§
貸本屋という職業が誕生したのは、江戸時代である。紙と、それを束ねた書籍が高価で市民には手が届かない品物だった頃に手軽な値段で本を貸し出す貸本屋が現れ、庶民のコンテンツビジネスとして隆盛を迎える。しかし書籍の大量生産技術が発達し、文書を複製する術すらも手軽なものとなってしまったがために、市井の貸本屋は一気に衰退の道を辿った。
幻想郷は外の世界で忘れられた遺物が流れ着く異郷だ。貸本屋という職業もまた然りである。人里には貸本業で生計を立てる者が確かに存在していた。しかも、流通も里の内部で完結してしまっているためか、出版と販売の能力まで兼ね備えた貸本屋が。
「ええ、ええ、そうでしょうね、多少なりとも人里でも本が読まれている痕跡が読み取れるのならば、出版業が人里にあると考えるのが自然でしょう。人間が里の外に出るのは危険ですもの。全く盲点でした。あ、いきなり押しかけてくるなり何言ってんだ、って思ってますね? すみませんね、愚痴っちゃって」
本居小鈴は本を開いた状態で硬直したまま、いきなり貸本屋「鈴奈庵」に押しかけてきた不気味な影を眺める。
見かけは小鈴と同じくらいの背丈の、かなり癖っ毛なショートカットの少女なのだが、心臓の辺りから彼女を凝視している「目玉」が怖い。赤いカバーに包まれて、六本のチューブで複雑に少女に絡みついていた。まるで寄生しているかのようだ。
「寄生というか、自分の一部みたいなものです。あまりいい気分をした覚えはありませんが」
しかも、こちらの考えを完璧に理解しているようだ。口に出した覚えなどないのに。
小鈴には心当たりがあった。読書狂(ビブリオフィリア)の面目躍如だ。
幻想郷には、忌み嫌われた妖怪が住む地下世界がある。そこには心を読める能力を持ち、それを嘆き自ら地下に移り住んだ妖怪がいるという。
「幻想郷縁起九代第二版ですね。お察しの通りです」
「だからちょっと、いちいち人の考えていることに割り込んでくるの止めて貰えません!?」
身を乗り出すと同時、ツインテールのお下げ髪に結いつけられた鈴がちりんちりんと音を立てる。
「すみませんね。条件反射的嫌われ者ムーブメントです。長年嫌われてると、嫌われまいとするのが面倒で」
「抗いましょうよ現実に。えーと、古明地さとりさん。と、いうより本の虫といたしましては」
人差し指を立てる。目の前の少女が、目を見開いた。
「匙取迷子(さじとりめいこ)、とお呼びした方がいいかしら?」
「なんと。よく分かりましたね」
小鈴はようやく読みかけの本を閉じると、市松模様の小袖とエプロンドレスの佇まいを改める。
「アナグラムですものね。勘がよければ、それだけでも分かるんじゃないですか。何よりも匙取迷子の献本は、サトリ妖怪が書いたのを暗示する物語が数多いですから」
立ち上がって、山積みとなった本の森の中から一冊の書籍を引っ張り出した。黒革装丁の重厚な本の表紙には、Meiko Sajitoriの名前が箔押しされている。
小鈴は羊皮紙のページを捲りながら、粗筋を思い出す。
「過剰とも言うべき心理描写は賛否両論言われてますが、時折登場人物が見せる狂気的な行動の裏付けともなっていますし私は悪くないと思いますよ。何より匙取迷子の小説は、裏のテーマが一貫してますよね。登場人物達が誤解に誤解を重ねて泥沼に嵌っていくどころか、真実には更に救いがなかったりする。ここから作者の、如実なメッセージを読みとることができます」
「仮に心が読めたとしても、いいことなんて何一つない」
顔を上げる。諦観じみた笑みを浮かべた匙取迷子こと、古明地さとりの顔があった。軽く手を叩いてもいる。
「素晴らしい読解力です。こちらの訴えたいことをよく理解していらっしゃる。ただの貸本屋じゃありませんね」
「でも、心理描写以外のところがちょっと稚拙というか」
両肩を掴まれる。
「皆まで語らずとも結構です。どっかの説教好きから、嫌というほど指摘されてますから」
