小川の岩場で、青髪の天人が、金髪の小妖怪に、指をしゃぶられていた。
黙々と、指を吸う小妖怪は、実に幸せそうである。
吸われている天人は、そのなんとも言えない感覚に、複雑な面持ちで、頬を赤らめた。
朝から暇を持て余していた天子は、天界の水場で池釣りをしようと準備し、出かけようとしていた。
そこへ、萃香が現れ絡んできた。
この小鬼は、こっちが暇を持て余し探していると見つからないくせに、現れるときは、何とも相手をしづらい微妙なタイミングであることが、多い気がする。
その時の天子の心持ちは、すっかり釣り気分一色であったので、そんな小鬼は無視することにした。
天界の魚釣りは、獲って食べるなどといった目的で行うものではない。
そのせいもあるのか、はたまた自分たちは、釣られるのが仕事とでも思っているのか、天界の呑気な魚達は、ただの草葉をつけた針にさえ、ぽんぽん掛かる。
そんな様子を見て萃香は、天界の魚釣りなど、釣りとは呼べない。下界の川釣りの方が、楽しさも美味しさも充実感も全然上だ、といったようなことを熱弁し始めた。
無視を決め込むつもりの天子だったが、心の底では天界の釣りに、満足していたわけでもなかったので、萃香の弁に興味を引かれ、下界へ降りて川釣りをすることにした。
「お前さんもほんと、不良な天人だよねえ。下界でこうやって殺生しちゃうんだからさー」
木にもたれ掛かりながら、日陰でのんびり酒を飲む小鬼が、つぶやいた。
川に釣り糸を垂らし、じっとしていた天子は、眉間にしわを寄せた。
「うるさいわね。あんたが下界の川釣りの方が、楽しいって言うから、こうして来たんでしょうが!」
「高貴な天人様を殺生に導けたとあれば、鬼としてこれほど名誉なことはないねえ」
にゃははと笑う萃香に、天子はやっぱり無視を決め込むことにした。
一匹も釣れなくて、馬鹿にされるのも癪だ。少し気合を入れて、事に臨むとしよう。
だが、その後も一向に、釣れる気配はなかった。
「まだ釣れないのかい。ほんとへたっぴだねぇ。どれ、ちょいとコツを授けてやろうかい」
萃香が、変化の無い天子の姿を見るのも飽きてきたのか、はたまた一向に釣れる気配のない天子を憐れんだのか、そう切り出してきた。
確かに釣りを初めて、結構経つ。
開始したのは、朝方だったのだが。
天子はちらりと空を見上げてみた。
すでに太陽は、頂点から少し傾く位置にあった。
「鬼に教えを請うなんて、ゴメンだわ。どうせ、魚のおこぼれを狙ってるだけなんでしょう。少しでも早く食べたいなら、火をくべるのに丁度いい、枝葉や石を集めておきなさいよ」
「そんなの集めても、無駄になりそうな気がするけどなぁ」
「絶対、釣ってやるわ! あんたは黙って、枝葉を集めてきなさい!」
萃香のつぶやきに、天子は凄い形相で睨み返した。
暫く萃香の面倒くさそうな顔を天子が睨んでいると、根負けしたのか、小鬼は重そうな体を起こして、立ち上がった。
「あーもー。わかったよ。しょうがない、手伝ってやるかー」
そう言うと、小鬼は森の奥へと千鳥足で、歩いて行った。
天子もいい加減、変化のない釣り糸を見るのも飽きて、少しうつらうつらし始めた。
しかし、全く釣れない。どうしたものか。
小鬼にあれだけの啖呵を切ったのだ。もし釣れなかったら、酒の席の度に、話題に出されかねない。
ちょっとズルして、地底振動でも起こして魚を捕ってしまおうか、そんなことを考えたとき、背後から何がしかの気配を感じ、振り向いた。
「あ、いや! 大丈夫よ、そんなことしないって!!」
萃香かと思っていたのだが、そこにいたのは、金髪赤眼の、小さな少女だった。なんだ、妖怪か。天子は胸を撫で下ろして、また釣竿に視線を戻す。
「わたしはルーミア、こんなところで何をしてるのかしら、人間さん」
「私が人間ですって? フン……小妖怪さんが、何の用かしら」
「あなた、礼儀がなってないね。名乗られたら、名乗り返さないとだよ?」
「……比那名居天子よ」
天子はちらりとルーミアを見て、興味なさげに、すぐにまた釣竿に視線を戻した。
妖怪に説教されてしまうとは、なんという侮辱だろうか。
しかし、確かに妖怪相手とは言え、礼節を欠いたのは私である。
ここは言い返したりしたら、恥の上塗りである。黙っておくしかない。
天子は仏頂面で、釣竿を見つめた。
しかし、小妖怪はそんなのはお構いなしに、天人の視界に回り込む。
そして、にっこり笑って尋ねた。
「あなたは、食べてもいい人類~?」
天子はその言葉に、びくりと身を震わせた。
そして同時に、その自らの反応に、激しく困惑した。
なんだ? 私が、この子に恐怖している? 天人である、この私が?
何かの間違いだろう。気を取り直して、改めてこの小妖怪を眺める。
非常に幼い外見をした妖怪だ。
湖にいる妖精らと同じか、それより更に小さいような印象を受ける。
見た目にたがわず、妖力も高くはないようだ。
次に、この小妖怪の質問について考えた。私は天人だが、果たして人類なのだろうか。
一応、人の字を冠しているし、人類に属するという解釈で良いかもしれない。
天子はそう考えて、ふとあることを思い出した。
昔どこかで、天人の血肉は、妖怪に対して、毒になりうると言う話を聞いたことがある。
果たして、そんな私をこの妖怪は、食べても平気なのだろうか。
どうしたのかと小首をかしげたルーミアに、天子はにやりと笑いかけた。
「ところで、あなた。私と、魚釣り勝負をしない? たくさん獲ったほうが勝ちよ。どうかしら」
この子を上手く使えば、魚を取れるのではないだろうか。
「あなたが勝ったら、私を食べさせてあげるわ」
「ほんと! 嘘付いちゃダメだからね」
「嘘はつかないわ。あなたが、私を食べれるなら、食べてもいいわ」
天子は頬に笑みを貼り付けたまま、また川に向き直った。
「ほら、そこに釣竿あるでしょ、使ってもいいわよ」
「うーん。天子、さっき沢山獲ったほうが、勝ちって言ったよね」
「そうね」
「じゃあ、わたし直接捕る。網借りるよ」
「え?」
そう言うと、ルーミアは勝手に手網と魚籠を手にとって、川へと向かっていく。
直接レーザーや弾幕で魚を攻撃して、捕まえるんじゃないか。
天子は、そんな不安を感じながら、小妖怪の様子を見守る。
もし、弾幕やらで直接攻撃して捕まえたなら、さすがに無効だと文句を言ってやろう。
私だって、要石で大振動なんかを起こしてやれば、魚を気絶させ、捕まえることなど容易い。
地形に大きなダメージが出てしまうので、流石にやらないが。
ルーミアは、川の手前までくると、ふわふわと上を旋回し、あるところでピタリと止まった。
そして、じわりと黒い影のようなものを体から放出する。
「ちょっと、その黒いの何よ? 毒とかじゃないでしょうね」
「これは闇だよー。ただ光を通さないだけの真っ暗な闇。生き物には、これと言った害はないもん。真っ暗だから、目が見えなくなるけど」
ルーミアの闇が濃さを増すと、川の中の魚が影に気づいたように、移動していく。
そりゃ、あんな得体の知れない影が、上に現れたら逃げてしまうだろう。
ルーミアは、そんな影をどんどん広げていく。闇が、川の中にも入っていっているようだ。
魚がはねた。
まだまだ、闇は広がっていく。
魚が、恐慌を起こしたようにところどころで、跳ねている。
闇が広がりの伸び、縮み、また伸びる。
そんなことを暫し間続けていると、ルーミアが網を水の中に突っ込んだ。そして引き上げる。
そこには、魚が2.3匹ほど、捕まっていた。
「どう、これはわたしの勝ちでしょ。わたしの勝ちだよね!」
嬉々として、魚籠を持ち上げるルーミア。
中には、彼女が捕らえた川魚がたくさん入っている。
ルーミアは闇を駆使し、川から浅瀬に追い込んだ魚を捕まえるという荒業に出て、川魚の大量獲得に成功した。
対する天子の魚籠には、魚はゼロである。
自分が釣れないというのは、多少悔しくもあるが想定内だ。
天子は顎に指を当て、暫し考え込む。
釣りではなくて、能力で捕まえたものは、いかがなものか。
だがまあ、もとより、ルーミアに勝目などない。
私から勝負を受けた時点で、彼女の負けは確定しているのだ。多少のことは目をつむろう。
なにせ、私は天人。
私を妖怪であるこの子が食べるのは、無理なのだから。
この子を上手く利用し、言葉巧みに、その魚を少し頂く。それが狙いである。
「仕方ないわね。あなたの勝ちよ」
「じゃあ、約束どおり、天子のこと食べてもいいんだよね!」
頬を上気させ、見上げてくるルーミアに、天人は手の平を向けた。
「まあ、待ちなさい。そうね。間違いなく、あなたの勝ちだわ。でも一つ忠告してあげる。言い忘れていたけど、私は天人なのよ。これがどう言ったことか分かる?」
にやりと笑う天子に、ルーミアはきょとんとした顔を向けた。
どうやら分かっていないようだ。
「天人の血肉は妖怪にとって、毒になるのよ。それでも食べることが出来るかしら?」
「ダメだよ、わたし勝ったもん。天子がどんな言い訳しても、たべるもんね!」
頬を膨らませて怒るルーミアに、天子はため息をついた。
毒になると聞いても、まったく怯まないのは想定外だが、まあ仕方ない。
道具箱から新しい針を取り出し、指に軽くつきたてた。ぷっくりと、赤い玉が指の上に現れる。
「まずは、これを舐めてみたらどうかしら。お口に合わなくて、食べ残されたら私も浮かばれないわ。それに、そっちの勝利報酬は私を食べることのみ。食べる以外のことは許さないわよ。食べられもしないのに、死ぬ気はないわ」
そう言って、殺害は約束外よ、と付け加える。
毒とは言っても、この程度なら問題無いだろう。
きっと、少し舐めただけで吐き出すに違いない。
「それって何か、ずるくない?」
「あなたも、私の言葉尻を取って、釣りではないもので魚を獲ったでしょ。まずは味見。だから噛んじゃダメよ」
ルーミアはしばらく不服そうに、頬をふくらませていたが、まあいいかーと言いながら、天子が突き出した指をパクリと咥えこんだ。
そしてちゅっちゅと、吸い上げはじめた。
天子は立っているのにも疲れ、座り込んでいた。
しかし、疲れ知らずの小妖怪は、いまだに天子の指を咥えて、吸い上げている。
針の穴は小さいし、吸われてる量も微々たる物だ、何の影響もない。
それよりも天子は、よくわからない背徳感と、何とも言えぬ気恥かしさに、どうにかなりそうだった。
指を吸うルーミアの必死な顔を見て、天子は自分の頬に、熱がこもるのを感じた。
熱くなった首元を冷やすように、顔を上に向ける。
緩やかに吹き抜ける風が心地よい。
いい加減、指がふやけてしまうのではと言うほど時が経った頃、天子の焦りは、極限を迎えつつあった。
相変わらずの調子で、指を吸い続けられている。
いやむしろ状況は、悪化しているかもしれない。
この小妖怪はとても気持ち良さそうに、目をとろんとさせながら、指を吸っているのだ。
これはまずい。
この妖怪は天人の血を吸っても、何の影響もないのだろうか。
このまま悪影響がないようならば、そのうちこうやって指先をちゅっちゅする程度の味見の段階は終了してしまう。
すなわち、本格的なお食事が、開始されるということである。
その想像に、天子の顔から血の気が引いてゆく。
行動が軽率すぎただろうか。この妖怪を返り討ちにすることは、きっと容易いだろう。
しかし、勝負事の約束を反故にするというのは、プライドが許さない。
だからといって、命を差し出すというのは、当然できることではない。
そのとき、天子の指への、ルーミアの吸引がとまった。
いけない、味見は終わりだ。
次は本番だ。
後は無い。
背筋が冷たくなった天子は、恐る恐るルーミアを見た。
ルーミアのまぶたが、ぷるぷると痙攣している。心なしか、焦点も定まっていないように見える。
突然ルーミアが大きく背筋を震わすと、膝を折って倒れ伏した。
「え、ちょっと」
ルーミアの体から、じわりと闇があふれる。
とはいっても、さっき魚を獲っていたときに比べれば、微々たる量の闇だ。
だが天子は、その漏れ出す闇に、何か嫌なものを感じた。
雑木林の奥から、萃香が枝葉を持って帰ってきた。
天子が何かを抱えて、うずくまっているのを見て、おやと眉を上げた。
魚が取れたのかと期待したが、よく見ると、腕には黒い小さな女の子が、抱かれているようだ。
あれは森に住む宵闇だかの、あやかしだったか。
名前はルーミアであっていたはずだ。
私がいない間に、弾幕ごっこでもしたのか、はたまた宵闇のがちょっかい出して、天子に返り討ちに会ったのか。
こっちは、結構真面目に枝葉集めしていたというのに、天子は気楽に遊んでいたのか。
何か嫌味の一つでもつけてやろうと、内容を考えながら歩み寄る。
萃香に気づいた天子が、憤る小鬼が文句を言うより先に、困惑顔で声をかけた。
「ねえ、萃香。どうしよう……」
「ったく、なんだってんだい。私がいない間に、何をやってたんだ? 肝心の魚は釣れたのかい」
「そんなことはいいから、ちょっとこの子、みてあげてよ」
萃香は何をそんなに、この天人は狼狽してるんだろうと訝しんだ。
妖怪を退治したりすることなんて、そんな珍しいものでもなかろうに。
倒れているルーミアに、視線を投げかける。
なんだろう。何か違和感がある。ルーミアの感じがおかしい。
能力”疎”の使用時と、感じが似ている。
……これは、今、ルーミアは。
「お前! おまえ、一体何をしたんだ!?」
バラバラになりかけている。
「えっと、少しなら私の血与えても大丈夫かなって」
「お前の血を飲ませたのか!? ……なんてことを!」
萃香は天子からルーミアを取り上げると、頭をつかんで持ち上げた。
そして、もう片手の手をルーミアの口に突っ込む。
「ちょ、ちょっと、何ひどいことしてるのよ!」
「ひどいことをしたのは、お前だろう!」
慌てる天子を、萃香は鋭い視線で一喝した。
その今まで見たこともないような萃香の表情に、天子は喉を詰まらせたように口をつぐんだ。
「昔、天人の血を飲んだ仲間がいたんだ。その仲間はどうなったと思う?」
萃香の体から、一瞬木が傾いだような音が聞こえたと思うと、全身を霊気が包み込んだ。
「霧散して、消えちまったのさ……!」
空気の圧縮されたような音が響き渡ると、ルーミアの姿が消失した。
一瞬の出来事に、天子は呆気に取られたような、声を漏らした。
さっきまで、ルーミアがいた空間を見つめている。
萃香はふうと息を吐き出し、ぎこちない動作で、持ち上げていた腕をおろした。
「あの子は? ルーミアはどこに行ったの?」
「どこにも行っちゃいないかもしれないし、もうここにはいないのかもしれない」
そう言って、天子に手を開いて見せた。中には、小さな真っ黒い一寸ほどの珠があった。
そして、ルーミアの口に突っ込んでいた方の手を空を切るように、振り下ろす。
ビビッと、赤い何かが地面に飛び散った。
「あんたの血は、一応できる限り集めて、抜き取ったよ。でも、この子が元に戻るかはわからないね」
萃香は、地面に散った自分の血を見て固まっている天子の肩をぐいと引いて、自分に向かせた。
「これを引き起こしたのは、お前だぞ!」
持っていた黒い珠を天子の手に握らせる。黒い珠には、一切の重さがない。
天子は珠の思い外の軽さに、思わず声が漏れ、ひゅぅと喉が鳴った。
「どうすればいいの?」
「わからないね」
かすれた声でつぶやく天子に、萃香は難しい顔をして、腕を組んだ。
その答えに、天子は困惑の色を強めて、見つめ返した。
しかし、すぐに萃香の鋭い視線に耐えられなくなって、渡された黒い珠に、視線を落とした。
「生きてるの、よね?」
「……わからないね」
にべもない様子の萃香に、天子の顔が険しくなる。
「こんなことになるなんて、思わなかったのよ!」
天子の顔が歪み、目から一粒涙がこぼれた。
それを見た萃香は、一瞬そんな天人と同じような顔をしたが、すぐに表情を戻した。
