窓から差し込む柔らかな日差しに目を覚まされたわたしは、上体を起こす事に些かの苦労をさせられた。
毛布のずり落ちる感触で何も着ていない事に気付き、誰に見られている訳でもないのに毛布を引き上げて胸元を隠す。
白いレース編みのカーテンを透かして見える景色は、宝石みたいに輝いて見える緑。庭園は几帳面に手が入れてあるらしく、自然な顔で調和していながらも、そこには悠然とした作り手の美意識らしき趣が見える。
アンティーク調の青銅色のテーブルと椅子は錆びかけて居るものの、世界が始まったその瞬間からそこにあった様に景色と同化している。青い羽根を持つ鳥が背もたれに停まって囀っていたが、わたしの視線に気付いてかどこかへと飛び立ってしまう。
両手へと視線を落とす。開いたり閉じたりの動作を確認する。木を擦り合わせたみたいな軋みが、皮膚の奥底から仄かに聞こえて来た。
「――お目覚めかしら?」
扉が開いたと同時に声が聞こえ、『彼女』が室内に入って来た。
わたしは知っている。彼女の名前を知っている。
上手く声が出るのか少々の不安を胸に、わたしは彼女の名前を呼ぶ。
「……アリス・マーガトロイド」
「正解よ。アリス・マーガトロイド」
溜め息を吐くように小さく笑ったアリス・マーガトロイドは、片手に持っていた手鏡をわたしに差しだした。
おずおずと、わたしはそれを受け取る。
銀の装飾が為された手鏡の中には、わたしの傍らに立つ女性と同じ顔の女が、仏頂面でこちらを睨んでいた。傍らに立つアリス・マーガトロイドと同じ顔の女が。
「……成程ね。実験は成功したという事かしら?」
縺れた金髪を掻き分けて、わたしはベッド脇のテーブルの上に手鏡を置く。
「――魔理沙が知ったら、何と言って『私』を茶化すかしらね?」
「……魔理沙には逢わせないわ。絶対」
冷淡に。しかし、確固たる意志を持って『私』、アリス・マーガトロイドが断言した。
「……………………」
反論や質問を許さない青い目がわたしを射抜き、わたしは毛布を抑えたまま並行することを余儀なくされた。
自立人形の作成。
それは人形に憑りつかれた『私』の長年の夢だった。
技術が熟成した後に『私』がぶち当たった壁は、『魂とは何か?』という高度に哲学的な問いかけの存在だった。
高度な哲学……しゃちほこ張った言い方だ。それは単に高僧不在の禅問答であり、宇宙の果てに関する議論に似る。要は『私』には見当もつかなかったと言うだけの話だ。
意識とは、自我とは、一体何なのか。
単純なアルゴリズムを永遠に羅列した物が、自我か?
細かな指令を呪文に乗せて細分化し詰めれば、それがいつしか魂になるのか?
その問題に『私』は、ハッキリと行き詰った。
行き詰った『私』は魂の生成を断念した。
ゼロから自我を生み出すのではなく、既に存在する自我をコピーすることを思いついた。
即ちアリス・マーガトロイドの複製された魂を、人形に搭載するというアイディア。
アリス・マーガトロイドの記憶を持ち、アリス・マーガトロイドの知識を使い、アリス・マーガトロイドの魔法を詠唱し、アリス・マーガトロイドの判断を下し、アリス・マーガトロイドの外見を持つ――人形。
そうして、『わたし』は目を覚ました。
素人目には判らない様な技術を用いて皮膚を再現し、球体関節を隠し、肌の弾力や髪質、五感さえもアリス・マーガトロイドの肉体を忠実に再現した人形の身体で、『わたし』は目を覚ました。
アリス・マーガトロイドを深く知らない者は当然として、『わたし』を深く知る者でさえも気付き得ないであろう、完璧なアリス・マーガトロイドの複製として。
「紅茶は飲む?」
ベッド脇に椅子を置いた『私』が、わたしに尋ねてくる。
「――えぇ、頂くわ」
わたしはベッドから身体を引きずり出しながら答えた。
動かし始めたばかりの球体関節はギシギシと不自然に軋んで、立ち上がろうとしたわたしは力の入れ方が上手く判らず転びそうになる。すかさず立ち上がった『私』が、わたしの裸の肩を支えた。
「ご親切にどうも」
「気にしないで。そのうち慣れるわ」
どこか冷徹な慈愛に満ちた視線で、『私』はわたしを観察する様に見た。
動作が上手く行っているかどうかを判断しているのだ。
自分の事だ。少々の演技で優しさを演出した所で、その裏の思考くらいはすぐに判る。それは『私』でさえも理解しているに違いない。その証拠に『私』はわたしが自分の両足で立ち上がるのを確認すると、優しさの演出を過剰に重ねる事も無く、わたしに背を向けた。
「庭園の椅子に座って待っていて頂戴。服もちゃんと着るのよ。クローゼットの中にあるから」
「説明されなくても判ってるわ。身体は人形でも中身は『私』じゃない」
「そうね。そうだったわね。それじゃ、また後でね。『わたし』」
無感情的に薄気味悪い会話を打ち切ると、『私』は部屋を後にする。
勝手知ったるクローゼットの中には、しかし普段『私』が身に纏っている服は一着も無く、代わりにわたしの身体に合わせて仕立てられた上海達専用の洋服があった。
人形用にデザインされた服を纏う事に些かの不満を覚えながらも、しかしわたしは自分が紛うことなき人形であることを思い出し、渋々その洋服に袖を通した。
◆◆◆
「クロックムッシュを作ったわ」
大人しく庭園の椅子に座っていたわたしの目の前に、『私』が皿を置く。ハムとチーズを挟んだフレンチトーストの香りには甘さと香ばしさが入り混じる。その混じり合った香りは、程よく焦げたバターによって纏め上げられていた。
「食べられるの? わたしは?」
「食べた物をきちんとエネルギー変換出来るように調節したじゃない。覚えてないの?」
