◆ある寒い日の夜
地底は基本的に一年中温暖であるが、地上が冷えてくるにつれて少しずつだが地底も冷やされる。私は妖怪だけれど、身体が強いわけではないから、気温の変化には人間と同じ程度には反応する。今日は特に冷えるようで、私は冬用の大きな掛け布団を押入れから出した。ついでにシーツも温かいものに変えた。これで今日は安眠できるだろうか。
スカートとフリルの付いた服を脱ぎ、就寝時の服装であるネグリジェを着用した。このネグリジェも、真冬に着るには寒さを感じる。それくらい私は気温変化に敏感なのだ。ちなみに真冬には毛糸で編まれたセーターを着用する。
部屋の電気を消してベッド横のサイドデスクのスタンドを点灯する。スリッパを揃えずに適当に脱いでベッドに倒れこむと、掛け布団の表面がひんやりと冷たい。サイドデスクに置いている読みかけの本を手に取ってページをめくる。
一度読み始めた本は、しおりを挟むことはあっても、最後まで読まないということはしないと決めている。しおりの挟まったページを開き、続きの場所から文字を追う。
掛け布団とシーツの間に挟まれながら就寝前の読書をするのは私の日課だ。何ページ読むかは気分次第。眠くなる前に読むのは止める。
すっかり日常のルーチンになった読書だが、今日はどうも気分が進まない。すらすらと読めないのだ。こういう時は読み進めずに本を置くと決めている。
しおりを挟んだ本を元の場所に戻す。スタンドを消灯して目を瞑ると、少しの倦怠感と眠気に襲われて意識が遠ざかっていった。
◆夢と現実
「お姉ちゃん。この目ってどうしたらもう一度開けることができるのかな。さっきから色々工具を使ってるんだけど、全然開かないんだよ。ペンチとかニッパーとか。あ、貝みたいに茹でたら開くかな。ちょっとお湯を沸かしてくるね」
「何を馬鹿なことを言っているの」
「それは何を馬鹿って言ってるの? 目を開く手段について? それとも目を開くこと自体が馬鹿だって言ってるの? でもお姉ちゃんはずっと目を開いているよね。本当に馬鹿なのはお姉ちゃんなんじゃないの?」
こいしが冷めた声で言い切って背を向けて走り去っていく。気が付くと私は執務室の椅子に座っていた。そして数分後に執務室に入ってきたこいしは、その胸の青い目を開けていた。そしてこいしの後ろにはおくうやお燐、その他のペット達が集まっている。
「私もこの目を開いて、この子たちが何を考えてるのか分かるようになったよ。みんなお姉ちゃんより私に飼われたいってさ。だから私はこの子たちを連れてここを出て行くよ。じゃあね、お姉ちゃん」
私が言い返す暇も与えずにこいしは踵を返して歩いていく。その後ろには私のペット達が次々に続いてついて行く。おくうやお燐も、一度もこちらを振り返らずに去っていく。
やめて。行かないで。どうして。私を一人にしないで。一人きりになんかしないで。あなた達の飼い主は私よ。待って。待ってよ。
私は執務室を飛び出してこいし達を追いかけようとした。しかし、どれだけ走っても追いつくことができず、差がどんどん広がっていく。「待って!」と叫びながら手を伸ばしても、その手は空気を掴むだけだった。もう一度大きな声で、「行かないで!」と叫び、手を伸ばしたところで、目の前の景色が崩れていき、部屋の天井と自分の右手の甲が目の前に現れた。
何が起こったのか理解できず、キョロキョロと辺りを見渡す。明かりの消えたスタンドと読みかけの本、私はベッドに寝ていると分かったところで、先ほどまでの出来事が全て夢であることに気付いた。
乱れた呼吸を整えながら、ぼんやりと見慣れた天井を眺めるしかできなかった。嫌な夢を見たという不快感に支配され、身体は大きな倦怠感に襲われた。掛け布団を首の上まで上げて温もりを得ようとする。突然何かを抱きしめたいという衝動に駆られた。まだ脳裏に強くこびりついたままのあの景色が現実に起こらないだろうかと不安が広がる。一言で言えば怖かった。
