――『厄神に近付くとその厄が伝染(うつ)る。故に近付いてはならない』
それは幻想郷の常識である。
# # #
私こと鍵山雛は厄神である。
厄とは生命に宿る負の要素であり、厄神はその厄を集め、蓄えることを役目としている。
その厄を最も身に溜め込み易いのが人間だ。これは人という種族が他の生物よりも優れている分、業の深い生き物である故の弊害なのかも知れない。
遥か昔、流し雛として人間の信仰を受け、次代の変化と共に幻想郷へと移り、私は神と成った。
神と成り思考を得た私は初め、人間という存在がよく分からなかった。
何故、そこまで厄を溜め込むのか? 何故、そうまで業が深いのか? 何故、それだけの厄を背負い、生きてゆけるのか?
自分の中で生まれた未熟な思考は疑問を生むことを止めはしなかった。神と成り、人よりも上位存在となった私からしてみれば、人間という存在は非常に脆い。だというのに、彼等は必死に生き足掻くのだ。それはもう滑稽に思えるほどに。
しかし私は人形の頃と同じく、人々の厄を溜め込むことを止めることは無かった。人間に対して疑念を抱こうと、私は自分を造ったとある平安貴族の『人々の厄をその身に受け入れよ』という命を、ただ愚直に守り続けた。
主人から命ぜられたから。そうあるように造られた存在だから。
そこに一切の感情・思考が介入することなく、私は人間から厄を集め続けた。
ただ定められた己の運命を受け入れる、それが人形のさだめ故に。
その、筈だった。
何時からだったであろう、私の家の傍に供物が置かれるようになったのは。
信仰を受けていた以上、供物を受けるのは初めてではなかった。しかし、過去のそれはどこか流し雛という儀式を行う為に準備をされていた物ということで、何処か当たり前の事のように思っていた。
だがこれはどうだろうか。名も存在も分からない自分の様な神に、人間は供物を捧げたのだ。
私はただ自分に与えられた命令を守っていただけ、誰からの見返りを期待していた訳でもない。人形であった頃の務めを果たしていただけなのに。
それなのに、人間は私に感謝の意思を示していた。それは儀式の時に捧げられた温かみの無い様な物ではなく、正真正銘、感謝という名の真心が籠もった供物だった。
私は再度、人間という存在が分からなくなった。
何故、私の存在を知っている? 何故、私のしてきた事を知っている? 何故、私なんかに供物を捧げる?
神である以上、人間からの一定の信仰が無ければその身を保つことは不可能である。当然、私もその事は知っていたが、気にも留めていなかった。
私は人形なのだから、壊れるまで自分に課せられた命令をこなせばいいと思っていた。そこに存在の継続という考えは一片も無かった。
しかし、供物を得たということは少なからず信仰を得ているという事であり、それは自身の存続が約束されたという事に他ならない。
彼らが何故、自分の存在を望むのか。己の存在を人形と思って憚らなかった当時の私は、疑問は募らせるばかりであった。
一夏が過ぎ、秋の景色が見え始めた頃。何度目かの供物を持ってきた里の者に私は問うた。
――『人よ。何故、私に供物を捧げるのです?』
当時の私にとって最も大きな疑問。
答えるなら相応の回答を期待し、答えないのであれば無理矢理にでもその口を開かせるつもりでいた。今となっては恥ずかしい事だが、当時はそれだけ私の頭を苛ませていたのだ。
里の者、人間で言う所の青年は酷く狼狽していた。確かに信仰の証を持って来ただけだというのに、その神に問答されているというのだから無理からぬ話であった。それも間違えは許さないという雰囲気であるならば尚更の事であっただろう。
一方は神、もう一方はちっぽけな普通の人間。両者の格の差は圧倒的だ。
それでも青年は答えた。抜け落ちそうな膝に喝を入れ、汗ばむ手を握り締め、震える喉を唾を飲み込むことで落ち着かせ、なよっとした感じの目を引き締め、私の問いに答えた。
即ち、
――『私たち人間はあなた様に感謝しているからです』
その答えは、思いもしなかった。予想外だった。驚天動地だった。空前絶後であった。
嘘だ、と過去の私は呟いた。ただの人形に人間が感謝するはずが無いと思っていたから。
しかし、それは違います、と青年は先程よりも力強い口調で否定した。
――『私たち人間はあなた様、厄神様に本当に感謝をしています。この供物は、我々からのあなた様へ対する感謝と信仰の証なのです!』
青年は呆然とする私に向かってそう言い切った。
彼は更に私に向かって言った。
最近になって怪我や病気になる里の人間が少なくなっていて不思議に思っていた事。
偶然村に来ていた先代の博麗の巫女に、私の存在とその行いを聞いた事。
そうまで人間の為にしてもらっていて、何もしないなど罰当たりも甚だしいという里の総意で供物を捧げに来た事など。
青年は最初の時とは打って変わって興奮したように捲し立てた。曰く、それは全部、私のおかげだと。
その後の事を私は、実はよく覚えていない。
里の青年を帰したまでは覚えているが、あまりに想定外の答えに混乱してしまっていた。
自分は神でもあるが、その実ただの人形だ。
おかしいではないか。
何故に人が人形なぞに感謝する?
何故に当たり前のことに感謝する?
そうあるように自分を造ったのは人間ではないか!
ただぐちゃぐちゃと、困惑と猜疑と怒りが頭の中を駆け巡っていた。おそらく、当時の私はこの時が最も思考を巡らせた時間だった。
長い長い答えの無い長考の末、ふと私は自分の中に浮かぶ知らない感情に気付いた。
それは先まであった困惑でも猜疑でも怒りでもない別の何かだった。
過去の私はとにかく戸惑った。未知は神の身になったといえど恐怖であったから。
己の存在を根底から覆させられかけたというのに、更にまだ何かあるのか、と。
だが、『今の』私ならそんな私を鼻で笑ってやれる。そんな事も知らないのか、と。
当時の私にとっての未知の感情、それは喜びだった。
そう、私は知らずに人間を愛していたのだ。
神でもあり、人間に尽くす為の人形という中途半端な存在である私に感謝を向けてくれる人間を、堪らなく愛おしい存在と思うようになっていた。
何時からかは覚えていない。でもきっと、あの時の未知の感情が切欠で。
――『中途半端でもいい。私は私という存在を受け入れ、人間と共に歩もう』
それは『私』という自我が出来た故に思えた事。その私を人間が呼び起こしてくれたから思えた事。
愛しい、愛しい、人間が……。
そう、この時から、私はどうしようもなく人間を愛して『しまった』のだ。
# # #
「雛様~」
ここ、幻想郷は処暑を迎えた所だ。山の中では蝉の声が五月蠅いぐらいに響いている。神といえども基本的な構造は人間と同じなので、この猛烈な暑さには辟易してしまう。
さて、あの私の存在を根底から覆した事件(?)から十数年が経った。あれからも私は里の人間から厄を集めることを続けている。それは今も昔も変わらない。
違いがあるとすれば、人間と私の距離が縮まった事だろう。そう、身も心も、だ。
「雛様、こんにちは!」
「佳耶(かや)、こんにちは。今日も来てくれたのね」
あれから十年以上経った今でも、人間は私のことを信仰してくれている。むしろ時間の経過と共に以前よりも信仰が厚くなっていたりする。
以前は私の家の前に供物を置いていく形式だったが、何年か前から直接私に渡すようになっていた。これが私と人間の距離を大きく縮めるに至った要因である。
そして今、私の下を訪ねてきたのは佳耶という里の女の子。十数年前、私との問答に臆せず答えた青年、与作の一人娘だ。
与作はあの後から今までも、私の下へと供物を捧げる役を担っている。どうやら里の方ですっかり定着してしまったようだが、私としても彼は友人の様な存在なので問題は全く無い。それは彼も同じだろう。
そして数年前から父親の後をちょこちょこ付いて来たのが佳耶なのだ。しかし、今日は件の父親が傍にいないのはどうしたことだろう。
「佳耶? 与作の姿が見えないけれど、まさかあなた一人で来たの?」
「ううん、途中まで博麗の巫女様に送ってもらったの。帰りも一緒だよ?」
「与作は?」
「お父さんは風邪を引いちゃったから、代わりに私が持ってきたのっ!」
「呆れた……」
そうやって誇らしげに私の問いに答え、籠に入れられた野菜などの供物を渡してくれる佳耶。ありがとう、と私はその小さな手から籠を受け取る。
とりあえずは安堵した。里の外に出てしまえば、人間は妖怪の格好の餌食となってしまう。ある程度の対処が出来る大人であればそう問題は無いのだが、佳耶のような女の子であればどうしようもない。
しかし、護衛に博麗の巫女が付いているというのであれば、その問題も無くなる。博麗の巫女は幻想郷における抑止力、下手に彼女に手を出す輩はこの幻想郷には存在しない。おそらくは里の者が佳耶の為に護衛を頼んだのだろう。
「与作ったら、先月あれほど風邪には気をつけろと言ったのに……」
「うん、お父さんも『これじゃあ雛様に顔見世出来ない~』って布団の中で唸ってた!」
「本当にどうしようもないわね……」
次にあの男が来たらその事で弄ってやろう、と私は心の中で誓うことにした。
でも、それよりも先に……。
「ひゃっ!?」
持っていた籠を地面へと起き、佳耶の小さく形の良い頭に手の平を乗せると、彼女は驚いたのか変な声を上げる。そんな所も可愛らしく、私はついその頭を撫で回してしまう。
「驚かせてしまったかしら?」
「うん、ちょっとびっくりした。でも雛様なら大丈夫!」
「あら、嬉しいことを言ってくれるわね。お礼にもっと撫でてあげる」
「ん~」
まるで日向で眠る猫の様に幸せそうに目を細める佳耶。そんな彼女が愛らしくて、撫でまわす私の手にもついやる気が入ってしまう。そして一層幸せそうにする佳耶。
この場に即席の幸せ循環地帯が発生した瞬間だ。
「って、何時までもこうしてるのは駄目ね。さあ佳耶、私の家にお入りなさい」
「ん~、私はこのままでいい~」
佳那はそう言って駄々をこねる。よほど頭を撫でてあげるのが気に入ったのだろう。
それは嬉しいし、私個人としても何時までも撫で回してあげたいのだが、今の季節は夏。神である私はそうそうバテることは無いが、人間でしかもまだ子供の佳耶では無理をさせる訳にはいかない。
「我が侭を言っては駄目よ。それに幸せは溜め込むもの、安売りするのは勿体無いわ」
こういった時はつくづく自分が神であってよかったと思う。何せ自然と言葉に重みがつくのだ。しかもそれが厄、一種の人間の幸福を司っている神の言葉なら尚更だ。
「むー、分かりました……」
「分かればよろしい。ほら、行きましょう?」
案の定、佳耶はしぶしぶながらも私の言葉に従ってくれた。元が聞き分けの良い娘なので予想通りとも言えた。
物欲しげな顔を浮かべる佳耶の頭をもう一度撫で、私は彼女に手を差し出した。物足りなそうな顔を一瞬浮かべたものの、瞬きの間に笑顔になって私の手を取る。
そんな仕草にどうしようもなく保護欲を掻き立てられながら、私は自分の家に彼女を招き入れた。
「それでね! お父さんったらべろんべろんに酔っぱらったまま帰ってきて、待ってたお母さんに怒られて外に追い出されちゃったの!」
「まあ、与作ったらどうしようもないわね」
「本当にね!」
娘にまで同意されてしまうのだから本当にどうしようもない話だ。
佳耶は私の家に入ってからはほとんど話しっぱなしだ。まあ、家に上がったからといって特別にすることは無く、結局は会話することになるのは至極当然の流れ。ついでに彼女が話し手で、私が聞き手であるという配役も。
普段、与作が来た時は里の人間の様子や里の状況などを教えてもらっているが、佳耶の話の内容は主に自分の家族の話だ。偶に友達とした遊びの話なども入ることがあるが、大半は家族との思い出話だ。
母親と一緒に料理を作った事。
父親と母親が喧嘩になり一方的に父親が負けた事。
お使いを頼まれたけど駄賃を無くして怒られた事。
父親と一緒に釣りをしに行ったら父親が石に躓いて池に落ちた事。
野良犬を怖がる自分の為に父親が追い払おうとして逆に追いかけ回された事。
大半は与作が碌な目に合っていないが、あの男なら問題無い事と自己完結し、話しの相槌を打つ。
それは何より佳耶の気分を害するような余計な茶々を入れたくなかったという所が大きい。彼女は本当に嬉しそうに自分の家族の話をするのだ。それだけ家族の事が好きなのだろう。
逆にその表情から彼女が家族から愛されている事も読み取れる。一人娘であるのもその要因なのかもしれない。
「雛様、私も雛様みたいになれるかな?」
一気に喋って喉が渇いたのだろう、佳耶は用意した茶を一口含んだ。そして、その後に少し意外な質問をしてきた。
