Coolier - 新生・東方創想話

クジラの歌がきこえる距離

2012/11/20 18:55:52
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 彼女の喘息は生まれつきのものだった。気管支系を原因とする発作で、少しの運動でさえ激しい咳に襲われる厄介なものだった。そのため彼女は、あまり体を動かすような事は出来ず、同年の少年たちのように屋外で駆け回ることは不可能だったし、また、同年の少女たちのように習い事に精を出すことも難しかった。
 彼女にとって子供の声とは、窓越しに聴こえるものでしかなかった。
 そのせいか彼女の回りにいる人間は、両親か、医者か、両親の雇った家庭教師くらいなもので、彼女に友達と呼べるような人間は一人として居なかった。だから彼女は、活字の中にそれら足りないものを求めた。幻想の世界では、現実の彼女にとって得ることが難しいものでも、意図も容易く手に入れることが出来た。
 こうして彼女は、いつも本ばかりを読んでいる少女となった。当然彼女は、ますます現実の世界から離れていき、そのため彼女は、ますます幻想を追い求めていった。
 彼女は後に魔女となるが、彼女が魔女に憧れたのも、元を辿れば、彼女が幼いころ、魔女と吸血鬼の少女が悪者を倒していくという、幻想の物語に夢中になったせいだった。
 結果、魔女の夢は、彼女自身が幻想の住人となることで叶えられるが、実は彼女には、決して誰にも語らなかったもう一つの夢があった。それは魔女の夢のように、幻想の中にだけ存在する夢とは違い、この現実に見ゆる切実とした夢だった。
 
 
 
 
 
「……クジラ、ですか。それ」
 
 魔女の後ろからひょっこり現れたのは、魔女の使い魔である図書館司書だった。赤い髪を揺らす司書は、声かけと同時に魔女が熱心に眺めていたものを覗き込む。魔女は広げていた図鑑を慌てて閉じた。
 
「ペットにでもするんですか、パチュリー様?」
 
 努めて陽気な風で訊いてみたが、司書の問いに魔女は無言の睨みを返すのみだった。司書は余りに言葉を省いた主の対応に呆れつつ、しかし、こちらにも非があるのは確かなので素直に謝った。
 
「……」
 
 魔女はまだじっと睨んでくる。
 もう知らんと、司書はそんな魔女の視線を受け流すと、魔女の陣取るテーブルの上にティーカップを並べていった。芳ばしい紅茶の香りが広がる。
 
「今日の紅茶の味は保証しますよ。なんたって私の手が入ってないんですから」
 
 そう言いながら司書は魔女の対面に席を取った。今日の紅茶は腕の良い女中が淹れたもので、その女中は司書と違い、少なくとも味覚に関してだけは一級の信頼を置く事が出来た。
 司書の言葉に安心したのか、見れば、魔女は早速カップを持ってその風味を堪能していた。司書の作ではこうはいかない。自分が作った場合との対応の違いに苦笑しながら、司書は同じく紅茶を啜った。
 司書と魔女はひととき美味しい紅茶を堪能する。魔女はすぐに飲み終えて読書に戻ったが、猫舌な司書は時間をかけてゆっくりと味わった。
 ふと、何か思い出したように司書が魔女に声をかけた。
 
「そういえば上に霊夢が来てましたよ。後でこっちに来るかも知れません」
 
 司書は人差し指を天井に向けて言った。紅茶を取りに行った際、偶然、その姿を確認したのだ。
 魔女は興味の無い風を装いながら、しっかり視線は持ち上げた。
 
 博麗の巫女・霊夢が紅魔館に顔を出すようになったのは、最近のことである。やはり年頃の娘と言うべきか、今まで触れることの無かった西洋の文化に大層興味を持ったらしいのだ。よくお古の洋服を貸してもらっては悦に入っている。吸血鬼直伝の上流階級の習わしも、彼女にとっては心踊らされるものらしく、現在も熱心になって教示賜わっていた。
 数は少ないが、巫女は地下図書館を訪れることもあった。
 
