規則正しく並べられた木の板の上を、出来る限り足音を立てないようにしながら何者かが歩いている。両脇には同じく木製の柱と、幾つもの障子が隙間を作らずに立ち並び、その間を歩く者に少しばかりの閉塞感を感じさせる。また、時刻は子の刻を過ぎているのにも関わらず、その空間には灯りがなく、隙間風が吹いているわけでもないのに、うすら寒い。死霊の類が化けて出るのには、うってつけの状況である。しかし、今、そこを歩いている者、鈴仙・優曇華院・イナバにとっては、ただの廊下に過ぎないらしい。手に持った盆と、その上に乗せた湯呑みをカタカタと鳴らすこともなく、静々(しずしず)と歩を進めている。鈴仙が廊下を左に曲がると、ぼんやりと光る障子が視界に入った。彼女は一度、その足を止め、少し気を引き締めてから、また歩き始める。
鈴仙は月の兎である。かつては、神聖なる月の都で、外敵と戦うための訓練を受けていた。しかし、生死をかけた戦いに参加することを厭い、自分勝手で協調性がないと評されたその性格から、仲間を見捨てて地上へと逃げて来てしまったのである。彼女は地上の妖怪達が住まう楽園、幻想郷へと迷い込み、かつての月の指導者、八意永琳に保護された。その永琳もまた、月の都の姫君であった蓬莱山輝夜とともに地上に隠れ住む罪人であった。彼女は、鈴仙に地上で暮らすための名前を与え、自分達が住んでいる屋敷の中に匿ってくれたのである。
幻想郷で迂闊に足を踏み入れてはならない場所の一つ、迷いの竹林の奥に佇むこの屋敷は、永遠亭と呼ばれている。今でこそ、独特の丸い窓がある、大きい和風の建物というだけであるが、ほんの数年前までは、その名の通り、あらゆる変化を拒み、外部から隔絶された閉鎖空間であった。しかし、ある事件をきっかけにその閉鎖は解かれ、永遠亭はすっかり幻想郷に馴染みつつある。永琳は人里の人間達を相手に診療所を営み、鈴仙もまた、師匠と仰ぐ彼女の手伝いをして日々を過ごしている。
本来、月の民にとって、兎は便利に使える道具に過ぎない。それは遥か昔から決まっている運命(さだめ)のようなもので、鈴仙自身も、永琳や輝夜が自分をそのように扱うのが当然であると思っていた。しかし、永遠亭が開放された頃から、永琳達は徐々に月の民としての態度を変化させていき、鈴仙とも対等な存在として接するようになってきている。それは、鈴仙にとって途轍もなく嬉しいことであった。
鈴仙が煎茶の入った湯呑みを持って廊下を歩いて来たのは、他でもない、永琳に差し入れるためである。三千世界に比類なきほどの叡知を誇る永琳であるが、なお向上心に富んだ勤勉さを持ち、人々が寝静まる時分になっても自室で書籍を読んだり、新薬を開発するための研究をしたりしているのである。今も、その自室には灯りが点いており、何かしらの作業に励んでいるらしい。
鈴仙が部屋に近付くと、中から意外な声が聴こえてきた。
「完成間近というわけですか。長かったわね」
「そうね。二百十四回の試作品を経て、ようやく」
問いかけに答えたのは、永琳の声に間違いない。そして、もう一人の声にも、鈴仙は聞き覚えがあった。この幻想郷を外界から隔離させている存在の筆頭とも言える妖怪、八雲紫である。あらゆる境界を操るこの妖怪は、空間の裂け目、通称スキマを使って何処にでも現れる。玄関はおろか、一切の出入り口を通過せずに永琳の部屋に入ることも、彼女にとっては容易いことであろう。
「それを使えば、過去の過ちを無かったことに出来ますわね」
「罰から解放されるだけよ。犯してしまった罪は、消えない」
どこか人をからかうような口調の紫に対して、永琳は嫌に深刻めいた言い方で返す。
「それでも、永い苦しみから抜け出すことは出来る」
「その通りよ」
鈴仙は部屋の数歩手前で立ち止まり、二人の会話を聞いていた。未だ内容は把握出来ていないが、これは大変に興味深く、重大な話に違いない。おそらく、自分がここにいることを知られてしまうと、もはや、聞くことは叶わないだろうと思っていたのである。
「効果が出るまでの時間は?」
「即効。飲んでしまえば、たちどころに死滅するわ」
これを聞いて、鈴仙は自分の背筋が凍るのを感じた。尊敬する師の思わぬ発言に恐怖を覚え、頭の中は酷く混乱し始める。ひとまず深呼吸をして心を落ち着かせ、盆の上の湯呑みを手に取り、体の震えが音の発生に繋がらないよう、配慮した。
「妖怪や妖獣にも効くのかしら」
「もちろん。鬼だろうと吸血鬼だろうと、神様だろうと…」
「蓬莱人だろうと?」
「そう」
思わず「えっ」と声を上げそうになるのを必死に我慢して、鈴仙はその場に立っていた。一度は落ち着いたつもりであったが、これ以上は、とても平静を保てそうにない。
この会話は、やはり、自分が聞いて良いものではなかった。あるいは、己の生死に関わるかも知れない。そう直感した鈴仙は、手に持った湯呑みを口許へと運び、煎茶の熱さも構わず、一気に飲み干した。喉を鳴らすような真似も、飲み終えて一息吐くことも、まったくしない。それで喉が焼けていようが、知ったことではなかった。これで、床に茶が零れる心配はない。彼女は音もなく宙に浮かび上がり、柱や障子、天井にぶつからないよう細心の注意を払いつつ、急いで廊下を戻って行った。部屋の中では、未だ永琳と紫が会話を続けているらしかったが、もはや、聞きたいとさえ思わない。
結局この晩、鈴仙が永琳の部屋を訪れることは、二度となかった。
蓬莱人とは、不老不死の妙薬、蓬莱の薬を口にした者のことである。
本来、蓬莱の薬とは、月の民が地上の人間達の欲を試すための道具であり、決して口にしてはならない禁断の薬であった。しかし、月の姫である輝夜は、従者の永琳に命じて作らせたこの薬を、自ら飲んでしまったのである。輝夜は罪人として地上に堕とされ、竹取物語の名で知られる顛末を辿ることとなった。ただし、その結末は物語とは異なる。輝夜を迎えに来たはずの永琳が、共に地上にやって来た仲間達を裏切り、輝夜を連れて逃亡したのである。
そもそも、輝夜が蓬莱の薬を飲んだのは、その完全さ故に停滞する月の都に心底、退屈していたことが大きな原因であろう。永琳はそのことに薄々気が付いていながら、輝夜に蓬莱の薬を渡してしまったことを悔いていたのである。その償いのためか、彼女は自分自身も蓬莱人となって、輝夜と共に地上で生きていくことを決めたのであった。
月の民は地上の生命と違って穢れがなく、その寿命は果てしなく長い。それでも、死ぬことがないわけではない。身体が激しく損傷すれば、当たり前に死に至る。しかし、蓬莱人は違う。たとえ肉体が滅びようとも、その魂は黄泉へと向かうことなく、蓬莱の薬を飲んだ時の姿のまま復活する。彼女らは決して死ぬことが許されず、永久に現世に縛り付けられたままなのである。…そのはずであった。
「全然、寝た気、しない」
空がうっすらと明るみ始めた頃、自分の寝床から起き上がった鈴仙が呟く。昨晩、慌てて永琳の部屋から逃げ出した後、彼女は迷わず就寝の準備をし、丑の刻が過ぎ去るより前に布団を被ったはずである。しかし、蓬莱の薬のこと、輝夜と永琳のこと、そして何より、昨晩のことを考えているうちに、朝が来てしまった。彼女が実際に眠っていなかったかどうかはさておき、少なくとも、体感した印象はそれに相違なく、眠ったおかげで一日の疲れがとれるどころか、疲労困憊の心持ちである。
あるいは、昨晩のことは夢だったのではないか。そんな希望を抱く鈴仙であったが、朝食を作るために厨房へ行ってみると、茶渋が付いたまま放置された、覚えのある湯呑みに出迎えられてしまった。
――ああ、やっぱり。
非情な現実から目を背けようとするが、とりあえず、湯呑みは洗って使わなければ不衛生である。表の井戸から水を汲んで来て、じゃぶじゃぶと湯呑みを洗い、乾かすための台へと乗せる。考えてみれば、普段から永琳が口をつけている湯呑みで茶を飲んだという事実が生まれているのであるが、そんな些細なことを気にする心の余裕はなかった。鈴仙は頭の中の整理がつかないまま、白米を炊く準備を整え、野菜を洗って切り始める。
「おはよう、ウドンゲ」
体が反射的に飛び上がろうとして、手許の包丁とまな板がガタッと音を鳴らす。鈴仙を日頃からウドンゲの愛称で呼ぶのは、彼女に優曇華院の名を与えた永琳だけである。顔を合わせても何事もなかったように振る舞うつもりであったが、背後から不意に声をかけられて――もっとも、永琳は気配を消していたわけでもないのであるが、思わず過剰な反応を示してしまった。幸い、包丁で手を切るようなことはなかったが、精神の状態が平常でないことは、あっさりと露見してしまったらしく思われた。
「ごめんなさい。驚かせてしまったかしら」
「い、いえ。おはようございます、お師匠様。すみません、少し寝不足で」
そう、寝不足のせいで人の接近に気が付かず、偶々、ちょっとびっくりしただけなのだ。鈴仙は、他でもない、自分自身にそう言い聞かせる。
永琳は特に気にした様子もなく、後で茶を淹れて持って来てほしいと頼むと、すぐに厨房から出ていってしまった。昨晩のことには気が付かれていないのであろうか。少なくとも、盗み聞きがばれていて、かつ、即座に口封じをされるということはないらしい。この朝で問答無用に兎生(じんせい)を終わらせられる可能性も考えていた鈴仙は、ホッと溜め息を吐いた。一旦、野菜を切る手を止め、ヤカンに水を入れて火にかける。
野菜を一通り切り終えた後、鈴仙は永琳の自室に茶の入った湯呑みを持って行った。廊下を歩いているうちに昨晩のことが脳裏に甦り、目眩がして倒れそうだとさえ思ったが、何とか、無事に部屋まで辿り着くことが出来た。声をかけてから障子を開き、薬の臭いが漂う部屋の中へと歩を進める。
完璧にいつも通りを装っているつもりの鈴仙であったが、永琳から「ただの寝不足にしては、顔色が悪すぎる」と診断され、朝食の当番を代わるから部屋で寝ていろ、とまで言われてしまった。一応、「大丈夫ですよ」と遠慮する振りをしてみせたが、永琳の診断が覆ることはなかった。下手に固辞するのも危険だと判断し、ここは大人しく寝床へと戻ることにした。
再び布団の中に潜った鈴仙は、もう一度、蓬莱人のことを考える。
たとえ、この世界の文明が一つ残らず滅びようと、あらゆる生命が絶滅するほどの天災が起きようと、蓬莱人は死ぬことが出来ない。その効力の絶対性は計り知れず、あるいは、浄土や地獄が消え去る時が到来したとしても、なお、現世をさまよい続けることになるのかも知れない。変化というものから永久に拒絶され、ただただ、生き続けるだけの存在。それは、生きながらにして死んでいるのに等しい。この世で考えられる限りの不道徳を尽くした大罪人が堕ちる無間地獄でさえ、ほんの一中劫ばかりの時間で――それでも、十二分に永遠と思われるほどの長さではあるが、抜け出すことが出来るという。それに比べて、蓬莱人の生には、まったく果てがない。
自分なら絶対に耐えられないと思う。日頃、口に出すことはないが、それが不老不死に対する鈴仙の評価であった。永琳より先に蓬莱の薬を飲んだ輝夜に、どれほどの覚悟があったのかは判らない。しかし、いずれ、永遠の呪縛を深く後悔する日が来るのではないか。あるいは既に、遥か未来の孤独を憂いて、心の中では過ちを悔いているのではないか。彼女は、なんと愚かなことをしたのだろう。鈴仙は、そんなことを考えてはならない、考えないようにしようと努めながらも、心の何処かで輝夜の行いを謗る気持ちを消し去ることが出来なかった。だから、蓬莱人を殺すことが出来る薬さえあれば、彼女達は果てのない地獄から救われるのだ。そんな薬があれば、なんと素晴らしいことだろう。そう、思っていたはずであった。
鈴仙は考える。もし、永琳が、蓬莱人の運命を断ち切るために、死をもたらす薬を作ったのだとしたら。既に、永遠の命に飽いていたとしたら。彼女は、すぐにでも薬を使うつもりかも知れない。行き場を失い、途方に暮れていた自分を迎え入れてくれた恩人が、新しい名前を与えてくれた家族同然の人が、死んでしまう。そんなの嫌だ、などと言う権利は、自分にはない。鈴仙の思考は、そこで停滞する。無理に次を考えようとしても、不老不死の残酷な運命のことに話が戻ってしまい、堂々巡りになるだけである。
「鈴仙」
誰かに自分の名前を呼ばれ、頭を横に転がして、声のした方を振り向く。永遠亭で暮らすもう一人の兎、因幡てゐが自分を見下ろしていた。
てゐは地上の妖怪兎である。曰く、健康に気を遣って、相当に長い歳月を生きてきたらしい。彼女は迷いの竹林の持ち主を自称し、竹林に住む兎達に命令を聞かせることが出来る唯一の存在である。その力を買われて永琳と協定を結び、てゐは労働力の提供を、永琳は様々な面からの兎達の保護をすることで、持ちつ持たれつの関係となっている。
「いつまで寝てんのよ」
日頃、何かにつけては仕事をサボるてゐに、こうやって戒めるように言われるのは屈辱の極みであった。鈴仙が今は何時かと訊ねると、既に午の刻を回っているという。どうやら、また、考え事をしながら眠っていたらしい。
「イナバ、大丈夫?」
今度は頭の上、枕元の延長線上から声が聞こえる。永遠亭の主人、輝夜である。鈴仙に自分のペットとしてイナバの名を与え、その名で彼女を呼ぶ唯一の人物であるが、実際は兎全般をイナバと呼んでいる。しかし、いつもイナバと呼ぶのかと言うと、そういうわけでもなく、鈴仙と呼ぶことも多い。どうやら、気まぐれに呼び方を変えているらしい。
「輝夜様、もし、風邪だったら、移るといけませんから」
鈴仙がまだ寝惚けた頭で懸命に気を遣って言うと、輝夜はクスクスと笑った。
「私が風邪を引くと思って?」
永遠の命を持つ蓬莱人は、病魔に冒されることがない。そんなことは解りきっていたはずであったが、出来ることなら、忘れてしまいたかったのかも知れない。結果として、輝夜が蓬莱人であることを認識せざるを得なくなってしまい、鈴仙は己の短慮さを嘆いた。
これ以上、布団に篭って考えていたところで、自分の精神状態は決して良くならない。そう考えた鈴仙は改めて起きだし、散歩を兼ねて人里まで薬を売りに行くことにした。輝夜や永琳からは、まだ寝ていた方が良いと言われたが、「悪い夢を見ただけですから」と気分転換の必要性を説いて、どうにか説得した。実際、悪夢を見たのは嘘ではない。むしろ、未だ悪夢を見ている気分なのである。
もし、自分が外に出ている間に、永琳が例の薬を使ったら。そう考えないわけでもなかったが、彼女が本気でそれを企むのであれば、自分はおろか、たとえ輝夜であっても止めることは出来まい。鈴仙はそう確信していた。
妖怪達の楽園である幻想郷にあって、人間ばかりが住まう人里。ここに住む人間達は、月明かりの陰に潜む妖怪の気配に恐怖し、その存在意義を保つ役割を担っている。幻想郷と外の世界とを分離する、博麗大結界の管理者である博麗の巫女や、森に住まう自称普通の魔法使いとは違い、妖怪を退治する力など持たない。簡単に言えば、ひ弱な者達である。永琳は彼らを相手に診療したり、手製の薬を販売したりして、互いに支え合う地上の人間としての役割を全うしようとしているのである。
この日、人里での薬の売れ行きは結構なものであった。長らく続いた暑さが一挙に身を潜め、急激に冷え込んだために体調を崩し、風邪を引く者が続出していたのである。あまりの売れ具合に、鈴仙が薬の在庫を気にし始めた頃、後ろから聞き覚えのある声で呼び止められた。振り返ると、独特な形の帽子を被った人間が「こんにちは」と挨拶してきた。鈴仙も思わず頭を下げて「こんにちは」と返す。
「風邪の薬を売ってくれないか」
「慧音さんが?」
鈴仙は驚いた。この娘、上白沢慧音は純粋な人間ではない。満月の夜になるとハクタクと呼ばれる聖獣に変身する、半人半妖の存在である。妖怪の一端を担う存在でありながら人間を愛しており、普段は人里の寺子屋で教鞭を取っている。また、満月の夜にはその能力を用いて歴史の編纂作業をしているらしい。それが具体的にどのようなものなのかは鈴仙の知るところではないが、ともかく、半分とはいえ妖怪である彼女が風邪を引くことがあろうとは、思っていなかったのである。
「いや、私ではないんだが」
寺子屋で面倒を見ている子どもが、一家揃って風邪で倒れたのだという。そこで、代わりに薬を買いに来た、とのことであった。ついでに言うことには、あくまでも満月の夜以外は概ね普通の人間なので、風邪を引くこともあるらしい。あの博麗の巫女と八雲紫のコンビに戦いを挑んだことのある彼女が、普通の人間であるとは認めたくない鈴仙であったが、そのことは口には出さないでおいた。実を言うと、今、慧音とはあまり顔を合わせていたくなかったのである。
「そう言えば、明日も、だそうだ」
「またですか」
慧音は、輝夜とも永琳とも違う、地上で暮らす三人目の蓬莱人の親友である。その蓬莱人、藤原妹紅は、かつて輝夜が地上へと追放された折、その美貌に心を奪われて求婚し、無理難題を言われた挙げ句に赤恥をかかされた男の、その娘であった。やがて行方を眩ました輝夜に恨みの念を抱き、彼女が地上に残していった蓬莱の薬が、時の権力者の命によって処分されようとしていたところ、それを奪い取って蓬莱人となってしまった。その経緯には、気まぐれで残酷な神が関わっていたようであるが、鈴仙が知っているのは、妹紅が勝手に薬を奪って飲んだということだけである。
初めから蓬莱の薬の何たるかを知っていた輝夜達と違い、ただの人間に過ぎなかった妹紅は、不老不死となった自分の運命を大いに嘆くこととなった。あちこちをさまよい、いつしか修得した妖術を用い、手当たり次第に妖怪を退治して歩いた時期もあったという。やがて幻想郷に辿り着いた彼女は、月に帰ったとばかり思っていた輝夜と再開を果たし、積年の恨みをぶつけるべく戦いを挑んだ。以来、輝夜と妹紅の殺し合いは何百年も続いている。
「一昨日、やったばかりじゃないですか」
彼女達のことをよく知る者は皆、二人が未だ殺し合いを続ける理由は、恨みや憎しみを本質とするものではないと認識していた。妹紅が輝夜を憎み、輝夜は妹紅を不届き者として迎え討つ。そういう設定の舞台の上で、お互いを傷付け、傷付けられることによって、生の実感を得ているのであろう。それは二人にとって、特に妹紅にとっては、生きている上で必要不可欠な退屈凌ぎなのである。また、それが本気の争いとは思えない理由の一つとして、妹紅は永遠亭の閉鎖が解かれて以来、病を患った人間を屋敷へと送り届けたりしているという事実がある。いくら人のためとはいえ、心底毛嫌いしている怨敵が住む屋敷を、わざわざ訪れようとするであろうか。
結局、輝夜と妹紅の戦いは、単なる子どものじゃれ合いと大差のないものなのである。しかし、そんな事情を知っていても、慧音は血生臭い争いを快く思っていなかった。
「何とかならないか」
輝夜と妹紅の話をしては、決まってこう言うのである。鈴仙にしてみれば、輝夜にせよ妹紅にせよ、退屈を持て余すのは、因果応報であると思われた。どうせ死にはしないのだから、勝手に殺し合えば良いとも思う。それでも、戦いを忌み嫌って地上へと逃れた彼女に、平和を望む気持ちが微塵もないと言えば嘘になるであろう。
では、もし、その争いを強制的に終わらせることが出来るとしたら?
