じわり、と、純白の肌に朱が滲む様を、菫色の双眸は静かに見つめていた。
じくじくと、付いたばかりの傷が痛む。肉体が手首の部分から気化して、大気と混じっていくようだと、彼女は思った。
左手に握られていた鈍く光る果物ナイフを置いて、緩慢な動作で傷口をなぞれば、指の触れている部分がつきりと痛む。或いは焼けているような、そんな感覚がした。
水よりも粘度の高い液体が、腕を伝ってどろりと落ちる。薄桃色のカーペットに赤い模様が刻まれた。
「あー……」
お気に入りだったのに、勿体ない事を。片付けておけばよかったかしら。頭の端にぼんやりと、そんな思考が浮かんでは消える。
ぽたり、ぽたり、と、雫が腕を伝ってはカーペットを濡らす。最初は斑点程度だった赤色がじわじわと広がって、退屈そうにその存在を主張していた。止まない痛みが、視界を赤く染める液体は確かに自分のものであると、そう教えてくれた。
窓から入り込む沈みかけた夕陽は、一人きりの部屋を暖めることなく照らしていた。
妖怪の再生力故か、つけられた傷は十日もすれば跡形もなく消え、元通りの、降りたての白雪のように綺麗な柔肌が戻る。彼女はそれが気に入らなかった。
けれど自分の不健康に色白な体から彼岸花のように真っ赤な液体が湧き出る様子はそれはそれは綺麗で、彼女はそれが気に入っていた。
白地に紅いスプライトの入った腕を眺め、それから朱に染まったカーペットを眺めて古明地さとりは考える。まったく、どうしてこんなことをしているのだか。片付けがとても面倒だというのに。
止まらない血を左手で拭う。一瞬だけ傷口が見え、そしてすぐに血液に覆われた。
また一筋、深紅がさとりの腕を伝って落る。ほう、と深く息を吐くと彼女は、そこで思考を放棄して紅茶を飲むことにした。
流れ落ちる血と、いずれ消え行く傷だけがそこにある。ただそれだけで、きっと意味なんてないのだ。
左手だけを使って、手慣れた動作で茶葉の入った缶を開け、灼熱地獄の炎で沸かした熱々のお湯で踊らせる。血の匂いと紅茶の匂いが混じり合い、湯気と一緒に天井へ抜けていった。
透明な液体が否応なしに琥珀色に染められって行く様を見ながらさとりは、地上の吸血鬼は紅茶に血を入れて飲むのだという話を思い出す。
途端に自分が実は吸血鬼なのかもしれないとそんな気がしてきて、脳内をぐるぐる回るそんな思考に誘われるように、朱に染まった指先をそっと口に含んだ。
舌の上を転がる少ししょっぱい鉄の味に、自分が吸血鬼でなくてよかったと彼女は思った。
ほんのりと温かいそれは、萎んでしまった綿飴のように、とても寂しい味がしたのだった。
「包帯、どこへ仕舞ったかしら」
誰にともなく紡いだ言葉は、壁に跳ね返ってはどこかへ消えて行った。
「お姉ちゃん、ただいまー」
ノックもなしにがちゃりと扉を開けて部屋に入ってきた古明地こいしは、血染めのカーペットと、それからさとりの包帯が無造作に巻き付けられた腕を見た後に、いつも通りの無邪気な声でそう言った。
「おかえりなさい、こいし」
帽子はちゃんと脱ぎなさいね、と言ってからさとりは、二人分の紅茶を、机の上に二つ並べられていたカップへと注ぐ。
「それ、私の分?」
こいしは姉の向かい側に座るかそれとも隣に座るかについて数秒間思考した末に、後者を選択することにした。人里の恋人同士が皆そうしていたことを思い出したのだ。
「ええ」
それ以外に誰がいるのよ、とさとり。
「今帰って来たばっかなのに、何でまた用意してあるのさ」
「今日あたりこいしが帰ってくるような気がしたのよ」
「嘘だぁ」
「姉の勘よ」
カップの中身が冷めるのを待つ二人。どちらも猫舌なのだ。
こいしが地霊殿に帰ってくる度、さとりの部屋には当然のように二人分のお茶の用意がされている。最初は毎日二人分お茶を淹れているのではないかと思ったが、ペットに訊いてみたところ違うらしい。こいしは初めこそ大層疑問がったが、姉と自分とが不思議な力で繋がっている様な気がしたのでそれ以上考えないことにしたのだった。
「お砂糖は入れる?」
「ん」
いつも通り四つでいいわね、と角砂糖をカップに放り込むさとりを眺める。
一週間ぶりに見る姉の瞳は相変わらず、冬眠前の小動物のように眠たげで、一週間ぶりに見る姉の腕は相変わらず、葉をすべて落とした初冬の木の枝のように細っこくて、一週間と二日ぶりに見る姉の血は相変わらず、南天の実のように真っ赤だった。
こいしが地霊殿に帰ってくる度、さとりの部屋には腕を血まみれにしたさとりがいる。最初は毎日手首に刃を突き立てているのかと思ったが、ペットに訊くまでもなく違うだろう。こいしは初めこそ大層心配がったが、やはり姉と自分とが不思議な力で繋がっている様な気がしたのでそれ以上考えないことにしたのだった。
「また切ったの?」