「本当にわからないんだよ。今まで天人の血肉を食らった妖怪は、私の知る限りでは、すべからく消えちまうか、死んじまっているんだ。その黒い珠は、私の能力で拡散しそうになったのを無理やり萃めて固めたもので、その子は、生きてるのか、死んでるのか、判断がつかないんだよ」
「このままだと、どうなってしまうの?」
天子の問いに、萃香は居心地悪そうに、身じろぎした。
こういうときにも、嘘をつけないってのは、なんとも辛いものだ。
「その子が消えちまうのは、確実だろうね」
天子は萃香と別れ、放心状態で川から森に入り、目的もなく歩き続けていた。
天界に戻ろうかとも思ったが、闇を操っていた妖怪であるルーミアを、光り輝く浄土である天界に連れて行くのは、まずいと思いやめた。
かといって、この子を元に戻す方法も思いつかない。
前に知り合った紅魔館の知識人、パチュリーを訪ねてみようか。
噂に聞いた、天才薬師と言われる、竹林の八意も良いかもしれない。
やることが決まったなら、少しでも早くそれらの人に、知識を求めたほうがいいだろう。
でも私は、その両者でも、この事態を好転させてくれるような気がしなかった。
この郷の巫女とまでは行かないまでも、自分の勘に対し、それなりの自信があった。
だが、そんな後ろ向きな勘など、この時ばかりは働いて欲しくなかった。
「私らしくもない……」
そうだ、私は天人、比那名居天子。多少の逆境など、屁でもない。
自分のしたことの落とし前は、どんなものを利用してでも、解決してみせる。
「まずは、紅魔館ね」
□ □ □
天子は館に着くと、正面に座する門に、メイド姿の妖精が立っているのを見つけた。
その姿から、その辺でよくいる妖精などではなく、この館の使用人なのだろうと考え、声をかけた。
「こんにちは。私は天人の、比那名居天子。この館にいる、パチュリーと言う方に、会いたいのだけれど」
メイド妖精は、ちらりと背後の館の中庭を覗き見て、少々お待ちくださいと言い残し、奥へ向かっていった。
しばらくすると、先ほどのメイド妖精と、赤髪緑服の背の高い女が出て来る。
「はじめまして、天子さん。私この紅魔館の門番をしている、紅美鈴です。お話は伺いました。パチュリー様なのですが、普段ですと事前にアポイトメントがない場合、面会できないんですけど……」
「そう」
天子は小さくそう呟くと、次の候補であった竹林へ向かおうと、振り返った。無理なら仕方ない。次の目的地である竹林に、向かうだけだ。
「あ! 待って下さい。とは言うものの、もうしばらくすると、お茶の時間になります。その時には、お姿を出すと思いますので、もしかすると、お会いになってくださるかもしれません」
美鈴は、人懐こい笑みを浮かべ、館の中を示した。
「今ちょうど、中庭にて授与式を行っていますので、ご覧になってお待ちしたらどうでしょうか」
「授与式?」
美鈴について門をくぐり、中庭に入ると、そこに結構な人だかりができていた。
「はい。毎月、うちの使用人から何人かの、優秀な仕事をした者に、お嬢様からの褒賞授与があるのですよ。なんと、今回は私の管轄である外回りの子達から、一年で一度出るか出ないかの賞である、紅月賞が出たんです!」
美鈴は興奮したようにそう言うと、目頭を押さえて上を向いた。
「あの子達の、日ごろの頑張りが報われたのだと思うと、私も嬉しくって……」
中庭の人ごみの中心を見ると、大勢のメイド服妖精達が、少し高くなった特設舞台の中心に視線を向けている。
そこには、上小さな薄ピンク一色の女の子と、前の私の異変を起こしたときに手合わせした時止めメイドの咲夜、それと三人のメイド服妖精がいた。
あの尊大な様子の小さな女の子が、噂に聞くこの館の主、レミリア・スカーレットだろう。
天子が見ているのにレミリアが気づき、怪訝な視線を向けてきた。軽く頭を下げて、それに答える。
台の上の三人の妖精メイドに、何やらメダルやらが渡されると、妖精メイド三人のうちの一人が嬉し泣きか、ひざを折って屈みこんだ。
笑いながら、他の二人がぽんぽんと肩をたたいたり、困ったように、レミリアに向かって頭を下げたりしている。
なんだか、微笑ましい。
「あ、今少し笑いましたね」
隣にいた美鈴が、そう天子に声をかけた。
「ここに来たときからずっと、悲しそうな顔をされていたので、気になってました。少しでもご気分が晴れたならよかったなあって。……何かお悩みがあって、この館を訪れたんですよね」
「ええ。私だけでは答にたどり着けそうに無かったから、知識人だと名高い、この館の魔女さんに、会いに来たの」
「そうですか……まあ、あれですよ。事情はわからないですが、そんな顔してると、運も逃げて行っちゃいます。大きなお世話かもしれませんが せっかく可愛いお顔してるんですし、もっともっと笑ってください」
「……ありがとう」
確かに、言葉だけなら大きなお世話といった感じだが、その優しい声音にそんな気持ちは、これっぽっちも感じなかった。
むしろ、思わず呻きそうになり、唇を噛んだ。
ちょうどその時、大きく拍手がなったので、そんな気持ちを誤魔化すように、天子もそれに続いた。
その後、レミリアの締めの言葉が続き、咲夜が解散を告げると、妖精メイド達が散っていった。
美鈴は何人か残ったメイド妖精と、舞台の撤去作業を始めている。
天子は勧められたベンチに、腰を下ろし俯いていた。
「お前はあれだろう、天界に住んでるとか言う、不良天人の」
「……天子よ」
天子が顔を上げると、この館の領主、レミリアが不敵に笑っていた。
少し後ろに、日傘を差して主人に寄り添う咲夜もいる。
「咲夜から噂は、聞いているよ。なんでも、あの巫女の神社を崩壊せしめたそうじゃないか。これほどの怖いもの知らずも珍しい。今度はうちの館を破壊しに来たのか?」
「いいえ。そんな用事で来たんじゃないわ。そういった用事で来れていたなら、良かったのだけど」
「ふむ、傲岸不遜、唯我独尊、我田引水、傍若無人、夜郎自大、厚顔無恥、枉法徇私の我侭天人だと聞いていたが、少し噂と違ったか」
「ぐ……いくら挑発しても、乗らないわよ」
天子は呆れたようにそう答えると、レミリアはフンと鼻を鳴らした。
「やれやれ、面白くないやつだな」
「そんな気分じゃないのよ」
ため息をつくと、天子は後片付けしている美鈴達を眺めて、目を細めた。
こういった輩は、逆に褒めてやったほうが、ペースを崩されるだろう。
天子はそう思い、とりあえず皮肉ではなくて見たままの感想を述べた。
「あなたの方こそ、我侭で自分勝手の恐ろしい吸血鬼って聞いていたけどね。でも、これを見た感じだと、評価を改めないとかしら。毎月こんなことをしているなんて、とても家族思いなのね。使用人たちも皆、生き生きしているし。……清流の清濁は、その源に由来する。あなたは、この館の人たちにとって、とても良い領主なのでしょう」
その言葉に、レミリアは目を丸くした。
「む……う。なんか調子の狂うやつだな。……しかしまあ、私が、自分勝手なのは確かだぞ。やりたいと思ったなら、私は何のためらいもなく実行する。例えば、今お前を自分のものにしてしまうとか、な」
「あら、そう考えるならば、私の噂の評価とやらも、間違いではないかもね。私もただただ、自分に正直なの。考えに異を唱えるものがいるなら、この頭脳と力を以ってことに応るのは、私もあなたと、一緒よ?」
「……ふん」
レミリアは片目を閉じると、表情を柔らかくし、軽く微笑む。
「なかなか気持ちのいいことを言う。気に入ったよ。今度、茶会にでも誘ってやる。咲夜から大体の報告は聞いたが、お前の目から見た、神社倒壊時の話でも聞いてみたいね」
「あー、あれはあまり、話したくないのよね」
「ほう。そいつはいい。無理やり聞き出すのも楽しそうだ」
「あら、やっぱり、吸血鬼って性悪なのは本当だったのね」
「まあね、だから、言っただろう? さて、今日は、私の友人に用事があるんだったか。 咲夜、客人を目的の場所へと、案内して差し上げろ。私の新しい友人だ。丁重にもてなしてやってくれ」
レミリアは、クックと喉を鳴らして、機嫌が良さそうに、従者にそう命じた。
天子は咲夜につれられて、長く続く紅い廊下を歩むと、重厚な両開きの扉の前についた。
「この扉を抜け、まっすぐ進めばパチュリー様のいる所にいけるはずよ。何か頼みごとするなら、ご機嫌を損ねないようにね。さっきのお嬢様との会話を見た感じだと、心配は要らなさそうだけれど。少ししたらお茶のお時間だから、その時にまた、そっちに行くと思うわ」
天子は咲夜に礼を言って扉をあけた。見た目に反して、立て付けが良いのかすんなり開く。
中は薄暗く、ひんやりとした空気が立ち込めている。等間隔に並べられた燭台が、天子が入ると同時に順々に、奥に向かって淡い黄光を灯していった。
明かりに促されるまま進む。中は本当に、紅魔館にある図書館かと思うほど広かった。
燭台の明かりは広範囲には届かないので、全容は見渡せない。
あるときはどこまで続くのかというような階段を上り、
大渓谷と思うような掛け橋を越え、
深すぎて底を覗けない巨大な回廊の細道を歩き、
何百もありそうな扉だけがひたすら続く道を通り抜け、
やっとのことで、他とは違った、緑色をした明かりの灯っている扉の前に、たどり着いた。
「図書館というより、大迷宮ね」
そう言いながら扉を開ける。
中は外よりは多少明るいものの、やはり薄暗い。こちらも所狭しと本が並び、それ以外にも珍妙な用途不明のオブジェクトでいっぱいだった。
それらのものに触れないように、慎重に進んだ。
間もなく、奥から話し声が聞こえてきた。
「おかしいですね。私より大分前に、こちらに向かったはずなんですが」
「もしかして、盗人に入ったのではなくて? 今頃、めぼしい本や道具を袋につめてるかもしれないわね」
「ふーん、悪い人が来たの? それなら私が探して、キュっとしてきてあげようか。あはは、いいね、鬼ごっこだ」
「ずいぶんな言いがかりね」
天子が声をかけると、話し声が止んだ。
声の聞こえてきていた薄手のカーテンをめくると、中に三人の姿があった。
中にいたのは、テーブルの上に洋菓子を並べている咲夜。
本を読みながら紅茶を飲んでいるパチュリー。
そして頬杖をついてきょとんとしている、初めて見る金髪少女だ。
その姿にルーミアを重ねてしまい、視線を逸してしまった。
それにしても、後から来るといっていた咲夜が、もう来ているのはどういうことだろう。
時間を止めて、先回りしたのだろうか。
天子を見ると、咲夜が思い出したように「あ」と声を上げた。
「そういえば、外の燭台、水母の双子棚方面に続いてましたわ」
咲夜がそう告げると、パチュリーはばつが悪そうに、本を置いて天子を見た。
「ごめんなさい、どうやら図書館観光用の、案内術式が発動していたみたい。無駄なご足労かけちゃったわね」
「まあ、丁度美味しそうなお菓子も用意されてるし、それをご馳走してくれるならチャラでいいわよ。食事前の運動ができて、かえって美味しく頂けそうだわ。あと、ちょっとお願いがあるから、それも聞いてくれると嬉しいかも」
「そう言ってくれると助かるわね。でも、お願いとやらは、内容次第。咲夜、この方の分も用意してもらえるかしら?」
「もう並んでいますわ、パチュリー様」
「という訳よ。さあ、そこにお座りなさい。レミィにも宜しくしてやってくれって言われたし、面倒だけど、できることならしてあげるわ」
「ありがとう。それにしては、盗人にでっち上げられそうになっていたみたいだけどね?」
少し意地悪く天子がそう言うと、パチュリーはわざとらしく咳き込んだ。
「本題に入りましょう。何か私に頼みたくて、ここまで来たのでしょう?」
魔女は何か問題でも?というように、そう切返してきた。
さすがに頼みごとをするのに、これ以上いじるのは、得策ではない。
天子はそう考え、勧められた椅子に、腰を下ろした。
何を頼んだらいいのだろうと、考えをまとめる。 ルーミアを元に戻してほしい、と頼めばいいのだろうか。
天子は、今日あった出来事を反芻した。
「あなた、泣いてるの?」
声にはっとして、視線を上げる。
今まで黙っていた金髪の少女が、悲しそうに天子を見ていた。
「あなた、私が大事なものを壊しちゃったときの顔してるよ。壊したくなかったのに、ちょっと失敗しちゃっただけなのに、もう元に戻らない。……そんな悲しい時の私と同じ顔してる」
「あなたは?」
「ごめん、自己紹介まだだったね。レミリアお姉様の妹、フランドールよ」
「天界に住む天人、比那名居天子よ。天子って呼んでくれていいわ」
天子は気を取り直して、フランドールに笑いかける。天子が表情を和らげたからか、フランドールが陽気表情で身を乗り出した。
「へー。地下奥深くに住んでる私とは、真逆の人だね。あ、そうそう。吸血鬼って鏡に姿映らないでしょ、今使ってる、河童が造ったとか言う特殊な鏡は、私たちでも姿映るんだよ。まあ、それが無い頃でも、私分身できるから、そうして見たりとか。お姉様は、体の蝙蝠化が得意だから、視覚をそっちに移して、確認したりとかしてたかも」
「吸血鬼の知恵ってやつね」
「そうそう。長く生きてれば、必要なことの方法はいくらでも、見つけ出せるものよ。天子も結構長く生きてそうだよね。何か面白い話とかたくさん知ってそう。何かなかった? 面白そうなこと!」
話しだしたら止まらない黄色い悪魔に、天子は苦笑する。
「そうねえ。私も結構、暇な天界生活をしてて、あまりにもつまらないものだから、異変を起こしたクチなのよ」
「え! そうなんだ。お姉様と一緒だね。ふーん、天子も結構強そうだし、一緒に弾幕ごっこしようよ! ね、いいでしょ?」
「あらあら。天子、フランと弾幕ごっこをするの? 本題のほうはいいのかしら?」
本題から話が逸れそうになったのに対し、パチュリーが助け舟を出した。
天子は、ありがたくそれに乗ることにする。
「ごめんね、フランドール。次また来るときに、一緒に遊びましょう。あなたのお姉様からも、お誘いを受けたから、きっと来るわ」
「そうかー、じゃあ仕方ないね。絶対来てよね。絶対だよ!」
天子はフランドールと指切りをすると、改めてパチュリーに向き直った。
「……この子を元に戻してほしいの」
天子は大事にしまってあった、ルーミアの黒い珠を取り出す。
パチュリーは珠を受け取り、しげしげとそれを眺めた。
「この子って、どういうことかしら」
パチュリーの問いに、天子は事のあらましを説明し始めた。
魔女は、手元の紙にメモをしながら、天人の話を聞き、時折質問を挟み込む。
大体の説明を終えて、天子が黒い珠に視線を戻した。
「その黒い珠が、ルーミアなのよ」
「天人の血、ねえ」
パチュリーは、手元のメモを半分ほどに裂いて、一部分を咲夜に渡した。
「そこに書かれているものを持ってきてくれるかしら。分からないものは、小悪魔に聞いてちょうだい」
咲夜はさっとメモに目を通すと、軽く頭を下げ姿を消した。
パチュリーは天子に向き直ると、懐から小さな短刀を取り出す。
「少し、血をいただいても、いいわよね?」
天子はうなずいて、腕を差し出した。
「刃物の扱いは咲夜が慣れてるから、先にやってもらえばよかったかしら。少し採りすぎたわね」
「死ぬもんでもないし、気にしなくていいわ」
薬瓶に揺れる天子の血を見て、パチュリーが呟いた。
フランドールに、清潔な布で腕を巻いてもらいながら、天子が苦笑する。
興味深げにそれを見ていたフランドールが、笑いながら言う。
「取りすぎたの? もったいない。あまりそうなら、私にちょうだいよ~」
「ダメよ!」
突然大声を上げた天子に、フランドールは大きく身を震わせた。
「あ……えと、私……」
フランドールは怯えたように、天子の腕に巻いていた布を握りしめて、立ちすくんだ。
天子は、しまったと言った表情で、刺激しないように、ゆっくりと手を回し、震える小さな悪魔を抱き寄せた。
