ああ、扇風機のない生活がうらめしい。
夜風にあたって少しでも体を冷やそうと神社の縁側で座っていると、ついぼやきの一つも出てしまう。ニ柱のお二人はもう眠りにつかれたのだろうか。
人や動物が寝静まる亥の刻だというのに、暑さのせいでちっとも眠れやしない。うちわで事足りるだろうと考えていた自分が甘かった。これでは冬の到来が思いやられる。
幻想世界に渡る時、電気のない文明で生きる覚悟はしてきたつもりだ。しかし失うつらさとは、失って初めて理解できるものだ。
空を見上げると、白くとげとげしく光る月があった。今日は十六夜らしい。まったく、電気がない世界で見る月はこんなに自信に満ちているものなのか。
いつまでこの無神経な暑さは続くのだろう、つくつく法師の声も消えていく季節であるというのに。
秋がすぐそこまで来ていることも知らず、飽きもせず夏の残り香をまきちらすあの鳴き声である。
夜にも蝉が鳴くことに気づいて驚いたのは、いつだったっけ。
あの頃は現人神たる自覚を抱く必要もなく、ただ友達とボールを蹴って蝉をつかまえていればよかった。
私にとって、蝉の鳴き声は虫採り競争で優勝をした私をたたえる祝福だった。私は虫採りが得意だったのだ。
しかし、その時はまだ知らなかった。いつの日か、この声を聞きながら私はかけがえのないものを失ってしまうことに。
普通の人は二柱のお二人が見えないということに、私はしばらく気付かなかった。
幼い内は、それでもまだ良い。幼稚園児ぐらいの子どもが何もないところで一人でしゃべっていても、大人は微笑ましい一人遊びとしか思わない。
しかし成長するにつれ、やがて周りの反応は不気味なものを見る目に変わっていき、冷たいものになった。
元々両親もなく、むきになって神様がいると主張する私を、しだいに誰も相手にしなくなっていく。
一人、また一人と、時間が私の元から友達を奪っていく。
結局、孤立した状態になるまで私は「何も語らずに黙っている」という選択肢を選ばなかった。
神様の存在を主張することをやめてからは、また少しずつ友人も増えていった。
皆いい人であり、私によくしてくれたが、それでも胸につかえた重圧は私を離さなかった。
誰も私を理解してくれない。あまりにも変わった子だから。
私以外に、神奈子様や諏訪子様を見ることができる人はいない。まして、私以外に奇跡を起こす力を持つ人間はいない。
思春期の私の頭が受け入れるには、それはあまりにも重すぎた。
人を弱らせる一番効果的な方法は、その人の存在を認めず、受け入れないことだ。
まるで何かに閉じ込められているよう。
誰からも理解されない。私は錆びた空気のかたまりが体を押しつぶしていくような毎日を過ごしていた。
しかしただ一人、昔からずっと友達でいつづけた男の子がいた。
馬鹿にされ、孤立していた私をかばい、二人でよく遊んでいた。
二人で野原をかけめぐり、サッカーボールを追いかけた日々を今でも覚えている。
あの人なら、私を分かってくれるだろうか?
本当のことを打ち明け、この私の生まれ落ちた宿命を分かちあってくれるのであれば…
馬鹿馬鹿しい。
この運命を背負った風祝は自らの出自を言外してはならない。それが掟だ。
それに…それに、彼と向き合っている時、私の脳裏には常に一つの想いがへばりついていた。
もし、彼にすら私の存在を否定されたら。
彼に二人きりで話がしたいと持ちかけられたのは、高校に上がって最初の夏。
縁日の夜だった。
―――――――
つくつく法師がよく鳴く、もう夏も終わりかけている日だった。
神社にはまばゆい裸電球がともった屋台がひしめきあい、お祭りはもう終わりに近づいているのに人と人の熱気で満ちていた。
屋台で焼きそばを作る人も階段に座ってタコ焼きを食べる人も、ここの神社の神様に興味を持つ人はいない。
みんなこのお祭りを楽しみたいだけだ。祭神の名を知っている人もほとんどいないだろう。
わたあめのいい匂いが鼻に届く。金魚すくいか、もう何年やってないっけ。
黄金の射光を照らす電球の下に、鮮やかな青い光沢をもつビニールのプールで金魚が泳いでいる。
わざとらしいぐらいに青々とした藍色だ。空気を送るポンプの音がしずかに響く。
このせまい空間に満ちた水の中で、深い赤色をおびた金魚は力なくうろうろしている。他にやることもないのだろう。
そんな光景を見るともなしに見ていたので、隣を歩いていた彼に話しかけられた時は少し驚いてしまった。
大事な話がある。一緒に神社の裏に来てくれないか?
