眠りと覚醒の境界を、ふわりふわぁりと行ったり来たり。
仄かな灯に包まれて、私は私の孤独にだけ浸っていた。
雨が降っていた。
人里離れたあばら屋の中だ。軒先から、雨に煙る山の先が見える。
まだ昼間のはずなのに、厚くかかる雲が、空を覆い隠して薄暗い。
空気さえ重たく、鬱陶しく、肌にまとわりつき、視界を埋めている。
寝ぼけたように重い頭を……ゆっくりと足下に落とすと、小さなかみきり虫が一匹、爪先に触れて乗り越えようとするかのようにのろのろ、のろのろと何度か触れて、やがて諦めたように足の形に添って遠回りをした。
かみきり虫から小指の先ほどの小さな欲望が浮かび上がって、ぼんやりと浮かんだ。生え放題になっている雑草の合間へと虫が消えていくのと同じように、欲望もかすれて、消えた。あまりに小さいので、それが食欲なのか種の保存への欲望なのか、分からないほどだった。そういうのを含めて、生存本能と呼ぶのだろう。
「お前が、起こしたのですか?」馬鹿なことを。呟いてから、思う。瞳を閉じて音を聞く。さあ、と静かな雨音。家の中に籠もってさざめく、遠い人里の欲の声。
生存本能。ぼうっと考えた。生きたい、とさえ思わない、意識以前の渇望。
ここは人里離れた所だ。欲望の声さえ、人々の生活の音さえ、遠い。
私は、どうしてそんなところに座って、ぼうっとしていたのか、すぐには思い出せなかった。思い出せないなら、いい、と思った。静かでいられることさえ、今の私には貴重な時間だ。宴会に出ることも、道場の皆と日々を過ごすことも、人里に出て、人に交わることも悪くはないけれど。
「太子様」
これは欲望の声だろうか。私は瞳を閉じたまま、肩に触れる感覚に身を委ねてみた。
太子様、と囁く声。ああこれは屠自古だと思った。屠自古は私の大切な人だ。手を伸ばして、屠自古の霊体に触れる。少しひやりとする感触がして、ああやっぱり屠自古だと思った。身体に腕を絡めて、瞳を開けると、屠自古の顔が近くにあった。
「太子様、冷たい空気にずっと当たっていると、風邪を引きますよ」
屠自古は少し、恥ずかしがっているように見えた。肌を合わせるということは、人と触れ合うということは、幾度となく繰り返し、互いに受け入れたこととしても、慣れ切った空気のように甘受することはない。構わず、背中に回した腕を首元に回し、指先でうなじに触れた。少し恥じらいを見せて、顔を背ける。
「どうしたのですか、少し、妙ですよ」
「屠自古、特別な理由は何もないのです。生きるということは、求めるということは。理由などない。零か一でしかないのに。どうして、呼吸をするということに、屠自古を求めるということに、屠自古に触れるということ、屠自古を私のものにするということに、疑問を抱かねばならないのです」
「もっともらしいことを言って誤魔化さないでください」
「きゃう」
屠自古に小突かれて屠自古はすすすと離れてしまったので、私は仕方なしに座ったままぼうっとしていた。少し向こうに、雨音に紛れて、屠自古の気配が聞こえている。さっきまで外していたヘッドホンをつけた。雨音も、遠い人里の声も、隣にいる屠自古の声も、薄れて消えてゆき、じいんじいんという耳鳴りだけが響いている。屠自古の声は、近いから、ヘッドホン越しにでも聞こえてくる。私はその声も努めて、聞かないようにした。何だか悪い気分がしたのだ。
せっかく呼びに来てくれたのに、悪いな、と思った。私は人の心の声が聞こえる。その人がどうしていたいか、分かるのだ。だから、ここで屠自古が何を考えているかなんてすぐに分かるし、それを元にしてどうしてあげればいいかなんて、すぐにできてしまうのだ。屠自古もそれを知っている。だからと言って、対処すれば声を聞いたと怒るし、何もしなければ、心を読んでいるのに何もしてくれないと怒るのだ。利害に重きを置かない人間関係は、難しい。
思えばずっと昔から、人々にはそうやって接してきた。私が力を使えることは、私に与えられた権能であって、それが人にないものだからと自粛するのではなくて、使えるものは何でも使えと割り切ってしまってから、私は何だかくたびれてしまった。私は人々の望みを叶えるのが当たり前で、だけど私だってそれは簡単なことじゃないのだ。