力一杯握られた。痛い。ついでに、例の目玉が間近に迫って気味が悪い。これがサトリ妖怪の、心を読む時に用いるという第三の眼か。考えただけで伝わってしまうのであれば、感想を述べるなというのはどだい無理な話なのではないだろうか。
「それ以上はいけない」
時代設定と生活様式が、不整合を起こしているとか。
「やめて」
自然描写が妙に平坦だったりあっさりしてたりとか。
「やめてお願い」
登場人物がやたらと不自然な文語体で喋ったりとか。
「やーめーてーくーだーさーいー」
ちりんちりんちりんちりん。
「分かりました、努力してみますから揺さぶるのやめて下さい。神社鈴じゃないんですから」
対するさとりは青褪め涙目になって、肩で息をする。
「すみません。もう本当、すみません。トラウマになる程度には酷評に心抉られてます」
「いや何と言うか、それは自業自得なんじゃ……」
溜め息をついたところで、一つ気がついたことがある。稗田阿求著、幻想郷縁起に記されていた古明地さとりの項目には、彼女の生活についても書かれていた筈だ。
「というか、地上までいったい何しに来てるんですか。普段は地霊殿って大きなお屋敷の中に籠って、絶対外に出てこないって話じゃないんですか。地上に出てきたら、それこそ大騒ぎなんじゃ?」
「はい実際なってます。今、巫女と半獣が心の中で殺す連呼しながら血眼になって私を探してます。正直、外に出たくありません。助けてほしいんですけど」
「いや本当、何しにきたんだアンタ!」
さとりが両手の人差し指を突き合わせながら、左右を挙動不審に見回し始める。
「それがですね……どうも私にも理解のできない衝動が働きまして。普段ならうちのペットを遣いに寄越すのでしょうが、直接会わなければならないと思ったのです」
「何でまた急に」
「正直、誰かの甘い願望が私を突き動かしたとしか」
「わけ分かりません」
小鈴は腰に手を当てて、さとりの様子を眺める。正直恐怖心が消えたわけではないが、サトリ妖怪を目の前にしたら開き直る以外ないと幻想郷縁起にも書いてあった。
「ではどんな用件で鈴奈庵に? 貸本のご用命ですか」
「もう、話すまでもないでしょうが……私、匙取迷子のペンネームで小説を書いておりまして。こちらでは貸本のみならず、本の販売や製本出版も承っておられるとか。ええ、つまりは製本の依頼ということなんですけど」
目を細める。鈴奈庵では妖怪が書いた書物、いわゆる妖魔本も取り扱っているが、妖怪から直々に取り扱いの依頼を受けるなど初めてのことだ。これも最近目覚めてしまった「あらゆる本の内容を理解する程度の能力」の影響なのだろうか。
「あれ、でも。最近新作の小説を販売されましたよね。結構大量な部数を。あんなに刷るほどの余裕ないですよ」
「天狗に頼んだものですね。それがあいつら、やたらと印刷費をふっかけて来るんですよ。もう売れば売るほど赤字になって、やりくりが大変で仕方なくって」
「それはちょっと、好かれる努力をした方がいいんじゃないかなあ。まあ鈴奈庵の業態をご存知でしたら、大量部数をお請けできないのはお分かりかと。せいぜいが、うちで貸本として取り扱う分と献本の分くらいですかね。むしろ妖怪の依頼を請けたら霊夢さんに何て言われるか」
その博麗霊夢は恐らく現在進行形で、さとりの行方を嗅ぎ回っている。異常直感を持つ彼女が鈴奈庵にサトリ妖怪の姿を見つけるのも時間の問題だろう。
「そうですか……残念です」
無念そうに俯く。済まないとは思うが製本は基本的に小鈴一人での手作業となるので、一日いっぱいを製本に費やしても数冊が限界である。増してや貸本屋の本業も蔑ろにするわけにはいかないので、請けられる冊数には上限がある。その辺を勘案して貰えると有り難いのだが。
「無論本業に無理のない範囲で発注数は絞って、製本に用いる紙と皮革はこちらで調達、更に箔押し用の金箔も印刷費用として用意させていただいたのですが」
ものすごい勢いで瓦解した。
「…………金箔?」
「ええ。こちらにサンプルを持ってきています」
どこからともなく、さとりの手に薄紫の風呂敷包みが現れる。布を解いた中から出てきたのは、平たい桐製の木箱であった。うっかり、息を呑んだ。