「覚えてはいるけれど……自分が人形だと自覚している身だし、少々覚悟が必要だわ」
ティーセットを乗せた銀のトレイをテーブルの端に置いて、向かいの椅子に腰かけた『私』が頬杖をついてわたしを見る。
理屈ではきちんと理解していても、自分に見られているというのは気持ちの悪い物だ。
「仮に不具合が起きたとしても、きちんと私が調整してあげるわよ。安心して」
「――わたしの身体は、『私』のお墨付きって訳ね」
舐め上げられる様な『私』の観察眼を感じながら、わたしは肩を竦める。
「それじゃ、遠慮なく頂くわ」
「召し上がれ」
皿に添えられていたナイフとフォークを手に取り、わたしは山型食パンで挟まれたクロックムッシュを六分割する。融けたチーズがナイフに引っかかって後を引く。未だこの身体の動作に慣れていない身には、それがもどかしくもあった。
ティーカップに紅茶を注ぎながら、『私』が横目でチラチラとわたしの事を見てくる。食事の光景をジロジロと見られるのは、決して気分の良い物では無い。無いのだが、わたしは自分の作品に対する『私』の几帳面さを良く知っている。
全てが順当に動作するのか、確認せずには居られないのだ。
だからわたしは、視線に気付かない振りをしてクロックムッシュの断片を口に運んだ。暖かなチーズとハムの香り、バターで焼き上げられた表面のカリッとした歯触り――。
「……ん?」
わたしは咀嚼を止め、チラリと『私』の事を見る。
「どうかした?」
「――何故、クロックムッシュにシナモンを入れたの?」
甘いだけのフレンチトーストならば、シナモンの香りがしてもまた一興だろう。
しかし、今私が食べているのはクロックムッシュだ。菓子では無い。シナモンなんて入れたら、チーズやハム、マヨネーズの味わいと喧嘩をして台無しになる。
半ば放る様に、わたしはナイフとフォークを皿に戻した。
「……成程ね。ご満足いただけたかしらね? 『私』」
『私』の思惑を察したわたしは、『私』から視線を逸らして溜め息を吐く。
「えぇ。きちんと味覚も嗅覚も動作している様で何よりだわ『わたし』。もう要らない?」
「当然よ」
「そ」
食事を放棄したわたしを見て、『私』はどこか満足そうに食べかけのクロックムッシュを下げた。キッチンへと戻る『私』の背中を見送りながら、わたしは先ほど『私』が注いでいた紅茶を引き寄せる。
紅茶にも何か入れられていたら溜まった物じゃない、と私は真紅の液面に目を落として躊躇した後、恐る恐るティーカップを傾けた。
「ん……美味し」
幸い紅茶はまともなようで、わたしは安堵した。
◆◆◆
自分との共同生活が始まった。
とはいえ、『私』は兎も角わたしには特別やる事も無い。
研究の手伝いを『私』に頼まれれば大人しくそれに従うが、自主的に何かをやろうという気にはなれなかった。庭園の椅子に腰かけて、書斎の本を読み返す事がわたしの日課になった。
外出は禁じられた。
自分と同じ外見、同じ内面の人形が外で妙な事をしたら困る。というのが言い分だった。
その台詞にわたしは苦笑した。『私』はわたし自身でさえも信用が出来ないのか、と思うと可笑しかった。
しかし、『私』もわたしも、考える事は同じだ。同じであっても『私』が自分の魂のコピーを行って以降の記憶までもは共有していない事も判っている。
仮に『私』が昨日、魔理沙と喧嘩をしたとして、わたしにはその記憶は無い。そうなるとわたしが魔理沙と顔を合わせたら、やり取りに齟齬が発生する。
そう考えるとわたしだって、仮に『私』の立場に居たら、わたしの外出は禁じるだろうな、と考えたので、素直にわたしは『私』の命令に従った。その言いつけは厳しく、時たま訪れる藤原妹紅との会話にさえ、わたしは参加を許されなかった。
わたしが退屈しているのを察してか、『私』は庭いじりの仕事をわたしに任せるようになった。ガーデニングは嫌いでは無かったが、のめり込んだ事は無かった。他にやる事も思いつかないわたしは、すぐに熱中した。
湿った黒土の感触は日溜まりの中にあっても冷たく、鼻腔は生命の気配を嗅ぎ取った。一掬いの黒土の中に巣くう微細な生物。それらは食物連鎖という不可視のピラミッドを形成し、撒いた花や果実の種を育む。
ブリキ製のジョウロで種を撒いた場所に水をやる。水滴が土塊を叩く音から、いつしか狂おしい程の歓喜を連想する様になった。発芽した種が黒土の蓋をこじ開け、太陽へと手を伸ばす様を見れば、わたしの頬は自然と綻んだ。
完璧な美の形成を目指す庭園は、意図せぬ来訪者の削除をも厭わない。
どこからか飛来する雑草の種が、わたしの意にそぐわず根を下ろした際、わたしは間引きを強要される。
葉を千切り、根元から雑草を引き抜くわたしの心は痛んだ。わたしの意志によって命を絶たれる植物を、雑草と呼んで一括りにする事に躊躇した。いつかクロックムッシュを置いたテーブルの上に植物辞典を鎮座させ、出来うる限りわたしは間引く植物の名を知ろうとした。全ての名を知る事は叶わなかったが、幸運にも名前が判った際には、心の内に謝罪を紡ぎながら、無慈悲に生命の取捨選択を行った。
生命。
庭いじりに没頭すればするほどに、その意味を考えざるを得なくなっていく。自我の存在さえ不確かな、単純極まるアルゴリズムによって成長する植物は、疑いようが無く生命そのものだった。
『私』ならば、植物発生のアルゴリズムを精密に生成することは容易だろう。植物を模した人形を作った記憶は無かったが、それはやろうと思わなかったというだけの話で、アリス・マーガトロイドの魂を複製するよりもずっと前の『私』でさえ、そのコードを纏め上げる事は可能だったはずだ。
そうして『私』が作った『植物の人形』は、果たして生命か?