何も求める者がない者が、勧められて求める救い。
仏の教え。
幸せになれる法則なんて存在しない。不満を受け流し、利得をあるがままに受け入れる為のおためごかし。結局のところ、私は知らず知らずのうちに仏教なんてものを信じていたのかもしれない。人々を騙すために自分を騙している内、どこかで信じてしまっているような。人々が信じているから、などと。人々に流されるがごとくに。
……つい最近まで、自分がそうだったのだ。霊廟の中眠る私は、人々の交錯と盛衰を、微睡みの中ぼうっと眺めていた。人々は、私が何を成したのかを知らないまま信じた。私が信仰を受けるという事実。人々が求めるままに、応えるということは、とても特別なことだったのだと、知らず、聞こえる声のままに応えるということ。
私は、ただ私であれば良かったから、あっさりと現世を、人々を、欲望の声を投げ捨てて幻想へと入り込んだ。けれど、残された子供達はどうだっただろう。私を利用し、利用された、あの豪族達は? あの者達は、私がいないという事実の前では、立派にそれぞれの思惑に添い遂げた。思いのまま、人々が求めるように、あるいは人々が求めたと施政者が歪めた事実を元に。
そこまで思考が至れば、私は思うのだ。私は、本当に人々に必要とされていたのか?
分かっている。感傷に過ぎないことは。私が、物部の末娘を幻想に放り込んだのだ。私自身が求めて、私を幻想に放り込んだのだ。……分かってはいても、考えを止めることが、できない。
私がいなくても、別の誰かが、私の役割をこなしたのではないか?権力争いに敗れ消えていった大王や王子達。彼らのうちの誰かが、私の位置に座っていただけではないのか?
……私は最早幻想だ。誰も、私を求めない。
元より、誰にも求められていなかったのかもしれない。
「屠自古」
無意識に呟いてから、自分の声に気づいて、はっとした。屠自古の名前を呼んでしまった。そうだ、と思った。呼んでから気がつく。随分と長い間、屠自古を放ったらかしにしてしまった。怒っていたのに、放ったらかしにして。屠自古はますます怒っているだろう。もしかしたら、もうそこにはいなくて、帰っているかもしれない。
私は怖くなった。屠自古は、もういないかもしれない。
「屠自古っ」
屠自古を見た。言葉は返ってこなかった。
雨に煙る景色。山々が白く、遠く見える。それらを背景に、幽体となった足を投げ出して、ぼうっと空を見ている屠自古が見えた。
「あ、はい。太子様、どうかしましたか?」
屠自古は小首を傾げて、何事でもなかったかのように、私を不思議そうに見つめている。
「……いえ、特に何もないのですが。……怒って、いないのですか?」
「怒る? ……いえ、別に? あ、さっきの。太子様があんな風なのはいつものことですし……怒っていませんよ、別に。それより、太子様こそ良いのですか?」
「……何がです?」
「いえ。何か思索をしているようだったので、お邪魔をしてはいけないかなと思って。一人でいたいのなら、ここにいるのも迷惑かなと思ったのですが、黙って帰るのも悪いと思って。何となく、風景を見ていたんです」
何となく軽く笑って、屠自古から視線を外した。
「そ、それが……どうかしましたか?」
「いえ、別に。……屠自古。あなたが待っていてくれるから、私は帰ってくることができるのですね」
「……はい?」
「私は一人だと思い込んでいました。別段、誰にも求められていないと」
私は腰を上げて、屠自古に歩み寄った。また妙なことを言い出した、と眉を潜めた屠自古が、私を見ている。隣に座ると、いぶかしげに私を見た。
「……また触る気じゃないでしょうね」
「真面目です」
「遊びで触られても困りますけども」
「まあ、真面目に触ったところで子作りができるわけでもありませんけど」
「子供はもういいです」
「死んじゃったけどね」
「入鹿は許しません」
青娥が私の力を強めすぎない為に、入鹿を利用したなんて口が裂けても言えませんし、屠自古が知らなくても良いことです。
