西日が差し込む一室の中で、何かがもぞりと動き出した。
彼女は気怠げに起き上がると、差し込む斜陽に眉をひそめ、窓掛けを閉めるために窓辺に寄った。
窓の外にはオレンジ色の景色が見える。
夕刻の日は山々の影を益々濃くして、世界からそれ以外の全てを締め出そうとしている様にも見えた。
咲夜は胸元の十字架にそっと触れた。
銀の感触が柔らかく返ってきた。
◆
咲夜の一日は夕暮れから始まる。
彼女が目覚めてからまずしなければいけないのが、館内にあるカーテンを、全て閉めて歩くことだった。
それは億劫な作業だったし、落日の行方を見届けたいという誘惑もあった。
しかし、彼女は極めて機械的にそれらの業務をこなしていった。
それが彼女の仕える主のためだった。
――吸血鬼は日光に弱い。
主が起きるのはすっかり日が暮れてからだが、咲夜は用心としてこの作業を欠かすことはなかった。
全てのカーテンを閉め終えた咲夜が次にするべきなのは、夕食――この館ではそれを朝食と呼んでいるのだが――の用意だった。
彼女は昼間のうちに食料を買い込み、すでに下拵えまで終えてあった。
主は少食であり、また、偏食家でもあった。その為、余り手間は掛からないのだが、いずれにせよ、主が目を覚ますまでに、全て済ましておかなければならないことだった。
そうして咲夜は、朝食の支度のために厨房に向かうが、厨房へと続く廊下の中程に、何人かの妖精の姿を認めた。
彼女たちは、ふわりふわりと宙に浮きながら、けたけたと腹を抱えて笑っている様だった。
気になった咲夜は、彼女たちの側に寄った。
「何かあったの、あなたたち」
妖精たちは咲夜の声に気付いて、一度だけ顔を合わせたが、また何事もなかったかのように笑い始めた。
流石に訝しく思った咲夜が、今度は妖精に触れようと手を伸ばしたが、その指が触れる前に、彼女らは霧が晴れるように掻き消えてしまった。
伸ばした咲夜の手が、不格好に宙を泳いだ。
よくあることだ。妖精のやることをいちいち気にしても仕方がない――、咲夜は自分をそう納得させる。
そして、また厨房に向かって歩き出そうとしたのだが、自分の爪先が何かを蹴ったのに気付き、その場に立ち止まった。
それは小さく硬い円形のものだった。
「何かしら……」
咲夜はそう思って拾って見たが、まるで見当は付かなかった。
何かの硬貨のようたが、少なくとも普段から使っているものとは明らかに違って見えた。
少々、気になりはしたが、時間も押していることだし、咲夜は朝食の方を優先させることにした。
厨房へと足を早める。
拾った硬貨は、念の為に給仕服の内ポケットに仕舞った。
◆
今日の主は少し遅めの起床だった。
主は自室に配膳された食事を平らげた後、暫しの退屈凌ぎのために、横に仕える咲夜に話を振るのが常だった。
それは咲夜個人にとっても掛け替えのないひと時であったし、また、重要な業務内容の一つでもあった。
そして今夜も、主と咲夜は取るに足らない閑談をして過ごしていた。
咲夜は暫くの間、慎ましく主の話に耳を傾けていたのだが、やがて束の間の沈黙が降りると、先ほど拾った硬貨について切り出した。
主は咲夜から硬貨を受け取ると、思いのほか興味を引かれたらしく、熱心にそれを吟味した。
やがて何事か見当がついたのか、主は不敵に笑みを零した。
「古代ローマ帝国のコインだな。聖書にも出てくる。おそらくパチェあたりの持ち物だろう」
主は咲夜にコインを返すと、やや懐かしそうに目を細めた。
「これがそうなのですか」
「昔、本の挿絵で見たことがある。本職でないから断定は出来ないが……」
咲夜は手に戻った硬貨を、今度はよく注意しながら観察した。
しかし、咲夜に真贋の程を判定することは出来なかった。
ナザレのイエスはエルサレムで説法をする際、それをよしとしないパリサイ人の男から
“ユダヤ人であるはずの我々が、なぜローマ帝国に税を納めねばならないのか”
と、問われた。
それは答えにくい質問であったし、質問者は彼を貶めることを見越して問いを寄越したのであった。
納めるべきだと言えば信者たちの不信を買う。
しかし、納めるべきではないと返せば、それはローマ帝国に対する反逆となる。
けれどもイエスは、この難問に明快な答えを挙げた。
納めるべき税のコインにはローマ皇帝の肖像が刻まれていたため、
