Coolier - 新生・東方創想話

楡の船にて心臓を射抜く

2012/10/19 23:20:12
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*温い嘔吐表現有。 



貴女の姿を見た。光の中、楽しそうに泳いでいる。
 私を見て、笑った。笑ってくれた。
 それから、貴女は私の知らない人と寄り添った。幸せそうに、微笑んだ。
 私は、唯泣く事しか出来なかった。どうして自分が泣くのか解らず、また泣いた。
 溶け出した涙は池になって、沼になって、湖になって、海になって。そうして漸く涙は止まる。
 涙の海の端で、貴女は私を見た。きっとまた笑ってくれると思ったのに、貴女は笑っていなかった。氷で出来た人形のように、何の表情もなく立っていた。
 寄り添う相手と、彼方に消える。


        【楡の船にて心臓を射抜く】



 青い絵の具を水に溶いたような空は、泥のついた靴で水溜まりを踏んだみたいな気持ち悪い色に変わった。生憎呼吸はしていないから、皆が言う土臭いにおいなんてのは解らない。ただ、じきに天気が荒れる事だけは理解出来た。
 傘も無ければ、雲が過ぎるまで待てるような場所も無い。いっそのこと、このままびしょ濡れになって帰って温かい風呂に飛び込む方が利口なんじゃないかと思えてくる。もう風邪をひく心配も無いし、困る理由は見当たらない。心臓は、海の底に置いてきたのだ。

 宛もなく彷徨い着いた先には、海と見紛う程大きな湖が腕を広げていた。架かった桟橋には、楡で造られた立派な船が三隻 。どうせ寺に帰っても修行なんてしないし、遊覧の仕事も無いだろうから、この楡の船に乗って向こう岸まで行ってみるのもいいかもしれない。内一隻に足を入れれば、揺れた船が軋む。櫂を水中に入れ、ゆっくりゆっくりと水を掻き分け進んでいく。和船なんて最後に乗ったのは何時だったか。

 濃霧が辺りを包み始めて、湖の中心辺りに差し掛かったであろう時に、鼻の頭に水滴が当たった。魚が水面を跳ねたからなんかじゃなく、灰の雲から、ぽつりと。
 それはすぐに、まるで空から海が堕ちるような激しいものに変わった。船内に水が溜まる程の大荒れである。いつぞや体験した事があるような、ないような。櫂を水中に投げ捨てて、そんな船内に仰向けに寝て瞑目し、神様に祈るみたいに両手の指を絡ませ、手を腹に乗せる。死者が柩の中で眠るように。この楡の柩で眠る私の心臓があった場所を水の矢が射抜く。やがて水の溜まった柩は私諸共転覆し、機能しない肺を水で満たす。鼓膜が圧される感覚が堪らなく気持ち悪い。
 沈む船にもがく少女の姿が見えたが、きっと幻覚だろう。円を描くように指を回せば船を渦が取り巻き、いとも容易く粉々に砕く。人の居ない船を沈めても虚しいだけで、何も楽しくない。藻屑と化した船とただただ水底に沈没し、底から見上げた水面を雨が撫でていて、少し羨ましく思った。

 反応が面白いからふざけてぬえの頭を撫でくり回す事はあるけども、自分が撫でられたのは、聖に海から解放された時の一度きりしかない。冷え切った躯には熱すぎたが、とても心地好かったのを今でも覚えている。
 身体を包む冷たさに抱かれながら肌に纏わりつく服に縛られ、奏でられる流水の音に耳を潰されて咥内から侵入する水に体内を犯される。見渡す限りの水、水、水。孤独の重圧に耐え切るには、ややブランクがありすぎたようで、とん、と水底を蹴って水面に上がると水面を叩く音に混じって「いい加減帰れ」と声が聞こえた気がした。



 参道の水捌けがあまり良くない、と話していたのは響子だったか。言われてみれば確かにびしゃびしゃしていて、少しでも足を滑らせたら見事に転びそうだ。傘を差しながら関前に立ち尽くす聖を見付けるまでは、走ってみようだなんて愚かな考えを巡らせていた。傘の中に私を引き込んだ聖に、ふわふわとしたタオルで顔を拭かれる。脳髄を溶かすような、あたたかい声色が雫の代わりに降り注ぐ。

