◆◆◆
おはよう、妹紅。
今日は、いい天気ですか? 目覚めの気分はどうですか? どこか痛い所とか、普段と変わった所とか、有りませんか?
さて、貴女にどこからお話しすれば良いのでしょう。
正直に言って、私にもまだ気持ちの整理が出来ていない話です。
本当は、こんな手紙なんて残さない方が良いのかもしれない。手紙を書いたは良いのだけれど、貴女に読まれるのが嫌で、この手紙も、処分してしまうかもしれない。以前の様に。
単刀直入に言います。
一緒に行こう、って約束した岩魚釣りの事は、忘れてください。
貴女にとっては、つい昨日したばかりの、まだ真新しくキラキラと輝いている約束かも知れない。
だけど、私にとっては違うんです。
……貴女にとっては、何の事か判らないでしょう。
だから、最初から全部説明します。
もしかしたら、貴女は途中で読むのが嫌になるかもしれない。
こんな残酷な手紙を書いた私の事を、憎むかもしれない。
だけれど、私は書かずに居られないのです。伝えずに居られないのです。
私が抱いた様々な感情を手紙の形で貴女にぶつける事は、多分卑怯な事なのでしょう。
目覚めた貴女には、全てを知る必要がある。私には、知らせる義務がある。
そんな言葉を大義名分に、私はその卑怯な仕打ちを貴女にしようとしている。
判ってます。全部、判ってるんです。
私にはどうしようもない事も。この手紙が、貴女への八つ当たりだという事も。
さて、妹紅。まずは一言、謝らせてください。
ごめんなさい。
この先に書いてある言葉は、全部貴女への恨み言です。
読むのが嫌になったら、すぐにでもこの手紙は燃やしてください。
私の事が嫌いになったら、すぐにでも忘れてください。
もうきっと、私はどこにもいません。探しても見つからないでしょう。
それでも妹紅。最初に、一つだけ。一番大切な事だけ、先に書いておきます。
藤原妹紅さん。
私は、貴女に会えて。貴女と少しの間でも共に暮らせて――とても、幸せでした。
始まりは、貴女と岩魚釣りの約束をした翌日の朝の事でした。
あらかじめ言っておきますがそれは、貴女がこの手紙を読んでいる、この日の事ではありません。
岩魚に限らず、川魚を釣るのに絶好の時間は、早朝。まだ日も登り切らない内に支度をして、河の上流に行かないと間に合いません。そうでないと、魚が食事を済ませてしまって、餌に食いついてくれないからです。
まだ日も登ってない早朝に目を覚ました私は、まず朝食とオニギリを作りました。空気の入れ替えの為に開け放った障子窓の外に見える里の景色はまだ薄闇に覆われていて、秋も終盤に差し掛かった空気は冷たく、水瓶に突っ込んだ手が感覚を失う程でした。その朝の景色を、感触を、思いを、私は今でも鮮明に覚えています。
「朝だぞ、妹紅」
準備を終えた私は、まだ布団に包まっていた貴女の横で膝を折り、貴女の肩を揺さぶりました。
けれど、貴女は目を覚まさなかったのです。
「……仕方が無い奴だな」
私は小さく溜め息を吐いて竈に火を入れお湯を沸かし、お茶を淹れる準備をしながら、貴女の眠りが浅くなるのを待つことにしました。前日貴女はとても浮かれていて、中々寝付けない様だったのを知っていたので。
お茶の準備はすぐに出来ました。
湯呑に入れた緑茶で、かじかんだ手を温めつつ、私は貴女が起きるのを待ちました。
その内に朝日が昇り、地平線から差す光が人里の街並みをキラキラと照らし始めました。
私は溜め息を吐きました。
この分では、今から上流に向かっても間に合いそうも無い。岩魚釣りは明日に延期だなと、そう思ったからです。
目を覚ましたら貴女はきっと、ガッカリするだろうなと思いました。
それでも仕方が無いですよね。
起きなかった貴女が悪いんです。
休日でしたので特に差し迫った用件がある訳でもなく、私は玄関口に用意していた二人分の釣り道具を片付けると、掃除でもする事にしました。
貴女は少々、だらしが無い所がありますよね。貴女と一つ屋根の下で一緒に住むようになってからという物、私は掃除の頻度を増やさなければならなくなったんですよ?
鋏とか、硯とか、筆とか。出した道具をきちんと戻す。脱いだ服はそのまま打っ棄るのではなく、洗面台の洗濯カゴに入れておく。果物を食べたら、皮や種は机の上に置いたままにしないで、ゴミ箱に捨てる。
そういった基礎的な事が出来ないと、これから先きっと困る事があると私は思いますよ? これまでの生活はどうあれ、貴女には高貴な血が流れているのですから、余計にそういった怠惰は正す必要があるのでは無いでしょうか?
――話が逸れてしまいましたね。ごめんなさい。それでも、ちゃんと書いておきたかったのです。差し出がましい真似を許してください。
正午までに掃除は終わり、夕餉の買い物がてら少し散歩に出た私が家に戻ったのは、昼三つの鐘が鳴った後でした。しかしそれでも、貴女は寝返り一つ打つことなく布団の中で静かな寝息を立てていました。
幾らなんでもおかしい、と私はその時になってようやく気づきました。
確かに貴女は平時から少々寝坊助さんでしたが、どんなに遅くても正午過ぎ辺りには目を覚ましていましたね。
なのに、起きない。
「……妹紅?」
おずおずと、私は貴女の肩を揺すりました。
「妹紅? おい、妹紅、起きろってば……」
少し強く揺すっても、頬っぺたをペチペチと叩いても、貴女は眉一つ動かさずに穏やかな寝顔のままで居ました。
私は蓬莱人の事について、詳しい事は何も知りません。
精々、死なないとか、毒が効かないとか、そんな通り一辺倒の知識しか有りません。蓬莱の薬は月の世界においてさえも禁忌であり、そんな代物についての記述が地上の世界の歴史に綴られている筈もありません。
それでも、自分が目の前にしていた現象が異常なことは明白でした。
――極論を言ってしまえば、死ぬ事の無い蓬莱人には眠りさえも本来不要なはずじゃないか。それなのに幾ら起こそうと働きかけても、それに対する反応すらないのはどう考えても奇妙だ。
そう考えた私は居ても立ってもいられず、藁にも縋る気持ちで永遠亭へと走りました。
私が永遠亭へ向かっている最中に、妹紅が起きたら笑い話にでもしてしまえばいい。事情を聴いた八意女史に鼻で笑われても構わない。
そんな気分で、私は永遠亭の扉を叩きました。
「――目を覚まさない?」
私の話を聞いた八意女史は、そう言って訝しげに私を見て来ました。
その視線にはありありと、『そんな症例は聞いた事も無い』とか、『一体何を言ってるんだ?』といった困惑と疑念の入り混じった感情が窺えました。
「あぁ……起きないんだ。昼三つを過ぎた時刻になっても」
洋風の回転椅子に腰かけた八意女史は、チラと窓の外へ目をやりました。群生する竹の葉の向こう側に窺える空は既に赤く染まり始め、黄金色に輝く雲の前を鴉の小さな群れが横切っていました。
ふぅん……と腕を組んだ八意女史は何やら考えを巡らせるように指先で硬筆を弄び、思い至ったことがあったと見えて私に視線を投げ掛けました。
「……何か、彼女が大きな怪我をした、なんてことは無い? 体細胞の治癒に専念する為に、意識を二、三日途絶させる事はあるのだけれども」
問いかけに私は首を横に振りました。前日の貴女は健康そのもので、ほんの少しの傷すらも作ってはいませんでしたから。
「そう……」
「貴女や、ここの姫の身に同じような事があった例は無いのか?」
