◆◆◆
――彼方に黄昏が訪れる。
衣連れの音を纏った宵闇が、地平線の向こう側から悪意を目に宿して向かってくる。
飲み込まれるは、僕の自由。
それを受け入れるだけの度量は、果たして――僕には、あるのか――。
山並みが静かに傅いた。僕は左目蓋を覆う。
彼女の為に失った眼球の記憶が、眼窩には残っている。
温もり。暖かさ。
それは……それは――かつて、僕が捨てて来た物。
僕は嘲笑する。僕は、僕を、嘲笑する。
――今更、そんなものの為に『世界』を相手取らなくてはならないなんてな……。
漆黒のマントが風にはためいた。僕は口を開ける。大きく開ける。
舌の根から漏れ出ずるは、咆哮。あるいは、『慟哭』……?
僕には判らない。感情を持たない僕には判らない。
……だけれども。
守りたいという感情に、僕は嘘を吐けない。
嘘を吐かない事だけを、僕は、『あの日』から、僕に課し続けて来たのだから。
誓い。祈り――涙。
あの笑顔を守れるのなら――
――僕は、もう、何もいらない。
この手を闇に染める事すら、厭わない。
「彼女の為だけに、『機関』を抜けるなんて、僕はバカ、なのかもね……」
唇を少し吊り上げて、僕は宵闇に向かって『ツルギ』を振りかざす。
――ああ、僕の頬を濡らすのは……これが、『ナミダ』という物、なのかな……?
「――覚悟しろ……! ブリュッケ=プリンゼッツィン――そして、シュテルン=ベール……虚無の騎士こと、このシュタインヒェン=ド=バルサ・ザールが引導を渡す……ッ!」
そして、僕は、空へと歩を踏み出した。
『世界』に、暁を取り戻すためにっ――。
◆◆◆
ぶたさん貯金箱を手に鼻歌を奏でつつ、こいしは誰もが寝静まった地霊殿の廊下を歩いている。
この日の為だけに、古明地こいしはお小遣いを貯め続けて来た。
そもそも誰にも気付かれない彼女に、金銭という物はさして必要な物では無い。だからこそ、大した我慢を自分に強いることも無く、彼女はすんなりと目的の金額までお小遣いを貯めることが出来た。
目指すは、最愛の姉の部屋。もうとっくのとうにベッドに潜り、夢の中の世界へと旅立っている古明地さとりの部屋である。
逸る気持ちの前では、どうにも地霊殿の廊下はいつもより長く感じられるから不思議だ。誰かが邪魔をしてるのかもしれない。『地霊殿の廊下を長くする程度の能力』的な便利な力を使って。そんな事を、こいしはじゃらじゃらと鳴るぶたさん貯金箱を眺めながら思った。そんな仮定が正しかったとしたならば、速やかにその誰かさんを殺害する心の準備は出来ているので、それ自体は大した問題でもなかったが。
しかしながら誰かに危害を加える必要性が生まれることも無く、こいしはさとりの部屋の前に辿り着く。ピンク色の扉には、『さとりの部屋』と書かれたハート形のドアノッカー。こいしはそれで小さく二度、さとりの部屋の扉を叩いた。
姉が起きていないかどうかの確認のためだ。
ノックの後、少し耳をそばだててみるも、返事は無い。こいしは満足げに頷いた。
ドアノブを掴み、音を立てないように回す。細心の注意を払って、ドアを押す。
しかし、ドアは開かなかった。鍵が掛かっているのだ。
「……全くもう」
しかしこいしは肩を落とすことも無く、ぶたさん貯金箱を床に敷かれた赤いカーペットの上に置く。スカートのポケットをまさぐると、中から出て来たのは金属製の器具。
ピッキングという奴だ。
「こんな鍵を掛けたくらいで、私を締め出せる訳ないのにね」
鍵穴に、ピッキング道具をねじ込む。しかし器具の先端が半分ほど中に挿し入れられた所で、何かに突っかかった様に金属製の道具の侵入が止まった。
「ん……ちょっと穴が小さいなぁ」
そう言いつつも、構わずこいしは二本目の器具を差し込む。
「あはっ! なんだなんだ。ちゃんと二本目も入るんじゃん」
鍵穴の許容量は恐らく逸しているだろうが、笑顔のこいしは己が欲望のままに捻じ込んでいく。
「うむぅ……ちょっぴり、きついかもねー。でも、大丈夫大丈夫。まだまだ挿入るよ」
二本の器具を鍵穴に捻じ込んだまま、三本目の器具を強引に突っ込んだ。
「壊れちゃ駄目だよ? ちゃんと最後まで、ね?」
うふふ、と無邪気に笑いながら、こいしは突っ込んだままの器具を順々に弄った。
ピッキングだから何の問題も無い。
数分ほど弄った所で、かちゃりと軽い手応えを感じた。額に浮かんだ汗を袖で拭きつつ、一仕事終えた気になったこいしは小さく溜め息を吐く。ピッキング道具を仕舞ったこいしは小脇にぶたさん貯金箱を抱え、ゆっくりとさとりの部屋の中へと足を踏み入れる。
ベッド脇に煌々と灯る洋灯が、さとりの部屋の中を照らしていた。
真っ暗だと怖くて寝れないとの事。
「お姉ちゃーん……起きてる……?」
抜き足差し足でベッド脇まで歩み寄る。その途中、ぶたさん貯金箱が何度か腹の中の小銭を鳴らしたので、厳めしい顔をして「しっ!」と叱責しておいた。その甲斐あってか、部屋の中では、静かな寝息だけが木霊するように繰り返されているばかりだった。
こいしがさとりの寝顔を覗き込む。毛布の端から少々ずれたネグリジェの肩口が覗いていた。鎖骨が丸見えである。
じゅるり、と涎を啜ったこいしは心の奥底から湧き上がってくる思念を何とか押さえつけ、思わずピッキング道具に伸びかけた自分の手の動きを戒めた。
――いけない、いけない。
目的はお姉ちゃんをこじ開ける事では無いのだ。
毛布を肩まで引き上げたこいしは、さとりに起きる気配が無いのを確認してから、彼女の机へと向かった。
二段目の引出しに、目的の品物はあった。
◆◆◆
「あれぇ、おかしいなぁ……」
紅茶を用意し、部屋の鍵を掛けて机へと向かったさとりだったが、確かに仕舞いこんだはずの物が見当たらない。私の記憶違いだったかしら、と部屋の中をひっくり返すように探すが、やはりどこにもない。洋服箪笥の中も、ごみ箱の中も探してみるが、やはり無い。
「まだ、手直しが終わって無いのだけれど……」
ふむ、と腕を組み椅子に背を預けたさとりは自分の記憶の糸を辿ってみるが、やはり他の場所に仕舞った記憶などなかった。何分四日も前の記憶であるから若干薄れてこそ居たが、確かに自分は二段目の引出しに仕舞った筈なのだ。
落ち着かない気分で後頭部を掻くさとりの耳に、慌ただしいノックの音が響いた。
「さとり様! さとり様!」
お空の声である。彼女は首を傾げた。まだ仕事をしている筈の時間だ。
「どうしたの? お空? 何かトラブルでもあったの?」
そう言いつつも、さとりはその可能性を既に除外していた。お空の心を読むまでも無い。さとりを呼ぶお空の声は、やけに嬉しそうな、弾んだ物だったからだ。
不審に思いつつもドアまで歩み寄り、鍵を開けてドアを引く。その途端、満面の笑みを浮かべたお空がさとりに飛び着いて来た。
「おめでとうございます! さとり様あぁ!」
お空の爆裂ボディが否応なしにさとりの顔を覆った。柔らかい感触がさとりの鼻と口を覆った。微妙な獣臭さを鼻の奥に留めたまま、さとりは呼吸が出来なくなった。
「ああ! おめでとうございます! おめでとうございます! さとり様! 私馬鹿だから良く判んないけど、さとり様が成功したって事だけは判ります! 嬉しいって事だけは判ります! 『しゅくふく』しなくちゃいけないって事だけは判るんですううぅっ!!」
背骨を圧し折る勢いで、お空はさとりの小さな身体を力の限りに抱きしめる。鳴ったら駄目な場所の関節が順にバキボキと鳴っていく。堪らずさとりはお空の背中をタップする。そんな声なきギブアップに、残念ながらお空は気付けなかった。
「おめでとうございます! こういう時って私たちはどうすれば良いんですか!? お赤飯ですか!? お赤飯を炊けばいいんですか!? お赤飯ってどうやって作るんですか!? そもそもオセキハンって何ですかさとり様あああぁっ!?」
圧し掛かる様に身体を引き寄せるお空の身体をさとりは細腕で押すが、全く離れようとはしない。丁度お空の胸がさとりの顔にフィットしているので、ちょっと離れた程度では呼吸を再開することが叶わない。
死ぬのか。
さとりは若干薄れゆく意識の中で思った。
何が何だか判らないまま、私は死ぬのか。このまま埋もれて死ぬのか――。
「こら! お空! ちょっと離れな! さとり様がさっきからタップしてるじゃないか!」
慌てた声でお燐が部屋の中に入って来ると、すぐさまさとりとお空を引き剥がす。お空は少々抵抗したが、何とかさとりが死ぬ前に熱烈な祝福行動から彼女を救い出す事に成功した。