「心配したのですよ。こんな天気なのに、なかなか帰ってこないもの」
「すみません、遅くなりました」
「このままお風呂に入ってしまいなさい。風邪をひくといけませんし、一輪が湯を沸かし終わった頃でしょうから」
「あ……」

 私はもう、そんな心配要らないのに。聖はまるで私が生きているような対応をする事がある。それが空しくて虚しくてしょうがない。
 肩に手を回されて、玄関の引き戸を潜る。水を吸ったブーツは凄く脱ぎ難く、やや乱暴に脱ぎ捨て廊下をひたひたと歩き風呂場に向かうと、片付けをしていた一輪に会った。「うわ」と声を上げられる。

「やだちょっと何? アンタまさかその格好で廊下歩いたんじゃないでしょうね」
「……ごめん」

 はぁー、と盛大な溜め息を吐かれた。どうせ廊下は濡れてしまっているんだから別に私が歩こうが歩くまいが変わらないだろうに。びしょ濡れの服に手を掛けた所で黙って一輪に目をやると、意を汲んでくれたようで両手を上げながらくるりと私に背を向ける。

「はいはい、見ませんよぅ。私達の仲なのに今更恥ずかしがるなんて村紗は恥ずかしがり屋ね」
「私達の仲って何、友達同士でも裸なんてそうそう見せないと思うけど」

 脱いだ服を洗濯物が投げ込まれた籠にぶち込んで風呂場に入ると、がさがさとまた片付けをする音が聞こえた。桶で浴槽内の湯を汲み、体にかけると予想以上に熱くて変な声が出る。表面だけ温度に慣れた頃にようやっと湯船に入ると、じんわりと芯まで温まるのが解った。どうせ出てしまえば直ぐに冷えてしまうのだが、その感覚は嫌いじゃないし、死人には冷えていた方が丁度良いのだ。潜ってもちっとも苦しくならず、再び溺れる事は叶わない。
 不意にがらりと開いた風呂場の戸に愕きはするものの心臓は跳ねず、湯船に投げ込まれた黄色いレトロな玩具が何であるかを考える脳味噌は凍て付いたままである。

「懐かしくない? アヒルさん」
「あー……ああ!」

 溶けた記憶の水に映った地底時代の思い出の一角。的屋の台に半身を乗り出して撃ち落とした、ような。ぷかぷかと浮かぶアヒルと目が合い、水中で円を描けばアヒルは渦に吸い込まれたが、しぶとくまた浮上してきた。沈めては浮き、沈めては浮き、延々繰り返していると一輪に頭を小突かれた。

「アヒルさん可哀想だからやめてあげて」
「いやこれ玩具だし……というかいい加減に戸閉めてよ何時まで開けてんの?」
「何よ村紗の乙女ー」

 指をぱちんと鳴らすと、鉄砲魚が水を吐いたように湯が飛ぶ。一輪の頬に当たった湯が伝い落ちて床に染みを作り、「わかったわかった」と言い笑いながら戸を閉められる。此処で浸かった鼻と口からボコボコと泡でも出して拗ねる事が出来ればシチュエーションとしては完璧なのだが、生憎私の呼吸は海を舐めきっていた代償に海神に捧げる事になってしまった。
 生きている人間が羨ましいと思った事は無い……と言えば嘘になる。煙管を銜え煙を吐き出す事も出来なければ、恋人と二酸化炭素の交換をして自分に溺れさせる事も出来ないのがちょっと、否、堪らなく悔しい。排水口に流れる水と一緒に流れてしまえば気持ちは楽になれるのだろうけど、流れたのは気持ちではなくそうする勇気だった。
 這うように湯船から出て、適当に洗髪を済ませ身体を洗い流し、洗面所に出ると磨かれた鏡に自分の身体が映る。浮き出た肋骨に、白波みたく青白い肌、夜の海を思わせる濡れた黒髪。水分を含んだ指先は水死体そのもので、我ながら酷く不快に感じた。骨張った身体はとても抱き心地が悪そうで、衣服を纏わないと目も当てられない。今の今になってもまだ、自分の死から目を逸らそうとしているのだ。
 ギシギシした髪をタオルで乱暴に拭き水っ気を吸わせて、一輪が用意してくれたであろう寝間着に袖を通す。「ごはんですよー」と近所迷惑もいい所な声を上げる響子に誘われ、まだ温い躯を引き摺って堂に向かう。膳に乗せられた人数分の食事はとても美味しそうだったが、残念な事に私には味が解らなかった。
 食べなくても身体は保てるが、雰囲気を台無しにしたくなくて半ば仕方なしに冷奴に箸を入れる。醤油のかかった鰹節がまるで生き物のように蠢き踊る様は何度見ても不思議でたまらない。ぐしゃりと崩れた豆腐の欠片を口に運ぶ。やはり味はしなかった。何か柔らかい物が口内でぐじゅぐじゅになって、喉を滑り落ちる感覚。置かれた味噌汁は「味薄くない?」とぬえが文句をたれている事から多分薄いのだろう。茶色の湯を飲むだけの私には理解出来なかった。黙々とおもちゃ箱に玩具を片付けるように食事を冷たい胃に詰め込み、皆が食べ終わるまでいい子で座り、揃って御馳走様をして、揃って膳を下げる。皿を流していると目を輝かせた星に背後から声をかけられた。

