あ、これ?
そう、もちろん車椅子だよ。
え?
うーん、どっから話せばいいのかな。
人里を散歩するのが好きで、よくあの辺りに行ってたんだ、私。
でね、人間でもなんでも、大人たちは私が歩いていようがいなかろうが全然気づかないんだよね。
別に私がわざわざ能力を使って隠れるまでもなくてさ。
もう、なんていうのかなあ。
端から視界にありません、みたいな。
意識して無視してるわけじゃなくて、本当に自然に無意識の中に埋没しちゃうんだと思うんだ。
通いなれた家路は何も考えなくても歩けたりするよね?
だから小石の一つや二つ転がってたって、気にもならないじゃん。
そんな感じじゃないかな。
だけどさ、それはあくまで大人の話であって、子供は違うよね。
目に耳に口にするもの、何もかもが新鮮で。
だから私の存在も、みんなじゃないけど、見える子には見えるみたい。
それで、一度見ることが出来たら、私の服とか髪の色とか、人里の子達からすれば珍しいみたいで、結構目立つんだよね。
子供達も最初は縄張り意識みたいなのがあって、私が通りかかるといったん遊ぶのをやめて、私のことをじっと眺めていたりしたんだけど、でも私が何をするわけでもないって分かってからは普通に声をかけてくれるようになったんだ。
え?うん、えっとね……大体5人かな。
いつもみんないる訳じゃなくて、季節によって、百姓仕事とか寺子屋とかで減ったり増えたりしたけど。
広場とか河原とかで遊んでいる普通の子達だよ。
私が妖怪だってこともあんまり分かってなかったと思うな。
そりゃあ、妖怪のことはみんな親から聞いて知ってるだろうけどさ。
でも、それって全部子供を怖がらせるための怪談話なわけじゃん。
大人の言うこと聞かないと、こんなこわーい妖怪に食べられちゃうぞ!っていう。
だからさ、ほら、こんな可憐な少女が妖怪だなんて誰も思いもしないよね。
……なに、その顔。
年?みんな7歳とか10歳とか、それくらい。
で、その中にそいつもいたんだ。
うん、私が今言ってる男の子。
どんな子って……うーん、上手くは言えないけど。
普通の村の子だよ。
まあ、どちらかと言えば無口だったけど。
顔とかも別にそんなに、人目を引くとかじゃなくて。
目だけはちょっとくりっとして可愛かったな。
ただ、そいつのお母さんが、別の村から嫁いできたとかでさ。
うん、珍しいよね、恋愛結婚。
お父さんが情熱的な人だったんだね。
お互いの家で、最初は色々揉めたらしいんだけど、まあ当人達がそんなに言うなら……ってことで。
でも、家同士では上手く収まってもさ、狭い村だから、なんかやっぱり嫌な因習っていうか、排他的なところがあるよね、どうしても。
だからそのせいかな、みんなと楽しく遊んでいても、心のどこかで少しだけ馴染めてない、みたいな。
別に、決して嫌みな感じじゃないんだよ。
本人だって努力しているんだけどさ。
え?そりゃあ、遊ぶって言えば、鬼ごっことか、縄跳びとか、水切りとか。
あの子たちと遊び始めたのが確か秋くらいで。
ああ、秘密基地とか作ったな。
別にさ、秘密基地って言ったってそんな大層なものじゃなくて、草の茂みに木の切れ端とか落ち葉とかいっぱい持ってきて囲うんだよ。
うん、まあどっちかって言うと鳩の巣だよね……。
でもちゃんと丁寧に作ればある程度風は防げるし、5、6人くらいは入れる場所ができるんだ。
で、何をするってわけでもないんだけど。
家から駄菓子とか瓢箪に入れたお茶とか持ち寄ってみんなで飲み食いするくらいかな、せいぜい。
これ、秋だからできるんだよね。
一回夏にやったんだけど、もう、ヤブカが……。
思い出しただけでも痒いよ。
そのうち冬になって、雪が降れば屋根の上に小さなシャベルを持って登って、みんなで片っ端から雪かき。
大人達はみんな家の中に引っ込んでるし、雪が音を全部吸い込んじゃうから、聞こえるのは私たちの声だけ。
遠くに白い山が雪の中からぼーっと霞んでさ。
綺麗だよ。
まるでみんな死んじゃって、ここが世界の真ん中か、みたいな。
それで、雪を全部降ろしたらもちろん雪合戦だよ。
夏は川遊び。
汗かくし、だけどやっぱり決して裕福な村じゃないからね。
一応、五右衛門風呂とかもあったけど、毎日入るわけにはいかないでしょ。
だから体を洗うのも含めて、みんなでへちまを持って川で水浴びするの……裸で。
だってあの位の年だと男の子も女の子もそんなに変わりないからさ。
私もそりゃ初めに見たときはびっくりしたけどね。
うん、だけどさ……そいつは、みんなが川に入ってても一人河原で見てるだけなんだよ。
ずっと一人で、石とかひっくり返して。
私は何か訳があるのかと思って何回も訊いたけど、全然教えてくれないんだよね。
「うん……」とか「まあ……」とかはぐらかしてさ。
で、他の子にこっそり聞いたら、どうも単にカナヅチだったんだね。
あらら。
それから私はいつも、川には入らずにそいつと一緒にいることにしたんだ。
いや、別に同情とかじゃなくてね?