「怒鳴ってしまって、ごめんなさい。でも、本当に私の血はダメなの。いくら、あなたが血に強く結びついた妖だとしても、飲んだら、どうなるかわからない……」
「……ごめんなさい」
かたんと音を立てて、テーブルの上に小さな小箱がいくつか出現した。それと同時に、咲夜も姿を現わす。
「お待たせしました、パチュリー様。お探しのものをお持ち致しました……まあ、随分と仲が、良くなったようですわね」
咲夜は、天人に抱かれる黄色い悪魔を見て、驚いたように口に手を当てる。
そして、一瞬天子に視線を合わせ軽く微笑むと、パチュリーの手伝いを始めた。
「器具の設置、お手伝いしますわ。ご指示を」
「ありがとう。そのガラス管は私がやるわ。ほかの道具は、包から出しておいて並べて置いて頂戴。そっちの器に、常温の水を八分目くらいまで入れて。こっちのには、冷水を」
てきぱきと準備を始める魔女とメイド。
「解析には、ちょっと時間がかかるわ。お茶でも飲んで、少し待っていて」
半刻ほど経った頃、パチュリーが展開していた魔法術式を停止させた。
咲夜は館内指示と夕食の準備のため、先ほどここを出て行った。
フランドールは、天子に寄りかかって眠っている。
「お待たせ。解析できたわ」
「どうなの?」
暫し天子を見つめたあと、パチュリーはもう冷めてしまった紅茶を一口飲んで、向かいに座り直した。
「そうね。まず、あなたの血液から説明しましょうか。あれは、あなたの言ったとおり、妖怪と言われるものに対して、強力な概念分解効果を発揮するものだったわ。その効能は呪術的と言っていいくらいね。あれを取り込んだ妖は、概念基盤をズタズタに引き裂かれてしまう。肉体の破壊は、その二次的効果に過ぎないわ」
そう言って、パチュリーは天子から採取した血液の入った瓶を軽く振ってみせた。
「時間が少し経つにつれ、この血自体の呪術性は薄れていくみたい。とはいえ、かなりの長時間を経ないと無毒には至らないでしょう。それと」
「ねえ、お願い。もう私の血については大体わかったわ。できれば、ルーミアの黒い珠の方の説明が欲しいのだけれど」
天子の呼びかけに、パチュリーは目を伏せて溜息をついた。
「結論から言うわ……これ、この子は、ただの一暗黒物質に過ぎない。ここまで固形化されたものは珍しいけど、ごくごく自然に、世界に存在する物質の、一つでしかないわ」
「つまり、どういうことなの?」
「この黒い珠に、あの宵闇の妖怪の痕跡及び、概念組織、魂魄形跡、可能性を持ったあらゆる要素の断片すら、発見できなかったわ。ごめんなさい……」
「そう……」
天子はぐっと拳を握り締め、溢れ出しそうになる感情を押しとどめた。
「でも、その子はまた、再生するかもしれないわ」
「……え?」
「前にその子を外で眺めたことがあったとき、体の一部分を完全に闇霧状に分散させていたのを見たことがある。そのことから、レミィに近い、肉体より精神に重きを置く魔力思念基盤を根幹にした、幻想生命体だと仮定することができる。そして、闇を操るという彼女の能力を鑑みるに、その発生理由は畏怖や想像、人々の思いに因るところが大きいとも考えられるわ。あなたに分かり易く言えば、一種の八百万の神に近いそれだということね。だとするならば、その畏怖がこの世界に存在する限り、その子がまた生まれてくるという可能性はある」
「でもそれって、つまり人間が死んでも、また新しい人間が生まれてくるということと、同じことよね?」
「……う、簡単に言ってしまうと、そういうことね」
パチュリーは一瞬怯んだものの、また視線を鋭いそれにして、語りだす。
「で、でもまだひとつ、考えられる可能性があるのよ。その子と密な因果や、記憶を持つものがその媒介となり、その条件を再現できるならば、元の状態での再構築の可能性もある。つまり、妖怪の山の風祝と神の関係に近いかしら。さらに別のものに例えるなら、巫女による神おろしも、原理としては近い。ああいったようなことが――」
「ごめんなさい。ルーミアと私は、つい今日会ったばかりなの……繋がりは、浅いわ」
天子の言葉に、魔女は言葉を失ったように黙りこくった。
そして小さく、力になれずごめんなさい、とつぶやいた。
「いいえ、本当に、ありがとう」
天子はそっと、消沈する魔女の手に自分のそれを添えた。
私を慰めようとしてくれていたのだろう。
ちょっと言葉は固く、論理的すぎる感はあるが、本気で力になろうとしてくれていたのは、よく分かった。
なんとなく予感はしていたのだ。
心構えはできている、大丈夫だ、……大丈夫だ。
「天子、我慢するの、よくないよ?」
見ると、となりで寝ていたはずのフランドールが、今の自分の心を代弁するかのような、悲哀に満ちた顔で、天子を見ていた。
天子は、その少女の頭に頬を寄せると、静かに嗚咽した。
□ □ □
天子は紅魔館の面々に礼を言って、次の目的地である永遠亭のある、竹林へと足を向けた。
竹林に入って結構経つが、中々目的地にたどり着かない。
案内がないと、そう簡単にたどり着けない場所だというのをだいぶ経ってから、思い出した。
私が紅魔館を去る前に、咲夜が竹林の案内をしてくれるという人間への、案内状を書いてくれていた。
しかし、ショックを受け、頭が働かなくなっていた天子は、すっかりそのことを失念してしまっていた。
大分奥まで入り込んでしまった今となっては、その人間の庵も、何処にあるのか、さっぱりわからなくなっていた。
諦める訳には行かない。
まだ、天才頭脳を持つと言われる、八意永琳が残っているのだ。
彼女に力添えしてもらうまでは。可能性が潰えたわけではない。
天子は気力を振り絞り、顔を上げて前を見た。すると、不審そうに自分を見つめる、赤い目と視線が合う。
「あなた、こんな所で何をしてるんですか?」
前に会ったことのある月兎が、大きな箱を背に担いで立っていた。
「もう結構暗くなってきてますし、危ないですよ、って前の異変の時の天人じゃない!」
「あなたは確か、行動を起こすのが遅すぎた、月兎さんだったわね」
「う、結構気にしてるのよそれ……というか、何してるの。思い切り不審人物ね」
「ちょっとあなたのところにいる、八意永琳に会いたいと思っていてね。助かったわ。道がわからなくてどうしようかと、考えていたの。案内してくれないかしら」
天子の答えに、月兎鈴仙はこれでもかという疑いの視線で、見つめ返してきた。
「何か、裏があるんじゃないでしょうね。まず、どうして師匠に会いたいのか、聞かせてもらいましょうか」
「うう……分かりました、私は何の力にもなれませんが、すぐにでも師匠に頼んでみましょう。きっと師匠なら、何とかしてくれるはずです!」
天子が説明すると、月兎は話の途中から顔をくしゃくしゃにして、鼻をすすり始めた。
今では、少しでも早く八意の所に案内しようと、速めの飛行で館に案内してくれている。
はじめは、あんなに警戒の色を強くしていたのに、少し話しただけでこれである。
守護をするものとして、少し問題があるのではないだろうか。
頼みをする側としては、助かったのだが。
天子がそんなことを考えていると、古めかしくも上品な和風屋敷が見えてきた。
「天子さん、先ほどの話の黒い珠を渡してもらっても良いでしょうか。私がすぐに師匠に掛け合って、お願いしてきます!」
天子は一瞬、手放すのを不安に思い、渡すのを少し躊躇った。
しかし、渡したほうが早く答えを聞くことができるだろう。
ルーミアを治すのに、時間が早いほど良いかもしれないのだ。
「普段、患者さんは、表のロビーでお待ちして頂いています。なので、天子さんもそちらでお待ちになって――」
「あら優曇華、そんなに急いでどうしたの。……すごい顔してるわよ」
「師匠!」
庭に、二人の人間が立っていた。
一人は、長い美しい黒髪を持ち、のんびりとした雰囲気だが、何処か神々しさにも似た気品がある少女。
もう一人は、奇抜な赤青二色の衣服をまとった、底の見通せない不思議な気配をまとった女性だ。
「今、姫と夜の散歩に出かけようと思っていたところなのよ。後ろの方は?」
「よかった! 危ない危ない、あとちょっとで、すれ違いになる所だったんですね。こちらは、比那名居天子さんです」
「あら、あなたが天人の……はじめまして、ここで薬師をしている、八意永琳よ。こちらは――」
「この永遠亭の主をしてる、蓬莱山輝夜よ」
「はじめまして。天子って呼んでくれていいわ」
三人が挨拶を交わすと、はっとしたように鈴仙が、永琳に駆け寄った。
「師匠、散歩に行かれる前に、これを見てもらえませんか。この子、宵闇の妖怪ルーミアさんらしいんです。天子さんの血を飲んでしまい、このような姿になってしまったらしいのですが、治せますよね?」
「天人の血を……?」
永琳は、鈴仙から黒い珠を受け取ると、少しそれをじっと見てから、天子に向き直って告げた。
「はっきり言いましょう。無理ね。これはもう、妖怪でもなんでもない、ただの物質だわ」
「え!? ちょ、ちょっと、師匠! 嘘ですよね?」
「いいえ。嘘ではないわ。この珠がルーミアという、妖怪だったとして……そうね、人間に喩えて、わかりやすく言えば、まさに遺骸といったものね」
「師匠、デリカシーないんですか? 言うにしても、もっと包んでいっても……」
「こういうものは、はっきり告げたほうが、患者の為なのよ。そこの天人さんは、中途半端に何か可能性があるような言い方をすると、どこまでも無駄に努力をし続けてしまいそうな、目をしているもの」
天子は下を向き、目を閉じた。
わかっていたが、こうも突きつけられてしまっては、どうしようもない。
全ては私が招いたことだ。
鈴仙が同情するような、言葉を投げかけてくる。天子は礼を言って、踵を返す。
「ちょっと待ちなさいな」
肩越しに声のほうを見ると、永琳の隣に立っていた輝夜が、歩み寄って来ていた。
「ずいぶんな難題にぶつかっているようね。本来、私も難題を出す立場なんだけど、今日は趣向を変えて、助力側に回ってあげるわ」
輝夜は口元に袖をあて、小さく微笑んだ。
そうして、腕を伸ばすと、トンと天子の額を指で小突く。
その瞬間、天子の視界がぐにゃりと、揺れた。それも一瞬で、元に戻る。
だが、頭の奥に小さな鈍痛が、残り続けている。
「な、何をしたの?」
「ちょっとした、オマジナイよ。あなたも長く生きてきたのでしょう。その中に、もしこの難題を解決する因果があるならばと、少しだけ、掘り起こしやすくしてあげたの」
天子と輝夜のやりとりに、永琳が困ったように声をかけた。
「姫……さっき、私が言っていたことを聞いていましたか」
「永琳ってば、頭かたいんだから。夢がないわよ。無理なことでも、挑戦しないと無理なままなのよ?」
「いや、ですから……無理なことは、無理だからこそ。特に命については――」
この姫と天才が何を言っているのかはわからなかったが、もうそれを問い詰める気力は、天子には残っていなかった。
□ □ □
天子は森を歩んでいた。
どうやってここに来たのか、記憶は定かではなかった。
竹林での八意の答えに、頭が真っ白になってしまった。
あの後、何があったのかも全く記憶になかった。
もしかしたら、失礼なことをしてしまったかもしれない。
体が重い。頭痛が激しい。視界がぼやける。
頼える者は、もういなかった。
ルーミアは、もう元に戻すことはできないのだ。
どうして私は、一妖怪であるルーミアに、こんなにも固執しているのだろう。
私のミスで、あの子を殺してしまうことになったから、その罪悪感だろうか。
人間であった頃は、生きるために他のものの命を食って、生きていたではないか。
人間という生き物は、地上にいるだけで、目に見えぬほど小さな生物を常に殺し続けているのだ。
自らの体内にも大量の蟲を飼い、生産と殺戮を繰り返している。
拡大してみれば、ひとつの現界があるといってもいいくらいだ。
それに、そんな視点から外してみても、今こうやって森を歩いていれば、小さな虫を潰し、殺していることだってある。
それをいまさら、一人死なせてしまったくらいで、なんだというのだ。
でも、そんな理屈に合わない感情を持つのが、人間なのだ。
そして私は、中途半端な、半分人間に片足突っ込んだような、天人である。
「う……ぐ、うう、うぅ……う、ぐ、……ルー、ミア……」
……この時、私はどうしようもなく、人間だった。
しばらくすると、空模様が悪くなり、思ったとおり雨が降り出した。
森の中にちょうど良い廃屋を見つけると、中にあがりこんだ。
埃まみれで、何年も放置されていたような廃屋だった。
壁に背を預け、窓から空を眺める。雲は黒く分厚く、当分止みそうに無い。
外から内へ視線を移動させる。小屋の中は、雨雲で暗くなった空に伴って、暗闇を増していた。
昔に、こんな感じの小屋にいたことがあったような気がする。
ぼんやりと考えていると、少しずつ、そのときのことが思い出されてきた。
ずいぶん昔のことだ。
天人になる前だったか、私は家で行われる儀式に、うんざりしていた。
毎日のように天からもたらされたという桃を食し、白無垢を身にまとい、清水で身を洗うとうことをずっとしている時期があったのだ。
記憶があいまいだが、あれは今思えば、天人になる前準備だったのだろう。
その毎日の所作もそうだが、見も知らぬ新しい土地へ移り住むというのが、すごく嫌だった覚えがある。
天人になる前は、友達もたくさんいたし、生まれてからずっと過ごしてきた土地も、大好きだった。
得体の知れない天界に行くのも、天人になるのも嫌だった私は、散々我侭を言って駄々をこね、親を困らせていたと思う。
そんなある時、父と激しく喧嘩した私は、家を飛び出した。
当てもなく歩き続け、幼い自分は当然のように道に迷い、帰りたくとも帰れなくなってしまった。
日も暮れ、里から遠く離れ暗くなった森を一人歩いていると、とうとう恐ろしい形相をした妖怪に、捕まってしまった。
その妖怪は、気味の悪い笑いを常時浮かべていた。声が漏れるたびに、口から見た目どおりの嫌悪を催す匂いが漏れ出した。
今でも、あの匂いを思い出せる。
火葬場の人を焼いたときに出る煙に、近い匂いだった。
恐怖に身をすくませ、呼吸もまともにできず、あふれ出る涙に加え、匂いがもたらす吐き気に、それだけで死んでしまうかと思った。
妖怪は私を脇に抱えると、空を飛ぶような身軽さで森の中を走り、今いるような小屋につれて来て、私を直立姿勢に縄で柱へくくりつけた。
小屋の奥から大きな鍋を持ち出してきて、囲炉裏で見せ付けるように火を沸かし始めた妖怪は、脇から出した出刃包丁をこれみよがしに、研ぎはじめる。
シャコシャコという包丁の研ぎ音と、時折こちらを振り向きにやりと笑う妖怪だけが、小屋の中での動きだった。
しばらくして、包丁を研ぎ終わったのか、妖怪がゆっくりと全身を振り向かせた。
途端に、表情をこわばらせる。
「これはこれは、こんな小汚いところに、何の用ですかい」
妖怪が、初めて声を掛けてきた。
そう思ったが、視線を追うと、私ではなくその後ろを見ているようだった。
柱にくくりつけられていて、振り返ることはできなかったが、何かが、後ろにいるのだろう。
もしかしたら、助けかもしれないと期待したが、媚びるような妖怪の顔を見て、その仲間なんだろうと思い至った。
「陳腐な食べ方してるのね」
後ろの何かが、そう言った。
「そりゃあ、あなた様にはわからないでしょうよ。何もしなくとも、あなたへの畏怖は揺ぎ無いもんだ。けど俺みたいな小妖怪には、そんなものはないんです。直接襲って、喰らって、力をつけなきゃなんねぇ。これも、久々の獲物でしてね、こうやって出来る限り怖がらせて、かさ増しせんと勿体無くて」
「結構おいしそうじゃない」
「そうなんですよ。何処かの、巫女かなんかの血筋ですかね。少々臭みが無さ過ぎて、淡白な嫌いもあるんですが、こんな上玉には、生まれてこの方出会ったことはないですぜ。……へへ」