「ぷはっ……! はーっはーっ……」
「さとり様大丈夫ですか……?」
お燐がさとりの目を覗き込む後ろで、お空は未だ未練がましい目つきをしていた。
「三途の河が見えかけたわ……ペットのおっぱいに埋もれて死んだ、なんて新聞に書かれるわけには行かないものね……気力の勝利よ……」
「ご生還おめでとうございます。さとり様」
「ねー? ギューは? もうさとり様をギューってしていい?」
「お空。ちょっと黙れ。な?」
背後に佇むお空にお燐が睨みを利かせた所で、漸くさとりは平常の呼吸を取り戻す事が出来た。
「――大体、どうしたというの? お燐。お空。貴女達はまだお仕事の時間では無いの?」
呻きを上げる身体の節々を摩りながらも、さとりは主人然とした表情で二匹を問い詰める。「いやぁ……」と口を開いたのは、お燐の方だった。
「正直あたいも良く判らんのですがね……ちょっとあたいが死体調達に行って戻ってみたら、何やらお空が興奮してましてね……『さとり様におめでとうを言うんだ!』っつって聞かないんですよ……」
チラと背後を見たお燐に、お空がハァ、と勿体ぶったような溜め息を吐く。
「お燐は知らないの? 本当に知らないの? やれやれ。お燐はバカだなぁ」
「おいおい、お空……アンタ今、なんつった?」
本気で傷ついた表情を浮かべるお燐が、立ちくらみでも起こしたように膝を折りかける。お空に馬鹿扱いされた事が、よほどショックだったらしい。
「でも、お空? 正直私にも良く判らないわ。貴女は何をして、私に『おめでとう』と言わなくてはならないと思ったの?」
さっぱり祝福される覚えのないさとりが、嬉しそうにはにかんでいるお空に尋ねる。
彼女としては当然お空の心を読もうと努力してはいるのだが、くすぐったい様な嬉しさが荒々しく渦を巻いているイメージが流れて来るばかりで、具体的な理由を彼女の胸中に見出すことは出来なかった。
主人に尋ねられたお空は、不思議そうな顔をして小首を傾げる。
「ほらほらお空、さとり様が聞いてらっしゃるよ? 何が有ったのか順に言ってみな?」
どうやら先ほどの発言に関しては聞かなかった振りを決め込む事にしたらしいお燐が、お空を急かす。「んー……」と、さとりの部屋の上部に飾られた小ぶりなシャンデリア辺りを見上げて考え始めたお空は、やがて得心が言ったように顔をほころばせると、自分の身体の後ろに手を回した。
「あのね、お仕事してたらね、勇儀が来てね、『コレはアンタの主人のなのかい?』って聞いてきてね、それにさとり様のお名前があったからね、それじゃ、おめでとうって言わなきゃな、って思ったの」
全く要領を得ない回答に、さとりもお燐も首を傾げる。
「コレ? コレってどれの事なの?」
「ちょっと待って下さいね……何か、引っ掛かって……あ、取れた。コレです。コレ」
お空がスカートの付け根辺りに挟んでいたらしいそれは、一冊の本だった。豪奢な飾り文字で『虚無の騎士(シュタインヒェン=ド=バルサ・ザール)』と書かれている。
認識した途端、さとりは固まった。
ありとあらゆる彼女の機能が、一瞬にしてフリーズを起こした。
「――何だい? さとり様の忘れものか何かかい? それにしても……ハハッ妙な題名だねぇ。いやこれはかなり……ブフッ……きっついなぁ……」
小さく肩を震わせ、笑みの形に吊り上った口角を隠して、お燐がお空の手からその本を受け取った。
「きつい? きついって、何が?」
「いやいやいや、お空は地獄鴉だから知らんだろうがねぇ、死体を奪う為に人間の家に忍び込むあたいには判るんだよ……死んじまった人間ってのはね。遺品整理っつって色々な生前の持ち物を荒らされるのさ。大抵が他人に見られたくない物なんだが、その中でも生前シコシコ書いてた小説とかは見られたくない物としては別格さね……当然素人が見よう見まねで作ったシロモノなんか、他人様に見せられる様なもんには程遠いんだが、何と言うかこの本からは、そんな臭いがプンプンしてくるよ……意味も無くカッコいい語感ってだけで、登場人物の名前をやけに長ったらしくしたりとか、よくよく意味も判ってない能力を使わせちゃったりとか、判を押した様な痛々しい設定を凝り固まらせたりとか、ご都合主義の展開とか……何と言うか、いやぁ、青春だねぇ……うはあ恥ずかしいなあコレは。こういう時にあたいは獣で良かったなって思うんだよねぇ……こんなん見られたら死にたくなるに違いないね……で、ハハハ……この本が一体どうしたって言うんだい?」
受け取った本をペラペラ捲っては笑うお燐よりも、お空の方が早くさとりの異変に気付いたのは自明の理だった。
赤面、という言葉では到底言い表せない程に、さとりは顔を真っ赤に染めている。
耳まで充血した様に赤変しているさとりの四肢は、超局所的地震でも起きたかのようにプルプル震え、目の端には涙が滲んでいる。
お察しの通り、お空が持って来た本の著者は古明地さとりその人である。
「お燐……ねぇ、お燐……」
お空が何度かお燐の肩を叩いて諭すが、さとりに背を向けたまま嬉々として本の粗探しを始めた彼女は、それに気付かない。
「いやぁ。きついきつい。実にきついねぇ、ハッハッハ……読んでるこっちが恥ずかしくなって来ちまうよ……ハハハハハハ……バルサ・ザールって何だい? そこに意味はあるのかい? ちゃんとその名前はストーリーに絡んでくるのかい? そんなまどろっこしい名前じゃなきゃいけない理由とかはあるのかい? ハハハハハ……」
「ちょっと、お燐……お燐ってば!」
「何だいお空、うるさいなあ……ね、ね、さとり様も読んでみます? 読書家のさとり様が一体どんな評価をす――」
今にも泣きそうな表情のさとりに、漸くお燐が気付いた。
全てが遅過ぎた事など、一目瞭然である。
「――あ、その……あ、ハハ、ハハハハ……名著ですね。これは。稀代の傑作と言っても過言ではないでしょうね……アハハハハ……」
「――具体的に、どこが?」
蚊の鳴く様な声で、さとりが聞く。
お燐は顔を伏せた。
褒める場所を思いつく事が出来なかったのである。
「何なのよおおおおおおおおおおおおおおおおおこれえええええええええええええ!!!????」
引き籠りにそぐわない素早さで、さとりがお燐の手から本を引っ手繰る。
「何でええええええええええ!????? これ今の今まで私が探してた奴じゃないのよおおおおおおおおお!!!! 何でご丁寧に挿絵まで挿入されてるのよ私絵心無いしこんなの描いた覚えも無いし何がムカつくってこの挿絵微妙に上手いじゃないのよ畜生おおおおおおおおおおおおおお!!!!」
畜生、という慟哭染みた叫びにお燐とお空の二匹はピクンと反応するが、最早さとりにはその事に気が付くほどの精神的余裕など皆無であった。
書いた当人が見間違える事などある筈も無く、その本は今までさとりが誰にも内緒で書き進めていたファンタジー小説であった。推敲を繰り返した後には、匿名でどこかの雑誌にでも発表しようと目論んでいた力作である。
推敲以前なので当然原稿用紙の状態のまま、さとりの机の二番目の引出しに安置されていたはずの作品なのだが、それは今、立派に製本作業を終えた晴れ姿で、さとりの手中にある。ご丁寧に著者名も、目立つようにくっきりした金文字で『古明地さとり』と書いてある。
困惑の渦中にいるさとりを余所に、お燐は粛々と自分の服を脱ぎ始めた。
それを几帳面に折り畳み、下着姿となった彼女はカーペットの上に正座をする。
何も言わず、火焔猫燐は主に向かって土下座をした。
姿勢は完璧であった。彼女は死罪を受け入れる覚悟を決めたのだ。
「お空うううう!!!!」
脳内で走馬灯が巡り始めたお燐を無視し、さとりはお空の名を呼ぶ。
「何ですかさとり様! お赤飯ですか!?」
「違うわよ! 貴女はこれを勇儀さんから貰ったのね!? この本を手にしたのは勇儀さんとお空とお燐と私だけなのね!?」
土下座の姿勢を微塵も崩そうとしないお燐をチラと見下ろしたお空は、黙って首を振った。
横に。
「んーとですね……勇儀は、街道の本屋で買ったって言ってたので、多分違うんじゃないかなぁと私は思います」
「か、か、買った!? 買った!? はああああああああああ!!!??????」
激昂の余り、さとりは自分の本を床に投げ付ける。しっかりとした作りの本は、さとりの力でひしゃげる事も無く、挿絵のあるページを開いて床に転がった。
