人里の子供たちが、いつものように鬼ごっこに興じようとしている。
寺子屋の授業は既に終わり、日暮れまでの残された時間は、子供たちにとって至福の時間だ。
今日は、少年少女が入り混じり、鬼ごっこをする事になった。
とある少年は、一番乗りでジャンケンに勝ち、鬼が誰かも見届ける事なくせっせと小走りでその場から一目散に飛び出した。
そろそろ鬼ごっこも始まった頃合いだろうか、という時間になる。その時、目の前に一人の少女が現れた。
こんな所をうろうろする女の子だから、きっと彼女も鬼ごっこに参加しているのだろう、と少年は思い、声をかける。
「ねえ」
「……ん、もしかして私?」
少女は、自分がまさか声をかけられるとは思っていなかったかのような素振りを見せた。
「そうだよ、君以外に誰がいるっていうんだい」
「いや、まさか見られるとは思ってなかったから」
「でも君は今目の前に居るじゃないか」
「いや、でも私は色んなところに居るんだよ」
少年は、はて、と首をかしげる。この少女は一体何を言っているのだろうか。
と、そんな事を考えている時間が無かった事を少年は思い出す。少女に訊かなければならない事が少年にはあったのだ。
「ねえ」
「ん?」
「君って、今鬼?」
「そうだよ」
少女の返事を聴くなり、少年は脱兎のごとく翻りその場から逃げだした。普段から走り回る事が得意な少年にとって、これくらい造作も無い事だ。
やがて、少女の姿が見えなくなり、少年は一仕事終えたような表情で額の汗を悠々と拭う。
「はい、たーっち」
そんな声と共に、少年の背中は誰かの手のひらが触れた感覚がした。
そちらを向くと、男の子がまさにしてやったり、と言った顔で少年を見ている。
「え」
「え、じゃねえよ。今お前鬼だからな」
「は、でもさっき他の女の子が鬼だって」
「いやいや、ジャンケンで負けたのは俺だから。その女の子に嘘でも吐かれたんじゃないか?」
そんな風なやり取りをしながらも、元鬼と名乗るその男の子は少年と上手く距離を開きつつ、会話が終わると同時に姿をくらました。
「あーあ」
誰かの嘆く声が聴こえる。振り返ると、先ほどの女の子がいつの間にかそこには立っていた。
「鬼になっちゃったね」
「ちょっと、酷いじゃないか!」
少年は普段出さないくらいに大きい声でその女の子を糾弾する。
「なんで鬼だなんて嘘を吐いたんだよ! おかげで鬼に捕まったじゃないか!」
「あらら、それは悪い事をしたね。でも鬼ってのもいいもんだよ」
「なにがいいもんか! 僕は逃げる方が好きなんだ!」
少年は、今にも女の子に掴みかかりそうなほどの必死の形相を浮かべますが、女の子は全く焦りや動揺を見せません。
「それに、わたしは嘘なんか吐いてないさ」
「いや、さっき自分が鬼だって嘘を吐いたじゃないか」
「あれは嘘じゃないよ。鬼は嘘を吐けないんだ」
「でも、おかげで今ぼくは鬼に捕まったんだぞ」
「それは悪い事をしたと思ってるってば」
「だから、嘘を吐いてるじゃないか」
「いや、嘘は吐いてないんだってば」
少年は、それにも二の句を次ごうとしたが、会話が同じところをグルグルと回っているだけのような気がして、言葉を切ってしまった。
その代わりに一つ、溜め息を吐く。どうやら、この女の子はちょっと頭が変みたいだな、と思った。
「……仲間が溜め息を吐いてるのは、見過ごせないねえ」
女の子は愉快そうな笑みを浮かべながら少年にそう言った。
「よし、じゃあ今度から私も手伝ってあげるよ。今回のことはそれで許してくれ」
「君が手伝ってくれたって、足手まといだよ。女の子はみんな僕より足が遅いんだから」
「いやいや、足の速さは関係ないんだよ。私にはね、絶対に鬼に捕まらない方法があるのさ」
男の子は、その、「絶対に鬼に捕まらない方法」という言葉につい、ときめいてしまった。
そんな方法があるのなら、ぜひとも知りたいし、知れなかったとしても、この先鬼に捕まらなくて済むというのは魅惑的な話だ。
「……本当に?」
「ああほんとさ、鬼は嘘を吐かない」
女の子は、ニッ、と明るい笑顔を浮かべた。
それから先、少年は鬼ごっこをするとき、必ずその女の子が何処からともなく現れるようになった。その女の子は、どこから鬼が来るのか、誰が鬼なのか、それをいつだって全て知っていて、少年は一度も鬼に捕まる事は無くなった。