「なーに、突然? 佳耶は神様になりたいの?」
私はつい問い返してしまった。人間が神になることは確かに可能だ。しかし、それは血統や力があってこそ初めてその道が拓けるのであり、非常に困難を極める。
子ども特有の好奇心からくる疑問とは思うが、とりあえずはその真意を問うてみた。
「ううん、別に神様になりたいわけじゃないよ? ただ、雛様みたいに私も里の皆の役に立てないかなって思ったの」
「ああ、そういう事だったの」
案の定、佳耶の答えは違った。ちょっと残念に思ったのは内緒だ。
さて、私の様に役に立ちたいと言うが、私の場合は非常に特殊かつ間接的なものなので、良い助言が浮かんでこない。
かと言って人間からの願いを聞き入れないというのも神の名に恥じるというものだ。だから私はありきたりな所で返してみることにした。
「そうね、今の佳耶では里の皆の役に立つのは難しいでしょうね」
「ええ、そんなぁ……」
「話は最後まで聞きなさいよ?」
私の否定に一瞬で表情を曇らせる佳耶。本当にこの子は感情の起伏が激しい。既に瞳が潤んでいるのが何よりの証拠だ。
若干の罪悪感を覚えながらも、抗議の声を上げようとする彼女を遮る。話はここからだ。
「確かにいきなり里全体の役に立とうというのは無理よ。でも安心しなさい、それは佳耶だけに限った事じゃあないの。あなたのお父さんもお母さんも、里の皆だって、あなたと同じ年の時にはそんなことは出来なかったわ」
「お父さんもお母さんも?」
子どもにとって親という存在は全知全能の存在に等しいという。与作はともかくとして、生みの親にも不可能があると知った佳耶の顔に驚きが浮かんだ。
「ええ、そうよ。あなたも、その当時のお父さんとお母さんも子どもなんだもの。出来ることはどうしても限られてしまうわ」
「じゃあ、私は役立たずってこと……?」
「ああ、違う違う」
ああ、言葉というのは本当に難しい。宥めるはずが逆に落ち込ませるてしまった。
佳耶の瞳には水滴が浮き始めている。拙い、と慌てて言葉を重ねる私の何と滑稽なことか。
「私は別に佳耶が役立たずだなんて言ってもいないし、思ってもいないわ」
「……本当に?」
「勿論、あなたは役立たずなんかじゃない。家族を思いやることの出来る孝行娘よ」
彼女くらいの人間の子どもで出来ることなんて本当に大したことではない。ましてや、里全体の役に立つなんて大人でさえも難しいだろう。
それが出来ないからと言って、自分を役立たずと思い込むなんてとんでもない話だ。大体、役立たずなんて言葉を何処で覚えてきたのだろう? 教えた奴の顔を張り倒してやりたい気分だ。
「私は、孝行娘……」
「そう、孝行娘。孝行っていうのはね、お父さんやお母さんのお手伝いをして日頃のお返しをすることなの。だから先ずはあなたの家族の役に立つことをしなさい。そうすれば、いずれは里の皆の役に立てる人になれる筈だから」
私は佳耶にそう説いた。何事も順序は大事だ。いきなりこれをやれと言われてこなせる者などそうはいない。下積みを積むことで初めて成し遂げられるのだ。
「……私に出来るかな?」
見上げる瞳には既に湿り気は無い。代わりにあるのは不安と期待が半分。だから私は佳耶を後押しする為に彼女の身体を抱き締める。
「出来るわ。だってあなたは家族を愛せる人だもの」
優しく佳耶の身体を抱き締めながら、私は確信めいた言葉を送る。
「うん……。私なら出来る……」
そう言って佳耶もその細い腕で私を抱き締め返してくる。
「ええ、きっと出来るわ」
「そうしたらお父さんもお母さんも、里の皆も喜んでくれるかな?」
「当たり前じゃない」
「じゃあ、私も雛様みたいな神様になれるのかな?」
――ええ、きっとなれるわ。だってあなたにはそれだけの力があるのだもの。
思いはするものの、私は口には出さず、ただ微笑んだ。
佳耶は十中八九、能力持ちだ。今はまだ目覚めてはいないが、私という神に触れ合うことで刺激されたのか、徐々にその片鱗を見せ始めていた。
そしてその力は軽く私を抜いてしまう事が分かっている。彼女がその力を十全に使いこなすことが出来れば、おそらくは本当に神になることだって可能だろう。
しかし、だからこそ私はその事を黙った。例え能力の事を話さなかったとしても、この場で私が肯定してしまえば、彼女はその道を突き進んでしまったであろうから。
それは佳耶という少女の意思の強さを知っていたからこその判断。私が安易に彼女の将来に干渉して良い筈がない。
私は佳耶が神になることには別に反対はしない。ただ、神になった後に後悔だけはして欲しくはないのだ。
幼い時期の決意一つを胸に、人としての全てを捨てて神となり、その果てに理想との違いに絶望などしては本末転倒でしかない。
あと数年が経ち己の力に気付いてから、人として生きていくのか、それとも神を目指し腐心するのか、ゆっくりと決めて欲しいというのが本心だ。
「雛様?」
返事を返さない私にいぶかしむ様子の佳耶。そんな彼女が本当に愛おしくて、先程よりも強く抱き締めた。
「佳耶」
「はい、雛様、何ですか?」
「あなたは自分の進みたい道を進みなさい。けれどゆっくりとね」
ゆっくりなどと言うが、人の寿命など私たち神からすれば一瞬でしかない。しかし、佳耶が自分の意志を見出すのには十分な時間だ。
そして、その時であれば私は彼女の選択を否定しないと決めている。だってそれは彼女自身が望む道なのだから。
「?」
「ふふっ、今はいいのよ。もう少し佳耶が大きくなった時に分かるから」
「はい……?」
よく分かっていない様子ながらも肯定する佳耶に私は、今はそれでいいと心の内で思う。いずれ必ず起こりうる事態なのだ。今から思い悩む必要は無い。
今ある問題と言えば、
「むに~」
「ああ本当、妹が出来たみたい」
この場に新たに生まれた第二の幸せ空間をどう打破するかであるが、特に問題は無いので更なる幸せを享受することに決定した。
ああでも、与作の娘というのは勘弁願うかしらね。
# # #
「それじゃあ、帰りますね」
「えぇ、与作にもよろしく言ってちょうだい。あぁ、あと送り迎えをしてくれた博麗の巫女にも」
「はい、わかりました!」
日もだいぶ傾き、辺りは朱に染まっていた。
夏で日が長いとはいえ、もう少しすれば妖怪たちの時間となり危険なので佳耶を家に帰すことにした。巫女も時間を見計らって来たのか、既に向こうで佳耶が来るのを待っている。
しかし、今日は思わぬ訪問者だったが、何時も与作と会話するのとは別の面白さがあった。それを鑑みれば、今日は本当に楽しい一日だった。
そう、件の可愛らしい訪問者が帰ることに寂しさを感じるくらいに。
「雛様、どうしてそんなに寂しそうな顔をしてるの?」
「え?」
まさか自分がそんな顔をしているとは思いもしなかった私だった。しかも、子供に気付かれてしまった。いや、この場合は子供の方が鋭いというし、頷けるのか。
「雛様、寂しいんだったら私がお家に泊ってあげようか?」
「えぇ?」
混乱していた頭に、更なる爆破物を投げ込んでくる佳耶。えぇと、と頭の中を整理すると、一瞬だが嬉しく思ってしまった自分が恥ずかしく思えた。
「気持ちは嬉しいけど、佳耶にはちゃんと帰る家があるでしょう?」
「でも、雛様さっき寂しそうな顔してたもん。私がいた時は雛様、そんな顔してなかったもん」
子供は理屈でなく感情を重視すると言う。
実際、事実なのでそこを突かれると非常に困ってしまう。しかし、人の子供を勝手に親の許可無く泊めるわけにもいかないし、それに何より、
「佳耶、あなたは孝行娘でしょう? あなたが家に帰らなければ、あなたのお父さんとお母さんを誰が手伝ってあげるのかしら?」
「あ……」
私との会話を思い出したのか慌てだす佳耶。彼女の心の中の天秤では、私と彼女の両親で揺れ動いているのだろうが、さっきの話の手前、どちらに傾くのかは分かり切った事だ。
「雛様は、寂しくないの?」
当然ながら天秤は両親の方へと傾いた。その事を若干残念に思うが、私は心を鬼にして佳耶の質問に答えた。
「ええ。一人でいるのは正直、もう慣れちゃったから」
「本当?」
「本当。でも、佳奈がいないのはやっぱり寂しいけどね」
ほんの少しの本音を交えながら。
「じゃあ、指切りしましょう?」
すると佳耶はそんな事を提案してきた。指切り、それは私でも知っている約束の厳守を誓う風習だ。問題は何故ここで指切りを提案してきたのかだが。
「指切り? 一体何を約束するの?」
「うん。今度来た時に必ず私を雛様のお家に泊める事!」
そうきたか、と心の中で呟いた。子供というのは存外に頭の回転が早い。私の悩みを解決する事と自分の望みを叶える為の手段、その両方を佳耶は自力で導き出したのだ。
佳耶は賢い子だが、まさかこの年でその考えに思い付くとは思いもしなかった。
私は素直に感心した。だから、私は彼女の話に乗ることにする。
「それはいいわね。分かった、今度来る時は佳奈を私の家に泊めてあげる」
「本当に!? それじゃあ、早く指切りしよう?」
「はいはい」
私が話に乗った事を本気で喜んでいる様子の佳耶。こういう所は年相応に子供なのだなとしみじみと思う。
そして、私は早く早くと催促する彼女の小指に、自身の小指を絡めた。
「指切り拳万~」
「嘘ついたら針千本呑ます~」
「「指切った!」」
最初の言葉を佳耶が、続く言葉を私が、そして最後は二人揃って宣誓し、勢い良く互いの指を振り切った。
「えへへ、これで約束は絶対だね」
「えぇ、私も針を千本も呑まないように気を付けるわ。佳耶も約束を破っては駄目よ?」
「破りません!」
叫びながらも嬉しそうに微笑む佳那。
佳耶との約束だ、与作との約束を反故しようと、佳耶との約束を違えるはずが無い。無論、万が一反故にしてしまった場合に、針を千本呑むこともだ。
「それじゃあ雛様、さようなら」
「はい、さようなら。次を楽しみにしてるわ」
今度こそ佳耶は博麗の巫女の方へと向かって行く。この時ばかりはやはり寂しいものだ。それは与作の時でも変わらない。
しかし、今は違う。次に佳耶が私に会いに来てくれた時には、我が家に泊めるという約束をしているのだ。それはとても素敵なことだ。そう、この別れの寂しさが吹き飛んでしまうくらいに。
それはきっと佳耶も同じ。だってあの子の顔も私と同じ笑顔だったから。
私たちは決して破ることの出来ない約束を結んだ。だから悲しむことはなかったのだ。
その破れぬ約束故に、悲しみが待っているとも知らずに。
# # #
あの約束からちょうど一月が経った。
季節は夏の峠を越え、緩やかに秋の兆しを妖怪の山にも見せ始めている。そろそろ秋を象徴する例の二柱も現れることだろう。
「それにしても残念ね」
視界を窓へと向ける。時は昼頃である筈なのだが、外は薄暗く視界は悪い。
そう、ここ数日は秋雨が続いているのだ。色付き目を楽しませてくる紅葉が、この雨で落ちてしまうのは実に残念だ。何より、
「この雨じゃあ与作も佳耶も来れないでしょうね」
与作は毎月の必ず決まった日に供物を持ってくるが、雨の日の時だけは例外である。
供物が痛むのが原因というのもあるが、雨で視界が悪くなった状態で、ただでさえ危険な山道を登るのは自殺行為に等しい。
晴れた日に改めてやって来る与作はこの事を詫びてくるが、当然の判断と言える。彼は人間、妖怪のように殺しても死なない存在では無いのだ。
しかし残念なのも本心である。山の天狗や河童と話す機会は多いが、人間と話す機会はこの時ぐらいしかないのだ。何より、今日は佳耶が我が家に泊っていくという約束までしていたので尚の事その思いは強い。
「はぁ、楽しみにしていたのに。本当、空気の読めない天気ね」
私程度の力ではどうしようもない自然の力につい愚痴を漏らしてしまう。
この天気をどうにか出来るとすれば、私よりも遥か上の神格を持つ神か、完全に能力を掌握した場合の佳耶ぐらいだろう。そこらの一柱の神程度ではどうにもならない。だから、私は天に向けて不満をぶつけることしか出来ない。
窓に向けていた視界を自分の部屋へと向け直す。そこは佳耶が来た以前よりも更に整い、何処か華やかになった部屋があった。
ここ数日、今日という日が待ち遠しくて居ても立ってもいられずに、部屋を整理した結果である。降り続く雨に、明日こそは止む筈と希望的観測に縋りながら作業を行っていたが、結局は徒労に終わってしまった。
はぁ、と溜息を吐き、不毛と分かりながらも文句を言おうと窓へと目を向けた。
「あら?」
するとどうだろう。先程までは無かった人影が、この雨が降りしきる中にあった。
人影から与作であろうと当たりをつけた私は彼を出迎えることにした。それにしても、随分と急いだ様子だ。雨具も持っている様子では無いので当然とも思えるが、この雨の中、雨具も持たずに果たして外に出るだろうか?