「何でもう出版されてるの!? しかも私の名義で! ワタシノメイギデ!」
「おお! 呪文ですか! 新しいスペルカードですかさとり様!」
「違うってばもおおおおおおおおおお!!!」
状況認識能力がどうやら皆無であるらしいお空が目を輝かせる中、さとりはその場に崩れ落ちた。見開かれた目は潤んでこそいるが何も見ては居らず、ぺたんこ座りをしたさとりは何事かブツブツと呟いている。虫の息である。両目を親指で潰せば意識のスイッチが変わるのかもしれないが、生憎さとりは風を操るモードを使う柱の男では無いので、そんな事には思いも寄らない。
「さとり様さとり様! この挿絵、よく見るとサインが……!」
どうやら殺されはしないと判断したお燐は、ちゃっかり服を着直して床に転がる本を指差している。
彼女の言葉に、さとりの身体は跳ねる様な俊敏さで動き、お燐の指差す先を見た。
確かにイラストの左下には、何やら文字らしき物が書かれている。
妙に書き馴れているそのサインは、ハートで包んだデザインが為されており、その中央には、流麗な筆記体で確かに、『古明地こいし』と書かれていた。
「こいしいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!!!!」
床に膝をついたまま、さとりは海老反りの姿勢で妹の名前を叫ぶ。
さながら映画プラトーンのジャケ絵の如く。
犯人はこいしだ。全てに納得がいった。恐らく自分が眠っている間に忍び込んだこいしが原稿を持ち出し、それを印刷施設にでも持ち込んだのだ。
姉を想っての行動だったのかも知れない。ただ、今のさとりにこいしの気持ちを察する余裕などありはしない。怨嗟百パーセントだった。
「とにかくこいしを探すわよ! 何とかして……何とかしなくちゃ!」
具体的に現状を改善する方法など何一つ思い浮かばず、さとりは殆ど無意識のまま玄関へと向けて走り出した。
「あ、さとり様!?」
お燐とお空は、面食らいつつも主人の後を追いかける。
「こいし! こいし! どこに居るの!? どこかに居るの!? 出て来なさいこいしいいいいいいいいいいいいい!!!」
走りながら大声を出すなど本来ならば、日頃から殆ど運動と言って良い運動とは無縁のさとりに出来る行為ではないのだが、意識が既に肉体の限界を凌駕している今の彼女にとって不可能では無かった。
お燐もお空も、廊下を走りながらエントランスホールへと向かう主人がいつ倒れるか、とハラハラしながら追いかけなければならなかった。
何とか倒れる事無くこいしの名を連呼しながらエントランスへとさとりが辿り着いたのとほぼ同時に、来客を告げるチャイムがけたたましく鳴り響いた。
「こいしっ!?」
反射的に叫びながら、さとりは玄関へと足を進める。こいしがチャイムを鳴らす訳など無いなんて、彼女は考えもせずに扉を開けた。
そこに立っていたのは、水橋パルスィだった。常に陰気な彼女には似つかわしくない微笑みを浮かべて、さとりを見下ろしている。
「……あ、パルスィ、さん……?」
「んー……んふふ」
呼ばれたパルスィは極めて上機嫌に、曖昧な返事をした。
混乱しているさとりでなくても、そのパルスィの態度を理解する事は出来なかっただろう。橋姫という妖怪に上機嫌などという感情があったのか、とさとりは訝しむ。
しかし、彼女が右手に携えている物を見て、その理由はすぐに判った。
そこには、先ほどさとりが自分の部屋で投げ捨てた物と全く同じ本があったのだから。
「……『虚無の騎士』ねぇ……ふふふ……お会いできて光栄だわ、大作家の覚妖怪様?」
一文字一文字を区切る様にパルスィが題名を読み上げると、さとりの表情が、かぁっと真っ赤になった。
「あ、貴女……そ、それ……」
「んー? これ? どうしたかって? 何を言ってるの? 買ったに決まってるじゃない。お金を出して。まさか泥棒して手に入れる訳ないでしょ? んふふ……」
これ見よがしにパルスィはニヤニヤ笑いを浮かべながら、右手で抓んだ本をヒラヒラと見せびらかした。
「ちょ、ちょっとアンタ! さとり様を馬鹿にするような真似をするなら、このアタイが許さないよ!」
羞恥に震えるさとりの肩越しに、お燐が凶暴な顔つきでパルスィを睨み付ける。しかし、パルスィはどこ吹く風といった様子でふん、と鼻を鳴らした。
「馬鹿にする? 何の事かしらねぇ? 私はただ、知り合いが作品を出版した事のお祝いに来ただけなのだけれど? それとも、なぁに? 貴女は、この本が自分の主人にとって恥ずかしい物だと認識しているの?」
そう言ってパルスィはクスクスと笑って見せた。お燐は何も言い返すことが出来ず、グッと押し黙る。事実さとりの著書を恥ずかしい物として認識していただけに、売り言葉に買い言葉で口喧嘩を買えば、それはそのまま主人への侮辱に直結しかねない。
「そ、その本……を、返してください……」
か細くこもる声で、目を逸らすさとりがパルスィに懇願する。両手はギュッとスカートの端を掴んでいた。
「嫌よ。何で返す必要があるの? お金も払ったし、手放すつもりも無いのだけれど?」
「い、良いから返してください! その本は発禁処分にします! これから回収します! 貴女のその本が最初の一冊です! 返さないのなら……っ!」
さとりはスカートのポケットに手を入れて、スペルカードを取り出した。
それを見てもパルスィは特に驚くことなく、ニヤニヤ笑いをさとりの本で隠して「あらまぁ、野蛮な事……」と言ってのけた。
「貴女自分が何をしようとしてるか判ってる? 焚書を行う様な世界に未来は無いのよ? 文化は為政者によってコントロールされる類の物では無いの。話せば判るわ」
「問答無用! 嫌ならその本を渡しなさい!」
殺気立ったさとりの言葉に「五・一五事件じゃあるまいし」と肩を竦めつつも、しかしパルスィは笑みを崩すことなく懐に手を差し込んでカードを取り出した。
「丁度ね、新しいスペルカードを作ったの。きっと貴女も気に入るわよ?」
パルスィが人差し指と中指で挟み込んだカードが発光を始める。身構えたさとりはキッと彼女を睨み付け、カードの宣言をする心の準備を整えた。
「『ベルトルド・エンジェル・ディバイス』!」
「想起『テリブル・スーブ……!? ぶふっ!?」
思わずスペルカードの宣言途中に噛んでしまったさとりが、思わず膝を折った。
何の事は無い。パルスィが宣言したカードの名前が、さとりが書いた小説の中の登場人物が使う技の名前と同じだったという事である。
パルスィの手には、ふわふわとした羽の装飾が為されている白銀の剣が握られている。寸分違わずさとりが描写した通りの造形だった。何という再現力。
勝敗は決した。一発も弾幕が張られる事無く、さとりの心は一撃でぶち折られた。自分が考えた技の名前を他人が叫ぶ事ほど、精神的に来る物もあるまい。地の文を音読されるだけでもきついというのに。
「さ、さとり様っ!?」
何が起きたのか判らないお燐が、不安げに主の名前を呼ぶ。またも顔を真っ赤にしたさとりは、お燐の声すらも聞こえてない様子でパルスィを見上げていた。
「あらあら、どうしたの? まだどっちも被弾してないわよ? 何をそんなに驚いた顔をしているの? 私よりも、貴女の方が馴染み深いんじゃないのかしらねぇ? ふふふ……」
既にパルスィは勝ち誇った顔である。自分が思った通りに事が運んだのだから、上機嫌なのも無理はない。
他者のトラウマを暴いて弾幕にしてきたさとりにとって、今まで自分がやっていた事をそのまま返された形になる。その衝撃は、今まで自分が想像していた物とは比べようも無かった。
その時、さとりとパルスィの間に身を躍らせて割り入った者があった。
勝ち誇っていたパルスィの表情が、フッと崩れる。薄らと涙を浮かべていたさとりが、その誰かを見上げて表情を綻ばせた。
「……こいしっ!」
どこからやって来たのかパルスィの前に立ち塞がったのは、こいしだった。
ああ、妹が助けに来てくれた……。元はと言えば全部こいしのせいな気はするけれど、それでもこいしは今まさに、心を圧し折る為だけにやってきた水橋パルスィの蛮行から私を救いに来てくれたんだ……。
感極まるさとりは、思わずこいしに抱きつきそうになる。思い切り抱きしめて、こいしの優しさに最大限の感謝を捧げたい気持ちになる。その感激は即座に裏切られる事となる。
「『これ以上民を傷つける事が、お前の願いなのか!?』」
…………あれ?
