その生き物は文さまにしがみつくようにして抱かれ、つぶらな瞳で私を見つめてきた。
「森で迷子になったらしくてね、ちょっかい出した妖精を返り討ちにしてたのよ。このままだと要らぬ恨みを買いそうだったから、保護してきちゃった」
そう言う文さまの腕の中で実に気難しげな表情を浮かべている生き物に触ろうと、私は不用意にも手を伸ばす。するとすかさず、物体Xは赤く丸い頬袋のようなものから静電気を発して、こちらを威嚇してきた。
「わっ」
「あぁ、椛は手を出さないほうがいいかもよ。なんかこの子だいぶ気が立ってるみたいだから」
本当にまんまるのつぶらな瞳を持った謎の物体Xは、眉間に皺を寄せ、お世辞にも友好的とは言い難い容貌で睨みつけてきた。
それでいて文さまの腕にはしっかりしがみついているのだから現金なものだ。今にも噛みつかれそうな手を引っ込めて、私はため息ひとつ。
なんなのよ、一体。
玄関先でにっちもさっちもいかない未確認生物と白狼天狗がにらみ合い。端から見たらものすごく笑える構図だと思う。
「返り討ち、って言いました?」
「そう、返り討ち」
「一体何をしたんです」
「黒焦げにしたのよ。妖精を」
八卦炉でもあるまいし。
「――火でも吹いたんですか」
「椛も見たでしょ。この子電撃出せるの。それで、バリバリバリ! って」
そう言いながら文さまが肩をすくめると珍生物は窮屈そうに顔を歪めた。私はどうも腑に落ちなくてびしりと指差し、
「これ妖怪ですか」
「さぁねー。日本語が通じなくて困ってるのよ」
ずいぶんと面倒なことだ。
文さまがサジを投げて、私も眉をしかめる。言葉がわかるなら、もっとこうどうにかなりそうなものなのに。
でも、文さまにだけ危害を加えないのはどういうわけだろう。
「そりゃあもう、清く正しく射命丸ですからね。私の徳の為せる業に決まってるじゃない」
「――左様でございますか」
「どうだ」と言わんばかりの我が主の笑みから視線を移して、私は再び珍生物の方を見遣る。
どうも山では見ない顔だ。
新入りの妖怪だろうか。黄色と黒のツートンなんて聞いたことないけれど。
真っ黄色の身体は耳や尻尾の先が黒くなっていて、どぎつい警戒色の中でちょっとしたアクセントになっている。今はしかめっ面をしているけれど、つぶらな瞳とちょこんとした鼻は愛らしいと称して差し支えないだろう。
でも文さまの話によれば、こんな一尺三寸のチビ妖怪が、妖精を丸焼きにする火力を持っているんだとか。本当だろうか。ちょっとにわかには信じられない。
私は家に上がることすらままならない文さまそっちのけで、チビ妖怪の正体についてああでもないこうでもないと思考の泥沼をかき回す。
そこへ、主人を迎えに出た家人を待ちわびたか、奥から客人が顔を出してきた。
「ちょっとー、ふたりとも素麺伸びちゃうじゃん」
「あら、はたても来てたんだ」
「情報交換よ、情報交換――って何それ」
お腹を空かせた仏頂面で居間からすたすた現れて、はたてさんは文さまの腕の中に目を留めた。
「森で拾ったの。正体不明の珍生物くん」
「拾ったぁ? さらってきたの間違いじゃなくて?」
ずいぶんなご挨拶だと思う。
「まぁいいや。ね、キミどこから来たの」
ついさっきまで空腹で暴れていた腹ペコもどこへやら、早速チビ妖怪興味を持ったらしいはたてさんは、腰を落として文さまの胸元に視線を合わせる。
「なーんか、警戒しまくっちゃってて。打ち解けてくれないんですよ」と私。
相手を引っかこうとしているのか、懸命に腕を伸ばすチビ妖怪。それに合わせるように、はたてさんは手を出したり引っ込めたりとじゃれている。
はたてさんはチビ妖怪から視線を離さず、
「あんたたちが余計な警戒心持たせるからでしょうが。ほら、おいで。こんな怖い天狗たちなんか放っといて、お姉さんとお話しましょうね」
そう言うが早いか、はたてさんは文さまからひったくるようにチビ妖怪を抱き取ると、それこそあっという間に居間に戻っていく。ここはあんたの家か。
それを見送って、ようやく両手が自由になった我が主は靴を脱ぎながら一言。
「何だか嬉しそう」
「勝手に持って行っちゃったけど、大丈夫かな。丸焼きにされないかな」
「大丈夫じゃないの、ああ見えてあの娘、小動物の扱い心得てるし」
そう言って下駄箱を閉めた文さまは大儀そうに玄関先へ座り込んでしまう。私は腰に両手を当てて、
「それはそうと、遅いですよ。今日は午前上がりって言ってたじゃないですか。はたて姫ってば退屈遊ばしちゃって、相手するの、もう大変だったんですから」
「ごめんごめん。今日もこの炎天下で大天狗様が長話。もう倒れちゃうかと思ったわ。お昼素麺だって? お腹空いちゃった」
にへら、と笑った文さまは「よっ」と立ち上がると、お腹をさする。空腹なはずだ。今朝だって朝食も摂らずに飛び出て行ったのだから。
「はたてさんのお土産。美味しそうだったからさっそく茹でてます」
「いいね、私も頂くわ」
我が主はそう言うと、また笑った。
†
正体不明のチビ妖怪は、今度は、はたてさんの腕にがっちりホールドされて、「解せぬ」とでも言いたげな風情でお地蔵様よろしく大人しくしている。
そんな様子はお構いなしに、後ろから覆いかぶさって「ね、どこから来たの。教えてよ」なんて聞くものだから、チビ妖怪はいよいよ百面相だ。
でもたしかに、はたてさんは小動物の扱いがうまいと思う。チビ妖怪が抵抗しなくなった。単に困惑しているだけかもしれないけれど。
見れば見るほど珍百景な妖怪の触れ合いを眺めていて、私の思考にも転がりでてきたものがあった。
「そう言えば、こういう未確認生物のこと、なんて呼ぶんでしたっけ。ええと――ゆー、ゆー」
「UMA」と、はたてさん。
「そう、UMA。なんだか宝船みたいですよね。命蓮寺と一緒にふわふわ飛んできたやつ」
「それを言うならUFOでしょ、っと」
お地蔵さまに擬態するのも飽きたか、チビ妖怪は解放を迫ってもぞもぞ動き出す。
はたてさんが畳に下ろしてやると、ようやく四肢の自由を得たチビ妖怪は急に開けた世界に驚き、周囲を伺いながら鼻を鳴らして一言。
「ぴかちゅう」
「だってさ、椛わかる?」と、これははたてさん。
こっちに振られてもなぁ。
聞いたこともないような鳴き声をされたところで、反応に困る。
一方、自由の身となったチビ妖怪は、いよいよ脱兎のごとく逃走――するわけでもなく、室内をぴょんぴょん駆け回っては、何が珍しいのか、こけしを見つめたりなんかして好奇心を存分に発揮しているらしい。
まったく、警戒心が強いんだか人懐こいんだか。
「もぉみじぃー! めんつゆ用意してー!」
私からお昼の用意を引き継いだ文さまがお勝手で叫んでいた。昼食ができたらしい。
食卓を見る。
写真だのスクラップだのと、新聞の校正作業をしていたのだと分かる光景の横に、湯のみ、雑誌、目覚し時計、写真機、手帖がごっちゃりと鎮座ましましていた。どう贔屓目に見ても食事のできる環境ではない。
どれもこれも、帰りの遅い主を待ちわびて退屈を持て余したはたて姫の所業だ。
手当り次第にとっ散らかった食卓を急いで片しながら、私も食器棚から人数分の茶碗を出してくる。
「わ、すごいすごい」
突然興奮するはたてさんのほうを見れば、チビ妖怪が小さい手足を必死にジタバタと動かして何やら訴えている。
「この子さ、実は言葉がわかるんじゃないの? ね、もう一回教えて。キミは何処から来たの」
ジタバタジタバタ。
「何か、わかりました?」
白狼天狗には道楽の総決算にしか見えない写真機とやらを慎重に、居間の隅まで運びながら、私もはたてさんに問いかける。
「ダメね、ぜーんぜん。もー何言ってるのかさっぱりだわ。身振り手振りで何か訴えようとしてるんだけどねー」
はたてさんは私のほうに視線を向けて、つまらなそうに肩をすくめてみせる。
きゃっきゃと喜んでるから、さぞかし良い情報が手に入ったのかと思ったけど、そんなうまい話があったら苦労はしないか。
チビ妖怪はといえば、主張の伝わらなかったことがそんなに残念だったのか、耳を垂らしてしょげているらしい。
そこへ素麺の乗ったざるを持った文さまがお勝手から現れて、散らかった食卓の惨状に頬をふくらませる。間に合わなかった。
「ほら、食べるって言ったじゃない! 椛、食卓の上の全部下ろして、アルバムに飛ぶ! はたても遊んでないで手伝ってよ」
「はいはいはいはい」
「ああもう、うるさいな、アタシはこの子に独占取材敢行してるのに」
ご機嫌ナナメになった主の文句を右から左へと聞き流し、私はいよいよ適当に食卓の用意を済ませていく。はたてさんもチビ妖怪への聞き取り調査を打ち切り、渋々手伝ってくれた。
あれよあれよという間に、食卓へ素麺と山菜の天ぷらが並び、昼餉の用意は整った。
一同、合掌して唱和。いただきます。
「夏と言えばコレ、ですよねぇ」
「茹でればまだあるから、言ってね」
「どうよ、アタシのオススメ。やっぱ《案山子念報》の情報収集力は幻想郷一でしょうが」
「はいはい、毎度リークどうも」
茹で上がった素麺は冷たい流水でしっかり洗い、ぬめりを取るのがコツだ。これをやらないと麺が引き締まらず、味がボケてしまう。
はたて姫御用達らしい素麺はコシもしっかりしていて美味だった。
私が山中で採ってきた山菜と合わせ、これぞ夏の味覚という感じ。やっぱり夏はこうじゃないと。
さて、チビ妖怪はというと、抵抗しても無駄だと観念したのか、可愛らしい見かけによらず神経が太いのか、やはり逃げないでじっと食卓を見ている。
お前は一体どうしたいの。
鴉天狗双方も気が付いて今さらお互いに顔を見合わせる。さて、この子をどうしよう。
「――素麺食べるかな」と私。
「食べるんじゃないの。口に合わなきゃ残すでしょう」と文さま。
「アレルギーとか大丈夫かな、って」
「大丈夫なんじゃない。麦の塊なんだし、麺つゆだってヤバいもんじゃないっしょ」と、これははたてさん。
「あなた狼なんだから分からないの」
文さま、狼にこんな知り合いいませんよ。
ぶつ切りにした素麺を皿にのせ麺つゆをぶっかけて出してやると、チビ妖怪は器用に啜って食べだした。
そんなチビ妖怪の姿がなんだか可笑しくて、私は頭を撫でてやろうと手を伸ばす。
すると途端に、こいつは思いっきり後ろに飛びのくのだ。毛まで逆立てて威嚇してくる。