妖怪や怨霊に恐れられて地底にまで追いやられた時の恐怖だ。自分の味方はこの世にいない。仲間がいないという恐怖。この世で生きているのは自分だけだという錯覚。このような感覚には耐性があると思っていたけどそんなことはなかった。私は未だに――いや、きっといつまでも、耐性なんてできやしない。孤独の恐怖というのは私、覚り妖怪には一生付きまとい、この身を蝕み続ける。
「おくう……おりん……こいし……」
夢の中で私から離れて行ったあの子達は今何をしているのだろう。地霊殿から出て行ってはいないだろうか。今に第三の目を開いたこいしに連れられて――。考え出してにわかに恐怖に襲われた。最悪の事態――悪夢が正夢になってしまうことを想像してしまい、怖くなった私は掛け布団を取っ払って乱暴にスリッパを履き、寝室を飛び出した。
「おくう! おりん! こいし!」
必死に名前を叫ぶが誰も返事をしてくれない。皆の寝室はばらばらの位置にある。三人の部屋でどれが一番近いか瞬時に判断する。おくうだ。私の寝室の向かいの三つ隣。部屋を出て左だ。スリッパが脱げるのすら気にせずに走りだす。不安と恐怖で胸がいっぱいになり、息苦しさを感じていると、暗闇の中に突然一つの大きな影が現れ、私は衝突を回避しようと足を踏ん張り、数メートル手前で静止した。
「うう、さとりさまぁ。さとりさまぁ……」
大きな影の正体は、翼を携えなおかつ長身のおくうだった。どうしてだか枕を腹部に抱えながら泣いている彼女は、まだ私に気がついていなかった。しかしそんなことは今の私には関係ない。おくうは間違いなく私の目の前に居る。どこにも行っていない。そして、この世界は夢なんかじゃない。一つ一つ脳が認識していき、そして最後に彼女の名を叫んだ。
「おくう。おくうなのね!」
「ふえ、さとりさま?」
普通に返事をしてくれた。夢なんかじゃない。おくうに出会って声を聞くことができ、私は安堵と嬉しさで足の力が抜けそうになった。辛うじて体重を支える両足を震わせながら、何でもないように振舞った。先ほどは叫んでしまったけど、本当は取り乱すところを見せたくはなかった。ペット達には私のことを心配させたくないのだ。だから、私は強がって気丈に話しかける。
「こんな夜中にどうしたの?」
おくうは抱いていた枕を足下に落とし、私に飛びついて長い腕を背中に回して抱きしめてきた。私もおくうの腰に腕を回しておくうの身体を受け止める。おくうの身体の柔らかいリアルな感触が、この世界が現実であると教えてくれた。
現実である証明がほしくて、おくうの声が聞きたかったから、心を読んで先に喋ることはしなかった。涙をこぼしながらおくうは弱弱しく話し始めた。
「さっきね、怖い夢を見たの。さとりさまもお燐もこいしさまも、他のペットもみんないなくなって、この世界には私一人しか残されてなかった。すごく怖かったよ。さとりさまどこにも行かないで。一人きりなんてやだよぉ……」
夢の内容を聞いて私はドキッとしたが、悟られないように冷静を装った。すすり泣きをしながら訴えるおくうの髪を撫でながら、私は優しい口調で話しかける。
「大丈夫。私はここにいる。どこにも行かない」
「ほんとに? お燐もこいしさまもどこにも行かない?」
「どこにも行かない。皆でずっとここで暮らすのよ」
嗚咽を漏らすおくうに言い聞かせながら、半ば自分に言い聞かせているような気分だった。私が見た夢とおくうが見た夢が奇妙なほど似ていたから。私も同じ、皆が消えていく夢を見たから。
私もおくうと同じ気持ちだ。皆どこにも行かないでほしい。一人きりなんて耐えられない。
おくうと私はしばらく冷え込む廊下に佇んだ。スリッパが脱げてしまって裸足だったせいで足下は冷たかったが、上半身はおくうの身体の温もりを感じていて心地よかった。やがて泣き止んだおくうは背中に回していた腕を離した。
「こんな時間に起こしてしまってすみません。さとりさまは私の泣き声のせいで目覚めたんですよね? ごめんなさい」
ぺこりと頭を下げるおくうに申し訳なさを感じた。本当は悪夢にうなされて目覚めたのだから、謝る必要なんてないのだ。