妙に括弧つけたこいしの台詞は、さとりの思考に空白を生んだ。
こいしの言葉を聞き、眉根に皺を寄せていたパルスィが不審な表情を崩して不敵に笑う。
その台詞を聞いて、パルスィは即座に理解したのだ。
こいしもまた、さとりの小説を読んだ同志なのだと。
「『フン……笑止! 暴帝は民を殺めてこその暴帝よ! 私は自身に『世界』が課した役割を行使しているのみ!』」
パルスィが大仰な身振りと共に、演技臭い台詞を吐く。
自分の意図を読み取ったパルスィに、こいしはまた不敵な笑みを返す。この瞬間、水橋パルスィと古明地こいしの間には、固い連帯感のような物が生まれた。お互いがお互いを認め、同じ物を共有している喜びに打ち震えた。さとりは絶叫した。
「いやああああああああああああああああ!!! 止めて! やめてよおおおお!!!」
「ちょ、え? え? さとり様? こいし様? あれ? え?」
相変わらず全く話の流れが読めないお燐は、耳を塞いで身体を丸めたさとりの背を見て大いに戸惑った。完全にこいしとパルスィのやり取りを見物する姿勢に入ったお空は、手に汗を握って両者を見守っている。
「『これ以上僕は、誰かの涙が流れるのを見て居られない! ブリュッケ=プリンゼッツィン! 僕はお前を【虚無】に帰してやる……っ!』」
「『フハハハ……! 貴様の願いなど、我が暴虐と恨みの前には塵も同じよ! 『機関』を抜けた貴様が、たった一人で何が出来ると言うのか!』」
「殺してええええ! 誰か私を今すぐ殺してよおおおお!」
「ちょちょ、さとり様、そんな殺してとか言わないで下さいよ……お空、ちょっとアンタからも何か言ってやんなって!」
「お燐うるさいよ! 黙って見てるべきだよ!」
「はぁ!? アンタ状況を良く見て発言しなよ! どう見たってこん……ぶべらっ!」
たった一匹さとりの為に混乱しつつも何とかしようと奮闘していたお燐だったが、観劇の邪魔だと判断したお空の第三の足による一撃を喰らい、壁まで水平に吹き飛ばされて気絶した。
最早誰もこの場を収める事は出来ない。
「『確かに僕は無力かもしれない……だけど! こんな僕に縋ってくれる人がいるんだ! 守りたい人がいるんだ! だから僕は、お前を倒す……っ!』」
「『フン! 虫けら如きがいい気になるなよ? シュタインヒェン=ド=バルサ・ザール! 取るに足らん貴様の命、この女暴帝こと、ブリュッケ=プリンゼッツィンが貰い受けてやろう! 光栄に思い、そして――死ね!』」
「あー!!! あー!!!! 聞こえない聞こえない! 何にも聞こえないいいっ!!!」
両耳を固く塞いでさとりが大声を張り上げるも、その合間に台詞の端々が彼女の耳へと届いて、二人が何を言ってるのか即座に理解してしまう。理解出来てしまう。それらの台詞の全ては、さとりが生み出した物なのだから当然だ。
シュタインヒェン=ド=バルサ・ザールが他者の為に生きると決意し、ブリュッケ=プリンゼッツィンと対峙を決意する場面。そしてそこに伝説の暗黒騎士、シュテルン=ベールが参入し、『世界』の命運を決する最終決戦が幕を開けるという場面だという事が、完全に理解出来てしまう。震える両手で自らを抱きしめながら、さとりは羞恥でぼうっとした頭で考えていた。
その次の台詞は、『おいおい貴様ら。この私を差し置いて、何を興奮しているのかね?』だという事さえも。
「――『おいおい貴様ら。この私を差し置いて、何を興奮しているのかね?』」
「……っ!?」
想像していた通りの台詞が聞こえて来て、さとりは愕然とする。
この場で役になり切っていたのはパルスィとこいしだけの筈なのに、全く予期せぬ第三者の出現に、さとりは驚き、恐怖して顔を上げた。
そこに居たのは、星熊勇儀だった。
いつものラフな格好ではなく、真っ黒な鎧にしっかりと身を固めた鬼がそこに居た。
どうやら衣装を自作しての参上らしい。
「う、嘘でしょ……誰か嘘だと言って……」
涙を流してさとりが蹲る。こいしとパルスィの目は爛々と興奮に輝き、さとりはどうすれば痛くなく舌を噛み切る事が出来るか、と考え始めた。
「『まさか伝説が登場なさるとはな……枯れたおとぎ話如きが、この女暴帝に敵うとでも思っているのかね?』」
「『フフフ……貴様如きが暴帝を名乗るなど片腹痛いわ……我が【暗黒】に飲まれて死ぬまでもがき苦しむ貴様の断末魔が聞こえて来るようだよ……』」
「『くっ……僕は勝てるのか……! この強大な負の力! 『世界』を守るために、僕は死ぬ覚悟は出来ているが……しかし、彼女に逢う事は出来るのか……っ!』」
全員ノリノリである。
「嫌……もういやぁ……助けて……誰か私を助けて……優しく殺して……うふふ……羊が一匹、羊が二匹……お花畑……お菓子の家……」
親指の爪を噛みながら、さとりが現実逃避を始めた。チラリとお空を見ると、一体どこから調達したのかポップコーンを片手に、固唾を飲んで三人のやり取りを見守っている。さとりの目から光が失われた。
「『うおおおおおおお!! 行くぞシュタインヒェン=ド=バルサ・ザール! そしてブリュッケ=プリンゼッツィンよ! 我が【暗黒】に飲まれるがいい!』」
「『フン! 笑止! 『世界』を手中に収めるのは、この女暴帝ブリュッケ=プリンゼッツィンよ! 貴様の【暗黒】も、小僧の【虚無】も、全て飲み込んでくれるっ!』」
「『もう僕は誰からも救われなくていい! 僕が希望になるんだ! 貴様ら二人を【虚無】に帰して、僕はこの暁を守って見せる!』」
「やめてええええええええ!!! もうやめてえええええええええええええええええええ!!! いやあああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
現実逃避に失敗したさとりの絶叫も虚しく、三人は最後まで演技を続けた。
一時間後に残ったのは、やり切った三人の清々しい笑顔と、お空の拍手と、そして虫の息となったさとりとお燐の空っぽな肉体だけであった。
◆◆◆
『虚無の騎士』は、地底世界でのベストセラーを記録した。
多少なりとも人間の文化を知っている者にとっては痛々しく噴飯物の小説であっても、地底に住まう者にとってそれは斬新かつ興味深い作品足り得たのだ。
中世欧州を元にした舞台設定。主人公を始めとした登場人物の持つ横文字風の名前。【虚無】や【暗黒】などの目新しい能力。美麗な挿絵。そして何よりも、そんな小説を嫌われ者である覚妖怪が書き記したという事実。それらは悉く地底妖怪の目を引いた。
一週間もしない内に、『虚無の騎士』を知らない妖怪は地底に居なくなった。誰もが挙って作中の技を模したスペルカードを作成し、『虚無の騎士』ごっこは社会現象となった。
それに伴って、地霊殿には莫大な金銭が舞い込んだ。使っても使っても無くならない程の大金だった。ペットの食事のランクは二段階上がり、ガラス製だったシャンデリアの殆どが、ルビーやエメラルドなどの宝石製へと変化を遂げた。
それだけならばさとりの精神的外傷も徐々に和らいで行っただろうが、そんなムーブメントが地底だけで収まる訳も無く、地上の者たちの目にも『虚無の騎士』が触れる様になったのが運の尽きであった。
天狗はさとりの中二病加減を面白おかしく書き殴った新聞を発行しまくり、稗田阿求は冒頭の二ページで読破を断念し、そんな酷評を知った霧雨魔理沙が引っ切り無しに地霊殿を訪れる様になり、ただでさえ不本意だったさとりの心は完全に圧し折られた。
握手会やサイン会が計画されてもその全てを拒絶し、続編の出版要請を無視し、さとりは自分の部屋から一歩も出なくなった。そうして何をしているかというとまた新しい小説を書いているのだから、物書きの業とは実に深い物である。
ただ、地霊殿に舞い込んだ金銭をこいしが秘密裏に貯めているという事を、さとりは知らない。近いうちにまた、さとりの小説は出版されるであろう。熱狂的なファンは、さとりの小説を今か今かと待っているのだから。
FIN
――彼方に黄昏が訪れる。
衣連れの音を纏った宵闇が、地平線の向こう側から悪意を目に宿して向かってくる。
飲み込まれるは、僕の自由。
それを受け入れるだけの度量は、果たして――僕には、あるのか――。
山並みが静かに傅いた。僕は左目蓋を覆う。
彼女の為に失った眼球の記憶が、眼窩には残っている。
温もり。暖かさ。
それは……それは――かつて、僕が捨てて来た物。
僕は嘲笑する。僕は、僕を、嘲笑する。
――今更、そんなものの為に『世界』を相手取らなくてはならないなんてな……。
漆黒のマントが風にはためいた。僕は口を開ける。大きく開ける。
舌の根から漏れ出ずるは、咆哮。あるいは、『慟哭』……?