鈴仙の脳裏に再び、昨晩の会話が過(よぎ)る。いや、それどころではない。その頭の中は、蓬莱人をも死に至らしめるという薬に、完全に占拠される。
「…鈴仙殿?」
いつもなら苦笑いをしながら「私じゃ無理ですよ」などと言ってくるところ、不意に黙り込んでしまった鈴仙を、慧音が訝しく思って見ている。
慧音や妹紅に、あのことを話すべきだろうか。しかし、下手に話してしまえば、取り返しのつかないことになるかも知れない。もし、妹紅が未だ真剣に輝夜を恨んでいたら、その薬を輝夜に飲ませようとするだろう。あるいは、薬を作った張本人である永琳を狙う可能性もある。仮に妹紅自身が飲んだとしても、本当にそれで良いのか。
様々な思いが鈴仙の胸を去来する。本当は悩みを打ち明けて、一緒に悩んでくれる人が欲しいと思っている。それなのに、何を考えても、悪い方へ、悪い方へと流れてしまい、とても言い出せないのである。
「何か、あったのか?」
慧音が途端に不安そうな面持ちになって尋ねる。顔色が悪い、ではなく、何かあったのかと聞いてくるのは、鈴仙の表情が、それほどまでに深刻そうに見える証拠であろう。鈴仙は慌てて「何でもないです」と裏返りそうな声で否定し、薬の販売を続けることを言い訳にして、強引にその場を離れた。慧音は明らかに疑っている様子であったが、込み入った事情があるのだろうと思ったらしく、無理に追求することはしなかった。
結局、鈴仙が持って来た薬はほとんど売り切れとなり、終いには「明日また来ますから」と二人に半分ずつ売る羽目になってしまった。鈴仙は早々に人里を離れることにした。これ以上、買いに来られると、病人に薬を売らない人でなし扱いされてしまう。もっとも、最初から人ではないが。
人里からの帰り道、太陽は大きく傾いてきていた。迷いの竹林を歩いて永遠亭へと向かっていると、鈴仙の前方に、不自然に土の色が違う地面が現れる。どう見ても誰かが一度、掘り返した土を盛ったようにしか見えない。この竹林で、こういう古典的な悪戯を仕掛けてくるのは、一人だけである。
鈴仙はピタリと足を止め、しばし思案する。この場合、土の色が不自然な部分が落とし穴になっている、と見せかけて、その周りに落とし穴を配置してある、と思わせつつ、この辺り一帯が落とし穴だらけなのに違いない。したがって、正解は一つ。鈴仙はその場でふわりと空中に舞い上がり、地面から離れたまま前へと進む。
「甘い」
何処かから声がしたかと思うと、鈴仙の顔は薄い繊維のような物で覆われた。
「わ!?」
慌てて手で顔を拭い、手に付いた繊維を見てみると、それは大量の蜘蛛の糸であった。前方から、てゐが鈴仙を見上げつつ、悠々と地面を歩いてくる。土の色が違うところを歩いても、何も起こらない。鈴仙は小さく舌打ちしてから、高度を下げて足をゆっくりと地面に近付けた。そのまま足を動かして、てゐの前まで進んでいくと、てゐは「あれ?」と言わんばかりに首を傾げる。
「今日は悪戯に付き合う気分じゃないのよ」
そう言って、鈴仙はてゐの横を通り過ぎて行く。てゐが足元を見ながら鈴仙の通った所を歩いてみると、四歩目で地面に穴が開き、見事、その中に落ちてしまった。鈴仙は振り返りもせず、先ほどから一度も地に付けていない体を、再び上昇させた。
てゐは勢いよく落とし穴から飛び出し、体に付いた砂をパタパタと手で払いながら、鈴仙を追いかけて空を飛んでくる。
「今回は私の負けね」
彼女は心から称賛しただけのつもりであったが、鈴仙はその言葉から、また、輝夜と妹紅の勝負のことを思い出してしまった。無理矢理な連想をしている自覚はあったため、余計なことを考えないように、と自分を諫める。せっかく誉めたのに何も返事がないことに、てゐは不機嫌そうな声を出す。
「鈴仙。どうしたってのよ」
「何でもない」
何でもないはずがない。命の恩人が、いなくなってしまうかも知れない一大事なのである。それにも関わらず、同じ永遠亭に住む仲間であるてゐにさえ、己の悩みを打ち明けようとしないのは、その性格を鑑みてのことであった。
てゐは基本的に、自分を含む地上の兎のためにしか行動しない。永琳と協力関係にあるのも、あくまで、彼女達に利益があるからである。ならば、今回の一件においても、輝夜や永琳、鈴仙の意思とは無関係に行動するのではないか。確証こそないが、少なくとも、その可能性がある限り、下手に話をするわけにはいかないと考えたのである。
「嘘おっしゃい」
「何でもないって言ってるでしょ!」
思わず声を荒らげる。そんな鈴仙の態度に、てゐは完全に臍を曲げてしまった。
こんなつもりじゃなかった。気にかけてくれたてゐを傷付けて、いったい、自分は何をやっているのだろう。鈴仙は唇を噛んだ。
永遠亭に帰り着くと、鈴仙は永琳の部屋を訪れ、追加で風邪薬を調合してほしいと頼んだ。誰とも顔を合わせたくない気分であったが、人里の人間達との約束を破るわけにはいかない。それに、変に接触を避けて、後ろ暗いところがあると気付かれるのも問題であった。今朝、目を覚ましてからは、しばらく忘れていたのであるが、永琳が研究している薬の秘密を知ったということがばれると、鈴仙自身も危険なのである。
永琳は薬の追加を快く了承し、鈴仙に調合の手伝いをするよう命じた。また顔色の悪さを理由に休養を取れと言われるかと思っていた鈴仙は、怪しまれる危険が遠ざかったと感じ、喜んでこれに応じる。
「夕飯に間に合わせるように」
「はい」
薬の材料となる薬草を棚から取り出し、それを順次、細かく擂り潰していく。そうした作業をする中で、鈴仙はたびたび、部屋の中の書棚に目をやる。膨大な研究資料と、その成果に関する記録が、ぎっしりと並べられた棚である。彼女は、それらの資料のほとんどに触れたことがあった。もっとも、中身を読んだのではなく、永琳に頼まれて取り出した、という程度のものであるが。そもそも、永琳の書物は永琳以外には開くことが出来ず、仮に強引に開いた場合、そのことが露見するように、特殊な封印が施されているのである。
膨大な資料が詰まった書棚の中で、今までただの一度たりとも、取ってくるように言われたことのない並びがあった。鈴仙が永遠亭にやって来た時から、埃も被らずに居座り続けている資料である。これこそ、万物に死を与える薬の研究記録だったのだ。鈴仙は、そう確信した。
薬の調合は日が暮れた頃に終わり、夕餉の支度は、平時よりほんの少し遅れるだけで済んだ。
「イナバ、今度はどうして喧嘩してるの?」
食事を終えた後、永琳が部屋から出て行った時を見計らい、膳を片付ける鈴仙達に輝夜が尋ねた。いつもの夕餉の席では、てゐが鈴仙のことをからかったりして、その行儀の悪さを注意されている。しかし、先ほどの食事の間、てゐはただひたすら、黙々と料理を口に運んでいたのであった。
「別に」
「何でもありません」
二人が答えると、輝夜はまた、昼間と同じようにクスクスと笑う。
「仲良くしなさいな」
ふん、と鼻を鳴らしててゐが部屋を出て行くのを、輝夜は如何にも愉快そうにして「あらあら」などと言いながら見送る。鈴仙は輝夜に聴こえないよう、小さく溜め息を吐いて、同じく部屋を出て行こうとした。
「鈴仙」
突然、子どもを諭すような声で呼ばれて、鈴仙は食器を落としそうになる。今度は何の戯れかと思って振り返ると、輝夜が柔らかな笑みを浮かべて、こちらを見つめていた。幾人もの人間を魅了し、財も人生も捧げさせたその顔に、鈴仙は思わず見惚れてしまう。しばしの後、輝夜が口を開いた。
「鈴仙。何か悩みがあるのなら、せめて、永琳に相談しなさい」
鈴仙はギクリとした。てゐが何か言ったのだろうか。いや、何も聞かなくとも、悩みがあることぐらいは、お見通しなのだろう。そう思い、改めて畏敬の念を抱く。
輝夜が「せめて」と言ったのは、自分でなくとも構わないから、という意味であろう。彼女は永琳に全幅の信頼を寄せており、鈴仙も、その点においては輝夜と何ら変わらない。しかし、今回ばかりは、永琳にだけは相談出来ないのである。その心遣いに、嬉しさとやるせなさとを痛いほど覚え、鈴仙は一言「ありがとうございます」とだけ言って部屋を出た。
次の日の午後、鈴仙は再び人里に薬を売りに来た。相変わらず例の会話のことを忘れられずにいるが、昨晩は積もりに積もった疲労のおかげか、それなりに眠れたらしい。しかし、心の中は未だ、分厚い雨雲に覆われたままである。何度考え直しても、自分はどうするべきか、どうしたいのか、その答えを決められずにいた。
さすがに昨日の今日だけあって、薬の売れ行きはまずまずというところであった。これならば、三日間は新しい風邪薬の調合が不要であろう。今日は、のんびり帰っても問題なさそうである。鈴仙は、少し休憩してから帰ろうと思い、近くにあった茶屋で、温かい緑茶と、焼きたての団子を頂くことにした。
店先の長椅子に腰かけ、出された団子を一口に平らげようとしたところ、予想外の熱さに身悶えすることになってしまった。片手で口を押さえて声にならない悲鳴を上げ、もう片手をジタバタとさせている鈴仙に、何者かが声をかける。
「最近の茶屋じゃあ、月兎のダンスが見られるんだねぇ」
団子を強引に喉へと押し込み、ぜい、ぜい、と息を切らした鈴仙が睨むようにして見上げると、そこには、大きな鎌を携えた長身の娘が立っていた。三途の川の渡し守、死神、小野塚小町である。
「またサボりですか」
「心の洗濯だよ」
小町のサボり癖は幻想郷では有名であった。頻繁に三途の川から離れ、彼岸へ連れて行くべき幽霊をほったらかしにしている。そして、その都度、上司である閻魔から長々と説教を受けているのである。
「洗濯なら、川でやってくださいよ」
小町は聞く耳を持たず、断りもしないで鈴仙の隣に座る。店の中を覗き込むように体を傾げて主人に声をかけ、「この兎と同じやつ」と団子を注文した。
「それで、どうだい、最近は?」
鈴仙は黙って茶を飲んだ。別に、これといって変わりはない、と答えようとしたが、一昨晩から残り続ける心のしこりに引っかかり、声が出て来なかったのである。
「自殺しようとしてないだろうね」
これは、小町にとっては毎度の挨拶のようなものであった。何よりも自殺を嫌い、自殺した者の霊など三途の川に突き落としてやる、とまで言ったことのある彼女の常套句である。鈴仙もそのことは知っていたし、普段の彼女であったなら、一笑に付して終わりであったであろう。しかし、今の鈴仙には、その一言は酷く響いた。結局のところ、彼女が恐れているのは、そういうことなのであるから。
蓬莱人を殺す薬を作った永琳が、その薬の存在を知った輝夜が、自ら死を選ぶのではないか。もし、そうなったら…。
永琳と輝夜は、我が身可愛さに仲間を見捨てて逃げ出した、そんな、どうしようもない自分を迎え入れてくれた。新しい名前と、居場所を与えてくれた。もう二度と、あの優しい二人に会えなくなってしまったら…。
蓬莱人の呪われた永遠を言い訳にして、それを天秤にかけることで懸命に誤魔化していた恐怖が、鈴仙の脳内を支配する。永琳と輝夜の顔を思い出すうちに、涙がぽろぽろと溢れ出してきてしまった。
「え、ちょっと、どうしたってんだい」
まさか、いきなり泣きだされるなどと思ってもみなかった小町は、酷く狼狽した。とりあえず、この状況は芳しくない。茶屋の主人が団子を持って来ると、兎の娘が自分の隣でしくしくと泣いているのである。どう見ても、自分が泣かせているようにしか見えない。いや、事実、そうなのかも知れないが、とにかく悪意はなかったのだ。どうして泣いているのか、と訊ねても、鈴仙は何も言わずに俯いているだけである。
鈴仙は考える。自分はただ、永琳達と一緒に居たいだけなのだと。何のかのと言っても、本心では、自分が死ぬまでは生きていてほしい。むしろ、どうせ死ぬのなら、自分が死んだ時に共に死んでくれれば、揃って黄泉に行くことが出来る。そんな、自分勝手な思いがあるだけ。慧音やてゐ、輝夜に何ら相談が出来なかったのも、そんな浅ましい考えを見透かされたくなかったからかも知れない。矮小で卑俗な自分の本音に嫌気が差し、ますます涙が止まらなくなる。
「あたいのせいなら、謝るよ。だから、泣かないでおくれよ」
そう言われて、ようやく鈴仙は小町と目を合わせる。そこに居るのは、数多くの罪人を彼岸へと送り届けてきた、三途の川の渡し守である。
もはや、鈴仙の心は破裂寸前であった。助けてほしい、とは言わない。ただ、誰かに打ち明けないと、もう、もたない。
「小町さん。話、聞いてくれますか」
「ああ、聞くよ」
鈴仙は話し始めた。あの夜に聞いてしまった会話のこと、自分がどうすれば良いのか未だ決められずにいること、昨日、てゐを傷つけてしまったこと。とても要領を得た話し方が出来ているとは思わなかったが、小町は時折、頷いたり、相槌を打ったりしながら、じっくりと話を聞いてくれた。
鈴仙が言いたいことをだいたい話し終えた時、二人は里の外れを流れる小川の傍に居た。永琳が開発した薬の話をしたところで、小町が場所を変えることを提案したのである。他の誰かに聞かれてはまずい話と判断したのであろう。日は既に、地平の彼方に八割がた沈み込んでいる。
「すみません。こんな時間まで」
小川で洗った顔に手拭いを当てながら、鈴仙が詫びを入れる。小町は何でもないように「気にすんな」と返す。しかし、その小町も、内心では動揺していた。
小町が動揺する原因は概ね二つ。第一に、妖怪はおろか、蓬莱人さえ殺し得る薬の存在である。身内の安否に意識が行っている鈴仙は気が付いていないが、その薬の危険性は尋常ではない。下手をすれば――というより上手くやれば、と言うべきか、幻想郷の住人を皆殺しにすることも出来る。そして第二に、これまでに前例のない、蓬莱人の死の扱いについて。もっとも、こちらについては、死神の小町ではなく、閻魔が何らかの判断をしてくれるはずである。いずれにせよ、現世に生きる者の生死に関して、あまり積極的に干渉するわけにはいかない。結局、彼女に言えるのは一つだけであった。
「その薬を使うと、かなりの業を負うことになるよ」
「業、ですか」
我ながら、半端な物言いしか出来ないのは情けない、と、小町は自らの至らなさを悔いる。つまるところ「如何なる目的としても使わせるな」と言いたいのであるが、思案して行動を決定するべきなのは自分ではない。そう考えた結果、このような言い方しか思い付かなかったのである。
鈴仙は、小町の真意を完全には汲み取れなかったが、ともかく話をしたことで、少し落ち着きを取り戻した様子である。そして、自分の気持ちに、一つの結論を出した。
「私は、師匠と姫様に死んでほしくないです。駄々と言われたって、構わない。だから…」
鈴仙はまた言葉を飲み込みかける。あの二人を止めることなど、自分に出来るはずがない。出来ないことを言って、何になるのか。
違う、そうではない。今の自分にとって重要なのは、何が出来るか、ではない。何をしたいのか、だ。何のために行動するのかが大切なのだ。
「あの薬は絶対に使わせません」
そう言い放つと、鋭い目をして真っ直ぐに前を見据えた。小川の向こうには誰も居ないが、鈴仙の目には、永琳と輝夜の姿が映っているのであろう。
実のところ、小町は複雑な心持ちであった。鈴仙が立ち直ったのは良いものの、自分が焚き付けてしまった結果、彼女が殺されはしないかという不安があったのである。そうかと言って、考え直すように仕向けたのでは、元の木阿弥にしかならない。それに、小町も、いつまでも付き合うわけにはいかなかった。いい加減にして仕事に戻らなければ、幻想郷は幽霊で溢れかえってしまう。
「無理はするんじゃないよ」
結局、こう注意するのが精一杯であった。
鈴仙は深々と頭を下げて小町に礼を言い、二人はそれぞれの帰るべき所へと帰って行った。
鈴仙が永遠亭に帰った頃には、すっかり日が暮れてしまっていた。帰りの遅くなったことを叱られるだろうと覚悟して、玄関の戸を開く。すると、奥から、てゐがぱたぱたと駆けて来て、珍しく慌てた様子で言った。
「お師匠さまが、あんたを探してたよ」
その慌てぶりから、永琳は相当怒っているらしいと思われた。早く行けと急かすてゐに押されて、鈴仙は廊下を急ぎ足で歩く。てゐは途中で押すのをやめて、これ以上は近寄りたくない、と言うように立ち止まった。どうやら、永琳の怒りは予想以上のものらしい。しかし、鈴仙には特別に頼まれていたことがあったという覚えはない。もしや、小町に話したことで、先日の盗み聞きが知られてしまったか。そうだとしたら、致し方ない。ただ、敢然と立ち向かうのみである。
「てゐ、昨日はごめん」
突然、死地へと赴く兵のような表情になった鈴仙に、てゐは明らかに動揺した。いくら、永琳が怒っていたと感じているとはいえ、獄門に処されるとまでは思っていないのである。そこへいきなり、こんな顔で謝られては、「気にしてないよ」としか言えなかった。
部屋の前で声をかけ、障子を開くと、常備用の薬を置いてある棚の前で、無表情の永琳がこちらを向いていた。
「失礼します」
鈴仙は瞳に神経を集中させ、永琳の波長を見た。あらゆるものには波長があり、彼女の目はそれを見ることが出来る。それによって相手の性質や感情の起伏を窺い知ることが可能なのである。しかし、今の永琳の波長は酷いノイズだらけで、短くなったり長くなったりを不規則に繰り返している。おそらく、これは彼女が意図的にやっているのであろう。
「ウドンゲ」
その声は不気味なほどに落ち着いており、優しくも荒々しくもない、ただただ平淡な呼びかけであった。覚悟を決めて来たつもりの鈴仙であったが、その不気味極まりない無機質さを前に、全身の毛が逆立つような感覚に襲われる。名を呼ばれたのに「はい」と返事することも出来ずに立ち尽くしていると、永琳はそれを気にする様子もなく、続けて口を開いた。
「ここに置いてあった、薬入りの小瓶を知らないかしら」
そう言って棚の一ヶ所を指差す。その一角は、薬の名前ではなく番号だけを記載した瓶が置いてある所で、鈴仙はそれぞれが何の薬かも知らない。
「どんな薬ですか」
「無色透明の液体」
「番号は」
「八の二百十五」
「…知りません」
「そう」
永琳はゆっくりと鈴仙の前まで歩み寄り、左手で彼女の右頬を撫でる。
「本当に知らないのね?」
目の前に無表情の顔を近付けられ、鈴仙は怯えて声も出せないまま、小さく三回頷いた。後退りしようにも、これっぽっちも足が動かない。
「それなら、今日、スキマ妖怪を見かけなかった?」
相変わらずの無表情で訊ねられる。スキマ妖怪とは、あの紫のことである。当然、鈴仙は今日、彼女を見かけてなどいない。慌てて首を横に振る。
いっそ殺してくれと言いたくなるほどの意味不明の恐怖を相手に、鈴仙は懸命に堪えていた。やがて、永琳は鈴仙の顔から手を離すと、その横を通り抜けて廊下に出た。
「私はちょっと、外に出てくるわ。部屋の灯りを消しておいてちょうだい」
鈴仙は未だ体が硬直したままで、了承の返事も出来なかったが、永琳はそのまま廊下を歩いて行ってしまった。二十秒近く経ってから、ようやく動けるようになり、部屋の隅に置かれた行灯の火を消す。怖かった。それ以外の感想など、持つ余裕もなかった。何が何やら解らないまま、鈴仙は部屋を後にする。
永琳は紫を探しに行ったのか。確かに、永遠亭に住む者の他に、あの部屋から薬を盗み出すことが出来そうな者と言えば、紫ぐらいしか思い当たらない。そんなことを考えながら暗い廊下を歩くうちに、一昨日の夜のことを思い出す。
――完成間近というわけですか。長かったわね。
――そうね。二百十四回の試作品を経て、ようやく。
突然、鈴仙の足が止まる。先ほど、永琳は何と言った?
――番号は。
――八の二百十五。
そう言った。確かに、そう言った。試作品が二百十四個あったのなら、完成品は何番目か。決まっている。紫があの薬を盗んだのか。何のために?