「そんなこと、謝らなくていいのよおくう」
「ううん。私は自分が悪いことをしたと思ったら謝るんだよ」
「そうなの。偉いわねおくう。ほんと、素直でいい子に育ったわね」
そう言って少し高い位置にあるおくうの頭を撫でてあげた。おくうはもう落ち着いていて少しだけ笑顔も見られた。そして私自身も、ペットの頭を撫でるという日常的な行為から安心を得ることができた。
足元に落とした枕を拾っておくうに渡す。するとおくうはまた枕を腹部で抱きしめるようにした。
「おくう、抱き枕がほしいのなら買ってあげるわよ」
「いや、違うんですさとりさま。今は何か抱きしめてないと落ち着かなくて……。まだ、怖い夢のこと覚えてるから」
普段の何気ない夢なら目覚めて数分で忘れてしまうが、強烈な印象を残す悪夢は起床後も記憶から消えようとしてくれない。瞼にびっちりとこびりついていて、目を閉じればすぐに蘇ってくる。光を遮り暗闇に沈めば、孤独による恐怖が襲ってくる。私とおくうは今まさにそんな感じだった。
「おくう、今夜は一緒に寝てあげるわ」
「えっ、さとりさまと? いえいえそんなの悪いです」
「じゃあ自分の寝室に帰って一人で寝られる?」
おくうはしばらく考えてから、首を激しく横に振った。怖い夢がフラッシュバックして怯えているのが第三の目の能力で分かった。それからおくうは瞳を潤わせながら懇願するように言った。
「やっぱり、さとりさまと一緒に寝たいです」
「そう。それじゃあ行きましょう」
おくうの少しだけ熱を帯びた手を引いて冷たい廊下を歩き出す。途中でいつの間にか脱げていたスリッパを見つけて履きなおし、私達は寝室を目指した。手を引かれるおくうの足取りは、どこか重く遠慮がちのように思えた。
やはり私はペット達に好かれていないのかもしれない。後ろに続くおくうの心を読んでみると、私の部屋に行くことに対して消極的な感情を持っていることが分かった。なぜそんな感情を抱くのかは、知るのが怖くて心を読もうとはしなかった。
◆人肌の温もり
寝室の電気を点けて壁掛け時計を見ると午前二時だった。どうりで廊下を歩いても誰とも会わないわけだ。怨霊ならともかく、ペット達は私と同じように夜に眠るため、この時刻に寝室から出る者はいない。
「どうしたのおくう。早く部屋に入りなさいな」
何故か部屋の前で立ち止まる彼女に中へ入るよう催促する。しかしおくうは心の中で、「本当にいいのかな」と入室を躊躇っている。
「入っていいに決まってるじゃない。ほら、一緒に寝るんでしょ?」
ようやくおくうは頷いて部屋に入り、ゆっくりとドアが閉められた。そして部屋の中をキョロキョロと見渡しながらベッドに近付いてきた。
「このベッドは大きいサイズだから大丈夫よ。さあ、二人で寝ましょう」
お互いスリッパを脱いでベッドに入り、掛け布団をかぶった。ベッドの大きさは十分だけど、掛け布団は一人用だから端が少しスースーする。
「おくう、もうちょっとこっちに来なさい。そんなに端っこじゃ寒いでしょ?」
「そうですか? ……それじゃあ遠慮なく」
おくうはこちらに近付いてきて私と身体を密着させた。先ほど抱き合った時もそうだったけれど、おくうの身体は私よりも温かい。背中の翼が体温の保持に役立っているのだろうか。それとももともと体温が高い種族なのだろうか。
「もう電気消してもいい?」
「うん」
私はサイドデスクのスタンドの電気を消した。部屋の中から光源が失われ、視界は暗闇に包まれた。暗順応によって少しずつものが見えるようになり、おくうの顔の表情が辛うじて確認できるまでになった。
「ねえおくう。さっきは何故部屋に入るのを躊躇したの?」
おくうの返事を待つまでもなく私は心を読んで解答を得ることができる。それは私が思うほど大きな理由ではなくて安心した。
「そう。お燐と約束してたのね。私と一緒に寝るのは三人揃ってる時だけだって。大丈夫よ。お燐は優しいからきっと許してくれるわ。もし許してくれなかったら……そうね、今度私とお燐だけで寝ようかしら」
