「ああ、また毛が……」
畳み終えた洗濯物、そこに見覚えのある金色の毛が付着しているのき気付いた藍は、素早くそれをつかみ取り、『夏毛専用』という張り紙がされたゴミ箱にそれをぽいっと捨てる。
大人がやっと抱えられるくらいの大きさの毛入れ箱は、まだ半分も満たされていない。だがもう少し季節が過ぎれば、溢れかえるほどの金毛が、この大きな箱を満たすだろう。
「もう、こんな季節か」
水の冷たさと、朝の空気の冷たさ。
そして春とは別な形で色づく、山々。
それで秋の深まりを明確に感じていた藍だったが、やはり毛の生え替わりが起き始めないとあまり実感が出来なかった。
それが身に降りかかってきて初めて、冬支度をしなければと思えるのだから。
そしてそれは、主との別れが近いことを示す。
「ほら、橙。こんなものはどうかしら」
ふすまが開け放たれた居間から、日当たりの良い縁側を覗き見れば、そこには廊下に腰掛ける紫の姿があった。
その横には朝の訓練を終えた橙の姿もあって、楽しそうに会話している。
すぐ近くに大きな本があって、それが開いたり閉じたりされているところを見ると会話しながら、教養を授けているようだ。
まさしく読書の秋。
勉学の秋、とも言えるだろうか。
そんな2人を眺めながら、藍はぽつりとつぶやいた。
「ありがとうございます、紫様」
本来ならそういった教育は藍の役目であるのだが、今のように紫が面倒を見てくれるときがある。
素直にありがたさと、申し訳なさと。
情けないながら、ちょっとした嫉妬と。
橙は自分の式という、プライドがどうやら藍の中で根付いてしまっているらしい。
「まだまだ私も未熟だな……」
余計なことを考えるのは畳み終えた洗濯物を片づけてからにしよう。
そう思った藍が腰を浮かしたとき、
「え、ぇぇっ!?」
橙が変な声を上げた。
洗濯物を抱えながら、縁側の方へ目を向けると、橙が困ったように本と紫と、そして藍。その三つを順番に目線で追っている。
その表情に困惑の色が濃く、それを感じ取った藍は「ははぁん」と察した。
また、妙な難問をぶつけられて慌てているんだろう、と。
冥界の幽々子ほどではないが、紫もそういったよくわからない謎かけを藍や橙にするときがある。そのほとんどが相手の反応を見るための、答えのない質問であることが多いのだが……
「まったく、仕方ない」
今日に限って、橙の焦りようが尋常ではなかったため、藍は仕方なく洗濯物を部屋の隅に置いて、二人へと近づいていく。
「橙、何か困ったことがあったのかい?」
「あ、藍様! あの紫様が……、これは何をしているときの写真かって……」
どうやら二人が見ていたのは、黒い表紙の本ではなくて写真入れだったようだ。
「藍、あなたなら答えをしっているでしょうから。教えて上げても良いわよ」
その写真を読み取って、答えを出す。
なるほどそういった推理力を鍛える学習か。
なかなかおもしろそう。今後橙の教育に取り入れようか、などと。
考え事をしながら、藍はそれを覗き込み。
「……え?」
覗き込んで、ぴたっと停止。
橙が指差すその写真。
そこには藍が映っていた。
畳の上に敷かれた布団の上、そこでうつ伏せになった写真。
ただ、それだけじゃなかった。
「……いっ」
もう、どこをどう見ても丸裸なのである。
一糸まとわぬ姿、すっぽんぽん。
そんな状態で、顔を半分だけ上に向けて期待するような視線を……
「い、いやあああああああっ!」
そこまで認識するのが限界だった。
藍は腰を屈めて立っていた状態から、一気にアルバムにダイブ。胸のところでそれを覆い隠し、ばっ、ばっ、と風を切る速さで視線を左右順番に振る。
「なんで、いつ! いつですか紫様っ!」
「ほら、あなたが寝そべった後にこう」
と、紫が手だけを隙間に突っ込んで、また別なところにから手を出す。
その手にはしっかりカメラが握られていた。
「で、橙? あなたはこれがどんなときの写真だと思う?」
「……そう、ですね。私、九尾がそういう妖怪だってさっき教えて貰いましたから……やっぱり、あれかなって……」