さとりが薄い笑みを浮かべて、木箱を開く。山吹色の光芒が小鈴の網膜を焼いた。反射的に小鈴は踵を返すと店の奥に駆け込み、竹製のピンセットをひっ掴んで戻る。
「ちょ、ちょっと拝見」
口元を押さえ、箱の中の一枚を恐る恐る摘み上げた。軽い。和紙よりも手応えが希薄でしなやかだ。うっかり力の加減を間違えると、破れてしまうだろう。しかも、この金色の混じり気の少なさときたら。銀などとの混合ならば、もっと白味がかった色になるものだ。
「……いい仕事してますねえ」
「でしょう? 地底の職人が丹念に拵えた逸品ですよ。彼等は並外れた力の持ち主であると同時に、大変器用な一面も持ち合わせているのです」
自分の手柄でもないのにやたら得意げに語るさとりに対し、小鈴は素直に感心した。丁寧に出来のいい金箔を元の箱に戻したところで……ようやく我に返る。
どうしていきなり警戒心を解いたのか。たかが金箔、そう金箔である。微小な金から作られるものではあるが、里では金自体が手に入りづらい。さとりはそれを知って小鈴を買収しようとしたのか……否、断じて否である。
小鈴は貸本屋だ。多くの里人が本を借り、思うがまま読んでから返却する。そのため残念ながら貸本は非常に傷みやすい。そんな本を修繕し続け、末長く愛読されて欲しいと願ううちに、自然と製本の知識も身についた。
そんな小鈴に対しての金箔なのだ。金の箔押しは本の装丁に高級感を与えるだけに止まらず、顔料や他の金属による箔押しより腐食しにくく長持ちする装飾でもある。
一瞬顔を上げ、さとりの顔を見る。その薄い笑顔が、徐々に勝ち誇っていくのが見えた。見えてしまった。
ああ、やはり。やはり。この妖怪は分かっている。
本居小鈴が、生粋のビブリオフィリアであると同時に、筋金入りの製本マニアであるということを!
例の読心能力によるものであろうか。そんな馬鹿な、彼女とは初対面だというのに。
「……魅力的な提案ではありますけれども、いかんせん鈴奈庵は家内制手工業ですので。実際の製本を見ると、幻滅するかもしれませんよ」
「あら、見せていただけるのですか?」
拒絶するつもりはない。彼女はいったいどこまで理解しているのか、見てみたいと思ったのである。
さとりを手招きして、店の奥に誘導する。雑然とした本の山脈の狭間を抜けていくと、店頭とは別の意味での雑多な空間が広がった。
インクの匂いが染み付いた、簡易な製本工房である。印刷待ちの紙の束、手回しの印刷機、そして製本作業の大半をこなす作業台が、空間の大半を占拠していた。
さとりはといえば、そんな空間を見回すと北側の壁を完全に覆い隠す棚に目を止めた。活字の保管棚である。
「活版印刷もされているのですね」
「木版はさすがに手間がかかり過ぎますから。ああでも、そんなに数を刷れるわけじゃないんですよ」
「ええ、分かっています」
続いて、作業台に目を移す。数百ページほどの紙束が、木の板に挟み込まれた状態で安置してあった。緩やかな丸みを帯びた紙束の側面には和紙が貼り付けられている。
製本工程における背固めと呼ばれる部分であることが、容易に想像できた。あと一刻もすれば背表紙部分に塗りつけられた糊が乾燥して、板の支えを外すと冊子として開くことも可能になるのだ。
さらに台の脇には、半分に折り込まれた状態で束ねた、印刷済みの紙束が山積みになっている。さとりはそれに目を止めると、身を屈めて折り込みの一つ一つを眺める。
「……先ほど、天狗が印刷した本の話をしましたよね。現物をご覧になったことはありますか」
唐突に、さとりからそんな話を振ってきた。驚いて、小鈴は彼女を見る。作業台を観察するその表情からは、若干の苦味が見え隠れしているように思えた。
「ええ、うちにも置いてあります。だけど、保存状態を少し考えなければいけないなって」
「私もできる限り丈夫な状態で出したかったのですが、主張は届かなかったようです。天狗達の仕事には、若干失望してもいるのですよ」
机の傍に置かれたとある道具を手に取る。一見印刷の工房に不釣り合いに見えるそれは、裁縫道具だった。
