※この話は過去の拙作と地続きになっています。
前提としてあやさなが付き合っています。経緯は「大嫌いな貴方へ」
体育座りは早苗の必殺技だった。
膝を抱えて座り込むと早苗は無敵になれるのだ。
どのくらい無敵かと言えば、ぴかぴか光るスターマリオもびっくりするほどだ。転んで擦りむいた膝小僧は全然痛くないし、松田さんちのゴン太に幾ら吼えられてもへっちゃらだし、みんなから嘘吐き呼ばわりされたって涼しい顔して平気でいられる。スーパーサナエだ。
無敵になった超早苗は実に様々な活躍をする。ある時はセーラー戦士になりデッドムーンと死闘を演じ、ある時はマジックナイトになり世界を救う戦いに身を投じ、ある時は妖怪軍団によって誘拐されてカクレンジャー達の手で救出されたりする。お姫様は悪者に捕まるものだから、無敵でも早苗は囚われの身になったままじっと我慢する。
そんな最強無敵な体育座りでも自由に使えるわけではなく、先に条件を幾つか満たす必要がある。
まず周りに誰もいないこと。間違っても友達の前でやってはならない。囃されるか慰められるかするだろうし、そうなったら得意技は効果を発揮できなくなる。アキ先生の目が届かないというのも重要だ。お節介で世話焼き好きな優しいお姉さんだから、見つかったらどうなるかなんて分かりきっている。もちろん親の近くなどもっての他で、とにかくひとりっきりでなくてはならない。
つまり場所の選定も重要になってくる。
人気のない、少なくとも知った顔から邪魔をされない場所、例えば幼稚園なら階段の下に積み上げられた机の影、家ならダンボールを乗り越えた納戸の奥、カナコさんの神社なら高く張り出した縁側の下。そんなところで早苗は無敵になっていた。
毎回々々場所を探して随分苦労するのだけれど、追っ手はそんな努力を容赦なく踏みにじってくる。
膝を抱えて座っていると母の声が聞こえてきて最後には必ず見つかる。アキ先生の場合も似た様なもので、カナコさんに至っては「境内ならどこにいても早苗の匂いを嗅ぎ当てられる」と豪語するまでになった。
結局、行き着く先はいつも変わらず、探しに来た誰かの笑顔に近寄られると、早苗の無敵は終わってしまう。
折角、何があってもへのへのカッパなスーパーサナエになっていたのに、呆気なく元の自分に戻ってしまう。
我慢して、息を詰めて我慢して、息が続かなくなるまで我慢して、
――我慢しないで、母さん達にお話してね。
我慢しすぎて風船のように膨らんだ早苗は、とうとう盛大に破裂して涙を撒き散らしてしまうのだ。
どうしてわたしを放っておいてくれないんだろう、心の中で恨み言を繰りながら早苗はぎゅっとしがみつく。
時間の問題だったのだ。
例え、友達と自分の間を血塗れの老婆が横切っても、「怖かった」のひと言すらない。
ジャングルジムに張り付いた毛むくじゃらか、道ですれ違った顔のない人影か、街灯から染み出ていた虹色の泡か、もしくはそれ以外か、切欠が何だったのかなど些細なことであり重要なのは一点だけで、友達は隣にいる何かを認識できないことに尽きる。
早苗は叫びたかったのだ。
「王様の耳はロバの耳」であり、「着ている物はデカパンだけのすっぽんぽん」であり、詰まるところ頭の中をぐるぐる巡る言葉には出口が必要だった。
故に「わたしだけの秘密の場所」を持ちたいと願ったのは必然と言える。
秘密の場所に深い深い穴を掘って叫ぶのだ。「王様の耳はもじゃもじゃしてるロバの耳で、格好はデカパン一丁のすっぽんぽんで、その上そこら中を我が物顔で闊歩している」。
早苗は決心した。
昔々のそのまた昔、照りつける真夏の日差しで幼稚園が「やってらんねー」と門を閉ざした明くる日に、早苗の大冒険は幕を開ける。
朝食を「いただきました」で元気良く締めるなり、ネコさんアップリケ付きのポシェットを引っ掴んで、必要なものを次々と詰め込んでいく。
まずハンカチは大切だ。お姫様なら必ず持つものである。七色に透き通るおはじきは道に迷わないための目印用。それに何かに襲われても、投げつけたらやっつけられるかも知れない。忘れちゃいけないカナコさんお手製のお守りは、大事に大事に底へ仕舞った。おにぎりをこさえてもらって、キティちゃん印の水筒にはキンキンに冷えた麦茶を「ここまで」の矢印を無視して注いだ。ぐっと蓋を閉めて腰にぶら下げ、藍のリボンがぐるりを取り巻く麦藁帽子を目深に被る。
忘れ物は? 指差し確認。うん、大丈夫。準備万端、これでよし。
玄関の戸をがらがら、船出を迎える海賊船の船長になって威厳たっぷり堂々と引き、直後に太陽光線で目を焼かれた。しかし一瞬怯んだことも何のその、あっという間に浮かんだ汗も屁のカッパ。
「行ってきます!」と出航の号令も高らかに空色のワンピースを翻し、どこまでも白い夏へ飛び込んだ。
――行ってらっしゃい。気をつけてね。
はためく背中に祝福の言葉を受けて、早苗は一気に加速する。風を蹴立てて坂を駆け下りご町内を突き抜ける。
最初はあそこから、板塀に挟まれた裏路地を飛行機になって通り過ぎ、公園の植え込みに不時着して虫に食われた。ここは無理そう、見切りをつけて、けれども当然めげるはずもなく、かえってやる気に火を付けられて心当たりへ片っ端から突撃していく。
空き地の掘っ立て小屋では蜘蛛の巣を薙ぎ払い、竹薮に踏み込んでは熊笹で肌を切り、山へ続くあぜ道から逸れて迷子になりかけた。蛇の抜け殻を見つけたのでポシェットに仕舞った。
命からがら麓の駐車場に戻ってお昼休み。
木陰の車止めに腰を下ろして帽子を脱ぎ、ハンカチで額を拭った。コップ替わりの蓋を両手で抱えて麦茶を喉に流し込む。冷たさに頭が痺れた。おにぎりもお腹の中へ。鮭フレークの塩味が体にじんわり染み渡る。髪を掻き揚げる風に汗をすっかり払われた。隣の駐車スペースで涼んでいたぶち猫に、「にゃー?」と訊ねて「なー」と物憂げに返される。許可が下りたと解釈し、ぶちの頭を撫で繰り回してものすごく迷惑がられた。
早苗、復活。アスファルトに散らばった逃げ水を追って走り出す。
鉄柵の向こうから犬に吼えかけられたし、膝小僧を擦りむいてべそもかいた。道路の白線を踏み外して三回死んだし、野良仕事帰りの軽トラックにはクラクションを鳴らされたし、四つ角で迷う度にやった棒倒しの回数は片手だけではとても足りない。
そんな息も吐かせぬ大冒険を経て、早苗はついに「わたしだけの秘密の場所」を発見したのだ。
灯台下暗し。カナコさんの神社だった。
境内ではない。
丁寧に枝を払われた鎮守の森に、夕暮れのオレンジ色が長い影を投げている。どうと過ぎる突風に、ざあと杉が梢を揺らした。
寒い。咄嗟に押さえた帽子の代わりに体温を攫われて、早苗は小さく身震いする。
風の行き先を追っていた目を正面に戻す。古い祠があった。
瓦の欠けた部分には補うようにして苔が生えている。庇は崩れることなく元の形を残していて、雨宿りにも過不足無く使えるだろう。観音開きの扉は所々破れていて、薄暗い中に夕日の侵入を許していた。割れてささくれ立つ階段は場所を選べば座れなくもなさそうだ。でも、
――ありゃ、人の子か。
目が合った。
階段に寝そべっていた女の子は気だるげに欠伸をひとつ、まことにオヤジくさい「よっこらせ」で起き上がる。
早苗は動けない。こめかみを伝わる汗は顎先から滴り落ちて、ひりつく痛みをひと筋残した。
――良く此処まで来れたもんだ。それともとうとう私にも焼きが回ったってことかね。迷子?
向けられた言葉に弾かれて早苗の全身が跳ね上がり、けれども地面に張り付いたままの爪先に引っ張られて尻餅をついた。下敷きにした枯葉の音で凍り付いていた脳みそが氷解し、返答をひと欠片でも搾り出そうと動き始める。
この祠に何故辿り着いたのかと言えば、嗅ぎ慣れた匂いを夏風に聞いたからだ。カナコさんにそっくりだと思ったからだ。もしかしたら自分を「嘘吐き」呼ばわりしない大人に会えるかもと期待したからだ。
しかし面と向かい合って、そんなものはとんでもない間違いだと知った。
この女の子は、カナコさんじゃない。
カナコさんの瞳はどんなに凍えていても温めてくれる焚き火の色だ。女の子のものは何であろうとひと呑みにしてしまう大空だ。期待した温もりは、途方も無く巨大な無関心だった。
直感する。
この女の子は、女の子ですらない。
偶々の偶然で人と似ているだけで、例えたなら綿菓子と天の川であり、そして先にどちらが二本足でこの世に立ったかなど考えるまでも無かった。
――そんなに怯えなくたっていいよ。迷子なら村まで送ってやろうかなんて思っただけだから。
村と言うのは舗装された道が大通りしかない祖母の住む場所だ。小さな違和感を覚えた頭は口を動かし「村ではなく町である」と訂正して、後悔した。
――へぇ、そりゃ悪かったね。
無礼の咎により命を取られるなど端から考えにも浮かばない。ただ口答えをしてしまった事実に心臓の止まる恐れ多さを感じ、息が詰まって、
――幼子ってのは相も変わらず鬱陶しいもんだ。食って欲しいのならそう言いな。
煩わしげに顰められた目に射竦められて、ひくつきかけた喉が止まった。
いっそ食べてくれたなら、横隔膜の小さく痙攣するごとに息が浅く漏れ出ていく。
ひと思いに食べて欲しい、原始的な本能が恐怖からの解放を切に望んだ。
――なんて顔してるんだ。かわいいね、愛しい味だよ。こんなにうまいもんは久しいねぇ。
オレンジ色に染め抜かれた森の中で、女の子の金糸にも見紛う髪がさらさら靡いた。頬には酷薄な笑みを浮かべ、唇を底の見えない亀裂にして。にゅうと口角が吊りあがり、ちろりと覗いた舌は赤かった。
――さてさて、ひとつ味見といこうかねぇ。
階段から飛び降りる女の子は、綺麗だった。
***
――あの時は間一髪だったねぇ。
後に冗談めかして語られた。
お守りには随分助けてもらった。つっかけを爪先でとんとんしつつ早苗は彼方に目を向ける。鎮守の森は昔も今も変わらない。強いて言えば傾斜が少し緩やかになっただろうか。広大な山の地形に沿った結果だ。
それに鳥が増えた。鴉はもちろん言うに及ばず、晴れ間には鳶がぴーひょろ漂ってるし、山鳩なんかはそこら中に溢れている。でーでーくるっぽ夜明けからひっきりなしに聞かされて、目覚まし要らずの健康的な生活が送れてしまう。悪いことじゃないんだろうけど、嘆息して歩き出す。
諏訪子様のことだ、何割かは本気だったのかも知れない。お言葉を借りるなら「夕日の赤さが憎たらしくなるほどの空きっ腹」だったらしいから。
あんな出会い方をしながら良く信用したものだ。神奈子様の姪なんて話は、まぁ一応筋は通っているけれど、もうちょっと疑えと私を叱りつけたくなる。よほど友達が欲しかったのか、あるいはカナコさんを疑いたくなかったからか、両方か。我ながら寂し過ぎる。
早苗はぴたり足を止める。土蔵がそびえていた。
目標は恐らく最深部、命の恩人にもらった宝物だ。お祭りにうってつけな狐のお面だ。私にはなんとしても連れて行く義務があるのだ。早苗はうんと両の拳を握り込み、力強く踏み込んで、
「ずくだしていきましょうっ」
十分経った。
守矢神社の土蔵は頑固だ。
ひと目だけでも万人が「ああ、これは頑固だ」と思わず感嘆を漏らすだろう。
まず、瓦が実に頑固だ。真夏の熱線を手当たり次第に乱反射させるぴかぴかっぷりは、猫も鴉も家人も近所のいたずら坊主も見境なしに撃退する。所々欠けて土色を覗かせている部分は、数々の台風を潜り抜けた歴戦の証である。
白塗りの壁も当然頑固だ。風雪に耐え忍び、寒暑を物ともせず、ただただ寡黙に立っている。そこかしこに見えるはげちょろけやひび割れは、老兵の額に刻み込まれた皺と相違ない。
扉を繋ぐ蝶番ときたらどうだ。錆止めのペンキはすっかり剥げ落ち、地金の銀色をこれでもかと見せ付けている。いかにも滑らかに動きそうな顔をしながら、油を幾度挿されようとも、がたぴし小言を口にしなければ開きはしないのだ。
「相変わらず頑固ですね」
吸い込む息が熱くて重い。結構筋肉ついてきたと思ったんだけど、早苗は肩を落としてへたりこむ。蔵であれこれするのはもっぱら父や松田さんなど男衆の仕事だった。汗を掻く程度で留まるだろうなど楽観視もいいところで、まさか入る時点で躓くなど思いもよらなかった。丸々一年ほったらかしにしたから土蔵も拗ねたのかも知れない。
どうしよう、ダメ元で油を差すか早苗は悩み、思案に頭を巡らせて、風を感じた。
手をかざして遥かな上空を振り仰ぐ。盛りに盛られた入道雲をひとつ浮かべた青空に、色も大きさも黒胡麻のような点がぽつんとあって見る間に近付き、早苗に気付いたのだろう、巨大な鴉の影は高みをひとつくるりと回り、自由落下より尚速く降ってくる。地面へ降り立つ寸前に、ばさりと翼をひと打ちさせると乾いた土埃が舞い上がった。
着地点を見定めて早苗は大きく背中をたわめる。下駄の地を踏む瞬間に合わせて腰を沈ませ、頃合や良し、一散に駆け出して、
「早苗、洩矢様から言伝がぁっ」
飛びついた。
踏ん張る下駄の土を抉る音を聞き、やっぱり妖怪ってすごい、全力の体当たりを受け止められたことに早苗は感心して、文さんの匂い、すーはーすーはー胸いっぱいにやっていたら、「ああもう」、ひっぺがされた。
両手で抱えられたままの宙ぶらりんだ。下ろして欲しい。抱きつけない。
「何度言ったら分かるんですか。いきなりは厳禁、心の準備というものがあるんですよ」
「だって文さんなんだから仕方ないじゃないですか」
高い高いをされながら早苗はぐっと見詰め返す。
まったくもって不可抗力だ、なんてったって文さんは青空とみかんの香りがする。これを放っておくなんてとんでもない。
伸ばした指に艶やかな黒髪を巻きつける。
でも、三日徹夜した文さんは無理だ。みかんはみかんでも腐ってたし、ヨーグルトの酸っぱさもあった。しかもなんかインコっぽい匂いまでした。あれは愛せない。
「どう仕方ないのか理解できません」ひとつ溜め息。早苗を下ろし「それはそれとして洩矢様から伝言です。『遅くなるから夕飯はいらない』。八坂様もです。天魔様達との打ち合わせが長引くそうですよ。酒を片手に今更何を話し合うのか聞いてはいけないのでしょうが」
お祭りの前々夜祭だろうか、それなら夜は簡単なもので済ませちゃってもいいですよね、頭の中で早苗は残り物を数え上げ、
「それで、こんなところで何をしてるのですか」
貰い物の素麺とこれまた貰い物の胡瓜を考えたところで現実に引き戻された。
なんだっけ、周りを見渡し、背後に頑固一徹の土蔵がそびえていた。そうだった。
「探し物なんです」
大切な宝物なのだ、首を傾げて促す文に説明した。
「外の宝ですか。興味をそそられますね」
「あんまり期待されても困りますけど。ただのお面ですし」
「それは見てから判断しますよ。他にも何やかやとあるでしょうから」
目を輝かせる様子に不安を覚える。がっかりするだろうなー。
ああでも、今なら何か分かるかも知れない。物知り天狗もいるし、妖怪のことならきっと。
「では、非力な人間は下がっていてくださいね」
「……神様です」
片手を振って「はいはい」受け流された。
「さて、宝の拝見といきましょうか」
ぎしりと唸り、片頬十年の古強者が不承々々に開かれていく。
***
昔々のそのまた昔、早苗は座敷童子と出会った。
物語には始まりが幾つもあるように、東風谷早苗も大小様々な始まりを持っている。
例えば、ランドセルから漂った牛革の匂いは入学式だ。嗅いだなり思わず鼻に皺を寄せたことも、高学年のお兄さんお姉さん達が作るアーチの下を指の先まで棒にして潜ったことも覚えている。
鈍くて重いドの音はピアノ教室だ。「ピアノというものは綺麗で澄んだ音を出すものだ」と早苗の中で決められていたのだ。しかし「好きなように触ってみなさい」と促され、押し込んだ鍵盤が返してきたのは叱り付けるような濁ったドであり、椅子から転げ落ちかけるほど驚いた。
小学校もピアノ教室もまだ終わっていない。早苗の今に至り、物語として続いている。
座敷童子の物語は、始まった途端にふっつり途絶えて白紙のページが続いていた。早苗はもちろん忘れていなかったのだけれども、記憶を新たにしたのは諸々の要因があったからに他無く、それは近々お山で開かれる祭りであったり、準備に奔走する天狗達であったり、友人の仕立てた蝶文様の浴衣であったりする。
空を見上げれば早苗は今でもありありと思い出せる。沈む気のない太陽が山の上で頑張って、まばらに散っている雲をオレンジ色に染めている。その下の黒い粒々はねぐらに帰る鴉達だ。間延びした鳴き声を地上まで届けた風は、乾いた土と草いきれも運んで過ぎる。あの日もやっぱり夏の真っ只中で、縁日に合わせてのお祭りが近所で行われていた。
幼い早苗にとって神社や仏閣は「カナコさんの」と「それ以外」であり、連れられていった場所は後者にあたる。年長さんの足には少し遠かったのだけれども然程苦にはならなかった。道行にちらほら出てくる浴衣姿で熱が高まり、背中を前へ前へと押しやるからだ。引かれていた手をむしろ引き返す勢いで足取りも軽くなる。
尤も、前々から取り決めてあった仲良しと合流したら、期待に膨らんだ胸も萎んだのだけれど。
ユウちゃんの浴衣には、月にかわってお仕置きする美少女戦士とその使い魔が所狭しとプリントされていて、ひどく羨ましくなったことを覚えている。
別段、親がお堅いわけではない。誕生日には変身スティックだって買ってくれたし、お寺であるたっくんの家のように「テレビは一日一時間」と制限もしていない。ただ融通が利かない。着物は昔からこうである。そう言いつつ着せ付けてきたのは、露草をあしらった白地を紺の帯で締めるひと揃いだ。
かわいくない。
セーラームーンとは言わない、せめて色をもっと考えてくれたなら。
七五三は良かった。樟脳のきつく香る母のお古は着ているだけで眩暈がしたけど、とにかく綺麗だったのだ。そう思ったからこそ駆け出しそうな足を押さえて、カメラの前で鹿爪らしいポーズも作ってみせたのだ。祖母も「子供には緋色が一等似合う」と目尻を皺くちゃにして褒めてくれた。露草の青紫に恨みはないが、隣を歩く明るい朱色とどうしたって見比べてしまう。そんな目に気が付いたのか、ユウちゃんはこれ見よがしに袖を翻しつつ「どう思うか」聞いてきて、こんなところは嫌いだ、褒める気にはさらさらなれず、ぼかして応えた。
ずるぺたずるぺたゴム草履を引き摺っていると、祭囃子が遠音に響いてきた。ともすれば蝉時雨にかき消されそうな小さなものでも、地面を震わせ体に伝わる太鼓の音は、お祭りだ。
ぬるま湯のような嫌な気分があっという間に消し飛んだ。全身の細胞を震わせて、どうしよう、沸き返る興奮のやり場に困って隣を振り向く。お姉さんの隣で澄まし返っていたユウちゃんは、様子こそ落ち着いているものの目はあちらこちらに走っていて、音の出所を探しているんだろうか、どこからなんて決まっているのに。なんだかおかしくなって噴出した。
打ち鳴らされる太鼓の音がひと足毎に近付いてくる。いつからか「月が出た出た」と大音量でがなるスピーカーも加わって、合間には縁を叩く撥の硬質な拍子も付いた。
最後の角を曲がり、夜祭と出くわした。
ずらり並んだ電球がしつこく粘る夕暮れに、舞台を譲れと対抗している。ケンケンパで横切れる程度の参道には、浴衣と法被と普段着とそれ以外が犇いている。そこに混じった白シャツと捻り鉢巻のおっちゃんは闖入者以外の何者でも無く、発泡スチロールの保冷箱を抱えて飛び込んだ先は露店であり、陽炎の立つ鉄板の裏に回ってソース用のハケを振り振り並んだ客を捌き始めた。
「◎たこ焼きひと舟四百円」。漢字を読めない早苗であっても、書き殴られた数字でぼったくりだと判断できた。何せそれだけあれば笛ラムネが幾つ買えるか、計算しようとして諦めた。とにかくたくさんだ。義憤に駆られて店先を睨みつける。遥かな高みでは、やはり団扇を持って豆絞りの鉢巻を締めた巨大なタコが行列を見下ろしていた。
看板のとぼけた表情に毒気を抜かれ、早苗は寛大にもぼったくりへ許しを与えて、
――行こっ。
屋台の海へと足を踏み出す。
初めに強請ったのは綿菓子だった。本体を覆う風船もどきのようなビニールに、セーラー戦士が描かれていたのだ。ユウちゃんと和解して、砂糖の雲に齧りつきつつ笑い合った。顔全体をべたべたにしながら参道を突き進む。
屋台に近寄り過ぎれば、目の前が愛想のない壁とお品書きで埋まってしまう、何を商っているのかまず見上げて確かめた。赤い看板はお好み焼きで、水色にはカキ氷の絵があった。チョコバナナは卵色でちんちん焼きも同じ色だ。七色に塗り分けられたものは何なのだと不思議に思えば、安っぽいタライの中でスーパーボールが泳いでいた。
独楽やチューリップの型抜きは三枚やって全滅したし、報復だとばかりに金魚掬いへ突撃したはいいものの、水に漬けた傍からモナカが溶けて惨敗した。ユウちゃんも似たようなものだった。射的ではおんぼろパイプ椅子の上で父に支えられながら挑戦した。友人の手前で恥ずかしくはあったけれども、やってみたくなったのだから仕様がない。
五発渡されたコルク弾のうち、奇跡的に最後が真っ直ぐ飛んだ。しかも当たった。さらに奇跡的なことには、クマのぬいぐるみが棚から落っこちたのだ。唯一この点はユウちゃんと違った。「持ってあげる」という母の言葉を断って戦利品を抱きかかえ、次はどいつだと満足しない猫の目付きで獲物を探す。
そんな風に早苗は楽しんでいた。はしゃいで浮かれて、ハレの日を満喫していたのだ。
だから仕方がなかったのだと、早苗はあの日を振り返る。
うっかり群衆の中に緋色の着物を見つけてしまったことも。
これまたうっかり蝶文様を「綺麗」だと思ってしまったことも。
極め付けには、隣を歩く友人の袖を引いてしまったことも。
仕方なかった。
――ねぇ、見て。
当然ながら友人は早苗と違い、座敷童子が見えなかった。
***
――いつもは「気のせいだった」とか言って誤魔化せてたんですよ。
前髪は諸手で掻き揚げ、後ろ髪はひと手にしごいて水気を絞る。体温よりは高い程度のぬるま湯が、首筋から背中へさらさら流れた。埃と汗から解放されたことに満足し、文は湯舟へ身を滑らせてひと息に肩まで沈む。目を瞑り、細波のひたひた打ち寄せ鎖骨を洗う感触を味わった。
――でも、なんでかその時は無理で、喧嘩しちゃったんですよね。
何故、早苗は語ったのだろうか。
外の思い出を話してくれた、それはいい。信頼してくれている証だろう。しかし何故、この時期に祭りの記憶なのか。何故というのも馬鹿らしい。眠っていた過去を山の祭りに突付かれたせいだろう。けれども意図が分からない。
盆にした手で湯を掬い、指の間から零す。また変なことで悩んでるんじゃないわよね、ぽつぽつ落ちる水滴に、流れたはずのない早苗の涙を想像した。勘弁してよね、頭を振って浮かんだ泣き顔を打ち払う。
大丈夫だ。喧嘩の身振りを再現する目元は、ふざける風に笑っていた。「子供だったんですよね」なんて言う口振りは、普段交わす笑い話や失敗談と違わない。まかり間違っても悩み抜いた挙句の自殺紛いなど起こさないはずだ。あんな思いは二度としたくないし、早苗もしないと誓ってくれた。
しかし、文の中から暗い疑念は消えようとしない、大したことではないのなら、ああまで懸命に探し物はしないだろう。土蔵の中で動く早苗をまぶたの裏に思い浮かべる。ジャージだとか言う小豆色の作業着は、一面に煤で成り立つ霞模様を帯びていた。一本に括った後ろ髪は汗と埃で草臥れて、使い古した箒も顔負けの有様だ。額も頬も拭うたびに黒ずんで、炭焼場に終日こもったと言われても信じられるだろう。
そして、あの目だ。
早苗の修行風景を文は幾度か取材したことがある。八坂の力添えを受けない彼女単身のものは、風であれ水であれ、どれもこれも天狗の目には稚拙としか映らなかった。つむじ風は幾ら捏ねあげたところで形がてんで纏まらず、四方に木の葉を撒き散らすだけで終わった。呼び出した突風は勢いこそあるものの、目標からひとり分横に逸れて桑を揺らした。お陰で毛虫が落ちてきた。悲鳴と共に飛び退る動きには少し感心できた。
そうした折々にあの目を見てきた。「今度こそ」と大幣を握り直した時、息を殺して風を練る瞬間、水の行方を見届ける刹那。
二柱の恩に報いたいのだという。修行を積み、神格化を成し遂げ、風祝を全うしたいのだという。彼女の肩は怒り、指は力の込めように白く強張り、瞳はひたすらに前を見据えている。
その目を土蔵の暗がりに向けていた。
更に、宝だという狐の面を見つけた時の喜びようときたら。
やっぱり、茶化せるようなものじゃないわよね。文は息の全てを肺から出し切り、顎の上まで湯に沈む。
やめよう。「後で」と断りが入ったものの、説明をしてくれるというのなら黙って待つしかない。あれこれ要らぬ憶測を働かせたなら、自分が深みに嵌って溺れるだけだ。早苗と関わる内に散々学んだ。何より「急がない」と約束してくれた言葉を信じるべきだ。
湯を掬い、顔にぶつける。
「お湯加減どうですかー」
ほうとひと息ゆったり零し、
「丁度いいですよ」
但し「文にとっては」と注釈が付く。多くの鴉天狗は長風呂好きだ。のぼせるほどに熱い湯は好まない。早苗にそう語ったところ、「カラスの行水はどうしたのだ」と不思議がられた。
文には逆にそれが奇妙に思える。人間は水浴び中の無防備さを考えたことがないのだろうか。短時間で切り上げるのは人目のある場所だからこそであり、危険を冒してでも汚れを洗い流したい綺麗好きの現れであり、気兼ねなく羽繕いできるのならば心行くまで入っているものだ。文も例外ではなく風呂桶は一種の聖域で、普段は全身を湯に浮かべて、その日の事件や取材や恋人のことなどをつらつら思い浮かべている。
それが他所であってもやはり変わらず、今も両腕で湯舟の縁にもたれかかるという自堕落極まりない姿勢で浸かっている。そして思いを馳せる対象も相変わらず今しがた響いてきた声の持ち主、早苗についてであり、ふやけた頭が翼に絡む木の葉のような引っかかりを覚えた。
今、どこから声がした?
「良かった。ちょっと心配だったんです」
守矢神社の風呂場は新築と言っても差し支えない。元々備え付けられていたのは昭和の大衆家庭に温もりを与え続けてきたガス風呂釜であり、そんなものを幻想郷で使えるわけがなく、昨年の秋口に河童達へ改装を依頼した。
燃え上がる大工衆は改装などという生温い仕事を受け付けない。数々の暴走を監視役の諏訪子による手段を問わない説得で宥めすかした結果、ようやく出来上がったのがこの風呂場だ。
井戸から通した水道で、ポンプを使って直接水を風呂桶に送り込める。母屋から続く屋根付きの渡り廊下で雨天だろうと問題ない。流石の防水に一家言ある河童印、カビ知らずの特製塗料でケヤキの木目がぴかぴか眩しい。晴れた夜に入ったならば、明り取りの天窓から瞬く星が降ってくる。
そんな神二柱、現人神一柱の現代的な核家族には大袈裟にも見える風呂であっても、沸かすには人の手が要る。
早苗は火の番をしていたのではなかったか? 何故、脱衣場から声が聞こえる。
ひと月前にも似たようなことがあった。梅雨の記憶を呼び覚まされて、文の本能が逃げる準備を始めだす。
あの時の自分には拍手を贈りたい。早苗のうきうきしている「お邪魔します」が聞こえるやいなや、開かれかけた入り口へ飛びつけたのだ。洗いかけの髪もそのままに百年の恋も醒める姿勢で踏ん張りながら、お邪魔も何も何用なのか、引き戸の向こうへ問いかける。返答は「にとりと雛さんのように、恋人ならばいっしょに入るものだ」。
知ったことではない。それぞれで違うだろう。たかが人間とはいえども相手は常識破りの山の巫女だ。乾神の力を招来してまで常識もろとも戸を破り、突入してくる可能性もある。あちらとこちらを隔てる防壁を耐えてくれるよう祈りながら押さえつけている内に、彼方から妥協案が示された。「恥ずかしいのならバスタオルで隠せばいい」。
そんな問題ではない。恥ずかしいというのも見当違い甚だしく、認識を正すためにたっぷり半日説教したくなった。
早苗は自身の肌を理解していないのだ。瑞々しい大理石というものが存在するならば、滑らかさはこうなるだろうと想像できる。柔らかさは羽二重餅で、その癖、張りのあることときたら戯れにでも歯を立てたなら抵抗も無くぷつんと破れるかも知れない。そして傷口から溢れる紅玉がころころ肌を滑り落ちるのだろう。万が一にもその肌に触れたなら、限りなく上がり続ける体温で文は蒸発しかねない。
香りに関しても自覚してもらいたい。髪から漂う幽かなものは、例えるならば蜜に漬け込んだ桜であり、迂闊に近寄り吸い込むと全身の血を煮立たせる。その危険物を閉じられた風呂場に持ち込まれようものなら、呼吸を拒んで文は窒息しかねない。
そもそもバスタオルやら言う頼りない布切れ如きで、早苗の何を隠せるというのだ。
がたがた引き戸をやっていると、根負けしたのか引こうとする力は消えて、向こうからため息が届き、諦めてくれたのかしら、安堵のあまりに膝は落ち、無理に決まってるじゃない、涙が滲んだところで宣告された「次はないですよ」。文は戦慄した。
なるほど、これが次なのだろう。天窓を見上げて翼を開く。であるならば手遅れになる前に今すぐ逃げ
「それじゃ、お着替えここに置いときますね」
なんだ、驚かさないでよ。
くたりと文の背骨が溶けた。「ありがとうございます」をむにゃむにゃ言って、翼をもぞもぞ仕舞いこむ。湯の中で無理やり開いたせいだろう、付け根がみしりと悲鳴を上げた。湯舟の縁に背中を預けてずるずる口まで沈み込む。
ほんとに勘弁してよね、もし早苗が入ってきていたなら果たしてどうなっていたことか。ぬるま湯にふやけた頭で想像し、何考えてるのよ、あっという間に煮え立ちかけて、ざぶり、天辺まで湯に沈む。
「入りますねっ」
それでも働き者の脳みそは熱心に動き続けて、頭上の白く波立つ水面に日焼けした早苗の肌を再現し、ご丁寧にも焼けていない部分まで事細かに描写を始め、無理無理無理、文の口から悲鳴の替わりに泡が溢れて、混乱しきった頭は気道へ流れ込もうとする液体で他愛なく恐慌をきたし、滅多やたらと暴れる四肢でなんとかかんとか縁に縋って体を引き上げ、ごふげへ激しく咳き込んだ後、肺をぜぇひゅう鳴らしつつ涙と涎と鼻水にまみれた顔を持ち上げて、
「ええと」
目が合った。
「お邪魔します」
なるほど、これが次だったのだ。
文は死を覚悟した。
***
早苗は狙っていたわけではない。
帰ろうとする文を引き止めたのも、風呂を使っていくよう勧めたのも全くの好意からで、ついでに暑い中手伝わせてしまった申し訳なさもあった。話が途中になってしまうのは何か嫌だから、ということもある。続きはお風呂上りに縁側で涼みながら、にとりさんに貰った西瓜をつけて、早苗は赤熱した薪の奥に赤い甘味を想像する。
熟した果肉を噛む度に、頭の中でさくりさくりと音がする。音が美味しいだなんて不思議な話だけれども、繊維の歯で押し潰される音に、かつんと混じる種の音、口に溢れる果汁の音と啜る音、飲み込み喉を転がり落ちる音や、よく冷えた塊で汗の引いていく感覚まで音になって聞こえてきそうで、そんな西瓜を文さんと肩を並べて食べるのだ。美味しいに決まってる。薪を掻き回している間中、早苗の口元は緩みっぱなしだった。
こんなもんかな、焚き口に大割りを一本くべた。文はぬるくて構わないのだと言う。垂れる鼻水まで凍りつく冬ならともかく、今は夏だ。江戸っ子好みの湯など張ったら早苗も少しうんざりする。
腰に手をあて、んぅーっ、思い切り背伸びして、次は……そう、着替えの準備だ。目に染み込む汗を拭って自分の部屋に引き返す。
Tシャツで大丈夫ですよね。いい感じに草臥れたものと緩めのハーフパンツを片手に抱えて脱衣場へ続く戸を引いた。湯加減を訊ねつつ着替えを置こうとして、洗濯籠に脱ぎ捨てられた文の服を見つけてしまった。
むらっときた。
肉を目にしたゾンビの如くひと足ふた足近寄って、意思の介在しない動作で洗濯籠へ片手を
「丁度いいですよ」
全身の毛が逆立った。
尻尾を踏んづけられた猫の動きで飛び上がり、何してるんだ私、背を壁に押し付け自問する。何というのも分かりきってることだけど、答えを出してしまえば止まらなくなりそうだ。どくどく脈打つこめかみが生き物みたいで気持ち悪い。回答は保留にしたまま跳ね回る心臓を落ち着かせる。ひとつ、ふたつ息を吸って、吐き出して、もう大丈夫だと目を開く。
恋人の抜け殻があった。
ぎしり、早苗は奥歯を噛み締めて、なんでそんなエロい脱ぎ方してるんですか、猛然と抗議した。文の洗濯物は以前にも見たことがある。しかしあの時はそれこそ借りてきた猫であって、きちんと畳まれた格好で籠の中に端座していた。
然るにこれはどうだろう。今にも外へ這い出ようとするかのように、ブラウスは籠からぶらんと垂れている。スカートごと脱いだのかも知れない、下着が見当たらないのは救いだろうか。問題は靴下だ。山あり谷ありのくしゃくしゃな状態で一番上に載っている。最後に脱ぐタイプだったんですね、目を逸らせないまま納得した。でも、どうやって脱いだんだろう。
前屈みになって? 多分それだ。文さんは面倒臭がりだからきっと片手しか使わない。膝を抱え込んだ格好で、人差し指を靴下の上端に引っ掛けて。丸まった背中には肩甲骨が少しだけ浮かんでる。腕を動かす度に百面相でもするかのように、背中はぐりぐり表情を変えるのだ。そんな肩の真ん中には背骨の作るくぼみがあって、指を沿わせたならするする滑って、文さんはひゃふっとかなんか色っぽい声を出しながら体を捻って、でも指は下へ下へ引っかからずに落ちていき……駄目だ、エロい、エロ過ぎる。エロいのでこの子は部屋に連れていきますベッドの上で愛します、欲望のままに早苗は両腕を籠へ向け、抱きかかえていたものがばさりと落ちた。思わず目で追い、床に広がる着替えからぎろりと睨み返される。
体が萎む勢いで早苗は大きく息をつく。危なかった、文さんは信頼してくれているのだ。だからこんな風に油断だらけの脱ぎ方をして、お風呂には丁度いいって言ってくれたのだ。
身を屈めて不満げな服を拾い、
「良かった。ちょっと心配だったんです」
うん、よし、声は大丈夫。ぐいと早苗は体を起こし、洗濯籠に真っ直ぐな視線を向ける。用事があるのはその隣、もうひとつの空いた籠だ。歩み寄り、「私を手に取れ」とブラウスの送る秋波を感じた。駄目です、深夜のカップ麺にも勝てる鋼の意思で着替えを隣に放り込み、服から漂う香りの狙い澄ませた一撃に襲われた。汗に混じっていながらも尚確かに判別できる恋人の甘酸っぱさ。文さんのためにも負けられません、理性がぐらりと傾ぎかけたが不屈の闘志で床を蹴って飛び退る。ここまでは追って来れない、安心に肩が下がった。
文さん、私は勝ちました、額の汗を拭い取りガッツポーズを無言で決めた。
「それじゃ、お着替えここに置いときますね」
出口に向けて踵を返し、
「ありがとうございます」
足が止まった。なんだろう今の声。ほんとに文さんですよね?
気は抜け切っていて、漫画だったら波線が最後に付いてる。うっかりしたらハートまでおまけにくっつく。あんな声、初めて聞いた。
果たして中にいるのは本物なのか、早苗の頭上にぐるぐる疑問が渦巻いた。本物だとして、ならば一体どういう状態なのか、疑問を捏ね上げ形にしていく。きっとなんかもう緩みきった表情でぐでんとしてるのだ。顎は風呂の縁に置かれて、ひと言何か話すたびにかくかく頭が上下して。想像し、甘酸っぱい塊が全身を駆け抜けた。
今の文さんって絶対かわいい。確かめたいという純粋な欲求が膨れ上がって、全力で愛でないと嘘だ、やましい心もついでに芽生えた。上の脱ぎやすさに髪を纏めておいて良かったと心底思い、間髪いれずに下も脱ぎ捨て、理性の欠片が辛うじてタオルを掴んで前を隠した、
「入りますねっ」
がらり、戸を引き、文はいなかった。何処へと思う暇も無く湯舟にごぼりと泡が立ち、早苗は身を竦ませる。
不測の事態に会った時、咄嗟に動ける者はそういない。百年も前の拝み屋達ならいざしらず、早苗は普通の現人神だ。怯える瞳は湯舟に向いて、文さんだ、黒髪の水面で揺らめく様に安堵を覚え肩が下がって、でも何してるんだろう、あんまりと言えばあんまりな光景に早苗は呆然と立ち尽くす。
何かを為せるわけでもなく、ただ眺めているうちに文は風呂から上半身を突き出して、苦しそう、体を折り曲げむせ返っている姿にぼんやりと早苗は思い、何か言わないと、
「ええと」
目が合った。
「お邪魔します」
すごく間抜けだ。
早苗は死にたくなった。
***
「えっと、文さん」
「何ですか」
「もう少しお風呂広く使いませんか。それ、窮屈じゃないかなって」
出来るわけがない、差し支えない旨をごにょごにょ伝えた。早苗に言わせれば「体育座り」なのだそうだが、文にとってはどうでもいい。能う限りに体を縮こめようとしたらこうなっただけだ。抱えた足で胸を潰して精一杯に小さくなる。
いっそのこと抱きつくなりしてくれたなら易々と意識も手放せるだろうに、のぼせた頭で考えて、
「ふぐぅ」
呻いた。
「どうかしましたか」
「気にしないで」
素肌に触れるなんて何考えてるのよ。
もう頭を空にしてやり過ごすしかない、文は膝頭の間に顔を埋める。
何故逃げなかったのか。機会なら幾らでもあったのだ。洗い場は大の字に寝転がってもまだ余裕がある。早苗が髪を濯いでいる間に背後を通り抜けるなど造作もない。けれども、そんなの無理、幾度も繰り返した自問への答えは変わらない。出ようとしたら必ず早苗が見えるから。
ならばと両目を固く閉ざしたまま手探りで行こうとしたら、今度は音が関門になった。体を洗う早苗の音は、想像に働くことを強要する。詮方なく、文は天窓を見上げ続けるしかなかった。気楽に漂っている雲が、この上なく恨めしかった。
「これなら水風呂で良かったかも知れないですね」
「そうね」
会話が続かない。続けようとする気力もない。
こんな恋人でごめんなさい。
「あのですね」
「何」
「さっきの続き、していいですか」
何の話だろう、つい隣に目を向けて、横顔が見えた。急いで戻した。
髪を纏めるタオルの白と日に焼けた肌の黒が影法師になって、文の網膜に留まり続ける。
「座敷童子のことです」
ああそれ、
「うん」
笑い飛ばせれば良かったのだ。「恥ずかしいところを見られた」なり何とでも言い様があっただろうに。
ぐるぐる後悔と自責を繰り返していると、「喧嘩しちゃったところからでしたね」、呟きが聞こえた。
――「あそこにいるじゃない」って、あの時の私、ほんとにしつこかったんですよ。なんでか引けなくなったんですよね。
喧嘩はそんなに続かなかったんです。ユウちゃんはお姉さんに、私は母に止められました。どれくらいかなー、袖を掴んだ瞬間に引き離されてたくらいですから、五秒もなかったと思います。だから、怪我だって私達ふたりとも引っ掻き傷が二、三箇所で済んだんです。でも、すごく痛くて涙が出て。
笑っちゃいますよね。どう考えたって私が悪いのに。
うん、そうですね。ユウちゃんに馬鹿にされたのもやっぱり原因なんですけど、それでも私の我侭だったんです。見て欲しいなんて、そんなこと出来っこないって分かっていたのに。
悔しかったんだと思います。「早苗は変なことばかり言ってる」、「早苗は変なものばかり見てる」。確かに変な妖怪……いえ、文さんじゃないですよ。それは妖怪ですけど、文さんかわいいですし。うん、真っ赤な顔もかわいいです。気付いてましたか? 私の顔もさっきからずっと熱くて、きっと文さんとそっくりなんです。お相子なんです。だから少しくらいこっち見てくれてもいいじゃないですか。
あ、はい、とにかくそんな風に「変だ、変だ」って言われっぱなしだった時に、座敷童子がいたんです。はしゃがないほうが嘘だと思います。浴衣とかの和装にはあまり興味なかったのに、次は絶対あんなのにしてもらおう、って思えましたし。おばあちゃんが見たらなんて言ってくれるのかな、とか考えて。
綺麗だったなー。あんなのを「目の覚めるような」って言うんでしょうね、緋色の着物でした。柄は菫とか山吹で染められた大振りの蝶で、それと黒の帯。でも重たい感じは全然しなかったんですよ。たぶん櫛のお陰だと思います。阿求さんみたいな切り揃えたセミロングに金細工の付いてる、鼈甲かな、櫛が見えたんです。それだけで華やいでるって言うか周りが明るく見えて、ほんとに綺麗で、肌なんか抜けるような白って感じでした。
でもちょっと変なところがあって、変ってわけじゃなくて、さっきの探し物、狐のお面です、あれを着けてたんですよね。かわいいのはかわいいんですけど、でも「なんで?」って、
すみません、話が逸れましたね。
えっと、うん、綺麗だったんです。綺麗でかわいくて、妖怪だけどお化けじゃないんです。畳より大きいムササビとか、目玉が生えたモップとか、赤銅色の虚無僧とかそういうのじゃないんです。変なのばかりじゃなくて、こんなに綺麗な人もいるんだ、って。
初めて知りましたし、みんなに知って欲しかったんです。
こんな人がすぐ隣にいて、でも気付いてくれない。もどかしかったです。
へ? ああはい、神奈子様も諏訪子様もそれはお綺麗ですけれど、でもお二方とも人間だって信じてましたから。じゃなくて、信じたかったのかな。家族以外で私の話を聞いてくれる人が、やっぱり他の誰にも見えないなんて、そんなの嫌で……
うん、まぁそれで拗ねちゃったんですね。父に叱られてお祭は途中退場、帰り道は無言のままで、母は頭を撫でてくれて、父はおんぶしてくれて。でも私はずっと拗ねてました。家に着いても「ただいま」は言わなかったと思います。お風呂に入っても拗ねてました。パジャマに着替えてもそうで、寝かしつけられても起きてました。
それで母が部屋から出て行った後に、家出したんです。
***
カナコさんなら分かってくれる、ずるぺたずるぺたゴム草履を引き摺って、早苗は夜道を歩き続ける。
目印用のおはじきは必要ない。何度も何度も通った道だ。年長さんの足であっても大して時間は掛からない。家を出て、角をふたつ曲がったらもう鎮守の森は目前で、あとは神社へ続く階段を登るばかりだ。問題は妖怪への対処だけれどもそこらへんも抜かりがない。卵色のあひるさんパジャマには腰の部分にポケットが付いている。そこへお守りをちゃんと入れた。頭に血が上っていようとも、カナコさんから口を酸っぱくして言われているためだ。
なんでも早苗は美味しい匂いがするのだそうな。そういう血筋という話だ。早苗は見鬼なのだそうな。これも血の証という話だ。妖怪が人を食べるには、まず姿を見られなければならないのだそうな。境目の薄くなる逢魔が時に、見えてしまった挙句に食われることもよくある話だ。たそかれ、かはたれ、暗さに紛れて顔の見分けが付かない時分、道へ背を向けている誰かには決して目を向けないように。それは人ならざるものだから。そして、夜は妖怪の時間だそうな。
ひとつ目の角を曲がった。
なるほど、早苗は見えるし美味しいのだからとても危ない。人気のない夜道なぞはとてもとても危ない。妖怪はどこに潜んでいるか分からない。奴らはかくれんぼの名手である。ぶらんと垂れた電線の上、ひび割れたブロック塀の隙間、もしかしたらそこの木影から突然飛び出してくるかも知れない。
早苗は三歩ごとに周りを確かめ、十歩進めば暗がりに目を凝らす。「そんなところには何もいない」なんて一体誰が断言できる。いないのではなく見えないだけなのかも知れないだろうに。だってほら、さっきからずっと視線を感じる。首の後ろがちりちりする。肩越しに振り向いて、
やっぱり何もいなかった。
その通り、いなかったのだ。振り返るより早く、奴らはまんまと逃げおおせたのだから。逃げ込んだ先の草むらからさやさやと音がする。臆病な人間を嘲笑っているのだ。きっと視線を外せばまた出てくるだろう、早苗は歩き出す振りをする。視界の端でぬるりと闇が蠢いた。やっぱりだ。ポケットの上からお守りに手を当てる。大丈夫。何だって平気だ、幾分か早まった心臓に言い聞かせ、
ぱちり、音がした。
辛うじて悲鳴は両手で押さえ込めた。爆発しそうな息といっしょに無理やり声を飲み下す。見たくないのに、正体を確かめようと音のした方へじりじりと首が捻じ曲がり、淡い光、巨人の影、木製の時代掛かった背高のっぽがいた。電信柱? ぱちりぱちり音は続いている、もっと上、のっぽの掲げる傘付きの街灯に、なんだ、虫だ。
折れかけた膝を叱咤して、早苗はまっすぐに背筋を伸ばす。滲んだ涙を力任せにごしごし擦り、灯りにもういちど目をやって、何だかぼやけてる、羽虫の黒い点々が何かの形を取るようにくるくる巡って集まって、電球の真ん中で真っ黒な塊に、何だろう、じっと目を凝らして。
街灯に睨まれた。
今度こそ悲鳴が漏れたと思う。
カナコさん、真っ白な頭の中でお守りに縋りつき、我武者羅に両手を振り回して走り出す。脇を過ぎる板塀の遅さがたまらなくもどかしい。今の早苗にとって闇は恐怖でなく光こそ背中を向ける対象であり、力の限りに足を動かす。
ふとつ目の角。体を倒れそうになるほど左へ傾け曲がりこみ、耐え切れずべしゃりと転び、カナコさん、身を起こして顔を上げ、止まった。
半月が煌々と照っている。
道路は広い。軽トラック程度なら譲り合えば擦れ違えられて、よもや側溝にタイヤを落とすなどしないだろう。更に長い。ぽつんぽつんと立つ電信柱はひとつひとつがマラソンのゴールであって、ひと息に駆け抜けられる気は毛頭しない。左右には水田が広がっている。所々に走る用水の黒い筋はあの世へ至る崖としか思えない。まだまだ青いはずの稲は鈍い月光で黄土色に揺らめいている。
そして、そんな広い景色の果ての果て、幾つものゴールテープを潜り抜けた先の最終地点、鎮守の森は遠かった。
何かの冗談のように音がしない。きんと甲高い耳鳴りがした。
膝が落ちた。
喉の奥はごろごろしている、膝小僧はちくちくしている、鼻の付け根がつんと痛い。もう歩きたくない。何度も何度も通った道は、何十倍にも長くなってる。
もう嫌だ。
例えば幼稚園なら机の影、家なら納戸の奥、神社なら縁側の下。いつもの暗くて狭い場所ではないけれど、今こそ必殺技の役立つ場面ではないか。膝を抱えて無敵になるのだ。擦り傷はへっちゃらだし、街灯に睨まれたってびくともしない、嘘だと決め付けられてもさっきの綺麗な妖怪は絶対本物だ。そう信じられるスーパーサナエになるのだ。とても素敵なことだと思う。
月の沈んで太陽が昇るまで、道端にじっと蹲り続けるのだ。夜が明けてしまえばあの電信柱も目を瞑って寝ているだろうし、傍を何事もなく通り抜けられる。もしかしたらその前に松田さんが通りかかるかも知れない。ゴン太といっしょに散歩のついでで神社へお参りするのは知っている。それでなくとも農作業で誰かしら来るだろう。そもそもがこんな夜更けにカナコさんを訪ねるなど、非常識極まりない話だったのだ。
なんでわたしは大人しく寝なかったんだろう、早苗は家路を夢想する。
妖怪なんていない静かなご町内をてくてく歩き、門柱の傍を通って庭にこっそり忍び込む。汚れた足をおざなりに払って廊下へあがる。風鈴の下を通り抜け、仄かに燃える蚊取り線香を横目に過ぎて、障子は出てきた時と同じで開けっ放しだ。六畳敷きの子供部屋、隅に片付けられたおもちゃ箱からは積み木に埋もれまいとして、変身スティックがにょっきり顔を出している。真ん中に敷かれた布団は夏物で、上にはタオルケットが一枚きりだ。もぞもぞと中に這いこみ枕へ頭を落とした瞬間、眠りに楽々引きずり込まれる。
けれども今夜は蒸し暑い。寝苦しさにタオルケットを蹴飛ばして唸っていると、内側の襖が音も立てずにするする開く。誰かの足裏がさらさらと畳を擦り、こちらへと近付いてくる。白粉がふわりと匂って覗き込まれたのだと分かる。誰かは汗に濡れた額の髪を脇へ静かに流してくれて、間を置き、ゆるゆると微風が届く。汗の引く心地よさで無闇に入っていた力は抜けて、呼吸は緩やかになり、次第々々に体が溶ける。薄目にまぶたを開き、枕元に団扇を扇ぐ姿が見えて、膝を崩して座りながら柔らかい笑顔を浮かべていて、
おかあさん
唸り声が聞こえた。ゴン太?