僕には判らない。感情を持たない僕には判らない。
……だけれども。
守りたいという感情に、僕は嘘を吐けない。
嘘を吐かない事だけを、僕は、『あの日』から、僕に課し続けて来たのだから。
誓い。祈り――涙。
あの笑顔を守れるのなら――
――僕は、もう、何もいらない。
この手を闇に染める事すら、厭わない。
「彼女の為だけに、『機関』を抜けるなんて、僕はバカ、なのかもね……」
唇を少し吊り上げて、僕は宵闇に向かって『ツルギ』を振りかざす。
――ああ、僕の頬を濡らすのは……これが、『ナミダ』という物、なのかな……?
「――覚悟しろ……! ブリュッケ=プリンゼッツィン――そして、シュテルン=ベール……虚無の騎士こと、このシュタインヒェン=ド=バルサ・ザールが引導を渡す……ッ!」
そして、僕は、空へと歩を踏み出した。
『世界』に、暁を取り戻すためにっ――。
◆◆◆
ぶたさん貯金箱を手に鼻歌を奏でつつ、こいしは誰もが寝静まった地霊殿の廊下を歩いている。
この日の為だけに、古明地こいしはお小遣いを貯め続けて来た。
そもそも誰にも気付かれない彼女に、金銭という物はさして必要な物では無い。だからこそ、大した我慢を自分に強いることも無く、彼女はすんなりと目的の金額までお小遣いを貯めることが出来た。
目指すは、最愛の姉の部屋。もうとっくのとうにベッドに潜り、夢の中の世界へと旅立っている古明地さとりの部屋である。
逸る気持ちの前では、どうにも地霊殿の廊下はいつもより長く感じられるから不思議だ。誰かが邪魔をしてるのかもしれない。『地霊殿の廊下を長くする程度の能力』的な便利な力を使って。そんな事を、こいしはじゃらじゃらと鳴るぶたさん貯金箱を眺めながら思った。そんな仮定が正しかったとしたならば、速やかにその誰かさんを殺害する心の準備は出来ているので、それ自体は大した問題でもなかったが。
しかしながら誰かに危害を加える必要性が生まれることも無く、こいしはさとりの部屋の前に辿り着く。ピンク色の扉には、『さとりの部屋』と書かれたハート形のドアノッカー。こいしはそれで小さく二度、さとりの部屋の扉を叩いた。
姉が起きていないかどうかの確認のためだ。
ノックの後、少し耳をそばだててみるも、返事は無い。こいしは満足げに頷いた。
ドアノブを掴み、音を立てないように回す。細心の注意を払って、ドアを押す。
しかし、ドアは開かなかった。鍵が掛かっているのだ。
「……全くもう」
しかしこいしは肩を落とすことも無く、ぶたさん貯金箱を床に敷かれた赤いカーペットの上に置く。スカートのポケットをまさぐると、中から出て来たのは金属製の器具。
ピッキングという奴だ。
「こんな鍵を掛けたくらいで、私を締め出せる訳ないのにね」
鍵穴に、ピッキング道具をねじ込む。しかし器具の先端が半分ほど中に挿し入れられた所で、何かに突っかかった様に金属製の道具の侵入が止まった。
「ん……ちょっと穴が小さいなぁ」
そう言いつつも、構わずこいしは二本目の器具を差し込む。
「あはっ! なんだなんだ。ちゃんと二本目も入るんじゃん」
鍵穴の許容量は恐らく逸しているだろうが、笑顔のこいしは己が欲望のままに捻じ込んでいく。
「うむぅ……ちょっぴり、きついかもねー。でも、大丈夫大丈夫。まだまだ挿入るよ」
二本の器具を鍵穴に捻じ込んだまま、三本目の器具を強引に突っ込んだ。
「壊れちゃ駄目だよ? ちゃんと最後まで、ね?」
うふふ、と無邪気に笑いながら、こいしは突っ込んだままの器具を順々に弄った。
ピッキングだから何の問題も無い。
数分ほど弄った所で、かちゃりと軽い手応えを感じた。額に浮かんだ汗を袖で拭きつつ、一仕事終えた気になったこいしは小さく溜め息を吐く。ピッキング道具を仕舞ったこいしは小脇にぶたさん貯金箱を抱え、ゆっくりとさとりの部屋の中へと足を踏み入れる。
ベッド脇に煌々と灯る洋灯が、さとりの部屋の中を照らしていた。
真っ暗だと怖くて寝れないとの事。
「お姉ちゃーん……起きてる……?」
抜き足差し足でベッド脇まで歩み寄る。その途中、ぶたさん貯金箱が何度か腹の中の小銭を鳴らしたので、厳めしい顔をして「しっ!」と叱責しておいた。その甲斐あってか、部屋の中では、静かな寝息だけが木霊するように繰り返されているばかりだった。
こいしがさとりの寝顔を覗き込む。毛布の端から少々ずれたネグリジェの肩口が覗いていた。鎖骨が丸見えである。
じゅるり、と涎を啜ったこいしは心の奥底から湧き上がってくる思念を何とか押さえつけ、思わずピッキング道具に伸びかけた自分の手の動きを戒めた。
――いけない、いけない。
目的はお姉ちゃんをこじ開ける事では無いのだ。
毛布を肩まで引き上げたこいしは、さとりに起きる気配が無いのを確認してから、彼女の机へと向かった。
二段目の引出しに、目的の品物はあった。
◆◆◆
「あれぇ、おかしいなぁ……」
紅茶を用意し、部屋の鍵を掛けて机へと向かったさとりだったが、確かに仕舞いこんだはずの物が見当たらない。私の記憶違いだったかしら、と部屋の中をひっくり返すように探すが、やはりどこにもない。洋服箪笥の中も、ごみ箱の中も探してみるが、やはり無い。
「まだ、手直しが終わって無いのだけれど……」
ふむ、と腕を組み椅子に背を預けたさとりは自分の記憶の糸を辿ってみるが、やはり他の場所に仕舞った記憶などなかった。何分四日も前の記憶であるから若干薄れてこそ居たが、確かに自分は二段目の引出しに仕舞った筈なのだ。
落ち着かない気分で後頭部を掻くさとりの耳に、慌ただしいノックの音が響いた。
「さとり様! さとり様!」
お空の声である。彼女は首を傾げた。まだ仕事をしている筈の時間だ。
「どうしたの? お空? 何かトラブルでもあったの?」
そう言いつつも、さとりはその可能性を既に除外していた。お空の心を読むまでも無い。さとりを呼ぶお空の声は、やけに嬉しそうな、弾んだ物だったからだ。
不審に思いつつもドアまで歩み寄り、鍵を開けてドアを引く。その途端、満面の笑みを浮かべたお空がさとりに飛び着いて来た。
「おめでとうございます! さとり様あぁ!」
お空の爆裂ボディが否応なしにさとりの顔を覆った。柔らかい感触がさとりの鼻と口を覆った。微妙な獣臭さを鼻の奥に留めたまま、さとりは呼吸が出来なくなった。
「ああ! おめでとうございます! おめでとうございます! さとり様! 私馬鹿だから良く判んないけど、さとり様が成功したって事だけは判ります! 嬉しいって事だけは判ります! 『しゅくふく』しなくちゃいけないって事だけは判るんですううぅっ!!」
背骨を圧し折る勢いで、お空はさとりの小さな身体を力の限りに抱きしめる。鳴ったら駄目な場所の関節が順にバキボキと鳴っていく。堪らずさとりはお空の背中をタップする。そんな声なきギブアップに、残念ながらお空は気付けなかった。
「おめでとうございます! こういう時って私たちはどうすれば良いんですか!? お赤飯ですか!? お赤飯を炊けばいいんですか!? お赤飯ってどうやって作るんですか!? そもそもオセキハンって何ですかさとり様あああぁっ!?」
圧し掛かる様に身体を引き寄せるお空の身体をさとりは細腕で押すが、全く離れようとはしない。丁度お空の胸がさとりの顔にフィットしているので、ちょっと離れた程度では呼吸を再開することが叶わない。
死ぬのか。
さとりは若干薄れゆく意識の中で思った。
何が何だか判らないまま、私は死ぬのか。このまま埋もれて死ぬのか――。
「こら! お空! ちょっと離れな! さとり様がさっきからタップしてるじゃないか!」
慌てた声でお燐が部屋の中に入って来ると、すぐさまさとりとお空を引き剥がす。お空は少々抵抗したが、何とかさとりが死ぬ前に熱烈な祝福行動から彼女を救い出す事に成功した。
「ぷはっ……! はーっはーっ……」
「さとり様大丈夫ですか……?」
お燐がさとりの目を覗き込む後ろで、お空は未だ未練がましい目つきをしていた。
「三途の河が見えかけたわ……ペットのおっぱいに埋もれて死んだ、なんて新聞に書かれるわけには行かないものね……気力の勝利よ……」
「ご生還おめでとうございます。さとり様」