「来なくていい。……来たら、うるさい」
 
 魔女の口から途切れ途切れの音声が確認された。司書は咎めるように魔女を見る。
 
「それ、本日初の発言ですよ。まったく、ちゃんと口があるんだから使わないと……、」
 
 ――腐ってしまいますよ、
 という台詞は、魔女の強烈な視線攻撃によって粉砕された司書であった。
 魔女は、これ以上話すことは何もないと言わんばかりに、読書の方に移ってしまった。仕方がないので、司書も自分の仕事に戻る。魔女は大抵本を読むだけなので、書棚の整理や、貸出の記帳、来館者への応対は司書の仕事になっていた。司書は積載限界ギリギリの手押し車を押しつつ、幾層もの本棚が立ち並ぶ迷宮へ足を運ぶ。
 するとそこに、
 
「クジラっ!」
 
 謎の発言と共に大図書館の扉が開かれた。上の屋内階段からではなく、地上入り口からの直接の来訪である。外気の冷たい温度と眩しい陽光を背負いながら現れた少女は、先程話に上がった博麗の巫女・霊夢であった。
 
「何ですか。いきなり」
 
 司書が巫女に不審の視線を寄越す。巫女は構わず階段を下りた。
 
「クジラ。パチュリーのあだ名。なんかクジラっぽいじゃん、縦縞とか」
 
 巫女は自信あり気にそんな事をのたまう。
 ――この娘は。一体何を言っているのやら。
 と、司書は巫女の主張を一笑に付せようとしたが、少ーし気になったので、魔女の方に視線をやった。そして魔女の観察を開始する。幾つかの特異点に目がいった。
 
 ……はっきりしない眠そうな眼。
 ……背中を被い隠す紫色の長髪。
 ……そしてお腹に縦縞模様のある服。
 
 なるほど。言われてみると、どことなくザトウクジラを彷彿させるような気がしないでもない。司書は思わず口元に手をやった。
 
「ぷっ」
 
 瞬間、司書の頭頂に衝撃が走る。すぐ隣を見ると、ハードカバーの角をトントンとして威嚇する魔女の姿があった。魔法による遠隔の角攻撃である。さすがに角は痛い。
 
「……パチュリー様、容赦なしッス。てゆーか、クジラ知ってるんですね、霊夢は」
 
 司書が深刻なダメージを負った頭頂部を擦りながら巫女に言った。巫女は腰に手を当てて胸を張る。
 
「あったり前じゃん! ばかにしないでよ」
 
 と、自信を漲らせて巫女は言うが、実はそれほど当たり前の事ではない。何故なら幻想郷には海が無い。実物に触れる機会が無いため、この郷の住人は海について詳しい知識を持っていなかった。
 巫女が海への造詣に深いのは、巫女が海に多くの興味を抱いているからである。巫女は、海が無いが故に海の知識を求めた。様々な書物や口伝から知識を深め、今ではすっかり第一人者気取りである。その巫女にクジラを知っているかなど、鍛冶屋に鉄を知っているかと訊く様なものであった。
 その情熱を少しでも自分の神社に向けて欲しいと人は言うが、しかし、海への異常な興味も、このくらいの年頃の人間ならば取り立てて珍しい傾向では無い。海への興味とは、即ち、外の世界への漠然とした憧れである。この郷に住む者は、誰もが一度は外の世界に憧れるのだ。
 
「どう? このあだ名」
 
 と巫女は魔女に向かって合図をした。巫女はこのまま魔女をクジラ呼ばわりする気である。同時にチャーミングにウインクを極めたつもりだったが、吸血鬼直伝の上品な習わしは、まだ巫女には早過ぎたようだった。魔女は視線を合わさず下を向く。
 思ったよりも魔女の反応が薄い。巫女は仕方なく横にいた司書にクジラ談義を持ち掛ける。だが、その時、魔女の座っていた椅子がガタリと動いた。立ち上がった魔女が、顔を赤くして巫女を見ている。
 魔女は幾許かの酸素吸引を果した後、ゆっくりと口を開いた。
 
