼の言葉は、そこで途切れた。何か大きく、爆発したときに生じるような、腹の底に響く音に掻き消されたのだ。爆音はそれに見合うくらいの大きな光を伴っ て現れ、私たちを照らした。
私たちを照らし出したそれは、最初推定した以上に大きなもので、眩しさから逃れるために瞑った目を再び開いたとき、夜は終わっ ていた。
「――これは」
霖之助が刹那、目を見開いた。私は口を開けて呆けていた。間抜けに上を仰いで立ち竦む私たちは、同じ光輝に照らし出されていた。
「スーパーノヴァだ」
どちらともなく、その名を呼んだ。
/
悲しさと切なさで胸がいっぱいになりました。
年老いた魔理沙の描写はどこか埃っぽい家の情景さえ思わせるようでした。お見事。
切ない、良いお話でした。
ごめんなさいごめんなさいなんでもないです忘れてください;
おいてもなおらしい魔理沙、よかったです。