わたしには、そうは思えなかった。
どれほど生命に似た反応を示す人形を作れど。
成長さえも内包し、自らの遺伝子を次代へと引き継ぐアルゴリズムを書き上げれど。
それは限りなく生命に近しい、紛い物に過ぎない。
さながら反比例を表す二次方程式のグラフの様。曲線はペンで書き分ける事が不可能なまでに境界線までにじり寄っても、決して境界に交わろうとはしない。
庭園にラベンダーが花を咲かせた頃、わたしの心を捉えて離さなかった生命の哲学の全ては即ち、『わたし』に当てはまる事に気付いた。
気付いてしまった。
精巧な肌の下、数え切れぬほど蠢く球体関節が適度に摩耗して、軋みも無くなったわたしは、自分の手を見た。
ジッと見つめた。
伸びない爪の間に黒土が染み込み、それでも白磁染みた病的な白さを失わないわたしの手。ティーカップ越しに伝わる紅茶の熱さや、分化を始めたばかりの新芽の柔らかさ。ブリキのジョウロに注ぐ水の冷たさや、握るナイフの硬さ。上海達に着せる物と同じ洋服に袖を通す動作や、照り付ける太陽光線から目を守る時の形。
全部。
――紛い物じゃないか。
「…………っ」
思考は劇薬だ。病魔をいとも容易く治癒したかと思えば、同じ効能で精神に取り返しのつかない傷をも与える。
わたしは、揺らいだ。
何の疑いも無く自らをアリス・マーガトロイドだと信じて来たそれまでの自分が、急に遠くなった。
――わたしは、誰? わたしは、アリス・マーガトロイドの人形。
――わたしは、何? わたしは、アリス・マーガトロイドの人形。
そうだ。
わたしは、人形なんだ……。
この思考でさえ。日々口にする食事への感想でさえ。土をいじりながら抱く思いでさえ。ベッドに横たわった後の微睡みでさえ。記憶を再構成して生み出される夢でさえ。
記憶も、知識も、感情も、全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部――偽物。
全部、代替物の寄り集め…………。
――わたしが、『私』の殺害を思いつくまで、そう長い時間は要しなかった。
◆◆◆
『私』の部屋への立ち入りを、わたしは許可されていなかった。
食事や外出の際、『私』は自室に鍵を掛ける。それ以外の時間、『私』は常に自室に閉じ籠っていた。
ナイフを懐に忍ばせたわたしには、凡そ殺意と呼べる激情は存在しなかった。緊張が鼓動の形を為してわたしの胸を内側から叩く。
それでさえ偽物だと思うと、わたしは酷く落胆した。心臓を模して稼働しているだけの、単なる人形の部品だと知っているからだ。アリス・マーガトロイドの魂の複製が込められているので、その部位はわたしの核ではある。
しかし、ただそれだけだ。
仮にこの部品が壊れても、新しい部品を装着すればすぐにでも稼働を再開する。
便利な事だ。
そんな便利な代替可能の核を持つ私は、やはり生命とは程遠い存在なのだろう。
……それでも構わない。
誰よりもわたしが――『私』が、わたしを偽物だと知っているから。
だからこそわたしは、『私』を殺すのだ。
たった一つで良い。『本物』が欲しい。
アリス・マーガトロイドの庇護下にあるわたしは、このままの生活を幾ら続けても、アリス・マーガトロイドにはなれない。
――本物の、アリス・マーガトロイドに、なろう。
わたしは意を決して、『私』の部屋のドアノブに手を掛ける。鍵は掛かっていなかった。何も言わず、わたしは部屋の中へと足を踏み入れる。
果たして『私』は、そこに居た。机に向かって、ペンを走らせる『私』。自分の背中を他者の目線で見る事に、本能的な拒否感を覚える。
「……この部屋に入るな、と言わなかったかしら?」
こちらを向こうともせず、『私』の背中が宥める様に言う。
「――わたしが、何をしに来たか判る?」
扉を閉めながら問うた言葉に、『私』は何の反応も示さなかった。
構う事無く、わたしはクローゼットへと足を向ける。開いたクローゼットの中には、まるでわたしを待ち構えてでも居たかのように、『私』の服が掛かっている。
躊躇う事無く、纏っていた上海の服を脱いだ。脱ぎ捨てた上海の服を部屋の端に蹴りやり、わたしは黙々と自分の服に袖を通す。