「今日の御飯如何でした? 私が作ったのですが……」
「あぁ、うん、美味しかったよ。ぬえは味薄いとか言ってたけど、私には丁度良かったかな」

 本当ですか!と嬉しそうにする星に非常に申し訳なくなった。嘘も方便というし、真実を伝えるよりずっと優しいだろう。厠に行くと言ってその場を後にしたのは、どこかしら後ろめたい気持ちと居合わせたくなかったのかもしれない。
 私の消化器官は機能していなくて、食事の後には決まって異物による嘔吐感に襲われ、中身が逆流してくる。便器に顔を近付ける前に、それは口から波のように溢れてきた。

「う゛、ぐ…お゛ぇ、げっ……」

 噛み砕いた白米や、豆腐や、青菜が吸収されることすら叶わなかった味噌汁に塗れてぼとぼとと落ちる。鼻の奥に感じる異物感は恐らく米粒だろう。人の形を成しているのに、皆と同じように食事をして美味しいという感覚を共有したいのに、それすら叶わないのが酷く悔しかった。枯れた胃液の代わりに吐き出される味噌汁の味が知りたくて、しょっぱいと噂の汁が目からも溢れる。やっと落ち着いたと思っても私の身体はまだ吐き足りないらしく、内臓でも出てくるんじゃないかと思うほどで。
 こんなみっともない姿なんて誰にも見せたくなくて、厠が離れ家にあって良かったと思う。きっと今頃、皆は居間でブラウン管を覗き込みながら談笑するのに夢中になっている筈で、吐き終わった後にそこに混ざる事なんて考えられなかった。吐瀉物の臭いが纏わりついているだろうし、皆の楽しそうな雰囲気に当てられて別の意味でまた吐きそうになるかもしれない。
 近接する井戸に立ち寄り釣瓶を引っ張り上げ水を手で掬い口に含み、ぐちゅぐちゅと数回口内に残る吐瀉物の残り粕と水を混ぜ合わせ敷き詰められた砂利に吐き出す。水は思った以上に冷たく、口内が痺れるような不思議な感覚に襲われたが、気が済むまで何度も何度も水を吐いた。風呂に入り直してしまいたかったが面倒臭さが優先され、口だけ濯いでさっさと部屋に戻る事にした。それに幸い服は汚れて居なかったから、わざわざ洗濯物を増やす必要も無いだろう。温くも何ともない布団に潜り込み、笑い声を拒絶するように瞑目した。





 水底に、一人。暗い暗い底に、ぽつんと。提灯鮟鱇の灯りを頼りに撫でる幼い少女の頭蓋は、何となく見覚えがあった。見上げた無限のキャンバスに塗られた青を白で繋いで流れる雲。白に紛れる紫に護られるように一人の少女が包まれている。
 彼女に手を伸ばす、届かない。底を蹴る、上がれない。隔てる水面、足を掴む死霊の手。誉れ高い大空には近付けなく、むしろこの深海から出ようとする事が可笑しいのではと思う程で、彼女は私なんかの存在に気付く事なく雲居に消え、私は深海よりもっともっと深くへと引き摺り込まれ溶けた。



