さとり妖怪が電車に追いかけられている。
この事実を私はどう受け止めたらいいのだろうか。地霊殿でコーヒー片手に本をめくっていたら、いきなり壁を突き破って芸術性の欠片もない灰色が突っ込んできて、私は思わず吹き飛ばされてしまった。久しぶりに読み返していたフランツ・カフカの『変身』も一緒に消え失せてしまい、私は痛む体をあちこち抑え旧地獄街道を歩いている。足取りははっきりとしていて、どうやらどこも壊れていないらしく、多少服が破れていること以外は何も問題ない。いつも通り住人は私を見つけるとこそこそ逃げていくし、私も彼らを見つけたところで何をしようとも思わない。
ああ、またあの音だ。
私は本を読んでばかりで、電車の実物なんて知らないし、鳴り始めたらストーリー上で割と不幸なことが起こる踏切音も知らないし、線路を走るときに話の都合上会話が無理矢理聞こえなくする通過音も知らない。むしろ今回初めて知ったわけで。私は本当に物語の中でしか知らなかったわけで。こんな形で、電車の音なんて知りたくなかった。
どこからともなく電車が突っ込んでくる。
私はまたどこかへ旅立つ。
もう何度目だろう、この感じ。地霊殿に戻ろうとしても別のどこかへ行こうとしても、いつの間にかあの音が聞こえてきて、常に私の見えないところから無表情に追っかけてきて。さとり妖怪らしく、敵の心を読んで電車にトラウマを見せようかなんて思ったら、馬鹿みたいにくるくると空をまわってまた飛んでいく。地面を転がった時に頬が熱くなっていたのは、擦れたせいだけじゃない。どれだけアホなんだ私。
次に落ちたのは洞窟の中。涼しさの半面湿度は高く、水分が身体に纏わりついてべたつく。この陰気な空間は確か、感染症を操る蜘蛛や、嫉妬ばかりしてそこから何も進めない妖怪が居たはずだ。嫌われ者同士仲良くなるなんていうのは物語の中だけだと思う。私とあの二匹がそろったところで、生まれるのはろくでもない事柄しかないし、互いが互いの足を引っ張っていく関係が出来上がるだけだろうから。
「なんだ、そこに居るのですか」
私は天井からぶら下がるそれを見つけた。桶に入って監視するように私を見下ろす彼女は、表情豊かに私へ告げる。
「私はあなたのこと、好きだよ」
「はあ」
「理由は? なんて考えたでしょ。心を読めなくてもそれくらいわかるもん。――ふふっ。そんな、自分の専売特許を盗られたなんて思わないで。え、そんなこと考えていないの? うっそだー。だって、あなたの顔って――とっても醜くなってるじゃない」
よく喋る釣瓶落としですね、と呟きながら、私は顔に手をあててどんな顔をしているのか思わず確認してしまう。それを見て彼女は子供染みた笑いを向けてくる。
「えへへ。褒めてくれるなら、代わりに今ここで首を貰って行ってもいいかな」
「悪いですが、そんな暇はありませんね。キスメ、妹を探しているのですが、どこに行ったのか知りませんか」
「あははっ。あなたの妹なんて、私が見つけられるわけないよ」
それもそうですね、とぼやき、私はこの少女に別れを告げる。私が背を向けると、彼女は後を追うように喋りだす。
「ああ、でも好きだって言ったのは本当だよ。あなたは心を読めるけれど、こういうのは言葉にしないといけないものだし」
「はいはい、そうですか。私はあなたのこと、この地獄の住民と同じくらいには思っていますよ」
何よそれ、とキスメは喚くけれど、私は無視して歩き続けることにした。声は洞窟の中で反響しやぼったくなるくらい長く続いたが、半刻ほど歩き続けたあたりで声はしなくなった。さすがにあれだけ騒げば疲れたのだろう。私はそう結論付けて、何も気づかず歩き続ける。
洞窟はどこまでも続くようで、私は思わずため息を漏らす。行けども行けども同じ景色。視界に入るはただの岩。耳に残るは水の音。水滴で身体に貼りつく服は既に色を変え、ぐっしょりと濡れている。ふよふよと揺れる第三の目がうっとうしい。全く、今日に限って、どうして地霊殿に電車が突っ込んでくるのか。
私は一匹のウサギを目にした。神聖なものであるかのように泥を一切付けず、ただ爛々と目を輝かせて走る真っ白なウサギ。非常にかわいらしく、そして非常においしそう。口の中に入れたら一気にとろけていくような舌触りが広がり、私は最高の幸せを手に出来るんだろうな、と思わず涎を垂らしながら目で追っていく。すると、ウサギはいつの間に見つけたのか、洞窟の脇にぽっかりと開いている穴へまっすぐに入り込んでいった。近くまで行ってみると意外に穴は大きく、もし途中で行き止まりになっていたらおいしい野ウサギが食べられそうである。
どうしようかと迷っていた時、またあの音が聞こえた。
天井を見るとごつごつしていて、ぶつかったら痛そうだな、なんて考えた。
「さて、こいしを探さなくちゃ」
私は穴へと一息に入る。入った直後、後ろを振り返ると無骨でセンスの欠片もない電車が、先ほどまで私が立っていた場所を駆ける。車窓に私が無くしたカフカを張り付けていたそれは、しばらく待っていても終わることを知らず、ただけたたましい風切り音を立てて何百両目かの車両を右から左へ送っていく。どうでも良くなってきたので、私は前を向いて歩き始める。
「ウサギについていくなんて、今時使い古されて流行らない気はしますけどね」
呼吸をすると冷気が肺に送り込まれ、一歩進めば硬い地面に足を滑らせそうになる。途中途中壁にぶつかる第三の目をうっとうしく思いながら、私は足を動かし続ける。いつもは地霊殿で本を読んでばかりだから、こんなに歩いたのは久しぶりだ。怨霊の管理はペットに任せているし、徒然と本を読んだり書いたりして一日を終わらせてしまう私にとって、この機会は引きこもりの運動不足を解消するよい機会に思えた。
ウサギはまだ見えない。
けれど出口は見えた。
私は足を速めて、光が指す方へとまっすぐに進む。そこに何があるかはともかく、明るい方向へ進むというのは実に楽しいものだ。騙されるとわかっていても、ついつい踏み出してしまうあたり、私を作った誰かはよっぽど酷い趣向で私を作ったのだろう。
最後はほとんどよじ登る形で穴を抜けると、眩しい光に加えて、青々とした森林が目についた。白いウサギはどこにも見当たらず、視界に広がるは石畳と鳥居、それに古びた神社といちゃつくバカップルだけだった。
「なんだ、ウサギ肉のシチューなら、人間ほどじゃないにしろこいしも喜んだのに」
全く、世の中は実に不条理だ。大体、なんでこんな一銭も賽銭箱に入らないような神社に私は居る。地底からここまで歩き続けたとか、そんな馬鹿げた話があってはたまらない。私が歩いたのはそう長い距離ではないはずだし、何よりここは見覚えがあるのだから、そんなに遠い場所のはずが――ああ、そうか。私がこの神社を見たのは誰かの記憶の中だから、本当はそんなに遠い場所じゃなかったのかもしれない。
誰の記憶を覗いたときに見えたかは忘れたが、ここは間違いなく、以前に地霊殿へ来た迷惑な巫女の住処であって、私が実際に来た場所ではない。
とりあえず人間が居る方へ目を向けていると、二人の間に何か異質な空気を感じた。
おめでたい色をした人間の膝に、白黒のシーフが頭を乗せてなにやら笑い合っている。一方がちょっとした冗談を言いながらもう一方のお腹をつつくと、つつかれた方はお返しとばかりに頬をつつく。その内なんだか抱き合う格好になって、私のことに気づいていないのか、皮膚が泡立つようなことばかり言っている。
気持ち悪い。
心の声が全然頭に入って来ないくらい、身体が拒否反応を起こしているのだろう。
「ねえ、魔理沙」
それでも、会話は聞こえてくるわけで。
「私が死ぬまで、こうして居てくれる?」
聞きたくもないのに。
「ああ、それが愛するってことなんだろうな」
「もう。ちゃんと応えて」
「馬鹿だな。私がお前の傍から離れるわけがないだろうに」
旺盛なウサギを追いかけてきたはずが、とんだ性欲の塊を捕まえてしまったらしい。二人は私に一切気づくことなく、神社の引き戸を開いて居住スペースへと入っていく。
シングルサイズの布団が敷かれていたことも、そして彼女たちが自分の服を脱いでいくことも、私には酷く遠い世界が演じられているように見えた。
ぱたん、と音を立てて引き戸が締められる。私の中の何かも音を立てて崩れていく。
物語の中なら楽しめる純愛も、現実で知るとこんなに気分が悪くなるものだなんて思わなかった。海外文学とかを読んでいると、しょっちゅう同性愛の関係が目に着くことはある。随分昔に読んだヘッセの『車輪の下』にもそんなシーンがあった気がする。けれど、それは美しい情景描写と共に移りゆく心が明確に示されて。その人間の全てとなって私の心に飛び込んでくるから、ああ、こういうこともあるんだろうなと思わず納得してしまう。
だけど、今のは違う。
顔こそ整ってはいても、私は彼女達のことをあまり知らないし、それに心を読んではいなかったからわからないが、彼女達の中には恐らく葛藤や歪みなんてものは一切なく、ただ一時の平和だけを胸に刻んで目の前の神社へと消えていっただけだ。そこには文学性の欠片もなく、エンターテインメントなどどこにもない。彼らが純粋に愛し合っているのだとすれば言い方は悪いが、そこには何か異常なものが存在しているだけで、私に何も与えてくれないただの肉塊が不快な行動をしているだけだった。
いや、果たして私は本当に心を読んでいなかったのだろうか?