懐かしい感覚だ。決まった手順で服を身に纏う事で、ほんの少しだけわたしは本物に近づいたような感慨を覚えた。
「……有り触れた、陳腐な題材だわ。主人に反逆する人形だなんて」
「陳腐だろうが何だろうが、知った事じゃないわ」
上海の服の中に仕舞っていたナイフを持ち上げ、それを両手でしっかりと構える。
「――実験は失敗よ。主を持つ自立人形なんて、存在して良い訳が無い。『私』はそれに気付けなかった。『私』を殺して、わたしは、『私』になる」
自分の実体を殺して、幻影が実体になる。
大仰な溜め息を、『私』が吐いた。安楽椅子を回し、仏頂面のアリス・マーガトロイドがこちらを振り向く。
そしてその顔が――嗤った。
「うわああああああああああああああああああああああああああ!!!」
ナイフを構えたまま、心臓を目掛けてわたしは走る。『私』は動かない。興味深そうにわたしを観察するばかりで、その表情は微塵も歪みはしなかった。
そして『私』は反撃に出ることも無く、わたしのナイフに心臓を抉られた。
ドン――。
安楽椅子の背が、机に激突した音だった。
心臓に深々とナイフが刺さったまま、アリス・マーガトロイドは四肢の力を失い、安楽椅子からズルリと滑り落ちる。
「はあ……はあ……はあ……はあ……」
『私』の青い瞳から、光が消えた。
アリス・マーガトロイドは絶命した。
――血の一滴を流すことも無く。
銀色に光るナイフは、墓標の様に胸部に突き立っている。
待てども待てども、そこから血が滲んでくることは無かった。
「――ッ!」
わたしは――『私』になった筈のわたしは、震える手でアリス・マーガトロイドの亡骸から恐る恐る衣服を剥ぎ取った。
わたしの肉体と寸分違わぬ白い肌が、ガス灯のオレンジ色の明かりの元に露わになる。
ナイフを引き抜いて、わたしは、その死体をうつ伏せにする。
その背中には擦れかけた刻印が刻まれていた。
「……No.78592」
違う。
――そんな。
そんな、馬鹿なことがあるものか……っ!
身に纏ったばかりの『私』の服を、わたしは半狂乱で脱いだ。
裸になった私は荒く呼吸を吐きながら、部屋の隅に置かれていた姿見に歩み寄る。
鏡に背中を向けると、わたしの背中には、『私』と同じ様な刻印が刻まれていた。
――そこにあった数字が、78593になっただけの、数列が。
◆◆◆
自立人形の作成。
それは人形に憑りつかれた『私』の長年の夢だった。
どれほどの月日、『私』は同じことを繰り返して来たのだろう?
何百年? 何千年? それとも、何万年なのか。
『私』が、わたしを魔理沙に逢わせないと断言したのも当然だ。
だって、もうとっくの昔に死んでいるのだから。
魔理沙も。霊夢も。その他数え切れないほどの顔見知りは、『私』が。『わたし』が。『私たち』が、不毛な運命を繰り返しているうちに、皆々、死んでしまったのだから。
わたしが、『私』になった翌日、訪ねてきた藤原妹紅に、アリス・マーガトロイドの亡骸……否、壊れたアリス・マーガトロイドの人形を渡した。
「またか」
そう言って彼女は、笑った。
何万人ものアリス・マーガトロイドを手渡されてきた彼女は、わたしを見て何を思うのだろう?
どうせ、また手渡される事になる人形だ、とそう無感情に思うだけなのだろうか?
結局本物にはなれなかったわたしには、知る由も無い。
『私』を殺して、壊して、『私』になったわたしは、庭いじりを止めた。
代わりに、新しい人形を作り始める事にした。
『私』の部屋の机の中に、大事に仕舞ってあったアリス・マーガトロイドの魂の複製のオリジナルを使って。
わたしは――否、私は、いつか自分を壊してくれる『わたし』の身体を作り上げる。
私の可愛い、自立人形。
『私』を模した、偽物のアリス・マーガトロイド。
偽物から偽物へと幻影のバトンを繋ぐために。
その不毛で下らない運命の螺旋こそ、偽物でしかない『私たち』でしか為し得ない、唯一の本物であると、私はあの日、あの先代の嗤った顔を見て、悟ってしまったから。
――No.78594.