「うーん、無いわねぇ……確かにウチの姫も眠る事は好きではあるのだけれども、それだって極々一般的な睡眠時間に留まっているし……」
「そう、か……」
「――でもま、心配すること無いわよ」
肩を落とす私に、八意女史はあっけらかんとした口調で言いました。
「彼女だって蓬莱人よ? 多少眠っている時間が長かったところで、何か身体に不都合がある訳でも無いでしょうに。死ぬことの出来ない存在に対して医者を頼るなんて、魚に息継ぎのコツを教えてやるような物だわ。放っておいて平気でしょ。案外貴女がこんな所でハラハラしている間に、向こうはちゃっかり目を覚まして夕食を待ちわびている頃かもしれないわよ?」
冗談めいた彼女の口調を聞いて、確かにそうかもしれないな、と私は幾分軽くなった気持ちで思いました。
私には少々過保護な部分があるのかもしれない。貴女は蓬莱人ですもの。私が身体の心配をするなんて、おこがましい位の出過ぎた真似なのでしょう。
「……うん。そうだな、考えすぎかもしれないな」
「蓬莱人の体調の心配なんかより、美味しいご飯の支度について考えた方が建設的よ? ウチの姫もそろそろ退屈し始めているみたいだし、また近い内にあの娘を連れて来てあげて。たまには殺し合いでもしないと、刺激が無さ過ぎて心が腐っちゃうわ」
全く保護者然とした余裕ある微笑みを、八意女史は浮かべました。藁にも縋る気分で永遠亭を訪ねて来た自分が愚か者の様に思えて、私も微笑みを返しました。
「判った。それとなく妹紅に伝えておこう」
「そうしてくれると、ありがたいわ」
そんな風にして、その日は永遠亭からお暇しました。
木枯らしが竹の梢を揺らしてサラサラと静かな音を奏でる中、徐々に藍色へと変遷していく空を見て、夕餉を待ちかねている貴女を想像して、家路を急ぎました。
蓬莱人の時間は、半獣半人である私よりもずっと長い。眠っている時間が少々長くなったところで身体に不調がある訳も無い、という八意女史の言葉は不安にかき乱されていた私の心を和らげてくれました。
すっかり夜になってから、ようやく家に着いた私を貴女が待ちかねていることも無く、やはり貴女は布団の中で静かに寝息を立てていました。
落胆しなかった、と言えば嘘になります。
けれど、気長に起きるのを待てばいいか、と私は楽観的な気分で居る事が出来たのです。
浅はかでした。
その日が過ぎて翌日の朝になっても、そのまた翌日の夜になっても、やはり貴女は目を覚ます事はなかったのですから。
沈んだ気持ちで再び永遠亭を訪れた私を迎えたのは、心配げに眉根を歪める鈴仙の顔でした。
人里に薬を売りに来る事もある彼女の事です。既に里での噂を聞いていたのでしょう。私が何かを言うよりも早く「妹紅さんの事ですよね……?」と恐る恐る訪ねて来たのです。
私が頷くと、彼女は何やら痛ましいような落ち着かないような表情で、私から顔を背けました。
「師匠には既に事情を話しています。師匠も頭を抱えていました。これから伺おうと思っていたのですが、構いませんか」
願ってもない話だ、と私は返しました。
語尾が微かに震えているのが自分でも判りました。八意女史が頭を抱えている、という彼女の言葉が私の不安を悪戯に掻きたてたからでしょう。
彼女らの準備が終わるまで玄関口で待たせて貰っていると、奥の襖から蓬莱山輝夜が出て来ました。ほっそりと弱々しく白い彼女の手には似つかない武骨な和鋏を携えていたので、きっと趣味だという盆栽の世話の最中に通り掛かったのだろうと思いました。
彼女は所在無く佇んでいた私の姿を認めると足を止め、無表情に私の顔を見つめて来ました。
輝夜もまた、妹紅の異変に付いて聞いているだろうとは思ったのですが、彼女はただ黙って私の顔を見ているばかりでした。その能面のような表情から、彼女の心中を量る事は出来なかったのですが、それは私が読み取ることが出来なかったというだけで、彼女の頭の中では何か言葉にし難い感情が巡っているのだろう、とだけは理解出来ました。
結局私も彼女も何かを声にすることも無く、彼女は踵を返して廊下の奥の角を曲がって行きました。
妹紅の身を心配しているのだろうか、と私は無難な予測を立てはしましたが、きっとそれを問い質した所で彼女は無言で否定したでしょうし、私の思いつきが彼女の心中を言い当てているという確信も全く持てなかったので、きっともっと複雑に絡んだ感情だったのでしょう。彼女の心中に関しては、きっと貴女の方が詳しいはずです。貴女はそれを不満に思うかもしれませんが。
もう暫く待ったところで先ほど輝夜が消えて行った廊下の角の向こう側から、鈴仙が八意女史を伴ってやって来ました。
三日ぶりに逢った彼女の表情には余裕など影も見えず、冷静に振る舞う彼女の所作の端々から焦燥が匂い立ち、そこに至って私はようやく事態の深刻さを理解した様な気がします。
「……やっぱり、眠っているようにしか見えないわね……」
私の家で眠る貴女を診た八意女史は、重々しい溜め息と共にその言葉を吐き出しました。
揺り起こそうとしたり、頬を叩いたり、目蓋をこじ開けて眼球の動きを見たり。彼女は様々な試行を眠る貴女に繰り返しましたが、どれほどの深い眠りに陥っているのか、貴女はそのいずれにも何の反応も示しはしませんでした。
「外傷も無いし、何か特異な能力の影響を受けているようにも見えない。ただ眠っているだけ。異常が全く見られないだけに、どうにも手の施しようが無いわね……」
枕元に座ったまま苛立たしげに天井を仰ぐ彼女を、鈴仙はただ不安げに見つめていました。それはきっと私もまた同じだったのでしょう。穏やかに寝息を立てる貴女を見下ろして、畳の上に正座した私は八意女史が何かを再度口にするのを待ちました。
「――強引に起こしてみては如何でしょう? 妹紅さんも蓬莱人なのですから、多少荒っぽい事をしても平気なのでは?」
鈴仙の提案に、八意女史は力なく首を横に振りました。
「ダメね。それで起きる保証は無いわ。精神と肉体の繋がりが希薄な睡眠時に、精神の器を破壊してしまうような真似は出来ない。肉体が再生するかどうかも判断しかねるし、壊れた器に精神が定着出来なくて、器だけが腐敗してしまうかもしれない」
「で、でも、蓬莱人は死なないんですよね? なら身体が腐敗した所で、再生は可能なのでは無いのですか?」
「平常時の蓬莱人の精神ならばね」
八意女史はチラと貴女の寝顔を眺め、次いで私の表情を窺う様に見た後、再び鈴仙の方へと視線を戻しました。
「確かに蓬莱人の精神――魂は不滅なのだけれど、仮に肉体が再生しなかった場合、魂は外界との接点を失う事になる。そうなったら、自力で目覚めるための刺激を受ける事も無くなってしまう。魂は消滅する事無く、ずっと眠ったままになってしまうかもしれない。今は彼女の魂はこの肉体の中にあるのだけれど、器を失えば意識の無い魂がどこへ行ってしまうのかも判らなくなる。下手な賭けは打てないわね」
鈴仙に説明しつつも、八意女史は何度か私の方にも目をやってきました。つまり言外に『だからお前も余計な事はするな』と釘を刺しているということを意味していました。
唇を噛んで、叫び出したいほどの無力感に耐えねばなりませんでした。
通常の睡眠と何ら変わりない貴女の現状。しかし、どれほど起こそうと試みても、貴女は起きてはくれないのです。貴女の異常を知りながら、ただ待つ事しか出来ない身のどれほど苦しい事か。
