その時、吸血鬼の少女は非常に腹を立てていた。先程から隣に座る魔女が少女の相手をして宥めてはいたが、しかし、それも限界に近付きつつある。少女はぎりりぎりりと犬歯を鳴らしながら、抑えのきかない怒りを発現させていた。
だが――、不意に何か閃いたように少女は目を見開いた。次の瞬間には顔を下に向けて可笑しそうに震えている。魔女は嫌な予感を感じながらも少女の顔を覗き込んだ。尋常ではない様子の少女と目が合う。
「流れが変わった。運命は彼女に試練を与えるだろう――」
少女はそう宣言すると、くっくっくと、底気味悪い薄ら笑いを浮かべた。魔女は、この様子では自分も巻き込まれることになるだろうなと、辟易しながらそれを眺めていた。
◆
霊夢は耐え難い頭痛に迫られて目を覚ました。むくりと起き上がると、彼女はまず痛む額を両手で押さえた。じんじんと刺すように痛い。起き上がった拍子に布団がすべり落ちたのか、両肩に震えるような寒さを感じた。
そこは部屋の中のようだった。灯りのないその部屋は薄暗く、慣れない眼では状況を察しきれなかったが、室内は静謐としており、近くに人の気配が無いことはすぐに気付いた。
彼女は現状の把握に努める。自分が置かれている状況が危険か否か、素早く判断する必要があった。
だが――、彼女は何も覚えていなかった。いくら記憶を遡ろうとしても、ぷつりと糸が切れたように先へ進むことが出来ない。本当に全然、全く何も覚えていない。
しかし――、覚えていないが、ここが自分の神社ではなく別の場所だということは、周囲の違和感から察せられた。薄闇に見える調度品は、どちらかというと西洋のそれを彷彿させ、その具合から、彼女はここが吸血鬼の館、紅魔館であることを悟った。
不意に眠ったままの記憶が蘇る。
――昨夜、自分は例の吸血鬼に呼ばれ、夕食を恵んで――いやいや、振舞われていたはずだ。接待を受ける理由は特にないが、断る理由もまた特にないので、謹んで馳走になった。そして食後酒だと言われて、慣れない西洋酒を飲んで――?
そして彼女は思い至る。そうだ、あの酒がまずかったのだ、あの酒が高級過ぎるのがいけなかったのだ、と。
それは正鵠を得ていた。
彼女は、提供された酒が余りにも上等なものであったから、つい多量に摂取してしまったのだ。彼女の価値基準ではモノが高級か否かが重要である。それが発露されてしまったのだ。それでも彼女にとってアルコールはさほど応えない。それが潰れるほどだから、かなりの量を飲み干したはずであった。
こうして贅沢の仕方を心得ない哀れな巫女は、酒に酔って混濁とした挙句、大して親しくもない紅魔館の者の厄介になってしまったのだった。
ことの一部始終を思い出した彼女は、少し冷静になった頭でもう一度だけ周囲を見渡す。かちかちと、時計の音が聞こえる。よく目を凝らすと、その時計は午前六時少し前を示していた。
そうして彼女は厳かに立ち上がる。――この時間なら咲夜はまだ活動をしているだろう。ひょっとすると、すでに厨房に居るのかもしれない。
彼女は、暗闇の中から部屋の扉を見つけると、それを勢いよく開け放った。
彼女は水を切実に必要としていた。
◆午前六時○〇分――。
霊夢の予想通り、咲夜は厨房で作業をしていた。今しがた主の朝食――紅魔館風に言うならば夕食――が終わり、その片付けをしているのだった。更に言えば、普段、門番業務で食堂には訪れない美鈴の昼食の用意もしていた。
霊夢が厨房の扉を開けると、咲夜は一瞬だけ驚いたが、すぐにまた作業の方へ集中した。霊夢はそんな咲夜の元にずかずかと詰め寄った。
「お水ちょうだい」
「……今、忙しい」
「水だけでいいんだってば」
素っ気ない咲夜の対応に霊夢が粘ると、咲夜は諦めて彼女に向き直った。少し呆れたような顔をしている。
「あんなに呑むからよ」
「だって高そうだったんだもん」
咲夜は霊夢と会話をしながらも、手際よく水道からグラスへ水を入れた。霊夢はグラスに入った水を受け取ると、それを一息に飲み干した。霊夢は自分の細胞が生まれ変わり、生命活動が再開したのを感じた。
「うい、助かった」
「どういたしまして」