「まあそれはもういいのです」
「あなたの息子ですよ。あなたは。全くもう」
「私はもう聖徳太子ではないのですよ。今はただの、少し耳が良いだけの、ただの道士です。あなたも、太子様などと余所余所しい呼び方をせずに、神子様と呼んでもいいのですよ」
「自分で様付けとか」
「みこ」
「……私にとって太子様は太子様ですよ」
「あなたの心の声は、そうは言ってはいませんよ」
「………………」
「『呼びたーい、呼びたーい、神子様って呼びたーい』」
「………………」
「『神子様と呼んでいちゃいちゃしたーい、同じ布団で寝たーい』」
「そんなこと思ってません」
「そうですね、普段からしてますからね」
「……そんなこと、ないです。あの物部が頻繁に構いに来るし……あの物部が……同じ布団で寝たりなんかしたら、あいつ妙に早起きだから起こしに来て羨ましがるし……」
「『温泉行きたーい』」
「あ、温泉は行きたいかも。太子様が復活するまでの間、青娥が出掛けては温泉に行っただの自慢するもんだから、羨ましいやら悔しいやら……土産に持って帰ってくる温泉饅頭はおいしかったけど」
温泉か、と思う。そう言えば地底の入り口に温泉があるらしい。そういう家族サービスなんかも全然してこなかったな、と思う。人だった頃の私は、人々のためになることが引いては家族のためになると思っていた。それが結局、家族のためどころか人々そのもののためにもならず、自分自身のためにさえならなかったことを知った頃には、私は疲れ切っていた。
「今度、行きます?」
屠自古を振り返ると、楽しそうな顔をして考え事をしていた。ほわんほわんと音が出そうな感じだった。
「あ、ごめんなさい。太子様、何か仰いました?」
ふふふ。くすくす。私はおかしくなって少し笑った。
「行きたいですか、屠自古」
「あ、温泉ですか? うーん……まあ、行けたらいいですけど。行けなくってもいいかな……でも、なんとなくこうやってぼうっと考えているの、楽しいですよ」
私は声を上げて笑ってしまった。屠自古はそれを咎めるでもなく、微笑みを浮かべて私を見詰めている。
「知っていますか、屠自古」
おかしみが去ってしまうと、少し感傷的な気分になって、微笑みかける屠自古に言葉をかけた。
「私にとっては、あなたがそうやって隣で笑っていてくれるのが、何より嬉しいのですよ」
ふ、と屠自古が笑う。そんなこと、知っていますよ。そうとでも言いたげに。私自身分からなかったことを、屠自古はこんなにもあっさりと認めてしまえるのだ。自分自身の声は聞こえない。私は、私自身は、ずっと前から、屠自古を求めていたのかもしれなかった。そうだと、認めてしまえれば。自嘲気味にふっと笑った。こんな風に屠自古と過ごすことは、初めてのように思えた。道術を知る前から、そうしていたはずなのに。
「結局のところ。……自分は一人だと、孤独だと、信じている者は薄れ、消えゆく定めであるのかもしれませんね」
私がそう呟いて瞳を閉じると、屠自古が身を寄せてきた。『神子様の側にいたい』屠自古の声が聞こえる。いじらしくて、ふっと笑った。屠自古の肩に手を回した。襟首に指を沿わせて、布と身体の境界に触れると、びくっと屠自古が身を震わせる気配がした。
「……何なんですか。また身体を触る気ですか」
「私はいつだって屠自古に触れていたいと思っていますよ」
「またそうやってはぐらかして。神子様のそういうところ、あんまり好きではないです」
「私は真面目です。……まあ、そういうことではなくて」
布を割って、手の平を肌につけたまま、屠自古の胸元に指を滑らせた。屠自古は、手を膝に揃えたまま、身体を動かそうとはしなかった。時折、びくびくと身体を震わせた。
「私を求める者は、誰一人としていなくなった。屠自古、あなたの他には」
屠自古の首筋に唇をつけようとしたら、下から指が伸びてきて、私の首の背で指を絡めた。後ろ向きに、屠自古に抱かれている形になって、屠自古の唇が上を向いた。
私は屠自古の唇を受け入れた。
屠自古の声が聞こえてくる。