「霊夢。だめ。クジラだけは、絶対、だめ」
 
 魔女がポツリポツリと単語をこぼす様に言った。常とは違う魔女の強い調子に司書は目を丸くする。巫女にとっても意外な光景だったようで、魔女への反応が少し遅れてしまった。
 
「だめって……。あだ名のこと?」
 
 霊夢が確認する様な調子で訊いた。魔女は巫女の眼を見ながらコクリと頷く。
 
「だめ。絶対にだめ」
 
 魔女は先程と同じような言葉を繰り返した。魔女の奇妙な様子から、巫女も冗談を言える空気ではないと悟る。なぜ魔女がこうも拘るのかは知れないが、特に大した理由も無く付けたものであるため、巫女も『クジラ』というあだ名は引込めることにした。
 それから巫女は、少しのあいだ司書と雑談を交わす。上で覚えたばかりの西洋作法を披露する。だが、やがてテーブルに乗った空のティーカップを発見すると、「また紅茶が飲みたくなった」と言って颯爽と出ていった。来たばかりなのに忙しい人だな思いながら、司書は自分の仕事に戻ることにした。
 魔女の方を見ると、彼女はまた読書に没頭しているらしく、声を掛けても反応は無かった。司書は先の変事がやや引っ掛かりながらも、やがて仕事の方に気を取られて忘れていった。
 
 
 
 
 
 彼女は多くの時を孤独に過ごす魔女だった。たが、そんな彼女にも親友と呼べる者が一人いた。何百年もの時を生きる吸血鬼である。その吸血鬼は、彼女にとっても長い間を共に過ごした旧友であり、何でも忌憚なく話せる唯一の人物だった。
 彼女と吸血鬼の出会いは数十年前に遡る。彼女に近付いてきたのは吸血鬼の方だった。そのとき吸血鬼は、人間の血液――吸血鬼の魔力の源となる――が時代の潮流と共に手に入りにくくなった事により、一度に強力な魔力を得られる獲物を探していた。即ち魔女の血である。魔女の血には、自らの魔力を高める効果があると言われていた。そのため吸血鬼は、彼女の持つ強大な魔力を奪わんとして、彼女の敵として現れたのである。
 そんな切羽詰まった状況で出会った二人であるが、しかし、意外にも吸血鬼の方が彼女を気に入ってしまい、結果、彼女は吸血鬼の友となった。彼女は何かと絡んでくる吸血鬼を、はじめは面倒に思っていたが、直に居心地の良さを感じるようになり、吸血鬼の館に厄介になるまで距離を詰めた。
 吸血鬼は彼女にとっては初めて出来た友であった。多少、自分勝手なきらいのある吸血鬼であったが、彼女は吸血鬼の我がままにもよく付き合った。吸血鬼もまた、病弱な彼女に何かと世話を焼くようになり、二人は『親友』と言って差し支えの無いほどの仲になった。
 この吸血鬼の友により彼女の心は多く満たされた。これ以上を望むのは強欲だろうとも思われた。しかし、彼女には、あと一つだけ贅沢な心残りがあった。
 
 
 
 
 
 その日の大図書館はやけに騒々しかった。魔女は朝から続く騒音に辟易しつつも、大量の書物を持って二階の自室に引き揚げるのは億劫で、魔法による防音を拵えては何とか凌いでいた。こんな時、頼りにしたい筈の司書は、加害者側に回っている。
 
「ブオーッ」
「プオ―ッ」
「ブブッ、ブーオッ?」
「プーッ、ププププオーッ」
 
 彼女たちは楽しげに宇宙との交信を続けている。魔女がむきゅうと耳を塞いだ。
 騒音の正体は『ホラ貝』だった。巫女が里で商いをしていた旅商人より、安く仕入れたものである。商人は外の世界から来たらしく――尤もそれが本当に外の世界かは分からない。偶に来る彼らの様な人物が何処から来て何処へ行くのかは誰も知らない――、本日はそのホラ貝の自慢をしに図書館を訪れたのであった。
 