こんなに真面目な顔をする彼の顔を見るのは、久しぶりだった気がする。
神社の裏は、予想通りの無人だった。
口を一文字にきつく閉じた彼がこちらを振り返る。彼は意を決して自分を奮い立たせる時、決まっていつもこの表情をするのだ。
そんな彼の口から出た言葉は、私にプレゼントがしたいという内容だった。
普通の女の子なら、ここまでくれば彼の言いたいことは手に取るように分かるのだろう。
しかし、私は彼の言葉の意図を理解できなかった。私は馬鹿みたいに彼の言葉をおうむ返しするだけだった。
「プレゼント?私に?」
「女の好みとか分からないけど、その…よければ受け取ってほしい」
彼は足元の石畳をにらみながら、ぶっきらぼうに右手を私に差し出した。
鈍感とよく言われる私だが、この時初めて彼の意図を理解することができた。
私は告白されたのだ。10年近くもの間、幼馴染として付き添ってきた人に。共にボールを蹴り、二人だけで冒険をした彼に。
その瞬間、胸がはちきれんばかりに鼓動が大きくなるのを感じた。意識を平静にとどめるだけで精一杯である。
私は今、どんな顔をしているのだろう。他人から明確な好意を寄せられるという初めての経験は、私の思考を麻痺させる。
長年の間、当たり前のように見てきたはずの彼の顔を、今はまともに見ることができない。
とりあえず返事をしないと。そうだ、彼のプレゼントを受け取らねば。
彼はどんなものをくれるのだろう。私をよく理解している彼は、告白のプレゼントに何を選んだのだろう。
私は視線を彼の右手の中に投げた。ああ、暗くてよく見えない。目をこらさないと――――
私の目が彼の右手にあるものをとらえた時、私は冷や水をぶちまけられた感覚をおぼえた。
それは緑色の生き物の顔が描かれた髪飾りだった。かえる。そう、かえるの髪飾りだった。
ああ、そうだった。私は神の力を宿すもの。奇跡を司る存在。
何を舞い上がっていたと言うのか。手と手が触れ合う距離で向かい合っているはずの彼が、ひどく遠く感じる。
だいたい、こういうものはラッピングをして渡すのが常識だろうに。ふざけた偶然。守矢の血をもって生まれた者の運命。
神社を覆う森の闇がいっそう密度を増しているように感じる。いつの間にかお祭りの音は消えてなくなっていた。
目の前のかえるは深く黒々とした眼でこちらを見ている。物言わぬ視線。いや、こちらに有無を言わせぬ視線だ。
お前は守矢たる現人神。人から理解され、共感されるはずのない身である。
髪飾りがそう語りかけているように感じた。
いや、まだ、分からない。
彼から髪飾りを受け取った時、私はわずかな可能性にすがりたい気持ちに支配されていた。
理解されたい。願わくば、この血の苦しみを分かち合ってくれる人がいるならば。
およそ常識ではありえぬ数奇なこの宿命も、この人にだけは―――
この場で崩れ落ちずにかろうじて立っていられたのは、救いを期待するかすかな望みだけだった。
彼の口から、付き合ってほしいと、そう言っているのがかろうじて聞きとれた。
それだけではない。どこからか、私の弱った心を狙ったかのようなささやきが、たしかに頭の中で響いた。
(そうだ、言ってしまえ早苗。神社の掟など関係ない。本当のことを言うのだ)
だめだ、風祝の秘密を他言するのは重罪。できるはずがない。私は今までそうして生きてきたのだ。
(ではお前はそうやって自分をひた隠し、生涯他人を騙して生きていくのか?)