どうして、鬼に捕まらないのか、少年はその方法を一度だけ女の子に聴いた事があったが、「私は色んなところに一杯いるから、全部見えてるのさ」としか言葉を返さなかった。その意味がまるで少年には分からなかったが、とりあえず、鬼に捕まらないのはこの女の子のおかげなのだな、程度に思っておくことにした。
「最近どうだい、寺子屋の授業は」
少年は、鬼ごっこでさっぱり誰にも捕まらなくなり、他の友達たちには「一体どうやったら捕まらなくなるのか」を教えて欲しいと、引っ張りだこだ。鬼ごっこの時には、野心溢れた少年たちが「絶対にあいつを捕まえてやる!」と燃え上がるようになり、ここ最近は鬼ごっこ以外の遊びをほとんどしなくなった。少年としてもそちらの方が嬉しかった。する鬼ごっこの数が多い方が女の子に遭える数も多くなるからだ。
「……おい、どうしたんだい、ぼーっとして」
カラカラと快活に笑う女の子。
少年が鬼に捕まらなくなってから、少年にとって鬼ごっこという遊びは女の子との会話に興じるものと成り下がってしまった。けれど、少年はそれに全く異議は無い。
なぜなら、少年はその少女に惚れていたからである。
「……ごめん! ちょっとここで待ってて!」
少年はふと、そう言って立ち上がり、女の子を置いて立ち去ってしまった。
しばらくして戻ってくると、少年は息を切らし肩を上下させている。
「はぁ、はぁ……」
「ちょっと、急にどうしたんだい」
女の子も立ち上がり、少年を気遣うような素振りを見せた。
「わざわざ鬼に触られに行くだなんて。気でもおかしくなったか?」
「いや、あのさ、鬼ってさ、嘘がつけないん、だよね」
「そうだよ、そうだけどもうちょっと息が整ってからでも……」
少年は、その小さな鬼は、背筋をピンと張り、女の子の方をきちりと向き直して、口を開いた。
「――きみのことが、すきです」
「あー……いやさ、うん。君の正直な気持ちにはすっごく好感が持てるし、君の事嫌いじゃないんだけど」
「私、鬼だからさ」
「嘘吐けないや」
それから二度と、少年は女の子の姿を見ることが出来なかった。
寺子屋の授業は既に終わり、日暮れまでの残された時間は、子供たちにとって至福の時間だ。
今日は、少年少女が入り混じり、鬼ごっこをする事になった。
とある少年は、一番乗りでジャンケンに勝ち、鬼が誰かも見届ける事なくせっせと小走りでその場から一目散に飛び出した。
そろそろ鬼ごっこも始まった頃合いだろうか、という時間になる。その時、目の前に一人の少女が現れた。
こんな所をうろうろする女の子だから、きっと彼女も鬼ごっこに参加しているのだろう、と少年は思い、声をかける。
「ねえ」
「……ん、もしかして私?」
少女は、自分がまさか声をかけられるとは思っていなかったかのような素振りを見せた。
「そうだよ、君以外に誰がいるっていうんだい」
「いや、まさか見られるとは思ってなかったから」
「でも君は今目の前に居るじゃないか」
「いや、でも私は色んなところに居るんだよ」
少年は、はて、と首をかしげる。この少女は一体何を言っているのだろうか。
と、そんな事を考えている時間が無かった事を少年は思い出す。少女に訊かなければならない事が少年にはあったのだ。
「ねえ」
「ん?」
「君って、今鬼?」
「そうだよ」
少女の返事を聴くなり、少年は脱兎のごとく翻りその場から逃げだした。普段から走り回る事が得意な少年にとって、これくらい造作も無い事だ。
やがて、少女の姿が見えなくなり、少年は一仕事終えたような表情で額の汗を悠々と拭う。
「はい、たーっち」
そんな声と共に、少年の背中は誰かの手のひらが触れた感覚がした。
そちらを向くと、男の子がまさにしてやったり、と言った顔で少年を見ている。
「え」
「え、じゃねえよ。今お前鬼だからな」
「は、でもさっき他の女の子が鬼だって」
「いやいや、ジャンケンで負けたのは俺だから。その女の子に嘘でも吐かれたんじゃないか?」
そんな風なやり取りをしながらも、元鬼と名乗るその男の子は少年と上手く距離を開きつつ、会話が終わると同時に姿をくらました。
「あーあ」
誰かの嘆く声が聴こえる。振り返ると、先ほどの女の子がいつの間にかそこには立っていた。
「鬼になっちゃったね」