何故だか、私の心中に嫌な予感が蔓延った。急いで扉を開け、与作が家に着くのを待つ。彼は私の姿を見つけたのか、更に勢いを早め、雨の中を駆け抜けて来た。
「与作、あなた一体どうしたの?」
私は尋ねずにはいられなかった。しかし、彼は荒い息を吐くだけでなかなか答えようとはしない。
膝に手を着き、顔を俯けたまま何とか呼吸を整えようとしている。その姿はまるで野犬のようだ、と私は不謹慎にも思ってしまった。
はっ、はっ、という与作の息遣いだけが暫しの間、私と彼の間に流れる。
そして、ようやく呼吸が整ったのか、与作は顔を上げた。雨で濡れた髪が張り付き、長時間この雨の中を駆け抜けたのであろう、寒さからか青白い。
しかし、何よりその顔に浮かぶ感情、それは困惑と恐怖であった。普段から呑気そうな顔をしているこの男がどうしたらこのような表情を浮かべられるのか。嫌な予感がより強まる。
「雛、様……」
口から零れ落ちたような呟き。私はそれを聞き逃しはしなかった。
「ええ、私よ。一体何があったというの?」
「か、やが……、佳耶が……」
「佳耶? 佳耶がどうしたというの?」
その名前が出た途端、嫌な気配は最高潮に達した。
彼の様子からきっと佳耶の身によろしく無い事が起こったのだ。嫌だ、その先を聞きたくないと思うも、口は勝手にその続きを促してしまう。
「佳耶が、いなくなってしまったんです……」
そして、私の予感は『運悪く』的中してしまった。
# # #
「佳耶! 居るのなら返事をして!!」
私は雨の中、自分の領域でもある妖怪の山の中を走り回っている。
自分の出せる精一杯の声で呼び掛けるものの、雨の音と混ざってしまい、果たしてどれだけの範囲に聞こえているのかも定かではない。
それでも私は呼び掛ける。愛しい妹分の名を……。
――『全て、私が悪いのです……』
あの後、与作はそう言って崩れ落ち、震える声で事の次第を話した。
――『佳耶は……、今日という日をそれは大層、楽しみにしておりました。早く雛様に会いたいと、毎日毎日飽きずに呟いていました。
しかし、先日から降り続ける雨に私は、今日は雛様の所には行けないとあの子に話したのです。するとあの子は……、佳耶は怒りました。
ええ、今まで見せたことも無いぐらいに怒っていました……。幾ら宥めようとしても機嫌を直さずに、今日会いに行くんだ、そう約束したんだ、と言うばかりで……。
本当に情けない親です……。子供の癇癪と思い、もういい、と私が切り捨てると、あの子は家を飛び出して行きました。雨具も持たず草鞋だけを引っ掛けて、私の制止も振り切って出て行きました……。
慌てて里の者に探すのを手伝って貰ったのですが、結局今も見つからないままで……。あの時、私がちゃんとあの子を宥めていればこんな事には……っ!』
そう言って与作は声を殺して泣き始めた。その心の内は佳耶への罪悪感で一杯なのだろう。
だが、それは彼に限った話ではない。私自身も彼の話を聞いて、とんでもない罪悪感で心が満ちてしまった。
何故、指切りなどしてしまったのか。佳耶が責任感の強い子だと理解していた筈ではないか。それもそう言った約束事は決して違えるような子ではない、と。
理解したつもりでいた。しかし、本当は理解など欠片ほども出来ていなかったのだ。
そして、その現実がこれだ。今ならば針千本であろうと容易く呑みこめるだけの心境である。
だが、己を罰するのは後でだって出来る。今は佳耶を見つけることが最優先と、私は家を飛び出したのだ。
「佳耶ー! ……っ、本当に、一体何処にいるの?」
幾ら呼び掛けようと返ってくることのない状況に、次第に焦りが生まれてくる。
佳耶が妖怪の山に向かって来たのは十中八九間違いないだろう。しかし、一体彼女がどの辺りまで来ているのか見当はついていない。既に山の中に入っているのか、それともその道中や近辺をうろついているのか。
そこで私と与作は二手に分かれて佳耶を探すことにした。山の地理に詳しい私が山の中を捜し、彼にはもと来た道に佳耶がいないかを確認してもらっている。
通い慣れているとはいえ、与作一人で大丈夫かとも思ったが、博麗の巫女が捜索に協力してくれているという事なので問題は無いだろう。
現状、問題があるとすればこの山の広さ、そして振り続けるこの雨だ。天狗や河童、その他多くの妖怪が住処とするだけあって、この山の土地の広さは半端ではない。
その中を私一人で捜すというのだから、事態は恐ろしく困難を極めている。更に厭らしい雨が視界を悪くするのだから堪ったものではない。
私はともかく、人間である佳耶にはこの雨は身体を冷やし、体力を奪う毒となる。見つからない現状と佳耶の身の心配で、私の中の焦りは加速的に増していく。
「こうなったら……」
ここは時間の消費を犠牲にしてでも、天狗や河童に捜索の協力をしてみようか。
河童は人間に対して比較的友好であるし、天狗は渋るだろうが、自分の領域で問題が起こるのを見過ごしはしないだろう。どうしても頷かないのであれば土下座でも何だってしよう。
そうだそうしよう、と心の中で決心し、いざ山の上へと私は足を向ける。
と同時に、それは聞こえた。
――ぴちゃっ……。
雨が地に落ちる音よりは大きく、けれど然程大きいとも言えないその音は、何故か私の耳に届いた。
はて、と思いながらも、水溜りにでも水滴が落ちたのだろうと結論づけ、再び山の上へ登ろうと脚を上げようとした。
――ぴちゃっ、ぴちゃり……。
またもその水音が私の耳朶を打つ。
気にするな、と歩を進めようとするが、何故か違和感を覚えてしまった。先程の水音、水滴にしてはやけに粘着質な音ではなかったか?
いや、そんな事はどうでもいい、と私はその違和感や疑問を振り払おうとする。しかし、それは私を逃がしてはくれなかった。
――ぴちゃっ、ぴちゃぴちゃり、ずずっ……。
決して自然現象では混じるはずの無い、何かを啜るような音が聞こえた。
私は理解してしまった。これは水滴では無い。別の何かを何かが舐め、啜る音だと。
私はふらふらとその音が聞こえる方へと足を向けた。ちょうど目的の反対の方向だ。
――ずずっ、ぴちゃっ、ずしゅっ、はふっ……。
否定はしていた。でも頭の何処かで分かっていたのかもしれない。
――ぐしゃっ、ずるっ、びちゃちゃっ、ずりゅっ、ほふっ……。
でも、理解したくなかった。子供のように、感情が理性を抑えつけたのだ。
――ずずずっ、ばりっ、ぐしゃっ、にちゃっ、はふっ、ぴちゃっ、ねちゃっ……。
何故かって? それは……、
――ばりっ! ぐしゃっ! べちゃっ! にちゃっ! がふっ! ずしゅっ! ぶしゅっ! はふっ! ずずっ! ずぞぞおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!! ずっ!
「あん? 俺の食事中に何のようだい?」
――その先にあるのは、きっと変わり果てた姿の佳耶なのだから。
「あ……」
その姿を見た時、私の身体はついふらついてしまった。
私は妖怪の山に住んでいるだけあって、そういう目に遭った人間の姿を見るのは初めてではない。無論、気分が良いものではないが、既に見慣れてしまっていると思っていた。
だが、違う。慣れたなんてとんでもない。目の前の佳耶の姿に、私はどうしようもなく心を揺さぶられていた。
元気に走り回っていた両の脚は不自然に折れ曲がり、骨が突出している。
無駄な筋肉とは無縁であった腿は、まるで虫食いにあったようにぼろぼろになっている。
すべすべと触り心地の良かった腹は、無残に引き裂かれ、五臓六腑の全てを回りに露出させている。
私を包み込んでくれたあの優しい腕は、右は肩から引き千切られ、左は今や骨だけと化している。
そして顔。幸いにも、ここだけは変わりは無かった。そう、その瞳に曇天の色を宿している、それ以外は……。
「あぁ……」
私は崩れ落ちた。遅かった、全てが遅過ぎたのだ。
神なのに、私は神である筈なのに、人間の少女一人守り切れなかった。その事実が私をどん底にまで突き落とす。
「ええと、人の食事中に訪問とか何ですかあなた。新しい餌候補の人ですかー?」
この惨状を引き起こしたであろう妖怪が私に話し掛けてくる。だが、聞こえない。こんな下郎の声など聞こえる筈が、いや待て。
「……餌? 今、餌と言った?」
「ああ、そうだよ。それは餌、そしてあんたは新しい餌、ってあんたよく見たら神様じゃんか。しかも厄神とか、喰えねーよ」
何かぶつぶつと世迷言が聞こえた気がするが、この際は気にしない。重要なのは佳耶を指して餌と言ってみせたことだ。
「餌? 餌ですって!? よくもそんな事が言える! この子は貴様のような下劣な妖怪が手を出していいような存在ではない!」
佳耶を侮辱されたことで、私の心に今までに無い程の激情が駆け巡った。
一刻でも早く目の前の下郎から佳耶の亡骸を離したい。このままでは彼女の身に穢れが移ってしまうように思えたから。
しかし、下郎はそんな私の思いなど知ったことかと話しかけてくる。いや、事実どうでもいいのだろう。
「お宅の事情なんて知らないよ。その餓鬼は里の人間なんだろうが、その外を出てしまったら俺たち妖怪になにされようと仕方ないって。それがここの常識でしょ常識!」
犯すも食すも自由なのさ、と何が面白いのか目の前の下郎はそう吐き捨てる。
確かにこの下郎の言う事はここ幻想郷では正しい。だが、目の前で自分の親しい者を喰われて気炎を上げない訳がなかった。
幸い、下郎は私でも難なく倒せるだろう。だからこの下郎を倒してでも佳耶の身を連れて帰り、早く弔ってやりたかった。それだと言うのに、
「ってかさ、そんなに大事なら何でちゃんと手綱握ってなかったわけ?」
その一言が私の心に突き刺さる。佳耶を家畜の様に扱った事は置いておくものの、不本意ながらも、確かにその通りなのだ。
私がちゃんと佳耶の事を理解していれば、彼女の行動を先読みし、こんな悲惨な事態を招くことは無かった。こんな下郎に喰われることも!
「うるさい! 貴様に、貴様なんかに何が分かる!!」
もう私の口から出るのは、子供が逆上した時の様なただ感情任せな言葉だけだ。如何に自分が惨めなことをしているのか分かっていても、想いを吐き出さずにはいられなかった。
「おいおい、図星を突かれたからってそんな怒んなくてもいいじゃんかよ」
軽薄そうな雰囲気と顔でそうのたまう下郎。こいつは私が逆上する姿を見て楽しんでいるのだろう。本当に存在するだけで不愉快を通り越して殺意すら湧いてくる。
「まあ、俺も腹は膨れたから良いけどね。このままじゃ怖ーい神様に祟られちまう」
「御託はいいからさっさと失せなさい……!」
「おぉ、怖い怖い」
私は本気の殺意と共に下郎を睨む。次に私の逆鱗に触れようものなら、本当に殺しかねない、その確信が私にはあった。
奴も私との実力差、雰囲気を感じ取ってか立ち去る素振りを見せる。そう、それでいい。そして二度と私の目の前に現れるなと念じる。
「そう言えば、あんた厄神なんだよなー」
「……それがどうしたと言うの」
私の中の激情は鎮まったわけではなかった。ただ無理矢理に抑え込んでいただけ。
だから、私は正常な判断を失ってしまっていた。だから、私は下郎に言葉を返してしまった。
「いや、その餓鬼が俺に喰われちまった原因ってさあ、あんたじゃねえの?」
「え……?」
こいつは、一体何を言っているんだ?
「だから、あんた厄神なんだろ? その身には厄を溜め込んでんだろ? だったらよう、――その厄が誰かに伝染(うつ)っちまってもおかしくないよな?」
いや、待て。こいつは本当に何を言っているのだろう?
「あんたその餓鬼をそれはそれは大事に可愛がったんだろう? 触れ合ったりしたんだろう? だったらほーら、厄が伝染っても何もおかしくない」
ははっ。それではまるで、
「つまりさぁ、その餓鬼はあんたが殺したも同然ってわけだ!」
私が佳耶を殺したと言っているようなものではないか。
「可哀想に。厄神に出会わなければ! 厄神に触れなければ! 厄神と話さなければ! 何より、厄神に愛されなんかしなければ! 俺みたいな奴に喰われることもなかったんだろうよぉ! おお、あわれあわれ。ぎゃははははははははははははっ!!!」
下郎の下卑た笑い声が辺りに響き渡る。
「ふ、ふふ……」
私の口から自然と笑いが漏れる。笑える筈がないのに、どうしてだろう。
「ふふ、あははっ……」
いや違う。私は気付いた。この状況がどうしても笑わずにはいられないという事を。
「ははははははっ! あははははっ! あーっはっはっはっは!」
この下郎は本当に大した奴だ。私が意図せず考えないようにしてしいた事をあっさりと見抜いてみせたのだ。
それに先程までの私との遣り取りの時も、私は終始、会話のペースはこの下郎に握られっぱなしであった。こいつはただの下級妖怪の分際で私と対等以上に渡り合っていたのだ。
こんな出来事を笑わずにいられるだろうか。いいや、私は笑わずにはいられない。
いやいや本当に、
「何だ気でも狂っちまったか? 神って言っても大したことないんじゃ、がふっ!?」
本当に、何処までも私の気を逆撫でてくれる奴だ。
「て、めえ……! 俺に何をしやがった!?」
「口を閉じなさい下郎。貴様は私の話を聞いていればいい」
何か屑が喋っているが、私の耳には届かない。
しかし、最近の技術の発達は著しいものだ。動いて話をする芥など私は初めてだ。まあ、それに離し掛ける私も大概か。
「はっ! 俺を殺す気か? やれるもんならやってみろよ!その代わりに俺は抵抗してやるからな! てめえの大事な大事な餓鬼を傷付けてよぉ!
俺は死ぬかもしれんが、どうせ暫くすれば生き返るんだ! でも餓鬼はどうしようもねえ、きっともっと汚ねえ身体になっちまうだろうなあ!?