先ほど感じた感覚はどちらかと言えば根拠の無い事柄に近いもので、私には今まで感じたことが無い何かがあったはずで。
ああ、もう少し、もう少しで何かが掴めそうなのに。
あの音がする。私の身体は勝手に反応する。辺りに異常はないとわかっているのに。
「そうだ、こいしを探さなきゃ」
私は流れに身を任せて吹っ飛ばされることにした。
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何度も何度も飛ばされて、そろそろ身体が限界かもしれない。普通の人間に比べればよっぽど丈夫な体も、案外ガタがくるのは早いみたいだ。
「こいしを、探さ、ないと」
立ち上がることも出来ない。妖怪は人間と違って概念的なものだから、神経が切れたとかそんなことは瑣末な事情なので、単純にお迎えが近いようだ。
軽く首を動かしてみると、今度到着したのはこれまた知らない空間だった。
酷い数の光源が目に焼きつく。傘の下をくるくると回る馬に、丸く切り取られた空間が幾数十も並び大きな円を描く建物。車輪を付けた台車がレールの上を尋常じゃない速度で走り、その脇では大きなコーヒーカップがゆっくりと回転している。着ぐるみが徘徊し、風船が浮いて、聞こえるのは無駄に壮大なパレード音楽。
ああ、なるほど。これが遊園地か。
思わず実物を見て納得してしまった私は、ぼんやりと大の地になって地面に横たわっている。上下する胸は荒く、そろそろ終わりも近いのかなー、なんて思わず悟りを開いてしまった。
多分、そんな気分になってしまうのは当然なのだろう。
今回は随分早い。断続的に聞こえる踏み切り音は、私に明確な死を運んでくる。よちよちと近寄ってきて「大丈夫ですか」と無表情に気づかいをしてくる着ぐるみと、後ろから走ってくる警備員を見て、私は「大丈夫です。もう終わりますから」と答え私の死を見つめた。
向こうも姿を隠す必要がないと思ったのか、今度は姿を隠さず、滑稽な灰色をきらめかせて走ってきた。これが私の死かと思うと、思わず笑いが出てしまい、声をあげて顔をほころばせる。
さあ来い。殺したいなら、幾らでも殺されてやろうじゃないか。どうせなら、笑いながら死んでやろう。それであなたが満足できるなら、私は十分だ。
そう思った時だった。
「少しくらいこの状況に疑問を持て馬鹿」
荒々しく叫ぶ声が聞こえる。電車が轟音と共に吹っ飛び、ジェットコースターの骨組みを粉砕する。崩れ落ちた骨組みはコーヒーカップも巻き込み、そこに居た受付が金切り声をあげて逃げ出し、着ぐるみは助けに行こうと走り出して同時に潰される。愉快なアトラクションたちはあの灰色によって地獄絵図へと変貌し、火と煙、それに泣き声が響き渡る異常な空間へと成り変わった。
声の主は私の傍でうろうろしていた着ぐるみを強引にどけると、私を見降ろし不愉快そうな表情をしている。天に向かいそびえ立つ一本の角と、炎に照らされて紅く輝くその姿は、どうにもならないものが来たな、と理由もわからないのに私の気分を悪くさせた。
「邪魔しないでくださいよ、勇儀」
「こいしちゃんに頼まれなかったら、誰も邪魔なんてしないさ」
「ああ、そうだ。私はこいしを探さないといけないんでした」
「何も気づかないまま、探しに行けるわけないだろうに。さとり、いつまでも疑問を持たないようだから言うが、ここはお前の夢の中であって、本来の場所ではないことをさっさと理解しな。こいしを探しているのは現実のあんたであって、夢の中のあんたではないだろう」
「ここが夢なわけないでしょう。だって、夢というものは自分が知らないもの以外出てこないはずですし」
「だったら、立ちあがってみろ」
「出来ませんよ。もう死に体ですし」
「ああ、もう。これだから面倒くさい奴は嫌いなんだ。いいから私の言うとおりにしてみろ。立ち上がれるって体に言い聞かせれば、身体の傷もすぐに治る」
そんなこと言われたって、死ぬってわかっているのですから、今更言われても。そう言うと勇儀は頭にきたのか、一言「立て」と殺気を込めて怒鳴り散らした。私は思わず立ち上がり、立ち上がってしまった自分に拍子抜けして、ぺたんと間抜けな音を出しながら尻もちをついてしまう。
「ほら、立てるじゃないか。次はそのぼろぼろになった服だな。どれだけさっきの奴にぶつけられたのか知らないが、上半身丸裸じゃないか。さっさと普段の自分をイメージして服をきてくれ。落ち着かなくてたまらん」
なるほど。さっき警備員が走って来たのは、私を気づかってじゃなかったのか。そんなどうでもいいことを考えながら、私は自分の身体を見下ろすと――って、ほとんどってレベルじゃない。これじゃ素っ裸と変わらないじゃないか。私はとっさに胸元を隠して、同時にやってくる恥ずかしさに必死で耐えることになった。
「へえ、やっと表情が出たか。ちょっとは見れるようになったじゃないか。恥ずかしいなら、さっさと服を着るんだな。
――そう、それでいい。これでようやくマトモに話が出来る」
「き、気づいていたなら立ち上がる前にこっちを先に言ってください。いらぬ恥をかいたではありませんか」
ここでお前が恥をかいたところで、私以外に誰も居ないだろうに、と勇儀は笑う。私は顔を真っ赤にして彼女を睨みつける。この妖怪は何もかも正直すぎる妖怪だから、あまり効果はないかもしれないが、せめてもの仕返しをしようと心の中を覗き見――って、あれ?
「どうしたんだい」
「心が。心が読めないんです」
私はふらふらと浮いている第三の目を掴んだ。
「今までは単純に読まなかっただけだと思っていたのですが、よく考えたら私、オンオフの切り替えなんて出来なかったのに」
第三の目はしっかりと開いているし、バンバンと叩いてみても直る気配はない。息を吹きかけても、つねっても、叩きつけても。勇儀に仕返ししたいのに、どれだけショックを与えたところで心が読める気配はなかった。
そんな私に呆れてしまったのか、勇儀は「あんた、結構乱暴なんだねえ」と呟く。
「夢の中だから、何かが出来たり出来なかったりしたとしても、疑問をもたないのが当たり前なんだよ。そうじゃないと、空想の世界でいちいち考えていたら頭がパンクしてしまうからね。まあいいさ。何があんたの目を閉じさせたのかはわからないが、私にとってはその方がやりやすい」
「――本当に、夢なんですね」
「ああ、あんたの夢だ。そして、それは私がここに居る理由でもある。少し話がしたいから、この空間を変えてくれ。退廃的な光景は好きだが、今はうるさくてかなわん。今のあんたなら、それが出来るだろう」
「あ、はい、わかりました」
言われてすぐに、私は空間を塗り替える。急いでやったので明確なイメージは湧かなかったが、次の瞬間、どこかの家の中に私と勇儀は居た。
クリーム色の空間。テーブルに向かい合って私と勇儀は座っている。彼女は長い髪を豪快に掻き上げ、じゃあ話をしようか、なんて私に言って言葉を続けた。
「さて、何で私がここに居るのかっていうと、私が家で酒を吞んでいた時にこいしちゃんが飛び込んできて『お姉ちゃんを助けて』なんて言うもんだからさ。普段ならあんたなんか見捨てるんだけど、こいしちゃんが余りにも必死なもんで、私は渋々引き受けたさ。そしたら――って、ちょっと待ちな」
勇儀の静止に、私は条件反射的に「なんですか」と問う。正直面倒くさくなっていたし、夢ならさっさと覚めれば済む話じゃないかと思いながら耳に入れていたので、勇儀の顔色に言われるまで気付かなかった。
「なあ、さとり。一体どこの空想をイメージした」
非常に、青い。
「いえ、別にどことはイメージしませんでしたが……何か問題でも」
勇儀が私の背後に苦虫を噛み潰したような視線を向けているので、振り返ると、開かれたドアの向こうに何やら蠢くものが居る。せわしなく大量の足を動かしてこちらへ近づいてくるそれは、湿気の多い地霊殿ではサイズは違えど似たようなものが見られるので、その度に私は大騒ぎしながらペットを呼ぶのだが、まさか。
その姿は、もし小さければ民家を這いずりまわって時には飛行もする、アレに似ていた。
皮膚の泡立ちがとまらない。一瞬で身体じゅうを寒気が襲い、叫び声も上げられないくらい口の中がカラカラに乾いている。心臓の鼓動も、手足の震えも。
「なあ、あのゴキブリみたいなのって」
「いえ、正確には毒虫の一種、なの、でしょうが」
「わかってるんだな? あれの正体がわかっているなら、なんて趣味の悪いものを想像しているんだか」
毒虫はまるで歓迎するようにこちらへ走り寄ってくる。ただの小さな虫ならやりようがあるだろう。潰すなり、追い出すなり何かがあるはずだ。原作では家族が投げたリンゴだとか、衰弱だとか、家政婦がぶつけた椅子だとかが原因になって主人公グレゴールは死んでしまったけれど、いざ全身の鳥肌を抱えながら相対して、何かを投げようと――って出来るわけあるかっ。
一メートル以上ある巨大な毒虫に、私は今まで感じたことがない種類の恐怖を覚えた。妖怪であっても生理的に無理なものは無理である。私は急いで鬼に助け求める。
「ゆ、勇儀。何とかしてください! 恐らくあれはカフカの『変身』が元になっているはずですから、元はただの人間ですし、気持ち悪いのでさっさと――」
勇儀は「やれやれ」とぼやきながら、私の前に立ち、一息に毒虫を蹴り上げる。毒虫はひとたまりもなく無残な姿になって、どす黒い体液をそこら中に巻き上げながら彼方へと飛んでいき、勇儀は全身に血液を浴びる。私がぼんやりとグレゴールの家族もこれぐらい簡単に彼を追い払えたら爽快だっただろうな、なんて考えていたら、ついでに家も無残な姿になった。
私があたりを見回していたら、家だった場所はただのクレーターになっている。カフカが作りだした恐怖も、乗り越えた後にやってくる幸せも、全ては吐き捨てられるように消滅している。
鬼の力って怖い。
「なあ、さとり」
「は、はい」
「さっきのゴキブリが思ったより弱っちかったもんで、ちょっと汚れちまったんだが。埃っぽいし、場所を変えるついでに私の身体も綺麗になるようイメージしてくれよ」
「あ、はい、承知いたします」
そりゃあ、あなたに蹴られたらほとんどの生物は原型を保てないでしょうに。私はそう言いそうになったが、もしこの鬼に何か失礼なことを言ったら、自分の原型がなくなりそうな気がしたので言わなかった。
「ふうん、やけに丁寧だねえ。どうでもいいけどさ」