詭弁だ。それが守矢の運命だ。
(そうして共に幼年時代をすごした彼ですら、お前は本当の自分を見せず、人の皮をかぶり欺くのか)
頭の中を問いがぐるぐる回ってかけめぐっていく。吐き気がひどい。
つくつく法師の声だけが、相も変わらず夜の闇でこだまする。
「あなたは神を信じますか?」
「…え?」
「私は現人神。人でありながら守矢の神の血を引く風祝。」
「そんな…」
「信じてくれますか、私を」
一通りしゃべった後になって、初めて自分が敬語でしゃべっている事に気がついた。
なぜこんな口調でしゃべったのか?いや、まず問うべきはなぜ自分はこんな事を言ったのかだ。
本当の自分を理解してほしかったとでもいうのか。バカな。
私の意思は、ささやきに負けてしまった。言ってはならないことを言ってしまったのだ、私は。
黒い沈黙の中、つくつく法師だけが鳴き続けている。こんな時に呑気に鳴いているのが鬱陶しい。幼いころに散々つかまえた仕返しかもしれない。
今の自分はさぞかし後悔に満ちた間抜けな顔をしているだろう。
おかしな冗談だと笑い飛ばしてくれればいい。
もっとうまい断り方があるだろうと抗議してくれればいいのに。
いっそ馬鹿にするなと怒ってくれればよかったのに。
どうして、あなたはそんな悲しい顔をするの?
どうかそんなに戸惑った眼で私を見ないで。
何でもいいから何かしゃべって。
否定しないあなたの無言が、私の胸にとがった爪をつき立てていく。
何も言わないあなたの優しさが、私のかすかな望みを打ち砕いていく。
黒々と葉をつけた周りの木々がぐにゃりと曲がっていくのが見える。
微かな苦い笑みすら浮かべている、彼の顔もぼやけてきた。
私はとりかえしのつかない事をしてしまった。それとも、これが人ならざるものの運命か。
永遠にも思えた沈黙は、彼が小さく発した「ごめん」という一言で破られた。
その後のことはよく覚えていない。髪飾りを返そうとして断られたことを除いては。
幼いころから共にいた人にすら、私は決して理解されない。その事実だけが、私の頭にのしかかることとなった。私は幼馴染とその人の好意を失ったのだ。
あの日以来私は彼を避けるようになった。違う高校に入ってからは連絡をとることもなくなった。ただ、今でもサッカーをやっているとだけ聞いている。
私は彼のことが好きだったのだろうか?余計な事を言わず、あの時にただ一言「はい」とだけ言っていれば、違う未来があったのだろうか。
私には分からない。自分のことを分かってくれる人がそばにいるという感覚が。
あの人達はお互いを本当に理解し、認め合っているんだろうかと、道行く恋人を眺めながらいつも考えてしまう。
あるいは、神は最初から救いなど求めてはいけないのだろうか。道にころがっているつくつく法師の死骸を眺めながら考える。
―――――――
タンスの奥にしまっていたこの髪飾りを、私は幻想郷に移り住んでから髪につけるようになった。この世界には、私以外にこの髪飾りを覚えている人間などいないから。
そうだ、せっかくだから蛇の髪飾りもつけてみよう。人里で探せば見つかるかもしれない。
この蛙の髪飾りをつけているのを見て諏訪子様は喜んでくださった。神奈子様の分もないと、きっと不公平だから。
私は、この世界に来てから常に敬語で話すようになった。
神奈子様や諏訪子様にはずいぶん訝しがられたが、普通でない世界はおそらく普通でないルールで回っているのだ。
ならば神であり人である存在ほどこの世界にふさわしい者もそうそういないだろう。
幻想たる世界に住む幻想じみた存在は、普通の口調で話すべきではないのだ。
ここにはテレビもドライヤーも電灯も、冷蔵庫もリップクリームもない。
しかし、ここで私が失ったものはそれ以外には何もない。神奈子様や諏訪子様も変わらずそばにいてくださる。
洗濯機で服を洗う毎日も洗濯板で服を洗う毎日も、何の違いもない。
胸の痛みを乗り越える営みは、どんな生活を送っていてもできる。
いや、それをせねばならないのが人間である。
彼は今、あの町のどこかでつくつく法師の鳴き声を聞いているんだろうか。
―――さて、明日からお祭りの準備をしないと。
夜風にあたって少しでも体を冷やそうと神社の縁側で座っていると、ついぼやきの一つも出てしまう。ニ柱のお二人はもう眠りにつかれたのだろうか。