――その薬を使うと、かなりの業を負うことになるよ。
先ほど、小町に言われた言葉を思い出す。自殺することの罪の重さを説いているのかと思っていたが、それだけではなかったということに、ようやく思い至る。
――妖怪や妖獣にも効くのかしら。
――もちろん。鬼だろうと吸血鬼だろうと、神様だろうと…。
紫は幻想郷を守る賢者の一人であり、その均衡を崩す不穏分子には、誰よりも敏感である。あらゆる妖怪も、神々さえも殺してしまう薬の存在など、彼女が許すはずがない。もし、そうだとすれば、紫は薬を葬り去るであろう。それで良い。それで、自分の望みは叶う。
再び歩き出した鈴仙であったが、数歩進んだところで、また足が止まる。
もし、紫の目的が廃棄ではなかったら。そんなことが、あり得るだろうか。あるとしたら、何のためか。紫が幻想郷の住人をむやみに殺すことなど、絶対に考えられない。そもそも、それが目的なら薬など要らない。自力で九割九分九厘、ひょっとしたら十割、抹殺出来る。あの紫が本気の戦いで誰かに負けるはずがない。…ない?
違う。紫があの薬を使うに足る用途は、まだ、ある。
「また、月を…?」
遥か昔、紫は思い上がった地上の妖怪達を引き連れて、月へと侵攻した。結果は惨敗で、その後、しばらくは大人しくしていたが、彼女は月の民に負けた悔しさを忘れてはいなかった。近年、彼女は博麗の巫女や吸血鬼を唆し、冥界の亡霊姫と共謀して、月の民に一泡吹かせようと画策した。実際には、永琳と輝夜にささやかな歓迎――という名の嫌がらせをするための計画であったが、鈴仙は、紫が月を攻めようとして、また失敗して帰ってきた、としか認識していない。
紫はあの薬を使い、第三次月面戦争を起こすつもりかも知れない。少なくとも、永琳はそう考えていると思われた。紫の目的が薬の廃棄なら、資料も一緒に処分しなければならないはずであるし、何より、永琳の異常な様子からして、迅速に薬を取り返す必要があると感じているのに違いない。
鈴仙は永琳を追いかけようと廊下を高速で飛ぶが、もはや、まったく姿が見えない。既に、外に出てしまったのだろう。そう思い、玄関口から勢いよく飛び出すと、丁度そこに立って空を見上げていた輝夜に背後からぶつかった。後頭部に鈴仙の胴体を受けた輝夜は顔面から足元に倒れ込む。一方、輝夜の頭に鳩尾へ抉り込まれた鈴仙も、その場で浮力を失って下に落ち、腹を押さえてうずくまった。
「何なのよ」
玄関先の土に顔を付けたまま、輝夜が言う。
「すみ…、すみま…」
謝ろうとしても、あまりの痛みに声が出せない。ようやく落ち着いて、立ち上がろうとする鈴仙の前に、輝夜が立ちはだかった。おそるおそる顔を上げて見ると、まだ顔に砂が付いたままの輝夜が、これから断頭台の刃を落とす処刑人のような目をして、こちらを見下ろしている。鈴仙は頭を下げつつ足を体の下に畳み、両手を目の前の土の上で丁寧に揃えた。
「申し訳ございません」
「土下座で赦してくれるのは、貴方の優しい元飼い主ぐらいのものよ」
そう言われても、とりあえず頭を下げて謝罪の意を伝える他に、出来ることが思い当たらない。鈴仙は何も言うことが出来ず、ただ地面を見続ける。
「立ちなさい」
慌てて立ち上がる。輝夜の顔にはまだ幾らか砂が付いたままで、時折ぱらぱらと下に落ちている。鈴仙がそのことを伝えようと口を開くより前に、輝夜が訊ねた。
「何があったのか、説明なさい」
「すみません。輝夜様がいらっしゃることに気が付かず…。」
「違う」
普段は聴くことのない強い語気で言葉を遮られ、鈴仙は驚く。改めて表情を確認すると、輝夜は怒っているというよりも、何か、真剣な話をしようとしているらしく窺えた。
「永琳のことで、貴方が知っていることを全部、話しなさい」
同じ屋敷に住んでいるのである。永琳の様子がおかしいことなど、気が付かないはずもない。それに加えて、昨晩にはまだ思い至っていなかった、鈴仙の悩みが永琳と関係があるということにも、輝夜は既に辿り着いていたのである。
今、輝夜にあの話をしても良いものか。鈴仙は大いに悩む。緊急事態には間違いないが、輝夜の手を煩わせるようなことがあってはならない。それに、あの薬のことも、彼女に知らせるのは尚早であろうと思われた。
「輝夜様。今日はこれから、妹紅と決闘をされるのでは…」
「鈴仙。次は、ないわよ」
未だかつて、一度も向けられたことのなかったほどの殺気が鈴仙の体を貫く。殺される。脅しではない。今、ここで、一切の嘘偽りなく、洗いざらい喋らなければ、確実に殺される。そう、直感させられた。
命を懸けてでも成したいと心に決めたのは、輝夜に薬のことを知らせないということではない。問題は、彼女がそれを聞いて、どうするか次第なのである。今、ここで死ぬわけにはいかない。そう考え、鈴仙は、あの夜の永琳と紫の会話、そして、先ほどの部屋での出来事について、覚えている事実を伝える。輝夜は蓬莱人を殺す薬の話を聞いても、眉一つ動かさず、ただ黙って聞いていた。
終わりがけに、輝夜から紫の目的について問われると、鈴仙は廊下でしていた考察の内容を説明した。輝夜はその考察に「他はともかく」と前置きした上で、一点だけ異を唱える。
「小瓶一つ分の薬で月面戦争? あの妖怪は、そんな虚(うつけ)じゃないわ」
「では、目的は他にあるということでしょうか」
「目的は判然としないけれど、盗まれたのは薬だけじゃないはずよ」
そこで、ようやく鈴仙は己の失念に気が付いた。薬を知らないか、としか訊かれなかったのと、正直に言って怖かったのとで、資料も盗まれている可能性を考えていなかった。
「八雲紫が薬の複製を?」
「材料次第よ」
その時、竹林の中から、何者かが地面を蹴る音が聞こえてきた。鈴仙と輝夜がそちらの方を振り向くと、竹林の中を走って永遠亭から離れていく人影が目に映る。
「捕らえます!」
そう言って鈴仙が走り出すよりも早く、輝夜は宙に浮かび、曲者を追って飛んでいた。鈴仙が「お待ちください」と止めるのも聞かず、輝夜は人影を追いかける。鈴仙もその後を追って空を飛び、二人で人影を追いかけることになった。
もう十秒ほどで、走る人影に追い付けるというところで、影は真っ赤に燃え上がり、大きな鳥に姿を変えて、空へと舞い上がった。
月明かりの下を、赤々しい神秘的な光を放ちながら、まるで彗星のように飛んで行く。その鳥は炎の体を持ち、その翼が羽ばたかれるたび、火の粉が舞い散り、夜空は赤い星で彩られる。やがて、火の鳥は急降下を始め、火山弾のごとく大地へと衝突した。鳥は地に落ちて、無造作に燃える炎の塊となり、土の上を横に移動し始める。炎は次第に小さくなっていき、その中から、地に足を付けて歩く一人の人間が現れた。未だその体に残る小さな火が、真っ白な長い髪を赤く染め上げている。地上に暮らす三人目の蓬莱人、妹紅である。
ここは幻想郷の果て。博麗の巫女が住まう神の社から、最も遠い場所であり、博麗大結界を維持するための、もう一つの要所でもある。
全ての火が消え、辺りを照らすものは僅かな月明かりのみとなるも、妹紅は視界の悪さを気にかけずに歩き続ける。しばらく、足元の草や落ち葉を踏みながら歩いていたが、大地に降り立ってから五十歩ほど進んだところで、ぴたりと足を止めた。
「何の用?」
妹紅の背後、その足が七歩ほど前に踏んだ所に、空を飛んで来た何者かが着地する。彼女は振り返りもせずに問いかけた。
「言っとくけど、約束をすっぽかしたのは、お前だからね」
そう言いながら、ようやく後ろを振り向く。そこには、険しい顔付きをした鈴仙と、人形のような笑みを浮かべた輝夜が立っていた。
「控えなさい、イナバ」
前に出ようとする鈴仙を輝夜が制する。輝夜は小さい歩幅で二歩、妹紅の方へと近付き、彼女に問いかける。
「妹紅、貴方は、八雲紫に会いに来たのでしょう?」
彼女は答えない。わざわざ言わなくとも、その答えは決まっている。この地には紫と、彼女が使役する式達が住んでいる他は、何もないのである。
「蓬莱の薬は、口にした者の魂を現世に縛り付ける。…永遠に、ね」
妹紅は、そんなことは嫌と言うほど知っている、といった面持ちである。忘れはしない。不死の体を得てからの、あの日々を。絶望と後悔に埋もれた、あの日々を。あらゆる方法で己を殺し尽くそうとして、悉く失敗した、あの日々を、絶対に忘れてなるものか。
「だけど、その薬を生み出した賢者になら、その永遠を終わらせることも出来るかも知れない」
輝夜には確証があった。永琳は、この地上にやって来て以来、ずっと、蓬莱人の永遠を断ち切る方法の研究を続けていたのだ。おそらくは、自分に蓬莱の薬を与えてしまった後悔からだろう、と考えていた。幻想郷に来る前に三度、来てからは一度だけ、その研究について尋ねてみたが、永琳は一度も研究の存在を肯定しなかった。明確に見たことがあるわけでもない。それでも、輝夜は確信していた。それは、他人に言わせると、単なる勘に過ぎない、そんな感覚によって。その確信があればこそ、鈴仙から話を聞いても、なお落ち着いていることが出来たのである。
先ほどから、しばらく黙って聞いているだけであった妹紅が、ようやく口を開いた。
「それで? お前は、永遠の終わりに興味があるのか?」
妹紅もまた、輝夜と同じ考えであった。永琳の計り知れない能力は、身をもってよく知っている。そして何より、輝夜がそう信じている。幾度となく繰り返してきた殺し合いの中で、妹紅は輝夜に対し、一種の信頼めいた感情さえ覚えていた。輝夜は、永琳が蓬莱人の永遠を断ち切るための研究をしていると思っているはず。それもまた、長い付き合いの中で感じ取った事実であった。
「私は、そんなものに興味なんてないわ」
輝夜はきっぱりと言い切る。正面に立つ妹紅は特に何の反応も示さなかったが、後ろで聞いていた鈴仙はこれを聞いて、少なからず安堵した。
「だけど、妹紅。貴方は紫に、何の用があるのかしらね?」
途端に、辺りの空気がピンと張り詰める。再び黙り込んだ妹紅の顔をじっと見つめたまま、輝夜は身動き一つしようとしない。そして鈴仙もまた、その気圧に押されて、僅かばかりも体を動かすことが出来ないでいた。
凝固した大気を少しでも動かそうとするかのように、風が吹いてくる。それは、木の葉一枚を動かすほどの力もない弱々しい風であったが、鈴仙には、その音がうるさいぐらいに聴こえていた。
「許さないわよ。私に黙って、消えようなんて」
姫とは、得てして我が儘なものである。欲しい物は何としてでも手に入れないと、気が済まない。それは、輝夜とて例外ではない。彼女は彼女なりに遠慮していることも多いのかも知れないが、少なくとも、口に出した以上は力ずくでも我を通す。
その言葉に妹紅は少し眉を上げ、鋭い目付きで輝夜を睨んだ。輝夜の口許からは笑みが消え失せており、二人は今にも戦いを始めそうな雰囲気である。
「随分と勝手な物言いですね」
鈴仙達から見て左の側から、明らかに怒気を含んだ声が飛んできた。三人は一斉にそちらを振り向く。
「慧音!」
いつの間にここへやって来たのか、その声の主は、紛れもなく慧音であった。鈴仙はおろか、妹紅も彼女に気が付いていなかったようで、驚きを隠せない。輝夜は表情こそ変えないが、慌てて振り向いたところを見ると、やはり予想外であったらしい。
彼女は眉間に皺を寄せて、輝夜に明らかな敵意を向けながら、三人の方へと近付いて来る。
「貴方が戯れに残した蓬莱の薬が、どれほど妹紅を苦しめたか…」
輝夜と妹紅の間に立ち、今にも殴りかかりそうな気配を見せながら、問い詰める。
「ずっと、二人で居た貴方に…、妹紅を止める権利があるのか!」
堪えきれず、輝夜に掴みかかろうとする慧音の肩に、ぽん、と妹紅の手が置かれる。慧音は噴出している殺気を納め、首を回して妹紅の顔を見た。
「…妹紅?」
「輝夜。用は、それだけ?」
妹紅は目を細めて慧音に優しく微笑みかけると、そのまま輝夜に向き直り、聞いたことのないような柔らかい声で問いかけた。
「…ええ、そうよ」
そう答える輝夜の声は、いつもの、澄まして悠々とした調子ではなかった。
――だって、そうでしょう?
――何百年も殺し合った仲でしょう?
――千年以上も私を恨んできたのでしょう?
「一言ぐらい…、言ってくれても良いじゃない…」
鈴仙も慧音も、輝夜は妹紅を止めるために彼女を追って来たのだと思っていた。しかし、そうではない。彼女はただ一言、文句を言ってやりたかっただけなのである。挨拶もなしに行ってしまうとは何事か、と。輝夜は潤ませた目を伏して誰とも視線を合わせず、ぎゅっと口を結ぶ。
しばらく沈黙が続く。鈴仙はどうしたら良いか判らず、目だけを動かして妹紅と慧音の顔を交互に見たりしている。その視線が四回ほど往復したところで、妹紅が「はぁ」と溜め息を吐いた。
「アホか」
予想外の言葉に、輝夜は思わず顔を上げる。見れば妹紅の顔は、心の底から輝夜を小馬鹿にしている風である。
「な、何よ! 阿呆って言う奴が阿呆なのよ!」
子どものように言い返す輝夜。数秒前までの、しんみりとした空気は何処へ行ってしまったのか。鈴仙と慧音は妹紅の意図が解らず、目をしばたたかせていた。
「私はな、あいつが盗んだ薬と資料を焼き尽くしに来ただけだ」
「…え?」
三人が同時に声を出した。
予定の時刻になっても決闘の場所に来ない輝夜に文句を言うため、永遠亭に足を運んだ妹紅は、玄関先で鈴仙が輝夜に話しているのを盗み聞きした。蓬莱人を殺す薬が完成したと知った時、彼女は、こう考えた。永琳は輝夜に薬を飲ませるつもりだろう、と。何故なら、彼女は輝夜のために生きているから。不死身になってしまった輝夜のために地上に降り、輝夜を一人にしないために自らも不死の体となった献身的な従者なのだ。蓬莱の力を打ち消す薬が完成したら、輝夜を永遠の呪縛から解き放とうとするに決まっている。
――冗談じゃない。輝夜を殺すのは、私だ。
そんな研究など灰にしてやろう、と思っていたところで、紫が薬と資料を盗み出したと聞き、脇目も振らずにこの地へ飛んで来たのである。ここで輝夜達と話をするまで、自分で薬を飲むというのは思慮の外であった。
「言われてみれば、そういう発想もあるな」
「バッカじゃないの!? あんた、何百年後悔したのよ!?」
顔を真っ赤にして輝夜が吠える。予想だにしなかった辱しめを受けて、品位を保つ余裕は完全に吹っ飛んでしまったらしい。
「九百年だよ、文句あるか!」
「文句しかないわ!」
鈴仙は呆れて物も言えず、その場に立ち尽くしている。心の中でこっそりと「この人、本当に馬鹿なんじゃないかな」とすら思う。しかし同時に、妹紅のことが羨ましくもあった。自分が丸一日悩んだ挙げ句、人に相談して、なお出来なかったことを、妹紅は即座にやってのけたのである。
「勝手に勘違いしたんでしょ!」
「誰のせいよ! だいたい、人の物を勝手に燃やすとか、あり得ないわ! これだから地上の民は…」
「いつまで月の民気取ってんの!? この罪人が!」
「あんただって泥棒でしょーが!」
いよいよ本格的に子どもの喧嘩と化してきたため、鈴仙は「まあまあ」と輝夜を宥める。慧音が同じように妹紅を諫めてくれると期待していたが、彼女はただ、ぼんやりと三人を見ているだけである。
「慧音さん?」
鈴仙が声をかけたことで、喧嘩をしていた二人も、慧音が押し黙っていることに気が付いた。ピタッと静かになり、彼女の方に顔を向ける。
「妹紅、貴方は…、死ぬつもりでは、なかったんですね…」
ようやく弱々しい声を出した慧音の問いに、妹紅はまた溜め息を吐き、一言「当然」と返答する。
「そうか…」
今にも消え入りそうな声で呟くと、慧音は力が抜けたように、その場に座り込んだ。
「良かったぁ…」
その両目から、涙が川のように流れだす。
「お、おい、慧音」
「わた…し…は、てっぎ…り…」
子どものように泣きじゃくる慧音。何かを言おうとするが、まったく言葉にならない。普段の毅然とした彼女からは想像も出来ない姿であった。
鈴仙が人里の茶屋で小町に話し始めた時、慧音は、そのすぐ近くの人家に居た。揃って風邪で倒れた一家のために、その家を訪れて介抱していたのである。換気のために窓を開けたところで、偶然、永琳が開発した新薬の話が耳に入る。すぐに小町が場所を変えるよう提案し、二人はその場を離れたが、前日に鈴仙と会っていた慧音は、その、おおよその事態を理解した。それから彼女は、鈴仙と同じように思い悩むこととなった。
――それが、妹紅の意思なら。
慧音が鈴仙と違ったのは、己に対して出した結論である。自分の本心に従うことを決意した鈴仙に対し、彼女は本人の意思を尊重すべきだと自分に言い聞かせた。そして先ほど、輝夜と決闘しているはずの妹紅が夜空を飛んで行くのを見て胸騒ぎを覚え、ここまで追いかけて来たのである。もし、妹紅の邪魔をする者があるなら、そいつを何としてでも止めよう、と。
――それが、妹紅の願いなら。
本当は、どうにか説得して、妹紅を引き留めたかった。しかし、不死身となってしまった彼女の苦しみを知る慧音には、どうしても、それが出来ない。自分を押し殺して、歯を食いしばり、見送ってやるつもりであった。
鈴仙は泣き崩れる慧音を見ながら、何と理性の強い人間なのか、と驚愕する。長年、いつかその時が来るだろうと予感していた輝夜と違い、彼女は今日、突然、その事実を知ったというのに。
「あらあら。妹紅ってば、罪作りな女ね」
「い、いや、私はそんなつもりじゃ…」
いつになく、あたふたとする妹紅を、いつの間にか普段の調子を取り戻した輝夜が野次る。
「つもりじゃなくても、心配なのよ」
輝夜は膝立ちになって慧音と目の高さを合わせ、そっと手拭いを差し出した。慧音はそれを受け取り、「ありがとう」と言おうとするが、まだ上手く発音出来ない。
「…ごめん」
謝る妹紅を横目に、輝夜は立ち上がって鈴仙の傍に移動する。
「ずるいわよね」
近くの鈴仙にも幽かにしか聴こえない声で輝夜が呟く。誰が、とは言わなかったが、鈴仙は何となく、慧音のことだろうと思った。
輝夜に替わって、妹紅が慧音の前にしゃがみ込む。
「慧音。私は死なないから。あいつが生きている限り、絶対に。だから、安心して」
慧音は、か細い声で「うん」と言うと、片手に手拭いを持ったまま、いきなり両手で妹紅の両肩を掴んだ。頭を一瞬だけ後ろに傾け、有無を言わさぬ速さで妹紅の額に自分の額をぶつける。突然のことに反応出来なかった妹紅は、膝を曲げた姿勢のまま、体を後ろに仰け反らせた。
「心配料です」
服に付いた砂や草を払いながら立ち上がり、普段と変わらぬ端然とした口調で、そう言い放つ。妹紅は額を手で押さえて、理不尽そうな顔をしていたが、慧音の様子がいつも通りに戻ったことに安心したのか、何も言い返さない。輝夜はそんな二人の様子を見て、クスクスと笑っていた。
和やかなのは結構だが、自分は完全に蚊帳の外という気がする。鈴仙は何となく手持ち無沙汰な思いをしていた。何気なく腰に手を当てると、上着のポケットに違和感がある。何だろう、と思って中を探ってみたところ、折り畳まれた紙が出てきた。どうやら、粉薬が入った薬包紙らしく、表に小さく文字が書いてある。