『太子様。そんなことを言われたら、私は、この蘇我屠自古は』
『太子様を求めるためだけの妄念となったこの身は、どこへ行けと言うのです』
『あなたのためだけでいい』
『神子さまのためのものにして下さい』
『みこさま』
『みこさま』
唇を離すと、屠自古が閉じていた瞳を、ゆっくりと開けて、私を見上げた。瞳は僅かにうるんでいるようだった。
「あなた、変わりませんね。口付けをする時目を閉じる。……そんな癖」
屠自古は慌てて、目を伏せた。
「わ、私は」
屠自古が身体ごと振り返って、私の胸に飛び込んできた。
「私は真面目に心配してるのに。神子様がそんな風にふざけるから、私は。どうしたらいいか分からなくて、困るんです。神子様のばか」
屠自古は泣いているようだった。私は屠自古の背中をぽんぽんと軽く叩きながら、抱き寄せた。
「……やれやれ。良い家族をするというのも、大変ですねえ。いや、何一つ、できたことなんてなかったのかもしれません。屠自古。あなたがそうやって、変わらずにいてくれるのは、とても嬉しいことですよ」
「だから。どうして、そんなこと言うんですか。どうして一か零かしかないんですか。神子様は」
「とりあえず、一つ一つ済ませていきましょうか。温泉に行って? 二人っきりになって? 布団敷いて、それから……」
「神子様、別に私は、温泉に行きたいとか、そういうのはいいんです」
ただ、と屠自古は私を見た。屠自古は泣き顔も美しいなあ、とぼんやりと思った。後ろに、雨でぼやけた幻想郷の風景がある。
「屠自古は泣き顔も美しいですねえ」
「ば、ばか! 真面目に聞いてください、神子様のばか!」
ばーんばりばり、と雷が落ちて私は黒こげになった。
「はい、真面目ですよ。真面目になった」
「うっ、ぐすっ。ですから。……私は、神子様がいてくれたらそれだけで。……さっきみたいに、いなくなるかも、とか、いなくなりたい、みたいなこと。……言われたら、辛いです」
ああ、屠自古はそれだけが言いたかったんだなあ、と思った。そして屠自古はわがままだなあ、と思った。自分自身は最後に自分で勝手にできるものだから。それが欲しい、なんて。なんて欲望が強いのだろう。
「全く、屠自古は……」
再び胸元に顔を埋めた屠自古を、私は撫でた。可愛い可愛い、私のお嫁さん。
仄かな灯に包まれて、私は私の孤独にだけ浸っていた。
雨が降っていた。
人里離れたあばら屋の中だ。軒先から、雨に煙る山の先が見える。
まだ昼間のはずなのに、厚くかかる雲が、空を覆い隠して薄暗い。
空気さえ重たく、鬱陶しく、肌にまとわりつき、視界を埋めている。
寝ぼけたように重い頭を……ゆっくりと足下に落とすと、小さなかみきり虫が一匹、爪先に触れて乗り越えようとするかのようにのろのろ、のろのろと何度か触れて、やがて諦めたように足の形に添って遠回りをした。
かみきり虫から小指の先ほどの小さな欲望が浮かび上がって、ぼんやりと浮かんだ。生え放題になっている雑草の合間へと虫が消えていくのと同じように、欲望もかすれて、消えた。あまりに小さいので、それが食欲なのか種の保存への欲望なのか、分からないほどだった。そういうのを含めて、生存本能と呼ぶのだろう。
「お前が、起こしたのですか?」馬鹿なことを。呟いてから、思う。瞳を閉じて音を聞く。さあ、と静かな雨音。家の中に籠もってさざめく、遠い人里の欲の声。
生存本能。ぼうっと考えた。生きたい、とさえ思わない、意識以前の渇望。
ここは人里離れた所だ。欲望の声さえ、人々の生活の音さえ、遠い。
私は、どうしてそんなところに座って、ぼうっとしていたのか、すぐには思い出せなかった。思い出せないなら、いい、と思った。静かでいられることさえ、今の私には貴重な時間だ。宴会に出ることも、道場の皆と日々を過ごすことも、人里に出て、人に交わることも悪くはないけれど。
「太子様」
これは欲望の声だろうか。私は瞳を閉じたまま、肩に触れる感覚に身を委ねてみた。