「生産性を重視しているのか、天狗は折り丁にかがりを入れていないのです。背表紙も丸背ではなく平背でした。強い糊を使っている自信でもあるのかもしれませんが、やはり強く引っ張るとページが抜けそうになります」
重々しく、小鈴が同意する。ページのノドを糸で縫い合わせるかがり縫いも、本を開く毎の形崩れを防ぐ丸背製本も、本を長持ちさせるための一手間だ。天狗の大量生産はそれらを怠っている。貸本屋ならではの勿体無い精神を持つ小鈴には、少々理解し難い感覚であった。
「今思えば、天狗に印刷を依頼したのは軽率でしたね。彼等は豊富に紙を扱える立場上、紙の価値観が私達よりずっと低いものだったのです。やはり紙の重みを、読むことの重みをきちんと理解した方に頼まなければ」
「古明地さん」
ドーン。遠くから爆音が聞こえてくる。どこかで誰か、弾幕ごっこを始めた者でもいるのだろうか。
「……何か?」
我に返る。ずいぶん長い時間、さとりの姿を見つめていたらしい。途端に何か、照れ臭くなった。
「あの、立ち話も何ですので」
少しお茶でも飲みながら話をしてみたい。お世辞でもなく、そう思ったのだ。今の話を聞く限り、彼女は付け焼き刃ではない。間違いなく本物、同好の士であった。
ただ、すべてを言い切ることはできなかった。
「そこまでよっ!」
鈴奈庵の戸が勢いよく開け放たれ、紅白の、ついでに顔も真っ赤な巫女がずかずかと乗り込んでくる。
「もう少し空気を読んでくれてもよかったのに」
残念そうに呟くさとりに、霊夢は祓え櫛を突きつける。
「私をどこぞの竜宮の使いと一緒にするな。とにかく、ここに潜んでると睨んだ私の勘は正しかったようね」
「それにしては、ずいぶんと時間がかかったような……」
「ここ以外が間違いだってことを確かめてたの! さあ小鈴ちゃん、さとりから離れなさい。そいつは陰険で、ろくでもない妖怪なんだから」
小鈴は決まり悪くなって、さとりを見る。霊夢が言い出したら人の話を聞かないのはよく知っていた。
対する彼女は、苦笑いで小鈴を見返す。
「先ほどお見せした金箔は、置いていきます。どうぞ、ご自由にお使いくださいな」
「え、でも。ご注文などお請けしたわけでもないのに」
ドォン! 再び爆音が響く。鈴奈庵が大きく揺れた。
距離は先ほどよりもかなり近い。音源は、真下だった。
小鈴と霊夢が慌てて周囲を見回すが、唯一さとりだけは動じない。なんのこともなさげに小鈴へ応えた。
「いいのですよ。別に印刷の代金ではありませんので。あれは、床の修繕費です」
彼女の言ったことの意味が、よく分からなかった。
どういう意味か。さとりに聞こうとしたその瞬間。
地面がいきなり、盛り上がった。
三人と工房との中心の床にひびが入り、いびつにせり上がる。重いものを叩きつける音と共に歪みはどんどん大きくなり、遂にはスコップの剣先が床から突き出した。
「さとり様、お迎えに上がりましたー」
ひょっこり、頭に猫耳の生えた赤毛の少女が顔を出す。さとりがそこへしゃがみ込んだ。
「お燐、もう少し穏便に来られなかったのかしら?」
「すみませんね。お空にゃ精一杯セーブさせたんですが。危うくここいらの地盤までぶち抜くところでした」
本当にそうなってたら退治どころじゃ済まさないわよ、とおかんむりの霊夢を捨て置いて、さとりが火焔猫燐の空けた穴に身を沈める。彼女はそこで、小鈴を見た。
「お騒がせしました。またご挨拶に伺うこともあるかと」
「ええまあ、次はもっと穏便な形でお会いしたいですね」
さとりが穴の中に消えると同時、直径三尺大の巨大な陰陽玉が現れ穴を塞いだ。霊夢が荒々しく息を吐く。
「まったく。だから気をつけなさいって言ってるのに」
「そうなのかしら。結構楽しかったんだけど」
「ちなみにその金ね、怨霊の欲を絞り出したものだから。霊障が現れる前にお祓いしといた方がいいわよ」
「え」
貸本屋という職業が誕生したのは、江戸時代である。紙と、それを束ねた書籍が高価で市民には手が届かない品物だった頃に手軽な値段で本を貸し出す貸本屋が現れ、庶民のコンテンツビジネスとして隆盛を迎える。しかし書籍の大量生産技術が発達し、文書を複製する術すらも手軽なものとなってしまったがために、市井の貸本屋は一気に衰退の道を辿った。