『ホラ貝の音はクジラの声に似ているんだよ』
 
 と、巫女は言う。
 聴いたことも無いのに何故そんなことが言えるのか非常に不思議だが、大方商人の口上をそのまま鵜呑みにして繰り返しているだけだろう。しかし、当の本人は絶対的な確信を持ってそれを『クジラの歌声』と定義し、更には「聴かせてあげる」と言って魔女の前でホラ貝の試奏を始めてしまったのだ。言うまでもなく図書館での騒音は禁止である。魔女は巫女たちのホラ貝に少しずつ苛立ちを募らせる。
 魔女がおもむろに口を開いた。
 
「咲夜、今、寝てる。……レミィも」
 
 だから静かにしろと魔女は語る。ホラ貝の音が止んだ瞬間を狙った、魔女の計画的な発言だった。ホラ貝娘たちが魔女を見る。
 
「プオ?」
「ププオ?」
 
 しかし、宇宙交信中の少女たちはホラ貝を通じてのコミュニケーションを要求してきた。まるでホラ貝を使わない魔女の方が異端であるというような態度である。魔女はホラ貝娘たちに頭痛を感じつつ、自分の机の上にあるホラ貝に目をやった。
 
『アンタにもあげる。使わないかもしれないけど……』
 
 と言って巫女はこれを押し付けてきた。
 魔女は当然受け取りを拒否した。魔女が受け取らないことは極めて自然な事であった。巫女にしても、「使わないかもしれない」と付け加えている以上、魔女がホラ貝を必要としないのは想像できていた筈である。なのに何故こんなものを押し付けるのか、巫女の行動は魔女には理解し難いものであった。
 しかし巫女は、魔女に無理矢理ホラ貝を押しやった。魔女の隙を突いた力ずくの行動で、魔女は反論する間もなく押し切られてしまった。巫女を見ると、彼女はすでに知らん顔で司書と談笑しており、仕方無く魔女はそれを自分の机に置いたのであった。
 ホラ貝の騒音が一時止んだ。
 
「ふうっ、やっとホラ貝らしくなってきましたね」
 
 司書が何事か成し遂げたような表情で言った。
 
「うん。低音も高音も出せるようになったし」
 
 巫女は司書に同調するように頷く。二人は互いの上達に賛辞を送ると、今度は吹き方のコツなどについて喧しく議論を始めた。魔女の眉間の皺がまた一本増える。
 二人のホラ貝は、確かに最初の頃と比べると格段に上達して見えた。本当の初めのころは、息が掠れたような、音とも呼べない空気音がするのみだったが、少し時間を掛けると、魔女の頭を悩ます程度には音色を出せるようになった。本来、そのような騒音を阻止するのが司書の仕事のはずだが、その司書が巫女に取られては魔女では手に負えない。なので魔女は、防音魔法の効力が切れる度にまた魔法を唱え直すという、大変面倒な手順を強いられていた。
 また調子外れなホラ貝が鳴る。
 魔女は楽しげな巫女と司書の顔を、面白くない思いで睨めつけていた。
 この頃の巫女は、地上での用事より、地下図書館の利用が増えていた。物珍しかった西洋文化探究に飽きが見え、反対に図書館にある図鑑類に興味を惹かれた為である。図書館には動物、昆虫、鳥類など様々な図鑑が網羅されてあった。当然、海の物を扱った図鑑も多々あり、海の好きな巫女にとっては大変都合のよい空間であった。
 また、巫女は図書館利用を通じて司書との親交も深めており、お陰ですっかり海に夢中になった司書は、事あるごとに巫女と楽しげに会話しているのが見かけられた。
 しかし、魔女にとって二人の交友は妙に気に入らないものであった。今も魔女は、二人の楽しげな姿に我慢がならない。図書館での騒音だけではない。何故わざわざ自分の前でやるのか、全く理解に苦しんだ。
 二人のホラ貝が鳴り響く。自分の机の上にあるホラ貝も振動によってカタカタと震える。魔女の堪忍袋の緒は限界を迎えようとしていた。
 魔女の頭の中で何者かの声がした。
 
 “お前はまた   なのか……?”
 