その姿に私はちょっぴりだけ、ほんのちょっぴりだけ傷つく。ずいぶん嫌われたものだと思う。
食事の邪魔だったね。ごめんってば。
「私、憎まれるようなことしたかな」
自分のセリフがとても悲しい。
「椛って怖いからじゃないの」とはたてさん。
「そんな怖い顔してます?」
「ほらほら、あんまり椛虐めると根に持っちゃうわよ。椛もお年ごろなんだから」と文さま。
「ちょーウケるー」
もう、ふたりして馬鹿にして。
勝手にカラカラ笑っている鴉天狗たちなんか放っておいて、私はそっとチビ妖怪の観察に戻る。今度は不用意に手を出したりなんてしない。
お腹を空かせていたのか、チビ妖怪は私のことなんてそっちのけで素麺にがっついてる。そんなに急いで食べたら喉に詰まらせるよ。あ、ほら、言ってるそばから。
急に立ち上がって目を白黒させるチビ妖怪。私もあわてて湯のみを渡してやる。
皿のほうが良かったかと思ったけど、両手で捧げ持って器用に水を飲み干していく。結構かしこい。
「美少女に囲まれて幸せねこの子も」と文さま。
「自分からよく言うわ」とはたてさん。
尻餅をついてへたりこむチビ妖怪を見ながら私も心のなかで同意する。
それにしても、本当に一体どこから来たんだろう。
「それが分かったら苦労しないわよ」と文さま。
さもありなん。
「文は森で拾ったんでしょ? 神隠しじゃないの。ほら、例のスキマの――」とはたてさん。
えー、またですかー。
何かあったら全部スキマのせいにするのも、それはそれで適当すぎる気もする。
途端に面倒くさくなって、私は盛大に適当を打ち上げる。
「どことなくネズミに似ているし、命蓮寺の妖怪ネズミのご同輩なんじゃないですか」
それを聞いて、しっかり五秒間虚空を見つめた文さまは、
「――ねぇ椛、たしか今日の集金って」
「私が当番ですけど――」
「そう、その通りよ犬走特派員」
ものすごく嫌な予感がする。
「次の《文々。新聞》のトップニュースはこの子で決まりよ! この正体不明の未確認生物くんについて聞き取りしてきなさい。何か手がかりが見つかるまで、家には帰って来ないこと!」
「えぇーっ!」
†
「で、私のところに来たわけだ」
ぶーたれている私に向かって、ナズーリンは「あんたも大変だね」と笑う。
まったくだ、と思う。とんだヤブヘビだ。
とは言え、いつまで不機嫌になっていたって始まらない。私は背後に隠れている件のチビ妖怪を見せて、
「どう、ご存じない?」
妖怪ネズミは見かけないチビに目を丸くして、
「どうもこうも、これがはじめてのご対面だよ」
当てが外れたな、と思う。
「やれやれ、君は一体何処からやってきたんだい」
「ぴ?」
「ちゅー」
「ぴっかぴ!」
「ちゅーちゅー」
「ぴぴっかーちゅぴかちゅう」
「ちっちっちゅう」
「言葉がわかるの?」
「いやもう全っ然」
「――」
「さてさて、君と遊ぶのはやぶさかではないんだけれどね、私は御主人の落し物をダウジングしなきゃいけないんだ。この狼を邪魔せず、しっかり言うことを聞くんだよ盟友」
そう言って、ナズーリンはネズミらしいチビ妖怪の頭を名残惜しそうに撫でると、いつもどおり、おっちょこちょいな主の落し物をふわふわ探しに夏の夕焼け空へ飛び立っていった。
そんな妖怪ネズミを、どうやらネズミらしいチビ妖怪は、出会ってはじめて見せる笑顔らしき表情で手をちょこちょこ振って見送っている。
結局、この日得られた収穫は皆無だった。
†
で、チビ妖怪。
もとい、チビ妖怪からネズミ妖怪にランクアップ。
結局のところ正体不明には変わりないのだけど。
その正体不明のネズミ妖怪は、今は満面の笑みを浮かべてリンゴをしゃりしゃりやっている。
日もとっぷりと暮れて帰宅した折、手ぶらで戻ってきた私を文さまは白い目で出迎えたけどかまうもんか。見つからないものは逆立ちしたって見つかりっこないのだから。
そもそも、何の手がかりもないのにあちこちをローラー作戦でシラミ潰しなんて無茶苦茶だ。暑さでひっくり返ったら文さまのせいですからね。
ふてくされているこちらに気がついているのかいないのか、文さまはチビ妖怪の頭を撫でたりリンゴを持ってきてやったりして、
「ねぇ椛、やっぱり可愛いよこの子。ウチに置いてあげようよ~」
あのね、捨て猫じゃないんですから。
私はぴしゃりと、
「ダメです」
――文さま、そんな泣きそうな顔したってダメですよ。
ネズミ妖怪も文さまを見たり、私を見たりと様子をうかがっているらしい。お前までそんな顔をしたら、まるで私が悪いみたいじゃないか。
そこへ、頼んでもいないのに夕飯までお呼ばれされたつもりになっているはたてさんが、
「って言ったって、このまま追い出すわけにはいかないんじゃないのさ」
それはそうですけど、
「だったら、はたてさんが連れて帰ればいいじゃないですか」
はたてさんは顔全体で笑顔になって、
「いいの? そんなこと言ったらアタシ本当にもらっちゃうよ!」
「ダメ!」
すかさずガタッと立ち上がって文さま。なんでそこであなたが決めるんですか。
とはいえ、たしかにこのままこやつを放り出すというのも寝覚めが悪い。
まさか、「すぐに荷物をまとめて出て行け!」なんて言えるわけないし。言えないけど――
「仕方ないなぁ。こやつの主が見つかるまで、です」
これがぎりぎりの譲歩。
文さまとはたてさんは、喜色満面になった。
ふたりとも、こやつが正体不明なんだってこと、忘れてないですよね。
私は知りませんからね。
夜中に背中がぱっくり割れて、中から触手ビュルビュル粘液グチョグチョの化け物が出てきても知りませんからね。寝込みを襲われて哀しいことになっても知りませんからね。自分の純潔は自分で守ってくださいね。
そうは言うものの、このネズミ妖怪、天真爛漫な笑顔を見ていると、どうも人畜無害であることだけはたしかなように思える。これが演技だとしたら大した役者だ。
もし本当にこの愛くるしさがこちらを油断させるための罠で、スキを狙って獲物を狙った「中身」が出てくるとすれば、その場でたたっ斬られても文句は言えまい。
多少こじつけ地味ているけれど、うちで預かることで防疫隔離にもなるハズ。なんにせよ、戦略哨戒にはなるか。様子を見よう。
「よし、できた!」
何やらずっとガリ版と格闘していた文さまが快哉を叫ぶ。
さっきから何を作ってたんですか。
「この子の手配チラシ。もしかしたらどこかに主がいるかもしれないでしょう?」
なるほど、迷い猫ならぬ迷い鼠というわけ。でも、そう簡単に見つかるものかな。
「見つからなければうちに置いていいんでしょ? ま、ともかく形だけでも探してみないことにはね」
ぐ、外堀から埋めてきたか。私はなんとも複雑な気持ちになる。
卓に顔を寝かせてネズミ妖怪を観察していたはたてさんが、
「それより、この子の名前どうするの。私たちで預かるのに呼び名がないというのも具合が悪い」
文さまは今度もしっかり五秒間虚空を見つめて、
「――鳴き声がぴかちゅうなんだから、ピカチュウっていうのは?」
「いくらなんだって、それはちょっと雑すぎでしょう」
「そうかなぁ」
「ちゅう!」
「ほらー、気に入ってくれてるじゃない」
「ともかく、名前の話はこやつの正体がわかってからです」
「椛のいけずー」
そう言って文さまがむくれるそばで、ネズミ妖怪はカゴに盛られたリンゴのひとつを手に取って、こちらに差し出してみせる。
「ぴかぴか」
あげる、ということだろうか。
「え、くれるの?」
ネズミ妖怪は、食え食え、としきりに勧めているつもりらしい。
私は少し面食らいながらも差し出されるがままに受け取って、
「あ、ありがと」
「ちゅう!」
――私にも懐いてくれたのかな。
そんな私の葛藤なんていざ知らず、ネズミ妖怪はふたたび自分のリンゴにかかりっきりになった。
それを見て、私も服の裾でぬぐった赤い果実を口に含む。
リンゴは爽やかな甘酸っぱさに満ちていた。
†
翌日。
決して疑問がないわけではないのだ。
ことあるごとに言っている気もするけど、そも、私は白狼の哨戒天狗であって、決して、決して鴉の報道天狗ではない。
新聞なんて門外漢もいいところ、文さまやはたてさんに付き合う義理は金輪際ないはずなのだけど。
なのに――なのに何故か、今日も私はネズミ妖怪をお供に取材の真似事をやるハメになっているのだ。解せぬ。
せっかくのお休みなのだから自由に時間を使えばいいのに、何が悲しくて私は幻想郷をさまよっているのだろう。
ほんと、私も相当な物好きよね。
「ぴ?」
お前のことじゃないよ。
「ちゅう!」
何が嬉しいのか、ネズミ妖怪はにっこり笑って手を振っている。振り返したほうがいいのかな。
ま、それはいいんだけど――
いま、ネズミ妖怪は竜宮の使いに抱きかかえられてご満悦だ。コイツ女相手だとほんと見境ないな。性別は絶対にオスだと思う。
「ごめんなさい。天界でもこんな可愛らしい生き物は見かけたことがないので」
なぜか永江衣玖はすまなそうな口調で、言い訳みたいなことを言う。
私そんな怖そうな顔してますでしょうか。
天女と天狗というのも珍妙な取り合わせだと思う。家から出て幾ばくも行かないところで、ふわふわ飛んでいるところにばったりと出会ったのだ。
天界の住人のはずが、最近はよくこちらでも見かけるようになった気がする。ひょっとして暇なのかな。
「聞こえてるわ。空気に出てる」
これは失礼。にしても、竜宮の使いが山なんぞにほんと何の用だろう。
「総領娘様の御命令で、地上で面白そうなことがあれば見つけてこい、と。暇だから、と」
天女はそう言うと、ため息ひとつ。そういえば、ここも上司が問題児だったっけ。
人使いが荒いのは鴉天狗に限ったことではないらしい。
山にはせいぜい河童のビックリドッキリメカと暇を持て余したゴシップ好きの天狗しかいませんよ。何かイベントをお探しなら麓の神社にでも向かわれたらいかがです。
竜宮の使いもそのつもりだったらしく、今から桃を手土産に博麗神社へ向かうところだという。
「異変解決が生業の人間の元へ、物の怪が自分から向かうのも妙な話だけれど」と天女。
問題ありませんよ。麓の神社は人間ではなく妖怪の溜まり場ですから。増え始めの参拝客がまた減りそうだと密かに私は思う。
それにしても、地上で面白そうなこと、だって?