幻想郷は外の世界で忘れられた遺物が流れ着く異郷だ。貸本屋という職業もまた然りである。人里には貸本業で生計を立てる者が確かに存在していた。しかも、流通も里の内部で完結してしまっているためか、出版と販売の能力まで兼ね備えた貸本屋が。
「ええ、ええ、そうでしょうね、多少なりとも人里でも本が読まれている痕跡が読み取れるのならば、出版業が人里にあると考えるのが自然でしょう。人間が里の外に出るのは危険ですもの。全く盲点でした。あ、いきなり押しかけてくるなり何言ってんだ、って思ってますね? すみませんね、愚痴っちゃって」
本居小鈴は本を開いた状態で硬直したまま、いきなり貸本屋「鈴奈庵」に押しかけてきた不気味な影を眺める。
見かけは小鈴と同じくらいの背丈の、かなり癖っ毛なショートカットの少女なのだが、心臓の辺りから彼女を凝視している「目玉」が怖い。赤いカバーに包まれて、六本のチューブで複雑に少女に絡みついていた。まるで寄生しているかのようだ。
「寄生というか、自分の一部みたいなものです。あまりいい気分をした覚えはありませんが」
しかも、こちらの考えを完璧に理解しているようだ。口に出した覚えなどないのに。
小鈴には心当たりがあった。読書狂(ビブリオフィリア)の面目躍如だ。
幻想郷には、忌み嫌われた妖怪が住む地下世界がある。そこには心を読める能力を持ち、それを嘆き自ら地下に移り住んだ妖怪がいるという。
「幻想郷縁起九代第二版ですね。お察しの通りです」
「だからちょっと、いちいち人の考えていることに割り込んでくるの止めて貰えません!?」
身を乗り出すと同時、ツインテールのお下げ髪に結いつけられた鈴がちりんちりんと音を立てる。
「すみませんね。条件反射的嫌われ者ムーブメントです。長年嫌われてると、嫌われまいとするのが面倒で」
「抗いましょうよ現実に。えーと、古明地さとりさん。と、いうより本の虫といたしましては」
人差し指を立てる。目の前の少女が、目を見開いた。
「匙取迷子(さじとりめいこ)、とお呼びした方がいいかしら?」
「なんと。よく分かりましたね」
小鈴はようやく読みかけの本を閉じると、市松模様の小袖とエプロンドレスの佇まいを改める。
「アナグラムですものね。勘がよければ、それだけでも分かるんじゃないですか。何よりも匙取迷子の献本は、サトリ妖怪が書いたのを暗示する物語が数多いですから」
立ち上がって、山積みとなった本の森の中から一冊の書籍を引っ張り出した。黒革装丁の重厚な本の表紙には、Meiko Sajitoriの名前が箔押しされている。
小鈴は羊皮紙のページを捲りながら、粗筋を思い出す。
「過剰とも言うべき心理描写は賛否両論言われてますが、時折登場人物が見せる狂気的な行動の裏付けともなっていますし私は悪くないと思いますよ。何より匙取迷子の小説は、裏のテーマが一貫してますよね。登場人物達が誤解に誤解を重ねて泥沼に嵌っていくどころか、真実には更に救いがなかったりする。ここから作者の、如実なメッセージを読みとることができます」
「仮に心が読めたとしても、いいことなんて何一つない」
顔を上げる。諦観じみた笑みを浮かべた匙取迷子こと、古明地さとりの顔があった。軽く手を叩いてもいる。
「素晴らしい読解力です。こちらの訴えたいことをよく理解していらっしゃる。ただの貸本屋じゃありませんね」
「でも、心理描写以外のところがちょっと稚拙というか」
両肩を掴まれる。
「皆まで語らずとも結構です。どっかの説教好きから、嫌というほど指摘されてますから」
力一杯握られた。痛い。ついでに、例の目玉が間近に迫って気味が悪い。これがサトリ妖怪の、心を読む時に用いるという第三の眼か。考えただけで伝わってしまうのであれば、感想を述べるなというのはどだい無理な話なのではないだろうか。
「それ以上はいけない」
時代設定と生活様式が、不整合を起こしているとか。