咲夜は霊夢からコップを受け取ると、また自らの労働に戻った。洗い物の食器が、がちゃがちゃと音を立てる。とくに会話はない。霊夢はしばらく作業に従事する咲夜の後ろ姿を眺めていた。
そういえば――、と霊夢は思い出す。そういえば自分はこの使用人と親しく会話をしたことがなかったな、と。ならばこれは非常にいい機会なのだが、霊夢はどう切り出したものか考えあぐねていた。
霊夢が内なる葛藤から言葉を挟むのを躊躇っていると、「そういえば」と逆に咲夜の方から声が掛かった。咲夜は何か思い付いたような表情で霊夢へ振り向く。
「あなたに頼みたいことがあるの」
「嫌よ」霊夢はにべもなく断る。気恥かしさもあった。
「どうせ、ろくでもないことなんでしょう?」
「違うわ。新しく紅茶を作ってみたのだけれど……」
そう言いながら、咲夜は困ったような笑みを浮かべた。
咲夜の話はこうだった。
普段より咲夜は、舌が肥えている割に飽きっぽくて新しいもの好きの主のために、自前の創作紅茶に挑戦していた。無論、茶葉から掛かる本格的なものではなく、料理の延長にあるような実験的なものだ。そうして、既に幾つかの創作紅茶を主に提供していたのだが、どうにも成果は芳しくない。そこで、自分だけではなく、また別の第三者に味見をして貰えば、少しは光明も見えてくるだろうと考えたのだ。
咲夜は早速その紅茶を霊夢の前に出した。霊夢は自然と鼻を寄せ、くんかくんかと匂いを嗅ぐ。咲夜は呆れたように肩をすくめた。
「行儀が悪いわね」
「試作の味見なら当然でしょ。それより変なものを入れてないでしょうね?」
霊夢は咲夜の料理のスキルは疑っていないが、咲夜の神経は疑っていた。彼女は時に突拍子もないことを、さも自然体に実行することがある。その少々ズレた思考――本人はまったく無自覚なのだが――には警戒の必要があると、霊夢は経験から悟っていた。
しかし――、咲夜から給された紅茶は如何にも具合の良さそうで、厨房の馥郁たる様子から空腹に気付いてしまった霊夢には、その申し出を断ることは甚だ困難であった。
カップを手に取ってみる。肌に触れた温かい容器は、霊夢から躊躇を奪っていった。
一口、舌にのせた。紅茶の美味たるは、忽ち霊夢に二口目を要求した。それを飲みながら、霊夢は安心顔で咲夜を見やった。
「美味しい。すごくいいと思うよ」
「そう、それは良かった」
その答えを聞いて咲夜はほっとしたように笑った。やはり嬉しいのだなということが霊夢にも伝わった。霊夢も咲夜に釣られて少し嬉しい気分になる。
霊夢は次の一口を含もうとして咲夜に訊いた。
「これは何を入れたの?」
「猿の手のミイラを――」
霊夢は三口目の紅茶を吹き出した。
◆午前六時一〇分――。
咲夜のいる厨房から命からがら逃げ果せた霊夢は、紅魔館から脱出すべく門前の方に向かっていた。
酷い目にあった、何もピンポイントでそんな曰くつきのものを入れなくても――、と思うのは何も霊夢だけのことではない。
咲夜の話が事実なら、その主は常日頃そのような綱渡りを強いられているはずである。そんなトンでもない女中を雇っている主の度量を、霊夢は今だけは感服せずには居られなかった。
霊夢は大股で館内を歩いた。彼女の鬼気迫った挙動にも、ふらふらと浮かぶ妖精は、消えたり、霧散したり、あるいは突き抜けられたりしながら楽しんでいたが、今の霊夢はそのような些細なことに拘わっている場合ではなかった。
彼女は否応なく危機の気配に敏感になり、ともすれば臆病の裏返しからくる鋭さを以て廊下を通り過ぎていった。
館の外に出ると暁の赤いのが見えた。少しずつ夜の天幕が上がり、手入れの行き届いた庭の風情を広く望むことが出来た。その中に花壇の手入れをする長身の女性が見える。
霊夢は、咲夜とは比較的友好な関係だと思われるこの人物に、去る厨房での異変について物申さねばならなかった。
「ちょっと美鈴! あんた咲夜にどういう教育をしてるのよ!」
「……はい?」
霊夢の悲鳴にも似た怒声に気付き、かの女性は声の主に視線をやった。見れば憤怒の形相で近づく霊夢の姿を確認できる。
――ははあ、また咲夜さんやっちゃったのかな、と美鈴はすぐに当たりをつけた。
