「すいません。今寝ているみたいなので」
そっと話しているのであろう相手の返事はかすかにしか聞こえない。
体を起こそうにも思うように力が入らないのは重々承知している。彼女が近くを通りかかるのを待とう。
そう決めて息を静かに吸う。目を閉じ静かなその気配を楽しむ。
ジャッジャッと玄関を箒で掃くその音が安らぎを与えてくれる。カタンという音と戸を開ける音が聞こえ
構えた風でない足音が、台所、廊下、そして部屋の前で止まった。
―入るよ― 返事を期待していないような小声を合図に障子が光を漏らす。
「おはよう」
そう言って微笑むと、光を背にした人が驚き、焦ったように
「起こしちゃったかな?」そう問う。
「早寝早起きは基本中の基本だからな」
そう返すと
「もうお昼だよ」
と言って寝たままの私の額に綺麗なままの手が前髪を掻き分けてキスを落とす。
幸福感と焦燥感が胸の中で焦れる。
「すまないが、起きるのを手伝ってくれるか?」
右手同士を絡ませしっかりと背中に回された手に後押しされ上体を起こす。
心配げな表情をするその顔をゆっくりと抱きしめた。
ずっと昔なら恥ずかしいと言って逃げるか、幸せだといって力いっぱい抱きしめてくれた。
ここ最近は逃げることも力いっぱい抱きしめてくれることもなく、
あの頃とはだいぶ変わってしまった腕に、すがりつくようにただ下へ下へ視線を落とす。
服にしわを刻むその怖々とした指に愛しさが募る。
きっと今起きていること全てが奇跡なんだろう。
「なぁ、妹紅……」
「ん?」
「ずっと昔の約束覚えているか?」
「慧音との?沢山あるじゃない」
そう可愛く切なく微笑む。
『探し出すよ』
紅色の瞳がかすかに潤んだ。
「私、慧音とそんな約束してないよ?」
声がどうしても上ずるようで喉を押さえ、俯き、一呼吸置きに答える。
「そうだな、確かに私とは、していない。そしてこんな約束はもうしなくていい。私をお前が見つけくれてこの約束は終わったんだから」
そっと頬に触れる。俯いたままの表情は見えないが、手がしっとりと濡れる。
「ありがとうな妹紅」
銀の髪が伏せた顔を追うように下へ流れる。サラサラとしたその輝きをじっと見ているとおもむろに赤い瞳と視線が交わる。
涙を溢れさせているその双眸が眉につぶされた様に悲しい顔をしている。
「わ、私じゃ…駄目だったのかな?」
自分の非を問う彼女を見ているとその健気さにいっそこのまま嫌ってくれればいいのにと喉の奥が締め付けられる。
「勘違いしないでくれ。私はお前が大好きだし、これ以上ないってくらい愛している。ただ、お前にこれ以上背負わせるのは忍びないんだ」
死ねなくなったことはそれだけでも立ち上がるには辛い重しだろう。
それなのに、また私を探せだなんて足枷をどうしてはめられるだろうか。
それも、死ねない彼女の前で息を引き取りながら頼むには来世での目覚めが悪すぎる。そんな気がする。
「やっぱりお前の瞳は涙を溜めると綺麗だな」
「そんなことない」
「泣かせたいわけじゃないんだぞ?」
「そんなことわかってる」
「どうしたら私を忘れてくれる?」
「きっと君の事は何があっても忘れられないよ・・・」
下へ下へ流れていく涙はもう拭いきれない。
頬に添えていた手を頭に乗せなだめるように撫でる。
――記憶の、感覚的記憶の中で彼女は、
私の最期を看取る間ずっとこうして撫でてくれていた気がする。
四肢を投げ出すように倒れている獣がいたのだと思う。曖昧なのは私が端から見ていたのではなく
その獣の視線でしか世界を記憶していないからだ。真っ暗な中赤い瞳が、キラキラ光りながら私を見つめていた。
獣は何か口をもごもごし伝えていた。果たしてあれは言葉になっていたのだろうか。わからない。
ただ、記憶の中に浮かび上がる瞳が変わらず光りながら、唯一変わったことと言えばキラキラを降らせながら
「大丈夫。探し出してあげるから。次はもっと沢山一緒にすごそうね」
確かにそう答えてくれたのだ。
視界が徐々にぼやけていき、その獣の記憶はそこで終わる。――
過去に何度か夢で見た光景。
歴史の食べ過ぎによる混乱だとずっと思っていたその記憶。
自分がこんなにも察しが悪いなんて思わなかった。記憶の中の瞳はいつだって私と一緒にいたのだ。
いつ彼女が確信したのかはわからない。
彼女は自分の生を重いと私に話した。
ならば、私は彼女の支えになろうと思った。
だけど、私が支えようと彼女にすがりつくのは彼女の重石にはならないだろうか?