「それは……うん。その方が平等だもんね」
おくうは口ではそう言いながらも、寂しげに俯く顔は隠さなかった。
「大丈夫。お燐と二人で寝たからってお燐だけ特別扱いなんかしないわ。あなたを見放すことなんて絶対にしない」
「ほんとですかさとりさま。絶対ですよ。約束ですよ」
「ええ、約束よ」
おくうは嬉しそうな笑顔を見せながら私にさらに密着しようとする。撫でてほしそうに私の胸に頭をこすりつけてきた。私がおくうの頭頂部を優しく撫でて、手触りの良い髪を手で梳くと、おくうは幸せそうな声で「えへへー」と笑った。本当にこの子は素直だ。何故自分は素直になれないんだろうと疑問に思ってしまう。その疑問に対する答えはすぐに分かるが。
頭を撫で続けたら気持ちよくなってすぐに寝ちゃうかしらと思って手を離してみたが、おくうはまだ起きていて物欲しそうにこちらを見てきたので、再び撫でることを再開する。身長も肩幅も自分より大きい者をあやしていると考えると少し不思議な気分だった。
おくうの黒髪ストレートは腰を通り過ぎて膝の裏辺りまで伸びている。一本一本が細く艶があるので、撫でたり手櫛で梳いたりしているとこちらも気持ちいい。私は癖っ毛だからおくうのストレートヘアーには少し憧れがある。
「もういいですよ、さとりさま。ずっと撫でてたらさとりさまが眠れないじゃないですか」
「おくうの髪は触っていて気持ちがいいのよ」
「でも、悪いです。私もさとりさまに何かしてあげたいです」
上目遣いで主人におねだりするような表情で見つめてくる。思わず可愛さに見蕩れてしまった。私はおくうの頭から手を離し、ふと思いついたお願い事を申し出た。
「それじゃあ、私のされるがままになってくれる?」
「さ、されるがままというと、つまり、どういうことですか?」
「こういうことです」
私はおくうの肩と腰に手を回し、左足をおくうの足の間に割り込ませ、身体を引き寄せて密着させた。おくうは何が何だか分かっていないようで、「これって、つまりどういうことなの」と混乱していることが能力で分かった。私は敢えて何も言わずに、おくうの混乱を焦らそうとする。
「さとりさま。これは一体……」
「おくうは今私の抱き枕なの。分かった?」
「抱き枕ですか。……分かりました。私はさとりさまの抱き枕になりきります」
そうは言っても実際にやることは、ただ無抵抗に抱きしめられるだけなのだろうけど。おくうもなりきるとは言ったものの具体的にどうすればいいのか分かっていなかった。
足先から頭までおくうの体温に包まれ、身体が少しずつ安心で満たされていく。身体だけでなく心まで温まっていくようだ。伝わってくる体温やリアルな感触が、この世界が現実であることを確信させてくれる。この確信ほど私を安心させてくれるものはない。
「おくうは温かいわね。ほんと、溶けちゃいそうなくらい」
「そうですか? さとりさまの手も温かいですよ」
「それに大きくて柔らかい。触れていてとっても気持ちいい」
首に回した手の指先で、首筋をすうっと撫でる。するとおくうは甘い声と吐息を漏らした。
「さ、さとりさま。くすぐったいです」
「私は抱き枕を撫でているだけよ?」
「そうですけどぉ……んっ、あぅう」
指を首筋から下へなぞっていくと硬く浮き出ているものを発見する。私がそこを舐めようと舌を出して顔を近づけたところで、おくうは初めて手を振り解こうと抵抗を見せた。密着していた身体が少し離れる。
「そんなとこ舐められたらくすぐったくて死んじゃいます」
「あら、おくうは鎖骨が弱いの?」
「強い人なんているんですか」
「ちょっとした冗談よ。そうやって反応してくれると嬉しいの。存在の証明というか、確証が欲しいから。触覚だけじゃなくて、五感全てで感じたいの」
普段は気丈に振舞っている私も、本当はとても怖がりだから。次の瞬間にも、目の前のおくうが消えてしまいやしないかと、心の片隅で不安を感じているから。現実の儚さはよく知っているつもりだ。
