『夢』というものを意識したことがあるだろうか。
心理学だとかメスマーだとか、そんな些事などでは無い。
漠然と渺茫で構わない。捉えようとしたことはあるか?
どんな夢物語、御伽噺、荒唐無稽すら自身の手で触れると錯覚したことは?
或いは本来不可能な動作を――喩えるならば空を自由に飛ぶ、などを知覚したことは?
或いは、過去経験したことがある動作を同じように繰り返したことは?
そこは鬼哭すらも届かぬ虚ろな深淵の果て。黒とも虹色もつかぬ瞼裏の色が蔓延る空と大地。雲が有り得ぬ蠕動を繰り返し、地面は一歩踏み出す度に水風船を潰したようで安定しない。ぽーんと単調な金管楽器の音色に合わせ、不安定な不協和音が頭蓋の裏側まで耳朶を超え浸食してくる。重油が敷き詰められたような、髪が燃えるような腐肉と腐臭が横溢した夢色。
即ち絶望の猖獗地。
懊悩する少女が、一人横たわっていた。
その少女の色は銀。撒き散らされた不純物の上で、昼寝でもするように微睡む様は天使宛らで。彼女に触れようとした刹那。
それらは瓦解した。シャボン玉に触れる時の様に、瞬きすら凌駕する須臾の隙間。
紅蓮。父の泣き顔。銀嶺の髪。墨絵のようなお姫様。慧音。小さな刃。真っ黒なバイク。姉の亡骸。悪意の拡散。セーラー服の少女。
少女は夢を見たのだから翹望するのもまた自由というものだ。
あくまで夢。努々、現実と混同されぬようにと、戒めを。
○
雲雀の歌声が、遙か遠くで聞こえたような気がした。
「……っ」
痛み。頭が締め付けられるように痛むが、不愉快という気分はしない。
鉛が乗った様に重い瞼をこじ開けると、既に銀色の太陽が高々と輝いていた。
「あ……」
真昼だった事に些か驚いてしまった。
「寝過ぎた……というか、酔いすぎた……っ」
追憶すれば――嗚呼と合点。そうだ、昨晩慧音と晩酌を交わして……。
「慧音……?」
違和感。何年経ってもお酒には弱い私と違って慧音はそれこそ笊なのだ。その彼女がまだ私の褥の横で臥せっている。
「慧音。どうしたの?」
「…………」
返事が無い。
「慧音っ!」
「ぁ……うん……」
風切り音の様な掠れた声色。いつもの彼女らしい飄飄としたつかみ所の無い雰囲気と、得意げなご高説が無い。というか頬が赤いし呼吸も安定していない。
「もしかして、風邪?」
「む……そうだな、恐らくは風邪だろう。特有の精神と身体の狂いは懐かしいものを感じるね。置き薬とか、なかったかな」
ガラガラな声でなにやら呟いているが、やめておいた方がいいんじゃないかな。心配をよそに虚ろな瞳を携えた儘、上体を起こす慧音は、
「……ぁ」
しかし途中でパタリと崩れ落ちてしまう。膂力が圧倒的に足りていない、というか!
