1 里の中にて
手を引かれての散歩。一度転んでからというもの、ミスティアは私の手を取る様になった。それはまるで親子の様で嫌な感情が湧き上がる反面、捕まれた手の熱が移るのが嬉しくもある。
今日も今日とて、同じように引かれていると、あまいかおり。
くりぃむぱんの、露店売りなそうだ。
懐から財布を取り出して、二つばかり買おうとすると、ミスティアが先に御代を払い、私たちは片手にぱんの冷たさと、片手に熱を感じて散歩を続けた。
甘い味。くりぃむぱんというと、牛乳がほしくなるが、まあそこはすぐには手に入らないので残念なこと。
ゆっくり歩いて、ゆっくり食べて、空が赤くなって、家に着いた。
手と頬の赤を合わせて歩み行く紅葉の道を二人静かに
2 朝ごはんは軽めに
食べるのが億劫になる時もある。特に私などは、すぐに体を壊し、起き上がるのも辛ければ、喉を通る水すらも痛くなるのだから尚更だ。
背を座椅子に預け、ゆっくりと匙を啜る。おかゆというほど米の量は少ない、まるでお米のスープ。
紫蘇のふりかけをかけて、小鉢には薄く、細く切った筍の水煮。
ばたばたと騒がしく動き回る部屋の外と、私の朝ごはんと、熱い体。
寝て起きて、元気になれればいいのだけども。
広い部屋私一人にのしかかり貴女の居ぬ朝食淋し
3 鉄板に愛して
じゅうじゅうと鉄板の上で野菜が跳ねる。お好み焼きを焼く音と、金属のへらで鉄板の上を擦る音。
いつも、お好み焼きの店に行くと、ちゃっちゃと手際よくミスティアが動くので、実は一度もあのへらで私はお好み焼きを返したことがない。
豚肉と、キャベツの焦げる音。隣りでは、小さな子供が親に笑顔でおいしいと元気に話しかけている。
そんな、騒がしいのにゆったりした空間。カフェーの騒がしさとビールの苦さも好きだけども、このどこかの家族の声と、氷がからりと鳴る麦茶もいい。
焼きあがったお好み焼きにソースをかけて、マヨネーズをかけて、青海苔をかけて、かつお節。
湯気で動くかつお節に、生きのいいかつお節だなんて笑う彼女の言葉がおかしかった。
向かい合い小麦の皿に線を描き グラスの縁を指で合わせた
4 つま先の音
足は暖め頭は冷やせと言うけれど、私にも足を冷やしたいときもあり。縁側に座って、足を氷水を入れた桶にいれて、風鈴の音に耳を傾けていると、どこからか猫が膝に。
私と彼女の間に置いた、素麺のざるに箸を伸ばした辺りで、不機嫌そうな顔が目に入った。まあ、何度かあることなので、猫をしっしと払う。要は嫉妬なんだろう。
からからと足を動かして、軽く蹴り上げると水が線を描いて跳ぶ。
春も秋も冬も好きだけど、夏も好き。ざる一つ分の距離感にミスティアがいるから。
冬ではまだ寒い距離も夏では暑過ぎるし、これぐらいが丁度いい。適当に適当を重ねて、私たちは生活をして、互いを感じて何かを食べる。
しあわせというのは、これぐらい簡単なものでいいと思う。
風鈴に揺れる心を重ね見て泳ぐ視線と泳ぐ絹糸
5 両手でお芋
秋ならば秋らしい食べ物を食べよう、だなんて言ってしまえる辺り、我ながら季節感のないことである。
焼き芋と言えば、枯葉を集めて、その中にさつまいもを入れて焼くのが一般的だと思っていたら、石焼とかいうものが気付けば世に溢れていて驚いたのはどれほど前だったか、なんて考えみて、はてさてと自分の中でわからないことにして、捨て置いておく。忘れないのは便利だけども、そのせいで物忘れというのをしてみたくもなるのだ。
それで、焼き芋である。やれ薩摩だやれ琉球だ、はたまた唐芋なんやと名前が変わり時代も変わり、それでもこうやって食べられているのだからすごいもので。