心が安らいでも先ほどの悪夢の記憶は完全には消えていなかった。頭のどこか、或いは心のどこかに、隠れ潜んでいる。いつ表面に現れるかも分からない。だから、蓋をしておきたいのだ。おくうとの戯れによって、悪夢の恐怖を記憶の根底に沈めておきたいのだ。
「おくうはここにいますよ。さとりさまはおくうに触れられるし、目で見えるし、声も聞こえるし、匂いも嗅げるでしょう?」
「味だけは感じられないわ」
「それは……あの、私の指でよければ……。すごく恥ずかしいですけど。鎖骨は勘弁してください」
もじもじと照れた後、恐る恐るといったようにおくうは私に左手を差し出してくる。私は少し震えているおくうの手を取り、舐めることはせずに自分の右手を絡めてぎゅっと握った。舐められる覚悟でいたおくうは拍子抜けしたように口を開けていた。どうやら困惑しているようだった。
「気まぐれによるちょっとした戯れよ。そこまで本気じゃないわ」
弄ばれたおくうは不服そうに口を尖らせている。
「うにゅー。結構勇気を出して差し出したんですよー」
「おくうは素直ね。今度、寝てる時にでも舐めてあげるわ」
「はい、私も起きてる時より寝てるときのほうが恥ずかしくないです。って、あれ、でも知らない間に舐められるのも恥ずかしいような」
「別に私の言うことを全て受け入れなくてもいいのよ。舐められたくなければそう言えばいいじゃない」
「そ、そんなんじゃないんです。舐められたくないわけじゃなくて……あ、でも決して舐められたいわけでもなくて、だからその、えっと、つまりどういうことなの?」
ややこしい問題に頭を抱えて混乱してしまうおくうは可愛かった。天然で素直で可愛いこの子は、いつかどこかにお嫁に行ってしまうかもしれない。そう思うとまた少し心に不安の影が差した。お燐だって最近は地上の神社によく行っているみたいだし、こいしはしょっちゅう無意識で飛び回っているし。他のペット達もより住みよい場所を見つけたら、そちらに移り住んでいくのだろう。さっきはずっと一緒だなんて言ったけど、そんなのは幻想の中だけなのかもしれない。
私はおくうと密着していた身体を離して仰向けになった。繋いでいる右手からは柔らかな感触と相変わらず温かい体温が伝わってくる。
「おくうはまだ眠くならないかしら?」
「眠くないです。それに、目を閉じて視界が真っ暗になれば、さっきの夢が蘇ってきそうで怖いです。こうして目を開けて天井やさとりさまを見ているうちは、そんなことにはならないからいいんですけど」
その思いは私も同じだ。普段は必要ないからと半分くらいしか開いていない目を、今はぱっちりと開いて視界を広くしている。視覚情報を脳に送り込んでいるうちは、記憶がフラッシュバックすることはないだろうと考えたから。こうやっておくうとお話をするのも同じ理由だ。
「眠くなる子守唄でも歌ってあげたいけど、生憎一つも知らないの」
そもそも今まで生きてきて、子守唄を歌ってもらう機会も歌う機会もなかったから、当然と言えば当然かもしれないが。
「他に何かしてほしいことはある?」
「何も無いです。さとりさまが一緒に寝てくれるだけで十分です。あ、でもでも、寝ることに関係ないことならあります」
「私にできることならしてあげるわよ」
おくうは少し恥ずかしそうにもぞもぞと身体をうねらせている。そんなことをしているうちに私はサードアイで心を読んでしまう。お空の願望はとても簡単なことだった。
「分かったわ。明日の――もう今日になるのかしら、晩御飯はオムライスにしましょう。デミグラスソースも作ってあげる」
「やったあ。さとりさま大好きです! オムライスよりも!」
「それは光栄ね」
今にもベッドから飛び出して踊り出しそうなくらいおくうは嬉しそうだった。
「私はさとりさまのことは大好きです。でも、好きなものをお腹いっぱい食べて、幸せいっぱいで眠るのも好きなんです」
「それは皆そうよ。食べて寝るのは動物の基本的な欲求だもの」