「とりあえず寝てて。動いちゃダメだよ」
敢えて彼女の行動を禁則する私も私で若干、体調万全とはいかないのだが。まぁ程度は彼女よりは遙かに軽いだろう。
「合点承知……、だが、しかしね。私は私で明日の職務の準備をしなくてはならないのだ。嗚呼、悲しいかな、名取すらも全う出来ぬとは、先代の宇佐見先生に顔向け出来な――」
「そのしゃべりも禁止。大体疲れるでしょ」
「……む。ソレは困る」
「言い訳禁止!」
慧音はぶつくさ言いながらも、ぞもぞと布団に潜り治す。しばらくすると寝息を立て始めた。
「寝てれば大丈夫だよね……?」
よもや、寝ながら説教するほどお節介魔神では無いだろう。多分、ないんじゃないかな? それはともかくとして。
とりあえず、薬を取りに行かないと。
○
ここはどこだろうか。
居場所すら見失うのは相当疲れがあるのだろう。景色が幾何学模様を描いては消えていく。私を呼ぶ声がする。
「――先生!」
うっすらと視界を開拓していく。浮かび上がるシルエットは二つ。見慣れた赤毛のショートヘアとゴシック調のワンピースドレス。未熟ながらも整った顔立ちは不安一色。
私は彼女の名前を知っている。
「霧雨魔“梨”沙」
彼女はしがない寺子屋を営んでいる私を手伝ってくれている健気で可愛らしい少女だ。
なんとまぁ、助手に情けない姿を見られてしまったものだ。その甲斐甲斐しさとてんてこ舞い振りにはどことなく、嘗ての私に似ていると自惚れてもいいのだろうか。いいや、きっと魔梨沙は私以上に優しくて強い子だ。
「すまないね、こんな姿勢で会話をしてしまって」
「ぜ、全然そんなことないです!」
「……そちらの女性は?」
私はもう一つの影に視線を向けた。それに促されるように魔梨沙も“彼女”に視線を向ける。黄金色と黒の色彩とでも表現すればいいのか……孤高であり孤独な色を纏う女性。砂金を振りまくようなウェーヴかかった波打つ長髪と長躯。おそらく年齢は私と同じ程度だろうが、婀娜っぽいのは育った環境の違いか。
「ぁ……」
ばつ悪そうに顔を歪める魔梨沙。
「いや! 先月に街で偶然知り合いまして友達になっちゃいまして……名前はマリス・マーガトロイドさんです! それでっ、先日先生のお話をした際に、是非先生にお会いしたいと仰ってくれたので連れてきたのですが……申し訳ありません」
「気にしなくてもいいさ。私が体調管理も出来ぬ莫迦だと露呈してしまったのは他でも無い。私のミスなのだから」
「風邪引いてるのに相変わらず舌は暴れるのね」
凛とした声色。それは例の女性からだった。
「はて、私と貴女は初対面では無いのかな」
歯ぎしりの音が聞こえた気がした。
「まぁ体調は関係ないのかもしれないけどね」
私の疑念を一切無視し、目線を下げるマリスと名乗った女性。
その微笑は、どこか、懐かしくもあり新鮮でもあった。
「そういえば先生、お見合いの件どうなったのですか?」
魔梨沙が興味本位で尋ねてくる。
「そうだな。先方の殿方を建てる手前出席はするが、しかし答えは保留だな」
「そうですか」
それで会話は終わり。彼女もそれ以上突っ込んでこなかった。
「先生、もしかして焦ってる?」
「黙りなさい」
「ひィ!」
○
「珍しいわね」
八意永琳は開口一番そんな事を言った。
「いいから置き薬ちょうだいよ」
「はいはい」
私が急かすと彼女は、焦らすようにゆっくりと戸棚を弄り始めた。
カイロス時間を当てにすれば、既に三十分は経過しているのに、秒針はまだ九十度ぐらいしか動いていない。
ようやく箱がカウンターを叩いた。
「はい。お大事にね」
「ありがとう」
私は礼を言い、踵を返す。はずだった。
「――――」
視界の端に移った艶やかな黒色の少女。噛みつくような視線を私に向けている。
彼女は鼻を鳴らした後、それこそ影に戻るように足取りを返した。
「ごめんなさいね、姫様、多分貴女に嫉妬してるだけだから」
「嫉妬?」
「うん。だからね、今まで貴女のよりどころは自分だけっていう自信があったんだと思うんだけど、今、貴女には大切な人がいるでしょう。だからね。……ほんといつまで経っても子供なんだから」
……生憎、その独白に答える言葉は見つけられなかった。
いつの間にか私、すっごく慧音に依存してるのか。
自然と笑みが零れる。昔の自分が見たらきっと嗤われるけどさ。
なぜか、足早に成っていた。
○
「慧音、お待たせ」
畳寄せと溝が擦れ、戸が開く。期待していた光景とは違った景観だった。