それでも俺を殺すか!? てめえが今更無何をしようとなぁ、結局は俺の大勝利なんだよ、馬鹿が!!」
本当によく喋る屑なものだ。ただし品性の欠片も無いのか、その言葉のほとんどの内容が私には理解することが出来なかった。
とりあえず、かろうじて理解出来た言葉を拾い上げ、返事をしてやることにする。
「殺しはしないわ、死ぬよりも辛い目に遭ってもらうだけ」
「な、何を言ってんだっ!? どういう事だ、おいっ!」
「いい? 貴様に私が今まで溜めておいた厄を植え付けた。えぇ、上の神々に献上する分のほんの十分の一程度よ。
だからと言って安心しては駄目。さっきも言ったけど、貴様にこれから待ち受けるのは地獄のみ。一片の幸福も救いも無いと思いなさい」
私としては理解できる範囲の言葉で懇切丁寧に説明してあげたつもりではあったのだが、如何せん所詮は塵芥に過ぎないのか、ぽかんと口を開け、白痴のような醜態を晒している。見ているだけで不快が増していくというものだ。
やがて、ようやく亀の歩み程の早さで思考が追い付いたのか、顔にあたる部分を赤に染めながら喚き出した。
「なっにを勝手なことしてくれてんだよ、このクソアマが! だらだら喋ってないで早くその厄を……!」
「もう貴様と話す事はないわ。とっとと失せなさい」
もう話す事は話したので用は無い。一体どうして塵芥に過ぎない下郎に手や耳を貸す必要があるだろうか。
「ふざけ……!」
「聞こえなかったの? 私は、失せろと、言ったのよ」
「……っ、畜生がぁ!」
口汚い言葉を残し下郎は去って行ったが、心底どうでもよかった。奴には一つの生命が持つには不相応な量の厄を移しておいた。然るべき罰は勝手に下るだろう。
「……佳耶」
下郎の事などは既に記憶の彼方に消え去り、私の目には佳耶だけが映っている。
記憶よりも重みを失った身体を優しく抱き上げる。彼女には弔う前に行く場所がある。
彼女が愛し、彼女を愛した神の住まう家だ。
「さあ、行きましょう。約束通り私の家に招待してあげる」
雨は今も降り続いている。それは火照った身体を冷やすのに丁度よかった。
しかしどうしたことだろう。
顔に降りかかる水滴だけは、何故か仄かに温かかった。
遠く山の何処かで何かの悲鳴が響いたが、私達には関係の無い事だった。
# # #
時間は人間や神の間に起きた出来事など気にも留めず過ぎ去って行った。
あの日から更に一月が経ち、妖怪の山は本格的な山の賑わいを見せている。窓の外に映る紅葉は見事な朱に染まり、見る者の心を虜にすることだろう。
だが、私の心には何の感慨も浮かんでこない。ただ、この紅葉を佳耶と一緒に見られたらと、もはや叶う事の無い空想に耽るばかりである。
あの忌まわしい出来事の後、私は佳耶を家に連れて帰った。彼女が来る事を望み、その望みに応えるべく色々な施しを行った我が家であったが、客人が目を開け、喜んでくれることは無かった。
私はそれでもと、血や色々な体液が染み込むのも構わず、布団に佳耶を寝かせた。後から来る与作に娘の今の姿を見せたくなかったのもあるが、少しでも彼女の願いを叶えてあげたかったからだ。
私達が戻ってから一刻ほど経った頃、与作が戻って来、我が子の冷たくなった姿に涙を流した。
わんわんと子どもの様に声を上げ、何度も佳耶に目を開けるように懇願するも、彼女がもう二度と目を開けない事を悟ると、今度は声を押し殺して泣き始めた。
暫しの時間が過ぎた時、与作は掠れた声で『ありがとうございます……』と私に向かって言った。
私は何も返すことが出来なかった。ただ木偶の人形の様に親子の傍に居続けることしか出来なかった。
今日はあの忌まわしい出来事が起きてちょうど一月。あの日とは対照的に秋らしいカラッとした天気であり、つまりは与作が供物を届けに来るには絶好の日である。
「雛様、供物をお届に参りました」
もう何度聞いたかも分からぬ、何時も通りの与作の言葉。それに導かれ、私は扉を開け彼を出迎えた。
一月振りに見た与作は、以前よりも少し痩せ憔悴した印象を受けた。が、一人娘を失ったのだ。それも無理からぬ事と考え、私も変わらぬ言葉で彼を出迎える。
「与作、何時もありがとう」
「いえ、これが私の仕事ですから」
与作もまた何時もの言葉を返してくるものの、少しこけた頬で笑みを浮かべる姿が見る者に痛々しさを感じさせる。でも、それはきっと私が今浮かべている表情にも言える事だろう。
前まではこの顔触れが普通だった。だが、ほんの少しの間に一人面子が増え、そして唐突に減った。たったそれだけ、たったそれだけであるはずの事が、私達の間にどうしようも無い程の陰を生んでしまっていた。
それでも、私は努めて何時も通りに里の状況や人々の様子を尋ねる。彼と過ごすこの時だけは、せめて楽しい時間でありたいから。
何より人間とこうして過ごせる時間はもう少ないのだ。与作はどこまで理解してるのか、やはり何時も通りに近況を話してくれた。
「と言うわけで、今年も豊穣神様のお陰で冬を越すには十分な量を収穫することが出来ました」
「そう。それじゃあ私からも感謝を言っておかなくてはいけないわね」
「それが良いかと。それと私事なのですが……」
「あら、何かしら?」
供物の中身を見て私が豊穣神への感謝を検討していると、与作が珍しい言葉を口にした。
彼は別に暗い過去があるとかそういった事は無いのだが、自分の事やその周りの話しをする事はあまり無かった。
それが少し改善されたのは彼に娘が出来、その娘の話しをするようになった時からだ。無論、話しの内容はその娘の話しばかりであったが。
つまり、与作の話というのは、
「先日、佳耶の葬儀を執り行いまして、立派な墓を建ててやることが出来ました」
「……そう」
「はい。土の下に入るには些か早過ぎましたが、あれはきっと幸せだったと思います」
「……何故そう言えるの?」
「えぇ、何故なら佳耶は神様に愛された子でしたから。そんな子が幸せじゃなかったはずがありません。
佳耶本人も恐れ多くありますが、雛様をまるで自分の姉であるかのように自慢げに語っておりました。『今日は雛様とお話をした』とか『雛様に入れて頂いたお茶は今までで一番美味しかった』とか、他にも……」
「ねぇ、与作?」
それ以上は、耐えられなかった。
「はい、何でしょうか?」
「どうして佳耶があの日、あんなにまで私の所に来たがっていたか、あなたに分かるかしら?」
「それは……」
与作の顔が僅かながら歪んだ。おそらく、あの日の佳耶との遣り取りを思いだしているのだろう。
そして、与作はきっとそれは自分が悪いとも思い込んでいる。でも、それは違う。あなたは悪くないのよ、与作。
「それはね、私と佳耶が約束をしていたからなの。あなたが来れなかったあの日に」
「約束……」
「そう。佳耶が私の家に泊るっていうね」
初めて聞いたのだろう、与作の顔には驚愕が浮かんだ。
「その顔じゃ知らなかったみたいね」
「し、しかし、いくら約束とは言っても……」
「佳耶はあなたの娘。だったら父親のあなたがあの子の性格を知らない訳がないでしょう? あの子の責任感の強さなんかも全部」
そう、私の知らない佳耶だって与作はたくさん知っている。そんな彼なら娘が約束を違えるような娘でない事を承知しているだろう。
「勿論、私も佳耶のそういった部分は知っていた。いいえ、知ったつもりでいただけ。あの子の責任感の強さ履き違えて、安易に約束なんかしてしまった。
分かるかしら? もし私が佳耶の事をもっと知っていて、その上で約束なんてしなければ、佳耶は……、佳耶は妖怪に喰い殺されることなんてなかった……!」
あの時のように私の心は激情に支配されてしまう。ただ支離滅裂に己の罪を吐き出していく。
それは懺悔なんて厳かなものではない。罪人が隠していた事実を公で供述するのに等しい。
「与作、あなたは私が佳耶を愛したと言ったわね。それに間違いは無いわ、私は確かに佳耶を本当の妹、家族のように愛していたわ。でもね、その佳耶を愛した神がいなければ、その神と約束なんてしなければ……」
何より、
「その神が佳耶を愛さなければ、佳耶は死ぬことはなかった。元凶はあなたの目の前にいる。あなたはその愚かな神を恨むかしら?」
恨むに決まっている。いや、恨んで欲しい。
与作には私を恨む権利、いや権利なんて言葉を私が使うのもおこがましいか。そう、与作には私を恨むには十分過ぎる理由があるのだから。
だと言うのに、
「ははっ、私が雛様を恨む訳がないじゃないですか」
「どうして……? だって、佳耶は私が殺したも同然なのよ!?」
記憶の彼方に消えた筈の何処ぞの下郎の言葉が、今この時だけ舞い戻って、今度は私自身の口から出てきた。
それは私にとっての猛毒でもあるが、これでいい。たとえ与作が私を肯定してくれようが、私自身が否定すればいいのだ。
そうすれば、与作は私を恨んでくれるはず。いや、恨んで欲しい。お願いです、恨んでください。
「客観的に見れば、そういう捉え方も出来るのでしょうが、生憎、私はあまり頭がよろしくなくてですね。主観でしか物事を考えられ無いんですよ」
「はぐらかさないで! 私は……」
「はぐらかしてなどいません。私は雛様が悪いだなんて思いません。だから私はあなた様を恨む気持ちなど、これっぽちも持ち合わせておりません」
「でも……」
「あまりご自分を卑下なさらないでください。それに私が雛様を恨むなんてことをしたら、佳耶に怒り顔で夢枕に立たれてしまいます」
あの子には死んでも笑顔でいて欲しいですからね、と与作は笑いながらそう言った。
あぁ、最初から分かっていた。優しい与作が私を恨むことがある筈がないと。
恨んで欲しいなどと思っておきながら、結局は許しの言葉が欲しかっただけなのだ。自分が救われたい故に。本当に我ながら何と浅ましい神だろうか。
だから、この夢のように優しい時間はもうお終いにしなくてはいけない。
「そう。ありがとう、与作」
「いえ、私は何も……」
「いいえ、今まで、本当にありがとう。」
え、という与作の声が耳元で聞こえる。腕からは与作の若干高いように思える体温が服越しに伝わってくる。胸に耳を当てれば、おそらく突然の状況に早まっているであろう彼の鼓動が聞こえるだろう。
つまり今、私は与作に身体を寄せているという状況にある。
「ひ、雛様!? 一体、何を……!」
「いいから、このままで私の話を聞いて頂戴」
「は、はい」
腕の中で暴れる与作だったが、私の言葉に乗せた感情を読んだのか途端に大人しくなる。こういう聞きわけが良い所は親子一緒なのだなと思わされる。
「今から言う事を聞けば、あなたは必ず反対するわ。でも卑怯だとは思うけど、あなたにはそれを理解した上で私の言う事を受け入れて欲しいの」
「必ず、ですか……」
「ええ、必ず」
本当に卑怯だ。
さっきまでは拒絶されたいと思っていたくせに、自己を肯定されれば拒絶されることを恐れてしまう。
しかも自らの手で相手の拒絶という手札を切り捨てさせ交渉の場に立たせているのだから、傍から見ればまるで詐欺でも行っているように見えるだろう。
そんな汚い詐欺師の甘言にあっさりと乗ってしまう与作は、きっと格好のカモだ。その純粋なカモに詐欺を図らなければならない私の心は、申し訳なさで雁字搦めにされる。
「承知しました」
「……もうちょっと深く物事を考えなくてはいつか痛い目に遭うわよ?」
「たはは。それだけは多少は長く生きてきましたが直らなくて」
「ふふっ、何を言っているの。私からすればあなたなんて赤子と一緒。思考なんてしてないも同然よ」
「違いありません」
しかし、それも与作と話せば解けてしまった。
人間という生き物は本当に不思議なものだ。私を造り人形に仕立て上げたかと思えば、私に感情を呼び起こさせもするのだから。
「さてと、覚悟は出来たかしら?」
「えぇ、どんと来いです」
「頼もしいわね。でも、先に断っておくわね」
「へ、何を……」
「ごめんなさい」
私はそんな人間が好きだ。
「与作。私はこれから自らに厄を纏い、何者との交流も断ちます。それは人間も妖怪も神も、勿論あなたとの今までの関係もです。これは私なりのけじめ、あなたには理解して欲しい。そして、里に帰ったらこうも伝えて欲しいの」
私はそんな人間が大好きだ。
「 」
だからこそ、私は自ら拒絶という道を選ぶ。
「そ、そんな……」
「否定は許さないわ。それはあなたも承知したでしょう」
「で、ですが雛様……!」
顔を見なくても分かる。与作の顔はきっと青褪めている。主人の心の動きに忠実な身体は、その心情を表すように私に震えを伝えてくる。
「これが最善なのよ、きっと。あの下郎が言った事を鵜呑みにする訳じゃないけれど、人と神が近過ぎるのはきっといけない事なのよ」
「しかし……!こんなのって、酷すぎます……!」
与作の声に嗚咽が混じる。それでも私が言葉を止めることはない。
「いえ、それも逃げに変わりないわね。正直に言うとね、私はあなた達が死んでしまうのが耐えられないの。あなた達は私とは違って寿命という定められた命がある。
勿論、それは私も理解しているつもりなんだけど、私の子どもの部分が駄々をこねるのよ。『もう大事な人間が先に死ぬなんて耐えられない』ってね」
「そうだとしても! 酷すぎます! お恨みします! 私に……、私にそのような事を伝えろなど……っ!!」
遂に与作から恨むという言葉が飛び出した。待ち望んだ言葉ではあったが、些か遅過ぎた。
「確かにあなたには酷なことを頼むことになるわね。でもね、与作? 私はあなただからこそ、こんな事が頼めるのよ。私に最も近しい場所に居た人間、そんなあなたにだからこそ私は託すの。他の誰でもない、与作、あなたにね」
「うっ、うあぁぁぁ……」
あの日の様に与作の膝から力が抜け落ちそうになる。が、それは私が許さない。彼には私が託した最後の使命があるのだから。
「ほら、自分の脚でしっかりと立ちなさい。私が友と認めた人間はそんなに弱くないはずよ」
「うっ、ぐっ……」
「そう、それでいいのよ」
「雛様、俺は……」
「伝えてくれるかしら?」
「っ、はい……!」
まるで幼子をあやす様に与作の背を摩っていた私だったが、そこにいるのは成人の男性であり、その声には年相応の落ち着きと覚悟が宿っていた。
「ありがとう。これで私も心残りが無くなったわ」
「申し訳ないです」
「問題ないわ。悩み成長するのが人間の仕事。悩んでもそこで停滞してしまう私達、神とは違ってね」
「いえ、そんな事は……」
「いいのよ、事実だもの」
最後の会話だというのに、何とも色気の無い話である。まぁ、私と与作の間で色のある話があっては問題しかないのだけれど。主に与作が。
「さぁ、そろそろ最後にしましょう。あまり長引いても尾を引くだけだもの」
「全くその通りです。ここにいると、つい昔の事を思い出してしまう」
「それは帰ってからにしなさい。厄神という災厄の神との思い出を、ね」
「いえ、最高の神の間違いでしょう」
そう言って二人でくすくすと笑い合う。あぁ、やはり私たちはこの間柄が一番心地良い。
しかし、それも長引かせては一種の薬の様に毒にしかならない。だから別れは迅速かつ簡潔に。
「さようなら、私の大好きだった人間」
「さようなら、私の大好きだった神様」
そうして私は彼の胸を突き、能力を解き放つ。
与作は数歩後ろによろめき、そのまま後ろを振り返ることなく走り去った。
後に残るのは厄神という神の端くれが一柱。山の上から下りてくる風に服を弄ばれながらその場から一歩たりとも動かない。
「ありがとう、私の愛した人間たち」
それは正しく、人形と呼ぶに相応しい姿だった。
# # #
私が厄を身に纏うようになってから、更に数百年が過ぎた。
当然のごとく与作たちの代の人間は死んでしまい、今の里に住む人間たちはその数世代後の孫たちということになる。それでも今だに供物が家の前に捧げられるのは予想外でもあり、嬉しくもあった。
とはいえ、与作が使命をしっかりと果たしてくれたおかげで人間(例外もいるが、あれを人間の枠に当て嵌めるには無理がある)が私に近付くことはなく、一部の力ある妖怪や神を除いての接触もない。
かつて私は人間に近付き過ぎた。それが原因で私は大事な存在を失った。同時に、その関係も断つことにした。
失ったものは大きかった。けれど、私が守りたかったものを守ることは出来た。それは里の人間の幸福。それが私の一番守りたかったもの。
風の噂では里の守護者と呼ばれる者が現れたそうで、普段から人間と接せられる事に軽い嫉妬は覚えるものの、彼らの幸福を確約してくれるというのなら願ってもない事だ。
今の暮らしにも寂しさは覚えど、苦しくはない。私は、私の能力(ちから)で人間の幸福を守れるならそれでいいのだ。
それが、鍵山雛という一柱の神の存在意義であり、生き様だ。それは何者にも侵すことは許さない。
……。
…………。
………………。
それでも、人間と関わりたいと思ってしまうのは罪なのだろうか……。
# # #
――『厄神に近付くとその厄が伝染(うつ)る。故に近付いてはならない』
それは幻想郷の常識である。しかし、それを初めに口にしたのは、果たして誰であっただろうか――。
それは幻想郷の常識である。
# # #
私こと鍵山雛は厄神である。
厄とは生命に宿る負の要素であり、厄神はその厄を集め、蓄えることを役目としている。
その厄を最も身に溜め込み易いのが人間だ。これは人という種族が他の生物よりも優れている分、業の深い生き物である故の弊害なのかも知れない。
遥か昔、流し雛として人間の信仰を受け、次代の変化と共に幻想郷へと移り、私は神と成った。
神と成り思考を得た私は初め、人間という存在がよく分からなかった。
何故、そこまで厄を溜め込むのか? 何故、そうまで業が深いのか? 何故、それだけの厄を背負い、生きてゆけるのか?