「……しかし、何の前兆も異常も無く、ただ眠り続けるなんて事が可能なのでしょうか?」
鈴仙が貴女の手を取って脈拍を測りながら私を見て、そして八意女史へと視線を向けました。
「蓬莱人だから、栄養失調とか床擦れとかの心配は無いのでしょうけど、それでもやっぱり身体には負担も掛かるでしょうし、私は詳しい事は判りませんが、夢を見続ける事に対する精神的な負担も大きいのではないでしょうか?」
「――夢……夢ねぇ……」
独り言のように曖昧な返事をした八意女史は中腰になり、貴女の寝顔を真正面から見る事の出来る体勢を取りました。
「随分と幸せな夢を見てるんでしょうね……こんなに穏やかな寝顔ですもの」
しばらく貴女の顔を眺めた彼女は肩を竦めると溜め息を吐いて立ち上がり、身体を伸ばしました。
「……兎に角、現状では私たちに出来る事は無いわ。彼女が自然に目を覚ます事を待ちましょう」
そう言って彼女は持って来た鞄を手にすると、貴女の寝顔を眺めていた鈴仙の肩を叩いて帰る意志を表しました。鈴仙は慌てて立ち上がり、憐憫のこもった表情で私に小さく頭を下げました。
「――貴女も辛いでしょうけど、耐えて頂戴」
障子に手を掛けた八意女史は、思い出した様に振り返って私に言いました。
私は、何の返事もすることが出来ませんでした。
往診に来てくれた二人を見送る事も出来ず、湖の底に堆積した泥の様な憂鬱を噛みしめながら、ジッと貴女を見ていました。
さて。
説明はもうこのくらいで良いでしょう。
私は貴女が目を覚ましてくれるのを、ずっとずっと待っていました。
寺子屋で勉強を教えている時も、新たな異変が幻想郷に起きる度に人里を守っている時も、食事の時もお酒を飲んでいる時も、私の心には貴女が目を覚ましてくれる日への待望が巣くい続けました。
食事は必ず寝室で取る習慣が身に付きました。貴女の隣に布団を敷き、貴女と共に眠り、目を覚ませばすぐに貴女がまだ眠っている事を確認して、溜め息を吐く生活が始まりました。
やがて訪れた新年の三が日は、ご不浄に向かう時以外は寝室から一歩も出る事無く過ごしました。長い冬が終わり、春と共に冬眠にも似た貴女の長い眠りが覚める事を期待しました。その期待は初夏の訪れとともに薄まって行きました。
摩耗した心で日々を送っている内に、一年越しの岩魚釣りの約束をした日が来ました。
その日もやはり、貴女は起きる事はありませんでした。
準備した釣り道具を仕舞う作業も、二度目とあって手慣れた物ではありましたが、手際の良さは虚しさを生むばかりでした。
あの時の往診から、丁度一年。
八意女史が再び私の家にやって来た時に、彼女の口から貴女が眠り続ける理由が語られました。
曰く、貴女はただ眠っている、と言う訳では無く、夢を見ているのだ、と。
その違いがその時の私には良く判らなかったのですが、身体や脳の単なる休息である睡眠と、記憶の整理である夢とは、厳密には違うのだと聞きました。
――記憶の整理。
眠り続ける貴女は、ずっとずっと、夢を見る事によって記憶を整理し続けているのだそうです。起きている時に体験した記憶の整理。それは、これまで千年以上を生きて来た貴女にとって、それはそれは膨大な量になるのでしょう。
それでは何故、蓬莱山輝夜と八意永琳には、貴女の様に超長時間の記憶の整理が起
こらなかったのでしょう?
私が八意女史に尋ねると、常に余裕のある表情を浮かべる彼女にはそぐわない、寺子屋で私に叱られる子供の様に悲痛な表情で彼女は説明しました。
環境の違い――だそうです。
輝夜と八意女史は貴女と同じ蓬莱人で月の世界からの逃亡者なれど、同じ不死身の者同士、肩を寄せ合って生きて来ました。逃亡生活の中に置いても、精神を安らがせる時間や環境があったから、通常の人間と同じような睡眠時間、記憶の整理の時間を持つことが出来たと言うのです。
しかし、貴女は違いましたね。
不死身の存在になってしまった元人間の少女が、たった一人で生きて行かなくてはならないと言う環境。頼れる人はおろか、共に生活を送ることの出来る人すら居ない少女の精神は、常に限界ギリギリの物だったのでしょう。夢を見る余裕も無い位に。
それは、今更私や八意女史が考察するまでの事も無い筈です。貴女に宛てたこの手紙においても、私なんぞが貴女の過去を慮った事を説明するのは不合理でしょう。
「……原因は貴女よ」
奥歯を噛みしめながら、八意女史は言いました。
……今でもその言葉を、その言葉から受けた衝撃を、忘れることが出来ません。
「貴女はこの娘と共に住む事によって、この娘に心から安心出来る環境を用意したの。これまでの苦境に置いてまともに記憶の整理をしてこなかった彼女は、そんな安心の最中、きっと無意識に、これまでの記憶を整理し始めた。千年以上にも渡る膨大な記憶の整理を。まともに見る時間も無かった夢を、一気に消化しようとしてる――」
――だから、この娘は起きない。
正座の姿勢すら保てず、私は鈍重に変化していく精神に引っ張られるがままに畳の上へと崩れ落ちました。
人が夢を見る時間は、睡眠時の凡そ四分の一。
一日に八時間眠るとしたならば、二時間程度。
それを千年分以上。
乱暴に計算しても、百年近くになります。
しかも貴女の場合、夢を見る事によって、これまでの人生で掛かった心的外傷の治癒も兼ねているとの事なので、もっと莫大な時間が掛かるかもしれない、との事です。
いつ、夢を見終わるのか。
いつになったら、記憶の整理が終わるのか。
それは、誰にも判らない、と言われました。
……どうしてですか?
どうして、貴女は夢の中に引き籠ってしまったのですか?
心的外傷の治癒を、どうして夢に求めてしまったのですか?
私との生活では、貴女の心は癒されなかったという事ですか?
判ってます。判ってるんです。
貴女を責めても、どうしようも無いと言う事くらい。
こんなことを、貴女に宛てたこの手紙に書いても、どうしようも無いと言う事くらい。
十の春が過ぎました。三十の夏を越しました。五十の約束の日を迎えて、百の冬も通り過ぎて行きました。
それでも、貴女は、まだ、夢を見続けています。
八意女史を引き連れることも無く、輝夜が一人でやって来た事もあります。
乱暴に貴女の胸ぐらを掴んで引き上げたり、弾幕を叩き込もうとしたり、四肢を引き裂こうとしたり。彼女のヒステリックな行動を引き留めるのに、私は随分と骨を折らされました。
でも、それで起きるのなら、彼女の思うままにさせてやれば良いじゃないか、という自暴自棄的な気持ちになったのも、事実です。その時きっと、私と輝夜は共通する感情を抱いていたのではないか、と私は思います。
――ねぇ、妹紅。
私が何度、いっそ貴女が眠ってしまった歴史を無かった事にしてしまおうと思ったか判りますか?
何度、私と共に過ごした日々を無くしてしまえば、起きるかもしれないと思いついたか、貴女は想像出来ますか?
眠り続ける貴女の身体に、耐えきれず涙や拳を落とした事が何度あったと思いますか?
今の私には、眠り続ける貴女の身体と、遠い遠い日の追憶しか残されていないのです。
その追憶を捨ててしまってでも、再び貴女と語らいたいと、何度思った事か。
例え那由多の向こう側の小さな小さな可能性でも、いっその事それに賭けてしまえば良いじゃないか、と思い詰めた夜を何度越したか、貴女には判りますか?