なんとなく気になったから。
そうやって一緒にいるうちに、そいつも最初は無口だったんだけど、少しずつ喋るようになったんだよ。
で、ある日私に言うんだよね。
「……僕、本当はカナヅチで。だからみんなに散々からかわれて、夏が来るの嫌だったんだけど、でも、こいしちゃんが来るようになってからは、みんなそういうこと言わなくなって……。だから、ありがとう」
うん、ちょっとグッと来たよね。
だってようやく8歳になったばかりの男の子がさ、そんなことなかなか言えないじゃん。
大体、そいつが泳げないってのも、私は黙っておくつもりだったんだよ。
それから何かとそいつの面倒を見るようになったな。
でね、確かに注意して見ていたら、そいつはちょっとだけみんなから仲間外れにされてるんだよ。
みんな表立ってやる訳じゃなくって、本当にほんのちょっとだけなんだけど。
でも、されてる方からすれば結構傷つくじゃん。
狭い村社会でさ、どこにも逃げ場がないし。
うん……そういうところがやっぱり子供って残酷なんだよね。
で、そうやってそいつがちょっと仲間外れにされてる時は、隙を見計らってそいつを連れ出してよく二人で散歩に行ったりしたんだ。
もちろんちょっと細工をして、他の子供たちには分からないようにね。
村を歩き回ったり、お店を冷やかしたり、森の方に行ったり。
いつも星の話をしてたな、そいつ。
「そういうふうに川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか」みたいなね。
あはは。
で、村の方へ行くともちろん大人たちとすれ違うけど、みんなそいつにしか声をかけないよね。
私のこと見えないから。
初めはそいつも不思議そうな顔をしてるだけだったんだけど。
私も何も言わずに知らんぷりしてたし。
だけどそれが何回も続くとさすがに、「何かこれはおかしいぞ」って気づいたみたいで。
「こいしちゃん……君、何者?」
って。
頭半分小さいそいつが、私の顔を見上げて訊くんだよ。
2回目の秋だったな。
ぎゅっと、その時初めて私の手を握って。
うん、もちろん、私もいつ訊かれるかと待ってたからさ。
「妖怪だよ」
顔色一つ変えず、すぐに答えたよ。
どんな反応するかと思って。
そしたらさ。
「そうなんだ」
その一言だけ。
ちょっと感心しちゃったな。
ちゃっかり手も握ったままだったし。
だけど、別に振り払う気にもならなかった。
ああ、でもさ。
一応言っておくけど、他の子たちもみんな良い子たちなんだよ?