慧音は上半身を起こし、老人宛ら途切れ途切れに言葉を紡いでいた。決して独り言では無く聞き手は二人。
一人は知っている。もう一人は知らなかった。
「あ、妹紅さん」
魔梨沙が顔を綻ばす。
「なんだ来てたのか……そいつは?」
見慣れない影が一人いる。
「来客だ。気にしなくても良い。あとひどく空腹だ、出来れば胃に優しいものがあれば届けて欲しい」
「病人なのに態度でかいな」
「だからこそさ、我が侭でも偶さかではないだろう?」
そうやって微笑む慧音には、まっこと逆らえなかった。
「魔梨沙、少し話があるから外に行きましょう」
聞き慣れない調べめいた声音は長身の女性からだった。
「え、えっ、はい」
魔梨沙はおずおずと彼女に導かれ、部屋の外へ連れて行かれた。
心地のよい静寂が少しだけ訪れた。
「妹紅、実を言うとね」
「どうしたの?」
「……いや、やっぱり止めておくよ」
照れくさそうに俯いた慧音は再び横になり目を閉じた。
その姿は平生の立ち振る舞いからは想像出来ないほど、無辜だった。
「礼の一つでは等価ではないほど、尽くしてもらっておいて何だが」
瞳を閉じた儘、慧音は言葉を紡ぐ。
「私は、こういう恣意的な口調でしか語れない。まぁ職業病と揶揄してもらっても構わないけれどね。でもまぁ、たまにはいいだろうと、そういうことだ」
「…………どういうこと?」
「ありがとう」
「別に……付き合い、長いもの」
私の精一杯の強がりで、舌鋒はどこも向いていなかった気がした。
「……見合いの件だが、やっぱり断ることにしよう」
「どうして? 唯でさえ嫁ぎ遅れちゃってるのに」
「黙れ……どうして妹紅は、こう、愚鈍なのだ」
「なんで私怒られてるの?」
さっぱり分からない。
「まぁ、分からんならいいさ。元より見返りを求める気など毛頭ないわけだからな」
「何を言ってるのか分からないんだけど……」
「それより空腹だ」
「……唐突過ぎるよ。粥でいい?」
「嫌だ。もっと美味しいものが食べたい」
なんか、我が侭っていうか子供っぽいぞ。
「分かったわよ……なんか作る」
「ああ、期待していよう。疲れたから、少しだけ、眠る」
再び口を閉じ、寝息を立て夢寐へと旅立つ慧音。
「まったく」
我ながら、莫迦だなぁなどと。
○
包丁が俎板を叩く。材料は魔梨沙とあの女性が買ってきてくれた。
「…………」
あまり台所には立ちたくない。
というのも、亡き母を思い出してしまうという小さい理由だ。
家事というものは一通り教わったし、琴《きん》の琴だって大和和歌の暗唱だって出来る。髪だって伸ばした儘だ。醜く固執してるってのは分かってるつもりだけど、そう簡単には振り切れない。現在ですら、意味も無く当に亡い姉に嫉妬したりしてしまうし、妾の娘だって罵られたら自我を保つ事など出来ないだろう。
「…………」
そんなこんなで出来てしまった。先ほど、家事は出来ると謂ったがかれこれ千年以上前の話だと付け加えておく。
焼き鳥以外の料理なんて久々だったからうまくは出来てるか……。
「……あ、期待してるってそういうことか」
別に、慧音的には美味しかろうと不味かろうと面白いのだ。
「ほんと、性根が意地悪だ」
でもまぁそんな彼女と徒然なる儘に過ごすのも悪くない……というか結構気に入ってる。彼女とこんな感じで付き合ってもう何年になるのだろう。
「最初はこまっしゃくれたヤツって感じだったけど」
うん。気に食わなかった。
だって意地悪じゃん。人の神経逆なでするのが得意だし、小難しい言葉ばっかり使うし。煙に巻くような物腰で、おまけに慇懃無礼。思ったことはずけずけ言ってしまって、でも結構マヌケで。人の心理というかそういうのに富んでいるのだから、深読みしすぎて墓穴掘るタイプ。
私の何が彼女の琴線に触れたのかは分からない。
「――――」
でもまぁ、こんな時間も無限ではないんだよね。慧音だって半獣半人とはいえ寿命は変わらない。畢竟《つまり》、有限だ。
慧音が不老不死にでも成らない限り、悠久宛らは無理だから。きっと輝夜の視線はそういう意味なのだろう。
「…………っ」
だから、きっとこの先こういうことだってある。だから――だけど、
「やだよ……っ!」
私の嗚咽のみが響き渡る。
子供っぽいのはどっちだよ、って。
笑われるよ、でまた得意の説教めいたものが始まってさ。
「――――――」
○
「出来たよ」
「どれ。……ふむ」
「どう?」
「うん。普通に不味い」
心理学だとかメスマーだとか、そんな些事などでは無い。
漠然と渺茫で構わない。捉えようとしたことはあるか?