私は、貴女の為に技術の粋を尽くした人形を作ろう。
日溜まりの庭園で、シナモンを混ぜたクロックムッシュを作ろう。
自分が偽物でしかないと自覚出来るために、上海の洋服も新たに作ろう。
その日まで私は、貴女に繋ぐための庭園を維持し続けよう。
マーガトロイド庭園の日溜まりの中で、私は紅茶を淹れた。
黒土の隙間から覗く青葉を眺める。満開の花を咲かせる黄色いカンナの花を見つめる。青空はどこまでも高く永遠で、雲居の中へと名も知らぬ鳥たちの囀りが消えて行く。
ルビー色の液面を唇に寄せて、
「――ん……美味し」
と、私は呟いた。
――Never End
毛布のずり落ちる感触で何も着ていない事に気付き、誰に見られている訳でもないのに毛布を引き上げて胸元を隠す。
白いレース編みのカーテンを透かして見える景色は、宝石みたいに輝いて見える緑。庭園は几帳面に手が入れてあるらしく、自然な顔で調和していながらも、そこには悠然とした作り手の美意識らしき趣が見える。
アンティーク調の青銅色のテーブルと椅子は錆びかけて居るものの、世界が始まったその瞬間からそこにあった様に景色と同化している。青い羽根を持つ鳥が背もたれに停まって囀っていたが、わたしの視線に気付いてかどこかへと飛び立ってしまう。
両手へと視線を落とす。開いたり閉じたりの動作を確認する。木を擦り合わせたみたいな軋みが、皮膚の奥底から仄かに聞こえて来た。
「――お目覚めかしら?」
扉が開いたと同時に声が聞こえ、『彼女』が室内に入って来た。
わたしは知っている。彼女の名前を知っている。
上手く声が出るのか少々の不安を胸に、わたしは彼女の名前を呼ぶ。
「……アリス・マーガトロイド」
「正解よ。アリス・マーガトロイド」
溜め息を吐くように小さく笑ったアリス・マーガトロイドは、片手に持っていた手鏡をわたしに差しだした。
おずおずと、わたしはそれを受け取る。
銀の装飾が為された手鏡の中には、わたしの傍らに立つ女性と同じ顔の女が、仏頂面でこちらを睨んでいた。傍らに立つアリス・マーガトロイドと同じ顔の女が。
「……成程ね。実験は成功したという事かしら?」
縺れた金髪を掻き分けて、わたしはベッド脇のテーブルの上に手鏡を置く。
「――魔理沙が知ったら、何と言って『私』を茶化すかしらね?」
「……魔理沙には逢わせないわ。絶対」
冷淡に。しかし、確固たる意志を持って『私』、アリス・マーガトロイドが断言した。
「……………………」
反論や質問を許さない青い目がわたしを射抜き、わたしは毛布を抑えたまま並行することを余儀なくされた。
自立人形の作成。
それは人形に憑りつかれた『私』の長年の夢だった。
技術が熟成した後に『私』がぶち当たった壁は、『魂とは何か?』という高度に哲学的な問いかけの存在だった。
高度な哲学……しゃちほこ張った言い方だ。それは単に高僧不在の禅問答であり、宇宙の果てに関する議論に似る。要は『私』には見当もつかなかったと言うだけの話だ。
意識とは、自我とは、一体何なのか。
単純なアルゴリズムを永遠に羅列した物が、自我か?
細かな指令を呪文に乗せて細分化し詰めれば、それがいつしか魂になるのか?
その問題に『私』は、ハッキリと行き詰った。
行き詰った『私』は魂の生成を断念した。
ゼロから自我を生み出すのではなく、既に存在する自我をコピーすることを思いついた。
即ちアリス・マーガトロイドの複製された魂を、人形に搭載するというアイディア。
アリス・マーガトロイドの記憶を持ち、アリス・マーガトロイドの知識を使い、アリス・マーガトロイドの魔法を詠唱し、アリス・マーガトロイドの判断を下し、アリス・マーガトロイドの外見を持つ――人形。
そうして、『わたし』は目を覚ました。
素人目には判らない様な技術を用いて皮膚を再現し、球体関節を隠し、肌の弾力や髪質、五感さえもアリス・マーガトロイドの肉体を忠実に再現した人形の身体で、『わたし』は目を覚ました。
アリス・マーガトロイドを深く知らない者は当然として、『わたし』を深く知る者でさえも気付き得ないであろう、完璧なアリス・マーガトロイドの複製として。
「紅茶は飲む?」
ベッド脇に椅子を置いた『私』が、わたしに尋ねてくる。
「――えぇ、頂くわ」
わたしはベッドから身体を引きずり出しながら答えた。
動かし始めたばかりの球体関節はギシギシと不自然に軋んで、立ち上がろうとしたわたしは力の入れ方が上手く判らず転びそうになる。すかさず立ち上がった『私』が、わたしの裸の肩を支えた。
「ご親切にどうも」
「気にしないで。そのうち慣れるわ」
どこか冷徹な慈愛に満ちた視線で、『私』はわたしを観察する様に見た。
動作が上手く行っているかどうかを判断しているのだ。
自分の事だ。少々の演技で優しさを演出した所で、その裏の思考くらいはすぐに判る。それは『私』でさえも理解しているに違いない。その証拠に『私』はわたしが自分の両足で立ち上がるのを確認すると、優しさの演出を過剰に重ねる事も無く、わたしに背を向けた。
「庭園の椅子に座って待っていて頂戴。服もちゃんと着るのよ。クローゼットの中にあるから」
「説明されなくても判ってるわ。身体は人形でも中身は『私』じゃない」
「そうね。そうだったわね。それじゃ、また後でね。『わたし』」
無感情的に薄気味悪い会話を打ち切ると、『私』は部屋を後にする。
勝手知ったるクローゼットの中には、しかし普段『私』が身に纏っている服は一着も無く、代わりにわたしの身体に合わせて仕立てられた上海達専用の洋服があった。
人形用にデザインされた服を纏う事に些かの不満を覚えながらも、しかしわたしは自分が紛うことなき人形であることを思い出し、渋々その洋服に袖を通した。
◆◆◆
「クロックムッシュを作ったわ」
大人しく庭園の椅子に座っていたわたしの目の前に、『私』が皿を置く。ハムとチーズを挟んだフレンチトーストの香りには甘さと香ばしさが入り混じる。その混じり合った香りは、程よく焦げたバターによって纏め上げられていた。