誰でも後ろ暗い部分の一つや二つあるし、たまたまそれが私の目に留まったってだけで。
他にも色々遊んだなあ。
虫取りだけはちょっと遠慮したけど。
ああ、鮎釣りとか。
ちょっと足を伸ばして上流の方まで行ったらいっぱいいるんだよ。
一番年長の奴が竿の扱いが上手くて……え?いや違うよ、釣り竿だよ……。
その一人に任せておけば入れ食い状態だから、私たちは七輪に炭入れて火焚いて待ってるだけ。
こっそり持ってきた一升瓶も開けてさ。
しこたま6人くらいで鮎を食べて、お酒も飲んで、夕方、里にべろべろで帰ったら、大人にむちゃくちゃ怒られたよ、あはは。
みんなに悪いからさ、私も一応末席に並んでお説教聞くんだよね。
畳に正座して。
大人は気づいてないけど。
楽しかったよ、毎日が。
そんな風に、これからもずっと続けば良いなって思ってた。
うん、だけど、そうは行かなかったな、やっぱり。
4回目の夏に、鮎釣りに行こうよって私言ったんだよ。
そしたら子供の一人が、「無理だよ」って。
「だってあいつ、もう遊びにこないじゃん。こいし姉ちゃん、気づいてなかったの?」
もちろん鮎釣りの上手い子のことだよ。
13歳になってたんだね、その時。
お母さんが亡くなって、そしたら貧しい人里では13歳なんてもう家族を支える立派な働き手なんだ。
彼がいなくちゃ鮎釣りはできない。
それは誰の目にも明らかだったから、もう鮎はそれきりになっちゃった。
お父さんと一緒に畑仕事をしてるところをそれから何回か見たよ。
一回声をかけたんだけど、気づいてくれなかった。
もう、大人になっちゃったんだね。
女の子の一人は結婚したよ。
その子はある男の子が好きだったんだけど、そんなこと言い出せないままに親が勝手に結婚相手を決めちゃってさ。
人里では珍しいことじゃないんだけど、それでもやっぱり可哀想だったな。
白無垢姿を遠くから見たよ。
もう私のことに気づいてくれないだろうって分かってたからさ、声はかけなかった。
もちろん綺麗だったけど、なんだか悲愴な感じでさ。
あまり幸せそうには見えなかったな……。
そうやって一人、また一人と抜けていったよ。
夏が終わって、冬が来て、もう一度夏が来て。
その頃にはもう私とそいつしかいなくなってた。
そして、それももう長くは続かないんだってこともお互いに分かっていたよ。
きっと、これが最後の夏だろうってね。
12歳になったそいつは、もう私よりも背が高くてさ。
生意気だって、時々肩を小突いたら、そいつは照れたように笑ったな。
二人で毎日色々なところを歩いたよ。
もう川には行かないし、鮎釣りもしないし、鬼ごっこも縄跳びもしない。
そいつはあんまり星の話もしなくなった。
お父さんの活版所を継ぐらしくて、毎晩活字を拾うのが目が痛いってしきりにこぼしてたな。
でもそう言いながらも結構嬉しそうだった。
夏が終わる頃、村のお祭りがあって、私はそいつに誘われて一緒に行くことにした。
そいつが並んで買ってきてくれたとうもろこしやラムネなんかを、少し人込みから離れたところに座って食べた。
で、私が食べているのを見て、そいつは自分のとうもろこしをかじりながら少し安心したような顔をしてた。
まあ、無理もないよね。
もはや私の姿を見ているのがそいつしかいないんだから、まさか自分は幻覚を見てるんじゃないかなんて思ってもさ。
露店の明かりがぼんやりとそいつの顔を照らしていた。
盆踊りの音楽と和太鼓が遠くから聞こえた。
私はつくづくとそいつの顔を眺めてみた。
何て言うか、本当に人間の顔ってあっと言う間に変わるんだなって思いながら。
そいつは唐突に口を開いた。
「ねえ、こいしちゃん」
「なに?」
「……ごめん、なんでもない」
「……そう」
それからしばらく私たちはそこに座ったままで黙っていた。
ラムネの瓶の喉に残ったビー玉がからり、と音を立てた。
どーん、と低い音がして、私たちの正面の空に大きな光の輪が広がった。
打ち上げ花火だ。
赤とか緑とかの色が空の上に一瞬で弾けて広がって、消えていく。
何発も、何発もね。
祭りの広場にいる誰もが陶然としてそれを眺めていたよ。
私も、そいつも。
やがて花火が終わって、そこここで拍手が起こった。
立ちこめた花火の煙。
ひゅるり、と涼しい夜風が吹いた。
ああ、夏が終わるんだ、ってその時思ったな。
「あれ?」
突然そいつの声が聞こえて私は振り向いた。
「どうしたの?」
「……こいしちゃん?」
何かがおかしかった。
会話が噛み合っていないんだ。
呆然としてみていたら、そいつは立ち上がって私の名前を呼びながら周りを見回し始めたんだよ。
私は目の前にいるのにさ。
うん、そうだね。
すべてを悟ったよ。
ついにその時が来たんだ。
すぐに私も立ち上がって、両手に持っていたラムネの瓶ととうもろこしの芯をその場に捨てた。
そして、そいつの方を絶対に見ないようにしてお祭り広場から出ていった。
ぴったりと耳を塞いでね。
すれ違う村人たちの姿はのっぺりとして現実みたいに見えなかった。
村を出て、祭りの喧騒が遠くなるにつれて私の心はざわついた。
正直、泣きそうだったな。
深呼吸をして、これで良かったんだって自分に言い聞かせた。
うん、何回も何回も深呼吸を繰り返して……最後に一度だけ後ろを振り返ったよ。
遠くに見える祭りの灯りの上に広がった星空が本当に綺麗だった。
本当に。
……うん、大体そういう話だよ。
それが大体70年前。
え?うん、いや、70年前。
そうそう。
……何、腰砕けになってるの?