時間帯的に言っても咲夜は厨房にいるはずである。彼女と何らかのトラブルを起こすとなるとそれは厨房での出来事で、また、厨房でのトラブルといえば創作紅茶くらいしか考えられなかった。
美鈴も創作紅茶試飲メンバーの一人として咲夜に勘定されていた。
「でも、美味しかったでしょう」
事情を飲み込めた美鈴は、怒りに燃える霊夢に軽い調子で返した。
「でも、猿の手よ、猿の手。信じらんない」
ある小説によれば、猿の手のミイラを手にした者は何でも三つの願い事を叶えてもらえる、という。――ただし、出来うる限り本人にとって喜ばしくない方法で。
平均より慎ましい生活を送る霊夢であるが、貧しさからくる欲張り屋の面は、本人も気にしているところだ。けれども、そんな呪い地味た方法で欲が満たされても恐ろしいだけである。宗教家でもある彼女は、割合、この手の迷信は信じる方であった。
「まあまあ、落ち着いて。深呼吸、深呼吸」
「これが落ち着いてられますかっての!」
「ほら、お花に水をあげてみます? 落ち着きますよ」
美鈴はホースを引っ張って、花壇に水を撒いているようだった。これは美鈴の仕事の一つで、本人いわく門番よりも重要な仕事、とのこと。館の主や同僚の女中が聞けばお叱りを受けそうな主張だったが、霊夢は、美鈴の肩肘張らない気性が嫌いではなかった。
美鈴はにこにこと微笑みながら花壇を渡り歩く。振り撒かれた水滴が朝日を浴びてきらきらと輝いていた。朝の清々しい空気と共に、その光景は人に清涼とした印象を与える。ぼんやりとそれを眺めていると、霊夢は段々と毒気を抜かれていった。
ふと美鈴がホースを持った手を止めた。
「じゃあ、霊夢。水を止めてきてもらえますか」
「何が“じゃあ”なのよ」
急に降り掛かった美鈴の注文に、霊夢は面倒臭そうに文句を言いながらも、水栓のある場所まで歩いて行った。美鈴から「蛇口は左回りですよ」と声が聞こえる。霊夢ははいはいと気のない風の返事を返した。
伸びるホースを辿って歩くと、水栓の場所はすぐに見つかった。蛇口にはホースがしっかりと連結されて見える。霊夢は美鈴の言った通りに蛇口を捻った。すると、
「えっ――?」
しかし、水流は止まらなかった。どころか、ますます圧を上げ、ついには繋がっていたホースを吹き飛ばしたのである。暴れるホースに驚き霊夢が悲鳴を上げる。
ホースの中に溜まっていた水が、高く放り上げられた。水滴が陽光を反射して一瞬の虹が出来た。飛び上がった水は重力法則に従いその下にいた人間――、霊夢に降りかかる。冷たい水の塊が強かに霊夢を打った。
「……」
ずぶ濡れになった霊夢はすがるような思いで美鈴の方を見た。
忽ち美鈴と目が合う。彼女は後ろ頭に手をやると、ペロッと舌を出して片目を瞑った。
「いっけね、逆でした――」
霊夢は水で冷いのとは別の震えを感じながら、急ぎ館内に引き返した。
◆午前六時二〇分――。
館内で奪ったタオルに水分を吸収させながら、霊夢は『これは完全な異変である』と認識を改めつつあった。普段の二人――とは言っても霊夢は咲夜にも美鈴にも接点はあまり無いのだが――とは明らかに異なる行動に、霊夢はこの解決に乗り出したのである。
異変の解決は巫女の仕事と偉い人からも言われている。何としてでも己が解決せねばならないという、自負に満ちた行動であった。
そうして霊夢は真っ直ぐ館の主のもとに向かう。異変の原因は大抵、それを仕組んだ人物に依る。つまり、この身に降りかかった厄災はすべてレミリアに原因があると、彼女はそう決めてかかった。
赤いカーペットの廊下を進むと、突き当たりにレミリアの自室に繋がる扉がある。以前、咲夜に聞いた話によれば、館の主は、昼間は概ね寝て過ごすらしい。ならばレミリアの居場所は、この自室で間違いないだろうと思われた。
霊夢は怒りの勢いに任せて扉を開く。かくしてその中には……、
「ふわぁぁぁ……。あら、霊夢。貴女もう大丈夫なの?」
見た目は幼子にしか見えない館の主がいた。
彼女は桃色生地の寝巻き姿で、大きなテディベアを抱いていた。如何にも眠そうに目を擦っている姿はそこはかとなく庇護欲掻き立てられるが、これでも夜間は向かうところ敵なし強大な吸血鬼である。
だが、日が昇ると吸血鬼の力を維持していられなくなり、それに伴い、精神の方も見た目相応に幼くなってしまうらしい。