そう言って妖怪は、舌なめずりする。
「ねえ、この子を私に、よこしなさいな!」
「え? それはひどいでしょう。俺が捕まえた、滅多にない獲物ですよ!」
うろたえながらも、何とか自分のものだと主張する妖怪に、後ろの声は冷ややかに言い放った。
「それで? この世界の力ないものは、力あるものに従うしかないんだよ?」
「で、でもよ!世の半分を手にしてるような、あ」
妖怪がさらに反論しようとした瞬間、目の前にいたはずの、妖怪の姿が消えた。
固定されて動かない頭では、見れる範囲も限られていたが、見渡せる範囲で、視線をさまよわせる。
だが、結局妖怪の姿は見つけられなかった。
妖怪がいたあたりに、黒いシミのようなものができている。もしかして、あれが妖怪なのだろうか。
「どんな畏怖も、ずっとそのままでは、いられないんだよ。わたしもいつか、あなたみたいに、力あるものに消されるかもしれない」
そう後ろの声が呟くと、後ろから何かが、目の前に流れてきた。
真っ黒な霧のような何か。
中に、赤い二つの光が灯っている。
「あなたのこと、たべるね」
何の感情も感じられないその声に、私は息が止まる思いだった。
しばらく何も反応できず震えていると、真っ黒な霞が私の体にまとわりついた。
ひりつくような、痛みが走った。
黒い霧は、私の全身を舐めるように、這いずり回る。
まるで、その黒い何かが体の中に侵食してくるようだった。
逃れようともがくが、縛られた体は、もちろん動かなかった。
「いつもは、ぱくりと一口に食べてしまっていたけど……さっきのやつが言ってたとおり、おびえた人間って、いつもと違った美味しさがあるのね。もっと熟成させてみたら、どんな味になるのかしら。気になってきた……ねえ、あなた。今は逃がしてあげる。私がまた、あなたを食べに行くその時まで、怯え続け、美味しく育ってちょうだい。私はいつでも、あなたのことを凡ゆる闇から、見ていてあげるから」
全身に一層の痛みが走り、その痛みが強くなり堪えられなくなると、私は糸が切れたように気を失った。
その後、私は父の配した捜索の者に、無事発見された。
私は、父に抱きかかえられながら、こう言われた。
「地子や、天人になれば、その血肉は妖に対して毒を帯びることとなる。そうなれば、やつ等にとって食べられる恐れというものも、なくなるのだよ」
次の日、私は今までかたくなに拒んできた天界行きを、父に了承した。
「そういえば、そんなこともあったっけ。すっかり忘れていたわ」
あの後、当分の間は暗がりが怖くて、常に侍女を付けていたものだ。
そんなことも、天人になって幾分もしたら、なくなった。
今でも、妖怪や暗がりは怖いだろうか。いや、もうそんなことは無いはずだ。
けど、死はどうだろうか。やっぱり怖いのだろう。
現にこの子と会ったときに、食われそうになると考えて、震えていたではないか。
他の位の高い天人は、物欲や生存欲求などは、超越し、風化している。死んでないのも、ただ淡々と事務的に、死神を退けている結果に過ぎない。
死を怖がっている天人など、やはり私くらいのものなのだろう。
ルーミアも、消えそうになっていたときは、怖かったのだろうか。
「ごめんね……」
私は黒い珠を両手で包み込むようにして、体を丸めた。
どれくらい、時間が経ったんだろう。
周りを見渡してみると、ただただ黒い、空間が広がっている。
確か私は、古ぼけた小屋にいたはずなのだが。
時間の感覚もだいぶ前から、曖昧だったが、視界もいかれてきてしまったのか。
というよりも、本当に、真っ暗で何も見通せない。
新月の夜だろうと、天人の力を持つ私は、多少なら目も利くはずなのに。
起き上がってみても、感じるのは、多少硬く感じる地面と、靄にも似た空気だけだ。
雲よりも粘つき、水よりも軽いものに、全身が包まれている。
音も聞こえない。聞こえるのは、自分の脈動のみである。
だが、真っ暗で何も見えないはずなのに、何かがうごめいているのが、気配でわかった。
何か振動が、伝わってきているのだろうか。
臓腑に響く、重々しい、何かの感情のような、響き。
その中に、記憶の琴線に触れる何かが、あった。
感じる。確かに。
「……ルーミアなのね?」
全方位から、心臓の脈打ちのような、重い振動が伝わってくる。
その揺れに、何故だか激しく心が揺さぶられる。
ただただ、漠然と寂しい、そんな感情。
やはり、この空間全てがルーミアなのだ。根拠はなかったが、天子はそう確信した。
そして、自分がすべきことを直感した。
緋想の剣を抜き放つ。
そして、流れるような動作で、背後に突き立てた。
一瞬の後、剣が目がくらむほどに、輝き出す。
周りの闇が恐慌を起こしたように、蠢き、渦巻き始めた。それと一緒に、悲痛な感情が全身を叩きつけた。
自分を包み込む何かが、苦しげに脈動する。
その何かが、逃げるように私の体の中へと侵食する。
なんだろう。その感じに、あまり不快感を感じなかった。とても、不思議な感じだ。
いままで自分の中にずっとあった何かが、それと混ざり合うような感じさえする。
だが、それでも力を緩めることはせずに、さらに霊力を緋想の剣へと送り込む。
今まで真っ暗だった空間に、光が加わることにより、世界が生じる。
白と黒で世界が区切られていく。
無であった世界が形をなす。
そして、背後の緋想の剣から発せられる光を遮るように、天子が大きく、手を広げた。
「さあ、ルーミア! いらっしゃい、ここに! この私の影に!!」
周りを漂っていた闇が、光から逃げるように天子の影へと集まる。
密度を増したそれは、向かい側を見通せないほどに濃くなっていく。
ほぼ全ての影が、天子の影へと集まったのを確認すると、広げていた手を少しずつ、狭めていった。
影もそれに伴って光を避けようと、密度を増す。
天子はさらに範囲を狭めるように、四つん這いに近い体勢になって、全身で腹の辺りを包み込むようにした。
すると、胸にどんと何かがぶつかった。
目をやると、胸の辺りにサラサラとした金が揺れている。
「うう、怖いよ……眩しいの、嫌だよ……」
天子は胸のそれを強く、抱きしめた。
天子はうめき声を上げると、目をしばたかせた。
寝てしまっていたらしい、視線をめぐらせると、天井近くに据えられた小窓から、月が覗いている。
体を起こそうと力を入れたが、うまく起きることが出来なかった。
おかしなところで寝てしまったから、体が強張っているのかと思ったが、よく見ると、何かが馬乗りになっている。
月明かりに照らされているその金髪を見て、天子は目が潤むのを感じた。
手で軽くそれに触れて、そっと声をかける。
「ルーミア」
声を受けて、胸の上の金髪がゆっくりと動いた。
「天子、わたし何か変なんだよ。すごく怖くて、たまらないの」
赤い瞳が月明かりで、ゆらゆらきらめいている。
泣いていたのだろうか。目の周りが赤い。白い肌と相まって、より一層その赤さは、引き立っている。
月明かりで照らされたその姿は、今でも、儚く見えた。
天子はルーミアの首に腕を回すと、ぐいっと引き寄せた。頬と頬が触れ合う。
「ごめんね、ルーミア。こんなことになるなんて、思わなかったの。本当にごめんなさい」
ルーミアは何も答えずに、天子を抱く力を強めて、小さくすすり泣いた。
□ □ □
「ねえ、ルーミア。いつまで私にくっついてるつもりなの?」
夜が明けてもなお、小妖怪は天子にしがみついたままだった。
ただただ鼻をすすり上げ、夜に一言つぶやいたきり、それ以降だんまりであった。
天子がルーミアの体に回した手を離そうとしようものなら、より一層強く体を寄せる。そんなことの繰り返しだ。
「あなたって、もしかしてものすごい甘えん坊なのかしら」
「わたしだって、ずるいことした天子なんかと一緒にいたくないもん!」
その言葉に、ルーミアが今までずっと埋めていた顔を、勢いよく上げた。赤面して、うーと唸っている。
「ずるいことしたから、私が嫌いなの?」
「そうだよ!」
「私の血を飲んで、消えてしまいそうになったから、ではなくて?」
「うん。……血はとても美味しかったよ。なんだか懐かしくて……あんなに美味しいの、初めてだったよ。でも、もう怖いのも嫌だから、飲みたいけど、もう飲まない」
「そう……じゃあ、なんで嫌いな私から、ずっと離れないの?」
「なんでだか分からないけど、天子から離れるのが、怖いんだもん!」
ルーミアは当り散らすようにそう言うと、天子のことを強く抱き寄せて、赤くなった顔を隠した。
「その感覚は、大事にしたほうがいいかもねー。当分は天子から、離れないほうがいい」
突然、上の方から声がかかる。
振り仰ぐと、天井の梁の上に、小鬼が座っていた。
「いつの間に来てたの。離れないほうがいいって、どういうことよ?」
「その子は今、本当に危うい均衡の上に、存在を保てているんだ。現時点で、そうやって会話できているのが、不思議でならないよ」
萃香は手に持ったひょうたんをグイと呷ると、思案げに二人を見下ろした。
じっと見られたままの天人が、声を荒げた。
「あんた、あんなに悲壮感たっぷりに、啖呵切ったくせして、これはなに? 一日で元にもどったじゃないの! どうせこの子が弱ってるって言うのも、また誇張か何かなんでしょう!」
対する小鬼は、やれやれといったように、肩をあげてみせる。
「お前こそ、ほんとうにそう思ってるのかい? いっちゃなんだが、本当に元に戻るなんてこれっぽっちも思っちゃいなかったよ。奇跡だね、奇跡。それでもまあ、事の元凶はあんたなんだから、世話ないけど」
萃香は、ふと今自分が言ったことに思いを巡らせた。奇跡。確かに奇跡だったのだろう。
ルーミアは、天子の心の闇を糧に、なんとか体を再構築することに成功したのだ。
依代である天子の混じり気が大きすぎても、自我はその歪さに耐えられずに壊れてしまっただろうし、かと言って純粋過ぎたら、居着くことができずに消えてしまったに違いない。
中途半端に綺麗な天子だからこそ、元に戻すことができた。
もしかしたら、天子の家も元々は神職だったというのもあるだろうか。
ただ、それだけだと、説明がつかないことも色々あるのだが。
萃香はぼんやりとそんなことを考えたが、まあ結果がいいならどうでもいいかと、酒を煽った。
そして、不良天人、いい仕事したね、とふざけた様に笑った。
「ぐ……他人事だと思って、好き勝手言ってくれるわね」
「ま、実際他人事だしね。それはそれとして、当分はその子と一緒にいなきゃ、ダメだぞ。今は一時的に、あんたの心を依代として、存在維持できてるに過ぎない。一人でも安定するまで、世話見てやるんだな」
そう言うと、萃香は小窓から、外に出ていってしまった。
「そんな……」
「ねえ、天子。天子は、わたしと一緒にいるべきだと思うの。じゃないと、後悔するよ、たぶん」
天子はぼんやりと自分を見つめている、小妖怪を見つめ返した。
そして、照れたように、少し顔を赤くして、視線をまた小鬼が出て行った窓へ向ける。
しばらくの間、そうやって小鬼が出て行った時に巻き上げた埃を意味もなく目で追っていたが、それもあらかた収まると、観念したようにつぶやいた。
「その忠言、ありがたく頂戴しておくわ」
その後、天子はルーミアを肌身離さずで一月ほど生活するのを余儀なくされ、ロリコン天人の称号を得ることとなった。
黙々と、指を吸う小妖怪は、実に幸せそうである。
吸われている天人は、そのなんとも言えない感覚に、複雑な面持ちで、頬を赤らめた。
朝から暇を持て余していた天子は、天界の水場で池釣りをしようと準備し、出かけようとしていた。
そこへ、萃香が現れ絡んできた。
この小鬼は、こっちが暇を持て余し探していると見つからないくせに、現れるときは、何とも相手をしづらい微妙なタイミングであることが、多い気がする。
その時の天子の心持ちは、すっかり釣り気分一色であったので、そんな小鬼は無視することにした。
天界の魚釣りは、獲って食べるなどといった目的で行うものではない。
そのせいもあるのか、はたまた自分たちは、釣られるのが仕事とでも思っているのか、天界の呑気な魚達は、ただの草葉をつけた針にさえ、ぽんぽん掛かる。
そんな様子を見て萃香は、天界の魚釣りなど、釣りとは呼べない。下界の川釣りの方が、楽しさも美味しさも充実感も全然上だ、といったようなことを熱弁し始めた。
無視を決め込むつもりの天子だったが、心の底では天界の釣りに、満足していたわけでもなかったので、萃香の弁に興味を引かれ、下界へ降りて川釣りをすることにした。
「お前さんもほんと、不良な天人だよねえ。下界でこうやって殺生しちゃうんだからさー」
木にもたれ掛かりながら、日陰でのんびり酒を飲む小鬼が、つぶやいた。
川に釣り糸を垂らし、じっとしていた天子は、眉間にしわを寄せた。
「うるさいわね。あんたが下界の川釣りの方が、楽しいって言うから、こうして来たんでしょうが!」
「高貴な天人様を殺生に導けたとあれば、鬼としてこれほど名誉なことはないねえ」
にゃははと笑う萃香に、天子はやっぱり無視を決め込むことにした。
一匹も釣れなくて、馬鹿にされるのも癪だ。少し気合を入れて、事に臨むとしよう。
だが、その後も一向に、釣れる気配はなかった。
「まだ釣れないのかい。ほんとへたっぴだねぇ。どれ、ちょいとコツを授けてやろうかい」
萃香が、変化の無い天子の姿を見るのも飽きてきたのか、はたまた一向に釣れる気配のない天子を憐れんだのか、そう切り出してきた。
確かに釣りを初めて、結構経つ。
開始したのは、朝方だったのだが。
天子はちらりと空を見上げてみた。
すでに太陽は、頂点から少し傾く位置にあった。
「鬼に教えを請うなんて、ゴメンだわ。どうせ、魚のおこぼれを狙ってるだけなんでしょう。少しでも早く食べたいなら、火をくべるのに丁度いい、枝葉や石を集めておきなさいよ」
「そんなの集めても、無駄になりそうな気がするけどなぁ」
「絶対、釣ってやるわ! あんたは黙って、枝葉を集めてきなさい!」
萃香のつぶやきに、天子は凄い形相で睨み返した。
暫く萃香の面倒くさそうな顔を天子が睨んでいると、根負けしたのか、小鬼は重そうな体を起こして、立ち上がった。
「あーもー。わかったよ。しょうがない、手伝ってやるかー」
そう言うと、小鬼は森の奥へと千鳥足で、歩いて行った。
天子もいい加減、変化のない釣り糸を見るのも飽きて、少しうつらうつらし始めた。
しかし、全く釣れない。どうしたものか。
小鬼にあれだけの啖呵を切ったのだ。もし釣れなかったら、酒の席の度に、話題に出されかねない。
ちょっとズルして、地底振動でも起こして魚を捕ってしまおうか、そんなことを考えたとき、背後から何がしかの気配を感じ、振り向いた。
「あ、いや! 大丈夫よ、そんなことしないって!!」
萃香かと思っていたのだが、そこにいたのは、金髪赤眼の、小さな少女だった。なんだ、妖怪か。天子は胸を撫で下ろして、また釣竿に視線を戻す。
「わたしはルーミア、こんなところで何をしてるのかしら、人間さん」
「私が人間ですって? フン……小妖怪さんが、何の用かしら」
「あなた、礼儀がなってないね。名乗られたら、名乗り返さないとだよ?」
「……比那名居天子よ」
天子はちらりとルーミアを見て、興味なさげに、すぐにまた釣竿に視線を戻した。
妖怪に説教されてしまうとは、なんという侮辱だろうか。
しかし、確かに妖怪相手とは言え、礼節を欠いたのは私である。
ここは言い返したりしたら、恥の上塗りである。黙っておくしかない。
天子は仏頂面で、釣竿を見つめた。
しかし、小妖怪はそんなのはお構いなしに、天人の視界に回り込む。
そして、にっこり笑って尋ねた。
「あなたは、食べてもいい人類~?」
天子はその言葉に、びくりと身を震わせた。
そして同時に、その自らの反応に、激しく困惑した。
なんだ? 私が、この子に恐怖している? 天人である、この私が?