身体中にべっとりと張り付いた液体、不愉快そうに臭いをかぐ勇儀。カフカもまさかクレーターに変わるなんて考えもしなかっただろうな、と私は毒虫に多少憐みを感じつつ、急いで彼女の姿が元通りになる状況をイメージし、次の場所へ移るように念じた。先ほど白いウサギを見かけたので、『不思議の国のアリス』なら面倒なことも無いと思い、移動する。
だと思ったのに。
「さとりさ、あんたって実は馬鹿だろう」
草原、大量のトランプ兵が私達を包み込んだ。申し訳ありません、非常に申し訳ありません。馬鹿丁寧に謝る私に勇儀は腹立たしさを隠しもせずに顔に出す。その表情を見ると私はさっき無残に飛んで行ったグレゴールを思い出し、背筋に冷たいものが走ることとなった。
数百のトランプ兵を力づくでなぎ倒す勇儀を見ながら、私は思う。
今のこの状況は、私が勇儀の心を読めないからこそ生み出した状況だ。私が彼女の心を読めていたなら、彼女の言いたいことを即座に理解して対応することも出来ただろうし、次に彼女がどんな場所に行きたいかを、もっと深くまで理解することも出来ただろう。どんな形にせよ、勇儀が「雑魚は消えな」と口悪く――時折私への愚痴をぼやきながら――トランプ兵を豪快に蹴り飛ばしていく光景はありえなかったはずだ。心を読めないということがこんなに歯がゆいものだとは、今まで気付かなかった。
しかし、それでも。
思わず笑いが出てしまう辺り、私はこの状況を楽しんでいるのかもしれない。
「ああ、わかった、わかった。あんたに行き先を任せると、ろくなことにならないみたいだね。こいつら無限に湧いてくるみたいだし、次は地霊殿だ。そこなら何も起こらないだろうし、ゆっくりと話も出来るだろうさ」
そろそろ千単位でトランプ兵を壊しただろうか、という辺りで勇儀が私に言う。私は普段じゃ経験出来ないこの環境におかしくなって、笑いながら、はい、そうですねなんて明るく応えると、彼女は怪訝そうに、なんだ、おかしくなっちまったのかと聞いてくる。多少気分が舞い上がっているのかもしれないけれど、おかしくはなっていないはずだ。
ああ、やっぱり自分はこの状況を楽しんでいる。
さあ、次は地霊殿だ。私は戦い続ける彼女を巻き込み、景色を塗り替える。草原も、トランプ兵も、何もかも、私と勇儀だけを残して世界が変わっていく。次に気付いた時、私達は地霊殿でゆっくりとコーヒーを片手に、テーブルに座っていた。
「さて、あんたに付き合わされちまったが、ようやく話の続きだ――ってなんだい、さっきからニヤニヤして。そんなに私を振り回しているこの状況が楽しいかい?」
「ええ。とても」
こっちは大迷惑だよ、とあきれる勇儀。私はあなたと一緒に居ると楽しいですよ、なんて言うと、ああそうかいそうかい、と言ってため息をついた。
「さて、さっきの続きだが、こいしちゃんの頼みを引き受けた後、私はわざわざ人里で倒れているあんたのところまで走ったんだよ。引き受けちゃった以上、人間と干渉したくないなんて言ってられないからねえ。それで、人里のハクタクの家で眠っているあんたを見つけて、傍に居た八雲紫に頼み、夢の中へ入ったわけなんだが」
「寝ているなら、起こせばいいだけでしょうに」
「こいしちゃんが言うには、パンクしているんだとさ」
「パンク?」
「そう。今人里では盛大な祭りがやっている。あんたはこいしちゃんと違って回線を開きっぱなしだから、人間、妖怪含めて、物凄い数の思念があんたになだれ込んでくるんだ。熱狂が渦巻いてあんたを巻き込み、許容量を超えてしまったんだとよ。さとり妖怪のことなんぞ私は知らないからよくわからないけど、要は――ああもう、面倒くさい。私が来たんだから、もうやめてやればいいのに」
勇儀は立ちあがり、私がどうしたんですか、と聞いても何も答えず、ただ私の横に立つ。私が口を開けて彼女を見ていると――ああ、なるほど。
あの音が聞こえた。
勇儀は電車が突っ込んでくると同時に腰を深く落とし、真新しい輝きと共に壁を突き破って突進してきたそれに、正拳を叩きこむ。一体何両続いているかはわからないが、衝撃が何百と貫通していく様は壮観で、私の全身に震えが走った。鬼が生み出した衝撃波は先ほどのクリーム色をした家屋と同じように、地霊殿ごと吹き飛ばし、一瞬で全てが瓦礫へと崩壊していく。その様子に私は思わずみとれてしまう。勇儀の姿は、内実共に私が知らない何かを体現していて。そこにはまだ素晴らしいものが残されているような気がして。
お疲れ様です、と私は声をかける。勇儀はいい加減馬鹿らしくなってきたのか、苦笑しながら手を振ってくる。鬼というものは凄いのですね、と言うと、勇儀は鬼が凄いんじゃない、私が凄いんだ、なんて返してきて。
ああ、こいしはいつもこんな世界を見ているのか。
憧れと、期待。今まで身体では理解していても、頭ではわからなかったが、どうやら私がこいしを探していた理由は、こういうことだったらしい。
崩れた柱に座る勇儀は、ため息をつきながら言った。
「何も話さずやるのは気が進まなかったから、ゆっくりと話をしてからにしようと思ったんだが――どうも、私とさとりでは相性が悪いらしいな」
「そうでもないですよ。私は楽しいですし」
「……はは。一体何を楽しんでいるんだろうね。こいしちゃんもおかしいところはあるけれど、さとりも十分異常だよ。さて、私はこいしちゃんに頼まれたわけだし、八雲紫はあの灰色を使って終わらせようと思っていたみたいだが――目覚める準備はいいか」
「目覚めるも何も、私の夢ならすぐに目覚められるのでは」
「あんたは今、何もかもぐちゃぐちゃになっているんだよ。取りこむべきでないものを取りこんで、自分で整理できなくて、それで精神的に病んでいるんだ。夢の中に閉じ込められて、そこから何も出来なくなってるんだよ。だからこいしちゃんは私に頼んで来たんだ。八雲紫はただの暇つぶしだったみたいだが」
「ああ、そうなのですか。こいしにも、あなたにも目覚めてから礼を言わねばなりませんね。それでは、私は何をすればいいかわかりませんが、お願いできますか」
ああ、任せろ、と勇儀は言う。
任せました、と私は微笑む。
「まとめて、吹き飛ばしてやるから」
勇儀の言葉に、私は躊躇する暇も与えられない。
次の瞬間、私の身体は電車と同じように無残な姿へと変わっていった。
/
「ああ、そろそろ目が覚めるみたいね」
「本当ですか!」
「ええ、こいし。嘘だと思うなら、あなたの姉の側に行ってみなさい。そう、もうちょっと覗いてみないとわからないわ。うん、そのあたりね」
「あ、本当だ。目が段々と開いて――って、いったあ!」
「けほっ、うへっ。――うぅ」
うまく呼吸が出来ない。自分の身体が何をしてどうなったのかもよく思い出せない。手足が無くなって、全ての感覚が雲を掴むように無くなって、そしてそこから――あれ。
「どう、つっ、して」
身体が、ある。
そうだ、私の身体は勇儀が粉々にして。
そしたら、当然だけど何も分からなくなって、息が出来なくなって。
そして私は、どこに居る?
「さて、さとりが目覚めたのなら、私はもう行くわ」
「なんだ、もう行くのかい? せめて本人から感謝の言葉でも受取りなよ紫」
「私はただ電車を走らせたかっただけよ、勇儀」
「素直じゃないねえ。必死なこいしちゃんに情をほだされた大妖怪とやらが。――なら、地底まで送ってくれよ、隙間を開けてさ。ここから地獄は遠いんだから、知らない仲でもあるまいし、それくらいはやってくれてもいいだろうさ」
「だってあなた、私の電車を潰したじゃない」
「ははっ。それは悪かった。今度埋め合わせするから、とりあえず今は勘弁してほしいね――それじゃあな、こいしちゃん、それにさとり。って聞こえてないか。まあ、ここの主は出払っているようだから、好きに使っていいぞ。お礼とかあるなら、今度地霊殿の上等な酒でもおくれよ」
からからと引き戸が音を立てて閉められる。私は真っ白な布団の上に座っていて、窓から差し込んでくる日差しが、喧騒が、私の意識を覚醒させる。
盆に置かれた湯呑み、棚に並べられた教科書、机に鎮座する小さな筆、脇に転がって呻いているのはさとり妖怪。意識がはっきりしてくると同時に、ここは人里に住む妖怪と交流の深い誰かが住んでいる家なのだろうとわかった。
「そうだ、こいしを探さないと」
「うぅ、私はここに居るよ、お姉ちゃん」
「ああ、ああそうね、あなたはそこに居たわね。でもどうして泣いているの?」
「お姉ちゃんのせいだよ」
こいしは目に涙をうかべてじっとりと睨んでくる。私は思わず「ああ」と納得し、途端に申し訳ない気分になる。思わず目を反らして、私は言った。
「ごめんなさい、こいし。お姉ちゃん、あなたに心配かけちゃったみたいね」
「違う」
「あれ、そういうことだって勇儀から聞いたんだけれど……それにしても、何だか酷く気分が悪いわね。悪いんだけどこいし、お姉ちゃんはもうちょっと休んでいくから、気にせずその辺りを廻ってきたらどう」
ぐるぐる、ぐるぐる。私の頭で何かが廻る。こいしの表情もくるくると怒ったり泣きそうになったり、どうしたらいいのか自分でもわからなくなっているようだ。なんだか吐き気もするし、見たこともない何かが私の頭を廻している。それはどんどん大きくなって、いつの間にか私の中はいっぱいになる。ああ、また、夢に堕ちていくんだな、と思った頃、何かが私の肩を強くゆすぶって、
「ああもうじれったい。いいからさっさと第三の目を閉じて! じゃないとまた倒れちゃうでしょ」
なんだか、何もかもが曖昧になっていく気がした。
「だから、そう簡単に閉じられないのよ」
「だーかーら! 閉じようと思えば閉じれるの! このままじゃずっと起きられなくなるよ!」
「なら、合図をちょうだい」
「へ?」
「お姉ちゃんが出来るように、何か一つ合図があれば閉じられるかも」
「もう、こんな時までバカみたいなこと言って!」
「ほらほら早く」
どうせ、閉じられるわけないのだから。段々思い出してきたが、ここは人里で、外では盛大な祭りがやっているというのは本当らしい。興奮が、熱狂が、耳にも心にも。それは大きな波になって私へとなだれ込んで来ていて、私は流れに抗おうともせずに吞まれ続ける。なんだか全てがぼんやりとしていて、遠い。けれど、
「てやっ」