「ねー? ギューは? もうさとり様をギューってしていい?」
「お空。ちょっと黙れ。な?」
背後に佇むお空にお燐が睨みを利かせた所で、漸くさとりは平常の呼吸を取り戻す事が出来た。
「――大体、どうしたというの? お燐。お空。貴女達はまだお仕事の時間では無いの?」
呻きを上げる身体の節々を摩りながらも、さとりは主人然とした表情で二匹を問い詰める。「いやぁ……」と口を開いたのは、お燐の方だった。
「正直あたいも良く判らんのですがね……ちょっとあたいが死体調達に行って戻ってみたら、何やらお空が興奮してましてね……『さとり様におめでとうを言うんだ!』っつって聞かないんですよ……」
チラと背後を見たお燐に、お空がハァ、と勿体ぶったような溜め息を吐く。
「お燐は知らないの? 本当に知らないの? やれやれ。お燐はバカだなぁ」
「おいおい、お空……アンタ今、なんつった?」
本気で傷ついた表情を浮かべるお燐が、立ちくらみでも起こしたように膝を折りかける。お空に馬鹿扱いされた事が、よほどショックだったらしい。
「でも、お空? 正直私にも良く判らないわ。貴女は何をして、私に『おめでとう』と言わなくてはならないと思ったの?」
さっぱり祝福される覚えのないさとりが、嬉しそうにはにかんでいるお空に尋ねる。
彼女としては当然お空の心を読もうと努力してはいるのだが、くすぐったい様な嬉しさが荒々しく渦を巻いているイメージが流れて来るばかりで、具体的な理由を彼女の胸中に見出すことは出来なかった。
主人に尋ねられたお空は、不思議そうな顔をして小首を傾げる。
「ほらほらお空、さとり様が聞いてらっしゃるよ? 何が有ったのか順に言ってみな?」
どうやら先ほどの発言に関しては聞かなかった振りを決め込む事にしたらしいお燐が、お空を急かす。「んー……」と、さとりの部屋の上部に飾られた小ぶりなシャンデリア辺りを見上げて考え始めたお空は、やがて得心が言ったように顔をほころばせると、自分の身体の後ろに手を回した。
「あのね、お仕事してたらね、勇儀が来てね、『コレはアンタの主人のなのかい?』って聞いてきてね、それにさとり様のお名前があったからね、それじゃ、おめでとうって言わなきゃな、って思ったの」
全く要領を得ない回答に、さとりもお燐も首を傾げる。
「コレ? コレってどれの事なの?」
「ちょっと待って下さいね……何か、引っ掛かって……あ、取れた。コレです。コレ」
お空がスカートの付け根辺りに挟んでいたらしいそれは、一冊の本だった。豪奢な飾り文字で『虚無の騎士(シュタインヒェン=ド=バルサ・ザール)』と書かれている。
認識した途端、さとりは固まった。
ありとあらゆる彼女の機能が、一瞬にしてフリーズを起こした。
「――何だい? さとり様の忘れものか何かかい? それにしても……ハハッ妙な題名だねぇ。いやこれはかなり……ブフッ……きっついなぁ……」
小さく肩を震わせ、笑みの形に吊り上った口角を隠して、お燐がお空の手からその本を受け取った。
「きつい? きついって、何が?」
「いやいやいや、お空は地獄鴉だから知らんだろうがねぇ、死体を奪う為に人間の家に忍び込むあたいには判るんだよ……死んじまった人間ってのはね。遺品整理っつって色々な生前の持ち物を荒らされるのさ。大抵が他人に見られたくない物なんだが、その中でも生前シコシコ書いてた小説とかは見られたくない物としては別格さね……当然素人が見よう見まねで作ったシロモノなんか、他人様に見せられる様なもんには程遠いんだが、何と言うかこの本からは、そんな臭いがプンプンしてくるよ……意味も無くカッコいい語感ってだけで、登場人物の名前をやけに長ったらしくしたりとか、よくよく意味も判ってない能力を使わせちゃったりとか、判を押した様な痛々しい設定を凝り固まらせたりとか、ご都合主義の展開とか……何と言うか、いやぁ、青春だねぇ……うはあ恥ずかしいなあコレは。こういう時にあたいは獣で良かったなって思うんだよねぇ……こんなん見られたら死にたくなるに違いないね……で、ハハハ……この本が一体どうしたって言うんだい?」
受け取った本をペラペラ捲っては笑うお燐よりも、お空の方が早くさとりの異変に気付いたのは自明の理だった。
赤面、という言葉では到底言い表せない程に、さとりは顔を真っ赤に染めている。
耳まで充血した様に赤変しているさとりの四肢は、超局所的地震でも起きたかのようにプルプル震え、目の端には涙が滲んでいる。
お察しの通り、お空が持って来た本の著者は古明地さとりその人である。
「お燐……ねぇ、お燐……」
お空が何度かお燐の肩を叩いて諭すが、さとりに背を向けたまま嬉々として本の粗探しを始めた彼女は、それに気付かない。
「いやぁ。きついきつい。実にきついねぇ、ハッハッハ……読んでるこっちが恥ずかしくなって来ちまうよ……ハハハハハハ……バルサ・ザールって何だい? そこに意味はあるのかい? ちゃんとその名前はストーリーに絡んでくるのかい? そんなまどろっこしい名前じゃなきゃいけない理由とかはあるのかい? ハハハハハ……」
「ちょっと、お燐……お燐ってば!」
「何だいお空、うるさいなあ……ね、ね、さとり様も読んでみます? 読書家のさとり様が一体どんな評価をす――」
今にも泣きそうな表情のさとりに、漸くお燐が気付いた。
全てが遅過ぎた事など、一目瞭然である。
「――あ、その……あ、ハハ、ハハハハ……名著ですね。これは。稀代の傑作と言っても過言ではないでしょうね……アハハハハ……」
「――具体的に、どこが?」
蚊の鳴く様な声で、さとりが聞く。
お燐は顔を伏せた。
褒める場所を思いつく事が出来なかったのである。
「何なのよおおおおおおおおおおおおおおおおおこれえええええええええええええ!!!????」
引き籠りにそぐわない素早さで、さとりがお燐の手から本を引っ手繰る。
「何でええええええええええ!????? これ今の今まで私が探してた奴じゃないのよおおおおおおおおお!!!! 何でご丁寧に挿絵まで挿入されてるのよ私絵心無いしこんなの描いた覚えも無いし何がムカつくってこの挿絵微妙に上手いじゃないのよ畜生おおおおおおおおおおおおおお!!!!」
畜生、という慟哭染みた叫びにお燐とお空の二匹はピクンと反応するが、最早さとりにはその事に気が付くほどの精神的余裕など皆無であった。
書いた当人が見間違える事などある筈も無く、その本は今までさとりが誰にも内緒で書き進めていたファンタジー小説であった。推敲を繰り返した後には、匿名でどこかの雑誌にでも発表しようと目論んでいた力作である。
推敲以前なので当然原稿用紙の状態のまま、さとりの机の二番目の引出しに安置されていたはずの作品なのだが、それは今、立派に製本作業を終えた晴れ姿で、さとりの手中にある。ご丁寧に著者名も、目立つようにくっきりした金文字で『古明地さとり』と書いてある。
困惑の渦中にいるさとりを余所に、お燐は粛々と自分の服を脱ぎ始めた。
それを几帳面に折り畳み、下着姿となった彼女はカーペットの上に正座をする。
何も言わず、火焔猫燐は主に向かって土下座をした。
姿勢は完璧であった。彼女は死罪を受け入れる覚悟を決めたのだ。
「お空うううう!!!!」
脳内で走馬灯が巡り始めたお燐を無視し、さとりはお空の名を呼ぶ。
「何ですかさとり様! お赤飯ですか!?」
「違うわよ! 貴女はこれを勇儀さんから貰ったのね!? この本を手にしたのは勇儀さんとお空とお燐と私だけなのね!?」
土下座の姿勢を微塵も崩そうとしないお燐をチラと見下ろしたお空は、黙って首を振った。
横に。
「んーとですね……勇儀は、街道の本屋で買ったって言ってたので、多分違うんじゃないかなぁと私は思います」
「か、か、買った!? 買った!? はああああああああああ!!!??????」
激昂の余り、さとりは自分の本を床に投げ付ける。しっかりとした作りの本は、さとりの力でひしゃげる事も無く、挿絵のあるページを開いて床に転がった。
「何でもう出版されてるの!? しかも私の名義で! ワタシノメイギデ!」
「おお! 呪文ですか! 新しいスペルカードですかさとり様!」
「違うってばもおおおおおおおおおお!!!」