何かの間違いだろう。気を取り直して、改めてこの小妖怪を眺める。
非常に幼い外見をした妖怪だ。
湖にいる妖精らと同じか、それより更に小さいような印象を受ける。
見た目にたがわず、妖力も高くはないようだ。
次に、この小妖怪の質問について考えた。私は天人だが、果たして人類なのだろうか。
一応、人の字を冠しているし、人類に属するという解釈で良いかもしれない。
天子はそう考えて、ふとあることを思い出した。
昔どこかで、天人の血肉は、妖怪に対して、毒になりうると言う話を聞いたことがある。
果たして、そんな私をこの妖怪は、食べても平気なのだろうか。
どうしたのかと小首をかしげたルーミアに、天子はにやりと笑いかけた。
「ところで、あなた。私と、魚釣り勝負をしない? たくさん獲ったほうが勝ちよ。どうかしら」
この子を上手く使えば、魚を取れるのではないだろうか。
「あなたが勝ったら、私を食べさせてあげるわ」
「ほんと! 嘘付いちゃダメだからね」
「嘘はつかないわ。あなたが、私を食べれるなら、食べてもいいわ」
天子は頬に笑みを貼り付けたまま、また川に向き直った。
「ほら、そこに釣竿あるでしょ、使ってもいいわよ」
「うーん。天子、さっき沢山獲ったほうが、勝ちって言ったよね」
「そうね」
「じゃあ、わたし直接捕る。網借りるよ」
「え?」
そう言うと、ルーミアは勝手に手網と魚籠を手にとって、川へと向かっていく。
直接レーザーや弾幕で魚を攻撃して、捕まえるんじゃないか。
天子は、そんな不安を感じながら、小妖怪の様子を見守る。
もし、弾幕やらで直接攻撃して捕まえたなら、さすがに無効だと文句を言ってやろう。
私だって、要石で大振動なんかを起こしてやれば、魚を気絶させ、捕まえることなど容易い。
地形に大きなダメージが出てしまうので、流石にやらないが。
ルーミアは、川の手前までくると、ふわふわと上を旋回し、あるところでピタリと止まった。
そして、じわりと黒い影のようなものを体から放出する。
「ちょっと、その黒いの何よ? 毒とかじゃないでしょうね」
「これは闇だよー。ただ光を通さないだけの真っ暗な闇。生き物には、これと言った害はないもん。真っ暗だから、目が見えなくなるけど」
ルーミアの闇が濃さを増すと、川の中の魚が影に気づいたように、移動していく。
そりゃ、あんな得体の知れない影が、上に現れたら逃げてしまうだろう。
ルーミアは、そんな影をどんどん広げていく。闇が、川の中にも入っていっているようだ。
魚がはねた。
まだまだ、闇は広がっていく。
魚が、恐慌を起こしたようにところどころで、跳ねている。
闇が広がりの伸び、縮み、また伸びる。
そんなことを暫し間続けていると、ルーミアが網を水の中に突っ込んだ。そして引き上げる。
そこには、魚が2.3匹ほど、捕まっていた。
「どう、これはわたしの勝ちでしょ。わたしの勝ちだよね!」
嬉々として、魚籠を持ち上げるルーミア。
中には、彼女が捕らえた川魚がたくさん入っている。
ルーミアは闇を駆使し、川から浅瀬に追い込んだ魚を捕まえるという荒業に出て、川魚の大量獲得に成功した。
対する天子の魚籠には、魚はゼロである。
自分が釣れないというのは、多少悔しくもあるが想定内だ。
天子は顎に指を当て、暫し考え込む。
釣りではなくて、能力で捕まえたものは、いかがなものか。
だがまあ、もとより、ルーミアに勝目などない。
私から勝負を受けた時点で、彼女の負けは確定しているのだ。多少のことは目をつむろう。
なにせ、私は天人。
私を妖怪であるこの子が食べるのは、無理なのだから。
この子を上手く利用し、言葉巧みに、その魚を少し頂く。それが狙いである。
「仕方ないわね。あなたの勝ちよ」
「じゃあ、約束どおり、天子のこと食べてもいいんだよね!」
頬を上気させ、見上げてくるルーミアに、天人は手の平を向けた。
「まあ、待ちなさい。そうね。間違いなく、あなたの勝ちだわ。でも一つ忠告してあげる。言い忘れていたけど、私は天人なのよ。これがどう言ったことか分かる?」
にやりと笑う天子に、ルーミアはきょとんとした顔を向けた。
どうやら分かっていないようだ。
「天人の血肉は妖怪にとって、毒になるのよ。それでも食べることが出来るかしら?」
「ダメだよ、わたし勝ったもん。天子がどんな言い訳しても、たべるもんね!」
頬を膨らませて怒るルーミアに、天子はため息をついた。
毒になると聞いても、まったく怯まないのは想定外だが、まあ仕方ない。
道具箱から新しい針を取り出し、指に軽くつきたてた。ぷっくりと、赤い玉が指の上に現れる。
「まずは、これを舐めてみたらどうかしら。お口に合わなくて、食べ残されたら私も浮かばれないわ。それに、そっちの勝利報酬は私を食べることのみ。食べる以外のことは許さないわよ。食べられもしないのに、死ぬ気はないわ」
そう言って、殺害は約束外よ、と付け加える。
毒とは言っても、この程度なら問題無いだろう。
きっと、少し舐めただけで吐き出すに違いない。
「それって何か、ずるくない?」
「あなたも、私の言葉尻を取って、釣りではないもので魚を獲ったでしょ。まずは味見。だから噛んじゃダメよ」
ルーミアはしばらく不服そうに、頬をふくらませていたが、まあいいかーと言いながら、天子が突き出した指をパクリと咥えこんだ。
そしてちゅっちゅと、吸い上げはじめた。
天子は立っているのにも疲れ、座り込んでいた。
しかし、疲れ知らずの小妖怪は、いまだに天子の指を咥えて、吸い上げている。
針の穴は小さいし、吸われてる量も微々たる物だ、何の影響もない。
それよりも天子は、よくわからない背徳感と、何とも言えぬ気恥かしさに、どうにかなりそうだった。
指を吸うルーミアの必死な顔を見て、天子は自分の頬に、熱がこもるのを感じた。
熱くなった首元を冷やすように、顔を上に向ける。
緩やかに吹き抜ける風が心地よい。
いい加減、指がふやけてしまうのではと言うほど時が経った頃、天子の焦りは、極限を迎えつつあった。
相変わらずの調子で、指を吸い続けられている。
いやむしろ状況は、悪化しているかもしれない。
この小妖怪はとても気持ち良さそうに、目をとろんとさせながら、指を吸っているのだ。
これはまずい。
この妖怪は天人の血を吸っても、何の影響もないのだろうか。
このまま悪影響がないようならば、そのうちこうやって指先をちゅっちゅする程度の味見の段階は終了してしまう。
すなわち、本格的なお食事が、開始されるということである。
その想像に、天子の顔から血の気が引いてゆく。
行動が軽率すぎただろうか。この妖怪を返り討ちにすることは、きっと容易いだろう。
しかし、勝負事の約束を反故にするというのは、プライドが許さない。
だからといって、命を差し出すというのは、当然できることではない。
そのとき、天子の指への、ルーミアの吸引がとまった。
いけない、味見は終わりだ。
次は本番だ。
後は無い。
背筋が冷たくなった天子は、恐る恐るルーミアを見た。
ルーミアのまぶたが、ぷるぷると痙攣している。心なしか、焦点も定まっていないように見える。
突然ルーミアが大きく背筋を震わすと、膝を折って倒れ伏した。
「え、ちょっと」
ルーミアの体から、じわりと闇があふれる。
とはいっても、さっき魚を獲っていたときに比べれば、微々たる量の闇だ。
だが天子は、その漏れ出す闇に、何か嫌なものを感じた。
雑木林の奥から、萃香が枝葉を持って帰ってきた。
天子が何かを抱えて、うずくまっているのを見て、おやと眉を上げた。
魚が取れたのかと期待したが、よく見ると、腕には黒い小さな女の子が、抱かれているようだ。
あれは森に住む宵闇だかの、あやかしだったか。
名前はルーミアであっていたはずだ。
私がいない間に、弾幕ごっこでもしたのか、はたまた宵闇のがちょっかい出して、天子に返り討ちに会ったのか。
こっちは、結構真面目に枝葉集めしていたというのに、天子は気楽に遊んでいたのか。
何か嫌味の一つでもつけてやろうと、内容を考えながら歩み寄る。
萃香に気づいた天子が、憤る小鬼が文句を言うより先に、困惑顔で声をかけた。
「ねえ、萃香。どうしよう……」
「ったく、なんだってんだい。私がいない間に、何をやってたんだ? 肝心の魚は釣れたのかい」
「そんなことはいいから、ちょっとこの子、みてあげてよ」
萃香は何をそんなに、この天人は狼狽してるんだろうと訝しんだ。
妖怪を退治したりすることなんて、そんな珍しいものでもなかろうに。
倒れているルーミアに、視線を投げかける。
なんだろう。何か違和感がある。ルーミアの感じがおかしい。
能力”疎”の使用時と、感じが似ている。
……これは、今、ルーミアは。
「お前! おまえ、一体何をしたんだ!?」
バラバラになりかけている。
「えっと、少しなら私の血与えても大丈夫かなって」
「お前の血を飲ませたのか!? ……なんてことを!」
萃香は天子からルーミアを取り上げると、頭をつかんで持ち上げた。
そして、もう片手の手をルーミアの口に突っ込む。
「ちょ、ちょっと、何ひどいことしてるのよ!」
「ひどいことをしたのは、お前だろう!」
慌てる天子を、萃香は鋭い視線で一喝した。
その今まで見たこともないような萃香の表情に、天子は喉を詰まらせたように口をつぐんだ。
「昔、天人の血を飲んだ仲間がいたんだ。その仲間はどうなったと思う?」
萃香の体から、一瞬木が傾いだような音が聞こえたと思うと、全身を霊気が包み込んだ。
「霧散して、消えちまったのさ……!」
空気の圧縮されたような音が響き渡ると、ルーミアの姿が消失した。
一瞬の出来事に、天子は呆気に取られたような、声を漏らした。
さっきまで、ルーミアがいた空間を見つめている。
萃香はふうと息を吐き出し、ぎこちない動作で、持ち上げていた腕をおろした。
「あの子は? ルーミアはどこに行ったの?」
「どこにも行っちゃいないかもしれないし、もうここにはいないのかもしれない」
そう言って、天子に手を開いて見せた。中には、小さな真っ黒い一寸ほどの珠があった。
そして、ルーミアの口に突っ込んでいた方の手を空を切るように、振り下ろす。
ビビッと、赤い何かが地面に飛び散った。
「あんたの血は、一応できる限り集めて、抜き取ったよ。でも、この子が元に戻るかはわからないね」
萃香は、地面に散った自分の血を見て固まっている天子の肩をぐいと引いて、自分に向かせた。
「これを引き起こしたのは、お前だぞ!」
持っていた黒い珠を天子の手に握らせる。黒い珠には、一切の重さがない。
天子は珠の思い外の軽さに、思わず声が漏れ、ひゅぅと喉が鳴った。
「どうすればいいの?」
「わからないね」
かすれた声でつぶやく天子に、萃香は難しい顔をして、腕を組んだ。
その答えに、天子は困惑の色を強めて、見つめ返した。
しかし、すぐに萃香の鋭い視線に耐えられなくなって、渡された黒い珠に、視線を落とした。
「生きてるの、よね?」
「……わからないね」
にべもない様子の萃香に、天子の顔が険しくなる。
「こんなことになるなんて、思わなかったのよ!」
天子の顔が歪み、目から一粒涙がこぼれた。
それを見た萃香は、一瞬そんな天人と同じような顔をしたが、すぐに表情を戻した。
「本当にわからないんだよ。今まで天人の血肉を食らった妖怪は、私の知る限りでは、すべからく消えちまうか、死んじまっているんだ。その黒い珠は、私の能力で拡散しそうになったのを無理やり萃めて固めたもので、その子は、生きてるのか、死んでるのか、判断がつかないんだよ」
「このままだと、どうなってしまうの?」
天子の問いに、萃香は居心地悪そうに、身じろぎした。
こういうときにも、嘘をつけないってのは、なんとも辛いものだ。
「その子が消えちまうのは、確実だろうね」
天子は萃香と別れ、放心状態で川から森に入り、目的もなく歩き続けていた。
天界に戻ろうかとも思ったが、闇を操っていた妖怪であるルーミアを、光り輝く浄土である天界に連れて行くのは、まずいと思いやめた。
かといって、この子を元に戻す方法も思いつかない。
前に知り合った紅魔館の知識人、パチュリーを訪ねてみようか。
噂に聞いた、天才薬師と言われる、竹林の八意も良いかもしれない。
やることが決まったなら、少しでも早くそれらの人に、知識を求めたほうがいいだろう。
でも私は、その両者でも、この事態を好転させてくれるような気がしなかった。
この郷の巫女とまでは行かないまでも、自分の勘に対し、それなりの自信があった。
だが、そんな後ろ向きな勘など、この時ばかりは働いて欲しくなかった。
「私らしくもない……」
そうだ、私は天人、比那名居天子。多少の逆境など、屁でもない。
自分のしたことの落とし前は、どんなものを利用してでも、解決してみせる。
「まずは、紅魔館ね」
□ □ □
天子は館に着くと、正面に座する門に、メイド姿の妖精が立っているのを見つけた。
その姿から、その辺でよくいる妖精などではなく、この館の使用人なのだろうと考え、声をかけた。
「こんにちは。私は天人の、比那名居天子。この館にいる、パチュリーと言う方に、会いたいのだけれど」
メイド妖精は、ちらりと背後の館の中庭を覗き見て、少々お待ちくださいと言い残し、奥へ向かっていった。
しばらくすると、先ほどのメイド妖精と、赤髪緑服の背の高い女が出て来る。
「はじめまして、天子さん。私この紅魔館の門番をしている、紅美鈴です。お話は伺いました。パチュリー様なのですが、普段ですと事前にアポイトメントがない場合、面会できないんですけど……」
「そう」
天子は小さくそう呟くと、次の候補であった竹林へ向かおうと、振り返った。無理なら仕方ない。次の目的地である竹林に、向かうだけだ。