ということは取り返したほうがいいのかな、ネズミ妖怪。
ヘンに気に入られて連れ帰られて、あのマゾのくせにサドを気取る天人の玩具にでもされたらたまらない。
「あげませんよこの子は」
「分かってます」
で、やはり知らないのね。この正体不明な謎の物体Xにして、未確認生物のチビなネズミ妖怪。
「ええ。さっきも言ったとおり、天界ではとんと見かけない」
「電気つながりでも?」
「電気つながりでも」
ため息もうひとつ。
またひとつ線が切れた。こうなれば出たとこ勝負の当てずっぽうしかないのかも。
「仕方ない。天気つながりで式神の式神のところにでも行ってみるかな」
「式神の式神?」
不思議そうに首をかしげる竜宮の使いに私は笑って、
「ご存知ないですか。猫が顔を洗うと雨が降る、って」
†
廃屋の軒下で、橙はネズミ妖怪を見るなり困ったように声を上げた。
「こんなまっ黄っ黄の知り合いなんていないよ」
「あなたの主だって黄色いじゃないか」
「藍様は違うの。藍様はフサフサのモフモフでしょう?」
たしかにフサフサのモフモフではあるけれど。
「ネズミには猫だと思ったんだけどなぁ」
「ヂュ!」
「なんかものすごく威嚇してるし」
「生前、鼠にすごく恨まれるようなことでもしたんじゃないの」
「猫叉は死んだりしません。私は今も昔も敬虔な家猫なんだから」
「むかし、家鼠を喰い殺したりとか」
私がそう言うと、猫又は腕の引っ掻き傷をまくって見せて、
「野良猫一匹手懐けられないのに?」
「野良猫一匹手懐けられないのに。まぁなんだ、たしかにこいつは猫の一匹や二匹、軽く返り討ちにしそうな面構えではあるかな」
「でしょう?」と橙。
「なら、どう? ためしに一戦交えてみるというのは」
「スペカも通じないような相手とサシの決闘なんてごめんだよ。こいつ、妖精を丸焼きにしたんでしょ?」
どうやらネズミ妖怪の武勇伝がもう知れ渡っていたらしい。
これは早いところ、こやつの手がかりを見つけてやらないことには。黒焦げにされたことを逆恨みして、妖精たちが報復のときをうかがっていないとも限らない。
アホの子がいくら束になったところで恐るるに足ることはないけれど、託児所でもあるまいし、これ以上の面倒は御免被りたい。
腰に手を当てガハハと笑う氷精のイメージを思考から追い出して、私は未だに橙相手に毛を逆立てているネズミ妖怪を抱き上げる。
思い余って飛びかかろうとしていたのか、抱きかかえられたネズミ妖怪はたたらを踏んだ。ダメだよ喧嘩しちゃ。
それを見て安心したらしく、息をついた自称敬虔な猫又殿は、勝手気ままに集まる野良猫相手に涙ぐましい餌付けを再開した。
†
夜。
この日も私(とネズミ妖怪)は何の手がかりも得られず帰宅した。
なのに、手ぶらで帰宅した私たちを、鴉天狗二羽は見たこともないようなご満悦の表情で出迎えるのだ。
昨日の文さまの冷めた態度がウソみたい。
預かっていいとなった途端にこれだもの。現金にもほどがあるよね。
ネズミ妖怪のほうも、自称美少女なふたりに挟まれてまんざらでもないらしく、愛嬌を振りまいている。
ほんと、マスコットなんてよく言ったものだと思う。
こういうのを何て言うのだったか。両手に華、だっけ。
「ピカチュウこっちおいでー」
「ピカチュウ、リンゴだよー」
もう「ピカチュウ」でいい気がしてきた。
「アンヨは上手」よろしく二手からネズミ妖怪を呼ぶふたり。
ネズミ妖怪は左に右にと、どちらへ行ったものか迷っている様子だったが、結局物で釣った文さまのほうへ駆けていく。
「あらら、文のほうがいいのか。傷つくなぁ」
はたてさんは全然傷ついてなさそうな口調で、リンゴをかじるネズミ妖怪をなでている。
なんだかんだでものすごく仲いいよね、このふたり。
どうでもいいけど、飼うつもりならこやつの食費のこととかちゃんと考えてくださいね、おふたりさん。
夕食後、一番風呂をいただいた私が居間に戻ってもまだ、ふたりはネズミ妖怪とじゃれていた。本当によくもまぁ飽きないものだと思う。かまってもらえるネズミ妖怪が私にはちょっとだけうらやましい。
夜更けになって、はたてさんは後ろ髪を引かれるような表情を浮かべながら、ようよう家路についた。
これでようやく私も寝床に還れる。
「まだ遊び足りない」だのと四の五の言っている文さまを急かして、布団を敷き眠りにつく。明日は私もお仕事があるのだ。おやすみなさい。
――途中、夜中に目が覚めた。
月の光が差し込む幻想的で静かな夜。
聴こえるのは虫の音と、そばで横臥するおてんばな我が主の寝息だけ。
静かな寝室に衣擦れの音がやけに響いて聴こえる気がした。
ネズミ妖怪はどうしているだろう。
――はたてさんがこしらえた即席の寝床に姿がなかった。
私が慌てて目線で周囲を探ると、ネズミ妖怪は蚊帳の外へと這い出して、開け放した縁側から夜空を見つめているらしい。
それを捉えて私は緊張する。
――まさか本当にメタモルフォーゼ。
ないない。
一瞬でも思った自分が恥ずかしい。私は自分の妄想に苦笑する。ヘンな本の読みすぎだよ。
と、
「ぴかぴ――」
ふとチビ妖怪が発した寂しそうな声に、私は冷や水を浴びせられたような気分を味わう。
昼間の天真爛漫さとは打って変わった、心細そうな声。
そう、この妖怪は今もって正体不明なのだ。
こやつにも家族がいるのだろうか。父は、母は、兄弟は――主は。
満点の星空を見上げるネズミ妖怪は、嘘みたいな満月にいったい何を想うのだろう。
その背中が泣いているように視えて、私は少しだけそれが気になった。
†
悪魔の棲む館。紅魔館。
湖のほとりに立つ血のように紅い洋館は、幻想的でも不気味でもある姿を、今日も陽炎のように薄霧の中へ浮き立たせていた。
文さまのお使いでもなければ、こんなところは一生縁がなかったと思う。こればかりは功罪がよくわからないな。
シエスタと洒落こむ門番を、今日もメイドが血祭りに上げようとしているところへ出くわした。
私と眼があってメイドが刃を封じられたところで、ちょうど門番が午睡から目を覚ます。瞬時に状況を理解したらしい門番は、あれこれと理由をつけて羽が生えたように逃げていった。
門番の意味ないじゃない。
なぜかものすごく残念そうにナイフを収めて――私にはそれが手品のように視えた――それからこちらに振り返ったメイドは、このときはじめて私を見つけたかのように驚いてみせる。
「ワンコじゃない」
「狼です」
いや、さっき目が合いましたよね。
「お山の天狗様がこのような場所へ如何用かしら。何分この通り門番が不在なもので、お客様には不自由をお掛けして当屋敷の管理者として恐縮ですわ」
取り繕っているつもりなら結構ですよ。門番さんのシエスタ有名ですし。
「――ウチの威信が崩れてきている要因って、主にあの娘のせいじゃないかと思うの」
「下の者は上に倣うと聞きますし、他にも理由がおありなのでは? 我が主がよくするのですが、ぎゃおーたーべちゃうぞー、ってたしか」
「今日は狼のポトフにしようかしら」
スイマセンデシタ。
「そんなことより中へ入れてくださいよ。こちらのお嬢様に伺いたいことがあるのです」
ね、十六夜咲夜さん。同じ犬のよしみで。
「何か言った?」
「いえ、何も」
「モケーレムベンベの話はもういいのよ。それより、ずいぶんと板についた記者ぶりじゃない。嫌よ嫌よも好きのうち、というところかしら」
「――そうですか?」
「あら、貴女あのパパラッチの舎弟でしょう」
私はやり返されて黙りこむ。なんでこっちの事情まで知ってるんだ。この女中の嗅覚は犬並みだと思う。
「ええ優れていますわ。何せ、お嬢様の「犬」なもので」
スイマセンデシタ。
「それより貴女が聞きたいのは、そこで隠れているおチビさんのことだと思うのだけれど」
ええ、そのとおりですが。
「――よしたほうがいいのではなくて? 何か相当怯えているようだけれど」
ふと足元を見ると、ネズミ妖怪は何が怖いのか、私の袴をつかんでぶるぶる震えている。
なるほど、はじめて見る者にはこの洋館の重圧は重荷かもしれない。もっとも今の場合、このメイドの放つプレッシャーに気圧されているだけかもしれないけど。
ともあれ、この怖がり方ではネズミ妖怪もこの洋館とは縁が無さそうだし、出直すことにしよう。
メイドに礼を言って悪魔の棲むらしい館を辞す。
さて、どうしたものだろう。
†
こうして、私たちがいよいよのっぴきならない状況へ追い込まれたところで、救いの手を差し伸べるものが現れた。
ヤケクソ気味の太陽がぶちまける猛烈な日差しと、一向に見つからない手がかりのせいで困憊したひとりと一匹。
打つ手なしで木陰に座り込んでいるところへ、人里へ買い出し風情の八雲藍は差し入れとばかりに水筒を寄越して笑う。
その九本の尻尾が本当にフカフカに見えて、こればかりは手入れに自信のある私でも敵わないと思う。
「やぁ、昨日はうちの橙が世話になったみたいだね」
「野良猫相手にずいぶんと難渋しているようでしたけれど」
「あれも屋内での暮らしが長いからね。野生には敵わないというところかな。私も少し甘やかしすぎたかもしれない」
自覚はあるのか。
「何か?」
「いえ、何も」
ひと通り事情を説明して、何でもいいから知っていることはないかと聞いてみる。
もう三日も駆けずり回っているのに何の手がかりもないんですよ。おかげで私は宮仕えが手につかないし。何とかなりません?