どんな夢物語、御伽噺、荒唐無稽すら自身の手で触れると錯覚したことは?
或いは本来不可能な動作を――喩えるならば空を自由に飛ぶ、などを知覚したことは?
或いは、過去経験したことがある動作を同じように繰り返したことは?
そこは鬼哭すらも届かぬ虚ろな深淵の果て。黒とも虹色もつかぬ瞼裏の色が蔓延る空と大地。雲が有り得ぬ蠕動を繰り返し、地面は一歩踏み出す度に水風船を潰したようで安定しない。ぽーんと単調な金管楽器の音色に合わせ、不安定な不協和音が頭蓋の裏側まで耳朶を超え浸食してくる。重油が敷き詰められたような、髪が燃えるような腐肉と腐臭が横溢した夢色。
即ち絶望の猖獗地。
懊悩する少女が、一人横たわっていた。
その少女の色は銀。撒き散らされた不純物の上で、昼寝でもするように微睡む様は天使宛らで。彼女に触れようとした刹那。
それらは瓦解した。シャボン玉に触れる時の様に、瞬きすら凌駕する須臾の隙間。
紅蓮。父の泣き顔。銀嶺の髪。墨絵のようなお姫様。慧音。小さな刃。真っ黒なバイク。姉の亡骸。悪意の拡散。セーラー服の少女。
少女は夢を見たのだから翹望するのもまた自由というものだ。
あくまで夢。努々、現実と混同されぬようにと、戒めを。
○
雲雀の歌声が、遙か遠くで聞こえたような気がした。
「……っ」
痛み。頭が締め付けられるように痛むが、不愉快という気分はしない。
鉛が乗った様に重い瞼をこじ開けると、既に銀色の太陽が高々と輝いていた。
「あ……」
真昼だった事に些か驚いてしまった。
「寝過ぎた……というか、酔いすぎた……っ」
追憶すれば――嗚呼と合点。そうだ、昨晩慧音と晩酌を交わして……。
「慧音……?」
違和感。何年経ってもお酒には弱い私と違って慧音はそれこそ笊なのだ。その彼女がまだ私の褥の横で臥せっている。
「慧音。どうしたの?」
「…………」
返事が無い。
「慧音っ!」
「ぁ……うん……」
風切り音の様な掠れた声色。いつもの彼女らしい飄飄としたつかみ所の無い雰囲気と、得意げなご高説が無い。というか頬が赤いし呼吸も安定していない。
「もしかして、風邪?」
「む……そうだな、恐らくは風邪だろう。特有の精神と身体の狂いは懐かしいものを感じるね。置き薬とか、なかったかな」
ガラガラな声でなにやら呟いているが、やめておいた方がいいんじゃないかな。心配をよそに虚ろな瞳を携えた儘、上体を起こす慧音は、
「……ぁ」
しかし途中でパタリと崩れ落ちてしまう。膂力が圧倒的に足りていない、というか!
「とりあえず寝てて。動いちゃダメだよ」
敢えて彼女の行動を禁則する私も私で若干、体調万全とはいかないのだが。まぁ程度は彼女よりは遙かに軽いだろう。
「合点承知……、だが、しかしね。私は私で明日の職務の準備をしなくてはならないのだ。嗚呼、悲しいかな、名取すらも全う出来ぬとは、先代の宇佐見先生に顔向け出来な――」
「そのしゃべりも禁止。大体疲れるでしょ」
「……む。ソレは困る」
「言い訳禁止!」
慧音はぶつくさ言いながらも、ぞもぞと布団に潜り治す。しばらくすると寝息を立て始めた。
「寝てれば大丈夫だよね……?」
よもや、寝ながら説教するほどお節介魔神では無いだろう。多分、ないんじゃないかな? それはともかくとして。
とりあえず、薬を取りに行かないと。
○
ここはどこだろうか。
居場所すら見失うのは相当疲れがあるのだろう。景色が幾何学模様を描いては消えていく。私を呼ぶ声がする。
「――先生!」
うっすらと視界を開拓していく。浮かび上がるシルエットは二つ。見慣れた赤毛のショートヘアとゴシック調のワンピースドレス。未熟ながらも整った顔立ちは不安一色。
私は彼女の名前を知っている。
「霧雨魔“梨”沙」
彼女はしがない寺子屋を営んでいる私を手伝ってくれている健気で可愛らしい少女だ。