「やめて」
自然描写が妙に平坦だったりあっさりしてたりとか。
「やめてお願い」
登場人物がやたらと不自然な文語体で喋ったりとか。
「やーめーてーくーだーさーいー」
ちりんちりんちりんちりん。
「分かりました、努力してみますから揺さぶるのやめて下さい。神社鈴じゃないんですから」
対するさとりは青褪め涙目になって、肩で息をする。
「すみません。もう本当、すみません。トラウマになる程度には酷評に心抉られてます」
「いや何と言うか、それは自業自得なんじゃ……」
溜め息をついたところで、一つ気がついたことがある。稗田阿求著、幻想郷縁起に記されていた古明地さとりの項目には、彼女の生活についても書かれていた筈だ。
「というか、地上までいったい何しに来てるんですか。普段は地霊殿って大きなお屋敷の中に籠って、絶対外に出てこないって話じゃないんですか。地上に出てきたら、それこそ大騒ぎなんじゃ?」
「はい実際なってます。今、巫女と半獣が心の中で殺す連呼しながら血眼になって私を探してます。正直、外に出たくありません。助けてほしいんですけど」
「いや本当、何しにきたんだアンタ!」
さとりが両手の人差し指を突き合わせながら、左右を挙動不審に見回し始める。
「それがですね……どうも私にも理解のできない衝動が働きまして。普段ならうちのペットを遣いに寄越すのでしょうが、直接会わなければならないと思ったのです」
「何でまた急に」
「正直、誰かの甘い願望が私を突き動かしたとしか」
「わけ分かりません」
小鈴は腰に手を当てて、さとりの様子を眺める。正直恐怖心が消えたわけではないが、サトリ妖怪を目の前にしたら開き直る以外ないと幻想郷縁起にも書いてあった。
「ではどんな用件で鈴奈庵に? 貸本のご用命ですか」
「もう、話すまでもないでしょうが……私、匙取迷子のペンネームで小説を書いておりまして。こちらでは貸本のみならず、本の販売や製本出版も承っておられるとか。ええ、つまりは製本の依頼ということなんですけど」
目を細める。鈴奈庵では妖怪が書いた書物、いわゆる妖魔本も取り扱っているが、妖怪から直々に取り扱いの依頼を受けるなど初めてのことだ。これも最近目覚めてしまった「あらゆる本の内容を理解する程度の能力」の影響なのだろうか。
「あれ、でも。最近新作の小説を販売されましたよね。結構大量な部数を。あんなに刷るほどの余裕ないですよ」
「天狗に頼んだものですね。それがあいつら、やたらと印刷費をふっかけて来るんですよ。もう売れば売るほど赤字になって、やりくりが大変で仕方なくって」
「それはちょっと、好かれる努力をした方がいいんじゃないかなあ。まあ鈴奈庵の業態をご存知でしたら、大量部数をお請けできないのはお分かりかと。せいぜいが、うちで貸本として取り扱う分と献本の分くらいですかね。むしろ妖怪の依頼を請けたら霊夢さんに何て言われるか」
その博麗霊夢は恐らく現在進行形で、さとりの行方を嗅ぎ回っている。異常直感を持つ彼女が鈴奈庵にサトリ妖怪の姿を見つけるのも時間の問題だろう。
「そうですか……残念です」
無念そうに俯く。済まないとは思うが製本は基本的に小鈴一人での手作業となるので、一日いっぱいを製本に費やしても数冊が限界である。増してや貸本屋の本業も蔑ろにするわけにはいかないので、請けられる冊数には上限がある。その辺を勘案して貰えると有り難いのだが。
「無論本業に無理のない範囲で発注数は絞って、製本に用いる紙と皮革はこちらで調達、更に箔押し用の金箔も印刷費用として用意させていただいたのですが」
ものすごい勢いで瓦解した。
「…………金箔?」
「ええ。こちらにサンプルを持ってきています」
どこからともなく、さとりの手に薄紫の風呂敷包みが現れる。布を解いた中から出てきたのは、平たい桐製の木箱であった。うっかり、息を呑んだ。
さとりが薄い笑みを浮かべて、木箱を開く。山吹色の光芒が小鈴の網膜を焼いた。反射的に小鈴は踵を返すと店の奥に駆け込み、竹製のピンセットをひっ掴んで戻る。
「ちょ、ちょっと拝見」