しかし頭に血が上っている霊夢は、そんな彼女に問答無用で詰め寄った。
「レミリア、あんたまた変なことしたでしょ!」
「何よ、変なことって」
「とぼけないでよ、咲夜も美鈴も、あんたに何か言われたんでしょう」
「……?」
未だに事情が解りかねぬという風のレミリアを見て、霊夢は先程からの変事を事細かく説明した。山あり谷ありの一大巨編で少々話を盛った部分も散見されたが、大まかには事実の通りだった。そうして全てを伝え終えた霊夢がレミリアを見やると、
「ぐぅー……」
レミリアはベッドに横になって眠り始めていた。
「ちょっと、なに寝てんのよ! 話は終わってないでしょう!?」
「知らないわよぉ。咲夜が少し天然なのはいつものことだし、美鈴だってわざとじゃないんでしょお? 被害妄想よ、ただの」
「違う、絶対に違うんだって!」
霊夢は議論の続行を要求したが、それでもこの小さな吸血鬼は己の睡眠を優先したいようだった。軽くあしらわれて相手にして貰えない。今の彼女にとって――というよりは大半の人間にとって――、興味の対象に全く見向きもされないというのは極めて堪える状況であった。
霊夢が姦しく喚く。レミリアはそんな彼女を袖にする。不毛なやり取りが何度か続いたあと、レミリアも流石に面倒臭くなったようで、鬱陶しげに霊夢を見やるとその後ろを指し示した。
「霊夢、そこに漫画があるわ。暇ならそれでも読んでなさい」
「漫画って何よ、私は真剣に……」
「それじゃあ、おやすみなさぁい」
レミリアはそれだけ言い捨てると、頭から布団を被ってしまった。これ以上、霊夢に付き合う気が無いのは明白だった。霊夢はそれでも彼女に食ってかかったが、すやすやと寝息が聞こえてきたので仕方なしに諦めた。
霊夢はレミリアが示した場所を見る。そこには小さな本棚があり、なるほど彼女の言う通り、何冊かの漫画本が見える。こう見えて霊夢は漫画を少なからず嗜む現代っ子だった。そんな彼女にとって、レミリアに相手にされない現状よりも、漫画本に手を伸ばす方が、幾らか癒しになるだろうと思われた。
霊夢は本棚の中から適当に一冊選んだ。決め手は他より何となく装丁が綺麗だったからに過ぎない。未だ不満はあるが、少しの間、目くるめく幻想世界に没頭しようと決めた。
彼女はゆっくりと表紙を開く。すると――、
「あべし――っ!?」
何か柔らかいものが強かに霊夢の顔面を打った。
手に持った本を離してみると、そこから紙で出来た拳が突き出ており、然らばこれは漫画本ではなく、俗に言う仕掛け絵本であることが窺い知れた。
霊夢は恐る恐るレミリアの方を見やる。
布団に丸まった彼女は小刻みに震えており、それはまるで、霊夢の醜態を笑いそうになるのを、必死で堪えているように見えた。
「ぷっ――」
霊夢は確かに悪魔の声を聞いた気がした。
◆午前六時三〇分――。
レミリアの自室を後にした霊夢は、ついに途方に暮れていた。
先程のレミリアの態度からも、これがレミリアの計画であることは間違いないと――少なくとも彼女は――、断定していた。しかし、その原因を推し量ることが出来ない。それでもこれは、彼女のみを特定とした異変であることはよく分かった。
どうしよう、もう帰ってしまおうか――、それは何度も考えた。巫女たる使命から逃げ出すようだが、彼女が関わらなければ異変そのものが成り立たないのだから、手っ取り早い解決とも言えた。
しかし霊夢にとって、それはどうにも癪であった。
レミリアの自室は二階にあった。そこから階段を使って一階に降りると、少し開けた吹き抜けの空間になっている。白黒の市松模様のタイルの上には、赤いカーペットが敷いてある。右手に行けば食堂だが、今は扉に『掃除中』の札が掛かっており、咲夜が仕事をしているのだろうと知れた。逆に左手に行けば談話スペースとなっており、カーテンを開けたそこからは陽光の光が少しずつ入り込んでいた。館の玄関へは左に行く必要がある。
しかし――、と霊夢は思う。
このまま真っ直ぐに進めば、すぐ目の前に地下図書館へ続く階段がある。そして更に地下に潜れば、この館の主たるレミリアの妹が居るはずである。姉と妹は何かと反目し合っていると聞く。ならば、レミリアの計画を頓挫せしめるための助言を得られるかもしれない。