……どうして、こうなってしまったのでしょう?
何がいけなくて、何を間違ってしまったから、こんな辛い今に至る事になってしまったのでしょう?
一緒に住もう、と私が貴女に持ちかけてしまったのが、いけなかったのでしょうか?
貴女に優しくした事は、一人ぼっちの貴女の拠り所になりたいと思った事は、罪ですか?
短かった貴女との生活は、とてもとても楽しい物でした。
私が作ったお味噌汁を、貴女は美味しい美味しいと言って食べてくれましたね。
突然の雨に降られてしまった時には、寺子屋まで傘を持って来てくれましたね。
私の誕生日に、貴女がわざわざ猪を捕まえて来てくれた事。その猪で作った牡丹鍋の味、私は今でもハッキリと覚えています。
徐々に里の人々と打ち解けて行く貴女を見てホッとする反面、少し貴女が遠くなってしまった気がして寂しくなった気持ちも、色褪せる事無く私の記憶の中にあります。
寒い冬の日、こたつに入れた火鉢で足先を温めながら、貴女と色々な昔話を語り合った事だって覚えています。もう、あの時のこたつは捨ててしまいましたが。
貴女と一緒に行った初夏の霧の湖の畔は、涼しくて気持ちの良い風が吹いていましたね。氷精にちょっかいを出されて、子供みたいにはしゃぎながら一緒に遊んでいた貴女の姿は、とても微笑ましくて素敵でした。
輝夜との殺し合いで貴女が大けがを負ってしまった時には、貴女が不死身だという事も忘れて、狼狽したり泣いてしまったりしましたね。「大げさだなぁ」って言って、貴女はくすぐったそうに笑っていましたが、私は今でも、ちっとも大げさな反応なんかじゃなかったと思ってますよ。
一緒に筍を掘りに行った事もありましたよね。鍬が余りに重くてもたつく私を余所に次々と筍を背中の籠に入れて行く貴女に、ちょっぴり対抗心を感じたりもしました。
熊吉さんの所でやっていたお団子屋さん、今ではもう八代目の以蔵さんという人が、立派な後継ぎとして繁盛させています。貴女は熊吉さんの作る胡麻団子が大好きでしたよね。今でも、変わらない味を里の皆に提供し続けていますよ。
博霊の巫女の所に沸いた温泉に、一緒に入りに行った事もありましたね。私の教え子が覗き見を働いているのを見つけて、恥ずかしながら悲鳴を上げて動転する私とは反対に、貴女はすっぽんぽんのまま捕まえに行きましたっけ。きつめのげん骨でお仕置きをしたあの子は、稗田の家に足繁く通う歴史学者になって、幸せな家庭をきちんと築いて、そして老いて死んでいきました。
挙げて行けばキリがない位にある貴女との思い出は、今でも私の一番大切な宝物です。
そんな風に貴女と一緒に過ごした時間のせいで、貴女は眠りから今も覚めてくれません。
――ねぇ、妹紅。
私に、貴女との時間を後悔させないでください。
貴女と出逢わなければ良かった。
貴女との時間を愛しく思わなければ良かった。
――そんな最低な思いを、私に抱かせないでください。
夢を見続ける貴女の表情は、心が痛くなるほどに穏やかで幸せそうに見えます。
その幸せな夢の中には、私も一緒に居るのですか?
そこに居る私はどうして、今こうやって貴女の横で、うじうじと手紙を書く私では無いのですか?
……ごめんなさい。
こんな事読まされても、貴女はどうしようも無いですよね。
この手紙を貴女が読んでいるという事は、もう私は死んでしまっているのですものね。
もう私は、皺くちゃのお婆ちゃんになってしまいました。
仮に貴女が起きて、私を見ても、もう私とは判らないかもしれません。
きっと、もう長くないでしょう。自分で判るんです。
私が手紙を書いている今、庭の梅の木が満開です。
でも、もう次の約束の日まで、私は持たないでしょう。
貴女に置いて行かれてしまった、なんて思ってしまう私を許してください。
貴女を置いて逝ってしまうのは、私の方なんです。
私はもう居ません。
この家は、貴女が望むなら、貴女がそのまま使ってください。要らないなら、誰かに譲るなり、燃やすなり、好きにしてくれて構いません。
妹紅。
出来れば、出来る事なら、私のお墓に参ってくれたら嬉しいです。
それで、一度参ってくれたら、もう私の事は忘れてください。
忘れて、幸せな生活を送ってください。
沢山、酷い事を書いてしまいました。こんな手紙を読ませてしまうなんて、酷い仕打ちだとは思います。
けれど、少しでも貴女と一緒に生活が出来て、私は本当に、本当に、幸せでした。
妹紅。
ありがとう。
そして、ごめんなさい。
さようなら。
上白沢慧音
◆◆◆
目を覚ましてすぐ、早起きをしなくちゃいけなかった事を思い出した私は慌てて布団から跳ね起きた。
障子紙を透かして、明るい太陽の光が寝室を薄らと照らしていることに気付き、あちゃあ、と私は肩を落とす。
「寝坊しちゃったか……」
隣に慧音の布団は無い。そりゃそうか。とっくに起きて準備してくれてたんだろうな。折角約束してたのに、慧音はきっと怒ってるだろうな、と思う。
――それにしても頭の中がすっきりとして、何だか凄く目覚めの良い朝だ。
信じられない位に、素敵な朝。どうしてこんなに目覚めが良いんだろう? 夢の中に慧音が出て来たからかもしれない。なーんつって。慧音に言ってやったらきっと顔を真っ赤にするんだろうな。
立ち上がった私は、強張った身体を少し伸ばしてやる。身体がガチガチだった。
いやあ、それにしても気分が良い。百年くらい寝たかも、なんて慧音に言ったら怒るかな? 怒るだろうな。約束すっぽかして寝坊しちゃったんだし。岩魚釣りは、また明日に延期という事になるかもしれない。
ああ、お腹すいたな。慧音のお味噌汁が恋しくて仕方ない。厚揚げが入ってるやつだと良いな、なんて思って寝室を出ようとした時、机の上に何かが置いてあるのを見つけた。
「何これ? 手紙?」
何だか凄く分厚い封筒の真ん中に、『寝坊助妹紅へ』と慧音の字で書いてあった。
ありゃ、やっぱり怒ってるなぁ。と私はちょっぴり罪悪感を膨らませる。
手紙があるって事は、慧音は出掛けちゃったんだろうか。そんな気がする。家の中に何だか慧音の匂い、っていうか気配が全く無いし。
でも、まあ、こんなに気分が良いとなると、きっとびっくりするような出来事が待ってるぞ、なんて思いながら、空きっ腹の私は手紙を持ったまま食卓へと向かった。
END
おはよう、妹紅。
今日は、いい天気ですか? 目覚めの気分はどうですか? どこか痛い所とか、普段と変わった所とか、有りませんか?