続き?
もちろんあるよ。
そんなことがあってから私は人里に滅多に行かなくなったんだ。
もし大人になったそいつや他の奴らを通りで見かけても辛いだけだもんね。
取り残される側っていうのはそういうもんだよ。
だけど、最初は辛いことでも、日々を経るにつれて少しずつ感情は磨耗していく。
悪いことを少しずつ忘れて、良いことばかりが残るんだ。
ぼんやりとした楽しい思い出だけが。
ちょうど、川を流れていくうちに、角が取れて小さく丸くなった小石のようにね。
そうして小さくなった綺麗な思い出を、みんな心の中に大事に飾っておくんだよ。
たまには取り出して、磨いたりもしてさ。
私のその数年間も、時が経つうちにそういう種類の思い出になっていったんだ。
私はまた時々人里に足を伸ばすようになった。
川や森や店先に漂う残り香を、知らず知らずのうちに嗅いだりもした。
里には曖昧な楽しい空気だけが満ちていて、私はその楽しさの正体が何なのかを思い出そうとすることすらしなかったんだ。
だから、忘れていたんだよね。
そこがそいつの家だったことも。
そのお爺さんは軒先に椅子を出して座っていた。
深い秋の、まだ辛うじて暖かい日中に降り注ぐ陽光を、一粒残さずその身に受けようとしているみたいにね。
落ち窪んだ目の焦点はどこに合っているわけでもなくて、体の真ん中に立っている杖を握る手にも力が入っていなかった。
風が吹けば飛んでいってしまいそうなくらい。
私は向かいの家の軒下から、ぼんやりとお爺さんを見ていた。
そうやって村の人を眺めるのが好きなんだよ。
やがて、お爺さんの様子が変わった。
深い皺の間から、久しく見せていなかったであろう表情らしきものが上ってきたんだ。
その目はまっすぐ私に向けられていた。
見えないはずの私に。
それは驚愕とも歓喜ともつかない表情だったよ。
色々な感情が一緒くたになった……そう、まるで子供のような。
ほとんど同時に、私もお爺さんの目の奥に隠れた何かに気づいたんだ。
記憶の中の何か……。
確かに見覚えのあるものだった。
その何かに気がついた時、私は組んでいた両手を解いて呆然とそいつを見た。
雷に打たれたようで、しばらく動けなかったよ。
その時一度に色々な記憶が甦ってきた。
震える息を一つ吐いて、ゆっくりとそいつの方へと足を踏み出した。
背中が丸まったそいつの頭は私より半分低い場所にあったよ。
最初と一緒だね。
深い皺が刻まれた顔の中に浮かべられた表情は、それとは逆に子供のようでさ。
そいつは杖から骨ばった片手を離して、震えながら私の手へと伸ばした。
それはすり抜けることもなく私の白い指を微かな力で握ったんだ。
それは冷たくて堅くて、いつかとは随分違ったよ。
何十年も活字を拾ううちに痛めたんだろう白く濁った目の奥から、そいつは私を必死に捉えようとしていた。
私もじっとその目の奥を見た。
やがて、端から少し涎の垂れたそいつの口から、掠れた声が漏れた。
「……こいしちゃん?」
「……うん」
これが昨日のことだよ。
お話はこれで本当におしまい。
だから今晩はそいつをこの車椅子に乗せて、久しぶりに一緒に星でも見に行こうかな、なんて。
70年ぶりのデートだよ。
あはは。
でもさ、今も一つだけ分からないのは、どうしてそいつがまた私の姿が見えるようになったのかってことなんだけど。
もしかして、あいつは子供に戻っちゃったのかなあ?
ねえ、お姉ちゃんはどう思う?
そう、もちろん車椅子だよ。
え?
うーん、どっから話せばいいのかな。
人里を散歩するのが好きで、よくあの辺りに行ってたんだ、私。
でね、人間でもなんでも、大人たちは私が歩いていようがいなかろうが全然気づかないんだよね。
別に私がわざわざ能力を使って隠れるまでもなくてさ。
もう、なんていうのかなあ。
端から視界にありません、みたいな。
意識して無視してるわけじゃなくて、本当に自然に無意識の中に埋没しちゃうんだと思うんだ。
通いなれた家路は何も考えなくても歩けたりするよね?