太子様、と囁く声。ああこれは屠自古だと思った。屠自古は私の大切な人だ。手を伸ばして、屠自古の霊体に触れる。少しひやりとする感触がして、ああやっぱり屠自古だと思った。身体に腕を絡めて、瞳を開けると、屠自古の顔が近くにあった。
「太子様、冷たい空気にずっと当たっていると、風邪を引きますよ」
屠自古は少し、恥ずかしがっているように見えた。肌を合わせるということは、人と触れ合うということは、幾度となく繰り返し、互いに受け入れたこととしても、慣れ切った空気のように甘受することはない。構わず、背中に回した腕を首元に回し、指先でうなじに触れた。少し恥じらいを見せて、顔を背ける。
「どうしたのですか、少し、妙ですよ」
「屠自古、特別な理由は何もないのです。生きるということは、求めるということは。理由などない。零か一でしかないのに。どうして、呼吸をするということに、屠自古を求めるということに、屠自古に触れるということ、屠自古を私のものにするということに、疑問を抱かねばならないのです」
「もっともらしいことを言って誤魔化さないでください」
「きゃう」
屠自古に小突かれて屠自古はすすすと離れてしまったので、私は仕方なしに座ったままぼうっとしていた。少し向こうに、雨音に紛れて、屠自古の気配が聞こえている。さっきまで外していたヘッドホンをつけた。雨音も、遠い人里の声も、隣にいる屠自古の声も、薄れて消えてゆき、じいんじいんという耳鳴りだけが響いている。屠自古の声は、近いから、ヘッドホン越しにでも聞こえてくる。私はその声も努めて、聞かないようにした。何だか悪い気分がしたのだ。
せっかく呼びに来てくれたのに、悪いな、と思った。私は人の心の声が聞こえる。その人がどうしていたいか、分かるのだ。だから、ここで屠自古が何を考えているかなんてすぐに分かるし、それを元にしてどうしてあげればいいかなんて、すぐにできてしまうのだ。屠自古もそれを知っている。だからと言って、対処すれば声を聞いたと怒るし、何もしなければ、心を読んでいるのに何もしてくれないと怒るのだ。利害に重きを置かない人間関係は、難しい。
思えばずっと昔から、人々にはそうやって接してきた。私が力を使えることは、私に与えられた権能であって、それが人にないものだからと自粛するのではなくて、使えるものは何でも使えと割り切ってしまってから、私は何だかくたびれてしまった。私は人々の望みを叶えるのが当たり前で、だけど私だってそれは簡単なことじゃないのだ。
何も求める者がない者が、勧められて求める救い。
仏の教え。
幸せになれる法則なんて存在しない。不満を受け流し、利得をあるがままに受け入れる為のおためごかし。結局のところ、私は知らず知らずのうちに仏教なんてものを信じていたのかもしれない。人々を騙すために自分を騙している内、どこかで信じてしまっているような。人々が信じているから、などと。人々に流されるがごとくに。
……つい最近まで、自分がそうだったのだ。霊廟の中眠る私は、人々の交錯と盛衰を、微睡みの中ぼうっと眺めていた。人々は、私が何を成したのかを知らないまま信じた。私が信仰を受けるという事実。人々が求めるままに、応えるということは、とても特別なことだったのだと、知らず、聞こえる声のままに応えるということ。
私は、ただ私であれば良かったから、あっさりと現世を、人々を、欲望の声を投げ捨てて幻想へと入り込んだ。けれど、残された子供達はどうだっただろう。私を利用し、利用された、あの豪族達は? あの者達は、私がいないという事実の前では、立派にそれぞれの思惑に添い遂げた。思いのまま、人々が求めるように、あるいは人々が求めたと施政者が歪めた事実を元に。
そこまで思考が至れば、私は思うのだ。私は、本当に人々に必要とされていたのか?
分かっている。感傷に過ぎないことは。私が、物部の末娘を幻想に放り込んだのだ。私自身が求めて、私を幻想に放り込んだのだ。……分かってはいても、考えを止めることが、できない。
私がいなくても、別の誰かが、私の役割をこなしたのではないか?権力争いに敗れ消えていった大王や王子達。彼らのうちの誰かが、私の位置に座っていただけではないのか?