「――もう止めてッ」
 
 魔女の怒声がホラ貝の騒音を断った。魔女は机を両手で打ちながら立ち上がる。普段聞いたことも無い魔女の声に、二人は呆然としていた。魔女自身も思った以上の声に驚いている。だが、言いだしてしまったら、今さら後には引けなかった。
 
「ここは図書館。大きな音がだめなことくらい、分かるでしょ?」
 
 ポツリ、ポツリと魔女が零す。いつもの様な小声であったが、その語調は大変に強いものだった。余りの違いに巫女と司書がごくりと息を飲む。
 
「大体、クジラの声はそんな変な声じゃない。聴いたことも無いクセに、いい加減な事言わないで」
 
 魔女は断罪するように述べる。しかし、実は魔女もクジラの鳴き声など知らなかった。魔女にとってクジラの知識は、巫女と同じように書物の中で得た知識のみである。目の前に動く生き物としてのクジラは知らない筈だった。
 だが、この時の魔女には断言できた。クジラの声は、決して人を不快にするような騒音ではないと。クジラの声は、もっと大きく優しい、海の様な声がする筈なのだと。
 やり過ぎてしまったと見た巫女は、何とか場を取り繕おうとする。
 
「パチュリー? ごめん、私そんなつもりじゃ――」
「うるさい」
 
 だが、魔女は巫女の弁解を遮った。魔女は、自分が何処に向かおうとしているのか、自分でも分からかった。感情の制御が出来ない。
 
「こんなものいらない」
 
 鋭く言い放つと、魔女は巫女に貰ったホラ貝に手を伸ばした。小さいが意外に重く、両手を使わなければ魔女に持ち上げることは難しかった。
 持ち上げられたホラ貝を巫女が悲しそうに見ている。魔女が何をする気なのか、すでに巫女は理解していた。だから巫女は、魔女を追い詰めてしまった事に激しい後悔を覚えた。隣にいる司書も、止めに入っても間に合わないだろうと観念し、続く破壊音へ反射的に備えた。
 次の瞬間、魔女の両手は振り下ろされ、ホラ貝は粉々に砕け散る――、、、
 
「……」
 
 だが、司書が備えていたような破壊音が響くことは無かった。見ると、魔女が貝を振り上げた姿勢のまま固まっていた。貝の重さに両手が震えている。腕を降ろせば楽になるのに、魔女はそれをすることが出来ずにいた。
 
「パチュリー……?」
 
 巫女が気遣わしげに声をかける。ホラ貝が無事だったことに安心すると共に、なぜ振り落とさなかったのか疑問に思った。
だが、魔女の苦渋に満ちた表情に、次に掛けるべき言葉が見つからない。
 魔女は硬直したまま動く事が出来ない。魔女自身、この先をどうすればいいのか、判断できなかった。
 二人の困惑する視線が魔女に集まる。魔女は必死で解決方法を探していた。
 しかし、そうして三者が三様に戸惑っていると、やがて魔女に異変が現れはじめた。体がふるふると小刻みに震えている。顔面から血の気が引き、唇は紫色に変色していた。
 ――不味い、と司書は思った。
 
「パチュリー様っ!」
 
 そうして魔女の体がガクリと大きく揺れた。バランスを失った体は足下から崩れ始める。魔女の手からホラ貝が落ちた。ごろんと、鈍い音を出してそれは転がった。
 司書は咄嗟に魔女を支える。魔女の様子を窺うと、すぐにベッドに寝かせる必要があると見えた。
 魔女は朧に霞んでいく視界の中に、心配顔の巫女の姿を見つけた。魔女はその顔に、懇願する様な視線をぶつけた。魔女自身、その視線の意味を理解してはいなかったが、言葉に表せなかったその視線こそ、魔女がずっと抱えていたものの正体だった。
 ぐにゃりと、巫女の顔が歪む。魔女は崩れ落ちる世界に呑まれる様に、やがて意識を手放した。
 