 チイチイと鳴く鵺鳥が部屋に侵入してきた時には既に目が覚めていた。手の平程度の大きさの鳥から私より頭一個分くらい小さな人の容に化けたぬえは、生乾きの帽子を手に取り指でくるくると回しながら「おはよう」と声を掛けてくる。寝起きの喉は、働かなかった。

「朝飯は?」
「……いらない」
「あっそう。顔色悪いじゃん、どした?」
「別に。私の顔が気味悪いのなんて何時もの事です」
「顔色っつってんだよ、起きたてだからボケてるのか。まあいいけど、一輪が里に買い出し行くってんで村紗についてきて欲しいんだってさ」

 冷たい布団から出て、手櫛で髪を梳かし寝間着を脱ごうと手を掛けた所で、あぁそういえば余計なのが居たなあと手を止める。あっち向いてて、と伝えようと振り向いたらつるつるぬめぬめしてそうな青い羽根で目を隠しながら「モザイク」と裏声で言うぬえが。少し前まで自分の頭が乗っていた枕を拾い上げ投げつけてやると、刃物みたく鈍く光る赤い羽根で串刺しにされてしまった。穴からぼろぼろと零れるそば殻を拾っておくよう言い付け、箪笥から予備のセーラー服を取り出す。

「買い出しの件だけど、何で私に指名が入ったの」
「暇なのがお前か私しか居ないからさ」
「じゃあぬえが行けばいいじゃん、私の事顔色悪そうに見えるんでしょ?」
「里には行くよ、私が用事あるのは甘味所だけだがな」

 溜め息でも吐きたい気分だった。鏡の前で幾度スカーフを直しても格好がつかず、目元の隈は死に化粧、寝癖は帽子で隠せども、死臭は蓋をしても隠せまい。行きたくないという気持ちのが遥かに強くて、幻想世界の鵺を殺し枕と永眠してみたかったが、このままぐうたらしてしまっていてはきっと聖に怒られるだろうし何より長い付き合いである一輪の頼みだから断る理由が見付からなかった。カラカラと笑うぬえから帽子を奪い取り、適当に頭に乗せる。昨日の土砂降りが嘘だったかのような、水色の布を一面に広げた天井から差す日差しがとても眩しい。
洗面所行ってくる、とぬえの顔を見ずに言うと「外で待ってるから早くね」と返される。僅かに濡れた洗面器は私の前に誰かが使用した事が窺えた。何も考えずに微温湯で顔を洗って、前髪から滴るそれと僅かに濡れた襟を見て意図せず声が漏れてしまう。本来なら着替える前に済ますべきだったのにそれにすら気付けなかった辺り、ぬえに言われたようにボケているのかもしれない。毛先の開いた歯ブラシの磨き心地は最悪で、どうせなら買い換えてしまおうと濯いだ後に塵入れに投げ捨てる。
 玄関で小さなメモ用紙を小声で復唱する一輪の肩を叩けば、やや驚いた素振の後にふにゃりと笑った。懐から取り出したハンカチで襟と前髪を拭かれて「濡れてる」と一言。何れ乾くよ、と返しながらお気に入りのブーツを履く。泥で汚れてしまっていてみっともなかったが、どうせ外に出るのだから今どうにかした所でまた汚れてしまう。爪先で地面をトントンと叩いて乾いた泥を軽く落とすだけにして、帰ってきたら手入れをしてやろうと心中で呟いた。


 里は寺からそんなに離れていなくて、歩いて行くには丁度いい距離だった。手を背中側に回して大股で歩きながら「こないだ小傘の奴がさー」と話すぬえに耳を傾けながら遠くの空を見上げれば、噂をすれば何とやら、茄子色の傘が見えた気が。

「――ってな調子だから私が手本を見せてやったのさ、あの時の顔ったら今でも忘れられないねえ」
「悪戯も大概にしておきなさいよ……あっそれより今日何食べたい? 久々に腕揮っちゃうけど」
「肉食べたい肉!」
「はいはい三種の浄肉。村紗は?」
「私は一輪が作ってくれるなら何でもいいよ、美味しい事には変わりないもん」