さて、貴女にどこからお話しすれば良いのでしょう。
正直に言って、私にもまだ気持ちの整理が出来ていない話です。
本当は、こんな手紙なんて残さない方が良いのかもしれない。手紙を書いたは良いのだけれど、貴女に読まれるのが嫌で、この手紙も、処分してしまうかもしれない。以前の様に。
単刀直入に言います。
一緒に行こう、って約束した岩魚釣りの事は、忘れてください。
貴女にとっては、つい昨日したばかりの、まだ真新しくキラキラと輝いている約束かも知れない。
だけど、私にとっては違うんです。
……貴女にとっては、何の事か判らないでしょう。
だから、最初から全部説明します。
もしかしたら、貴女は途中で読むのが嫌になるかもしれない。
こんな残酷な手紙を書いた私の事を、憎むかもしれない。
だけれど、私は書かずに居られないのです。伝えずに居られないのです。
私が抱いた様々な感情を手紙の形で貴女にぶつける事は、多分卑怯な事なのでしょう。
目覚めた貴女には、全てを知る必要がある。私には、知らせる義務がある。
そんな言葉を大義名分に、私はその卑怯な仕打ちを貴女にしようとしている。
判ってます。全部、判ってるんです。
私にはどうしようもない事も。この手紙が、貴女への八つ当たりだという事も。
さて、妹紅。まずは一言、謝らせてください。
ごめんなさい。
この先に書いてある言葉は、全部貴女への恨み言です。
読むのが嫌になったら、すぐにでもこの手紙は燃やしてください。
私の事が嫌いになったら、すぐにでも忘れてください。
もうきっと、私はどこにもいません。探しても見つからないでしょう。
それでも妹紅。最初に、一つだけ。一番大切な事だけ、先に書いておきます。
藤原妹紅さん。
私は、貴女に会えて。貴女と少しの間でも共に暮らせて――とても、幸せでした。
始まりは、貴女と岩魚釣りの約束をした翌日の朝の事でした。
あらかじめ言っておきますがそれは、貴女がこの手紙を読んでいる、この日の事ではありません。
岩魚に限らず、川魚を釣るのに絶好の時間は、早朝。まだ日も登り切らない内に支度をして、河の上流に行かないと間に合いません。そうでないと、魚が食事を済ませてしまって、餌に食いついてくれないからです。
まだ日も登ってない早朝に目を覚ました私は、まず朝食とオニギリを作りました。空気の入れ替えの為に開け放った障子窓の外に見える里の景色はまだ薄闇に覆われていて、秋も終盤に差し掛かった空気は冷たく、水瓶に突っ込んだ手が感覚を失う程でした。その朝の景色を、感触を、思いを、私は今でも鮮明に覚えています。
「朝だぞ、妹紅」
準備を終えた私は、まだ布団に包まっていた貴女の横で膝を折り、貴女の肩を揺さぶりました。
けれど、貴女は目を覚まさなかったのです。
「……仕方が無い奴だな」
私は小さく溜め息を吐いて竈に火を入れお湯を沸かし、お茶を淹れる準備をしながら、貴女の眠りが浅くなるのを待つことにしました。前日貴女はとても浮かれていて、中々寝付けない様だったのを知っていたので。
お茶の準備はすぐに出来ました。
湯呑に入れた緑茶で、かじかんだ手を温めつつ、私は貴女が起きるのを待ちました。
その内に朝日が昇り、地平線から差す光が人里の街並みをキラキラと照らし始めました。
私は溜め息を吐きました。
この分では、今から上流に向かっても間に合いそうも無い。岩魚釣りは明日に延期だなと、そう思ったからです。
目を覚ましたら貴女はきっと、ガッカリするだろうなと思いました。
それでも仕方が無いですよね。
起きなかった貴女が悪いんです。
休日でしたので特に差し迫った用件がある訳でもなく、私は玄関口に用意していた二人分の釣り道具を片付けると、掃除でもする事にしました。
貴女は少々、だらしが無い所がありますよね。貴女と一つ屋根の下で一緒に住むようになってからという物、私は掃除の頻度を増やさなければならなくなったんですよ?
鋏とか、硯とか、筆とか。出した道具をきちんと戻す。脱いだ服はそのまま打っ棄るのではなく、洗面台の洗濯カゴに入れておく。果物を食べたら、皮や種は机の上に置いたままにしないで、ゴミ箱に捨てる。
そういった基礎的な事が出来ないと、これから先きっと困る事があると私は思いますよ? これまでの生活はどうあれ、貴女には高貴な血が流れているのですから、余計にそういった怠惰は正す必要があるのでは無いでしょうか?
――話が逸れてしまいましたね。ごめんなさい。それでも、ちゃんと書いておきたかったのです。差し出がましい真似を許してください。
正午までに掃除は終わり、夕餉の買い物がてら少し散歩に出た私が家に戻ったのは、昼三つの鐘が鳴った後でした。しかしそれでも、貴女は寝返り一つ打つことなく布団の中で静かな寝息を立てていました。
幾らなんでもおかしい、と私はその時になってようやく気づきました。
確かに貴女は平時から少々寝坊助さんでしたが、どんなに遅くても正午過ぎ辺りには目を覚ましていましたね。
なのに、起きない。
「……妹紅?」
おずおずと、私は貴女の肩を揺すりました。
「妹紅? おい、妹紅、起きろってば……」
少し強く揺すっても、頬っぺたをペチペチと叩いても、貴女は眉一つ動かさずに穏やかな寝顔のままで居ました。
私は蓬莱人の事について、詳しい事は何も知りません。
精々、死なないとか、毒が効かないとか、そんな通り一辺倒の知識しか有りません。蓬莱の薬は月の世界においてさえも禁忌であり、そんな代物についての記述が地上の世界の歴史に綴られている筈もありません。
それでも、自分が目の前にしていた現象が異常なことは明白でした。
――極論を言ってしまえば、死ぬ事の無い蓬莱人には眠りさえも本来不要なはずじゃないか。それなのに幾ら起こそうと働きかけても、それに対する反応すらないのはどう考えても奇妙だ。
そう考えた私は居ても立ってもいられず、藁にも縋る気持ちで永遠亭へと走りました。
私が永遠亭へ向かっている最中に、妹紅が起きたら笑い話にでもしてしまえばいい。事情を聴いた八意女史に鼻で笑われても構わない。
そんな気分で、私は永遠亭の扉を叩きました。
「――目を覚まさない?」
私の話を聞いた八意女史は、そう言って訝しげに私を見て来ました。
その視線にはありありと、『そんな症例は聞いた事も無い』とか、『一体何を言ってるんだ?』といった困惑と疑念の入り混じった感情が窺えました。
「あぁ……起きないんだ。昼三つを過ぎた時刻になっても」
洋風の回転椅子に腰かけた八意女史は、チラと窓の外へ目をやりました。群生する竹の葉の向こう側に窺える空は既に赤く染まり始め、黄金色に輝く雲の前を鴉の小さな群れが横切っていました。
ふぅん……と腕を組んだ八意女史は何やら考えを巡らせるように指先で硬筆を弄び、思い至ったことがあったと見えて私に視線を投げ掛けました。
「……何か、彼女が大きな怪我をした、なんてことは無い? 体細胞の治癒に専念する為に、意識を二、三日途絶させる事はあるのだけれども」
問いかけに私は首を横に振りました。前日の貴女は健康そのもので、ほんの少しの傷すらも作ってはいませんでしたから。
「そう……」
「貴女や、ここの姫の身に同じような事があった例は無いのか?」
「うーん、無いわねぇ……確かにウチの姫も眠る事は好きではあるのだけれども、それだって極々一般的な睡眠時間に留まっているし……」
「そう、か……」
「――でもま、心配すること無いわよ」