もう誰でも良かった。前を通るたびに吼えかけてきて、散歩中に出会ったなら綱を限界まで引っ張ってのしかかってくる意地悪でも知り合いには違いない。初めて飛び掛られた時にちびったことは許してやる。「とってこい」のボールを咥えたまま放そうとしない無礼にも目を瞑ろう。べろべろ舐めまわして顔中を涎まみれにしてくる悪行にも情けを掛ける。だから、
柴犬の狐色を探して、何もいなかった。
わたし? 喉に手をやり、ごろごろ転がる感触が早苗の指を震わせた。唸り声はどうやらここから出ているらしい。
おかあさん、歯を食いしばり、胃からせり上がろうとする塊を全力で押し戻す。
これで挫けたなら止まらなくなると知っている。泣き声ひとつ漏らしたが最後、それが呼び水になって何もかも溢れてしまう。何度も何度もうんざりするほど繰り返してきたことだ。知っているからこそ危うい局面を切り抜けるために、早苗は体育座りを発明したのだ。
しかし今は、必殺技の出番ではない。この瞬間にも自分の不在を母が見つけてしまうかも知れない。そんな場面、想像もしたくない。する必要など欠片もなく、どうなるかなど分かりきってる。早苗を呼ぶ母の声には焦りが篭り、箪笥の影に納戸の奥、物置の中を見回って、いよいよ家にはいないらしいと悟った時、顔を青ざめさせるのだろう。
出鱈目に目元を拭って早苗は両の足ですっくと立つ。ひどく擦りむいたのだろう膝がじくりと抗議を上げたけれどもこれしきの傷は屁でもない。座って夜明けを待つなど論外であり、今すぐにも帰らなければならない。たかが目玉のひとつやふたつ何するものぞ、自分にはお守りが付いているのだ。ポケットの中に手をやって、
無い。
血の気が引いた。
それでもまだ早苗は冷静でいられた。きっと転んだ拍子に落としたのだ、ポケットから飛び出るなど有り得ないと喚きたいが、断じ切れないことでもある。必ず近くにあるはずだ、決して暗くはない月夜の下で四つんばいになり、お守りの影を探し始める。
道路の表面を浚った。全身に脂汗が滲み出る。塀の足元に生い茂る草を掻き分けた。呼吸がやかましいほど忙しくなる。側溝の上に身を乗り出して中を窺った。激しさを増した動悸で吐き気がする。
早苗は見えるし美味しい匂いがする。昼日中ならともかくとして、逢魔が時はとても危ない。人気のない夜道なぞはとてもとても危ない。
神奈子は「夜に出歩くな」とは言わなかった。決して勧めはしないけれども、誰かしら信頼の置ける身内が付き添った上で、お守りもあれば早々危険は及ばないだろうという考えだ。
枯れてきているとはいえ、曲がりなりにも国津神の一柱が力を込めたのだ。十把一絡げの妖怪ならば近寄れもしないだろうし、それを押して尚、早苗に触れられるほどの者に対しては「建御名方」の名が利いてくる。お守りは言わば御老公の印籠であり、「手を出したらただじゃおかねぇぞ」と四方にメンチを撒き散らす鯉口の切られたヤッパであり、事実舐めて掛かった幾人かは早苗が気付く前に諏訪の地から姿を消した。
分霊を備えた早苗用特製ポータブル分社である懐剣からは、不穏な気配を察知したならすぐさま神奈子が飛び出してくる仕組みだ。そんじょそこらの護法では束になっても叶わない安全性の秘密はここにある。身に着けていれば、少なくとも手元に留めているならば余程のことがない限り問題は起こらない。起きても神奈子が何とかするし、起こす前に諏訪子は察して身を退いた。
であるならば、ひとりぼっちの、お守りを失くした早苗はどうなるのだろうか。
手負いの獣と変わらない荒い呼吸が早苗の口を出入りする。
実際に危害こそ加えられなかったものの、早苗は幾度も妖怪の剣呑な目を見てきた。悔しげな遠吠えや舌打ちも聞いてきた。カナコさんは笑顔で「大丈夫」と請け合ってくれたけれども、だからといって忘れられるものではない。うなされ、母に揺り起こされた夜が幾度あったかなど数えあげたら切がない。それに、今しがた出会った街灯のことも、
首筋に、生臭い、
飛び退り、勢いを殺しきれずに尻餅をついた。
何もいない。
ざあざあ稲穂がさんざめく。遠くの水田に影が落ちた。吹き渡ったぬるい風に早苗は頭を空へ向け、雲に隠れつつある半月を見た。鼻先にぽつりと冷たいものを感じ、雨が来る。
何もいないと一体誰が断言できる。今のはただの風だったのかも知れない。けれども、本当は、
――さてさて、ひとつ味見といこうかねぇ。
跳ね起きて駆け出した。
角の向こうで確かに足音がした。誰だろうと何だろうと正体はどうでもいい。追いつかれる前に神社へ辿り着かなくてはならない。周囲に目を向ける余裕などこれっぽっちもなく、道路へ視線を落としてひたすらに走り続ける。
一本目の電信柱を過ぎた。稲光が網膜に田園の一枚絵を焼きつかせ、ぽつぽつ道に丸い染みが増えていく。遠雷が轟いた。神社まで何本あるか、早苗は数えたことがある。ひとつ目の角まではきっかり十本、ふたつ目なら七本で、残りの道も十本ある。
三本目、本降りになった。バケツをひっくり返したような豪雨で瞬く間に濡れ鼠へと姿を変える。汗と涙と鼻水が雨滴に混ざってどろどろしたものになり、鬱陶しい。張り付く髪と重いパジャマと目に飛び込んでくる雨が更に鬱陶しい。まだこれだけなのか、これだけ走ってやっと三本目なのか。もっと速く。足音はもう後ろまで来てるかも知れない。確かめたくても振り向けない。上がりきった顎を自覚しながら足を動かす。
五本目、半分過ぎた。まだ半分も残ってる。精も根も尽き果てて足は萎えそうになり、背後で地響きがした。これ以上なんだというのだ、首を後ろに回してしまい、電信柱が道路から根っこを引き抜いていた。ばつんばつん、引きちぎられて波を打つ電線も、亀裂の入るアスファルトも、血走った眼球も全部見えてしまった。
爪先から頭の天辺まで楽器にして悲鳴を上げる。どこに残っていたのか不思議になるほど息は続いて、切れてもまだ吸い込み声を出す。叫んでいる間は襲われない、根拠のないルールを勝手に作って駆け抜ける。
十本目をいつの間にか過ぎていた。鳥居の裏に回りこみ、来た道を覗き込もうとして、すぐ向こうに目玉があったら? 歯の根が合わない。見開いたまぶたが痛い。喉が詰まって動かない。際限なく膨れ上がる恐怖に耐え切れず、柱の影から早苗は首を突き出して、呼吸は止まり、雨に煙る田んぼがあった。
たわむ電線も職務に忠実な電信柱も頼りない灯りを投げかけている街灯も、全てがいつも通りだった。田んぼの向こうに背景を切り取る形で影絵があって、人家なのだと遅れて早苗は理解する。止まっていた息を吐き出すと、焼け付く肺が「今頃気付いたのか」と獰猛に騒ぎ出し、頭を捻り上げられるような痛みで体を九の字に折り曲げた。咳も涙も鼻水も止まらない。えづく内にもどしかけ、残っていた最後の力で堪え、鳥居に縋ってずるずると崩れ落ちる。滑らかな表面に濡れたパジャマが張り付いた。
どうだ、見たか、これが神のまします鎮守の森だ。わたしは逃げ切ってやったんだ。
しっかりした柱にもたれかかっているというのに体は安定せず、地震かと思えば噴出してしまいそうなほど全身が震えていた。かみさま、「助けてくれてありがとう」と「お守りを失くしてごめんなさい」がごちゃ混ぜになった結果、早苗は笑いながら咽び泣く。
もう平気だ。もう大丈夫だ。あとは帰るだけだ。母にはごめんなさいを言って抱き締めてもらおう。髪を拭いてもらって頭も撫でてもらおう。きっと白粉の香りを嗅いだ瞬間にわたしは眠ってしまうのだろう。カナコさんには申し訳ないけれども家まで連れて行ってくれるようにお願いして。この姿を見たらどう思うだろうか。きっと怒りながらも笑顔を向けてくれるのだ。カナコさんはとても優しいから。
しゃっくりも震えも泣き笑いも止められる気がしない。足腰は立たず、仕方ないと四つんばいのまま階段にもぞもぞと体を向けて、きゅう、カミキリ虫にも似た音が喉から漏れた。
麓にそびえる鳥居は赤い。赤の先に黒がある。指先で掬ったなら滴りもせずへばりついてくるだろう、粘ついた漆黒の夜がある。あるはずの杉や檜は精々が二、三本しか見えないままに、残りは異界へ呑み込まれていた。
どこへ続くとも知れぬ階段が、真っ黒な口を開けて獲物の一歩を待っている。
限界だった。
泣くでもなく喚くでもなく、早苗は鳥居に背中を預け、のろのろと膝を持ち上げ抱え込む。お尻と石畳に挟まれてパジャマがぐずりと小さく鳴いた。気持ち悪いけど我慢する。体育座りのためだから。
膝頭の間に頭を埋めて、無敵になるための注意点、そのいち、
「くわばら」を例に持ち出すまでもなく、言祝ぎを始めとして呪や言霊に見られるように、古くから言葉には力が宿ると信じられてきた。信仰心は大切だ。「信じてくれたなら神様は嬉しい」のだとカナコさんも言っている。体育座りで早苗は無敵になれるのだ。そう信じる。
おまじない染みた注意点を、胸の裡に唱え始める。
そのいち、目は固く瞑ること。何かを見たら食われてしまう。そのに、正面は参道の逆に向けること。もしかしたら仲間と勘違いして見過ごしてくれるかも知れない。そのさん、絶対に動かないこと。気付かれないように、手足を体に押し付けて、息を殺して。そのよん、そのよんは……
これらを守り通したなら無事でいられる。おかあさんに抱き締めてもらえる。おとうさんは馬鹿な自分をうんと叱ってくれる。早苗は「そのよん」を死に物狂いで考える。早く、早く言わないと間に合わなくなる、何でもいいから早く、頭の中を手当たり次第に引っ掻き回して、
妖怪はいないのだと信じること。
溜め息が薄く漏れかけ、寸前で押し留める。涙が出そうなほどに安堵した。でっちあげた「そのよん」を口の中で転がして、なるほどいかにも今の状況にお誂え向きではないか、早苗は満足した。絶対にいないのだ、二度三度繰り返し、そのたびに勇気が湧いた。調子付いた早苗は「そのご」も「そのろく」も難なく考え付いておまじないを唱え続ける。
夜更けの神社の足元に、ひとりの少女が座っている。体に張り付くあひるさんパジャマは闇夜に浮かぶ卵色だ。これだけが味方だとでも言うように少女は二の腕を掻き抱き、小さく小さく縮こまっている。
敵だとも知らずに。
雨を吸った重い生地が、少女の体温を奪っていく。
***
あの夜を、早苗は断片的にしか覚えていない。それも閉じた目は何も見ず、閉じ切れなかった耳だけが辛うじて記憶を保っている有様で、真っ暗な過去を手探りしたならなんとかかんとか当時の残響を拾えるばかりだ。
例えば雨音がある。小降りになっていたのか止んでいたのかは分からないけれども、無数の豆を落としたような雨はいつしかすっかり鳴りを潜めて、枝から滴り落ちていたのだろう、代わりとして断続的に地面を軽く打つ音がしていた。ぽたりぽたり、すぐ傍とも、どこか遠くからとも聞こえる音は眠気を誘う。
他には蛙達だ。がーがーかろかろ水田を埋め尽くす鳴き声が、鎮守の森を取り巻いていた。なんとも平和なものだと思う。
その頃にまだ「おまじない」を続けられていたのかといえば、恐らく止まっていたのだろうと早苗は考える。熱を出して次の日から丸々三日寝込むほどだ、指の一本持ち上げられたかすら怪しい。
一体どれほど座っていたのだろう、数十分か数時間か、膝の作る暗がりに引き篭もっていると、ころんころん、道の方から音がした。疲れ切ってぼやける頭は耳慣れないものに判別を付けられず、何だろうと構うものか、投げやりになって座り続ける。気力も体力も根こそぎ抜け落ち、何事か物を考えるのも億劫になっていた。
ころんころん、一定の調子を刻む音が段々と森に近付く。水田の端辺りへ来た時にようやく分かった。下駄の音だ。
正体に気付いたからといって、では持ち主は誰なのかと疑問が残る。お祭りの最中ならともかく、普段から履いている人物は近所でついぞ見かけたことはなく、田舎に暮らす父方の祖父はそうだった気もするが、よもやこの時間のこの場所に現れるなど到底有り得ないだろう。心当たりがあるとすれば……カナコさん。そうだ、雨の日にはいつも石畳を鳴らしてた。長靴より下駄の方が落ち着くと笑ってた。
がばり、伏せていた顔をあげ喉から歓声を迸らせかけ、でもなんで外から? ぷかり、湧いた疑念が寸前で早苗を押し留めた。外出していて今帰宅したのだとはもちろん考えられる。随分な宵っ張りだと思うけれども母が言うところの午前様なのだろう、大人というのはそんなものだ。でも違っていたら? よくよく耳を澄ませてみたなら、カナコさんにしては軽過ぎると気が付いた。がらんがらん、記憶にあるものはもっと重くて景気の良いものだ。
持ち主は誰なのか、疑問はどす黒い恐怖に変わった。そんなものは当然決まっている。妖怪だ。赤銅色の虚無僧に、ぼろきれを引き摺る老爺、ひとつ目の巨大な案山子も、ひとたび考え出すと心当たりは掃いて捨てるほど湧いてきた。
ころん、音がする。鳥居のすぐ向こうまで来ていた。
口中がからからに干上がった。触らなくとも鳥肌になったと分かる。大丈夫だ。まさか鳥居を潜れるはずがない。ここは神域なのだ。飛び出ようとする悲鳴を必死に宥めて落ち着かせる。
ころん、もうひとつ。隣に立たれたと思うほどに音は近くて、衣擦れのしない濡れたパジャマがありがたかった。もし乾いていたなら一発でばれるだろうと確信できるくらい体は震えて、まだ大丈夫。全然平気だ。下駄の動き出す気配は無くて、ほら見ろ、躊躇っているじゃないか。ここなら絶対安全で妖怪なんて絶対入れなくて心配することなんかひとつも
ことり、石畳を踏む音がした。
拳を口に押し当てる。悲鳴を上げるわけにも歯を打ち鳴らすわけにもいかなかった。蠕動する喉から呻き声を漏らしそうになって飲み下し、苦しさに頭の奥がじくりと痛む。もう嫌だ、張り詰めた神経が千切れそうで、おかあさん、何度も何度も母を呼ぶ。
ことり、止まっていた歩調は戻り、気付かないで、ことり、鳥居の脇に、見ないで、ことり、柱の後ろ、おかあさん、
ことりことり、過ぎていく。
何もないままで、早苗に気付くこともなく。
俄かには信じられなかった。目を見開き耳をそば立て、ことりことり、本当に下駄が離れていく。理解が頭へ染みていく。
堤防の決壊したように冷や汗が全身から噴き出した。涙と嗚咽まで溢れそうになり、まだ我慢しろ、全力で押さえ込み、おかあさん、早苗は何が何でも帰りたかった。こんな思いをするなど真っ平御免で、この先何度繰り返すのか見当もつかず、今回は助かったけれども次は違うかも知れないし、むしろ絶対違うだろうし、大体が行けば帰ってくるのは当然で、下駄は階段を上ってからしばらくしたら必ず戻ってきて、今度こそわたしを見つけて今度こそわたしを
――うらめしやー。
驚き過ぎたら時間も止まるのだと早苗は知った。凍りついた心臓は杭を打ち込まれたかのように痛み、雨で冷えた下腹に生温かい感触が広がっていく。
――別に「表は蕎麦屋」なんて返事は期待しちゃいないけどさ、そんなに驚かなくったって、ねぇ。
女の子の声だった。
ころころした涼しいもので、なるほどだから音が軽かったのか、ぼんやり思う。
――「初めまして」は言わないよ。早苗とはお祭りで会えたしさ。立てる?
どの口がそんなことを言えるのだ。驚かされる前までならまだ力は残っていたかも知れないけれど、それも今しがた消し飛んだ。力があったところで抜けた腰を立たせられる気は微塵もしない。
場違いなほど明るい声音で恐怖は失せて、この落とし前はどう付けてくれる、こんなことは年少さんで卒業できてたのに、羞恥心がプライドに火を点けて、早苗はネズミ程度なら射殺せるだろう殺気を込めて隣を振り向き、
――その元気なら心配するほどでもなかったかねぇ。ひと安心だよ。
「白い狐がいたんです」
ふむり、文は頷き、
「で、それがこの面だと」
「はい、じゃあ西瓜切ってきますね」
わしわし髪を片手で拭きつつ裏に表に面を返した。タオルは水気を良く吸ってくれる。
いつも通りを装って、軽く絞ってあとは自然の為すがまま、寸秒でも早く脱衣場から抜け出すために。そんな文の甘っちょろい思惑を早苗は見逃してくれるはずもなく、髪をしっかり乾かすようにという要求を大人しく受け入れるしかなかった。断ったならタオルを手に全裸のまま襲い掛かってくるかも知れないと思えば、この程度の労力は喜んで払う。「せめて縁側で」という嘆願を飲んでくれたのは幸いだった。
無闇に広い脱衣場だろうと、すぐ隣で早苗の体を拭く気配を感じながらなど無理に決まっている。これが最善の選択だろう、文は首を振り振り納得して、着替えている最中うっかり目に入れてしまった光景がぶり返し、今は早苗の話でしょ、思考の舵を切り返して奥の土間へ疑問を投げる。
「何故、座敷童子ですか、それの着けていた面があるのです」
「私もよく覚えてないんです。母の話だと抱えながら倒れていたらしくて、命の恩人のものですから大事だったんだろうなーって思いますけど。あ、お守りもいっしょです」
「それなら仕方ないですが」
いい加減、髪も乾いたところでタオルを置く。
早苗の宝物になった経緯は理解した。では一体、
「何故、探そうと考えたのですか」
「それはですねー」
かちゃかちゃ食器をいじっていたかと思うと、「よいてこしょ」、西瓜を盛り付けたお盆を運ぶ早苗の姿が現れて、手伝えばよかった、なんとも気の利かない、丸々ひと玉って切り過ぎでしょう。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
「うん、えっと、怒らないでくださいね」
何を、
「懐かしくなったんです」
それだけ?
「怒りはしませんが、大変な気の入れようでしたね」
にへらと早苗は笑みを深めた。
「ですねー、自分でもびっくりしてます。でも宝物ですから。こんなことで手伝わせてしまってすみません」
「いえ、構いませんよ」
今の笑顔を見せてくれるのならば。申し訳なさそうに眉を落とした早苗に向けて、文は心の中で呟く。高まる鼓動に耐え切れず、西瓜へと視線を戻した。
さくり、噛み締めて顔を顰める。若いものにありがちな水気ばかりというわけではなく、熟しすぎて白く筋の張るようなこともない。見た目の熟れ具合は程よいのに、無闇やたらと甘ったるかった。
***
あれやこれや積もる話を重ねていると、山の向こうへ太陽が半ばまで姿を隠していた。祭りの案内を再度約束して文は神社を後にした。
風を孕んで膨らむTシャツは体を背後へ引き戻そうとしているように思われて、抗おうと文の翼に力が篭る。長居をしたならまた八坂様の不興を買うだろうから仕方ない。仕方ないのだが、空を見上げる。夕闇の迫る東には星が瞬いていた。
五芒星は彼女の十八番だ。文は長々と息をつく。
近頃、早苗は綺麗になった。
手入れをしているのか、それとなく文は訊ねたことがある。早苗は得意満面、自信満々に「これです」とシャンプーのボトルを突き出してきて、聞けば、秋の豊穣神に指導を仰いで糸瓜から化粧水をこさえたらしい。続けて、文の新聞勧誘も顔負けの勢いで宣伝を始めたので、随分と辟易した。そんなものが理由ではないと文は知っている。知りながら聞いた。早苗の長広舌を右から左に聞き流しながら晴れやかな笑顔を眺めて、綺麗になったと確信した。
早苗は変わったのだ。
迷いがなくなったのだろう。もちろん日常の、涼のために氷室から氷を削り出す作業だとか、夏の定番であり夜雀も屋台に出す蝉の天麩羅だとか、些細な部分で躓くことはまだまだある。しかし戸惑いはしても、それがこちらの流儀だと貪欲に学び始めている。
こちらに来て一年も経たない新参が力を持った。これを面白くないと感じる者は確かにいる。排斥の動きはなく、表立っての批難もせず、精々が影口程度ではあっても、いることは事実だ。けれども賢者の「幻想郷は全てを受け入れる」という言葉に――腹の底ではどうか知れないが――否を唱える者はおらず、元より能天気といってもいい楽天家ぞろいだ。酒を呑めば忘れる程度の愚痴であり、守矢の三柱に「出て行け」など言おうはずもない。
あとは早苗の意識次第だった。彼女は妖怪の世界を指して「隣」だと言った。言葉の根底にあったのはまさしく「お隣」であり、彼女自身は別に住処を持つ余所者だったのだろう。しかし意識の持ちようが根幹から変わった。「東風谷早苗」から「新参の」が外れるにはあと十年は掛かるだろうが、少なくとも余所者ではなくなった。
弾幕ごっこに宴会に、早苗の笑顔には気負うところが見えなくなった。合わせようとして引きつる皺が見えなくなった。危なっかしいところは増えたけれども自信を持ち、ついに幻想郷の住人となったのだ。
喜ぶべきなのだろう。けれども、
「参ったわね」
早苗は綺麗になった。それが文にはたまらなくもどかしい。
今日は幸い用事もあって神社を訪ねられた。明後日には祭りの案内という大儀がある。三日続く大祭だ。用など呆れるほどに湧くだろう。しかし、その次はどうなのか。
「もう、こんなに会いたいのに」
顔が見たい。声を聞きたい。けれども今夜はもう会えない。
明日は準備で忙殺される。祭りは滞りなく済んだとしても、合間には事件が必ず起こるし裏取りの取材に追われる日々となるだろう。特集も組まなくてはならない。しばらく会えなくなるのは確実だ。そして、一番の難点。暇がもし出来たとして、用もないままに会えるのか?
無理に決まってる。早苗は綺麗だから。
近寄れば近寄るだけ離れたくなる。いつか、何かの拍子に、この手が恋人を壊してしまうのではないか。ただでさえ脆い人間だ。まさかとは思えない。事実、大事には至らなかったものの春先には一度殺めかけている。
気分の沈んだ晩には時折、有り得た過去に襲われる。文が不眠に陥る理由のひとつだ。
月光を浴びる障子の足元、散らばった資料の上やまぶたの裏の暗がりに、横たわった早苗が浮かぶ。胸は微動だにせず、手足は力なく投げ出され、開ききった瞳孔はただの鏡にしかならない。文の顔を見ようとしない。
血の涙を流しても飽き足らない、喉の裂けるまで慟哭してもまだ足りない最悪の結末だ。
文は自身を信用できない。
「何故」
早苗はああも綺麗なのか。
老いさらばえる運命を背負いながら、一生を燃やし尽くそうとする人間は好きだ。線香花火にも似た煌きは文の好奇心を惹きつけて止まない。元はといえば、ただの興味と野次馬根性から里に出入りし始めたことが切欠だ。どのような泥臭い生き方をしているのやら、取材などするはずも無かった。ちょっとした世間話程度に留めて、地面を這いずる生き物の生態を、面白おかしく記事に纏めるのだ。
鍛冶師の八五郎は右目が潰れていた。炉をあまりに長く見続けたせいなのだという、白く濁った眼球は何を見ることもない。その癖、語る顔は後悔ではなく誇りに彩られていた。ぎょろりと剥いた左目を指し、顔全体を口にして豪快に笑うのだ。「お迎えの来る前にこいつも潰さねぇと格好がつかねぇやなぁ」。
百姓のセンは顎が地面に付くほどの腰曲がりだった。日の昇る前に畑へ出て、里に灯りの絶えるまで縄を編む。馬鹿の見本として思わず攫いたくなるような働き者だった。その癖、生活はまさしく爪に火を灯す態を為していて、身を削る倹約は一番下の孫に嫁入り道具を持たせるためなのだという。杖の代わりに鍬へ縋り、顔全体を皺にしてからからと笑うのだ。「白無垢を見たらやっとあっちに逝けるねぇ」。
そして稗田阿弥は終生を筆に捧げた。彼女に関して写真は必要ない。求聞持ではないが全て脳裏に焼き付けている。尤も、取っておく必要はないからといって処分する必要もなく、文机の引き出しを漁ったなら幾葉か収めた紙入れが底から出てくるはずだ。
文は人間を好ましいと感じている。
「どうして」
ああも早苗は綺麗なのか。
確かに彼女は人間で日々を懸命に生きている。なるほど魅力はあるだろう。しかし彼女の自由奔放な振る舞いは終末の枷を全く感じさせない。若さ故だ、そう自分を納得させることは出来た。
寿命に関して「焦ることはない」と、つい先だって諭したためもあるかも知れない。上首尾に終われば彼女は神格化を成し遂げて、信仰の途絶える日まで生きていける。自信と余裕が出るのも当然の話だ。
だからといって、
「変わりすぎよね」
眼下を眺める。朱筆がひと撫でしていったのだろう、木々の頂きは夕日の紅で濡れていた。
文は自身を信用できない。
天狗に対する世間の評は、「慇懃無礼」で「色好み」で「傲岸不遜の鼻持ちならない嫌な奴」だそうな。
半分当たり、文は常々思っている。付き合い始める前にも早苗から、慇懃無礼に近い言葉で指摘されたこともある。敬語はともかく、丁寧にしている目が怖いのだそうな。その癖どこか人を食ったような、何であろうと見透かすような、そんな目が怖いのだそうだ。
冗談ではなく文は三日寝込んだ。両目を抉ろうかと真剣に考えて「怖い」に慌てて付け加えられた「けれど綺麗だ」のひと言で思い止まった。
ねぐらが近い。翼が半ば無意識にすぼまって急降下の構えを取る。
みっつ目の傲岸不遜云々はひとつ目と似たり寄ったりであるからさておいて、ふたつ目の「色好み」。これが問題だ。半分当たり、天狗は往々にして胆力と精力に富んでいる。こればかりは否定できない。
落ち始める。
風切り羽の立てる唸りに願いを込めた。この欲を、風もろとも消し飛ばしてくれたなら。目を瞑り、いっそこのまま山肌に落ちてしまおうか、そうしたらひと月ばかりは何事もなく眠れるだろう。益体もなく考えて、そのようなこともなく、翼はやはり幾度もこなしてきた動作をなぞって家先に羽ばたき降りる。
溜め息をひとつ吐き出す。引き戸を抜けて万年床に倒れこみ、枕に頭をぽすんと落とす。蕎麦殻がくしゃりと鳴った。
半分当たりだ。枕に顔を押し付ける。
昔々のそのまた昔、三千年も遡らないそれ程遠くもない昔、文は狒々爺の色になっていたことがある。好色な猿だった。本物の猿かと思えばケツは然程赤くもなく、イボの浮いた生白くたるんだもので、顔だけが赤かった。
鼻高天狗の面目はなんとか保っていたようだ、おべっかと胡麻擂りしか能のない部下達に、鼻と魔羅の長さが同程度だと下劣な笑いを幾度も幾度も飛ばしていた。「英雄は色を好む」というが逆は必ずしも真ならず。絵に描いたような小物でも欲は十二分にあったらしい。哀れだった。
何故、そんな糞爺に付いていたのかといえば、当時ではそれなりの権勢を誇る山の主だったからだ。若かったのだ、文は苦虫を噛み潰す。
口吸いのひとつもせず、腰を振っておけば女は悦ぶと思っているらしい狒々が、ひどく哀れだった。文にも情けはある。哀れな狒々に取り入って山のあれこれに指図する程度で満足していた。若かったのだ。向上心はあるけれども天魔を目指すような気概はなく、鶏口に甘んじる程度には文も小物だった。
そんなある日に、狒々は部下を呼んで文の前に並ばせた。いい加減、精も尽きてきた耄碌だ。傍で眺めて楽しもうという腹だと何を言われるまでもなく察した。あんまり哀れだったので殺してやった。ひぃひぃ泣いて命乞いをする様が、それまでの何よりも興奮したと覚えている。
文は若かったのだ。
「早苗」
目に入れてしまった光景が脳裏にちらつく。
妖怪に「貞淑」の概念は存在しない。殆どが人間と比べるべくもない長命であり、子を成す必要に迫られることもない。であるからして有象無象と交わることに禁忌を見出すはずもなく、本能に導かれるまま快楽へ身を委ねる。天狗の多くも同様だ。では鴉天狗はどうなのかと言えば、つがいになったのなら生涯を共にする鴉の習性に違えず、誓った相手と添い遂げる。
故に「貞淑」を持つかといえば、否だ。
好意と行為は別物であり、欲を満たせるのなら相手が誰であろうと構いはしない。
「違う」
違う。私はあんな猿じゃない。
敷布団に爪を立てる。枕には犬歯を立てる。破れる寸前まで食いついて、文はようやく息をつく。
切り替えよう。これから四日は何やかやでてんてこ舞いの日が続く。こんなことで体力を浪費しても詰まらない。
早苗の話には腑に落ちない点が幾つかある。
狐の面に染み付いた匂いは妖怪のものだった。それは確かだ。しかし座敷童子のものなのかと問われれば首を傾げざるを得ない。彼ら、彼女らは専ら家に居つく。幽かに混じった樟脳の香りはそれを裏付けするものだ。けれども樟脳というのが曲者で、そもそもが箪笥や納戸に篭っていればこそ染みいる匂いだろうに、遊び盛りの童達だ、ひと所で大人しくしているとは思えない。
その後に座敷童子は一度だけ早苗の前へ身を現したのだという。「礼をしたかった」のだそうな。一体何へ感謝するというのか、「私が言いたかったのに」、早苗は憤懣やるかたない様子で詰っていた。これに不思議な点はひとつもなく、手入れの行き届いた住処さえあれば座敷童子は満足するものだ。むしろお眼鏡に敵わなければ居つくこともない。早苗の家に住み込んでいたのなら、礼は辞去の挨拶だとも考えられる。ただ動機が分からない。何故、わざわざ礼を言ったのか。義理に厚かろうともそれ以上にはにかみ屋の妖怪だ。人の前に出て口を開くほどの理由はなんだったのか。
そして何より、お守りの一件がある。話を振ると早苗は嬉々として小物入れから出してきた。物騒に過ぎて、こちらでは仕舞ったきりだったのだという。件のお守りからはなるほど、隠そうともしない八坂様の親馬鹿ぶりが溢れていた。あれでは並の妖怪なら近付く前に鼻を背ける。私だって嫌だ。下等な者なら触れた端から消し炭になるだろうことは請け合える。しかし、ならば早苗の言う座敷童子は、あの力を克服したことになりはしないか。
だとするならば、彼女は少なくとも天狗に匹敵し得る大妖か、それとも、
「ふぐぅ」
誤魔化しも限界だった。
Tシャツから恋人の匂いがする。蜜を練りこんだ桜のような、かわいく、扇情的な甘い香りだ。飛ぶ間はまだしも風に紛れていたが、寝床に転がり込んでからは逃れようが無かった。
近寄れば近寄るだけ離れたくなる。この手が募る想いのあまりに恋人を壊すかも知れない。歯止めの利かなくなった腕が力の限りに早苗を抱き締めるのだ。脆く儚い人間は、寸毫の抵抗も為せぬままに易々と手折られるのだろう。最悪の結末を避けるためにも、私は早苗の隣に立ってはならない。
ひとつを除き、全てが嘘だ。
想い人の身を案じた末に自ら退く。芸によるものでなく、愚かさに笑われているのだと夢にも思わない哀れな道化の仕事だ。そして、道化は自分だった。
愚行を貞淑と履き違える白痴になりたかった。貞淑を美徳と信じて疑わない風狂になりたかった。演じようとした道化の仕事は、臆病風を美徳に糊塗するための方便だった。
近寄れば近寄るだけ離れたくなる。綺麗だと言ってくれたこの目が、募る欲をも恋人へ密告するかも知れない。浅ましいと蔑まれたならまだ救われる。天狗は色好みだそうな。半分当たり。自覚はあるし今更だ。けれども自分の狒々爺へ感じたように、哀れだと情けを掛けられたなら。もしも、万が一にも有り得ないと分かっているが、お情けから早苗が抱こうとしたのなら、文は彼女を食い殺すだろう。血の一滴、骨のひと欠片まで腹に収めて、それから後を追うのだろう。下らない誇りが招く最悪の結末だ。
有り得ないと分かっている。早苗は優しいから。けれども文は可能性を捨てきれない。早苗は優し過ぎるから。
臆病風が吹き荒ぶ。
早苗は変わった。自分も変わるしかないのだと思う。まともに恋人の肌も見られない欲に塗れた自身を、万の方策を講じてでも変えねばならない。些細な切欠で変われる短命な人間が、ひどく羨ましかった。
文は永く生き過ぎたのだ。
色に身を任せれば快楽が手に入る、実に単純なやり取りだ。狒々爺の萎えた棒など糞掻きヘラの代わりにもならず、己の指があればそれで良かった。
けれども、今は。
肉など望むべくもない、ただ口付けが出来たなら。恋人の唇を心行くまで味わい尽くすのだ。それが贅沢だと言うのなら、重ね合うだけでも構わない。どんなにか満たされることだろう。
私は、あの猿と同類なのだろうか。
「ごめんなさい、早苗」
文の不眠に悩む理由はふたつある。
「許して」
震える指がTシャツの襟を掴み、鼻先に引き寄せる。
恋しい人の匂いがした。
***
赤くなるまで肌を磨いた。
全身に化粧水を擦り込んだ。
紅を引き直した回数は覚えていない。
この日のために用意した浴衣だ。皺や糸屑のないことを晩に十回確かめて、明け方にもう二十回見直した。
いくら振り払っても何か忘れているような思いがまとわりついて、姿見の前で立ち尽くす。
戸の外から急かす声が届いた。驚いた。もう出ないといけない時間だ。
慌て過ぎて転びかけた。部屋を飛び出す。
***
山の中腹には方形の祭祀場がある。一辺は二百間余り、三方の森は切り開き、南には緩やかな崖を臨んで、土を搗き固めた広大な地所だ。
これの周縁に白狼天狗が方陣を組んでいる。腰には儀礼用の直刀を佩き、身の丈に余る杖を片手で突いた正装だ。それぞれは二十歩の間を置き、二頭づつで背中合わせの組となって内外へ同時に目を光らせている。都合、百と四十四頭の精鋭に加え、四隅に立つのは甲乙丙丁の警邏隊隊長であり、副官を伴って杖の代わりに掲げるのは祭儀に用いる緋染の旗だ。
祭祀場の南寄りには日輪を拝する形で祭壇がある。紙垂を垂らした注連縄を張り巡らせて、季節の供えが厚く調えられている。
御前には天魔を筆頭に、次いで大天狗の諸坊が控える。そこから三歩の間を隔てて心得のある者が笙や龍笛、鉦鼓に篳篥等々を携えた格好で端座して、続くのはやはり正装に身を包んだ鼻高天狗、鴉天狗、木の葉天狗など。両翼には貴賓を迎える長椅子と屋根を備えた場が設けてあり、八方から招じた神々をこちらへ案内する寸法だ。
鉦が鳴る。
天狗の祭りはまず樂の奏上から始まる。尾を引く音の森に沈んだ頃合を見計らい、天魔が梵天を捧げ持つ。天を仰ぎ、龍を拝し、方々の神々へ祝詞を奉じる。幾多の加護と浄福に御礼の儀を言上し、末々の安寧を朗々と祈願する。
文月の半ばを過ぎて執り行われる大祭を、八方に謝し、天地の二方へ頭を垂れる意を持って「十呼祭」と号す。
何のことはない。全てはお山の威光を天下に知らしめるための茶番に過ぎない。一騎当千の白狼天狗を惜しげもなく投入して尚防備に穴のない兵力と、津々浦々の八百万を聘して尚陰りのない財力とをもってして、山に鬼の君臨しない今、「天魔ここにあり」を声高に呼ばわるのだ。
以上が百と幾らか前までの様子だった。
幻想郷の閉じられて以降は、権勢を幾ら誇ったところで妖精程度しかビビってくれる相手がおらず、張り合いの無いこと夥しいため、祭りは気の抜け放題になっている。
今日の開催日は葉月の下旬、お盆を迎えて後である。何故かと言えば、文月なら七夕で酒を呑めるし、長月ならやはり名月に会って呑む口実が出来る。葉月にはそれがない。
口実なんぞあろうとなかろうと酒席を血眼になって探すのが妖怪だ。けれどもやはり無いよりは有ったほうが尻の座り心地も良かろうというもので、閃いてしまった天魔のひと言が全ての始まり。誰も彼も名案だと褒めそやして、瞬く間に整えられた書類へ調子に乗った天魔は判をつき、その日のうちに日取りが変更された。
これが良くなかった。
幾ら山の高みにあるとは言え真夏の盛り、ここぞとばかりに太陽が参列者を燃やし尽くそうと張り切っている。誰か止める奴はいなかったのかと詰りたくなるけれど、発案者たる天魔にどうこう言える筋合いなどあるはずもなく、後にも引けず、腕といわず額といわず、ありとあらゆる箇所に玉のような汗を浮かべて祭文を延々口にしている。
「あつい」
言葉には力が宿る。言霊を発したのは次郎坊だ。
熊にも勝る大兵は暑熱に対して滅法弱い。分厚く着込んだ正装は地獄の釜と差して変わるところもなく、膝を突いた地面には汗の染みがじわりじわりと広がって、隣に控える太郎坊は「ぶっ殺してやろうか」と拳を固める。
こいつの髭を鷲掴みにして毟り取ってやれたなら、どんなにか気持ちが晴れやかになるだろう。火渡りの修行は怠るなと何遍も、それこそ挨拶代わりになるくらい繰り返しているのだ。しかし次郎坊は持ち前の不精さを発揮して「来月から」をお題目の如く唱え続けて、結局耐える根性を付けないままに干からびそうな暑気を迎える羽目になる。
自業自得で済むだけなら良いのだが、周りでただただ座り続けるしかない天狗達にとってはたまったものでなく、次郎坊の無駄に筋骨逞しい両肩からゆらりゆらりと立ち昇る陽炎は苛立ちを増幅させて、ついに場の総意がひとつに纏まる。
曰く「さっさと終われ」
無言の圧力を背中に感じ、天魔の顔が泣きべそに歪み始める。
――どうせ呑むなら腹の空き始める頃合が良い。
果たして誰が言い出したのか、頃は昼時も僅かに過ぎた夕七つ、酷暑の極限を迎えていた。
これも屋根のもたらす恩寵の故だろう、景色の歪む暑さにあっても貴賓席の面々には余裕がある。
石長姫はその性格故に悠久の時へ思いを馳せつつこくりこくりと舟を漕ぎ、ともすれば止まりがちの扇子ははたりはたりと眠気を誘う。末席に座る秋の姉妹は慣れたもので、手当たり次第に配ってもまだ余った瓜を片手に、むくむく育った入道雲と果てしない青空を見るともなしに眺めていた。水分補給は大切だと身に染みている。
そんな緊張感の欠片もない中にあって、雛はひとり幸せを感じていた。腕を伸ばさなくとも手を握り合える距離にはにとりが座る。長年、随伴の名目では控えの席までしか恋人に与えられなかったが、伴侶を理由に交渉したところ、ついに同格の席を得られたのだ。
もっと早くにも気付けたでしょうに惜しいこと、嘆息して雛はにとりをチラ見する。人見知りの河童は高貴の間に黙って座っていられる神経など持ち合わせていない。小刻みに震える唇は一文字に引き締まり、飲み込むつばきで喉は時折上下して、青ざめた顔には涙と脂汗と限界とがぽつぽつ浮かびつつあった。
ほう、雛は満足の吐息を漏らす。幸せだった。
ごめんなさいね、にとり、けれどもとてもかわいいわよ。
やけにつやつやしてるわね、神奈子は対面の厄神を遠目に見つつ普段通りの格好で頑張っている。初めはタンクトップにショートパンツでキメようかとも考えたが自慢のフランクさは場にそぐわず、「やっぱり威厳も大事よね」とひとり納得した結果だ。
しかし祭儀の進むにつれていや増す暑さに耐えかねて、懐から百均のゴム紐を取り出した。こんなこともあろうかと密かに忍ばせておいたのだ。肩に達するセミロングは手際よく一本に纏められ、後れ毛を掠めていくのは汗の一滴も払わないぬるま湯の如き微風だけれど、下ろしたままの髪が蒸し風呂になるより余程ましだと諦める。
胸元も緩めたい。ぶら下げる真澄の鏡は重かった。
片や諏訪子は「礼儀など牛に食わせるものだ」という信条の元、下っ端天狗に持ってこさせた茣蓙の上にぐでんと寝そべり、早苗のお古であるど真ん中にけろけろけろっぴのプリントされたTシャツとカーキ色のキュロットスカートは、隣に座ってふんぞり返る我慢大会でもしてるのかしらんと疑いたくなるほど着込んだバカに「どこからどう見てもお昼寝中の小学生」だと囃されたが、あとでひん剥いてやれば気の済む話なのでそんなもんに構う必要は露ほどなく、我が帽子はテンガロンハットであり、額に乗せて目元を覆えばクールな女バウンティハンターに早代わりだとうつらうつら夢を見る。
そんな身内の恥を尻目に、早苗は石像になったが如く身じろぎもせず両手を膝の上に重ねて座っていた。その身を鎧うのは過去四週間ちくちくやってようやく縫い上げた勝負浴衣であり、皺のひと筋も付けないように背筋をぴしりと正しつつ、祝詞へ耳を神妙に傾けている。
ぶっちゃけドラクエの「ふっかつのじゅもん」だった。
真言なのだろう、夏空に響き渡る天狗の祝詞は「おんばさら」云々「おんそわか」云々ばかりで、神道の巫女には畑違いもいいところであり、早苗はひと言も理解できないままに、けれども迫り来る眠気へ抗いながら真面目に聞く振りを懸命に続けている。中の中から上の下をうろうろする程度の成績だのに、「なんとなくそれっぽい」というだけの理由で学級委員長に推薦された挙句、ノってしまって丸々一年勤め上げた経験が物を言った。
とさり、天魔の声と蝉時雨のみだった静寂が、唐突に破られた。
朦朧とする頭を振り振り早苗は何事かと音のした方へ首を向けるも、群集越しではなんともかんとも判別がつかず、しかも気にしているのはどうやら自分だけだと周りの様子から察し、慌てて正面に向き直る。
実は密かにはたても見ていた。
救護班の駆け寄る先へ目を凝らし、倒れたのは椛ではないと当たりを付けて、ふうと胸を撫で下ろす。
祭りの最もたる被害者は白狼達だと毎年のようにはたては思う。祭儀中、がら空きの裾野を守る者に関しては気の毒に感じる必要もないのだ。かんかん照りに炙られながら山へ侵入してくる酔狂のいるはずもなく、お偉方の出払っている今、一種の休暇と捉えて誰も彼もが五体と尻尾を地面に投げ出しだらけている。
小うるさい目付の役目を負うはずの鉋などは朝寝をのんびり楽しんだ後、滝裏の詰所に着いて荷物を置くなり外へ飛び出し、木の根を枕に木の葉を日傘に惰眠を貪り始めた。長い二度寝がついに昼寝へ成り代わる頃、南へ居を移した日光に顔をじりじり焼かれ始めてもまだ起きず、寝汗にまみれ、鼻の頭と眉間には深い深い皺を寄せ、尻尾で蝿を打ち払い、何かに追われる夢でも見ているのか耳は時折弾かれたようにびくりと跳ねる。「欠け刃のカンナ」という二つ名を頂戴するほどのぐうたらなのだが、話の分かる上司だとこれはこれで結構な人望があった。
反対に祭儀の警護へ当たる者は全く様相を異にする。正装の条件は天狗ならば皆一様なのだけれども、それに加えて白狼には「天狗の威を示せ」との古い古いお達しがある。今更何を脅しつけたいのだとか、こんなところで見栄を張ってどうしたいのだとか不満は方々から上がっているのだけれども、慣習とは恐ろしいもので、何年経ってもいっかな改められる気配がない。
これは教練の代わりなのだと渋々ながらも受け入れるものがいれば、気紛れな天魔様はお触れを忘れてしまったのだと嘆き諦めるものもおり、いやいやしっかり覚えているけれども引っ込みが付かなくなっただけなのだと言うものもいる。下っ端達の間では諸説が飛び交っているけれど、議論はいつも「とにかくどうにかして欲しい」というぼやきで締めくくられる。
元来が夏毛だろうと冬毛だろうと年がら年中ふさふさしている狼達だ。暑さへの脆弱っぷりは折り紙付きで、「威を示す」べくその身を重厚に鎧った結果、例年二、三人は日差しに中って救護班の世話になる。
要領の良い、手抜きに長ける楓あたりは、得るもののない我慢比べに付き合っても馬鹿を見るだけだと様々な工夫を凝らしているのだ。例えばなめし革の胸当てには布切れを挟んで少しでも蒸れないように隙間を作っているし、上衣と袴は重苦しい支給品ではなく風通しの良い紗のひと揃えに替えてある。
けれども真面目の髄で煮締めたような頑固狼である椛にあっては、楓が何を言っても首を縦に振ろうとはせず、朱塗りの手甲から鈍色の鉢金から全てに渡って一分の隙もない完璧な警護兵だった。
だからして、はたては椛を思って気が気でない。炎天下、抱きついただけで暑さにへばる狼だ。日中をサラシと袴のみのほぼ半裸でうろつくのは目が潰れそうになるから止めて欲しいし、「はたて避け」なのかと真剣に悩んだけれども、演技ではなく本気で倒れた時には肝を潰して深く深く反省した。
そんな恋人が何を血迷ったのか全身全霊の厚着で立っているのだ。今倒れるか、もう倒れたか、そわそわと落ち着きもなく幾度となく振り返り、仕舞いには隣の文から頭をぺしりと叩かれた。
そんな不安に暮れるはたての視線を真っ向から受けて立つのは楓であり、三歩の後ろに立つ椛を介抱するのは、ろくすっぽ名前も覚えていない救護班の誰かではなく、付き合い始めてひと月経たない鴉天狗の恋人では尚更なく、同族であり同期であり同僚であり数百年来の親友であるこの自分の役目だと気炎を吐いていた。
十にふたつ、過去十年の間で椛が昏倒した回数だ。決して多くはないが、こと今回に限っては必ずあると楓は踏んでいる。腹立たしいことに、はたてがいるのだ。
この祭りは椛にとって彼女へ披露する初の晴れ舞台であり、この拵えは仕事振りを恋人に褒めてもらいたいがためであり、頭も撫でてもらえたなら花丸で、頑迷なまでに楓の勧めを断ったのも、朝日の顔を出す前から起き出して尻尾に櫛を入れ始めたのも、全てははたてに見て欲しい一心故だった。
親友は必ず倒れる。四季の幾百巡ったかも覚えていないくらいの長い時間を楓は共に過ごしてきたのだ。椛のことなら何でも分かる。問題はそれがいつ起きるかだ。幾ら距離を離していようとも危急に会った鴉の翼は侮れず、油断したならはたてに先を越されるかも知れない。それは面白くない。面白くないどころか椛を看病する折角の機会をふいにしては悔やんでも悔やみきれず、さりとて倒れる瞬間に備えて気を張り続けていては先に自分が参ってしまうかも知れない。
ならば、ふいと楓の意識が手にした杖に向けられた、私から仕掛けてやろうかねぇ。
三歩は必殺の間合いであり、しかし抜けたところがあるとは言え椛は五分を競う手練れであって、万が一にも仕損じることのないように楓は内息を整える。
親友と恋人に引っ張られる大岡裁きの運命が必定になりつつあるとも露知らず、椛は綺麗なお花畑の只中に立っていた。
赤い紅い花だった。
この場所に至った経緯は定かでなく、途方に暮れてひとまずとぼとぼ歩き出す。
千里眼の彼方に人影を見た。ふたつ結いの髪と柘榴のような瞳がはたてさんみたいだと思い、腕を枕に花を弄る怠惰な様は楓みたいだとも感じ、藁にも縋る心境も手伝ってぶんぶん尻尾を振り回しながらついつい駆け寄り声を掛けてしまい、ものすごく邪険にあしらわれた。
貴重な休憩を妨げてしまったらしく「あっち」とだけ指し示されて、尻尾を垂れ下げ耳は折り、すごすごと来た道を引き返し、最中に発破のような音が聞こえた。
山が噴火したかという轟音の犯人探しをしたのなら、祢々子の元に辿り着く。九州一の誉れも高い九千坊を、鼻であしらう粋な女傑はチャキチャキの下町娘だ。三度の飯より祭りが好きで、お祭りさわぎが大好きで、喧嘩と花火は祭りの華だ。付け加えて言うならば、河童の例に漏れない生まれ付いての職人だ。
そんな姐御を追いかける苦労は並大抵のものではない。鎌柄は祢々子に届かなかった我が手を見詰め、止め切れなかった自らの不甲斐なさに嘆息した。
「好きこそ物の上手なれ」とは言うものの、「上手」が「好き」を極めたならば果たしてどうなるのだろうか。
知らぬが仏だ、我が身をもって知ってしまった鎌柄は心の裡に呟いた。
江戸っ子は気が早い。祢々子を知る皆が皆、「いつか必ずやるだろう」と戦々恐々びくつきながらもこれまで激発してこなかったのは、腹心でありお目付役たる鎌柄の涙なくしては語れない尽力の賜物であって、何故今になって捨て身の制止すらも蹴り倒す暴走に祢々子が至ったのかと言えば、一瞬後にはひっくり返っていてもおかしくなかったにとりの窮状に帰結する。
呼吸も辛いこの炎暑と初めてだという緊張の故だろう、にとりは潤んだ目をあてどなく泳がせて、首回りまで上気しながら息も忙しなく喘がせていた。まったくもって痛々しい。ついに体を支えることも覚束なくなったのか、震える腕で鍵山様へ縋りつく次第を迎えては、確かに一刻の猶予もなかったのだと鎌柄は祢々子を責め切れない。責めるべきはにとりを涼しい場所へ連れ出すだけで事足りた話を、わざわざややこしくしたその手法だ。
込み入った事情こそあるものの、結局は人情に溢れる喧嘩っ早い下町気質に起因していて、風祝に対する八坂様の情と似たり寄ったりのものであり、窮地のにとりを救おうと頭に血を上らせたまま突っ走った挙句の惨状であり、詰まるところ我らが姐御は大の付く親馬鹿だった。
打ち上げ時の爆風にひとたまりもなく吹き飛ばされた鎌柄は、天魔様にどう言繕ったものかと背中に柔らかな草を感じつつ空を眺める。
まだ夕暮れも程遠い明々とした大空に、大輪の花が咲く。
自由気ままな河童達を、その技量と気風の良さで纏め上げる祢々子の腕は確かなもので、昇りに昇った六尺玉は赤の花弁に金の枝、湧き出す緑は青へと煌き、広がる様はまったき円の、お山をひと呑みにするどでかい花火だった。
天魔は泣きそうだった。
刺さる視線で背中は痛いし容赦のない日差しで干し天狗になりそうだし、駄目押しにこの爆発だ。頭の奥でぐあんぐあんと残響が暴れ回って翼はびりびり震えてる。おまけに胃の腑もむかむかしていて、事ここに至っては、もはや自分の言葉に誰も耳を傾けようとはせず、聞いてくれても寝言以上に意味のあるものと受け取ってもらえないのは火を見るより明らかで、これより他に仕方がない。仕方ないんだ。
天魔はやけっぱちの潤んだ声で、祭儀の結びを空へ発する。
太陽が弾けたのかと腰の抜けるほどに驚いたが、それ以上に驚いたのは祭儀をぶった切る横紙破りな結の怒号で、太郎坊以下並み居る配下は全員が、「それでいいのか」、疑問を載せて恐々と顔色を窺うけれども天魔は勝気な吊り目に涙を浮かべ、文句あるかと辺りをぎろり、睥睨するに留まった。
射るような視線を受けて、とうに飽きていた神々は理解の色を示しながらもいそいそと席を立ち、「じゃあいいか」、残された天狗衆も遠慮しいしい三々五々に散っていき、そんな光景を前にして思った通りだと自分に強く言い聞かせつつ、しかし天魔は傍らの経机を空の高くへ力の限りに蹴っ飛ばしてからどすんと座ってぐじゅぐじゅと鼻をぐずらせ、僧正坊がさてこいつはちぃとばかし骨が折れそうだなぁと白髯をひとしごきして溜め息もやっぱりひとつ、悠揚迫らぬ足取りで、小さな頭首の小さな小さな胡坐姿へ歩みを進めた。
祭りが始まる。
***
りんご飴が好きなのだそうな。
――こんな時くらい思いっ切り羽を伸ばして来な。
諏訪子の手で背中をどやされ、早苗は目印の一本松に向かった。
「祢々子はりんご飴がほんとに好きでさ」
だからなのだ、にとりはぐいと胸を張り、崖の向こうへ視線を送る。
天狗衆の顔を立てて不満を溜めに溜め込んだ河童の総大将は、ある日前触れもなく爆発した。そもそも花火のひとつも打ち上げないところから気に食わず、その上にりんご飴なくして何が祭りか、そう喝破したらしい。もはやいかんとも勘弁ならず、斯くなる上は自分が夜店を開いてくれると拳を振り振り息巻く姿は、悪鬼羅刹を前にした仁王ならば然もあらんという剣幕だ。
止められようはずもない。鎌柄は泣く泣く大天狗に渡りをつけて、不憫に思われたのかは僧正坊のみぞ知る、滞りなく許可が下りたそうだ。
喜び勇んでとんかんとんかん金槌を振るいだした祢々子の背中に「姐さんだけにやらせておいては男も女も廃ってしまう」と若衆がこぞって屋台を持ち寄ったのを皮切りに、河童も河童以外も特に陽気な奴らが我も我もと加わりだして、規模は年々大きくなって、
「こんなになったんだ」
祭祀場の南端、崖に臨む一本松の足元からは山麓をすっかり一望できる。まず目を惹くのは霧の湖と流れ込む川の青だ。その周りを囲む木々の青は果てしなく続くかと思われた頃にふっつり途絶え、野原の黄緑、田畑の緑と里の薄茶へ次々と入れ替わる。
地平線の遥か彼方とは言わない、崖下から幾らも離れていない場所に丸い広場があった。田舎の、早苗の小学校と運動場を合わせたものより、まだふた回りも広かった。広いけれども狭苦しい。にょきにょきと無秩序に育った屋台達は、蜘蛛の巣状に通りの網を張っている。
網目には七色の水滴が垂れていた。暮れ始めたオレンジ色の景色にあって、尚煌々と篝火が燃えている。赤や黄色の提灯に、ぽつぽつ咲いたぼんぼりは芽吹いたばかりの新緑や春爛漫の桜を映し、目を凝らせば橙から紫まで十全に揃ったのぼりの行列も見えた。
「すごい」
ほうと早苗の口から息が零れる。来る途中で遠目にしたものは、板や丸太の寄せ集めとしか思えなかったのだ。けれどもこの変わりようは明かりの灯った故だけではないだろう。
通りには人が溢れていた。黒い点の往来する様子しか分からなくとも、早苗は騒ぎ浮かれる人々を楽々と想像できる。河童を始めとする山の妖怪、いたちや猪、熊に猩々などの妖獣達と、いずれとも判別の付かない姿は八百万の神々だろう。もしかしたら後片付けをサボった天狗も少しは混じっているのかも知れない。
そんな、それこそ七色ではとても足りない種々雑多な人々が、足の踏み場もなくなるほど集まってお祭りにはしゃいでいるのだ。眺めているだけでも肌まで熱気が届くように思われて、ぶるり、早苗は身震いする。
そして、こっちでは欠かせない肝心要の催しが、
「始まりましたね」
麓から吹き上げてくる風が、響き渡る盛大な「乾杯」を早苗の立つ崖際まで押し上げた。
広場のほぼ中央には、ぽっかり空いた円がある。中には人が詰まっていて今にも溢れ出ようとしている。屋台の群れが円を作っているはずなのに、むしろ宴会の輪に無理やり押しのけられたような格好で、流石だなぁ、眺めて早苗は苦笑した。
でも、早く混ざりたい。今の私ならどれだけ呑んだって大丈夫な気がする。全身の隅々まで回った酔いは、ガソリンになって私を動かし続けるのだ。
「私達だけで先に行ってもいいのだけれど」
「入っちゃったら最後だからねー。雛に会えないお祭りなんてもうやだよ」
その通りだ。文さんに会えなくなるなんて、血の涙を流しても飽き足らない、最悪の結末だ。
「それでなくったって、うっかりしたらはぐれちゃいそうだしさー」
「そうね、そうならないように、手を繋いでいましょうか」
「うんっ」
どうして、早苗は奥歯を噛み締める、このふたりはこんななのだ。最近、特に熱くなったような気がする。
普段なら素直に羨ましいと思えるけれど、今は無理だ。このまま煽られ続けたなら血に飢えた野獣と化す自信がある。そしてようやく姿を現した文さんに飛び掛り、ところ構わず噛み付くのだ。でも口の中に広がるのは、きっとマカロンみたくふわふわした甘い味。
幻でしかない想像で早苗の飢えた心が余計に飢えて、早々に指を絡めてしまったふたりを視界には収めておけず、早く来てください、救いを求めて方々に視線を走らせ、
「早苗に、あやや、とにかくあれです。お待たせしました」
「お待ちかねだよ天狗様」
「三人とも、お疲れ様」
誰?
「何かありましたか。早苗さんのそのような顔は久しく見ていませんでしたね」
何かあったわけじゃなくて、でも、
「昼の椛と同じなんじゃないの。だってほら、私のことも全然分かんなかったほどだし。人間の癖に帽子くらい被りなさいよ」
「ああ、なるほど。ひとまず横にしましょうか」
「でもさっきまでは元気だったよ」
違う、違います。誰かなんて分かります。でも、
「そう凝視されると照れますよ」
全然照れてないじゃないですか。言われた途端、気恥ずかしさに襲われて早苗は天狗達に背中を向ける。文さんがかっこいいなんて聞いてません。何なんですかその格好。
確かに、正装だということは知っている。さっきまでずっと見てきた。けれども平伏する姿ばかりで、文らしき後ろ頭はいたものの立ち姿には一向にお目にかかれず、いざ前にすると破壊力が段違いだった。
普段と変わらないのは色合いくらいで、それも赤い頭襟は脱いだらしい。白い狩衣ぽいけど何か違う、早苗は文の格好と父の仕事着を見比べて否定した。全体的にすっきりしてるし、前後の垂は幅がかなり狭くなってて、そうだあれだ、チャイナドレスだ。
お陰で体の線が綺麗に出てて何だか変に凛々しくて、いつものブラウスじゃない健康的なエロさとかっこよさで目が潰れそうだし、緋色の帯は細くてしなやかな腰を余計にエロくしていて、黒の変則袴は前を開けたパレオにしか思えなくて歩いたら太股が絶対見える。
「どうしたのですか。待たせすぎたというのなら謝ります」
「罪な女だよね」に「うるさいですよ」を返しつつ文は恋人を覗き込み、なんでそんなに素直なんですか、恋人に間近から覗き込まれて早苗は口を二、三度開け閉めしてから、
「違います」
「違う?」
「違うんです、私は何でもないんです、とにかく着替えて来てくれませんかちゃんと持ってきてますよね」
「それはそうですが、これ以上待たせるわけにもいかないでしょう。こう見えても脱ぐにはなかなか手間が掛かるんですよ。皺を付けられませんから面倒なのです」
「着続けて汗を吸わせるほうが余程ましです」、几帳面なのかずぼらなのかどっちかにしてください、それに椛さん達は着替えてるじゃないですか。付け加えられたひと言に早苗は理不尽を感じて睨みつけようとし、文の顔が近くにあった。
とても困っていた。眉は落ちて、口端もやっぱり落ちて、柘榴のように赤い瞳が「すみません」を言っていた。
いつもそうだ。
不意打ちで大人になるのだ。
初めてキスをした時なんか、たこ焼き屋の看板よりも真っ赤になって、今でも頬にしか出来ない完全無欠な初心の癖に、ショートパンツを履かせたら「足が出てる」なんて理由で涙目になりながら抗議する底抜けの乙女な癖に、やっぱり文さんは大人なのだ。数百年じゃ足りないくらいに長生きしてる妖怪だ。
「ずるいです」
「何がですか」
ずるい、ほんとにずるい。
これではまるで自分がガキンチョみたいではないか。「みたい」ではなく、実際にそうなのだ。高校生の彼氏を作ってきゃあきゃあ騒ぐ中学生だ。恋に恋する女の子だ。
「待って早苗、本当にどうしたのよ。ああもう汗拭いた手拭しかないってのに」
違う。私は絶対違う。文さんは私の彼女で、私は文さんの彼女なのだ。
俯けていた顔を上げ、文の姿を真正面に捉えた。皺を嫌ったはずの白い袖を持ち上げ、早苗の目元を拭おうとしていた。やっぱり大人だ、早苗はますます惨めになって、こみ上げる嫌な何かを跳ね返そうと反抗心が熱を持ち、熱を片っ端から反抗する手段を探す気力に変えて、ついに文の首を見つけた。
私達は恋人だ。
「あやっ」
マカロンの甘さでは当然なくて、塩辛い汗の味だった。
「あらあら」、「へぇ」、「今日は随分と大胆ですね」。
友人達の存在など埒外だ。抱え込む形で文の背中に腕を回し、早苗は全身全霊の力を横隔膜へ送り込む。まだ足りない、もっと強く。
初めて故に加減が分からず、「ちょっとやそっとでは付かないのだ」、自慢げに語る級友の口振りを思い出し、これでどうだ、唇で上下に肌を挟み込み、肌は逃げ、お腹が震えてる、抱き寄せて、ほっぺが痛い、押し付け、私の顔、ひょっとこになってるんだろうな、ひと際強く吸い上げて、戻らなくなったらどうしよ
「んぅっ」
落ちる。
流れて地面、近い、目の前、止まった、止めた。手のひら突いてた。
「えっと」
文さんすみません、思いっきり馬乗りだ。けれども、今は。
ずきずきするこめかみも、ばくばくする心臓も気にしてられなかった。早苗はぐっと首筋に顔を寄せ、なんか丸い。唇の形じゃない。
でも、うん、ちゃんと赤い。
「ほんとうに、なんなのよ」
これは何だろう、文さんが倒れた? 倒れたというより、崩れ落ちた?