「ちょっと、酷いじゃないか!」
少年は普段出さないくらいに大きい声でその女の子を糾弾する。
「なんで鬼だなんて嘘を吐いたんだよ! おかげで鬼に捕まったじゃないか!」
「あらら、それは悪い事をしたね。でも鬼ってのもいいもんだよ」
「なにがいいもんか! 僕は逃げる方が好きなんだ!」
少年は、今にも女の子に掴みかかりそうなほどの必死の形相を浮かべますが、女の子は全く焦りや動揺を見せません。
「それに、わたしは嘘なんか吐いてないさ」
「いや、さっき自分が鬼だって嘘を吐いたじゃないか」
「あれは嘘じゃないよ。鬼は嘘を吐けないんだ」
「でも、おかげで今ぼくは鬼に捕まったんだぞ」
「それは悪い事をしたと思ってるってば」
「だから、嘘を吐いてるじゃないか」
「いや、嘘は吐いてないんだってば」
少年は、それにも二の句を次ごうとしたが、会話が同じところをグルグルと回っているだけのような気がして、言葉を切ってしまった。
その代わりに一つ、溜め息を吐く。どうやら、この女の子はちょっと頭が変みたいだな、と思った。
「……仲間が溜め息を吐いてるのは、見過ごせないねえ」
女の子は愉快そうな笑みを浮かべながら少年にそう言った。
「よし、じゃあ今度から私も手伝ってあげるよ。今回のことはそれで許してくれ」
「君が手伝ってくれたって、足手まといだよ。女の子はみんな僕より足が遅いんだから」
「いやいや、足の速さは関係ないんだよ。私にはね、絶対に鬼に捕まらない方法があるのさ」
男の子は、その、「絶対に鬼に捕まらない方法」という言葉につい、ときめいてしまった。
そんな方法があるのなら、ぜひとも知りたいし、知れなかったとしても、この先鬼に捕まらなくて済むというのは魅惑的な話だ。
「……本当に?」
「ああほんとさ、鬼は嘘を吐かない」
女の子は、ニッ、と明るい笑顔を浮かべた。
それから先、少年は鬼ごっこをするとき、必ずその女の子が何処からともなく現れるようになった。その女の子は、どこから鬼が来るのか、誰が鬼なのか、それをいつだって全て知っていて、少年は一度も鬼に捕まる事は無くなった。
どうして、鬼に捕まらないのか、少年はその方法を一度だけ女の子に聴いた事があったが、「私は色んなところに一杯いるから、全部見えてるのさ」としか言葉を返さなかった。その意味がまるで少年には分からなかったが、とりあえず、鬼に捕まらないのはこの女の子のおかげなのだな、程度に思っておくことにした。
「最近どうだい、寺子屋の授業は」
少年は、鬼ごっこでさっぱり誰にも捕まらなくなり、他の友達たちには「一体どうやったら捕まらなくなるのか」を教えて欲しいと、引っ張りだこだ。鬼ごっこの時には、野心溢れた少年たちが「絶対にあいつを捕まえてやる!」と燃え上がるようになり、ここ最近は鬼ごっこ以外の遊びをほとんどしなくなった。少年としてもそちらの方が嬉しかった。する鬼ごっこの数が多い方が女の子に遭える数も多くなるからだ。
「……おい、どうしたんだい、ぼーっとして」
カラカラと快活に笑う女の子。
少年が鬼に捕まらなくなってから、少年にとって鬼ごっこという遊びは女の子との会話に興じるものと成り下がってしまった。けれど、少年はそれに全く異議は無い。
なぜなら、少年はその少女に惚れていたからである。
「……ごめん! ちょっとここで待ってて!」
少年はふと、そう言って立ち上がり、女の子を置いて立ち去ってしまった。
しばらくして戻ってくると、少年は息を切らし肩を上下させている。
「はぁ、はぁ……」
「ちょっと、急にどうしたんだい」
女の子も立ち上がり、少年を気遣うような素振りを見せた。
「わざわざ鬼に触られに行くだなんて。気でもおかしくなったか?」
「いや、あのさ、鬼ってさ、嘘がつけないん、だよね」
「そうだよ、そうだけどもうちょっと息が整ってからでも……」
少年は、その小さな鬼は、背筋をピンと張り、女の子の方をきちりと向き直して、口を開いた。
「――きみのことが、すきです」
「あー……いやさ、うん。君の正直な気持ちにはすっごく好感が持てるし、君の事嫌いじゃないんだけど」
「私、鬼だからさ」
「嘘吐けないや」
それから二度と、少年は女の子の姿を見ることが出来なかった。
少年よ、たくましく生きるのだ
面白かった!
かっこいい
文がきれい。