肩を落とす私に、八意女史はあっけらかんとした口調で言いました。
「彼女だって蓬莱人よ? 多少眠っている時間が長かったところで、何か身体に不都合がある訳でも無いでしょうに。死ぬことの出来ない存在に対して医者を頼るなんて、魚に息継ぎのコツを教えてやるような物だわ。放っておいて平気でしょ。案外貴女がこんな所でハラハラしている間に、向こうはちゃっかり目を覚まして夕食を待ちわびている頃かもしれないわよ?」
冗談めいた彼女の口調を聞いて、確かにそうかもしれないな、と私は幾分軽くなった気持ちで思いました。
私には少々過保護な部分があるのかもしれない。貴女は蓬莱人ですもの。私が身体の心配をするなんて、おこがましい位の出過ぎた真似なのでしょう。
「……うん。そうだな、考えすぎかもしれないな」
「蓬莱人の体調の心配なんかより、美味しいご飯の支度について考えた方が建設的よ? ウチの姫もそろそろ退屈し始めているみたいだし、また近い内にあの娘を連れて来てあげて。たまには殺し合いでもしないと、刺激が無さ過ぎて心が腐っちゃうわ」
全く保護者然とした余裕ある微笑みを、八意女史は浮かべました。藁にも縋る気分で永遠亭を訪ねて来た自分が愚か者の様に思えて、私も微笑みを返しました。
「判った。それとなく妹紅に伝えておこう」
「そうしてくれると、ありがたいわ」
そんな風にして、その日は永遠亭からお暇しました。
木枯らしが竹の梢を揺らしてサラサラと静かな音を奏でる中、徐々に藍色へと変遷していく空を見て、夕餉を待ちかねている貴女を想像して、家路を急ぎました。
蓬莱人の時間は、半獣半人である私よりもずっと長い。眠っている時間が少々長くなったところで身体に不調がある訳も無い、という八意女史の言葉は不安にかき乱されていた私の心を和らげてくれました。
すっかり夜になってから、ようやく家に着いた私を貴女が待ちかねていることも無く、やはり貴女は布団の中で静かに寝息を立てていました。
落胆しなかった、と言えば嘘になります。
けれど、気長に起きるのを待てばいいか、と私は楽観的な気分で居る事が出来たのです。
浅はかでした。
その日が過ぎて翌日の朝になっても、そのまた翌日の夜になっても、やはり貴女は目を覚ます事はなかったのですから。
沈んだ気持ちで再び永遠亭を訪れた私を迎えたのは、心配げに眉根を歪める鈴仙の顔でした。
人里に薬を売りに来る事もある彼女の事です。既に里での噂を聞いていたのでしょう。私が何かを言うよりも早く「妹紅さんの事ですよね……?」と恐る恐る訪ねて来たのです。
私が頷くと、彼女は何やら痛ましいような落ち着かないような表情で、私から顔を背けました。
「師匠には既に事情を話しています。師匠も頭を抱えていました。これから伺おうと思っていたのですが、構いませんか」
願ってもない話だ、と私は返しました。
語尾が微かに震えているのが自分でも判りました。八意女史が頭を抱えている、という彼女の言葉が私の不安を悪戯に掻きたてたからでしょう。
彼女らの準備が終わるまで玄関口で待たせて貰っていると、奥の襖から蓬莱山輝夜が出て来ました。ほっそりと弱々しく白い彼女の手には似つかない武骨な和鋏を携えていたので、きっと趣味だという盆栽の世話の最中に通り掛かったのだろうと思いました。
彼女は所在無く佇んでいた私の姿を認めると足を止め、無表情に私の顔を見つめて来ました。
輝夜もまた、妹紅の異変に付いて聞いているだろうとは思ったのですが、彼女はただ黙って私の顔を見ているばかりでした。その能面のような表情から、彼女の心中を量る事は出来なかったのですが、それは私が読み取ることが出来なかったというだけで、彼女の頭の中では何か言葉にし難い感情が巡っているのだろう、とだけは理解出来ました。
結局私も彼女も何かを声にすることも無く、彼女は踵を返して廊下の奥の角を曲がって行きました。
妹紅の身を心配しているのだろうか、と私は無難な予測を立てはしましたが、きっとそれを問い質した所で彼女は無言で否定したでしょうし、私の思いつきが彼女の心中を言い当てているという確信も全く持てなかったので、きっともっと複雑に絡んだ感情だったのでしょう。彼女の心中に関しては、きっと貴女の方が詳しいはずです。貴女はそれを不満に思うかもしれませんが。
もう暫く待ったところで先ほど輝夜が消えて行った廊下の角の向こう側から、鈴仙が八意女史を伴ってやって来ました。
三日ぶりに逢った彼女の表情には余裕など影も見えず、冷静に振る舞う彼女の所作の端々から焦燥が匂い立ち、そこに至って私はようやく事態の深刻さを理解した様な気がします。
「……やっぱり、眠っているようにしか見えないわね……」
私の家で眠る貴女を診た八意女史は、重々しい溜め息と共にその言葉を吐き出しました。
揺り起こそうとしたり、頬を叩いたり、目蓋をこじ開けて眼球の動きを見たり。彼女は様々な試行を眠る貴女に繰り返しましたが、どれほどの深い眠りに陥っているのか、貴女はそのいずれにも何の反応も示しはしませんでした。
「外傷も無いし、何か特異な能力の影響を受けているようにも見えない。ただ眠っているだけ。異常が全く見られないだけに、どうにも手の施しようが無いわね……」
枕元に座ったまま苛立たしげに天井を仰ぐ彼女を、鈴仙はただ不安げに見つめていました。それはきっと私もまた同じだったのでしょう。穏やかに寝息を立てる貴女を見下ろして、畳の上に正座した私は八意女史が何かを再度口にするのを待ちました。
「――強引に起こしてみては如何でしょう? 妹紅さんも蓬莱人なのですから、多少荒っぽい事をしても平気なのでは?」
鈴仙の提案に、八意女史は力なく首を横に振りました。
「ダメね。それで起きる保証は無いわ。精神と肉体の繋がりが希薄な睡眠時に、精神の器を破壊してしまうような真似は出来ない。肉体が再生するかどうかも判断しかねるし、壊れた器に精神が定着出来なくて、器だけが腐敗してしまうかもしれない」
「で、でも、蓬莱人は死なないんですよね? なら身体が腐敗した所で、再生は可能なのでは無いのですか?」
「平常時の蓬莱人の精神ならばね」
八意女史はチラと貴女の寝顔を眺め、次いで私の表情を窺う様に見た後、再び鈴仙の方へと視線を戻しました。
「確かに蓬莱人の精神――魂は不滅なのだけれど、仮に肉体が再生しなかった場合、魂は外界との接点を失う事になる。そうなったら、自力で目覚めるための刺激を受ける事も無くなってしまう。魂は消滅する事無く、ずっと眠ったままになってしまうかもしれない。今は彼女の魂はこの肉体の中にあるのだけれど、器を失えば意識の無い魂がどこへ行ってしまうのかも判らなくなる。下手な賭けは打てないわね」
鈴仙に説明しつつも、八意女史は何度か私の方にも目をやってきました。つまり言外に『だからお前も余計な事はするな』と釘を刺しているということを意味していました。
唇を噛んで、叫び出したいほどの無力感に耐えねばなりませんでした。
通常の睡眠と何ら変わりない貴女の現状。しかし、どれほど起こそうと試みても、貴女は起きてはくれないのです。貴女の異常を知りながら、ただ待つ事しか出来ない身のどれほど苦しい事か。
「……しかし、何の前兆も異常も無く、ただ眠り続けるなんて事が可能なのでしょうか?」
鈴仙が貴女の手を取って脈拍を測りながら私を見て、そして八意女史へと視線を向けました。