自分の中で生まれた未熟な思考は疑問を生むことを止めはしなかった。神と成り、人よりも上位存在となった私からしてみれば、人間という存在は非常に脆い。だというのに、彼等は必死に生き足掻くのだ。それはもう滑稽に思えるほどに。
しかし私は人形の頃と同じく、人々の厄を溜め込むことを止めることは無かった。人間に対して疑念を抱こうと、私は自分を造ったとある平安貴族の『人々の厄をその身に受け入れよ』という命を、ただ愚直に守り続けた。
主人から命ぜられたから。そうあるように造られた存在だから。
そこに一切の感情・思考が介入することなく、私は人間から厄を集め続けた。
ただ定められた己の運命を受け入れる、それが人形のさだめ故に。
その、筈だった。
何時からだったであろう、私の家の傍に供物が置かれるようになったのは。
信仰を受けていた以上、供物を受けるのは初めてではなかった。しかし、過去のそれはどこか流し雛という儀式を行う為に準備をされていた物ということで、何処か当たり前の事のように思っていた。
だがこれはどうだろうか。名も存在も分からない自分の様な神に、人間は供物を捧げたのだ。
私はただ自分に与えられた命令を守っていただけ、誰からの見返りを期待していた訳でもない。人形であった頃の務めを果たしていただけなのに。
それなのに、人間は私に感謝の意思を示していた。それは儀式の時に捧げられた温かみの無い様な物ではなく、正真正銘、感謝という名の真心が籠もった供物だった。
私は再度、人間という存在が分からなくなった。
何故、私の存在を知っている? 何故、私のしてきた事を知っている? 何故、私なんかに供物を捧げる?
神である以上、人間からの一定の信仰が無ければその身を保つことは不可能である。当然、私もその事は知っていたが、気にも留めていなかった。
私は人形なのだから、壊れるまで自分に課せられた命令をこなせばいいと思っていた。そこに存在の継続という考えは一片も無かった。
しかし、供物を得たということは少なからず信仰を得ているという事であり、それは自身の存続が約束されたという事に他ならない。
彼らが何故、自分の存在を望むのか。己の存在を人形と思って憚らなかった当時の私は、疑問は募らせるばかりであった。
一夏が過ぎ、秋の景色が見え始めた頃。何度目かの供物を持ってきた里の者に私は問うた。
――『人よ。何故、私に供物を捧げるのです?』
当時の私にとって最も大きな疑問。
答えるなら相応の回答を期待し、答えないのであれば無理矢理にでもその口を開かせるつもりでいた。今となっては恥ずかしい事だが、当時はそれだけ私の頭を苛ませていたのだ。
里の者、人間で言う所の青年は酷く狼狽していた。確かに信仰の証を持って来ただけだというのに、その神に問答されているというのだから無理からぬ話であった。それも間違えは許さないという雰囲気であるならば尚更の事であっただろう。
一方は神、もう一方はちっぽけな普通の人間。両者の格の差は圧倒的だ。
それでも青年は答えた。抜け落ちそうな膝に喝を入れ、汗ばむ手を握り締め、震える喉を唾を飲み込むことで落ち着かせ、なよっとした感じの目を引き締め、私の問いに答えた。
即ち、
――『私たち人間はあなた様に感謝しているからです』
その答えは、思いもしなかった。予想外だった。驚天動地だった。空前絶後であった。
嘘だ、と過去の私は呟いた。ただの人形に人間が感謝するはずが無いと思っていたから。
しかし、それは違います、と青年は先程よりも力強い口調で否定した。
――『私たち人間はあなた様、厄神様に本当に感謝をしています。この供物は、我々からのあなた様へ対する感謝と信仰の証なのです!』
青年は呆然とする私に向かってそう言い切った。
彼は更に私に向かって言った。
最近になって怪我や病気になる里の人間が少なくなっていて不思議に思っていた事。
偶然村に来ていた先代の博麗の巫女に、私の存在とその行いを聞いた事。
そうまで人間の為にしてもらっていて、何もしないなど罰当たりも甚だしいという里の総意で供物を捧げに来た事など。
青年は最初の時とは打って変わって興奮したように捲し立てた。曰く、それは全部、私のおかげだと。
その後の事を私は、実はよく覚えていない。
里の青年を帰したまでは覚えているが、あまりに想定外の答えに混乱してしまっていた。
自分は神でもあるが、その実ただの人形だ。
おかしいではないか。
何故に人が人形なぞに感謝する?
何故に当たり前のことに感謝する?
そうあるように自分を造ったのは人間ではないか!
ただぐちゃぐちゃと、困惑と猜疑と怒りが頭の中を駆け巡っていた。おそらく、当時の私はこの時が最も思考を巡らせた時間だった。
長い長い答えの無い長考の末、ふと私は自分の中に浮かぶ知らない感情に気付いた。
それは先まであった困惑でも猜疑でも怒りでもない別の何かだった。
過去の私はとにかく戸惑った。未知は神の身になったといえど恐怖であったから。
己の存在を根底から覆させられかけたというのに、更にまだ何かあるのか、と。
だが、『今の』私ならそんな私を鼻で笑ってやれる。そんな事も知らないのか、と。
当時の私にとっての未知の感情、それは喜びだった。
そう、私は知らずに人間を愛していたのだ。
神でもあり、人間に尽くす為の人形という中途半端な存在である私に感謝を向けてくれる人間を、堪らなく愛おしい存在と思うようになっていた。
何時からかは覚えていない。でもきっと、あの時の未知の感情が切欠で。
――『中途半端でもいい。私は私という存在を受け入れ、人間と共に歩もう』
それは『私』という自我が出来た故に思えた事。その私を人間が呼び起こしてくれたから思えた事。
愛しい、愛しい、人間が……。
そう、この時から、私はどうしようもなく人間を愛して『しまった』のだ。
# # #
「雛様~」
ここ、幻想郷は処暑を迎えた所だ。山の中では蝉の声が五月蠅いぐらいに響いている。神といえども基本的な構造は人間と同じなので、この猛烈な暑さには辟易してしまう。
さて、あの私の存在を根底から覆した事件(?)から十数年が経った。あれからも私は里の人間から厄を集めることを続けている。それは今も昔も変わらない。
違いがあるとすれば、人間と私の距離が縮まった事だろう。そう、身も心も、だ。
「雛様、こんにちは!」
「佳耶(かや)、こんにちは。今日も来てくれたのね」
あれから十年以上経った今でも、人間は私のことを信仰してくれている。むしろ時間の経過と共に以前よりも信仰が厚くなっていたりする。
以前は私の家の前に供物を置いていく形式だったが、何年か前から直接私に渡すようになっていた。これが私と人間の距離を大きく縮めるに至った要因である。
そして今、私の下を訪ねてきたのは佳耶という里の女の子。十数年前、私との問答に臆せず答えた青年、与作の一人娘だ。
与作はあの後から今までも、私の下へと供物を捧げる役を担っている。どうやら里の方ですっかり定着してしまったようだが、私としても彼は友人の様な存在なので問題は全く無い。それは彼も同じだろう。
そして数年前から父親の後をちょこちょこ付いて来たのが佳耶なのだ。しかし、今日は件の父親が傍にいないのはどうしたことだろう。
「佳耶? 与作の姿が見えないけれど、まさかあなた一人で来たの?」
「ううん、途中まで博麗の巫女様に送ってもらったの。帰りも一緒だよ?」
「与作は?」
「お父さんは風邪を引いちゃったから、代わりに私が持ってきたのっ!」
「呆れた……」
そうやって誇らしげに私の問いに答え、籠に入れられた野菜などの供物を渡してくれる佳耶。ありがとう、と私はその小さな手から籠を受け取る。
とりあえずは安堵した。里の外に出てしまえば、人間は妖怪の格好の餌食となってしまう。ある程度の対処が出来る大人であればそう問題は無いのだが、佳耶のような女の子であればどうしようもない。
しかし、護衛に博麗の巫女が付いているというのであれば、その問題も無くなる。博麗の巫女は幻想郷における抑止力、下手に彼女に手を出す輩はこの幻想郷には存在しない。おそらくは里の者が佳耶の為に護衛を頼んだのだろう。
「与作ったら、先月あれほど風邪には気をつけろと言ったのに……」
「うん、お父さんも『これじゃあ雛様に顔見世出来ない~』って布団の中で唸ってた!」
「本当にどうしようもないわね……」
次にあの男が来たらその事で弄ってやろう、と私は心の中で誓うことにした。
でも、それよりも先に……。
「ひゃっ!?」
持っていた籠を地面へと起き、佳耶の小さく形の良い頭に手の平を乗せると、彼女は驚いたのか変な声を上げる。そんな所も可愛らしく、私はついその頭を撫で回してしまう。
「驚かせてしまったかしら?」
「うん、ちょっとびっくりした。でも雛様なら大丈夫!」
「あら、嬉しいことを言ってくれるわね。お礼にもっと撫でてあげる」
「ん~」
まるで日向で眠る猫の様に幸せそうに目を細める佳耶。そんな彼女が愛らしくて、撫でまわす私の手にもついやる気が入ってしまう。そして一層幸せそうにする佳耶。
この場に即席の幸せ循環地帯が発生した瞬間だ。
「って、何時までもこうしてるのは駄目ね。さあ佳耶、私の家にお入りなさい」
「ん~、私はこのままでいい~」
佳那はそう言って駄々をこねる。よほど頭を撫でてあげるのが気に入ったのだろう。
それは嬉しいし、私個人としても何時までも撫で回してあげたいのだが、今の季節は夏。神である私はそうそうバテることは無いが、人間でしかもまだ子供の佳耶では無理をさせる訳にはいかない。
「我が侭を言っては駄目よ。それに幸せは溜め込むもの、安売りするのは勿体無いわ」
こういった時はつくづく自分が神であってよかったと思う。何せ自然と言葉に重みがつくのだ。しかもそれが厄、一種の人間の幸福を司っている神の言葉なら尚更だ。
「むー、分かりました……」
「分かればよろしい。ほら、行きましょう?」
案の定、佳耶はしぶしぶながらも私の言葉に従ってくれた。元が聞き分けの良い娘なので予想通りとも言えた。
物欲しげな顔を浮かべる佳耶の頭をもう一度撫で、私は彼女に手を差し出した。物足りなそうな顔を一瞬浮かべたものの、瞬きの間に笑顔になって私の手を取る。
そんな仕草にどうしようもなく保護欲を掻き立てられながら、私は自分の家に彼女を招き入れた。
「それでね! お父さんったらべろんべろんに酔っぱらったまま帰ってきて、待ってたお母さんに怒られて外に追い出されちゃったの!」
「まあ、与作ったらどうしようもないわね」
「本当にね!」
娘にまで同意されてしまうのだから本当にどうしようもない話だ。
佳耶は私の家に入ってからはほとんど話しっぱなしだ。まあ、家に上がったからといって特別にすることは無く、結局は会話することになるのは至極当然の流れ。ついでに彼女が話し手で、私が聞き手であるという配役も。
普段、与作が来た時は里の人間の様子や里の状況などを教えてもらっているが、佳耶の話の内容は主に自分の家族の話だ。偶に友達とした遊びの話なども入ることがあるが、大半は家族との思い出話だ。
母親と一緒に料理を作った事。
父親と母親が喧嘩になり一方的に父親が負けた事。
お使いを頼まれたけど駄賃を無くして怒られた事。
父親と一緒に釣りをしに行ったら父親が石に躓いて池に落ちた事。
野良犬を怖がる自分の為に父親が追い払おうとして逆に追いかけ回された事。
大半は与作が碌な目に合っていないが、あの男なら問題無い事と自己完結し、話しの相槌を打つ。
それは何より佳耶の気分を害するような余計な茶々を入れたくなかったという所が大きい。彼女は本当に嬉しそうに自分の家族の話をするのだ。それだけ家族の事が好きなのだろう。
逆にその表情から彼女が家族から愛されている事も読み取れる。一人娘であるのもその要因なのかもしれない。
「雛様、私も雛様みたいになれるかな?」
一気に喋って喉が渇いたのだろう、佳耶は用意した茶を一口含んだ。そして、その後に少し意外な質問をしてきた。
「なーに、突然? 佳耶は神様になりたいの?」
私はつい問い返してしまった。人間が神になることは確かに可能だ。しかし、それは血統や力があってこそ初めてその道が拓けるのであり、非常に困難を極める。
子ども特有の好奇心からくる疑問とは思うが、とりあえずはその真意を問うてみた。
「ううん、別に神様になりたいわけじゃないよ? ただ、雛様みたいに私も里の皆の役に立てないかなって思ったの」
「ああ、そういう事だったの」
案の定、佳耶の答えは違った。ちょっと残念に思ったのは内緒だ。
さて、私の様に役に立ちたいと言うが、私の場合は非常に特殊かつ間接的なものなので、良い助言が浮かんでこない。
かと言って人間からの願いを聞き入れないというのも神の名に恥じるというものだ。だから私はありきたりな所で返してみることにした。
「そうね、今の佳耶では里の皆の役に立つのは難しいでしょうね」
「ええ、そんなぁ……」
「話は最後まで聞きなさいよ?」
私の否定に一瞬で表情を曇らせる佳耶。本当にこの子は感情の起伏が激しい。既に瞳が潤んでいるのが何よりの証拠だ。
若干の罪悪感を覚えながらも、抗議の声を上げようとする彼女を遮る。話はここからだ。
「確かにいきなり里全体の役に立とうというのは無理よ。でも安心しなさい、それは佳耶だけに限った事じゃあないの。あなたのお父さんもお母さんも、里の皆だって、あなたと同じ年の時にはそんなことは出来なかったわ」
「お父さんもお母さんも?」
子どもにとって親という存在は全知全能の存在に等しいという。与作はともかくとして、生みの親にも不可能があると知った佳耶の顔に驚きが浮かんだ。
「ええ、そうよ。あなたも、その当時のお父さんとお母さんも子どもなんだもの。出来ることはどうしても限られてしまうわ」
「じゃあ、私は役立たずってこと……?」
「ああ、違う違う」
ああ、言葉というのは本当に難しい。宥めるはずが逆に落ち込ませるてしまった。
佳耶の瞳には水滴が浮き始めている。拙い、と慌てて言葉を重ねる私の何と滑稽なことか。
「私は別に佳耶が役立たずだなんて言ってもいないし、思ってもいないわ」
「……本当に?」
「勿論、あなたは役立たずなんかじゃない。家族を思いやることの出来る孝行娘よ」
彼女くらいの人間の子どもで出来ることなんて本当に大したことではない。ましてや、里全体の役に立つなんて大人でさえも難しいだろう。
それが出来ないからと言って、自分を役立たずと思い込むなんてとんでもない話だ。大体、役立たずなんて言葉を何処で覚えてきたのだろう? 教えた奴の顔を張り倒してやりたい気分だ。
「私は、孝行娘……」
「そう、孝行娘。孝行っていうのはね、お父さんやお母さんのお手伝いをして日頃のお返しをすることなの。だから先ずはあなたの家族の役に立つことをしなさい。そうすれば、いずれは里の皆の役に立てる人になれる筈だから」
私は佳耶にそう説いた。何事も順序は大事だ。いきなりこれをやれと言われてこなせる者などそうはいない。下積みを積むことで初めて成し遂げられるのだ。
「……私に出来るかな?」
見上げる瞳には既に湿り気は無い。代わりにあるのは不安と期待が半分。だから私は佳耶を後押しする為に彼女の身体を抱き締める。