石焼の行商売りから一際大きいのを買って、ぽきりと。半分をミスティアに、残りの半分は私に。はふはふと口をつけて、つけて、水分が欲しくなって後悔するのはご愛嬌。
猫舌というわけでもないのに、隣りでは焼き芋を右手左手と転がしていて、一緒に食べればいいのに、なんて。
食べ終わって、持っていた手からお芋の熱さなくなる頃に、ぎゅうと握られた私の右手は、温かくて、ああ、これがしたかったのかと少しだけ、嬉しく感じた。
少しして気まずそうに噛り付く 貴女の頬の夕焼けの色
6 かぼちゃとちゃちゃちゃ
ハロウィン、という行事が流行りはしなくとも里中に伝わったのは何時だったか。まあ、そんな風に考えを巡らせなくても、一年前なのですけど。
幾つかの妖怪の間ではそれ以前にも行われていたそんな行事を、驚かせるのに使えると唐傘おばけが普及に尽力を尽くしたのが去年。
お菓子も仮装も関係がない私は、それでもせっつかれるので、せめてとかぼちゃのお化けの飾りを髪につけてみたのでした。
ああでもない、こうでもないと原稿の前で頭を抱え、振っていると、何時ものようにお茶がことり。
湯飲みではなく、昔に頂いたティカップに、羊羹や最中ではなく、かぼちゃ色した餡子のようなもの。
後々調べてみれば、ようなものではなくて、本当にかぼちゃ餡というのがあるようで。恥ずかしい、恥ずかしい。
それを、一緒に持ってきたクラッカーに載せて、ぱくりと。
一切次の言葉が出てこないのに、いいやという気にさせてしまう。甘いものにはそんな力がある、気がする。
くるくると紅茶をかき混ぜて、お気に入りの盤を回す。そのまま少し目を閉じて、一言二言言葉を交わせば、夜に朝に時間が過ぎて、明日が来ちゃって哀しく感じて、繰り返して一年幾年。
くりぬいた南瓜の笑みに笑み返しはらり踊るよ季節が踊る
手を引かれての散歩。一度転んでからというもの、ミスティアは私の手を取る様になった。それはまるで親子の様で嫌な感情が湧き上がる反面、捕まれた手の熱が移るのが嬉しくもある。
今日も今日とて、同じように引かれていると、あまいかおり。
くりぃむぱんの、露店売りなそうだ。
懐から財布を取り出して、二つばかり買おうとすると、ミスティアが先に御代を払い、私たちは片手にぱんの冷たさと、片手に熱を感じて散歩を続けた。
甘い味。くりぃむぱんというと、牛乳がほしくなるが、まあそこはすぐには手に入らないので残念なこと。
ゆっくり歩いて、ゆっくり食べて、空が赤くなって、家に着いた。
手と頬の赤を合わせて歩み行く紅葉の道を二人静かに
2 朝ごはんは軽めに
食べるのが億劫になる時もある。特に私などは、すぐに体を壊し、起き上がるのも辛ければ、喉を通る水すらも痛くなるのだから尚更だ。
背を座椅子に預け、ゆっくりと匙を啜る。おかゆというほど米の量は少ない、まるでお米のスープ。
紫蘇のふりかけをかけて、小鉢には薄く、細く切った筍の水煮。
ばたばたと騒がしく動き回る部屋の外と、私の朝ごはんと、熱い体。
寝て起きて、元気になれればいいのだけども。
広い部屋私一人にのしかかり貴女の居ぬ朝食淋し
3 鉄板に愛して
じゅうじゅうと鉄板の上で野菜が跳ねる。お好み焼きを焼く音と、金属のへらで鉄板の上を擦る音。
いつも、お好み焼きの店に行くと、ちゃっちゃと手際よくミスティアが動くので、実は一度もあのへらで私はお好み焼きを返したことがない。
豚肉と、キャベツの焦げる音。隣りでは、小さな子供が親に笑顔でおいしいと元気に話しかけている。
そんな、騒がしいのにゆったりした空間。カフェーの騒がしさとビールの苦さも好きだけども、このどこかの家族の声と、氷がからりと鳴る麦茶もいい。
焼きあがったお好み焼きにソースをかけて、マヨネーズをかけて、青海苔をかけて、かつお節。