 
 
 
 
 彼女の病弱は、喘息の発作を危惧する余りの体力低下に原因があった。少しでも体を動かすようにすれば改善も見込まれるはずだったが、彼女は自分の喘息ではそれも困難だろうと初めから諦めていた。そのため彼女は、喘息と共に自分の病弱とも生涯添い続けることを決めた。それは魔女という幻想の住人となってからも変わらず、彼女は相変わらず病弱で喘息持ちのまま、自分を改める気は無かった。
 永遠亭の腕の良い薬師に出会ってからは、喘息の発作はかなりの所まで抑えられるようになった。完治は難しくとも、少々運動をするくらいでは発作は現れない様になったはずだった。だが彼女は、それでも図書館に引きこもる毎日を続けた。そのせいで余計に病状の悪化を招いており、薬師は幾度となく習慣を改めるよう提言した。だが、彼女はまるで聞く耳を持たなかった。彼女は現在も図書館に引きこもる日々を続けている。
 彼女の頑ななまでの態度の原因には、自分の喘息や病弱への諦めの感情があった。もう治ることは無い、無駄な努力はしたくない、そう思っていた。しかし、それ以上に、彼女が他者との接触を恐れているということも、否定できない事実だった。彼女は本の中の幻想に入り浸り過ぎて、現実の世界とどう付き合えば良いのか分からなくなっていたのだ。
 他人に上手く合わせる自信がない。自分の意見をしっかり言う自信がない。彼女は読書から得た豊富な語彙を、実際に活かす手段を知らなかった。ともすれば、自分の喘息や病弱を盾にして、それらの行為から逃げていたのだった。
 ところで、彼女には幼いころから大好きだった生き物がある。大きくて力強くて頑丈そうな生き物。自分とはまるで正反対に見える生き物。自分にもしそれがあれば、こんな寂しい思いをせずに済んだはずだと思っていた。彼女はその生き物に、自分に足りない全てのものを見ていた。
 だから彼女は、巫女に『クジラ』とあだ名を付けられた時、全力でそれを否定した。彼女にとってクジラは強さの象徴だった。自分はクジラではないから、今もこうして勇気が持てないのだと、彼女自身が一番知っていたのだ。彼女はクジラへの想いを、一時の享楽で汚したくはなかった。
 しかし彼女は、そのクジラへの真摯な想いの裏に、いつか自分もクジラになりたいという願望があることを、気付かないまま過ごしていた。
 
 
 
 
 
 目を覚ました時、魔女は二階自室のベッドにいた。枕元には水と薬が置いてあり、司書が世話をしてくれたのだろうと思われた。体の調子は大分よくなっており、頭の中も明瞭としていた。
 魔女はゆっくりと体を起こした。すると、カーテンの隙間から陽光が洩れるのを見つけた。厚い布をよけてみれば、眩しい日差しが魔女を照らした。
 魔女はふと屋外から聞こえる音に気がついた。それは図書館で聞いたものと全く同じで、二つの歪な音色はガラス越しに曇って運ばれていた。おそらく正体は司書と巫女で、図書館での演奏を禁止したことから、屋外でホラ貝を吹いているのだろうと思われた。
 ホラ貝の音は遠くからでもよく通る。巫女は『ホラ貝』の音を『クジラの声』に似ていると言った。あの時は否定したが、こうして窓越しに聴いてみると、確かにクジラの様に大きく力強く頑丈そうな音色だと魔女は思った。
 だが……、
 
(――また、窓越しか)
 