「出来るわ。だってあなたは家族を愛せる人だもの」
優しく佳耶の身体を抱き締めながら、私は確信めいた言葉を送る。
「うん……。私なら出来る……」
そう言って佳耶もその細い腕で私を抱き締め返してくる。
「ええ、きっと出来るわ」
「そうしたらお父さんもお母さんも、里の皆も喜んでくれるかな?」
「当たり前じゃない」
「じゃあ、私も雛様みたいな神様になれるのかな?」
――ええ、きっとなれるわ。だってあなたにはそれだけの力があるのだもの。
思いはするものの、私は口には出さず、ただ微笑んだ。
佳耶は十中八九、能力持ちだ。今はまだ目覚めてはいないが、私という神に触れ合うことで刺激されたのか、徐々にその片鱗を見せ始めていた。
そしてその力は軽く私を抜いてしまう事が分かっている。彼女がその力を十全に使いこなすことが出来れば、おそらくは本当に神になることだって可能だろう。
しかし、だからこそ私はその事を黙った。例え能力の事を話さなかったとしても、この場で私が肯定してしまえば、彼女はその道を突き進んでしまったであろうから。
それは佳耶という少女の意思の強さを知っていたからこその判断。私が安易に彼女の将来に干渉して良い筈がない。
私は佳耶が神になることには別に反対はしない。ただ、神になった後に後悔だけはして欲しくはないのだ。
幼い時期の決意一つを胸に、人としての全てを捨てて神となり、その果てに理想との違いに絶望などしては本末転倒でしかない。
あと数年が経ち己の力に気付いてから、人として生きていくのか、それとも神を目指し腐心するのか、ゆっくりと決めて欲しいというのが本心だ。
「雛様?」
返事を返さない私にいぶかしむ様子の佳耶。そんな彼女が本当に愛おしくて、先程よりも強く抱き締めた。
「佳耶」
「はい、雛様、何ですか?」
「あなたは自分の進みたい道を進みなさい。けれどゆっくりとね」
ゆっくりなどと言うが、人の寿命など私たち神からすれば一瞬でしかない。しかし、佳耶が自分の意志を見出すのには十分な時間だ。
そして、その時であれば私は彼女の選択を否定しないと決めている。だってそれは彼女自身が望む道なのだから。
「?」
「ふふっ、今はいいのよ。もう少し佳耶が大きくなった時に分かるから」
「はい……?」
よく分かっていない様子ながらも肯定する佳耶に私は、今はそれでいいと心の内で思う。いずれ必ず起こりうる事態なのだ。今から思い悩む必要は無い。
今ある問題と言えば、
「むに~」
「ああ本当、妹が出来たみたい」
この場に新たに生まれた第二の幸せ空間をどう打破するかであるが、特に問題は無いので更なる幸せを享受することに決定した。
ああでも、与作の娘というのは勘弁願うかしらね。
# # #
「それじゃあ、帰りますね」
「えぇ、与作にもよろしく言ってちょうだい。あぁ、あと送り迎えをしてくれた博麗の巫女にも」
「はい、わかりました!」
日もだいぶ傾き、辺りは朱に染まっていた。
夏で日が長いとはいえ、もう少しすれば妖怪たちの時間となり危険なので佳耶を家に帰すことにした。巫女も時間を見計らって来たのか、既に向こうで佳耶が来るのを待っている。
しかし、今日は思わぬ訪問者だったが、何時も与作と会話するのとは別の面白さがあった。それを鑑みれば、今日は本当に楽しい一日だった。
そう、件の可愛らしい訪問者が帰ることに寂しさを感じるくらいに。
「雛様、どうしてそんなに寂しそうな顔をしてるの?」
「え?」
まさか自分がそんな顔をしているとは思いもしなかった私だった。しかも、子供に気付かれてしまった。いや、この場合は子供の方が鋭いというし、頷けるのか。
「雛様、寂しいんだったら私がお家に泊ってあげようか?」
「えぇ?」
混乱していた頭に、更なる爆破物を投げ込んでくる佳耶。えぇと、と頭の中を整理すると、一瞬だが嬉しく思ってしまった自分が恥ずかしく思えた。
「気持ちは嬉しいけど、佳耶にはちゃんと帰る家があるでしょう?」
「でも、雛様さっき寂しそうな顔してたもん。私がいた時は雛様、そんな顔してなかったもん」
子供は理屈でなく感情を重視すると言う。
実際、事実なのでそこを突かれると非常に困ってしまう。しかし、人の子供を勝手に親の許可無く泊めるわけにもいかないし、それに何より、
「佳耶、あなたは孝行娘でしょう? あなたが家に帰らなければ、あなたのお父さんとお母さんを誰が手伝ってあげるのかしら?」
「あ……」
私との会話を思い出したのか慌てだす佳耶。彼女の心の中の天秤では、私と彼女の両親で揺れ動いているのだろうが、さっきの話の手前、どちらに傾くのかは分かり切った事だ。
「雛様は、寂しくないの?」
当然ながら天秤は両親の方へと傾いた。その事を若干残念に思うが、私は心を鬼にして佳耶の質問に答えた。
「ええ。一人でいるのは正直、もう慣れちゃったから」
「本当?」
「本当。でも、佳奈がいないのはやっぱり寂しいけどね」
ほんの少しの本音を交えながら。
「じゃあ、指切りしましょう?」
すると佳耶はそんな事を提案してきた。指切り、それは私でも知っている約束の厳守を誓う風習だ。問題は何故ここで指切りを提案してきたのかだが。
「指切り? 一体何を約束するの?」
「うん。今度来た時に必ず私を雛様のお家に泊める事!」
そうきたか、と心の中で呟いた。子供というのは存外に頭の回転が早い。私の悩みを解決する事と自分の望みを叶える為の手段、その両方を佳耶は自力で導き出したのだ。
佳耶は賢い子だが、まさかこの年でその考えに思い付くとは思いもしなかった。
私は素直に感心した。だから、私は彼女の話に乗ることにする。
「それはいいわね。分かった、今度来る時は佳奈を私の家に泊めてあげる」
「本当に!? それじゃあ、早く指切りしよう?」
「はいはい」
私が話に乗った事を本気で喜んでいる様子の佳耶。こういう所は年相応に子供なのだなとしみじみと思う。
そして、私は早く早くと催促する彼女の小指に、自身の小指を絡めた。
「指切り拳万~」
「嘘ついたら針千本呑ます~」
「「指切った!」」
最初の言葉を佳耶が、続く言葉を私が、そして最後は二人揃って宣誓し、勢い良く互いの指を振り切った。
「えへへ、これで約束は絶対だね」
「えぇ、私も針を千本も呑まないように気を付けるわ。佳耶も約束を破っては駄目よ?」
「破りません!」
叫びながらも嬉しそうに微笑む佳那。
佳耶との約束だ、与作との約束を反故しようと、佳耶との約束を違えるはずが無い。無論、万が一反故にしてしまった場合に、針を千本呑むこともだ。
「それじゃあ雛様、さようなら」
「はい、さようなら。次を楽しみにしてるわ」
今度こそ佳耶は博麗の巫女の方へと向かって行く。この時ばかりはやはり寂しいものだ。それは与作の時でも変わらない。
しかし、今は違う。次に佳耶が私に会いに来てくれた時には、我が家に泊めるという約束をしているのだ。それはとても素敵なことだ。そう、この別れの寂しさが吹き飛んでしまうくらいに。
それはきっと佳耶も同じ。だってあの子の顔も私と同じ笑顔だったから。
私たちは決して破ることの出来ない約束を結んだ。だから悲しむことはなかったのだ。
その破れぬ約束故に、悲しみが待っているとも知らずに。
# # #
あの約束からちょうど一月が経った。
季節は夏の峠を越え、緩やかに秋の兆しを妖怪の山にも見せ始めている。そろそろ秋を象徴する例の二柱も現れることだろう。
「それにしても残念ね」
視界を窓へと向ける。時は昼頃である筈なのだが、外は薄暗く視界は悪い。
そう、ここ数日は秋雨が続いているのだ。色付き目を楽しませてくる紅葉が、この雨で落ちてしまうのは実に残念だ。何より、
「この雨じゃあ与作も佳耶も来れないでしょうね」
与作は毎月の必ず決まった日に供物を持ってくるが、雨の日の時だけは例外である。
供物が痛むのが原因というのもあるが、雨で視界が悪くなった状態で、ただでさえ危険な山道を登るのは自殺行為に等しい。
晴れた日に改めてやって来る与作はこの事を詫びてくるが、当然の判断と言える。彼は人間、妖怪のように殺しても死なない存在では無いのだ。
しかし残念なのも本心である。山の天狗や河童と話す機会は多いが、人間と話す機会はこの時ぐらいしかないのだ。何より、今日は佳耶が我が家に泊っていくという約束までしていたので尚の事その思いは強い。
「はぁ、楽しみにしていたのに。本当、空気の読めない天気ね」
私程度の力ではどうしようもない自然の力につい愚痴を漏らしてしまう。
この天気をどうにか出来るとすれば、私よりも遥か上の神格を持つ神か、完全に能力を掌握した場合の佳耶ぐらいだろう。そこらの一柱の神程度ではどうにもならない。だから、私は天に向けて不満をぶつけることしか出来ない。
窓に向けていた視界を自分の部屋へと向け直す。そこは佳耶が来た以前よりも更に整い、何処か華やかになった部屋があった。
ここ数日、今日という日が待ち遠しくて居ても立ってもいられずに、部屋を整理した結果である。降り続く雨に、明日こそは止む筈と希望的観測に縋りながら作業を行っていたが、結局は徒労に終わってしまった。
はぁ、と溜息を吐き、不毛と分かりながらも文句を言おうと窓へと目を向けた。
「あら?」
するとどうだろう。先程までは無かった人影が、この雨が降りしきる中にあった。
人影から与作であろうと当たりをつけた私は彼を出迎えることにした。それにしても、随分と急いだ様子だ。雨具も持っている様子では無いので当然とも思えるが、この雨の中、雨具も持たずに果たして外に出るだろうか?
何故だか、私の心中に嫌な予感が蔓延った。急いで扉を開け、与作が家に着くのを待つ。彼は私の姿を見つけたのか、更に勢いを早め、雨の中を駆け抜けて来た。
「与作、あなた一体どうしたの?」
私は尋ねずにはいられなかった。しかし、彼は荒い息を吐くだけでなかなか答えようとはしない。
膝に手を着き、顔を俯けたまま何とか呼吸を整えようとしている。その姿はまるで野犬のようだ、と私は不謹慎にも思ってしまった。
はっ、はっ、という与作の息遣いだけが暫しの間、私と彼の間に流れる。
そして、ようやく呼吸が整ったのか、与作は顔を上げた。雨で濡れた髪が張り付き、長時間この雨の中を駆け抜けたのであろう、寒さからか青白い。
しかし、何よりその顔に浮かぶ感情、それは困惑と恐怖であった。普段から呑気そうな顔をしているこの男がどうしたらこのような表情を浮かべられるのか。嫌な予感がより強まる。
「雛、様……」
口から零れ落ちたような呟き。私はそれを聞き逃しはしなかった。
「ええ、私よ。一体何があったというの?」
「か、やが……、佳耶が……」
「佳耶? 佳耶がどうしたというの?」
その名前が出た途端、嫌な気配は最高潮に達した。
彼の様子からきっと佳耶の身によろしく無い事が起こったのだ。嫌だ、その先を聞きたくないと思うも、口は勝手にその続きを促してしまう。
「佳耶が、いなくなってしまったんです……」
そして、私の予感は『運悪く』的中してしまった。
# # #
「佳耶! 居るのなら返事をして!!」
私は雨の中、自分の領域でもある妖怪の山の中を走り回っている。
自分の出せる精一杯の声で呼び掛けるものの、雨の音と混ざってしまい、果たしてどれだけの範囲に聞こえているのかも定かではない。
それでも私は呼び掛ける。愛しい妹分の名を……。
――『全て、私が悪いのです……』
あの後、与作はそう言って崩れ落ち、震える声で事の次第を話した。
――『佳耶は……、今日という日をそれは大層、楽しみにしておりました。早く雛様に会いたいと、毎日毎日飽きずに呟いていました。
しかし、先日から降り続ける雨に私は、今日は雛様の所には行けないとあの子に話したのです。するとあの子は……、佳耶は怒りました。
ええ、今まで見せたことも無いぐらいに怒っていました……。幾ら宥めようとしても機嫌を直さずに、今日会いに行くんだ、そう約束したんだ、と言うばかりで……。
本当に情けない親です……。子供の癇癪と思い、もういい、と私が切り捨てると、あの子は家を飛び出して行きました。雨具も持たず草鞋だけを引っ掛けて、私の制止も振り切って出て行きました……。
慌てて里の者に探すのを手伝って貰ったのですが、結局今も見つからないままで……。あの時、私がちゃんとあの子を宥めていればこんな事には……っ!』
そう言って与作は声を殺して泣き始めた。その心の内は佳耶への罪悪感で一杯なのだろう。
だが、それは彼に限った話ではない。私自身も彼の話を聞いて、とんでもない罪悪感で心が満ちてしまった。
何故、指切りなどしてしまったのか。佳耶が責任感の強い子だと理解していた筈ではないか。それもそう言った約束事は決して違えるような子ではない、と。
理解したつもりでいた。しかし、本当は理解など欠片ほども出来ていなかったのだ。
そして、その現実がこれだ。今ならば針千本であろうと容易く呑みこめるだけの心境である。
だが、己を罰するのは後でだって出来る。今は佳耶を見つけることが最優先と、私は家を飛び出したのだ。
「佳耶ー! ……っ、本当に、一体何処にいるの?」
幾ら呼び掛けようと返ってくることのない状況に、次第に焦りが生まれてくる。
佳耶が妖怪の山に向かって来たのは十中八九間違いないだろう。しかし、一体彼女がどの辺りまで来ているのか見当はついていない。既に山の中に入っているのか、それともその道中や近辺をうろついているのか。
そこで私と与作は二手に分かれて佳耶を探すことにした。山の地理に詳しい私が山の中を捜し、彼にはもと来た道に佳耶がいないかを確認してもらっている。
通い慣れているとはいえ、与作一人で大丈夫かとも思ったが、博麗の巫女が捜索に協力してくれているという事なので問題は無いだろう。
現状、問題があるとすればこの山の広さ、そして振り続けるこの雨だ。天狗や河童、その他多くの妖怪が住処とするだけあって、この山の土地の広さは半端ではない。
その中を私一人で捜すというのだから、事態は恐ろしく困難を極めている。更に厭らしい雨が視界を悪くするのだから堪ったものではない。
私はともかく、人間である佳耶にはこの雨は身体を冷やし、体力を奪う毒となる。見つからない現状と佳耶の身の心配で、私の中の焦りは加速的に増していく。
「こうなったら……」
ここは時間の消費を犠牲にしてでも、天狗や河童に捜索の協力をしてみようか。
河童は人間に対して比較的友好であるし、天狗は渋るだろうが、自分の領域で問題が起こるのを見過ごしはしないだろう。どうしても頷かないのであれば土下座でも何だってしよう。
そうだそうしよう、と心の中で決心し、いざ山の上へと私は足を向ける。
と同時に、それは聞こえた。
――ぴちゃっ……。
雨が地に落ちる音よりは大きく、けれど然程大きいとも言えないその音は、何故か私の耳に届いた。
はて、と思いながらも、水溜りにでも水滴が落ちたのだろうと結論づけ、再び山の上へ登ろうと脚を上げようとした。
――ぴちゃっ、ぴちゃり……。
またもその水音が私の耳朶を打つ。
気にするな、と歩を進めようとするが、何故か違和感を覚えてしまった。先程の水音、水滴にしてはやけに粘着質な音ではなかったか?