湯気で動くかつお節に、生きのいいかつお節だなんて笑う彼女の言葉がおかしかった。
向かい合い小麦の皿に線を描き グラスの縁を指で合わせた
4 つま先の音
足は暖め頭は冷やせと言うけれど、私にも足を冷やしたいときもあり。縁側に座って、足を氷水を入れた桶にいれて、風鈴の音に耳を傾けていると、どこからか猫が膝に。
私と彼女の間に置いた、素麺のざるに箸を伸ばした辺りで、不機嫌そうな顔が目に入った。まあ、何度かあることなので、猫をしっしと払う。要は嫉妬なんだろう。
からからと足を動かして、軽く蹴り上げると水が線を描いて跳ぶ。
春も秋も冬も好きだけど、夏も好き。ざる一つ分の距離感にミスティアがいるから。
冬ではまだ寒い距離も夏では暑過ぎるし、これぐらいが丁度いい。適当に適当を重ねて、私たちは生活をして、互いを感じて何かを食べる。
しあわせというのは、これぐらい簡単なものでいいと思う。
風鈴に揺れる心を重ね見て泳ぐ視線と泳ぐ絹糸
5 両手でお芋
秋ならば秋らしい食べ物を食べよう、だなんて言ってしまえる辺り、我ながら季節感のないことである。
焼き芋と言えば、枯葉を集めて、その中にさつまいもを入れて焼くのが一般的だと思っていたら、石焼とかいうものが気付けば世に溢れていて驚いたのはどれほど前だったか、なんて考えみて、はてさてと自分の中でわからないことにして、捨て置いておく。忘れないのは便利だけども、そのせいで物忘れというのをしてみたくもなるのだ。
それで、焼き芋である。やれ薩摩だやれ琉球だ、はたまた唐芋なんやと名前が変わり時代も変わり、それでもこうやって食べられているのだからすごいもので。
石焼の行商売りから一際大きいのを買って、ぽきりと。半分をミスティアに、残りの半分は私に。はふはふと口をつけて、つけて、水分が欲しくなって後悔するのはご愛嬌。
猫舌というわけでもないのに、隣りでは焼き芋を右手左手と転がしていて、一緒に食べればいいのに、なんて。
食べ終わって、持っていた手からお芋の熱さなくなる頃に、ぎゅうと握られた私の右手は、温かくて、ああ、これがしたかったのかと少しだけ、嬉しく感じた。
少しして気まずそうに噛り付く 貴女の頬の夕焼けの色
6 かぼちゃとちゃちゃちゃ
ハロウィン、という行事が流行りはしなくとも里中に伝わったのは何時だったか。まあ、そんな風に考えを巡らせなくても、一年前なのですけど。
幾つかの妖怪の間ではそれ以前にも行われていたそんな行事を、驚かせるのに使えると唐傘おばけが普及に尽力を尽くしたのが去年。
お菓子も仮装も関係がない私は、それでもせっつかれるので、せめてとかぼちゃのお化けの飾りを髪につけてみたのでした。
ああでもない、こうでもないと原稿の前で頭を抱え、振っていると、何時ものようにお茶がことり。
湯飲みではなく、昔に頂いたティカップに、羊羹や最中ではなく、かぼちゃ色した餡子のようなもの。
後々調べてみれば、ようなものではなくて、本当にかぼちゃ餡というのがあるようで。恥ずかしい、恥ずかしい。
それを、一緒に持ってきたクラッカーに載せて、ぱくりと。
一切次の言葉が出てこないのに、いいやという気にさせてしまう。甘いものにはそんな力がある、気がする。
くるくると紅茶をかき混ぜて、お気に入りの盤を回す。そのまま少し目を閉じて、一言二言言葉を交わせば、夜に朝に時間が過ぎて、明日が来ちゃって哀しく感じて、繰り返して一年幾年。
くりぬいた南瓜の笑みに笑み返しはらり踊るよ季節が踊る
ミスティアがほんの少しだけ身長たかくてそれを本人が自慢に思ってる感じなら俺得
それぞれの日常のラストにある短歌が素敵です。
千年ごはん、手にとってみようと思います。
面白かったです