……私は最早幻想だ。誰も、私を求めない。
元より、誰にも求められていなかったのかもしれない。
「屠自古」
無意識に呟いてから、自分の声に気づいて、はっとした。屠自古の名前を呼んでしまった。そうだ、と思った。呼んでから気がつく。随分と長い間、屠自古を放ったらかしにしてしまった。怒っていたのに、放ったらかしにして。屠自古はますます怒っているだろう。もしかしたら、もうそこにはいなくて、帰っているかもしれない。
私は怖くなった。屠自古は、もういないかもしれない。
「屠自古っ」
屠自古を見た。言葉は返ってこなかった。
雨に煙る景色。山々が白く、遠く見える。それらを背景に、幽体となった足を投げ出して、ぼうっと空を見ている屠自古が見えた。
「あ、はい。太子様、どうかしましたか?」
屠自古は小首を傾げて、何事でもなかったかのように、私を不思議そうに見つめている。
「……いえ、特に何もないのですが。……怒って、いないのですか?」
「怒る? ……いえ、別に? あ、さっきの。太子様があんな風なのはいつものことですし……怒っていませんよ、別に。それより、太子様こそ良いのですか?」
「……何がです?」
「いえ。何か思索をしているようだったので、お邪魔をしてはいけないかなと思って。一人でいたいのなら、ここにいるのも迷惑かなと思ったのですが、黙って帰るのも悪いと思って。何となく、風景を見ていたんです」
何となく軽く笑って、屠自古から視線を外した。
「そ、それが……どうかしましたか?」
「いえ、別に。……屠自古。あなたが待っていてくれるから、私は帰ってくることができるのですね」
「……はい?」
「私は一人だと思い込んでいました。別段、誰にも求められていないと」
私は腰を上げて、屠自古に歩み寄った。また妙なことを言い出した、と眉を潜めた屠自古が、私を見ている。隣に座ると、いぶかしげに私を見た。
「……また触る気じゃないでしょうね」
「真面目です」
「遊びで触られても困りますけども」
「まあ、真面目に触ったところで子作りができるわけでもありませんけど」
「子供はもういいです」
「死んじゃったけどね」
「入鹿は許しません」
青娥が私の力を強めすぎない為に、入鹿を利用したなんて口が裂けても言えませんし、屠自古が知らなくても良いことです。
「まあそれはもういいのです」
「あなたの息子ですよ。あなたは。全くもう」
「私はもう聖徳太子ではないのですよ。今はただの、少し耳が良いだけの、ただの道士です。あなたも、太子様などと余所余所しい呼び方をせずに、神子様と呼んでもいいのですよ」
「自分で様付けとか」
「みこ」
「……私にとって太子様は太子様ですよ」
「あなたの心の声は、そうは言ってはいませんよ」
「………………」
「『呼びたーい、呼びたーい、神子様って呼びたーい』」
「………………」
「『神子様と呼んでいちゃいちゃしたーい、同じ布団で寝たーい』」
「そんなこと思ってません」
「そうですね、普段からしてますからね」
「……そんなこと、ないです。あの物部が頻繁に構いに来るし……あの物部が……同じ布団で寝たりなんかしたら、あいつ妙に早起きだから起こしに来て羨ましがるし……」
「『温泉行きたーい』」
「あ、温泉は行きたいかも。太子様が復活するまでの間、青娥が出掛けては温泉に行っただの自慢するもんだから、羨ましいやら悔しいやら……土産に持って帰ってくる温泉饅頭はおいしかったけど」
温泉か、と思う。そう言えば地底の入り口に温泉があるらしい。そういう家族サービスなんかも全然してこなかったな、と思う。人だった頃の私は、人々のためになることが引いては家族のためになると思っていた。それが結局、家族のためどころか人々そのもののためにもならず、自分自身のためにさえならなかったことを知った頃には、私は疲れ切っていた。
「今度、行きます?」
屠自古を振り返ると、楽しそうな顔をして考え事をしていた。ほわんほわんと音が出そうな感じだった。
「あ、ごめんなさい。太子様、何か仰いました?」
ふふふ。くすくす。私はおかしくなって少し笑った。
「行きたいですか、屠自古」
「あ、温泉ですか? うーん……まあ、行けたらいいですけど。行けなくってもいいかな……でも、なんとなくこうやってぼうっと考えているの、楽しいですよ」
私は声を上げて笑ってしまった。屠自古はそれを咎めるでもなく、微笑みを浮かべて私を見詰めている。
「知っていますか、屠自古」