 安易な推測だった。照れくさそうに「ありがと」と言う一輪の顔を直視出来なくて、私は浮かぶ雲に目をやると、そう風が強くないから流れもせずに、 歩く私達の後をつけているようにも見える。ぬえの飽き具合から見て大体十数分だろう、茅葺屋根の素朴な家が連なる里の入り口には子供が数人、鞠で遊んでいた。一輪は子供達に“にゅうどうやのおねえちゃん”として知られているらしく、姿を見るなり、わーっと集まってくる。足元に集る幼児集団の頭を撫でながら笑顔を振り撒く彼女とは相対して、私の元には誰も寄りさえしない。存在すら気付かれていないのではと疑いたくなる程だ。ふん、と鼻を鳴らしたぬえが「先行ってる。用事終わったら迎えに来て頂戴」と言い残し里の奥へと消える。羽は隠さなくていいのかと問えば、くるりと回って一言。

「だーいじょーぶよ。ほら、ご覧の通り可愛い少女に大変身」

 へらりと笑って魅せたぬえの背中からは何も生えていなかった。見たまんま、幻想少女から幻滅少女と変わったぬえは上機嫌で私の視界から消える。未だに子供と戯れる一輪を横目に、少しだけ、本当に少しだけ羨ましいと思ってしまった。子供に集られる一輪が、じゃなくて、撫でて貰っている子供が、だ。こんな事考えるなんて私らしくもないし、だからこそさっさとこの場から去りたくて、何ならぬえについて行けば良かったとも思う。今から追う事も出来そうだが、私は彼女の買い物に付き合いに来た訳で。
 また今度ね、とようやっと別れるのに何分経ったのか、きっと気にしているのは私だけで、それよりもスタスタと歩いて行く一輪の後を追うのに集中すべきなのだろう。小さなメモ用紙に丁寧な字で書かれた内容と商店を交互に見て歩く一輪が転んでしまうのではと内心不安で、何時でも支えられるように両手は空けておいたが、どうやらその必要もないらしい。

 一人の若い男に呼び止められた。八百屋の好青年、例えるならネギの青い部分といったところか。丁度用事があったから呼ばれるがままに一輪は男に近付き、他愛もない世間話をしながら食卓行きの片道切符を渡される事になる野菜達の選別を始める。手に取られた大根が「食べないでくれ」と言いたげにしていた。残念でしたね、貴方はきっと煮られます。次に手に取ったのは、星が嫌がって中々手を付けない芥子菜で、きっと克服するまで食卓に出すのだろうなあと思いを馳せる。ややあって、会計をしようとお手製の手提げからがま口の財布を取り出し、小銭を幾銭か出した所でチャリンと音をたてて落ちてしまった。私がそれを拾おうと一歩前に出た時には既に男が拾っていて、一輪に手渡していた。手から手に渡される小銭、一輪の手を包む男の手。腹立つぐらいの甘い笑みを浮かべる男に対して、彼女の頬は僅かに赤らんでいるように見えてしまって。その手を撫でながら褒める男と一瞬だけ目が合って、その目は私なんて元々居なかったかのように直ぐに逸らされ、一輪にまた微笑みかける。
 口説いている、という事なのか。私の中の海が沸騰して溶岩に変わり果てるようなこの感情の名前は海水に満たされた頭じゃ思い出せなくて、「お前はここに居るべきじゃないよ」と耳元で白波が囁く。わざとらしく足音をたてたつもりだったのに、聞こえなかったのか無視しているのか、その場から離れても呼び止められる事は無かった。

 自分の両手を、眺めてみる。気持ち悪いぐらいに骨が浮き出て、指を動かす度に軋んで、不自然な形と変色した爪に、温かみもなくて、まるで死体そのものだ。こんな手じゃ誰に褒められる事もないし、寧ろ見せたくなかった。こんな汚い、汚らわしい手じゃあ繋ぐ事すら気が引ける。
 時に、自分が生きていたならこんな事で悩みもしなかったのかと想像する事がある。私が死んでいなければ食卓を囲んだ際に偽りなく「おいしい」と言え、空気の味も、匂いも、動く心臓の脈動も、触れた肌から伝わる体温の共有も出来たんじゃないか。

 人でありたかった。妖怪であったとしても、生を掴んでいたかった。亡骸と共に置いてきた勇気と心があれば、きっと、きっと、きっと――!