霊夢はそう決めると、素早く地下に潜っていった。
図書館は相変わらずシンとしていた。見上げるほど大きな書棚が何層も並んでおり、見る者を圧倒させるように立っている。貯蔵されている魔道書の魔力に反応してか、妖精が多く発生しており、自由奔放に宙を飛び回っていたが、しかし、この図書館の主である魔女は留守のようだった。
霊夢は階段の出入り口付近にある楕円形の作業机を見やった。魔女は大抵、ここで本の山と静かな熱戦を繰り広げており、それ以外での覚えはついぞ思い出せなかった。ここに居ないとなると、彼女がどこにいるか霊夢では見当も付かず、さりとて特に問題があるわけでもないので、彼女は構わず地下二階に続く階段へ進んだ。
少し歩くと、霊夢の後頭部に、何やら尖ったものがちょんと当たった。
「……」
当たった方角を見やると、階段の踊り場から紙飛行機を投げつけている魔女の姿が見えた。ははあ、さっき当たったのはこれかと、下に落ちている紙飛行機を見て納得したが、なぜ投げつけているのかは皆目見当も付かなかった。魔女は黙々と飛行機を投げる。
「……」
また飛行機が当たる。魔女の理解のできない行動に、霊夢は困惑していた。何か企てがあるのだろうが、思い当たる節はない。魔女は下に置いた箱に飛行機を多くストックしているらしく、途切れることなくそれを投げ続けた。しかし、余りに反応の薄い霊夢にいくらか焦り始めたようだった。
「……っ!」
魔女はいつしか、明らかな焦りを浮かべて飛行機を投げていた。魔女にとって霊夢の反応は予想していたものとは違うようだった。必死に投げるも無反応な霊夢に苦慮した彼女は、ついに懐から一枚の用紙を取り出した。何かの文書のようで、それと霊夢とを見比べながら、さっぱり理解できないという風におろおろと慌てている。
しかし、理解出来ないのはこちらの方である。霊夢は流石に不審に思って声を掛けようとするが、それを遮るもう一人の影があった。
「パチュリー様! もういいです、失敗ですから!」
出てきたのは魔女の使い魔である小悪魔であった。彼女は魔女をあやすような口調で優しく諭す。
「……! ……っ!!」
「はいはい。分かりました。分かりましたから一旦退きましょう、ね?」
魔女は小悪魔に何事か抗議をしているようだったが、声が小さいため何を言っているか霊夢には伝わらない。一方、小悪魔はそんな魔女を言いくるめて、彼女を急かせながら一階に上がってしまった。魔女は下に置いてあった箱をどうするか一瞬迷う。だが、すぐに箱を抱えてふらふらと小悪魔の後を追っていった。
「~~~っ!!」
とたとたと魔女が走る。そうして二人の影が完全に消えた。
困るのは残された霊夢だった。結局、何がしたかったのだろうか。しかし、所詮は魔女のすることである。凡人には到底理解できまいと、彼女は早々に疎通を諦め、当初の目的を達するために向き直った。
そのまま一歩、足を進める。すると――、
「にゃあっ!?」
――びたん。
霊夢は足元の何かに躓き、引っ張られるように床と衝突した。
二足歩行を標榜とする人間、霊夢だったが、一度バランスを崩すと呆気なかった。床はそんな彼女から熱烈な抱擁を受けるが、しかし無機物はしんとして押し返すのみである。見事に顔面から衝突した彼女であったが、偶然床に蓄積されてあった小麦粉により大きな怪我もなく済んだのは、まこと不幸中の幸いであったと言えよう……、
――いや、偶然などではない。普通、床に小麦粉は蓄積されていない。これは必然であった。
霊夢は恐る恐る自分が躓いた物の正体を確かめる。それはピンと張られた紐であり、小麦粉との位置関係から、何者かの悪意によって張られていることは容易に知れた。
霊夢はすぐに犯人の正体に気付いた。小悪魔の仕業である。これほど緻密に計算された悪戯は妖精には無理だ。かと言ってあの魔女がこんなお茶目を発揮するとは思えないし、そもそもこの手の悪さは小悪魔の得意分野である。なれば犯人は彼女以外にあり得なかった。
霊夢は幽鬼の如く立ち上がる。拳の震えは怒りによるものだった。
許すまじ――、小悪魔!