「あれ? アレって何かしらぁ? ゆかりんわかんなぁい」
橙がちょっともじもじしながら答えると、紫はちょっとだけ頬を赤らめつつも興味津々で問い返し。
藍はというと、いぜんとアルバムを胸で鉄壁ガードしつつ。
ぶんぶんっと手を振り回している。
「ち、違う! 違うぞ橙っ! 九尾の中にはそういうのがいるかもしれないが、私は違うというかっ! もうそういうことはないというか、足を洗ったというかっ! ああもうっ、紫様も何を橙に教えているのですかっ!」
「え? じゃあ藍様のあの写真は?」
「式だっ! 式を打ち込むときに仕方なく服を脱いだだけなんだ!」
「ああ、そうかっ! そうでしたっ! 藍様も紫様の式っ!」
「あらあら、そんなに早くネタばらしなんて、藍は駄目ねぇ」
「全然駄目じゃないですっ! 普通ですっ! まったくもぅ、この写真は没収しま――」
と、藍が言い掛けた瞬間。
廊下と胸の間にあったはずの本の感触が消え去って。
「これのこと?」
紫の真上に隙間が開いて、アルバムがその手の中に収まる。
ゆかりんの秘蔵コレクション、と可愛い文字で装飾された危険物が。
こうなっては仕方ないと、藍は若干熱くなった顔を右手でぱたぱた仰ぎ、帽子を脱ぐ。
これであの恥ずかしい話しも終わりだろうと、たかをくくったわけだが。
「そういえば、橙。藍に式を打ってもらうときはどうしているの?」
びくーんっと。
その言葉を紫が発した直後。
姿を見せたばかりに耳が、面白いくらい跳ね上がる。
「そうですね。さっきの藍様と同じように裸になって打ってもらいます。だいたいお布団の上に座って」
「どんな感じでやるの? 間違ったところがあっちゃいけないから、私に見せていただけないかしら」
わたわた、と。
藍が橙の前で、駄目駄目っと腕と首を左右に振るが。
藍の主である紫の命令を上位と判断したようで。
「じゃあこっちで」
橙が居間の方へと移動し、ぺたんっと座り込む。
紫は橙の正面に。
そして、藍は……
何故か両手で耳を覆い、畳の上で伏せる。
何も聞かないように、何も見ないように。
「えっと、ですね。まず向かい合ってから、頭を下げて」
しかし、橙が声を上げる度に耳の先がぴくぴく震えるところを見ると、しっかり聞き取れてしまっているようだ。
そんな藍の様子を少しきにしつつも、橙は動作を続ける。
「藍様、今日もよろしくお願いします」
正座し、今は正面の紫に向かい、指をついて頭を下げ。
「私の身体に、藍様の式を一杯、いーっぱい打ち込んで下さいね!
って、挨拶はここまでで」
にぱーっと笑いながら、顔を上げ紫を見つめる。
その上目遣いのなんと愛らしいことか。
「橙、もう良いわよ」
「え、挨拶だけで良いんですか?」
「ええ、もう充分」
不思議そうに目をぱちぱちさせる橙をその場に残し、紫は上半身だけ隙間に飲み込ませ
「ふーん、へー。そぉーなんだぁー」
見ざる聞かざる状態の藍の背中を閉じた扇子で突いた。
にこにこ、よりも、にやにや、に近い顔で。
「確かに、式を打つ前の挨拶は大事だけど? その後の、いーっぱいとかはいらないわよね? あれって、藍の指示かしら~?」
「い、いえぇ……あのぅ……一応、主であるものに対し、敬意を表した方が良いよと、そう教えた結果があれなわけで……別に私が演技指導とかしたわけじゃないといいますか……」
「そうねぇ、藍も可愛らしくおねだりするものねぇ~?」
「そ、そういうことは……ないとおもいますけどぉぉ~」
おかしな声の裏返り方が、何かあることをおもいっきり示していた。
「それに、橙みたいな小さな子の場合。服の上からでも身体の中に式が届く気がするんだけど?」
「……そ、それは。えと、紫様の技術と比べれば、私の腕がまだ未熟だからであって……」
「藍の好みとか、そういうのではない?」
「はいぃ……趣味嗜好の部類ではないといいますか……」
「ふーん」
と、紫が鼻を鳴らしたときだった。
とうとう藍が紫の圧力に耐えきれなくなったのは。
ばんっ!