おかしみが去ってしまうと、少し感傷的な気分になって、微笑みかける屠自古に言葉をかけた。
「私にとっては、あなたがそうやって隣で笑っていてくれるのが、何より嬉しいのですよ」
ふ、と屠自古が笑う。そんなこと、知っていますよ。そうとでも言いたげに。私自身分からなかったことを、屠自古はこんなにもあっさりと認めてしまえるのだ。自分自身の声は聞こえない。私は、私自身は、ずっと前から、屠自古を求めていたのかもしれなかった。そうだと、認めてしまえれば。自嘲気味にふっと笑った。こんな風に屠自古と過ごすことは、初めてのように思えた。道術を知る前から、そうしていたはずなのに。
「結局のところ。……自分は一人だと、孤独だと、信じている者は薄れ、消えゆく定めであるのかもしれませんね」
私がそう呟いて瞳を閉じると、屠自古が身を寄せてきた。『神子様の側にいたい』屠自古の声が聞こえる。いじらしくて、ふっと笑った。屠自古の肩に手を回した。襟首に指を沿わせて、布と身体の境界に触れると、びくっと屠自古が身を震わせる気配がした。
「……何なんですか。また身体を触る気ですか」
「私はいつだって屠自古に触れていたいと思っていますよ」
「またそうやってはぐらかして。神子様のそういうところ、あんまり好きではないです」
「私は真面目です。……まあ、そういうことではなくて」
布を割って、手の平を肌につけたまま、屠自古の胸元に指を滑らせた。屠自古は、手を膝に揃えたまま、身体を動かそうとはしなかった。時折、びくびくと身体を震わせた。
「私を求める者は、誰一人としていなくなった。屠自古、あなたの他には」
屠自古の首筋に唇をつけようとしたら、下から指が伸びてきて、私の首の背で指を絡めた。後ろ向きに、屠自古に抱かれている形になって、屠自古の唇が上を向いた。
私は屠自古の唇を受け入れた。
屠自古の声が聞こえてくる。
『太子様。そんなことを言われたら、私は、この蘇我屠自古は』
『太子様を求めるためだけの妄念となったこの身は、どこへ行けと言うのです』
『あなたのためだけでいい』
『神子さまのためのものにして下さい』
『みこさま』
『みこさま』
唇を離すと、屠自古が閉じていた瞳を、ゆっくりと開けて、私を見上げた。瞳は僅かにうるんでいるようだった。
「あなた、変わりませんね。口付けをする時目を閉じる。……そんな癖」
屠自古は慌てて、目を伏せた。
「わ、私は」
屠自古が身体ごと振り返って、私の胸に飛び込んできた。
「私は真面目に心配してるのに。神子様がそんな風にふざけるから、私は。どうしたらいいか分からなくて、困るんです。神子様のばか」
屠自古は泣いているようだった。私は屠自古の背中をぽんぽんと軽く叩きながら、抱き寄せた。
「……やれやれ。良い家族をするというのも、大変ですねえ。いや、何一つ、できたことなんてなかったのかもしれません。屠自古。あなたがそうやって、変わらずにいてくれるのは、とても嬉しいことですよ」
「だから。どうして、そんなこと言うんですか。どうして一か零かしかないんですか。神子様は」
「とりあえず、一つ一つ済ませていきましょうか。温泉に行って? 二人っきりになって? 布団敷いて、それから……」
「神子様、別に私は、温泉に行きたいとか、そういうのはいいんです」
ただ、と屠自古は私を見た。屠自古は泣き顔も美しいなあ、とぼんやりと思った。後ろに、雨でぼやけた幻想郷の風景がある。
「屠自古は泣き顔も美しいですねえ」
「ば、ばか! 真面目に聞いてください、神子様のばか!」
ばーんばりばり、と雷が落ちて私は黒こげになった。
「はい、真面目ですよ。真面目になった」
「うっ、ぐすっ。ですから。……私は、神子様がいてくれたらそれだけで。……さっきみたいに、いなくなるかも、とか、いなくなりたい、みたいなこと。……言われたら、辛いです」
ああ、屠自古はそれだけが言いたかったんだなあ、と思った。そして屠自古はわがままだなあ、と思った。自分自身は最後に自分で勝手にできるものだから。それが欲しい、なんて。なんて欲望が強いのだろう。
「全く、屠自古は……」
再び胸元に顔を埋めた屠自古を、私は撫でた。可愛い可愛い、私のお嫁さん。
Yotogi期待していいですかいいですねお願いします!
雰囲気がすごく素敵。
Yotogi期待していいんですね...?
もっとお願いします
これはお布団敷いちゃいましょう!
すごい良かった!