口元を押さえ、箱の中の一枚を恐る恐る摘み上げた。軽い。和紙よりも手応えが希薄でしなやかだ。うっかり力の加減を間違えると、破れてしまうだろう。しかも、この金色の混じり気の少なさときたら。銀などとの混合ならば、もっと白味がかった色になるものだ。
「……いい仕事してますねえ」
「でしょう? 地底の職人が丹念に拵えた逸品ですよ。彼等は並外れた力の持ち主であると同時に、大変器用な一面も持ち合わせているのです」
自分の手柄でもないのにやたら得意げに語るさとりに対し、小鈴は素直に感心した。丁寧に出来のいい金箔を元の箱に戻したところで……ようやく我に返る。
どうしていきなり警戒心を解いたのか。たかが金箔、そう金箔である。微小な金から作られるものではあるが、里では金自体が手に入りづらい。さとりはそれを知って小鈴を買収しようとしたのか……否、断じて否である。
小鈴は貸本屋だ。多くの里人が本を借り、思うがまま読んでから返却する。そのため残念ながら貸本は非常に傷みやすい。そんな本を修繕し続け、末長く愛読されて欲しいと願ううちに、自然と製本の知識も身についた。
そんな小鈴に対しての金箔なのだ。金の箔押しは本の装丁に高級感を与えるだけに止まらず、顔料や他の金属による箔押しより腐食しにくく長持ちする装飾でもある。
一瞬顔を上げ、さとりの顔を見る。その薄い笑顔が、徐々に勝ち誇っていくのが見えた。見えてしまった。
ああ、やはり。やはり。この妖怪は分かっている。
本居小鈴が、生粋のビブリオフィリアであると同時に、筋金入りの製本マニアであるということを!
例の読心能力によるものであろうか。そんな馬鹿な、彼女とは初対面だというのに。
「……魅力的な提案ではありますけれども、いかんせん鈴奈庵は家内制手工業ですので。実際の製本を見ると、幻滅するかもしれませんよ」
「あら、見せていただけるのですか?」
拒絶するつもりはない。彼女はいったいどこまで理解しているのか、見てみたいと思ったのである。
さとりを手招きして、店の奥に誘導する。雑然とした本の山脈の狭間を抜けていくと、店頭とは別の意味での雑多な空間が広がった。
インクの匂いが染み付いた、簡易な製本工房である。印刷待ちの紙の束、手回しの印刷機、そして製本作業の大半をこなす作業台が、空間の大半を占拠していた。
さとりはといえば、そんな空間を見回すと北側の壁を完全に覆い隠す棚に目を止めた。活字の保管棚である。
「活版印刷もされているのですね」
「木版はさすがに手間がかかり過ぎますから。ああでも、そんなに数を刷れるわけじゃないんですよ」
「ええ、分かっています」
続いて、作業台に目を移す。数百ページほどの紙束が、木の板に挟み込まれた状態で安置してあった。緩やかな丸みを帯びた紙束の側面には和紙が貼り付けられている。
製本工程における背固めと呼ばれる部分であることが、容易に想像できた。あと一刻もすれば背表紙部分に塗りつけられた糊が乾燥して、板の支えを外すと冊子として開くことも可能になるのだ。
さらに台の脇には、半分に折り込まれた状態で束ねた、印刷済みの紙束が山積みになっている。さとりはそれに目を止めると、身を屈めて折り込みの一つ一つを眺める。
「……先ほど、天狗が印刷した本の話をしましたよね。現物をご覧になったことはありますか」
唐突に、さとりからそんな話を振ってきた。驚いて、小鈴は彼女を見る。作業台を観察するその表情からは、若干の苦味が見え隠れしているように思えた。
「ええ、うちにも置いてあります。だけど、保存状態を少し考えなければいけないなって」
「私もできる限り丈夫な状態で出したかったのですが、主張は届かなかったようです。天狗達の仕事には、若干失望してもいるのですよ」
机の傍に置かれたとある道具を手に取る。一見印刷の工房に不釣り合いに見えるそれは、裁縫道具だった。
「生産性を重視しているのか、天狗は折り丁にかがりを入れていないのです。背表紙も丸背ではなく平背でした。強い糊を使っている自信でもあるのかもしれませんが、やはり強く引っ張るとページが抜けそうになります」