と、尻尾を大きく畳に叩きつけた後。
「嫌いですっ! こんなことで私を追いつめようとする紫様なんて大嫌いですっ」
まるで子供のようにじたばたと暴れ始めた。
といっても、うつ伏せに倒れ込んだまま、恥ずかしさで尻尾と足をバタバタさせるだけであったが。
紫は、隙間を出ると。そうやって畳の上で暴れる藍の背中を優しくさすった。
「ごめんなさいね。あなたがここまで嫌がるなんて思わなかったから」
すると、藍が顔を真っ赤にしながらも、わずかに顔を上げ。
うっすらと涙の溜まった瞳を向ける。
「……そう言って下さるなら、許さないことはないですけど」
条件次第です。
そんな視線を飛ばしながら上半身だけを少し反らせた後。
耳をぴくぴく、
尻尾をゆらゆら、と大袈裟に動かし、また畳の上に顎を置く。
なんともわかりやすすぎる条件に、紫はくすくすと声を出して笑い。
「ああ、そうだったわね。冬毛に変わる時期ですものね」
紫は隙間の中から『藍専用』と名前が彫られた大きめのブラシを持って、背中を撫でながらゆっくりと尻尾の毛を梳いていく。
その度、紫が触れている背中がびくびくと震え。
「藍様いいなぁ……」
「こ、こら橙!」
久しぶりの感覚で耐えきれなかったのか。
必死に顔を隠して、橙の視線から逃れようとしていた。
そこから判断して藍の心地良さがいかほどかは、想像に難しくない。
さっきとはまた別の意味での恥ずかしさに耐えきれなくなって、藍がやっぱり後で良いと言い掛けても、
「ふぅ~」
紫が耳に暖かい息を吹きかけては、黙らせ。
その隙ににブラシを動かす。
後半は、面白がる橙がその息を吹きかける役となったため、さらに隙が無くなり……
「……うう、酷い」
終わった後は、畳の上でぐったり。
運動もしていないのに汗だくであった。
「紫様……どうして今日に限って……このような。私を使ってお遊びになるようなことを」
「あら、藍は私の可愛い式ですものいつでも大事に思っている。だからこその行為なのだけれど?」
「……またそのような言葉で私を辱める」
「まんざらでもない顔をしてるくせに何言ってるのかしらね」
「うぅ……」
ぺたんっと耳を倒し押し黙る藍であったが、
その藍の言うことも的を射ていた。
確かに、冬が近くなると冬眠前だからと藍の世話を焼き始めるのだが。まだその時期よりかなり早い。
「でも、やはり妙です…… また何か外界から新しい知識を得たとか?」
「ふふ、さすが藍ね。けれど、私は別に新しい情報を得たからあなたで遊んだわけではないのよ?」
やっぱり遊んでいたのか、と。
文句を言ってもよかったのだが、藍はただ静かに主の声を待つ。
「ちょっとした言葉を思い出した、それだけよ」
「思い出した、とはどのような?
高く昇った太陽を指差す。
秋とは思えぬほど暖かな日差しを与えてくれるソレは、丁度真南に差し掛かろうとしているところで、
「ほら、外の世界ではこう言うでしょう?」
それを寝そべったまま不思議そうに眺める藍の前に、すっと紫が回り込んで。
太陽の光を背に受けながら、微笑んだ。
だからきっと、と、藍は期待する。
また藍が顔を赤らめるほどの優しい言葉を掛けてくれるモノと。
「ちょっと日本の言葉とは違うかも知れないのだけれど、
お昼の時間のことを」
そして、紫は一本指を立て、自慢げに言う。
「『藍恥タイム』ってね♪」
紫の昼食は出てこなかった。
罰として評価は100点にします!
ごちそうさまでした