状況認識能力がどうやら皆無であるらしいお空が目を輝かせる中、さとりはその場に崩れ落ちた。見開かれた目は潤んでこそいるが何も見ては居らず、ぺたんこ座りをしたさとりは何事かブツブツと呟いている。虫の息である。両目を親指で潰せば意識のスイッチが変わるのかもしれないが、生憎さとりは風を操るモードを使う柱の男では無いので、そんな事には思いも寄らない。
「さとり様さとり様! この挿絵、よく見るとサインが……!」
どうやら殺されはしないと判断したお燐は、ちゃっかり服を着直して床に転がる本を指差している。
彼女の言葉に、さとりの身体は跳ねる様な俊敏さで動き、お燐の指差す先を見た。
確かにイラストの左下には、何やら文字らしき物が書かれている。
妙に書き馴れているそのサインは、ハートで包んだデザインが為されており、その中央には、流麗な筆記体で確かに、『古明地こいし』と書かれていた。
「こいしいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!!!!」
床に膝をついたまま、さとりは海老反りの姿勢で妹の名前を叫ぶ。
さながら映画プラトーンのジャケ絵の如く。
犯人はこいしだ。全てに納得がいった。恐らく自分が眠っている間に忍び込んだこいしが原稿を持ち出し、それを印刷施設にでも持ち込んだのだ。
姉を想っての行動だったのかも知れない。ただ、今のさとりにこいしの気持ちを察する余裕などありはしない。怨嗟百パーセントだった。
「とにかくこいしを探すわよ! 何とかして……何とかしなくちゃ!」
具体的に現状を改善する方法など何一つ思い浮かばず、さとりは殆ど無意識のまま玄関へと向けて走り出した。
「あ、さとり様!?」
お燐とお空は、面食らいつつも主人の後を追いかける。
「こいし! こいし! どこに居るの!? どこかに居るの!? 出て来なさいこいしいいいいいいいいいいいいい!!!」
走りながら大声を出すなど本来ならば、日頃から殆ど運動と言って良い運動とは無縁のさとりに出来る行為ではないのだが、意識が既に肉体の限界を凌駕している今の彼女にとって不可能では無かった。
お燐もお空も、廊下を走りながらエントランスホールへと向かう主人がいつ倒れるか、とハラハラしながら追いかけなければならなかった。
何とか倒れる事無くこいしの名を連呼しながらエントランスへとさとりが辿り着いたのとほぼ同時に、来客を告げるチャイムがけたたましく鳴り響いた。
「こいしっ!?」
反射的に叫びながら、さとりは玄関へと足を進める。こいしがチャイムを鳴らす訳など無いなんて、彼女は考えもせずに扉を開けた。
そこに立っていたのは、水橋パルスィだった。常に陰気な彼女には似つかわしくない微笑みを浮かべて、さとりを見下ろしている。
「……あ、パルスィ、さん……?」
「んー……んふふ」
呼ばれたパルスィは極めて上機嫌に、曖昧な返事をした。
混乱しているさとりでなくても、そのパルスィの態度を理解する事は出来なかっただろう。橋姫という妖怪に上機嫌などという感情があったのか、とさとりは訝しむ。
しかし、彼女が右手に携えている物を見て、その理由はすぐに判った。
そこには、先ほどさとりが自分の部屋で投げ捨てた物と全く同じ本があったのだから。
「……『虚無の騎士』ねぇ……ふふふ……お会いできて光栄だわ、大作家の覚妖怪様?」
一文字一文字を区切る様にパルスィが題名を読み上げると、さとりの表情が、かぁっと真っ赤になった。
「あ、貴女……そ、それ……」
「んー? これ? どうしたかって? 何を言ってるの? 買ったに決まってるじゃない。お金を出して。まさか泥棒して手に入れる訳ないでしょ? んふふ……」
これ見よがしにパルスィはニヤニヤ笑いを浮かべながら、右手で抓んだ本をヒラヒラと見せびらかした。
「ちょ、ちょっとアンタ! さとり様を馬鹿にするような真似をするなら、このアタイが許さないよ!」
羞恥に震えるさとりの肩越しに、お燐が凶暴な顔つきでパルスィを睨み付ける。しかし、パルスィはどこ吹く風といった様子でふん、と鼻を鳴らした。
「馬鹿にする? 何の事かしらねぇ? 私はただ、知り合いが作品を出版した事のお祝いに来ただけなのだけれど? それとも、なぁに? 貴女は、この本が自分の主人にとって恥ずかしい物だと認識しているの?」
そう言ってパルスィはクスクスと笑って見せた。お燐は何も言い返すことが出来ず、グッと押し黙る。事実さとりの著書を恥ずかしい物として認識していただけに、売り言葉に買い言葉で口喧嘩を買えば、それはそのまま主人への侮辱に直結しかねない。
「そ、その本……を、返してください……」
か細くこもる声で、目を逸らすさとりがパルスィに懇願する。両手はギュッとスカートの端を掴んでいた。
「嫌よ。何で返す必要があるの? お金も払ったし、手放すつもりも無いのだけれど?」
「い、良いから返してください! その本は発禁処分にします! これから回収します! 貴女のその本が最初の一冊です! 返さないのなら……っ!」
さとりはスカートのポケットに手を入れて、スペルカードを取り出した。
それを見てもパルスィは特に驚くことなく、ニヤニヤ笑いをさとりの本で隠して「あらまぁ、野蛮な事……」と言ってのけた。
「貴女自分が何をしようとしてるか判ってる? 焚書を行う様な世界に未来は無いのよ? 文化は為政者によってコントロールされる類の物では無いの。話せば判るわ」
「問答無用! 嫌ならその本を渡しなさい!」
殺気立ったさとりの言葉に「五・一五事件じゃあるまいし」と肩を竦めつつも、しかしパルスィは笑みを崩すことなく懐に手を差し込んでカードを取り出した。
「丁度ね、新しいスペルカードを作ったの。きっと貴女も気に入るわよ?」
パルスィが人差し指と中指で挟み込んだカードが発光を始める。身構えたさとりはキッと彼女を睨み付け、カードの宣言をする心の準備を整えた。
「『ベルトルド・エンジェル・ディバイス』!」
「想起『テリブル・スーブ……!? ぶふっ!?」
思わずスペルカードの宣言途中に噛んでしまったさとりが、思わず膝を折った。
何の事は無い。パルスィが宣言したカードの名前が、さとりが書いた小説の中の登場人物が使う技の名前と同じだったという事である。
パルスィの手には、ふわふわとした羽の装飾が為されている白銀の剣が握られている。寸分違わずさとりが描写した通りの造形だった。何という再現力。
勝敗は決した。一発も弾幕が張られる事無く、さとりの心は一撃でぶち折られた。自分が考えた技の名前を他人が叫ぶ事ほど、精神的に来る物もあるまい。地の文を音読されるだけでもきついというのに。
「さ、さとり様っ!?」
何が起きたのか判らないお燐が、不安げに主の名前を呼ぶ。またも顔を真っ赤にしたさとりは、お燐の声すらも聞こえてない様子でパルスィを見上げていた。
「あらあら、どうしたの? まだどっちも被弾してないわよ? 何をそんなに驚いた顔をしているの? 私よりも、貴女の方が馴染み深いんじゃないのかしらねぇ? ふふふ……」
既にパルスィは勝ち誇った顔である。自分が思った通りに事が運んだのだから、上機嫌なのも無理はない。
他者のトラウマを暴いて弾幕にしてきたさとりにとって、今まで自分がやっていた事をそのまま返された形になる。その衝撃は、今まで自分が想像していた物とは比べようも無かった。
その時、さとりとパルスィの間に身を躍らせて割り入った者があった。
勝ち誇っていたパルスィの表情が、フッと崩れる。薄らと涙を浮かべていたさとりが、その誰かを見上げて表情を綻ばせた。
「……こいしっ!」
どこからやって来たのかパルスィの前に立ち塞がったのは、こいしだった。
ああ、妹が助けに来てくれた……。元はと言えば全部こいしのせいな気はするけれど、それでもこいしは今まさに、心を圧し折る為だけにやってきた水橋パルスィの蛮行から私を救いに来てくれたんだ……。
感極まるさとりは、思わずこいしに抱きつきそうになる。思い切り抱きしめて、こいしの優しさに最大限の感謝を捧げたい気持ちになる。その感激は即座に裏切られる事となる。
「『これ以上民を傷つける事が、お前の願いなのか!?』」
…………あれ?