かちゃり、と茶器の触れ合う音。カップの底にざらりと砂糖の残る紅茶に口をつけてから、こいしが訊ねる。
さとりの淹れる紅茶は濃いめの渋めなので、砂糖を入れ過ぎる位がこいしの口には丁度よかった。
その本人はストレートで飲んでいるのだが。
「ええ」
うっすらと血のにじんだ包帯をさすりつつ答えるさとりを、翠色の双眸はじっと眺めていた。
自分の手首にも傷を付けて、二人の血を混じり合わせたら素敵だな、とこいしはいつも思うのだが、実行することはきっと無いだろう。
自分の腕から血を滴らせる図をどれだけ想像してみても、姉の場合のそれの方が格段に綺麗だったのだ。
「お燐とかお空とか、心配するよ?」
もとが獣だからか血の臭いを敏感に嗅ぎ付けては、大丈夫ですかさとり様、と姉に言い寄る二人の姿を思い浮かべてこいしが言う。
「そうねえ……」
大丈夫と何度も言っているのに、消毒しないと化膿したら大変ですよ、だの、よく効く塗り薬貰ってきました、だのと口喧しいペットの姿を想像して、さとりは答えた。
「心配してくれるのはありがたいのだけど」
このくらい彼女らの言うところの、舐めとけば治る程度の傷だと言うのに。そんなに頼りない主なのかしら、と溜息。
「お姉ちゃんは強いのに、ね」
お燐もお空も心配性なんだから、呟いてからおかわり、と空になったカップをさとりに差し出す。
「この前はお姉ちゃんは貧弱だから私が居てあげないと、なんて言ってなかったかしら?」
自分のカップの中身を飲み干して、さとり。
「気のせい気のせい。無意識無意識」
そんなことよりこの前飲んだ、えっと、あーるぐれい、だっけ。葉っぱはあれがいいな、とこいし。
「まーた無意識のせいなのね」
紅茶の缶が並んだ戸棚から、妹の所望する銘柄の葉を取り出した。半月ほど前に、吸血鬼の館からくすねてきた、とこいしから渡されたものだ。きっとどこか有名な産地の茶葉なのだろう。瀟洒なロゴの下にずらりと並んだ横文字がプリントしてあるいかにも高級そうなその缶は、長年かけて創りあげてきたブランドを守る頑強な鎧のようにもみえた。
「ねえ、お姉ちゃん」
紅茶を淹れる姉の所作を、まるで変わった形の雲が流れていくのを観察するかのようにじっと見つめていたこいしが、徐に口を開く。
「何かしら?」
「お姉ちゃんの血、紅茶に入れてよ」
地上の吸血鬼はそうやって飲むんだってさ、というこいしの言葉にさとりは目を丸くする。それが予想外の反応だったのか、こいしは怪訝顔。
「えと、駄目……だった?」
上目遣いに遠慮がちに、ほんの少し――さとりにしか分からない程度にごく僅かだけ――低いトーンで尋ねる。
「そうじゃなくて」
やっぱり姉妹なのね、って思ったから。さとりは雪に埋もれる福寿草を見つけた子どものように、柔らかく微笑む。
こいしは不思議そうにしながらも、姉が気を悪くしたのではないと解るとさっきまでの呑気な表情に戻る。
「やっぱり、お姉ちゃんの考えてることはよく分かんないや」
さくり、とお茶請けのクッキーをかみ砕く。牛乳とバターがたっぷり入った、甘めの、姉の手作りの味がした。
「ミルクは先に入れる人と後から入れる人がいるけれど、血の場合はどうするのかしら」
あまりに真剣な姉の表情に、こいしはくすりと笑う。
「どっちでもいいんじゃないかな」
「そうかしら……」
右腕とポットとをじーっと眺めながら黙り込むさとり。
こいしは考え事をしている姉の表情も好きだったが、このまま放っておけばいつまでも悩んでいそうなので、後からがいいな、と提案しておいた。
「じゃあそうしましょうか」
姉の反応がやけに速かったので、最初から私に決めさせるつもりだったのかな、などという思考が頭を掠めたが、敢えて真意を探る必要もないだろう、とこいしは思考をポットを揺らす姉へ向けることにしたのだった。
茶の葉が揺れる様子は自分に似ている、とこいしは思う。ゆらりゆらりとあてどなく彷徨って、気づけばふらふらと在るべきところに戻っている。
紅茶にミルクが混じるように、思考回路が溶けてゆく。一度ミルクを加えれば、撹拌された液体は、琥珀色と純白には戻らない。クッキーを粉々に砕いても、小麦粉は作れない。
さくり、とクッキーをもう一枚。今度はほんのり苦いココア味。
美味しいかしら? 姉の問いかけに、首肯で返す。スコーン、マフィン、マドレーヌ。さとりの作る洋菓子は、どれもこいしのお気に入りだ。甘い。苦い。優しい。暖かい。繊細な。どれでもあって、どれとも違う、不思議な味。こいしに言わせれば、虹の境目の色みたいな味がするのだった。
「どうしたの? こいし」
「んー。ちょっと考え事、かな」
お皿の上の、クッキーのかけらと睨めっこ。さっきまで乗っかっていたその八割は、こいしの胃の中に。
最後の一つを手に取って、さとりの唇に押し当てる。
「はい、あーん」