九尾の狐はしっかり五秒間、あれこれと考えを巡らせてから一言。
「知らないなぁ」
がっくし。
藍は苦笑いしてから、彼女の主に会ってみればいいと言う。
「紫様は賢明なお方だ。何か存じていることもあろう。天狗に知恵をお貸しすることくらい、やぶさかではないが」
ゆかゆかゆかりん。なるべく避けたかったんだけどな。
「八雲様はどうにも苦手ですから。何せ私はただの下っ端天狗ですので」
「紫様はそういう卑屈な考え方を嫌う。お前もあの新聞記者の従僕なら覚えておいたほうがいい」
「――心得ましょう」
「まぁともあれ、フムン、たしかに見かけない妖怪だが――あぁ、なるほど」
「何かご存知なんですか」
「いや、こちらの話」
余計な一言を口走ったと気がついたのか、妖狐は慌てて誤魔化しに入る。
いま絶対何かを思い出しましたよね。この蜘蛛の糸、ゆめゆめ放してなるものか。
文さま、ちょっとキャラを借ります。
「記者相手に隠し立てはあまり賢明な判断とは思えませんが――」
「――どういう意味かな」
「例えばの話ですよ。我々の山には心のない新聞記者だっているかもわからないんです。どこかの猫又が主人とあられもない痴態についてあることないこと――」
「四日前、紫様が気まぐれで外遊に出たとき何の拍子か世界線を断ち切る境界がいくつか繋がってしまったようでそのひとつから現住生物の一匹が漏れてしまったらしく紫様も血眼になって探していたようだが誰かに拾われたのかとんと見つからなくて――それ以上のことは私も知らない」
「ありがとうございます」
「お前も立派なパパラッチじゃないか。このペテン師め」
「新聞記者の従僕ですから」
なぜか突然饒舌になった妖狐はひと通り喋ってから怒りだした。
――嘘つき。
半分本気で怒っているらしい九尾の狐に心のなかで何度も詫びる。
身内の不手際で、おそらく秘密の部類に入るであろう恥を晒すよう強いられたのだ。
怒るのも無理はない。
しかし、「お前も」ということは、文さまはこういう脅迫を日常的にしているのかな。我が主ながらやることがえげつない。
ごめんなさい、ごめんなさい。私のせいじゃないんです。悪いのは文さまなんです。私は清く正しい白狼天狗なんです。
――嘘つけ。
お詫びというか礼というか、文さま特製の式神ブロマイドとっておきを渡すと確約して、ようやく妖狐は首肯した。
これくらいの権限は特派員にも与えられていいよね。
†
とりあえず、線はつながった。あとはどう裏を付けて核心へ持っていくか、かな。
「やっぱりお前は外の妖怪だったんだね」
ずっと喉につっかえていた魚の小骨がすっと取れたような、そんな晴れがましい気分。山道を登り、嘘みたいに蒼と紅のグラデーションに染まった夕焼け空を見上げて私は笑う。
でも、今日は一日中元気が無い様子だったネズミ妖怪は、このときも耳を垂らしてしょんぼりしていた。
「いったいお前の主はどこにいるの?」
「ちゃー……」
聞きたいのはお前のほうよね。それはそうか。
「会いたい?」
「ぴかぴ……」
何をか言わんや。
涙を浮かべて、見るからにしょぼくれてしまう。
それは会いたいよね。
どうすれば返してやれるだろう。
とは言っても、答えは結構簡単だと気がついた。
スキマ妖怪をとっちめて無理やり結界を開かせればそれで解決。至ってシンプルだと思う。下っ端天狗にはずいぶん難解なシンプルだとも思うけど。文さまの手を借りるというのも、それはそれで癪なんだよな。間違いなくあとからいじってくるし。
にしても、藍の言っていたことは半分も理解できなかったけど、早い話が、結局また紫が余計なことをしたわけで。
はたてさんの予感的中。八雲紫総黒幕説もあながち冗談で済まないのかも。
境界をいじって起きたことなら、もうまるっきり異変じゃないか。巫女が出てきて調伏なんてされないよね。文さまにどう報告したものやら。
そんな「幻想郷の事情」に私が呆れているときも、ピカチュウなる珍客はしょげている。
ものすごく哀しそうなネズミ妖怪をどう慰めていいものか、私は思考を巡らした。
答えがすぐさまころころと転がりでてきた。
「肩、乗っていいよ」
姿勢を下げて、ネズミ妖怪が登りやすいようにしてやる。
こちらに慣れてからというもの、こやつはなぜか何度も私の肩によじ登ろうとしてきたのだ。くすぐったいし重いしで、すぐに下ろしていたのだけど。
耳を垂らして目尻に水滴を浮かべながら、それでもネズミ妖怪はそろそろと私の背中に登ってきた。
「およ? っとと、わわっ」
肩に乗っけてやるつもりだったのに、ネズミ妖怪は頭までよじ登ると、私の後頭部に器用にへばりついて溜飲を下げたらしい。
そこがこやつの定位置なのか、しゃくりあげながらも何か落ち着いた様子でいる。
大正解。私は密かにほくそ笑む。
が、これが結構重い。頭におもしでも巻いているようでふらふらになりそうだ。
こやつの主は重くないのだろうか。私は苦笑する。
私の頭に生えた耳がそんなに面白いのか、興味深げにツンツン触っているのでくすぐったい。
そこへ、
「ぴかぴ……?」
ふと動きを止めたネズミ妖怪は、何かを問いかけるように虚空へ鳴いた。
そこには鬱蒼と茂った木々しかないのだが。
私の《眼》には何も《視え》なかったけれど、それでもネズミ妖怪は私の頭上でわちゃわちゃと落ち着きが無い。
とうとう跳躍して綺麗に地上へ着地したネズミ妖怪は、ぴかぴ、ぴかぴと何度も鳴きはじめた。まるで何者かの呼びかけに応えるように――
昨晩から幾度と無く聞いたこの鳴き声、なぜか私には主の名前ではないかという気がした。
理由はない。直感で、そう思った。
私はぼんやりと、どうやらお別れの時が来たらしいことを理解した。
「ぴかぴ!」
虚空へ向かって嬉しそうに呼びかける、その姿のなんと生気に満ち溢れていることか。
ネズミ妖怪が木々に向かって駆けてゆく。
そう、これでいいのだ。見知らぬ土地でひとり孤独にするよりは、仲間のもとへ、主のもとへ帰してやったほうがいい――
一度だけ振り返り、私におじぎをしたらしいピカチュウは「ぴぴか」と一声鳴くと、寝かせた耳をピンと立て一目散に茂みへ飛び込み、そのまま二度と森の中から現れなかった。
最後に名前を呼んでくれたのかもしれない。
†
家の戸を開けると、ここのところ毎日見かけた彼女のスニーカーがなかった。
「ただいま帰り――あれ、はたてさん帰ったんですか?」
文さまが作業部屋から顔を出す。
「おかえり。うん、なんかもう、帰って来ない気がするって」
まさか私のことではあるまい。
三天狗の中でネズミ妖怪を一番観察していたのは、はたてさんだ。彼女なりに昨日今日の彼奴の挙動には思うところがあった、というところだろうか。
だからかしら、私のそばに朝連れ立って行ったネズミ妖怪の姿がないことを見ても、文さまはさして驚かなかった。
「飼い主、見つかった?」
それだけ聞く我が主に「たぶん――」と返すと、文さまは、
「良かったね」と言って微笑むのだ。
そんな落ち着いた様子が私はなんとも不思議に思えて、
「あまり悲しまないんですね」
「そりゃあ、寂しいですけどね! あんなラブリーなマスコット、一家に一匹欲しいもの」
やっぱり悔しいんじゃないか。私は苦笑する。
しかし、「だけど――」と続けた文さまの笑顔も柔らかかった。
「だけど、こんな物の怪だらけの異界にひとり取り残されるのも寂しいじゃない。仲間のもとへ届けてあげたほうがあの子にとってもいいのかな、って。だから椛もあの子を見送ってあげたんでしょう?」
草むらに飛び込んだあと、ネズミ妖怪の気配は奥に進んだあたりでふつりと消えてしまっていた。千里眼でも視えなかったあたり、恐らく空間を跳躍して別の次元に転移したのだろう。結界を越えたのかもしれない。
あるいは見かねたスキマ妖怪がここいらで要らぬお節介をかけてきたか。どうもこれが正解な気がする。
どうにも振り回された三日間だったけど、あるべきところに帰結した、めでたしめでたしというところか。
私の知らないところで勝手に頭上を飛び越えて話が終わったのだ。本来怒るべきところなのかもしれないけど、それ以上に達成感が私の内を占めていた。
「数日間にわたる未知との遭遇、文さまはいかがでした?」
「充分堪能させていただきました。これなら記事も十分書けるわ」
文さまもご満悦で言うことなし。
ここ最近で一番の晴れがましさと同時に、お腹の虫がシュプレヒコールを上げた。
「ほら、お腹すいたでしょう。あんまり遅いんで、私がご飯作っちゃった。明日の当番交代ね」
いたずらっぽく膨れて見せる我が主について、私も自宅に上がる。
ふと外を見れば、いよいよ沈もうかという西陽が空を猛烈に焦がし、今日一日の終わりを告げていた。
――また明日、同じような光景が見られるのかもしれない。
明日にはまた新しい日々が待っているし、私が宮仕えする一方で、文さまも記事を書くのに違いない。
きっと明日も幻想郷には私たちの知らない太陽が昇り、知らない日々が待っているのだ。
こうして私たちの楽園は続いていく。
続くったら、続く。
「森で迷子になったらしくてね、ちょっかい出した妖精を返り討ちにしてたのよ。このままだと要らぬ恨みを買いそうだったから、保護してきちゃった」
そう言う文さまの腕の中で実に気難しげな表情を浮かべている生き物に触ろうと、私は不用意にも手を伸ばす。するとすかさず、物体Xは赤く丸い頬袋のようなものから静電気を発して、こちらを威嚇してきた。
「わっ」
「あぁ、椛は手を出さないほうがいいかもよ。なんかこの子だいぶ気が立ってるみたいだから」
本当にまんまるのつぶらな瞳を持った謎の物体Xは、眉間に皺を寄せ、お世辞にも友好的とは言い難い容貌で睨みつけてきた。
それでいて文さまの腕にはしっかりしがみついているのだから現金なものだ。今にも噛みつかれそうな手を引っ込めて、私はため息ひとつ。