欲求云々よりも、おくうが私のことを好きと言ってくれたあの言葉のほうが私は気になった。より正確に言えば、心に響いた。私のことを好きだと言ってくれるのは、おくうとお燐と、あとは勇儀さんくらいだろう。私には食欲や睡眠欲などは勿論あるが、“人に好かれたい”という欲求も持っているのだ。恐れられて疎まれて虐げられて、地底に追いやられた醜い妖怪でも持っている。滑稽な話かもしれないが。だから、“好き”というおくうの言葉は私にとって一番嬉しいものだった。
「ありがとう、おくう」
「え、何がですか?」
「…………」
「さとりさま?」
もう一度だけおくうに好きと言ってほしい。もう一度その言葉を聞けたら、私は大切に胸にしまいこんで、幸せな気持ちに満たされながら眠りに落ちていけそうな気がした。けど、それをこちらから求めるのは恥ずかしくてできそうにない。私もおくうくらい素直ならば、或いはできたかもしれない。
私を見つめるおくうはどこか不安そうな顔をしている。私が無言だからだろう。そんな目をしないで。心配することなんて何もないのよ。ただ、言葉が見つからないだけで。
「ねえ」
「はっ、ど、どうしました?」
「大好きよ。おくう」
「はっ、へ? えっと、その……私もさとりさまが大好きです」
嬉しくてたまらなくて、おくうの左手をぎゅっと掴んだ。絡めた指先ではおくうと私の体温が混ざり合っていた。手に触れているだけなのに身体がとろけてしまいそうなくらい気持ちいい。わずかな快感と、幸せと温もりに包まれながら、意識が少しずつ遠のいていった。
◆夢と眠りから覚めて
「――――さま。さとりさま……」
わたしを呼ぶ声がどこからか聞こえた。割と近い場所。
視線の先には見慣れた部屋の天井があった。ということはさっきの声は夢だったのかと一人合点がいく。が、直後にそれが早とちりだったことに気付いた。
「さとりさま……」
私の隣で可愛い寝顔を見せているのは、ペットの中でも特に私に近いおくうだった。何故おくうが私のベッドで眠っていて寝言を呟いているのか、寝ぼけた頭で数秒考えてやっと理解した。
「ああ、そういえば昨夜」
怖い夢を見たのだった。私もおくうも。それで一緒に寝ようと私の部屋に来たのだった。おくうがここにいるということが、この記憶が正しいことの裏づけになる。皆がいなくなったのは夢で、その夢から醒めて以降は現実。変に寝て起きてと繰り返したせいで少し記憶が混同しそうになった。でも、今は確かに現実だ。眠る前に繋いだ手は、絡めた指が一本も解けることなくそのままで、眠る前と同じ温もりを私に与えてくれている。
部屋の時計を見ると既に午前九時を回っていた。普段の起床時間は七時だから完全に寝過ごしている。私はともかく、おくうの仕事の時間はもう始まっているだろう。しかし、隣で幸せそうな寝顔を見せるおくうを起こすのは忍びなかった。繋いだ手も強く握られていて、おくうと離れることもできないので、私は仕方なく布団に入ったまま昨夜のことを思い返す。
どんな話をしたんだっけ。おくうの鎖骨や指を舐める話と、ずっと一緒に暮らしていくって話と、……そうそう、今晩はオムライスを作る約束をしたのだった。
オムライスの話の後に何かあったはずだけど、意識が無くなる直前の記憶が不鮮明だ。おくうの寝顔をまじまじと見つめても、もやもやと記憶にかかる霧は晴れない。
たしかおくうはオムライスが好きで、それから……。ああっ――。
思い出した私は顔が熱くなるのを感じた。
おくうに大好きと言われたのが嬉しくて、それでもう一回言ってもらおうと私は……。おくうに面と向かって“大好きよ”なんて恥ずかしいことを言ってしまったのだ。
おくうに愛の告白まがいなことをした昨夜の自分を想像すると急に恥ずかしくなり、私は枕に顔をうずめて足をばたつかせた。きっと、今の私の顔は林檎のように真っ赤で耳まで染まっている。こんな顔をおくうやお燐に見せるわけにはいかない。お燐は私の寝室まで来ないとしても、今おくうに起きられたらなんて言い訳をすればいいのか分からない。