涙目の文さんかわいいなぁ。少し悪い気もするけれど、とにかく、
「これで許してあげます」
私達は恋人なのだ。
***
七転び八起きの精神で悪戯を繰り返す氷精ではなく、冬の間方々に暢気を振りまく妖怪でもない。「カキ氷」と言われれば、お山に住む人々は一匹の子狐を思い浮かべるようになってきている。
子狐は名を六華と言う。本当は「りうふぁ」だったのだけれども、呼び辛いと師匠が言って「りっか」になった。母の名付けてくれた由来は知らないし、知る前に大陸へ残してきた。だからというわけでもないけれど、六華はまるで気にしていない。響きがとても綺麗だから、響きがとても気に入っているから六華は由来なんかどうだって構わないのだ。
そんな子狐の六華には少し変わったところがある。先っぽのちょっぴり欠けている左耳もそうだけど、もっと変わったところがある。客から水を向けられたのなら踏み台の上に立ち、手回しハンドルでごりごりやりつつ、氷が如何に綺麗で美味しいかを嬉々として語り出すのだ。言葉に篭る情熱はひどく暑苦しいもので、最後には決まって師匠の重くて硬い拳骨が脳天に落ちてきて、六華の口はようやく止まる。
こんな風に今では随分慣れているけれど、始めは苦手だったのだ。河童な師匠に勝るとも劣らない人見知りで、氷目当てに来る客は河童もいるけど白狼天狗もたくさんで、狐の六華は狼がとても苦手だった。風の遠くに狼を嗅ぎつけただけで、全身から汗が噴き出すくらい苦手だった。店先に狼の姿を見たなら思わず変化が解けてしまって、そのまま四つ足で逃げ出すくらい怖かった。一度などは、逃げようとした拍子に陳列棚へ頭をぶつけ、雪崩打つ硝子細工を浴びながら目を回したこともある。
目を覚ますと目を三角にした師匠がいて、思った通りに大目玉をもらった。けれどもお説教は二言、三言で止んでしまって、狼みたいな唸り声が代わりに聞こえた。師匠の声はまた気絶しそうなほどに怖かったのだけれども、逃げたらきっと叱られるから六華はじっと座ってた。そうしたら突然、思いもしなかったことに、息が詰まりそうになるほどきつくきつく抱き締められたのだ。あんまり突然だったし初めてのことだったからとてもびっくりしたのだけれど、師匠からは離れ離れになった母の匂いが何故だかして、六華はちょっとだけ泣いた。あんまり泣いたら師匠にきっと叱られるから、六華はすごく我慢してちょっとだけしか泣かなかった。
その日の夜は、六華の大事な大事な思い出だ。師匠の寝床に潜り込んでも、ちっとも蹴り出されなかったのだ。
そして六華はたくさん泣いた。
明けて次の日、昨日の狼が店に来た。もちろん六華は逃げ出して、柱の後ろで師匠と狼の話を聞いた。どうやら責任を感じたらしい、六華に会って謝らせて欲しいのだと狼は告げた。もちろん嘘に決まっているので六華は工房のずっと奥に隠れようとしたけれど、師匠がいるから我慢して、柱の後ろにずっといた。
――手前の餓鬼が仕出かした今度の不始末、あたしの薄汚い皿一枚こっきりじゃあ天秤の到底釣り合わない無沙汰を御前に、泥に塗れた甲羅の浄へ転ずるが如き清澄広大なる御寛恕にござんすが、
師匠は前置きをした上で、六華には会わせられないと告げた。難しい言葉ばっかりで何を言っているのかさっぱり分からなかったのだけれども、六華はすごく嬉しくなった。あんまり嬉しくて、むずむずする尻尾に思いっ切り噛み付いてしまったほどだ。
「どうしても?」と重ねて訊ね、「どうしても」と師匠に返された狼は、何も意地悪をしないで帰っていった。きっと師匠が怖かったから狼は六華に意地悪できなかったのだ。
その日の夜は、やっぱり大事な思い出だ。寝床に潜り込んだ六華を師匠が抱き寄せてくれたのだ。師匠はやっぱり母の匂いがして、六華はやっぱりたくさん泣いた。
明けて次の日、河童が来た。客ではなくて、狼の使いらしい。もちろん六華は逃げようとしたのだけれど、師匠と同じ河童だから我慢した。
河童は師匠の知り合いだったらしい、六華の前で師匠と河童は話し始めた。
――なんかどうしても謝りたいみたいでさ、でも怖がらせたらダメだって聞かなくて、めんどくさいよねぇ。けど元々私がかなめの店を教えたんだから仕方なくて。ほんとは弁償もちゃんとしたいんだって、でも断られちゃったでしょ。だからこれ、
河童はリュックをごそごそやって、六華に変なものを手渡した。師匠は六華を見て頷いてくれたので、悪さをするものではないようだ。それに狼の匂いもしなかったので六華はもらうことにした。河童はそれだけで帰っていった。狼の使いでも、きっと師匠の知り合いだから六華に意地悪しなかったのだ。
変なものはおもちゃだった。取っ手を握ってぐっと力を入れたなら、先っぽの拳骨が前に伸びる変なおもちゃだった。あんまり変だったのでおもちゃをぎいぎいやってたら、夕ご飯を知らせにきた師匠の顔に拳骨が当たった。師匠はすごく変な顔をした。
その日の夜は、前の晩と前の前の晩といっしょにいつまでも大事にしたい思い出だ。拾われて、師匠の家で暮らすようになってから、六華は初めて笑ったのだ。六華は六華の笑い声にびっくりした。あんまりびっくりしたので口を両手でふさいだままきょときょと部屋を見回して、困った六華は師匠を見上げた。
おもちゃの拳骨ですごく変な顔になった師匠の顔はもっと変な顔になっていて、それから師匠も初めて笑った。笑って笑って顔をくしゃくしゃにして笑いながら、六華をぎゅっと抱き締めてくれた。六華も笑って、お腹が苦しくなるほどたくさん笑って、師匠はやっぱり母の匂いがしたのでたくさん泣いた。
明けて次の日、六華は師匠に初めてのお願いをした。昨日の河童に会わせて欲しいとお願いしたのだ。六華は河童に「ありがとう」を言いたかった。変なおもちゃは素敵なおもちゃで、六華の大事な大事な宝物になったのだ。けれども師匠はそれだけでは駄目だと言った。河童に「ありがとう」を言うのはとても良いことだけれども、狼にも言わなければ駄目なのだそうだ。「ジンギニモトル」のだと師匠は言った。よく分からないけれども、とにかく駄目なのだそうだ。
六華は困った。狼は怖いのだ。狼はとても悪い奴に決まっているのだ。尻尾をぐるぐる追いかけながら困っていたら、目が回って六華は倒れてしまった。「どうしても?」と重ねて訊ね、「どうしても」と師匠に返された六華は、困って困って困り切って、がじがじかじっていた尻尾がよれよれになるまで困り抜いて、けれども最後には勇気を出してお願いした。どうしても「ありがとう」を言いたかったのだ。「ありがとう」を言わないと、むずむずする尻尾が爆発してしまいそうだったのだ。けれども先っぽのちょっぴり欠けている左耳も、やっぱりすごくむずむずしたので痛くなるほどがりがり掻いた。
その日のうちに、六華は河童の家に連れて行ってもらった。かんかん照りで暑い日だった。もう昼になっていたからとても暑くて、六華はすごく汗を掻いた。河童の家に着くと狼の匂いがしたので、六華はもっと汗を掻いた。師匠の着せてくれた綺麗な着物がぐっしょり濡れてとても悲しくなった。あんまり悲しいし怖かったから、六華は泣きそうになった。けれどもきっと狼はいなくて匂いだけだから、泣きそうになった六華は尻尾がびりびりするほど我慢した。
師匠は引き戸をとんとんやって、中から河童がぴょこんと出てきた。
――昨日の今日だけど悪いね、うちの洟垂れが礼を言いたいってんでさ。ちょいと聞いてやっておくれよ。
師匠の後ろで六華はもじもじしていたのだけれど、背中を押されて前に出て、顔を上げてもやっぱり伏せて、上目に見たら河童が微笑んでくれていたから思いっ切り息を吸って吐き出して、もういちど胸いっぱいに吸い込んで、耳の先っぽから尻尾まで六華の全部をぴりぴりさせて、「ありがとう」をとうとう言った。
――どういたしまして。怖がらせちゃったお詫びなんだけどねー、気に入ってくれたんだったら冥利に尽きるってもんだね、うん。とりあえず上がってよ、冷たいお茶出すから。それにおもちゃなら他にもいっぱいあるからさ、私のお古ばっかりだけどよかったら持ってって。
「ありがとう」をとうとう言えたからとても嬉しかったし、河童の笑顔はもっと「ありがとう」を言いたくなるほど嬉しかったし狼の匂いがするからもう帰りたかったのだけれども、師匠は中に入ってしまったので六華も追いかけた。
追いかけると中は暗くて、あんまり暗いから六華は目をぱちぱちやった。暗さにちょっと慣れてきたので師匠を探した。すぐ目の前の土間に座っていたので六華は師匠の背中に張り付いた。
――改めて御免こうむります。先だってのお心砕きはまこと恐悦至極にて、
狼が奥にいた。
六華は逃げようとしたのだけれど、師匠の腕に捕まった。師匠はどうしても放してくれなかった。どうしても「ありがとう」を言わなければ駄目なのだと、六華はとても怖くなった。あんまり怖くてぶるぶる震えて、がちがち鳴る歯が痛くなったほどだ。
どうしても師匠は六華を放してくれなかったのだけれども、いつまで経っても背中を押されなかったし前に押しやられなかった。
だから六華は我慢した。がちがち鳴る歯もじわじわ出てくる嫌な汗もぶるぶる震える尻尾もぺたんと髪に隠れた耳も、六華は全部我慢した。師匠がいたから全部全部我慢した。師匠が手を握っていてくれたから泣きそうでも全部全部我慢して、涙でほとんど見えなくなった前を見て、六華はとうとう「ありがとう」を言った。
――六華でしたね、怖がらせてすみませんでした。こちらこそ、ありがとう。
その日の夜は、六華の記念日になるほどの思い出になった。師匠は初めて褒めてくれたし、うんと褒めてくれたし頭も撫でてくれたし抱き締めてくれた。
それに夕ご飯はごちそうだった。お揚げとほうれん草のおひたしに、お揚げがいっぱい入った茗荷のお味噌汁と、甘い甘いお稲荷だった。いつまでもいつまでも、お揚げの味を覚えているくらいにごちそうは美味しかった。
その日の夜も、六華は寝床へ潜り込んで、師匠はやっぱり抱き締めてくれた。
もぞもぞ動いて師匠の腕にすっぽりはまって、師匠の胸に顔を埋めて、「もしかしたら」、六華は思う。
昼間の狼はとても優しい声をしていた。母ほど優しくないけれど、母みたいな優しい声で「ありがとう」を言っていた。
もしかしたら、狼も悪い奴ばっかりじゃないのかも知れない。
もしかしたら、狼にだって良い奴はいるのかも知れない。
もしかしたら、もしもあの時の狼が昼間の狼だったなら。
もしかしたら、母は、もしかしたら、もしかすると、
母は、死ななかったのかも知れない。
その日の夜に、六華は初めて声を出して泣いた。
六華の母は死んでいたのだ。六華を隠れさせたままどこかへ逃げて、それっきり会えないだけじゃ全然なくて、やっぱり母は死んだのだ。やっぱり母にはもう会えないのだ。
わあわあ泣く六華を師匠は優しく抱き寄せてくれたのだけど、母の匂いは全然しなくて、でもやっぱり匂いはして、師匠の優しい匂いだった。六華は師匠の匂いが大好きになった。大好きになった師匠に抱き締められて、大好きだった母を六華は何度も何度も呼び続ける。
六華はずっと泣き続ける。
あの日の夜から、長い長い時間が過ぎた。
あれから色々あったけど六華は今日も踏み台の上に立ち、手回しハンドルでごりごりやりつつ、氷が如何に綺麗で美味しいかを嬉々として語るのだ。
師匠は滅多に褒めてくれないけれど、毎晩ぎゅっと六華を抱き締めてくれる。暑い時期だとふたり分の暑さのせいでとても暑くなってしまうから、六華は離れようとするのだけれど、師匠はどうしても放してくれない。そんな時、六華が師匠で師匠が六華になったような感じがして、すごく変で、師匠の匂いを嗅ぎながら六華はちょっと笑ってしまう。六華は師匠が大好きで、師匠も六華が大好きでいてくれるのだ。
材料代を差し引いたカキ氷の売り上げは、全部六華のものなのだと師匠は言う。だから六華は六華のお金で年に一度お供えをする。六華は六華の記念日を、母の命日に決めた。本当はいつだったのか六華は覚えていないから、あの日に母は死んだのだ。命日のお供えはもちろん甘いお稲荷で、六華は大好きな母といっしょにごちそうを平らげる。大好きな師匠もいっしょにごちそうを食べてくれる。六華が決めた記念日は大好きだった母の命日で、師匠を大好きになった思い出の日なのだ。
そんな命日で思い出の大事な大事な記念日を、六華はもう二回も迎えている。
今の六華の目標はカキ氷の売り上げで、師匠の誕生日に贈り物をすることだ。去年、贈り物をしたら師匠はすごく変な顔になったのだ。六華は師匠の変な顔が見たくて見たくて待ちきれない。大好きな師匠の泣くのを我慢しているような変な顔はすごく面白くて、六華はすごく嬉しくなるのだ。あんまり待ち遠しいせいで、想像してたら師匠に変な顔だと笑われるくらい六華も変な顔になってしまう。そんな風に師匠が笑ってくれるせいで、六華はますます待ちきれなくなる。
だから六華は狼がたくさん来る氷売りを、今日も明日も明後日も、ずっとずっと頑張るのだ。
だけど六華は狼がそんなに苦手じゃなくなったし、狼にだって良い奴はいると知ってるし、悪い奴はほとんどいないし馴染みの客もたくさん出来た。今では巻きつけた手拭越しでも頭を撫でられたなら、嬉くなるくらいになっている。
そして、頭を撫でてくれる、顔馴染みになった初めての狼には思いっ切りおまけして、おまけじゃない思いっ切り八重歯を剥いた飛びっ切りの笑顔になって、まだまだ子狐の六華は舌っ足らずに叫ぶのだ。
「おありあとーござーい!」
***
六人前の御足を払う。
カキ氷に加え、六華の頭も差し出された。焦げ茶の髪を掻き分けて薄藁色の尖がり耳が忙しなく動いている。
「はい、ありがとう」
期待に応じて頭を撫でると六華はくふくふ笑い出す。
「書き入れ時だというのも分かりますが、根を詰め過ぎないように気を付けてくださいね」
力の限りに抱き締めて子狐を窒息させようと頑張る早苗を諌めつつ、椛はカキ氷をお盆に載せる。盛りに盛られた河童細工の波先切子は、どう工夫しても三皿までが限界だ。半々に手分けして慎重に歩き出す。
「これ、本当にすごいですね」
「ええ、六華は加減を知りません。普通にするよういつも言っているのですが」
ごった返す人ごみを抜け、各所に散らばる休憩所のひとつに向かう。
雛を除いた三人は中央に机を挟み、三方の長椅子に沈んでいた。
「文さんどうぞ。これで機嫌直してください」
文は思わず顔を上げ、そっぽを向く。
それしきで懐柔されるほど安くない。砕けた腰はまだ立たない上、負ぶられるままに嗅いでしまった髪の香りで余計悪化した。「いきなりは厳禁」、早苗も知っているはずだのに。抱き付いてくるだけならまだしも、何故。
納得いかない。
「はたてさんにはこちらを、幾らかでも冷えるなら良いのですが。雛さんとにとりの分はこれです。にしてもにとりまで一体どうしたのですか」
「ありがとう、ええ、少しね」
にとりはしつこかった。
あまりにしつこくからかってきたので浴衣の襟を暴いてやったら案の定、厄神様の印がぽつぽつ見えて、火の消えたように大人しくなった。文は少し気が晴れた。
問題は、
――はたてさんにもあのような印を付けましょうか。
要らぬ気遣いははたての魂を削るだけだといい加減気付いても良さそうなものなのに。せめて声を潜めるくらいしたらどうなのか。何故堂々と訊ねるのだ。
だから私まで座り込む羽目になるのよ、馬鹿狼。唇の感触が消えないじゃない。
「文さーん、溶けちゃいますよー。氷小豆って嫌いでしたか?」
ぐいと早苗に詰められて、ぐっと文は詰まってしまう。
嫌いではない。シロップと小豆のみを掛けられた氷の単純明快な姿は、この世の何もかもを白と黒に分けられそうな気がしてしまって、しがらみや交際関係で疲れた時の特効薬だ。そう地獄の誰かは言うのかも知れないが、私は違う。
「はい、あーん」
それは無理。
「ああもう分かったわよ食べればいいんでしょ」
受け取った文は自棄になって大盛りにひと匙掬い、頭の後ろにきんと来た。呻き声も漏らさないままひたすらに耐え続ける。涙目で霞む向こうに早苗がいた。花の咲いたような満開の笑顔をしていて、ずるいと文は思う。
結局、負けるのだ。早苗は綺麗でかわいくて、最近とみに増してきた押しの強さでなし崩しに許してしまう。
文はそんな自分が許せない。
鴉天狗の矜持がどうとか人間の小娘如きに誇りはどうとか、今更言う心算はない。惚れた弱みと人は言う。「好き」を言わされ、搾り出した言葉の響きに涙が出る。「好き」を言われて、胸に満ちる温かさに涙が出る。
惚れた弱みと人は言う。しかしこれではあんまりだ。
己がない。
彼女の言葉に、彼女の望んだ通りの反応を見せ、彼女を喜ばせる。人形遣いの人形と、何ら変わるところがない。しかし喜んでくれるのは構わない。早苗の笑顔は、文の望むところと変わらない。泣き顔で歪まずに済むならば、幸せそうに笑ってくれるのならば、他の誰でもない自分に笑顔を向けてくれるのならば、それでいい。けれども、ならば。
さくり、文はもうひと匙口に運ぶ。
ならば、私は何がしたいのだろう。何が不満だというのだろう。己がなくとも、現状で十分だろうに。
ぎしり、木の香りが鼻を抜け、知らず噛み締めていた木匙を慌てて放した。
「そんなに美味しいですか」
「そんなわけないでしょう。ついです」
にへらと早苗は笑みを深めて、
「ですよね。それじゃ私も頂きます」
さくさく氷を突き崩し始めた様子に、文は溜め息をつく。
結局、許してしまうのだ。大口開けて氷を頬張り、前屈みでぱたぱたと足を振り、けれども笑いながら冷たさを堪える早苗はかわいい。耐え切れて誇らしいのか、「あは」、小さく息を零して自分に目を向ける早苗がたまらなく愛しい。
文はそう感じる自分が情けない。
これでいいのだろうか。溜め息をもうひとつ。
いいのかも知れない。少なくとも、幸せだ。これ以上ないほどに幸せだ。わだかまりが口に含んだ氷と共に、さらさら溶けて流れていく。そして、これ以上ないと思える幸せは、彼女と夜店を回った時に、一体どれほどまで膨れ上がるのだろう。
何故かしら無性に氷を掻きこみたくなった。それは流石に無理がある、考え直した文は溶けて再び凍った塊を探り出し、ひと口に噛み砕く。両目を固く瞑りながら冷たさが通り過ぎるのを待ち、ひとつ息をつく。
目を開けて、目が合った。
早苗が笑ったので、文も笑った。
私達は幸せだ。
***
にとりが切子を積み上げた。
「で、どうしよっか」
「どうと言っても、はたてさんがこれですから」
「はい、あーん」を半分まで達成したところで椛の恋人は力尽きていた。
もしかしたら文さんより恥ずかしがり屋なのかも、早苗は倒れた瞬間を思い出しつつ、でも文さんは三口でギブしたからお相子かも。初デートの時はお団子ひと皿いけたのに不思議だ。まさか、文さんの照れ屋さんっぷりって前よりひどくなってきてたり?
それは困る。すごく困る。
「待ちましょうか。そう長くも掛からないでしょうから。それでいいかしら」
「そだねぇ」
「放っておいて、後から愚痴られても敵いませんからね」
「少し待ってください」
続く会話を椛が制止し、はたての口元へ耳を寄せた。
「どうぞ、何でしょうか」
五対からなる注視の中で、うわ言染みた「私を置いて、先に行って」がはたての口から立ち昇った。意地っ張りなんだから、代表して文が呟く。
ですね、早苗は頷き、でも、看病で絶対残る椛さんとふたりきりっていいんだろうか。良くはないけど、いいんだろうなぁ。まぁいっしょに回れないのは残念だけど、機会ならこれからまだまだあるだろうし、
「仕方ないわね」
「仕方ないですね」
「仕方ないよね。じゃあ椛、はたてさんをお願い」
「ええ」
そういうことになった。
跳ね起き「待って椛が残るなんて聞いてないっ」叫ぶはたてを椛は胸に抱きとめて「寝ていてください」言葉を失いはたては目を白黒させて紅潮し「このバカ狼」再び寝込んだ姿に椛は肩を落として長椅子へはたてを横たえ、額には絞った手拭を静かに載せる。
またやってしまった。はたてさんに叱られる。
「とりあえず、これだよね」
にとりが切子を満載したお盆を掲げた。
とりあえずの言葉通りに、とりあえず四人は連れ立って氷屋へ歩き出す。色取り取りの提灯とぼんぼりに、のぼりや看板を掲げつつ、見える限りにどこまでも連なる夜店の列は、早苗の目には幻灯のように映った。
もう文の機嫌は戻ったし、これでもかと盛られた氷に注意する必要もない。だったら、
「文さん文さん、あれってなんですか」
「熊ですね。大見得を切っていますがただの力自慢ですよ。ああやって生木を裂いたり、岩を握り潰したりで投げ銭を稼ぐのです」
「そしたら、あれは」
「木の葉天狗の卜占です。一年の吉凶から昨日失くした財布の行方までのよろずを占い、果ては恋愛の悩み事やや近隣、家内の揉め事などの相談を受け付けるものもいます。天狗ともあろう者が嘆かわしい、とは言いません。彼女達は結構な薄給ですから」
「こっちのは」
「危険ですから離れてください。どさくさ紛れに新作の披露をたくらむ河童です」
「じゃあ……」
早苗は道行く間、三歩毎に恋人の袖を引き引き訊ねに訊ね、好奇心を満たしていく。
もしかして聞き過ぎだろうか、ふいと我に返って文の横顔を覗き込み、うん、大丈夫っぽい。嬉しくなり、早苗は文の腕に縋って、
「すみません、これで我慢してください」
指が絡んだ。
「その顔、どこか気味が悪いですね」
「なんてこと言うんですか。輝くような乙女の笑顔ですよ」
むくれた様を見せてから、あれこれ再び訊ね始める。
「ねぇ、雛」
「なぁに」
「なんかさ、思い出すよね」
「そうね」
会話の尻尾が耳に届いた。
「すいません、私だけはしゃいでばっかりで」
にとりは鷹揚に手を振って、
「初めてだしねー、いいんじゃないかな。お祭りは楽しんでこそってもんだよ」
「ええ、それに私達も十分楽しませてもらっているから」
「そうでしょうか」
「そうなんだよ」「そうなのよ」
くつくつとにとりは笑い、ころころと雛も笑った。
「さて、ようやく着きました。寄り道をしたはずもないのに随分と時間を食いましたねぇ」
「いじわるですね」
「ごちそうさま」、にとりが六華にお盆を返した。
先程と同じように早苗はもういちど抱き上げようとしたけれど、「危ない人間」と認識されたらしい、子狐は文の後ろに隠れたきり出てこない。腰の辺りから恐る恐る窺う様子に早苗は身悶えして叫びそうになり、耳、狐の耳が震えてる、抱き締めたい、全力で抱き締めたい、お願いします抱き締めさせてください。
「六華が怯えてますよ。私も怖いです」
涙が滲んだ。
「ずるいですなんでそんなに信頼されてるんですかっ」
「チルノもですが、子供には何故かしら懐かれるんですよねぇ。人徳でしょうか」
鴉の癖に、早苗はぎしり、歯噛みする。
「かなめに見つかったら怒られるよー、すっごく親馬鹿だし。そういえば、かなめってば店空けて何処行ったの?」
浴衣の前を気に掛ける素振りもなく、ヤクザなしゃがみ方で目線の高さを合わせてきたにとりに対して、「厠」とだけ答えを返した。
その間も六華の目は絶えず警戒を続けていて、早苗は息も絶え絶えになる。せめて頭だけでも撫でさせて欲しい、自分は無害だと全身で主張しながらそろりそろりと六華へ近付き、反対側に回り込まれた。
「文さん邪魔です」
「ひどいですね」
本気で傷ついたように眉をしかめた。
しかし文さんにならいつだって抱きつけるのだ。今憂うべきは愛くるしい子狐のご機嫌である。なんとしても撫でねばならぬ、なんとしても愛でねばならぬ。文を言いくるめて着せ替えマネキンになってもらう時の真剣さで早苗は考え、そういえばこれならいけるかも、
「ごそごそ何をしてるのです。何か良からぬことでも考え付きましたか」
失礼な。
「これです」
振り返り、両手を腰に早苗は堂々と胸を張る。
お面ならではの狭い視界は文の姿がぎりぎり収まる程度だった。
「その狐面、持ってきていたんですか」
「はい、折角見つけましたし。それに一応組み合わせも考えたんですよ」
下駄の前歯に体を乗せて、くるり、腕を広げて早苗は回り、ぱしり、帯から抜き放った扇子は口元へ持っていき、こくり、小首をひとつかしげてポーズ。
決まった。私、かっこいい。
「どうですか」
「まぁ、そうですね。悪くないと思いますよ」
歯切れがよろしくない。何のために私がひと月掛けて準備したというのだ。少なくともこんな言葉を聞くためじゃない。
白地の絞り浴衣はコバルトブルーの雪華模様がこれでもかってほど涼しさを演出してるし、紺藍の夏帯で息の出来なくなりそうな勢いで腰を締めた結果、色気も格段に増しているはずだ。この上に白塗りのお面を着ければ、粉雪の舞い散る雪原を歩く、なんだろう、手袋を買いに行く子狐?
それは駄目だ。私はセクシーさで勝負するのだ。私だって大人の色気を出せるのだ。諏訪子様に結って頂いたお団子でうなじのエロさも当社比五割増しだから文さんをめろめろの骨抜きに出来るんです。そう信じたい。そう信じる。
「もっと具体的にお願いします」
「そう言われましてもねぇ」
ぐいと文に詰め寄って、やっぱりお面は邪魔かも、額の上まで持ち上げてからもういちど、
「あやっ」
「どうですか」
「はい綺麗です、綺麗ですからもうちょっと下がってっ」
具体性の欠片もないけど満足してあげましょう。
真っ赤になった文さんだけで十分だ。
「にー姐!」
あれ?
「まぁ、うん、天狗様が負けちゃったらこっちに来るしかないよねぇ」駆け寄る六華をにとりが抱きとめ「でも私だって今の早苗に敵う気がしないんだけど。鼻息がふんふんすごいし」
「鬼気迫るってああいうものでしょうね」
おのれ、文さんに気を取られるあまりに本命を逃すとは。
早苗は再び面を着け直し「にとりさん、そこを動かないでください」「ねぇ雛、逃げてもいい?」「六華を見捨てる心算なの」「やっぱり駄目だよね」じりじりとにじり寄り「来ないで」子狐の搾り出されたひと言で打ちのめされた。
そうですか、これも失敗ですか。
「文さん、傷心の私を慰めてくださいっ」
「邪魔だと言ったり都合が良すぎ近い離れてお願い早苗やめて顔近いっ」
文の首に顔を埋めて早苗は思い切り香りを吸い込み、やっぱり落ち着く、あと必死な声がエロい。エロ過ぎる。いっそもうひとつキスマークを付けてしまおうか。文さん怒るかなぁ、でも初めては乗り切れたんだから少しくらいなら大丈夫かも、
「ねぇ、にとり」
「何」と振り向き、「あ、うん」、ひとつ頷く。
「あのさ、ちょっと聞いて」にとりは手を打ち鳴らし、どたばた続けるふたりを止めて「私達、ちょっとかなめに挨拶していきたいんだけど、厠って大抵混んでるしすっごく時間掛かるんだよね。だからさ」
ふたりは自分達に構わず楽しんできて欲しいのだ、にとりが告げる。
隣で雛は「ごめんなさいね」申し訳ない風に苦笑を見せた。
***
「少しだけでいいんですせめて耳に触らせてください」
足掻く早苗の肘を掴んで引き上げた。
何がこれ程までに彼女を惹き付けるのか、自分も身に付けられたなら、文は思い、下らないと切り捨てる。首っ玉に齧りつかれただけで腰を抜かす阿呆が何を望もうというのだろう。
「明日から通い詰めます。仲良くなって抱き締めさせてもらうんです」
「妬けるようなことを言わないでください」
力強い宣言に、半ば以上を本音が占める言葉を返した。
子狐に対するものは、自分に向けてくれる情とは違う。それは分かっている。
「でしたら」くるりと早苗は体を返して「私を盗られないように、毎日々々、まーいにち、神社へ通ってくれてもいいんですよ? そしたら嬉しくなった私が文さんを抱き締めますから」
やはり早苗はずるいと思う。
「なんなら私が通いますけど。それで抱き締めてくれるんならやるんだけどなー。もしかしてそれって通い妻ですか? 平安貴族ですよ文さん。あれ? 夫でしたっけ? うん、どっちでもいいですけど。こっちだとまだあるのかなー」
「ないです。閉じられたのは百年やそこらの最近ですよ」
からかっているのなら文も同じく冗談で返せるだろう。「負けてはいられませんね」とでも言っておけばいい。そして早苗は軽く笑って次の話題に取り掛かる。一件落着だ。
けれども彼女の言葉は、半ば以上が本気に聞こえて、
「それは置いといて、どうですか? どっちも駄目なら大変です。私が六華ちゃんに盗られちゃいますよ」
どう答えろと言うのだろう。もちろん最善は神社へ通うと誓う言葉だろうが、今の私には到底不可能で、それは早苗も分かっているはずだ。けれども彼女は踏み込んできた。ならば私は、
無理やり笑った。「負けてはいられませんね」
早苗も笑った。「頑張る文さん、期待してます」
会話の閉じる音がした。
「それでは行きましょうか」
視線を外し、止まっていた足を動かし始める。
今のやり取りは普段と何も変わらない冗談だから、私は何もなかったように手を繋ぎ直せる。実際に何もなかった。信じるというよりも願いに近い心を込めて横顔に目を走らせ、早苗の頬は緩んでいる。これなら大丈夫、文は隣に腕を伸ばして、指の触れ合う寸前で引き返した。信じ切れなかった。
情けないわね、自嘲と共に腰の横へ手を落とし、
「焦らさないでください」
腕を取られた。勢い余ってたたらを踏む。
「元気ですね」
「当たり前です。文さんとデートなんですよ。それに楽しまないとにとりさん達にも悪いですから」
屈託のない笑顔が眩しい。
早苗は気付いているはずだ。
「夏は事件が多くなる」、「祭りの準備も忙しい」、だから立ち寄る暇を作れない、見え透いた言い訳だ。それでも、避けられていると気付いていながら咎め立てようとしない振る舞いが、逆に文を責め立てる。
付き合い出す前から、文が恋心を自覚する遥か以前から早苗は執着を見せてきた。 一週間顔を見せなければ、それだけで詰られた。けれども今は余裕が見える。やはり彼女は変わったのだ。
自分も変われたならばどれだけ気が楽になるだろう。避ける理由を吐露できるほど心を強く持てたなら、素直にデートも楽しめるだろうに。
でも、「早苗が綺麗だから」なんて言えるわけないじゃない。
「なんか食べませんか。あれってすごく美味しそうで、どうですか」
顔を上げると珍しくもない、焼き物の屋台があった。猪肉、鹿肉、川で獲れる山女や鮎に、唾棄すべき鳥肉まで扱っているようだ。煤で黒ずんだ品書きには二足もあった。何故だか炭火の赤がひどく寒々しい。
どうしたものか。質問されると厄介だが彼女は好奇心の塊だ、まず間違いなく二足について訊いてくるだろう。それは避けたい。私の鳥肉へ対する意識と然して変わるとも思えない。どう言おうとも、彼女はまだまだ新参だ。見慣れていない分、過剰に反応することも考えられる。
「串でも肉は手が汚れます。あちらにしませんか」
「あ、なんか普通」
「焼きもろこしは嫌いでしたか」
「えっと、いえ、嫌いじゃないし、どっちかっていうと優しい甘さは好きです。それに懐かしい感じもしますし。でもこっちにこんなのがあるなんてちょっと意外で」
「意外?」
「だって妖怪ってお肉ばっかり食べてるイメージが……」
口を噤み、眉を落として苦笑した。
「そんなわけないですよね。宴会に出てくる料理も色々ありますし、にとりさんなんか、夏になってから胡瓜と川魚しか食べてない感じもして」
杞憂だったのだろうか。
「ええ、その通りです。好みはそれぞれで違います。さて、人間の東風谷早苗さんは何が好みですか。お勧めはもろこしですが」
「じゃあそれにします。折角のお勧めですから」
二足に対してどう思うかはともかく、ようやく戻った雰囲気だ、わざわざ水を差す必要もないだろう。
「光栄ですね。それでは少し待っていてくださ……い?」
引っ張られた。
ぐるりと体が回転し、早苗に覆い被さりかけ、下駄を土に打ち込んで背中を逸らした。
危なかった、文は大きく息をつく。背筋が妙な捩れ方をしたようで少し痛い。
「いきなりなんなんです」
「文さん、ここは何処ですか」
この人間は何を言い出すのだろう。
「祭りの会場ですね」
「大当たりです、そしたら周りを見てください」
見てどうなるのだろう。
屋台脇で木の葉天狗の男女がひとつの綿菓子を交互に啄ばみあっている。その横を白狼の一群が通り過ぎた。徳利を振りかざす者もおり、肩を組み合う者もおり、興が極まったのか首を反らせて長々とひと声吼える者もいる。遠吠えを吸い込む空は高くて遠い。間もなく沈みきるのだろう、藍染の薄明を背景に幾十条の輝く紅が夕日から走っている。
宴会場から大分離れているとはいえども、酔っ払いがいないとは限らない。
むしろ素面の方が珍しく、そぞろ歩きの最中だろう三匹で固まった狐の娘達も頬を赤く染めている。道行く間に狸の一団と出くわして、酒精と祭りの熱に唆されたか互いに因縁を付け合った。「喧嘩がおっぱじまるか」、期待を高める群集の足元を、ふたつの影がもつれ合いつつ駆け抜ける。猫の面をあみだに被った猫の子達だった。
耳がよっつだけどいいのかしらね。
「人ごみがどうかしましたか」
得たりと早苗は深く頷き指を振り、得意げな顔をして、
「そうなんです。とっても混雑してるんです。うっかりしたら迷子になります。文さんは慣れてると思いますけど私が迷子になるんです。こんな中ではぐれたら探すのも大変ですよね。文さんなら見つけてくれると思いますけど、でも防止策は絶対に必要なんです。ですから」
文の手が、早苗の手で握り込まれた。
「私を離さないでくださいね」
この人間は何を言い出すのだろう。
目を合わせられなくなって、焼きもろこしの屋台へ向いた。顔が熱い。
「分かったわよ」
「ありがとうございます。それじゃ並びましょうか」
手が汗ばんで、早苗に絶対気付かれる。
絶対もう気付かれてる。
死にたい。
***
「しつこすぎるだろ。どっから湧いて来るんだよちくしょうっ」
魔理沙は八卦炉をかざしつつ誰にともなく問いかけます。
繁っていた竹林は焦土と化し、もはや薙ぎ払うものもなく、けれどもわらわらと群がる雑兵だけは飽きるほどにいるのでした。
「知らないわよ。なんならそこらに寝転がってる奴を蹴っ飛ばして聞いてみたら、『あなたのおうちはどこですか』ってねっ」
霊夢もやはり御幣をかざしつつ応えます。
重厚であった結界には綻びが見え始め、もはや代わりの符も僅かしかなく、けれども飛来する弾幕は雪解けを迎えた滝のように降り注ぐのでした。
「やっほぅ霊夢、聞いてくれ」
「兎が増えたって言うんならお生憎様、とっくの昔に知ってるわよ」
霊夢は符を扇開きに取り出して結界の破れ目に投げつけます。
あわや潜り抜けようとした敵の斉射は、口惜しげに七色の光を発しつつ霧散するのでありました。
顔を咄嗟に庇った手を下ろし、魔理沙は額の汗を掻き掻き続けます。
「薬の予備が切れた」
「なによそれそんくらい雑草でなんとかしなさいよキノコに頼りすぎなのよこのキノコバカっ」
「悪いな、私はキノコ専門なんだ。ああでも、ちょっと夜にする巫術ってないか。それか神降ろしでさ。ちょびっとでも星がありゃカバーできるんだが」
「あるわけないでしょ何考えてんのよ!」
「なんだ、神様って使えないな」
言い争っていると、ばしり、不穏な音を発しつつ結界に一条の亀裂が入ります。
早すぎる、霊夢は思って彼方へ目を向け、嗚呼、なんたることでしょうか、憎むべき「ぼすこおん」の懐刀、「ずゐるにく」随一の腕利き用心棒、腰に下げた「でらめえたあ」へ指を届かせることも許さないままに数多の強敵を屠ってきた早撃ちの名手、鈴仙その人が立っていたのです。
「悪あがきはよしたらどうですか。もう後がないって分かってるんですよ」
「冗談きついぜ。八卦炉がやっと温まってきたとこなんだ。私の本気にびびるなよ」
「もうちょっと聞き分けがいいと思ったんだけどなぁ。じゃあ、みんな」
右手を振り上げ、再びの斉射に備えます。
ぐいと鈴仙は背筋を張り、死神の鎌とも見える天高く構えた手を振り下ろし、号令一下、弾幕が一斉に飛び出しませんでした。
「えええ、なんで!? 貴方達ちゃんと働いてよ私の時だけサボらないでよっ」
「おい霊夢、チャンスだ。あいつらなんかバカっぽい」
「分かってるわよっ」
霊夢の懐から取り出されたのは陰陽玉です。
「紫、聞いてる? 今ちょっとやばくてさ」
――ええ、こちらでも把握していますわ。手短に言うわね。貴方達を包囲している戦力は千と四百、飛んで七。単独での突破はいくら貴方達でも、
「そんなこといいから、救援は来るの来ないの!?」
――少しだけ耐えて頂戴。捩じ込む隙間を作りたいのだけれど、向こうの結界もなかなか頑固さんなのよ。
「少しってどんだけよ」
――それほど掛かりませんわ。長くとも三……
「さん、何? ちょっと紫っ、紫!?」
「あとどんくらいだって?」
「さあね、三刻か三週間か、じゃなけりゃ三ヶ月かしら」
「勘弁してくれ。三ヶ月も掃除しなかったら部屋に埃が積もるじゃないか」
「ガラクタで埋まったあんたの家が今更どうなるってのよっ」
霊夢は怒鳴り返して四方に目を走らせます。
陰陽玉の「通信れえざあ」は早々途絶えず、であれば声の届かなくなったことには何かしら外部に原因があったからに他なりません。
そして、嗚呼、霊夢は見つけてしまったのです。煙に燻る竹林の、霞む景色の果ての果て、禍々しい紛うことなきひとつの影を。
「まったく、ウドンゲだけだと不安だったから来てみれば」
「師匠っ」
「目を掛けていたというのに、姫は失望なさるでしょう。貴方にはお仕置きが必要ね」
「師匠……」
「さぁ、貴方達も随分抵抗したようだけれど、それも終わりよ」
「言ったはずだ、と思ったがお前には言ってなかったな。私はこれからが本番だっ」
「その強がり、いつまで続くかしらね」
「驚け、三週間くらい持たせてやるさ!」
魔理沙は諸手を前に突き出して、ばしり、不穏な音が響きました。
「やっほぅ霊夢、聞いてくれ」
「今度は何よ。詰まんないことだったらあんたの箒でケツ引っぱたいてやるから」
「私の美尻になんて仕打ちをするんだ。恐ろしい暴力巫女だな」
「いいから何なのよっ」
「八卦炉がいかれた」
「なんですって!?」
「師匠」の高笑いがふたりの耳を圧します。
「手間を省けるのは歓迎するわよ。ひとりだけでどこまで耐えられるかしらね」
「いいわよやってやるわよハクレイを舐めんじゃないわよ!」
「活きのいいこと。精々足掻いて御覧なさい」
矢をつがえて「師匠」はきりきりと弓を引き絞り、冷徹な無言のうちに鋭く放って、また兎達も弾幕を猛然と投げかけます。
眼前を白く塗り潰すほどの数と量に、あわや、ふたりの命運は儚くもここに尽きるかと思われたその刹那、
「待たせましたねっ」
無数の弾幕は幾千条の虹と四散し、泰然と揺らめく九尾の影を照らし出すのでありました。
「約した通り、三分です!」
――而して霊夢と魔理沙のふたりは辛くも窮地を脱してございますが、されど「ぼすこおん」もいまだ無傷の難敵ふたりと大地を埋め尽くさんばかりの大軍を擁してございますれば、さてさてどうぞ、これより先にさらなるご期待ご刮目の程を頂戴できれば無上の幸い。喉を湿らせ、目を休めて頂いた頃合に、再びお目見えの儀へ参上仕りとうございまする。
銀幕が沈黙し、活動弁士も高座からするすると引き払う。灯りを落とされた壇上には「ハクレイ・レンズマン」の立て看板が取り残された。
別に拍手はいらないんですよね、早苗は茣蓙の敷き詰められた会場を見回して、妖怪達にはがやがやと喧騒が戻ってきていた。うん、いらないですよね、当たり前か。
「なんとなく見てしまいましたが、どうしますか。この調子なら日をまたぎますよ」
「そんなに掛かるんですか?」
「ええ、里で上映した際には三日に分けるほどでしたから」
それは困る。折角のデートなのだ。
映画も定番かも知れないけれど、ドラえもんも真っ青な大長編には付き合えない。
「やっぱり挨拶だけにします」
「それがいいでしょうね」
早苗は立ち上がろうとして、「どうぞ」目の前に手が差し出された。
腕の先を辿れば気取らない文の顔があって、どうしよう、かっこよすぎる。
「どうかしましたか」
「いえ、なんでもないです」
慌てて首を振ってから文の手を取る。
少し力を入れ過ぎたかも知れない、握った手のひらの柔らかさに後悔した。文さんは不意打ちでかっこよくなるから困るのだ、八つ当たり気味に早苗は大股に足を踏み出し、
「気を付けてください。躓いても知りませんよ」
「大丈夫です」
転びそうになったら、何だかんだ言っても、かっこいい文さんはきっと抱きとめてくれるのだ。力持ちだし勢いのままお姫様だっこまでいくかも知れない。ありそうだ。そんなことになったら、多分死ぬ。
早苗は想像を振り払い、話題を探して、
「あれです、何か皆さん行儀がいいですよね。良すぎるっていうか。飲んだり食べたりはしてても、偶に咳払いくらいで話し声は全然しませんし」
「そうですね。芝居なら野次も掛け声も関係なく飛びますが、恐らく勝手が分からないのでしょう」
「どういうことですか」
「慣れていないのです。活動はごく最近流行りだしたものですし、その上接する機会が少ない。映写機やフィルムは河童に任せればまだ何とかなりますが、弁士はまだまだ少ない。知る限り、幻想郷全体でも三人しかいません。ですから」
「あれ、お久しぶりです。見に来てくれたんですか」
舞台脇の衝立から阿求が顔を覗かせていた。
「こんばんはー、たまたま見かけたので挨拶だけでもと思って。ここでやってるなんて知りませんでした」
「やっぱりそうですよね。宣伝もしていませんし」
「水臭いですね。私に任せてくれていたら号外も使って大々的に打ち出しましたが。お代も勉強しますよ」
そうもいかなかったんです、篝火の照らす中に出てきた阿求は苦笑して、
「ぎりぎりまで入山の許可が貰えなくて、上映自体できるか分かりませんでしたから」
「妙な話ですねぇ。快くとは言いませんが娯楽の類なら渋られもしないでしょうに」
「ええ、私だけなら何も問題なかったんですけど」
「私がいて悪かったわね」
無愛想な早口が衝立の奥から聞こえた。
無表情な仏頂面を想像し、どこでも変わらないんだなぁ、早苗は少し噴き出しかける。
「だって仕方ないじゃない。貴方ひとりでこんなところに寄越せるはずないでしょう」
「はい、パチュリーさんが心配してくれてるのは良く分かってますし邪魔になんか思いません。ありがとうございます」
魔理沙さんの同業者だろうって警戒されたんです、それが腹に据えかねたみたいで。身を寄せて阿求はふたりに囁いた。つむじを曲げた恋人を語る表情は、困っていてもどことなく嬉しげに見える。
文さんの場合だと、早苗は隣を盗み見て、特大スクープも放り出して会いに来てくれるようなものだろうか。ちょっと違う気もするけれど、頬擦りしたくなるのは断言できる。
「心配性ですねぇ。護衛については言いましたか。山にも体面がありますから、人間とは言え客人には滅多なことは起こさせませんよ」
「言ったんですけれど『信用できない』の一点張りで、実際に見たら見たで『こんなにぞろぞろ、逆に信用できなくなったわよ』って」
阿求の含み笑いはやはり嬉しげだ。
でも、ぞろぞろ? 早苗はそれっぽい姿を探して、背中に負った半弓や片手に突いた薙刀と、物々しいけれども白狼天狗が舞台の両脇にひとりづついるだけだった。
「あれはただの脅しですよ。あまり数がいても無粋ですから。向こうのブナを見てください。丁度、中程です」
灯りの届かない真っ黒な巨木を見上げて、ちょっと体がびくっとした。
大振りな枝の上に、蜂蜜色の瞳が一対と少し離れてサファイアのものも浮かんでいる。忍者?
「見えましたか? あのように狼達が四方に配置されています。それにこの会場は河童の領分でもありますから、お得意の機械がそこかしこにあるのでしょうね。鬼でもなければ阿求さんには近寄れもしないでしょう」
そこまで必要なんだろうか。パチュリーさんだけでも十分な気がして。
そもそも護衛自体どうなんだろう。
「早苗が思うより悪漢はいるものですよ。殊に今夜は年に一度の夏祭りです。普段よりいささか呑み過ぎた酔眼が阿求さんや早苗を『紛れ込んだ外来人』だと見間違えても不思議ではないのです。ひとりでそこらの路地に入ったならすぐ分かりますよ」文はにたりと口端を歪めて「試してみますか」
舞台後ろの薮が気になる。隠れるならここしかないってほどで。
「冗談はともかく」
文さんはいじわるだ。
「今回は山が折れたようですが意地を通しておじゃんになる可能性もあったでしょうね。それなら信用したほうがよほど楽だったでしょうに」
全然分かってない、早苗は思う。
恋人は自分の手で守りたいものじゃないか。パチュリーさんはそれが出来る屈強な乙女なのだ。あと多分、単純に阿求さんの傍にいたいから。
「仰る通りでしょうけど、苦労した甲斐はありましたから。ひとまずこちらへどうぞ。淹れたてじゃないですけど紅茶と焼き菓子があります。咲夜さんお手製ですから味は請け合えますよ」
「いえ、もう行きます。ほんとに挨拶だけの心算でしたから。それに」
あまりお邪魔しても悪いですし、潜めた声にからかう調子を混ぜ込んだ。
盛んに踊る篝火で阿求の頬が朱に染まり、けれども敢然と目を上げて、
「本音を言うと『邪魔すんなこの野郎』って思ってました」
「うん、ですよね。私もきっとそう思います」
笑い合った。
「楽しそうね」
「あ、すみません、すぐ阿求さんをお返しします」
パチュリーさんもやっぱりかわいい。
「それでは失礼しますね。がんばってください」
「はい、ありがとうございます。おふたりも楽しんできてください」
目配せを交わす。悪戯の共犯とも、長年の戦友とも思えた。
「行きましょうか」、文の手を取り歩き出し、つんのめった。
「どうかしましたか」
「いえ、何でもありません」
阿求の背中に向けていた目を戻し、文は俯き加減に早苗を追い越す。
小走りに横へ並んで、気になることでもあったんだろうか、ハテナを浮かべ、嫉妬してくれた……ような雰囲気でもないし、
「さて、どうしましょうか」
まぁいいか、早苗は疑問を脇に置き、目星を付けていた看板を指差して、
「輪投げしてみたいんですけどいいですか」
「ええ、構いませんよ」
景品ってどんなのがあるんだろう、早苗は屋台の奥を窺って、柱の影に緋色がいた。
座敷童子だった。
***
早苗が消えた。
「気を付けなさいよ!」
図体ばかりでかい薄ら馬鹿、怒鳴りつける暇も惜しい。込み上げる罵倒を飲み込み文は大熊を押しのける。
へべれけの狼が千鳥足でふらついている。眼帯を掛けた神が串を片手に河童と議論している。狸と狐の化け合戦を野次馬が取り巻いている。屋台に挟まれた往来を人々が埋め尽くしていた。
早苗はいない。
「これは天狗の姐さん、申し訳ないねえ」
頭上から降ってきた熊の声に、殺してやる、文は思い、まだ遠くには行ってないはず、駆け出した。
早苗は確かに力がある。荒削りであっても御し方さえ覚えてしまえば文とやりあうことも出来るだろう。心配はしなくともいい、構い過ぎだと、子供扱いしないでくれと彼女に拗ねられたこともある。
駆け抜ける。人ごみを吹き飛ばしたい。まとわり付く袴が鬱陶しい。左から酔っ払い、
「邪魔っ」
跳ねた。
虚ろに見上げる間抜け面が癪に障った。これで間に合わなかったらあの熊共々、血祭りにしてやると決める。
早苗は子供だ。たかだか十とそこらしか生きていない人間だ。油が乗った、こんな祭りでは到底お目に掛かれないだろう上物の生きた二足だ。力はあるが、だからどうした。経験不足の彼女なら、そこらの雑魚でも二、三もいればねじ伏せられるだろう。
白の浴衣。見つけた、早苗
「ひっ」
紛らわしい。全然紛らわしくない。似ているのは背格好と色だけで柄が違う、髪が違う、そんなことどうでもいい早苗はどこ。
いっそ飛んで上空から探そうかと一瞬考え、なんで気付かなかったのよ、開く翼が積み上げられた酒樽を弾き飛ばした。
「弁償、あとでするからっ」
へたり込んだ娘に言い残して地面を蹴る。ひと息に屋台が風の煽りを受けない高くまで上昇し、絶望した。
山のみならず、近在の妖怪まで集まる祭りは人が多すぎた。提灯の間を埋め尽くす有象無象の頭から早苗を見分けるなど気の遠くなる作業に思えて、でも、やるしかない。
せめて人手があれば、にとりや雛さん、はたてに椛、
「千里眼」
あの力さえあれば。結局は虱潰しに探すには変わらないが、それでも十分だ。
「ああもう」
だからどうやってあいつらを見つけるってのよ、文は頭を掻き毟り、これも時間の無駄だと息をつく。ひとまず落ち着こう。冷静に考えられなくなれば出来ることも出来なくなる。
早苗は心配ない。良くも悪くも顔を知られた人間で、そう簡単に手を出せるような相手ではない。何事かあったとしても、判官贔屓の好意からでも神社へ恩を売りたい下心からでも、周囲に手助けが期待できる。
遠くで火柱が立った。文は飛び出そうとした体を抑え、大丈夫、どうせ河童がまた何かやらかしたんでしょう。
それに座敷童子の存在がある。確かに早苗は言っていた。実際、過去に会ったものと同一なのかと疑問は湧く。雑踏の隙間に垣間見えた姿は山に住む妖怪のどれとも似つかず、であれば神の一柱かとも考えられるが昼間の祭儀では見掛けなかった。げっぷの出るほど山にまします神々をいちいち覚えきれるものではないが、文は自身の観察眼を信用している。もちろん参列しなかった可能性もあるが、そこまで考えたら切りがない。
あれは早苗の言う座敷童子だとする。有り得なくはない。初の邂逅もやはり舞台は祭りだったそうだから、騒ぎを好む性格なのかも知れず、ならばここで会うのもそう不思議ではない。
そしてもし、早苗が追いついたのなら、座敷童子と共にいるのなら危険はないだろう。正体の真偽はともかく害意はないはずだ。力についても申し分なくとは言えないが、そこらのチンピラには遅れを取らない見込みは持てる。一度は早苗を助けたほどだ、不心得者に絡まれても護ろうとするだろう。早苗ひとりのみと連れのいるふたりでは雲泥の差がある。襲われたとして、最悪でも逃げ切れる見込みはある。
つまり、こういうことになる。
たまたま座敷童子は幻想郷に来ていて、偶然祭りに居合わせて、奇遇にも知己である早苗と出会った。早苗が運良く追いつけたのならば、友好的と思われる座敷童子は恐らく力を持っているので問題ないはずだ。故に文が心配する必要はない。
「馬鹿ね」
自分は相当参っているらしい。
じっと手を見る。彼女の指がすり抜けていった手だ。
――私を離さないでくださいね。
何故、離してしまったのか。錦糸のするりと解けるように絡めた指は抜けてしまって、残り香にも似た感覚が指先をちりちりと炙り続ける。後生大事にこの記憶を抱えて泣き続けろと嘲笑っているような。
まるで、今生の別れのような……
縁起でもない、あってたまるか、冗談じゃない。
早苗は神格化を成し遂げて自分と共に過ごすのだ。我が家でも神社でもいい、風呂にはいっしょに入って、寝床はふたつも必要ない。湯上りには縁側にふたり並んで腰を下ろして、早苗の髪を櫛で梳くのだ。長く艶やかな髪は手の平からさらさら零れて、降り注ぐ月光で清らかな川面のように煌くのだ。梳き終わったと後姿に告げたなら、彼女は嬉しげに振り返って桜色の唇を開くのだ、「それじゃ、文さんの番ですね」。
「早苗」
絶対に、探し出してやる。
時の移ろう毎に早苗の身は危うくなるだろう。
だが、幻想郷最速を侮らないで貰いたい。ひとつ瞬きする間に十遍でも会場を巡ってみせる。
所在に見当のつかない友人達は当てにならず、宴会場に行けば守矢の二柱と会えるかもしれないが、八坂様が耳に入れたなら必ず事を大きくするだろう。それは避けたい。不逞の輩が知るところには決してさせてはならない。しかし、洩矢様に耳打ちしたなら、八坂様に気取られることのないように動いてくれるかも知れない。
心強い。あとで翼の腐り落ちるまで祟られそうだが、安い御代だ。
必ず生きているうちに探し出してみせる。
夜空を見上げた。五芒星は彼女の十八番だ。そして、
「いた」
居所の確かな知人がいた。占星術でも卜占でもタロットでもなんだろうと構わない、魔女ならきっと失せ物探しの手段を持っている。これ以上借りを作るのはどうかなんてどうだっていいわよ。
よかった。
風を集めつつ広場の一角に当たりを付ける。
心配する必要はないなんて誰が言った。そんなの、
「無理に決まってるじゃない」
落ち始める。
「早苗」
拳を握りこみ、歯を食いしばる。
そうでもしないと泣き叫びそうだった。
***
「あらら、捕まっちゃった」
「もう、なんで逃げるんですか」
早苗は肩で息をする。はしっこい小柄な体躯には手を焼いた。連れ立って歩く人々の隙間を抜けるのはもちろんのこと、屋台の垂れ幕は潜り抜け、酒樽を踏み石のように跳ね渡り、果ては大八車に積み上げられた荷物から屋根に飛び移る芸当までやってのけた。とても追い切れるものではない。最後には諦めてつむじ風で転ばせた。咄嗟にしては拍手を貰ってもいいくらい上手くやれたと思う。
どんなに小さくても妖怪ってことなんですね、早苗は膝に手を突こうとして、ころん、片手にまとめた下駄が鳴った。そういえば脱いでたんだっけ。
「捕まりたくなかったからねぇ」
足裏の土を払って履き直す。
「なんでですか」
「鬼婆も裸足で逃げ出す形相で追いかけられたら、そりゃあ可憐で繊細なあたしもそうするしかないさ」
誰のせいでそんなご面相を曝す羽目になったと思っているのだ。
「うそうそ、冗談。怒った目付きはちぃとも変わんないねぇ」
からから笑うおかっぱに、早苗はすっかり毒気を抜かれて、
「やっぱりあの時の方なんですね」
「誰だと思ったんだい。こんな美貌の持ち主、ふたりもいてたまるかね」
分かって言っているんだろうけど、早苗は違和感を覚えた。
「美貌」というには幼すぎる。市松人形に血が通ったならこうなるだろう童顔だ。大きな瞳はくりくりとよく動いて、伝法な口調が恐ろしく似合わない。腹話術だと言われたらうっかり信じ込みそうだ。
そしてお祭りの晩に見たものと同じ、緋色の着物は記憶にあるより更に鮮明だった。「子供には緋色が一等似合う」という祖母の言葉に、なるほど納得した。赤を着る子供は快活な花なのだ。溢れんばかりの生命力で咲き誇る、大輪の花なのだ。
私にもこんな時代があったんですよね、やっぱり妖怪はずるい。
「ほんとはねぇ、見届けるだけの心算だったのさ」
何の話だろう。
「あんたに虫が付いただろう。射命丸って虫がさ」
「虫呼ばわりなんて失礼です、って文さんは?」
早苗はぐるりと辺りを見回し、緩やかな弧を描く屋台の列が夏の夜に提灯の灯りを放っている。
宴もたけなわらしい、祭囃子と喧騒が絶え間なく響いている。子供ひとりは入れそうな酒甕を天秤棒に吊るしたふんどし姿が棒立ちの早苗達を邪魔くさそうに避けていった。
「あたしらの鬼ごっこには付き合えなかったみたいだねぇ」
「すみません、探してきます」
飛び立とうとして、袖を掴まれた。
「ちょいとお待ちよ。血相変えて何をそんなに急ごうってんだい」
「だって」
振り払いかけ、自分の胸までしかない座敷童子の姿に躊躇った。
「とにかく探さないと駄目なんです。放してください」
「まぁま、慌てる乞食はもらいが少ないって言うだろう。大体、探すったってどこを探すんだって話だよ」
「それは」
――入っちゃったら最後だからねー。
待ち合わせ場所をあらかじめ決めておくべきだった。
今更悔やんでも仕方ないけれど、自分は浮かれすぎていたのだろうか。
「向こうも探しているかもねぇ。だったら下手に動くより、じっと待ったほうがいいだろう」
「それは、確かにそうかも知れませんけど」
言いよどむ背をぐいと押された。
「さぁさ、そうと決まれば向こうの長椅子だ。あれに腰掛けて待とうじゃないか。暇つぶしにはうってつけの積もる話もあるからね。会えたらあれを話そうこれも話そうって、ずっとずぅっと昔から考えてたんだよぅ。でも口は忙しくても手が寂しい。何か持つものが欲しくなるねぇ。例えば、そう、どっしりした蜜豆の器なんかがいい。甘い甘い蜜で湿せば余計に舌も回るだろうさ。
そうだよ姐さん、聞いたとおりさ。あたしと姉やのふたり分だよ、蜜豆をふたり分。お願いねぇ。ひとつは寒天をうんとおまけしておくれな。あたしは寒天に目がなくってさ、けちけちしないで、そうそう、ああ嬉しいねぇ。どうだい、寒天がきらりきらり小豆に当たって跳ねること跳ねること、匙で掬って口に含めばつるりと喉を滑るんだ。今からもう待ちきれないよ。
はい、ありがとうねぇ。さて御代だけどあたしは小遣いを持たされてなくってさ、こっちの姉やが財布番なんだ」
「へ? あ、はい」
催促されて、早苗はじゃらりと小銭を取り出し店主に手渡す。
「じゃあ行こうかねぇ」
「ちょっと待ってください」
このお椀どうしよう、押し付けられた蜜豆にまごついて、
「これ、持ってください。食べていいですから。やっぱり探してきます」
「折角買ったのにあんたはまだ言うのかねぇ。大人しく待ってたらいいんだよ。行き違いになったらまずいだろう」
「そうですけど、でも」
でも無理だ。
文さんをほったらかしてしまったし、私が悪いし、探さないと駄目なのだ。折角のデートなのだ。まだ文さんと回っていないところはたくさんあるし、ただでさえ回りきれる気がしないし、だから時間をこれっぽっちも無駄にできない。
とにかく探して、誰かに会えたら伝言を残して、
「そっか、阿求さん」
あそこに戻ってきてるかも。これ以上ないってほど分かりやすい目印だから、
「ねぇ」
袖を引かれた。
「どうしても駄目かい。ほんのちょっとでいいからさぁ」
「へ? なんで」
泣いてるんですか。
「お願いだよ。蜜豆食べるだけだから、食べたらすぐ行っていいから」童の目元に浮かんだ煌く小粒は見る間に大粒へと育っていって「あたしはふたりっきりで話したいんだよぅ。もういちど会えたらなんて夢物語だと思ってたのに、もう会えないって諦めてたのに、またあんたと会えて、あたしは」
「分かりました、分かりましたからっ」
文さんすみません、少しだけ待ってて下さい。
この子は命の恩人だし、それにこの泣き顔を放置したら天罰が下ります。
「ほんとう? いっしょに食べてくれる?」
「本当です。でもちょっとだけですからね」
「じゃあ、これ」
小指を差し出された。
こんなのもあったなぁ、なんか懐かしい。
「指きりげんまん、うそついたら……」
「……針千本のーます、ゆびきった。これでいいですか」
「うん」
座敷童子はごしごしと目元を擦り、拭った袖の下からにかりと笑う顔が出てきた。
「違えちゃあいけないよ、破ったらひどいんだよ、指きりまでしたからね、もうあたしと付き合わなくちゃあいけないよ。じゃあ早速行こうかねぇ」
何か騙された気がする。
妖怪ってやっぱりずるい。
***
「慌てる天狗なんて貴重ね。何か用」
「ちょっと失せ物がありまして」
「それって」
本から目を上げないままパチュリーが呟いた。
「早苗のことかしら」
「ええ、お察しの通りです」
訝しげな目付きを文は正面で受け止める。
「何よそれ、詰まらないわね。もう少し隠したらどう」
「そういう状況なのですよ。ご理解を願いたいですね」
「天狗はもっとふてぶてしいと思ってたわ」
まったくだ。乾いた笑いしか出ない。
「ええ、ふてぶてしいのです。早苗から聞いていますよ。彼女が悩みを打ち明けるとパチュリーさんは随分親身になって耳を傾けたそうですね。ですから私も情へ訴えることにしました。最善かどうかはともかく効果は見込める。ならば私は最短を行きます」
舌打ちが響いた。
「やっぱり天狗ね。貴方のそういうところ、嫌いよ」
「名高き魔女に嫌われるとは光栄ですね。まぁそれはともかくとして」
ひと呼吸、
「早苗の居場所を占ってください」
「私をそこらの辻占いといっしょにしないで頂戴。安くないわよ」
「言い値で構いません」
細めた目で覗き込まれた。
「なら、心臓を差し出せと言ったらどうする心算なの」
「あやや、すぐには困りますねぇ。抉り出す前に一年だけ待ってもらえますか」
舞台からは阿求の振るう熱弁が淀みなく届いていた。
「やっぱり嫌いだわ」
パチュリーは深く息をつく。
***
昔々のそのまた昔、揚羽はひとりの娘と出会った。
よく笑う娘だった。舞台の上では美人絵から抜け出してきたかのように涼しく笑って、舞い終わればころころと丸く笑った。皆は口々に「綺麗だ」と娘を褒めた。当然だ、綺麗な自分を着て踊るのだ、娘も綺麗でなくては困る。揚羽は無闇に誇らしくなっていっしょに笑いたくなる。着てもらえさえしたのなら、嬉しげに目を細めて娘が笑っていたのなら、揚羽も満足できたのだ。
けれどもある日、そろりと不安に忍び寄られた。
虫干しの日だった。箪笥の中では眠っていてもこの時ばかりは目が覚めて、皆いっぺんに話し出す。草色の銘仙は特にお喋りで嫌な奴だった。草色こそが娘の一番のお気に入りだと、衣文掛けの上で自慢げに語るのだ。お前が頻繁に用いられるのは普段着だからで、一番は誰よりも綺麗な自分に決まっているだろう、燻る揚羽の不満を他所に草色は最近を語り始める。
曰く「娘は直に女学校を卒業して、決めていた通り風祝になるそうだ」
曰く「散歩や外出がめっきり減ったのは、風祝の修行で忙しいからだ」
曰く「これからさらに忙しくなるだろう。趣味も諦めなくてはならない」
趣味にはお稽古事も含まれるのか、水仙文様の縮緬はおどおど問い、「然り」、如何にももっともらしい顔で草色が頷いた。であれば自分はどうなるのだろう。お稽古には舞いもあるのか、癪だったが揚羽も訊ね、「然り」、何を当然なことを聞くのだと怪訝な顔で草色はもういちど頷いた。
それは困る。自分は綺麗な娘に着られるから綺麗でいられるのだ。畳紙に包まっているだけでは綺麗もへったくれもあったものではない。
来る日も来る日も「どうにかならないか」と揚羽は考えた。しかし何かを為せるわけでもなく、「風祝になったからとて全て辞めるとは決まっていない」、「もしかしたら風祝にもならないかも知れない」、気休めを思って自分を慰めた。けれども結局は心の奥底で覚悟していたのだろう。昔から、それこそ揚羽の生まれた直後から、娘の将来に関する噂は聞いていたのだ。
だから最後の日が来た時も、娘の素振りでそれとなく察せられた。
木々の紅葉する音まで聞こえてきそうな、静かに晴れた朝だった。
娘は揚羽を床に広げていつまでも眺め続けた。布地に飛び交う蝶達をさらりさらりと指でなぞった。縦糸の一本まで覚えるように指が幾度も行き来した。
撫でられる柔らかな感触がひどく愛しい。愛しくて、別れが来たのだと否応なく思い知らされ、ひどく切ない。仕方ないと諦めるなど出来っこなくて、揚羽は口が欲しかった。口を持てたなら、娘に向かって思いの丈をぶちまけるのだ。
揚羽には敵わないが、娘も大変綺麗なこと。
他の娘達のように歯を隠さない、開けっぴろげな笑い方がとても綺麗なこと。
人の見ていない場所では驚くほどのお転婆で、薮を飛び越した時には鉤裂きをこしらえられないか冷や冷やしたこと。
腹立たしく思ったけれど、その時の悪童が悪戯を成功させたような笑顔はやっぱりとても綺麗だったこと。
それから、それから
――ごめんねぇ。
娘が、揚羽に話し掛けてきた。
――ごめんねぇ、今日の舞台で終わりなんだよぅ。あたしってほら、家を継ぐからさ、だからふわふわしたもんは全部ぜぇんぶやめないと駄目なんだって。だからさ、もうあんたを着られなくなっちゃうんだ。ごめんねぇ。
何を謝ることがあるのだ。
自分はちゃんと知っている。娘は揚羽をとても大事に扱っていた。仕舞う時には丁寧に皺を伸ばして畳んでくれた。贅沢に過ぎると心配になるほど畳紙を頻繁に取り替えてくれて、必ず樟脳を入れてくれて、いつも湿気の届かない箪笥の一番上に仕舞ってくれた。
自分はちゃんと知っている。娘は揚羽をとても嬉しそうに着ていた。初めて出会った時には「綺麗」だと言ってくれた。噛み付きなどしないのに恐る恐る指を伸ばして、とうとう揚羽へ触れると花の開いたような笑顔になった。舞いへ持ち出す前には必ず姿見へ揚羽を着込んだ自身を映して、満足げにひとつ大きく頷くのだ。
自分はちゃんと知っている。娘は揚羽を大事にしてくれて、とても好いてくれていて、だから謝る必要なんかこれっぽっちもないのだ。
ごろごろ箪笥が開いただけで嬉しかった。ごそごそ畳紙が開かれたなら、必ず娘の笑顔と会えるのだ。
自分はこれまでだけだって十分楽しかった。嬉しかったし、本当に嬉しかったし、だから、
――寂しいねぇ。
揚羽は腕が欲しかった。
腕を持てたなら、娘の肩を掴んで力いっぱいに揺さぶるのだ。
そんな殊勝な人間じゃないだろう。おしとやかな顔は猫を被っているだけだと知っている。いつだって「はいはい」親に従いながらも、裏に回れば舌を突き出す性悪だと知っている。そんな奴が「ごめん」だなんて気色悪いからよして欲しい。箪笥の深くで眠る古株からだって聞いている。小さい頃は村の小僧達といっしょになって悪戯三昧の毎日だったそうじゃないか。舞いを始めたのだって、蓮っ葉な言葉遣いだって親を困らせたかったからだ。自分はちゃんと知っているのだ。
だから「寂しい」だなんて口先だけだとちゃんと分かるのだ。本心では舞いのことなんかなんとも思ってなくて、古紙より簡単に揚羽のことも屑篭に捨てられて、きっと明日には何もなかったように娘は平気な顔で笑っているのだろう。だから、
――本当に、ごめんねぇ。
だから、そんな風に笑わないで欲しい。
お願いだから、いつもみたいに明るく笑って欲しい。
――秋穂姉さん、そろそろ支度終わった?