なんなのよ、一体。
玄関先でにっちもさっちもいかない未確認生物と白狼天狗がにらみ合い。端から見たらものすごく笑える構図だと思う。
「返り討ち、って言いました?」
「そう、返り討ち」
「一体何をしたんです」
「黒焦げにしたのよ。妖精を」
八卦炉でもあるまいし。
「――火でも吹いたんですか」
「椛も見たでしょ。この子電撃出せるの。それで、バリバリバリ! って」
そう言いながら文さまが肩をすくめると珍生物は窮屈そうに顔を歪めた。私はどうも腑に落ちなくてびしりと指差し、
「これ妖怪ですか」
「さぁねー。日本語が通じなくて困ってるのよ」
ずいぶんと面倒なことだ。
文さまがサジを投げて、私も眉をしかめる。言葉がわかるなら、もっとこうどうにかなりそうなものなのに。
でも、文さまにだけ危害を加えないのはどういうわけだろう。
「そりゃあもう、清く正しく射命丸ですからね。私の徳の為せる業に決まってるじゃない」
「――左様でございますか」
「どうだ」と言わんばかりの我が主の笑みから視線を移して、私は再び珍生物の方を見遣る。
どうも山では見ない顔だ。
新入りの妖怪だろうか。黄色と黒のツートンなんて聞いたことないけれど。
真っ黄色の身体は耳や尻尾の先が黒くなっていて、どぎつい警戒色の中でちょっとしたアクセントになっている。今はしかめっ面をしているけれど、つぶらな瞳とちょこんとした鼻は愛らしいと称して差し支えないだろう。
でも文さまの話によれば、こんな一尺三寸のチビ妖怪が、妖精を丸焼きにする火力を持っているんだとか。本当だろうか。ちょっとにわかには信じられない。
私は家に上がることすらままならない文さまそっちのけで、チビ妖怪の正体についてああでもないこうでもないと思考の泥沼をかき回す。
そこへ、主人を迎えに出た家人を待ちわびたか、奥から客人が顔を出してきた。
「ちょっとー、ふたりとも素麺伸びちゃうじゃん」
「あら、はたても来てたんだ」
「情報交換よ、情報交換――って何それ」
お腹を空かせた仏頂面で居間からすたすた現れて、はたてさんは文さまの腕の中に目を留めた。
「森で拾ったの。正体不明の珍生物くん」
「拾ったぁ? さらってきたの間違いじゃなくて?」
ずいぶんなご挨拶だと思う。
「まぁいいや。ね、キミどこから来たの」
ついさっきまで空腹で暴れていた腹ペコもどこへやら、早速チビ妖怪興味を持ったらしいはたてさんは、腰を落として文さまの胸元に視線を合わせる。
「なーんか、警戒しまくっちゃってて。打ち解けてくれないんですよ」と私。
相手を引っかこうとしているのか、懸命に腕を伸ばすチビ妖怪。それに合わせるように、はたてさんは手を出したり引っ込めたりとじゃれている。
はたてさんはチビ妖怪から視線を離さず、
「あんたたちが余計な警戒心持たせるからでしょうが。ほら、おいで。こんな怖い天狗たちなんか放っといて、お姉さんとお話しましょうね」
そう言うが早いか、はたてさんは文さまからひったくるようにチビ妖怪を抱き取ると、それこそあっという間に居間に戻っていく。ここはあんたの家か。
それを見送って、ようやく両手が自由になった我が主は靴を脱ぎながら一言。
「何だか嬉しそう」
「勝手に持って行っちゃったけど、大丈夫かな。丸焼きにされないかな」
「大丈夫じゃないの、ああ見えてあの娘、小動物の扱い心得てるし」
そう言って下駄箱を閉めた文さまは大儀そうに玄関先へ座り込んでしまう。私は腰に両手を当てて、
「それはそうと、遅いですよ。今日は午前上がりって言ってたじゃないですか。はたて姫ってば退屈遊ばしちゃって、相手するの、もう大変だったんですから」
「ごめんごめん。今日もこの炎天下で大天狗様が長話。もう倒れちゃうかと思ったわ。お昼素麺だって? お腹空いちゃった」
にへら、と笑った文さまは「よっ」と立ち上がると、お腹をさする。空腹なはずだ。今朝だって朝食も摂らずに飛び出て行ったのだから。
「はたてさんのお土産。美味しそうだったからさっそく茹でてます」
「いいね、私も頂くわ」
我が主はそう言うと、また笑った。
†
正体不明のチビ妖怪は、今度は、はたてさんの腕にがっちりホールドされて、「解せぬ」とでも言いたげな風情でお地蔵様よろしく大人しくしている。
そんな様子はお構いなしに、後ろから覆いかぶさって「ね、どこから来たの。教えてよ」なんて聞くものだから、チビ妖怪はいよいよ百面相だ。
でもたしかに、はたてさんは小動物の扱いがうまいと思う。チビ妖怪が抵抗しなくなった。単に困惑しているだけかもしれないけれど。
見れば見るほど珍百景な妖怪の触れ合いを眺めていて、私の思考にも転がりでてきたものがあった。
「そう言えば、こういう未確認生物のこと、なんて呼ぶんでしたっけ。ええと――ゆー、ゆー」
「UMA」と、はたてさん。
「そう、UMA。なんだか宝船みたいですよね。命蓮寺と一緒にふわふわ飛んできたやつ」
「それを言うならUFOでしょ、っと」
お地蔵さまに擬態するのも飽きたか、チビ妖怪は解放を迫ってもぞもぞ動き出す。
はたてさんが畳に下ろしてやると、ようやく四肢の自由を得たチビ妖怪は急に開けた世界に驚き、周囲を伺いながら鼻を鳴らして一言。
「ぴかちゅう」
「だってさ、椛わかる?」と、これははたてさん。
こっちに振られてもなぁ。
聞いたこともないような鳴き声をされたところで、反応に困る。
一方、自由の身となったチビ妖怪は、いよいよ脱兎のごとく逃走――するわけでもなく、室内をぴょんぴょん駆け回っては、何が珍しいのか、こけしを見つめたりなんかして好奇心を存分に発揮しているらしい。
まったく、警戒心が強いんだか人懐こいんだか。
「もぉみじぃー! めんつゆ用意してー!」
私からお昼の用意を引き継いだ文さまがお勝手で叫んでいた。昼食ができたらしい。
食卓を見る。
写真だのスクラップだのと、新聞の校正作業をしていたのだと分かる光景の横に、湯のみ、雑誌、目覚し時計、写真機、手帖がごっちゃりと鎮座ましましていた。どう贔屓目に見ても食事のできる環境ではない。
どれもこれも、帰りの遅い主を待ちわびて退屈を持て余したはたて姫の所業だ。
手当り次第にとっ散らかった食卓を急いで片しながら、私も食器棚から人数分の茶碗を出してくる。
「わ、すごいすごい」
突然興奮するはたてさんのほうを見れば、チビ妖怪が小さい手足を必死にジタバタと動かして何やら訴えている。
「この子さ、実は言葉がわかるんじゃないの? ね、もう一回教えて。キミは何処から来たの」
ジタバタジタバタ。
「何か、わかりました?」
白狼天狗には道楽の総決算にしか見えない写真機とやらを慎重に、居間の隅まで運びながら、私もはたてさんに問いかける。
「ダメね、ぜーんぜん。もー何言ってるのかさっぱりだわ。身振り手振りで何か訴えようとしてるんだけどねー」
はたてさんは私のほうに視線を向けて、つまらなそうに肩をすくめてみせる。
きゃっきゃと喜んでるから、さぞかし良い情報が手に入ったのかと思ったけど、そんなうまい話があったら苦労はしないか。
チビ妖怪はといえば、主張の伝わらなかったことがそんなに残念だったのか、耳を垂らしてしょげているらしい。
そこへ素麺の乗ったざるを持った文さまがお勝手から現れて、散らかった食卓の惨状に頬をふくらませる。間に合わなかった。
「ほら、食べるって言ったじゃない! 椛、食卓の上の全部下ろして、アルバムに飛ぶ! はたても遊んでないで手伝ってよ」
「はいはいはいはい」
「ああもう、うるさいな、アタシはこの子に独占取材敢行してるのに」
ご機嫌ナナメになった主の文句を右から左へと聞き流し、私はいよいよ適当に食卓の用意を済ませていく。はたてさんもチビ妖怪への聞き取り調査を打ち切り、渋々手伝ってくれた。
あれよあれよという間に、食卓へ素麺と山菜の天ぷらが並び、昼餉の用意は整った。
一同、合掌して唱和。いただきます。
「夏と言えばコレ、ですよねぇ」
「茹でればまだあるから、言ってね」
「どうよ、アタシのオススメ。やっぱ《案山子念報》の情報収集力は幻想郷一でしょうが」
「はいはい、毎度リークどうも」
茹で上がった素麺は冷たい流水でしっかり洗い、ぬめりを取るのがコツだ。これをやらないと麺が引き締まらず、味がボケてしまう。
はたて姫御用達らしい素麺はコシもしっかりしていて美味だった。
私が山中で採ってきた山菜と合わせ、これぞ夏の味覚という感じ。やっぱり夏はこうじゃないと。
さて、チビ妖怪はというと、抵抗しても無駄だと観念したのか、可愛らしい見かけによらず神経が太いのか、やはり逃げないでじっと食卓を見ている。
お前は一体どうしたいの。
鴉天狗双方も気が付いて今さらお互いに顔を見合わせる。さて、この子をどうしよう。
「――素麺食べるかな」と私。
「食べるんじゃないの。口に合わなきゃ残すでしょう」と文さま。
「アレルギーとか大丈夫かな、って」
「大丈夫なんじゃない。麦の塊なんだし、麺つゆだってヤバいもんじゃないっしょ」と、これははたてさん。
「あなた狼なんだから分からないの」
文さま、狼にこんな知り合いいませんよ。
ぶつ切りにした素麺を皿にのせ麺つゆをぶっかけて出してやると、チビ妖怪は器用に啜って食べだした。
そんなチビ妖怪の姿がなんだか可笑しくて、私は頭を撫でてやろうと手を伸ばす。
すると途端に、こいつは思いっきり後ろに飛びのくのだ。毛まで逆立てて威嚇してくる。
その姿に私はちょっぴりだけ、ほんのちょっぴりだけ傷つく。ずいぶん嫌われたものだと思う。
食事の邪魔だったね。ごめんってば。
「私、憎まれるようなことしたかな」
自分のセリフがとても悲しい。
「椛って怖いからじゃないの」とはたてさん。
「そんな怖い顔してます?」
「ほらほら、あんまり椛虐めると根に持っちゃうわよ。椛もお年ごろなんだから」と文さま。