だから小石の一つや二つ転がってたって、気にもならないじゃん。
そんな感じじゃないかな。
だけどさ、それはあくまで大人の話であって、子供は違うよね。
目に耳に口にするもの、何もかもが新鮮で。
だから私の存在も、みんなじゃないけど、見える子には見えるみたい。
それで、一度見ることが出来たら、私の服とか髪の色とか、人里の子達からすれば珍しいみたいで、結構目立つんだよね。
子供達も最初は縄張り意識みたいなのがあって、私が通りかかるといったん遊ぶのをやめて、私のことをじっと眺めていたりしたんだけど、でも私が何をするわけでもないって分かってからは普通に声をかけてくれるようになったんだ。
え?うん、えっとね……大体5人かな。
いつもみんないる訳じゃなくて、季節によって、百姓仕事とか寺子屋とかで減ったり増えたりしたけど。
広場とか河原とかで遊んでいる普通の子達だよ。
私が妖怪だってこともあんまり分かってなかったと思うな。
そりゃあ、妖怪のことはみんな親から聞いて知ってるだろうけどさ。
でも、それって全部子供を怖がらせるための怪談話なわけじゃん。
大人の言うこと聞かないと、こんなこわーい妖怪に食べられちゃうぞ!っていう。
だからさ、ほら、こんな可憐な少女が妖怪だなんて誰も思いもしないよね。
……なに、その顔。
年?みんな7歳とか10歳とか、それくらい。
で、その中にそいつもいたんだ。
うん、私が今言ってる男の子。
どんな子って……うーん、上手くは言えないけど。
普通の村の子だよ。
まあ、どちらかと言えば無口だったけど。
顔とかも別にそんなに、人目を引くとかじゃなくて。
目だけはちょっとくりっとして可愛かったな。
ただ、そいつのお母さんが、別の村から嫁いできたとかでさ。
うん、珍しいよね、恋愛結婚。
お父さんが情熱的な人だったんだね。
お互いの家で、最初は色々揉めたらしいんだけど、まあ当人達がそんなに言うなら……ってことで。
でも、家同士では上手く収まってもさ、狭い村だから、なんかやっぱり嫌な因習っていうか、排他的なところがあるよね、どうしても。
だからそのせいかな、みんなと楽しく遊んでいても、心のどこかで少しだけ馴染めてない、みたいな。
別に、決して嫌みな感じじゃないんだよ。
本人だって努力しているんだけどさ。
え?そりゃあ、遊ぶって言えば、鬼ごっことか、縄跳びとか、水切りとか。
あの子たちと遊び始めたのが確か秋くらいで。
ああ、秘密基地とか作ったな。
別にさ、秘密基地って言ったってそんな大層なものじゃなくて、草の茂みに木の切れ端とか落ち葉とかいっぱい持ってきて囲うんだよ。
うん、まあどっちかって言うと鳩の巣だよね……。
でもちゃんと丁寧に作ればある程度風は防げるし、5、6人くらいは入れる場所ができるんだ。
で、何をするってわけでもないんだけど。
家から駄菓子とか瓢箪に入れたお茶とか持ち寄ってみんなで飲み食いするくらいかな、せいぜい。
これ、秋だからできるんだよね。
一回夏にやったんだけど、もう、ヤブカが……。
思い出しただけでも痒いよ。
そのうち冬になって、雪が降れば屋根の上に小さなシャベルを持って登って、みんなで片っ端から雪かき。
大人達はみんな家の中に引っ込んでるし、雪が音を全部吸い込んじゃうから、聞こえるのは私たちの声だけ。
遠くに白い山が雪の中からぼーっと霞んでさ。
綺麗だよ。
まるでみんな死んじゃって、ここが世界の真ん中か、みたいな。
それで、雪を全部降ろしたらもちろん雪合戦だよ。
夏は川遊び。
汗かくし、だけどやっぱり決して裕福な村じゃないからね。
一応、五右衛門風呂とかもあったけど、毎日入るわけにはいかないでしょ。
だから体を洗うのも含めて、みんなでへちまを持って川で水浴びするの……裸で。
だってあの位の年だと男の子も女の子もそんなに変わりないからさ。
私もそりゃ初めに見たときはびっくりしたけどね。
うん、だけどさ……そいつは、みんなが川に入ってても一人河原で見てるだけなんだよ。
ずっと一人で、石とかひっくり返して。
私は何か訳があるのかと思って何回も訊いたけど、全然教えてくれないんだよね。
「うん……」とか「まあ……」とかはぐらかしてさ。
で、他の子にこっそり聞いたら、どうも単にカナヅチだったんだね。
あらら。
それから私はいつも、川には入らずにそいつと一緒にいることにしたんだ。
いや、別に同情とかじゃなくてね?