――ああ、もうそんな頃合なんだね、ちょいと待っておくれな。
娘の指が揚羽をひと撫でしていった。
――やだね、辛気臭い。綺麗なあんたを折角着るんだからしゃんとしなきゃねぇ。
その通りだ。寂しいだなんて冗談でもよして欲しい。
――ねぇ、これが最後になっちゃうけどさ、お願いするよ。
ようやく娘にいつもの笑顔が戻り、任せておけと揚羽は胸を張れた。
娘が綺麗でいてくれるから、自分も綺麗になれるのだ。
***
つるり、賽の目になった寒天を啜りこむ。
「それが早苗の曾ばあ様だったわけだねぇ。こうして見ると生き写しだよ」
「そんなに似てますか?」
似てるどころじゃない。秋穂にはあった泣き黒子がないだけだ。
「でも日舞なんてやってたんですね。見てみたいけど写真残ってないかなぁ」
多分ないだろう。少なくとも自分が撮られた覚えはない。
派手好きの新し物好きだったが、秋穂には妙なところで照れる部分もあった。
「えっと、いいですか」
「なんだい」
「揚羽さんが着物の付喪神だってことは分かりましたけど、じゃあこの狐のお面って何なんでしょう」
それか、揚羽は心の中で舌打ちして、
「曾じい様のもんだよ。言っちゃ悪いが大層な腰抜けでねぇ、まともにばあ様の顔が見られないからって、それを着けて夫婦になってくれって頼み込んだのさ」
「なんですかそれ、ロマンチックじゃないですか。それにその時代で恋愛結婚ってすごくないですか」
何のロマンチックなことがあるものか。
あいつは信じられないほどの唐変木で、よりにもよって最後の舞台が引けたあとに、のこのこ顔を出してきたのだ。こともあろうに自分の前で告白して、ざまもない、「ちゃんと目を見てもういちど」と秋穂に促されてようやくおたおた面を外す腰抜けだ。
呆れたのか秋穂は「風祝のお務めが終わってからなら」と遠回しに断ったのだけれども、あの馬鹿には通じなかったらしい、情けないことに涙を浮かべて膝も震わせ、何度も何度もがくがく必死に頷いていた。あの時ほど自分に手足があったならと思ったことはない。ぶん殴って「一昨日来い」と秋穂の代わりに言ってやれたならどんなにか良かっただろう。
「まぁそれでね、『思い出だから』ってあたしといっしょに仕舞ったのさ」
「いいなぁ、思い出にもなりますよね、うん」
あたしの身にもなってみろ。畳紙を開かれて、たまの虫干しかと思えば面を押し付けられたのだ。しかも秋穂ひとりだけじゃなくて、あの馬鹿もいたのだ。そして馬鹿の間抜けなにやけ面の隣で、幸せそうに笑う秋穂は腕に稚児を抱えていて……
ああ嫌だ、揚羽は残った蜜豆をひと息に飲み下す。
「文さんだったらなんだろう、やっぱり写真かなー。でもなんかありきたりかも、何かこうもう少し特別な感じの……」
そうだった。
「そうそう、その文とかいう天狗のことなんだけれどもねぇ」
「何でしょうか」
「『素敵な相手と出会えるように子供達を見守ってくれ』って、ばあ様から頼まれてるんだよ」
疎かに出来ないあたしの役目だ。
「七五三で着られるようにってあたしを仕立て直したのもそのためでねぇ、ちゃんと聞けたことはなかったけれども、あたしと面を縁結びの縁起物だなんて考えたんだろう。あれでなかなかばあ様も幸せだったようだからさ」
「でしたら」ぱしん、早苗は手を打ち合わせ「ご利益は十分です。十分過ぎるくらいにばっちりです。命の恩人なだけでも感謝してますけど、文さんに会えたのが揚羽さんのお陰なら感謝しきれません」
「そうなのかい」
「はい、文さんが素敵な相手だってことは絶対です。それはもう鈍感だったり照れ屋さんだったりで満点ってわけじゃないですけど、でも照れ屋さんなところだって欠点なわけじゃなくてものすごくかわいくて、真っ赤になって目を逸らされたりしたらもう襲ってしまいそうで大変です、
もちろん綺麗だったりかっこよかったりもするんですよ、例えばですね……」
気に食わない。
狐面から話を聞いた時には嫌な予感が既にしていたのだ。ぬいぐるみ達からより詳しく聞くと予感は確信に変わった。
件の天狗は、あの馬鹿よりひどい腰抜けだ。
口付けのひとつもろくに出来ず、ありとあらゆることで早苗を落胆させて、さらには泣かせ、ついひと月も前には悩み果て、顔色が蝋燭より白くなるまで憔悴させたのだと言う。クマやワニ達は天狗を庇っていたけれども、どうせ欲目があるのだろう。早苗の決めた相手が腰抜けだと認めたくないのだ。
自分だってそうだ。認めてなんかやるものか。
納戸の中で、どれだけ早苗の咽び泣く声を聞かされたと思っている。神奈子ですら慰められず、諏訪子と遊ぶようになってようやく早苗の訪れることもなくなったのだ。だから自分も安心できたし別れを言えた。早苗の笑顔に秋穂も喜んでくれるだろうと「ありがとう」も言えた。
しかし今になって、何故また不幸にならなければならない。
幻想郷だという人妖の入り混じる、早苗の存在が受け入れられる、早苗の夢見た理想の地で、何故また泣かなければならない。
あたしは早苗に幸せになって欲しいんだ。祭りの一部始終を見て分かった。早苗と秋穂はそっくりだ。見た目はもちろん、くるくる変わる表情も自信満々に笑う顔もそっくりで、突拍子もないことをしでかしそうなところもそっくりで、けれども相手が腰抜けだなんてところまでそっくりじゃなくたっていいだろう。
あんな奴といっしょにいて、どうして幸せになれるというのだ。
そうとも、幸せになって欲しい。秋穂にも頼まれたんだ。早苗の幸せは秋穂の幸せで、あたしの幸せなんだ。早苗を幸せにするのはあたしの役目で、だから、
「早苗っ!」
天狗のお出ましだ。
なんとも間抜けな面だねぇ。息を荒げて肩は忙しなく上下して、涙さえ滲ませているなんてお笑い種だ。
丁度いい。ひと言ふた言、この馬鹿に説教してやろうじゃないか。
「文さん、よかっ……た?」
「早苗は座ってな」
駆け寄ってくる前に割り込めば天狗は随分面食らって、こんな顔も間抜けだねぇ。
そら、じわじわ怒り出したよ。お前なんかが一丁前に怒るなんて滑稽だ。
「どちら様ですかねぇ。私はそちらの娘に用事があるのです。邪魔はしないでもらいたいものですが」
あたしよりたっぱがあるからって舐めておくれでないよ。
目を眇めたくらいじゃちぃとも怖くない。
「早苗から座敷童子のことは聞いてるだろう。本当は付喪神なんだけどねぇ。それがあたしだよ」
「ええ、聞いていますがどちらでも構いませんよ。そこを退いてください」
「退いてもいいけどねぇ、その前にちょいとあんたに言いたいことがあってさ」
「あの」
焦るんじゃあないよ、後ろ手に揚羽は早苗を長椅子へ押し付ける。
「いいでしょう、聞きましょう。短ければありがたいですね。なにもないなら尚結構です」
「そう掛かりゃあしないよぅ。事実、言いたいのはひと言だけでねぇ」
ちょっとした説教だ。何も悪いことじゃあない。悪いどころか早苗のためになることで、天狗だって少しは頭を冷やせばいい。反省させて、早苗を金輪際泣かせないと誓わせるのだ。
「たったのひと言なんだよ」
納戸の開く音がするたびに縮み上がった。また泣くのか。また聞かされるのか。何故、自分は何も出来ないのか。
揚羽は腕が欲しかった。誰より先に早苗を抱き上げ、誰より先に早苗をあやし、そうして泣き止んだ早苗を部屋に戻して、秋穂に報告するのだ。「子孫は大切に守っている。何も心配することはない」。
きっと秋穂は褒めてくれる。感謝を告げて、揚羽へふわりと笑い掛けてくれるのだ。
ずっとずっと昔から揚羽は考えていた。もしも口を持てたなら、あの馬鹿に言ってやるのだ。
「早苗から手を引きな」
そうだ、これが言いたかったんだ。
「何ですって」
「耳が遠いのかねぇ、早苗に近付くなって言ってんのさ」
初めて見た時から気に食わなかった。
鍬を振るしか能のない木偶の坊で、秋穂の舞いには必ず現れ、見たいのなら前に来たらいいのに一番後ろで小さくしていて、悪くしたら物陰から覗いていて、気色悪い。気持ち悪い。熱に浮かされた目が嫌いだった。ぽかんと開いた口が嫌いだった。秋穂から声を掛けられただけで一目散に逃げ出す腑抜けっぷりが嫌いだった。
そんなへっぴり腰でおどおど何を言う心算だ。「いい天気ですね」なんてふざけるな。雨雲はどよどよしていて、見ろ、秋穂も呆れて笑うしかないじゃあないか。
お前みたいな馬鹿でも秋穂と歩く足がある。口もあるし腕もある。何故、あたしは持ってないんだ。
「小娘が言ってくれるわね。私は今、とても優しい気分だから聞いてあげる。理由は何」
「別に大層なことじゃあないさ。あんたじゃこの娘と釣り合わないってだけだよ」
言ってやった。
やっと言ってやった。
「その笑い方、鬱陶しいからやめなさい。やめて今すぐ失せなさい。早苗の前だから見逃してあげる」
「粋がるねぇ。でもさ、本当だよ。あんただって分かってるだろう」
揚羽は腕が欲しかった。
焦れた秋穂に引き寄せられるまで、躊躇い続ける馬鹿には宝の持ち腐れというものだ。その腕を寄越すがいい。自分ならもっと上手くやれる。何を言われる前から秋穂を抱き寄せ、隙間の出来ないまでに肌を合わせて、溶けてふたりの混ざり合うまで、混ざってからもずっとずっと抱き締め続けるのだ。
そら、こんな風に。
「なんっ、揚羽さんいきなりなんですかっ」
「教えてやるよ、大馬鹿野郎。ふさわしいのはあんたじゃない」
揚羽は口が欲しかった。
求められても返せずに、秋穂に奪われてからへたり込む馬鹿にはもったいない代物だ。その口を寄越すがいい。自分なら満足させてあげられる。掻き抱く腕には力を込めて、睫毛の触れ合うまで顔を寄せて、精一杯に、ずっとずっと昔から伝えたかったひと言を唇に託すのだ。
こんな愚図でうすのろの腰抜けな大馬鹿じゃあない、このあたしが、
「綺麗なあたしが、綺麗な娘にふさわしいんだ」
***
一本松まで飛んだ。
飛んだというのもおこがましい。二、三度翼を羽ばたかせたに過ぎない。
それだけで気力が尽きた。羽が萎えて膝も落ちた。節くれだった松の幹が背中に食い込むけれども、動ける気は毛頭しない。それにこの姿勢は心地よい。早苗の言う体育座りは何もかもを心から締め出せるようで、なるほど今の自分に丁度いい。
風が過ぎた。ざわり、松の葉が擦れ合う。これは臆病風なのだろう。
「早苗」
崖の向こうで、祭りが最前と変わらぬ灯りを放っていた。夜に浮かぶ篝火がひどく眩しい。浮かれ踊るどんちゃん騒ぎがひどく遠い。
遠すぎて、幻灯のように思えて、まるで自分が輪から爪弾きにされたようで、
「馬鹿ね」
逃げたのは自分だ。寂しく思える資格などないだろう。
恋人を見捨ててしまってはもう、彼女に合わせる顔もない。
けれども、頃合だったのかも知れない。遠からず切り出すべきだったところに折り良く機会が訪れてくれたのだ。彼女と会ってはならない理由が出来たのだから喜ぶべきだ。
「釣り合わない」、小娘に言われた時、何故足が竦んだのか。
小娘が早苗を抱き寄せた時、制止の声も上げないまま何故立ち尽くしたのか。
小娘が早苗に唇を寄せた時、何故拳のひとつも振り上げなかったのか。
分かったら苦労はしない。分かれば今頃こんな場所で座り込んではいないだろうし、小娘は殴り飛ばして恋人を奪い返せていただろうし、早苗の胸に縋りついて彼女の無事に喜べていたのだろう。肌から伝わる鼓動を聞いて、きっと自分は泣いていたのだと思う。そして、泣く理由を知らない早苗は戸惑いながらも背に手を回し、優しく宥めてくれるのだと思う。彼女の体温を感じながら、祭りの往来で恥も外聞もなく泣きじゃくれたと思う。
けれども現実はこのザマだ。
よりにもよって何故、ここへ逃げてきたのか。見張りに残した鴉は居眠りをしているようだが叱る気にもなれない。「邪魔になるから」、根元に置いていた荷物が今になって邪魔をしてくる。浴衣を包んだ風呂敷が文をせせら笑っている。
後片付けを済ませ着替えようとして、風呂敷包みを解く腕が最後の最後で躊躇った。茂みの向こうではたてと椛がじゃれあっている。「大柄の朝顔が素敵だ」、「流れる水が似合っている」、ふたりは「綺麗」だと互いに言い合い、「かわいい」とはたては抱き付き、「ありがとうございます」と椛の尻尾がわさわさと忙しない。
結局、着替えなかった。準備を整え茂みから出てきたふたりに、「面倒だから」と言い張った。
私は何故、躊躇ったのだろう。
彼女は綺麗になっていく。
初めて会ってからの一年だけで目の眩むほどにもなった。ならばこれからもう一年、さらに二年と経つうちにどうなってしまうのか。何もせずとも艶やかな髪は椿の香油をもってしてもすでに敵わず、好奇心に生き生きと輝く瞳は成人した色香をも湛えるようになるだろう。そして晴れて神となった暁には、成熟の佳境を映す姿を常しえに留めるのだろう。
神格化を断念したとしても、やはり綺麗になるのだと思う。
年老いて萎びた肌には染みが浮き、衰えた腕で杖を突く。目尻にくっきり刻まれた鴉の足跡をさらに深めて、若い頃とはまた違った笑顔を浮かべるのだろう。百姓のセンと同じように、皺の一本一本が生きた証だとでも言うように、誇りを持って笑うのだろう。きっと綺麗だと思う。
変われない自分は、変わらないままだ。
別れるべきなのだろう。
溢れる欲はいつか必ず彼女を襲う。何事かあっても土壇場で彼女を見捨てる。なるほど、害にこそなれ早苗の信頼に足る人物とは到底言えない。別れる理由はこれだけでも十分だというのに、極め付けにはいつまでも変われない容姿がある。
自分の髪は艶などとは縁遠く、まず疑うことから始める眼は彼女を怯えさせる険のあるものだ。
紅をいくら差そうとも、化粧水をいくら擦りこもうとも、香油でいくら整えようとも、何でどう取り繕っても変われなかった。鏡には変わらない自分がいつも映っていた。彼女は綺麗になったのに。
小娘の言葉は心の底では気付いていた真実を、目の前に引き摺り出してくれた。釣り合わないことには疑問を差し挟む余地もなく、風呂で肩を並べることも、髪を互いに梳き合うことも、臥所を共にすることも、気の触れた身の程を弁えない鴉天狗の妄想だった。
別れるべきだ。彼女は綺麗過ぎるから。
手に手を取り合って飛ぶなんて、私なんかには大それた願いだった。
それでも、
「私は、早苗といたいのよ」
***
怖くないなんて嘘だった。
あいつの逃げる姿を見て、汗と涙と震えがいっぺんに噴き出した。
ものすごくかっこ悪い。こんな格好、見せたくない。でも、やっとだ。やっとなんだ。
ねぇ、
「秋穂、見ててくれた? あいつ、やっと追っ払ってやったよ。私が『帰れ』って言っただけであんなにびっくりして。私だってちゃんと出来るんだ。
だからもう大丈夫、安心して秋穂。もう付き纏われることなんかないんだ。鬱陶しかったよね。でもまた来ても、うんん、何度来たって私が追い返してやるから。だから」
だから私といっしょに、揚羽は手を取り、言葉を失った。
秋穂が怒ってる。
「私は秋穂さんじゃありません」
違う?
「違います。早苗です。忘れましたか」
あ、
「いやだねぇ、ごめんよ。ほら、秋穂と早苗があんまりそっくりでちょいと混ぜこぜに
「別にいいんです、私が誰に似てるとかそんなことは本当にどうでもよくて」
一歩、二歩後ずさる。
早苗はこんなに背丈があったのか、揚羽は見上げ、あの天狗と同じくらいだ。
「誰がふさわしいかなんてこともどうでもよくて、そんなこと、私が決めるんです。でもこれも今は関係なくて」
早苗の能面にも似た無表情に射すくめられて、下がる足が地面に張り付く。
どうしてこんなに怒っているのだろう、戸惑う頭が疑問のみに塗り潰された。
「揚羽さんが命の恩人だなんてことも関係ありません」
能面にひびが入った。見る間に割れて零れ落ち、下から表情が現れる。
狂った犬みたい、剥き出された白い犬歯に連想した。折角の秋穂にそっくりな顔が台無しだ。
「文さんにあんな顔をさせたことが」
振り上げられる早苗の腕を目が追った。
背後に下がる提灯と高くに上がった手が重なって、やっぱり指も綺麗だと揚羽は思う。
「許せない」
頬を張られた。
尻餅を突いた地面が硬い。
「きっと」
声に釣られて顔を上げた。
「秋穂さんのことが大好きだったんだろうなと思います」
両腕を脇に垂下げ早苗は肩で息をしていて、苦しそう、ぼんやり眺める。
「でも私は秋穂さんにはなれません」
当然だ。
姿形はそっくりだけれど、それでもやっぱり全然違う。ちゃんと知ってた。
「すみません」
腰を折り頭を下げてから、早苗は飛び去っていった。
小さくなる背中を眺め、どうして、揚羽は思う。
「謝るんだろうねぇ」
あたしが空しくなるじゃあないか、呟きを地面へ落とす。
秋穂も要らないことで謝っていた。無責任なものだと思う。頭を下げられてもますます苦しくなるだけだのに。
目の端を草履や下駄が過ぎていく。千鳥足が正面でたたらを踏んだ。
「おう座ってんじゃねぇぞガキが。踏み潰されてぇのか」
悪かったね、揚羽は腰を上げる。
長椅子へ体を投げ出し、下駄を爪先から振り落とした。
天の川を期待したのに、四方の明かりで空は今ひとつはっきりしない。
「分かってるさ」
秋穂は当の昔に亡くなっている。ひと足先に逝ったあいつと同じ、東風谷の墓に埋められた、そう聞いている。きっと幸せだったのだろうと思う。
孫の七五三が済んでからも、虫干しのたびに揚羽を撫でてくれた。目尻の笑い皺を深くして、けれども唇にはそれと注意しなければ分からないほど幽かな笑みを浮かべて、いつも静かに座っていた。細められた目は揚羽の中に、過ぎ去った思い出を見ていたのだとよく分かる。
そして撫でるだけでなく、揚羽に向かって口を開いたことがある。悟っていたのだろう、ぽっくり逝く直前の秋だった。今でも耳に残っている。まだまだ達者に見えた腕をゆるやかに動かしながら、透き通った声音でただひと言、
――ありがとうねぇ。
秋穂は幸せだったのだ。
自分と同じく、子孫も相手に恵まれるよう願い、験を担いで。
それなら縁結びのお守りでもいいだろうに、揚羽を持ち出して。
「秋穂ときたら、迷惑極まりない婆さんだねぇ」
いくら丁寧に扱われようとも時間には逆らえない。付喪神になった今でこそ誤魔化せているけれども、ところどころ裾は擦り切れ、鮮やかだった蝶達はくすんだ紅の空に舞う。こんな草臥れた自分を着せ付けられて、子供達はよく怒り出さなかったものだと思う。それどころか、早苗は飛び跳ね駆け回り全身で喜んでくれて。
けれども現実は現実だ。綺麗だったのも今は昔、これならいっそ捨てて欲しかった。そうまで良く思ってくれるなら遺言のひとつも残して、秋穂といっしょに焼き場へ連れて行って欲しかった。秋穂の棺に納められ、秋穂を抱いて共に焼かれて、秋穂を覆う灰となり、秋穂と同じ墓に埋められ、いつまでも、いついつまでも。
「分かってるともさ」
それだけ幸せだったのだ。あいつと生きて秋穂は幸せだったのだ。子供達が相手と出会い、恋をして、結ばれ、一生涯添い遂げられることを願わずにいられないほど幸せだったのだ。
「本当に、迷惑な婆さんだよ」
伴侶を世話してくれなんて誰が頼んだ。お節介にも程がある。ひとり身が幸せな奴だっているだろう。
例えばあのおしゃべりな草色だ。あいつは秋穂のお気に入りだと自惚れて自慢していた。けれども一番の自慢は草臥れていくあいつ自身だった。
裾のほつれがいくつあるか何度も何度も数えあげる。どう洗われても襟の垢が落ちないと嘆いてみせる。肘の継ぎ当てはあの日に転んだ時のもの、背中の縫い目は薮を潜り抜けた時のもの。誰よりも早くぼろきれになるだろうとさめざめ泣いて、鬱陶しい。
結局、予想した通り、秋穂の妹に払い下げられ使い古され、あいつは晴れてぼろきれになった。継ぎ当て用に切り分けられて雑巾に回されて最後には燃やされた。くべられた火の中で、あいつはきっと最高に鬱陶しい顔で笑っていたのだと思う。
どうして、あたしもああなれなかったんだろう。
「あたしときたら、なんともまぁ健気じゃあないか、ねぇ秋穂」
褒めてくれたって罰は当たるまい。
秋穂が死んでからも自ら朽ちることを良しとせず、子孫の幸せを祈り続けて、ついには曾孫の早苗をして「命の恩人」と言わしめるほどの大活躍を果たしたのだ。揚羽を残したのは大正解だったと言える。これならいつでも秋穂へ胸を張って報告できる。「子孫は大切に守っている。何も心配することはない」。
そして、手足を持てたからにはまだまだこれで終わらずに、早苗のさらに先の先、糸の最後の一本が擦り切れて塵になるまで東風谷を見守り続けるのだ。きっと秋穂は喜んでくれるから、揚羽へ笑いかけてくれるから。
そうとも、自分が捨てられなかったのはこのためだ。着物の本分など知ったことか。着られる幸せなぞどうでもいい。あたしは秋穂の子孫に幸せの訪れるよう祈り続ける守り神なのだ。何があってもやり遂げて見せようじゃないか。
それでも、
「私は、秋穂といたかったんだよ」
***
十歩の距離に着地しても気付かれなかった。
もしかして寝てるんだろうか、松の根元で微動だにしない文の姿へ不審を抱き、でもそんなに神経が図太かったら逃げませんよね、早苗は首を横に振る。けれどもこうなると少し厄介だ。何かものすごく凹んでるっぽいし、迂闊に声を掛けたら取り返しの付かない事態になりそうで。
うん、きっとこれはあれだ。こっそり近付いて「だーれだ」の出番だ。笑っても大丈夫な雰囲気に出来る奇跡の言葉だ。
足を忍ばせ早苗はそろりそろりと近寄って、あと少し、あと三歩で、
「早苗」
なんだ、気付いてたんじゃないですか。文に応えようとして、やけっぱちに吹き鳴らされる笛が聞こえた。気を取られて崖の彼方に顔を向け、白い尾を引きながら夜空へ上がる花火だった。
半月の白々と照る背景に目映い赤と緑が散って、数瞬遅れて腹の底に響く低音も来る。ぱちぱち油の跳ねるような音の途絶える頃を見計らい、またひとつ甲高い鬨の声を上げながら、光の玉が空の高みへ駆け上る。
弾けた。
「早苗、話があります」
文が立ち上がっていた。
「何ですか」
思ったよりも元気そう、早苗は観察して、でも何か元気とも違うような。崖側の半分を花火に照らされる文の顔は穏やかな笑みを作っている。
どう見ても保護者の目だ、二柱が時折向けて下さる目と同じだ。その癖、感情が抜け落ちていて、何か悟ったような具合の変なもので、やっぱり元気じゃないですよね。
「私と別れて下さい」
この天狗は何を言い出すのだろう。
「それって揚羽さんの言ったこと気にしてるんですか」
「揚羽? ああいえ、はい、そうですね。とは言っても、それはただの切欠に過ぎません」
文は体を崖に向け、空を見上げる横顔が花火を受けて白く染まった。
「前々から考えていました。綺麗云々はともかくとして、釣り合わないと言うのはまさしくその通りです」
「そんなこと」
「まずは聞いてください」
声を上げ、穏やかな声音に止められた。
しとしと雨の降り出すように、ぽつりぽつりと語り出す。
――実際に釣り合わないのですよ。一介の鴉天狗でしかない私より、早苗の格は遥かに上です。貴方はあまり実感を持っていないようですが守矢神社はなかなかどうして、山では一目も二目も置かれている存在なのですよ。神社は広大な湖を丸ごと抱え込んで幻想入りを果たしましたね。あれだけでも皆の度肝を抜くには十分過ぎてお釣りが出ます。そこのひとり娘ともなれば大天狗をも婿に迎え入れられるでしょう。それほどの格なんです。
それがどうしたとでも言いたげな顔ですねぇ。もうちょっと分かりやすく言い換えましょうか。詰まりですね、上手く立ち回れば山の実権を握ることも可能だということです。
ええそうです、とにかくすごいのですよ。分かりましたか。遥かに上というのはそういうことです。ですから釣り会わないことにも納得してくれ……
あやや、落ち着いてください。そう怒られても困ります。『愛ハ全テヲ克服ス』なんて誰の言葉ですか。いえ、早苗の漫画にも似たようなものは散々ありましたが。
はい、『ロミオとジュリエット』なら覚えています。ですがそうではないのです。私達に敵対しているのは八坂様だけでしょう。私が問題にしているのは格です。
ええ、違います。乗り越えるべき障害や打ち倒すべき敵対者ではなく、格です。
いいですか。山は力を求めているのです。権力、軍事力、発言力、言い方は何でも構いません、力です。結局、誰もがお山の大将になりたいのですよ。幻想郷が閉じられてからこちら、山の上に住まうお偉い方々は何をするでもなく宴会を繰り返し、退屈に倦んで、しかし暇を潰せそうな事件は早々起こらない。
さてどうしたものかと暇人達は考えます。先日の天人を真似て騒ぎのひとつも起こせたならいいのですが、それをするには体面が邪魔をする。弾幕ごっこはどうあっても女子供の遊びだと軽んじられがちですからね。では何をするかとなると、行き着く先は権力争いです。言うなればどんぐりの背比べです。雛鳥の羽ばたき合いです。これほど馬鹿らしいごっこ遊びもないのですが、そうなるのですよ。「誰それは斯様な機転を利かせて天魔様からお褒めの言葉を賜った」、「何某は婚儀を迎える友人に床が抜けるほどの財宝を贈ったらしい」。私は書きませんが、こうした噂が内輪向けの新聞を賑わせているのです。どうです、詰まらないでしょう。これがお山なんです。
話が長くなりましたね。では事情を理解してもらえたところで、「私が早苗の恋人であり続けるとどうなるか」を考えます。
ハッピーエンドですか。確かに貴方の言う通り、「ふたりは末永く幸せに暮らしました。めでたしめでたし」とまぁ、私達だけならばそうなることも有り得なくはありません。
しかし山は放って置いてくれないのですよ。
どういうことかというと、こうなります。「神社の巫女と懇意にしている鴉天狗がいる」、「よし、では召抱えてやろうじゃないか。うちに箔が付くだろう」。さらにこうなるでしょう、「ふたりの仲人もうちが務めてやろうじゃないか」。もしかしたらこうなる場合もあるかも知れません、「まだるっこしい、鴉天狗には手を引かせてうちのものを巫女にあてがってやろうじゃないか」。
どうです、面倒でしょう。極端な例を挙げましたが可能性は否定できません。十二分に起こり得ることなのです。よしんば引き抜きを免れたとしても、擦り寄ってくる者が後を絶たないだろうことは明白です。そして私は一介の鴉天狗です。上の方々から宴会や遊興へ招かれて、それを私は断れません。そうこうするうちにしがらみは増えていき、がんじがらめに縛り付けられ、ついには飛ぶことも易々とは叶わなくなるでしょう。
分かりますか、この私が飛べなくなるのですよ。幻想郷最速を誇る、この私が。風雨を纏って飛び続けてきた、この私が。自由をこよなく愛し、風を呼吸しなければ生きていけない、この私が!
……失礼しました。少々熱が篭りすぎましたね。何であれ、理解してもらえましたか。別れて欲しいというのはこういうことです。聞き届けてくれたなら生涯、貴方に恩を感じ続けるでしょう。命の恩人と言っても差し支えありません。ですから、
頑なに夜空へ向けられていた文の目が早苗を見た。
「私を助けると思って、別れてくれませんか」
ぼうと文の頬が花火に照らされ白く染まって、どんと弾ける音もした。
卑屈な目だ、早苗は拳を握り固める。鴉天狗の誇りはどこに消えたなんて今更言わない。芝居がかった大仰な身振りは鼻が曲がりそうなほど胡散臭いなんてことも放っておく。
けれどもこの目は無理だ。吐き気がする。
前かがみの腰を蹴り付けたい。頬の曖昧な微笑が癇に障る。へりくだった口元を張り飛ばせたならさぞ胸がすくだろう。
それが恋人へ向ける目なのか。許しを乞う、媚びへつらう、今にも土下座をしそうな目なんて見たくなかった。私の恋人が、こんな人だったなんて情けなくて涙が出そうだ。
嘘を吐けない大根役者がこんな三文芝居を演って、一体どこの誰を騙す心算だ。
「それに、恋人を見捨てて逃げる私には貴方も愛想が尽きたでしょう?」
見くびるな。
「文さん」
震え出そうとする息を努めて細く、長く吐き出す。
「ここへ来る前にパチュリーさんへ会いに行ったんです。そしたらなんて言われたと思いますか」
文が顔を強張らせ、ざまあみろ、早苗は思う。
知らないと考えたのが運の尽きだ。私は知ってる。
「『貴方もなの?』って。おかしいですよね。笑っちゃいました」
私は知っているんだ。
私を探してどれだけ飛び回ったのか、どんな言葉でパチュリーさんを説得したのかちゃんと聞いてる。例え知らなかったとしても、私を見つけた時の泣き出しそうな顔で十分だ。
一歩、二歩、大股に近寄って、逸らされた文の頭を無理やり自分へ向けさせる。
「私の目を見てもういちど言ってください」
覚悟しろ。
「そうしたら聞いてあげます」
着込んだ嘘をひとつ残らず引き裂いてやる。
「本当に、私と別れたいんですか」
***
早苗に覗き込まれた。
磨き上げた翡翠のような瞳には感情が燃え盛っていて、綺麗だ。
彼女と別れたいか? 決まっている。何のためにこんな芝居を打ったというのか。
傍にいれば絶えず体が熱を持つ。離れたら離れたで夜も眠れないほど息苦しくなる。笑顔を向けられただけで心の躍る自分が涙の出るほど情けない。泣き顔に他愛なく狼狽する自分が心底嫌だ。朝日を見ればまだ寝ているだろうかと考えて、夕日に会ったら今頃何を料理しているのか想像する。いつも彼女が頭にちらつき筆を取る手の邪魔をしてくる。
別れられたならば全ての苦痛から解放されるのだ。こんなに嬉しいことはない。肌の触れ合うこともなく、挨拶を交わすこともなく、顔を見ることもなく、平和な日常を過ごせるのだ。実に結構なことじゃないか。
二度と、早苗の笑顔を見ることもなく。
「あ」
膝が震えて、肩が震えて、喉が震えて、
「はなしてっ」
ほら見ろ、彼女は人間だ。たかが人間の小娘だ。たったこれだけで振り払えるひ弱な生き物だ。こんな脆弱な人間だ。瞬きをふたつ、みっつ繰り返すだけで寿命を迎えているだろう。いつもそうだった。八五郎もセンも阿弥も馬鹿みたいに笑っていると思ったら次の日には死んでいた。早苗も変わりはしないだろう。それも死ぬ前に別れてしまえばすぐ忘れられる。彼女の笑顔もあっという間に忘れられる。
だから、この涙も嘘に決まってる。
「失礼しました。お答えしましょう、それはもちろん別れたいです」
盛大な溜め息がひとつ聞こえて、
「もう、目を見てって言ったじゃないですか」
そんなことを言われても困る。最後くらい見栄を張らせて欲しい。
何度拭っても涙が切れない。鼻水まで溢れ出るのも時間の問題で、こんなみっともない顔を早苗の記憶に残したくない。尤も、今更なのかも知れない。思えば自分はいつだって泣いていた。彼女と喧嘩して、彼女の寿命を思って、今また醜態を曝している。
でも、こんな顔を見せるなんて嫌よ。嫌なの。せめて早苗の思い出の中だけだって、私はちょっとでもましでいたくて
「そこな鴉天狗、面をあげいっ!」
なに。
「妾は稲荷大明神の御使い……は恐れ多いですね」
半月と花火を背負って、白い面に白い浴衣の狐がいた。
「とにかくっ、通りすがりの狐なのである。見ればひどく悩んでおるようではないか。妾に何でも申してみよ。そちの話を聞いてつかわす!」
早苗は何をしたいのだろう。
ご丁寧にも扇子まで広げて、あれで威厳を出している心算なのか。
「たかが野狐如きに慰められる覚えはありませんねぇ」
「失敬な。妾を八坂大明神の御使いと知っての暴言か」
畳んだ扇子を突きつけられた。
「通りすがりの狐じゃなかったんですか」
「通りすがった御使いの狐なのである」
随分と都合の良い。
「あ、笑いましたね、じゃなくて、ええと」咳払いをひとつして「とにかく悩みである。思い詰めた顔が真っ青になっておるではないか」
余計なお世話だ。だから隠していたんじゃないか。
「ひとつもありませんよ。強いて挙げれば、どうしたら頑固な人間と別れられるかですね」
「強情な天狗であるな」
それも余計なお世話だ。「清く正しい射命丸」の看板を守り通すなら、強情なくらいが丁度いい。
しかし早苗は何の芝居をしようというのか。悩みなら大きなものがひとつあったが、それは既に解決している。解決しかけていた。早く切り上げさせて欲しい。
「ふむ」
こくり、小首をかしげて早苗はくるり、後ろ手に夜空を見上げる。
崖の向こうには遠目にもはっきりと花火の煙がたなびいて、打ち上げられた菊花を雲の中に隠していた。
「妾にはいくつでもあるぞよ」
知っている、文はいくつでも覚えている。
外の思い出を捨てられないと泣いていたことがある。神になる自信を持てないと嵐の中へ飛び出したこともある。何かしら悩みへ直面する毎に彼女は思い詰め、周囲をやきもきさせ、泣いて、けれども最後には笑っているのだ。些細なことだったと笑い飛ばして、次の日にはより逞しくなった姿で、何事もなかったかのように境内を掃いているのだ。そうした時、彼女の見せる笑顔は本当に綺麗で。
どうしようもないわね。結局、外見でも内面でも自分はふさわしくなかったのだろう。今更気付いたところで何というものでもないけれど、せめて早苗の強さを見習いたい。明日には無理だろうが、ひと月かふた月か、一年か十年か、何であれ出来る限り早くに振り切って笑顔になろう。
「例えば、妾の恋人が腰抜けだとかであるな」
それも知っている。遥かな昔から変われなかった性分だ。
「妾の恋人は意外と泣き虫だということも悩みである」
知っている。まさしく今の自分だ。
この調子だと「妾の恋人」に関する愚痴で終始するのだろうか。結構なことだ。それで気が晴れるなら何とでも言って欲しい。餞別代りと受け取って手帳に書き付けておこう。
「他にも」
ひとつひとつの欠点を直せるよう精進しよう。
読み返して「馬鹿だった」と笑えるようになる時も、いつか来るのだと思う。その頃には流石の自分も少しくらい変われているのだと思う。
「徹夜明けの恋人は臭いとか」
なんですって。
「鶏の飼育小屋に入った気分になるな。いかにも鳥って感じで頭痛がしてくる。疲れているのは分かるが水浴び程度は徹底してもらいたいものよ。
羽に全然触らせてくれないけちんぼだということもあるな。くすぐったいのか照れているのかは知らぬが減るものではなし、けちけちせずに妾へ委ねてくれてもいいだろうに」
常に餌の傍で暮らす、匂いの染みやすい鶏といっしょにしないで欲しい。徹夜だろうとひと晩くらいならそうそう臭わないはずだし、羽繕いだけは朝晩欠かさずしっかりしている。
翼の乱れで風を掴めなくなれば難渋するし、あまり触って欲しくないのも同じ理由からで、最近はそうでもないが始めて触れられた時は滅茶苦茶にされて正直泣きそうになった。
「まだまだあるぞよ。好きだと言うからクッキーを焼いたのに気付かない鈍感っぷりとかもだな。あれでよく新聞記者が務まっておるものだと逆に感心するわ。
キスもろくに出来ない初心加減もそうだ。少し迫っただけで逃げ出す腰抜けの癖に、妾が他の者から頬へキスを受けるだけで、葉団扇まで持ち出して妨害してくるから困っておる。それくらいなら自分からしてみろと言うのだ」
クッキーは早苗も悪い。まずにとり達に渡した後で、ついでだとでも言うように私へ向けるのだ。一度などは手を伸ばしたところで取り上げられ掛けたこともある。非難したいのはこっちの方だ。それで私のために焼いてくれたなんて分かるわけないじゃない。
口付けだって最近出来るようになったでしょう。まだ頬までだけど慣れたら唇も重ねられるようになるし、大体私だってしたいのよ。
「身だしなみに気を遣わない乙女心の無さもあるな。デートだというのに仕事着で来ようとしたこともあったのぅ。あれはひどかった。恋人の自覚があるのか思わず問い詰めたくなったぞ。
今日もひどい。折角のお祭りに礼装で来たのだぞ。それも着替えを用意していると聞いていたにも関わらずだ。
それに、見ろ。妾が気付かぬとでも思ったか。恋人は髪に櫛を入れて爪もやすりで整えて、あまつさえ唇には紅まで引いておるのだ。どう考えても準備万端ではないか。それでも『着替えるのは面倒』だと抜かしおった。ばればれな嘘まで吐いて何を誤魔化そうというのだろうな。ちゃんちゃらおかしいわ」
安い挑発だと分かってる。
「他にもだな」
「もういいでしょう」
分かってるし、言われなくとも全て知ってる。
赤くなるまで肌を磨いた。羽根の一本まで捩れのないよう整えた。紅を引き直した回数は覚えていない。目の隈を隠そうとした白粉は厚過ぎて、鏡の中の塗り壁に四半時笑い通した。浴衣に皺や糸屑のないことを晩に十回確かめて、明け方にもう二十回見直した。
最後に挫けて浴衣も化粧も何もかも台無しにしたのは自分だ。分かってる。
でも、私だって、
「私だって早苗に見て欲しかったわよ」
早苗にだけは言って欲しくなかった。
「でも仕方ないじゃない」
半月が照っている。枝垂れ柳や菊の花、咲き乱れる花火達はひと時も黙っていない。
一度火を点けられてしまったのなら、あとは空へ上がって弾けるしかない。
振り向いた狐姿を視界に捉える。白い面に言葉を投げた。
「早苗はいいわよ。綺麗だから」
初めて見た時から綺麗だった。
馬鹿らしいほど大きい夏の夕日を背負って飛んでいた。全身に風を纏って髪を靡かせ、力の限りに喜びを舞っていた。見蕩れていたことに使い魔から言われるまで気付かなかった体たらくで、どうして早苗はそんなに綺麗なのよ。
「でも私が浴衣で並んでみなさい」
気晴らしに誘った紅葉狩りでは、情緒も風情もなく落ち葉を掻き集めて笑っていた。「境内の掃除で見飽きた」と言ってのけたうんざり顔はどこへやったのか。
福良雀のように着膨れて雪透かしをしていると思ったら、いつの間にか脱ぎ捨てて普段の格好になっていたことがある。手伝えと怒る顔は紅潮し、雪の照り返しに汗が煌いていた。
笑っても怒っても泣いていても、ただ飛ぶだけの姿でさえどうしようもなく綺麗で、
「釣り合わないって分かるでしょう。私は早苗みたいに綺麗じゃないから」
結局、嘘だった。
溢れる欲でいつか彼女を襲うだろうから。
欲を見透かされて情けを掛けられたくないから。
何もかも嘘だった。
「そんなの嫌よ」
気付いたら終わってしまう。
肌を磨いて化粧をして身だしなみも整えて、けれど彼女も同じようにしているのだ、追いつけるわけがない。彼女に自分は取り残されて、隣をもう飛べなくなる。どうして肩を並べて風呂に入れるというのか。どうして枕を並べて眠れるというのか。
能天気に笑う馬鹿が隣にいて、何故彼女も笑えるというのか。
「釣り合わない女が傍にいたら迷惑でしょう」
いつも彼女の笑顔を見てきた。いつまでも笑っていて欲しかった。
なのに、私がいたらその内きっと笑えなくなる。隣で笑っていて欲しいなんて我侭で、それならせめて笑顔を曇らせることのないように。雲の合間から境内を盗み見て、そこに笑顔があったならそれでいい。きっとその日は暗くなるまで、月の沈むまででも飛び続けられるだろう。写真なんて必要ない。忘れるなんて絶対ごめんで、何度も何度もまぶたの裏で彼女の笑顔を転がすだろう。転がすたびに翼には力が宿り、空の果てまで、月までだって届くと思う。
それだけでいい。笑っていてくれさえするのなら。だから、
「だからもう、別れさせて」
膝が折れた。突いた土はまだ暖かい。
どうしようもなく我侭だと分かってる。一方的で彼女のことを考えないものだと知っている。けれども自分はもう耐えられない。気付いてしまったらもう隣で飛ぶなんて無理に決まっていて、顔を合わせるのもやっぱり無理で、こんな顔を見せたくないしもう逃げたいけど翼がどうしても動かない。
早苗は分かってくれるだろうか。分かって欲しい。分かって、私から離れて欲しい。
「もう、どうして文さんは」
呆れた声。当然でしょう。私なんかを恋人にしていたら誰だって呆れるわよ。
土を踏む下駄が近付き、張り飛ばされるだろうか、ただ絶縁を言い渡されるだろうか。何であれ早くして欲しい。早く彼女の見えないところに行きたい。早く、
「そんなにかわいいんですか」
包まれた。
投げ捨てられた狐の面が地面の上で踊っている。
回された腕が背中を押して、早苗に体を押し付けられて、彼女の香り。
「文さん、私は怒ってます」
当然だ。けれどもそれならどうして貴方は、そんなに優しい声音で言うの。
放して欲しい。このままだと貴方の声で溶けてしまう。
「いつもいつもかわいいし綺麗だって言ってるじゃないですか。失礼です。もっと信用してください」
そんなはずがあるか。
いつもいつも鏡を見てきたから断言できる。早苗から聞いてすぐに豊穣神から化粧水を分けてもらったのだ。似たような時期に使い始めて何故、彼女とこうも違うのだ。何故かなんて知っている。元が決定的に悪いからだ。
釣り合わないのも当然で、だから別れさせて欲しいんだ。
「そんな風に『いやいや』されたら頭撫でたくなっちゃうじゃないですか」
言う前から撫でているだろう。止めて欲しい。指が優しい。
このままだと別れられなくなる。折角の決意が溶けてしまう。
「文さんは私のこと綺麗って言ってくれましたよね。だったら、これには秘訣があるんです」
秘訣?
「秘訣です、取って置きの秘密です。私はこれで綺麗になれましたし、疑り深い文さんだって絶対なれます。知りたくないですか」
もしも、そんなものがあるのなら、
「知りたそうですね。素直な態度に免じて教えてあげます。心の広い私に感謝してください。これは超極秘機密なんです。長生きで博識な文さんでも絶対知らないトップシークレットなんですよ」
もしも、そんなものがあるのなら、私だって早苗ほどじゃなくても、早苗みたいになれて。
もしかしたら、はたてと椛みたく互いに綺麗だと言い合えて、
もしかしたら、早苗の前でも気後れせずに立っていられて、
もしかしたら、早苗と手を繋いで歩けて、
もしかしたら、早苗の隣で飛ぶことも、
まさか、そんなものあるわけない。
「いいですか。よーく聞いてくださいね」
でも、早苗の目はからかってなくて、もしかしたら、もしかすると。
どうか、あって欲しい。私が変われるのなら、早苗といっしょにいられるのなら、早苗の笑顔を隣で見ていられるのなら、早苗と笑い合えるのなら、どうか、どうかお願い。
「女の子は、恋をしたら綺麗になるんです」
それだけ?
「なんですかその目、嘘じゃないですよ。実例がここにいるじゃないですか」
でも、それは早苗だからで、
「文さんと同じで頑張ってきたんです。糸瓜ってすごいですよね、文さんの肌もこんなにすべすべで。
そういえば穣子様も静葉様も爆笑なさってましたよ。『関心なさそうな振りしてるのに必死すぎて、面白かったからあげちゃった』なんて。ちゃんと使ってるみたいで何よりです。しっかり綺麗になってるじゃないですか」
でも、私は女の子なんかじゃなくて、
「女の子なんです。自分に自信を持てなくて涙が出ちゃうなんてどこまで乙女なんですか。漫画にだってそうそう出てきませんよ。
それに文さんが『綺麗じゃない』なんて言うの殆ど嫌味ですよ。私は綺麗な文さんに『綺麗』って言って欲しくて頑張ってきたんですから。私の努力を泣いてまで否定しないでください。私まで泣けてくるじゃないですか」
でも、そうしたら、早苗の言うとおりなら、
もしかしたら、もしかすると、私はもう、
「文さんは、綺麗になりました」
ほんとう?
「本当です」
だったら、
「さっきはすみません。もう置いてけぼりにしないように頑張りますし、もしはぐれても今夜の文さんみたいに探します。
ですから我侭ですけど、でも、もういちど約束して欲しいんです」
それなら、
「文さん、私を離さないでください」
私は、早苗といていいんだ。
***
「まだですか」
「まだです」
九回目。
「もーいーかい」、「まーだだよ」。かくれんぼは延々続く。でもやっぱり「だるまさんが転んだ」なのかも知れない。振り向いている間、文さんは松の影から顔も出そうとしないのだ。
体育座りで夜空を見上げ、手持ち無沙汰に花火を数える。ひとつ目は赤い牡丹でふたつ目の枝垂れ柳が被さった。みっつ目には緑の大玉、ぱらぱらと星が散る。四つ目、五つ目、途切れもせずに夜空へ花が咲いていく。祢々子さんはずっとあの下で頑張っているんだろうか。
美人だったなー。ちらっと見えた感じだと切れ長の目が凛々し過ぎてエロ過ぎて、あれで見詰められたらときめいてしまいそうだ。私もあんな風に色気を出したい。そして文さんをこてんぱんに悩殺するのだ。
というかそろそろ悩殺されたいのに、
「もういいですよね」
「駄目です」
記念すべき十回目。
拷問染みた衣擦れは五回目あたりでとっくに止んでる。
エロかった。
音だけなのにどうしてあんなにエロいんだろう。今のは礼装の帯を解いた音だなとか、今度は浴衣の衣紋を抜いたんだなとか想像できて、うっかり襲い掛かりそうになった。むしろ襲いかけて使い魔に思いっきり威嚇された。焼きもろこしでもあったら買収できてたかも知れないのに、惜しい。
今度から何か持ち歩こうか。クッキーは美味しそうに食べてくれたし、でもオーブンの準備が面倒だ。ポン菓子なんかいいかも知れない。でもあれってどうやって作るんだろう。ポップコーンみたいにお米を炒るとか? そんなの聞いたことない。今度調べてみよう。
「お祭りっていつまで続くんでしょうか」
「鶏が鳴くまでです」
「なんかそんな昔話がありましたよね」
「どういうものですか」
「そのままですけど。日の出と共に妖怪達の宴会は、まるで夢だったかのように消えたのでした、みたいな」
「昔話じゃないですよ。昔からこうなんです」
由緒あるお祭りなんだろうか。それでもやっぱり、
「お祭り、消えませんよね」
「消えませんよ。御伽噺じゃないんですから」
だったらいいんだけど。
今夜の文さんは夢みたいにかわいくて、これが本当に夢だったら枕で血の涙を拭う羽目になる。
でも、今夜はほんとに夢みたいだ。綺麗でかわいい、私にはもったいないほどの恋人が浴衣を披露してくれるのだ。こんなの夢でも叶わないかも知れない。
でも、今夜はほんとに夢のようで、このかくれんぼもどきも実は幻だったとしたら?
一本松も文さんも何もかも私の夢で、もしかしたら今日の文さんも、今までの文さんも、私が幻想郷に来たのも全部全部私の夢だったら?
文さんが出てきてくれないのも使い魔が邪魔してくるのも全部夢から醒めたくないだけで、松の向こうを覗いたら夢から醒めて、本当は外にある私の部屋で、私がひとりっきりで寝ているだけで、神奈子様も諏訪子様も神社からいなくなってて、ひとりっきりの私も実は夢で、外にいる私は、納戸の奥で体育座りをしていて、
「文さん、そこにいますよね」
出来るだけゆっくり息を吸い、吐き出した。
音を立てたら弾けてしまう。深呼吸をもうひとつ、鼓動がうるさい。静かにして。
振り向いたら崩れてしまう。もうふたつ、文さん、ちゃんといますよね。本当にいますよね。
何もなくとも消えてしまう。みっつめ、どうしたんですか、早く返事してください、文さん、早く、
「いるわよ。どうかした?」
どうかしてます。
声だけで涙が出そうになるなんて、どうかしてなきゃ何なんですか。
「えっとですね」
「何」
恥ずかしいけど、もう無理だ。
「寂しいです。まだですか」
十一回目。
期待なんかしていない。「もーいーかい」に「もーいーよ」は聞こえない。
でも「まーだだよ」も「まだです」も「あと少し掛かります」も全然なくて、膝の間に顔を埋める。
いないはずがない。これが私の夢だなんて傲慢だ。綺麗な文さんも、かわいい文さんも、かっこいい文さんも全部全部現実で、私はそう信じる。文さんは恥ずかしくて躊躇っているだけだ。きっとそうだ。こうしているうちに文さんは今に「もーいーよ」って出てきてくれて
「もういいわよ」
かくれんぼが終わった。
「早苗?」
終わったはずだ。でも、振り向いていいんだろうか。
かくれんぼの鬼は私で文さんは隠れる役で、「みーつけた」であっというまに終わってしまう。そんなのは嘘だと思う。
でも、そんなのも嘘だと思う。私達はかくれんぼなんかしていない。私は待っていただけで文さんは着替えていただけ。「みーつけた」なんかいらなくて、ただ振り向けばいいだけで。
でも、文さんがいなかったら? 夢のように消えてしまったら?