「蓬莱人だから、栄養失調とか床擦れとかの心配は無いのでしょうけど、それでもやっぱり身体には負担も掛かるでしょうし、私は詳しい事は判りませんが、夢を見続ける事に対する精神的な負担も大きいのではないでしょうか?」
「――夢……夢ねぇ……」
独り言のように曖昧な返事をした八意女史は中腰になり、貴女の寝顔を真正面から見る事の出来る体勢を取りました。
「随分と幸せな夢を見てるんでしょうね……こんなに穏やかな寝顔ですもの」
しばらく貴女の顔を眺めた彼女は肩を竦めると溜め息を吐いて立ち上がり、身体を伸ばしました。
「……兎に角、現状では私たちに出来る事は無いわ。彼女が自然に目を覚ます事を待ちましょう」
そう言って彼女は持って来た鞄を手にすると、貴女の寝顔を眺めていた鈴仙の肩を叩いて帰る意志を表しました。鈴仙は慌てて立ち上がり、憐憫のこもった表情で私に小さく頭を下げました。
「――貴女も辛いでしょうけど、耐えて頂戴」
障子に手を掛けた八意女史は、思い出した様に振り返って私に言いました。
私は、何の返事もすることが出来ませんでした。
往診に来てくれた二人を見送る事も出来ず、湖の底に堆積した泥の様な憂鬱を噛みしめながら、ジッと貴女を見ていました。
さて。
説明はもうこのくらいで良いでしょう。
私は貴女が目を覚ましてくれるのを、ずっとずっと待っていました。
寺子屋で勉強を教えている時も、新たな異変が幻想郷に起きる度に人里を守っている時も、食事の時もお酒を飲んでいる時も、私の心には貴女が目を覚ましてくれる日への待望が巣くい続けました。
食事は必ず寝室で取る習慣が身に付きました。貴女の隣に布団を敷き、貴女と共に眠り、目を覚ませばすぐに貴女がまだ眠っている事を確認して、溜め息を吐く生活が始まりました。
やがて訪れた新年の三が日は、ご不浄に向かう時以外は寝室から一歩も出る事無く過ごしました。長い冬が終わり、春と共に冬眠にも似た貴女の長い眠りが覚める事を期待しました。その期待は初夏の訪れとともに薄まって行きました。
摩耗した心で日々を送っている内に、一年越しの岩魚釣りの約束をした日が来ました。
その日もやはり、貴女は起きる事はありませんでした。
準備した釣り道具を仕舞う作業も、二度目とあって手慣れた物ではありましたが、手際の良さは虚しさを生むばかりでした。
あの時の往診から、丁度一年。
八意女史が再び私の家にやって来た時に、彼女の口から貴女が眠り続ける理由が語られました。
曰く、貴女はただ眠っている、と言う訳では無く、夢を見ているのだ、と。
その違いがその時の私には良く判らなかったのですが、身体や脳の単なる休息である睡眠と、記憶の整理である夢とは、厳密には違うのだと聞きました。
――記憶の整理。
眠り続ける貴女は、ずっとずっと、夢を見る事によって記憶を整理し続けているのだそうです。起きている時に体験した記憶の整理。それは、これまで千年以上を生きて来た貴女にとって、それはそれは膨大な量になるのでしょう。
それでは何故、蓬莱山輝夜と八意永琳には、貴女の様に超長時間の記憶の整理が起
こらなかったのでしょう?
私が八意女史に尋ねると、常に余裕のある表情を浮かべる彼女にはそぐわない、寺子屋で私に叱られる子供の様に悲痛な表情で彼女は説明しました。
環境の違い――だそうです。
輝夜と八意女史は貴女と同じ蓬莱人で月の世界からの逃亡者なれど、同じ不死身の者同士、肩を寄せ合って生きて来ました。逃亡生活の中に置いても、精神を安らがせる時間や環境があったから、通常の人間と同じような睡眠時間、記憶の整理の時間を持つことが出来たと言うのです。
しかし、貴女は違いましたね。
不死身の存在になってしまった元人間の少女が、たった一人で生きて行かなくてはならないと言う環境。頼れる人はおろか、共に生活を送ることの出来る人すら居ない少女の精神は、常に限界ギリギリの物だったのでしょう。夢を見る余裕も無い位に。
それは、今更私や八意女史が考察するまでの事も無い筈です。貴女に宛てたこの手紙においても、私なんぞが貴女の過去を慮った事を説明するのは不合理でしょう。
「……原因は貴女よ」
奥歯を噛みしめながら、八意女史は言いました。
……今でもその言葉を、その言葉から受けた衝撃を、忘れることが出来ません。
「貴女はこの娘と共に住む事によって、この娘に心から安心出来る環境を用意したの。これまでの苦境に置いてまともに記憶の整理をしてこなかった彼女は、そんな安心の最中、きっと無意識に、これまでの記憶を整理し始めた。千年以上にも渡る膨大な記憶の整理を。まともに見る時間も無かった夢を、一気に消化しようとしてる――」
――だから、この娘は起きない。
正座の姿勢すら保てず、私は鈍重に変化していく精神に引っ張られるがままに畳の上へと崩れ落ちました。
人が夢を見る時間は、睡眠時の凡そ四分の一。
一日に八時間眠るとしたならば、二時間程度。
それを千年分以上。
乱暴に計算しても、百年近くになります。
しかも貴女の場合、夢を見る事によって、これまでの人生で掛かった心的外傷の治癒も兼ねているとの事なので、もっと莫大な時間が掛かるかもしれない、との事です。
いつ、夢を見終わるのか。
いつになったら、記憶の整理が終わるのか。
それは、誰にも判らない、と言われました。
……どうしてですか?
どうして、貴女は夢の中に引き籠ってしまったのですか?
心的外傷の治癒を、どうして夢に求めてしまったのですか?
私との生活では、貴女の心は癒されなかったという事ですか?
判ってます。判ってるんです。
貴女を責めても、どうしようも無いと言う事くらい。
こんなことを、貴女に宛てたこの手紙に書いても、どうしようも無いと言う事くらい。
十の春が過ぎました。三十の夏を越しました。五十の約束の日を迎えて、百の冬も通り過ぎて行きました。
それでも、貴女は、まだ、夢を見続けています。
八意女史を引き連れることも無く、輝夜が一人でやって来た事もあります。
乱暴に貴女の胸ぐらを掴んで引き上げたり、弾幕を叩き込もうとしたり、四肢を引き裂こうとしたり。彼女のヒステリックな行動を引き留めるのに、私は随分と骨を折らされました。
でも、それで起きるのなら、彼女の思うままにさせてやれば良いじゃないか、という自暴自棄的な気持ちになったのも、事実です。その時きっと、私と輝夜は共通する感情を抱いていたのではないか、と私は思います。
――ねぇ、妹紅。
私が何度、いっそ貴女が眠ってしまった歴史を無かった事にしてしまおうと思ったか判りますか?
何度、私と共に過ごした日々を無くしてしまえば、起きるかもしれないと思いついたか、貴女は想像出来ますか?
眠り続ける貴女の身体に、耐えきれず涙や拳を落とした事が何度あったと思いますか?
今の私には、眠り続ける貴女の身体と、遠い遠い日の追憶しか残されていないのです。
その追憶を捨ててしまってでも、再び貴女と語らいたいと、何度思った事か。
例え那由多の向こう側の小さな小さな可能性でも、いっその事それに賭けてしまえば良いじゃないか、と思い詰めた夜を何度越したか、貴女には判りますか?
……どうして、こうなってしまったのでしょう?
何がいけなくて、何を間違ってしまったから、こんな辛い今に至る事になってしまったのでしょう?
一緒に住もう、と私が貴女に持ちかけてしまったのが、いけなかったのでしょうか?
貴女に優しくした事は、一人ぼっちの貴女の拠り所になりたいと思った事は、罪ですか?