なんとなく気になったから。
そうやって一緒にいるうちに、そいつも最初は無口だったんだけど、少しずつ喋るようになったんだよ。
で、ある日私に言うんだよね。
「……僕、本当はカナヅチで。だからみんなに散々からかわれて、夏が来るの嫌だったんだけど、でも、こいしちゃんが来るようになってからは、みんなそういうこと言わなくなって……。だから、ありがとう」
うん、ちょっとグッと来たよね。
だってようやく8歳になったばかりの男の子がさ、そんなことなかなか言えないじゃん。
大体、そいつが泳げないってのも、私は黙っておくつもりだったんだよ。
それから何かとそいつの面倒を見るようになったな。
でね、確かに注意して見ていたら、そいつはちょっとだけみんなから仲間外れにされてるんだよ。
みんな表立ってやる訳じゃなくって、本当にほんのちょっとだけなんだけど。
でも、されてる方からすれば結構傷つくじゃん。
狭い村社会でさ、どこにも逃げ場がないし。
うん……そういうところがやっぱり子供って残酷なんだよね。
で、そうやってそいつがちょっと仲間外れにされてる時は、隙を見計らってそいつを連れ出してよく二人で散歩に行ったりしたんだ。
もちろんちょっと細工をして、他の子供たちには分からないようにね。
村を歩き回ったり、お店を冷やかしたり、森の方に行ったり。
いつも星の話をしてたな、そいつ。
「そういうふうに川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか」みたいなね。
あはは。
で、村の方へ行くともちろん大人たちとすれ違うけど、みんなそいつにしか声をかけないよね。
私のこと見えないから。
初めはそいつも不思議そうな顔をしてるだけだったんだけど。
私も何も言わずに知らんぷりしてたし。
だけどそれが何回も続くとさすがに、「何かこれはおかしいぞ」って気づいたみたいで。
「こいしちゃん……君、何者?」
って。
頭半分小さいそいつが、私の顔を見上げて訊くんだよ。
2回目の秋だったな。
ぎゅっと、その時初めて私の手を握って。
うん、もちろん、私もいつ訊かれるかと待ってたからさ。
「妖怪だよ」
顔色一つ変えず、すぐに答えたよ。
どんな反応するかと思って。
そしたらさ。
「そうなんだ」
その一言だけ。
ちょっと感心しちゃったな。
ちゃっかり手も握ったままだったし。
だけど、別に振り払う気にもならなかった。
ああ、でもさ。
一応言っておくけど、他の子たちもみんな良い子たちなんだよ?
誰でも後ろ暗い部分の一つや二つあるし、たまたまそれが私の目に留まったってだけで。
他にも色々遊んだなあ。
虫取りだけはちょっと遠慮したけど。
ああ、鮎釣りとか。
ちょっと足を伸ばして上流の方まで行ったらいっぱいいるんだよ。
一番年長の奴が竿の扱いが上手くて……え?いや違うよ、釣り竿だよ……。
その一人に任せておけば入れ食い状態だから、私たちは七輪に炭入れて火焚いて待ってるだけ。
こっそり持ってきた一升瓶も開けてさ。
しこたま6人くらいで鮎を食べて、お酒も飲んで、夕方、里にべろべろで帰ったら、大人にむちゃくちゃ怒られたよ、あはは。
みんなに悪いからさ、私も一応末席に並んでお説教聞くんだよね。
畳に正座して。
大人は気づいてないけど。
楽しかったよ、毎日が。
そんな風に、これからもずっと続けば良いなって思ってた。
うん、だけど、そうは行かなかったな、やっぱり。
4回目の夏に、鮎釣りに行こうよって私言ったんだよ。
そしたら子供の一人が、「無理だよ」って。
「だってあいつ、もう遊びにこないじゃん。こいし姉ちゃん、気づいてなかったの?」
もちろん鮎釣りの上手い子のことだよ。
13歳になってたんだね、その時。
お母さんが亡くなって、そしたら貧しい人里では13歳なんてもう家族を支える立派な働き手なんだ。
彼がいなくちゃ鮎釣りはできない。
それは誰の目にも明らかだったから、もう鮎はそれきりになっちゃった。
お父さんと一緒に畑仕事をしてるところをそれから何回か見たよ。