「待たせて怒ったんだったらすみません」
「見てくれないの?」って聞こえた気がして、怒ってません。怒るはずないじゃないですか。
怖いんです。
どうしようもなく女の子で、敵いっこないくらい女の子で、綺麗でかわいくてかっこよくて、そんな人が私の恋人だなんて怖いじゃないですか。こんなことあっていいのかなんて疑いたくて、怖くならないほうが嘘じゃないですか。
でも、文さんが出てきてくれたんだから、今度は私の番で、私だって、出来る。音の出るほど息を吸いこみ、思いっきり振り向いて、
「よかった、怒ってないんですね」
夢を見ているのだと思った。
「どうでしょうか」
銀色の月明かりが降っている。
伏目がちにはにかむ顔、紺地の浴衣と染め抜かれた萩の葉に、行雲のすっきりした白い帯、花火に照らされ全身まで白く浮かんだ。遅れて音が鳴り響き、ぱらぱらと散っていく。
ひとつふたつ近寄って文の強張った頬に手を伸ばし、泣き腫らして兎になった目元を過ぎて、前髪はさらさら指から零れていって、
「くすぐったいです。感想が欲しいのですが」
夢じゃない。
抱き締めて、しゃらと鳴る衣擦れも乾いた麻の涼しさも、弾かれそうなほど滑らかな肌も溶けそうなほど柔らかい体温も本物で、そして文さんの香りがする。飛び回った夜空の欠片と、私を探してくれた汗の匂い。
「綺麗です」
――もっと具体的にお願いします。
気の利いたことを言いたくて、けれども何も出てこない。
「本当かしら。見ながら言って欲しいのに」
「本当ですよ。じゃないとこんなにどきどきしてません」
ぎゅっと体を押し付ける。
合わせて文さんも腕を背中に回してくれて、
「早苗と私、どっちか分からないじゃない」
「それじゃあ私達ふたりともなんです」
頭の後ろで声がする。喉だけで笑ってる。
私の口からもくつくつと漏れ出して、どうしてこんなにおかしいんだろう。
「でも、ありがとう。早苗も綺麗」
ふかふかな翼のように柔らかい声は文さんで、ひと口だけで酔いそうなほど甘い匂いも文さんで、この腕もこの胴も文さんで、全部本物の文さんで、全部私の恋人だ。首筋に頬を当てれば文さんの鼓動が聞こえる。このメトロノームだけでマーチングバンドよりも楽しいリズムになっている。頬と重なる肌が熱くて、抱き締めた胴も熱くて、全身まで熱くて、オーブンの中より熱くて、けれど少しも火傷をしない温かさだ。張り付いて、吸い付き合ったままチーズみたいにとろとろ溶ける優しい熱だ。
世の中、贅沢なことはいくらでもあるけれど、私にはこれが最高の贅沢なんだろう。いつまでもこうしていたい。朝になるまで、日が昇ってもこのままでいられると思う。
でも、もっと欲しい。これだけじゃ全然足りない。我侭な私がどんどんどんどん大きくなって、もう私には止められない。止めたくない。
すみません文さん、でも折角なんですから、もう少し欲張りになってもいいですよね?
「早苗?」
最後に一度ぎゅっとして、頬を文さんから引き剥がす。
なんだか本当に溶けて張り付いていた気がして、痛さもあったような気までして、寂しい。間近で覗き込んだ柘榴のように赤い瞳もやっぱり少し泣きそうになっていて、二、三度まばたきをして、
「ああ、祭りですか。いつまでもこうしているわけにもいきませんね。そろそろ行きましょうか」
この天狗は何を言い出すのだろう。
「どうしてそんないじわる言うんですか」
「違いましたか?」
「違います。全然違います」
雛さんのにとりさんへ冗談半分に送る視線はエロ過ぎる。いつも見ていたから覚えてる。
だからって真似できるなんて思えないけど、
「ちょっと訊ねたい疑問があるんです」
「なんでしょうか」
「私って小さい頃によく『妖怪にとって美味しそうな匂いがする』って言われてたんです」
「まぁ、子供ならば大抵はそうでしょうね」
「それでですね」
文さんをこてんぱんに悩殺するのだ。
「私は、美味しそうな匂いがしますか?」
戸惑っていた柘榴の目は訝しそうに細められて、いきなりまん丸になった。どうしよう、すごく楽しい。
焦る瞳は右に左に行き来してからそっぽを向いて、でも今度こそ逃がしませんよ。胴体はまだまだがっちりキープ中で、飛ぼうとしてもくっついてくし、振り払われても全力の風で叩き落してあげます。
さあ、どうですか。
「そうね」
あれ?
「早苗にしては回りくどいわね。食べて欲しいのならそう言いなさい」
なにそれ。
なんですかそれ。
予定だと文さんは「それは、ですね」とかなんとか口ごもってあわあわするはずだったのに。
湯気の出そうなほど真っ赤になってがちがちになった姿を思う存分堪能した後、私はぎゅっと抱きついて「文さん、かわいい」って耳元で囁きまくるのだ。体を捩って悶える文さんに、まずは髪からキスを落としていって、耳や首を舐めるたびにエロい呻き声が漏れ聞こえてきて、ゆっくり顔に近付いていき……
「黙っていたら分からないでしょう。どの道、食べることは変わらないけど」
恥ずかしがって逸らされるはずだった柘榴の瞳が、まっすぐに私を覗き込んでいて。
どうしよう、かっこよすぎる。
「かわいいわよ、早苗」
変な声を出すのは私の方だった。
頬に添えられた手が熱くて溶けて吸い付いて、これだけで気持ちいい。熱めのお湯に浸かったときよりよくて、でもお風呂みたいにリラックスなんて絶対無理だ。
気持ちよすぎて力が抜けて、足も体を支えられなくなって「危ないわね」抱き止めてくれた腕まで熱い。浴衣があるなんて嘘だと思う。肌が直接触れ合ってる。隙間もないほど張り付き合ってる。熱が全部気持ちいい。
このままだと茹だって死ぬ。
「遠慮なんかしないから。覚悟なさい」
花火の白い光の中で文さんの唇が、桜色に浮かび上がって。
キス、口付け、ベーゼ、接吻。
いいですよね? 大丈夫なんですよね? ちゅーしてもいいんですよね? ちゅーしたら死にそうだけど、今だってなんかもう溶けそうだけど、もう溶けてるけど、でも
「ずっと」
あれ?
「貴方が欲しかった」
兎になった目の端に楕円の涙が光ってる。丸く膨らみ零れて落ちた。
文さんが泣いている。
どうして、
どうして最後まで持たないんですか。
大人な文さんのリードでキスまでいって欲しかったのに、夜景に花火にふたりっきりっていう最高のシチュエーションだったのに、全部台無しじゃないですか。唇は知らない人に怯える子兎って勢いで震えているから色っぽさが台無しで、目は締りの悪い蛇口って感じで水滴を零しているからかっこよさが台無しで、全部全部台無しじゃないですか。そんなのだともったいないお化けが出ますよ。
けれども、愛しい。
どうして貴方は、そんなにかわいいんだろう。どうして想われるって、こんなに温かいんだろう。
貰ってばかりじゃ申し訳なくて、少しでも想いにお礼をしたくて、負けないくらい想ってるって応えたくて、
「私もです」
ちょっと見え辛いかも知れませんけど、文さん、気付いてくれましたか? おかしいですよね。私も泣いてるんですよ。くしゃくしゃに歪んだ頬も見っともないほど溢れる涙もそっくりで、文さんとお相子なんです。私も台無しにしてしまいました。
でも、おかしいことなんてひとつもないんです。
貴方を想えることが嬉しいんです。貴方と同じように泣けることが嬉しいんです。貴方のいてくれることが何よりも嬉しくて。
「言葉に出来ない」なんて陳腐な表現ですけど、そんなの嘘だってずっと思ってましたけど、でも本当だって分かってしまいました。
私は貴方に伝えたい。けれども言葉以外でなんて他に思い付かなくて、だから、
私からもさせてくださいね、文さん?
***
抗う私は最後の嘘で、彼女は優しく暴いてくれた。
彼女の奥で、花火が聞こえる。
私達が溶けていく。
***
夏が終わるのだと師匠は言う。
六華はちょっと寂しい。
夏が終わると氷は少し売れにくくなる。顔馴染みもあんまり来なくなってしまうし、六華はとても暇になる。あんまり暇で退屈で、お揚げとそっくりな雲を探してしまうほどだ。もみ姐は涼しくなっても遊びに来てくれるのだけれど、六華はやっぱりちょっと寂しい。
それに師匠の言うことはちょっと違うと六華は考える。夏が終わるのだと師匠は言うけれど、夏は終わらないのだと六華は尻尾をぐるぐる追いかけながら考える。一回目の記念日も二回目の記念日も、最初の大事な思い出も、全部全部夏だったのだ。だから夏は終わらなくて、ちょっとお休みするだけなのだ。冬篭りといっしょだ。秋冬春篭りだ。
けれどもやっぱり夏は終わるのだとみんなも言う。
あの変な人間も言っていた。夏が終わるからキャンプをするし、キャンプは夏の終わりにうってつけなのだと人間は言っていた。あー姐と今度こそ「ロマンスヲハグクム」らしいのだけれど、六華はよく分からない。それでもひとつだけちゃんと分かることがある。キャンプは楽しいのだ。
師匠はいつも楽しそうに宴会へ行く。そしてキャンプは宴会とそっくりらしくて、だからキャンプもきっと楽しいと分かるのだ。
それに女の子がいる。
女の子と友達になって欲しいのだと人間は言っていた。人間の背中に隠れてもじもじしている女の子は、なんだか昔の六華みたいで六華はちょっと笑ってしまった。それから六華は嬉しくなって、寂しくなった。おかっぱな女の子は六華と同い年くらいで、山のことはあんまり知らないらしくて、昔の六華とそっくりだった。
だから今度は六華の番なのだと六華は思う。
山を知らない昔の六華を、師匠は色んなところへ連れて行ってくれた。凍った滝はお日様で虹色に光ってたし、六華の下でゆっくり泳ぐ魚が見えた。ぽっかり開けた窪地には花がいっぱい咲いていて、遊んでいたら尻尾に草がいっぱい付いた。蝉の鳴き声に囲まれて、きらきら綺麗な沢で蟹に指を挟まれて、六華はとても驚いて、師匠はすごく笑ってた。赤と黄色の森を抜けると大きな木が立っていて、師匠に背負われて天辺まで登った。天辺から見た夕日は六華を呑み込んでしまいそうなほど大きくて、本当に呑みこまれてしまった六華は暗くなるまでずっと見ていた。師匠と色んなところに六華は行ったし、とても楽しかったし、全部大事な思い出だ。
だから六華の番なのだ。昔の六華とそっくりで寂しそうな女の子に、山はとても綺麗で、びっくりするほど綺麗だと教えてあげるのだ。それにカキ氷がある。もちろんキャンプに氷の道具を持っていくし、氷は綺麗で美味しいし、女の子もきっと気に入ると六華は思う。
だからキャンプは絶対に楽しいと分かるのだ。
近頃、ちょっと物知りさんになってきた六華は知っている。こんな風に分かることを「予感」というのだ。
けれども予感はちょっと違うと六華は思う。ぐるぐる尻尾を追いかけながら、ちょっと違うと六華は思う。予感はたんぽぽの綿毛みたいにふわふわしていて、ちょっと目を逸らしていたら風で飛んでいきそうなものだ。六華は絶対分かるのだ。キャンプは絶対楽しいに決まっているのだ。
なんだか尻尾がむずむずしてきて六華は困った。こういう時には何と言えばいいのか六華は困って、耳までむずむずしてきたからがりがり掻いて、じっとしていられなくなるほど困ったのでどたばた駆け足をして、それでもやっぱり分からないから尻尾がどんどん膨れ上がって、このまま困っていると爆発しそうで、
「準備は出来たか」
師匠。
「ってなんだ六華、引っ張るな、しがみつくな、よじ登るなっ。またなんか気になることが出てきたってのかい」
やっぱり師匠だ。六華のことならなんでも分かる。
「やっぱりか、あたしは学がないんだからむつかしいことは御免だよ。あー姐に聞きな。キャンプにも来るから丁度いいだろう」
師匠ならきっと知ってる。師匠は物知りさんだと六華は知っているのだ。ちょっと土を混ぜて硝子に泡を作るやり方だとか、穴を開けて氷を割るやり方だとか全部師匠に教わったのだ。師匠はなんでも知ってるし六華にいつも教えてくれるし「揺らすな危ないっ」分からないことなんかひとつもないし
「分かったっ、分かったから降りろ!」
降りた。
「まったく、そろそろ出る時間なんだよ。こないだみたいに『夕日の寝る場所』だの、『蜘蛛が網に引っかからないのはどうして』だのなら歩きながら説明するから今は我慢しな。それで、何が知りたいんだって」
ふわふわした予感じゃなくて、もっと硬くてどっしりした感じの言葉。
「ああそんなことか。そりゃあれさ、『確信する』ってんだよ。必ずあるって信じられる時に使うのさ。他にも言い方はあるんだろうが、そういうのはあー姐に聞きな。記者なんだからお手のもんだろうさ。これでいいか」
「ありがとう」を言って、六華は何度も何度も思いっ切り頷いた。
やっぱり師匠は優しいのだ。優しくて物知りさんで、いつだって困った六華に教えてくれるのだ。
そしてキャンプは絶対に楽しいと六華は信じられるし、カクシンしているのだ。ちょっと物知りさんになれた六華は嬉しくて、何度も何度も楽しいのだとカクシンする。
「ってなんだ、全然出来てないじゃないか。やることやってから悩めってのに、お前って奴は」
カクシンするのを止めて、六華は困った。
すかすかの何も入っていないリュックは寂しそうで、ごろごろおもちゃが畳の上に転がっている。
「あたしは外で待ってるからさっさとしな。ぐずぐずしてると置いてくよ」
それは困る。すごく困る。耳の先っぽまで驚いて六華は慌ててリュックを掴む。
河童印のリュックは頑丈で、六華はとにかく詰め込んでいく。まず拳骨は大切だ。拳骨は面白い変なおもちゃで女の子もきっと気に入ると六華は思う。それから独楽とびっくり箱と、人間にもらったお人形さんも忘れずに。綺麗でかわいい服がたくさんあって、着せ替えて遊べるとても素敵なお人形さんなのだ。忘れちゃいけない師匠お手製のおはじきは、大事に大事に底へ仕舞った。地面の上だと遊べないけれど、七色に透き通るおはじきはとても綺麗で、見ているだけで変な顔になるほど綺麗で、六華の大切な宝物なのだ。女の子もきっと喜んでくれると六華はカクシンしている。
忘れ物はないかもういちど確かめて、六華は勢い良くリュックを背負う。あんまり勢いを付け過ぎたので、背中のところが捩れてしまった。腰のリボンも潰れたかも知れない。六華は力いっぱい仰け反って、腕を回してうんうん唸って、耳も尻尾もぴんと伸ばしてワンピースをごそごそやった。直ったかな? 直ったみたい、もう大丈夫だと安心して溜め息を吐き、遅れたら置いていかれることを思い出して麦藁帽子を慌てて掴む。
土間へ飛び降りるとリュックの中でおもちゃが鳴った。びっくりした六華はあんまり揺らさないように注意しながら、けれども思いっ切り外へ飛び出す。
どこまでも白い夏があった。
アブラゼミのびりびり鳴く声に混ざって、師匠の笑う声も聞こえる。
白い光で眩んだ目を恐る恐る六華は開いて、あんまり慌てすぎた六華が面白いと師匠は顔いっぱいに笑っていた。六華は師匠にちょっと怒って、それからとても嬉しくなった。あんまり嬉しくなったから、六華は尻尾をぶんぶん振り回しながら師匠に駆け寄ろうとして、立ち止まった。くるりと家に向き直る。
「ただいま」はとても嬉しい言葉だと六華は知っている。
師匠の「ただいま」を聞くと六華はすごく嬉しくなるのだ。あんまり嬉しくて、六華はいつも師匠に飛びついてしまう。出かけてしまった師匠を待ちきれなくて、「おかえりなさい」を言いたくて、師匠の帰る時間になると六華は上がり框にきちんと座る。どうしてもきちんと出来ない尻尾を気にしないように頑張りながら、ずっとずっと待っているのだ。「ただいま」はとても嬉しいのだ。
だから「ただいま」を言うために、六華は大切なことをする。とても大事で、けれどもちょっぴり寂しくて、師匠がするとすごく寂しい。
だけど「ただいま」を言うために、六華は思いっきり息を吸い込む。
がらんとした誰もいない家に向かって、母へしっかり聞こえるように、ちょっぴり物知りさんになってちょっぴり大人になった六華だけれど、やっぱり舌っ足らずに叫ぶのだ。
「いってきます!」
――行ってらっしゃい。気をつけてね。
前提としてあやさなが付き合っています。経緯は「大嫌いな貴方へ」
体育座りは早苗の必殺技だった。
膝を抱えて座り込むと早苗は無敵になれるのだ。
どのくらい無敵かと言えば、ぴかぴか光るスターマリオもびっくりするほどだ。転んで擦りむいた膝小僧は全然痛くないし、松田さんちのゴン太に幾ら吼えられてもへっちゃらだし、みんなから嘘吐き呼ばわりされたって涼しい顔して平気でいられる。スーパーサナエだ。
無敵になった超早苗は実に様々な活躍をする。ある時はセーラー戦士になりデッドムーンと死闘を演じ、ある時はマジックナイトになり世界を救う戦いに身を投じ、ある時は妖怪軍団によって誘拐されてカクレンジャー達の手で救出されたりする。お姫様は悪者に捕まるものだから、無敵でも早苗は囚われの身になったままじっと我慢する。
そんな最強無敵な体育座りでも自由に使えるわけではなく、先に条件を幾つか満たす必要がある。
まず周りに誰もいないこと。間違っても友達の前でやってはならない。囃されるか慰められるかするだろうし、そうなったら得意技は効果を発揮できなくなる。アキ先生の目が届かないというのも重要だ。お節介で世話焼き好きな優しいお姉さんだから、見つかったらどうなるかなんて分かりきっている。もちろん親の近くなどもっての他で、とにかくひとりっきりでなくてはならない。
つまり場所の選定も重要になってくる。
人気のない、少なくとも知った顔から邪魔をされない場所、例えば幼稚園なら階段の下に積み上げられた机の影、家ならダンボールを乗り越えた納戸の奥、カナコさんの神社なら高く張り出した縁側の下。そんなところで早苗は無敵になっていた。
毎回々々場所を探して随分苦労するのだけれど、追っ手はそんな努力を容赦なく踏みにじってくる。
膝を抱えて座っていると母の声が聞こえてきて最後には必ず見つかる。アキ先生の場合も似た様なもので、カナコさんに至っては「境内ならどこにいても早苗の匂いを嗅ぎ当てられる」と豪語するまでになった。
結局、行き着く先はいつも変わらず、探しに来た誰かの笑顔に近寄られると、早苗の無敵は終わってしまう。
折角、何があってもへのへのカッパなスーパーサナエになっていたのに、呆気なく元の自分に戻ってしまう。
我慢して、息を詰めて我慢して、息が続かなくなるまで我慢して、
――我慢しないで、母さん達にお話してね。
我慢しすぎて風船のように膨らんだ早苗は、とうとう盛大に破裂して涙を撒き散らしてしまうのだ。
どうしてわたしを放っておいてくれないんだろう、心の中で恨み言を繰りながら早苗はぎゅっとしがみつく。
時間の問題だったのだ。
例え、友達と自分の間を血塗れの老婆が横切っても、「怖かった」のひと言すらない。
ジャングルジムに張り付いた毛むくじゃらか、道ですれ違った顔のない人影か、街灯から染み出ていた虹色の泡か、もしくはそれ以外か、切欠が何だったのかなど些細なことであり重要なのは一点だけで、友達は隣にいる何かを認識できないことに尽きる。
早苗は叫びたかったのだ。
「王様の耳はロバの耳」であり、「着ている物はデカパンだけのすっぽんぽん」であり、詰まるところ頭の中をぐるぐる巡る言葉には出口が必要だった。
故に「わたしだけの秘密の場所」を持ちたいと願ったのは必然と言える。
秘密の場所に深い深い穴を掘って叫ぶのだ。「王様の耳はもじゃもじゃしてるロバの耳で、格好はデカパン一丁のすっぽんぽんで、その上そこら中を我が物顔で闊歩している」。
早苗は決心した。
昔々のそのまた昔、照りつける真夏の日差しで幼稚園が「やってらんねー」と門を閉ざした明くる日に、早苗の大冒険は幕を開ける。
朝食を「いただきました」で元気良く締めるなり、ネコさんアップリケ付きのポシェットを引っ掴んで、必要なものを次々と詰め込んでいく。
まずハンカチは大切だ。お姫様なら必ず持つものである。七色に透き通るおはじきは道に迷わないための目印用。それに何かに襲われても、投げつけたらやっつけられるかも知れない。忘れちゃいけないカナコさんお手製のお守りは、大事に大事に底へ仕舞った。おにぎりをこさえてもらって、キティちゃん印の水筒にはキンキンに冷えた麦茶を「ここまで」の矢印を無視して注いだ。ぐっと蓋を閉めて腰にぶら下げ、藍のリボンがぐるりを取り巻く麦藁帽子を目深に被る。
忘れ物は? 指差し確認。うん、大丈夫。準備万端、これでよし。
玄関の戸をがらがら、船出を迎える海賊船の船長になって威厳たっぷり堂々と引き、直後に太陽光線で目を焼かれた。しかし一瞬怯んだことも何のその、あっという間に浮かんだ汗も屁のカッパ。
「行ってきます!」と出航の号令も高らかに空色のワンピースを翻し、どこまでも白い夏へ飛び込んだ。
――行ってらっしゃい。気をつけてね。
はためく背中に祝福の言葉を受けて、早苗は一気に加速する。風を蹴立てて坂を駆け下りご町内を突き抜ける。
最初はあそこから、板塀に挟まれた裏路地を飛行機になって通り過ぎ、公園の植え込みに不時着して虫に食われた。ここは無理そう、見切りをつけて、けれども当然めげるはずもなく、かえってやる気に火を付けられて心当たりへ片っ端から突撃していく。
空き地の掘っ立て小屋では蜘蛛の巣を薙ぎ払い、竹薮に踏み込んでは熊笹で肌を切り、山へ続くあぜ道から逸れて迷子になりかけた。蛇の抜け殻を見つけたのでポシェットに仕舞った。
命からがら麓の駐車場に戻ってお昼休み。
木陰の車止めに腰を下ろして帽子を脱ぎ、ハンカチで額を拭った。コップ替わりの蓋を両手で抱えて麦茶を喉に流し込む。冷たさに頭が痺れた。おにぎりもお腹の中へ。鮭フレークの塩味が体にじんわり染み渡る。髪を掻き揚げる風に汗をすっかり払われた。隣の駐車スペースで涼んでいたぶち猫に、「にゃー?」と訊ねて「なー」と物憂げに返される。許可が下りたと解釈し、ぶちの頭を撫で繰り回してものすごく迷惑がられた。
早苗、復活。アスファルトに散らばった逃げ水を追って走り出す。
鉄柵の向こうから犬に吼えかけられたし、膝小僧を擦りむいてべそもかいた。道路の白線を踏み外して三回死んだし、野良仕事帰りの軽トラックにはクラクションを鳴らされたし、四つ角で迷う度にやった棒倒しの回数は片手だけではとても足りない。
そんな息も吐かせぬ大冒険を経て、早苗はついに「わたしだけの秘密の場所」を発見したのだ。
灯台下暗し。カナコさんの神社だった。
境内ではない。
丁寧に枝を払われた鎮守の森に、夕暮れのオレンジ色が長い影を投げている。どうと過ぎる突風に、ざあと杉が梢を揺らした。
寒い。咄嗟に押さえた帽子の代わりに体温を攫われて、早苗は小さく身震いする。
風の行き先を追っていた目を正面に戻す。古い祠があった。
瓦の欠けた部分には補うようにして苔が生えている。庇は崩れることなく元の形を残していて、雨宿りにも過不足無く使えるだろう。観音開きの扉は所々破れていて、薄暗い中に夕日の侵入を許していた。割れてささくれ立つ階段は場所を選べば座れなくもなさそうだ。でも、
――ありゃ、人の子か。
目が合った。
階段に寝そべっていた女の子は気だるげに欠伸をひとつ、まことにオヤジくさい「よっこらせ」で起き上がる。
早苗は動けない。こめかみを伝わる汗は顎先から滴り落ちて、ひりつく痛みをひと筋残した。
――良く此処まで来れたもんだ。それともとうとう私にも焼きが回ったってことかね。迷子?
向けられた言葉に弾かれて早苗の全身が跳ね上がり、けれども地面に張り付いたままの爪先に引っ張られて尻餅をついた。下敷きにした枯葉の音で凍り付いていた脳みそが氷解し、返答をひと欠片でも搾り出そうと動き始める。
この祠に何故辿り着いたのかと言えば、嗅ぎ慣れた匂いを夏風に聞いたからだ。カナコさんにそっくりだと思ったからだ。もしかしたら自分を「嘘吐き」呼ばわりしない大人に会えるかもと期待したからだ。
しかし面と向かい合って、そんなものはとんでもない間違いだと知った。
この女の子は、カナコさんじゃない。
カナコさんの瞳はどんなに凍えていても温めてくれる焚き火の色だ。女の子のものは何であろうとひと呑みにしてしまう大空だ。期待した温もりは、途方も無く巨大な無関心だった。
直感する。
この女の子は、女の子ですらない。
偶々の偶然で人と似ているだけで、例えたなら綿菓子と天の川であり、そして先にどちらが二本足でこの世に立ったかなど考えるまでも無かった。
――そんなに怯えなくたっていいよ。迷子なら村まで送ってやろうかなんて思っただけだから。
村と言うのは舗装された道が大通りしかない祖母の住む場所だ。小さな違和感を覚えた頭は口を動かし「村ではなく町である」と訂正して、後悔した。
――へぇ、そりゃ悪かったね。
無礼の咎により命を取られるなど端から考えにも浮かばない。ただ口答えをしてしまった事実に心臓の止まる恐れ多さを感じ、息が詰まって、
――幼子ってのは相も変わらず鬱陶しいもんだ。食って欲しいのならそう言いな。
煩わしげに顰められた目に射竦められて、ひくつきかけた喉が止まった。
いっそ食べてくれたなら、横隔膜の小さく痙攣するごとに息が浅く漏れ出ていく。
ひと思いに食べて欲しい、原始的な本能が恐怖からの解放を切に望んだ。
――なんて顔してるんだ。かわいいね、愛しい味だよ。こんなにうまいもんは久しいねぇ。
オレンジ色に染め抜かれた森の中で、女の子の金糸にも見紛う髪がさらさら靡いた。頬には酷薄な笑みを浮かべ、唇を底の見えない亀裂にして。にゅうと口角が吊りあがり、ちろりと覗いた舌は赤かった。
――さてさて、ひとつ味見といこうかねぇ。
階段から飛び降りる女の子は、綺麗だった。
***
――あの時は間一髪だったねぇ。
後に冗談めかして語られた。
お守りには随分助けてもらった。つっかけを爪先でとんとんしつつ早苗は彼方に目を向ける。鎮守の森は昔も今も変わらない。強いて言えば傾斜が少し緩やかになっただろうか。広大な山の地形に沿った結果だ。
それに鳥が増えた。鴉はもちろん言うに及ばず、晴れ間には鳶がぴーひょろ漂ってるし、山鳩なんかはそこら中に溢れている。でーでーくるっぽ夜明けからひっきりなしに聞かされて、目覚まし要らずの健康的な生活が送れてしまう。悪いことじゃないんだろうけど、嘆息して歩き出す。
諏訪子様のことだ、何割かは本気だったのかも知れない。お言葉を借りるなら「夕日の赤さが憎たらしくなるほどの空きっ腹」だったらしいから。
あんな出会い方をしながら良く信用したものだ。神奈子様の姪なんて話は、まぁ一応筋は通っているけれど、もうちょっと疑えと私を叱りつけたくなる。よほど友達が欲しかったのか、あるいはカナコさんを疑いたくなかったからか、両方か。我ながら寂し過ぎる。
早苗はぴたり足を止める。土蔵がそびえていた。
目標は恐らく最深部、命の恩人にもらった宝物だ。お祭りにうってつけな狐のお面だ。私にはなんとしても連れて行く義務があるのだ。早苗はうんと両の拳を握り込み、力強く踏み込んで、
「ずくだしていきましょうっ」
十分経った。
守矢神社の土蔵は頑固だ。
ひと目だけでも万人が「ああ、これは頑固だ」と思わず感嘆を漏らすだろう。
まず、瓦が実に頑固だ。真夏の熱線を手当たり次第に乱反射させるぴかぴかっぷりは、猫も鴉も家人も近所のいたずら坊主も見境なしに撃退する。所々欠けて土色を覗かせている部分は、数々の台風を潜り抜けた歴戦の証である。
白塗りの壁も当然頑固だ。風雪に耐え忍び、寒暑を物ともせず、ただただ寡黙に立っている。そこかしこに見えるはげちょろけやひび割れは、老兵の額に刻み込まれた皺と相違ない。
扉を繋ぐ蝶番ときたらどうだ。錆止めのペンキはすっかり剥げ落ち、地金の銀色をこれでもかと見せ付けている。いかにも滑らかに動きそうな顔をしながら、油を幾度挿されようとも、がたぴし小言を口にしなければ開きはしないのだ。
「相変わらず頑固ですね」
吸い込む息が熱くて重い。結構筋肉ついてきたと思ったんだけど、早苗は肩を落としてへたりこむ。蔵であれこれするのはもっぱら父や松田さんなど男衆の仕事だった。汗を掻く程度で留まるだろうなど楽観視もいいところで、まさか入る時点で躓くなど思いもよらなかった。丸々一年ほったらかしにしたから土蔵も拗ねたのかも知れない。
どうしよう、ダメ元で油を差すか早苗は悩み、思案に頭を巡らせて、風を感じた。
手をかざして遥かな上空を振り仰ぐ。盛りに盛られた入道雲をひとつ浮かべた青空に、色も大きさも黒胡麻のような点がぽつんとあって見る間に近付き、早苗に気付いたのだろう、巨大な鴉の影は高みをひとつくるりと回り、自由落下より尚速く降ってくる。地面へ降り立つ寸前に、ばさりと翼をひと打ちさせると乾いた土埃が舞い上がった。
着地点を見定めて早苗は大きく背中をたわめる。下駄の地を踏む瞬間に合わせて腰を沈ませ、頃合や良し、一散に駆け出して、
「早苗、洩矢様から言伝がぁっ」
飛びついた。
踏ん張る下駄の土を抉る音を聞き、やっぱり妖怪ってすごい、全力の体当たりを受け止められたことに早苗は感心して、文さんの匂い、すーはーすーはー胸いっぱいにやっていたら、「ああもう」、ひっぺがされた。
両手で抱えられたままの宙ぶらりんだ。下ろして欲しい。抱きつけない。
「何度言ったら分かるんですか。いきなりは厳禁、心の準備というものがあるんですよ」
「だって文さんなんだから仕方ないじゃないですか」
高い高いをされながら早苗はぐっと見詰め返す。
まったくもって不可抗力だ、なんてったって文さんは青空とみかんの香りがする。これを放っておくなんてとんでもない。
伸ばした指に艶やかな黒髪を巻きつける。
でも、三日徹夜した文さんは無理だ。みかんはみかんでも腐ってたし、ヨーグルトの酸っぱさもあった。しかもなんかインコっぽい匂いまでした。あれは愛せない。
「どう仕方ないのか理解できません」ひとつ溜め息。早苗を下ろし「それはそれとして洩矢様から伝言です。『遅くなるから夕飯はいらない』。八坂様もです。天魔様達との打ち合わせが長引くそうですよ。酒を片手に今更何を話し合うのか聞いてはいけないのでしょうが」
お祭りの前々夜祭だろうか、それなら夜は簡単なもので済ませちゃってもいいですよね、頭の中で早苗は残り物を数え上げ、
「それで、こんなところで何をしてるのですか」
貰い物の素麺とこれまた貰い物の胡瓜を考えたところで現実に引き戻された。
なんだっけ、周りを見渡し、背後に頑固一徹の土蔵がそびえていた。そうだった。
「探し物なんです」
大切な宝物なのだ、首を傾げて促す文に説明した。
「外の宝ですか。興味をそそられますね」
「あんまり期待されても困りますけど。ただのお面ですし」
「それは見てから判断しますよ。他にも何やかやとあるでしょうから」
目を輝かせる様子に不安を覚える。がっかりするだろうなー。
ああでも、今なら何か分かるかも知れない。物知り天狗もいるし、妖怪のことならきっと。
「では、非力な人間は下がっていてくださいね」
「……神様です」
片手を振って「はいはい」受け流された。
「さて、宝の拝見といきましょうか」
ぎしりと唸り、片頬十年の古強者が不承々々に開かれていく。
***
昔々のそのまた昔、早苗は座敷童子と出会った。
物語には始まりが幾つもあるように、東風谷早苗も大小様々な始まりを持っている。
例えば、ランドセルから漂った牛革の匂いは入学式だ。嗅いだなり思わず鼻に皺を寄せたことも、高学年のお兄さんお姉さん達が作るアーチの下を指の先まで棒にして潜ったことも覚えている。
鈍くて重いドの音はピアノ教室だ。「ピアノというものは綺麗で澄んだ音を出すものだ」と早苗の中で決められていたのだ。しかし「好きなように触ってみなさい」と促され、押し込んだ鍵盤が返してきたのは叱り付けるような濁ったドであり、椅子から転げ落ちかけるほど驚いた。
小学校もピアノ教室もまだ終わっていない。早苗の今に至り、物語として続いている。
座敷童子の物語は、始まった途端にふっつり途絶えて白紙のページが続いていた。早苗はもちろん忘れていなかったのだけれども、記憶を新たにしたのは諸々の要因があったからに他無く、それは近々お山で開かれる祭りであったり、準備に奔走する天狗達であったり、友人の仕立てた蝶文様の浴衣であったりする。
空を見上げれば早苗は今でもありありと思い出せる。沈む気のない太陽が山の上で頑張って、まばらに散っている雲をオレンジ色に染めている。その下の黒い粒々はねぐらに帰る鴉達だ。間延びした鳴き声を地上まで届けた風は、乾いた土と草いきれも運んで過ぎる。あの日もやっぱり夏の真っ只中で、縁日に合わせてのお祭りが近所で行われていた。
幼い早苗にとって神社や仏閣は「カナコさんの」と「それ以外」であり、連れられていった場所は後者にあたる。年長さんの足には少し遠かったのだけれども然程苦にはならなかった。道行にちらほら出てくる浴衣姿で熱が高まり、背中を前へ前へと押しやるからだ。引かれていた手をむしろ引き返す勢いで足取りも軽くなる。
尤も、前々から取り決めてあった仲良しと合流したら、期待に膨らんだ胸も萎んだのだけれど。
ユウちゃんの浴衣には、月にかわってお仕置きする美少女戦士とその使い魔が所狭しとプリントされていて、ひどく羨ましくなったことを覚えている。
別段、親がお堅いわけではない。誕生日には変身スティックだって買ってくれたし、お寺であるたっくんの家のように「テレビは一日一時間」と制限もしていない。ただ融通が利かない。着物は昔からこうである。そう言いつつ着せ付けてきたのは、露草をあしらった白地を紺の帯で締めるひと揃いだ。
かわいくない。
セーラームーンとは言わない、せめて色をもっと考えてくれたなら。
七五三は良かった。樟脳のきつく香る母のお古は着ているだけで眩暈がしたけど、とにかく綺麗だったのだ。そう思ったからこそ駆け出しそうな足を押さえて、カメラの前で鹿爪らしいポーズも作ってみせたのだ。祖母も「子供には緋色が一等似合う」と目尻を皺くちゃにして褒めてくれた。露草の青紫に恨みはないが、隣を歩く明るい朱色とどうしたって見比べてしまう。そんな目に気が付いたのか、ユウちゃんはこれ見よがしに袖を翻しつつ「どう思うか」聞いてきて、こんなところは嫌いだ、褒める気にはさらさらなれず、ぼかして応えた。
ずるぺたずるぺたゴム草履を引き摺っていると、祭囃子が遠音に響いてきた。ともすれば蝉時雨にかき消されそうな小さなものでも、地面を震わせ体に伝わる太鼓の音は、お祭りだ。
ぬるま湯のような嫌な気分があっという間に消し飛んだ。全身の細胞を震わせて、どうしよう、沸き返る興奮のやり場に困って隣を振り向く。お姉さんの隣で澄まし返っていたユウちゃんは、様子こそ落ち着いているものの目はあちらこちらに走っていて、音の出所を探しているんだろうか、どこからなんて決まっているのに。なんだかおかしくなって噴出した。
打ち鳴らされる太鼓の音がひと足毎に近付いてくる。いつからか「月が出た出た」と大音量でがなるスピーカーも加わって、合間には縁を叩く撥の硬質な拍子も付いた。
最後の角を曲がり、夜祭と出くわした。
ずらり並んだ電球がしつこく粘る夕暮れに、舞台を譲れと対抗している。ケンケンパで横切れる程度の参道には、浴衣と法被と普段着とそれ以外が犇いている。そこに混じった白シャツと捻り鉢巻のおっちゃんは闖入者以外の何者でも無く、発泡スチロールの保冷箱を抱えて飛び込んだ先は露店であり、陽炎の立つ鉄板の裏に回ってソース用のハケを振り振り並んだ客を捌き始めた。
「◎たこ焼きひと舟四百円」。漢字を読めない早苗であっても、書き殴られた数字でぼったくりだと判断できた。何せそれだけあれば笛ラムネが幾つ買えるか、計算しようとして諦めた。とにかくたくさんだ。義憤に駆られて店先を睨みつける。遥かな高みでは、やはり団扇を持って豆絞りの鉢巻を締めた巨大なタコが行列を見下ろしていた。
看板のとぼけた表情に毒気を抜かれ、早苗は寛大にもぼったくりへ許しを与えて、
――行こっ。
屋台の海へと足を踏み出す。
初めに強請ったのは綿菓子だった。本体を覆う風船もどきのようなビニールに、セーラー戦士が描かれていたのだ。ユウちゃんと和解して、砂糖の雲に齧りつきつつ笑い合った。顔全体をべたべたにしながら参道を突き進む。
屋台に近寄り過ぎれば、目の前が愛想のない壁とお品書きで埋まってしまう、何を商っているのかまず見上げて確かめた。赤い看板はお好み焼きで、水色にはカキ氷の絵があった。チョコバナナは卵色でちんちん焼きも同じ色だ。七色に塗り分けられたものは何なのだと不思議に思えば、安っぽいタライの中でスーパーボールが泳いでいた。
独楽やチューリップの型抜きは三枚やって全滅したし、報復だとばかりに金魚掬いへ突撃したはいいものの、水に漬けた傍からモナカが溶けて惨敗した。ユウちゃんも似たようなものだった。射的ではおんぼろパイプ椅子の上で父に支えられながら挑戦した。友人の手前で恥ずかしくはあったけれども、やってみたくなったのだから仕様がない。
五発渡されたコルク弾のうち、奇跡的に最後が真っ直ぐ飛んだ。しかも当たった。さらに奇跡的なことには、クマのぬいぐるみが棚から落っこちたのだ。唯一この点はユウちゃんと違った。「持ってあげる」という母の言葉を断って戦利品を抱きかかえ、次はどいつだと満足しない猫の目付きで獲物を探す。
そんな風に早苗は楽しんでいた。はしゃいで浮かれて、ハレの日を満喫していたのだ。
だから仕方がなかったのだと、早苗はあの日を振り返る。
うっかり群衆の中に緋色の着物を見つけてしまったことも。
これまたうっかり蝶文様を「綺麗」だと思ってしまったことも。
極め付けには、隣を歩く友人の袖を引いてしまったことも。
仕方なかった。
――ねぇ、見て。
当然ながら友人は早苗と違い、座敷童子が見えなかった。
***
――いつもは「気のせいだった」とか言って誤魔化せてたんですよ。
前髪は諸手で掻き揚げ、後ろ髪はひと手にしごいて水気を絞る。体温よりは高い程度のぬるま湯が、首筋から背中へさらさら流れた。埃と汗から解放されたことに満足し、文は湯舟へ身を滑らせてひと息に肩まで沈む。目を瞑り、細波のひたひた打ち寄せ鎖骨を洗う感触を味わった。
――でも、なんでかその時は無理で、喧嘩しちゃったんですよね。
何故、早苗は語ったのだろうか。
外の思い出を話してくれた、それはいい。信頼してくれている証だろう。しかし何故、この時期に祭りの記憶なのか。何故というのも馬鹿らしい。眠っていた過去を山の祭りに突付かれたせいだろう。けれども意図が分からない。
盆にした手で湯を掬い、指の間から零す。また変なことで悩んでるんじゃないわよね、ぽつぽつ落ちる水滴に、流れたはずのない早苗の涙を想像した。勘弁してよね、頭を振って浮かんだ泣き顔を打ち払う。
大丈夫だ。喧嘩の身振りを再現する目元は、ふざける風に笑っていた。「子供だったんですよね」なんて言う口振りは、普段交わす笑い話や失敗談と違わない。まかり間違っても悩み抜いた挙句の自殺紛いなど起こさないはずだ。あんな思いは二度としたくないし、早苗もしないと誓ってくれた。
しかし、文の中から暗い疑念は消えようとしない、大したことではないのなら、ああまで懸命に探し物はしないだろう。土蔵の中で動く早苗をまぶたの裏に思い浮かべる。ジャージだとか言う小豆色の作業着は、一面に煤で成り立つ霞模様を帯びていた。一本に括った後ろ髪は汗と埃で草臥れて、使い古した箒も顔負けの有様だ。額も頬も拭うたびに黒ずんで、炭焼場に終日こもったと言われても信じられるだろう。
そして、あの目だ。
早苗の修行風景を文は幾度か取材したことがある。八坂の力添えを受けない彼女単身のものは、風であれ水であれ、どれもこれも天狗の目には稚拙としか映らなかった。つむじ風は幾ら捏ねあげたところで形がてんで纏まらず、四方に木の葉を撒き散らすだけで終わった。呼び出した突風は勢いこそあるものの、目標からひとり分横に逸れて桑を揺らした。お陰で毛虫が落ちてきた。悲鳴と共に飛び退る動きには少し感心できた。
そうした折々にあの目を見てきた。「今度こそ」と大幣を握り直した時、息を殺して風を練る瞬間、水の行方を見届ける刹那。
二柱の恩に報いたいのだという。修行を積み、神格化を成し遂げ、風祝を全うしたいのだという。彼女の肩は怒り、指は力の込めように白く強張り、瞳はひたすらに前を見据えている。
その目を土蔵の暗がりに向けていた。
更に、宝だという狐の面を見つけた時の喜びようときたら。
やっぱり、茶化せるようなものじゃないわよね。文は息の全てを肺から出し切り、顎の上まで湯に沈む。
やめよう。「後で」と断りが入ったものの、説明をしてくれるというのなら黙って待つしかない。あれこれ要らぬ憶測を働かせたなら、自分が深みに嵌って溺れるだけだ。早苗と関わる内に散々学んだ。何より「急がない」と約束してくれた言葉を信じるべきだ。
湯を掬い、顔にぶつける。
「お湯加減どうですかー」
ほうとひと息ゆったり零し、
「丁度いいですよ」
但し「文にとっては」と注釈が付く。多くの鴉天狗は長風呂好きだ。のぼせるほどに熱い湯は好まない。早苗にそう語ったところ、「カラスの行水はどうしたのだ」と不思議がられた。
文には逆にそれが奇妙に思える。人間は水浴び中の無防備さを考えたことがないのだろうか。短時間で切り上げるのは人目のある場所だからこそであり、危険を冒してでも汚れを洗い流したい綺麗好きの現れであり、気兼ねなく羽繕いできるのならば心行くまで入っているものだ。文も例外ではなく風呂桶は一種の聖域で、普段は全身を湯に浮かべて、その日の事件や取材や恋人のことなどをつらつら思い浮かべている。
それが他所であってもやはり変わらず、今も両腕で湯舟の縁にもたれかかるという自堕落極まりない姿勢で浸かっている。そして思いを馳せる対象も相変わらず今しがた響いてきた声の持ち主、早苗についてであり、ふやけた頭が翼に絡む木の葉のような引っかかりを覚えた。
今、どこから声がした?
「良かった。ちょっと心配だったんです」
守矢神社の風呂場は新築と言っても差し支えない。元々備え付けられていたのは昭和の大衆家庭に温もりを与え続けてきたガス風呂釜であり、そんなものを幻想郷で使えるわけがなく、昨年の秋口に河童達へ改装を依頼した。
燃え上がる大工衆は改装などという生温い仕事を受け付けない。数々の暴走を監視役の諏訪子による手段を問わない説得で宥めすかした結果、ようやく出来上がったのがこの風呂場だ。
井戸から通した水道で、ポンプを使って直接水を風呂桶に送り込める。母屋から続く屋根付きの渡り廊下で雨天だろうと問題ない。流石の防水に一家言ある河童印、カビ知らずの特製塗料でケヤキの木目がぴかぴか眩しい。晴れた夜に入ったならば、明り取りの天窓から瞬く星が降ってくる。
そんな神二柱、現人神一柱の現代的な核家族には大袈裟にも見える風呂であっても、沸かすには人の手が要る。
早苗は火の番をしていたのではなかったか? 何故、脱衣場から声が聞こえる。
ひと月前にも似たようなことがあった。梅雨の記憶を呼び覚まされて、文の本能が逃げる準備を始めだす。
あの時の自分には拍手を贈りたい。早苗のうきうきしている「お邪魔します」が聞こえるやいなや、開かれかけた入り口へ飛びつけたのだ。洗いかけの髪もそのままに百年の恋も醒める姿勢で踏ん張りながら、お邪魔も何も何用なのか、引き戸の向こうへ問いかける。返答は「にとりと雛さんのように、恋人ならばいっしょに入るものだ」。
知ったことではない。それぞれで違うだろう。たかが人間とはいえども相手は常識破りの山の巫女だ。乾神の力を招来してまで常識もろとも戸を破り、突入してくる可能性もある。あちらとこちらを隔てる防壁を耐えてくれるよう祈りながら押さえつけている内に、彼方から妥協案が示された。「恥ずかしいのならバスタオルで隠せばいい」。
そんな問題ではない。恥ずかしいというのも見当違い甚だしく、認識を正すためにたっぷり半日説教したくなった。
早苗は自身の肌を理解していないのだ。瑞々しい大理石というものが存在するならば、滑らかさはこうなるだろうと想像できる。柔らかさは羽二重餅で、その癖、張りのあることときたら戯れにでも歯を立てたなら抵抗も無くぷつんと破れるかも知れない。そして傷口から溢れる紅玉がころころ肌を滑り落ちるのだろう。万が一にもその肌に触れたなら、限りなく上がり続ける体温で文は蒸発しかねない。
香りに関しても自覚してもらいたい。髪から漂う幽かなものは、例えるならば蜜に漬け込んだ桜であり、迂闊に近寄り吸い込むと全身の血を煮立たせる。その危険物を閉じられた風呂場に持ち込まれようものなら、呼吸を拒んで文は窒息しかねない。
そもそもバスタオルやら言う頼りない布切れ如きで、早苗の何を隠せるというのだ。
がたがた引き戸をやっていると、根負けしたのか引こうとする力は消えて、向こうからため息が届き、諦めてくれたのかしら、安堵のあまりに膝は落ち、無理に決まってるじゃない、涙が滲んだところで宣告された「次はないですよ」。文は戦慄した。
なるほど、これが次なのだろう。天窓を見上げて翼を開く。であるならば手遅れになる前に今すぐ逃げ
「それじゃ、お着替えここに置いときますね」
なんだ、驚かさないでよ。
くたりと文の背骨が溶けた。「ありがとうございます」をむにゃむにゃ言って、翼をもぞもぞ仕舞いこむ。湯の中で無理やり開いたせいだろう、付け根がみしりと悲鳴を上げた。湯舟の縁に背中を預けてずるずる口まで沈み込む。
ほんとに勘弁してよね、もし早苗が入ってきていたなら果たしてどうなっていたことか。ぬるま湯にふやけた頭で想像し、何考えてるのよ、あっという間に煮え立ちかけて、ざぶり、天辺まで湯に沈む。
「入りますねっ」
それでも働き者の脳みそは熱心に動き続けて、頭上の白く波立つ水面に日焼けした早苗の肌を再現し、ご丁寧にも焼けていない部分まで事細かに描写を始め、無理無理無理、文の口から悲鳴の替わりに泡が溢れて、混乱しきった頭は気道へ流れ込もうとする液体で他愛なく恐慌をきたし、滅多やたらと暴れる四肢でなんとかかんとか縁に縋って体を引き上げ、ごふげへ激しく咳き込んだ後、肺をぜぇひゅう鳴らしつつ涙と涎と鼻水にまみれた顔を持ち上げて、
「ええと」
目が合った。
「お邪魔します」
なるほど、これが次だったのだ。
文は死を覚悟した。
***
早苗は狙っていたわけではない。
帰ろうとする文を引き止めたのも、風呂を使っていくよう勧めたのも全くの好意からで、ついでに暑い中手伝わせてしまった申し訳なさもあった。話が途中になってしまうのは何か嫌だから、ということもある。続きはお風呂上りに縁側で涼みながら、にとりさんに貰った西瓜をつけて、早苗は赤熱した薪の奥に赤い甘味を想像する。
熟した果肉を噛む度に、頭の中でさくりさくりと音がする。音が美味しいだなんて不思議な話だけれども、繊維の歯で押し潰される音に、かつんと混じる種の音、口に溢れる果汁の音と啜る音、飲み込み喉を転がり落ちる音や、よく冷えた塊で汗の引いていく感覚まで音になって聞こえてきそうで、そんな西瓜を文さんと肩を並べて食べるのだ。美味しいに決まってる。薪を掻き回している間中、早苗の口元は緩みっぱなしだった。
こんなもんかな、焚き口に大割りを一本くべた。文はぬるくて構わないのだと言う。垂れる鼻水まで凍りつく冬ならともかく、今は夏だ。江戸っ子好みの湯など張ったら早苗も少しうんざりする。
腰に手をあて、んぅーっ、思い切り背伸びして、次は……そう、着替えの準備だ。目に染み込む汗を拭って自分の部屋に引き返す。
Tシャツで大丈夫ですよね。いい感じに草臥れたものと緩めのハーフパンツを片手に抱えて脱衣場へ続く戸を引いた。湯加減を訊ねつつ着替えを置こうとして、洗濯籠に脱ぎ捨てられた文の服を見つけてしまった。
むらっときた。
肉を目にしたゾンビの如くひと足ふた足近寄って、意思の介在しない動作で洗濯籠へ片手を
「丁度いいですよ」
全身の毛が逆立った。
尻尾を踏んづけられた猫の動きで飛び上がり、何してるんだ私、背を壁に押し付け自問する。何というのも分かりきってることだけど、答えを出してしまえば止まらなくなりそうだ。どくどく脈打つこめかみが生き物みたいで気持ち悪い。回答は保留にしたまま跳ね回る心臓を落ち着かせる。ひとつ、ふたつ息を吸って、吐き出して、もう大丈夫だと目を開く。
恋人の抜け殻があった。
ぎしり、早苗は奥歯を噛み締めて、なんでそんなエロい脱ぎ方してるんですか、猛然と抗議した。文の洗濯物は以前にも見たことがある。しかしあの時はそれこそ借りてきた猫であって、きちんと畳まれた格好で籠の中に端座していた。
然るにこれはどうだろう。今にも外へ這い出ようとするかのように、ブラウスは籠からぶらんと垂れている。スカートごと脱いだのかも知れない、下着が見当たらないのは救いだろうか。問題は靴下だ。山あり谷ありのくしゃくしゃな状態で一番上に載っている。最後に脱ぐタイプだったんですね、目を逸らせないまま納得した。でも、どうやって脱いだんだろう。
前屈みになって? 多分それだ。文さんは面倒臭がりだからきっと片手しか使わない。膝を抱え込んだ格好で、人差し指を靴下の上端に引っ掛けて。丸まった背中には肩甲骨が少しだけ浮かんでる。腕を動かす度に百面相でもするかのように、背中はぐりぐり表情を変えるのだ。そんな肩の真ん中には背骨の作るくぼみがあって、指を沿わせたならするする滑って、文さんはひゃふっとかなんか色っぽい声を出しながら体を捻って、でも指は下へ下へ引っかからずに落ちていき……駄目だ、エロい、エロ過ぎる。エロいのでこの子は部屋に連れていきますベッドの上で愛します、欲望のままに早苗は両腕を籠へ向け、抱きかかえていたものがばさりと落ちた。思わず目で追い、床に広がる着替えからぎろりと睨み返される。
体が萎む勢いで早苗は大きく息をつく。危なかった、文さんは信頼してくれているのだ。だからこんな風に油断だらけの脱ぎ方をして、お風呂には丁度いいって言ってくれたのだ。
身を屈めて不満げな服を拾い、
「良かった。ちょっと心配だったんです」
うん、よし、声は大丈夫。ぐいと早苗は体を起こし、洗濯籠に真っ直ぐな視線を向ける。用事があるのはその隣、もうひとつの空いた籠だ。歩み寄り、「私を手に取れ」とブラウスの送る秋波を感じた。駄目です、深夜のカップ麺にも勝てる鋼の意思で着替えを隣に放り込み、服から漂う香りの狙い澄ませた一撃に襲われた。汗に混じっていながらも尚確かに判別できる恋人の甘酸っぱさ。文さんのためにも負けられません、理性がぐらりと傾ぎかけたが不屈の闘志で床を蹴って飛び退る。ここまでは追って来れない、安心に肩が下がった。
文さん、私は勝ちました、額の汗を拭い取りガッツポーズを無言で決めた。
「それじゃ、お着替えここに置いときますね」
出口に向けて踵を返し、
「ありがとうございます」
足が止まった。なんだろう今の声。ほんとに文さんですよね?