「イナバ、それは何?」
「わかりません。前に入れたのを忘れてたみたいです」
鈴仙にはまったく心当たりがなかったが、とりあえず、そういうことにしておいた。永琳の字で『以前、頂いた古酒のお返しです』と書いてあるのが気にかかったが、ともかく、今は関係なかろうと思ったのである。
「これから、どうされるんですか?」
「そうねぇ」
輝夜はしばし考える。五秒ばかり沈黙したところで何かを閃いたらしく、悪戯を仕掛ける悪童のような笑みを浮かべた。
「妹紅、勝負しましょう」
「何の」
「決まってるじゃない。どちらが先に、薬と資料を焼却するか、よ」
鈴仙は目をパチクリさせた。慧音も予想外の提案に、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。永琳達の死を危惧する鈴仙にとって、薬の処分は大いに望むところであるが、よもや輝夜が言いだそうとは思っていなかった。
「輝夜様!」
よりによって、輝夜が、永琳の長年の研究を無に還そうと言うのか。彼女はおそらく、輝夜のために、それを続けてきたというのに。自分の意思を棚に上げて、思わず声を上げた鈴仙であったが、輝夜は相変わらず意地悪く笑っている。
「永琳なら資料なんかなくても、薬の情報は全部、頭の中に入っているわ。ましてや、あの研究のことなら、それこそ、一言一句の誤りもなく」
過言ではない。その気になれば、巨大な図書館の蔵書全ての文言を覚えることも可能なのではないか、とさえ目される永琳のことである。と、なれば、他人の目に触れる紙を媒体とした資料など、なくしてしまった方が良いのかも知れない。しかし、それは裏を返せば、資料を燃やしてしまっても鈴仙の不安は消えない、ということでもある。
「それにね、これは、私たちの意思表示でもあるのよ」
その言葉の意味が解らず、きょとんとしている鈴仙を見てクスクスと笑ってから、輝夜は天を仰ぎ見た。夜空には半月が浮かび、無数の星々に囲まれて明るく振る舞っている。
「ああ、ここから見上げる月の、何と輝かしいことでしょう。あの永遠の理想郷の、何と美しいことでしょう」
妹紅には、その台詞に何となく覚えがあった。いつのことであったかは覚えていないが、輝夜の口から聞いたことがある。その時も、彼女は同じように夜空の月を見上げていた。
「それに比べて、この地上は拙く、穢れで溢れているわ。永久に辿り着くことの出来ない完全を夢見て、次から次へと、新たな過ちを犯し続ける。そうして、来る日も来る日も、その姿を醜く変貌させていく」
だからこそ、地上に憧れた。
輝夜は天を仰ぐのをやめ、妹紅に視線を送る。
「こんな愚かしい世界を謳歌するためには、時間が幾らあっても足りやしない。万物が思考をやめる、その日まで、退屈なんてしていられない」
かつて、輝夜が語ったことを思い出しながら、妹紅が代わりに言葉を紡いだ。
「ちょっと違うんじゃない?」
「何が」
「万物が、の辺りとか」
「どうでも良いだろう」
輝夜は何処か不満気であったが、鈴仙は、彼女が言った『意思表示』の意味を理解した。つまり、まだまだ死ぬ準備など要らないということか。
「それで、貴方たちは、どうしたい?」
そういうことならば、鈴仙の答えは決まっている。豪快に燃やしてやろう。偉大なる師に、死んでくれるな、と伝えるための狼煙を上げるのだ。いや、それだけでは足りない。燃やした後で、自分の考えを明確に言葉でも伝えよう。そうしよう。
慧音もまた、彼女らしい理性的な打算を経た上でではあるが、既に心を決めていた。
「お供します」
誠に力強い、異口同音であった。
慧音は激怒した。必ず、この軽慮浅謀の女を頭突かねばならぬと決意した。
きっかけは、鈴仙が投げかけた一つの質問である。
「ところで、八雲の屋敷って何処にあるんですか?」
この質問に、輝夜と妹紅は揃って目を逸らした。神社の反対側にあるらしいということは判っていたが、正確な位置は誰も知らなかったのである。
「妹紅が知ってると思って」
「辺り一帯、燃やせば見付かると思って」
鈴仙は目頭を押さえた。これでは、永琳より先に薬を奪取するなど不可能であろう。何だか風も強くなって体が冷えてきたし、そろそろ帰って温かい汁物でも食べたい。そんな考えさえ頭に浮かんでくる。二人とも、普段は決して、こんな愚かしい手合いではないのであるが、今回は事情が事情だけに先走り気味になったらしい。
慧音が背後から妹紅の肩を叩き、振り向いたところに強烈な頭突きを放つ。しばらく、輝夜も含めた三人で「痛い」だの「うるさい」「この馬鹿」だのと騒いでいたが、途端に全員が黙り込み、揃って同じ方を振り向いた。
「騒がしいわね」
そこに立っていたのは、紫であった。家の近くで、これだけ騒いでいれば、気が付かない方がおかしい。
四人は慌ててお互いに間隔をあけ、戦いに備えて構える。
「あら、私と遊びに来たのかしら?」
紫は手に持った扇子を口許で開き、その表情を隠す。対峙する四人に緊張が走る。相手は、この幻想郷で並ぶ者のないほどの強者。油断すれば、一瞬で命を落とすことになる。
永琳の姿が見えないのにも関わらず、この場に紫が現れたという事実に、鈴仙は嫌な予感がするのを禁じ得ない。心臓の鼓動する音が早く、大きくなっていく。
「紫様!」
紫の後ろから、彼女の式である九尾の妖狐、八雲藍が、いやに大きな黒い毛玉を背負ってやって来た。
幻想郷では、魔力や思念の塊が、大きい毛玉のような姿で現れることがある。しかし、藍の背中にあるそれは、そういった物とは違って見えた。さらに、それがもぞもぞと動いている。薬を取り返しに来た者を迎え撃つため、紫が用意した新種の妖怪であろうか。
「貴方達、永琳から何か預かっていませんか?」
鈴仙と輝夜の間を扇子で指し、紫が尋ねる。二人は彼女から視線を逸らさないようにしながら考えるが、思い当たる節はない。しばらく黙っていると、紫が再び扇子を用いて顔の下半分を隠す。
「おそらく、薬のような物だと思うのだけれど」
そう言われて、鈴仙は自分の上着に入っている薬包紙を思い出す。ひょっとしたら、自分が気付かない間に永琳に入れられた物であったのか。可能性が高いのは、部屋で薬の瓶について訊ねられた時である。しかし、その手をポケットへと動かす前に輝夜から「鈴仙」と声で制せられた。輝夜は紫を険しい目付きで睨み付ける。
「その前に、お尋ねしたいことがあるのだけれど」
「何でしょう」
如何にもわざとらしく、白々しさを醸し出しながら扇子を振る紫。その顔は輝夜達を嘲るように笑っている。
「貴方は今日、永琳と会っているんじゃないかしら?」
「ええ、お会いしましたわ」
輝夜の目付きが、さらに鋭くなる。今はもう、余裕ぶるための穏健さを見せるつもりもない。
「永琳をどうしたの?」
「どうもしないわ。ただ、お薬を頂いたけれど」
それは順番が逆だろう。とぼけるのも大概にしろ。そう思い、鈴仙は紫への殺意を剥き出しにする。
「それは、どんな薬?」
「特効薬よ」
「何の」
ピシッ、と音を立てて扇子が閉じられる。紫は笑みを捨て去り、輝夜の顔を見据えた。
妹紅は既に、輝夜が紫を、自分が藍を叩くように動こう、といった想定を済ませていた。慧音は戦いになったら妹紅のサポートをするか、新種の妖怪の相手をするつもりである。そして、輝夜と鈴仙も、すぐにでも紫を殺しにかかる準備は出来ている。
「虫歯の」
時が止まる。
いや、これは油断を誘う作戦に違いない。四人は相変わらず戦う構えを解こうとしない。
「実はね、お恥ずかしいことですが、不肖の式の監督が行き届いておらず、そのまた式が不摂生により虫歯になりまして」
紫は先ほどまでとは打って変わって、ペラペラと話し出す。後ろでは藍が、ばつの悪そうな顔をして頬を掻いている。
「『二百十四回の試作品を経て、ようやく』完成した特効薬を譲って頂きましたの」
鈴仙はドキリとした。正確に覚えている自信はないが、あの夜、聞いたであろう言い回しを使われたからである。紫は明らかに悪意を持った、いやらしい笑顔で話し続ける。
「素晴らしい薬ですのよ。それがあれば、甘いものばかり食べた『罪』による、痛みという『罰から解放され』、『永い苦しみから抜け出すこと』が出来ますわ」
鈴仙以外の三人には、紫がやけに楽しそうな理由がさっぱり解らない。声高らかに虫歯の特効薬について語る様は、ただただ不気味なだけである。
「何せ、『飲んでしまえば、たちどころに』虫歯菌が『死滅する』んだもの。どんなに酷くても、誰の虫歯でも。」
これ以上のない恥辱を受けている気分であった。鈴仙は両手で顔を覆う。
「『妖怪や妖獣』はおろか、『鬼だろうと吸血鬼だろうと、神様だろうと…』」
「蓬莱人だろうと?」
何かを察した輝夜が口を挟んだ。
「そうよ。ああ、でも、蓬莱人は虫歯にならないわね。あの方も、そう言って笑っていました」
いよいよ堪えられず、うずくまっている鈴仙に向けて、輝夜は白い目線を飛ばす。妹紅と慧音も鈴仙の様子を見て、しばらく考えた結果、正解に辿り着いたらしく、憐れむような目で彼女を見つめる。
――やめて。そんな目で見ないで。
見えなくとも感じる視線に身悶えする鈴仙を放って置いたまま、慧音が疑問を投げかける。
「では、預かった薬というのは?」
「イナバ」
ふるふると震える手でポケットから取り出された物を、輝夜が預かる。
「これは何?」
輝夜がそれを手に持って見せながら尋ねると、紫は笑顔を硬直させた。
「何の手違いか判らないけど、頂いた薬がブレンドでして」
そう言って、藍が背負う毛玉へと目をやるのに釣られ、輝夜達もそれを見る。よくよく見なければ分からなかったが、その黒い毛玉には尻尾らしき物が二つ付いていた。また、先ほどよりも大きくなっている気がする。
「飲ませた途端、家全体に毛が広がって、圧死するところでした」
げんなりとした様子の藍が恨めしそうに言う。曰く、死ぬ思いで毛を刈って外に連れ出したが、家の中は未だ、毛の海らしい。
「盗んだりするからですよ!」
鈴仙が唐突に立ち上がり、紫を指差して叫んだ。散々、恥をかいた鬱憤をぶつける勢いである。
「貴方のお師匠様は、盗まれたと言ったのかしら?」
「え」
――ここに置いてあった、薬入りの小瓶を知らないかしら。
――それなら、今日、スキマ妖怪を見かけなかった?
――私はちょっと、外に出てくるわ。
いよいよ鈴仙は気力を失った。仰向けにぱたりと倒れ込み、空に見える月を眺める。慧音が駆け寄って「大丈夫か」と問うと、「もう、無理です」と乾いた笑いを漏らしながら返事した。
輝夜も色々とどうでもよくなった様子で、薬包紙を藍に投げ渡す。藍が毛を掻き分けて口を探し、薬を流し込むと、バサッと余分な毛が抜け落ちて黒猫の妖怪、橙が現れた。喜ぶ橙を藍が「ああ、良かった」と抱き締める。紫は地に落ちた毛の上から、広げられた薬包紙を拾い上げ、そこに書かれている字を読む。そして、それを手の中でぐしゃっと丸め、輝夜に対して、吐き捨てるように言う。
「あの薬師に、お返しと仕返しの違いを教えておいてくださる?」
空は相変わらず晴れ渡り、満点の星に見守られる中、鈴仙達は迷いの竹林に向かって空を飛ぶ。
八雲の妖怪への用件が済み、脱力感から回復した輝夜は、妹紅と慧音を夕餉の席に誘った。おそらく、何事もなかったかのように永遠亭に居るであろう永琳を、共に問い詰めようと言うのである。二人もすっかり気が抜けており、言われるがまま、付いて来てしまった。
「結局、私にとって、この二日間は何だったんでしょう」
「私の半日もだ」
無為な時間を過ごした、と嘆く二人。しかし、輝夜はそれほど不機嫌でもなかった。実際のところ、鈴仙も今回の件で、永琳と輝夜に対する考え方を明確に出来たのであるが、いかんせん失った尊厳が大きい。それに、小町に何と言えば良いのか、考えると胃が痛む。慧音に至っては、鈴仙以上に貴重な塩水を浪費しているのである。それも、妹紅達の目の前で。今後、思い出すたびに恥ずかしさで悶えるのに違いない。
「永琳が黒幕だとしたら、どうして、そんな手の込んだ真似を?」
「だから、言ったでしょう。それを確かめに帰るのよ」
妹紅の問いを輝夜は軽く受け流す。しかし、妹紅は納得がいかないらしい。
「お前は、見当が付いてるはず」
「どうかしらね」
「ちょっと! あれ、燃えてませんか!?」
竹林の中から煙が上がっている。鈴仙達の記憶が間違っていなければ、それは永遠亭のある辺りで間違いない。彼女達は一転して胸騒ぎを覚え、全速力で煙のもとへと向かった。
「おかえりなさい」
庭で焚き火をしていた永琳が、帰ってきた鈴仙達に声をかけた。夕刻の、あの恐ろしい気配は微塵も感じられない。庭のあちらこちらで、てゐを含めた兎達が、焼いた薩摩芋を美味しそうに食べている。薩摩芋など備蓄にあった覚えはない、と鈴仙が指摘すると、先ほど、人里に出かけた際に買って来たのだと言う。「言ってなかったかしら?」としらばっくれる永琳に、もう我慢の限界を超えたとばかりに襲いかかろうとする妹紅を、鈴仙が羽交い締めにし、慧音が宥める。
服やら手やらの汚れているのを何とかしろと言われ、鈴仙達は一度、屋敷の中に入ることになった。永琳を問い詰めるのは、ゆっくりと芋を食べながらでも出来る。焚き火が赤く照らす庭を、輝夜が案内するようにして前を歩き、ぶつぶつと文句を言う妹紅の背中を慧音が押す。最後尾となった鈴仙は、数歩進んだ所で、ふと、永琳の方を振り向いた。
見れば、永琳は正体の判らない紙の束を、次から次へと焚き火に放り込んでいるではないか。また、まだ燃やされていない紙が置かれている辺りに、蓋の開いた空の小瓶が転がっており、ラベルの見えている部分だけであるが『一の一万七』と書いてあるのが見えた。
「お師匠様、それ…」
「どうかした?」
言いながらも永琳は手を止めず、ついに最後の束も火にくべる。
「あ…」
紙は瞬く間に燃え上がり、真っ黒になってぼろぼろと崩れていく。鈴仙は呆然として、炭化した紙が舞うのを眺めていることしか出来なかった。
「良いのよ。これは、意思表示なんだから」
「盗み聞きは関心しないわね」
永琳の言動に混乱する鈴仙の背後から、輝夜が声をかけた。彼女を含む三人も、鈴仙が立ち止まったことに気が付いて、そこで足を止めていたのである。盗み聞きという文言を聞いて、妹紅と慧音は居心地が悪そうにして顔を見合わせる。
「永琳。それが、貴方の答え?」
「ええ、そうよ」
「そう」
輝夜は、それで満足であった。どうやら、これが永琳の目的であったらしい。いかようにして自分達の会話を聞いていたのかは判らないが、言いたいことは伝わっていたようだ。それで良い。そんな物は必要ないのだから。妹紅も慧音も、永琳が研究をやめることに不服はない。しかし…。
「ふざけないでください!」
彼女にとっては、大いに不満であった。あれだけ苦労させられたのだ。あれほど思い悩まされたのだ。勝手に人の考えを探っておいて、そんな賢しい答え方をして、それで納得してたまるものか。
「私は真剣に悩んでたんですよ!? もし、お師匠様と輝夜様が死んでしまったら、って! 二人が居なくなったら、どうしよう、って!」
鈴仙の声が竹林に響き渡る。庭に居る妖怪兎達は、その声にびっくりして体を固まらせている。
「直接、話せば良いじゃないですか! こんな回りくどいことしないで、口で言えば良いのに! なのに、こんなの…、ずるいじゃないですか…」
声が次第に小さくなっていく。鈴仙は、永琳の顔を直視することが出来ずに俯きながら、頑張って言葉を絞り出す。
「…私は、お師匠様のように、賢くありません。慧音さんみたいに、遠慮深くもいられません。だから…」
永琳は何も言わない。輝夜も、妹紅も慧音も、口を閉ざして鈴仙の後ろ姿を見守っている。普段は自由奔放な兎達も、この時ばかりは、しんと静まり返っていた。
「だから、はっきりと言ってほしいんです…」
彼女の望みは、たった一つ。それは、ひどく自分勝手で、しかし、とても素朴な願いであった。
「お二人は、ずっと、私の傍に居てくださいますか…?」
薪(たきぎ)がぱちぱちと音を立てて、火の粉を散らす。庭に面した障子に映し出される鈴仙の影が、焚き火の揺れるのと同時にゆらゆらと動いた。それは、まるで、彼女の体が震えていることを、皆に教えようとしているようであった。
「貴方が、私たちの傍に居てくれる限り」
鈴仙は、はっとして面(おもて)を上げる。そこには、目を細め、優しく微笑む師の顔があった。鈴仙の目に、涙が滲む。
その時、焚き火が爆発音とともに勢いよく燃え広がった。怒り狂う獅子のごとく、炎が激しく暴れまわる。
「はあ!?」
最初に声を上げたのは妹紅である。兎達はおたおたとして、降り注ぐ火の粉から逃げ惑っている。
「え、何? 何ですか!?」
「永琳! 何か変な物、燃やしたでしょ!」
「知らないわ!」
「待て、幸せ兎!」
何食わぬ顔で横を通り抜けようとしたてゐの首根っこを、慧音が捕まえる。
「お前だな!? 焚き火に何を入れた!?」
「カクテル」
「何の!?」
「…モロトフ」
「火炎瓶だろう、それは!」
慧音は胸ぐらを両手で掴み、てゐの体を前後に揺さぶる。てゐは彼女から目を逸らし、「へっ」と息を吐いて嘲るように言う。
「だって、私一人がハブにされてんの、癪じゃん」
「ああ、もう、悪かったわよ!」
「それは悪かったけど!」
「だからって、焚き火を爆発させる奴があるか!」
「何処で手に入れた!?」
「貰った」
「誰に!」
「親切な妖怪」
「スキマ妖怪か! …そうなんだな? そうなんだな!?」
「とりあえず鎮火!」
「妹紅、火は専門でしょ!」
「私は燃やす方だけだっての!」
「縁側が燃えてますよ!」
「ああ、竹が! 竹が!」
井戸が近いこともあって、消火には五分ほどしか掛からず、屋敷には大した被害も出なかったものの、終わった時には全員、疲労困憊であった。目ざとく火事に気付いた烏天狗の記者が、カメラと取材ノートを手に飛んで来たが、妹紅がかつてないほどの剣幕で追い返した。
てゐへの制裁は、気が進まない鈴仙達に代わり、慧音と妹紅の二人が二刻(ふたとき)に亘って、懇々と説教をすることになった。その後で全員から一発ずつの拳骨も貰ったが、彼女は目的を果たせたと言って、満足そうにしていた。その目的とは何であったか。それを知る者は彼女自身と、たまたま永遠亭を通りすがったという親切な妖怪の二人しか居ない。
結局、火事のおかげで、今回の事件のことはいろいろと有耶無耶のまま終わってしまった。鈴仙もこれ以上は何も言うまいと思ったらしく、やたらと遅くなった夕餉を皆と一緒に済ませると、普段と何ら変わりのない様子で床に就いた。この夜、どんな夢を見たのか、彼女は覚えていなかったが、誰かの日記が語ることには、その寝顔は幸せそうなものであったという。