「食べられるの? わたしは?」
「食べた物をきちんとエネルギー変換出来るように調節したじゃない。覚えてないの?」
「覚えてはいるけれど……自分が人形だと自覚している身だし、少々覚悟が必要だわ」
ティーセットを乗せた銀のトレイをテーブルの端に置いて、向かいの椅子に腰かけた『私』が頬杖をついてわたしを見る。
理屈ではきちんと理解していても、自分に見られているというのは気持ちの悪い物だ。
「仮に不具合が起きたとしても、きちんと私が調整してあげるわよ。安心して」
「――わたしの身体は、『私』のお墨付きって訳ね」
舐め上げられる様な『私』の観察眼を感じながら、わたしは肩を竦める。
「それじゃ、遠慮なく頂くわ」
「召し上がれ」
皿に添えられていたナイフとフォークを手に取り、わたしは山型食パンで挟まれたクロックムッシュを六分割する。融けたチーズがナイフに引っかかって後を引く。未だこの身体の動作に慣れていない身には、それがもどかしくもあった。
ティーカップに紅茶を注ぎながら、『私』が横目でチラチラとわたしの事を見てくる。食事の光景をジロジロと見られるのは、決して気分の良い物では無い。無いのだが、わたしは自分の作品に対する『私』の几帳面さを良く知っている。
全てが順当に動作するのか、確認せずには居られないのだ。
だからわたしは、視線に気付かない振りをしてクロックムッシュの断片を口に運んだ。暖かなチーズとハムの香り、バターで焼き上げられた表面のカリッとした歯触り――。
「……ん?」
わたしは咀嚼を止め、チラリと『私』の事を見る。
「どうかした?」
「――何故、クロックムッシュにシナモンを入れたの?」
甘いだけのフレンチトーストならば、シナモンの香りがしてもまた一興だろう。
しかし、今私が食べているのはクロックムッシュだ。菓子では無い。シナモンなんて入れたら、チーズやハム、マヨネーズの味わいと喧嘩をして台無しになる。
半ば放る様に、わたしはナイフとフォークを皿に戻した。
「……成程ね。ご満足いただけたかしらね? 『私』」
『私』の思惑を察したわたしは、『私』から視線を逸らして溜め息を吐く。
「えぇ。きちんと味覚も嗅覚も動作している様で何よりだわ『わたし』。もう要らない?」
「当然よ」
「そ」
食事を放棄したわたしを見て、『私』はどこか満足そうに食べかけのクロックムッシュを下げた。キッチンへと戻る『私』の背中を見送りながら、わたしは先ほど『私』が注いでいた紅茶を引き寄せる。
紅茶にも何か入れられていたら溜まった物じゃない、と私は真紅の液面に目を落として躊躇した後、恐る恐るティーカップを傾けた。
「ん……美味し」
幸い紅茶はまともなようで、わたしは安堵した。
◆◆◆
自分との共同生活が始まった。
とはいえ、『私』は兎も角わたしには特別やる事も無い。
研究の手伝いを『私』に頼まれれば大人しくそれに従うが、自主的に何かをやろうという気にはなれなかった。庭園の椅子に腰かけて、書斎の本を読み返す事がわたしの日課になった。
外出は禁じられた。
自分と同じ外見、同じ内面の人形が外で妙な事をしたら困る。というのが言い分だった。
その台詞にわたしは苦笑した。『私』はわたし自身でさえも信用が出来ないのか、と思うと可笑しかった。
しかし、『私』もわたしも、考える事は同じだ。同じであっても『私』が自分の魂のコピーを行って以降の記憶までもは共有していない事も判っている。
仮に『私』が昨日、魔理沙と喧嘩をしたとして、わたしにはその記憶は無い。そうなるとわたしが魔理沙と顔を合わせたら、やり取りに齟齬が発生する。
そう考えるとわたしだって、仮に『私』の立場に居たら、わたしの外出は禁じるだろうな、と考えたので、素直にわたしは『私』の命令に従った。その言いつけは厳しく、時たま訪れる藤原妹紅との会話にさえ、わたしは参加を許されなかった。
わたしが退屈しているのを察してか、『私』は庭いじりの仕事をわたしに任せるようになった。ガーデニングは嫌いでは無かったが、のめり込んだ事は無かった。他にやる事も思いつかないわたしは、すぐに熱中した。
湿った黒土の感触は日溜まりの中にあっても冷たく、鼻腔は生命の気配を嗅ぎ取った。一掬いの黒土の中に巣くう微細な生物。それらは食物連鎖という不可視のピラミッドを形成し、撒いた花や果実の種を育む。
ブリキ製のジョウロで種を撒いた場所に水をやる。水滴が土塊を叩く音から、いつしか狂おしい程の歓喜を連想する様になった。発芽した種が黒土の蓋をこじ開け、太陽へと手を伸ばす様を見れば、わたしの頬は自然と綻んだ。
完璧な美の形成を目指す庭園は、意図せぬ来訪者の削除をも厭わない。
どこからか飛来する雑草の種が、わたしの意にそぐわず根を下ろした際、わたしは間引きを強要される。
葉を千切り、根元から雑草を引き抜くわたしの心は痛んだ。わたしの意志によって命を絶たれる植物を、雑草と呼んで一括りにする事に躊躇した。いつかクロックムッシュを置いたテーブルの上に植物辞典を鎮座させ、出来うる限りわたしは間引く植物の名を知ろうとした。全ての名を知る事は叶わなかったが、幸運にも名前が判った際には、心の内に謝罪を紡ぎながら、無慈悲に生命の取捨選択を行った。
生命。
庭いじりに没頭すればするほどに、その意味を考えざるを得なくなっていく。自我の存在さえ不確かな、単純極まるアルゴリズムによって成長する植物は、疑いようが無く生命そのものだった。
『私』ならば、植物発生のアルゴリズムを精密に生成することは容易だろう。植物を模した人形を作った記憶は無かったが、それはやろうと思わなかったというだけの話で、アリス・マーガトロイドの魂を複製するよりもずっと前の『私』でさえ、そのコードを纏め上げる事は可能だったはずだ。
そうして『私』が作った『植物の人形』は、果たして生命か?