私の妹が手を伸ばす。私は無理矢理腕を引っ張られて、意志とは関係なく助けられる。境界はたやすく破られ、ぶたれた頬の痛みと共に、他者が心から消えていく。胸の中は無理矢理えぐられたようにぽっかりと空いて、なんだかふわふわと落ち着かない。海水を飲みすぎて意識が定まらないように、うまく物を考えられない。自分の手足が思ったようにすぐ動かなかった。目の前では口を開けてぽかんとしている妹が居る。
「せ、成功しちゃった」
気づくと私の手には湯呑みが握られていた。身体は水分を欲していたのか、一気に喉へと流し込まれ実感がないままに私は補給する。これは、やっぱり――。
「どうかな。閉じた感覚も悪くないでしょ」
引き戸を開けて空を見上げる。雲も、空も、鳥も、妖怪も。ありとあらゆるものが、そうであるのが当然だと主張しているように見える。心の声は聞こえず、ただ耳に入る事柄を自然なものと受け入れ、目の前を威勢よく通り過ぎる神輿に微笑みかけている自分がいる。気分が『酷く』よい。
「叩けば治るって、そんな単純な」
「でも治ったでしょ」
確かに、と私は頷く。そこには疑問の余地など一切なく、それをもつことすら許されないことのように思えた。さとり妖怪にとって心を読めなくなるということは、自らの心を閉ざすことと同義だ。私はこいしと同じように心を閉ざすことで、何かを得て、何かを失った。私が欲しいと思ったそれは酷く気持ちのよいことで、それはとても気持ちの悪いことのように感じた。
「さあ行くよ、お姉ちゃん。こうなった私たちは居ると思われなければ誰にも気づかれないんだから、せっかくのお祭り、私たちのやり方で精いっぱい楽しもうよ」
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心が読めるというのは非常に便利で、心が読めないというのも非常に便利だ。ただ、そこにある曖昧さが私の中で溶け込んで、うまく物を考えられずに消えていってしまう。私は妹が露店から失敬してきたいか焼きを齧り、神輿の上にのって荒い振動に振り回されながら運ばれていく。どこへ行くのかもわからないけれど、意識せず運ばれていくというのもなかなか楽しいよ、とこいしが教えてくれた。いか焼きを食べ終えたら今度は団子を失敬し、そばに鯛焼き、果てはアイスクリームまで。よくもまあそこまで手際よく持ってくるものだと感心していたら、お姉ちゃんもすぐに出来るようになるよとこいしは笑った。
「そうだ、こいしを探さないと」
「私がそうだよ、お姉ちゃん」
「ああ、そういえばそうだったわね」
それにしても人里にこれほどの祭りがあるとは知らなかった。鰻を焼く夜雀に、ただ喚き散らす山彦、氷精がかき氷を売り、化け猫が呼び込みをする。自然に混ざり合う人と妖怪に私は息を漏らし、神輿を降りて鰻を二つ頂きこいしに渡すと、妹は嬉しそうに受け取って、私は頬が熱くなるのを感じた。
神輿はやがて寂れた神社へとたどり着く。人の力でよくもここまで担いできたものだと担ぎ手を見ると、いつの間にか妖怪が取って代わっていて、酷くばらばらのリズムで拍子をとっている。そこには私の見知った妖怪も居て、私は彼らに気づかれること無く妹と神輿に座っていて。私がここに居るということはわからなくても、彼らと一緒に祭りを楽しんでいるという実感が湧いてくると、私は小さく手拍子をとり始めた。
「ほらお姉ちゃん、終着点だよ」
こいしの声に合わせて私は前を見る。けもの道を抜けて広がる石畳は、間違いなく夢の中で見た景色と同一だ。そこにはちゃんとまっくろな魔法使いも、おめでたい色の巫女も居て。彼女たちはたくさんの妖怪に取り囲まれ、神輿はあるべき場所へと納められる。大きな歓声と共に祭りは次の段階へと移行し、神輿から降りた私とこいしは妖怪の宴会が始まる前にその場を後にすることにした。
私が見た彼女たちには、本の中だけで完結し、現実に現れると途端に感じる気持ち悪さなど何もない。巫女は普段通りほげーっとした表情をしているし、魔法使いは宴会に交じって鬼と吞み比べなんかしている。きっとあの夢で起きた出来事は、私が心の中でひっそりと考えていたことが現れてしまっただけの、まやかしに過ぎなかったのだろう。
私とこいしは地底へと向かう洞窟を歩いている。夢の中と同じように湿気が纏わりついて服が肌にはりつき、あまりいい気持とは言えない。けれど、私が意識しないまま歩き続けるこの状態は、心に穴があいていて、埋めていくたびに抜け落ちていくようで。これはこれで、悪くはない形なのかもしれないと思った。そう思えた理由はわからないけれど、ただぼんやりと日常を形にせず歩き続けるというのも、一つの選択肢なのだろう。
だけど、私は知っている。
このままじゃいけないことも、このままじゃ何もできないことも。
「ああ、そこに居るのですか」
ぶらさがる桶から、深緑色の髪が小さく覗いている。相手がこちらに気づいても笑顔一つ見せない辺り、彼女は私が思い描く彼女で間違いないだろう。
開け、と私は呟いた。
第三の目は、私に応えた。
妹が残念そうに私を睨む。私はごめんね、とだけ言って桶に入った妖怪を見やり、こう呟いた。
「キスメ、私はあなたのこと、好きですよ」
それだけを伝えて、私は再び歩き出す。後ろからやってくるキスメの感情はどうしようもなく混乱していて、それでも悪い気はしていないのか、心地よい何かが私の心に沈んでいく。嫌いな相手に好きと言われて、それでも彼女が私のことは嫌いなことは変わらない。けれど、夢にしてもここにしても、私にかけてくれた言葉は、今の私にしっかりと染みついている。何事も言葉にしないといけないということは、空想の中でもこの場所でも、それは変わることはない。
今のは何? とこいしが問いかけてくる。私はそれに、こういうこともあるのよ、と笑って応える。互いが互いの心を読めた昔は、私たちが声にだして会話するなど一切なかった。自分の心も相手の心も筒抜けで、それは確かに、完全なコミュニケーションであるとも言えなくはない。
ただ、それではきっと駄目なのだろう。例え不完全なやりとりだったとしても、そこから生まれる何かは、互いの心に掴みきれないものを残す。私たちはそれを理解するのに苦悶して、必死に考えを巡らし、様々な邪推と共に間違った結論へと達する。構築される関係はまがいものかもしれないけれど、相手のことを考えた時間、自分はどうすればいいのかと悩み、その過程で自分が相手のことをどんな風に思っていたのかという事実に気づく。私たちはきっと、完全には程遠いけれど、不完全であるが故に、完全な存在にもっとも近いのだ。
だから、この世界も終わりにしないといけない。完全な世界なんて、不完全なものに勝てるはずがないのだから。
あの音が聞こえる。死を運んでくる電車は、今となっては私をこの世界から連れ出してくれる天国への扉に見えた。
「ごめんね、こいし。あなたとはここでお別れみたい」
地霊殿、ロビー。私が告げると、こいしは目を伏せて涙を見せる。私が知っている本物のこいしは、私に対してこんなに素直じゃないし、憎まれ口を叩いて、時にはペットをけしかけ、弾幕勝負では笑いながら私を消し飛ばそうとしてくる、本能のままに動くただの子供だ。
「ここじゃ、駄目なの?」
こいしの言葉に、私は首を横に振った。
「こいし――いいえ、もうあなたをこいしと呼ぶべきじゃないかもしれませんね。確かにこの世界は、出来事だけを見れば私の望んだ形ですし、心が読めずに他者と会話できるというのも非常に魅力的です。事実、私が現実でさとりの目を閉じられるなら、閉じてしまいたい。もっと魅力的な恋愛の形があるなら、傍でじっくりと観察していたい。八雲紫や勇儀が私のことで動いてくれることも、こうやってあなたが私と一緒に祭りを廻ってくれることも、何もかもが、私の望んだ形かもしれません。それが本当に素晴らしいものかどうかはともかく、この世界自体は酷く素晴らしい。
けれど、ここのキスメが私に好意を持たなかったように、霊夢と魔理沙が通常の関係に戻ったように、この世界が現実へと近づいてきているのはあなたも感じているはずです。こいしを模しているだけで、あなたの正体は、眠りに着く前の私が具現化したものなのですから。夜が来て朝がやってくるように、一度眠りについて目覚めたら、次の自分へとステップアップしていくのは、妖怪だって人間と同じなんですよ。
だから――もう、眠りなさい」
音が近くなってくる。こいしの形をした何かは私を抱きしめ、ぼやけた体温に、もれる嗚咽を隠そうともしない。
やはりこれは、私の妹などはない。
「グレゴール・ザムザは家から出られなかった。彼は確かにカフカの描く物語に巻き込まれた不幸な主人公と言えるでしょう。けれども、私は彼ほど不幸ではありませんし、外に目を向ければ得られるものは、きっとたくさんあって。私は、ルイス・キャロルの描いたアリスのように、一時の不思議に巻き込まれただけなんですよ」
近づく電車、耳に届くは轟音。もう嗚咽は聞こえないし、感じていた体温も、小さな息づかいも、世界から色が失われていく。
心の声が聞こえる。天井裏を這いずりまわる生物に限らず、傍らに置かれた花瓶も、壁に掛けられた絵画も、屋敷中が、いや世界中が私に向かって語りかけてくる。止めようと思っても無駄だ。私は文学の主人公じゃあるまいし――自己犠牲なんてのは、まっぴらごめんだから。
視界に入るはただの灰色。私は、無機質なそれに崩壊へのイメージを、それの心へと叩きこむ。現実の私、夢の中の私、そして、この空想の私。今の私なら世界も塗り替えられて、あらゆる者の声が聞こえて。ああ、今ならはっきりとわかる。この身体中をほとばしる何かは、空想に犯された私を叩きつぶそうとする、本物の私がもつ曖昧な形をした意志だ。
次の瞬間には世界が煙に包まれて、
「さよなら」
私の身体も、再び消えていった。
/
「いったあ!」
何だか聞き覚えのある言葉が聞こえた。今度は私の頭もはっきりとしていて、ひりひりと痛む頭も、頭を抱えてベッド脇に倒れるさとり妖怪も、何もかもがはっきりしている。
「どうしたの、こいし」
「――わからないならいいよ、もうっ」
「ええ。こいしが言いたいことなんて、私なんかにはまったくわからないわ――だから、ちょっとこっちへいらっしゃい」
私は小さく笑いながらこいしの手をとって引き寄せる。こいしは顔をしかめつつ私の側へ来て――思いっきり抱きしめられた。
「お、お姉ちゃん?」
何だか甘い匂いがする。身体に伝わる体温も、息を吞んで身をかたくするところも、首元にかかるくすぐったい息も、早鐘を打つ心臓も、何もかもが、私に確かな現実の感覚を思い出させてくれて。ここがどこで、私はなぜ眠っていたのかも、どうしてこいしが私を覗きこんでいたのかもどうでもよくて。