「おい」

 真横から聞こえてきた声に肩が跳ね上がった。何をしているのかと訊きたげな顔をしているそれがぬえであると判断するのに些か時間が掛かってしまう。甘味処の外の長椅子に、三色団子と熱そうな茶と共に座るぬえに近付き、隣に腰を下ろす。溜息すら吐けない身体に嫌気が差すどころか大砲でぶち抜かれたような怒りを感じて、矛先を自分の膝向けて力の限り拳で殴った。当然の如く痛みは感じない。

「……どうしたの、というか手伝いは?」
「お暇貰った。一方的に」
「はァ……? 取り敢えず団子食うなり茶飲むなりして落ち着きなよ、ほら」

 要らない、と意志を込めて首を振ればぬえは眉を顰めて唸った。困ったような、そんな音程。溶岩が冷めきった頃に、私があの時抱いた感情の名前がウミネコの声に乗って聞こえた気がした。

「私、最低だ」

 唐突に零した言葉に対して、ぬえは特に何も言わず、寧ろそっちの方が私としても有り難い。が、親友とも言える相手にこんな私一個人のどうでもいい愚痴を聞かせる訳にはいかないのに、津波の如く押し寄せる言葉を抑える術を習った事は無かった。

「嫉妬した。死体の癖に、生体みたいな事望んでる。私みたいな汚い舟幽霊が、手の届かないような夢ばっかり見てさ。夢だけで終わらせておけば良かったのに、ちょっと、ううん、かなりでしゃばっちゃった。嫉妬なんて私なんかがする事じゃないのに」

 そこで初めてぬえが口を挟んだ。銜えていた団子の串を抜いて、ずず、と茶を啜ってから「あのさ」と続ける。

「私現場に居た訳じゃないし何があったか、若しくは無かったかなんて解らない。それにそもそも私はお前じゃないから何に対して嫉妬してるのかだって知らないよ、でもさ、幽霊だから嫉妬しちゃいけないなんて事ぁ無いんじゃないの? 届かない夢を見た所で何が問題なんだ……なぁんて、私が吐くような台詞じゃないけどね」

 腐乱死体より酷い臭さだ。堪らず苦笑してしまえば、また茶を啜る音がする。私より小さい癖に、今だけは大きく見えた。気恥ずかしさでお礼なんて言えなくて、誤魔化すように笑う。こんな遣り取りだって、地底に居た頃に何度した事か。自分が抱く悩みというものを、一輪には話し辛かった。人間から望んで妖怪になった彼女にある種の苛立ちや妬みを感じているからか、くだらない話題なんかで嬰鱗させたくなかったからか、否、私の醜い面を見せたくないからだ。その癖、自分に気付いて欲しいと願っているのだから、つくづく我儘で自分勝手だと我ながら呆れる。
 叩いた膝を擦るようにして長椅子から立ち上がり、上に大きく伸びをして寝癖隠しの帽子を被り直す。戻るわ、とぬえに言えば返される「行ってらっしゃい」。皿には串しか乗っていない。

「アンタも来るの!」
「ぬえぇ!?」





 結局、帰りに手提げを持つだけしかせず、途中で何も言わずに傍を離れた事を咎められた。道中も寺に帰っても一輪の顔を直視出来なくて、手提げから食材を出す時もそれ以外も終始視線を逸らし続ける。「どうしたの?」と疑われる事も無く沈黙の時間が流れていく。最後に手提げから出てきたのは、ごろりとした大きな海老芋で、私が会計時に見た中には無かった筈だけど。

「あ、それね、頂いちゃった」

 はにかみながら経緯を語る一輪の、至極嬉しそうな声を聞く度にじわじわと嫉妬の海が荒れ始める。無い筈の脳味噌の何処に記憶が残されているのか。千数年来の付き合いを持つ私ですら触れた事の無い彼女に、精々数回程度顔を合わせただけの奴が易々と。
 海老芋の皮を剥きながら「多めによそってあげようか」と喋る彼女に否定の言葉を投げ付ける。アイツに貰ったものならいざ知らず、結果として吐いてしまう事を抜きにしても今の彼女が作ったものを口にしたくなかった。肉付きが良くてふっくらしていて、でも皸やタコが残る苦労している事が一目で解るその手に私だって触れてみたい。死臭のする手を、重ねたい。ボーっとそれを眺めていれば、皮を剥く手が止まる。