重々しく、小鈴が同意する。ページのノドを糸で縫い合わせるかがり縫いも、本を開く毎の形崩れを防ぐ丸背製本も、本を長持ちさせるための一手間だ。天狗の大量生産はそれらを怠っている。貸本屋ならではの勿体無い精神を持つ小鈴には、少々理解し難い感覚であった。
「今思えば、天狗に印刷を依頼したのは軽率でしたね。彼等は豊富に紙を扱える立場上、紙の価値観が私達よりずっと低いものだったのです。やはり紙の重みを、読むことの重みをきちんと理解した方に頼まなければ」
「古明地さん」
ドーン。遠くから爆音が聞こえてくる。どこかで誰か、弾幕ごっこを始めた者でもいるのだろうか。
「……何か?」
我に返る。ずいぶん長い時間、さとりの姿を見つめていたらしい。途端に何か、照れ臭くなった。
「あの、立ち話も何ですので」
少しお茶でも飲みながら話をしてみたい。お世辞でもなく、そう思ったのだ。今の話を聞く限り、彼女は付け焼き刃ではない。間違いなく本物、同好の士であった。
ただ、すべてを言い切ることはできなかった。
「そこまでよっ!」
鈴奈庵の戸が勢いよく開け放たれ、紅白の、ついでに顔も真っ赤な巫女がずかずかと乗り込んでくる。
「もう少し空気を読んでくれてもよかったのに」
残念そうに呟くさとりに、霊夢は祓え櫛を突きつける。
「私をどこぞの竜宮の使いと一緒にするな。とにかく、ここに潜んでると睨んだ私の勘は正しかったようね」
「それにしては、ずいぶんと時間がかかったような……」
「ここ以外が間違いだってことを確かめてたの! さあ小鈴ちゃん、さとりから離れなさい。そいつは陰険で、ろくでもない妖怪なんだから」
小鈴は決まり悪くなって、さとりを見る。霊夢が言い出したら人の話を聞かないのはよく知っていた。
対する彼女は、苦笑いで小鈴を見返す。
「先ほどお見せした金箔は、置いていきます。どうぞ、ご自由にお使いくださいな」
「え、でも。ご注文などお請けしたわけでもないのに」
ドォン! 再び爆音が響く。鈴奈庵が大きく揺れた。
距離は先ほどよりもかなり近い。音源は、真下だった。
小鈴と霊夢が慌てて周囲を見回すが、唯一さとりだけは動じない。なんのこともなさげに小鈴へ応えた。
「いいのですよ。別に印刷の代金ではありませんので。あれは、床の修繕費です」
彼女の言ったことの意味が、よく分からなかった。
どういう意味か。さとりに聞こうとしたその瞬間。
地面がいきなり、盛り上がった。
三人と工房との中心の床にひびが入り、いびつにせり上がる。重いものを叩きつける音と共に歪みはどんどん大きくなり、遂にはスコップの剣先が床から突き出した。
「さとり様、お迎えに上がりましたー」
ひょっこり、頭に猫耳の生えた赤毛の少女が顔を出す。さとりがそこへしゃがみ込んだ。
「お燐、もう少し穏便に来られなかったのかしら?」
「すみませんね。お空にゃ精一杯セーブさせたんですが。危うくここいらの地盤までぶち抜くところでした」
本当にそうなってたら退治どころじゃ済まさないわよ、とおかんむりの霊夢を捨て置いて、さとりが火焔猫燐の空けた穴に身を沈める。彼女はそこで、小鈴を見た。
「お騒がせしました。またご挨拶に伺うこともあるかと」
「ええまあ、次はもっと穏便な形でお会いしたいですね」
さとりが穴の中に消えると同時、直径三尺大の巨大な陰陽玉が現れ穴を塞いだ。霊夢が荒々しく息を吐く。
「まったく。だから気をつけなさいって言ってるのに」
「そうなのかしら。結構楽しかったんだけど」
「ちなみにその金ね、怨霊の欲を絞り出したものだから。霊障が現れる前にお祓いしといた方がいいわよ」
「え」
いつも飄々としてる霊夢が鈴奈庵ではたじろぐのがかわいいね
小鈴かわいいよ小鈴
小鈴可愛いよ
あと、さと鈴増えろー
もっと甘い夢見てもいいのよ(チラッチラッ
それはともかく、同じ趣味を通じて交流しあう妖怪と人間という構図、いいですね。
本に対する想いを語る二人のやりとりが、トテモ面白かったです
ここまで原作の設定を取り込んでいるとは。
素晴らしい作品でした。