しかし霊夢は、荒れ狂う怒りの感情とは別に、立ち上がる時に利用した本棚の柱に違和感を覚えた。ぐにゃり――? もぞり――? とかく妙に生物地味た感触があったのだ。
霊夢はゆっくりと柱を持つ手を見やる。かくしてそこには……、
「……」
うねうね、もぞもぞ。
うねうね、ちょろちょろ。
霊夢は、はっ――と息を止めた。
「……い、いやあああああああああああああああああ!!!!」
そこに何が居たのか、彼女は死んでも語らなかったという。
◆午前六時五〇分――。
魔法図書館から更に地下に続く階段を下りると、やがて頑丈そうな鉄の扉が見える。
勢いで来てしまったが、霊夢はその妹について特に詳しいわけではなかった。その為、地下に篭る理由も知らないのだが、此度は何としても謁見を果たす必要があった。
これまで信じがたい災いに見舞われてきた彼女にとって、今この場所が最後の砦であった。
霊夢は扉の取っ手を握る。せいや、と力を込めて重い扉を押し開けた。すると――、
「……そこに居るのはだぁれ?」
返ってきた誰何の声はなんとも可愛らしいものだった。
部屋の中に居たのは、レミリアと比しても変わりない、見た目は幼い少女であった。彼女はベッドに腰掛けて足を遊ばせ、如何にも自然体に見える。地下は昼の影響を受けにくいのか、小型になってはいるが羽も牙も健在で、彼女はその羽をぱたぱたと小さく動かして小首を傾げていた。
しかし、霊夢はその少女に明らかな異変を認めた。
――霊夢は、愕然とした。
その少女は人ではなかった。人の皮を被った化け物であった。そうとしか考えられなかった。目の前の少女は、普通の少女ならば持っているはずのない物を、さも愛おしそうに抱きかかえていたのだ。
……有り得ない。彼女の姉と比較しても違いすぎる。霊夢は体の震えを上手く抑えることが出来なかった。まさに、狂気。とても正気の沙汰とは思えなかった。霊夢は彼女を改めて人外と認めるしかなかったのである。
……彼女の手には“小難しそうな物理学の本”があった――。
「そ、そんなばかな……」
「何をやってるの、霊夢。入ってくれば?」
霊夢が見当違いの部分で衝撃を受けているときも、この吸血鬼は沈着だった。霊夢は信じられないという態度を続けながらも招きに応じる。
そこは大きな部屋だった。先ほど図書館の大きさを見ているため、フランドールの部屋も小さく感じるが、一人の部屋としては大きい部類だと思われた。しかし、家具や物の少なさから殺風景な印象を強く持つ。特に変わったものは物理学の本しか見受けられず、寂しい部屋だなと霊夢は思った。
彼女は知らず知らずのうちに、不憫な者を見る目で吸血鬼を見ていた。
一方、吸血鬼は首を捻る。彼女と霊夢は初対面ではないが、余り親しい訳でもない。霊夢のことは彼女の姉の言からそれとなく聞き及んではいたが、どうも聞いていた印象とは違うようだ。部屋の入り口で呆然としたり、入ってきたら入ってきたで妙な視線を送ってきたり、理解に苦しむ奇行が目立つ。ならば、この生態こそが巫女と呼ばれるものなのかと、彼女の中で巫女に関して間違った知識が完成しつつあった。
そうとは知らずに霊夢が寄る。
「あなたね、こんなものを読んでは駄目よ。お姉さんが絵本を読んであげるから、そっちにしましょう。ね?」
「わあ、遊んでくれるの?」
フランドールが嬉しそうに霊夢に飛びついた。霊夢にとっては物理学から離れるために起こした行動であったが、彼女の意図以上にフランドールには有効だったようだ。彼女としても幼子に付き合うことは慣れているし、フランドールの期待に満ちた目を見れば、一緒に遊んであげるのもやぶさかではないと思った。
かくして二人は、フランドールたっての希望により『弾幕ごっこ』という遊びをすることになった。弾幕ごっことは、弾幕と呼ばれる光弾を互いに放ちながら、自分が有利なスペースを確保する、場所取りゲームのようなものである。一度でも相手の光弾に当たるとその者の敗け。勝負に勝つには、相手の弾幕と自分の弾幕の軌道を見極め、上手な位置をキープし続ける必要がある。
そうして両者は互いに向き合いながら位置についた。