「あ! 待って下さい。とは言うものの、もうしばらくすると、お茶の時間になります。その時には、お姿を出すと思いますので、もしかすると、お会いになってくださるかもしれません」
美鈴は、人懐こい笑みを浮かべ、館の中を示した。
「今ちょうど、中庭にて授与式を行っていますので、ご覧になってお待ちしたらどうでしょうか」
「授与式?」
美鈴について門をくぐり、中庭に入ると、そこに結構な人だかりができていた。
「はい。毎月、うちの使用人から何人かの、優秀な仕事をした者に、お嬢様からの褒賞授与があるのですよ。なんと、今回は私の管轄である外回りの子達から、一年で一度出るか出ないかの賞である、紅月賞が出たんです!」
美鈴は興奮したようにそう言うと、目頭を押さえて上を向いた。
「あの子達の、日ごろの頑張りが報われたのだと思うと、私も嬉しくって……」
中庭の人ごみの中心を見ると、大勢のメイド服妖精達が、少し高くなった特設舞台の中心に視線を向けている。
そこには、上小さな薄ピンク一色の女の子と、前の私の異変を起こしたときに手合わせした時止めメイドの咲夜、それと三人のメイド服妖精がいた。
あの尊大な様子の小さな女の子が、噂に聞くこの館の主、レミリア・スカーレットだろう。
天子が見ているのにレミリアが気づき、怪訝な視線を向けてきた。軽く頭を下げて、それに答える。
台の上の三人の妖精メイドに、何やらメダルやらが渡されると、妖精メイド三人のうちの一人が嬉し泣きか、ひざを折って屈みこんだ。
笑いながら、他の二人がぽんぽんと肩をたたいたり、困ったように、レミリアに向かって頭を下げたりしている。
なんだか、微笑ましい。
「あ、今少し笑いましたね」
隣にいた美鈴が、そう天子に声をかけた。
「ここに来たときからずっと、悲しそうな顔をされていたので、気になってました。少しでもご気分が晴れたならよかったなあって。……何かお悩みがあって、この館を訪れたんですよね」
「ええ。私だけでは答にたどり着けそうに無かったから、知識人だと名高い、この館の魔女さんに、会いに来たの」
「そうですか……まあ、あれですよ。事情はわからないですが、そんな顔してると、運も逃げて行っちゃいます。大きなお世話かもしれませんが せっかく可愛いお顔してるんですし、もっともっと笑ってください」
「……ありがとう」
確かに、言葉だけなら大きなお世話といった感じだが、その優しい声音にそんな気持ちは、これっぽっちも感じなかった。
むしろ、思わず呻きそうになり、唇を噛んだ。
ちょうどその時、大きく拍手がなったので、そんな気持ちを誤魔化すように、天子もそれに続いた。
その後、レミリアの締めの言葉が続き、咲夜が解散を告げると、妖精メイド達が散っていった。
美鈴は何人か残ったメイド妖精と、舞台の撤去作業を始めている。
天子は勧められたベンチに、腰を下ろし俯いていた。
「お前はあれだろう、天界に住んでるとか言う、不良天人の」
「……天子よ」
天子が顔を上げると、この館の領主、レミリアが不敵に笑っていた。
少し後ろに、日傘を差して主人に寄り添う咲夜もいる。
「咲夜から噂は、聞いているよ。なんでも、あの巫女の神社を崩壊せしめたそうじゃないか。これほどの怖いもの知らずも珍しい。今度はうちの館を破壊しに来たのか?」
「いいえ。そんな用事で来たんじゃないわ。そういった用事で来れていたなら、良かったのだけど」
「ふむ、傲岸不遜、唯我独尊、我田引水、傍若無人、夜郎自大、厚顔無恥、枉法徇私の我侭天人だと聞いていたが、少し噂と違ったか」
「ぐ……いくら挑発しても、乗らないわよ」
天子は呆れたようにそう答えると、レミリアはフンと鼻を鳴らした。
「やれやれ、面白くないやつだな」
「そんな気分じゃないのよ」
ため息をつくと、天子は後片付けしている美鈴達を眺めて、目を細めた。
こういった輩は、逆に褒めてやったほうが、ペースを崩されるだろう。
天子はそう思い、とりあえず皮肉ではなくて見たままの感想を述べた。
「あなたの方こそ、我侭で自分勝手の恐ろしい吸血鬼って聞いていたけどね。でも、これを見た感じだと、評価を改めないとかしら。毎月こんなことをしているなんて、とても家族思いなのね。使用人たちも皆、生き生きしているし。……清流の清濁は、その源に由来する。あなたは、この館の人たちにとって、とても良い領主なのでしょう」
その言葉に、レミリアは目を丸くした。
「む……う。なんか調子の狂うやつだな。……しかしまあ、私が、自分勝手なのは確かだぞ。やりたいと思ったなら、私は何のためらいもなく実行する。例えば、今お前を自分のものにしてしまうとか、な」
「あら、そう考えるならば、私の噂の評価とやらも、間違いではないかもね。私もただただ、自分に正直なの。考えに異を唱えるものがいるなら、この頭脳と力を以ってことに応るのは、私もあなたと、一緒よ?」
「……ふん」
レミリアは片目を閉じると、表情を柔らかくし、軽く微笑む。
「なかなか気持ちのいいことを言う。気に入ったよ。今度、茶会にでも誘ってやる。咲夜から大体の報告は聞いたが、お前の目から見た、神社倒壊時の話でも聞いてみたいね」
「あー、あれはあまり、話したくないのよね」
「ほう。そいつはいい。無理やり聞き出すのも楽しそうだ」
「あら、やっぱり、吸血鬼って性悪なのは本当だったのね」
「まあね、だから、言っただろう? さて、今日は、私の友人に用事があるんだったか。 咲夜、客人を目的の場所へと、案内して差し上げろ。私の新しい友人だ。丁重にもてなしてやってくれ」
レミリアは、クックと喉を鳴らして、機嫌が良さそうに、従者にそう命じた。
天子は咲夜につれられて、長く続く紅い廊下を歩むと、重厚な両開きの扉の前についた。
「この扉を抜け、まっすぐ進めばパチュリー様のいる所にいけるはずよ。何か頼みごとするなら、ご機嫌を損ねないようにね。さっきのお嬢様との会話を見た感じだと、心配は要らなさそうだけれど。少ししたらお茶のお時間だから、その時にまた、そっちに行くと思うわ」
天子は咲夜に礼を言って扉をあけた。見た目に反して、立て付けが良いのかすんなり開く。
中は薄暗く、ひんやりとした空気が立ち込めている。等間隔に並べられた燭台が、天子が入ると同時に順々に、奥に向かって淡い黄光を灯していった。
明かりに促されるまま進む。中は本当に、紅魔館にある図書館かと思うほど広かった。
燭台の明かりは広範囲には届かないので、全容は見渡せない。
あるときはどこまで続くのかというような階段を上り、
大渓谷と思うような掛け橋を越え、
深すぎて底を覗けない巨大な回廊の細道を歩き、
何百もありそうな扉だけがひたすら続く道を通り抜け、
やっとのことで、他とは違った、緑色をした明かりの灯っている扉の前に、たどり着いた。
「図書館というより、大迷宮ね」
そう言いながら扉を開ける。
中は外よりは多少明るいものの、やはり薄暗い。こちらも所狭しと本が並び、それ以外にも珍妙な用途不明のオブジェクトでいっぱいだった。
それらのものに触れないように、慎重に進んだ。
間もなく、奥から話し声が聞こえてきた。
「おかしいですね。私より大分前に、こちらに向かったはずなんですが」
「もしかして、盗人に入ったのではなくて? 今頃、めぼしい本や道具を袋につめてるかもしれないわね」
「ふーん、悪い人が来たの? それなら私が探して、キュっとしてきてあげようか。あはは、いいね、鬼ごっこだ」
「ずいぶんな言いがかりね」
天子が声をかけると、話し声が止んだ。
声の聞こえてきていた薄手のカーテンをめくると、中に三人の姿があった。
中にいたのは、テーブルの上に洋菓子を並べている咲夜。
本を読みながら紅茶を飲んでいるパチュリー。
そして頬杖をついてきょとんとしている、初めて見る金髪少女だ。
その姿にルーミアを重ねてしまい、視線を逸してしまった。
それにしても、後から来るといっていた咲夜が、もう来ているのはどういうことだろう。
時間を止めて、先回りしたのだろうか。
天子を見ると、咲夜が思い出したように「あ」と声を上げた。
「そういえば、外の燭台、水母の双子棚方面に続いてましたわ」
咲夜がそう告げると、パチュリーはばつが悪そうに、本を置いて天子を見た。
「ごめんなさい、どうやら図書館観光用の、案内術式が発動していたみたい。無駄なご足労かけちゃったわね」
「まあ、丁度美味しそうなお菓子も用意されてるし、それをご馳走してくれるならチャラでいいわよ。食事前の運動ができて、かえって美味しく頂けそうだわ。あと、ちょっとお願いがあるから、それも聞いてくれると嬉しいかも」
「そう言ってくれると助かるわね。でも、お願いとやらは、内容次第。咲夜、この方の分も用意してもらえるかしら?」
「もう並んでいますわ、パチュリー様」
「という訳よ。さあ、そこにお座りなさい。レミィにも宜しくしてやってくれって言われたし、面倒だけど、できることならしてあげるわ」
「ありがとう。それにしては、盗人にでっち上げられそうになっていたみたいだけどね?」
少し意地悪く天子がそう言うと、パチュリーはわざとらしく咳き込んだ。
「本題に入りましょう。何か私に頼みたくて、ここまで来たのでしょう?」
魔女は何か問題でも?というように、そう切返してきた。
さすがに頼みごとをするのに、これ以上いじるのは、得策ではない。
天子はそう考え、勧められた椅子に、腰を下ろした。
何を頼んだらいいのだろうと、考えをまとめる。 ルーミアを元に戻してほしい、と頼めばいいのだろうか。
天子は、今日あった出来事を反芻した。
「あなた、泣いてるの?」
声にはっとして、視線を上げる。
今まで黙っていた金髪の少女が、悲しそうに天子を見ていた。
「あなた、私が大事なものを壊しちゃったときの顔してるよ。壊したくなかったのに、ちょっと失敗しちゃっただけなのに、もう元に戻らない。……そんな悲しい時の私と同じ顔してる」
「あなたは?」
「ごめん、自己紹介まだだったね。レミリアお姉様の妹、フランドールよ」
「天界に住む天人、比那名居天子よ。天子って呼んでくれていいわ」
天子は気を取り直して、フランドールに笑いかける。天子が表情を和らげたからか、フランドールが陽気表情で身を乗り出した。
「へー。地下奥深くに住んでる私とは、真逆の人だね。あ、そうそう。吸血鬼って鏡に姿映らないでしょ、今使ってる、河童が造ったとか言う特殊な鏡は、私たちでも姿映るんだよ。まあ、それが無い頃でも、私分身できるから、そうして見たりとか。お姉様は、体の蝙蝠化が得意だから、視覚をそっちに移して、確認したりとかしてたかも」
「吸血鬼の知恵ってやつね」
「そうそう。長く生きてれば、必要なことの方法はいくらでも、見つけ出せるものよ。天子も結構長く生きてそうだよね。何か面白い話とかたくさん知ってそう。何かなかった? 面白そうなこと!」
話しだしたら止まらない黄色い悪魔に、天子は苦笑する。
「そうねえ。私も結構、暇な天界生活をしてて、あまりにもつまらないものだから、異変を起こしたクチなのよ」
「え! そうなんだ。お姉様と一緒だね。ふーん、天子も結構強そうだし、一緒に弾幕ごっこしようよ! ね、いいでしょ?」
「あらあら。天子、フランと弾幕ごっこをするの? 本題のほうはいいのかしら?」
本題から話が逸れそうになったのに対し、パチュリーが助け舟を出した。
天子は、ありがたくそれに乗ることにする。
「ごめんね、フランドール。次また来るときに、一緒に遊びましょう。あなたのお姉様からも、お誘いを受けたから、きっと来るわ」
「そうかー、じゃあ仕方ないね。絶対来てよね。絶対だよ!」
天子はフランドールと指切りをすると、改めてパチュリーに向き直った。
「……この子を元に戻してほしいの」
天子は大事にしまってあった、ルーミアの黒い珠を取り出す。
パチュリーは珠を受け取り、しげしげとそれを眺めた。
「この子って、どういうことかしら」
パチュリーの問いに、天子は事のあらましを説明し始めた。
魔女は、手元の紙にメモをしながら、天人の話を聞き、時折質問を挟み込む。
大体の説明を終えて、天子が黒い珠に視線を戻した。
「その黒い珠が、ルーミアなのよ」
「天人の血、ねえ」
パチュリーは、手元のメモを半分ほどに裂いて、一部分を咲夜に渡した。
「そこに書かれているものを持ってきてくれるかしら。分からないものは、小悪魔に聞いてちょうだい」
咲夜はさっとメモに目を通すと、軽く頭を下げ姿を消した。
パチュリーは天子に向き直ると、懐から小さな短刀を取り出す。
「少し、血をいただいても、いいわよね?」
天子はうなずいて、腕を差し出した。
「刃物の扱いは咲夜が慣れてるから、先にやってもらえばよかったかしら。少し採りすぎたわね」
「死ぬもんでもないし、気にしなくていいわ」
薬瓶に揺れる天子の血を見て、パチュリーが呟いた。
フランドールに、清潔な布で腕を巻いてもらいながら、天子が苦笑する。
興味深げにそれを見ていたフランドールが、笑いながら言う。
「取りすぎたの? もったいない。あまりそうなら、私にちょうだいよ~」
「ダメよ!」
突然大声を上げた天子に、フランドールは大きく身を震わせた。
「あ……えと、私……」
フランドールは怯えたように、天子の腕に巻いていた布を握りしめて、立ちすくんだ。
天子は、しまったと言った表情で、刺激しないように、ゆっくりと手を回し、震える小さな悪魔を抱き寄せた。
「怒鳴ってしまって、ごめんなさい。でも、本当に私の血はダメなの。いくら、あなたが血に強く結びついた妖だとしても、飲んだら、どうなるかわからない……」
「……ごめんなさい」
かたんと音を立てて、テーブルの上に小さな小箱がいくつか出現した。それと同時に、咲夜も姿を現わす。
「お待たせしました、パチュリー様。お探しのものをお持ち致しました……まあ、随分と仲が、良くなったようですわね」