「ちょーウケるー」
もう、ふたりして馬鹿にして。
勝手にカラカラ笑っている鴉天狗たちなんか放っておいて、私はそっとチビ妖怪の観察に戻る。今度は不用意に手を出したりなんてしない。
お腹を空かせていたのか、チビ妖怪は私のことなんてそっちのけで素麺にがっついてる。そんなに急いで食べたら喉に詰まらせるよ。あ、ほら、言ってるそばから。
急に立ち上がって目を白黒させるチビ妖怪。私もあわてて湯のみを渡してやる。
皿のほうが良かったかと思ったけど、両手で捧げ持って器用に水を飲み干していく。結構かしこい。
「美少女に囲まれて幸せねこの子も」と文さま。
「自分からよく言うわ」とはたてさん。
尻餅をついてへたりこむチビ妖怪を見ながら私も心のなかで同意する。
それにしても、本当に一体どこから来たんだろう。
「それが分かったら苦労しないわよ」と文さま。
さもありなん。
「文は森で拾ったんでしょ? 神隠しじゃないの。ほら、例のスキマの――」とはたてさん。
えー、またですかー。
何かあったら全部スキマのせいにするのも、それはそれで適当すぎる気もする。
途端に面倒くさくなって、私は盛大に適当を打ち上げる。
「どことなくネズミに似ているし、命蓮寺の妖怪ネズミのご同輩なんじゃないですか」
それを聞いて、しっかり五秒間虚空を見つめた文さまは、
「――ねぇ椛、たしか今日の集金って」
「私が当番ですけど――」
「そう、その通りよ犬走特派員」
ものすごく嫌な予感がする。
「次の《文々。新聞》のトップニュースはこの子で決まりよ! この正体不明の未確認生物くんについて聞き取りしてきなさい。何か手がかりが見つかるまで、家には帰って来ないこと!」
「えぇーっ!」
†
「で、私のところに来たわけだ」
ぶーたれている私に向かって、ナズーリンは「あんたも大変だね」と笑う。
まったくだ、と思う。とんだヤブヘビだ。
とは言え、いつまで不機嫌になっていたって始まらない。私は背後に隠れている件のチビ妖怪を見せて、
「どう、ご存じない?」
妖怪ネズミは見かけないチビに目を丸くして、
「どうもこうも、これがはじめてのご対面だよ」
当てが外れたな、と思う。
「やれやれ、君は一体何処からやってきたんだい」
「ぴ?」
「ちゅー」
「ぴっかぴ!」
「ちゅーちゅー」
「ぴぴっかーちゅぴかちゅう」
「ちっちっちゅう」
「言葉がわかるの?」
「いやもう全っ然」
「――」
「さてさて、君と遊ぶのはやぶさかではないんだけれどね、私は御主人の落し物をダウジングしなきゃいけないんだ。この狼を邪魔せず、しっかり言うことを聞くんだよ盟友」
そう言って、ナズーリンはネズミらしいチビ妖怪の頭を名残惜しそうに撫でると、いつもどおり、おっちょこちょいな主の落し物をふわふわ探しに夏の夕焼け空へ飛び立っていった。
そんな妖怪ネズミを、どうやらネズミらしいチビ妖怪は、出会ってはじめて見せる笑顔らしき表情で手をちょこちょこ振って見送っている。
結局、この日得られた収穫は皆無だった。
†
で、チビ妖怪。
もとい、チビ妖怪からネズミ妖怪にランクアップ。
結局のところ正体不明には変わりないのだけど。
その正体不明のネズミ妖怪は、今は満面の笑みを浮かべてリンゴをしゃりしゃりやっている。
日もとっぷりと暮れて帰宅した折、手ぶらで戻ってきた私を文さまは白い目で出迎えたけどかまうもんか。見つからないものは逆立ちしたって見つかりっこないのだから。
そもそも、何の手がかりもないのにあちこちをローラー作戦でシラミ潰しなんて無茶苦茶だ。暑さでひっくり返ったら文さまのせいですからね。
ふてくされているこちらに気がついているのかいないのか、文さまはチビ妖怪の頭を撫でたりリンゴを持ってきてやったりして、
「ねぇ椛、やっぱり可愛いよこの子。ウチに置いてあげようよ~」
あのね、捨て猫じゃないんですから。
私はぴしゃりと、
「ダメです」
――文さま、そんな泣きそうな顔したってダメですよ。
ネズミ妖怪も文さまを見たり、私を見たりと様子をうかがっているらしい。お前までそんな顔をしたら、まるで私が悪いみたいじゃないか。
そこへ、頼んでもいないのに夕飯までお呼ばれされたつもりになっているはたてさんが、
「って言ったって、このまま追い出すわけにはいかないんじゃないのさ」
それはそうですけど、
「だったら、はたてさんが連れて帰ればいいじゃないですか」
はたてさんは顔全体で笑顔になって、
「いいの? そんなこと言ったらアタシ本当にもらっちゃうよ!」
「ダメ!」
すかさずガタッと立ち上がって文さま。なんでそこであなたが決めるんですか。
とはいえ、たしかにこのままこやつを放り出すというのも寝覚めが悪い。
まさか、「すぐに荷物をまとめて出て行け!」なんて言えるわけないし。言えないけど――
「仕方ないなぁ。こやつの主が見つかるまで、です」
これがぎりぎりの譲歩。
文さまとはたてさんは、喜色満面になった。
ふたりとも、こやつが正体不明なんだってこと、忘れてないですよね。
私は知りませんからね。
夜中に背中がぱっくり割れて、中から触手ビュルビュル粘液グチョグチョの化け物が出てきても知りませんからね。寝込みを襲われて哀しいことになっても知りませんからね。自分の純潔は自分で守ってくださいね。
そうは言うものの、このネズミ妖怪、天真爛漫な笑顔を見ていると、どうも人畜無害であることだけはたしかなように思える。これが演技だとしたら大した役者だ。
もし本当にこの愛くるしさがこちらを油断させるための罠で、スキを狙って獲物を狙った「中身」が出てくるとすれば、その場でたたっ斬られても文句は言えまい。
多少こじつけ地味ているけれど、うちで預かることで防疫隔離にもなるハズ。なんにせよ、戦略哨戒にはなるか。様子を見よう。
「よし、できた!」
何やらずっとガリ版と格闘していた文さまが快哉を叫ぶ。
さっきから何を作ってたんですか。
「この子の手配チラシ。もしかしたらどこかに主がいるかもしれないでしょう?」
なるほど、迷い猫ならぬ迷い鼠というわけ。でも、そう簡単に見つかるものかな。
「見つからなければうちに置いていいんでしょ? ま、ともかく形だけでも探してみないことにはね」
ぐ、外堀から埋めてきたか。私はなんとも複雑な気持ちになる。
卓に顔を寝かせてネズミ妖怪を観察していたはたてさんが、
「それより、この子の名前どうするの。私たちで預かるのに呼び名がないというのも具合が悪い」
文さまは今度もしっかり五秒間虚空を見つめて、
「――鳴き声がぴかちゅうなんだから、ピカチュウっていうのは?」
「いくらなんだって、それはちょっと雑すぎでしょう」
「そうかなぁ」
「ちゅう!」
「ほらー、気に入ってくれてるじゃない」
「ともかく、名前の話はこやつの正体がわかってからです」
「椛のいけずー」
そう言って文さまがむくれるそばで、ネズミ妖怪はカゴに盛られたリンゴのひとつを手に取って、こちらに差し出してみせる。
「ぴかぴか」
あげる、ということだろうか。
「え、くれるの?」
ネズミ妖怪は、食え食え、としきりに勧めているつもりらしい。
私は少し面食らいながらも差し出されるがままに受け取って、
「あ、ありがと」
「ちゅう!」
――私にも懐いてくれたのかな。
そんな私の葛藤なんていざ知らず、ネズミ妖怪はふたたび自分のリンゴにかかりっきりになった。
それを見て、私も服の裾でぬぐった赤い果実を口に含む。
リンゴは爽やかな甘酸っぱさに満ちていた。
†
翌日。
決して疑問がないわけではないのだ。
ことあるごとに言っている気もするけど、そも、私は白狼の哨戒天狗であって、決して、決して鴉の報道天狗ではない。
新聞なんて門外漢もいいところ、文さまやはたてさんに付き合う義理は金輪際ないはずなのだけど。
なのに――なのに何故か、今日も私はネズミ妖怪をお供に取材の真似事をやるハメになっているのだ。解せぬ。
せっかくのお休みなのだから自由に時間を使えばいいのに、何が悲しくて私は幻想郷をさまよっているのだろう。
ほんと、私も相当な物好きよね。
「ぴ?」
お前のことじゃないよ。
「ちゅう!」
何が嬉しいのか、ネズミ妖怪はにっこり笑って手を振っている。振り返したほうがいいのかな。
ま、それはいいんだけど――
いま、ネズミ妖怪は竜宮の使いに抱きかかえられてご満悦だ。コイツ女相手だとほんと見境ないな。性別は絶対にオスだと思う。
「ごめんなさい。天界でもこんな可愛らしい生き物は見かけたことがないので」
なぜか永江衣玖はすまなそうな口調で、言い訳みたいなことを言う。
私そんな怖そうな顔してますでしょうか。
天女と天狗というのも珍妙な取り合わせだと思う。家から出て幾ばくも行かないところで、ふわふわ飛んでいるところにばったりと出会ったのだ。
天界の住人のはずが、最近はよくこちらでも見かけるようになった気がする。ひょっとして暇なのかな。
「聞こえてるわ。空気に出てる」
これは失礼。にしても、竜宮の使いが山なんぞにほんと何の用だろう。
「総領娘様の御命令で、地上で面白そうなことがあれば見つけてこい、と。暇だから、と」
天女はそう言うと、ため息ひとつ。そういえば、ここも上司が問題児だったっけ。
人使いが荒いのは鴉天狗に限ったことではないらしい。
山にはせいぜい河童のビックリドッキリメカと暇を持て余したゴシップ好きの天狗しかいませんよ。何かイベントをお探しなら麓の神社にでも向かわれたらいかがです。
竜宮の使いもそのつもりだったらしく、今から桃を手土産に博麗神社へ向かうところだという。
「異変解決が生業の人間の元へ、物の怪が自分から向かうのも妙な話だけれど」と天女。
問題ありませんよ。麓の神社は人間ではなく妖怪の溜まり場ですから。増え始めの参拝客がまた減りそうだと密かに私は思う。
それにしても、地上で面白そうなこと、だって?