満面の笑みで、こいし。
「……」
半眼を向けるさとり。
「あーん」
「……」
沈黙。さとりの唇に、押し付けられるクッキー。
むにゅり。桃色の唇にクッキーが沈む。ぐりぐりと割り入って、指とともに咥内にねじ込まれるクッキー。
一瞬だけ、こいしの指が舌に触れる。
「美味しい?」
「そりゃあ、ちゃんと味見はしてますから」
嚥下してから、溜息。ココアの苦みが、舌の上にざらりと残る。
「味見してるなんて、ずるい」
「その分を差し引いても、あなたの方がだいぶ沢山食べているのだけど?」
むう、と膨らませた頬を、指先でつつく。
「私も味見したかったのに」
「作ってる最中にいなかったじゃないの」
「むぅ……」
「大体この前だって、お菓子作るから手伝ってって言ったらどこかにいなくなってしまうんだもの」
「じ、じゃあ次! 次作る時は味見する!」
「手伝いもしなさいね」
食い下がるこいしに、半ば諦め口調のさとり。当のこいしは味見する気満々のようで、今度はチョコチップがいいな、などと楽しげだ。
「ほらお姉ちゃん、紅茶が渋くなっちゃうよ」
ご機嫌口調でさとりを急かす。釈然としないものを抱えながらも、こいしの笑顔に押されるようにさとりはポットを手に取るのだった。
とくとくと、カップに琥珀色が注がれる。
やっぱりお姉ちゃんは紅茶を淹れるのが様になってるな、などと考えながらこいしはそれを眺める。
「お砂糖とミルクは?」
「今はいらないかな」
そう、と呟くとさとりは、ゆっくりとした所作で腕に軽く巻かれた包帯を解く。乾いた錆色の血が、風に舞う粉雪のように、破片になってぱらりと散った。
傷口を開いて、二滴、三滴。そっと血液を滴らせる。繊細な薬品を作る薬師のように、注意深く、丁寧に。琥珀色に少しずつ赤みが刺していく。一体全体、何に効く薬なのだろう。さとりの頭に浮かんだ疑問は、紅茶に落ちた紅い雫のように、どこへともなく消えていった。
「このくらいでいいかしら?」
視線を向けて問いかければ、こくり、と首肯を返される。
「自分のには入れないの?」
「まさか」
提出した書類の欠陥を閻魔に指摘された時のような顔で答えると、さとりは自分のカップに砂糖を一つ、放り込んだ。
「お姉ちゃんが砂糖なんて珍しい」
「偶には甘くしてみるのも、ね」
何を思って姉が砂糖を入れるに至ったのか。心の読めないこいしには分からない。
不透明なカップの底に落ちた砂糖が、姉の持ったスプーンでくるくると溶かされゆく様も、こいしからは見えない。
ただ、紅茶の色が僅かに変化するのが見て取れるだけだった。
こいしが何を思ってカップを見つめているのか。心の読めないさとりには分からない。
カップの底に沈んだ砂糖を、スプーンでくるりと溶かしてゆく。
紅茶から立ち昇った湯気が鼻先を掠める。いつもより少し甘い、いい香りがした。
「それじゃあ、かんぱーい!」
「何に?」
「私とお姉ちゃん!」
「……そうね」
感嘆符がそのまま飛んできそうな声にさとりは今日何度目かの溜息をついて、こいしの掲げたティーカップと自分のそれを触れ合わせる。コン、と、陶器のぶつかる音がした。
こいしはカップの縁に口付ける。普段姉にそうするように、ふわりと、柔らかく。琥珀色が唇を割り、小川に入り込む湧き水のように、こいしの咥内に入り込む。
「うん。お姉ちゃんの血の味がする」
舌の上で幾度も転がしてからこくり、とこいしは喉を鳴らした。
「血の味なんて誰のものでも一緒でしょうに」
何を言っているんだか、とさとり。
「そんなことないもん。わかるもん」
お姉ちゃんのばーか。にぶちん。わからずやー。
いつもさとりがしているようなジト目で頬を膨らます。
「それで、美味しいのかしら? 私の血は」
「ん。美味しいよ」
「本当かしら?」
信じられない、とさとり。
「ほんとだよ」
嘘なんて言わないもん、とこいし。
「だって貴方、吸血鬼じゃあないじゃない」
「おいしいものは美味しいの」
半信半疑のさとりにこいしは、カップに残っていた紅茶を一気に飲み下して、
「美味しいから、ね。今度は、直接、飲みたい」
そっと、耳元で囁いた。
ティーポットを置き去りにして、地底の夜闇を取り込んだステンドグラスが、二人きりの部屋を薄暗く照らしていた。
「ねえ、手、貸して」
さとりの自室に二人きり。ベッドの縁に腰掛けたさとりの前に跪くようにして、こいしが言う。
桃色をしたカーテンの向こうには、夜の帳が下りている。
地底の空に、月は昇らない。天井から吊り下げられた照明が、染みこむ闇を退けて、二人の姿を淡く照らしていた。
さとりが恐る恐る差し出した手を、こいしは両手でふわりと抱え、壊れやすい砂糖菓子を扱うかのように、指先をそっと口に含んだ。爪の縁をなぞるようにして、そのままそっと舌で触れる。蟻地獄に引きずり込まれる蟻のように、さとりの指が少しずつ、奥へ奥へと咥え込まれた。