人や動物が寝静まる亥の刻だというのに、暑さのせいでちっとも眠れやしない。うちわで事足りるだろうと考えていた自分が甘かった。これでは冬の到来が思いやられる。
幻想世界に渡る時、電気のない文明で生きる覚悟はしてきたつもりだ。しかし失うつらさとは、失って初めて理解できるものだ。
空を見上げると、白くとげとげしく光る月があった。今日は十六夜らしい。まったく、電気がない世界で見る月はこんなに自信に満ちているものなのか。
いつまでこの無神経な暑さは続くのだろう、つくつく法師の声も消えていく季節であるというのに。
秋がすぐそこまで来ていることも知らず、飽きもせず夏の残り香をまきちらすあの鳴き声である。
夜にも蝉が鳴くことに気づいて驚いたのは、いつだったっけ。
あの頃は現人神たる自覚を抱く必要もなく、ただ友達とボールを蹴って蝉をつかまえていればよかった。
私にとって、蝉の鳴き声は虫採り競争で優勝をした私をたたえる祝福だった。私は虫採りが得意だったのだ。
しかし、その時はまだ知らなかった。いつの日か、この声を聞きながら私はかけがえのないものを失ってしまうことに。
普通の人は二柱のお二人が見えないということに、私はしばらく気付かなかった。
幼い内は、それでもまだ良い。幼稚園児ぐらいの子どもが何もないところで一人でしゃべっていても、大人は微笑ましい一人遊びとしか思わない。
しかし成長するにつれ、やがて周りの反応は不気味なものを見る目に変わっていき、冷たいものになった。
元々両親もなく、むきになって神様がいると主張する私を、しだいに誰も相手にしなくなっていく。
一人、また一人と、時間が私の元から友達を奪っていく。
結局、孤立した状態になるまで私は「何も語らずに黙っている」という選択肢を選ばなかった。
神様の存在を主張することをやめてからは、また少しずつ友人も増えていった。
皆いい人であり、私によくしてくれたが、それでも胸につかえた重圧は私を離さなかった。
誰も私を理解してくれない。あまりにも変わった子だから。
私以外に、神奈子様や諏訪子様を見ることができる人はいない。まして、私以外に奇跡を起こす力を持つ人間はいない。
思春期の私の頭が受け入れるには、それはあまりにも重すぎた。
人を弱らせる一番効果的な方法は、その人の存在を認めず、受け入れないことだ。
まるで何かに閉じ込められているよう。
誰からも理解されない。私は錆びた空気のかたまりが体を押しつぶしていくような毎日を過ごしていた。
しかしただ一人、昔からずっと友達でいつづけた男の子がいた。
馬鹿にされ、孤立していた私をかばい、二人でよく遊んでいた。
二人で野原をかけめぐり、サッカーボールを追いかけた日々を今でも覚えている。
あの人なら、私を分かってくれるだろうか?
本当のことを打ち明け、この私の生まれ落ちた宿命を分かちあってくれるのであれば…
馬鹿馬鹿しい。
この運命を背負った風祝は自らの出自を言外してはならない。それが掟だ。
それに…それに、彼と向き合っている時、私の脳裏には常に一つの想いがへばりついていた。
もし、彼にすら私の存在を否定されたら。
彼に二人きりで話がしたいと持ちかけられたのは、高校に上がって最初の夏。
縁日の夜だった。
―――――――
つくつく法師がよく鳴く、もう夏も終わりかけている日だった。
神社にはまばゆい裸電球がともった屋台がひしめきあい、お祭りはもう終わりに近づいているのに人と人の熱気で満ちていた。
屋台で焼きそばを作る人も階段に座ってタコ焼きを食べる人も、ここの神社の神様に興味を持つ人はいない。
みんなこのお祭りを楽しみたいだけだ。祭神の名を知っている人もほとんどいないだろう。
わたあめのいい匂いが鼻に届く。金魚すくいか、もう何年やってないっけ。
黄金の射光を照らす電球の下に、鮮やかな青い光沢をもつビニールのプールで金魚が泳いでいる。
わざとらしいぐらいに青々とした藍色だ。空気を送るポンプの音がしずかに響く。
このせまい空間に満ちた水の中で、深い赤色をおびた金魚は力なくうろうろしている。他にやることもないのだろう。
そんな光景を見るともなしに見ていたので、隣を歩いていた彼に話しかけられた時は少し驚いてしまった。
大事な話がある。一緒に神社の裏に来てくれないか?