咲夜は、天人に抱かれる黄色い悪魔を見て、驚いたように口に手を当てる。
そして、一瞬天子に視線を合わせ軽く微笑むと、パチュリーの手伝いを始めた。
「器具の設置、お手伝いしますわ。ご指示を」
「ありがとう。そのガラス管は私がやるわ。ほかの道具は、包から出しておいて並べて置いて頂戴。そっちの器に、常温の水を八分目くらいまで入れて。こっちのには、冷水を」
てきぱきと準備を始める魔女とメイド。
「解析には、ちょっと時間がかかるわ。お茶でも飲んで、少し待っていて」
半刻ほど経った頃、パチュリーが展開していた魔法術式を停止させた。
咲夜は館内指示と夕食の準備のため、先ほどここを出て行った。
フランドールは、天子に寄りかかって眠っている。
「お待たせ。解析できたわ」
「どうなの?」
暫し天子を見つめたあと、パチュリーはもう冷めてしまった紅茶を一口飲んで、向かいに座り直した。
「そうね。まず、あなたの血液から説明しましょうか。あれは、あなたの言ったとおり、妖怪と言われるものに対して、強力な概念分解効果を発揮するものだったわ。その効能は呪術的と言っていいくらいね。あれを取り込んだ妖は、概念基盤をズタズタに引き裂かれてしまう。肉体の破壊は、その二次的効果に過ぎないわ」
そう言って、パチュリーは天子から採取した血液の入った瓶を軽く振ってみせた。
「時間が少し経つにつれ、この血自体の呪術性は薄れていくみたい。とはいえ、かなりの長時間を経ないと無毒には至らないでしょう。それと」
「ねえ、お願い。もう私の血については大体わかったわ。できれば、ルーミアの黒い珠の方の説明が欲しいのだけれど」
天子の呼びかけに、パチュリーは目を伏せて溜息をついた。
「結論から言うわ……これ、この子は、ただの一暗黒物質に過ぎない。ここまで固形化されたものは珍しいけど、ごくごく自然に、世界に存在する物質の、一つでしかないわ」
「つまり、どういうことなの?」
「この黒い珠に、あの宵闇の妖怪の痕跡及び、概念組織、魂魄形跡、可能性を持ったあらゆる要素の断片すら、発見できなかったわ。ごめんなさい……」
「そう……」
天子はぐっと拳を握り締め、溢れ出しそうになる感情を押しとどめた。
「でも、その子はまた、再生するかもしれないわ」
「……え?」
「前にその子を外で眺めたことがあったとき、体の一部分を完全に闇霧状に分散させていたのを見たことがある。そのことから、レミィに近い、肉体より精神に重きを置く魔力思念基盤を根幹にした、幻想生命体だと仮定することができる。そして、闇を操るという彼女の能力を鑑みるに、その発生理由は畏怖や想像、人々の思いに因るところが大きいとも考えられるわ。あなたに分かり易く言えば、一種の八百万の神に近いそれだということね。だとするならば、その畏怖がこの世界に存在する限り、その子がまた生まれてくるという可能性はある」
「でもそれって、つまり人間が死んでも、また新しい人間が生まれてくるということと、同じことよね?」
「……う、簡単に言ってしまうと、そういうことね」
パチュリーは一瞬怯んだものの、また視線を鋭いそれにして、語りだす。
「で、でもまだひとつ、考えられる可能性があるのよ。その子と密な因果や、記憶を持つものがその媒介となり、その条件を再現できるならば、元の状態での再構築の可能性もある。つまり、妖怪の山の風祝と神の関係に近いかしら。さらに別のものに例えるなら、巫女による神おろしも、原理としては近い。ああいったようなことが――」
「ごめんなさい。ルーミアと私は、つい今日会ったばかりなの……繋がりは、浅いわ」
天子の言葉に、魔女は言葉を失ったように黙りこくった。
そして小さく、力になれずごめんなさい、とつぶやいた。
「いいえ、本当に、ありがとう」
天子はそっと、消沈する魔女の手に自分のそれを添えた。
私を慰めようとしてくれていたのだろう。
ちょっと言葉は固く、論理的すぎる感はあるが、本気で力になろうとしてくれていたのは、よく分かった。
なんとなく予感はしていたのだ。
心構えはできている、大丈夫だ、……大丈夫だ。
「天子、我慢するの、よくないよ?」
見ると、となりで寝ていたはずのフランドールが、今の自分の心を代弁するかのような、悲哀に満ちた顔で、天子を見ていた。
天子は、その少女の頭に頬を寄せると、静かに嗚咽した。
□ □ □
天子は紅魔館の面々に礼を言って、次の目的地である永遠亭のある、竹林へと足を向けた。
竹林に入って結構経つが、中々目的地にたどり着かない。
案内がないと、そう簡単にたどり着けない場所だというのをだいぶ経ってから、思い出した。
私が紅魔館を去る前に、咲夜が竹林の案内をしてくれるという人間への、案内状を書いてくれていた。
しかし、ショックを受け、頭が働かなくなっていた天子は、すっかりそのことを失念してしまっていた。
大分奥まで入り込んでしまった今となっては、その人間の庵も、何処にあるのか、さっぱりわからなくなっていた。
諦める訳には行かない。
まだ、天才頭脳を持つと言われる、八意永琳が残っているのだ。
彼女に力添えしてもらうまでは。可能性が潰えたわけではない。
天子は気力を振り絞り、顔を上げて前を見た。すると、不審そうに自分を見つめる、赤い目と視線が合う。
「あなた、こんな所で何をしてるんですか?」
前に会ったことのある月兎が、大きな箱を背に担いで立っていた。
「もう結構暗くなってきてますし、危ないですよ、って前の異変の時の天人じゃない!」
「あなたは確か、行動を起こすのが遅すぎた、月兎さんだったわね」
「う、結構気にしてるのよそれ……というか、何してるの。思い切り不審人物ね」
「ちょっとあなたのところにいる、八意永琳に会いたいと思っていてね。助かったわ。道がわからなくてどうしようかと、考えていたの。案内してくれないかしら」
天子の答えに、月兎鈴仙はこれでもかという疑いの視線で、見つめ返してきた。
「何か、裏があるんじゃないでしょうね。まず、どうして師匠に会いたいのか、聞かせてもらいましょうか」
「うう……分かりました、私は何の力にもなれませんが、すぐにでも師匠に頼んでみましょう。きっと師匠なら、何とかしてくれるはずです!」
天子が説明すると、月兎は話の途中から顔をくしゃくしゃにして、鼻をすすり始めた。
今では、少しでも早く八意の所に案内しようと、速めの飛行で館に案内してくれている。
はじめは、あんなに警戒の色を強くしていたのに、少し話しただけでこれである。
守護をするものとして、少し問題があるのではないだろうか。
頼みをする側としては、助かったのだが。
天子がそんなことを考えていると、古めかしくも上品な和風屋敷が見えてきた。
「天子さん、先ほどの話の黒い珠を渡してもらっても良いでしょうか。私がすぐに師匠に掛け合って、お願いしてきます!」
天子は一瞬、手放すのを不安に思い、渡すのを少し躊躇った。
しかし、渡したほうが早く答えを聞くことができるだろう。
ルーミアを治すのに、時間が早いほど良いかもしれないのだ。
「普段、患者さんは、表のロビーでお待ちして頂いています。なので、天子さんもそちらでお待ちになって――」
「あら優曇華、そんなに急いでどうしたの。……すごい顔してるわよ」
「師匠!」
庭に、二人の人間が立っていた。
一人は、長い美しい黒髪を持ち、のんびりとした雰囲気だが、何処か神々しさにも似た気品がある少女。
もう一人は、奇抜な赤青二色の衣服をまとった、底の見通せない不思議な気配をまとった女性だ。
「今、姫と夜の散歩に出かけようと思っていたところなのよ。後ろの方は?」
「よかった! 危ない危ない、あとちょっとで、すれ違いになる所だったんですね。こちらは、比那名居天子さんです」
「あら、あなたが天人の……はじめまして、ここで薬師をしている、八意永琳よ。こちらは――」
「この永遠亭の主をしてる、蓬莱山輝夜よ」
「はじめまして。天子って呼んでくれていいわ」
三人が挨拶を交わすと、はっとしたように鈴仙が、永琳に駆け寄った。
「師匠、散歩に行かれる前に、これを見てもらえませんか。この子、宵闇の妖怪ルーミアさんらしいんです。天子さんの血を飲んでしまい、このような姿になってしまったらしいのですが、治せますよね?」
「天人の血を……?」
永琳は、鈴仙から黒い珠を受け取ると、少しそれをじっと見てから、天子に向き直って告げた。
「はっきり言いましょう。無理ね。これはもう、妖怪でもなんでもない、ただの物質だわ」
「え!? ちょ、ちょっと、師匠! 嘘ですよね?」
「いいえ。嘘ではないわ。この珠がルーミアという、妖怪だったとして……そうね、人間に喩えて、わかりやすく言えば、まさに遺骸といったものね」
「師匠、デリカシーないんですか? 言うにしても、もっと包んでいっても……」
「こういうものは、はっきり告げたほうが、患者の為なのよ。そこの天人さんは、中途半端に何か可能性があるような言い方をすると、どこまでも無駄に努力をし続けてしまいそうな、目をしているもの」
天子は下を向き、目を閉じた。
わかっていたが、こうも突きつけられてしまっては、どうしようもない。
全ては私が招いたことだ。
鈴仙が同情するような、言葉を投げかけてくる。天子は礼を言って、踵を返す。
「ちょっと待ちなさいな」
肩越しに声のほうを見ると、永琳の隣に立っていた輝夜が、歩み寄って来ていた。
「ずいぶんな難題にぶつかっているようね。本来、私も難題を出す立場なんだけど、今日は趣向を変えて、助力側に回ってあげるわ」
輝夜は口元に袖をあて、小さく微笑んだ。
そうして、腕を伸ばすと、トンと天子の額を指で小突く。
その瞬間、天子の視界がぐにゃりと、揺れた。それも一瞬で、元に戻る。
だが、頭の奥に小さな鈍痛が、残り続けている。
「な、何をしたの?」
「ちょっとした、オマジナイよ。あなたも長く生きてきたのでしょう。その中に、もしこの難題を解決する因果があるならばと、少しだけ、掘り起こしやすくしてあげたの」
天子と輝夜のやりとりに、永琳が困ったように声をかけた。
「姫……さっき、私が言っていたことを聞いていましたか」
「永琳ってば、頭かたいんだから。夢がないわよ。無理なことでも、挑戦しないと無理なままなのよ?」
「いや、ですから……無理なことは、無理だからこそ。特に命については――」
この姫と天才が何を言っているのかはわからなかったが、もうそれを問い詰める気力は、天子には残っていなかった。
□ □ □
天子は森を歩んでいた。
どうやってここに来たのか、記憶は定かではなかった。
竹林での八意の答えに、頭が真っ白になってしまった。
あの後、何があったのかも全く記憶になかった。
もしかしたら、失礼なことをしてしまったかもしれない。
体が重い。頭痛が激しい。視界がぼやける。
頼える者は、もういなかった。
ルーミアは、もう元に戻すことはできないのだ。
どうして私は、一妖怪であるルーミアに、こんなにも固執しているのだろう。
私のミスで、あの子を殺してしまうことになったから、その罪悪感だろうか。
人間であった頃は、生きるために他のものの命を食って、生きていたではないか。
人間という生き物は、地上にいるだけで、目に見えぬほど小さな生物を常に殺し続けているのだ。
自らの体内にも大量の蟲を飼い、生産と殺戮を繰り返している。
拡大してみれば、ひとつの現界があるといってもいいくらいだ。
それに、そんな視点から外してみても、今こうやって森を歩いていれば、小さな虫を潰し、殺していることだってある。
それをいまさら、一人死なせてしまったくらいで、なんだというのだ。
でも、そんな理屈に合わない感情を持つのが、人間なのだ。
そして私は、中途半端な、半分人間に片足突っ込んだような、天人である。
「う……ぐ、うう、うぅ……う、ぐ、……ルー、ミア……」
……この時、私はどうしようもなく、人間だった。
しばらくすると、空模様が悪くなり、思ったとおり雨が降り出した。
森の中にちょうど良い廃屋を見つけると、中にあがりこんだ。
埃まみれで、何年も放置されていたような廃屋だった。
壁に背を預け、窓から空を眺める。雲は黒く分厚く、当分止みそうに無い。
外から内へ視線を移動させる。小屋の中は、雨雲で暗くなった空に伴って、暗闇を増していた。
昔に、こんな感じの小屋にいたことがあったような気がする。
ぼんやりと考えていると、少しずつ、そのときのことが思い出されてきた。
ずいぶん昔のことだ。
天人になる前だったか、私は家で行われる儀式に、うんざりしていた。
毎日のように天からもたらされたという桃を食し、白無垢を身にまとい、清水で身を洗うとうことをずっとしている時期があったのだ。
記憶があいまいだが、あれは今思えば、天人になる前準備だったのだろう。
その毎日の所作もそうだが、見も知らぬ新しい土地へ移り住むというのが、すごく嫌だった覚えがある。
天人になる前は、友達もたくさんいたし、生まれてからずっと過ごしてきた土地も、大好きだった。
得体の知れない天界に行くのも、天人になるのも嫌だった私は、散々我侭を言って駄々をこね、親を困らせていたと思う。
そんなある時、父と激しく喧嘩した私は、家を飛び出した。
当てもなく歩き続け、幼い自分は当然のように道に迷い、帰りたくとも帰れなくなってしまった。
日も暮れ、里から遠く離れ暗くなった森を一人歩いていると、とうとう恐ろしい形相をした妖怪に、捕まってしまった。
その妖怪は、気味の悪い笑いを常時浮かべていた。声が漏れるたびに、口から見た目どおりの嫌悪を催す匂いが漏れ出した。
今でも、あの匂いを思い出せる。
火葬場の人を焼いたときに出る煙に、近い匂いだった。
恐怖に身をすくませ、呼吸もまともにできず、あふれ出る涙に加え、匂いがもたらす吐き気に、それだけで死んでしまうかと思った。