「先手は譲るわ、かかってきなさい」
「やった。それじゃあ、いっくよう」
霊夢が自信あり気に言うと、それを聞いたフランドールはさっそく行動を開始した。二つの手から大量の光弾を放ち、霊夢の動けるスペースを少しずつ制限していく。霊夢はフランドールの弾道を予測して、するすると隙間を縫った。霊夢の余裕気な表情にフランドールはにやりと笑う。
彼女はスペルカードの宣言をした。
『禁忌:フォーオブアカインド』
スペルを発動させるとフランドールが四人に増える。一気に四倍の火力が霊夢を襲った。
「(――いきなり本気?)」
霊夢はぐっと力を込めて迎撃態勢に入る。だが、フランドールはそれで終わらせる気は無かった。
『禁忌:フォーオブアカインド』
追加されたスペルにより、四人のフランドールそれぞれがさらに四人に増える。流石に霊夢も慌てた。
「(えっ、ちょっと待って――、」
『禁忌:フォーオブアカインド』
さらに四倍――。
「(いや、それはいくらなんでも――、」
『禁忌:フォーオブアカインド』
さらにさらに四倍――……。
「(だから待ってってばー!!)」
霊夢の心の叫びも虚しく、フランドールたちはそれぞれに分身を作り出した。
その数、1×4の4乗=256人。部屋の中をフランドールが満たした。
霊夢は知らず知らずのうちに後退りをしていた。額には大粒の汗が浮かぶ。そんな彼女を気にかける様子もなく、フランドールたちは一斉に弾幕を作成していった。
霊夢と目が合うと、彼女はにっこりと笑った。
『あーそびーましょー』
「無理ぃぃぃぃぃ!!!」
それは物理学者もびっくりの分裂反応だった。
◆午前七時直前――。
朝の空気はますます明瞭となり、窓から差し込んだ陽光は霊夢に長く濃い影を作り出していた。
吹き抜けの大広間、談話スペースにあるソファに腰掛けて、霊夢はふぅと疲れたように息を吐いた。すっかり意気消沈しているらしく、二日酔いの頭痛を思い出したのも合わさって、暗い感傷に浸っている。今や霊夢は、異変の解決を諦めかけていた。
(全然、理解できない――)
霊夢は心の中で呟いた。紅魔館の、彼女たちの行動が理解出来ない。ひょっとすると、これが紅魔館流の歓待なのかもしれないが、それを慮ってやれるほど彼女は経験豊富ではなかった。
それに、彼女の呟きが本当に意味していたのは、そこではなかった。
(まるで仲間外れにされたみたい――)
それが、彼女が面白くないと感じる部分だった。
――そして、唐突に霊夢は理解した。
自分は仲間に入りたかったのか、と。
それが出来ないからムキになっていたのか、と。
振り返れば自分らしくない行動であった。異変などとかこつけていたが、嫌なら立ち去れば良かったのである。しかし、それをせずに留まったのは、心のどこかに『もっと親しくなりたい』という気持ちがあったからで、そして、それが叶わないからこそ、『面白くない』と思ったのだ。
……確かにレミリアの言う通り、自分の自意識過剰で、単なる偶然が重なっただけなのかも知れない。だが、レミリアはこうも言うのだ。“自分は運命を操ることが出来る”と。ならば紅魔館の持つ意志が、自分を除け者にする運命を選択しているようにも思えた。
しかし、それは何故だろうか。
自分が第三者だからだろうか。自分が紅魔館の住人ではないからだろうか。だから自分は紅魔館の運命に入ることが出来ないのだろうか。
そうかもしれない。だが、それはとても詰まらない運命に思えた。
霊夢が後ろを振り向くと、そこには振り子式の柱時計が見えた。もうじき午前七時になる。自分が活動を始めてから六〇分後。時計の長針が一周した時刻になる。
そうして霊夢は気付いた。――そう、六〇分なのだ。決して七〇分ではないのだ。円は七では割り切れない。七人目の入る隙など無い。初めから自分の居場所はここには無かったのだ。
ならば仕方がないのかもしれない。時計の針は時間の流れを表すもの。そして時間の流れとは、運命という大きな流れそのものなのだから。時の女神が配した宿命に、個人が抗える訳がなかった。
――だが。
本当にそうだろうか。本当に運命は変えられないのだろうか。