いや、そんな事はどうでもいい、と私はその違和感や疑問を振り払おうとする。しかし、それは私を逃がしてはくれなかった。
――ぴちゃっ、ぴちゃぴちゃり、ずずっ……。
決して自然現象では混じるはずの無い、何かを啜るような音が聞こえた。
私は理解してしまった。これは水滴では無い。別の何かを何かが舐め、啜る音だと。
私はふらふらとその音が聞こえる方へと足を向けた。ちょうど目的の反対の方向だ。
――ずずっ、ぴちゃっ、ずしゅっ、はふっ……。
否定はしていた。でも頭の何処かで分かっていたのかもしれない。
――ぐしゃっ、ずるっ、びちゃちゃっ、ずりゅっ、ほふっ……。
でも、理解したくなかった。子供のように、感情が理性を抑えつけたのだ。
――ずずずっ、ばりっ、ぐしゃっ、にちゃっ、はふっ、ぴちゃっ、ねちゃっ……。
何故かって? それは……、
――ばりっ! ぐしゃっ! べちゃっ! にちゃっ! がふっ! ずしゅっ! ぶしゅっ! はふっ! ずずっ! ずぞぞおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!! ずっ!
「あん? 俺の食事中に何のようだい?」
――その先にあるのは、きっと変わり果てた姿の佳耶なのだから。
「あ……」
その姿を見た時、私の身体はついふらついてしまった。
私は妖怪の山に住んでいるだけあって、そういう目に遭った人間の姿を見るのは初めてではない。無論、気分が良いものではないが、既に見慣れてしまっていると思っていた。
だが、違う。慣れたなんてとんでもない。目の前の佳耶の姿に、私はどうしようもなく心を揺さぶられていた。
元気に走り回っていた両の脚は不自然に折れ曲がり、骨が突出している。
無駄な筋肉とは無縁であった腿は、まるで虫食いにあったようにぼろぼろになっている。
すべすべと触り心地の良かった腹は、無残に引き裂かれ、五臓六腑の全てを回りに露出させている。
私を包み込んでくれたあの優しい腕は、右は肩から引き千切られ、左は今や骨だけと化している。
そして顔。幸いにも、ここだけは変わりは無かった。そう、その瞳に曇天の色を宿している、それ以外は……。
「あぁ……」
私は崩れ落ちた。遅かった、全てが遅過ぎたのだ。
神なのに、私は神である筈なのに、人間の少女一人守り切れなかった。その事実が私をどん底にまで突き落とす。
「ええと、人の食事中に訪問とか何ですかあなた。新しい餌候補の人ですかー?」
この惨状を引き起こしたであろう妖怪が私に話し掛けてくる。だが、聞こえない。こんな下郎の声など聞こえる筈が、いや待て。
「……餌? 今、餌と言った?」
「ああ、そうだよ。それは餌、そしてあんたは新しい餌、ってあんたよく見たら神様じゃんか。しかも厄神とか、喰えねーよ」
何かぶつぶつと世迷言が聞こえた気がするが、この際は気にしない。重要なのは佳耶を指して餌と言ってみせたことだ。
「餌? 餌ですって!? よくもそんな事が言える! この子は貴様のような下劣な妖怪が手を出していいような存在ではない!」
佳耶を侮辱されたことで、私の心に今までに無い程の激情が駆け巡った。
一刻でも早く目の前の下郎から佳耶の亡骸を離したい。このままでは彼女の身に穢れが移ってしまうように思えたから。
しかし、下郎はそんな私の思いなど知ったことかと話しかけてくる。いや、事実どうでもいいのだろう。
「お宅の事情なんて知らないよ。その餓鬼は里の人間なんだろうが、その外を出てしまったら俺たち妖怪になにされようと仕方ないって。それがここの常識でしょ常識!」
犯すも食すも自由なのさ、と何が面白いのか目の前の下郎はそう吐き捨てる。
確かにこの下郎の言う事はここ幻想郷では正しい。だが、目の前で自分の親しい者を喰われて気炎を上げない訳がなかった。
幸い、下郎は私でも難なく倒せるだろう。だからこの下郎を倒してでも佳耶の身を連れて帰り、早く弔ってやりたかった。それだと言うのに、
「ってかさ、そんなに大事なら何でちゃんと手綱握ってなかったわけ?」
その一言が私の心に突き刺さる。佳耶を家畜の様に扱った事は置いておくものの、不本意ながらも、確かにその通りなのだ。
私がちゃんと佳耶の事を理解していれば、彼女の行動を先読みし、こんな悲惨な事態を招くことは無かった。こんな下郎に喰われることも!
「うるさい! 貴様に、貴様なんかに何が分かる!!」
もう私の口から出るのは、子供が逆上した時の様なただ感情任せな言葉だけだ。如何に自分が惨めなことをしているのか分かっていても、想いを吐き出さずにはいられなかった。
「おいおい、図星を突かれたからってそんな怒んなくてもいいじゃんかよ」
軽薄そうな雰囲気と顔でそうのたまう下郎。こいつは私が逆上する姿を見て楽しんでいるのだろう。本当に存在するだけで不愉快を通り越して殺意すら湧いてくる。
「まあ、俺も腹は膨れたから良いけどね。このままじゃ怖ーい神様に祟られちまう」
「御託はいいからさっさと失せなさい……!」
「おぉ、怖い怖い」
私は本気の殺意と共に下郎を睨む。次に私の逆鱗に触れようものなら、本当に殺しかねない、その確信が私にはあった。
奴も私との実力差、雰囲気を感じ取ってか立ち去る素振りを見せる。そう、それでいい。そして二度と私の目の前に現れるなと念じる。
「そう言えば、あんた厄神なんだよなー」
「……それがどうしたと言うの」
私の中の激情は鎮まったわけではなかった。ただ無理矢理に抑え込んでいただけ。
だから、私は正常な判断を失ってしまっていた。だから、私は下郎に言葉を返してしまった。
「いや、その餓鬼が俺に喰われちまった原因ってさあ、あんたじゃねえの?」
「え……?」
こいつは、一体何を言っているんだ?
「だから、あんた厄神なんだろ? その身には厄を溜め込んでんだろ? だったらよう、――その厄が誰かに伝染(うつ)っちまってもおかしくないよな?」
いや、待て。こいつは本当に何を言っているのだろう?
「あんたその餓鬼をそれはそれは大事に可愛がったんだろう? 触れ合ったりしたんだろう? だったらほーら、厄が伝染っても何もおかしくない」
ははっ。それではまるで、
「つまりさぁ、その餓鬼はあんたが殺したも同然ってわけだ!」
私が佳耶を殺したと言っているようなものではないか。
「可哀想に。厄神に出会わなければ! 厄神に触れなければ! 厄神と話さなければ! 何より、厄神に愛されなんかしなければ! 俺みたいな奴に喰われることもなかったんだろうよぉ! おお、あわれあわれ。ぎゃははははははははははははっ!!!」
下郎の下卑た笑い声が辺りに響き渡る。
「ふ、ふふ……」
私の口から自然と笑いが漏れる。笑える筈がないのに、どうしてだろう。
「ふふ、あははっ……」
いや違う。私は気付いた。この状況がどうしても笑わずにはいられないという事を。
「ははははははっ! あははははっ! あーっはっはっはっは!」
この下郎は本当に大した奴だ。私が意図せず考えないようにしてしいた事をあっさりと見抜いてみせたのだ。
それに先程までの私との遣り取りの時も、私は終始、会話のペースはこの下郎に握られっぱなしであった。こいつはただの下級妖怪の分際で私と対等以上に渡り合っていたのだ。
こんな出来事を笑わずにいられるだろうか。いいや、私は笑わずにはいられない。
いやいや本当に、
「何だ気でも狂っちまったか? 神って言っても大したことないんじゃ、がふっ!?」
本当に、何処までも私の気を逆撫でてくれる奴だ。
「て、めえ……! 俺に何をしやがった!?」
「口を閉じなさい下郎。貴様は私の話を聞いていればいい」
何か屑が喋っているが、私の耳には届かない。
しかし、最近の技術の発達は著しいものだ。動いて話をする芥など私は初めてだ。まあ、それに離し掛ける私も大概か。
「はっ! 俺を殺す気か? やれるもんならやってみろよ!その代わりに俺は抵抗してやるからな! てめえの大事な大事な餓鬼を傷付けてよぉ!
俺は死ぬかもしれんが、どうせ暫くすれば生き返るんだ! でも餓鬼はどうしようもねえ、きっともっと汚ねえ身体になっちまうだろうなあ!?