気は抜け切っていて、漫画だったら波線が最後に付いてる。うっかりしたらハートまでおまけにくっつく。あんな声、初めて聞いた。
果たして中にいるのは本物なのか、早苗の頭上にぐるぐる疑問が渦巻いた。本物だとして、ならば一体どういう状態なのか、疑問を捏ね上げ形にしていく。きっとなんかもう緩みきった表情でぐでんとしてるのだ。顎は風呂の縁に置かれて、ひと言何か話すたびにかくかく頭が上下して。想像し、甘酸っぱい塊が全身を駆け抜けた。
今の文さんって絶対かわいい。確かめたいという純粋な欲求が膨れ上がって、全力で愛でないと嘘だ、やましい心もついでに芽生えた。上の脱ぎやすさに髪を纏めておいて良かったと心底思い、間髪いれずに下も脱ぎ捨て、理性の欠片が辛うじてタオルを掴んで前を隠した、
「入りますねっ」
がらり、戸を引き、文はいなかった。何処へと思う暇も無く湯舟にごぼりと泡が立ち、早苗は身を竦ませる。
不測の事態に会った時、咄嗟に動ける者はそういない。百年も前の拝み屋達ならいざしらず、早苗は普通の現人神だ。怯える瞳は湯舟に向いて、文さんだ、黒髪の水面で揺らめく様に安堵を覚え肩が下がって、でも何してるんだろう、あんまりと言えばあんまりな光景に早苗は呆然と立ち尽くす。
何かを為せるわけでもなく、ただ眺めているうちに文は風呂から上半身を突き出して、苦しそう、体を折り曲げむせ返っている姿にぼんやりと早苗は思い、何か言わないと、
「ええと」
目が合った。
「お邪魔します」
すごく間抜けだ。
早苗は死にたくなった。
***
「えっと、文さん」
「何ですか」
「もう少しお風呂広く使いませんか。それ、窮屈じゃないかなって」
出来るわけがない、差し支えない旨をごにょごにょ伝えた。早苗に言わせれば「体育座り」なのだそうだが、文にとってはどうでもいい。能う限りに体を縮こめようとしたらこうなっただけだ。抱えた足で胸を潰して精一杯に小さくなる。
いっそのこと抱きつくなりしてくれたなら易々と意識も手放せるだろうに、のぼせた頭で考えて、
「ふぐぅ」
呻いた。
「どうかしましたか」
「気にしないで」
素肌に触れるなんて何考えてるのよ。
もう頭を空にしてやり過ごすしかない、文は膝頭の間に顔を埋める。
何故逃げなかったのか。機会なら幾らでもあったのだ。洗い場は大の字に寝転がってもまだ余裕がある。早苗が髪を濯いでいる間に背後を通り抜けるなど造作もない。けれども、そんなの無理、幾度も繰り返した自問への答えは変わらない。出ようとしたら必ず早苗が見えるから。
ならばと両目を固く閉ざしたまま手探りで行こうとしたら、今度は音が関門になった。体を洗う早苗の音は、想像に働くことを強要する。詮方なく、文は天窓を見上げ続けるしかなかった。気楽に漂っている雲が、この上なく恨めしかった。
「これなら水風呂で良かったかも知れないですね」
「そうね」
会話が続かない。続けようとする気力もない。
こんな恋人でごめんなさい。
「あのですね」
「何」
「さっきの続き、していいですか」
何の話だろう、つい隣に目を向けて、横顔が見えた。急いで戻した。
髪を纏めるタオルの白と日に焼けた肌の黒が影法師になって、文の網膜に留まり続ける。
「座敷童子のことです」
ああそれ、
「うん」
笑い飛ばせれば良かったのだ。「恥ずかしいところを見られた」なり何とでも言い様があっただろうに。
ぐるぐる後悔と自責を繰り返していると、「喧嘩しちゃったところからでしたね」、呟きが聞こえた。
――「あそこにいるじゃない」って、あの時の私、ほんとにしつこかったんですよ。なんでか引けなくなったんですよね。
喧嘩はそんなに続かなかったんです。ユウちゃんはお姉さんに、私は母に止められました。どれくらいかなー、袖を掴んだ瞬間に引き離されてたくらいですから、五秒もなかったと思います。だから、怪我だって私達ふたりとも引っ掻き傷が二、三箇所で済んだんです。でも、すごく痛くて涙が出て。
笑っちゃいますよね。どう考えたって私が悪いのに。
うん、そうですね。ユウちゃんに馬鹿にされたのもやっぱり原因なんですけど、それでも私の我侭だったんです。見て欲しいなんて、そんなこと出来っこないって分かっていたのに。
悔しかったんだと思います。「早苗は変なことばかり言ってる」、「早苗は変なものばかり見てる」。確かに変な妖怪……いえ、文さんじゃないですよ。それは妖怪ですけど、文さんかわいいですし。うん、真っ赤な顔もかわいいです。気付いてましたか? 私の顔もさっきからずっと熱くて、きっと文さんとそっくりなんです。お相子なんです。だから少しくらいこっち見てくれてもいいじゃないですか。
あ、はい、とにかくそんな風に「変だ、変だ」って言われっぱなしだった時に、座敷童子がいたんです。はしゃがないほうが嘘だと思います。浴衣とかの和装にはあまり興味なかったのに、次は絶対あんなのにしてもらおう、って思えましたし。おばあちゃんが見たらなんて言ってくれるのかな、とか考えて。
綺麗だったなー。あんなのを「目の覚めるような」って言うんでしょうね、緋色の着物でした。柄は菫とか山吹で染められた大振りの蝶で、それと黒の帯。でも重たい感じは全然しなかったんですよ。たぶん櫛のお陰だと思います。阿求さんみたいな切り揃えたセミロングに金細工の付いてる、鼈甲かな、櫛が見えたんです。それだけで華やいでるって言うか周りが明るく見えて、ほんとに綺麗で、肌なんか抜けるような白って感じでした。
でもちょっと変なところがあって、変ってわけじゃなくて、さっきの探し物、狐のお面です、あれを着けてたんですよね。かわいいのはかわいいんですけど、でも「なんで?」って、
すみません、話が逸れましたね。
えっと、うん、綺麗だったんです。綺麗でかわいくて、妖怪だけどお化けじゃないんです。畳より大きいムササビとか、目玉が生えたモップとか、赤銅色の虚無僧とかそういうのじゃないんです。変なのばかりじゃなくて、こんなに綺麗な人もいるんだ、って。
初めて知りましたし、みんなに知って欲しかったんです。
こんな人がすぐ隣にいて、でも気付いてくれない。もどかしかったです。
へ? ああはい、神奈子様も諏訪子様もそれはお綺麗ですけれど、でもお二方とも人間だって信じてましたから。じゃなくて、信じたかったのかな。家族以外で私の話を聞いてくれる人が、やっぱり他の誰にも見えないなんて、そんなの嫌で……
うん、まぁそれで拗ねちゃったんですね。父に叱られてお祭は途中退場、帰り道は無言のままで、母は頭を撫でてくれて、父はおんぶしてくれて。でも私はずっと拗ねてました。家に着いても「ただいま」は言わなかったと思います。お風呂に入っても拗ねてました。パジャマに着替えてもそうで、寝かしつけられても起きてました。
それで母が部屋から出て行った後に、家出したんです。
***
カナコさんなら分かってくれる、ずるぺたずるぺたゴム草履を引き摺って、早苗は夜道を歩き続ける。
目印用のおはじきは必要ない。何度も何度も通った道だ。年長さんの足であっても大して時間は掛からない。家を出て、角をふたつ曲がったらもう鎮守の森は目前で、あとは神社へ続く階段を登るばかりだ。問題は妖怪への対処だけれどもそこらへんも抜かりがない。卵色のあひるさんパジャマには腰の部分にポケットが付いている。そこへお守りをちゃんと入れた。頭に血が上っていようとも、カナコさんから口を酸っぱくして言われているためだ。
なんでも早苗は美味しい匂いがするのだそうな。そういう血筋という話だ。早苗は見鬼なのだそうな。これも血の証という話だ。妖怪が人を食べるには、まず姿を見られなければならないのだそうな。境目の薄くなる逢魔が時に、見えてしまった挙句に食われることもよくある話だ。たそかれ、かはたれ、暗さに紛れて顔の見分けが付かない時分、道へ背を向けている誰かには決して目を向けないように。それは人ならざるものだから。そして、夜は妖怪の時間だそうな。
ひとつ目の角を曲がった。
なるほど、早苗は見えるし美味しいのだからとても危ない。人気のない夜道なぞはとてもとても危ない。妖怪はどこに潜んでいるか分からない。奴らはかくれんぼの名手である。ぶらんと垂れた電線の上、ひび割れたブロック塀の隙間、もしかしたらそこの木影から突然飛び出してくるかも知れない。
早苗は三歩ごとに周りを確かめ、十歩進めば暗がりに目を凝らす。「そんなところには何もいない」なんて一体誰が断言できる。いないのではなく見えないだけなのかも知れないだろうに。だってほら、さっきからずっと視線を感じる。首の後ろがちりちりする。肩越しに振り向いて、
やっぱり何もいなかった。
その通り、いなかったのだ。振り返るより早く、奴らはまんまと逃げおおせたのだから。逃げ込んだ先の草むらからさやさやと音がする。臆病な人間を嘲笑っているのだ。きっと視線を外せばまた出てくるだろう、早苗は歩き出す振りをする。視界の端でぬるりと闇が蠢いた。やっぱりだ。ポケットの上からお守りに手を当てる。大丈夫。何だって平気だ、幾分か早まった心臓に言い聞かせ、
ぱちり、音がした。
辛うじて悲鳴は両手で押さえ込めた。爆発しそうな息といっしょに無理やり声を飲み下す。見たくないのに、正体を確かめようと音のした方へじりじりと首が捻じ曲がり、淡い光、巨人の影、木製の時代掛かった背高のっぽがいた。電信柱? ぱちりぱちり音は続いている、もっと上、のっぽの掲げる傘付きの街灯に、なんだ、虫だ。
折れかけた膝を叱咤して、早苗はまっすぐに背筋を伸ばす。滲んだ涙を力任せにごしごし擦り、灯りにもういちど目をやって、何だかぼやけてる、羽虫の黒い点々が何かの形を取るようにくるくる巡って集まって、電球の真ん中で真っ黒な塊に、何だろう、じっと目を凝らして。
街灯に睨まれた。
今度こそ悲鳴が漏れたと思う。
カナコさん、真っ白な頭の中でお守りに縋りつき、我武者羅に両手を振り回して走り出す。脇を過ぎる板塀の遅さがたまらなくもどかしい。今の早苗にとって闇は恐怖でなく光こそ背中を向ける対象であり、力の限りに足を動かす。
ふとつ目の角。体を倒れそうになるほど左へ傾け曲がりこみ、耐え切れずべしゃりと転び、カナコさん、身を起こして顔を上げ、止まった。
半月が煌々と照っている。
道路は広い。軽トラック程度なら譲り合えば擦れ違えられて、よもや側溝にタイヤを落とすなどしないだろう。更に長い。ぽつんぽつんと立つ電信柱はひとつひとつがマラソンのゴールであって、ひと息に駆け抜けられる気は毛頭しない。左右には水田が広がっている。所々に走る用水の黒い筋はあの世へ至る崖としか思えない。まだまだ青いはずの稲は鈍い月光で黄土色に揺らめいている。
そして、そんな広い景色の果ての果て、幾つものゴールテープを潜り抜けた先の最終地点、鎮守の森は遠かった。
何かの冗談のように音がしない。きんと甲高い耳鳴りがした。
膝が落ちた。
喉の奥はごろごろしている、膝小僧はちくちくしている、鼻の付け根がつんと痛い。もう歩きたくない。何度も何度も通った道は、何十倍にも長くなってる。
もう嫌だ。
例えば幼稚園なら机の影、家なら納戸の奥、神社なら縁側の下。いつもの暗くて狭い場所ではないけれど、今こそ必殺技の役立つ場面ではないか。膝を抱えて無敵になるのだ。擦り傷はへっちゃらだし、街灯に睨まれたってびくともしない、嘘だと決め付けられてもさっきの綺麗な妖怪は絶対本物だ。そう信じられるスーパーサナエになるのだ。とても素敵なことだと思う。
月の沈んで太陽が昇るまで、道端にじっと蹲り続けるのだ。夜が明けてしまえばあの電信柱も目を瞑って寝ているだろうし、傍を何事もなく通り抜けられる。もしかしたらその前に松田さんが通りかかるかも知れない。ゴン太といっしょに散歩のついでで神社へお参りするのは知っている。それでなくとも農作業で誰かしら来るだろう。そもそもがこんな夜更けにカナコさんを訪ねるなど、非常識極まりない話だったのだ。
なんでわたしは大人しく寝なかったんだろう、早苗は家路を夢想する。
妖怪なんていない静かなご町内をてくてく歩き、門柱の傍を通って庭にこっそり忍び込む。汚れた足をおざなりに払って廊下へあがる。風鈴の下を通り抜け、仄かに燃える蚊取り線香を横目に過ぎて、障子は出てきた時と同じで開けっ放しだ。六畳敷きの子供部屋、隅に片付けられたおもちゃ箱からは積み木に埋もれまいとして、変身スティックがにょっきり顔を出している。真ん中に敷かれた布団は夏物で、上にはタオルケットが一枚きりだ。もぞもぞと中に這いこみ枕へ頭を落とした瞬間、眠りに楽々引きずり込まれる。
けれども今夜は蒸し暑い。寝苦しさにタオルケットを蹴飛ばして唸っていると、内側の襖が音も立てずにするする開く。誰かの足裏がさらさらと畳を擦り、こちらへと近付いてくる。白粉がふわりと匂って覗き込まれたのだと分かる。誰かは汗に濡れた額の髪を脇へ静かに流してくれて、間を置き、ゆるゆると微風が届く。汗の引く心地よさで無闇に入っていた力は抜けて、呼吸は緩やかになり、次第々々に体が溶ける。薄目にまぶたを開き、枕元に団扇を扇ぐ姿が見えて、膝を崩して座りながら柔らかい笑顔を浮かべていて、
おかあさん
唸り声が聞こえた。ゴン太?
もう誰でも良かった。前を通るたびに吼えかけてきて、散歩中に出会ったなら綱を限界まで引っ張ってのしかかってくる意地悪でも知り合いには違いない。初めて飛び掛られた時にちびったことは許してやる。「とってこい」のボールを咥えたまま放そうとしない無礼にも目を瞑ろう。べろべろ舐めまわして顔中を涎まみれにしてくる悪行にも情けを掛ける。だから、
柴犬の狐色を探して、何もいなかった。
わたし? 喉に手をやり、ごろごろ転がる感触が早苗の指を震わせた。唸り声はどうやらここから出ているらしい。
おかあさん、歯を食いしばり、胃からせり上がろうとする塊を全力で押し戻す。
これで挫けたなら止まらなくなると知っている。泣き声ひとつ漏らしたが最後、それが呼び水になって何もかも溢れてしまう。何度も何度もうんざりするほど繰り返してきたことだ。知っているからこそ危うい局面を切り抜けるために、早苗は体育座りを発明したのだ。
しかし今は、必殺技の出番ではない。この瞬間にも自分の不在を母が見つけてしまうかも知れない。そんな場面、想像もしたくない。する必要など欠片もなく、どうなるかなど分かりきってる。早苗を呼ぶ母の声には焦りが篭り、箪笥の影に納戸の奥、物置の中を見回って、いよいよ家にはいないらしいと悟った時、顔を青ざめさせるのだろう。
出鱈目に目元を拭って早苗は両の足ですっくと立つ。ひどく擦りむいたのだろう膝がじくりと抗議を上げたけれどもこれしきの傷は屁でもない。座って夜明けを待つなど論外であり、今すぐにも帰らなければならない。たかが目玉のひとつやふたつ何するものぞ、自分にはお守りが付いているのだ。ポケットの中に手をやって、
無い。
血の気が引いた。
それでもまだ早苗は冷静でいられた。きっと転んだ拍子に落としたのだ、ポケットから飛び出るなど有り得ないと喚きたいが、断じ切れないことでもある。必ず近くにあるはずだ、決して暗くはない月夜の下で四つんばいになり、お守りの影を探し始める。
道路の表面を浚った。全身に脂汗が滲み出る。塀の足元に生い茂る草を掻き分けた。呼吸がやかましいほど忙しくなる。側溝の上に身を乗り出して中を窺った。激しさを増した動悸で吐き気がする。
早苗は見えるし美味しい匂いがする。昼日中ならともかくとして、逢魔が時はとても危ない。人気のない夜道なぞはとてもとても危ない。
神奈子は「夜に出歩くな」とは言わなかった。決して勧めはしないけれども、誰かしら信頼の置ける身内が付き添った上で、お守りもあれば早々危険は及ばないだろうという考えだ。
枯れてきているとはいえ、曲がりなりにも国津神の一柱が力を込めたのだ。十把一絡げの妖怪ならば近寄れもしないだろうし、それを押して尚、早苗に触れられるほどの者に対しては「建御名方」の名が利いてくる。お守りは言わば御老公の印籠であり、「手を出したらただじゃおかねぇぞ」と四方にメンチを撒き散らす鯉口の切られたヤッパであり、事実舐めて掛かった幾人かは早苗が気付く前に諏訪の地から姿を消した。
分霊を備えた早苗用特製ポータブル分社である懐剣からは、不穏な気配を察知したならすぐさま神奈子が飛び出してくる仕組みだ。そんじょそこらの護法では束になっても叶わない安全性の秘密はここにある。身に着けていれば、少なくとも手元に留めているならば余程のことがない限り問題は起こらない。起きても神奈子が何とかするし、起こす前に諏訪子は察して身を退いた。
であるならば、ひとりぼっちの、お守りを失くした早苗はどうなるのだろうか。
手負いの獣と変わらない荒い呼吸が早苗の口を出入りする。
実際に危害こそ加えられなかったものの、早苗は幾度も妖怪の剣呑な目を見てきた。悔しげな遠吠えや舌打ちも聞いてきた。カナコさんは笑顔で「大丈夫」と請け合ってくれたけれども、だからといって忘れられるものではない。うなされ、母に揺り起こされた夜が幾度あったかなど数えあげたら切がない。それに、今しがた出会った街灯のことも、
首筋に、生臭い、
飛び退り、勢いを殺しきれずに尻餅をついた。
何もいない。
ざあざあ稲穂がさんざめく。遠くの水田に影が落ちた。吹き渡ったぬるい風に早苗は頭を空へ向け、雲に隠れつつある半月を見た。鼻先にぽつりと冷たいものを感じ、雨が来る。
何もいないと一体誰が断言できる。今のはただの風だったのかも知れない。けれども、本当は、
――さてさて、ひとつ味見といこうかねぇ。
跳ね起きて駆け出した。
角の向こうで確かに足音がした。誰だろうと何だろうと正体はどうでもいい。追いつかれる前に神社へ辿り着かなくてはならない。周囲に目を向ける余裕などこれっぽっちもなく、道路へ視線を落としてひたすらに走り続ける。
一本目の電信柱を過ぎた。稲光が網膜に田園の一枚絵を焼きつかせ、ぽつぽつ道に丸い染みが増えていく。遠雷が轟いた。神社まで何本あるか、早苗は数えたことがある。ひとつ目の角まではきっかり十本、ふたつ目なら七本で、残りの道も十本ある。
三本目、本降りになった。バケツをひっくり返したような豪雨で瞬く間に濡れ鼠へと姿を変える。汗と涙と鼻水が雨滴に混ざってどろどろしたものになり、鬱陶しい。張り付く髪と重いパジャマと目に飛び込んでくる雨が更に鬱陶しい。まだこれだけなのか、これだけ走ってやっと三本目なのか。もっと速く。足音はもう後ろまで来てるかも知れない。確かめたくても振り向けない。上がりきった顎を自覚しながら足を動かす。
五本目、半分過ぎた。まだ半分も残ってる。精も根も尽き果てて足は萎えそうになり、背後で地響きがした。これ以上なんだというのだ、首を後ろに回してしまい、電信柱が道路から根っこを引き抜いていた。ばつんばつん、引きちぎられて波を打つ電線も、亀裂の入るアスファルトも、血走った眼球も全部見えてしまった。
爪先から頭の天辺まで楽器にして悲鳴を上げる。どこに残っていたのか不思議になるほど息は続いて、切れてもまだ吸い込み声を出す。叫んでいる間は襲われない、根拠のないルールを勝手に作って駆け抜ける。
十本目をいつの間にか過ぎていた。鳥居の裏に回りこみ、来た道を覗き込もうとして、すぐ向こうに目玉があったら? 歯の根が合わない。見開いたまぶたが痛い。喉が詰まって動かない。際限なく膨れ上がる恐怖に耐え切れず、柱の影から早苗は首を突き出して、呼吸は止まり、雨に煙る田んぼがあった。
たわむ電線も職務に忠実な電信柱も頼りない灯りを投げかけている街灯も、全てがいつも通りだった。田んぼの向こうに背景を切り取る形で影絵があって、人家なのだと遅れて早苗は理解する。止まっていた息を吐き出すと、焼け付く肺が「今頃気付いたのか」と獰猛に騒ぎ出し、頭を捻り上げられるような痛みで体を九の字に折り曲げた。咳も涙も鼻水も止まらない。えづく内にもどしかけ、残っていた最後の力で堪え、鳥居に縋ってずるずると崩れ落ちる。滑らかな表面に濡れたパジャマが張り付いた。
どうだ、見たか、これが神のまします鎮守の森だ。わたしは逃げ切ってやったんだ。
しっかりした柱にもたれかかっているというのに体は安定せず、地震かと思えば噴出してしまいそうなほど全身が震えていた。かみさま、「助けてくれてありがとう」と「お守りを失くしてごめんなさい」がごちゃ混ぜになった結果、早苗は笑いながら咽び泣く。
もう平気だ。もう大丈夫だ。あとは帰るだけだ。母にはごめんなさいを言って抱き締めてもらおう。髪を拭いてもらって頭も撫でてもらおう。きっと白粉の香りを嗅いだ瞬間にわたしは眠ってしまうのだろう。カナコさんには申し訳ないけれども家まで連れて行ってくれるようにお願いして。この姿を見たらどう思うだろうか。きっと怒りながらも笑顔を向けてくれるのだ。カナコさんはとても優しいから。
しゃっくりも震えも泣き笑いも止められる気がしない。足腰は立たず、仕方ないと四つんばいのまま階段にもぞもぞと体を向けて、きゅう、カミキリ虫にも似た音が喉から漏れた。
麓にそびえる鳥居は赤い。赤の先に黒がある。指先で掬ったなら滴りもせずへばりついてくるだろう、粘ついた漆黒の夜がある。あるはずの杉や檜は精々が二、三本しか見えないままに、残りは異界へ呑み込まれていた。
どこへ続くとも知れぬ階段が、真っ黒な口を開けて獲物の一歩を待っている。
限界だった。
泣くでもなく喚くでもなく、早苗は鳥居に背中を預け、のろのろと膝を持ち上げ抱え込む。お尻と石畳に挟まれてパジャマがぐずりと小さく鳴いた。気持ち悪いけど我慢する。体育座りのためだから。
膝頭の間に頭を埋めて、無敵になるための注意点、そのいち、
「くわばら」を例に持ち出すまでもなく、言祝ぎを始めとして呪や言霊に見られるように、古くから言葉には力が宿ると信じられてきた。信仰心は大切だ。「信じてくれたなら神様は嬉しい」のだとカナコさんも言っている。体育座りで早苗は無敵になれるのだ。そう信じる。
おまじない染みた注意点を、胸の裡に唱え始める。
そのいち、目は固く瞑ること。何かを見たら食われてしまう。そのに、正面は参道の逆に向けること。もしかしたら仲間と勘違いして見過ごしてくれるかも知れない。そのさん、絶対に動かないこと。気付かれないように、手足を体に押し付けて、息を殺して。そのよん、そのよんは……
これらを守り通したなら無事でいられる。おかあさんに抱き締めてもらえる。おとうさんは馬鹿な自分をうんと叱ってくれる。早苗は「そのよん」を死に物狂いで考える。早く、早く言わないと間に合わなくなる、何でもいいから早く、頭の中を手当たり次第に引っ掻き回して、
妖怪はいないのだと信じること。
溜め息が薄く漏れかけ、寸前で押し留める。涙が出そうなほどに安堵した。でっちあげた「そのよん」を口の中で転がして、なるほどいかにも今の状況にお誂え向きではないか、早苗は満足した。絶対にいないのだ、二度三度繰り返し、そのたびに勇気が湧いた。調子付いた早苗は「そのご」も「そのろく」も難なく考え付いておまじないを唱え続ける。
夜更けの神社の足元に、ひとりの少女が座っている。体に張り付くあひるさんパジャマは闇夜に浮かぶ卵色だ。これだけが味方だとでも言うように少女は二の腕を掻き抱き、小さく小さく縮こまっている。
敵だとも知らずに。
雨を吸った重い生地が、少女の体温を奪っていく。
***
あの夜を、早苗は断片的にしか覚えていない。それも閉じた目は何も見ず、閉じ切れなかった耳だけが辛うじて記憶を保っている有様で、真っ暗な過去を手探りしたならなんとかかんとか当時の残響を拾えるばかりだ。
例えば雨音がある。小降りになっていたのか止んでいたのかは分からないけれども、無数の豆を落としたような雨はいつしかすっかり鳴りを潜めて、枝から滴り落ちていたのだろう、代わりとして断続的に地面を軽く打つ音がしていた。ぽたりぽたり、すぐ傍とも、どこか遠くからとも聞こえる音は眠気を誘う。
他には蛙達だ。がーがーかろかろ水田を埋め尽くす鳴き声が、鎮守の森を取り巻いていた。なんとも平和なものだと思う。
その頃にまだ「おまじない」を続けられていたのかといえば、恐らく止まっていたのだろうと早苗は考える。熱を出して次の日から丸々三日寝込むほどだ、指の一本持ち上げられたかすら怪しい。
一体どれほど座っていたのだろう、数十分か数時間か、膝の作る暗がりに引き篭もっていると、ころんころん、道の方から音がした。疲れ切ってぼやける頭は耳慣れないものに判別を付けられず、何だろうと構うものか、投げやりになって座り続ける。気力も体力も根こそぎ抜け落ち、何事か物を考えるのも億劫になっていた。
ころんころん、一定の調子を刻む音が段々と森に近付く。水田の端辺りへ来た時にようやく分かった。下駄の音だ。
正体に気付いたからといって、では持ち主は誰なのかと疑問が残る。お祭りの最中ならともかく、普段から履いている人物は近所でついぞ見かけたことはなく、田舎に暮らす父方の祖父はそうだった気もするが、よもやこの時間のこの場所に現れるなど到底有り得ないだろう。心当たりがあるとすれば……カナコさん。そうだ、雨の日にはいつも石畳を鳴らしてた。長靴より下駄の方が落ち着くと笑ってた。
がばり、伏せていた顔をあげ喉から歓声を迸らせかけ、でもなんで外から? ぷかり、湧いた疑念が寸前で早苗を押し留めた。外出していて今帰宅したのだとはもちろん考えられる。随分な宵っ張りだと思うけれども母が言うところの午前様なのだろう、大人というのはそんなものだ。でも違っていたら? よくよく耳を澄ませてみたなら、カナコさんにしては軽過ぎると気が付いた。がらんがらん、記憶にあるものはもっと重くて景気の良いものだ。
持ち主は誰なのか、疑問はどす黒い恐怖に変わった。そんなものは当然決まっている。妖怪だ。赤銅色の虚無僧に、ぼろきれを引き摺る老爺、ひとつ目の巨大な案山子も、ひとたび考え出すと心当たりは掃いて捨てるほど湧いてきた。
ころん、音がする。鳥居のすぐ向こうまで来ていた。
口中がからからに干上がった。触らなくとも鳥肌になったと分かる。大丈夫だ。まさか鳥居を潜れるはずがない。ここは神域なのだ。飛び出ようとする悲鳴を必死に宥めて落ち着かせる。
ころん、もうひとつ。隣に立たれたと思うほどに音は近くて、衣擦れのしない濡れたパジャマがありがたかった。もし乾いていたなら一発でばれるだろうと確信できるくらい体は震えて、まだ大丈夫。全然平気だ。下駄の動き出す気配は無くて、ほら見ろ、躊躇っているじゃないか。ここなら絶対安全で妖怪なんて絶対入れなくて心配することなんかひとつも
ことり、石畳を踏む音がした。
拳を口に押し当てる。悲鳴を上げるわけにも歯を打ち鳴らすわけにもいかなかった。蠕動する喉から呻き声を漏らしそうになって飲み下し、苦しさに頭の奥がじくりと痛む。もう嫌だ、張り詰めた神経が千切れそうで、おかあさん、何度も何度も母を呼ぶ。
ことり、止まっていた歩調は戻り、気付かないで、ことり、鳥居の脇に、見ないで、ことり、柱の後ろ、おかあさん、
ことりことり、過ぎていく。
何もないままで、早苗に気付くこともなく。
俄かには信じられなかった。目を見開き耳をそば立て、ことりことり、本当に下駄が離れていく。理解が頭へ染みていく。
堤防の決壊したように冷や汗が全身から噴き出した。涙と嗚咽まで溢れそうになり、まだ我慢しろ、全力で押さえ込み、おかあさん、早苗は何が何でも帰りたかった。こんな思いをするなど真っ平御免で、この先何度繰り返すのか見当もつかず、今回は助かったけれども次は違うかも知れないし、むしろ絶対違うだろうし、大体が行けば帰ってくるのは当然で、下駄は階段を上ってからしばらくしたら必ず戻ってきて、今度こそわたしを見つけて今度こそわたしを
――うらめしやー。
驚き過ぎたら時間も止まるのだと早苗は知った。凍りついた心臓は杭を打ち込まれたかのように痛み、雨で冷えた下腹に生温かい感触が広がっていく。
――別に「表は蕎麦屋」なんて返事は期待しちゃいないけどさ、そんなに驚かなくったって、ねぇ。
女の子の声だった。
ころころした涼しいもので、なるほどだから音が軽かったのか、ぼんやり思う。
――「初めまして」は言わないよ。早苗とはお祭りで会えたしさ。立てる?
どの口がそんなことを言えるのだ。驚かされる前までならまだ力は残っていたかも知れないけれど、それも今しがた消し飛んだ。力があったところで抜けた腰を立たせられる気は微塵もしない。
場違いなほど明るい声音で恐怖は失せて、この落とし前はどう付けてくれる、こんなことは年少さんで卒業できてたのに、羞恥心がプライドに火を点けて、早苗はネズミ程度なら射殺せるだろう殺気を込めて隣を振り向き、
――その元気なら心配するほどでもなかったかねぇ。ひと安心だよ。
「白い狐がいたんです」
ふむり、文は頷き、
「で、それがこの面だと」
「はい、じゃあ西瓜切ってきますね」
わしわし髪を片手で拭きつつ裏に表に面を返した。タオルは水気を良く吸ってくれる。
いつも通りを装って、軽く絞ってあとは自然の為すがまま、寸秒でも早く脱衣場から抜け出すために。そんな文の甘っちょろい思惑を早苗は見逃してくれるはずもなく、髪をしっかり乾かすようにという要求を大人しく受け入れるしかなかった。断ったならタオルを手に全裸のまま襲い掛かってくるかも知れないと思えば、この程度の労力は喜んで払う。「せめて縁側で」という嘆願を飲んでくれたのは幸いだった。
無闇に広い脱衣場だろうと、すぐ隣で早苗の体を拭く気配を感じながらなど無理に決まっている。これが最善の選択だろう、文は首を振り振り納得して、着替えている最中うっかり目に入れてしまった光景がぶり返し、今は早苗の話でしょ、思考の舵を切り返して奥の土間へ疑問を投げる。
「何故、座敷童子ですか、それの着けていた面があるのです」
「私もよく覚えてないんです。母の話だと抱えながら倒れていたらしくて、命の恩人のものですから大事だったんだろうなーって思いますけど。あ、お守りもいっしょです」
「それなら仕方ないですが」
いい加減、髪も乾いたところでタオルを置く。
早苗の宝物になった経緯は理解した。では一体、
「何故、探そうと考えたのですか」
「それはですねー」
かちゃかちゃ食器をいじっていたかと思うと、「よいてこしょ」、西瓜を盛り付けたお盆を運ぶ早苗の姿が現れて、手伝えばよかった、なんとも気の利かない、丸々ひと玉って切り過ぎでしょう。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
「うん、えっと、怒らないでくださいね」
何を、
「懐かしくなったんです」
それだけ?
「怒りはしませんが、大変な気の入れようでしたね」
にへらと早苗は笑みを深めた。
「ですねー、自分でもびっくりしてます。でも宝物ですから。こんなことで手伝わせてしまってすみません」
「いえ、構いませんよ」
今の笑顔を見せてくれるのならば。申し訳なさそうに眉を落とした早苗に向けて、文は心の中で呟く。高まる鼓動に耐え切れず、西瓜へと視線を戻した。
さくり、噛み締めて顔を顰める。若いものにありがちな水気ばかりというわけではなく、熟しすぎて白く筋の張るようなこともない。見た目の熟れ具合は程よいのに、無闇やたらと甘ったるかった。
***
あれやこれや積もる話を重ねていると、山の向こうへ太陽が半ばまで姿を隠していた。祭りの案内を再度約束して文は神社を後にした。
風を孕んで膨らむTシャツは体を背後へ引き戻そうとしているように思われて、抗おうと文の翼に力が篭る。長居をしたならまた八坂様の不興を買うだろうから仕方ない。仕方ないのだが、空を見上げる。夕闇の迫る東には星が瞬いていた。
五芒星は彼女の十八番だ。文は長々と息をつく。
近頃、早苗は綺麗になった。
手入れをしているのか、それとなく文は訊ねたことがある。早苗は得意満面、自信満々に「これです」とシャンプーのボトルを突き出してきて、聞けば、秋の豊穣神に指導を仰いで糸瓜から化粧水をこさえたらしい。続けて、文の新聞勧誘も顔負けの勢いで宣伝を始めたので、随分と辟易した。そんなものが理由ではないと文は知っている。知りながら聞いた。早苗の長広舌を右から左に聞き流しながら晴れやかな笑顔を眺めて、綺麗になったと確信した。
早苗は変わったのだ。
迷いがなくなったのだろう。もちろん日常の、涼のために氷室から氷を削り出す作業だとか、夏の定番であり夜雀も屋台に出す蝉の天麩羅だとか、些細な部分で躓くことはまだまだある。しかし戸惑いはしても、それがこちらの流儀だと貪欲に学び始めている。
こちらに来て一年も経たない新参が力を持った。これを面白くないと感じる者は確かにいる。排斥の動きはなく、表立っての批難もせず、精々が影口程度ではあっても、いることは事実だ。けれども賢者の「幻想郷は全てを受け入れる」という言葉に――腹の底ではどうか知れないが――否を唱える者はおらず、元より能天気といってもいい楽天家ぞろいだ。酒を呑めば忘れる程度の愚痴であり、守矢の三柱に「出て行け」など言おうはずもない。
あとは早苗の意識次第だった。彼女は妖怪の世界を指して「隣」だと言った。言葉の根底にあったのはまさしく「お隣」であり、彼女自身は別に住処を持つ余所者だったのだろう。しかし意識の持ちようが根幹から変わった。「東風谷早苗」から「新参の」が外れるにはあと十年は掛かるだろうが、少なくとも余所者ではなくなった。
弾幕ごっこに宴会に、早苗の笑顔には気負うところが見えなくなった。合わせようとして引きつる皺が見えなくなった。危なっかしいところは増えたけれども自信を持ち、ついに幻想郷の住人となったのだ。
喜ぶべきなのだろう。けれども、
「参ったわね」
早苗は綺麗になった。それが文にはたまらなくもどかしい。
今日は幸い用事もあって神社を訪ねられた。明後日には祭りの案内という大儀がある。三日続く大祭だ。用など呆れるほどに湧くだろう。しかし、その次はどうなのか。
「もう、こんなに会いたいのに」
顔が見たい。声を聞きたい。けれども今夜はもう会えない。
明日は準備で忙殺される。祭りは滞りなく済んだとしても、合間には事件が必ず起こるし裏取りの取材に追われる日々となるだろう。特集も組まなくてはならない。しばらく会えなくなるのは確実だ。そして、一番の難点。暇がもし出来たとして、用もないままに会えるのか?
無理に決まってる。早苗は綺麗だから。
近寄れば近寄るだけ離れたくなる。いつか、何かの拍子に、この手が恋人を壊してしまうのではないか。ただでさえ脆い人間だ。まさかとは思えない。事実、大事には至らなかったものの春先には一度殺めかけている。
気分の沈んだ晩には時折、有り得た過去に襲われる。文が不眠に陥る理由のひとつだ。
月光を浴びる障子の足元、散らばった資料の上やまぶたの裏の暗がりに、横たわった早苗が浮かぶ。胸は微動だにせず、手足は力なく投げ出され、開ききった瞳孔はただの鏡にしかならない。文の顔を見ようとしない。
血の涙を流しても飽き足らない、喉の裂けるまで慟哭してもまだ足りない最悪の結末だ。
文は自身を信用できない。
「何故」
早苗はああも綺麗なのか。
老いさらばえる運命を背負いながら、一生を燃やし尽くそうとする人間は好きだ。線香花火にも似た煌きは文の好奇心を惹きつけて止まない。元はといえば、ただの興味と野次馬根性から里に出入りし始めたことが切欠だ。どのような泥臭い生き方をしているのやら、取材などするはずも無かった。ちょっとした世間話程度に留めて、地面を這いずる生き物の生態を、面白おかしく記事に纏めるのだ。
鍛冶師の八五郎は右目が潰れていた。炉をあまりに長く見続けたせいなのだという、白く濁った眼球は何を見ることもない。その癖、語る顔は後悔ではなく誇りに彩られていた。ぎょろりと剥いた左目を指し、顔全体を口にして豪快に笑うのだ。「お迎えの来る前にこいつも潰さねぇと格好がつかねぇやなぁ」。
百姓のセンは顎が地面に付くほどの腰曲がりだった。日の昇る前に畑へ出て、里に灯りの絶えるまで縄を編む。馬鹿の見本として思わず攫いたくなるような働き者だった。その癖、生活はまさしく爪に火を灯す態を為していて、身を削る倹約は一番下の孫に嫁入り道具を持たせるためなのだという。杖の代わりに鍬へ縋り、顔全体を皺にしてからからと笑うのだ。「白無垢を見たらやっとあっちに逝けるねぇ」。
そして稗田阿弥は終生を筆に捧げた。彼女に関して写真は必要ない。求聞持ではないが全て脳裏に焼き付けている。尤も、取っておく必要はないからといって処分する必要もなく、文机の引き出しを漁ったなら幾葉か収めた紙入れが底から出てくるはずだ。
文は人間を好ましいと感じている。
「どうして」
ああも早苗は綺麗なのか。
確かに彼女は人間で日々を懸命に生きている。なるほど魅力はあるだろう。しかし彼女の自由奔放な振る舞いは終末の枷を全く感じさせない。若さ故だ、そう自分を納得させることは出来た。
寿命に関して「焦ることはない」と、つい先だって諭したためもあるかも知れない。上首尾に終われば彼女は神格化を成し遂げて、信仰の途絶える日まで生きていける。自信と余裕が出るのも当然の話だ。
だからといって、
「変わりすぎよね」
眼下を眺める。朱筆がひと撫でしていったのだろう、木々の頂きは夕日の紅で濡れていた。
文は自身を信用できない。
天狗に対する世間の評は、「慇懃無礼」で「色好み」で「傲岸不遜の鼻持ちならない嫌な奴」だそうな。
半分当たり、文は常々思っている。付き合い始める前にも早苗から、慇懃無礼に近い言葉で指摘されたこともある。敬語はともかく、丁寧にしている目が怖いのだそうな。その癖どこか人を食ったような、何であろうと見透かすような、そんな目が怖いのだそうだ。
冗談ではなく文は三日寝込んだ。両目を抉ろうかと真剣に考えて「怖い」に慌てて付け加えられた「けれど綺麗だ」のひと言で思い止まった。
ねぐらが近い。翼が半ば無意識にすぼまって急降下の構えを取る。
みっつ目の傲岸不遜云々はひとつ目と似たり寄ったりであるからさておいて、ふたつ目の「色好み」。これが問題だ。半分当たり、天狗は往々にして胆力と精力に富んでいる。こればかりは否定できない。
落ち始める。
風切り羽の立てる唸りに願いを込めた。この欲を、風もろとも消し飛ばしてくれたなら。目を瞑り、いっそこのまま山肌に落ちてしまおうか、そうしたらひと月ばかりは何事もなく眠れるだろう。益体もなく考えて、そのようなこともなく、翼はやはり幾度もこなしてきた動作をなぞって家先に羽ばたき降りる。
溜め息をひとつ吐き出す。引き戸を抜けて万年床に倒れこみ、枕に頭をぽすんと落とす。蕎麦殻がくしゃりと鳴った。
半分当たりだ。枕に顔を押し付ける。
昔々のそのまた昔、三千年も遡らないそれ程遠くもない昔、文は狒々爺の色になっていたことがある。好色な猿だった。本物の猿かと思えばケツは然程赤くもなく、イボの浮いた生白くたるんだもので、顔だけが赤かった。
鼻高天狗の面目はなんとか保っていたようだ、おべっかと胡麻擂りしか能のない部下達に、鼻と魔羅の長さが同程度だと下劣な笑いを幾度も幾度も飛ばしていた。「英雄は色を好む」というが逆は必ずしも真ならず。絵に描いたような小物でも欲は十二分にあったらしい。哀れだった。
何故、そんな糞爺に付いていたのかといえば、当時ではそれなりの権勢を誇る山の主だったからだ。若かったのだ、文は苦虫を噛み潰す。
口吸いのひとつもせず、腰を振っておけば女は悦ぶと思っているらしい狒々が、ひどく哀れだった。文にも情けはある。哀れな狒々に取り入って山のあれこれに指図する程度で満足していた。若かったのだ。向上心はあるけれども天魔を目指すような気概はなく、鶏口に甘んじる程度には文も小物だった。
そんなある日に、狒々は部下を呼んで文の前に並ばせた。いい加減、精も尽きてきた耄碌だ。傍で眺めて楽しもうという腹だと何を言われるまでもなく察した。あんまり哀れだったので殺してやった。ひぃひぃ泣いて命乞いをする様が、それまでの何よりも興奮したと覚えている。
文は若かったのだ。
「早苗」
目に入れてしまった光景が脳裏にちらつく。
妖怪に「貞淑」の概念は存在しない。殆どが人間と比べるべくもない長命であり、子を成す必要に迫られることもない。であるからして有象無象と交わることに禁忌を見出すはずもなく、本能に導かれるまま快楽へ身を委ねる。天狗の多くも同様だ。では鴉天狗はどうなのかと言えば、つがいになったのなら生涯を共にする鴉の習性に違えず、誓った相手と添い遂げる。
故に「貞淑」を持つかといえば、否だ。
好意と行為は別物であり、欲を満たせるのなら相手が誰であろうと構いはしない。
「違う」
違う。私はあんな猿じゃない。
敷布団に爪を立てる。枕には犬歯を立てる。破れる寸前まで食いついて、文はようやく息をつく。
切り替えよう。これから四日は何やかやでてんてこ舞いの日が続く。こんなことで体力を浪費しても詰まらない。
早苗の話には腑に落ちない点が幾つかある。
狐の面に染み付いた匂いは妖怪のものだった。それは確かだ。しかし座敷童子のものなのかと問われれば首を傾げざるを得ない。彼ら、彼女らは専ら家に居つく。幽かに混じった樟脳の香りはそれを裏付けするものだ。けれども樟脳というのが曲者で、そもそもが箪笥や納戸に篭っていればこそ染みいる匂いだろうに、遊び盛りの童達だ、ひと所で大人しくしているとは思えない。
その後に座敷童子は一度だけ早苗の前へ身を現したのだという。「礼をしたかった」のだそうな。一体何へ感謝するというのか、「私が言いたかったのに」、早苗は憤懣やるかたない様子で詰っていた。これに不思議な点はひとつもなく、手入れの行き届いた住処さえあれば座敷童子は満足するものだ。むしろお眼鏡に敵わなければ居つくこともない。早苗の家に住み込んでいたのなら、礼は辞去の挨拶だとも考えられる。ただ動機が分からない。何故、わざわざ礼を言ったのか。義理に厚かろうともそれ以上にはにかみ屋の妖怪だ。人の前に出て口を開くほどの理由はなんだったのか。
そして何より、お守りの一件がある。話を振ると早苗は嬉々として小物入れから出してきた。物騒に過ぎて、こちらでは仕舞ったきりだったのだという。件のお守りからはなるほど、隠そうともしない八坂様の親馬鹿ぶりが溢れていた。あれでは並の妖怪なら近付く前に鼻を背ける。私だって嫌だ。下等な者なら触れた端から消し炭になるだろうことは請け合える。しかし、ならば早苗の言う座敷童子は、あの力を克服したことになりはしないか。
だとするならば、彼女は少なくとも天狗に匹敵し得る大妖か、それとも、
「ふぐぅ」
誤魔化しも限界だった。
Tシャツから恋人の匂いがする。蜜を練りこんだ桜のような、かわいく、扇情的な甘い香りだ。飛ぶ間はまだしも風に紛れていたが、寝床に転がり込んでからは逃れようが無かった。
近寄れば近寄るだけ離れたくなる。この手が募る想いのあまりに恋人を壊すかも知れない。歯止めの利かなくなった腕が力の限りに早苗を抱き締めるのだ。脆く儚い人間は、寸毫の抵抗も為せぬままに易々と手折られるのだろう。最悪の結末を避けるためにも、私は早苗の隣に立ってはならない。
ひとつを除き、全てが嘘だ。
想い人の身を案じた末に自ら退く。芸によるものでなく、愚かさに笑われているのだと夢にも思わない哀れな道化の仕事だ。そして、道化は自分だった。
愚行を貞淑と履き違える白痴になりたかった。貞淑を美徳と信じて疑わない風狂になりたかった。演じようとした道化の仕事は、臆病風を美徳に糊塗するための方便だった。
近寄れば近寄るだけ離れたくなる。綺麗だと言ってくれたこの目が、募る欲をも恋人へ密告するかも知れない。浅ましいと蔑まれたならまだ救われる。天狗は色好みだそうな。半分当たり。自覚はあるし今更だ。けれども自分の狒々爺へ感じたように、哀れだと情けを掛けられたなら。もしも、万が一にも有り得ないと分かっているが、お情けから早苗が抱こうとしたのなら、文は彼女を食い殺すだろう。血の一滴、骨のひと欠片まで腹に収めて、それから後を追うのだろう。下らない誇りが招く最悪の結末だ。
有り得ないと分かっている。早苗は優しいから。けれども文は可能性を捨てきれない。早苗は優し過ぎるから。
臆病風が吹き荒ぶ。
早苗は変わった。自分も変わるしかないのだと思う。まともに恋人の肌も見られない欲に塗れた自身を、万の方策を講じてでも変えねばならない。些細な切欠で変われる短命な人間が、ひどく羨ましかった。
文は永く生き過ぎたのだ。
色に身を任せれば快楽が手に入る、実に単純なやり取りだ。狒々爺の萎えた棒など糞掻きヘラの代わりにもならず、己の指があればそれで良かった。
けれども、今は。
肉など望むべくもない、ただ口付けが出来たなら。恋人の唇を心行くまで味わい尽くすのだ。それが贅沢だと言うのなら、重ね合うだけでも構わない。どんなにか満たされることだろう。
私は、あの猿と同類なのだろうか。
「ごめんなさい、早苗」
文の不眠に悩む理由はふたつある。
「許して」
震える指がTシャツの襟を掴み、鼻先に引き寄せる。
恋しい人の匂いがした。
***
赤くなるまで肌を磨いた。
全身に化粧水を擦り込んだ。
紅を引き直した回数は覚えていない。
この日のために用意した浴衣だ。皺や糸屑のないことを晩に十回確かめて、明け方にもう二十回見直した。
いくら振り払っても何か忘れているような思いがまとわりついて、姿見の前で立ち尽くす。
戸の外から急かす声が届いた。驚いた。もう出ないといけない時間だ。
慌て過ぎて転びかけた。部屋を飛び出す。
***
山の中腹には方形の祭祀場がある。一辺は二百間余り、三方の森は切り開き、南には緩やかな崖を臨んで、土を搗き固めた広大な地所だ。
これの周縁に白狼天狗が方陣を組んでいる。腰には儀礼用の直刀を佩き、身の丈に余る杖を片手で突いた正装だ。それぞれは二十歩の間を置き、二頭づつで背中合わせの組となって内外へ同時に目を光らせている。都合、百と四十四頭の精鋭に加え、四隅に立つのは甲乙丙丁の警邏隊隊長であり、副官を伴って杖の代わりに掲げるのは祭儀に用いる緋染の旗だ。
祭祀場の南寄りには日輪を拝する形で祭壇がある。紙垂を垂らした注連縄を張り巡らせて、季節の供えが厚く調えられている。
御前には天魔を筆頭に、次いで大天狗の諸坊が控える。そこから三歩の間を隔てて心得のある者が笙や龍笛、鉦鼓に篳篥等々を携えた格好で端座して、続くのはやはり正装に身を包んだ鼻高天狗、鴉天狗、木の葉天狗など。両翼には貴賓を迎える長椅子と屋根を備えた場が設けてあり、八方から招じた神々をこちらへ案内する寸法だ。
鉦が鳴る。
天狗の祭りはまず樂の奏上から始まる。尾を引く音の森に沈んだ頃合を見計らい、天魔が梵天を捧げ持つ。天を仰ぎ、龍を拝し、方々の神々へ祝詞を奉じる。幾多の加護と浄福に御礼の儀を言上し、末々の安寧を朗々と祈願する。
文月の半ばを過ぎて執り行われる大祭を、八方に謝し、天地の二方へ頭を垂れる意を持って「十呼祭」と号す。
何のことはない。全てはお山の威光を天下に知らしめるための茶番に過ぎない。一騎当千の白狼天狗を惜しげもなく投入して尚防備に穴のない兵力と、津々浦々の八百万を聘して尚陰りのない財力とをもってして、山に鬼の君臨しない今、「天魔ここにあり」を声高に呼ばわるのだ。
以上が百と幾らか前までの様子だった。
幻想郷の閉じられて以降は、権勢を幾ら誇ったところで妖精程度しかビビってくれる相手がおらず、張り合いの無いこと夥しいため、祭りは気の抜け放題になっている。
今日の開催日は葉月の下旬、お盆を迎えて後である。何故かと言えば、文月なら七夕で酒を呑めるし、長月ならやはり名月に会って呑む口実が出来る。葉月にはそれがない。
口実なんぞあろうとなかろうと酒席を血眼になって探すのが妖怪だ。けれどもやはり無いよりは有ったほうが尻の座り心地も良かろうというもので、閃いてしまった天魔のひと言が全ての始まり。誰も彼も名案だと褒めそやして、瞬く間に整えられた書類へ調子に乗った天魔は判をつき、その日のうちに日取りが変更された。
これが良くなかった。
幾ら山の高みにあるとは言え真夏の盛り、ここぞとばかりに太陽が参列者を燃やし尽くそうと張り切っている。誰か止める奴はいなかったのかと詰りたくなるけれど、発案者たる天魔にどうこう言える筋合いなどあるはずもなく、後にも引けず、腕といわず額といわず、ありとあらゆる箇所に玉のような汗を浮かべて祭文を延々口にしている。
「あつい」
言葉には力が宿る。言霊を発したのは次郎坊だ。
熊にも勝る大兵は暑熱に対して滅法弱い。分厚く着込んだ正装は地獄の釜と差して変わるところもなく、膝を突いた地面には汗の染みがじわりじわりと広がって、隣に控える太郎坊は「ぶっ殺してやろうか」と拳を固める。
こいつの髭を鷲掴みにして毟り取ってやれたなら、どんなにか気持ちが晴れやかになるだろう。火渡りの修行は怠るなと何遍も、それこそ挨拶代わりになるくらい繰り返しているのだ。しかし次郎坊は持ち前の不精さを発揮して「来月から」をお題目の如く唱え続けて、結局耐える根性を付けないままに干からびそうな暑気を迎える羽目になる。
自業自得で済むだけなら良いのだが、周りでただただ座り続けるしかない天狗達にとってはたまったものでなく、次郎坊の無駄に筋骨逞しい両肩からゆらりゆらりと立ち昇る陽炎は苛立ちを増幅させて、ついに場の総意がひとつに纏まる。
曰く「さっさと終われ」
無言の圧力を背中に感じ、天魔の顔が泣きべそに歪み始める。
――どうせ呑むなら腹の空き始める頃合が良い。
果たして誰が言い出したのか、頃は昼時も僅かに過ぎた夕七つ、酷暑の極限を迎えていた。
これも屋根のもたらす恩寵の故だろう、景色の歪む暑さにあっても貴賓席の面々には余裕がある。
石長姫はその性格故に悠久の時へ思いを馳せつつこくりこくりと舟を漕ぎ、ともすれば止まりがちの扇子ははたりはたりと眠気を誘う。末席に座る秋の姉妹は慣れたもので、手当たり次第に配ってもまだ余った瓜を片手に、むくむく育った入道雲と果てしない青空を見るともなしに眺めていた。水分補給は大切だと身に染みている。
そんな緊張感の欠片もない中にあって、雛はひとり幸せを感じていた。腕を伸ばさなくとも手を握り合える距離にはにとりが座る。長年、随伴の名目では控えの席までしか恋人に与えられなかったが、伴侶を理由に交渉したところ、ついに同格の席を得られたのだ。
もっと早くにも気付けたでしょうに惜しいこと、嘆息して雛はにとりをチラ見する。人見知りの河童は高貴の間に黙って座っていられる神経など持ち合わせていない。小刻みに震える唇は一文字に引き締まり、飲み込むつばきで喉は時折上下して、青ざめた顔には涙と脂汗と限界とがぽつぽつ浮かびつつあった。
ほう、雛は満足の吐息を漏らす。幸せだった。
ごめんなさいね、にとり、けれどもとてもかわいいわよ。
やけにつやつやしてるわね、神奈子は対面の厄神を遠目に見つつ普段通りの格好で頑張っている。初めはタンクトップにショートパンツでキメようかとも考えたが自慢のフランクさは場にそぐわず、「やっぱり威厳も大事よね」とひとり納得した結果だ。
しかし祭儀の進むにつれていや増す暑さに耐えかねて、懐から百均のゴム紐を取り出した。こんなこともあろうかと密かに忍ばせておいたのだ。肩に達するセミロングは手際よく一本に纏められ、後れ毛を掠めていくのは汗の一滴も払わないぬるま湯の如き微風だけれど、下ろしたままの髪が蒸し風呂になるより余程ましだと諦める。
胸元も緩めたい。ぶら下げる真澄の鏡は重かった。
片や諏訪子は「礼儀など牛に食わせるものだ」という信条の元、下っ端天狗に持ってこさせた茣蓙の上にぐでんと寝そべり、早苗のお古であるど真ん中にけろけろけろっぴのプリントされたTシャツとカーキ色のキュロットスカートは、隣に座ってふんぞり返る我慢大会でもしてるのかしらんと疑いたくなるほど着込んだバカに「どこからどう見てもお昼寝中の小学生」だと囃されたが、あとでひん剥いてやれば気の済む話なのでそんなもんに構う必要は露ほどなく、我が帽子はテンガロンハットであり、額に乗せて目元を覆えばクールな女バウンティハンターに早代わりだとうつらうつら夢を見る。
そんな身内の恥を尻目に、早苗は石像になったが如く身じろぎもせず両手を膝の上に重ねて座っていた。その身を鎧うのは過去四週間ちくちくやってようやく縫い上げた勝負浴衣であり、皺のひと筋も付けないように背筋をぴしりと正しつつ、祝詞へ耳を神妙に傾けている。
ぶっちゃけドラクエの「ふっかつのじゅもん」だった。
真言なのだろう、夏空に響き渡る天狗の祝詞は「おんばさら」云々「おんそわか」云々ばかりで、神道の巫女には畑違いもいいところであり、早苗はひと言も理解できないままに、けれども迫り来る眠気へ抗いながら真面目に聞く振りを懸命に続けている。中の中から上の下をうろうろする程度の成績だのに、「なんとなくそれっぽい」というだけの理由で学級委員長に推薦された挙句、ノってしまって丸々一年勤め上げた経験が物を言った。
とさり、天魔の声と蝉時雨のみだった静寂が、唐突に破られた。
朦朧とする頭を振り振り早苗は何事かと音のした方へ首を向けるも、群集越しではなんともかんとも判別がつかず、しかも気にしているのはどうやら自分だけだと周りの様子から察し、慌てて正面に向き直る。
実は密かにはたても見ていた。
救護班の駆け寄る先へ目を凝らし、倒れたのは椛ではないと当たりを付けて、ふうと胸を撫で下ろす。
祭りの最もたる被害者は白狼達だと毎年のようにはたては思う。祭儀中、がら空きの裾野を守る者に関しては気の毒に感じる必要もないのだ。かんかん照りに炙られながら山へ侵入してくる酔狂のいるはずもなく、お偉方の出払っている今、一種の休暇と捉えて誰も彼もが五体と尻尾を地面に投げ出しだらけている。
小うるさい目付の役目を負うはずの鉋などは朝寝をのんびり楽しんだ後、滝裏の詰所に着いて荷物を置くなり外へ飛び出し、木の根を枕に木の葉を日傘に惰眠を貪り始めた。長い二度寝がついに昼寝へ成り代わる頃、南へ居を移した日光に顔をじりじり焼かれ始めてもまだ起きず、寝汗にまみれ、鼻の頭と眉間には深い深い皺を寄せ、尻尾で蝿を打ち払い、何かに追われる夢でも見ているのか耳は時折弾かれたようにびくりと跳ねる。「欠け刃のカンナ」という二つ名を頂戴するほどのぐうたらなのだが、話の分かる上司だとこれはこれで結構な人望があった。
反対に祭儀の警護へ当たる者は全く様相を異にする。正装の条件は天狗ならば皆一様なのだけれども、それに加えて白狼には「天狗の威を示せ」との古い古いお達しがある。今更何を脅しつけたいのだとか、こんなところで見栄を張ってどうしたいのだとか不満は方々から上がっているのだけれども、慣習とは恐ろしいもので、何年経ってもいっかな改められる気配がない。
これは教練の代わりなのだと渋々ながらも受け入れるものがいれば、気紛れな天魔様はお触れを忘れてしまったのだと嘆き諦めるものもおり、いやいやしっかり覚えているけれども引っ込みが付かなくなっただけなのだと言うものもいる。下っ端達の間では諸説が飛び交っているけれど、議論はいつも「とにかくどうにかして欲しい」というぼやきで締めくくられる。
元来が夏毛だろうと冬毛だろうと年がら年中ふさふさしている狼達だ。暑さへの脆弱っぷりは折り紙付きで、「威を示す」べくその身を重厚に鎧った結果、例年二、三人は日差しに中って救護班の世話になる。
要領の良い、手抜きに長ける楓あたりは、得るもののない我慢比べに付き合っても馬鹿を見るだけだと様々な工夫を凝らしているのだ。例えばなめし革の胸当てには布切れを挟んで少しでも蒸れないように隙間を作っているし、上衣と袴は重苦しい支給品ではなく風通しの良い紗のひと揃えに替えてある。
けれども真面目の髄で煮締めたような頑固狼である椛にあっては、楓が何を言っても首を縦に振ろうとはせず、朱塗りの手甲から鈍色の鉢金から全てに渡って一分の隙もない完璧な警護兵だった。
だからして、はたては椛を思って気が気でない。炎天下、抱きついただけで暑さにへばる狼だ。日中をサラシと袴のみのほぼ半裸でうろつくのは目が潰れそうになるから止めて欲しいし、「はたて避け」なのかと真剣に悩んだけれども、演技ではなく本気で倒れた時には肝を潰して深く深く反省した。
そんな恋人が何を血迷ったのか全身全霊の厚着で立っているのだ。今倒れるか、もう倒れたか、そわそわと落ち着きもなく幾度となく振り返り、仕舞いには隣の文から頭をぺしりと叩かれた。
そんな不安に暮れるはたての視線を真っ向から受けて立つのは楓であり、三歩の後ろに立つ椛を介抱するのは、ろくすっぽ名前も覚えていない救護班の誰かではなく、付き合い始めてひと月経たない鴉天狗の恋人では尚更なく、同族であり同期であり同僚であり数百年来の親友であるこの自分の役目だと気炎を吐いていた。
十にふたつ、過去十年の間で椛が昏倒した回数だ。決して多くはないが、こと今回に限っては必ずあると楓は踏んでいる。腹立たしいことに、はたてがいるのだ。
この祭りは椛にとって彼女へ披露する初の晴れ舞台であり、この拵えは仕事振りを恋人に褒めてもらいたいがためであり、頭も撫でてもらえたなら花丸で、頑迷なまでに楓の勧めを断ったのも、朝日の顔を出す前から起き出して尻尾に櫛を入れ始めたのも、全てははたてに見て欲しい一心故だった。
親友は必ず倒れる。四季の幾百巡ったかも覚えていないくらいの長い時間を楓は共に過ごしてきたのだ。椛のことなら何でも分かる。問題はそれがいつ起きるかだ。幾ら距離を離していようとも危急に会った鴉の翼は侮れず、油断したならはたてに先を越されるかも知れない。それは面白くない。面白くないどころか椛を看病する折角の機会をふいにしては悔やんでも悔やみきれず、さりとて倒れる瞬間に備えて気を張り続けていては先に自分が参ってしまうかも知れない。
ならば、ふいと楓の意識が手にした杖に向けられた、私から仕掛けてやろうかねぇ。
三歩は必殺の間合いであり、しかし抜けたところがあるとは言え椛は五分を競う手練れであって、万が一にも仕損じることのないように楓は内息を整える。
親友と恋人に引っ張られる大岡裁きの運命が必定になりつつあるとも露知らず、椛は綺麗なお花畑の只中に立っていた。
赤い紅い花だった。
この場所に至った経緯は定かでなく、途方に暮れてひとまずとぼとぼ歩き出す。
千里眼の彼方に人影を見た。ふたつ結いの髪と柘榴のような瞳がはたてさんみたいだと思い、腕を枕に花を弄る怠惰な様は楓みたいだとも感じ、藁にも縋る心境も手伝ってぶんぶん尻尾を振り回しながらついつい駆け寄り声を掛けてしまい、ものすごく邪険にあしらわれた。
貴重な休憩を妨げてしまったらしく「あっち」とだけ指し示されて、尻尾を垂れ下げ耳は折り、すごすごと来た道を引き返し、最中に発破のような音が聞こえた。
山が噴火したかという轟音の犯人探しをしたのなら、祢々子の元に辿り着く。九州一の誉れも高い九千坊を、鼻であしらう粋な女傑はチャキチャキの下町娘だ。三度の飯より祭りが好きで、お祭りさわぎが大好きで、喧嘩と花火は祭りの華だ。付け加えて言うならば、河童の例に漏れない生まれ付いての職人だ。
そんな姐御を追いかける苦労は並大抵のものではない。鎌柄は祢々子に届かなかった我が手を見詰め、止め切れなかった自らの不甲斐なさに嘆息した。
「好きこそ物の上手なれ」とは言うものの、「上手」が「好き」を極めたならば果たしてどうなるのだろうか。
知らぬが仏だ、我が身をもって知ってしまった鎌柄は心の裡に呟いた。
江戸っ子は気が早い。祢々子を知る皆が皆、「いつか必ずやるだろう」と戦々恐々びくつきながらもこれまで激発してこなかったのは、腹心でありお目付役たる鎌柄の涙なくしては語れない尽力の賜物であって、何故今になって捨て身の制止すらも蹴り倒す暴走に祢々子が至ったのかと言えば、一瞬後にはひっくり返っていてもおかしくなかったにとりの窮状に帰結する。
呼吸も辛いこの炎暑と初めてだという緊張の故だろう、にとりは潤んだ目をあてどなく泳がせて、首回りまで上気しながら息も忙しなく喘がせていた。まったくもって痛々しい。ついに体を支えることも覚束なくなったのか、震える腕で鍵山様へ縋りつく次第を迎えては、確かに一刻の猶予もなかったのだと鎌柄は祢々子を責め切れない。責めるべきはにとりを涼しい場所へ連れ出すだけで事足りた話を、わざわざややこしくしたその手法だ。
込み入った事情こそあるものの、結局は人情に溢れる喧嘩っ早い下町気質に起因していて、風祝に対する八坂様の情と似たり寄ったりのものであり、窮地のにとりを救おうと頭に血を上らせたまま突っ走った挙句の惨状であり、詰まるところ我らが姐御は大の付く親馬鹿だった。
打ち上げ時の爆風にひとたまりもなく吹き飛ばされた鎌柄は、天魔様にどう言繕ったものかと背中に柔らかな草を感じつつ空を眺める。
まだ夕暮れも程遠い明々とした大空に、大輪の花が咲く。
自由気ままな河童達を、その技量と気風の良さで纏め上げる祢々子の腕は確かなもので、昇りに昇った六尺玉は赤の花弁に金の枝、湧き出す緑は青へと煌き、広がる様はまったき円の、お山をひと呑みにするどでかい花火だった。
天魔は泣きそうだった。
刺さる視線で背中は痛いし容赦のない日差しで干し天狗になりそうだし、駄目押しにこの爆発だ。頭の奥でぐあんぐあんと残響が暴れ回って翼はびりびり震えてる。おまけに胃の腑もむかむかしていて、事ここに至っては、もはや自分の言葉に誰も耳を傾けようとはせず、聞いてくれても寝言以上に意味のあるものと受け取ってもらえないのは火を見るより明らかで、これより他に仕方がない。仕方ないんだ。
天魔はやけっぱちの潤んだ声で、祭儀の結びを空へ発する。
太陽が弾けたのかと腰の抜けるほどに驚いたが、それ以上に驚いたのは祭儀をぶった切る横紙破りな結の怒号で、太郎坊以下並み居る配下は全員が、「それでいいのか」、疑問を載せて恐々と顔色を窺うけれども天魔は勝気な吊り目に涙を浮かべ、文句あるかと辺りをぎろり、睥睨するに留まった。
射るような視線を受けて、とうに飽きていた神々は理解の色を示しながらもいそいそと席を立ち、「じゃあいいか」、残された天狗衆も遠慮しいしい三々五々に散っていき、そんな光景を前にして思った通りだと自分に強く言い聞かせつつ、しかし天魔は傍らの経机を空の高くへ力の限りに蹴っ飛ばしてからどすんと座ってぐじゅぐじゅと鼻をぐずらせ、僧正坊がさてこいつはちぃとばかし骨が折れそうだなぁと白髯をひとしごきして溜め息もやっぱりひとつ、悠揚迫らぬ足取りで、小さな頭首の小さな小さな胡坐姿へ歩みを進めた。
祭りが始まる。
***
りんご飴が好きなのだそうな。
――こんな時くらい思いっ切り羽を伸ばして来な。
諏訪子の手で背中をどやされ、早苗は目印の一本松に向かった。
「祢々子はりんご飴がほんとに好きでさ」
だからなのだ、にとりはぐいと胸を張り、崖の向こうへ視線を送る。
天狗衆の顔を立てて不満を溜めに溜め込んだ河童の総大将は、ある日前触れもなく爆発した。そもそも花火のひとつも打ち上げないところから気に食わず、その上にりんご飴なくして何が祭りか、そう喝破したらしい。もはやいかんとも勘弁ならず、斯くなる上は自分が夜店を開いてくれると拳を振り振り息巻く姿は、悪鬼羅刹を前にした仁王ならば然もあらんという剣幕だ。
止められようはずもない。鎌柄は泣く泣く大天狗に渡りをつけて、不憫に思われたのかは僧正坊のみぞ知る、滞りなく許可が下りたそうだ。
喜び勇んでとんかんとんかん金槌を振るいだした祢々子の背中に「姐さんだけにやらせておいては男も女も廃ってしまう」と若衆がこぞって屋台を持ち寄ったのを皮切りに、河童も河童以外も特に陽気な奴らが我も我もと加わりだして、規模は年々大きくなって、
「こんなになったんだ」
祭祀場の南端、崖に臨む一本松の足元からは山麓をすっかり一望できる。まず目を惹くのは霧の湖と流れ込む川の青だ。その周りを囲む木々の青は果てしなく続くかと思われた頃にふっつり途絶え、野原の黄緑、田畑の緑と里の薄茶へ次々と入れ替わる。
地平線の遥か彼方とは言わない、崖下から幾らも離れていない場所に丸い広場があった。田舎の、早苗の小学校と運動場を合わせたものより、まだふた回りも広かった。広いけれども狭苦しい。にょきにょきと無秩序に育った屋台達は、蜘蛛の巣状に通りの網を張っている。
網目には七色の水滴が垂れていた。暮れ始めたオレンジ色の景色にあって、尚煌々と篝火が燃えている。赤や黄色の提灯に、ぽつぽつ咲いたぼんぼりは芽吹いたばかりの新緑や春爛漫の桜を映し、目を凝らせば橙から紫まで十全に揃ったのぼりの行列も見えた。
「すごい」
ほうと早苗の口から息が零れる。来る途中で遠目にしたものは、板や丸太の寄せ集めとしか思えなかったのだ。けれどもこの変わりようは明かりの灯った故だけではないだろう。
通りには人が溢れていた。黒い点の往来する様子しか分からなくとも、早苗は騒ぎ浮かれる人々を楽々と想像できる。河童を始めとする山の妖怪、いたちや猪、熊に猩々などの妖獣達と、いずれとも判別の付かない姿は八百万の神々だろう。もしかしたら後片付けをサボった天狗も少しは混じっているのかも知れない。
そんな、それこそ七色ではとても足りない種々雑多な人々が、足の踏み場もなくなるほど集まってお祭りにはしゃいでいるのだ。眺めているだけでも肌まで熱気が届くように思われて、ぶるり、早苗は身震いする。
そして、こっちでは欠かせない肝心要の催しが、
「始まりましたね」
麓から吹き上げてくる風が、響き渡る盛大な「乾杯」を早苗の立つ崖際まで押し上げた。
広場のほぼ中央には、ぽっかり空いた円がある。中には人が詰まっていて今にも溢れ出ようとしている。屋台の群れが円を作っているはずなのに、むしろ宴会の輪に無理やり押しのけられたような格好で、流石だなぁ、眺めて早苗は苦笑した。
でも、早く混ざりたい。今の私ならどれだけ呑んだって大丈夫な気がする。全身の隅々まで回った酔いは、ガソリンになって私を動かし続けるのだ。
「私達だけで先に行ってもいいのだけれど」
「入っちゃったら最後だからねー。雛に会えないお祭りなんてもうやだよ」
その通りだ。文さんに会えなくなるなんて、血の涙を流しても飽き足らない、最悪の結末だ。
「それでなくったって、うっかりしたらはぐれちゃいそうだしさー」
「そうね、そうならないように、手を繋いでいましょうか」
「うんっ」
どうして、早苗は奥歯を噛み締める、このふたりはこんななのだ。最近、特に熱くなったような気がする。
普段なら素直に羨ましいと思えるけれど、今は無理だ。このまま煽られ続けたなら血に飢えた野獣と化す自信がある。そしてようやく姿を現した文さんに飛び掛り、ところ構わず噛み付くのだ。でも口の中に広がるのは、きっとマカロンみたくふわふわした甘い味。
幻でしかない想像で早苗の飢えた心が余計に飢えて、早々に指を絡めてしまったふたりを視界には収めておけず、早く来てください、救いを求めて方々に視線を走らせ、
「早苗に、あやや、とにかくあれです。お待たせしました」
「お待ちかねだよ天狗様」
「三人とも、お疲れ様」
誰?