思うに、運命とは誰かが予め決めるものではなく、個々の小さな事象が集まって出来る結果論的なものではないだろうか。ひとりひとりの小さな選択から成る物事の集積こそが、後に運命だったと呼ばれる偶然を引き起こすのではないだろうか。
霊夢は立ち上がった。真っ直ぐ時計の方へ進んでいった。手に取ると、その針は簡単に動かせた。霊夢はその長針をとって、時間の進行方向とは逆に針を進める。
時刻は――午前六時五〇分。
霊夢が目覚めてから六〇分後の午前六時五〇分――。
……しばらくして時計の鐘が鳴った。
午前七時《the seven o'clock》である。
霊夢が目覚めて“七〇分後”の午前七時であった。
「はあ、何やってんだろ……」
霊夢は自嘲気味に呟いた。なんて馬鹿な真似をしているのだろう、こんなことをしても意味はないのに。しかし、霊夢はその場からすぐに動くことが出来なかった。身体が鉛になったように、それを動かして立ち去るには、ある程度の勇気と勢いが必要だった。
そして、ようやく決心がついて歩きだそうとした時、何者かの小さな足音が聞こえた。
――パチパチパチ。
足音に負けず劣らずの小さな拍手だった。霊夢がその人物の方に視線を向けようとした時、不意に何者かが彼女の横を素早く通り過ぎた。その者は談話スペースのカーテンを急いで閉めて廻る。それは咲夜で、そして拍手をした小さな人物は、この館の主であるレミリア・スカーレットであった。
「おめでとう、霊夢。よく気づいたわね」
彼女は不敵な笑みを浮かべながら、一歩、また一歩と霊夢に近付く。霊夢の鼓動が急速に早まっていった。
「これで試練はすべて終わったのよ」
「……試練? やっぱりアンタが――、」
「“運命”よ、霊夢。運命は試練を選択した……」
レミリアは霊夢の言葉を制止して、“運命”という言葉を口にした。余裕の表情のレミリアだったが、霊夢は彼女の言っている意味がよく理解出来なかった。霊夢は彼女の隣で慎ましく待機している咲夜に助けを求める。咲夜は主を気にして、言うべきか否かを迷っていたようだか、やがて口を開いた。
「実は、お嬢様はあなたに取って置きのボトルを空けられて大層腹を――、」
「黙りなさい、咲夜」
ぴしゃりと言い遮る。何やら穏やかならぬ事実が見え隠れしたが、咲夜はレミリアの一言であっさり引き下がった。レミリアはまだ余裕の表情を崩しておらず、そのままついと霊夢の前に一歩踏み出た。
「あなたは今、運命を自分の手で捻じ曲げたのよ。時の法則、一時間は六〇分であるという必然、そうあるべき運命を変えてみせた」
それは祝福するような口調だった。
すると霊夢は、今度こそ彼女の言葉の意味を噛み締めることが出来た。
運命――。
超越的で人智を超えた大きな流れ。
レミリアの言うことが正しいならば、それが変わったのだ。
霊夢の小さな力で、流れが変わった……。
「運命は変えられる。一時間が七〇分になったように。あなたは七人目となった」
「七人目……?」
「ふふふ。――あら、早速来たようね。さあ、あなたの運命を見せてちょうだい」
レミリアは奥まった廊下の先に視線をやった。霊夢もつられて顔を向ける。しばらくすると、誰かの足音が聞こえてきた。更に慎重に待つと、その者の影も見え始める。それは白黒の魔女で、彼女は一直線にこちらに向かっていた。
ふと、霊夢は全てを理解する。
自分が何をするべきなのか、何を期待されているのかを。
彼女はそれがはっきりと分かっていた。
そして、それが運命というものなのだと、自分の全身で感じていた。
……霊夢は懐から一枚の札を出した。
「おーす、邪魔すr――」
『霊符:夢想封印!!』
「ぎゃーーーす!!!!」
こうして紅魔館に七人目の“S”が生まれた。
読了、ありがとうございます。
元ネタは森博嗣著「すべてがFになる」
この小説のなかにある、
「7は孤独」
という言葉がとても印象に残っています。
みすゞ元ネタは森博嗣著「すべてがFになる」
この小説のなかにある、
「7は孤独」
という言葉がとても印象に残っています。
元ネタは ほとんど無関係なので知らなくても大丈夫です。
読んでくれて ありがとうございました。