熱くぬめった舌先が、さとりの指を這うように撫で回す。犬歯を軽く押し当てれば、さとりの口から艶やかな声が漏れた。
指を口から離して、手のひら、手首と唇でなぞる。傷口に口づけ、舌を這わせる。慈しむように、目を瞑って、ゆっくりと。ほとばしる情欲を沈めるように、姉を味わうことに没頭する。
口中に広がるほんのり塩辛い血の味に、自分が吸血鬼になれたらいいのにと彼女は思った。
じんわりと温かいそれは、出来立てのりんご飴のように、とても優しい味がしたのだった。
「痛く、ない?」
一旦唇を放して、上目遣いにさとりを見つめる。
さとりはこくりと、静かに頷く。ちらりと見えるこいしの赤い舌と、さとりの手首との間に、唾液でできた銀色の橋が架かっていた。
「もっと、してもいい?」
さとりはこくりと、もう一度頷いた。
親指から小指まで順々に、一本ずつ、丁寧に。口に含んでは、じっくりと舐めまわす。ちらりと視線を合わせれば、さとりの空いた左手が、こいしの頭に乗せられた。手櫛が絡まりをほどくようにして、銀の髪を撫ぜる。親猫が子猫を毛づくろいするみたい、とこいしは思った。妹が自分の指にしたように柔らかく、優しく、さとりは細い指先で髪を梳く。日向で丸まる子猫のように大人しく、こいしは姉の愛撫を受け入れる。微かな姉の体温が、陽だまり代わりの温もりになった。
しばらく頭を撫でられるのを堪能すると、こいしは再び姉の手を取り、指先を味わうことに集中する。交わす言葉など、必要ない。
優しく、柔らかに、何度も。指紋の一つ一つを覚えるように、華奢な指先にざらりとした舌が絡み付く。歯と爪とが触れ合って、水音の合間に小さく、こつりと音が鳴った。
湧き出る血液が止まらないよう、乾きかけた傷口を何度も舐める。皮膚の裂け目から染み出す赤い液体は、蜜のように甘い。
鋭い犬歯が、柔肌に触れる。焦らすように、甘噛み。心地良い痛みがさとりの身体を巡った。姉の血の味をもっと堪能していたくて、一寸強くかぶりつけば、震える体は雨に打たれた迷い子のよう。
吸い付いた痕の桜色が血の赤色に映えるな。熱っぽい頭で、こいしはそう思った。
このまま姉を食べてしまいたい。吹き上がる間欠泉のような衝動を、果たして自分は抑えきれているのだろうか。舌先に触れる皮膚や肉の感触と、口中に広がる血の味。舐めているだけ。それとも食べてしまってる? 自分自身への問いかけに、答えなど帰ってくるはずも無い。
時折漏れる艶やかな声と、湿った音。軋むベッド。姉と、妹と、二人だけの空間。吸血鬼とサトリ妖怪の夜は過ぎていく。
窓の外には、深まっていく夜の闇。
地底の空に、星は瞬かない。天井から下がる仄暗い明かりだけが、周りの闇を切り払うように、さとりとこいしを照らしていた。
地底の空に、朝日が昇る。窓の外では、小鳥が歌う。枕にしていた姉の腕から頭をそっと起こすと、古明地こいしはしばらくの間、傍らで眠るさとりの寝顔を眺めていた。時折瞬きをする他は、夏の朝に蝉の羽化を見守る子どものように、身動ぎ一つせずに。
古明地さとりの目覚めは遅い。窓から差し込む朝日を頼りに、夢の世界から現実の道を、おぼつかない足取りでゆっくりと辿るようにして、意識を覚醒させていく。時間のかかる作業だが、彼女はそれを好んだ。地底の太陽が湿った大気を程よく暖めるまで、そうして微睡みの中に身を投じ、揺蕩っているのだった。
柔らかく呼吸を繰り返す姉の頬を撫ぜれば、ぴくりと身体を揺らすくらいの、薄い反応が返ってきた。それはまるで、そこで大人しくしているよう命じられた賢い動物のようだった。誰かに何かされても、決して噛み付いたりしてはいけないよ、私が戻ってくるまでいい子にして待っていなさい。
瞼にかかる姉の髪をそっと払い、その下にある菫色の瞳に思いを馳せる。こいしが二つの目玉を覗きこむ時は決まって、そこに映った自分自身に見つめ返される。けれどもいま姉の瞼を開いて覗き込めば、或いはつややかなガラス玉の中に見えるのは姉の姿かもしれない、と、理由もなくそう思った。
ベッドから降りて、衣擦れの音すら立てず、ほんのりと姉の匂いの付いた服に身を包む。さあ、出かけよう。こいしは小さく呟いくと、やはり物音一つ立てること無く、部屋から出ていった。
こいしが行ってしまえば、後には音もなく閉じられたドアと、一人分の気配が消えた部屋が残される。
窓から差し込む朝日は変わらず、さとりの目覚めへの歩みを助けるべく、二人分の体温が篭るベッドを白く照らしていた。
じくじくと、付いたばかりの傷が痛む。肉体が手首の部分から気化して、大気と混じっていくようだと、彼女は思った。
左手に握られていた鈍く光る果物ナイフを置いて、緩慢な動作で傷口をなぞれば、指の触れている部分がつきりと痛む。或いは焼けているような、そんな感覚がした。