「え、何、何かついてる?」
「いや、別に。私テレビ見てるわ」

 変な気を起こす前に、居間にそそくさと逃げるように 向かおうとしたが、不意に名を呼ばれた。振り向けば、包丁と芋を置いて手を洗う一輪の姿が映る。

「村紗、何で急に居なくなったの?」
「……ぬえを呼びに」
「嘘。それの前から何か機嫌悪かったじゃん」

 続く「今もでしょ?」という言葉に掻きもしない汗が背を伝う。どうやら気付かれていたようだ。手を拭きながら歩み寄ってくる一輪に自然と距離を取ってしまう。壁が背に当たって、帽子が床に落ちる。

「昔からそうよね。気に食わない事があると誤魔化すか逃げるかするの、癖になってる」
「あー…あはは、そうかな」
「そう。で、今回は何がお気に召さなかったの?」

 帽子を拾おうとした腕を阻まれ、代わりに拾われた。机に置かれる帽子の安否を確認して、一輪の動く胸元に目をやりながら、トンビの姿をしたウミネコの弱々しい鳴き声を漏らす。

 「…………夢に、見るんだ。どれだけ手を伸ばしても届かないし、一輪が私から離れてくの。私の存在にすら気が付かないで、笑ってもくれないで、誰か素敵な人と遠くに行く。それで、それでね、私、妬いた。夢で終わってた筈が、さっき里でアイツと少しでも嬉しそうにしてるのを見て現実になるのが怖かった。私の方が一輪に近い場所にいるって思ってたのに、そうじゃなくて、私の思い込みで。自分でも最低だって思ってるよ、一瞬でも、一輪が不幸になればいいって、思った」

 海が溶け出した。赤いスカーフに染みを作って、じわりと広がる。

「私が生きてたらこんな事考えずに済んだのかな、がらんどうの心が満たされてれば欲しがる事もなかったのかな。解らないよ、解らない。何なんだろう、一輪がどっかに行くのが不安で嫌で、無い筈の心臓が痛むんだよ。軽蔑するよね、一度死んだのに未だに生に執着して、幽霊の癖に人間みたいな事望んでる。息をしていたら対等に見てくれた? 汚くなかったら触れてくれた? 心臓が動いていたら、拒否しなかった? ……私、一輪の事どうしたいんだろ、どうしてほしいんだろ。どう思ってるのかも判らなくなってる」

 袖で目元を拭われた。逃げないようにと、逃げるつもりもないのに掴まれた右腕から一輪の手がゆっくり降りてきて、私の手に絡められて。いけない事のように思えて振り解こうとしても、きゅっと強く握られる。「離して」を言おうと開かれた唇は人差し指で阻止された。

「妙な事考え込むのも、変な結果出して真に受けるのも悪い癖。村紗が呼吸してようがしてまいが、対等かそれ以上に見てる。それにどこが汚いのよ、風呂なら昨晩入ったでしょ?」
「そういう意味じゃなくて、手が……」

 目線と同じ高さに繋いだ手を持ち上げられて、まじまじと凝視され言いようのない気持ちがせり上がって思わず力が入ってしまう。何秒、何分、もしかしたら何時間も経過したかもしれない。只、やたらと長く感じた。

「綺麗じゃないの、村紗らしくて私は好きだけど」
「……本当に?」
「もー昔からアンタ自分の身体嫌がってたけど何で自信持てないのよー! それに私が嘘吐くの嫌いだって知ってるでしょ? 私は何があっても村紗の事拒否しないし、心臓が動いてないのも貴女らしさの一つ。受け入れるのにもっと理由が必要?」

 手には力が入れども首には入らず、ふるふると横に揺らすと、少し乱暴だけど頭を撫でてくれた。ちょっぴり子供扱いされてる気がして恥ずかしさで俯く。襟足の、やや波のかかった髪を指でくるくると弄られるのがくすぐったくて、でもそれが凄く嬉しくて。丁度胸のカルデラが温かい何かで満たされるような。
 髪を弄る指はやがて首筋から顎に移動して、くいっと上を向かされる。真っ直ぐに合わされた視線に射抜かれて逸らす事が出来ず、覗かせる舌で唇を舐める一輪は煽情的に思えた。瞑目して、ゆっくりと顔を近付けてくる一輪に合わせるように私も視界を黒く染める。自然と何をするか、どうしたらいいかを理解出来たのは、私の中で僅かに息を吹き返した“にんげん”の部分の所為なのか。