次の日になると、彼女達はすっかりいつも通りの日々に戻っていた。てゐは相変わらず悪戯三昧であったし、永琳は何かと忙しそうにしている。慧音は寺子屋で講義に勤しみ、輝夜と妹紅の決闘もまた行われた。その日常は、傍(はた)から見ていると、何事もなかったのではないかと思ってしまうほどに、これまでと相違ない。
しかし、縁側の端に残された焦げ跡を見るたび、鈴仙はその日のことを思い出す。サボり魔の死神に連れられて三途の川を渡る時が来るまで、ずっと、ここが自分の居場所なのだと改めて心に決めた、その日のことを。それは、永遠をやめた屋敷に刻み込まれた、大切な歴史の証印なのである。
鈴仙は月の兎である。かつては、神聖なる月の都で、外敵と戦うための訓練を受けていた。しかし、生死をかけた戦いに参加することを厭い、自分勝手で協調性がないと評されたその性格から、仲間を見捨てて地上へと逃げて来てしまったのである。彼女は地上の妖怪達が住まう楽園、幻想郷へと迷い込み、かつての月の指導者、八意永琳に保護された。その永琳もまた、月の都の姫君であった蓬莱山輝夜とともに地上に隠れ住む罪人であった。彼女は、鈴仙に地上で暮らすための名前を与え、自分達が住んでいる屋敷の中に匿ってくれたのである。
幻想郷で迂闊に足を踏み入れてはならない場所の一つ、迷いの竹林の奥に佇むこの屋敷は、永遠亭と呼ばれている。今でこそ、独特の丸い窓がある、大きい和風の建物というだけであるが、ほんの数年前までは、その名の通り、あらゆる変化を拒み、外部から隔絶された閉鎖空間であった。しかし、ある事件をきっかけにその閉鎖は解かれ、永遠亭はすっかり幻想郷に馴染みつつある。永琳は人里の人間達を相手に診療所を営み、鈴仙もまた、師匠と仰ぐ彼女の手伝いをして日々を過ごしている。
本来、月の民にとって、兎は便利に使える道具に過ぎない。それは遥か昔から決まっている運命(さだめ)のようなもので、鈴仙自身も、永琳や輝夜が自分をそのように扱うのが当然であると思っていた。しかし、永遠亭が開放された頃から、永琳達は徐々に月の民としての態度を変化させていき、鈴仙とも対等な存在として接するようになってきている。それは、鈴仙にとって途轍もなく嬉しいことであった。
鈴仙が煎茶の入った湯呑みを持って廊下を歩いて来たのは、他でもない、永琳に差し入れるためである。三千世界に比類なきほどの叡知を誇る永琳であるが、なお向上心に富んだ勤勉さを持ち、人々が寝静まる時分になっても自室で書籍を読んだり、新薬を開発するための研究をしたりしているのである。今も、その自室には灯りが点いており、何かしらの作業に励んでいるらしい。
鈴仙が部屋に近付くと、中から意外な声が聴こえてきた。
「完成間近というわけですか。長かったわね」
「そうね。二百十四回の試作品を経て、ようやく」
問いかけに答えたのは、永琳の声に間違いない。そして、もう一人の声にも、鈴仙は聞き覚えがあった。この幻想郷を外界から隔離させている存在の筆頭とも言える妖怪、八雲紫である。あらゆる境界を操るこの妖怪は、空間の裂け目、通称スキマを使って何処にでも現れる。玄関はおろか、一切の出入り口を通過せずに永琳の部屋に入ることも、彼女にとっては容易いことであろう。
「それを使えば、過去の過ちを無かったことに出来ますわね」
「罰から解放されるだけよ。犯してしまった罪は、消えない」
どこか人をからかうような口調の紫に対して、永琳は嫌に深刻めいた言い方で返す。
「それでも、永い苦しみから抜け出すことは出来る」
「その通りよ」
鈴仙は部屋の数歩手前で立ち止まり、二人の会話を聞いていた。未だ内容は把握出来ていないが、これは大変に興味深く、重大な話に違いない。おそらく、自分がここにいることを知られてしまうと、もはや、聞くことは叶わないだろうと思っていたのである。
「効果が出るまでの時間は?」
「即効。飲んでしまえば、たちどころに死滅するわ」
これを聞いて、鈴仙は自分の背筋が凍るのを感じた。尊敬する師の思わぬ発言に恐怖を覚え、頭の中は酷く混乱し始める。ひとまず深呼吸をして心を落ち着かせ、盆の上の湯呑みを手に取り、体の震えが音の発生に繋がらないよう、配慮した。
「妖怪や妖獣にも効くのかしら」
「もちろん。鬼だろうと吸血鬼だろうと、神様だろうと…」
「蓬莱人だろうと?」
「そう」
思わず「えっ」と声を上げそうになるのを必死に我慢して、鈴仙はその場に立っていた。一度は落ち着いたつもりであったが、これ以上は、とても平静を保てそうにない。
この会話は、やはり、自分が聞いて良いものではなかった。あるいは、己の生死に関わるかも知れない。そう直感した鈴仙は、手に持った湯呑みを口許へと運び、煎茶の熱さも構わず、一気に飲み干した。喉を鳴らすような真似も、飲み終えて一息吐くことも、まったくしない。それで喉が焼けていようが、知ったことではなかった。これで、床に茶が零れる心配はない。彼女は音もなく宙に浮かび上がり、柱や障子、天井にぶつからないよう細心の注意を払いつつ、急いで廊下を戻って行った。部屋の中では、未だ永琳と紫が会話を続けているらしかったが、もはや、聞きたいとさえ思わない。
結局この晩、鈴仙が永琳の部屋を訪れることは、二度となかった。
蓬莱人とは、不老不死の妙薬、蓬莱の薬を口にした者のことである。
本来、蓬莱の薬とは、月の民が地上の人間達の欲を試すための道具であり、決して口にしてはならない禁断の薬であった。しかし、月の姫である輝夜は、従者の永琳に命じて作らせたこの薬を、自ら飲んでしまったのである。輝夜は罪人として地上に堕とされ、竹取物語の名で知られる顛末を辿ることとなった。ただし、その結末は物語とは異なる。輝夜を迎えに来たはずの永琳が、共に地上にやって来た仲間達を裏切り、輝夜を連れて逃亡したのである。
そもそも、輝夜が蓬莱の薬を飲んだのは、その完全さ故に停滞する月の都に心底、退屈していたことが大きな原因であろう。永琳はそのことに薄々気が付いていながら、輝夜に蓬莱の薬を渡してしまったことを悔いていたのである。その償いのためか、彼女は自分自身も蓬莱人となって、輝夜と共に地上で生きていくことを決めたのであった。
月の民は地上の生命と違って穢れがなく、その寿命は果てしなく長い。それでも、死ぬことがないわけではない。身体が激しく損傷すれば、当たり前に死に至る。しかし、蓬莱人は違う。たとえ肉体が滅びようとも、その魂は黄泉へと向かうことなく、蓬莱の薬を飲んだ時の姿のまま復活する。彼女らは決して死ぬことが許されず、永久に現世に縛り付けられたままなのである。…そのはずであった。
「全然、寝た気、しない」
空がうっすらと明るみ始めた頃、自分の寝床から起き上がった鈴仙が呟く。昨晩、慌てて永琳の部屋から逃げ出した後、彼女は迷わず就寝の準備をし、丑の刻が過ぎ去るより前に布団を被ったはずである。しかし、蓬莱の薬のこと、輝夜と永琳のこと、そして何より、昨晩のことを考えているうちに、朝が来てしまった。彼女が実際に眠っていなかったかどうかはさておき、少なくとも、体感した印象はそれに相違なく、眠ったおかげで一日の疲れがとれるどころか、疲労困憊の心持ちである。
あるいは、昨晩のことは夢だったのではないか。そんな希望を抱く鈴仙であったが、朝食を作るために厨房へ行ってみると、茶渋が付いたまま放置された、覚えのある湯呑みに出迎えられてしまった。
――ああ、やっぱり。
非情な現実から目を背けようとするが、とりあえず、湯呑みは洗って使わなければ不衛生である。表の井戸から水を汲んで来て、じゃぶじゃぶと湯呑みを洗い、乾かすための台へと乗せる。考えてみれば、普段から永琳が口をつけている湯呑みで茶を飲んだという事実が生まれているのであるが、そんな些細なことを気にする心の余裕はなかった。鈴仙は頭の中の整理がつかないまま、白米を炊く準備を整え、野菜を洗って切り始める。
「おはよう、ウドンゲ」
体が反射的に飛び上がろうとして、手許の包丁とまな板がガタッと音を鳴らす。鈴仙を日頃からウドンゲの愛称で呼ぶのは、彼女に優曇華院の名を与えた永琳だけである。顔を合わせても何事もなかったように振る舞うつもりであったが、背後から不意に声をかけられて――もっとも、永琳は気配を消していたわけでもないのであるが、思わず過剰な反応を示してしまった。幸い、包丁で手を切るようなことはなかったが、精神の状態が平常でないことは、あっさりと露見してしまったらしく思われた。
「ごめんなさい。驚かせてしまったかしら」
「い、いえ。おはようございます、お師匠様。すみません、少し寝不足で」
そう、寝不足のせいで人の接近に気が付かず、偶々、ちょっとびっくりしただけなのだ。鈴仙は、他でもない、自分自身にそう言い聞かせる。
永琳は特に気にした様子もなく、後で茶を淹れて持って来てほしいと頼むと、すぐに厨房から出ていってしまった。昨晩のことには気が付かれていないのであろうか。少なくとも、盗み聞きがばれていて、かつ、即座に口封じをされるということはないらしい。この朝で問答無用に兎生(じんせい)を終わらせられる可能性も考えていた鈴仙は、ホッと溜め息を吐いた。一旦、野菜を切る手を止め、ヤカンに水を入れて火にかける。
野菜を一通り切り終えた後、鈴仙は永琳の自室に茶の入った湯呑みを持って行った。廊下を歩いているうちに昨晩のことが脳裏に甦り、目眩がして倒れそうだとさえ思ったが、何とか、無事に部屋まで辿り着くことが出来た。声をかけてから障子を開き、薬の臭いが漂う部屋の中へと歩を進める。
完璧にいつも通りを装っているつもりの鈴仙であったが、永琳から「ただの寝不足にしては、顔色が悪すぎる」と診断され、朝食の当番を代わるから部屋で寝ていろ、とまで言われてしまった。一応、「大丈夫ですよ」と遠慮する振りをしてみせたが、永琳の診断が覆ることはなかった。下手に固辞するのも危険だと判断し、ここは大人しく寝床へと戻ることにした。
再び布団の中に潜った鈴仙は、もう一度、蓬莱人のことを考える。
たとえ、この世界の文明が一つ残らず滅びようと、あらゆる生命が絶滅するほどの天災が起きようと、蓬莱人は死ぬことが出来ない。その効力の絶対性は計り知れず、あるいは、浄土や地獄が消え去る時が到来したとしても、なお、現世をさまよい続けることになるのかも知れない。変化というものから永久に拒絶され、ただただ、生き続けるだけの存在。それは、生きながらにして死んでいるのに等しい。この世で考えられる限りの不道徳を尽くした大罪人が堕ちる無間地獄でさえ、ほんの一中劫ばかりの時間で――それでも、十二分に永遠と思われるほどの長さではあるが、抜け出すことが出来るという。それに比べて、蓬莱人の生には、まったく果てがない。
自分なら絶対に耐えられないと思う。日頃、口に出すことはないが、それが不老不死に対する鈴仙の評価であった。永琳より先に蓬莱の薬を飲んだ輝夜に、どれほどの覚悟があったのかは判らない。しかし、いずれ、永遠の呪縛を深く後悔する日が来るのではないか。あるいは既に、遥か未来の孤独を憂いて、心の中では過ちを悔いているのではないか。彼女は、なんと愚かなことをしたのだろう。鈴仙は、そんなことを考えてはならない、考えないようにしようと努めながらも、心の何処かで輝夜の行いを謗る気持ちを消し去ることが出来なかった。だから、蓬莱人を殺すことが出来る薬さえあれば、彼女達は果てのない地獄から救われるのだ。そんな薬があれば、なんと素晴らしいことだろう。そう、思っていたはずであった。
鈴仙は考える。もし、永琳が、蓬莱人の運命を断ち切るために、死をもたらす薬を作ったのだとしたら。既に、永遠の命に飽いていたとしたら。彼女は、すぐにでも薬を使うつもりかも知れない。行き場を失い、途方に暮れていた自分を迎え入れてくれた恩人が、新しい名前を与えてくれた家族同然の人が、死んでしまう。そんなの嫌だ、などと言う権利は、自分にはない。鈴仙の思考は、そこで停滞する。無理に次を考えようとしても、不老不死の残酷な運命のことに話が戻ってしまい、堂々巡りになるだけである。
「鈴仙」
誰かに自分の名前を呼ばれ、頭を横に転がして、声のした方を振り向く。永遠亭で暮らすもう一人の兎、因幡てゐが自分を見下ろしていた。
てゐは地上の妖怪兎である。曰く、健康に気を遣って、相当に長い歳月を生きてきたらしい。彼女は迷いの竹林の持ち主を自称し、竹林に住む兎達に命令を聞かせることが出来る唯一の存在である。その力を買われて永琳と協定を結び、てゐは労働力の提供を、永琳は様々な面からの兎達の保護をすることで、持ちつ持たれつの関係となっている。
「いつまで寝てんのよ」
日頃、何かにつけては仕事をサボるてゐに、こうやって戒めるように言われるのは屈辱の極みであった。鈴仙が今は何時かと訊ねると、既に午の刻を回っているという。どうやら、また、考え事をしながら眠っていたらしい。
「イナバ、大丈夫?」
今度は頭の上、枕元の延長線上から声が聞こえる。永遠亭の主人、輝夜である。鈴仙に自分のペットとしてイナバの名を与え、その名で彼女を呼ぶ唯一の人物であるが、実際は兎全般をイナバと呼んでいる。しかし、いつもイナバと呼ぶのかと言うと、そういうわけでもなく、鈴仙と呼ぶことも多い。どうやら、気まぐれに呼び方を変えているらしい。
「輝夜様、もし、風邪だったら、移るといけませんから」
鈴仙がまだ寝惚けた頭で懸命に気を遣って言うと、輝夜はクスクスと笑った。
「私が風邪を引くと思って?」
永遠の命を持つ蓬莱人は、病魔に冒されることがない。そんなことは解りきっていたはずであったが、出来ることなら、忘れてしまいたかったのかも知れない。結果として、輝夜が蓬莱人であることを認識せざるを得なくなってしまい、鈴仙は己の短慮さを嘆いた。
これ以上、布団に篭って考えていたところで、自分の精神状態は決して良くならない。そう考えた鈴仙は改めて起きだし、散歩を兼ねて人里まで薬を売りに行くことにした。輝夜や永琳からは、まだ寝ていた方が良いと言われたが、「悪い夢を見ただけですから」と気分転換の必要性を説いて、どうにか説得した。実際、悪夢を見たのは嘘ではない。むしろ、未だ悪夢を見ている気分なのである。
もし、自分が外に出ている間に、永琳が例の薬を使ったら。そう考えないわけでもなかったが、彼女が本気でそれを企むのであれば、自分はおろか、たとえ輝夜であっても止めることは出来まい。鈴仙はそう確信していた。
妖怪達の楽園である幻想郷にあって、人間ばかりが住まう人里。ここに住む人間達は、月明かりの陰に潜む妖怪の気配に恐怖し、その存在意義を保つ役割を担っている。幻想郷と外の世界とを分離する、博麗大結界の管理者である博麗の巫女や、森に住まう自称普通の魔法使いとは違い、妖怪を退治する力など持たない。簡単に言えば、ひ弱な者達である。永琳は彼らを相手に診療したり、手製の薬を販売したりして、互いに支え合う地上の人間としての役割を全うしようとしているのである。
この日、人里での薬の売れ行きは結構なものであった。長らく続いた暑さが一挙に身を潜め、急激に冷え込んだために体調を崩し、風邪を引く者が続出していたのである。あまりの売れ具合に、鈴仙が薬の在庫を気にし始めた頃、後ろから聞き覚えのある声で呼び止められた。振り返ると、独特な形の帽子を被った人間が「こんにちは」と挨拶してきた。鈴仙も思わず頭を下げて「こんにちは」と返す。
「風邪の薬を売ってくれないか」
「慧音さんが?」
鈴仙は驚いた。この娘、上白沢慧音は純粋な人間ではない。満月の夜になるとハクタクと呼ばれる聖獣に変身する、半人半妖の存在である。妖怪の一端を担う存在でありながら人間を愛しており、普段は人里の寺子屋で教鞭を取っている。また、満月の夜にはその能力を用いて歴史の編纂作業をしているらしい。それが具体的にどのようなものなのかは鈴仙の知るところではないが、ともかく、半分とはいえ妖怪である彼女が風邪を引くことがあろうとは、思っていなかったのである。
「いや、私ではないんだが」
寺子屋で面倒を見ている子どもが、一家揃って風邪で倒れたのだという。そこで、代わりに薬を買いに来た、とのことであった。ついでに言うことには、あくまでも満月の夜以外は概ね普通の人間なので、風邪を引くこともあるらしい。あの博麗の巫女と八雲紫のコンビに戦いを挑んだことのある彼女が、普通の人間であるとは認めたくない鈴仙であったが、そのことは口には出さないでおいた。実を言うと、今、慧音とはあまり顔を合わせていたくなかったのである。
「そう言えば、明日も、だそうだ」
「またですか」
慧音は、輝夜とも永琳とも違う、地上で暮らす三人目の蓬莱人の親友である。その蓬莱人、藤原妹紅は、かつて輝夜が地上へと追放された折、その美貌に心を奪われて求婚し、無理難題を言われた挙げ句に赤恥をかかされた男の、その娘であった。やがて行方を眩ました輝夜に恨みの念を抱き、彼女が地上に残していった蓬莱の薬が、時の権力者の命によって処分されようとしていたところ、それを奪い取って蓬莱人となってしまった。その経緯には、気まぐれで残酷な神が関わっていたようであるが、鈴仙が知っているのは、妹紅が勝手に薬を奪って飲んだということだけである。
初めから蓬莱の薬の何たるかを知っていた輝夜達と違い、ただの人間に過ぎなかった妹紅は、不老不死となった自分の運命を大いに嘆くこととなった。あちこちをさまよい、いつしか修得した妖術を用い、手当たり次第に妖怪を退治して歩いた時期もあったという。やがて幻想郷に辿り着いた彼女は、月に帰ったとばかり思っていた輝夜と再開を果たし、積年の恨みをぶつけるべく戦いを挑んだ。以来、輝夜と妹紅の殺し合いは何百年も続いている。
「一昨日、やったばかりじゃないですか」
彼女達のことをよく知る者は皆、二人が未だ殺し合いを続ける理由は、恨みや憎しみを本質とするものではないと認識していた。妹紅が輝夜を憎み、輝夜は妹紅を不届き者として迎え討つ。そういう設定の舞台の上で、お互いを傷付け、傷付けられることによって、生の実感を得ているのであろう。それは二人にとって、特に妹紅にとっては、生きている上で必要不可欠な退屈凌ぎなのである。また、それが本気の争いとは思えない理由の一つとして、妹紅は永遠亭の閉鎖が解かれて以来、病を患った人間を屋敷へと送り届けたりしているという事実がある。いくら人のためとはいえ、心底毛嫌いしている怨敵が住む屋敷を、わざわざ訪れようとするであろうか。
結局、輝夜と妹紅の戦いは、単なる子どものじゃれ合いと大差のないものなのである。しかし、そんな事情を知っていても、慧音は血生臭い争いを快く思っていなかった。
「何とかならないか」
輝夜と妹紅の話をしては、決まってこう言うのである。鈴仙にしてみれば、輝夜にせよ妹紅にせよ、退屈を持て余すのは、因果応報であると思われた。どうせ死にはしないのだから、勝手に殺し合えば良いとも思う。それでも、戦いを忌み嫌って地上へと逃れた彼女に、平和を望む気持ちが微塵もないと言えば嘘になるであろう。
では、もし、その争いを強制的に終わらせることが出来るとしたら?