わたしには、そうは思えなかった。
どれほど生命に似た反応を示す人形を作れど。
成長さえも内包し、自らの遺伝子を次代へと引き継ぐアルゴリズムを書き上げれど。
それは限りなく生命に近しい、紛い物に過ぎない。
さながら反比例を表す二次方程式のグラフの様。曲線はペンで書き分ける事が不可能なまでに境界線までにじり寄っても、決して境界に交わろうとはしない。
庭園にラベンダーが花を咲かせた頃、わたしの心を捉えて離さなかった生命の哲学の全ては即ち、『わたし』に当てはまる事に気付いた。
気付いてしまった。
精巧な肌の下、数え切れぬほど蠢く球体関節が適度に摩耗して、軋みも無くなったわたしは、自分の手を見た。
ジッと見つめた。
伸びない爪の間に黒土が染み込み、それでも白磁染みた病的な白さを失わないわたしの手。ティーカップ越しに伝わる紅茶の熱さや、分化を始めたばかりの新芽の柔らかさ。ブリキのジョウロに注ぐ水の冷たさや、握るナイフの硬さ。上海達に着せる物と同じ洋服に袖を通す動作や、照り付ける太陽光線から目を守る時の形。
全部。
――紛い物じゃないか。
「…………っ」
思考は劇薬だ。病魔をいとも容易く治癒したかと思えば、同じ効能で精神に取り返しのつかない傷をも与える。
わたしは、揺らいだ。
何の疑いも無く自らをアリス・マーガトロイドだと信じて来たそれまでの自分が、急に遠くなった。
――わたしは、誰? わたしは、アリス・マーガトロイドの人形。
――わたしは、何? わたしは、アリス・マーガトロイドの人形。
そうだ。
わたしは、人形なんだ……。
この思考でさえ。日々口にする食事への感想でさえ。土をいじりながら抱く思いでさえ。ベッドに横たわった後の微睡みでさえ。記憶を再構成して生み出される夢でさえ。
記憶も、知識も、感情も、全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部――偽物。
全部、代替物の寄り集め…………。
――わたしが、『私』の殺害を思いつくまで、そう長い時間は要しなかった。
◆◆◆
『私』の部屋への立ち入りを、わたしは許可されていなかった。
食事や外出の際、『私』は自室に鍵を掛ける。それ以外の時間、『私』は常に自室に閉じ籠っていた。
ナイフを懐に忍ばせたわたしには、凡そ殺意と呼べる激情は存在しなかった。緊張が鼓動の形を為してわたしの胸を内側から叩く。
それでさえ偽物だと思うと、わたしは酷く落胆した。心臓を模して稼働しているだけの、単なる人形の部品だと知っているからだ。アリス・マーガトロイドの魂の複製が込められているので、その部位はわたしの核ではある。
しかし、ただそれだけだ。
仮にこの部品が壊れても、新しい部品を装着すればすぐにでも稼働を再開する。
便利な事だ。
そんな便利な代替可能の核を持つ私は、やはり生命とは程遠い存在なのだろう。
……それでも構わない。
誰よりもわたしが――『私』が、わたしを偽物だと知っているから。
だからこそわたしは、『私』を殺すのだ。
たった一つで良い。『本物』が欲しい。
アリス・マーガトロイドの庇護下にあるわたしは、このままの生活を幾ら続けても、アリス・マーガトロイドにはなれない。
――本物の、アリス・マーガトロイドに、なろう。
わたしは意を決して、『私』の部屋のドアノブに手を掛ける。鍵は掛かっていなかった。何も言わず、わたしは部屋の中へと足を踏み入れる。
果たして『私』は、そこに居た。机に向かって、ペンを走らせる『私』。自分の背中を他者の目線で見る事に、本能的な拒否感を覚える。
「……この部屋に入るな、と言わなかったかしら?」
こちらを向こうともせず、『私』の背中が宥める様に言う。
「――わたしが、何をしに来たか判る?」
扉を閉めながら問うた言葉に、『私』は何の反応も示さなかった。
構う事無く、わたしはクローゼットへと足を向ける。開いたクローゼットの中には、まるでわたしを待ち構えてでも居たかのように、『私』の服が掛かっている。
躊躇う事無く、纏っていた上海の服を脱いだ。脱ぎ捨てた上海の服を部屋の端に蹴りやり、わたしは黙々と自分の服に袖を通す。
懐かしい感覚だ。決まった手順で服を身に纏う事で、ほんの少しだけわたしは本物に近づいたような感慨を覚えた。
「……有り触れた、陳腐な題材だわ。主人に反逆する人形だなんて」
「陳腐だろうが何だろうが、知った事じゃないわ」
上海の服の中に仕舞っていたナイフを持ち上げ、それを両手でしっかりと構える。
「――実験は失敗よ。主を持つ自立人形なんて、存在して良い訳が無い。『私』はそれに気付けなかった。『私』を殺して、わたしは、『私』になる」
自分の実体を殺して、幻影が実体になる。
大仰な溜め息を、『私』が吐いた。安楽椅子を回し、仏頂面のアリス・マーガトロイドがこちらを振り向く。