「何かありましたか。早苗さんのそのような顔は久しく見ていませんでしたね」
何かあったわけじゃなくて、でも、
「昼の椛と同じなんじゃないの。だってほら、私のことも全然分かんなかったほどだし。人間の癖に帽子くらい被りなさいよ」
「ああ、なるほど。ひとまず横にしましょうか」
「でもさっきまでは元気だったよ」
違う、違います。誰かなんて分かります。でも、
「そう凝視されると照れますよ」
全然照れてないじゃないですか。言われた途端、気恥ずかしさに襲われて早苗は天狗達に背中を向ける。文さんがかっこいいなんて聞いてません。何なんですかその格好。
確かに、正装だということは知っている。さっきまでずっと見てきた。けれども平伏する姿ばかりで、文らしき後ろ頭はいたものの立ち姿には一向にお目にかかれず、いざ前にすると破壊力が段違いだった。
普段と変わらないのは色合いくらいで、それも赤い頭襟は脱いだらしい。白い狩衣ぽいけど何か違う、早苗は文の格好と父の仕事着を見比べて否定した。全体的にすっきりしてるし、前後の垂は幅がかなり狭くなってて、そうだあれだ、チャイナドレスだ。
お陰で体の線が綺麗に出てて何だか変に凛々しくて、いつものブラウスじゃない健康的なエロさとかっこよさで目が潰れそうだし、緋色の帯は細くてしなやかな腰を余計にエロくしていて、黒の変則袴は前を開けたパレオにしか思えなくて歩いたら太股が絶対見える。
「どうしたのですか。待たせすぎたというのなら謝ります」
「罪な女だよね」に「うるさいですよ」を返しつつ文は恋人を覗き込み、なんでそんなに素直なんですか、恋人に間近から覗き込まれて早苗は口を二、三度開け閉めしてから、
「違います」
「違う?」
「違うんです、私は何でもないんです、とにかく着替えて来てくれませんかちゃんと持ってきてますよね」
「それはそうですが、これ以上待たせるわけにもいかないでしょう。こう見えても脱ぐにはなかなか手間が掛かるんですよ。皺を付けられませんから面倒なのです」
「着続けて汗を吸わせるほうが余程ましです」、几帳面なのかずぼらなのかどっちかにしてください、それに椛さん達は着替えてるじゃないですか。付け加えられたひと言に早苗は理不尽を感じて睨みつけようとし、文の顔が近くにあった。
とても困っていた。眉は落ちて、口端もやっぱり落ちて、柘榴のように赤い瞳が「すみません」を言っていた。
いつもそうだ。
不意打ちで大人になるのだ。
初めてキスをした時なんか、たこ焼き屋の看板よりも真っ赤になって、今でも頬にしか出来ない完全無欠な初心の癖に、ショートパンツを履かせたら「足が出てる」なんて理由で涙目になりながら抗議する底抜けの乙女な癖に、やっぱり文さんは大人なのだ。数百年じゃ足りないくらいに長生きしてる妖怪だ。
「ずるいです」
「何がですか」
ずるい、ほんとにずるい。
これではまるで自分がガキンチョみたいではないか。「みたい」ではなく、実際にそうなのだ。高校生の彼氏を作ってきゃあきゃあ騒ぐ中学生だ。恋に恋する女の子だ。
「待って早苗、本当にどうしたのよ。ああもう汗拭いた手拭しかないってのに」
違う。私は絶対違う。文さんは私の彼女で、私は文さんの彼女なのだ。
俯けていた顔を上げ、文の姿を真正面に捉えた。皺を嫌ったはずの白い袖を持ち上げ、早苗の目元を拭おうとしていた。やっぱり大人だ、早苗はますます惨めになって、こみ上げる嫌な何かを跳ね返そうと反抗心が熱を持ち、熱を片っ端から反抗する手段を探す気力に変えて、ついに文の首を見つけた。
私達は恋人だ。
「あやっ」
マカロンの甘さでは当然なくて、塩辛い汗の味だった。
「あらあら」、「へぇ」、「今日は随分と大胆ですね」。
友人達の存在など埒外だ。抱え込む形で文の背中に腕を回し、早苗は全身全霊の力を横隔膜へ送り込む。まだ足りない、もっと強く。
初めて故に加減が分からず、「ちょっとやそっとでは付かないのだ」、自慢げに語る級友の口振りを思い出し、これでどうだ、唇で上下に肌を挟み込み、肌は逃げ、お腹が震えてる、抱き寄せて、ほっぺが痛い、押し付け、私の顔、ひょっとこになってるんだろうな、ひと際強く吸い上げて、戻らなくなったらどうしよ
「んぅっ」
落ちる。
流れて地面、近い、目の前、止まった、止めた。手のひら突いてた。
「えっと」
文さんすみません、思いっきり馬乗りだ。けれども、今は。
ずきずきするこめかみも、ばくばくする心臓も気にしてられなかった。早苗はぐっと首筋に顔を寄せ、なんか丸い。唇の形じゃない。
でも、うん、ちゃんと赤い。
「ほんとうに、なんなのよ」
これは何だろう、文さんが倒れた? 倒れたというより、崩れ落ちた?
涙目の文さんかわいいなぁ。少し悪い気もするけれど、とにかく、
「これで許してあげます」
私達は恋人なのだ。
***
七転び八起きの精神で悪戯を繰り返す氷精ではなく、冬の間方々に暢気を振りまく妖怪でもない。「カキ氷」と言われれば、お山に住む人々は一匹の子狐を思い浮かべるようになってきている。
子狐は名を六華と言う。本当は「りうふぁ」だったのだけれども、呼び辛いと師匠が言って「りっか」になった。母の名付けてくれた由来は知らないし、知る前に大陸へ残してきた。だからというわけでもないけれど、六華はまるで気にしていない。響きがとても綺麗だから、響きがとても気に入っているから六華は由来なんかどうだって構わないのだ。
そんな子狐の六華には少し変わったところがある。先っぽのちょっぴり欠けている左耳もそうだけど、もっと変わったところがある。客から水を向けられたのなら踏み台の上に立ち、手回しハンドルでごりごりやりつつ、氷が如何に綺麗で美味しいかを嬉々として語り出すのだ。言葉に篭る情熱はひどく暑苦しいもので、最後には決まって師匠の重くて硬い拳骨が脳天に落ちてきて、六華の口はようやく止まる。
こんな風に今では随分慣れているけれど、始めは苦手だったのだ。河童な師匠に勝るとも劣らない人見知りで、氷目当てに来る客は河童もいるけど白狼天狗もたくさんで、狐の六華は狼がとても苦手だった。風の遠くに狼を嗅ぎつけただけで、全身から汗が噴き出すくらい苦手だった。店先に狼の姿を見たなら思わず変化が解けてしまって、そのまま四つ足で逃げ出すくらい怖かった。一度などは、逃げようとした拍子に陳列棚へ頭をぶつけ、雪崩打つ硝子細工を浴びながら目を回したこともある。
目を覚ますと目を三角にした師匠がいて、思った通りに大目玉をもらった。けれどもお説教は二言、三言で止んでしまって、狼みたいな唸り声が代わりに聞こえた。師匠の声はまた気絶しそうなほどに怖かったのだけれども、逃げたらきっと叱られるから六華はじっと座ってた。そうしたら突然、思いもしなかったことに、息が詰まりそうになるほどきつくきつく抱き締められたのだ。あんまり突然だったし初めてのことだったからとてもびっくりしたのだけれど、師匠からは離れ離れになった母の匂いが何故だかして、六華はちょっとだけ泣いた。あんまり泣いたら師匠にきっと叱られるから、六華はすごく我慢してちょっとだけしか泣かなかった。
その日の夜は、六華の大事な大事な思い出だ。師匠の寝床に潜り込んでも、ちっとも蹴り出されなかったのだ。
そして六華はたくさん泣いた。
明けて次の日、昨日の狼が店に来た。もちろん六華は逃げ出して、柱の後ろで師匠と狼の話を聞いた。どうやら責任を感じたらしい、六華に会って謝らせて欲しいのだと狼は告げた。もちろん嘘に決まっているので六華は工房のずっと奥に隠れようとしたけれど、師匠がいるから我慢して、柱の後ろにずっといた。
――手前の餓鬼が仕出かした今度の不始末、あたしの薄汚い皿一枚こっきりじゃあ天秤の到底釣り合わない無沙汰を御前に、泥に塗れた甲羅の浄へ転ずるが如き清澄広大なる御寛恕にござんすが、
師匠は前置きをした上で、六華には会わせられないと告げた。難しい言葉ばっかりで何を言っているのかさっぱり分からなかったのだけれども、六華はすごく嬉しくなった。あんまり嬉しくて、むずむずする尻尾に思いっ切り噛み付いてしまったほどだ。
「どうしても?」と重ねて訊ね、「どうしても」と師匠に返された狼は、何も意地悪をしないで帰っていった。きっと師匠が怖かったから狼は六華に意地悪できなかったのだ。
その日の夜は、やっぱり大事な思い出だ。寝床に潜り込んだ六華を師匠が抱き寄せてくれたのだ。師匠はやっぱり母の匂いがして、六華はやっぱりたくさん泣いた。
明けて次の日、河童が来た。客ではなくて、狼の使いらしい。もちろん六華は逃げようとしたのだけれど、師匠と同じ河童だから我慢した。
河童は師匠の知り合いだったらしい、六華の前で師匠と河童は話し始めた。
――なんかどうしても謝りたいみたいでさ、でも怖がらせたらダメだって聞かなくて、めんどくさいよねぇ。けど元々私がかなめの店を教えたんだから仕方なくて。ほんとは弁償もちゃんとしたいんだって、でも断られちゃったでしょ。だからこれ、
河童はリュックをごそごそやって、六華に変なものを手渡した。師匠は六華を見て頷いてくれたので、悪さをするものではないようだ。それに狼の匂いもしなかったので六華はもらうことにした。河童はそれだけで帰っていった。狼の使いでも、きっと師匠の知り合いだから六華に意地悪しなかったのだ。
変なものはおもちゃだった。取っ手を握ってぐっと力を入れたなら、先っぽの拳骨が前に伸びる変なおもちゃだった。あんまり変だったのでおもちゃをぎいぎいやってたら、夕ご飯を知らせにきた師匠の顔に拳骨が当たった。師匠はすごく変な顔をした。
その日の夜は、前の晩と前の前の晩といっしょにいつまでも大事にしたい思い出だ。拾われて、師匠の家で暮らすようになってから、六華は初めて笑ったのだ。六華は六華の笑い声にびっくりした。あんまりびっくりしたので口を両手でふさいだままきょときょと部屋を見回して、困った六華は師匠を見上げた。
おもちゃの拳骨ですごく変な顔になった師匠の顔はもっと変な顔になっていて、それから師匠も初めて笑った。笑って笑って顔をくしゃくしゃにして笑いながら、六華をぎゅっと抱き締めてくれた。六華も笑って、お腹が苦しくなるほどたくさん笑って、師匠はやっぱり母の匂いがしたのでたくさん泣いた。
明けて次の日、六華は師匠に初めてのお願いをした。昨日の河童に会わせて欲しいとお願いしたのだ。六華は河童に「ありがとう」を言いたかった。変なおもちゃは素敵なおもちゃで、六華の大事な大事な宝物になったのだ。けれども師匠はそれだけでは駄目だと言った。河童に「ありがとう」を言うのはとても良いことだけれども、狼にも言わなければ駄目なのだそうだ。「ジンギニモトル」のだと師匠は言った。よく分からないけれども、とにかく駄目なのだそうだ。
六華は困った。狼は怖いのだ。狼はとても悪い奴に決まっているのだ。尻尾をぐるぐる追いかけながら困っていたら、目が回って六華は倒れてしまった。「どうしても?」と重ねて訊ね、「どうしても」と師匠に返された六華は、困って困って困り切って、がじがじかじっていた尻尾がよれよれになるまで困り抜いて、けれども最後には勇気を出してお願いした。どうしても「ありがとう」を言いたかったのだ。「ありがとう」を言わないと、むずむずする尻尾が爆発してしまいそうだったのだ。けれども先っぽのちょっぴり欠けている左耳も、やっぱりすごくむずむずしたので痛くなるほどがりがり掻いた。
その日のうちに、六華は河童の家に連れて行ってもらった。かんかん照りで暑い日だった。もう昼になっていたからとても暑くて、六華はすごく汗を掻いた。河童の家に着くと狼の匂いがしたので、六華はもっと汗を掻いた。師匠の着せてくれた綺麗な着物がぐっしょり濡れてとても悲しくなった。あんまり悲しいし怖かったから、六華は泣きそうになった。けれどもきっと狼はいなくて匂いだけだから、泣きそうになった六華は尻尾がびりびりするほど我慢した。
師匠は引き戸をとんとんやって、中から河童がぴょこんと出てきた。
――昨日の今日だけど悪いね、うちの洟垂れが礼を言いたいってんでさ。ちょいと聞いてやっておくれよ。
師匠の後ろで六華はもじもじしていたのだけれど、背中を押されて前に出て、顔を上げてもやっぱり伏せて、上目に見たら河童が微笑んでくれていたから思いっ切り息を吸って吐き出して、もういちど胸いっぱいに吸い込んで、耳の先っぽから尻尾まで六華の全部をぴりぴりさせて、「ありがとう」をとうとう言った。
――どういたしまして。怖がらせちゃったお詫びなんだけどねー、気に入ってくれたんだったら冥利に尽きるってもんだね、うん。とりあえず上がってよ、冷たいお茶出すから。それにおもちゃなら他にもいっぱいあるからさ、私のお古ばっかりだけどよかったら持ってって。
「ありがとう」をとうとう言えたからとても嬉しかったし、河童の笑顔はもっと「ありがとう」を言いたくなるほど嬉しかったし狼の匂いがするからもう帰りたかったのだけれども、師匠は中に入ってしまったので六華も追いかけた。
追いかけると中は暗くて、あんまり暗いから六華は目をぱちぱちやった。暗さにちょっと慣れてきたので師匠を探した。すぐ目の前の土間に座っていたので六華は師匠の背中に張り付いた。
――改めて御免こうむります。先だってのお心砕きはまこと恐悦至極にて、
狼が奥にいた。
六華は逃げようとしたのだけれど、師匠の腕に捕まった。師匠はどうしても放してくれなかった。どうしても「ありがとう」を言わなければ駄目なのだと、六華はとても怖くなった。あんまり怖くてぶるぶる震えて、がちがち鳴る歯が痛くなったほどだ。
どうしても師匠は六華を放してくれなかったのだけれども、いつまで経っても背中を押されなかったし前に押しやられなかった。
だから六華は我慢した。がちがち鳴る歯もじわじわ出てくる嫌な汗もぶるぶる震える尻尾もぺたんと髪に隠れた耳も、六華は全部我慢した。師匠がいたから全部全部我慢した。師匠が手を握っていてくれたから泣きそうでも全部全部我慢して、涙でほとんど見えなくなった前を見て、六華はとうとう「ありがとう」を言った。
――六華でしたね、怖がらせてすみませんでした。こちらこそ、ありがとう。
その日の夜は、六華の記念日になるほどの思い出になった。師匠は初めて褒めてくれたし、うんと褒めてくれたし頭も撫でてくれたし抱き締めてくれた。
それに夕ご飯はごちそうだった。お揚げとほうれん草のおひたしに、お揚げがいっぱい入った茗荷のお味噌汁と、甘い甘いお稲荷だった。いつまでもいつまでも、お揚げの味を覚えているくらいにごちそうは美味しかった。
その日の夜も、六華は寝床へ潜り込んで、師匠はやっぱり抱き締めてくれた。
もぞもぞ動いて師匠の腕にすっぽりはまって、師匠の胸に顔を埋めて、「もしかしたら」、六華は思う。
昼間の狼はとても優しい声をしていた。母ほど優しくないけれど、母みたいな優しい声で「ありがとう」を言っていた。
もしかしたら、狼も悪い奴ばっかりじゃないのかも知れない。
もしかしたら、狼にだって良い奴はいるのかも知れない。
もしかしたら、もしもあの時の狼が昼間の狼だったなら。
もしかしたら、母は、もしかしたら、もしかすると、
母は、死ななかったのかも知れない。
その日の夜に、六華は初めて声を出して泣いた。
六華の母は死んでいたのだ。六華を隠れさせたままどこかへ逃げて、それっきり会えないだけじゃ全然なくて、やっぱり母は死んだのだ。やっぱり母にはもう会えないのだ。
わあわあ泣く六華を師匠は優しく抱き寄せてくれたのだけど、母の匂いは全然しなくて、でもやっぱり匂いはして、師匠の優しい匂いだった。六華は師匠の匂いが大好きになった。大好きになった師匠に抱き締められて、大好きだった母を六華は何度も何度も呼び続ける。
六華はずっと泣き続ける。
あの日の夜から、長い長い時間が過ぎた。
あれから色々あったけど六華は今日も踏み台の上に立ち、手回しハンドルでごりごりやりつつ、氷が如何に綺麗で美味しいかを嬉々として語るのだ。
師匠は滅多に褒めてくれないけれど、毎晩ぎゅっと六華を抱き締めてくれる。暑い時期だとふたり分の暑さのせいでとても暑くなってしまうから、六華は離れようとするのだけれど、師匠はどうしても放してくれない。そんな時、六華が師匠で師匠が六華になったような感じがして、すごく変で、師匠の匂いを嗅ぎながら六華はちょっと笑ってしまう。六華は師匠が大好きで、師匠も六華が大好きでいてくれるのだ。
材料代を差し引いたカキ氷の売り上げは、全部六華のものなのだと師匠は言う。だから六華は六華のお金で年に一度お供えをする。六華は六華の記念日を、母の命日に決めた。本当はいつだったのか六華は覚えていないから、あの日に母は死んだのだ。命日のお供えはもちろん甘いお稲荷で、六華は大好きな母といっしょにごちそうを平らげる。大好きな師匠もいっしょにごちそうを食べてくれる。六華が決めた記念日は大好きだった母の命日で、師匠を大好きになった思い出の日なのだ。
そんな命日で思い出の大事な大事な記念日を、六華はもう二回も迎えている。
今の六華の目標はカキ氷の売り上げで、師匠の誕生日に贈り物をすることだ。去年、贈り物をしたら師匠はすごく変な顔になったのだ。六華は師匠の変な顔が見たくて見たくて待ちきれない。大好きな師匠の泣くのを我慢しているような変な顔はすごく面白くて、六華はすごく嬉しくなるのだ。あんまり待ち遠しいせいで、想像してたら師匠に変な顔だと笑われるくらい六華も変な顔になってしまう。そんな風に師匠が笑ってくれるせいで、六華はますます待ちきれなくなる。
だから六華は狼がたくさん来る氷売りを、今日も明日も明後日も、ずっとずっと頑張るのだ。
だけど六華は狼がそんなに苦手じゃなくなったし、狼にだって良い奴はいると知ってるし、悪い奴はほとんどいないし馴染みの客もたくさん出来た。今では巻きつけた手拭越しでも頭を撫でられたなら、嬉くなるくらいになっている。
そして、頭を撫でてくれる、顔馴染みになった初めての狼には思いっ切りおまけして、おまけじゃない思いっ切り八重歯を剥いた飛びっ切りの笑顔になって、まだまだ子狐の六華は舌っ足らずに叫ぶのだ。
「おありあとーござーい!」
***
六人前の御足を払う。
カキ氷に加え、六華の頭も差し出された。焦げ茶の髪を掻き分けて薄藁色の尖がり耳が忙しなく動いている。
「はい、ありがとう」
期待に応じて頭を撫でると六華はくふくふ笑い出す。
「書き入れ時だというのも分かりますが、根を詰め過ぎないように気を付けてくださいね」
力の限りに抱き締めて子狐を窒息させようと頑張る早苗を諌めつつ、椛はカキ氷をお盆に載せる。盛りに盛られた河童細工の波先切子は、どう工夫しても三皿までが限界だ。半々に手分けして慎重に歩き出す。
「これ、本当にすごいですね」
「ええ、六華は加減を知りません。普通にするよういつも言っているのですが」
ごった返す人ごみを抜け、各所に散らばる休憩所のひとつに向かう。
雛を除いた三人は中央に机を挟み、三方の長椅子に沈んでいた。
「文さんどうぞ。これで機嫌直してください」
文は思わず顔を上げ、そっぽを向く。
それしきで懐柔されるほど安くない。砕けた腰はまだ立たない上、負ぶられるままに嗅いでしまった髪の香りで余計悪化した。「いきなりは厳禁」、早苗も知っているはずだのに。抱き付いてくるだけならまだしも、何故。
納得いかない。
「はたてさんにはこちらを、幾らかでも冷えるなら良いのですが。雛さんとにとりの分はこれです。にしてもにとりまで一体どうしたのですか」
「ありがとう、ええ、少しね」
にとりはしつこかった。
あまりにしつこくからかってきたので浴衣の襟を暴いてやったら案の定、厄神様の印がぽつぽつ見えて、火の消えたように大人しくなった。文は少し気が晴れた。
問題は、
――はたてさんにもあのような印を付けましょうか。
要らぬ気遣いははたての魂を削るだけだといい加減気付いても良さそうなものなのに。せめて声を潜めるくらいしたらどうなのか。何故堂々と訊ねるのだ。
だから私まで座り込む羽目になるのよ、馬鹿狼。唇の感触が消えないじゃない。
「文さーん、溶けちゃいますよー。氷小豆って嫌いでしたか?」
ぐいと早苗に詰められて、ぐっと文は詰まってしまう。
嫌いではない。シロップと小豆のみを掛けられた氷の単純明快な姿は、この世の何もかもを白と黒に分けられそうな気がしてしまって、しがらみや交際関係で疲れた時の特効薬だ。そう地獄の誰かは言うのかも知れないが、私は違う。
「はい、あーん」
それは無理。
「ああもう分かったわよ食べればいいんでしょ」
受け取った文は自棄になって大盛りにひと匙掬い、頭の後ろにきんと来た。呻き声も漏らさないままひたすらに耐え続ける。涙目で霞む向こうに早苗がいた。花の咲いたような満開の笑顔をしていて、ずるいと文は思う。
結局、負けるのだ。早苗は綺麗でかわいくて、最近とみに増してきた押しの強さでなし崩しに許してしまう。
文はそんな自分が許せない。
鴉天狗の矜持がどうとか人間の小娘如きに誇りはどうとか、今更言う心算はない。惚れた弱みと人は言う。「好き」を言わされ、搾り出した言葉の響きに涙が出る。「好き」を言われて、胸に満ちる温かさに涙が出る。
惚れた弱みと人は言う。しかしこれではあんまりだ。
己がない。
彼女の言葉に、彼女の望んだ通りの反応を見せ、彼女を喜ばせる。人形遣いの人形と、何ら変わるところがない。しかし喜んでくれるのは構わない。早苗の笑顔は、文の望むところと変わらない。泣き顔で歪まずに済むならば、幸せそうに笑ってくれるのならば、他の誰でもない自分に笑顔を向けてくれるのならば、それでいい。けれども、ならば。
さくり、文はもうひと匙口に運ぶ。
ならば、私は何がしたいのだろう。何が不満だというのだろう。己がなくとも、現状で十分だろうに。
ぎしり、木の香りが鼻を抜け、知らず噛み締めていた木匙を慌てて放した。
「そんなに美味しいですか」
「そんなわけないでしょう。ついです」
にへらと早苗は笑みを深めて、
「ですよね。それじゃ私も頂きます」
さくさく氷を突き崩し始めた様子に、文は溜め息をつく。
結局、許してしまうのだ。大口開けて氷を頬張り、前屈みでぱたぱたと足を振り、けれども笑いながら冷たさを堪える早苗はかわいい。耐え切れて誇らしいのか、「あは」、小さく息を零して自分に目を向ける早苗がたまらなく愛しい。
文はそう感じる自分が情けない。
これでいいのだろうか。溜め息をもうひとつ。
いいのかも知れない。少なくとも、幸せだ。これ以上ないほどに幸せだ。わだかまりが口に含んだ氷と共に、さらさら溶けて流れていく。そして、これ以上ないと思える幸せは、彼女と夜店を回った時に、一体どれほどまで膨れ上がるのだろう。
何故かしら無性に氷を掻きこみたくなった。それは流石に無理がある、考え直した文は溶けて再び凍った塊を探り出し、ひと口に噛み砕く。両目を固く瞑りながら冷たさが通り過ぎるのを待ち、ひとつ息をつく。
目を開けて、目が合った。
早苗が笑ったので、文も笑った。
私達は幸せだ。
***
にとりが切子を積み上げた。
「で、どうしよっか」
「どうと言っても、はたてさんがこれですから」
「はい、あーん」を半分まで達成したところで椛の恋人は力尽きていた。
もしかしたら文さんより恥ずかしがり屋なのかも、早苗は倒れた瞬間を思い出しつつ、でも文さんは三口でギブしたからお相子かも。初デートの時はお団子ひと皿いけたのに不思議だ。まさか、文さんの照れ屋さんっぷりって前よりひどくなってきてたり?
それは困る。すごく困る。
「待ちましょうか。そう長くも掛からないでしょうから。それでいいかしら」
「そだねぇ」
「放っておいて、後から愚痴られても敵いませんからね」
「少し待ってください」
続く会話を椛が制止し、はたての口元へ耳を寄せた。
「どうぞ、何でしょうか」
五対からなる注視の中で、うわ言染みた「私を置いて、先に行って」がはたての口から立ち昇った。意地っ張りなんだから、代表して文が呟く。
ですね、早苗は頷き、でも、看病で絶対残る椛さんとふたりきりっていいんだろうか。良くはないけど、いいんだろうなぁ。まぁいっしょに回れないのは残念だけど、機会ならこれからまだまだあるだろうし、
「仕方ないわね」
「仕方ないですね」
「仕方ないよね。じゃあ椛、はたてさんをお願い」
「ええ」
そういうことになった。
跳ね起き「待って椛が残るなんて聞いてないっ」叫ぶはたてを椛は胸に抱きとめて「寝ていてください」言葉を失いはたては目を白黒させて紅潮し「このバカ狼」再び寝込んだ姿に椛は肩を落として長椅子へはたてを横たえ、額には絞った手拭を静かに載せる。
またやってしまった。はたてさんに叱られる。
「とりあえず、これだよね」
にとりが切子を満載したお盆を掲げた。
とりあえずの言葉通りに、とりあえず四人は連れ立って氷屋へ歩き出す。色取り取りの提灯とぼんぼりに、のぼりや看板を掲げつつ、見える限りにどこまでも連なる夜店の列は、早苗の目には幻灯のように映った。
もう文の機嫌は戻ったし、これでもかと盛られた氷に注意する必要もない。だったら、
「文さん文さん、あれってなんですか」
「熊ですね。大見得を切っていますがただの力自慢ですよ。ああやって生木を裂いたり、岩を握り潰したりで投げ銭を稼ぐのです」
「そしたら、あれは」
「木の葉天狗の卜占です。一年の吉凶から昨日失くした財布の行方までのよろずを占い、果ては恋愛の悩み事やや近隣、家内の揉め事などの相談を受け付けるものもいます。天狗ともあろう者が嘆かわしい、とは言いません。彼女達は結構な薄給ですから」
「こっちのは」
「危険ですから離れてください。どさくさ紛れに新作の披露をたくらむ河童です」
「じゃあ……」
早苗は道行く間、三歩毎に恋人の袖を引き引き訊ねに訊ね、好奇心を満たしていく。
もしかして聞き過ぎだろうか、ふいと我に返って文の横顔を覗き込み、うん、大丈夫っぽい。嬉しくなり、早苗は文の腕に縋って、
「すみません、これで我慢してください」
指が絡んだ。
「その顔、どこか気味が悪いですね」
「なんてこと言うんですか。輝くような乙女の笑顔ですよ」
むくれた様を見せてから、あれこれ再び訊ね始める。
「ねぇ、雛」
「なぁに」
「なんかさ、思い出すよね」
「そうね」
会話の尻尾が耳に届いた。
「すいません、私だけはしゃいでばっかりで」
にとりは鷹揚に手を振って、
「初めてだしねー、いいんじゃないかな。お祭りは楽しんでこそってもんだよ」
「ええ、それに私達も十分楽しませてもらっているから」
「そうでしょうか」
「そうなんだよ」「そうなのよ」
くつくつとにとりは笑い、ころころと雛も笑った。
「さて、ようやく着きました。寄り道をしたはずもないのに随分と時間を食いましたねぇ」
「いじわるですね」
「ごちそうさま」、にとりが六華にお盆を返した。
先程と同じように早苗はもういちど抱き上げようとしたけれど、「危ない人間」と認識されたらしい、子狐は文の後ろに隠れたきり出てこない。腰の辺りから恐る恐る窺う様子に早苗は身悶えして叫びそうになり、耳、狐の耳が震えてる、抱き締めたい、全力で抱き締めたい、お願いします抱き締めさせてください。
「六華が怯えてますよ。私も怖いです」
涙が滲んだ。
「ずるいですなんでそんなに信頼されてるんですかっ」
「チルノもですが、子供には何故かしら懐かれるんですよねぇ。人徳でしょうか」
鴉の癖に、早苗はぎしり、歯噛みする。
「かなめに見つかったら怒られるよー、すっごく親馬鹿だし。そういえば、かなめってば店空けて何処行ったの?」
浴衣の前を気に掛ける素振りもなく、ヤクザなしゃがみ方で目線の高さを合わせてきたにとりに対して、「厠」とだけ答えを返した。
その間も六華の目は絶えず警戒を続けていて、早苗は息も絶え絶えになる。せめて頭だけでも撫でさせて欲しい、自分は無害だと全身で主張しながらそろりそろりと六華へ近付き、反対側に回り込まれた。
「文さん邪魔です」
「ひどいですね」
本気で傷ついたように眉をしかめた。
しかし文さんにならいつだって抱きつけるのだ。今憂うべきは愛くるしい子狐のご機嫌である。なんとしても撫でねばならぬ、なんとしても愛でねばならぬ。文を言いくるめて着せ替えマネキンになってもらう時の真剣さで早苗は考え、そういえばこれならいけるかも、
「ごそごそ何をしてるのです。何か良からぬことでも考え付きましたか」
失礼な。
「これです」
振り返り、両手を腰に早苗は堂々と胸を張る。
お面ならではの狭い視界は文の姿がぎりぎり収まる程度だった。
「その狐面、持ってきていたんですか」
「はい、折角見つけましたし。それに一応組み合わせも考えたんですよ」
下駄の前歯に体を乗せて、くるり、腕を広げて早苗は回り、ぱしり、帯から抜き放った扇子は口元へ持っていき、こくり、小首をひとつかしげてポーズ。
決まった。私、かっこいい。
「どうですか」
「まぁ、そうですね。悪くないと思いますよ」
歯切れがよろしくない。何のために私がひと月掛けて準備したというのだ。少なくともこんな言葉を聞くためじゃない。
白地の絞り浴衣はコバルトブルーの雪華模様がこれでもかってほど涼しさを演出してるし、紺藍の夏帯で息の出来なくなりそうな勢いで腰を締めた結果、色気も格段に増しているはずだ。この上に白塗りのお面を着ければ、粉雪の舞い散る雪原を歩く、なんだろう、手袋を買いに行く子狐?
それは駄目だ。私はセクシーさで勝負するのだ。私だって大人の色気を出せるのだ。諏訪子様に結って頂いたお団子でうなじのエロさも当社比五割増しだから文さんをめろめろの骨抜きに出来るんです。そう信じたい。そう信じる。
「もっと具体的にお願いします」
「そう言われましてもねぇ」
ぐいと文に詰め寄って、やっぱりお面は邪魔かも、額の上まで持ち上げてからもういちど、
「あやっ」
「どうですか」
「はい綺麗です、綺麗ですからもうちょっと下がってっ」
具体性の欠片もないけど満足してあげましょう。
真っ赤になった文さんだけで十分だ。
「にー姐!」
あれ?
「まぁ、うん、天狗様が負けちゃったらこっちに来るしかないよねぇ」駆け寄る六華をにとりが抱きとめ「でも私だって今の早苗に敵う気がしないんだけど。鼻息がふんふんすごいし」
「鬼気迫るってああいうものでしょうね」
おのれ、文さんに気を取られるあまりに本命を逃すとは。
早苗は再び面を着け直し「にとりさん、そこを動かないでください」「ねぇ雛、逃げてもいい?」「六華を見捨てる心算なの」「やっぱり駄目だよね」じりじりとにじり寄り「来ないで」子狐の搾り出されたひと言で打ちのめされた。
そうですか、これも失敗ですか。
「文さん、傷心の私を慰めてくださいっ」
「邪魔だと言ったり都合が良すぎ近い離れてお願い早苗やめて顔近いっ」
文の首に顔を埋めて早苗は思い切り香りを吸い込み、やっぱり落ち着く、あと必死な声がエロい。エロ過ぎる。いっそもうひとつキスマークを付けてしまおうか。文さん怒るかなぁ、でも初めては乗り切れたんだから少しくらいなら大丈夫かも、
「ねぇ、にとり」
「何」と振り向き、「あ、うん」、ひとつ頷く。
「あのさ、ちょっと聞いて」にとりは手を打ち鳴らし、どたばた続けるふたりを止めて「私達、ちょっとかなめに挨拶していきたいんだけど、厠って大抵混んでるしすっごく時間掛かるんだよね。だからさ」
ふたりは自分達に構わず楽しんできて欲しいのだ、にとりが告げる。
隣で雛は「ごめんなさいね」申し訳ない風に苦笑を見せた。
***
「少しだけでいいんですせめて耳に触らせてください」
足掻く早苗の肘を掴んで引き上げた。
何がこれ程までに彼女を惹き付けるのか、自分も身に付けられたなら、文は思い、下らないと切り捨てる。首っ玉に齧りつかれただけで腰を抜かす阿呆が何を望もうというのだろう。
「明日から通い詰めます。仲良くなって抱き締めさせてもらうんです」
「妬けるようなことを言わないでください」
力強い宣言に、半ば以上を本音が占める言葉を返した。
子狐に対するものは、自分に向けてくれる情とは違う。それは分かっている。
「でしたら」くるりと早苗は体を返して「私を盗られないように、毎日々々、まーいにち、神社へ通ってくれてもいいんですよ? そしたら嬉しくなった私が文さんを抱き締めますから」
やはり早苗はずるいと思う。
「なんなら私が通いますけど。それで抱き締めてくれるんならやるんだけどなー。もしかしてそれって通い妻ですか? 平安貴族ですよ文さん。あれ? 夫でしたっけ? うん、どっちでもいいですけど。こっちだとまだあるのかなー」
「ないです。閉じられたのは百年やそこらの最近ですよ」
からかっているのなら文も同じく冗談で返せるだろう。「負けてはいられませんね」とでも言っておけばいい。そして早苗は軽く笑って次の話題に取り掛かる。一件落着だ。
けれども彼女の言葉は、半ば以上が本気に聞こえて、
「それは置いといて、どうですか? どっちも駄目なら大変です。私が六華ちゃんに盗られちゃいますよ」
どう答えろと言うのだろう。もちろん最善は神社へ通うと誓う言葉だろうが、今の私には到底不可能で、それは早苗も分かっているはずだ。けれども彼女は踏み込んできた。ならば私は、
無理やり笑った。「負けてはいられませんね」
早苗も笑った。「頑張る文さん、期待してます」
会話の閉じる音がした。
「それでは行きましょうか」
視線を外し、止まっていた足を動かし始める。
今のやり取りは普段と何も変わらない冗談だから、私は何もなかったように手を繋ぎ直せる。実際に何もなかった。信じるというよりも願いに近い心を込めて横顔に目を走らせ、早苗の頬は緩んでいる。これなら大丈夫、文は隣に腕を伸ばして、指の触れ合う寸前で引き返した。信じ切れなかった。
情けないわね、自嘲と共に腰の横へ手を落とし、
「焦らさないでください」
腕を取られた。勢い余ってたたらを踏む。
「元気ですね」
「当たり前です。文さんとデートなんですよ。それに楽しまないとにとりさん達にも悪いですから」
屈託のない笑顔が眩しい。
早苗は気付いているはずだ。
「夏は事件が多くなる」、「祭りの準備も忙しい」、だから立ち寄る暇を作れない、見え透いた言い訳だ。それでも、避けられていると気付いていながら咎め立てようとしない振る舞いが、逆に文を責め立てる。
付き合い出す前から、文が恋心を自覚する遥か以前から早苗は執着を見せてきた。 一週間顔を見せなければ、それだけで詰られた。けれども今は余裕が見える。やはり彼女は変わったのだ。
自分も変われたならばどれだけ気が楽になるだろう。避ける理由を吐露できるほど心を強く持てたなら、素直にデートも楽しめるだろうに。
でも、「早苗が綺麗だから」なんて言えるわけないじゃない。
「なんか食べませんか。あれってすごく美味しそうで、どうですか」
顔を上げると珍しくもない、焼き物の屋台があった。猪肉、鹿肉、川で獲れる山女や鮎に、唾棄すべき鳥肉まで扱っているようだ。煤で黒ずんだ品書きには二足もあった。何故だか炭火の赤がひどく寒々しい。
どうしたものか。質問されると厄介だが彼女は好奇心の塊だ、まず間違いなく二足について訊いてくるだろう。それは避けたい。私の鳥肉へ対する意識と然して変わるとも思えない。どう言おうとも、彼女はまだまだ新参だ。見慣れていない分、過剰に反応することも考えられる。
「串でも肉は手が汚れます。あちらにしませんか」
「あ、なんか普通」
「焼きもろこしは嫌いでしたか」
「えっと、いえ、嫌いじゃないし、どっちかっていうと優しい甘さは好きです。それに懐かしい感じもしますし。でもこっちにこんなのがあるなんてちょっと意外で」
「意外?」
「だって妖怪ってお肉ばっかり食べてるイメージが……」
口を噤み、眉を落として苦笑した。
「そんなわけないですよね。宴会に出てくる料理も色々ありますし、にとりさんなんか、夏になってから胡瓜と川魚しか食べてない感じもして」
杞憂だったのだろうか。
「ええ、その通りです。好みはそれぞれで違います。さて、人間の東風谷早苗さんは何が好みですか。お勧めはもろこしですが」
「じゃあそれにします。折角のお勧めですから」
二足に対してどう思うかはともかく、ようやく戻った雰囲気だ、わざわざ水を差す必要もないだろう。
「光栄ですね。それでは少し待っていてくださ……い?」
引っ張られた。
ぐるりと体が回転し、早苗に覆い被さりかけ、下駄を土に打ち込んで背中を逸らした。
危なかった、文は大きく息をつく。背筋が妙な捩れ方をしたようで少し痛い。
「いきなりなんなんです」
「文さん、ここは何処ですか」
この人間は何を言い出すのだろう。
「祭りの会場ですね」
「大当たりです、そしたら周りを見てください」
見てどうなるのだろう。
屋台脇で木の葉天狗の男女がひとつの綿菓子を交互に啄ばみあっている。その横を白狼の一群が通り過ぎた。徳利を振りかざす者もおり、肩を組み合う者もおり、興が極まったのか首を反らせて長々とひと声吼える者もいる。遠吠えを吸い込む空は高くて遠い。間もなく沈みきるのだろう、藍染の薄明を背景に幾十条の輝く紅が夕日から走っている。
宴会場から大分離れているとはいえども、酔っ払いがいないとは限らない。
むしろ素面の方が珍しく、そぞろ歩きの最中だろう三匹で固まった狐の娘達も頬を赤く染めている。道行く間に狸の一団と出くわして、酒精と祭りの熱に唆されたか互いに因縁を付け合った。「喧嘩がおっぱじまるか」、期待を高める群集の足元を、ふたつの影がもつれ合いつつ駆け抜ける。猫の面をあみだに被った猫の子達だった。
耳がよっつだけどいいのかしらね。
「人ごみがどうかしましたか」
得たりと早苗は深く頷き指を振り、得意げな顔をして、
「そうなんです。とっても混雑してるんです。うっかりしたら迷子になります。文さんは慣れてると思いますけど私が迷子になるんです。こんな中ではぐれたら探すのも大変ですよね。文さんなら見つけてくれると思いますけど、でも防止策は絶対に必要なんです。ですから」
文の手が、早苗の手で握り込まれた。
「私を離さないでくださいね」
この人間は何を言い出すのだろう。
目を合わせられなくなって、焼きもろこしの屋台へ向いた。顔が熱い。
「分かったわよ」
「ありがとうございます。それじゃ並びましょうか」
手が汗ばんで、早苗に絶対気付かれる。
絶対もう気付かれてる。
死にたい。
***
「しつこすぎるだろ。どっから湧いて来るんだよちくしょうっ」
魔理沙は八卦炉をかざしつつ誰にともなく問いかけます。
繁っていた竹林は焦土と化し、もはや薙ぎ払うものもなく、けれどもわらわらと群がる雑兵だけは飽きるほどにいるのでした。
「知らないわよ。なんならそこらに寝転がってる奴を蹴っ飛ばして聞いてみたら、『あなたのおうちはどこですか』ってねっ」
霊夢もやはり御幣をかざしつつ応えます。
重厚であった結界には綻びが見え始め、もはや代わりの符も僅かしかなく、けれども飛来する弾幕は雪解けを迎えた滝のように降り注ぐのでした。
「やっほぅ霊夢、聞いてくれ」
「兎が増えたって言うんならお生憎様、とっくの昔に知ってるわよ」
霊夢は符を扇開きに取り出して結界の破れ目に投げつけます。
あわや潜り抜けようとした敵の斉射は、口惜しげに七色の光を発しつつ霧散するのでありました。
顔を咄嗟に庇った手を下ろし、魔理沙は額の汗を掻き掻き続けます。
「薬の予備が切れた」
「なによそれそんくらい雑草でなんとかしなさいよキノコに頼りすぎなのよこのキノコバカっ」
「悪いな、私はキノコ専門なんだ。ああでも、ちょっと夜にする巫術ってないか。それか神降ろしでさ。ちょびっとでも星がありゃカバーできるんだが」
「あるわけないでしょ何考えてんのよ!」
「なんだ、神様って使えないな」
言い争っていると、ばしり、不穏な音を発しつつ結界に一条の亀裂が入ります。
早すぎる、霊夢は思って彼方へ目を向け、嗚呼、なんたることでしょうか、憎むべき「ぼすこおん」の懐刀、「ずゐるにく」随一の腕利き用心棒、腰に下げた「でらめえたあ」へ指を届かせることも許さないままに数多の強敵を屠ってきた早撃ちの名手、鈴仙その人が立っていたのです。
「悪あがきはよしたらどうですか。もう後がないって分かってるんですよ」
「冗談きついぜ。八卦炉がやっと温まってきたとこなんだ。私の本気にびびるなよ」
「もうちょっと聞き分けがいいと思ったんだけどなぁ。じゃあ、みんな」
右手を振り上げ、再びの斉射に備えます。
ぐいと鈴仙は背筋を張り、死神の鎌とも見える天高く構えた手を振り下ろし、号令一下、弾幕が一斉に飛び出しませんでした。
「えええ、なんで!? 貴方達ちゃんと働いてよ私の時だけサボらないでよっ」
「おい霊夢、チャンスだ。あいつらなんかバカっぽい」
「分かってるわよっ」
霊夢の懐から取り出されたのは陰陽玉です。
「紫、聞いてる? 今ちょっとやばくてさ」
――ええ、こちらでも把握していますわ。手短に言うわね。貴方達を包囲している戦力は千と四百、飛んで七。単独での突破はいくら貴方達でも、
「そんなこといいから、救援は来るの来ないの!?」
――少しだけ耐えて頂戴。捩じ込む隙間を作りたいのだけれど、向こうの結界もなかなか頑固さんなのよ。
「少しってどんだけよ」
――それほど掛かりませんわ。長くとも三……
「さん、何? ちょっと紫っ、紫!?」
「あとどんくらいだって?」
「さあね、三刻か三週間か、じゃなけりゃ三ヶ月かしら」
「勘弁してくれ。三ヶ月も掃除しなかったら部屋に埃が積もるじゃないか」
「ガラクタで埋まったあんたの家が今更どうなるってのよっ」
霊夢は怒鳴り返して四方に目を走らせます。
陰陽玉の「通信れえざあ」は早々途絶えず、であれば声の届かなくなったことには何かしら外部に原因があったからに他なりません。
そして、嗚呼、霊夢は見つけてしまったのです。煙に燻る竹林の、霞む景色の果ての果て、禍々しい紛うことなきひとつの影を。
「まったく、ウドンゲだけだと不安だったから来てみれば」
「師匠っ」
「目を掛けていたというのに、姫は失望なさるでしょう。貴方にはお仕置きが必要ね」
「師匠……」
「さぁ、貴方達も随分抵抗したようだけれど、それも終わりよ」
「言ったはずだ、と思ったがお前には言ってなかったな。私はこれからが本番だっ」
「その強がり、いつまで続くかしらね」
「驚け、三週間くらい持たせてやるさ!」
魔理沙は諸手を前に突き出して、ばしり、不穏な音が響きました。
「やっほぅ霊夢、聞いてくれ」
「今度は何よ。詰まんないことだったらあんたの箒でケツ引っぱたいてやるから」
「私の美尻になんて仕打ちをするんだ。恐ろしい暴力巫女だな」
「いいから何なのよっ」
「八卦炉がいかれた」
「なんですって!?」
「師匠」の高笑いがふたりの耳を圧します。
「手間を省けるのは歓迎するわよ。ひとりだけでどこまで耐えられるかしらね」
「いいわよやってやるわよハクレイを舐めんじゃないわよ!」
「活きのいいこと。精々足掻いて御覧なさい」
矢をつがえて「師匠」はきりきりと弓を引き絞り、冷徹な無言のうちに鋭く放って、また兎達も弾幕を猛然と投げかけます。
眼前を白く塗り潰すほどの数と量に、あわや、ふたりの命運は儚くもここに尽きるかと思われたその刹那、
「待たせましたねっ」
無数の弾幕は幾千条の虹と四散し、泰然と揺らめく九尾の影を照らし出すのでありました。
「約した通り、三分です!」
――而して霊夢と魔理沙のふたりは辛くも窮地を脱してございますが、されど「ぼすこおん」もいまだ無傷の難敵ふたりと大地を埋め尽くさんばかりの大軍を擁してございますれば、さてさてどうぞ、これより先にさらなるご期待ご刮目の程を頂戴できれば無上の幸い。喉を湿らせ、目を休めて頂いた頃合に、再びお目見えの儀へ参上仕りとうございまする。
銀幕が沈黙し、活動弁士も高座からするすると引き払う。灯りを落とされた壇上には「ハクレイ・レンズマン」の立て看板が取り残された。
別に拍手はいらないんですよね、早苗は茣蓙の敷き詰められた会場を見回して、妖怪達にはがやがやと喧騒が戻ってきていた。うん、いらないですよね、当たり前か。
「なんとなく見てしまいましたが、どうしますか。この調子なら日をまたぎますよ」
「そんなに掛かるんですか?」
「ええ、里で上映した際には三日に分けるほどでしたから」
それは困る。折角のデートなのだ。
映画も定番かも知れないけれど、ドラえもんも真っ青な大長編には付き合えない。
「やっぱり挨拶だけにします」
「それがいいでしょうね」
早苗は立ち上がろうとして、「どうぞ」目の前に手が差し出された。
腕の先を辿れば気取らない文の顔があって、どうしよう、かっこよすぎる。
「どうかしましたか」
「いえ、なんでもないです」
慌てて首を振ってから文の手を取る。
少し力を入れ過ぎたかも知れない、握った手のひらの柔らかさに後悔した。文さんは不意打ちでかっこよくなるから困るのだ、八つ当たり気味に早苗は大股に足を踏み出し、
「気を付けてください。躓いても知りませんよ」
「大丈夫です」
転びそうになったら、何だかんだ言っても、かっこいい文さんはきっと抱きとめてくれるのだ。力持ちだし勢いのままお姫様だっこまでいくかも知れない。ありそうだ。そんなことになったら、多分死ぬ。
早苗は想像を振り払い、話題を探して、
「あれです、何か皆さん行儀がいいですよね。良すぎるっていうか。飲んだり食べたりはしてても、偶に咳払いくらいで話し声は全然しませんし」
「そうですね。芝居なら野次も掛け声も関係なく飛びますが、恐らく勝手が分からないのでしょう」
「どういうことですか」
「慣れていないのです。活動はごく最近流行りだしたものですし、その上接する機会が少ない。映写機やフィルムは河童に任せればまだ何とかなりますが、弁士はまだまだ少ない。知る限り、幻想郷全体でも三人しかいません。ですから」
「あれ、お久しぶりです。見に来てくれたんですか」
舞台脇の衝立から阿求が顔を覗かせていた。
「こんばんはー、たまたま見かけたので挨拶だけでもと思って。ここでやってるなんて知りませんでした」
「やっぱりそうですよね。宣伝もしていませんし」
「水臭いですね。私に任せてくれていたら号外も使って大々的に打ち出しましたが。お代も勉強しますよ」
そうもいかなかったんです、篝火の照らす中に出てきた阿求は苦笑して、
「ぎりぎりまで入山の許可が貰えなくて、上映自体できるか分かりませんでしたから」
「妙な話ですねぇ。快くとは言いませんが娯楽の類なら渋られもしないでしょうに」
「ええ、私だけなら何も問題なかったんですけど」
「私がいて悪かったわね」
無愛想な早口が衝立の奥から聞こえた。
無表情な仏頂面を想像し、どこでも変わらないんだなぁ、早苗は少し噴き出しかける。
「だって仕方ないじゃない。貴方ひとりでこんなところに寄越せるはずないでしょう」
「はい、パチュリーさんが心配してくれてるのは良く分かってますし邪魔になんか思いません。ありがとうございます」
魔理沙さんの同業者だろうって警戒されたんです、それが腹に据えかねたみたいで。身を寄せて阿求はふたりに囁いた。つむじを曲げた恋人を語る表情は、困っていてもどことなく嬉しげに見える。
文さんの場合だと、早苗は隣を盗み見て、特大スクープも放り出して会いに来てくれるようなものだろうか。ちょっと違う気もするけれど、頬擦りしたくなるのは断言できる。
「心配性ですねぇ。護衛については言いましたか。山にも体面がありますから、人間とは言え客人には滅多なことは起こさせませんよ」
「言ったんですけれど『信用できない』の一点張りで、実際に見たら見たで『こんなにぞろぞろ、逆に信用できなくなったわよ』って」
阿求の含み笑いはやはり嬉しげだ。
でも、ぞろぞろ? 早苗はそれっぽい姿を探して、背中に負った半弓や片手に突いた薙刀と、物々しいけれども白狼天狗が舞台の両脇にひとりづついるだけだった。
「あれはただの脅しですよ。あまり数がいても無粋ですから。向こうのブナを見てください。丁度、中程です」
灯りの届かない真っ黒な巨木を見上げて、ちょっと体がびくっとした。
大振りな枝の上に、蜂蜜色の瞳が一対と少し離れてサファイアのものも浮かんでいる。忍者?