一回声をかけたんだけど、気づいてくれなかった。
もう、大人になっちゃったんだね。
女の子の一人は結婚したよ。
その子はある男の子が好きだったんだけど、そんなこと言い出せないままに親が勝手に結婚相手を決めちゃってさ。
人里では珍しいことじゃないんだけど、それでもやっぱり可哀想だったな。
白無垢姿を遠くから見たよ。
もう私のことに気づいてくれないだろうって分かってたからさ、声はかけなかった。
もちろん綺麗だったけど、なんだか悲愴な感じでさ。
あまり幸せそうには見えなかったな……。
そうやって一人、また一人と抜けていったよ。
夏が終わって、冬が来て、もう一度夏が来て。
その頃にはもう私とそいつしかいなくなってた。
そして、それももう長くは続かないんだってこともお互いに分かっていたよ。
きっと、これが最後の夏だろうってね。
12歳になったそいつは、もう私よりも背が高くてさ。
生意気だって、時々肩を小突いたら、そいつは照れたように笑ったな。
二人で毎日色々なところを歩いたよ。
もう川には行かないし、鮎釣りもしないし、鬼ごっこも縄跳びもしない。
そいつはあんまり星の話もしなくなった。
お父さんの活版所を継ぐらしくて、毎晩活字を拾うのが目が痛いってしきりにこぼしてたな。
でもそう言いながらも結構嬉しそうだった。
夏が終わる頃、村のお祭りがあって、私はそいつに誘われて一緒に行くことにした。
そいつが並んで買ってきてくれたとうもろこしやラムネなんかを、少し人込みから離れたところに座って食べた。
で、私が食べているのを見て、そいつは自分のとうもろこしをかじりながら少し安心したような顔をしてた。
まあ、無理もないよね。
もはや私の姿を見ているのがそいつしかいないんだから、まさか自分は幻覚を見てるんじゃないかなんて思ってもさ。
露店の明かりがぼんやりとそいつの顔を照らしていた。
盆踊りの音楽と和太鼓が遠くから聞こえた。
私はつくづくとそいつの顔を眺めてみた。
何て言うか、本当に人間の顔ってあっと言う間に変わるんだなって思いながら。
そいつは唐突に口を開いた。
「ねえ、こいしちゃん」
「なに?」
「……ごめん、なんでもない」
「……そう」
それからしばらく私たちはそこに座ったままで黙っていた。
ラムネの瓶の喉に残ったビー玉がからり、と音を立てた。
どーん、と低い音がして、私たちの正面の空に大きな光の輪が広がった。
打ち上げ花火だ。
赤とか緑とかの色が空の上に一瞬で弾けて広がって、消えていく。
何発も、何発もね。
祭りの広場にいる誰もが陶然としてそれを眺めていたよ。
私も、そいつも。
やがて花火が終わって、そこここで拍手が起こった。
立ちこめた花火の煙。
ひゅるり、と涼しい夜風が吹いた。
ああ、夏が終わるんだ、ってその時思ったな。
「あれ?」
突然そいつの声が聞こえて私は振り向いた。
「どうしたの?」
「……こいしちゃん?」
何かがおかしかった。
会話が噛み合っていないんだ。
呆然としてみていたら、そいつは立ち上がって私の名前を呼びながら周りを見回し始めたんだよ。
私は目の前にいるのにさ。
うん、そうだね。
すべてを悟ったよ。
ついにその時が来たんだ。
すぐに私も立ち上がって、両手に持っていたラムネの瓶ととうもろこしの芯をその場に捨てた。
そして、そいつの方を絶対に見ないようにしてお祭り広場から出ていった。
ぴったりと耳を塞いでね。
すれ違う村人たちの姿はのっぺりとして現実みたいに見えなかった。
村を出て、祭りの喧騒が遠くなるにつれて私の心はざわついた。
正直、泣きそうだったな。
深呼吸をして、これで良かったんだって自分に言い聞かせた。
うん、何回も何回も深呼吸を繰り返して……最後に一度だけ後ろを振り返ったよ。
遠くに見える祭りの灯りの上に広がった星空が本当に綺麗だった。
本当に。
……うん、大体そういう話だよ。
それが大体70年前。
え?うん、いや、70年前。
そうそう。
……何、腰砕けになってるの?
続き?