妖怪は私を脇に抱えると、空を飛ぶような身軽さで森の中を走り、今いるような小屋につれて来て、私を直立姿勢に縄で柱へくくりつけた。
小屋の奥から大きな鍋を持ち出してきて、囲炉裏で見せ付けるように火を沸かし始めた妖怪は、脇から出した出刃包丁をこれみよがしに、研ぎはじめる。
シャコシャコという包丁の研ぎ音と、時折こちらを振り向きにやりと笑う妖怪だけが、小屋の中での動きだった。
しばらくして、包丁を研ぎ終わったのか、妖怪がゆっくりと全身を振り向かせた。
途端に、表情をこわばらせる。
「これはこれは、こんな小汚いところに、何の用ですかい」
妖怪が、初めて声を掛けてきた。
そう思ったが、視線を追うと、私ではなくその後ろを見ているようだった。
柱にくくりつけられていて、振り返ることはできなかったが、何かが、後ろにいるのだろう。
もしかしたら、助けかもしれないと期待したが、媚びるような妖怪の顔を見て、その仲間なんだろうと思い至った。
「陳腐な食べ方してるのね」
後ろの何かが、そう言った。
「そりゃあ、あなた様にはわからないでしょうよ。何もしなくとも、あなたへの畏怖は揺ぎ無いもんだ。けど俺みたいな小妖怪には、そんなものはないんです。直接襲って、喰らって、力をつけなきゃなんねぇ。これも、久々の獲物でしてね、こうやって出来る限り怖がらせて、かさ増しせんと勿体無くて」
「結構おいしそうじゃない」
「そうなんですよ。何処かの、巫女かなんかの血筋ですかね。少々臭みが無さ過ぎて、淡白な嫌いもあるんですが、こんな上玉には、生まれてこの方出会ったことはないですぜ。……へへ」
そう言って妖怪は、舌なめずりする。
「ねえ、この子を私に、よこしなさいな!」
「え? それはひどいでしょう。俺が捕まえた、滅多にない獲物ですよ!」
うろたえながらも、何とか自分のものだと主張する妖怪に、後ろの声は冷ややかに言い放った。
「それで? この世界の力ないものは、力あるものに従うしかないんだよ?」
「で、でもよ!世の半分を手にしてるような、あ」
妖怪がさらに反論しようとした瞬間、目の前にいたはずの、妖怪の姿が消えた。
固定されて動かない頭では、見れる範囲も限られていたが、見渡せる範囲で、視線をさまよわせる。
だが、結局妖怪の姿は見つけられなかった。
妖怪がいたあたりに、黒いシミのようなものができている。もしかして、あれが妖怪なのだろうか。
「どんな畏怖も、ずっとそのままでは、いられないんだよ。わたしもいつか、あなたみたいに、力あるものに消されるかもしれない」
そう後ろの声が呟くと、後ろから何かが、目の前に流れてきた。
真っ黒な霧のような何か。
中に、赤い二つの光が灯っている。
「あなたのこと、たべるね」
何の感情も感じられないその声に、私は息が止まる思いだった。
しばらく何も反応できず震えていると、真っ黒な霞が私の体にまとわりついた。
ひりつくような、痛みが走った。
黒い霧は、私の全身を舐めるように、這いずり回る。
まるで、その黒い何かが体の中に侵食してくるようだった。
逃れようともがくが、縛られた体は、もちろん動かなかった。
「いつもは、ぱくりと一口に食べてしまっていたけど……さっきのやつが言ってたとおり、おびえた人間って、いつもと違った美味しさがあるのね。もっと熟成させてみたら、どんな味になるのかしら。気になってきた……ねえ、あなた。今は逃がしてあげる。私がまた、あなたを食べに行くその時まで、怯え続け、美味しく育ってちょうだい。私はいつでも、あなたのことを凡ゆる闇から、見ていてあげるから」
全身に一層の痛みが走り、その痛みが強くなり堪えられなくなると、私は糸が切れたように気を失った。
その後、私は父の配した捜索の者に、無事発見された。
私は、父に抱きかかえられながら、こう言われた。
「地子や、天人になれば、その血肉は妖に対して毒を帯びることとなる。そうなれば、やつ等にとって食べられる恐れというものも、なくなるのだよ」
次の日、私は今までかたくなに拒んできた天界行きを、父に了承した。
「そういえば、そんなこともあったっけ。すっかり忘れていたわ」
あの後、当分の間は暗がりが怖くて、常に侍女を付けていたものだ。
そんなことも、天人になって幾分もしたら、なくなった。
今でも、妖怪や暗がりは怖いだろうか。いや、もうそんなことは無いはずだ。
けど、死はどうだろうか。やっぱり怖いのだろう。
現にこの子と会ったときに、食われそうになると考えて、震えていたではないか。
他の位の高い天人は、物欲や生存欲求などは、超越し、風化している。死んでないのも、ただ淡々と事務的に、死神を退けている結果に過ぎない。
死を怖がっている天人など、やはり私くらいのものなのだろう。
ルーミアも、消えそうになっていたときは、怖かったのだろうか。
「ごめんね……」
私は黒い珠を両手で包み込むようにして、体を丸めた。
どれくらい、時間が経ったんだろう。
周りを見渡してみると、ただただ黒い、空間が広がっている。
確か私は、古ぼけた小屋にいたはずなのだが。
時間の感覚もだいぶ前から、曖昧だったが、視界もいかれてきてしまったのか。
というよりも、本当に、真っ暗で何も見通せない。
新月の夜だろうと、天人の力を持つ私は、多少なら目も利くはずなのに。
起き上がってみても、感じるのは、多少硬く感じる地面と、靄にも似た空気だけだ。
雲よりも粘つき、水よりも軽いものに、全身が包まれている。
音も聞こえない。聞こえるのは、自分の脈動のみである。
だが、真っ暗で何も見えないはずなのに、何かがうごめいているのが、気配でわかった。
何か振動が、伝わってきているのだろうか。
臓腑に響く、重々しい、何かの感情のような、響き。
その中に、記憶の琴線に触れる何かが、あった。
感じる。確かに。
「……ルーミアなのね?」
全方位から、心臓の脈打ちのような、重い振動が伝わってくる。
その揺れに、何故だか激しく心が揺さぶられる。
ただただ、漠然と寂しい、そんな感情。
やはり、この空間全てがルーミアなのだ。根拠はなかったが、天子はそう確信した。
そして、自分がすべきことを直感した。
緋想の剣を抜き放つ。
そして、流れるような動作で、背後に突き立てた。
一瞬の後、剣が目がくらむほどに、輝き出す。
周りの闇が恐慌を起こしたように、蠢き、渦巻き始めた。それと一緒に、悲痛な感情が全身を叩きつけた。
自分を包み込む何かが、苦しげに脈動する。
その何かが、逃げるように私の体の中へと侵食する。
なんだろう。その感じに、あまり不快感を感じなかった。とても、不思議な感じだ。
いままで自分の中にずっとあった何かが、それと混ざり合うような感じさえする。
だが、それでも力を緩めることはせずに、さらに霊力を緋想の剣へと送り込む。
今まで真っ暗だった空間に、光が加わることにより、世界が生じる。
白と黒で世界が区切られていく。
無であった世界が形をなす。
そして、背後の緋想の剣から発せられる光を遮るように、天子が大きく、手を広げた。
「さあ、ルーミア! いらっしゃい、ここに! この私の影に!!」
周りを漂っていた闇が、光から逃げるように天子の影へと集まる。
密度を増したそれは、向かい側を見通せないほどに濃くなっていく。
ほぼ全ての影が、天子の影へと集まったのを確認すると、広げていた手を少しずつ、狭めていった。
影もそれに伴って光を避けようと、密度を増す。
天子はさらに範囲を狭めるように、四つん這いに近い体勢になって、全身で腹の辺りを包み込むようにした。
すると、胸にどんと何かがぶつかった。
目をやると、胸の辺りにサラサラとした金が揺れている。
「うう、怖いよ……眩しいの、嫌だよ……」
天子は胸のそれを強く、抱きしめた。
天子はうめき声を上げると、目をしばたかせた。
寝てしまっていたらしい、視線をめぐらせると、天井近くに据えられた小窓から、月が覗いている。
体を起こそうと力を入れたが、うまく起きることが出来なかった。
おかしなところで寝てしまったから、体が強張っているのかと思ったが、よく見ると、何かが馬乗りになっている。
月明かりに照らされているその金髪を見て、天子は目が潤むのを感じた。
手で軽くそれに触れて、そっと声をかける。
「ルーミア」
声を受けて、胸の上の金髪がゆっくりと動いた。
「天子、わたし何か変なんだよ。すごく怖くて、たまらないの」
赤い瞳が月明かりで、ゆらゆらきらめいている。
泣いていたのだろうか。目の周りが赤い。白い肌と相まって、より一層その赤さは、引き立っている。
月明かりで照らされたその姿は、今でも、儚く見えた。
天子はルーミアの首に腕を回すと、ぐいっと引き寄せた。頬と頬が触れ合う。
「ごめんね、ルーミア。こんなことになるなんて、思わなかったの。本当にごめんなさい」
ルーミアは何も答えずに、天子を抱く力を強めて、小さくすすり泣いた。
□ □ □
「ねえ、ルーミア。いつまで私にくっついてるつもりなの?」
夜が明けてもなお、小妖怪は天子にしがみついたままだった。
ただただ鼻をすすり上げ、夜に一言つぶやいたきり、それ以降だんまりであった。
天子がルーミアの体に回した手を離そうとしようものなら、より一層強く体を寄せる。そんなことの繰り返しだ。
「あなたって、もしかしてものすごい甘えん坊なのかしら」
「わたしだって、ずるいことした天子なんかと一緒にいたくないもん!」
その言葉に、ルーミアが今までずっと埋めていた顔を、勢いよく上げた。赤面して、うーと唸っている。
「ずるいことしたから、私が嫌いなの?」
「そうだよ!」
「私の血を飲んで、消えてしまいそうになったから、ではなくて?」
「うん。……血はとても美味しかったよ。なんだか懐かしくて……あんなに美味しいの、初めてだったよ。でも、もう怖いのも嫌だから、飲みたいけど、もう飲まない」
「そう……じゃあ、なんで嫌いな私から、ずっと離れないの?」
「なんでだか分からないけど、天子から離れるのが、怖いんだもん!」
ルーミアは当り散らすようにそう言うと、天子のことを強く抱き寄せて、赤くなった顔を隠した。
「その感覚は、大事にしたほうがいいかもねー。当分は天子から、離れないほうがいい」
突然、上の方から声がかかる。
振り仰ぐと、天井の梁の上に、小鬼が座っていた。
「いつの間に来てたの。離れないほうがいいって、どういうことよ?」
「その子は今、本当に危うい均衡の上に、存在を保てているんだ。現時点で、そうやって会話できているのが、不思議でならないよ」
萃香は手に持ったひょうたんをグイと呷ると、思案げに二人を見下ろした。
じっと見られたままの天人が、声を荒げた。
「あんた、あんなに悲壮感たっぷりに、啖呵切ったくせして、これはなに? 一日で元にもどったじゃないの! どうせこの子が弱ってるって言うのも、また誇張か何かなんでしょう!」
対する小鬼は、やれやれといったように、肩をあげてみせる。
「お前こそ、ほんとうにそう思ってるのかい? いっちゃなんだが、本当に元に戻るなんてこれっぽっちも思っちゃいなかったよ。奇跡だね、奇跡。それでもまあ、事の元凶はあんたなんだから、世話ないけど」
萃香は、ふと今自分が言ったことに思いを巡らせた。奇跡。確かに奇跡だったのだろう。
ルーミアは、天子の心の闇を糧に、なんとか体を再構築することに成功したのだ。
依代である天子の混じり気が大きすぎても、自我はその歪さに耐えられずに壊れてしまっただろうし、かと言って純粋過ぎたら、居着くことができずに消えてしまったに違いない。
中途半端に綺麗な天子だからこそ、元に戻すことができた。
もしかしたら、天子の家も元々は神職だったというのもあるだろうか。
ただ、それだけだと、説明がつかないことも色々あるのだが。
萃香はぼんやりとそんなことを考えたが、まあ結果がいいならどうでもいいかと、酒を煽った。
そして、不良天人、いい仕事したね、とふざけた様に笑った。
「ぐ……他人事だと思って、好き勝手言ってくれるわね」
「ま、実際他人事だしね。それはそれとして、当分はその子と一緒にいなきゃ、ダメだぞ。今は一時的に、あんたの心を依代として、存在維持できてるに過ぎない。一人でも安定するまで、世話見てやるんだな」
そう言うと、萃香は小窓から、外に出ていってしまった。
「そんな……」
「ねえ、天子。天子は、わたしと一緒にいるべきだと思うの。じゃないと、後悔するよ、たぶん」
天子はぼんやりと自分を見つめている、小妖怪を見つめ返した。
そして、照れたように、少し顔を赤くして、視線をまた小鬼が出て行った窓へ向ける。
しばらくの間、そうやって小鬼が出て行った時に巻き上げた埃を意味もなく目で追っていたが、それもあらかた収まると、観念したようにつぶやいた。
「その忠言、ありがたく頂戴しておくわ」
その後、天子はルーミアを肌身離さずで一月ほど生活するのを余儀なくされ、ロリコン天人の称号を得ることとなった。
楽しかったです
先の小妖怪がしゃぶったと言われる御尊指をしゃぶらせていただければ、幸甚に御座います
ええ、ええ 大丈夫で御座います わたくしめは 人間で御座いますゆえ
天子とルーミアの太極になるというオチもほのぼのとしていい終わり方です。
とても面白かったです
昔に天子を食べようとした強い方の妖怪は、封印前のルーミアだったり…?
あと誤字報告を
“緋想の剣”がところどころ“非想の剣”になってましたよ
私的には、もう少し尺を長く取ってくれたら、なお良かったです。
あなたのファンになりました!
最初にタイトル避けしてしまったのがもったいない。
文章をタイトルにするのは、あれな感じがするのでやめたほうが良いと思います。
珍しい組み合わせで楽しめました
ルーミア可愛い
ここぞというところで切欠を与えてくれる姫様なんかも素敵