水よりも粘度の高い液体が、腕を伝ってどろりと落ちる。薄桃色のカーペットに赤い模様が刻まれた。
「あー……」
お気に入りだったのに、勿体ない事を。片付けておけばよかったかしら。頭の端にぼんやりと、そんな思考が浮かんでは消える。
ぽたり、ぽたり、と、雫が腕を伝ってはカーペットを濡らす。最初は斑点程度だった赤色がじわじわと広がって、退屈そうにその存在を主張していた。止まない痛みが、視界を赤く染める液体は確かに自分のものであると、そう教えてくれた。
窓から入り込む沈みかけた夕陽は、一人きりの部屋を暖めることなく照らしていた。
妖怪の再生力故か、つけられた傷は十日もすれば跡形もなく消え、元通りの、降りたての白雪のように綺麗な柔肌が戻る。彼女はそれが気に入らなかった。
けれど自分の不健康に色白な体から彼岸花のように真っ赤な液体が湧き出る様子はそれはそれは綺麗で、彼女はそれが気に入っていた。
白地に紅いスプライトの入った腕を眺め、それから朱に染まったカーペットを眺めて古明地さとりは考える。まったく、どうしてこんなことをしているのだか。片付けがとても面倒だというのに。
止まらない血を左手で拭う。一瞬だけ傷口が見え、そしてすぐに血液に覆われた。
また一筋、深紅がさとりの腕を伝って落る。ほう、と深く息を吐くと彼女は、そこで思考を放棄して紅茶を飲むことにした。
流れ落ちる血と、いずれ消え行く傷だけがそこにある。ただそれだけで、きっと意味なんてないのだ。
左手だけを使って、手慣れた動作で茶葉の入った缶を開け、灼熱地獄の炎で沸かした熱々のお湯で踊らせる。血の匂いと紅茶の匂いが混じり合い、湯気と一緒に天井へ抜けていった。
透明な液体が否応なしに琥珀色に染められって行く様を見ながらさとりは、地上の吸血鬼は紅茶に血を入れて飲むのだという話を思い出す。
途端に自分が実は吸血鬼なのかもしれないとそんな気がしてきて、脳内をぐるぐる回るそんな思考に誘われるように、朱に染まった指先をそっと口に含んだ。
舌の上を転がる少ししょっぱい鉄の味に、自分が吸血鬼でなくてよかったと彼女は思った。
ほんのりと温かいそれは、萎んでしまった綿飴のように、とても寂しい味がしたのだった。
「包帯、どこへ仕舞ったかしら」
誰にともなく紡いだ言葉は、壁に跳ね返ってはどこかへ消えて行った。
「お姉ちゃん、ただいまー」
ノックもなしにがちゃりと扉を開けて部屋に入ってきた古明地こいしは、血染めのカーペットと、それからさとりの包帯が無造作に巻き付けられた腕を見た後に、いつも通りの無邪気な声でそう言った。
「おかえりなさい、こいし」
帽子はちゃんと脱ぎなさいね、と言ってからさとりは、二人分の紅茶を、机の上に二つ並べられていたカップへと注ぐ。
「それ、私の分?」
こいしは姉の向かい側に座るかそれとも隣に座るかについて数秒間思考した末に、後者を選択することにした。人里の恋人同士が皆そうしていたことを思い出したのだ。
「ええ」
それ以外に誰がいるのよ、とさとり。
「今帰って来たばっかなのに、何でまた用意してあるのさ」
「今日あたりこいしが帰ってくるような気がしたのよ」
「嘘だぁ」
「姉の勘よ」
カップの中身が冷めるのを待つ二人。どちらも猫舌なのだ。
こいしが地霊殿に帰ってくる度、さとりの部屋には当然のように二人分のお茶の用意がされている。最初は毎日二人分お茶を淹れているのではないかと思ったが、ペットに訊いてみたところ違うらしい。こいしは初めこそ大層疑問がったが、姉と自分とが不思議な力で繋がっている様な気がしたのでそれ以上考えないことにしたのだった。
「お砂糖は入れる?」
「ん」
いつも通り四つでいいわね、と角砂糖をカップに放り込むさとりを眺める。
一週間ぶりに見る姉の瞳は相変わらず、冬眠前の小動物のように眠たげで、一週間ぶりに見る姉の腕は相変わらず、葉をすべて落とした初冬の木の枝のように細っこくて、一週間と二日ぶりに見る姉の血は相変わらず、南天の実のように真っ赤だった。
こいしが地霊殿に帰ってくる度、さとりの部屋には腕を血まみれにしたさとりがいる。最初は毎日手首に刃を突き立てているのかと思ったが、ペットに訊くまでもなく違うだろう。こいしは初めこそ大層心配がったが、やはり姉と自分とが不思議な力で繋がっている様な気がしたのでそれ以上考えないことにしたのだった。
「また切ったの?」
かちゃり、と茶器の触れ合う音。カップの底にざらりと砂糖の残る紅茶に口をつけてから、こいしが訊ねる。
さとりの淹れる紅茶は濃いめの渋めなので、砂糖を入れ過ぎる位がこいしの口には丁度よかった。
その本人はストレートで飲んでいるのだが。
「ええ」
うっすらと血のにじんだ包帯をさすりつつ答えるさとりを、翠色の双眸はじっと眺めていた。