もちろんあるよ。
そんなことがあってから私は人里に滅多に行かなくなったんだ。
もし大人になったそいつや他の奴らを通りで見かけても辛いだけだもんね。
取り残される側っていうのはそういうもんだよ。
だけど、最初は辛いことでも、日々を経るにつれて少しずつ感情は磨耗していく。
悪いことを少しずつ忘れて、良いことばかりが残るんだ。
ぼんやりとした楽しい思い出だけが。
ちょうど、川を流れていくうちに、角が取れて小さく丸くなった小石のようにね。
そうして小さくなった綺麗な思い出を、みんな心の中に大事に飾っておくんだよ。
たまには取り出して、磨いたりもしてさ。
私のその数年間も、時が経つうちにそういう種類の思い出になっていったんだ。
私はまた時々人里に足を伸ばすようになった。
川や森や店先に漂う残り香を、知らず知らずのうちに嗅いだりもした。
里には曖昧な楽しい空気だけが満ちていて、私はその楽しさの正体が何なのかを思い出そうとすることすらしなかったんだ。
だから、忘れていたんだよね。
そこがそいつの家だったことも。
そのお爺さんは軒先に椅子を出して座っていた。
深い秋の、まだ辛うじて暖かい日中に降り注ぐ陽光を、一粒残さずその身に受けようとしているみたいにね。
落ち窪んだ目の焦点はどこに合っているわけでもなくて、体の真ん中に立っている杖を握る手にも力が入っていなかった。
風が吹けば飛んでいってしまいそうなくらい。
私は向かいの家の軒下から、ぼんやりとお爺さんを見ていた。
そうやって村の人を眺めるのが好きなんだよ。
やがて、お爺さんの様子が変わった。
深い皺の間から、久しく見せていなかったであろう表情らしきものが上ってきたんだ。
その目はまっすぐ私に向けられていた。
見えないはずの私に。
それは驚愕とも歓喜ともつかない表情だったよ。
色々な感情が一緒くたになった……そう、まるで子供のような。
ほとんど同時に、私もお爺さんの目の奥に隠れた何かに気づいたんだ。
記憶の中の何か……。
確かに見覚えのあるものだった。
その何かに気がついた時、私は組んでいた両手を解いて呆然とそいつを見た。
雷に打たれたようで、しばらく動けなかったよ。
その時一度に色々な記憶が甦ってきた。
震える息を一つ吐いて、ゆっくりとそいつの方へと足を踏み出した。
背中が丸まったそいつの頭は私より半分低い場所にあったよ。
最初と一緒だね。
深い皺が刻まれた顔の中に浮かべられた表情は、それとは逆に子供のようでさ。
そいつは杖から骨ばった片手を離して、震えながら私の手へと伸ばした。
それはすり抜けることもなく私の白い指を微かな力で握ったんだ。
それは冷たくて堅くて、いつかとは随分違ったよ。
何十年も活字を拾ううちに痛めたんだろう白く濁った目の奥から、そいつは私を必死に捉えようとしていた。
私もじっとその目の奥を見た。
やがて、端から少し涎の垂れたそいつの口から、掠れた声が漏れた。
「……こいしちゃん?」
「……うん」
これが昨日のことだよ。
お話はこれで本当におしまい。
だから今晩はそいつをこの車椅子に乗せて、久しぶりに一緒に星でも見に行こうかな、なんて。
70年ぶりのデートだよ。
あはは。
でもさ、今も一つだけ分からないのは、どうしてそいつがまた私の姿が見えるようになったのかってことなんだけど。
もしかして、あいつは子供に戻っちゃったのかなあ?
ねえ、お姉ちゃんはどう思う?
こいしちゃん優しいなあ
ちょっと切なくて良い話でした。こいしちゃんの語り口がまた良い。
作者さんはこういう感傷的で情緒ある、人生そのものみたいな話を書くのが上手いですね。
年を取って子供に戻ったのか、こいしが変わったのか。
こいし視点で淡々と進むのに情緒的で、素敵なお話でした。
別れの場面の語り方、気持ちが見え隠れする感じがいいです。
変わらないものなんてないから、妖怪が生まれるんだよね。
彼は老境に入って子供の頃のように余計なものがなくなったのでしょうか
こいしちゃんまじヒロイン。
面白かった
いつまで経っても変わらないものは、自身の思い出だと私は思います。
妖怪と人間の間に横たわる不可逆なときの流れが美しいのだ
でたらめだったら面白い
こいしちゃんの語り口調なのがまた良きです。