それでも俺を殺すか!? てめえが今更無何をしようとなぁ、結局は俺の大勝利なんだよ、馬鹿が!!」
本当によく喋る屑なものだ。ただし品性の欠片も無いのか、その言葉のほとんどの内容が私には理解することが出来なかった。
とりあえず、かろうじて理解出来た言葉を拾い上げ、返事をしてやることにする。
「殺しはしないわ、死ぬよりも辛い目に遭ってもらうだけ」
「な、何を言ってんだっ!? どういう事だ、おいっ!」
「いい? 貴様に私が今まで溜めておいた厄を植え付けた。えぇ、上の神々に献上する分のほんの十分の一程度よ。
だからと言って安心しては駄目。さっきも言ったけど、貴様にこれから待ち受けるのは地獄のみ。一片の幸福も救いも無いと思いなさい」
私としては理解できる範囲の言葉で懇切丁寧に説明してあげたつもりではあったのだが、如何せん所詮は塵芥に過ぎないのか、ぽかんと口を開け、白痴のような醜態を晒している。見ているだけで不快が増していくというものだ。
やがて、ようやく亀の歩み程の早さで思考が追い付いたのか、顔にあたる部分を赤に染めながら喚き出した。
「なっにを勝手なことしてくれてんだよ、このクソアマが! だらだら喋ってないで早くその厄を……!」
「もう貴様と話す事はないわ。とっとと失せなさい」
もう話す事は話したので用は無い。一体どうして塵芥に過ぎない下郎に手や耳を貸す必要があるだろうか。
「ふざけ……!」
「聞こえなかったの? 私は、失せろと、言ったのよ」
「……っ、畜生がぁ!」
口汚い言葉を残し下郎は去って行ったが、心底どうでもよかった。奴には一つの生命が持つには不相応な量の厄を移しておいた。然るべき罰は勝手に下るだろう。
「……佳耶」
下郎の事などは既に記憶の彼方に消え去り、私の目には佳耶だけが映っている。
記憶よりも重みを失った身体を優しく抱き上げる。彼女には弔う前に行く場所がある。
彼女が愛し、彼女を愛した神の住まう家だ。
「さあ、行きましょう。約束通り私の家に招待してあげる」
雨は今も降り続いている。それは火照った身体を冷やすのに丁度よかった。
しかしどうしたことだろう。
顔に降りかかる水滴だけは、何故か仄かに温かかった。
遠く山の何処かで何かの悲鳴が響いたが、私達には関係の無い事だった。
# # #
時間は人間や神の間に起きた出来事など気にも留めず過ぎ去って行った。
あの日から更に一月が経ち、妖怪の山は本格的な山の賑わいを見せている。窓の外に映る紅葉は見事な朱に染まり、見る者の心を虜にすることだろう。
だが、私の心には何の感慨も浮かんでこない。ただ、この紅葉を佳耶と一緒に見られたらと、もはや叶う事の無い空想に耽るばかりである。
あの忌まわしい出来事の後、私は佳耶を家に連れて帰った。彼女が来る事を望み、その望みに応えるべく色々な施しを行った我が家であったが、客人が目を開け、喜んでくれることは無かった。
私はそれでもと、血や色々な体液が染み込むのも構わず、布団に佳耶を寝かせた。後から来る与作に娘の今の姿を見せたくなかったのもあるが、少しでも彼女の願いを叶えてあげたかったからだ。
私達が戻ってから一刻ほど経った頃、与作が戻って来、我が子の冷たくなった姿に涙を流した。
わんわんと子どもの様に声を上げ、何度も佳耶に目を開けるように懇願するも、彼女がもう二度と目を開けない事を悟ると、今度は声を押し殺して泣き始めた。
暫しの時間が過ぎた時、与作は掠れた声で『ありがとうございます……』と私に向かって言った。
私は何も返すことが出来なかった。ただ木偶の人形の様に親子の傍に居続けることしか出来なかった。
今日はあの忌まわしい出来事が起きてちょうど一月。あの日とは対照的に秋らしいカラッとした天気であり、つまりは与作が供物を届けに来るには絶好の日である。
「雛様、供物をお届に参りました」
もう何度聞いたかも分からぬ、何時も通りの与作の言葉。それに導かれ、私は扉を開け彼を出迎えた。
一月振りに見た与作は、以前よりも少し痩せ憔悴した印象を受けた。が、一人娘を失ったのだ。それも無理からぬ事と考え、私も変わらぬ言葉で彼を出迎える。
「与作、何時もありがとう」
「いえ、これが私の仕事ですから」
与作もまた何時もの言葉を返してくるものの、少しこけた頬で笑みを浮かべる姿が見る者に痛々しさを感じさせる。でも、それはきっと私が今浮かべている表情にも言える事だろう。
前まではこの顔触れが普通だった。だが、ほんの少しの間に一人面子が増え、そして唐突に減った。たったそれだけ、たったそれだけであるはずの事が、私達の間にどうしようも無い程の陰を生んでしまっていた。
それでも、私は努めて何時も通りに里の状況や人々の様子を尋ねる。彼と過ごすこの時だけは、せめて楽しい時間でありたいから。
何より人間とこうして過ごせる時間はもう少ないのだ。与作はどこまで理解してるのか、やはり何時も通りに近況を話してくれた。
「と言うわけで、今年も豊穣神様のお陰で冬を越すには十分な量を収穫することが出来ました」
「そう。それじゃあ私からも感謝を言っておかなくてはいけないわね」
「それが良いかと。それと私事なのですが……」
「あら、何かしら?」
供物の中身を見て私が豊穣神への感謝を検討していると、与作が珍しい言葉を口にした。
彼は別に暗い過去があるとかそういった事は無いのだが、自分の事やその周りの話しをする事はあまり無かった。
それが少し改善されたのは彼に娘が出来、その娘の話しをするようになった時からだ。無論、話しの内容はその娘の話しばかりであったが。
つまり、与作の話というのは、
「先日、佳耶の葬儀を執り行いまして、立派な墓を建ててやることが出来ました」
「……そう」
「はい。土の下に入るには些か早過ぎましたが、あれはきっと幸せだったと思います」
「……何故そう言えるの?」
「えぇ、何故なら佳耶は神様に愛された子でしたから。そんな子が幸せじゃなかったはずがありません。
佳耶本人も恐れ多くありますが、雛様をまるで自分の姉であるかのように自慢げに語っておりました。『今日は雛様とお話をした』とか『雛様に入れて頂いたお茶は今までで一番美味しかった』とか、他にも……」
「ねぇ、与作?」
それ以上は、耐えられなかった。
「はい、何でしょうか?」
「どうして佳耶があの日、あんなにまで私の所に来たがっていたか、あなたに分かるかしら?」
「それは……」
与作の顔が僅かながら歪んだ。おそらく、あの日の佳耶との遣り取りを思いだしているのだろう。
そして、与作はきっとそれは自分が悪いとも思い込んでいる。でも、それは違う。あなたは悪くないのよ、与作。
「それはね、私と佳耶が約束をしていたからなの。あなたが来れなかったあの日に」
「約束……」
「そう。佳耶が私の家に泊るっていうね」
初めて聞いたのだろう、与作の顔には驚愕が浮かんだ。
「その顔じゃ知らなかったみたいね」
「し、しかし、いくら約束とは言っても……」
「佳耶はあなたの娘。だったら父親のあなたがあの子の性格を知らない訳がないでしょう? あの子の責任感の強さなんかも全部」
そう、私の知らない佳耶だって与作はたくさん知っている。そんな彼なら娘が約束を違えるような娘でない事を承知しているだろう。
「勿論、私も佳耶のそういった部分は知っていた。いいえ、知ったつもりでいただけ。あの子の責任感の強さ履き違えて、安易に約束なんかしてしまった。
分かるかしら? もし私が佳耶の事をもっと知っていて、その上で約束なんてしなければ、佳耶は……、佳耶は妖怪に喰い殺されることなんてなかった……!」
あの時のように私の心は激情に支配されてしまう。ただ支離滅裂に己の罪を吐き出していく。
それは懺悔なんて厳かなものではない。罪人が隠していた事実を公で供述するのに等しい。
「与作、あなたは私が佳耶を愛したと言ったわね。それに間違いは無いわ、私は確かに佳耶を本当の妹、家族のように愛していたわ。でもね、その佳耶を愛した神がいなければ、その神と約束なんてしなければ……」
何より、
「その神が佳耶を愛さなければ、佳耶は死ぬことはなかった。元凶はあなたの目の前にいる。あなたはその愚かな神を恨むかしら?」
恨むに決まっている。いや、恨んで欲しい。
与作には私を恨む権利、いや権利なんて言葉を私が使うのもおこがましいか。そう、与作には私を恨むには十分過ぎる理由があるのだから。
だと言うのに、
「ははっ、私が雛様を恨む訳がないじゃないですか」
「どうして……? だって、佳耶は私が殺したも同然なのよ!?」
記憶の彼方に消えた筈の何処ぞの下郎の言葉が、今この時だけ舞い戻って、今度は私自身の口から出てきた。
それは私にとっての猛毒でもあるが、これでいい。たとえ与作が私を肯定してくれようが、私自身が否定すればいいのだ。
そうすれば、与作は私を恨んでくれるはず。いや、恨んで欲しい。お願いです、恨んでください。
「客観的に見れば、そういう捉え方も出来るのでしょうが、生憎、私はあまり頭がよろしくなくてですね。主観でしか物事を考えられ無いんですよ」
「はぐらかさないで! 私は……」
「はぐらかしてなどいません。私は雛様が悪いだなんて思いません。だから私はあなた様を恨む気持ちなど、これっぽちも持ち合わせておりません」
「でも……」
「あまりご自分を卑下なさらないでください。それに私が雛様を恨むなんてことをしたら、佳耶に怒り顔で夢枕に立たれてしまいます」
あの子には死んでも笑顔でいて欲しいですからね、と与作は笑いながらそう言った。
あぁ、最初から分かっていた。優しい与作が私を恨むことがある筈がないと。
恨んで欲しいなどと思っておきながら、結局は許しの言葉が欲しかっただけなのだ。自分が救われたい故に。本当に我ながら何と浅ましい神だろうか。
だから、この夢のように優しい時間はもうお終いにしなくてはいけない。
「そう。ありがとう、与作」
「いえ、私は何も……」
「いいえ、今まで、本当にありがとう。」
え、という与作の声が耳元で聞こえる。腕からは与作の若干高いように思える体温が服越しに伝わってくる。胸に耳を当てれば、おそらく突然の状況に早まっているであろう彼の鼓動が聞こえるだろう。
つまり今、私は与作に身体を寄せているという状況にある。
「ひ、雛様!? 一体、何を……!」
「いいから、このままで私の話を聞いて頂戴」
「は、はい」
腕の中で暴れる与作だったが、私の言葉に乗せた感情を読んだのか途端に大人しくなる。こういう聞きわけが良い所は親子一緒なのだなと思わされる。
「今から言う事を聞けば、あなたは必ず反対するわ。でも卑怯だとは思うけど、あなたにはそれを理解した上で私の言う事を受け入れて欲しいの」
「必ず、ですか……」
「ええ、必ず」
本当に卑怯だ。
さっきまでは拒絶されたいと思っていたくせに、自己を肯定されれば拒絶されることを恐れてしまう。
しかも自らの手で相手の拒絶という手札を切り捨てさせ交渉の場に立たせているのだから、傍から見ればまるで詐欺でも行っているように見えるだろう。
そんな汚い詐欺師の甘言にあっさりと乗ってしまう与作は、きっと格好のカモだ。その純粋なカモに詐欺を図らなければならない私の心は、申し訳なさで雁字搦めにされる。
「承知しました」
「……もうちょっと深く物事を考えなくてはいつか痛い目に遭うわよ?」
「たはは。それだけは多少は長く生きてきましたが直らなくて」
「ふふっ、何を言っているの。私からすればあなたなんて赤子と一緒。思考なんてしてないも同然よ」
「違いありません」
しかし、それも与作と話せば解けてしまった。
人間という生き物は本当に不思議なものだ。私を造り人形に仕立て上げたかと思えば、私に感情を呼び起こさせもするのだから。
「さてと、覚悟は出来たかしら?」
「えぇ、どんと来いです」
「頼もしいわね。でも、先に断っておくわね」
「へ、何を……」
「ごめんなさい」
私はそんな人間が好きだ。
「与作。私はこれから自らに厄を纏い、何者との交流も断ちます。それは人間も妖怪も神も、勿論あなたとの今までの関係もです。これは私なりのけじめ、あなたには理解して欲しい。そして、里に帰ったらこうも伝えて欲しいの」
私はそんな人間が大好きだ。
「 」
だからこそ、私は自ら拒絶という道を選ぶ。
「そ、そんな……」
「否定は許さないわ。それはあなたも承知したでしょう」
「で、ですが雛様……!」
顔を見なくても分かる。与作の顔はきっと青褪めている。主人の心の動きに忠実な身体は、その心情を表すように私に震えを伝えてくる。
「これが最善なのよ、きっと。あの下郎が言った事を鵜呑みにする訳じゃないけれど、人と神が近過ぎるのはきっといけない事なのよ」
「しかし……!こんなのって、酷すぎます……!」
与作の声に嗚咽が混じる。それでも私が言葉を止めることはない。
「いえ、それも逃げに変わりないわね。正直に言うとね、私はあなた達が死んでしまうのが耐えられないの。あなた達は私とは違って寿命という定められた命がある。
勿論、それは私も理解しているつもりなんだけど、私の子どもの部分が駄々をこねるのよ。『もう大事な人間が先に死ぬなんて耐えられない』ってね」
「そうだとしても! 酷すぎます! お恨みします! 私に……、私にそのような事を伝えろなど……っ!!」
遂に与作から恨むという言葉が飛び出した。待ち望んだ言葉ではあったが、些か遅過ぎた。
「確かにあなたには酷なことを頼むことになるわね。でもね、与作? 私はあなただからこそ、こんな事が頼めるのよ。私に最も近しい場所に居た人間、そんなあなたにだからこそ私は託すの。他の誰でもない、与作、あなたにね」
「うっ、うあぁぁぁ……」
あの日の様に与作の膝から力が抜け落ちそうになる。が、それは私が許さない。彼には私が託した最後の使命があるのだから。
「ほら、自分の脚でしっかりと立ちなさい。私が友と認めた人間はそんなに弱くないはずよ」
「うっ、ぐっ……」
「そう、それでいいのよ」
「雛様、俺は……」
「伝えてくれるかしら?」
「っ、はい……!」
まるで幼子をあやす様に与作の背を摩っていた私だったが、そこにいるのは成人の男性であり、その声には年相応の落ち着きと覚悟が宿っていた。
「ありがとう。これで私も心残りが無くなったわ」
「申し訳ないです」
「問題ないわ。悩み成長するのが人間の仕事。悩んでもそこで停滞してしまう私達、神とは違ってね」
「いえ、そんな事は……」
「いいのよ、事実だもの」
最後の会話だというのに、何とも色気の無い話である。まぁ、私と与作の間で色のある話があっては問題しかないのだけれど。主に与作が。
「さぁ、そろそろ最後にしましょう。あまり長引いても尾を引くだけだもの」
「全くその通りです。ここにいると、つい昔の事を思い出してしまう」
「それは帰ってからにしなさい。厄神という災厄の神との思い出を、ね」
「いえ、最高の神の間違いでしょう」
そう言って二人でくすくすと笑い合う。あぁ、やはり私たちはこの間柄が一番心地良い。
しかし、それも長引かせては一種の薬の様に毒にしかならない。だから別れは迅速かつ簡潔に。
「さようなら、私の大好きだった人間」
「さようなら、私の大好きだった神様」
そうして私は彼の胸を突き、能力を解き放つ。
与作は数歩後ろによろめき、そのまま後ろを振り返ることなく走り去った。
後に残るのは厄神という神の端くれが一柱。山の上から下りてくる風に服を弄ばれながらその場から一歩たりとも動かない。
「ありがとう、私の愛した人間たち」
それは正しく、人形と呼ぶに相応しい姿だった。
# # #
私が厄を身に纏うようになってから、更に数百年が過ぎた。
当然のごとく与作たちの代の人間は死んでしまい、今の里に住む人間たちはその数世代後の孫たちということになる。それでも今だに供物が家の前に捧げられるのは予想外でもあり、嬉しくもあった。
とはいえ、与作が使命をしっかりと果たしてくれたおかげで人間(例外もいるが、あれを人間の枠に当て嵌めるには無理がある)が私に近付くことはなく、一部の力ある妖怪や神を除いての接触もない。
かつて私は人間に近付き過ぎた。それが原因で私は大事な存在を失った。同時に、その関係も断つことにした。
失ったものは大きかった。けれど、私が守りたかったものを守ることは出来た。それは里の人間の幸福。それが私の一番守りたかったもの。
風の噂では里の守護者と呼ばれる者が現れたそうで、普段から人間と接せられる事に軽い嫉妬は覚えるものの、彼らの幸福を確約してくれるというのなら願ってもない事だ。
今の暮らしにも寂しさは覚えど、苦しくはない。私は、私の能力(ちから)で人間の幸福を守れるならそれでいいのだ。
それが、鍵山雛という一柱の神の存在意義であり、生き様だ。それは何者にも侵すことは許さない。
……。
…………。
………………。
それでも、人間と関わりたいと思ってしまうのは罪なのだろうか……。
# # #
――『厄神に近付くとその厄が伝染(うつ)る。故に近付いてはならない』
それは幻想郷の常識である。しかし、それを初めに口にしたのは、果たして誰であっただろうか――。
うーん、このなんとも言えぬもやもやが、できのよさを物語っているのか。
ありがとうございました。次回策にも期待しております。
今後の作品にも期待