自分の手首にも傷を付けて、二人の血を混じり合わせたら素敵だな、とこいしはいつも思うのだが、実行することはきっと無いだろう。
自分の腕から血を滴らせる図をどれだけ想像してみても、姉の場合のそれの方が格段に綺麗だったのだ。
「お燐とかお空とか、心配するよ?」
もとが獣だからか血の臭いを敏感に嗅ぎ付けては、大丈夫ですかさとり様、と姉に言い寄る二人の姿を思い浮かべてこいしが言う。
「そうねえ……」
大丈夫と何度も言っているのに、消毒しないと化膿したら大変ですよ、だの、よく効く塗り薬貰ってきました、だのと口喧しいペットの姿を想像して、さとりは答えた。
「心配してくれるのはありがたいのだけど」
このくらい彼女らの言うところの、舐めとけば治る程度の傷だと言うのに。そんなに頼りない主なのかしら、と溜息。
「お姉ちゃんは強いのに、ね」
お燐もお空も心配性なんだから、呟いてからおかわり、と空になったカップをさとりに差し出す。
「この前はお姉ちゃんは貧弱だから私が居てあげないと、なんて言ってなかったかしら?」
自分のカップの中身を飲み干して、さとり。
「気のせい気のせい。無意識無意識」
そんなことよりこの前飲んだ、えっと、あーるぐれい、だっけ。葉っぱはあれがいいな、とこいし。
「まーた無意識のせいなのね」
紅茶の缶が並んだ戸棚から、妹の所望する銘柄の葉を取り出した。半月ほど前に、吸血鬼の館からくすねてきた、とこいしから渡されたものだ。きっとどこか有名な産地の茶葉なのだろう。瀟洒なロゴの下にずらりと並んだ横文字がプリントしてあるいかにも高級そうなその缶は、長年かけて創りあげてきたブランドを守る頑強な鎧のようにもみえた。
「ねえ、お姉ちゃん」
紅茶を淹れる姉の所作を、まるで変わった形の雲が流れていくのを観察するかのようにじっと見つめていたこいしが、徐に口を開く。
「何かしら?」
「お姉ちゃんの血、紅茶に入れてよ」
地上の吸血鬼はそうやって飲むんだってさ、というこいしの言葉にさとりは目を丸くする。それが予想外の反応だったのか、こいしは怪訝顔。
「えと、駄目……だった?」
上目遣いに遠慮がちに、ほんの少し――さとりにしか分からない程度にごく僅かだけ――低いトーンで尋ねる。
「そうじゃなくて」
やっぱり姉妹なのね、って思ったから。さとりは雪に埋もれる福寿草を見つけた子どものように、柔らかく微笑む。
こいしは不思議そうにしながらも、姉が気を悪くしたのではないと解るとさっきまでの呑気な表情に戻る。
「やっぱり、お姉ちゃんの考えてることはよく分かんないや」
さくり、とお茶請けのクッキーをかみ砕く。牛乳とバターがたっぷり入った、甘めの、姉の手作りの味がした。
「ミルクは先に入れる人と後から入れる人がいるけれど、血の場合はどうするのかしら」
あまりに真剣な姉の表情に、こいしはくすりと笑う。
「どっちでもいいんじゃないかな」
「そうかしら……」
右腕とポットとをじーっと眺めながら黙り込むさとり。
こいしは考え事をしている姉の表情も好きだったが、このまま放っておけばいつまでも悩んでいそうなので、後からがいいな、と提案しておいた。
「じゃあそうしましょうか」
姉の反応がやけに速かったので、最初から私に決めさせるつもりだったのかな、などという思考が頭を掠めたが、敢えて真意を探る必要もないだろう、とこいしは思考をポットを揺らす姉へ向けることにしたのだった。
茶の葉が揺れる様子は自分に似ている、とこいしは思う。ゆらりゆらりとあてどなく彷徨って、気づけばふらふらと在るべきところに戻っている。
紅茶にミルクが混じるように、思考回路が溶けてゆく。一度ミルクを加えれば、撹拌された液体は、琥珀色と純白には戻らない。クッキーを粉々に砕いても、小麦粉は作れない。
さくり、とクッキーをもう一枚。今度はほんのり苦いココア味。
美味しいかしら? 姉の問いかけに、首肯で返す。スコーン、マフィン、マドレーヌ。さとりの作る洋菓子は、どれもこいしのお気に入りだ。甘い。苦い。優しい。暖かい。繊細な。どれでもあって、どれとも違う、不思議な味。こいしに言わせれば、虹の境目の色みたいな味がするのだった。
「どうしたの? こいし」
「んー。ちょっと考え事、かな」
お皿の上の、クッキーのかけらと睨めっこ。さっきまで乗っかっていたその八割は、こいしの胃の中に。
最後の一つを手に取って、さとりの唇に押し当てる。
「はい、あーん」
満面の笑みで、こいし。
「……」
半眼を向けるさとり。
「あーん」
「……」
沈黙。さとりの唇に、押し付けられるクッキー。
むにゅり。桃色の唇にクッキーが沈む。ぐりぐりと割り入って、指とともに咥内にねじ込まれるクッキー。
一瞬だけ、こいしの指が舌に触れる。
「美味しい?」