鈴仙の脳裏に再び、昨晩の会話が過(よぎ)る。いや、それどころではない。その頭の中は、蓬莱人をも死に至らしめるという薬に、完全に占拠される。
「…鈴仙殿?」
いつもなら苦笑いをしながら「私じゃ無理ですよ」などと言ってくるところ、不意に黙り込んでしまった鈴仙を、慧音が訝しく思って見ている。
慧音や妹紅に、あのことを話すべきだろうか。しかし、下手に話してしまえば、取り返しのつかないことになるかも知れない。もし、妹紅が未だ真剣に輝夜を恨んでいたら、その薬を輝夜に飲ませようとするだろう。あるいは、薬を作った張本人である永琳を狙う可能性もある。仮に妹紅自身が飲んだとしても、本当にそれで良いのか。
様々な思いが鈴仙の胸を去来する。本当は悩みを打ち明けて、一緒に悩んでくれる人が欲しいと思っている。それなのに、何を考えても、悪い方へ、悪い方へと流れてしまい、とても言い出せないのである。
「何か、あったのか?」
慧音が途端に不安そうな面持ちになって尋ねる。顔色が悪い、ではなく、何かあったのかと聞いてくるのは、鈴仙の表情が、それほどまでに深刻そうに見える証拠であろう。鈴仙は慌てて「何でもないです」と裏返りそうな声で否定し、薬の販売を続けることを言い訳にして、強引にその場を離れた。慧音は明らかに疑っている様子であったが、込み入った事情があるのだろうと思ったらしく、無理に追求することはしなかった。
結局、鈴仙が持って来た薬はほとんど売り切れとなり、終いには「明日また来ますから」と二人に半分ずつ売る羽目になってしまった。鈴仙は早々に人里を離れることにした。これ以上、買いに来られると、病人に薬を売らない人でなし扱いされてしまう。もっとも、最初から人ではないが。
人里からの帰り道、太陽は大きく傾いてきていた。迷いの竹林を歩いて永遠亭へと向かっていると、鈴仙の前方に、不自然に土の色が違う地面が現れる。どう見ても誰かが一度、掘り返した土を盛ったようにしか見えない。この竹林で、こういう古典的な悪戯を仕掛けてくるのは、一人だけである。
鈴仙はピタリと足を止め、しばし思案する。この場合、土の色が不自然な部分が落とし穴になっている、と見せかけて、その周りに落とし穴を配置してある、と思わせつつ、この辺り一帯が落とし穴だらけなのに違いない。したがって、正解は一つ。鈴仙はその場でふわりと空中に舞い上がり、地面から離れたまま前へと進む。
「甘い」
何処かから声がしたかと思うと、鈴仙の顔は薄い繊維のような物で覆われた。
「わ!?」
慌てて手で顔を拭い、手に付いた繊維を見てみると、それは大量の蜘蛛の糸であった。前方から、てゐが鈴仙を見上げつつ、悠々と地面を歩いてくる。土の色が違うところを歩いても、何も起こらない。鈴仙は小さく舌打ちしてから、高度を下げて足をゆっくりと地面に近付けた。そのまま足を動かして、てゐの前まで進んでいくと、てゐは「あれ?」と言わんばかりに首を傾げる。
「今日は悪戯に付き合う気分じゃないのよ」
そう言って、鈴仙はてゐの横を通り過ぎて行く。てゐが足元を見ながら鈴仙の通った所を歩いてみると、四歩目で地面に穴が開き、見事、その中に落ちてしまった。鈴仙は振り返りもせず、先ほどから一度も地に付けていない体を、再び上昇させた。
てゐは勢いよく落とし穴から飛び出し、体に付いた砂をパタパタと手で払いながら、鈴仙を追いかけて空を飛んでくる。
「今回は私の負けね」
彼女は心から称賛しただけのつもりであったが、鈴仙はその言葉から、また、輝夜と妹紅の勝負のことを思い出してしまった。無理矢理な連想をしている自覚はあったため、余計なことを考えないように、と自分を諫める。せっかく誉めたのに何も返事がないことに、てゐは不機嫌そうな声を出す。
「鈴仙。どうしたってのよ」
「何でもない」
何でもないはずがない。命の恩人が、いなくなってしまうかも知れない一大事なのである。それにも関わらず、同じ永遠亭に住む仲間であるてゐにさえ、己の悩みを打ち明けようとしないのは、その性格を鑑みてのことであった。
てゐは基本的に、自分を含む地上の兎のためにしか行動しない。永琳と協力関係にあるのも、あくまで、彼女達に利益があるからである。ならば、今回の一件においても、輝夜や永琳、鈴仙の意思とは無関係に行動するのではないか。確証こそないが、少なくとも、その可能性がある限り、下手に話をするわけにはいかないと考えたのである。
「嘘おっしゃい」
「何でもないって言ってるでしょ!」
思わず声を荒らげる。そんな鈴仙の態度に、てゐは完全に臍を曲げてしまった。
こんなつもりじゃなかった。気にかけてくれたてゐを傷付けて、いったい、自分は何をやっているのだろう。鈴仙は唇を噛んだ。
永遠亭に帰り着くと、鈴仙は永琳の部屋を訪れ、追加で風邪薬を調合してほしいと頼んだ。誰とも顔を合わせたくない気分であったが、人里の人間達との約束を破るわけにはいかない。それに、変に接触を避けて、後ろ暗いところがあると気付かれるのも問題であった。今朝、目を覚ましてからは、しばらく忘れていたのであるが、永琳が研究している薬の秘密を知ったということがばれると、鈴仙自身も危険なのである。
永琳は薬の追加を快く了承し、鈴仙に調合の手伝いをするよう命じた。また顔色の悪さを理由に休養を取れと言われるかと思っていた鈴仙は、怪しまれる危険が遠ざかったと感じ、喜んでこれに応じる。
「夕飯に間に合わせるように」
「はい」
薬の材料となる薬草を棚から取り出し、それを順次、細かく擂り潰していく。そうした作業をする中で、鈴仙はたびたび、部屋の中の書棚に目をやる。膨大な研究資料と、その成果に関する記録が、ぎっしりと並べられた棚である。彼女は、それらの資料のほとんどに触れたことがあった。もっとも、中身を読んだのではなく、永琳に頼まれて取り出した、という程度のものであるが。そもそも、永琳の書物は永琳以外には開くことが出来ず、仮に強引に開いた場合、そのことが露見するように、特殊な封印が施されているのである。
膨大な資料が詰まった書棚の中で、今までただの一度たりとも、取ってくるように言われたことのない並びがあった。鈴仙が永遠亭にやって来た時から、埃も被らずに居座り続けている資料である。これこそ、万物に死を与える薬の研究記録だったのだ。鈴仙は、そう確信した。
薬の調合は日が暮れた頃に終わり、夕餉の支度は、平時よりほんの少し遅れるだけで済んだ。
「イナバ、今度はどうして喧嘩してるの?」
食事を終えた後、永琳が部屋から出て行った時を見計らい、膳を片付ける鈴仙達に輝夜が尋ねた。いつもの夕餉の席では、てゐが鈴仙のことをからかったりして、その行儀の悪さを注意されている。しかし、先ほどの食事の間、てゐはただひたすら、黙々と料理を口に運んでいたのであった。
「別に」
「何でもありません」
二人が答えると、輝夜はまた、昼間と同じようにクスクスと笑う。
「仲良くしなさいな」
ふん、と鼻を鳴らしててゐが部屋を出て行くのを、輝夜は如何にも愉快そうにして「あらあら」などと言いながら見送る。鈴仙は輝夜に聴こえないよう、小さく溜め息を吐いて、同じく部屋を出て行こうとした。
「鈴仙」
突然、子どもを諭すような声で呼ばれて、鈴仙は食器を落としそうになる。今度は何の戯れかと思って振り返ると、輝夜が柔らかな笑みを浮かべて、こちらを見つめていた。幾人もの人間を魅了し、財も人生も捧げさせたその顔に、鈴仙は思わず見惚れてしまう。しばしの後、輝夜が口を開いた。
「鈴仙。何か悩みがあるのなら、せめて、永琳に相談しなさい」
鈴仙はギクリとした。てゐが何か言ったのだろうか。いや、何も聞かなくとも、悩みがあることぐらいは、お見通しなのだろう。そう思い、改めて畏敬の念を抱く。
輝夜が「せめて」と言ったのは、自分でなくとも構わないから、という意味であろう。彼女は永琳に全幅の信頼を寄せており、鈴仙も、その点においては輝夜と何ら変わらない。しかし、今回ばかりは、永琳にだけは相談出来ないのである。その心遣いに、嬉しさとやるせなさとを痛いほど覚え、鈴仙は一言「ありがとうございます」とだけ言って部屋を出た。
次の日の午後、鈴仙は再び人里に薬を売りに来た。相変わらず例の会話のことを忘れられずにいるが、昨晩は積もりに積もった疲労のおかげか、それなりに眠れたらしい。しかし、心の中は未だ、分厚い雨雲に覆われたままである。何度考え直しても、自分はどうするべきか、どうしたいのか、その答えを決められずにいた。
さすがに昨日の今日だけあって、薬の売れ行きはまずまずというところであった。これならば、三日間は新しい風邪薬の調合が不要であろう。今日は、のんびり帰っても問題なさそうである。鈴仙は、少し休憩してから帰ろうと思い、近くにあった茶屋で、温かい緑茶と、焼きたての団子を頂くことにした。
店先の長椅子に腰かけ、出された団子を一口に平らげようとしたところ、予想外の熱さに身悶えすることになってしまった。片手で口を押さえて声にならない悲鳴を上げ、もう片手をジタバタとさせている鈴仙に、何者かが声をかける。
「最近の茶屋じゃあ、月兎のダンスが見られるんだねぇ」
団子を強引に喉へと押し込み、ぜい、ぜい、と息を切らした鈴仙が睨むようにして見上げると、そこには、大きな鎌を携えた長身の娘が立っていた。三途の川の渡し守、死神、小野塚小町である。
「またサボりですか」
「心の洗濯だよ」
小町のサボり癖は幻想郷では有名であった。頻繁に三途の川から離れ、彼岸へ連れて行くべき幽霊をほったらかしにしている。そして、その都度、上司である閻魔から長々と説教を受けているのである。
「洗濯なら、川でやってくださいよ」
小町は聞く耳を持たず、断りもしないで鈴仙の隣に座る。店の中を覗き込むように体を傾げて主人に声をかけ、「この兎と同じやつ」と団子を注文した。
「それで、どうだい、最近は?」
鈴仙は黙って茶を飲んだ。別に、これといって変わりはない、と答えようとしたが、一昨晩から残り続ける心のしこりに引っかかり、声が出て来なかったのである。
「自殺しようとしてないだろうね」
これは、小町にとっては毎度の挨拶のようなものであった。何よりも自殺を嫌い、自殺した者の霊など三途の川に突き落としてやる、とまで言ったことのある彼女の常套句である。鈴仙もそのことは知っていたし、普段の彼女であったなら、一笑に付して終わりであったであろう。しかし、今の鈴仙には、その一言は酷く響いた。結局のところ、彼女が恐れているのは、そういうことなのであるから。
蓬莱人を殺す薬を作った永琳が、その薬の存在を知った輝夜が、自ら死を選ぶのではないか。もし、そうなったら…。
永琳と輝夜は、我が身可愛さに仲間を見捨てて逃げ出した、そんな、どうしようもない自分を迎え入れてくれた。新しい名前と、居場所を与えてくれた。もう二度と、あの優しい二人に会えなくなってしまったら…。
蓬莱人の呪われた永遠を言い訳にして、それを天秤にかけることで懸命に誤魔化していた恐怖が、鈴仙の脳内を支配する。永琳と輝夜の顔を思い出すうちに、涙がぽろぽろと溢れ出してきてしまった。
「え、ちょっと、どうしたってんだい」
まさか、いきなり泣きだされるなどと思ってもみなかった小町は、酷く狼狽した。とりあえず、この状況は芳しくない。茶屋の主人が団子を持って来ると、兎の娘が自分の隣でしくしくと泣いているのである。どう見ても、自分が泣かせているようにしか見えない。いや、事実、そうなのかも知れないが、とにかく悪意はなかったのだ。どうして泣いているのか、と訊ねても、鈴仙は何も言わずに俯いているだけである。
鈴仙は考える。自分はただ、永琳達と一緒に居たいだけなのだと。何のかのと言っても、本心では、自分が死ぬまでは生きていてほしい。むしろ、どうせ死ぬのなら、自分が死んだ時に共に死んでくれれば、揃って黄泉に行くことが出来る。そんな、自分勝手な思いがあるだけ。慧音やてゐ、輝夜に何ら相談が出来なかったのも、そんな浅ましい考えを見透かされたくなかったからかも知れない。矮小で卑俗な自分の本音に嫌気が差し、ますます涙が止まらなくなる。
「あたいのせいなら、謝るよ。だから、泣かないでおくれよ」
そう言われて、ようやく鈴仙は小町と目を合わせる。そこに居るのは、数多くの罪人を彼岸へと送り届けてきた、三途の川の渡し守である。
もはや、鈴仙の心は破裂寸前であった。助けてほしい、とは言わない。ただ、誰かに打ち明けないと、もう、もたない。
「小町さん。話、聞いてくれますか」
「ああ、聞くよ」
鈴仙は話し始めた。あの夜に聞いてしまった会話のこと、自分がどうすれば良いのか未だ決められずにいること、昨日、てゐを傷つけてしまったこと。とても要領を得た話し方が出来ているとは思わなかったが、小町は時折、頷いたり、相槌を打ったりしながら、じっくりと話を聞いてくれた。
鈴仙が言いたいことをだいたい話し終えた時、二人は里の外れを流れる小川の傍に居た。永琳が開発した薬の話をしたところで、小町が場所を変えることを提案したのである。他の誰かに聞かれてはまずい話と判断したのであろう。日は既に、地平の彼方に八割がた沈み込んでいる。
「すみません。こんな時間まで」
小川で洗った顔に手拭いを当てながら、鈴仙が詫びを入れる。小町は何でもないように「気にすんな」と返す。しかし、その小町も、内心では動揺していた。
小町が動揺する原因は概ね二つ。第一に、妖怪はおろか、蓬莱人さえ殺し得る薬の存在である。身内の安否に意識が行っている鈴仙は気が付いていないが、その薬の危険性は尋常ではない。下手をすれば――というより上手くやれば、と言うべきか、幻想郷の住人を皆殺しにすることも出来る。そして第二に、これまでに前例のない、蓬莱人の死の扱いについて。もっとも、こちらについては、死神の小町ではなく、閻魔が何らかの判断をしてくれるはずである。いずれにせよ、現世に生きる者の生死に関して、あまり積極的に干渉するわけにはいかない。結局、彼女に言えるのは一つだけであった。
「その薬を使うと、かなりの業を負うことになるよ」
「業、ですか」
我ながら、半端な物言いしか出来ないのは情けない、と、小町は自らの至らなさを悔いる。つまるところ「如何なる目的としても使わせるな」と言いたいのであるが、思案して行動を決定するべきなのは自分ではない。そう考えた結果、このような言い方しか思い付かなかったのである。
鈴仙は、小町の真意を完全には汲み取れなかったが、ともかく話をしたことで、少し落ち着きを取り戻した様子である。そして、自分の気持ちに、一つの結論を出した。
「私は、師匠と姫様に死んでほしくないです。駄々と言われたって、構わない。だから…」
鈴仙はまた言葉を飲み込みかける。あの二人を止めることなど、自分に出来るはずがない。出来ないことを言って、何になるのか。
違う、そうではない。今の自分にとって重要なのは、何が出来るか、ではない。何をしたいのか、だ。何のために行動するのかが大切なのだ。
「あの薬は絶対に使わせません」
そう言い放つと、鋭い目をして真っ直ぐに前を見据えた。小川の向こうには誰も居ないが、鈴仙の目には、永琳と輝夜の姿が映っているのであろう。
実のところ、小町は複雑な心持ちであった。鈴仙が立ち直ったのは良いものの、自分が焚き付けてしまった結果、彼女が殺されはしないかという不安があったのである。そうかと言って、考え直すように仕向けたのでは、元の木阿弥にしかならない。それに、小町も、いつまでも付き合うわけにはいかなかった。いい加減にして仕事に戻らなければ、幻想郷は幽霊で溢れかえってしまう。
「無理はするんじゃないよ」
結局、こう注意するのが精一杯であった。
鈴仙は深々と頭を下げて小町に礼を言い、二人はそれぞれの帰るべき所へと帰って行った。
鈴仙が永遠亭に帰った頃には、すっかり日が暮れてしまっていた。帰りの遅くなったことを叱られるだろうと覚悟して、玄関の戸を開く。すると、奥から、てゐがぱたぱたと駆けて来て、珍しく慌てた様子で言った。
「お師匠さまが、あんたを探してたよ」
その慌てぶりから、永琳は相当怒っているらしいと思われた。早く行けと急かすてゐに押されて、鈴仙は廊下を急ぎ足で歩く。てゐは途中で押すのをやめて、これ以上は近寄りたくない、と言うように立ち止まった。どうやら、永琳の怒りは予想以上のものらしい。しかし、鈴仙には特別に頼まれていたことがあったという覚えはない。もしや、小町に話したことで、先日の盗み聞きが知られてしまったか。そうだとしたら、致し方ない。ただ、敢然と立ち向かうのみである。
「てゐ、昨日はごめん」
突然、死地へと赴く兵のような表情になった鈴仙に、てゐは明らかに動揺した。いくら、永琳が怒っていたと感じているとはいえ、獄門に処されるとまでは思っていないのである。そこへいきなり、こんな顔で謝られては、「気にしてないよ」としか言えなかった。
部屋の前で声をかけ、障子を開くと、常備用の薬を置いてある棚の前で、無表情の永琳がこちらを向いていた。
「失礼します」
鈴仙は瞳に神経を集中させ、永琳の波長を見た。あらゆるものには波長があり、彼女の目はそれを見ることが出来る。それによって相手の性質や感情の起伏を窺い知ることが可能なのである。しかし、今の永琳の波長は酷いノイズだらけで、短くなったり長くなったりを不規則に繰り返している。おそらく、これは彼女が意図的にやっているのであろう。
「ウドンゲ」
その声は不気味なほどに落ち着いており、優しくも荒々しくもない、ただただ平淡な呼びかけであった。覚悟を決めて来たつもりの鈴仙であったが、その不気味極まりない無機質さを前に、全身の毛が逆立つような感覚に襲われる。名を呼ばれたのに「はい」と返事することも出来ずに立ち尽くしていると、永琳はそれを気にする様子もなく、続けて口を開いた。
「ここに置いてあった、薬入りの小瓶を知らないかしら」
そう言って棚の一ヶ所を指差す。その一角は、薬の名前ではなく番号だけを記載した瓶が置いてある所で、鈴仙はそれぞれが何の薬かも知らない。
「どんな薬ですか」
「無色透明の液体」
「番号は」
「八の二百十五」
「…知りません」
「そう」
永琳はゆっくりと鈴仙の前まで歩み寄り、左手で彼女の右頬を撫でる。
「本当に知らないのね?」
目の前に無表情の顔を近付けられ、鈴仙は怯えて声も出せないまま、小さく三回頷いた。後退りしようにも、これっぽっちも足が動かない。
「それなら、今日、スキマ妖怪を見かけなかった?」
相変わらずの無表情で訊ねられる。スキマ妖怪とは、あの紫のことである。当然、鈴仙は今日、彼女を見かけてなどいない。慌てて首を横に振る。
いっそ殺してくれと言いたくなるほどの意味不明の恐怖を相手に、鈴仙は懸命に堪えていた。やがて、永琳は鈴仙の顔から手を離すと、その横を通り抜けて廊下に出た。
「私はちょっと、外に出てくるわ。部屋の灯りを消しておいてちょうだい」
鈴仙は未だ体が硬直したままで、了承の返事も出来なかったが、永琳はそのまま廊下を歩いて行ってしまった。二十秒近く経ってから、ようやく動けるようになり、部屋の隅に置かれた行灯の火を消す。怖かった。それ以外の感想など、持つ余裕もなかった。何が何やら解らないまま、鈴仙は部屋を後にする。
永琳は紫を探しに行ったのか。確かに、永遠亭に住む者の他に、あの部屋から薬を盗み出すことが出来そうな者と言えば、紫ぐらいしか思い当たらない。そんなことを考えながら暗い廊下を歩くうちに、一昨日の夜のことを思い出す。
――完成間近というわけですか。長かったわね。
――そうね。二百十四回の試作品を経て、ようやく。
突然、鈴仙の足が止まる。先ほど、永琳は何と言った?
――番号は。
――八の二百十五。
そう言った。確かに、そう言った。試作品が二百十四個あったのなら、完成品は何番目か。決まっている。紫があの薬を盗んだのか。何のために?
――その薬を使うと、かなりの業を負うことになるよ。
先ほど、小町に言われた言葉を思い出す。自殺することの罪の重さを説いているのかと思っていたが、それだけではなかったということに、ようやく思い至る。
――妖怪や妖獣にも効くのかしら。
――もちろん。鬼だろうと吸血鬼だろうと、神様だろうと…。
紫は幻想郷を守る賢者の一人であり、その均衡を崩す不穏分子には、誰よりも敏感である。あらゆる妖怪も、神々さえも殺してしまう薬の存在など、彼女が許すはずがない。もし、そうだとすれば、紫は薬を葬り去るであろう。それで良い。それで、自分の望みは叶う。
再び歩き出した鈴仙であったが、数歩進んだところで、また足が止まる。
もし、紫の目的が廃棄ではなかったら。そんなことが、あり得るだろうか。あるとしたら、何のためか。紫が幻想郷の住人をむやみに殺すことなど、絶対に考えられない。そもそも、それが目的なら薬など要らない。自力で九割九分九厘、ひょっとしたら十割、抹殺出来る。あの紫が本気の戦いで誰かに負けるはずがない。…ない?