短かった貴女との生活は、とてもとても楽しい物でした。
私が作ったお味噌汁を、貴女は美味しい美味しいと言って食べてくれましたね。
突然の雨に降られてしまった時には、寺子屋まで傘を持って来てくれましたね。
私の誕生日に、貴女がわざわざ猪を捕まえて来てくれた事。その猪で作った牡丹鍋の味、私は今でもハッキリと覚えています。
徐々に里の人々と打ち解けて行く貴女を見てホッとする反面、少し貴女が遠くなってしまった気がして寂しくなった気持ちも、色褪せる事無く私の記憶の中にあります。
寒い冬の日、こたつに入れた火鉢で足先を温めながら、貴女と色々な昔話を語り合った事だって覚えています。もう、あの時のこたつは捨ててしまいましたが。
貴女と一緒に行った初夏の霧の湖の畔は、涼しくて気持ちの良い風が吹いていましたね。氷精にちょっかいを出されて、子供みたいにはしゃぎながら一緒に遊んでいた貴女の姿は、とても微笑ましくて素敵でした。
輝夜との殺し合いで貴女が大けがを負ってしまった時には、貴女が不死身だという事も忘れて、狼狽したり泣いてしまったりしましたね。「大げさだなぁ」って言って、貴女はくすぐったそうに笑っていましたが、私は今でも、ちっとも大げさな反応なんかじゃなかったと思ってますよ。
一緒に筍を掘りに行った事もありましたよね。鍬が余りに重くてもたつく私を余所に次々と筍を背中の籠に入れて行く貴女に、ちょっぴり対抗心を感じたりもしました。
熊吉さんの所でやっていたお団子屋さん、今ではもう八代目の以蔵さんという人が、立派な後継ぎとして繁盛させています。貴女は熊吉さんの作る胡麻団子が大好きでしたよね。今でも、変わらない味を里の皆に提供し続けていますよ。
博霊の巫女の所に沸いた温泉に、一緒に入りに行った事もありましたね。私の教え子が覗き見を働いているのを見つけて、恥ずかしながら悲鳴を上げて動転する私とは反対に、貴女はすっぽんぽんのまま捕まえに行きましたっけ。きつめのげん骨でお仕置きをしたあの子は、稗田の家に足繁く通う歴史学者になって、幸せな家庭をきちんと築いて、そして老いて死んでいきました。
挙げて行けばキリがない位にある貴女との思い出は、今でも私の一番大切な宝物です。
そんな風に貴女と一緒に過ごした時間のせいで、貴女は眠りから今も覚めてくれません。
――ねぇ、妹紅。
私に、貴女との時間を後悔させないでください。
貴女と出逢わなければ良かった。
貴女との時間を愛しく思わなければ良かった。
――そんな最低な思いを、私に抱かせないでください。
夢を見続ける貴女の表情は、心が痛くなるほどに穏やかで幸せそうに見えます。
その幸せな夢の中には、私も一緒に居るのですか?
そこに居る私はどうして、今こうやって貴女の横で、うじうじと手紙を書く私では無いのですか?
……ごめんなさい。
こんな事読まされても、貴女はどうしようも無いですよね。
この手紙を貴女が読んでいるという事は、もう私は死んでしまっているのですものね。
もう私は、皺くちゃのお婆ちゃんになってしまいました。
仮に貴女が起きて、私を見ても、もう私とは判らないかもしれません。
きっと、もう長くないでしょう。自分で判るんです。
私が手紙を書いている今、庭の梅の木が満開です。
でも、もう次の約束の日まで、私は持たないでしょう。
貴女に置いて行かれてしまった、なんて思ってしまう私を許してください。
貴女を置いて逝ってしまうのは、私の方なんです。
私はもう居ません。
この家は、貴女が望むなら、貴女がそのまま使ってください。要らないなら、誰かに譲るなり、燃やすなり、好きにしてくれて構いません。
妹紅。
出来れば、出来る事なら、私のお墓に参ってくれたら嬉しいです。
それで、一度参ってくれたら、もう私の事は忘れてください。
忘れて、幸せな生活を送ってください。
沢山、酷い事を書いてしまいました。こんな手紙を読ませてしまうなんて、酷い仕打ちだとは思います。
けれど、少しでも貴女と一緒に生活が出来て、私は本当に、本当に、幸せでした。
妹紅。
ありがとう。
そして、ごめんなさい。
さようなら。
上白沢慧音
◆◆◆
目を覚ましてすぐ、早起きをしなくちゃいけなかった事を思い出した私は慌てて布団から跳ね起きた。
障子紙を透かして、明るい太陽の光が寝室を薄らと照らしていることに気付き、あちゃあ、と私は肩を落とす。
「寝坊しちゃったか……」
隣に慧音の布団は無い。そりゃそうか。とっくに起きて準備してくれてたんだろうな。折角約束してたのに、慧音はきっと怒ってるだろうな、と思う。
――それにしても頭の中がすっきりとして、何だか凄く目覚めの良い朝だ。
信じられない位に、素敵な朝。どうしてこんなに目覚めが良いんだろう? 夢の中に慧音が出て来たからかもしれない。なーんつって。慧音に言ってやったらきっと顔を真っ赤にするんだろうな。
立ち上がった私は、強張った身体を少し伸ばしてやる。身体がガチガチだった。
いやあ、それにしても気分が良い。百年くらい寝たかも、なんて慧音に言ったら怒るかな? 怒るだろうな。約束すっぽかして寝坊しちゃったんだし。岩魚釣りは、また明日に延期という事になるかもしれない。
ああ、お腹すいたな。慧音のお味噌汁が恋しくて仕方ない。厚揚げが入ってるやつだと良いな、なんて思って寝室を出ようとした時、机の上に何かが置いてあるのを見つけた。
「何これ? 手紙?」
何だか凄く分厚い封筒の真ん中に、『寝坊助妹紅へ』と慧音の字で書いてあった。
ありゃ、やっぱり怒ってるなぁ。と私はちょっぴり罪悪感を膨らませる。
手紙があるって事は、慧音は出掛けちゃったんだろうか。そんな気がする。家の中に何だか慧音の匂い、っていうか気配が全く無いし。
でも、まあ、こんなに気分が良いとなると、きっとびっくりするような出来事が待ってるぞ、なんて思いながら、空きっ腹の私は手紙を持ったまま食卓へと向かった。
END
後に起こる状況が想像できそうな何かの余韻と言うか
思い出を語る所がちょっと冗長な気がしたのでそこだけ少し減点させて頂きますが、
こういう雰囲気は好きです
100年以上は重い。そして最後の妹紅の日常通りの態度が物悲しいです
ノスタルジーでありつつ滅びの美学的な空気がある。
拠り所になれたから眠り続けてしまったと思うと酷い皮肉な話です
このあと手紙を読んだ妹紅が何を感じどうなってしまうのかを思うと切ないですね
妹紅が起きないことの説明をちゃんと入れたのがよかった。
無表情に慧音と見つめあう、輝夜の場面が印象的でした。
距離が近づいたからこそ遠くなってしまったなら歴史を食べてしまえばいいのに最後まで食べなかった慧音が好きです。
びっくりするような出来事が取り返しがつかない出来事だと知る妹紅のこれからを想像すると胸に来るものがあります…。
慧音が置いて行かれたんだけど、最後に置いて行かれるのは蓬莱人なのか。
なによりも最後の手紙を見る前の妹紅の態度を見ると見た後がな…
幸せ…だったからこそ不幸になるなんてな…
妹紅が夢に閉じこもらないといいんだけど…この後を想像したくないなぁ
今頃ふと思ったんだけどなんで
寝坊助妹紅へって慧音は書いたんだろう?中身を考えると妹紅が余計に辛くなりそうだが
置いていかれた事に対する最期の悪戯みたいな感じだったんだろうか
1000年超の記憶には楽しいことだけではなかっただろうに幸せな夢を見た妹紅。
残酷な現実はありますが、それだけは救いなように思えました。