とりあえず深呼吸をして落ち着こうと上体を起こす。そして大きく空気を吸い込んだところで、寝室のドアがノックされた。
「さとりさまー。お目覚めですか?」
ガチャリ、とドアが開け放たれる。部屋に入ってきたお燐は目を見開いて、ついでに口も開いたまま固まってしまった。
私のベッドの上におくうと私がいて、指を絡めた手は繋がれたままで、寝起きでシーツや私のネグリジェが乱れていた。
「…………」
「…………」
「……あの、おくうが部屋にいなくて、朝食にも現れなくて、探してたんですけど……そこで寝てるのっておくうですよね?」
「え、ええ」
「おくうとさとりさまはいつから手を繋いで一緒に眠るような仲になったのですか?」
「ち、違うの! これには事情があって!」
繋いでいた手を勢いよく離そうとしておくうの腕まで引っ張ってしまい、その衝撃でおくうはおぼろげに目を覚ました。
「うにゅー。さとりさま、おはようございます」
寝ぼけ眼をこすりながら、おくうが緊張感の無い声を出す。
「おくう、今はそれどころではないのよ」
「ふえ? ……あ、お燐、おはよう」
「おはようじゃないよ。まったく、おくうがあたいを出し抜くなんて考えもしなかったよ。さとりさまと寝る時は三人でって約束したじゃない」
お燐はどうやら、おくうが私と一緒に寝たことに腹を立てているらしかった。どうして手を繋いでいたのだとか、そういうことは気にしていないらしい。それとも深入りしないように気を遣ってくれているのだろうか。
「お燐、違うの。私昨日すごく怖い夢を見たの。それで、怖くて眠れなくて、だからさとりさまと一緒に寝ただけなの」
まったく、おくうの言うとおりだ。私も怖い夢を見て、一人ではとても眠れない状況だったことは、どうやら誰にも知られずに済みそうだ。
「さとりさま、おくうの言っていることは本当ですか?」
お燐は怪しがりながらこちらに視線を向ける。
「本当よ。おくうを信じてあげて。こんなことで嘘をつくような子じゃないことはあなたも知っているでしょう? それに、おくうは実際に私と寝ることを躊躇っていたわ。お燐との約束があるけど、一人で眠るのも怖いって。ね、おくう」
おくうは申し訳無さそうに頷く。その表情を見てお燐は嘘じゃないと分かったらしく、疑いの表情を穏やかなものに変えた。
「お燐。約束破ってごめんね」
「うん。分かった。許してあげる。親友だから特別ね」
それまで不安げな表情浮かべていたおくうは、ぱあっと顔を明るくした。嬉しい時には笑顔になる、おくうの素直さの表れだった。
「ありがとうお燐! お燐大好き!」
「はいはい。あたいもおくうが好きだよ。親友としてね。そんなことより、早く朝ごはん食べて仕事しなさいよ」
「ああっ、もう九時回ってる。今すぐ行かなきゃ」
ベッドを飛び出して急いで部屋を出て行こうとするおくう。そのおくうをお燐はドアの前で引き止めた。
「そのままの格好で行くんじゃないでしょうね。ちゃんと着替えていきなさいよ。それから朝ごはんもちゃんと食べて」
「朝ごはんはいい。時間ないし」
「朝食べないと元気出ないでしょ」
「いいの! だって」
そこで言葉を切って振り返ったおくうは、私のほうを見てにっこりと笑った。
「今日の晩御飯はオムライスだもん。お腹空かせなくちゃ。ね、さとりさま」
こちらに向けるおくうの笑顔は、地底に昇るはずのない朝日のように輝いていた。私が慣れない笑顔を作って返すと、おくうはお燐の静止を振り切って全速力で飛んでいってしまった。疾風のごとく消えていくおくうとそれを追いかけるお燐を、私は無邪気な子どもを見るような気分で見送った。
両手を上げて背筋を伸ばし、固まった筋肉を動かす。ネグリジェからいつもの服装に着替えた。部屋はかなり冷えているようだったけど、何故か身体全体がぽかぽかと温かく感じた。