こんなに真面目な顔をする彼の顔を見るのは、久しぶりだった気がする。
神社の裏は、予想通りの無人だった。
口を一文字にきつく閉じた彼がこちらを振り返る。彼は意を決して自分を奮い立たせる時、決まっていつもこの表情をするのだ。
そんな彼の口から出た言葉は、私にプレゼントがしたいという内容だった。
普通の女の子なら、ここまでくれば彼の言いたいことは手に取るように分かるのだろう。
しかし、私は彼の言葉の意図を理解できなかった。私は馬鹿みたいに彼の言葉をおうむ返しするだけだった。
「プレゼント?私に?」
「女の好みとか分からないけど、その…よければ受け取ってほしい」
彼は足元の石畳をにらみながら、ぶっきらぼうに右手を私に差し出した。
鈍感とよく言われる私だが、この時初めて彼の意図を理解することができた。
私は告白されたのだ。10年近くもの間、幼馴染として付き添ってきた人に。共にボールを蹴り、二人だけで冒険をした彼に。
その瞬間、胸がはちきれんばかりに鼓動が大きくなるのを感じた。意識を平静にとどめるだけで精一杯である。
私は今、どんな顔をしているのだろう。他人から明確な好意を寄せられるという初めての経験は、私の思考を麻痺させる。
長年の間、当たり前のように見てきたはずの彼の顔を、今はまともに見ることができない。
とりあえず返事をしないと。そうだ、彼のプレゼントを受け取らねば。
彼はどんなものをくれるのだろう。私をよく理解している彼は、告白のプレゼントに何を選んだのだろう。
私は視線を彼の右手の中に投げた。ああ、暗くてよく見えない。目をこらさないと――――
私の目が彼の右手にあるものをとらえた時、私は冷や水をぶちまけられた感覚をおぼえた。
それは緑色の生き物の顔が描かれた髪飾りだった。かえる。そう、かえるの髪飾りだった。
ああ、そうだった。私は神の力を宿すもの。奇跡を司る存在。
何を舞い上がっていたと言うのか。手と手が触れ合う距離で向かい合っているはずの彼が、ひどく遠く感じる。
だいたい、こういうものはラッピングをして渡すのが常識だろうに。ふざけた偶然。守矢の血をもって生まれた者の運命。
神社を覆う森の闇がいっそう密度を増しているように感じる。いつの間にかお祭りの音は消えてなくなっていた。
目の前のかえるは深く黒々とした眼でこちらを見ている。物言わぬ視線。いや、こちらに有無を言わせぬ視線だ。
お前は守矢たる現人神。人から理解され、共感されるはずのない身である。
髪飾りがそう語りかけているように感じた。
いや、まだ、分からない。
彼から髪飾りを受け取った時、私はわずかな可能性にすがりたい気持ちに支配されていた。
理解されたい。願わくば、この血の苦しみを分かち合ってくれる人がいるならば。
およそ常識ではありえぬ数奇なこの宿命も、この人にだけは―――
この場で崩れ落ちずにかろうじて立っていられたのは、救いを期待するかすかな望みだけだった。
彼の口から、付き合ってほしいと、そう言っているのがかろうじて聞きとれた。
それだけではない。どこからか、私の弱った心を狙ったかのようなささやきが、たしかに頭の中で響いた。
(そうだ、言ってしまえ早苗。神社の掟など関係ない。本当のことを言うのだ)
だめだ、風祝の秘密を他言するのは重罪。できるはずがない。私は今までそうして生きてきたのだ。
(ではお前はそうやって自分をひた隠し、生涯他人を騙して生きていくのか?)