 魔女は心の中で愚痴る。諦めと嫉妬が入り混じったような感傷だった。
 ザトウクジラの歌声は、三千キロメートルの遠くまで届くという。彼らは遠い遠い見知らぬ誰かにも、自分の声を運ぶことが出来るのだ。窓の無い海を泳ぐクジラたちは、自分と誰かを繋ぐ意志を、大きな声で伝える事が出来る。
 彼女たちもクジラの様に声を運ぶ。自分と誰かを繋ぐために。誰かと自分を繋ぐために。窓の向こうに出て声を送る。魔女にだってその声は聴こえたのだ。
 しかし、魔女の口から出たのは否定の言葉だった。魔女はクジラの歌に耳を塞いだ。彼女たちの声に窓を拵えた。自分から窓越しの奥に潜っている魔女が、クジラのようになれる訳がなかった。
 窓の外から曇った歌声が聴こえてくる。それは楽しげに賑やかで、いつかもこうして窓辺から声だけを聴いていた。魔女は、自分の居場所はここにしかないのかと思った。
 数十年の昔、吸血鬼の少女はこう言った。“私と友達になりなさい”と。彼女は易々と窓をぶち破った。
 だが、魔女は吸血鬼の友の様にはなれなかった。自分から窓を取り除くことは不可能だった。屋外で駆けまわる少年たちの様に、習い事に精を出す少女たちにように、自分もその輪に入りたいと、彼女たちに伝えることは出来なかった。
 現在の司書を使い魔とした時は、元からある契約の条文に従い、その通りの文句を述べた。そこに魔女自身の言葉は無い。そんな定型文に頼らなければ、誰かと繋がることも出来ない。
 魔女は中央にあるテーブルに目をやった。そこには巫女に貰ったホラ貝がある。気絶した時に落としたのか少し欠けていて、しかし、小さいながら堂々とした存在感を出していた。
 
 “お前はまだ窓越しなのか――?”
 
 ……頭の中の何者かの声が、ホラ貝を通して聞こえてくる。
 魔女はじっとホラ貝を見つめた。そして一度瞑った眼を見開くと、それを手に取った。
 窓を開けると、忽ち冷たい風が室内に侵入してきた。カーテンがゆらゆらと揺れ、二人の歌声がよりはっきりと聴こえた。少しでも近くで聴こうと、魔女は開けた窓から顔を出した。
 
 今からでも出来るだろうか……?
 クジラのように大きな声は出せないけれど、
 クジラのように遠くまで届けることは出来ないけれど、
 自分もあの力強いクジラたちのように、
 誰かと繋がることは出来るだろうか……?
 
 魔女は、手に持ったホラ貝をそっと頬に当ててみた。
 それは少しだけ冷たくて、耳を澄ませると、遠いクジラの歌声が聴こえる気がした。
 
 
 
 
読了、有難うございました。

※11・23 誤字修正と少しだけ文章の付け加えを行ないました。
みすゞ
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コメント



0.430簡易評価
7.80名前が無い程度の能力削除
不器用なパチュリーがとっても可愛い。
ほのかな寂しさと、童心と、海を泳ぐクジラへのあこがれ。
無邪気な巫女に、ほら貝の音。
断片を追いかけるだけで、自然とパチュリーの心の「色」みたいなものにたどりつく、良作と感じました。
8.50名前が無い程度の能力削除
ううむ。物語が始まらない……というのが自分の感想です。
魔女はクジラに憧れていました。というだけで終わってしまって、盛り上がりも感慨もありませんでした。
あと、パチュリーの描写はよく書かれていますが、その周囲のキャラクターに対しては、描写が薄いように感じます。霊夢はなぜ、法螺貝を吹いたのか、接点の無さそうなパチュリーのところに来たのか。今一読み取れませんでした。
9.100名前が無い程度の能力削除
ひっさびさにこんな綺麗な物語読んだ
10.90奇声を発する程度の能力削除
何だか全体的に綺麗な雰囲気がありました
11.70名前が無い程度の能力削除
ホラ貝の大きく開いた穴に耳を近づけると海の音がする、と言った祖母の言葉が蘇りました。
思わず、小さい頃はそうやって遊んだなぁと郷愁にかられました。

とても綺麗なお話でした。
ただ、終わり方が些か急な気がします。
12.無評価みすゞ削除
コメントありがとうございます。
指摘された部分は今後のために見直してみます。
13.80名前が無い程度の能力削除
綺麗なお話。
そしてここからも読みたかったのです。