ということは取り返したほうがいいのかな、ネズミ妖怪。
ヘンに気に入られて連れ帰られて、あのマゾのくせにサドを気取る天人の玩具にでもされたらたまらない。
「あげませんよこの子は」
「分かってます」
で、やはり知らないのね。この正体不明な謎の物体Xにして、未確認生物のチビなネズミ妖怪。
「ええ。さっきも言ったとおり、天界ではとんと見かけない」
「電気つながりでも?」
「電気つながりでも」
ため息もうひとつ。
またひとつ線が切れた。こうなれば出たとこ勝負の当てずっぽうしかないのかも。
「仕方ない。天気つながりで式神の式神のところにでも行ってみるかな」
「式神の式神?」
不思議そうに首をかしげる竜宮の使いに私は笑って、
「ご存知ないですか。猫が顔を洗うと雨が降る、って」
†
廃屋の軒下で、橙はネズミ妖怪を見るなり困ったように声を上げた。
「こんなまっ黄っ黄の知り合いなんていないよ」
「あなたの主だって黄色いじゃないか」
「藍様は違うの。藍様はフサフサのモフモフでしょう?」
たしかにフサフサのモフモフではあるけれど。
「ネズミには猫だと思ったんだけどなぁ」
「ヂュ!」
「なんかものすごく威嚇してるし」
「生前、鼠にすごく恨まれるようなことでもしたんじゃないの」
「猫叉は死んだりしません。私は今も昔も敬虔な家猫なんだから」
「むかし、家鼠を喰い殺したりとか」
私がそう言うと、猫又は腕の引っ掻き傷をまくって見せて、
「野良猫一匹手懐けられないのに?」
「野良猫一匹手懐けられないのに。まぁなんだ、たしかにこいつは猫の一匹や二匹、軽く返り討ちにしそうな面構えではあるかな」
「でしょう?」と橙。
「なら、どう? ためしに一戦交えてみるというのは」
「スペカも通じないような相手とサシの決闘なんてごめんだよ。こいつ、妖精を丸焼きにしたんでしょ?」
どうやらネズミ妖怪の武勇伝がもう知れ渡っていたらしい。
これは早いところ、こやつの手がかりを見つけてやらないことには。黒焦げにされたことを逆恨みして、妖精たちが報復のときをうかがっていないとも限らない。
アホの子がいくら束になったところで恐るるに足ることはないけれど、託児所でもあるまいし、これ以上の面倒は御免被りたい。
腰に手を当てガハハと笑う氷精のイメージを思考から追い出して、私は未だに橙相手に毛を逆立てているネズミ妖怪を抱き上げる。
思い余って飛びかかろうとしていたのか、抱きかかえられたネズミ妖怪はたたらを踏んだ。ダメだよ喧嘩しちゃ。
それを見て安心したらしく、息をついた自称敬虔な猫又殿は、勝手気ままに集まる野良猫相手に涙ぐましい餌付けを再開した。
†
夜。
この日も私(とネズミ妖怪)は何の手がかりも得られず帰宅した。
なのに、手ぶらで帰宅した私たちを、鴉天狗二羽は見たこともないようなご満悦の表情で出迎えるのだ。
昨日の文さまの冷めた態度がウソみたい。
預かっていいとなった途端にこれだもの。現金にもほどがあるよね。
ネズミ妖怪のほうも、自称美少女なふたりに挟まれてまんざらでもないらしく、愛嬌を振りまいている。
ほんと、マスコットなんてよく言ったものだと思う。
こういうのを何て言うのだったか。両手に華、だっけ。
「ピカチュウこっちおいでー」
「ピカチュウ、リンゴだよー」
もう「ピカチュウ」でいい気がしてきた。
「アンヨは上手」よろしく二手からネズミ妖怪を呼ぶふたり。
ネズミ妖怪は左に右にと、どちらへ行ったものか迷っている様子だったが、結局物で釣った文さまのほうへ駆けていく。
「あらら、文のほうがいいのか。傷つくなぁ」
はたてさんは全然傷ついてなさそうな口調で、リンゴをかじるネズミ妖怪をなでている。
なんだかんだでものすごく仲いいよね、このふたり。
どうでもいいけど、飼うつもりならこやつの食費のこととかちゃんと考えてくださいね、おふたりさん。
夕食後、一番風呂をいただいた私が居間に戻ってもまだ、ふたりはネズミ妖怪とじゃれていた。本当によくもまぁ飽きないものだと思う。かまってもらえるネズミ妖怪が私にはちょっとだけうらやましい。
夜更けになって、はたてさんは後ろ髪を引かれるような表情を浮かべながら、ようよう家路についた。
これでようやく私も寝床に還れる。
「まだ遊び足りない」だのと四の五の言っている文さまを急かして、布団を敷き眠りにつく。明日は私もお仕事があるのだ。おやすみなさい。
――途中、夜中に目が覚めた。
月の光が差し込む幻想的で静かな夜。
聴こえるのは虫の音と、そばで横臥するおてんばな我が主の寝息だけ。
静かな寝室に衣擦れの音がやけに響いて聴こえる気がした。
ネズミ妖怪はどうしているだろう。
――はたてさんがこしらえた即席の寝床に姿がなかった。
私が慌てて目線で周囲を探ると、ネズミ妖怪は蚊帳の外へと這い出して、開け放した縁側から夜空を見つめているらしい。
それを捉えて私は緊張する。
――まさか本当にメタモルフォーゼ。
ないない。
一瞬でも思った自分が恥ずかしい。私は自分の妄想に苦笑する。ヘンな本の読みすぎだよ。
と、
「ぴかぴ――」
ふとチビ妖怪が発した寂しそうな声に、私は冷や水を浴びせられたような気分を味わう。
昼間の天真爛漫さとは打って変わった、心細そうな声。
そう、この妖怪は今もって正体不明なのだ。
こやつにも家族がいるのだろうか。父は、母は、兄弟は――主は。
満点の星空を見上げるネズミ妖怪は、嘘みたいな満月にいったい何を想うのだろう。
その背中が泣いているように視えて、私は少しだけそれが気になった。
†
悪魔の棲む館。紅魔館。
湖のほとりに立つ血のように紅い洋館は、幻想的でも不気味でもある姿を、今日も陽炎のように薄霧の中へ浮き立たせていた。
文さまのお使いでもなければ、こんなところは一生縁がなかったと思う。こればかりは功罪がよくわからないな。
シエスタと洒落こむ門番を、今日もメイドが血祭りに上げようとしているところへ出くわした。
私と眼があってメイドが刃を封じられたところで、ちょうど門番が午睡から目を覚ます。瞬時に状況を理解したらしい門番は、あれこれと理由をつけて羽が生えたように逃げていった。
門番の意味ないじゃない。
なぜかものすごく残念そうにナイフを収めて――私にはそれが手品のように視えた――それからこちらに振り返ったメイドは、このときはじめて私を見つけたかのように驚いてみせる。
「ワンコじゃない」
「狼です」
いや、さっき目が合いましたよね。
「お山の天狗様がこのような場所へ如何用かしら。何分この通り門番が不在なもので、お客様には不自由をお掛けして当屋敷の管理者として恐縮ですわ」
取り繕っているつもりなら結構ですよ。門番さんのシエスタ有名ですし。
「――ウチの威信が崩れてきている要因って、主にあの娘のせいじゃないかと思うの」
「下の者は上に倣うと聞きますし、他にも理由がおありなのでは? 我が主がよくするのですが、ぎゃおーたーべちゃうぞー、ってたしか」
「今日は狼のポトフにしようかしら」
スイマセンデシタ。
「そんなことより中へ入れてくださいよ。こちらのお嬢様に伺いたいことがあるのです」
ね、十六夜咲夜さん。同じ犬のよしみで。
「何か言った?」
「いえ、何も」
「モケーレムベンベの話はもういいのよ。それより、ずいぶんと板についた記者ぶりじゃない。嫌よ嫌よも好きのうち、というところかしら」
「――そうですか?」
「あら、貴女あのパパラッチの舎弟でしょう」
私はやり返されて黙りこむ。なんでこっちの事情まで知ってるんだ。この女中の嗅覚は犬並みだと思う。
「ええ優れていますわ。何せ、お嬢様の「犬」なもので」
スイマセンデシタ。
「それより貴女が聞きたいのは、そこで隠れているおチビさんのことだと思うのだけれど」
ええ、そのとおりですが。
「――よしたほうがいいのではなくて? 何か相当怯えているようだけれど」
ふと足元を見ると、ネズミ妖怪は何が怖いのか、私の袴をつかんでぶるぶる震えている。
なるほど、はじめて見る者にはこの洋館の重圧は重荷かもしれない。もっとも今の場合、このメイドの放つプレッシャーに気圧されているだけかもしれないけど。
ともあれ、この怖がり方ではネズミ妖怪もこの洋館とは縁が無さそうだし、出直すことにしよう。
メイドに礼を言って悪魔の棲むらしい館を辞す。
さて、どうしたものだろう。
†
こうして、私たちがいよいよのっぴきならない状況へ追い込まれたところで、救いの手を差し伸べるものが現れた。
ヤケクソ気味の太陽がぶちまける猛烈な日差しと、一向に見つからない手がかりのせいで困憊したひとりと一匹。
打つ手なしで木陰に座り込んでいるところへ、人里へ買い出し風情の八雲藍は差し入れとばかりに水筒を寄越して笑う。
その九本の尻尾が本当にフカフカに見えて、こればかりは手入れに自信のある私でも敵わないと思う。
「やぁ、昨日はうちの橙が世話になったみたいだね」
「野良猫相手にずいぶんと難渋しているようでしたけれど」
「あれも屋内での暮らしが長いからね。野生には敵わないというところかな。私も少し甘やかしすぎたかもしれない」
自覚はあるのか。
「何か?」
「いえ、何も」
ひと通り事情を説明して、何でもいいから知っていることはないかと聞いてみる。
もう三日も駆けずり回っているのに何の手がかりもないんですよ。おかげで私は宮仕えが手につかないし。何とかなりません?