「そりゃあ、ちゃんと味見はしてますから」
嚥下してから、溜息。ココアの苦みが、舌の上にざらりと残る。
「味見してるなんて、ずるい」
「その分を差し引いても、あなたの方がだいぶ沢山食べているのだけど?」
むう、と膨らませた頬を、指先でつつく。
「私も味見したかったのに」
「作ってる最中にいなかったじゃないの」
「むぅ……」
「大体この前だって、お菓子作るから手伝ってって言ったらどこかにいなくなってしまうんだもの」
「じ、じゃあ次! 次作る時は味見する!」
「手伝いもしなさいね」
食い下がるこいしに、半ば諦め口調のさとり。当のこいしは味見する気満々のようで、今度はチョコチップがいいな、などと楽しげだ。
「ほらお姉ちゃん、紅茶が渋くなっちゃうよ」
ご機嫌口調でさとりを急かす。釈然としないものを抱えながらも、こいしの笑顔に押されるようにさとりはポットを手に取るのだった。
とくとくと、カップに琥珀色が注がれる。
やっぱりお姉ちゃんは紅茶を淹れるのが様になってるな、などと考えながらこいしはそれを眺める。
「お砂糖とミルクは?」
「今はいらないかな」
そう、と呟くとさとりは、ゆっくりとした所作で腕に軽く巻かれた包帯を解く。乾いた錆色の血が、風に舞う粉雪のように、破片になってぱらりと散った。
傷口を開いて、二滴、三滴。そっと血液を滴らせる。繊細な薬品を作る薬師のように、注意深く、丁寧に。琥珀色に少しずつ赤みが刺していく。一体全体、何に効く薬なのだろう。さとりの頭に浮かんだ疑問は、紅茶に落ちた紅い雫のように、どこへともなく消えていった。
「このくらいでいいかしら?」
視線を向けて問いかければ、こくり、と首肯を返される。
「自分のには入れないの?」
「まさか」
提出した書類の欠陥を閻魔に指摘された時のような顔で答えると、さとりは自分のカップに砂糖を一つ、放り込んだ。
「お姉ちゃんが砂糖なんて珍しい」
「偶には甘くしてみるのも、ね」
何を思って姉が砂糖を入れるに至ったのか。心の読めないこいしには分からない。
不透明なカップの底に落ちた砂糖が、姉の持ったスプーンでくるくると溶かされゆく様も、こいしからは見えない。
ただ、紅茶の色が僅かに変化するのが見て取れるだけだった。
こいしが何を思ってカップを見つめているのか。心の読めないさとりには分からない。
カップの底に沈んだ砂糖を、スプーンでくるりと溶かしてゆく。
紅茶から立ち昇った湯気が鼻先を掠める。いつもより少し甘い、いい香りがした。
「それじゃあ、かんぱーい!」
「何に?」
「私とお姉ちゃん!」
「……そうね」
感嘆符がそのまま飛んできそうな声にさとりは今日何度目かの溜息をついて、こいしの掲げたティーカップと自分のそれを触れ合わせる。コン、と、陶器のぶつかる音がした。
こいしはカップの縁に口付ける。普段姉にそうするように、ふわりと、柔らかく。琥珀色が唇を割り、小川に入り込む湧き水のように、こいしの咥内に入り込む。
「うん。お姉ちゃんの血の味がする」
舌の上で幾度も転がしてからこくり、とこいしは喉を鳴らした。
「血の味なんて誰のものでも一緒でしょうに」
何を言っているんだか、とさとり。
「そんなことないもん。わかるもん」
お姉ちゃんのばーか。にぶちん。わからずやー。
いつもさとりがしているようなジト目で頬を膨らます。
「それで、美味しいのかしら? 私の血は」
「ん。美味しいよ」
「本当かしら?」
信じられない、とさとり。
「ほんとだよ」
嘘なんて言わないもん、とこいし。
「だって貴方、吸血鬼じゃあないじゃない」
「おいしいものは美味しいの」
半信半疑のさとりにこいしは、カップに残っていた紅茶を一気に飲み下して、
「美味しいから、ね。今度は、直接、飲みたい」
そっと、耳元で囁いた。
ティーポットを置き去りにして、地底の夜闇を取り込んだステンドグラスが、二人きりの部屋を薄暗く照らしていた。
「ねえ、手、貸して」
さとりの自室に二人きり。ベッドの縁に腰掛けたさとりの前に跪くようにして、こいしが言う。
桃色をしたカーテンの向こうには、夜の帳が下りている。
地底の空に、月は昇らない。天井から吊り下げられた照明が、染みこむ闇を退けて、二人の姿を淡く照らしていた。
さとりが恐る恐る差し出した手を、こいしは両手でふわりと抱え、壊れやすい砂糖菓子を扱うかのように、指先をそっと口に含んだ。爪の縁をなぞるようにして、そのままそっと舌で触れる。蟻地獄に引きずり込まれる蟻のように、さとりの指が少しずつ、奥へ奥へと咥え込まれた。
熱くぬめった舌先が、さとりの指を這うように撫で回す。犬歯を軽く押し当てれば、さとりの口から艶やかな声が漏れた。
指を口から離して、手のひら、手首と唇でなぞる。傷口に口づけ、舌を這わせる。慈しむように、目を瞑って、ゆっくりと。ほとばしる情欲を沈めるように、姉を味わうことに没頭する。