そしてその顔が――嗤った。
「うわああああああああああああああああああああああああああ!!!」
ナイフを構えたまま、心臓を目掛けてわたしは走る。『私』は動かない。興味深そうにわたしを観察するばかりで、その表情は微塵も歪みはしなかった。
そして『私』は反撃に出ることも無く、わたしのナイフに心臓を抉られた。
ドン――。
安楽椅子の背が、机に激突した音だった。
心臓に深々とナイフが刺さったまま、アリス・マーガトロイドは四肢の力を失い、安楽椅子からズルリと滑り落ちる。
「はあ……はあ……はあ……はあ……」
『私』の青い瞳から、光が消えた。
アリス・マーガトロイドは絶命した。
――血の一滴を流すことも無く。
銀色に光るナイフは、墓標の様に胸部に突き立っている。
待てども待てども、そこから血が滲んでくることは無かった。
「――ッ!」
わたしは――『私』になった筈のわたしは、震える手でアリス・マーガトロイドの亡骸から恐る恐る衣服を剥ぎ取った。
わたしの肉体と寸分違わぬ白い肌が、ガス灯のオレンジ色の明かりの元に露わになる。
ナイフを引き抜いて、わたしは、その死体をうつ伏せにする。
その背中には擦れかけた刻印が刻まれていた。
「……No.78592」
違う。
――そんな。
そんな、馬鹿なことがあるものか……っ!
身に纏ったばかりの『私』の服を、わたしは半狂乱で脱いだ。
裸になった私は荒く呼吸を吐きながら、部屋の隅に置かれていた姿見に歩み寄る。
鏡に背中を向けると、わたしの背中には、『私』と同じ様な刻印が刻まれていた。
――そこにあった数字が、78593になっただけの、数列が。
◆◆◆
自立人形の作成。
それは人形に憑りつかれた『私』の長年の夢だった。
どれほどの月日、『私』は同じことを繰り返して来たのだろう?
何百年? 何千年? それとも、何万年なのか。
『私』が、わたしを魔理沙に逢わせないと断言したのも当然だ。
だって、もうとっくの昔に死んでいるのだから。
魔理沙も。霊夢も。その他数え切れないほどの顔見知りは、『私』が。『わたし』が。『私たち』が、不毛な運命を繰り返しているうちに、皆々、死んでしまったのだから。
わたしが、『私』になった翌日、訪ねてきた藤原妹紅に、アリス・マーガトロイドの亡骸……否、壊れたアリス・マーガトロイドの人形を渡した。
「またか」
そう言って彼女は、笑った。
何万人ものアリス・マーガトロイドを手渡されてきた彼女は、わたしを見て何を思うのだろう?
どうせ、また手渡される事になる人形だ、とそう無感情に思うだけなのだろうか?
結局本物にはなれなかったわたしには、知る由も無い。
『私』を殺して、壊して、『私』になったわたしは、庭いじりを止めた。
代わりに、新しい人形を作り始める事にした。
『私』の部屋の机の中に、大事に仕舞ってあったアリス・マーガトロイドの魂の複製のオリジナルを使って。
わたしは――否、私は、いつか自分を壊してくれる『わたし』の身体を作り上げる。
私の可愛い、自立人形。
『私』を模した、偽物のアリス・マーガトロイド。
偽物から偽物へと幻影のバトンを繋ぐために。
その不毛で下らない運命の螺旋こそ、偽物でしかない『私たち』でしか為し得ない、唯一の本物であると、私はあの日、あの先代の嗤った顔を見て、悟ってしまったから。
――No.78594.
私は、貴女の為に技術の粋を尽くした人形を作ろう。
日溜まりの庭園で、シナモンを混ぜたクロックムッシュを作ろう。
自分が偽物でしかないと自覚出来るために、上海の洋服も新たに作ろう。
その日まで私は、貴女に繋ぐための庭園を維持し続けよう。
マーガトロイド庭園の日溜まりの中で、私は紅茶を淹れた。
黒土の隙間から覗く青葉を眺める。満開の花を咲かせる黄色いカンナの花を見つめる。青空はどこまでも高く永遠で、雲居の中へと名も知らぬ鳥たちの囀りが消えて行く。
ルビー色の液面を唇に寄せて、
「――ん……美味し」
と、私は呟いた。
――Never End
だからかな。余計に周辺の静謐さ、漂う終末感が強調されている気がします。
マーガトロイド庭園は光に溢れてもいますよね。
ハレーションっていうのかな? そのおかげで周囲の景色に薄靄がかかっている印象。
鮮烈なのに、眺めているとひどく気分が落ち着く、とても良いお庭だと私は思います。
>わたしは毛布を抑えたまま並行することを余儀なくされた →閉口、かな?
>紅茶にも何か入れられていたら溜まった物じゃない →堪った物じゃない
展開への衝撃はありませんでしたが、最後の緩やかな文の流れと雰囲気はお見事
予想通りかつ期待通りかつ好み通りでした。
全体的に童話チックな雰囲気を感じる描写やオチの見せ方は流石でした。