詭弁だ。それが守矢の運命だ。
(そうして共に幼年時代をすごした彼ですら、お前は本当の自分を見せず、人の皮をかぶり欺くのか)
頭の中を問いがぐるぐる回ってかけめぐっていく。吐き気がひどい。
つくつく法師の声だけが、相も変わらず夜の闇でこだまする。
「あなたは神を信じますか?」
「…え?」
「私は現人神。人でありながら守矢の神の血を引く風祝。」
「そんな…」
「信じてくれますか、私を」
一通りしゃべった後になって、初めて自分が敬語でしゃべっている事に気がついた。
なぜこんな口調でしゃべったのか?いや、まず問うべきはなぜ自分はこんな事を言ったのかだ。
本当の自分を理解してほしかったとでもいうのか。バカな。
私の意思は、ささやきに負けてしまった。言ってはならないことを言ってしまったのだ、私は。
黒い沈黙の中、つくつく法師だけが鳴き続けている。こんな時に呑気に鳴いているのが鬱陶しい。幼いころに散々つかまえた仕返しかもしれない。
今の自分はさぞかし後悔に満ちた間抜けな顔をしているだろう。
おかしな冗談だと笑い飛ばしてくれればいい。
もっとうまい断り方があるだろうと抗議してくれればいいのに。
いっそ馬鹿にするなと怒ってくれればよかったのに。
どうして、あなたはそんな悲しい顔をするの?
どうかそんなに戸惑った眼で私を見ないで。
何でもいいから何かしゃべって。
否定しないあなたの無言が、私の胸にとがった爪をつき立てていく。
何も言わないあなたの優しさが、私のかすかな望みを打ち砕いていく。
黒々と葉をつけた周りの木々がぐにゃりと曲がっていくのが見える。
微かな苦い笑みすら浮かべている、彼の顔もぼやけてきた。
私はとりかえしのつかない事をしてしまった。それとも、これが人ならざるものの運命か。
永遠にも思えた沈黙は、彼が小さく発した「ごめん」という一言で破られた。
その後のことはよく覚えていない。髪飾りを返そうとして断られたことを除いては。
幼いころから共にいた人にすら、私は決して理解されない。その事実だけが、私の頭にのしかかることとなった。私は幼馴染とその人の好意を失ったのだ。
あの日以来私は彼を避けるようになった。違う高校に入ってからは連絡をとることもなくなった。ただ、今でもサッカーをやっているとだけ聞いている。
私は彼のことが好きだったのだろうか?余計な事を言わず、あの時にただ一言「はい」とだけ言っていれば、違う未来があったのだろうか。
私には分からない。自分のことを分かってくれる人がそばにいるという感覚が。
あの人達はお互いを本当に理解し、認め合っているんだろうかと、道行く恋人を眺めながらいつも考えてしまう。
あるいは、神は最初から救いなど求めてはいけないのだろうか。道にころがっているつくつく法師の死骸を眺めながら考える。
―――――――
タンスの奥にしまっていたこの髪飾りを、私は幻想郷に移り住んでから髪につけるようになった。この世界には、私以外にこの髪飾りを覚えている人間などいないから。
そうだ、せっかくだから蛇の髪飾りもつけてみよう。人里で探せば見つかるかもしれない。
この蛙の髪飾りをつけているのを見て諏訪子様は喜んでくださった。神奈子様の分もないと、きっと不公平だから。
私は、この世界に来てから常に敬語で話すようになった。
神奈子様や諏訪子様にはずいぶん訝しがられたが、普通でない世界はおそらく普通でないルールで回っているのだ。
ならば神であり人である存在ほどこの世界にふさわしい者もそうそういないだろう。
幻想たる世界に住む幻想じみた存在は、普通の口調で話すべきではないのだ。
ここにはテレビもドライヤーも電灯も、冷蔵庫もリップクリームもない。
しかし、ここで私が失ったものはそれ以外には何もない。神奈子様や諏訪子様も変わらずそばにいてくださる。
洗濯機で服を洗う毎日も洗濯板で服を洗う毎日も、何の違いもない。
胸の痛みを乗り越える営みは、どんな生活を送っていてもできる。
いや、それをせねばならないのが人間である。
彼は今、あの町のどこかでつくつく法師の鳴き声を聞いているんだろうか。
―――さて、明日からお祭りの準備をしないと。
切ない、良いお話でした
とは言えないのが現実の辛いところ
とにかく何かが凄い。