九尾の狐はしっかり五秒間、あれこれと考えを巡らせてから一言。
「知らないなぁ」
がっくし。
藍は苦笑いしてから、彼女の主に会ってみればいいと言う。
「紫様は賢明なお方だ。何か存じていることもあろう。天狗に知恵をお貸しすることくらい、やぶさかではないが」
ゆかゆかゆかりん。なるべく避けたかったんだけどな。
「八雲様はどうにも苦手ですから。何せ私はただの下っ端天狗ですので」
「紫様はそういう卑屈な考え方を嫌う。お前もあの新聞記者の従僕なら覚えておいたほうがいい」
「――心得ましょう」
「まぁともあれ、フムン、たしかに見かけない妖怪だが――あぁ、なるほど」
「何かご存知なんですか」
「いや、こちらの話」
余計な一言を口走ったと気がついたのか、妖狐は慌てて誤魔化しに入る。
いま絶対何かを思い出しましたよね。この蜘蛛の糸、ゆめゆめ放してなるものか。
文さま、ちょっとキャラを借ります。
「記者相手に隠し立てはあまり賢明な判断とは思えませんが――」
「――どういう意味かな」
「例えばの話ですよ。我々の山には心のない新聞記者だっているかもわからないんです。どこかの猫又が主人とあられもない痴態についてあることないこと――」
「四日前、紫様が気まぐれで外遊に出たとき何の拍子か世界線を断ち切る境界がいくつか繋がってしまったようでそのひとつから現住生物の一匹が漏れてしまったらしく紫様も血眼になって探していたようだが誰かに拾われたのかとんと見つからなくて――それ以上のことは私も知らない」
「ありがとうございます」
「お前も立派なパパラッチじゃないか。このペテン師め」
「新聞記者の従僕ですから」
なぜか突然饒舌になった妖狐はひと通り喋ってから怒りだした。
――嘘つき。
半分本気で怒っているらしい九尾の狐に心のなかで何度も詫びる。
身内の不手際で、おそらく秘密の部類に入るであろう恥を晒すよう強いられたのだ。
怒るのも無理はない。
しかし、「お前も」ということは、文さまはこういう脅迫を日常的にしているのかな。我が主ながらやることがえげつない。
ごめんなさい、ごめんなさい。私のせいじゃないんです。悪いのは文さまなんです。私は清く正しい白狼天狗なんです。
――嘘つけ。
お詫びというか礼というか、文さま特製の式神ブロマイドとっておきを渡すと確約して、ようやく妖狐は首肯した。
これくらいの権限は特派員にも与えられていいよね。
†
とりあえず、線はつながった。あとはどう裏を付けて核心へ持っていくか、かな。
「やっぱりお前は外の妖怪だったんだね」
ずっと喉につっかえていた魚の小骨がすっと取れたような、そんな晴れがましい気分。山道を登り、嘘みたいに蒼と紅のグラデーションに染まった夕焼け空を見上げて私は笑う。
でも、今日は一日中元気が無い様子だったネズミ妖怪は、このときも耳を垂らしてしょんぼりしていた。
「いったいお前の主はどこにいるの?」
「ちゃー……」
聞きたいのはお前のほうよね。それはそうか。
「会いたい?」
「ぴかぴ……」
何をか言わんや。
涙を浮かべて、見るからにしょぼくれてしまう。
それは会いたいよね。
どうすれば返してやれるだろう。
とは言っても、答えは結構簡単だと気がついた。
スキマ妖怪をとっちめて無理やり結界を開かせればそれで解決。至ってシンプルだと思う。下っ端天狗にはずいぶん難解なシンプルだとも思うけど。文さまの手を借りるというのも、それはそれで癪なんだよな。間違いなくあとからいじってくるし。
にしても、藍の言っていたことは半分も理解できなかったけど、早い話が、結局また紫が余計なことをしたわけで。
はたてさんの予感的中。八雲紫総黒幕説もあながち冗談で済まないのかも。
境界をいじって起きたことなら、もうまるっきり異変じゃないか。巫女が出てきて調伏なんてされないよね。文さまにどう報告したものやら。
そんな「幻想郷の事情」に私が呆れているときも、ピカチュウなる珍客はしょげている。
ものすごく哀しそうなネズミ妖怪をどう慰めていいものか、私は思考を巡らした。
答えがすぐさまころころと転がりでてきた。
「肩、乗っていいよ」
姿勢を下げて、ネズミ妖怪が登りやすいようにしてやる。
こちらに慣れてからというもの、こやつはなぜか何度も私の肩によじ登ろうとしてきたのだ。くすぐったいし重いしで、すぐに下ろしていたのだけど。
耳を垂らして目尻に水滴を浮かべながら、それでもネズミ妖怪はそろそろと私の背中に登ってきた。
「およ? っとと、わわっ」
肩に乗っけてやるつもりだったのに、ネズミ妖怪は頭までよじ登ると、私の後頭部に器用にへばりついて溜飲を下げたらしい。
そこがこやつの定位置なのか、しゃくりあげながらも何か落ち着いた様子でいる。
大正解。私は密かにほくそ笑む。
が、これが結構重い。頭におもしでも巻いているようでふらふらになりそうだ。
こやつの主は重くないのだろうか。私は苦笑する。
私の頭に生えた耳がそんなに面白いのか、興味深げにツンツン触っているのでくすぐったい。
そこへ、
「ぴかぴ……?」
ふと動きを止めたネズミ妖怪は、何かを問いかけるように虚空へ鳴いた。
そこには鬱蒼と茂った木々しかないのだが。
私の《眼》には何も《視え》なかったけれど、それでもネズミ妖怪は私の頭上でわちゃわちゃと落ち着きが無い。
とうとう跳躍して綺麗に地上へ着地したネズミ妖怪は、ぴかぴ、ぴかぴと何度も鳴きはじめた。まるで何者かの呼びかけに応えるように――
昨晩から幾度と無く聞いたこの鳴き声、なぜか私には主の名前ではないかという気がした。
理由はない。直感で、そう思った。
私はぼんやりと、どうやらお別れの時が来たらしいことを理解した。
「ぴかぴ!」
虚空へ向かって嬉しそうに呼びかける、その姿のなんと生気に満ち溢れていることか。
ネズミ妖怪が木々に向かって駆けてゆく。
そう、これでいいのだ。見知らぬ土地でひとり孤独にするよりは、仲間のもとへ、主のもとへ帰してやったほうがいい――
一度だけ振り返り、私におじぎをしたらしいピカチュウは「ぴぴか」と一声鳴くと、寝かせた耳をピンと立て一目散に茂みへ飛び込み、そのまま二度と森の中から現れなかった。
最後に名前を呼んでくれたのかもしれない。
†
家の戸を開けると、ここのところ毎日見かけた彼女のスニーカーがなかった。
「ただいま帰り――あれ、はたてさん帰ったんですか?」
文さまが作業部屋から顔を出す。
「おかえり。うん、なんかもう、帰って来ない気がするって」
まさか私のことではあるまい。
三天狗の中でネズミ妖怪を一番観察していたのは、はたてさんだ。彼女なりに昨日今日の彼奴の挙動には思うところがあった、というところだろうか。
だからかしら、私のそばに朝連れ立って行ったネズミ妖怪の姿がないことを見ても、文さまはさして驚かなかった。
「飼い主、見つかった?」
それだけ聞く我が主に「たぶん――」と返すと、文さまは、
「良かったね」と言って微笑むのだ。
そんな落ち着いた様子が私はなんとも不思議に思えて、
「あまり悲しまないんですね」
「そりゃあ、寂しいですけどね! あんなラブリーなマスコット、一家に一匹欲しいもの」
やっぱり悔しいんじゃないか。私は苦笑する。
しかし、「だけど――」と続けた文さまの笑顔も柔らかかった。
「だけど、こんな物の怪だらけの異界にひとり取り残されるのも寂しいじゃない。仲間のもとへ届けてあげたほうがあの子にとってもいいのかな、って。だから椛もあの子を見送ってあげたんでしょう?」
草むらに飛び込んだあと、ネズミ妖怪の気配は奥に進んだあたりでふつりと消えてしまっていた。千里眼でも視えなかったあたり、恐らく空間を跳躍して別の次元に転移したのだろう。結界を越えたのかもしれない。
あるいは見かねたスキマ妖怪がここいらで要らぬお節介をかけてきたか。どうもこれが正解な気がする。
どうにも振り回された三日間だったけど、あるべきところに帰結した、めでたしめでたしというところか。
私の知らないところで勝手に頭上を飛び越えて話が終わったのだ。本来怒るべきところなのかもしれないけど、それ以上に達成感が私の内を占めていた。
「数日間にわたる未知との遭遇、文さまはいかがでした?」
「充分堪能させていただきました。これなら記事も十分書けるわ」
文さまもご満悦で言うことなし。
ここ最近で一番の晴れがましさと同時に、お腹の虫がシュプレヒコールを上げた。
「ほら、お腹すいたでしょう。あんまり遅いんで、私がご飯作っちゃった。明日の当番交代ね」
いたずらっぽく膨れて見せる我が主について、私も自宅に上がる。
ふと外を見れば、いよいよ沈もうかという西陽が空を猛烈に焦がし、今日一日の終わりを告げていた。
――また明日、同じような光景が見られるのかもしれない。
明日にはまた新しい日々が待っているし、私が宮仕えする一方で、文さまも記事を書くのに違いない。
きっと明日も幻想郷には私たちの知らない太陽が昇り、知らない日々が待っているのだ。
こうして私たちの楽園は続いていく。
続くったら、続く。
とっても面白かったです
天狗三人の振る舞いが非常にらしくて面白かったです。なぜ幻想入りしたのかについて掘り下げがあるのかと思って読んでいたらそうはならなかったわけですが、きれいにまとまっていたように思いました。
が、携帯獣ファンとして一言
>>真っ黄色の身体は耳や尻尾の先が黒くなっていて
尻尾の黒い部分は根元なんだな
せっかく主従を重ねた話にしてるんだからもうちょっとそっちの描写に踏み込んでもよかったかもしれないですね、
と思いました。
発想はすごくよかったし面白かったです
そーかぁ、カントー編第1話からもう15年たつのかぁ・・・
しかしこのネズミが幻想入りするにはあと何十年かかるのか
SF的な作品を期待してホイホイされたけど、ぜんぜん違った…。
でも面白かったから、文句なし。