「やわらかい」
こいしがもぞもぞと身体を動かして離れようとする。私はがっちりと抑え込み、この感覚を離さないようにしている。
けれど、ここで何かを言わなければならないのだろう。少なくとも、空想の私ではなく今ここに居る私はそう思っている。
「ねえ、こいし。今あなたは何を考えているの?」
「……正直言って、気持ち悪い」
「それは、本当に?」
「た、多分」
だから、私はこう言った。
「私が死ぬまで、こうして居てくれる?」
結局。私は無理矢理引き剥がされ、とてつもなく多くの弾幕をくらい、顔を真っ赤にしたこいしに、それこそ立ちあがることが出来ないくらい痛めつけられたわけだけど、何だか悪い気はしなかった。
第三の目が閉じることはない。けれど私は唯一こいしの心だけが読めないし、それは確かに空想の私とは別のものだ。だけど、
「死んだら、お姉ちゃんと一緒に居られないでしょ」
私の妹は、ようやく見つかった。
この事実を私はどう受け止めたらいいのだろうか。地霊殿でコーヒー片手に本をめくっていたら、いきなり壁を突き破って芸術性の欠片もない灰色が突っ込んできて、私は思わず吹き飛ばされてしまった。久しぶりに読み返していたフランツ・カフカの『変身』も一緒に消え失せてしまい、私は痛む体をあちこち抑え旧地獄街道を歩いている。足取りははっきりとしていて、どうやらどこも壊れていないらしく、多少服が破れていること以外は何も問題ない。いつも通り住人は私を見つけるとこそこそ逃げていくし、私も彼らを見つけたところで何をしようとも思わない。
ああ、またあの音だ。
私は本を読んでばかりで、電車の実物なんて知らないし、鳴り始めたらストーリー上で割と不幸なことが起こる踏切音も知らないし、線路を走るときに話の都合上会話が無理矢理聞こえなくする通過音も知らない。むしろ今回初めて知ったわけで。私は本当に物語の中でしか知らなかったわけで。こんな形で、電車の音なんて知りたくなかった。
どこからともなく電車が突っ込んでくる。
私はまたどこかへ旅立つ。
もう何度目だろう、この感じ。地霊殿に戻ろうとしても別のどこかへ行こうとしても、いつの間にかあの音が聞こえてきて、常に私の見えないところから無表情に追っかけてきて。さとり妖怪らしく、敵の心を読んで電車にトラウマを見せようかなんて思ったら、馬鹿みたいにくるくると空をまわってまた飛んでいく。地面を転がった時に頬が熱くなっていたのは、擦れたせいだけじゃない。どれだけアホなんだ私。
次に落ちたのは洞窟の中。涼しさの半面湿度は高く、水分が身体に纏わりついてべたつく。この陰気な空間は確か、感染症を操る蜘蛛や、嫉妬ばかりしてそこから何も進めない妖怪が居たはずだ。嫌われ者同士仲良くなるなんていうのは物語の中だけだと思う。私とあの二匹がそろったところで、生まれるのはろくでもない事柄しかないし、互いが互いの足を引っ張っていく関係が出来上がるだけだろうから。
「なんだ、そこに居るのですか」
私は天井からぶら下がるそれを見つけた。桶に入って監視するように私を見下ろす彼女は、表情豊かに私へ告げる。
「私はあなたのこと、好きだよ」
「はあ」
「理由は? なんて考えたでしょ。心を読めなくてもそれくらいわかるもん。――ふふっ。そんな、自分の専売特許を盗られたなんて思わないで。え、そんなこと考えていないの? うっそだー。だって、あなたの顔って――とっても醜くなってるじゃない」
よく喋る釣瓶落としですね、と呟きながら、私は顔に手をあててどんな顔をしているのか思わず確認してしまう。それを見て彼女は子供染みた笑いを向けてくる。
「えへへ。褒めてくれるなら、代わりに今ここで首を貰って行ってもいいかな」
「悪いですが、そんな暇はありませんね。キスメ、妹を探しているのですが、どこに行ったのか知りませんか」
「あははっ。あなたの妹なんて、私が見つけられるわけないよ」
それもそうですね、とぼやき、私はこの少女に別れを告げる。私が背を向けると、彼女は後を追うように喋りだす。
「ああ、でも好きだって言ったのは本当だよ。あなたは心を読めるけれど、こういうのは言葉にしないといけないものだし」
「はいはい、そうですか。私はあなたのこと、この地獄の住民と同じくらいには思っていますよ」
何よそれ、とキスメは喚くけれど、私は無視して歩き続けることにした。声は洞窟の中で反響しやぼったくなるくらい長く続いたが、半刻ほど歩き続けたあたりで声はしなくなった。さすがにあれだけ騒げば疲れたのだろう。私はそう結論付けて、何も気づかず歩き続ける。
洞窟はどこまでも続くようで、私は思わずため息を漏らす。行けども行けども同じ景色。視界に入るはただの岩。耳に残るは水の音。水滴で身体に貼りつく服は既に色を変え、ぐっしょりと濡れている。ふよふよと揺れる第三の目がうっとうしい。全く、今日に限って、どうして地霊殿に電車が突っ込んでくるのか。
私は一匹のウサギを目にした。神聖なものであるかのように泥を一切付けず、ただ爛々と目を輝かせて走る真っ白なウサギ。非常にかわいらしく、そして非常においしそう。口の中に入れたら一気にとろけていくような舌触りが広がり、私は最高の幸せを手に出来るんだろうな、と思わず涎を垂らしながら目で追っていく。すると、ウサギはいつの間に見つけたのか、洞窟の脇にぽっかりと開いている穴へまっすぐに入り込んでいった。近くまで行ってみると意外に穴は大きく、もし途中で行き止まりになっていたらおいしい野ウサギが食べられそうである。
どうしようかと迷っていた時、またあの音が聞こえた。
天井を見るとごつごつしていて、ぶつかったら痛そうだな、なんて考えた。
「さて、こいしを探さなくちゃ」
私は穴へと一息に入る。入った直後、後ろを振り返ると無骨でセンスの欠片もない電車が、先ほどまで私が立っていた場所を駆ける。車窓に私が無くしたカフカを張り付けていたそれは、しばらく待っていても終わることを知らず、ただけたたましい風切り音を立てて何百両目かの車両を右から左へ送っていく。どうでも良くなってきたので、私は前を向いて歩き始める。
「ウサギについていくなんて、今時使い古されて流行らない気はしますけどね」
呼吸をすると冷気が肺に送り込まれ、一歩進めば硬い地面に足を滑らせそうになる。途中途中壁にぶつかる第三の目をうっとうしく思いながら、私は足を動かし続ける。いつもは地霊殿で本を読んでばかりだから、こんなに歩いたのは久しぶりだ。怨霊の管理はペットに任せているし、徒然と本を読んだり書いたりして一日を終わらせてしまう私にとって、この機会は引きこもりの運動不足を解消するよい機会に思えた。
ウサギはまだ見えない。
けれど出口は見えた。
私は足を速めて、光が指す方へとまっすぐに進む。そこに何があるかはともかく、明るい方向へ進むというのは実に楽しいものだ。騙されるとわかっていても、ついつい踏み出してしまうあたり、私を作った誰かはよっぽど酷い趣向で私を作ったのだろう。
最後はほとんどよじ登る形で穴を抜けると、眩しい光に加えて、青々とした森林が目についた。白いウサギはどこにも見当たらず、視界に広がるは石畳と鳥居、それに古びた神社といちゃつくバカップルだけだった。
「なんだ、ウサギ肉のシチューなら、人間ほどじゃないにしろこいしも喜んだのに」
全く、世の中は実に不条理だ。大体、なんでこんな一銭も賽銭箱に入らないような神社に私は居る。地底からここまで歩き続けたとか、そんな馬鹿げた話があってはたまらない。私が歩いたのはそう長い距離ではないはずだし、何よりここは見覚えがあるのだから、そんなに遠い場所のはずが――ああ、そうか。私がこの神社を見たのは誰かの記憶の中だから、本当はそんなに遠い場所じゃなかったのかもしれない。
誰の記憶を覗いたときに見えたかは忘れたが、ここは間違いなく、以前に地霊殿へ来た迷惑な巫女の住処であって、私が実際に来た場所ではない。
とりあえず人間が居る方へ目を向けていると、二人の間に何か異質な空気を感じた。
おめでたい色をした人間の膝に、白黒のシーフが頭を乗せてなにやら笑い合っている。一方がちょっとした冗談を言いながらもう一方のお腹をつつくと、つつかれた方はお返しとばかりに頬をつつく。その内なんだか抱き合う格好になって、私のことに気づいていないのか、皮膚が泡立つようなことばかり言っている。
気持ち悪い。
心の声が全然頭に入って来ないくらい、身体が拒否反応を起こしているのだろう。
「ねえ、魔理沙」
それでも、会話は聞こえてくるわけで。
「私が死ぬまで、こうして居てくれる?」
聞きたくもないのに。
「ああ、それが愛するってことなんだろうな」
「もう。ちゃんと応えて」
「馬鹿だな。私がお前の傍から離れるわけがないだろうに」
旺盛なウサギを追いかけてきたはずが、とんだ性欲の塊を捕まえてしまったらしい。二人は私に一切気づくことなく、神社の引き戸を開いて居住スペースへと入っていく。
シングルサイズの布団が敷かれていたことも、そして彼女たちが自分の服を脱いでいくことも、私には酷く遠い世界が演じられているように見えた。
ぱたん、と音を立てて引き戸が締められる。私の中の何かも音を立てて崩れていく。
物語の中なら楽しめる純愛も、現実で知るとこんなに気分が悪くなるものだなんて思わなかった。海外文学とかを読んでいると、しょっちゅう同性愛の関係が目に着くことはある。随分昔に読んだヘッセの『車輪の下』にもそんなシーンがあった気がする。けれど、それは美しい情景描写と共に移りゆく心が明確に示されて。その人間の全てとなって私の心に飛び込んでくるから、ああ、こういうこともあるんだろうなと思わず納得してしまう。
だけど、今のは違う。
顔こそ整ってはいても、私は彼女達のことをあまり知らないし、それに心を読んではいなかったからわからないが、彼女達の中には恐らく葛藤や歪みなんてものは一切なく、ただ一時の平和だけを胸に刻んで目の前の神社へと消えていっただけだ。そこには文学性の欠片もなく、エンターテインメントなどどこにもない。彼らが純粋に愛し合っているのだとすれば言い方は悪いが、そこには何か異常なものが存在しているだけで、私に何も与えてくれないただの肉塊が不快な行動をしているだけだった。
いや、果たして私は本当に心を読んでいなかったのだろうか?