 少し湿った唇が重ね合わされる。触れるだけのそれが離れるにはそう遅くなく、一度離れてから今度は深く口付けられた。唇を割って侵入してくる舌に歯列をなぞられ、上顎を擽られる。引っ込めた舌を舌で捕えられて、いやらしい水音をたてながら絡め、吸い、押し付け合った。妙な背徳感と、誰かに見られたらいけないという焦燥感に駆られながらも行為を続けたのは、“もっと一輪が欲しい”なんて欲求に負けたからだろう。太腿の辺りを 撫ぜられて腰から力が抜ける。股の間に足を割り込まれてへたり込む事はなかったが、立ち上がる気力もなかった。
 ぬるりと舌が咥内から引き抜かれ、一輪が深呼吸をした。そして吐く事無く、そのままもう一度口付けをして、ふぅーっと、私に、息を――。
 膨らまされた肺から、息が漏れる。一瞬だけ自分が生きていると錯覚する程に気持ちが良くて、笑みを浮かべる一輪に触れられた私の中の心臓が、伝わる温かさに射抜かれた。


 
 その日の夕餉で、珍しく味に煩いぬえが声を上げた。

「今日の味噌汁美味いじゃん、昨日の星のとは大違いだね。海老芋の煮込みだっていい具合に味が染みてる。一輪さ、何かいい事でもあったんじゃないの?」
「別に、いつも通りよ」

 多めによそわれた夕餉に手を付け、海老芋を一欠けら口に抛って味噌汁で流し込む。確かに、美味しかった。



I shoot heart by the ship of the elm.
(聞こえる脈動は幻聴か、それとも)
村紗ちゃんに息を吹き込む一輪さんくださいって乞食を続けて早一ヶ月。誰もくれないので、ならば己でと書いた結果やや無様な事に。埋まりたい。
村紗にとっての柩とはなんでしょう、我輩は船だと考えます。作品名?別に特に意味ないですよ響きだけです。

乞食を続けて自家発電をする苦しみを忘れた人間よ! 検索結果の0件表示に怯えて死ね!! アデュー。
ねるがる
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コメント



0.730簡易評価
3.100名前が無い程度の能力削除
Gooooodムラいち
6.100名前が無い程度の能力削除
この村沙のダウナーな感じ嫌いじゃない
7.100oblivion削除
最初、心臓を海の底に「置いてきた」って書いてるのが、一瞬引っかかったんですよね。そんなことしたって、すぐに藻屑なんじゃねえの、などと思いまして。私はこの村紗に、自分が水死体であることに強いコンプレックスがあるのだと感じていたので、彼女が「消えてしまった」とか「腐ってしまった」などとは言うことはありそうだと思いましたが、「置いてきた」と、まるでまだそこで心臓が生きているかのような、そうあってほしいかのような、希望的な表現を使っているのは変だなあ、と感じながら読み進めました。
でも最後まで読むと、案外悪くない表現のような気がしてきました。いやむしろ的確なのかもしれませんね。だって、本来なら死体に未来なんてないはずなのに、彼女は周りからそれを求められているし、彼女自身求めている節もある。実際、手にできる可能性だってある。これはもはや立派なLIVEなのですね。死体なのに。
ここが村紗の魅力なんだと、再確認した思いがします。彼女の心臓が物理的に存在していることはもうなさそうですが、ハートはまだ死んじゃいないのですね。くさったしたいは よみがえった!

すごく私事ですが、妄想が掻き立てられたので自分も村紗で何か書きたくなってきました。いいもの読んだ感じがしてます。ありがとうございます。
8.80奇声を発する程度の能力削除
この感じのムラいち好きです
15.100鳥丸削除
一輪さんの包容力がとどまるところを知らない!

やっぱり村紗はどうしても人間なんですよね。あちこち欠落してたって一番根っこの部分は何も変わってない。嫉妬だってしちゃうわ生きてるんだもの。
21.100名前が無い程度の能力削除
いや元気出た。元気貰った。あんがと。