口中に広がるほんのり塩辛い血の味に、自分が吸血鬼になれたらいいのにと彼女は思った。
じんわりと温かいそれは、出来立てのりんご飴のように、とても優しい味がしたのだった。
「痛く、ない?」
一旦唇を放して、上目遣いにさとりを見つめる。
さとりはこくりと、静かに頷く。ちらりと見えるこいしの赤い舌と、さとりの手首との間に、唾液でできた銀色の橋が架かっていた。
「もっと、してもいい?」
さとりはこくりと、もう一度頷いた。
親指から小指まで順々に、一本ずつ、丁寧に。口に含んでは、じっくりと舐めまわす。ちらりと視線を合わせれば、さとりの空いた左手が、こいしの頭に乗せられた。手櫛が絡まりをほどくようにして、銀の髪を撫ぜる。親猫が子猫を毛づくろいするみたい、とこいしは思った。妹が自分の指にしたように柔らかく、優しく、さとりは細い指先で髪を梳く。日向で丸まる子猫のように大人しく、こいしは姉の愛撫を受け入れる。微かな姉の体温が、陽だまり代わりの温もりになった。
しばらく頭を撫でられるのを堪能すると、こいしは再び姉の手を取り、指先を味わうことに集中する。交わす言葉など、必要ない。
優しく、柔らかに、何度も。指紋の一つ一つを覚えるように、華奢な指先にざらりとした舌が絡み付く。歯と爪とが触れ合って、水音の合間に小さく、こつりと音が鳴った。
湧き出る血液が止まらないよう、乾きかけた傷口を何度も舐める。皮膚の裂け目から染み出す赤い液体は、蜜のように甘い。
鋭い犬歯が、柔肌に触れる。焦らすように、甘噛み。心地良い痛みがさとりの身体を巡った。姉の血の味をもっと堪能していたくて、一寸強くかぶりつけば、震える体は雨に打たれた迷い子のよう。
吸い付いた痕の桜色が血の赤色に映えるな。熱っぽい頭で、こいしはそう思った。
このまま姉を食べてしまいたい。吹き上がる間欠泉のような衝動を、果たして自分は抑えきれているのだろうか。舌先に触れる皮膚や肉の感触と、口中に広がる血の味。舐めているだけ。それとも食べてしまってる? 自分自身への問いかけに、答えなど帰ってくるはずも無い。
時折漏れる艶やかな声と、湿った音。軋むベッド。姉と、妹と、二人だけの空間。吸血鬼とサトリ妖怪の夜は過ぎていく。
窓の外には、深まっていく夜の闇。
地底の空に、星は瞬かない。天井から下がる仄暗い明かりだけが、周りの闇を切り払うように、さとりとこいしを照らしていた。
地底の空に、朝日が昇る。窓の外では、小鳥が歌う。枕にしていた姉の腕から頭をそっと起こすと、古明地こいしはしばらくの間、傍らで眠るさとりの寝顔を眺めていた。時折瞬きをする他は、夏の朝に蝉の羽化を見守る子どものように、身動ぎ一つせずに。
古明地さとりの目覚めは遅い。窓から差し込む朝日を頼りに、夢の世界から現実の道を、おぼつかない足取りでゆっくりと辿るようにして、意識を覚醒させていく。時間のかかる作業だが、彼女はそれを好んだ。地底の太陽が湿った大気を程よく暖めるまで、そうして微睡みの中に身を投じ、揺蕩っているのだった。
柔らかく呼吸を繰り返す姉の頬を撫ぜれば、ぴくりと身体を揺らすくらいの、薄い反応が返ってきた。それはまるで、そこで大人しくしているよう命じられた賢い動物のようだった。誰かに何かされても、決して噛み付いたりしてはいけないよ、私が戻ってくるまでいい子にして待っていなさい。
瞼にかかる姉の髪をそっと払い、その下にある菫色の瞳に思いを馳せる。こいしが二つの目玉を覗きこむ時は決まって、そこに映った自分自身に見つめ返される。けれどもいま姉の瞼を開いて覗き込めば、或いはつややかなガラス玉の中に見えるのは姉の姿かもしれない、と、理由もなくそう思った。
ベッドから降りて、衣擦れの音すら立てず、ほんのりと姉の匂いの付いた服に身を包む。さあ、出かけよう。こいしは小さく呟いくと、やはり物音一つ立てること無く、部屋から出ていった。
こいしが行ってしまえば、後には音もなく閉じられたドアと、一人分の気配が消えた部屋が残される。
窓から差し込む朝日は変わらず、さとりの目覚めへの歩みを助けるべく、二人分の体温が篭るベッドを白く照らしていた。
この姉妹は行きつくところまでいっちゃってますね
地底の朝日、夕日って空が作ったのでしょうか
ぼんやりとした水墨画に赤い絵の具一滴垂らした感じ。もっと飛ばしたキャラ付けならもっと鮮明になったかも
背徳感かどうかはわかりませんが、何かとても変な気分になって気持ちがよくなる
ただ、血液は飲むとむせるのでおすすめしない
あ、作品は官能的で素晴らしかったです。
血は先入れの方がいいと思います。ミルクと同じでタンパク質が変質してしまうと思うので。
でも、絵的には後入れの方が映えますね