違う。紫があの薬を使うに足る用途は、まだ、ある。
「また、月を…?」
遥か昔、紫は思い上がった地上の妖怪達を引き連れて、月へと侵攻した。結果は惨敗で、その後、しばらくは大人しくしていたが、彼女は月の民に負けた悔しさを忘れてはいなかった。近年、彼女は博麗の巫女や吸血鬼を唆し、冥界の亡霊姫と共謀して、月の民に一泡吹かせようと画策した。実際には、永琳と輝夜にささやかな歓迎――という名の嫌がらせをするための計画であったが、鈴仙は、紫が月を攻めようとして、また失敗して帰ってきた、としか認識していない。
紫はあの薬を使い、第三次月面戦争を起こすつもりかも知れない。少なくとも、永琳はそう考えていると思われた。紫の目的が薬の廃棄なら、資料も一緒に処分しなければならないはずであるし、何より、永琳の異常な様子からして、迅速に薬を取り返す必要があると感じているのに違いない。
鈴仙は永琳を追いかけようと廊下を高速で飛ぶが、もはや、まったく姿が見えない。既に、外に出てしまったのだろう。そう思い、玄関口から勢いよく飛び出すと、丁度そこに立って空を見上げていた輝夜に背後からぶつかった。後頭部に鈴仙の胴体を受けた輝夜は顔面から足元に倒れ込む。一方、輝夜の頭に鳩尾へ抉り込まれた鈴仙も、その場で浮力を失って下に落ち、腹を押さえてうずくまった。
「何なのよ」
玄関先の土に顔を付けたまま、輝夜が言う。
「すみ…、すみま…」
謝ろうとしても、あまりの痛みに声が出せない。ようやく落ち着いて、立ち上がろうとする鈴仙の前に、輝夜が立ちはだかった。おそるおそる顔を上げて見ると、まだ顔に砂が付いたままの輝夜が、これから断頭台の刃を落とす処刑人のような目をして、こちらを見下ろしている。鈴仙は頭を下げつつ足を体の下に畳み、両手を目の前の土の上で丁寧に揃えた。
「申し訳ございません」
「土下座で赦してくれるのは、貴方の優しい元飼い主ぐらいのものよ」
そう言われても、とりあえず頭を下げて謝罪の意を伝える他に、出来ることが思い当たらない。鈴仙は何も言うことが出来ず、ただ地面を見続ける。
「立ちなさい」
慌てて立ち上がる。輝夜の顔にはまだ幾らか砂が付いたままで、時折ぱらぱらと下に落ちている。鈴仙がそのことを伝えようと口を開くより前に、輝夜が訊ねた。
「何があったのか、説明なさい」
「すみません。輝夜様がいらっしゃることに気が付かず…。」
「違う」
普段は聴くことのない強い語気で言葉を遮られ、鈴仙は驚く。改めて表情を確認すると、輝夜は怒っているというよりも、何か、真剣な話をしようとしているらしく窺えた。
「永琳のことで、貴方が知っていることを全部、話しなさい」
同じ屋敷に住んでいるのである。永琳の様子がおかしいことなど、気が付かないはずもない。それに加えて、昨晩にはまだ思い至っていなかった、鈴仙の悩みが永琳と関係があるということにも、輝夜は既に辿り着いていたのである。
今、輝夜にあの話をしても良いものか。鈴仙は大いに悩む。緊急事態には間違いないが、輝夜の手を煩わせるようなことがあってはならない。それに、あの薬のことも、彼女に知らせるのは尚早であろうと思われた。
「輝夜様。今日はこれから、妹紅と決闘をされるのでは…」
「鈴仙。次は、ないわよ」
未だかつて、一度も向けられたことのなかったほどの殺気が鈴仙の体を貫く。殺される。脅しではない。今、ここで、一切の嘘偽りなく、洗いざらい喋らなければ、確実に殺される。そう、直感させられた。
命を懸けてでも成したいと心に決めたのは、輝夜に薬のことを知らせないということではない。問題は、彼女がそれを聞いて、どうするか次第なのである。今、ここで死ぬわけにはいかない。そう考え、鈴仙は、あの夜の永琳と紫の会話、そして、先ほどの部屋での出来事について、覚えている事実を伝える。輝夜は蓬莱人を殺す薬の話を聞いても、眉一つ動かさず、ただ黙って聞いていた。
終わりがけに、輝夜から紫の目的について問われると、鈴仙は廊下でしていた考察の内容を説明した。輝夜はその考察に「他はともかく」と前置きした上で、一点だけ異を唱える。
「小瓶一つ分の薬で月面戦争? あの妖怪は、そんな虚(うつけ)じゃないわ」
「では、目的は他にあるということでしょうか」
「目的は判然としないけれど、盗まれたのは薬だけじゃないはずよ」
そこで、ようやく鈴仙は己の失念に気が付いた。薬を知らないか、としか訊かれなかったのと、正直に言って怖かったのとで、資料も盗まれている可能性を考えていなかった。
「八雲紫が薬の複製を?」
「材料次第よ」
その時、竹林の中から、何者かが地面を蹴る音が聞こえてきた。鈴仙と輝夜がそちらの方を振り向くと、竹林の中を走って永遠亭から離れていく人影が目に映る。
「捕らえます!」
そう言って鈴仙が走り出すよりも早く、輝夜は宙に浮かび、曲者を追って飛んでいた。鈴仙が「お待ちください」と止めるのも聞かず、輝夜は人影を追いかける。鈴仙もその後を追って空を飛び、二人で人影を追いかけることになった。
もう十秒ほどで、走る人影に追い付けるというところで、影は真っ赤に燃え上がり、大きな鳥に姿を変えて、空へと舞い上がった。
月明かりの下を、赤々しい神秘的な光を放ちながら、まるで彗星のように飛んで行く。その鳥は炎の体を持ち、その翼が羽ばたかれるたび、火の粉が舞い散り、夜空は赤い星で彩られる。やがて、火の鳥は急降下を始め、火山弾のごとく大地へと衝突した。鳥は地に落ちて、無造作に燃える炎の塊となり、土の上を横に移動し始める。炎は次第に小さくなっていき、その中から、地に足を付けて歩く一人の人間が現れた。未だその体に残る小さな火が、真っ白な長い髪を赤く染め上げている。地上に暮らす三人目の蓬莱人、妹紅である。
ここは幻想郷の果て。博麗の巫女が住まう神の社から、最も遠い場所であり、博麗大結界を維持するための、もう一つの要所でもある。
全ての火が消え、辺りを照らすものは僅かな月明かりのみとなるも、妹紅は視界の悪さを気にかけずに歩き続ける。しばらく、足元の草や落ち葉を踏みながら歩いていたが、大地に降り立ってから五十歩ほど進んだところで、ぴたりと足を止めた。
「何の用?」
妹紅の背後、その足が七歩ほど前に踏んだ所に、空を飛んで来た何者かが着地する。彼女は振り返りもせずに問いかけた。
「言っとくけど、約束をすっぽかしたのは、お前だからね」
そう言いながら、ようやく後ろを振り向く。そこには、険しい顔付きをした鈴仙と、人形のような笑みを浮かべた輝夜が立っていた。
「控えなさい、イナバ」
前に出ようとする鈴仙を輝夜が制する。輝夜は小さい歩幅で二歩、妹紅の方へと近付き、彼女に問いかける。
「妹紅、貴方は、八雲紫に会いに来たのでしょう?」
彼女は答えない。わざわざ言わなくとも、その答えは決まっている。この地には紫と、彼女が使役する式達が住んでいる他は、何もないのである。
「蓬莱の薬は、口にした者の魂を現世に縛り付ける。…永遠に、ね」
妹紅は、そんなことは嫌と言うほど知っている、といった面持ちである。忘れはしない。不死の体を得てからの、あの日々を。絶望と後悔に埋もれた、あの日々を。あらゆる方法で己を殺し尽くそうとして、悉く失敗した、あの日々を、絶対に忘れてなるものか。
「だけど、その薬を生み出した賢者になら、その永遠を終わらせることも出来るかも知れない」
輝夜には確証があった。永琳は、この地上にやって来て以来、ずっと、蓬莱人の永遠を断ち切る方法の研究を続けていたのだ。おそらくは、自分に蓬莱の薬を与えてしまった後悔からだろう、と考えていた。幻想郷に来る前に三度、来てからは一度だけ、その研究について尋ねてみたが、永琳は一度も研究の存在を肯定しなかった。明確に見たことがあるわけでもない。それでも、輝夜は確信していた。それは、他人に言わせると、単なる勘に過ぎない、そんな感覚によって。その確信があればこそ、鈴仙から話を聞いても、なお落ち着いていることが出来たのである。
先ほどから、しばらく黙って聞いているだけであった妹紅が、ようやく口を開いた。
「それで? お前は、永遠の終わりに興味があるのか?」
妹紅もまた、輝夜と同じ考えであった。永琳の計り知れない能力は、身をもってよく知っている。そして何より、輝夜がそう信じている。幾度となく繰り返してきた殺し合いの中で、妹紅は輝夜に対し、一種の信頼めいた感情さえ覚えていた。輝夜は、永琳が蓬莱人の永遠を断ち切るための研究をしていると思っているはず。それもまた、長い付き合いの中で感じ取った事実であった。
「私は、そんなものに興味なんてないわ」
輝夜はきっぱりと言い切る。正面に立つ妹紅は特に何の反応も示さなかったが、後ろで聞いていた鈴仙はこれを聞いて、少なからず安堵した。
「だけど、妹紅。貴方は紫に、何の用があるのかしらね?」
途端に、辺りの空気がピンと張り詰める。再び黙り込んだ妹紅の顔をじっと見つめたまま、輝夜は身動き一つしようとしない。そして鈴仙もまた、その気圧に押されて、僅かばかりも体を動かすことが出来ないでいた。
凝固した大気を少しでも動かそうとするかのように、風が吹いてくる。それは、木の葉一枚を動かすほどの力もない弱々しい風であったが、鈴仙には、その音がうるさいぐらいに聴こえていた。
「許さないわよ。私に黙って、消えようなんて」
姫とは、得てして我が儘なものである。欲しい物は何としてでも手に入れないと、気が済まない。それは、輝夜とて例外ではない。彼女は彼女なりに遠慮していることも多いのかも知れないが、少なくとも、口に出した以上は力ずくでも我を通す。
その言葉に妹紅は少し眉を上げ、鋭い目付きで輝夜を睨んだ。輝夜の口許からは笑みが消え失せており、二人は今にも戦いを始めそうな雰囲気である。
「随分と勝手な物言いですね」
鈴仙達から見て左の側から、明らかに怒気を含んだ声が飛んできた。三人は一斉にそちらを振り向く。
「慧音!」
いつの間にここへやって来たのか、その声の主は、紛れもなく慧音であった。鈴仙はおろか、妹紅も彼女に気が付いていなかったようで、驚きを隠せない。輝夜は表情こそ変えないが、慌てて振り向いたところを見ると、やはり予想外であったらしい。
彼女は眉間に皺を寄せて、輝夜に明らかな敵意を向けながら、三人の方へと近付いて来る。
「貴方が戯れに残した蓬莱の薬が、どれほど妹紅を苦しめたか…」
輝夜と妹紅の間に立ち、今にも殴りかかりそうな気配を見せながら、問い詰める。
「ずっと、二人で居た貴方に…、妹紅を止める権利があるのか!」
堪えきれず、輝夜に掴みかかろうとする慧音の肩に、ぽん、と妹紅の手が置かれる。慧音は噴出している殺気を納め、首を回して妹紅の顔を見た。
「…妹紅?」
「輝夜。用は、それだけ?」
妹紅は目を細めて慧音に優しく微笑みかけると、そのまま輝夜に向き直り、聞いたことのないような柔らかい声で問いかけた。
「…ええ、そうよ」
そう答える輝夜の声は、いつもの、澄まして悠々とした調子ではなかった。
――だって、そうでしょう?
――何百年も殺し合った仲でしょう?
――千年以上も私を恨んできたのでしょう?
「一言ぐらい…、言ってくれても良いじゃない…」
鈴仙も慧音も、輝夜は妹紅を止めるために彼女を追って来たのだと思っていた。しかし、そうではない。彼女はただ一言、文句を言ってやりたかっただけなのである。挨拶もなしに行ってしまうとは何事か、と。輝夜は潤ませた目を伏して誰とも視線を合わせず、ぎゅっと口を結ぶ。
しばらく沈黙が続く。鈴仙はどうしたら良いか判らず、目だけを動かして妹紅と慧音の顔を交互に見たりしている。その視線が四回ほど往復したところで、妹紅が「はぁ」と溜め息を吐いた。
「アホか」
予想外の言葉に、輝夜は思わず顔を上げる。見れば妹紅の顔は、心の底から輝夜を小馬鹿にしている風である。
「な、何よ! 阿呆って言う奴が阿呆なのよ!」
子どものように言い返す輝夜。数秒前までの、しんみりとした空気は何処へ行ってしまったのか。鈴仙と慧音は妹紅の意図が解らず、目をしばたたかせていた。
「私はな、あいつが盗んだ薬と資料を焼き尽くしに来ただけだ」
「…え?」
三人が同時に声を出した。
予定の時刻になっても決闘の場所に来ない輝夜に文句を言うため、永遠亭に足を運んだ妹紅は、玄関先で鈴仙が輝夜に話しているのを盗み聞きした。蓬莱人を殺す薬が完成したと知った時、彼女は、こう考えた。永琳は輝夜に薬を飲ませるつもりだろう、と。何故なら、彼女は輝夜のために生きているから。不死身になってしまった輝夜のために地上に降り、輝夜を一人にしないために自らも不死の体となった献身的な従者なのだ。蓬莱の力を打ち消す薬が完成したら、輝夜を永遠の呪縛から解き放とうとするに決まっている。
――冗談じゃない。輝夜を殺すのは、私だ。
そんな研究など灰にしてやろう、と思っていたところで、紫が薬と資料を盗み出したと聞き、脇目も振らずにこの地へ飛んで来たのである。ここで輝夜達と話をするまで、自分で薬を飲むというのは思慮の外であった。
「言われてみれば、そういう発想もあるな」
「バッカじゃないの!? あんた、何百年後悔したのよ!?」
顔を真っ赤にして輝夜が吠える。予想だにしなかった辱しめを受けて、品位を保つ余裕は完全に吹っ飛んでしまったらしい。
「九百年だよ、文句あるか!」
「文句しかないわ!」
鈴仙は呆れて物も言えず、その場に立ち尽くしている。心の中でこっそりと「この人、本当に馬鹿なんじゃないかな」とすら思う。しかし同時に、妹紅のことが羨ましくもあった。自分が丸一日悩んだ挙げ句、人に相談して、なお出来なかったことを、妹紅は即座にやってのけたのである。
「勝手に勘違いしたんでしょ!」
「誰のせいよ! だいたい、人の物を勝手に燃やすとか、あり得ないわ! これだから地上の民は…」
「いつまで月の民気取ってんの!? この罪人が!」
「あんただって泥棒でしょーが!」
いよいよ本格的に子どもの喧嘩と化してきたため、鈴仙は「まあまあ」と輝夜を宥める。慧音が同じように妹紅を諫めてくれると期待していたが、彼女はただ、ぼんやりと三人を見ているだけである。
「慧音さん?」
鈴仙が声をかけたことで、喧嘩をしていた二人も、慧音が押し黙っていることに気が付いた。ピタッと静かになり、彼女の方に顔を向ける。
「妹紅、貴方は…、死ぬつもりでは、なかったんですね…」
ようやく弱々しい声を出した慧音の問いに、妹紅はまた溜め息を吐き、一言「当然」と返答する。
「そうか…」
今にも消え入りそうな声で呟くと、慧音は力が抜けたように、その場に座り込んだ。
「良かったぁ…」
その両目から、涙が川のように流れだす。
「お、おい、慧音」
「わた…し…は、てっぎ…り…」
子どものように泣きじゃくる慧音。何かを言おうとするが、まったく言葉にならない。普段の毅然とした彼女からは想像も出来ない姿であった。
鈴仙が人里の茶屋で小町に話し始めた時、慧音は、そのすぐ近くの人家に居た。揃って風邪で倒れた一家のために、その家を訪れて介抱していたのである。換気のために窓を開けたところで、偶然、永琳が開発した新薬の話が耳に入る。すぐに小町が場所を変えるよう提案し、二人はその場を離れたが、前日に鈴仙と会っていた慧音は、その、おおよその事態を理解した。それから彼女は、鈴仙と同じように思い悩むこととなった。
――それが、妹紅の意思なら。
慧音が鈴仙と違ったのは、己に対して出した結論である。自分の本心に従うことを決意した鈴仙に対し、彼女は本人の意思を尊重すべきだと自分に言い聞かせた。そして先ほど、輝夜と決闘しているはずの妹紅が夜空を飛んで行くのを見て胸騒ぎを覚え、ここまで追いかけて来たのである。もし、妹紅の邪魔をする者があるなら、そいつを何としてでも止めよう、と。
――それが、妹紅の願いなら。
本当は、どうにか説得して、妹紅を引き留めたかった。しかし、不死身となってしまった彼女の苦しみを知る慧音には、どうしても、それが出来ない。自分を押し殺して、歯を食いしばり、見送ってやるつもりであった。
鈴仙は泣き崩れる慧音を見ながら、何と理性の強い人間なのか、と驚愕する。長年、いつかその時が来るだろうと予感していた輝夜と違い、彼女は今日、突然、その事実を知ったというのに。
「あらあら。妹紅ってば、罪作りな女ね」
「い、いや、私はそんなつもりじゃ…」
いつになく、あたふたとする妹紅を、いつの間にか普段の調子を取り戻した輝夜が野次る。
「つもりじゃなくても、心配なのよ」
輝夜は膝立ちになって慧音と目の高さを合わせ、そっと手拭いを差し出した。慧音はそれを受け取り、「ありがとう」と言おうとするが、まだ上手く発音出来ない。
「…ごめん」
謝る妹紅を横目に、輝夜は立ち上がって鈴仙の傍に移動する。
「ずるいわよね」
近くの鈴仙にも幽かにしか聴こえない声で輝夜が呟く。誰が、とは言わなかったが、鈴仙は何となく、慧音のことだろうと思った。
輝夜に替わって、妹紅が慧音の前にしゃがみ込む。
「慧音。私は死なないから。あいつが生きている限り、絶対に。だから、安心して」
慧音は、か細い声で「うん」と言うと、片手に手拭いを持ったまま、いきなり両手で妹紅の両肩を掴んだ。頭を一瞬だけ後ろに傾け、有無を言わさぬ速さで妹紅の額に自分の額をぶつける。突然のことに反応出来なかった妹紅は、膝を曲げた姿勢のまま、体を後ろに仰け反らせた。
「心配料です」
服に付いた砂や草を払いながら立ち上がり、普段と変わらぬ端然とした口調で、そう言い放つ。妹紅は額を手で押さえて、理不尽そうな顔をしていたが、慧音の様子がいつも通りに戻ったことに安心したのか、何も言い返さない。輝夜はそんな二人の様子を見て、クスクスと笑っていた。
和やかなのは結構だが、自分は完全に蚊帳の外という気がする。鈴仙は何となく手持ち無沙汰な思いをしていた。何気なく腰に手を当てると、上着のポケットに違和感がある。何だろう、と思って中を探ってみたところ、折り畳まれた紙が出てきた。どうやら、粉薬が入った薬包紙らしく、表に小さく文字が書いてある。
「イナバ、それは何?」
「わかりません。前に入れたのを忘れてたみたいです」
鈴仙にはまったく心当たりがなかったが、とりあえず、そういうことにしておいた。永琳の字で『以前、頂いた古酒のお返しです』と書いてあるのが気にかかったが、ともかく、今は関係なかろうと思ったのである。
「これから、どうされるんですか?」
「そうねぇ」
輝夜はしばし考える。五秒ばかり沈黙したところで何かを閃いたらしく、悪戯を仕掛ける悪童のような笑みを浮かべた。
「妹紅、勝負しましょう」
「何の」
「決まってるじゃない。どちらが先に、薬と資料を焼却するか、よ」
鈴仙は目をパチクリさせた。慧音も予想外の提案に、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。永琳達の死を危惧する鈴仙にとって、薬の処分は大いに望むところであるが、よもや輝夜が言いだそうとは思っていなかった。