妙に括弧つけたこいしの台詞は、さとりの思考に空白を生んだ。
こいしの言葉を聞き、眉根に皺を寄せていたパルスィが不審な表情を崩して不敵に笑う。
その台詞を聞いて、パルスィは即座に理解したのだ。
こいしもまた、さとりの小説を読んだ同志なのだと。
「『フン……笑止! 暴帝は民を殺めてこその暴帝よ! 私は自身に『世界』が課した役割を行使しているのみ!』」
パルスィが大仰な身振りと共に、演技臭い台詞を吐く。
自分の意図を読み取ったパルスィに、こいしはまた不敵な笑みを返す。この瞬間、水橋パルスィと古明地こいしの間には、固い連帯感のような物が生まれた。お互いがお互いを認め、同じ物を共有している喜びに打ち震えた。さとりは絶叫した。
「いやああああああああああああああああ!!! 止めて! やめてよおおおお!!!」
「ちょ、え? え? さとり様? こいし様? あれ? え?」
相変わらず全く話の流れが読めないお燐は、耳を塞いで身体を丸めたさとりの背を見て大いに戸惑った。完全にこいしとパルスィのやり取りを見物する姿勢に入ったお空は、手に汗を握って両者を見守っている。
「『これ以上僕は、誰かの涙が流れるのを見て居られない! ブリュッケ=プリンゼッツィン! 僕はお前を【虚無】に帰してやる……っ!』」
「『フハハハ……! 貴様の願いなど、我が暴虐と恨みの前には塵も同じよ! 『機関』を抜けた貴様が、たった一人で何が出来ると言うのか!』」
「殺してええええ! 誰か私を今すぐ殺してよおおおお!」
「ちょちょ、さとり様、そんな殺してとか言わないで下さいよ……お空、ちょっとアンタからも何か言ってやんなって!」
「お燐うるさいよ! 黙って見てるべきだよ!」
「はぁ!? アンタ状況を良く見て発言しなよ! どう見たってこん……ぶべらっ!」
たった一匹さとりの為に混乱しつつも何とかしようと奮闘していたお燐だったが、観劇の邪魔だと判断したお空の第三の足による一撃を喰らい、壁まで水平に吹き飛ばされて気絶した。
最早誰もこの場を収める事は出来ない。
「『確かに僕は無力かもしれない……だけど! こんな僕に縋ってくれる人がいるんだ! 守りたい人がいるんだ! だから僕は、お前を倒す……っ!』」
「『フン! 虫けら如きがいい気になるなよ? シュタインヒェン=ド=バルサ・ザール! 取るに足らん貴様の命、この女暴帝こと、ブリュッケ=プリンゼッツィンが貰い受けてやろう! 光栄に思い、そして――死ね!』」
「あー!!! あー!!!! 聞こえない聞こえない! 何にも聞こえないいいっ!!!」
両耳を固く塞いでさとりが大声を張り上げるも、その合間に台詞の端々が彼女の耳へと届いて、二人が何を言ってるのか即座に理解してしまう。理解出来てしまう。それらの台詞の全ては、さとりが生み出した物なのだから当然だ。
シュタインヒェン=ド=バルサ・ザールが他者の為に生きると決意し、ブリュッケ=プリンゼッツィンと対峙を決意する場面。そしてそこに伝説の暗黒騎士、シュテルン=ベールが参入し、『世界』の命運を決する最終決戦が幕を開けるという場面だという事が、完全に理解出来てしまう。震える両手で自らを抱きしめながら、さとりは羞恥でぼうっとした頭で考えていた。
その次の台詞は、『おいおい貴様ら。この私を差し置いて、何を興奮しているのかね?』だという事さえも。
「――『おいおい貴様ら。この私を差し置いて、何を興奮しているのかね?』」
「……っ!?」
想像していた通りの台詞が聞こえて来て、さとりは愕然とする。
この場で役になり切っていたのはパルスィとこいしだけの筈なのに、全く予期せぬ第三者の出現に、さとりは驚き、恐怖して顔を上げた。
そこに居たのは、星熊勇儀だった。
いつものラフな格好ではなく、真っ黒な鎧にしっかりと身を固めた鬼がそこに居た。
どうやら衣装を自作しての参上らしい。
「う、嘘でしょ……誰か嘘だと言って……」
涙を流してさとりが蹲る。こいしとパルスィの目は爛々と興奮に輝き、さとりはどうすれば痛くなく舌を噛み切る事が出来るか、と考え始めた。
「『まさか伝説が登場なさるとはな……枯れたおとぎ話如きが、この女暴帝に敵うとでも思っているのかね?』」
「『フフフ……貴様如きが暴帝を名乗るなど片腹痛いわ……我が【暗黒】に飲まれて死ぬまでもがき苦しむ貴様の断末魔が聞こえて来るようだよ……』」
「『くっ……僕は勝てるのか……! この強大な負の力! 『世界』を守るために、僕は死ぬ覚悟は出来ているが……しかし、彼女に逢う事は出来るのか……っ!』」
全員ノリノリである。
「嫌……もういやぁ……助けて……誰か私を助けて……優しく殺して……うふふ……羊が一匹、羊が二匹……お花畑……お菓子の家……」
親指の爪を噛みながら、さとりが現実逃避を始めた。チラリとお空を見ると、一体どこから調達したのかポップコーンを片手に、固唾を飲んで三人のやり取りを見守っている。さとりの目から光が失われた。
「『うおおおおおおお!! 行くぞシュタインヒェン=ド=バルサ・ザール! そしてブリュッケ=プリンゼッツィンよ! 我が【暗黒】に飲まれるがいい!』」
「『フン! 笑止! 『世界』を手中に収めるのは、この女暴帝ブリュッケ=プリンゼッツィンよ! 貴様の【暗黒】も、小僧の【虚無】も、全て飲み込んでくれるっ!』」
「『もう僕は誰からも救われなくていい! 僕が希望になるんだ! 貴様ら二人を【虚無】に帰して、僕はこの暁を守って見せる!』」
「やめてええええええええ!!! もうやめてえええええええええええええええええええ!!! いやあああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
現実逃避に失敗したさとりの絶叫も虚しく、三人は最後まで演技を続けた。
一時間後に残ったのは、やり切った三人の清々しい笑顔と、お空の拍手と、そして虫の息となったさとりとお燐の空っぽな肉体だけであった。
◆◆◆
『虚無の騎士』は、地底世界でのベストセラーを記録した。
多少なりとも人間の文化を知っている者にとっては痛々しく噴飯物の小説であっても、地底に住まう者にとってそれは斬新かつ興味深い作品足り得たのだ。
中世欧州を元にした舞台設定。主人公を始めとした登場人物の持つ横文字風の名前。【虚無】や【暗黒】などの目新しい能力。美麗な挿絵。そして何よりも、そんな小説を嫌われ者である覚妖怪が書き記したという事実。それらは悉く地底妖怪の目を引いた。
一週間もしない内に、『虚無の騎士』を知らない妖怪は地底に居なくなった。誰もが挙って作中の技を模したスペルカードを作成し、『虚無の騎士』ごっこは社会現象となった。
それに伴って、地霊殿には莫大な金銭が舞い込んだ。使っても使っても無くならない程の大金だった。ペットの食事のランクは二段階上がり、ガラス製だったシャンデリアの殆どが、ルビーやエメラルドなどの宝石製へと変化を遂げた。
それだけならばさとりの精神的外傷も徐々に和らいで行っただろうが、そんなムーブメントが地底だけで収まる訳も無く、地上の者たちの目にも『虚無の騎士』が触れる様になったのが運の尽きであった。
天狗はさとりの中二病加減を面白おかしく書き殴った新聞を発行しまくり、稗田阿求は冒頭の二ページで読破を断念し、そんな酷評を知った霧雨魔理沙が引っ切り無しに地霊殿を訪れる様になり、ただでさえ不本意だったさとりの心は完全に圧し折られた。
握手会やサイン会が計画されてもその全てを拒絶し、続編の出版要請を無視し、さとりは自分の部屋から一歩も出なくなった。そうして何をしているかというとまた新しい小説を書いているのだから、物書きの業とは実に深い物である。
ただ、地霊殿に舞い込んだ金銭をこいしが秘密裏に貯めているという事を、さとりは知らない。近いうちにまた、さとりの小説は出版されるであろう。熱狂的なファンは、さとりの小説を今か今かと待っているのだから。
FIN
真に良い中二病でした
地底の方々は実にノリが良い。
しかし一時間てw
やめてくださいお願いします
と思っていたら勇儀は更に気合が入りすぎていて吹いたw
全く悪気のない勇儀姐さんも過酷な追い打ちかけてるしw
面白かったです。ありがとうございました。
・・・地霊殿の皆(さとり様除く)が楽しそうで何よりです。
こいしちゃんが結局どう思ってるのか分からなかったですね。まさに無意識
さとりのリアクションがいちいちかわいすぎて死にそうです。
あと勇儀は本気で気に入ってそうだから困る。
愛されていてよかったねwww
今ここで読み上げられたら羞恥死レベルのを得意気に書いてたなあ。
中途半端に語彙力の付き始める頃が特にヤヴァイですね。
や、うまくないな……。
未だに重破斬とかの呪文をそらで言えますw
さとりんドンマイとしか言えないw
歪んだ愛を感じる・・・!