先ほど感じた感覚はどちらかと言えば根拠の無い事柄に近いもので、私には今まで感じたことが無い何かがあったはずで。
ああ、もう少し、もう少しで何かが掴めそうなのに。
あの音がする。私の身体は勝手に反応する。辺りに異常はないとわかっているのに。
「そうだ、こいしを探さなきゃ」
私は流れに身を任せて吹っ飛ばされることにした。
/
何度も何度も飛ばされて、そろそろ身体が限界かもしれない。普通の人間に比べればよっぽど丈夫な体も、案外ガタがくるのは早いみたいだ。
「こいしを、探さ、ないと」
立ち上がることも出来ない。妖怪は人間と違って概念的なものだから、神経が切れたとかそんなことは瑣末な事情なので、単純にお迎えが近いようだ。
軽く首を動かしてみると、今度到着したのはこれまた知らない空間だった。
酷い数の光源が目に焼きつく。傘の下をくるくると回る馬に、丸く切り取られた空間が幾数十も並び大きな円を描く建物。車輪を付けた台車がレールの上を尋常じゃない速度で走り、その脇では大きなコーヒーカップがゆっくりと回転している。着ぐるみが徘徊し、風船が浮いて、聞こえるのは無駄に壮大なパレード音楽。
ああ、なるほど。これが遊園地か。
思わず実物を見て納得してしまった私は、ぼんやりと大の地になって地面に横たわっている。上下する胸は荒く、そろそろ終わりも近いのかなー、なんて思わず悟りを開いてしまった。
多分、そんな気分になってしまうのは当然なのだろう。
今回は随分早い。断続的に聞こえる踏み切り音は、私に明確な死を運んでくる。よちよちと近寄ってきて「大丈夫ですか」と無表情に気づかいをしてくる着ぐるみと、後ろから走ってくる警備員を見て、私は「大丈夫です。もう終わりますから」と答え私の死を見つめた。
向こうも姿を隠す必要がないと思ったのか、今度は姿を隠さず、滑稽な灰色をきらめかせて走ってきた。これが私の死かと思うと、思わず笑いが出てしまい、声をあげて顔をほころばせる。
さあ来い。殺したいなら、幾らでも殺されてやろうじゃないか。どうせなら、笑いながら死んでやろう。それであなたが満足できるなら、私は十分だ。
そう思った時だった。
「少しくらいこの状況に疑問を持て馬鹿」
荒々しく叫ぶ声が聞こえる。電車が轟音と共に吹っ飛び、ジェットコースターの骨組みを粉砕する。崩れ落ちた骨組みはコーヒーカップも巻き込み、そこに居た受付が金切り声をあげて逃げ出し、着ぐるみは助けに行こうと走り出して同時に潰される。愉快なアトラクションたちはあの灰色によって地獄絵図へと変貌し、火と煙、それに泣き声が響き渡る異常な空間へと成り変わった。
声の主は私の傍でうろうろしていた着ぐるみを強引にどけると、私を見降ろし不愉快そうな表情をしている。天に向かいそびえ立つ一本の角と、炎に照らされて紅く輝くその姿は、どうにもならないものが来たな、と理由もわからないのに私の気分を悪くさせた。
「邪魔しないでくださいよ、勇儀」
「こいしちゃんに頼まれなかったら、誰も邪魔なんてしないさ」
「ああ、そうだ。私はこいしを探さないといけないんでした」
「何も気づかないまま、探しに行けるわけないだろうに。さとり、いつまでも疑問を持たないようだから言うが、ここはお前の夢の中であって、本来の場所ではないことをさっさと理解しな。こいしを探しているのは現実のあんたであって、夢の中のあんたではないだろう」
「ここが夢なわけないでしょう。だって、夢というものは自分が知らないもの以外出てこないはずですし」
「だったら、立ちあがってみろ」
「出来ませんよ。もう死に体ですし」
「ああ、もう。これだから面倒くさい奴は嫌いなんだ。いいから私の言うとおりにしてみろ。立ち上がれるって体に言い聞かせれば、身体の傷もすぐに治る」
そんなこと言われたって、死ぬってわかっているのですから、今更言われても。そう言うと勇儀は頭にきたのか、一言「立て」と殺気を込めて怒鳴り散らした。私は思わず立ち上がり、立ち上がってしまった自分に拍子抜けして、ぺたんと間抜けな音を出しながら尻もちをついてしまう。
「ほら、立てるじゃないか。次はそのぼろぼろになった服だな。どれだけさっきの奴にぶつけられたのか知らないが、上半身丸裸じゃないか。さっさと普段の自分をイメージして服をきてくれ。落ち着かなくてたまらん」
なるほど。さっき警備員が走って来たのは、私を気づかってじゃなかったのか。そんなどうでもいいことを考えながら、私は自分の身体を見下ろすと――って、ほとんどってレベルじゃない。これじゃ素っ裸と変わらないじゃないか。私はとっさに胸元を隠して、同時にやってくる恥ずかしさに必死で耐えることになった。
「へえ、やっと表情が出たか。ちょっとは見れるようになったじゃないか。恥ずかしいなら、さっさと服を着るんだな。
――そう、それでいい。これでようやくマトモに話が出来る」
「き、気づいていたなら立ち上がる前にこっちを先に言ってください。いらぬ恥をかいたではありませんか」
ここでお前が恥をかいたところで、私以外に誰も居ないだろうに、と勇儀は笑う。私は顔を真っ赤にして彼女を睨みつける。この妖怪は何もかも正直すぎる妖怪だから、あまり効果はないかもしれないが、せめてもの仕返しをしようと心の中を覗き見――って、あれ?
「どうしたんだい」
「心が。心が読めないんです」
私はふらふらと浮いている第三の目を掴んだ。
「今までは単純に読まなかっただけだと思っていたのですが、よく考えたら私、オンオフの切り替えなんて出来なかったのに」
第三の目はしっかりと開いているし、バンバンと叩いてみても直る気配はない。息を吹きかけても、つねっても、叩きつけても。勇儀に仕返ししたいのに、どれだけショックを与えたところで心が読める気配はなかった。
そんな私に呆れてしまったのか、勇儀は「あんた、結構乱暴なんだねえ」と呟く。
「夢の中だから、何かが出来たり出来なかったりしたとしても、疑問をもたないのが当たり前なんだよ。そうじゃないと、空想の世界でいちいち考えていたら頭がパンクしてしまうからね。まあいいさ。何があんたの目を閉じさせたのかはわからないが、私にとってはその方がやりやすい」
「――本当に、夢なんですね」
「ああ、あんたの夢だ。そして、それは私がここに居る理由でもある。少し話がしたいから、この空間を変えてくれ。退廃的な光景は好きだが、今はうるさくてかなわん。今のあんたなら、それが出来るだろう」
「あ、はい、わかりました」
言われてすぐに、私は空間を塗り替える。急いでやったので明確なイメージは湧かなかったが、次の瞬間、どこかの家の中に私と勇儀は居た。
クリーム色の空間。テーブルに向かい合って私と勇儀は座っている。彼女は長い髪を豪快に掻き上げ、じゃあ話をしようか、なんて私に言って言葉を続けた。
「さて、何で私がここに居るのかっていうと、私が家で酒を吞んでいた時にこいしちゃんが飛び込んできて『お姉ちゃんを助けて』なんて言うもんだからさ。普段ならあんたなんか見捨てるんだけど、こいしちゃんが余りにも必死なもんで、私は渋々引き受けたさ。そしたら――って、ちょっと待ちな」
勇儀の静止に、私は条件反射的に「なんですか」と問う。正直面倒くさくなっていたし、夢ならさっさと覚めれば済む話じゃないかと思いながら耳に入れていたので、勇儀の顔色に言われるまで気付かなかった。
「なあ、さとり。一体どこの空想をイメージした」
非常に、青い。
「いえ、別にどことはイメージしませんでしたが……何か問題でも」
勇儀が私の背後に苦虫を噛み潰したような視線を向けているので、振り返ると、開かれたドアの向こうに何やら蠢くものが居る。せわしなく大量の足を動かしてこちらへ近づいてくるそれは、湿気の多い地霊殿ではサイズは違えど似たようなものが見られるので、その度に私は大騒ぎしながらペットを呼ぶのだが、まさか。
その姿は、もし小さければ民家を這いずりまわって時には飛行もする、アレに似ていた。
皮膚の泡立ちがとまらない。一瞬で身体じゅうを寒気が襲い、叫び声も上げられないくらい口の中がカラカラに乾いている。心臓の鼓動も、手足の震えも。
「なあ、あのゴキブリみたいなのって」
「いえ、正確には毒虫の一種、なの、でしょうが」
「わかってるんだな? あれの正体がわかっているなら、なんて趣味の悪いものを想像しているんだか」
毒虫はまるで歓迎するようにこちらへ走り寄ってくる。ただの小さな虫ならやりようがあるだろう。潰すなり、追い出すなり何かがあるはずだ。原作では家族が投げたリンゴだとか、衰弱だとか、家政婦がぶつけた椅子だとかが原因になって主人公グレゴールは死んでしまったけれど、いざ全身の鳥肌を抱えながら相対して、何かを投げようと――って出来るわけあるかっ。
一メートル以上ある巨大な毒虫に、私は今まで感じたことがない種類の恐怖を覚えた。妖怪であっても生理的に無理なものは無理である。私は急いで鬼に助け求める。
「ゆ、勇儀。何とかしてください! 恐らくあれはカフカの『変身』が元になっているはずですから、元はただの人間ですし、気持ち悪いのでさっさと――」
勇儀は「やれやれ」とぼやきながら、私の前に立ち、一息に毒虫を蹴り上げる。毒虫はひとたまりもなく無残な姿になって、どす黒い体液をそこら中に巻き上げながら彼方へと飛んでいき、勇儀は全身に血液を浴びる。私がぼんやりとグレゴールの家族もこれぐらい簡単に彼を追い払えたら爽快だっただろうな、なんて考えていたら、ついでに家も無残な姿になった。
私があたりを見回していたら、家だった場所はただのクレーターになっている。カフカが作りだした恐怖も、乗り越えた後にやってくる幸せも、全ては吐き捨てられるように消滅している。
鬼の力って怖い。
「なあ、さとり」
「は、はい」
「さっきのゴキブリが思ったより弱っちかったもんで、ちょっと汚れちまったんだが。埃っぽいし、場所を変えるついでに私の身体も綺麗になるようイメージしてくれよ」
「あ、はい、承知いたします」
そりゃあ、あなたに蹴られたらほとんどの生物は原型を保てないでしょうに。私はそう言いそうになったが、もしこの鬼に何か失礼なことを言ったら、自分の原型がなくなりそうな気がしたので言わなかった。
「ふうん、やけに丁寧だねえ。どうでもいいけどさ」
身体中にべっとりと張り付いた液体、不愉快そうに臭いをかぐ勇儀。カフカもまさかクレーターに変わるなんて考えもしなかっただろうな、と私は毒虫に多少憐みを感じつつ、急いで彼女の姿が元通りになる状況をイメージし、次の場所へ移るように念じた。先ほど白いウサギを見かけたので、『不思議の国のアリス』なら面倒なことも無いと思い、移動する。
だと思ったのに。
「さとりさ、あんたって実は馬鹿だろう」