「輝夜様!」
よりによって、輝夜が、永琳の長年の研究を無に還そうと言うのか。彼女はおそらく、輝夜のために、それを続けてきたというのに。自分の意思を棚に上げて、思わず声を上げた鈴仙であったが、輝夜は相変わらず意地悪く笑っている。
「永琳なら資料なんかなくても、薬の情報は全部、頭の中に入っているわ。ましてや、あの研究のことなら、それこそ、一言一句の誤りもなく」
過言ではない。その気になれば、巨大な図書館の蔵書全ての文言を覚えることも可能なのではないか、とさえ目される永琳のことである。と、なれば、他人の目に触れる紙を媒体とした資料など、なくしてしまった方が良いのかも知れない。しかし、それは裏を返せば、資料を燃やしてしまっても鈴仙の不安は消えない、ということでもある。
「それにね、これは、私たちの意思表示でもあるのよ」
その言葉の意味が解らず、きょとんとしている鈴仙を見てクスクスと笑ってから、輝夜は天を仰ぎ見た。夜空には半月が浮かび、無数の星々に囲まれて明るく振る舞っている。
「ああ、ここから見上げる月の、何と輝かしいことでしょう。あの永遠の理想郷の、何と美しいことでしょう」
妹紅には、その台詞に何となく覚えがあった。いつのことであったかは覚えていないが、輝夜の口から聞いたことがある。その時も、彼女は同じように夜空の月を見上げていた。
「それに比べて、この地上は拙く、穢れで溢れているわ。永久に辿り着くことの出来ない完全を夢見て、次から次へと、新たな過ちを犯し続ける。そうして、来る日も来る日も、その姿を醜く変貌させていく」
だからこそ、地上に憧れた。
輝夜は天を仰ぐのをやめ、妹紅に視線を送る。
「こんな愚かしい世界を謳歌するためには、時間が幾らあっても足りやしない。万物が思考をやめる、その日まで、退屈なんてしていられない」
かつて、輝夜が語ったことを思い出しながら、妹紅が代わりに言葉を紡いだ。
「ちょっと違うんじゃない?」
「何が」
「万物が、の辺りとか」
「どうでも良いだろう」
輝夜は何処か不満気であったが、鈴仙は、彼女が言った『意思表示』の意味を理解した。つまり、まだまだ死ぬ準備など要らないということか。
「それで、貴方たちは、どうしたい?」
そういうことならば、鈴仙の答えは決まっている。豪快に燃やしてやろう。偉大なる師に、死んでくれるな、と伝えるための狼煙を上げるのだ。いや、それだけでは足りない。燃やした後で、自分の考えを明確に言葉でも伝えよう。そうしよう。
慧音もまた、彼女らしい理性的な打算を経た上でではあるが、既に心を決めていた。
「お供します」
誠に力強い、異口同音であった。
慧音は激怒した。必ず、この軽慮浅謀の女を頭突かねばならぬと決意した。
きっかけは、鈴仙が投げかけた一つの質問である。
「ところで、八雲の屋敷って何処にあるんですか?」
この質問に、輝夜と妹紅は揃って目を逸らした。神社の反対側にあるらしいということは判っていたが、正確な位置は誰も知らなかったのである。
「妹紅が知ってると思って」
「辺り一帯、燃やせば見付かると思って」
鈴仙は目頭を押さえた。これでは、永琳より先に薬を奪取するなど不可能であろう。何だか風も強くなって体が冷えてきたし、そろそろ帰って温かい汁物でも食べたい。そんな考えさえ頭に浮かんでくる。二人とも、普段は決して、こんな愚かしい手合いではないのであるが、今回は事情が事情だけに先走り気味になったらしい。
慧音が背後から妹紅の肩を叩き、振り向いたところに強烈な頭突きを放つ。しばらく、輝夜も含めた三人で「痛い」だの「うるさい」「この馬鹿」だのと騒いでいたが、途端に全員が黙り込み、揃って同じ方を振り向いた。
「騒がしいわね」
そこに立っていたのは、紫であった。家の近くで、これだけ騒いでいれば、気が付かない方がおかしい。
四人は慌ててお互いに間隔をあけ、戦いに備えて構える。
「あら、私と遊びに来たのかしら?」
紫は手に持った扇子を口許で開き、その表情を隠す。対峙する四人に緊張が走る。相手は、この幻想郷で並ぶ者のないほどの強者。油断すれば、一瞬で命を落とすことになる。
永琳の姿が見えないのにも関わらず、この場に紫が現れたという事実に、鈴仙は嫌な予感がするのを禁じ得ない。心臓の鼓動する音が早く、大きくなっていく。
「紫様!」
紫の後ろから、彼女の式である九尾の妖狐、八雲藍が、いやに大きな黒い毛玉を背負ってやって来た。
幻想郷では、魔力や思念の塊が、大きい毛玉のような姿で現れることがある。しかし、藍の背中にあるそれは、そういった物とは違って見えた。さらに、それがもぞもぞと動いている。薬を取り返しに来た者を迎え撃つため、紫が用意した新種の妖怪であろうか。
「貴方達、永琳から何か預かっていませんか?」
鈴仙と輝夜の間を扇子で指し、紫が尋ねる。二人は彼女から視線を逸らさないようにしながら考えるが、思い当たる節はない。しばらく黙っていると、紫が再び扇子を用いて顔の下半分を隠す。
「おそらく、薬のような物だと思うのだけれど」
そう言われて、鈴仙は自分の上着に入っている薬包紙を思い出す。ひょっとしたら、自分が気付かない間に永琳に入れられた物であったのか。可能性が高いのは、部屋で薬の瓶について訊ねられた時である。しかし、その手をポケットへと動かす前に輝夜から「鈴仙」と声で制せられた。輝夜は紫を険しい目付きで睨み付ける。
「その前に、お尋ねしたいことがあるのだけれど」
「何でしょう」
如何にもわざとらしく、白々しさを醸し出しながら扇子を振る紫。その顔は輝夜達を嘲るように笑っている。
「貴方は今日、永琳と会っているんじゃないかしら?」
「ええ、お会いしましたわ」
輝夜の目付きが、さらに鋭くなる。今はもう、余裕ぶるための穏健さを見せるつもりもない。
「永琳をどうしたの?」
「どうもしないわ。ただ、お薬を頂いたけれど」
それは順番が逆だろう。とぼけるのも大概にしろ。そう思い、鈴仙は紫への殺意を剥き出しにする。
「それは、どんな薬?」
「特効薬よ」
「何の」
ピシッ、と音を立てて扇子が閉じられる。紫は笑みを捨て去り、輝夜の顔を見据えた。
妹紅は既に、輝夜が紫を、自分が藍を叩くように動こう、といった想定を済ませていた。慧音は戦いになったら妹紅のサポートをするか、新種の妖怪の相手をするつもりである。そして、輝夜と鈴仙も、すぐにでも紫を殺しにかかる準備は出来ている。
「虫歯の」
時が止まる。
いや、これは油断を誘う作戦に違いない。四人は相変わらず戦う構えを解こうとしない。
「実はね、お恥ずかしいことですが、不肖の式の監督が行き届いておらず、そのまた式が不摂生により虫歯になりまして」
紫は先ほどまでとは打って変わって、ペラペラと話し出す。後ろでは藍が、ばつの悪そうな顔をして頬を掻いている。
「『二百十四回の試作品を経て、ようやく』完成した特効薬を譲って頂きましたの」
鈴仙はドキリとした。正確に覚えている自信はないが、あの夜、聞いたであろう言い回しを使われたからである。紫は明らかに悪意を持った、いやらしい笑顔で話し続ける。
「素晴らしい薬ですのよ。それがあれば、甘いものばかり食べた『罪』による、痛みという『罰から解放され』、『永い苦しみから抜け出すこと』が出来ますわ」
鈴仙以外の三人には、紫がやけに楽しそうな理由がさっぱり解らない。声高らかに虫歯の特効薬について語る様は、ただただ不気味なだけである。
「何せ、『飲んでしまえば、たちどころに』虫歯菌が『死滅する』んだもの。どんなに酷くても、誰の虫歯でも。」
これ以上のない恥辱を受けている気分であった。鈴仙は両手で顔を覆う。
「『妖怪や妖獣』はおろか、『鬼だろうと吸血鬼だろうと、神様だろうと…』」
「蓬莱人だろうと?」
何かを察した輝夜が口を挟んだ。
「そうよ。ああ、でも、蓬莱人は虫歯にならないわね。あの方も、そう言って笑っていました」
いよいよ堪えられず、うずくまっている鈴仙に向けて、輝夜は白い目線を飛ばす。妹紅と慧音も鈴仙の様子を見て、しばらく考えた結果、正解に辿り着いたらしく、憐れむような目で彼女を見つめる。
――やめて。そんな目で見ないで。
見えなくとも感じる視線に身悶えする鈴仙を放って置いたまま、慧音が疑問を投げかける。
「では、預かった薬というのは?」
「イナバ」
ふるふると震える手でポケットから取り出された物を、輝夜が預かる。
「これは何?」
輝夜がそれを手に持って見せながら尋ねると、紫は笑顔を硬直させた。
「何の手違いか判らないけど、頂いた薬がブレンドでして」
そう言って、藍が背負う毛玉へと目をやるのに釣られ、輝夜達もそれを見る。よくよく見なければ分からなかったが、その黒い毛玉には尻尾らしき物が二つ付いていた。また、先ほどよりも大きくなっている気がする。
「飲ませた途端、家全体に毛が広がって、圧死するところでした」
げんなりとした様子の藍が恨めしそうに言う。曰く、死ぬ思いで毛を刈って外に連れ出したが、家の中は未だ、毛の海らしい。
「盗んだりするからですよ!」
鈴仙が唐突に立ち上がり、紫を指差して叫んだ。散々、恥をかいた鬱憤をぶつける勢いである。
「貴方のお師匠様は、盗まれたと言ったのかしら?」
「え」
――ここに置いてあった、薬入りの小瓶を知らないかしら。
――それなら、今日、スキマ妖怪を見かけなかった?
――私はちょっと、外に出てくるわ。
いよいよ鈴仙は気力を失った。仰向けにぱたりと倒れ込み、空に見える月を眺める。慧音が駆け寄って「大丈夫か」と問うと、「もう、無理です」と乾いた笑いを漏らしながら返事した。
輝夜も色々とどうでもよくなった様子で、薬包紙を藍に投げ渡す。藍が毛を掻き分けて口を探し、薬を流し込むと、バサッと余分な毛が抜け落ちて黒猫の妖怪、橙が現れた。喜ぶ橙を藍が「ああ、良かった」と抱き締める。紫は地に落ちた毛の上から、広げられた薬包紙を拾い上げ、そこに書かれている字を読む。そして、それを手の中でぐしゃっと丸め、輝夜に対して、吐き捨てるように言う。
「あの薬師に、お返しと仕返しの違いを教えておいてくださる?」
空は相変わらず晴れ渡り、満点の星に見守られる中、鈴仙達は迷いの竹林に向かって空を飛ぶ。
八雲の妖怪への用件が済み、脱力感から回復した輝夜は、妹紅と慧音を夕餉の席に誘った。おそらく、何事もなかったかのように永遠亭に居るであろう永琳を、共に問い詰めようと言うのである。二人もすっかり気が抜けており、言われるがまま、付いて来てしまった。
「結局、私にとって、この二日間は何だったんでしょう」
「私の半日もだ」
無為な時間を過ごした、と嘆く二人。しかし、輝夜はそれほど不機嫌でもなかった。実際のところ、鈴仙も今回の件で、永琳と輝夜に対する考え方を明確に出来たのであるが、いかんせん失った尊厳が大きい。それに、小町に何と言えば良いのか、考えると胃が痛む。慧音に至っては、鈴仙以上に貴重な塩水を浪費しているのである。それも、妹紅達の目の前で。今後、思い出すたびに恥ずかしさで悶えるのに違いない。
「永琳が黒幕だとしたら、どうして、そんな手の込んだ真似を?」
「だから、言ったでしょう。それを確かめに帰るのよ」
妹紅の問いを輝夜は軽く受け流す。しかし、妹紅は納得がいかないらしい。
「お前は、見当が付いてるはず」
「どうかしらね」
「ちょっと! あれ、燃えてませんか!?」
竹林の中から煙が上がっている。鈴仙達の記憶が間違っていなければ、それは永遠亭のある辺りで間違いない。彼女達は一転して胸騒ぎを覚え、全速力で煙のもとへと向かった。
「おかえりなさい」
庭で焚き火をしていた永琳が、帰ってきた鈴仙達に声をかけた。夕刻の、あの恐ろしい気配は微塵も感じられない。庭のあちらこちらで、てゐを含めた兎達が、焼いた薩摩芋を美味しそうに食べている。薩摩芋など備蓄にあった覚えはない、と鈴仙が指摘すると、先ほど、人里に出かけた際に買って来たのだと言う。「言ってなかったかしら?」としらばっくれる永琳に、もう我慢の限界を超えたとばかりに襲いかかろうとする妹紅を、鈴仙が羽交い締めにし、慧音が宥める。
服やら手やらの汚れているのを何とかしろと言われ、鈴仙達は一度、屋敷の中に入ることになった。永琳を問い詰めるのは、ゆっくりと芋を食べながらでも出来る。焚き火が赤く照らす庭を、輝夜が案内するようにして前を歩き、ぶつぶつと文句を言う妹紅の背中を慧音が押す。最後尾となった鈴仙は、数歩進んだ所で、ふと、永琳の方を振り向いた。
見れば、永琳は正体の判らない紙の束を、次から次へと焚き火に放り込んでいるではないか。また、まだ燃やされていない紙が置かれている辺りに、蓋の開いた空の小瓶が転がっており、ラベルの見えている部分だけであるが『一の一万七』と書いてあるのが見えた。
「お師匠様、それ…」
「どうかした?」
言いながらも永琳は手を止めず、ついに最後の束も火にくべる。
「あ…」
紙は瞬く間に燃え上がり、真っ黒になってぼろぼろと崩れていく。鈴仙は呆然として、炭化した紙が舞うのを眺めていることしか出来なかった。
「良いのよ。これは、意思表示なんだから」
「盗み聞きは関心しないわね」
永琳の言動に混乱する鈴仙の背後から、輝夜が声をかけた。彼女を含む三人も、鈴仙が立ち止まったことに気が付いて、そこで足を止めていたのである。盗み聞きという文言を聞いて、妹紅と慧音は居心地が悪そうにして顔を見合わせる。
「永琳。それが、貴方の答え?」
「ええ、そうよ」
「そう」
輝夜は、それで満足であった。どうやら、これが永琳の目的であったらしい。いかようにして自分達の会話を聞いていたのかは判らないが、言いたいことは伝わっていたようだ。それで良い。そんな物は必要ないのだから。妹紅も慧音も、永琳が研究をやめることに不服はない。しかし…。
「ふざけないでください!」
彼女にとっては、大いに不満であった。あれだけ苦労させられたのだ。あれほど思い悩まされたのだ。勝手に人の考えを探っておいて、そんな賢しい答え方をして、それで納得してたまるものか。
「私は真剣に悩んでたんですよ!? もし、お師匠様と輝夜様が死んでしまったら、って! 二人が居なくなったら、どうしよう、って!」
鈴仙の声が竹林に響き渡る。庭に居る妖怪兎達は、その声にびっくりして体を固まらせている。
「直接、話せば良いじゃないですか! こんな回りくどいことしないで、口で言えば良いのに! なのに、こんなの…、ずるいじゃないですか…」
声が次第に小さくなっていく。鈴仙は、永琳の顔を直視することが出来ずに俯きながら、頑張って言葉を絞り出す。
「…私は、お師匠様のように、賢くありません。慧音さんみたいに、遠慮深くもいられません。だから…」
永琳は何も言わない。輝夜も、妹紅も慧音も、口を閉ざして鈴仙の後ろ姿を見守っている。普段は自由奔放な兎達も、この時ばかりは、しんと静まり返っていた。
「だから、はっきりと言ってほしいんです…」
彼女の望みは、たった一つ。それは、ひどく自分勝手で、しかし、とても素朴な願いであった。
「お二人は、ずっと、私の傍に居てくださいますか…?」
薪(たきぎ)がぱちぱちと音を立てて、火の粉を散らす。庭に面した障子に映し出される鈴仙の影が、焚き火の揺れるのと同時にゆらゆらと動いた。それは、まるで、彼女の体が震えていることを、皆に教えようとしているようであった。
「貴方が、私たちの傍に居てくれる限り」
鈴仙は、はっとして面(おもて)を上げる。そこには、目を細め、優しく微笑む師の顔があった。鈴仙の目に、涙が滲む。
その時、焚き火が爆発音とともに勢いよく燃え広がった。怒り狂う獅子のごとく、炎が激しく暴れまわる。
「はあ!?」
最初に声を上げたのは妹紅である。兎達はおたおたとして、降り注ぐ火の粉から逃げ惑っている。
「え、何? 何ですか!?」
「永琳! 何か変な物、燃やしたでしょ!」
「知らないわ!」
「待て、幸せ兎!」
何食わぬ顔で横を通り抜けようとしたてゐの首根っこを、慧音が捕まえる。
「お前だな!? 焚き火に何を入れた!?」
「カクテル」
「何の!?」
「…モロトフ」
「火炎瓶だろう、それは!」
慧音は胸ぐらを両手で掴み、てゐの体を前後に揺さぶる。てゐは彼女から目を逸らし、「へっ」と息を吐いて嘲るように言う。
「だって、私一人がハブにされてんの、癪じゃん」
「ああ、もう、悪かったわよ!」
「それは悪かったけど!」
「だからって、焚き火を爆発させる奴があるか!」
「何処で手に入れた!?」
「貰った」
「誰に!」
「親切な妖怪」
「スキマ妖怪か! …そうなんだな? そうなんだな!?」
「とりあえず鎮火!」
「妹紅、火は専門でしょ!」
「私は燃やす方だけだっての!」
「縁側が燃えてますよ!」
「ああ、竹が! 竹が!」
井戸が近いこともあって、消火には五分ほどしか掛からず、屋敷には大した被害も出なかったものの、終わった時には全員、疲労困憊であった。目ざとく火事に気付いた烏天狗の記者が、カメラと取材ノートを手に飛んで来たが、妹紅がかつてないほどの剣幕で追い返した。
てゐへの制裁は、気が進まない鈴仙達に代わり、慧音と妹紅の二人が二刻(ふたとき)に亘って、懇々と説教をすることになった。その後で全員から一発ずつの拳骨も貰ったが、彼女は目的を果たせたと言って、満足そうにしていた。その目的とは何であったか。それを知る者は彼女自身と、たまたま永遠亭を通りすがったという親切な妖怪の二人しか居ない。
結局、火事のおかげで、今回の事件のことはいろいろと有耶無耶のまま終わってしまった。鈴仙もこれ以上は何も言うまいと思ったらしく、やたらと遅くなった夕餉を皆と一緒に済ませると、普段と何ら変わりのない様子で床に就いた。この夜、どんな夢を見たのか、彼女は覚えていなかったが、誰かの日記が語ることには、その寝顔は幸せそうなものであったという。
次の日になると、彼女達はすっかりいつも通りの日々に戻っていた。てゐは相変わらず悪戯三昧であったし、永琳は何かと忙しそうにしている。慧音は寺子屋で講義に勤しみ、輝夜と妹紅の決闘もまた行われた。その日常は、傍(はた)から見ていると、何事もなかったのではないかと思ってしまうほどに、これまでと相違ない。
しかし、縁側の端に残された焦げ跡を見るたび、鈴仙はその日のことを思い出す。サボり魔の死神に連れられて三途の川を渡る時が来るまで、ずっと、ここが自分の居場所なのだと改めて心に決めた、その日のことを。それは、永遠をやめた屋敷に刻み込まれた、大切な歴史の証印なのである。
暖かい結果になっていて安心しましたw
とても良い話で面白かったです
>5様
あやや、しょうもないネタに触れて頂いた上に評点を賜るとは、恐れ多い。
正直に申しますと、面倒臭がって(辞書を&辞書に)入れてなかっただけなんです。申し訳ない。
ご芳情に深く深く感謝致します。ありがとうございます。
まさか本当にと思わせるほどに。
みんな魅力的に書かれていて大満足でした。
氏の作品はどれもキャラクター描写が丁寧で生き生きとしていて好きです