“神のものは神へ納めるべきだが、コインは皇帝のものだから皇帝に納めるべきだ”
と、答えたのだ。
それは国家と信仰とを分かつ革新的な答えだった。
勢いを伸ばすこの新興宗教は、やがて国家の枠を超えて、膨大な数の信者を獲得することになる。
咲夜はいつの間にか、自分が胸の十字架を握りしめていることに気付いた。
とても不敬なことをしたのではないかと不安になる。
しかし、主はそんな咲夜を見て、余裕の笑みを浮かべていた。
「問題ないよ。それも契約の内だ」
「……」
「改宗は出来ないと言ったのはお前だ。そして私はそれを認めている。何処に問題がある?」
煮え切らない咲夜に、主はいつの間にか咎めるような口調になっていた。
――咲夜は、この地の生まれではなかった。
初めてこの地にやって来た時、咲夜は不安で一杯だった。
人ならざるものが蔓延る土地、信じられる者はどこにも居なかった。
そこではこの十字架だけが唯一の味方だった。
やがて咲夜は吸血鬼に拾われる。
己が信じる主と、真っ向から反対する者の下に就いたのは、ひとえに生活手段の為だけだった。少なくとも就いてすぐの頃は、それ以外の感情はなかった。
しかし、今はまた別の感情が芽生えつつあり、それゆえ咲夜を苦しめた。
咲夜はこの小さな主に心から敬服している。
しかし、十字架を捨てることは出来なかった。
主は、まだ複雑そうな顔をしている咲夜を見やると、これ見よがしに溜息をついた。
「私は忠誠など欲していないよ。お前は雇用契約に則り与えられた職務を全うすればそれでいい」
これが主の態度だった。
主は常々そう言い切っていた。
主は咲夜に忠心など求めていない。
ただ契約の履行のみを重要としていた。
そこまで割り切って考えることができるのは、恐らく、彼女が人ならぬ魔の物であるからだろう。
だが、咲夜は違った。咲夜は人間だった。
どちらにも結論を出せず、ただその場で煩悶するしかなかった。
主は咲夜との語らいを切り上げて、自室の隣にあるベランダへと躍り出た。
生憎の曇り空のため、月は見えないが、主は高揚した気分で翼を広げた。
黒くしなやかな両翼が伸びる。
咲夜は黙ってそれを見守っていた。
紅魔館の主は夜に生きる。
年を経た強力な吸血鬼ゆえ、昼間であっても生活に不備は少ないが、それは咲夜が守るべき『お嬢様』としての主だった。
夜の主は昼のそれとは訳が違う。
他を圧倒し屈服せしめる『王者』としての主だった。
そして、王者たる彼女に、咲夜が出来ることは余り無かった。
「今日はどちらまでお出かけになるのですか」
「さあな。朝までには戻る」
主は素っ気なくそれだけ言った。主の余りに粗末な応対に、咲夜はつい不満が表面に出てしまった。
主は咲夜の不満に気付くと、面白くなさ気に付け足す。
「……そんな顔をするな。気になるなら月にでも訊いてみればいい」
そう言って主は、一陣の風と共に暗闇へと飛び立った。
夜を切って帳を舞う。
元々小さな主の影は、すぐに見えなくなった。
咲夜はそれを、ただ眺めていることしか許されなかった。
(――月など、見えないではないか……)
咲夜はその言葉をそっと胸に仕舞った。
今に始まったことではない。主はいつも行き先を教えてくれない。
お前はここまでなのだと、ここから先はお前の生きる世界ではないのだと、
そう言われているような気がした。
(……どうしたって届かないのだ。いや、届くかも知れないと考えること自体、不敬なことなのだ)
咲夜はまた胸の十字架を握り締めた。
紅魔の主は大目に見てくれたが、十字架の主はどう思うだろうか。
自分の不信心を嘆くだろうか。
それとも、初めからこんな自分のことなど見てやしないだろうか。
いずれにせよ、咲夜には、高きに居る者の意思を伺う力など無かった。
咲夜は主の去った方角を向いたまま、その場に跪いた。
こうべを垂れ、両手を合わせた。
自分が何をしているのかは、はっきり理解っていた。
雲の切れ間から僅かな月光が洩れた。
「幸あれ――、」
誰にかは言わなかった。
読了、おつかれさまでした。
みすゞ
~だった。
が多すぎるかなぁ?必要以上に空気を殺してる気がする。
二次設定もテーマも面白いのに、残念
次に期待~
色々と惜しい、これから化けてくれることを期待
評価、コメントありがとうございます。
助言を参考にして次に活かそうと思います。