草原、大量のトランプ兵が私達を包み込んだ。申し訳ありません、非常に申し訳ありません。馬鹿丁寧に謝る私に勇儀は腹立たしさを隠しもせずに顔に出す。その表情を見ると私はさっき無残に飛んで行ったグレゴールを思い出し、背筋に冷たいものが走ることとなった。
数百のトランプ兵を力づくでなぎ倒す勇儀を見ながら、私は思う。
今のこの状況は、私が勇儀の心を読めないからこそ生み出した状況だ。私が彼女の心を読めていたなら、彼女の言いたいことを即座に理解して対応することも出来ただろうし、次に彼女がどんな場所に行きたいかを、もっと深くまで理解することも出来ただろう。どんな形にせよ、勇儀が「雑魚は消えな」と口悪く――時折私への愚痴をぼやきながら――トランプ兵を豪快に蹴り飛ばしていく光景はありえなかったはずだ。心を読めないということがこんなに歯がゆいものだとは、今まで気付かなかった。
しかし、それでも。
思わず笑いが出てしまう辺り、私はこの状況を楽しんでいるのかもしれない。
「ああ、わかった、わかった。あんたに行き先を任せると、ろくなことにならないみたいだね。こいつら無限に湧いてくるみたいだし、次は地霊殿だ。そこなら何も起こらないだろうし、ゆっくりと話も出来るだろうさ」
そろそろ千単位でトランプ兵を壊しただろうか、という辺りで勇儀が私に言う。私は普段じゃ経験出来ないこの環境におかしくなって、笑いながら、はい、そうですねなんて明るく応えると、彼女は怪訝そうに、なんだ、おかしくなっちまったのかと聞いてくる。多少気分が舞い上がっているのかもしれないけれど、おかしくはなっていないはずだ。
ああ、やっぱり自分はこの状況を楽しんでいる。
さあ、次は地霊殿だ。私は戦い続ける彼女を巻き込み、景色を塗り替える。草原も、トランプ兵も、何もかも、私と勇儀だけを残して世界が変わっていく。次に気付いた時、私達は地霊殿でゆっくりとコーヒーを片手に、テーブルに座っていた。
「さて、あんたに付き合わされちまったが、ようやく話の続きだ――ってなんだい、さっきからニヤニヤして。そんなに私を振り回しているこの状況が楽しいかい?」
「ええ。とても」
こっちは大迷惑だよ、とあきれる勇儀。私はあなたと一緒に居ると楽しいですよ、なんて言うと、ああそうかいそうかい、と言ってため息をついた。
「さて、さっきの続きだが、こいしちゃんの頼みを引き受けた後、私はわざわざ人里で倒れているあんたのところまで走ったんだよ。引き受けちゃった以上、人間と干渉したくないなんて言ってられないからねえ。それで、人里のハクタクの家で眠っているあんたを見つけて、傍に居た八雲紫に頼み、夢の中へ入ったわけなんだが」
「寝ているなら、起こせばいいだけでしょうに」
「こいしちゃんが言うには、パンクしているんだとさ」
「パンク?」
「そう。今人里では盛大な祭りがやっている。あんたはこいしちゃんと違って回線を開きっぱなしだから、人間、妖怪含めて、物凄い数の思念があんたになだれ込んでくるんだ。熱狂が渦巻いてあんたを巻き込み、許容量を超えてしまったんだとよ。さとり妖怪のことなんぞ私は知らないからよくわからないけど、要は――ああもう、面倒くさい。私が来たんだから、もうやめてやればいいのに」
勇儀は立ちあがり、私がどうしたんですか、と聞いても何も答えず、ただ私の横に立つ。私が口を開けて彼女を見ていると――ああ、なるほど。
あの音が聞こえた。
勇儀は電車が突っ込んでくると同時に腰を深く落とし、真新しい輝きと共に壁を突き破って突進してきたそれに、正拳を叩きこむ。一体何両続いているかはわからないが、衝撃が何百と貫通していく様は壮観で、私の全身に震えが走った。鬼が生み出した衝撃波は先ほどのクリーム色をした家屋と同じように、地霊殿ごと吹き飛ばし、一瞬で全てが瓦礫へと崩壊していく。その様子に私は思わずみとれてしまう。勇儀の姿は、内実共に私が知らない何かを体現していて。そこにはまだ素晴らしいものが残されているような気がして。
お疲れ様です、と私は声をかける。勇儀はいい加減馬鹿らしくなってきたのか、苦笑しながら手を振ってくる。鬼というものは凄いのですね、と言うと、勇儀は鬼が凄いんじゃない、私が凄いんだ、なんて返してきて。
ああ、こいしはいつもこんな世界を見ているのか。
憧れと、期待。今まで身体では理解していても、頭ではわからなかったが、どうやら私がこいしを探していた理由は、こういうことだったらしい。
崩れた柱に座る勇儀は、ため息をつきながら言った。
「何も話さずやるのは気が進まなかったから、ゆっくりと話をしてからにしようと思ったんだが――どうも、私とさとりでは相性が悪いらしいな」
「そうでもないですよ。私は楽しいですし」
「……はは。一体何を楽しんでいるんだろうね。こいしちゃんもおかしいところはあるけれど、さとりも十分異常だよ。さて、私はこいしちゃんに頼まれたわけだし、八雲紫はあの灰色を使って終わらせようと思っていたみたいだが――目覚める準備はいいか」
「目覚めるも何も、私の夢ならすぐに目覚められるのでは」
「あんたは今、何もかもぐちゃぐちゃになっているんだよ。取りこむべきでないものを取りこんで、自分で整理できなくて、それで精神的に病んでいるんだ。夢の中に閉じ込められて、そこから何も出来なくなってるんだよ。だからこいしちゃんは私に頼んで来たんだ。八雲紫はただの暇つぶしだったみたいだが」
「ああ、そうなのですか。こいしにも、あなたにも目覚めてから礼を言わねばなりませんね。それでは、私は何をすればいいかわかりませんが、お願いできますか」
ああ、任せろ、と勇儀は言う。
任せました、と私は微笑む。
「まとめて、吹き飛ばしてやるから」
勇儀の言葉に、私は躊躇する暇も与えられない。
次の瞬間、私の身体は電車と同じように無残な姿へと変わっていった。
/
「ああ、そろそろ目が覚めるみたいね」
「本当ですか!」
「ええ、こいし。嘘だと思うなら、あなたの姉の側に行ってみなさい。そう、もうちょっと覗いてみないとわからないわ。うん、そのあたりね」
「あ、本当だ。目が段々と開いて――って、いったあ!」
「けほっ、うへっ。――うぅ」
うまく呼吸が出来ない。自分の身体が何をしてどうなったのかもよく思い出せない。手足が無くなって、全ての感覚が雲を掴むように無くなって、そしてそこから――あれ。
「どう、つっ、して」
身体が、ある。
そうだ、私の身体は勇儀が粉々にして。
そしたら、当然だけど何も分からなくなって、息が出来なくなって。
そして私は、どこに居る?
「さて、さとりが目覚めたのなら、私はもう行くわ」
「なんだ、もう行くのかい? せめて本人から感謝の言葉でも受取りなよ紫」
「私はただ電車を走らせたかっただけよ、勇儀」
「素直じゃないねえ。必死なこいしちゃんに情をほだされた大妖怪とやらが。――なら、地底まで送ってくれよ、隙間を開けてさ。ここから地獄は遠いんだから、知らない仲でもあるまいし、それくらいはやってくれてもいいだろうさ」
「だってあなた、私の電車を潰したじゃない」
「ははっ。それは悪かった。今度埋め合わせするから、とりあえず今は勘弁してほしいね――それじゃあな、こいしちゃん、それにさとり。って聞こえてないか。まあ、ここの主は出払っているようだから、好きに使っていいぞ。お礼とかあるなら、今度地霊殿の上等な酒でもおくれよ」
からからと引き戸が音を立てて閉められる。私は真っ白な布団の上に座っていて、窓から差し込んでくる日差しが、喧騒が、私の意識を覚醒させる。
盆に置かれた湯呑み、棚に並べられた教科書、机に鎮座する小さな筆、脇に転がって呻いているのはさとり妖怪。意識がはっきりしてくると同時に、ここは人里に住む妖怪と交流の深い誰かが住んでいる家なのだろうとわかった。
「そうだ、こいしを探さないと」
「うぅ、私はここに居るよ、お姉ちゃん」
「ああ、ああそうね、あなたはそこに居たわね。でもどうして泣いているの?」
「お姉ちゃんのせいだよ」
こいしは目に涙をうかべてじっとりと睨んでくる。私は思わず「ああ」と納得し、途端に申し訳ない気分になる。思わず目を反らして、私は言った。
「ごめんなさい、こいし。お姉ちゃん、あなたに心配かけちゃったみたいね」
「違う」
「あれ、そういうことだって勇儀から聞いたんだけれど……それにしても、何だか酷く気分が悪いわね。悪いんだけどこいし、お姉ちゃんはもうちょっと休んでいくから、気にせずその辺りを廻ってきたらどう」
ぐるぐる、ぐるぐる。私の頭で何かが廻る。こいしの表情もくるくると怒ったり泣きそうになったり、どうしたらいいのか自分でもわからなくなっているようだ。なんだか吐き気もするし、見たこともない何かが私の頭を廻している。それはどんどん大きくなって、いつの間にか私の中はいっぱいになる。ああ、また、夢に堕ちていくんだな、と思った頃、何かが私の肩を強くゆすぶって、
「ああもうじれったい。いいからさっさと第三の目を閉じて! じゃないとまた倒れちゃうでしょ」
なんだか、何もかもが曖昧になっていく気がした。
「だから、そう簡単に閉じられないのよ」
「だーかーら! 閉じようと思えば閉じれるの! このままじゃずっと起きられなくなるよ!」
「なら、合図をちょうだい」
「へ?」
「お姉ちゃんが出来るように、何か一つ合図があれば閉じられるかも」
「もう、こんな時までバカみたいなこと言って!」
「ほらほら早く」
どうせ、閉じられるわけないのだから。段々思い出してきたが、ここは人里で、外では盛大な祭りがやっているというのは本当らしい。興奮が、熱狂が、耳にも心にも。それは大きな波になって私へとなだれ込んで来ていて、私は流れに抗おうともせずに吞まれ続ける。なんだか全てがぼんやりとしていて、遠い。けれど、
「てやっ」
私の妹が手を伸ばす。私は無理矢理腕を引っ張られて、意志とは関係なく助けられる。境界はたやすく破られ、ぶたれた頬の痛みと共に、他者が心から消えていく。胸の中は無理矢理えぐられたようにぽっかりと空いて、なんだかふわふわと落ち着かない。海水を飲みすぎて意識が定まらないように、うまく物を考えられない。自分の手足が思ったようにすぐ動かなかった。目の前では口を開けてぽかんとしている妹が居る。
「せ、成功しちゃった」
気づくと私の手には湯呑みが握られていた。身体は水分を欲していたのか、一気に喉へと流し込まれ実感がないままに私は補給する。これは、やっぱり――。
「どうかな。閉じた感覚も悪くないでしょ」
引き戸を開けて空を見上げる。雲も、空も、鳥も、妖怪も。ありとあらゆるものが、そうであるのが当然だと主張しているように見える。心の声は聞こえず、ただ耳に入る事柄を自然なものと受け入れ、目の前を威勢よく通り過ぎる神輿に微笑みかけている自分がいる。気分が『酷く』よい。