なんとまぁ、助手に情けない姿を見られてしまったものだ。その甲斐甲斐しさとてんてこ舞い振りにはどことなく、嘗ての私に似ていると自惚れてもいいのだろうか。いいや、きっと魔梨沙は私以上に優しくて強い子だ。
「すまないね、こんな姿勢で会話をしてしまって」
「ぜ、全然そんなことないです!」
「……そちらの女性は?」
私はもう一つの影に視線を向けた。それに促されるように魔梨沙も“彼女”に視線を向ける。黄金色と黒の色彩とでも表現すればいいのか……孤高であり孤独な色を纏う女性。砂金を振りまくようなウェーヴかかった波打つ長髪と長躯。おそらく年齢は私と同じ程度だろうが、婀娜っぽいのは育った環境の違いか。
「ぁ……」
ばつ悪そうに顔を歪める魔梨沙。
「いや! 先月に街で偶然知り合いまして友達になっちゃいまして……名前はマリス・マーガトロイドさんです! それでっ、先日先生のお話をした際に、是非先生にお会いしたいと仰ってくれたので連れてきたのですが……申し訳ありません」
「気にしなくてもいいさ。私が体調管理も出来ぬ莫迦だと露呈してしまったのは他でも無い。私のミスなのだから」
「風邪引いてるのに相変わらず舌は暴れるのね」
凛とした声色。それは例の女性からだった。
「はて、私と貴女は初対面では無いのかな」
歯ぎしりの音が聞こえた気がした。
「まぁ体調は関係ないのかもしれないけどね」
私の疑念を一切無視し、目線を下げるマリスと名乗った女性。
その微笑は、どこか、懐かしくもあり新鮮でもあった。
「そういえば先生、お見合いの件どうなったのですか?」
魔梨沙が興味本位で尋ねてくる。
「そうだな。先方の殿方を建てる手前出席はするが、しかし答えは保留だな」
「そうですか」
それで会話は終わり。彼女もそれ以上突っ込んでこなかった。
「先生、もしかして焦ってる?」
「黙りなさい」
「ひィ!」
○
「珍しいわね」
八意永琳は開口一番そんな事を言った。
「いいから置き薬ちょうだいよ」
「はいはい」
私が急かすと彼女は、焦らすようにゆっくりと戸棚を弄り始めた。
カイロス時間を当てにすれば、既に三十分は経過しているのに、秒針はまだ九十度ぐらいしか動いていない。
ようやく箱がカウンターを叩いた。
「はい。お大事にね」
「ありがとう」
私は礼を言い、踵を返す。はずだった。
「――――」
視界の端に移った艶やかな黒色の少女。噛みつくような視線を私に向けている。
彼女は鼻を鳴らした後、それこそ影に戻るように足取りを返した。
「ごめんなさいね、姫様、多分貴女に嫉妬してるだけだから」
「嫉妬?」
「うん。だからね、今まで貴女のよりどころは自分だけっていう自信があったんだと思うんだけど、今、貴女には大切な人がいるでしょう。だからね。……ほんといつまで経っても子供なんだから」
……生憎、その独白に答える言葉は見つけられなかった。
いつの間にか私、すっごく慧音に依存してるのか。
自然と笑みが零れる。昔の自分が見たらきっと嗤われるけどさ。
なぜか、足早に成っていた。
○
「慧音、お待たせ」
畳寄せと溝が擦れ、戸が開く。期待していた光景とは違った景観だった。
慧音は上半身を起こし、老人宛ら途切れ途切れに言葉を紡いでいた。決して独り言では無く聞き手は二人。
一人は知っている。もう一人は知らなかった。
「あ、妹紅さん」
魔梨沙が顔を綻ばす。
「なんだ来てたのか……そいつは?」
見慣れない影が一人いる。
「来客だ。気にしなくても良い。あとひどく空腹だ、出来れば胃に優しいものがあれば届けて欲しい」
「病人なのに態度でかいな」
「だからこそさ、我が侭でも偶さかではないだろう?」
そうやって微笑む慧音には、まっこと逆らえなかった。
「魔梨沙、少し話があるから外に行きましょう」
聞き慣れない調べめいた声音は長身の女性からだった。
「え、えっ、はい」