歴史を食べることが出来ても彼女の業を食べられない私が彼女に尽くそうとすることは
一種の自己満足になるのではないだろうか。
そんなことを記憶を私のものだと認識した日から考える日があった。
だけど、彼女が今キラキラと世界を輝かせていることが
私が彼女を、彼女が私を本当に愛していた証なのだろうと
それ以上考えることも今以上を望むことも必要なかった。
「あぁ、ごめんなぁ・・・泣かしてごめん。今がすごく幸せに感じててごめん」
いつかの会話で「謝るんじゃなくてお礼を言えば相手も自分も幸せになれる」っていったのは私だったのに。
私はこれ以上幸せをもらっちゃいけない気がするなんて考えてるうちに謝ることしか出来なかった。
撫でていた手を体を支えるように肩へ置き精一杯の力でしがみつく。
呼吸が苦しいと言うより、肺が緩やかにその動きをとめていく。
まぶたが重たい。自分の体が重たい。右半身をゆっくりとあずける。
「慧音、ありがとうね」
彼女は幸せになれただろうか。
そこは迷いの竹林と呼ばれる場所だった。
母が妖怪、父が人間で私は半分だけ妖怪として生まれた。
数年前、どこからか来た妖怪に母を殺され、父と共に里の人に助けてもらい今まで暮らしてきた。
母がいかに妖怪でありながら人間に愛されていたのかを感じながら過ごす時間は誇りであり、
いつか目覚めるであろう自分の能力を母の変わりに人間のために使おうと決心させるには十分だった。
物覚えがよかった私は、未だ開花しない能力を待ちながら父の助けと必死に学をつけた。
ある日、迷いの竹林の奥に腕のいい医者が現れたとうわさで聞いた私は
迷いの竹林を案内できるようになれば人を助けられる。そう思った。
「大丈夫、私なら大丈夫」そうひとごちる。
そこの竹林は私を飲み込んだ。
いつまでも途切れることない竹の間をどれほど歩いたのだろう。
上を見ても竹はどこまでも私の視界を奪うように天を突き風に踊る。
私は、何度もかき消した不安を煽られる気がして下を向いた。
すると、明らかに私のものよりずっと大きい足跡がまっすぐに迷うことなく進んでいることに気がついた。
前日の雨が地面をぬかるくらいにしたおかげだ。
私は、その跡を追いかけた。
前に続く希望と、後をついて来る不安に必死に足をけり出す。
竹が横からの光りをこぼす。
出口だとそう確信した瞬間希望の主だろう人物を見つけた。
「すいません!」
その人物がゆっくりと振り返った。
いくつか年上らしい難しい顔をした女性だった。
「お姉さんの足跡のおかげで竹林から出ることが出来ました。ありがとうございます。」
その人は困ったような顔をし尋ねてきた。
「里から来たんだよね?帰り道わかるの?」
焦った。というより絶望した。確かにここはまったく知らない土地だ。
青ざめたのかも知れない私をみてその人は手を差し出してきた。
「里まで送ってあげるから」
次はその手に助けられた。
道すがら、自分の夢の話や、家族の話などたくさんした。
その人は簡単な相槌しか返してくれなかったが
繋いだ手に酷く安心した私は珍しく饒舌だった。
里が見えるところまで来るとその人は手を離した。
そういえば彼女は竹林の向こうに向かっていたところを
私を送るために里に来てくれたんだと思い出す。
「お忙しい中すみませんでした!」
慌ててかしこまった姿勢を取りお礼を言う。
「そんなに忙しくないから大丈夫だよ。あっちに野暮用があるってだけ」
「竹林の向こうのお医者様をご存知なんですか?」
「そこのお姫様かな」
「診療所なのにお姫様もいるんですか?」
好奇心が止まらなくなった。
難しい顔を解いていたその人は成程綺麗な顔をしている。
「お姫様のお友達なんですか?」
「お友達じゃないけど、生きてる実感をするには最適な相手かな」
「生きてる実感?」
「そう」
日々の生活以上の実感の意義がよくわからなかった。
「あなたにはきっと一生必要ないことだから忘れていいわ」
そう言ってもと来た道を戻っていく背中に叫んだ。
「ありがとうございました。あと、生きてる実感のことはよくわからないけど、
生きたい人がいる事だけは私でも知ってます!もし、もしよかったらここの道案内をしていただけませんか?」
私はただ迷いに来たんじゃない、けれどまだ私じゃ出来ない仕事なのだと痛感した今日
貴方に会えたことはきっと偶然じゃないと思いたかった。
その人は振り返ることも手を振ることもしてくれなかった。
その夜私は満月を見つめ血が沸き立つような感覚に襲われた。
母から受け継いだ能力の覚醒と、加減を分からないゆえの暴走で自らの一日の歴史を食べた。
自らの記憶でありながらまるで他人事のようなこの記憶。
食べた歴史を私はたまに反芻する。
私が食べた歴史は私しか知りえないのだとしたら
どんなことも私は覚えていなくてはいけないと思う。
悲惨な歴史は食べ、同じ過ちを繰り返さない様にしてこの里を守る。
思考を覆い尽くすような歴史の中に
たまに現れる赤い炎の様な瞳を揺らす少女と、最期を迎えるらしい獣。
食べた記憶もなければきっと里を守るときには不要な
寂しいその光景を私は今日も夢に見る。
明日は妹紅を寺子屋へ連れて行こう。
「なぁ、妹紅ずっと一緒にいような」
寝ている背中に静かに話しかけた。
とっても良いもこけねでした