「叩けば治るって、そんな単純な」
「でも治ったでしょ」
確かに、と私は頷く。そこには疑問の余地など一切なく、それをもつことすら許されないことのように思えた。さとり妖怪にとって心を読めなくなるということは、自らの心を閉ざすことと同義だ。私はこいしと同じように心を閉ざすことで、何かを得て、何かを失った。私が欲しいと思ったそれは酷く気持ちのよいことで、それはとても気持ちの悪いことのように感じた。
「さあ行くよ、お姉ちゃん。こうなった私たちは居ると思われなければ誰にも気づかれないんだから、せっかくのお祭り、私たちのやり方で精いっぱい楽しもうよ」
/
心が読めるというのは非常に便利で、心が読めないというのも非常に便利だ。ただ、そこにある曖昧さが私の中で溶け込んで、うまく物を考えられずに消えていってしまう。私は妹が露店から失敬してきたいか焼きを齧り、神輿の上にのって荒い振動に振り回されながら運ばれていく。どこへ行くのかもわからないけれど、意識せず運ばれていくというのもなかなか楽しいよ、とこいしが教えてくれた。いか焼きを食べ終えたら今度は団子を失敬し、そばに鯛焼き、果てはアイスクリームまで。よくもまあそこまで手際よく持ってくるものだと感心していたら、お姉ちゃんもすぐに出来るようになるよとこいしは笑った。
「そうだ、こいしを探さないと」
「私がそうだよ、お姉ちゃん」
「ああ、そういえばそうだったわね」
それにしても人里にこれほどの祭りがあるとは知らなかった。鰻を焼く夜雀に、ただ喚き散らす山彦、氷精がかき氷を売り、化け猫が呼び込みをする。自然に混ざり合う人と妖怪に私は息を漏らし、神輿を降りて鰻を二つ頂きこいしに渡すと、妹は嬉しそうに受け取って、私は頬が熱くなるのを感じた。
神輿はやがて寂れた神社へとたどり着く。人の力でよくもここまで担いできたものだと担ぎ手を見ると、いつの間にか妖怪が取って代わっていて、酷くばらばらのリズムで拍子をとっている。そこには私の見知った妖怪も居て、私は彼らに気づかれること無く妹と神輿に座っていて。私がここに居るということはわからなくても、彼らと一緒に祭りを楽しんでいるという実感が湧いてくると、私は小さく手拍子をとり始めた。
「ほらお姉ちゃん、終着点だよ」
こいしの声に合わせて私は前を見る。けもの道を抜けて広がる石畳は、間違いなく夢の中で見た景色と同一だ。そこにはちゃんとまっくろな魔法使いも、おめでたい色の巫女も居て。彼女たちはたくさんの妖怪に取り囲まれ、神輿はあるべき場所へと納められる。大きな歓声と共に祭りは次の段階へと移行し、神輿から降りた私とこいしは妖怪の宴会が始まる前にその場を後にすることにした。
私が見た彼女たちには、本の中だけで完結し、現実に現れると途端に感じる気持ち悪さなど何もない。巫女は普段通りほげーっとした表情をしているし、魔法使いは宴会に交じって鬼と吞み比べなんかしている。きっとあの夢で起きた出来事は、私が心の中でひっそりと考えていたことが現れてしまっただけの、まやかしに過ぎなかったのだろう。
私とこいしは地底へと向かう洞窟を歩いている。夢の中と同じように湿気が纏わりついて服が肌にはりつき、あまりいい気持とは言えない。けれど、私が意識しないまま歩き続けるこの状態は、心に穴があいていて、埋めていくたびに抜け落ちていくようで。これはこれで、悪くはない形なのかもしれないと思った。そう思えた理由はわからないけれど、ただぼんやりと日常を形にせず歩き続けるというのも、一つの選択肢なのだろう。
だけど、私は知っている。
このままじゃいけないことも、このままじゃ何もできないことも。
「ああ、そこに居るのですか」
ぶらさがる桶から、深緑色の髪が小さく覗いている。相手がこちらに気づいても笑顔一つ見せない辺り、彼女は私が思い描く彼女で間違いないだろう。
開け、と私は呟いた。
第三の目は、私に応えた。
妹が残念そうに私を睨む。私はごめんね、とだけ言って桶に入った妖怪を見やり、こう呟いた。
「キスメ、私はあなたのこと、好きですよ」
それだけを伝えて、私は再び歩き出す。後ろからやってくるキスメの感情はどうしようもなく混乱していて、それでも悪い気はしていないのか、心地よい何かが私の心に沈んでいく。嫌いな相手に好きと言われて、それでも彼女が私のことは嫌いなことは変わらない。けれど、夢にしてもここにしても、私にかけてくれた言葉は、今の私にしっかりと染みついている。何事も言葉にしないといけないということは、空想の中でもこの場所でも、それは変わることはない。
今のは何? とこいしが問いかけてくる。私はそれに、こういうこともあるのよ、と笑って応える。互いが互いの心を読めた昔は、私たちが声にだして会話するなど一切なかった。自分の心も相手の心も筒抜けで、それは確かに、完全なコミュニケーションであるとも言えなくはない。
ただ、それではきっと駄目なのだろう。例え不完全なやりとりだったとしても、そこから生まれる何かは、互いの心に掴みきれないものを残す。私たちはそれを理解するのに苦悶して、必死に考えを巡らし、様々な邪推と共に間違った結論へと達する。構築される関係はまがいものかもしれないけれど、相手のことを考えた時間、自分はどうすればいいのかと悩み、その過程で自分が相手のことをどんな風に思っていたのかという事実に気づく。私たちはきっと、完全には程遠いけれど、不完全であるが故に、完全な存在にもっとも近いのだ。
だから、この世界も終わりにしないといけない。完全な世界なんて、不完全なものに勝てるはずがないのだから。
あの音が聞こえる。死を運んでくる電車は、今となっては私をこの世界から連れ出してくれる天国への扉に見えた。
「ごめんね、こいし。あなたとはここでお別れみたい」
地霊殿、ロビー。私が告げると、こいしは目を伏せて涙を見せる。私が知っている本物のこいしは、私に対してこんなに素直じゃないし、憎まれ口を叩いて、時にはペットをけしかけ、弾幕勝負では笑いながら私を消し飛ばそうとしてくる、本能のままに動くただの子供だ。
「ここじゃ、駄目なの?」
こいしの言葉に、私は首を横に振った。
「こいし――いいえ、もうあなたをこいしと呼ぶべきじゃないかもしれませんね。確かにこの世界は、出来事だけを見れば私の望んだ形ですし、心が読めずに他者と会話できるというのも非常に魅力的です。事実、私が現実でさとりの目を閉じられるなら、閉じてしまいたい。もっと魅力的な恋愛の形があるなら、傍でじっくりと観察していたい。八雲紫や勇儀が私のことで動いてくれることも、こうやってあなたが私と一緒に祭りを廻ってくれることも、何もかもが、私の望んだ形かもしれません。それが本当に素晴らしいものかどうかはともかく、この世界自体は酷く素晴らしい。
けれど、ここのキスメが私に好意を持たなかったように、霊夢と魔理沙が通常の関係に戻ったように、この世界が現実へと近づいてきているのはあなたも感じているはずです。こいしを模しているだけで、あなたの正体は、眠りに着く前の私が具現化したものなのですから。夜が来て朝がやってくるように、一度眠りについて目覚めたら、次の自分へとステップアップしていくのは、妖怪だって人間と同じなんですよ。
だから――もう、眠りなさい」
音が近くなってくる。こいしの形をした何かは私を抱きしめ、ぼやけた体温に、もれる嗚咽を隠そうともしない。
やはりこれは、私の妹などはない。
「グレゴール・ザムザは家から出られなかった。彼は確かにカフカの描く物語に巻き込まれた不幸な主人公と言えるでしょう。けれども、私は彼ほど不幸ではありませんし、外に目を向ければ得られるものは、きっとたくさんあって。私は、ルイス・キャロルの描いたアリスのように、一時の不思議に巻き込まれただけなんですよ」
近づく電車、耳に届くは轟音。もう嗚咽は聞こえないし、感じていた体温も、小さな息づかいも、世界から色が失われていく。
心の声が聞こえる。天井裏を這いずりまわる生物に限らず、傍らに置かれた花瓶も、壁に掛けられた絵画も、屋敷中が、いや世界中が私に向かって語りかけてくる。止めようと思っても無駄だ。私は文学の主人公じゃあるまいし――自己犠牲なんてのは、まっぴらごめんだから。
視界に入るはただの灰色。私は、無機質なそれに崩壊へのイメージを、それの心へと叩きこむ。現実の私、夢の中の私、そして、この空想の私。今の私なら世界も塗り替えられて、あらゆる者の声が聞こえて。ああ、今ならはっきりとわかる。この身体中をほとばしる何かは、空想に犯された私を叩きつぶそうとする、本物の私がもつ曖昧な形をした意志だ。
次の瞬間には世界が煙に包まれて、
「さよなら」
私の身体も、再び消えていった。
/
「いったあ!」
何だか聞き覚えのある言葉が聞こえた。今度は私の頭もはっきりとしていて、ひりひりと痛む頭も、頭を抱えてベッド脇に倒れるさとり妖怪も、何もかもがはっきりしている。
「どうしたの、こいし」
「――わからないならいいよ、もうっ」
「ええ。こいしが言いたいことなんて、私なんかにはまったくわからないわ――だから、ちょっとこっちへいらっしゃい」
私は小さく笑いながらこいしの手をとって引き寄せる。こいしは顔をしかめつつ私の側へ来て――思いっきり抱きしめられた。
「お、お姉ちゃん?」
何だか甘い匂いがする。身体に伝わる体温も、息を吞んで身をかたくするところも、首元にかかるくすぐったい息も、早鐘を打つ心臓も、何もかもが、私に確かな現実の感覚を思い出させてくれて。ここがどこで、私はなぜ眠っていたのかも、どうしてこいしが私を覗きこんでいたのかもどうでもよくて。
「やわらかい」
こいしがもぞもぞと身体を動かして離れようとする。私はがっちりと抑え込み、この感覚を離さないようにしている。
けれど、ここで何かを言わなければならないのだろう。少なくとも、空想の私ではなく今ここに居る私はそう思っている。
「ねえ、こいし。今あなたは何を考えているの?」
「……正直言って、気持ち悪い」
「それは、本当に?」
「た、多分」
だから、私はこう言った。
「私が死ぬまで、こうして居てくれる?」
結局。私は無理矢理引き剥がされ、とてつもなく多くの弾幕をくらい、顔を真っ赤にしたこいしに、それこそ立ちあがることが出来ないくらい痛めつけられたわけだけど、何だか悪い気はしなかった。
第三の目が閉じることはない。けれど私は唯一こいしの心だけが読めないし、それは確かに空想の私とは別のものだ。だけど、
「死んだら、お姉ちゃんと一緒に居られないでしょ」
私の妹は、ようやく見つかった。
こいしちゃんかわかわ
モチーフ(?)になった作中作品の雰囲気に落とし込んでいるようで中々幻想的です。
奇想天外の出たしで、一気に読むことができました。
読了感も良い。