魔梨沙はおずおずと彼女に導かれ、部屋の外へ連れて行かれた。
心地のよい静寂が少しだけ訪れた。
「妹紅、実を言うとね」
「どうしたの?」
「……いや、やっぱり止めておくよ」
照れくさそうに俯いた慧音は再び横になり目を閉じた。
その姿は平生の立ち振る舞いからは想像出来ないほど、無辜だった。
「礼の一つでは等価ではないほど、尽くしてもらっておいて何だが」
瞳を閉じた儘、慧音は言葉を紡ぐ。
「私は、こういう恣意的な口調でしか語れない。まぁ職業病と揶揄してもらっても構わないけれどね。でもまぁ、たまにはいいだろうと、そういうことだ」
「…………どういうこと?」
「ありがとう」
「別に……付き合い、長いもの」
私の精一杯の強がりで、舌鋒はどこも向いていなかった気がした。
「……見合いの件だが、やっぱり断ることにしよう」
「どうして? 唯でさえ嫁ぎ遅れちゃってるのに」
「黙れ……どうして妹紅は、こう、愚鈍なのだ」
「なんで私怒られてるの?」
さっぱり分からない。
「まぁ、分からんならいいさ。元より見返りを求める気など毛頭ないわけだからな」
「何を言ってるのか分からないんだけど……」
「それより空腹だ」
「……唐突過ぎるよ。粥でいい?」
「嫌だ。もっと美味しいものが食べたい」
なんか、我が侭っていうか子供っぽいぞ。
「分かったわよ……なんか作る」
「ああ、期待していよう。疲れたから、少しだけ、眠る」
再び口を閉じ、寝息を立て夢寐へと旅立つ慧音。
「まったく」
我ながら、莫迦だなぁなどと。
○
包丁が俎板を叩く。材料は魔梨沙とあの女性が買ってきてくれた。
「…………」
あまり台所には立ちたくない。
というのも、亡き母を思い出してしまうという小さい理由だ。
家事というものは一通り教わったし、琴《きん》の琴だって大和和歌の暗唱だって出来る。髪だって伸ばした儘だ。醜く固執してるってのは分かってるつもりだけど、そう簡単には振り切れない。現在ですら、意味も無く当に亡い姉に嫉妬したりしてしまうし、妾の娘だって罵られたら自我を保つ事など出来ないだろう。
「…………」
そんなこんなで出来てしまった。先ほど、家事は出来ると謂ったがかれこれ千年以上前の話だと付け加えておく。
焼き鳥以外の料理なんて久々だったからうまくは出来てるか……。
「……あ、期待してるってそういうことか」
別に、慧音的には美味しかろうと不味かろうと面白いのだ。
「ほんと、性根が意地悪だ」
でもまぁそんな彼女と徒然なる儘に過ごすのも悪くない……というか結構気に入ってる。彼女とこんな感じで付き合ってもう何年になるのだろう。
「最初はこまっしゃくれたヤツって感じだったけど」
うん。気に食わなかった。
だって意地悪じゃん。人の神経逆なでするのが得意だし、小難しい言葉ばっかり使うし。煙に巻くような物腰で、おまけに慇懃無礼。思ったことはずけずけ言ってしまって、でも結構マヌケで。人の心理というかそういうのに富んでいるのだから、深読みしすぎて墓穴掘るタイプ。
私の何が彼女の琴線に触れたのかは分からない。
「――――」
でもまぁ、こんな時間も無限ではないんだよね。慧音だって半獣半人とはいえ寿命は変わらない。畢竟《つまり》、有限だ。
慧音が不老不死にでも成らない限り、悠久宛らは無理だから。きっと輝夜の視線はそういう意味なのだろう。
「…………っ」
だから、きっとこの先こういうことだってある。だから――だけど、
「やだよ……っ!」
私の嗚咽のみが響き渡る。
子供っぽいのはどっちだよ、って。
笑われるよ、でまた得意の説教めいたものが始まってさ。
「――――――」
○
「出来たよ」
「どれ。……ふむ」
「どう?」
「うん。普通に不味い」
テーマは拾えるのでそれで十分なのかもしれませんが
もうちょっと理解しやすく書いてくれてもいいと思う
もう少し明確にした方が良いと思います