ベッドに目をやるとおくうのものと見られる漆黒の羽が一つ落ちていた。昨日は正面から抱きついていたけど、羽があるならおくうの背中側もきっと温かいのだろう。いつか機会があれば背中から抱きついてやろうと心に留めておく。その羽を手に取り、サイドデスクの引き出しにしまった。いつか人恋しくなったときに、この羽を見れば少しでも温まることができそうだと思ったから。
今日の私の一番大事な仕事は、おくうに美味しいオムライスを作ってあげることだ。そのために、デミグラスソースを一から作らないといけない。仕込みに時間がかかるから、おくうをがっかりさせないためにも今からキッチンに向かおう。その料理を待っている人、美味しく食べてくれる人がいるというのは、とても作りがいがあるというものだ。
それに、誰かに必要とされるということは、私にとって非常に大きな喜びだ。いや、きっと誰にとってもそうだろう。
キッチンの椅子にかけられたエプロンを着用しながら、目を閉じて静かに脳内で想像を繰り広げる。
自分の妹であるこいしに。それからおくうに、お燐に――自分のペット達に愛されて、必要とされて、そして皆といつまでも一緒にいられたら、それはもう十分すぎる幸せだ。私は今、とても幸せなんだ。
悪夢は所詮“夢”であり、“幻想”でしかない。だから私は幻想に惑わされず、今目の前にある“幸せな現実”を大切にしていこうと、そう自分の心に誓った。
◆おまけ~お燐の場合~
昨日と違って今夜の読書は驚くほど読み進めることができ、二〇〇ページほど残っていた本を読み終えてしまった。時間が経つのを忘れるほどで、本を置いた時には午前一時を回っていた。
「ふう。読み終えた時の何とも言えない感覚は申し分ないけれど、さすがに二日連続での夜更かしはお肌に良くないわ」
サイドデスクのスタンドを消灯し、昨日取り替えた掛け布団をかぶる。今日は昨日ほどの冷え込みはないようで、何の障壁もなく安定した睡眠を迎えられそうだった。
特製オムライスを食べて満面の笑みを浮かべたおくうを頭の中で思い返しながら、自然に意識が遠ざかっていく感覚を味わっていた。いつものように、幸せな一日を終えようとしていたその時、ノックの音が寝室に響き渡った。
遠くにあった意識が戻ってくる。そしてドアの向こう側から不安げな小さな声が聞こえてきた。
「あの、さとりさま、ちょっといいですか」
ベッドから降りてスリッパを履き、ドアを開けてみるとそこには枕を抱えたお燐が立っていた。昨日廊下で会ったおくうを髣髴とさせるようなポーズだ。
「どうしたの、お燐」
お燐は私と目を合わせずに視線を泳がせながら言った。
「あの、実は……さっき怖い夢を見て、それで、一人で眠れなくなったから……」
「どんな夢を見たの?」
「ふえっ、えっと、皆が、いなくなる夢です」
私はすかさず落ち着かない様子のお燐の心を読んでみた。すると、お燐は私の予想通りのことを考えていた。
(ばれてないかな? 目を合わせなかったらばれないと思うんだけど……。怖い夢を見たって言えばさとりさまは一緒に寝てくれるはず。きっとそうよ。だいたい、おくうだけ二人きりでさとりさまと寝るなんて不公平よ。あたいだってさとりさまと二人きりがいい)
「分かったわ。一緒に寝ましょう、お燐。そのかわり、おくうには内緒よ」
この日は結局お燐と一緒に布団に入って一夜を共にした。眠る直前にお燐に釘を刺しておくことを忘れずに。
「今日のところは見逃してあげるけど、明日以降は嘘ついたら一緒に寝てあげないからね」
「そ、そんなぁ。ばれてたんですかぁ」
「サードアイは目が合っていなくても心が読めるのよ。覚えておきなさい」
「はーい……」
昨日と同様、私はお燐の左手を取って指を絡めて手を繋いだ。こうして得られる温もりと、触れ合っているという感覚が、私を心地よい眠りに誘ってくれる。たとえ悪夢を見て目が覚めたとしても、目の前に手を繋いだ相手が居てくれるという確信が、私を安心させてくれるのだった。
それはともかくこんなペットいたらそら引きこもりにもなりますよ!かわいすぎ!
地霊殿のペット(♀)は皆拾われた時に永久就職してる、これ一番言われてるから(断定