「見えましたか? あのように狼達が四方に配置されています。それにこの会場は河童の領分でもありますから、お得意の機械がそこかしこにあるのでしょうね。鬼でもなければ阿求さんには近寄れもしないでしょう」
そこまで必要なんだろうか。パチュリーさんだけでも十分な気がして。
そもそも護衛自体どうなんだろう。
「早苗が思うより悪漢はいるものですよ。殊に今夜は年に一度の夏祭りです。普段よりいささか呑み過ぎた酔眼が阿求さんや早苗を『紛れ込んだ外来人』だと見間違えても不思議ではないのです。ひとりでそこらの路地に入ったならすぐ分かりますよ」文はにたりと口端を歪めて「試してみますか」
舞台後ろの薮が気になる。隠れるならここしかないってほどで。
「冗談はともかく」
文さんはいじわるだ。
「今回は山が折れたようですが意地を通しておじゃんになる可能性もあったでしょうね。それなら信用したほうがよほど楽だったでしょうに」
全然分かってない、早苗は思う。
恋人は自分の手で守りたいものじゃないか。パチュリーさんはそれが出来る屈強な乙女なのだ。あと多分、単純に阿求さんの傍にいたいから。
「仰る通りでしょうけど、苦労した甲斐はありましたから。ひとまずこちらへどうぞ。淹れたてじゃないですけど紅茶と焼き菓子があります。咲夜さんお手製ですから味は請け合えますよ」
「いえ、もう行きます。ほんとに挨拶だけの心算でしたから。それに」
あまりお邪魔しても悪いですし、潜めた声にからかう調子を混ぜ込んだ。
盛んに踊る篝火で阿求の頬が朱に染まり、けれども敢然と目を上げて、
「本音を言うと『邪魔すんなこの野郎』って思ってました」
「うん、ですよね。私もきっとそう思います」
笑い合った。
「楽しそうね」
「あ、すみません、すぐ阿求さんをお返しします」
パチュリーさんもやっぱりかわいい。
「それでは失礼しますね。がんばってください」
「はい、ありがとうございます。おふたりも楽しんできてください」
目配せを交わす。悪戯の共犯とも、長年の戦友とも思えた。
「行きましょうか」、文の手を取り歩き出し、つんのめった。
「どうかしましたか」
「いえ、何でもありません」
阿求の背中に向けていた目を戻し、文は俯き加減に早苗を追い越す。
小走りに横へ並んで、気になることでもあったんだろうか、ハテナを浮かべ、嫉妬してくれた……ような雰囲気でもないし、
「さて、どうしましょうか」
まぁいいか、早苗は疑問を脇に置き、目星を付けていた看板を指差して、
「輪投げしてみたいんですけどいいですか」
「ええ、構いませんよ」
景品ってどんなのがあるんだろう、早苗は屋台の奥を窺って、柱の影に緋色がいた。
座敷童子だった。
***
早苗が消えた。
「気を付けなさいよ!」
図体ばかりでかい薄ら馬鹿、怒鳴りつける暇も惜しい。込み上げる罵倒を飲み込み文は大熊を押しのける。
へべれけの狼が千鳥足でふらついている。眼帯を掛けた神が串を片手に河童と議論している。狸と狐の化け合戦を野次馬が取り巻いている。屋台に挟まれた往来を人々が埋め尽くしていた。
早苗はいない。
「これは天狗の姐さん、申し訳ないねえ」
頭上から降ってきた熊の声に、殺してやる、文は思い、まだ遠くには行ってないはず、駆け出した。
早苗は確かに力がある。荒削りであっても御し方さえ覚えてしまえば文とやりあうことも出来るだろう。心配はしなくともいい、構い過ぎだと、子供扱いしないでくれと彼女に拗ねられたこともある。
駆け抜ける。人ごみを吹き飛ばしたい。まとわり付く袴が鬱陶しい。左から酔っ払い、
「邪魔っ」
跳ねた。
虚ろに見上げる間抜け面が癪に障った。これで間に合わなかったらあの熊共々、血祭りにしてやると決める。
早苗は子供だ。たかだか十とそこらしか生きていない人間だ。油が乗った、こんな祭りでは到底お目に掛かれないだろう上物の生きた二足だ。力はあるが、だからどうした。経験不足の彼女なら、そこらの雑魚でも二、三もいればねじ伏せられるだろう。
白の浴衣。見つけた、早苗
「ひっ」
紛らわしい。全然紛らわしくない。似ているのは背格好と色だけで柄が違う、髪が違う、そんなことどうでもいい早苗はどこ。
いっそ飛んで上空から探そうかと一瞬考え、なんで気付かなかったのよ、開く翼が積み上げられた酒樽を弾き飛ばした。
「弁償、あとでするからっ」
へたり込んだ娘に言い残して地面を蹴る。ひと息に屋台が風の煽りを受けない高くまで上昇し、絶望した。
山のみならず、近在の妖怪まで集まる祭りは人が多すぎた。提灯の間を埋め尽くす有象無象の頭から早苗を見分けるなど気の遠くなる作業に思えて、でも、やるしかない。
せめて人手があれば、にとりや雛さん、はたてに椛、
「千里眼」
あの力さえあれば。結局は虱潰しに探すには変わらないが、それでも十分だ。
「ああもう」
だからどうやってあいつらを見つけるってのよ、文は頭を掻き毟り、これも時間の無駄だと息をつく。ひとまず落ち着こう。冷静に考えられなくなれば出来ることも出来なくなる。
早苗は心配ない。良くも悪くも顔を知られた人間で、そう簡単に手を出せるような相手ではない。何事かあったとしても、判官贔屓の好意からでも神社へ恩を売りたい下心からでも、周囲に手助けが期待できる。
遠くで火柱が立った。文は飛び出そうとした体を抑え、大丈夫、どうせ河童がまた何かやらかしたんでしょう。
それに座敷童子の存在がある。確かに早苗は言っていた。実際、過去に会ったものと同一なのかと疑問は湧く。雑踏の隙間に垣間見えた姿は山に住む妖怪のどれとも似つかず、であれば神の一柱かとも考えられるが昼間の祭儀では見掛けなかった。げっぷの出るほど山にまします神々をいちいち覚えきれるものではないが、文は自身の観察眼を信用している。もちろん参列しなかった可能性もあるが、そこまで考えたら切りがない。
あれは早苗の言う座敷童子だとする。有り得なくはない。初の邂逅もやはり舞台は祭りだったそうだから、騒ぎを好む性格なのかも知れず、ならばここで会うのもそう不思議ではない。
そしてもし、早苗が追いついたのなら、座敷童子と共にいるのなら危険はないだろう。正体の真偽はともかく害意はないはずだ。力についても申し分なくとは言えないが、そこらのチンピラには遅れを取らない見込みは持てる。一度は早苗を助けたほどだ、不心得者に絡まれても護ろうとするだろう。早苗ひとりのみと連れのいるふたりでは雲泥の差がある。襲われたとして、最悪でも逃げ切れる見込みはある。
つまり、こういうことになる。
たまたま座敷童子は幻想郷に来ていて、偶然祭りに居合わせて、奇遇にも知己である早苗と出会った。早苗が運良く追いつけたのならば、友好的と思われる座敷童子は恐らく力を持っているので問題ないはずだ。故に文が心配する必要はない。
「馬鹿ね」
自分は相当参っているらしい。
じっと手を見る。彼女の指がすり抜けていった手だ。
――私を離さないでくださいね。
何故、離してしまったのか。錦糸のするりと解けるように絡めた指は抜けてしまって、残り香にも似た感覚が指先をちりちりと炙り続ける。後生大事にこの記憶を抱えて泣き続けろと嘲笑っているような。
まるで、今生の別れのような……
縁起でもない、あってたまるか、冗談じゃない。
早苗は神格化を成し遂げて自分と共に過ごすのだ。我が家でも神社でもいい、風呂にはいっしょに入って、寝床はふたつも必要ない。湯上りには縁側にふたり並んで腰を下ろして、早苗の髪を櫛で梳くのだ。長く艶やかな髪は手の平からさらさら零れて、降り注ぐ月光で清らかな川面のように煌くのだ。梳き終わったと後姿に告げたなら、彼女は嬉しげに振り返って桜色の唇を開くのだ、「それじゃ、文さんの番ですね」。
「早苗」
絶対に、探し出してやる。
時の移ろう毎に早苗の身は危うくなるだろう。
だが、幻想郷最速を侮らないで貰いたい。ひとつ瞬きする間に十遍でも会場を巡ってみせる。
所在に見当のつかない友人達は当てにならず、宴会場に行けば守矢の二柱と会えるかもしれないが、八坂様が耳に入れたなら必ず事を大きくするだろう。それは避けたい。不逞の輩が知るところには決してさせてはならない。しかし、洩矢様に耳打ちしたなら、八坂様に気取られることのないように動いてくれるかも知れない。
心強い。あとで翼の腐り落ちるまで祟られそうだが、安い御代だ。
必ず生きているうちに探し出してみせる。
夜空を見上げた。五芒星は彼女の十八番だ。そして、
「いた」
居所の確かな知人がいた。占星術でも卜占でもタロットでもなんだろうと構わない、魔女ならきっと失せ物探しの手段を持っている。これ以上借りを作るのはどうかなんてどうだっていいわよ。
よかった。
風を集めつつ広場の一角に当たりを付ける。
心配する必要はないなんて誰が言った。そんなの、
「無理に決まってるじゃない」
落ち始める。
「早苗」
拳を握りこみ、歯を食いしばる。
そうでもしないと泣き叫びそうだった。
***
「あらら、捕まっちゃった」
「もう、なんで逃げるんですか」
早苗は肩で息をする。はしっこい小柄な体躯には手を焼いた。連れ立って歩く人々の隙間を抜けるのはもちろんのこと、屋台の垂れ幕は潜り抜け、酒樽を踏み石のように跳ね渡り、果ては大八車に積み上げられた荷物から屋根に飛び移る芸当までやってのけた。とても追い切れるものではない。最後には諦めてつむじ風で転ばせた。咄嗟にしては拍手を貰ってもいいくらい上手くやれたと思う。
どんなに小さくても妖怪ってことなんですね、早苗は膝に手を突こうとして、ころん、片手にまとめた下駄が鳴った。そういえば脱いでたんだっけ。
「捕まりたくなかったからねぇ」
足裏の土を払って履き直す。
「なんでですか」
「鬼婆も裸足で逃げ出す形相で追いかけられたら、そりゃあ可憐で繊細なあたしもそうするしかないさ」
誰のせいでそんなご面相を曝す羽目になったと思っているのだ。
「うそうそ、冗談。怒った目付きはちぃとも変わんないねぇ」
からから笑うおかっぱに、早苗はすっかり毒気を抜かれて、
「やっぱりあの時の方なんですね」
「誰だと思ったんだい。こんな美貌の持ち主、ふたりもいてたまるかね」
分かって言っているんだろうけど、早苗は違和感を覚えた。
「美貌」というには幼すぎる。市松人形に血が通ったならこうなるだろう童顔だ。大きな瞳はくりくりとよく動いて、伝法な口調が恐ろしく似合わない。腹話術だと言われたらうっかり信じ込みそうだ。
そしてお祭りの晩に見たものと同じ、緋色の着物は記憶にあるより更に鮮明だった。「子供には緋色が一等似合う」という祖母の言葉に、なるほど納得した。赤を着る子供は快活な花なのだ。溢れんばかりの生命力で咲き誇る、大輪の花なのだ。
私にもこんな時代があったんですよね、やっぱり妖怪はずるい。
「ほんとはねぇ、見届けるだけの心算だったのさ」
何の話だろう。
「あんたに虫が付いただろう。射命丸って虫がさ」
「虫呼ばわりなんて失礼です、って文さんは?」
早苗はぐるりと辺りを見回し、緩やかな弧を描く屋台の列が夏の夜に提灯の灯りを放っている。
宴もたけなわらしい、祭囃子と喧騒が絶え間なく響いている。子供ひとりは入れそうな酒甕を天秤棒に吊るしたふんどし姿が棒立ちの早苗達を邪魔くさそうに避けていった。
「あたしらの鬼ごっこには付き合えなかったみたいだねぇ」
「すみません、探してきます」
飛び立とうとして、袖を掴まれた。
「ちょいとお待ちよ。血相変えて何をそんなに急ごうってんだい」
「だって」
振り払いかけ、自分の胸までしかない座敷童子の姿に躊躇った。
「とにかく探さないと駄目なんです。放してください」
「まぁま、慌てる乞食はもらいが少ないって言うだろう。大体、探すったってどこを探すんだって話だよ」
「それは」
――入っちゃったら最後だからねー。
待ち合わせ場所をあらかじめ決めておくべきだった。
今更悔やんでも仕方ないけれど、自分は浮かれすぎていたのだろうか。
「向こうも探しているかもねぇ。だったら下手に動くより、じっと待ったほうがいいだろう」
「それは、確かにそうかも知れませんけど」
言いよどむ背をぐいと押された。
「さぁさ、そうと決まれば向こうの長椅子だ。あれに腰掛けて待とうじゃないか。暇つぶしにはうってつけの積もる話もあるからね。会えたらあれを話そうこれも話そうって、ずっとずぅっと昔から考えてたんだよぅ。でも口は忙しくても手が寂しい。何か持つものが欲しくなるねぇ。例えば、そう、どっしりした蜜豆の器なんかがいい。甘い甘い蜜で湿せば余計に舌も回るだろうさ。
そうだよ姐さん、聞いたとおりさ。あたしと姉やのふたり分だよ、蜜豆をふたり分。お願いねぇ。ひとつは寒天をうんとおまけしておくれな。あたしは寒天に目がなくってさ、けちけちしないで、そうそう、ああ嬉しいねぇ。どうだい、寒天がきらりきらり小豆に当たって跳ねること跳ねること、匙で掬って口に含めばつるりと喉を滑るんだ。今からもう待ちきれないよ。
はい、ありがとうねぇ。さて御代だけどあたしは小遣いを持たされてなくってさ、こっちの姉やが財布番なんだ」
「へ? あ、はい」
催促されて、早苗はじゃらりと小銭を取り出し店主に手渡す。
「じゃあ行こうかねぇ」
「ちょっと待ってください」
このお椀どうしよう、押し付けられた蜜豆にまごついて、
「これ、持ってください。食べていいですから。やっぱり探してきます」
「折角買ったのにあんたはまだ言うのかねぇ。大人しく待ってたらいいんだよ。行き違いになったらまずいだろう」
「そうですけど、でも」
でも無理だ。
文さんをほったらかしてしまったし、私が悪いし、探さないと駄目なのだ。折角のデートなのだ。まだ文さんと回っていないところはたくさんあるし、ただでさえ回りきれる気がしないし、だから時間をこれっぽっちも無駄にできない。
とにかく探して、誰かに会えたら伝言を残して、
「そっか、阿求さん」
あそこに戻ってきてるかも。これ以上ないってほど分かりやすい目印だから、
「ねぇ」
袖を引かれた。
「どうしても駄目かい。ほんのちょっとでいいからさぁ」
「へ? なんで」
泣いてるんですか。
「お願いだよ。蜜豆食べるだけだから、食べたらすぐ行っていいから」童の目元に浮かんだ煌く小粒は見る間に大粒へと育っていって「あたしはふたりっきりで話したいんだよぅ。もういちど会えたらなんて夢物語だと思ってたのに、もう会えないって諦めてたのに、またあんたと会えて、あたしは」
「分かりました、分かりましたからっ」
文さんすみません、少しだけ待ってて下さい。
この子は命の恩人だし、それにこの泣き顔を放置したら天罰が下ります。
「ほんとう? いっしょに食べてくれる?」
「本当です。でもちょっとだけですからね」
「じゃあ、これ」
小指を差し出された。
こんなのもあったなぁ、なんか懐かしい。
「指きりげんまん、うそついたら……」
「……針千本のーます、ゆびきった。これでいいですか」
「うん」
座敷童子はごしごしと目元を擦り、拭った袖の下からにかりと笑う顔が出てきた。
「違えちゃあいけないよ、破ったらひどいんだよ、指きりまでしたからね、もうあたしと付き合わなくちゃあいけないよ。じゃあ早速行こうかねぇ」
何か騙された気がする。
妖怪ってやっぱりずるい。
***
「慌てる天狗なんて貴重ね。何か用」
「ちょっと失せ物がありまして」
「それって」
本から目を上げないままパチュリーが呟いた。
「早苗のことかしら」
「ええ、お察しの通りです」
訝しげな目付きを文は正面で受け止める。
「何よそれ、詰まらないわね。もう少し隠したらどう」
「そういう状況なのですよ。ご理解を願いたいですね」
「天狗はもっとふてぶてしいと思ってたわ」
まったくだ。乾いた笑いしか出ない。
「ええ、ふてぶてしいのです。早苗から聞いていますよ。彼女が悩みを打ち明けるとパチュリーさんは随分親身になって耳を傾けたそうですね。ですから私も情へ訴えることにしました。最善かどうかはともかく効果は見込める。ならば私は最短を行きます」
舌打ちが響いた。
「やっぱり天狗ね。貴方のそういうところ、嫌いよ」
「名高き魔女に嫌われるとは光栄ですね。まぁそれはともかくとして」
ひと呼吸、
「早苗の居場所を占ってください」
「私をそこらの辻占いといっしょにしないで頂戴。安くないわよ」
「言い値で構いません」
細めた目で覗き込まれた。
「なら、心臓を差し出せと言ったらどうする心算なの」
「あやや、すぐには困りますねぇ。抉り出す前に一年だけ待ってもらえますか」
舞台からは阿求の振るう熱弁が淀みなく届いていた。
「やっぱり嫌いだわ」
パチュリーは深く息をつく。
***
昔々のそのまた昔、揚羽はひとりの娘と出会った。
よく笑う娘だった。舞台の上では美人絵から抜け出してきたかのように涼しく笑って、舞い終わればころころと丸く笑った。皆は口々に「綺麗だ」と娘を褒めた。当然だ、綺麗な自分を着て踊るのだ、娘も綺麗でなくては困る。揚羽は無闇に誇らしくなっていっしょに笑いたくなる。着てもらえさえしたのなら、嬉しげに目を細めて娘が笑っていたのなら、揚羽も満足できたのだ。
けれどもある日、そろりと不安に忍び寄られた。
虫干しの日だった。箪笥の中では眠っていてもこの時ばかりは目が覚めて、皆いっぺんに話し出す。草色の銘仙は特にお喋りで嫌な奴だった。草色こそが娘の一番のお気に入りだと、衣文掛けの上で自慢げに語るのだ。お前が頻繁に用いられるのは普段着だからで、一番は誰よりも綺麗な自分に決まっているだろう、燻る揚羽の不満を他所に草色は最近を語り始める。
曰く「娘は直に女学校を卒業して、決めていた通り風祝になるそうだ」
曰く「散歩や外出がめっきり減ったのは、風祝の修行で忙しいからだ」
曰く「これからさらに忙しくなるだろう。趣味も諦めなくてはならない」
趣味にはお稽古事も含まれるのか、水仙文様の縮緬はおどおど問い、「然り」、如何にももっともらしい顔で草色が頷いた。であれば自分はどうなるのだろう。お稽古には舞いもあるのか、癪だったが揚羽も訊ね、「然り」、何を当然なことを聞くのだと怪訝な顔で草色はもういちど頷いた。
それは困る。自分は綺麗な娘に着られるから綺麗でいられるのだ。畳紙に包まっているだけでは綺麗もへったくれもあったものではない。
来る日も来る日も「どうにかならないか」と揚羽は考えた。しかし何かを為せるわけでもなく、「風祝になったからとて全て辞めるとは決まっていない」、「もしかしたら風祝にもならないかも知れない」、気休めを思って自分を慰めた。けれども結局は心の奥底で覚悟していたのだろう。昔から、それこそ揚羽の生まれた直後から、娘の将来に関する噂は聞いていたのだ。
だから最後の日が来た時も、娘の素振りでそれとなく察せられた。
木々の紅葉する音まで聞こえてきそうな、静かに晴れた朝だった。
娘は揚羽を床に広げていつまでも眺め続けた。布地に飛び交う蝶達をさらりさらりと指でなぞった。縦糸の一本まで覚えるように指が幾度も行き来した。
撫でられる柔らかな感触がひどく愛しい。愛しくて、別れが来たのだと否応なく思い知らされ、ひどく切ない。仕方ないと諦めるなど出来っこなくて、揚羽は口が欲しかった。口を持てたなら、娘に向かって思いの丈をぶちまけるのだ。
揚羽には敵わないが、娘も大変綺麗なこと。
他の娘達のように歯を隠さない、開けっぴろげな笑い方がとても綺麗なこと。
人の見ていない場所では驚くほどのお転婆で、薮を飛び越した時には鉤裂きをこしらえられないか冷や冷やしたこと。
腹立たしく思ったけれど、その時の悪童が悪戯を成功させたような笑顔はやっぱりとても綺麗だったこと。
それから、それから
――ごめんねぇ。
娘が、揚羽に話し掛けてきた。
――ごめんねぇ、今日の舞台で終わりなんだよぅ。あたしってほら、家を継ぐからさ、だからふわふわしたもんは全部ぜぇんぶやめないと駄目なんだって。だからさ、もうあんたを着られなくなっちゃうんだ。ごめんねぇ。
何を謝ることがあるのだ。
自分はちゃんと知っている。娘は揚羽をとても大事に扱っていた。仕舞う時には丁寧に皺を伸ばして畳んでくれた。贅沢に過ぎると心配になるほど畳紙を頻繁に取り替えてくれて、必ず樟脳を入れてくれて、いつも湿気の届かない箪笥の一番上に仕舞ってくれた。
自分はちゃんと知っている。娘は揚羽をとても嬉しそうに着ていた。初めて出会った時には「綺麗」だと言ってくれた。噛み付きなどしないのに恐る恐る指を伸ばして、とうとう揚羽へ触れると花の開いたような笑顔になった。舞いへ持ち出す前には必ず姿見へ揚羽を着込んだ自身を映して、満足げにひとつ大きく頷くのだ。
自分はちゃんと知っている。娘は揚羽を大事にしてくれて、とても好いてくれていて、だから謝る必要なんかこれっぽっちもないのだ。
ごろごろ箪笥が開いただけで嬉しかった。ごそごそ畳紙が開かれたなら、必ず娘の笑顔と会えるのだ。
自分はこれまでだけだって十分楽しかった。嬉しかったし、本当に嬉しかったし、だから、
――寂しいねぇ。
揚羽は腕が欲しかった。
腕を持てたなら、娘の肩を掴んで力いっぱいに揺さぶるのだ。
そんな殊勝な人間じゃないだろう。おしとやかな顔は猫を被っているだけだと知っている。いつだって「はいはい」親に従いながらも、裏に回れば舌を突き出す性悪だと知っている。そんな奴が「ごめん」だなんて気色悪いからよして欲しい。箪笥の深くで眠る古株からだって聞いている。小さい頃は村の小僧達といっしょになって悪戯三昧の毎日だったそうじゃないか。舞いを始めたのだって、蓮っ葉な言葉遣いだって親を困らせたかったからだ。自分はちゃんと知っているのだ。
だから「寂しい」だなんて口先だけだとちゃんと分かるのだ。本心では舞いのことなんかなんとも思ってなくて、古紙より簡単に揚羽のことも屑篭に捨てられて、きっと明日には何もなかったように娘は平気な顔で笑っているのだろう。だから、
――本当に、ごめんねぇ。
だから、そんな風に笑わないで欲しい。
お願いだから、いつもみたいに明るく笑って欲しい。
――秋穂姉さん、そろそろ支度終わった?
――ああ、もうそんな頃合なんだね、ちょいと待っておくれな。
娘の指が揚羽をひと撫でしていった。
――やだね、辛気臭い。綺麗なあんたを折角着るんだからしゃんとしなきゃねぇ。
その通りだ。寂しいだなんて冗談でもよして欲しい。
――ねぇ、これが最後になっちゃうけどさ、お願いするよ。
ようやく娘にいつもの笑顔が戻り、任せておけと揚羽は胸を張れた。
娘が綺麗でいてくれるから、自分も綺麗になれるのだ。
***
つるり、賽の目になった寒天を啜りこむ。
「それが早苗の曾ばあ様だったわけだねぇ。こうして見ると生き写しだよ」
「そんなに似てますか?」
似てるどころじゃない。秋穂にはあった泣き黒子がないだけだ。
「でも日舞なんてやってたんですね。見てみたいけど写真残ってないかなぁ」
多分ないだろう。少なくとも自分が撮られた覚えはない。
派手好きの新し物好きだったが、秋穂には妙なところで照れる部分もあった。
「えっと、いいですか」
「なんだい」
「揚羽さんが着物の付喪神だってことは分かりましたけど、じゃあこの狐のお面って何なんでしょう」
それか、揚羽は心の中で舌打ちして、
「曾じい様のもんだよ。言っちゃ悪いが大層な腰抜けでねぇ、まともにばあ様の顔が見られないからって、それを着けて夫婦になってくれって頼み込んだのさ」
「なんですかそれ、ロマンチックじゃないですか。それにその時代で恋愛結婚ってすごくないですか」
何のロマンチックなことがあるものか。
あいつは信じられないほどの唐変木で、よりにもよって最後の舞台が引けたあとに、のこのこ顔を出してきたのだ。こともあろうに自分の前で告白して、ざまもない、「ちゃんと目を見てもういちど」と秋穂に促されてようやくおたおた面を外す腰抜けだ。
呆れたのか秋穂は「風祝のお務めが終わってからなら」と遠回しに断ったのだけれども、あの馬鹿には通じなかったらしい、情けないことに涙を浮かべて膝も震わせ、何度も何度もがくがく必死に頷いていた。あの時ほど自分に手足があったならと思ったことはない。ぶん殴って「一昨日来い」と秋穂の代わりに言ってやれたならどんなにか良かっただろう。
「まぁそれでね、『思い出だから』ってあたしといっしょに仕舞ったのさ」
「いいなぁ、思い出にもなりますよね、うん」
あたしの身にもなってみろ。畳紙を開かれて、たまの虫干しかと思えば面を押し付けられたのだ。しかも秋穂ひとりだけじゃなくて、あの馬鹿もいたのだ。そして馬鹿の間抜けなにやけ面の隣で、幸せそうに笑う秋穂は腕に稚児を抱えていて……
ああ嫌だ、揚羽は残った蜜豆をひと息に飲み下す。
「文さんだったらなんだろう、やっぱり写真かなー。でもなんかありきたりかも、何かこうもう少し特別な感じの……」
そうだった。
「そうそう、その文とかいう天狗のことなんだけれどもねぇ」
「何でしょうか」
「『素敵な相手と出会えるように子供達を見守ってくれ』って、ばあ様から頼まれてるんだよ」
疎かに出来ないあたしの役目だ。
「七五三で着られるようにってあたしを仕立て直したのもそのためでねぇ、ちゃんと聞けたことはなかったけれども、あたしと面を縁結びの縁起物だなんて考えたんだろう。あれでなかなかばあ様も幸せだったようだからさ」
「でしたら」ぱしん、早苗は手を打ち合わせ「ご利益は十分です。十分過ぎるくらいにばっちりです。命の恩人なだけでも感謝してますけど、文さんに会えたのが揚羽さんのお陰なら感謝しきれません」
「そうなのかい」
「はい、文さんが素敵な相手だってことは絶対です。それはもう鈍感だったり照れ屋さんだったりで満点ってわけじゃないですけど、でも照れ屋さんなところだって欠点なわけじゃなくてものすごくかわいくて、真っ赤になって目を逸らされたりしたらもう襲ってしまいそうで大変です、
もちろん綺麗だったりかっこよかったりもするんですよ、例えばですね……」
気に食わない。
狐面から話を聞いた時には嫌な予感が既にしていたのだ。ぬいぐるみ達からより詳しく聞くと予感は確信に変わった。
件の天狗は、あの馬鹿よりひどい腰抜けだ。
口付けのひとつもろくに出来ず、ありとあらゆることで早苗を落胆させて、さらには泣かせ、ついひと月も前には悩み果て、顔色が蝋燭より白くなるまで憔悴させたのだと言う。クマやワニ達は天狗を庇っていたけれども、どうせ欲目があるのだろう。早苗の決めた相手が腰抜けだと認めたくないのだ。
自分だってそうだ。認めてなんかやるものか。
納戸の中で、どれだけ早苗の咽び泣く声を聞かされたと思っている。神奈子ですら慰められず、諏訪子と遊ぶようになってようやく早苗の訪れることもなくなったのだ。だから自分も安心できたし別れを言えた。早苗の笑顔に秋穂も喜んでくれるだろうと「ありがとう」も言えた。
しかし今になって、何故また不幸にならなければならない。
幻想郷だという人妖の入り混じる、早苗の存在が受け入れられる、早苗の夢見た理想の地で、何故また泣かなければならない。
あたしは早苗に幸せになって欲しいんだ。祭りの一部始終を見て分かった。早苗と秋穂はそっくりだ。見た目はもちろん、くるくる変わる表情も自信満々に笑う顔もそっくりで、突拍子もないことをしでかしそうなところもそっくりで、けれども相手が腰抜けだなんてところまでそっくりじゃなくたっていいだろう。
あんな奴といっしょにいて、どうして幸せになれるというのだ。
そうとも、幸せになって欲しい。秋穂にも頼まれたんだ。早苗の幸せは秋穂の幸せで、あたしの幸せなんだ。早苗を幸せにするのはあたしの役目で、だから、
「早苗っ!」
天狗のお出ましだ。
なんとも間抜けな面だねぇ。息を荒げて肩は忙しなく上下して、涙さえ滲ませているなんてお笑い種だ。
丁度いい。ひと言ふた言、この馬鹿に説教してやろうじゃないか。
「文さん、よかっ……た?」
「早苗は座ってな」
駆け寄ってくる前に割り込めば天狗は随分面食らって、こんな顔も間抜けだねぇ。
そら、じわじわ怒り出したよ。お前なんかが一丁前に怒るなんて滑稽だ。
「どちら様ですかねぇ。私はそちらの娘に用事があるのです。邪魔はしないでもらいたいものですが」
あたしよりたっぱがあるからって舐めておくれでないよ。
目を眇めたくらいじゃちぃとも怖くない。
「早苗から座敷童子のことは聞いてるだろう。本当は付喪神なんだけどねぇ。それがあたしだよ」
「ええ、聞いていますがどちらでも構いませんよ。そこを退いてください」
「退いてもいいけどねぇ、その前にちょいとあんたに言いたいことがあってさ」
「あの」
焦るんじゃあないよ、後ろ手に揚羽は早苗を長椅子へ押し付ける。
「いいでしょう、聞きましょう。短ければありがたいですね。なにもないなら尚結構です」
「そう掛かりゃあしないよぅ。事実、言いたいのはひと言だけでねぇ」
ちょっとした説教だ。何も悪いことじゃあない。悪いどころか早苗のためになることで、天狗だって少しは頭を冷やせばいい。反省させて、早苗を金輪際泣かせないと誓わせるのだ。
「たったのひと言なんだよ」
納戸の開く音がするたびに縮み上がった。また泣くのか。また聞かされるのか。何故、自分は何も出来ないのか。
揚羽は腕が欲しかった。誰より先に早苗を抱き上げ、誰より先に早苗をあやし、そうして泣き止んだ早苗を部屋に戻して、秋穂に報告するのだ。「子孫は大切に守っている。何も心配することはない」。
きっと秋穂は褒めてくれる。感謝を告げて、揚羽へふわりと笑い掛けてくれるのだ。
ずっとずっと昔から揚羽は考えていた。もしも口を持てたなら、あの馬鹿に言ってやるのだ。
「早苗から手を引きな」
そうだ、これが言いたかったんだ。
「何ですって」
「耳が遠いのかねぇ、早苗に近付くなって言ってんのさ」
初めて見た時から気に食わなかった。
鍬を振るしか能のない木偶の坊で、秋穂の舞いには必ず現れ、見たいのなら前に来たらいいのに一番後ろで小さくしていて、悪くしたら物陰から覗いていて、気色悪い。気持ち悪い。熱に浮かされた目が嫌いだった。ぽかんと開いた口が嫌いだった。秋穂から声を掛けられただけで一目散に逃げ出す腑抜けっぷりが嫌いだった。
そんなへっぴり腰でおどおど何を言う心算だ。「いい天気ですね」なんてふざけるな。雨雲はどよどよしていて、見ろ、秋穂も呆れて笑うしかないじゃあないか。
お前みたいな馬鹿でも秋穂と歩く足がある。口もあるし腕もある。何故、あたしは持ってないんだ。
「小娘が言ってくれるわね。私は今、とても優しい気分だから聞いてあげる。理由は何」
「別に大層なことじゃあないさ。あんたじゃこの娘と釣り合わないってだけだよ」
言ってやった。
やっと言ってやった。
「その笑い方、鬱陶しいからやめなさい。やめて今すぐ失せなさい。早苗の前だから見逃してあげる」
「粋がるねぇ。でもさ、本当だよ。あんただって分かってるだろう」
揚羽は腕が欲しかった。
焦れた秋穂に引き寄せられるまで、躊躇い続ける馬鹿には宝の持ち腐れというものだ。その腕を寄越すがいい。自分ならもっと上手くやれる。何を言われる前から秋穂を抱き寄せ、隙間の出来ないまでに肌を合わせて、溶けてふたりの混ざり合うまで、混ざってからもずっとずっと抱き締め続けるのだ。
そら、こんな風に。
「なんっ、揚羽さんいきなりなんですかっ」
「教えてやるよ、大馬鹿野郎。ふさわしいのはあんたじゃない」
揚羽は口が欲しかった。
求められても返せずに、秋穂に奪われてからへたり込む馬鹿にはもったいない代物だ。その口を寄越すがいい。自分なら満足させてあげられる。掻き抱く腕には力を込めて、睫毛の触れ合うまで顔を寄せて、精一杯に、ずっとずっと昔から伝えたかったひと言を唇に託すのだ。
こんな愚図でうすのろの腰抜けな大馬鹿じゃあない、このあたしが、
「綺麗なあたしが、綺麗な娘にふさわしいんだ」
***
一本松まで飛んだ。
飛んだというのもおこがましい。二、三度翼を羽ばたかせたに過ぎない。
それだけで気力が尽きた。羽が萎えて膝も落ちた。節くれだった松の幹が背中に食い込むけれども、動ける気は毛頭しない。それにこの姿勢は心地よい。早苗の言う体育座りは何もかもを心から締め出せるようで、なるほど今の自分に丁度いい。
風が過ぎた。ざわり、松の葉が擦れ合う。これは臆病風なのだろう。
「早苗」
崖の向こうで、祭りが最前と変わらぬ灯りを放っていた。夜に浮かぶ篝火がひどく眩しい。浮かれ踊るどんちゃん騒ぎがひどく遠い。
遠すぎて、幻灯のように思えて、まるで自分が輪から爪弾きにされたようで、
「馬鹿ね」
逃げたのは自分だ。寂しく思える資格などないだろう。
恋人を見捨ててしまってはもう、彼女に合わせる顔もない。
けれども、頃合だったのかも知れない。遠からず切り出すべきだったところに折り良く機会が訪れてくれたのだ。彼女と会ってはならない理由が出来たのだから喜ぶべきだ。
「釣り合わない」、小娘に言われた時、何故足が竦んだのか。
小娘が早苗を抱き寄せた時、制止の声も上げないまま何故立ち尽くしたのか。
小娘が早苗に唇を寄せた時、何故拳のひとつも振り上げなかったのか。
分かったら苦労はしない。分かれば今頃こんな場所で座り込んではいないだろうし、小娘は殴り飛ばして恋人を奪い返せていただろうし、早苗の胸に縋りついて彼女の無事に喜べていたのだろう。肌から伝わる鼓動を聞いて、きっと自分は泣いていたのだと思う。そして、泣く理由を知らない早苗は戸惑いながらも背に手を回し、優しく宥めてくれるのだと思う。彼女の体温を感じながら、祭りの往来で恥も外聞もなく泣きじゃくれたと思う。
けれども現実はこのザマだ。
よりにもよって何故、ここへ逃げてきたのか。見張りに残した鴉は居眠りをしているようだが叱る気にもなれない。「邪魔になるから」、根元に置いていた荷物が今になって邪魔をしてくる。浴衣を包んだ風呂敷が文をせせら笑っている。
後片付けを済ませ着替えようとして、風呂敷包みを解く腕が最後の最後で躊躇った。茂みの向こうではたてと椛がじゃれあっている。「大柄の朝顔が素敵だ」、「流れる水が似合っている」、ふたりは「綺麗」だと互いに言い合い、「かわいい」とはたては抱き付き、「ありがとうございます」と椛の尻尾がわさわさと忙しない。
結局、着替えなかった。準備を整え茂みから出てきたふたりに、「面倒だから」と言い張った。
私は何故、躊躇ったのだろう。
彼女は綺麗になっていく。
初めて会ってからの一年だけで目の眩むほどにもなった。ならばこれからもう一年、さらに二年と経つうちにどうなってしまうのか。何もせずとも艶やかな髪は椿の香油をもってしてもすでに敵わず、好奇心に生き生きと輝く瞳は成人した色香をも湛えるようになるだろう。そして晴れて神となった暁には、成熟の佳境を映す姿を常しえに留めるのだろう。
神格化を断念したとしても、やはり綺麗になるのだと思う。
年老いて萎びた肌には染みが浮き、衰えた腕で杖を突く。目尻にくっきり刻まれた鴉の足跡をさらに深めて、若い頃とはまた違った笑顔を浮かべるのだろう。百姓のセンと同じように、皺の一本一本が生きた証だとでも言うように、誇りを持って笑うのだろう。きっと綺麗だと思う。
変われない自分は、変わらないままだ。
別れるべきなのだろう。
溢れる欲はいつか必ず彼女を襲う。何事かあっても土壇場で彼女を見捨てる。なるほど、害にこそなれ早苗の信頼に足る人物とは到底言えない。別れる理由はこれだけでも十分だというのに、極め付けにはいつまでも変われない容姿がある。
自分の髪は艶などとは縁遠く、まず疑うことから始める眼は彼女を怯えさせる険のあるものだ。
紅をいくら差そうとも、化粧水をいくら擦りこもうとも、香油でいくら整えようとも、何でどう取り繕っても変われなかった。鏡には変わらない自分がいつも映っていた。彼女は綺麗になったのに。
小娘の言葉は心の底では気付いていた真実を、目の前に引き摺り出してくれた。釣り合わないことには疑問を差し挟む余地もなく、風呂で肩を並べることも、髪を互いに梳き合うことも、臥所を共にすることも、気の触れた身の程を弁えない鴉天狗の妄想だった。
別れるべきだ。彼女は綺麗過ぎるから。
手に手を取り合って飛ぶなんて、私なんかには大それた願いだった。
それでも、
「私は、早苗といたいのよ」
***
怖くないなんて嘘だった。
あいつの逃げる姿を見て、汗と涙と震えがいっぺんに噴き出した。
ものすごくかっこ悪い。こんな格好、見せたくない。でも、やっとだ。やっとなんだ。
ねぇ、
「秋穂、見ててくれた? あいつ、やっと追っ払ってやったよ。私が『帰れ』って言っただけであんなにびっくりして。私だってちゃんと出来るんだ。
だからもう大丈夫、安心して秋穂。もう付き纏われることなんかないんだ。鬱陶しかったよね。でもまた来ても、うんん、何度来たって私が追い返してやるから。だから」
だから私といっしょに、揚羽は手を取り、言葉を失った。
秋穂が怒ってる。
「私は秋穂さんじゃありません」
違う?
「違います。早苗です。忘れましたか」
あ、
「いやだねぇ、ごめんよ。ほら、秋穂と早苗があんまりそっくりでちょいと混ぜこぜに
「別にいいんです、私が誰に似てるとかそんなことは本当にどうでもよくて」
一歩、二歩後ずさる。
早苗はこんなに背丈があったのか、揚羽は見上げ、あの天狗と同じくらいだ。
「誰がふさわしいかなんてこともどうでもよくて、そんなこと、私が決めるんです。でもこれも今は関係なくて」
早苗の能面にも似た無表情に射すくめられて、下がる足が地面に張り付く。
どうしてこんなに怒っているのだろう、戸惑う頭が疑問のみに塗り潰された。
「揚羽さんが命の恩人だなんてことも関係ありません」
能面にひびが入った。見る間に割れて零れ落ち、下から表情が現れる。
狂った犬みたい、剥き出された白い犬歯に連想した。折角の秋穂にそっくりな顔が台無しだ。
「文さんにあんな顔をさせたことが」
振り上げられる早苗の腕を目が追った。
背後に下がる提灯と高くに上がった手が重なって、やっぱり指も綺麗だと揚羽は思う。
「許せない」
頬を張られた。
尻餅を突いた地面が硬い。
「きっと」
声に釣られて顔を上げた。
「秋穂さんのことが大好きだったんだろうなと思います」
両腕を脇に垂下げ早苗は肩で息をしていて、苦しそう、ぼんやり眺める。
「でも私は秋穂さんにはなれません」
当然だ。
姿形はそっくりだけれど、それでもやっぱり全然違う。ちゃんと知ってた。
「すみません」
腰を折り頭を下げてから、早苗は飛び去っていった。
小さくなる背中を眺め、どうして、揚羽は思う。
「謝るんだろうねぇ」
あたしが空しくなるじゃあないか、呟きを地面へ落とす。
秋穂も要らないことで謝っていた。無責任なものだと思う。頭を下げられてもますます苦しくなるだけだのに。
目の端を草履や下駄が過ぎていく。千鳥足が正面でたたらを踏んだ。
「おう座ってんじゃねぇぞガキが。踏み潰されてぇのか」
悪かったね、揚羽は腰を上げる。
長椅子へ体を投げ出し、下駄を爪先から振り落とした。
天の川を期待したのに、四方の明かりで空は今ひとつはっきりしない。
「分かってるさ」
秋穂は当の昔に亡くなっている。ひと足先に逝ったあいつと同じ、東風谷の墓に埋められた、そう聞いている。きっと幸せだったのだろうと思う。
孫の七五三が済んでからも、虫干しのたびに揚羽を撫でてくれた。目尻の笑い皺を深くして、けれども唇にはそれと注意しなければ分からないほど幽かな笑みを浮かべて、いつも静かに座っていた。細められた目は揚羽の中に、過ぎ去った思い出を見ていたのだとよく分かる。
そして撫でるだけでなく、揚羽に向かって口を開いたことがある。悟っていたのだろう、ぽっくり逝く直前の秋だった。今でも耳に残っている。まだまだ達者に見えた腕をゆるやかに動かしながら、透き通った声音でただひと言、
――ありがとうねぇ。
秋穂は幸せだったのだ。
自分と同じく、子孫も相手に恵まれるよう願い、験を担いで。
それなら縁結びのお守りでもいいだろうに、揚羽を持ち出して。
「秋穂ときたら、迷惑極まりない婆さんだねぇ」
いくら丁寧に扱われようとも時間には逆らえない。付喪神になった今でこそ誤魔化せているけれども、ところどころ裾は擦り切れ、鮮やかだった蝶達はくすんだ紅の空に舞う。こんな草臥れた自分を着せ付けられて、子供達はよく怒り出さなかったものだと思う。それどころか、早苗は飛び跳ね駆け回り全身で喜んでくれて。
けれども現実は現実だ。綺麗だったのも今は昔、これならいっそ捨てて欲しかった。そうまで良く思ってくれるなら遺言のひとつも残して、秋穂といっしょに焼き場へ連れて行って欲しかった。秋穂の棺に納められ、秋穂を抱いて共に焼かれて、秋穂を覆う灰となり、秋穂と同じ墓に埋められ、いつまでも、いついつまでも。
「分かってるともさ」
それだけ幸せだったのだ。あいつと生きて秋穂は幸せだったのだ。子供達が相手と出会い、恋をして、結ばれ、一生涯添い遂げられることを願わずにいられないほど幸せだったのだ。
「本当に、迷惑な婆さんだよ」
伴侶を世話してくれなんて誰が頼んだ。お節介にも程がある。ひとり身が幸せな奴だっているだろう。
例えばあのおしゃべりな草色だ。あいつは秋穂のお気に入りだと自惚れて自慢していた。けれども一番の自慢は草臥れていくあいつ自身だった。
裾のほつれがいくつあるか何度も何度も数えあげる。どう洗われても襟の垢が落ちないと嘆いてみせる。肘の継ぎ当てはあの日に転んだ時のもの、背中の縫い目は薮を潜り抜けた時のもの。誰よりも早くぼろきれになるだろうとさめざめ泣いて、鬱陶しい。
結局、予想した通り、秋穂の妹に払い下げられ使い古され、あいつは晴れてぼろきれになった。継ぎ当て用に切り分けられて雑巾に回されて最後には燃やされた。くべられた火の中で、あいつはきっと最高に鬱陶しい顔で笑っていたのだと思う。
どうして、あたしもああなれなかったんだろう。
「あたしときたら、なんともまぁ健気じゃあないか、ねぇ秋穂」
褒めてくれたって罰は当たるまい。
秋穂が死んでからも自ら朽ちることを良しとせず、子孫の幸せを祈り続けて、ついには曾孫の早苗をして「命の恩人」と言わしめるほどの大活躍を果たしたのだ。揚羽を残したのは大正解だったと言える。これならいつでも秋穂へ胸を張って報告できる。「子孫は大切に守っている。何も心配することはない」。
そして、手足を持てたからにはまだまだこれで終わらずに、早苗のさらに先の先、糸の最後の一本が擦り切れて塵になるまで東風谷を見守り続けるのだ。きっと秋穂は喜んでくれるから、揚羽へ笑いかけてくれるから。
そうとも、自分が捨てられなかったのはこのためだ。着物の本分など知ったことか。着られる幸せなぞどうでもいい。あたしは秋穂の子孫に幸せの訪れるよう祈り続ける守り神なのだ。何があってもやり遂げて見せようじゃないか。
それでも、
「私は、秋穂といたかったんだよ」
***
十歩の距離に着地しても気付かれなかった。
もしかして寝てるんだろうか、松の根元で微動だにしない文の姿へ不審を抱き、でもそんなに神経が図太かったら逃げませんよね、早苗は首を横に振る。けれどもこうなると少し厄介だ。何かものすごく凹んでるっぽいし、迂闊に声を掛けたら取り返しの付かない事態になりそうで。
うん、きっとこれはあれだ。こっそり近付いて「だーれだ」の出番だ。笑っても大丈夫な雰囲気に出来る奇跡の言葉だ。
足を忍ばせ早苗はそろりそろりと近寄って、あと少し、あと三歩で、
「早苗」
なんだ、気付いてたんじゃないですか。文に応えようとして、やけっぱちに吹き鳴らされる笛が聞こえた。気を取られて崖の彼方に顔を向け、白い尾を引きながら夜空へ上がる花火だった。
半月の白々と照る背景に目映い赤と緑が散って、数瞬遅れて腹の底に響く低音も来る。ぱちぱち油の跳ねるような音の途絶える頃を見計らい、またひとつ甲高い鬨の声を上げながら、光の玉が空の高みへ駆け上る。
弾けた。
「早苗、話があります」
文が立ち上がっていた。
「何ですか」
思ったよりも元気そう、早苗は観察して、でも何か元気とも違うような。崖側の半分を花火に照らされる文の顔は穏やかな笑みを作っている。
どう見ても保護者の目だ、二柱が時折向けて下さる目と同じだ。その癖、感情が抜け落ちていて、何か悟ったような具合の変なもので、やっぱり元気じゃないですよね。
「私と別れて下さい」
この天狗は何を言い出すのだろう。
「それって揚羽さんの言ったこと気にしてるんですか」
「揚羽? ああいえ、はい、そうですね。とは言っても、それはただの切欠に過ぎません」
文は体を崖に向け、空を見上げる横顔が花火を受けて白く染まった。
「前々から考えていました。綺麗云々はともかくとして、釣り合わないと言うのはまさしくその通りです」
「そんなこと」
「まずは聞いてください」
声を上げ、穏やかな声音に止められた。
しとしと雨の降り出すように、ぽつりぽつりと語り出す。
――実際に釣り合わないのですよ。一介の鴉天狗でしかない私より、早苗の格は遥かに上です。貴方はあまり実感を持っていないようですが守矢神社はなかなかどうして、山では一目も二目も置かれている存在なのですよ。神社は広大な湖を丸ごと抱え込んで幻想入りを果たしましたね。あれだけでも皆の度肝を抜くには十分過ぎてお釣りが出ます。そこのひとり娘ともなれば大天狗をも婿に迎え入れられるでしょう。それほどの格なんです。
それがどうしたとでも言いたげな顔ですねぇ。もうちょっと分かりやすく言い換えましょうか。詰まりですね、上手く立ち回れば山の実権を握ることも可能だということです。
ええそうです、とにかくすごいのですよ。分かりましたか。遥かに上というのはそういうことです。ですから釣り会わないことにも納得してくれ……
あやや、落ち着いてください。そう怒られても困ります。『愛ハ全テヲ克服ス』なんて誰の言葉ですか。いえ、早苗の漫画にも似たようなものは散々ありましたが。
はい、『ロミオとジュリエット』なら覚えています。ですがそうではないのです。私達に敵対しているのは八坂様だけでしょう。私が問題にしているのは格です。
ええ、違います。乗り越えるべき障害や打ち倒すべき敵対者ではなく、格です。
いいですか。山は力を求めているのです。権力、軍事力、発言力、言い方は何でも構いません、力です。結局、誰もがお山の大将になりたいのですよ。幻想郷が閉じられてからこちら、山の上に住まうお偉い方々は何をするでもなく宴会を繰り返し、退屈に倦んで、しかし暇を潰せそうな事件は早々起こらない。
さてどうしたものかと暇人達は考えます。先日の天人を真似て騒ぎのひとつも起こせたならいいのですが、それをするには体面が邪魔をする。弾幕ごっこはどうあっても女子供の遊びだと軽んじられがちですからね。では何をするかとなると、行き着く先は権力争いです。言うなればどんぐりの背比べです。雛鳥の羽ばたき合いです。これほど馬鹿らしいごっこ遊びもないのですが、そうなるのですよ。「誰それは斯様な機転を利かせて天魔様からお褒めの言葉を賜った」、「何某は婚儀を迎える友人に床が抜けるほどの財宝を贈ったらしい」。私は書きませんが、こうした噂が内輪向けの新聞を賑わせているのです。どうです、詰まらないでしょう。これがお山なんです。
話が長くなりましたね。では事情を理解してもらえたところで、「私が早苗の恋人であり続けるとどうなるか」を考えます。
ハッピーエンドですか。確かに貴方の言う通り、「ふたりは末永く幸せに暮らしました。めでたしめでたし」とまぁ、私達だけならばそうなることも有り得なくはありません。
しかし山は放って置いてくれないのですよ。
どういうことかというと、こうなります。「神社の巫女と懇意にしている鴉天狗がいる」、「よし、では召抱えてやろうじゃないか。うちに箔が付くだろう」。さらにこうなるでしょう、「ふたりの仲人もうちが務めてやろうじゃないか」。もしかしたらこうなる場合もあるかも知れません、「まだるっこしい、鴉天狗には手を引かせてうちのものを巫女にあてがってやろうじゃないか」。
どうです、面倒でしょう。極端な例を挙げましたが可能性は否定できません。十二分に起こり得ることなのです。よしんば引き抜きを免れたとしても、擦り寄ってくる者が後を絶たないだろうことは明白です。そして私は一介の鴉天狗です。上の方々から宴会や遊興へ招かれて、それを私は断れません。そうこうするうちにしがらみは増えていき、がんじがらめに縛り付けられ、ついには飛ぶことも易々とは叶わなくなるでしょう。
分かりますか、この私が飛べなくなるのですよ。幻想郷最速を誇る、この私が。風雨を纏って飛び続けてきた、この私が。自由をこよなく愛し、風を呼吸しなければ生きていけない、この私が!
……失礼しました。少々熱が篭りすぎましたね。何であれ、理解してもらえましたか。別れて欲しいというのはこういうことです。聞き届けてくれたなら生涯、貴方に恩を感じ続けるでしょう。命の恩人と言っても差し支えありません。ですから、
頑なに夜空へ向けられていた文の目が早苗を見た。
「私を助けると思って、別れてくれませんか」
ぼうと文の頬が花火に照らされ白く染まって、どんと弾ける音もした。
卑屈な目だ、早苗は拳を握り固める。鴉天狗の誇りはどこに消えたなんて今更言わない。芝居がかった大仰な身振りは鼻が曲がりそうなほど胡散臭いなんてことも放っておく。
けれどもこの目は無理だ。吐き気がする。
前かがみの腰を蹴り付けたい。頬の曖昧な微笑が癇に障る。へりくだった口元を張り飛ばせたならさぞ胸がすくだろう。
それが恋人へ向ける目なのか。許しを乞う、媚びへつらう、今にも土下座をしそうな目なんて見たくなかった。私の恋人が、こんな人だったなんて情けなくて涙が出そうだ。
嘘を吐けない大根役者がこんな三文芝居を演って、一体どこの誰を騙す心算だ。
「それに、恋人を見捨てて逃げる私には貴方も愛想が尽きたでしょう?」
見くびるな。
「文さん」
震え出そうとする息を努めて細く、長く吐き出す。
「ここへ来る前にパチュリーさんへ会いに行ったんです。そしたらなんて言われたと思いますか」
文が顔を強張らせ、ざまあみろ、早苗は思う。
知らないと考えたのが運の尽きだ。私は知ってる。
「『貴方もなの?』って。おかしいですよね。笑っちゃいました」
私は知っているんだ。
私を探してどれだけ飛び回ったのか、どんな言葉でパチュリーさんを説得したのかちゃんと聞いてる。例え知らなかったとしても、私を見つけた時の泣き出しそうな顔で十分だ。
一歩、二歩、大股に近寄って、逸らされた文の頭を無理やり自分へ向けさせる。
「私の目を見てもういちど言ってください」
覚悟しろ。
「そうしたら聞いてあげます」
着込んだ嘘をひとつ残らず引き裂いてやる。
「本当に、私と別れたいんですか」
***
早苗に覗き込まれた。
磨き上げた翡翠のような瞳には感情が燃え盛っていて、綺麗だ。
彼女と別れたいか? 決まっている。何のためにこんな芝居を打ったというのか。
傍にいれば絶えず体が熱を持つ。離れたら離れたで夜も眠れないほど息苦しくなる。笑顔を向けられただけで心の躍る自分が涙の出るほど情けない。泣き顔に他愛なく狼狽する自分が心底嫌だ。朝日を見ればまだ寝ているだろうかと考えて、夕日に会ったら今頃何を料理しているのか想像する。いつも彼女が頭にちらつき筆を取る手の邪魔をしてくる。
別れられたならば全ての苦痛から解放されるのだ。こんなに嬉しいことはない。肌の触れ合うこともなく、挨拶を交わすこともなく、顔を見ることもなく、平和な日常を過ごせるのだ。実に結構なことじゃないか。
二度と、早苗の笑顔を見ることもなく。
「あ」
膝が震えて、肩が震えて、喉が震えて、
「はなしてっ」
ほら見ろ、彼女は人間だ。たかが人間の小娘だ。たったこれだけで振り払えるひ弱な生き物だ。こんな脆弱な人間だ。瞬きをふたつ、みっつ繰り返すだけで寿命を迎えているだろう。いつもそうだった。八五郎もセンも阿弥も馬鹿みたいに笑っていると思ったら次の日には死んでいた。早苗も変わりはしないだろう。それも死ぬ前に別れてしまえばすぐ忘れられる。彼女の笑顔もあっという間に忘れられる。
だから、この涙も嘘に決まってる。
「失礼しました。お答えしましょう、それはもちろん別れたいです」
盛大な溜め息がひとつ聞こえて、
「もう、目を見てって言ったじゃないですか」
そんなことを言われても困る。最後くらい見栄を張らせて欲しい。
何度拭っても涙が切れない。鼻水まで溢れ出るのも時間の問題で、こんなみっともない顔を早苗の記憶に残したくない。尤も、今更なのかも知れない。思えば自分はいつだって泣いていた。彼女と喧嘩して、彼女の寿命を思って、今また醜態を曝している。
でも、こんな顔を見せるなんて嫌よ。嫌なの。せめて早苗の思い出の中だけだって、私はちょっとでもましでいたくて
「そこな鴉天狗、面をあげいっ!」
なに。
「妾は稲荷大明神の御使い……は恐れ多いですね」
半月と花火を背負って、白い面に白い浴衣の狐がいた。
「とにかくっ、通りすがりの狐なのである。見ればひどく悩んでおるようではないか。妾に何でも申してみよ。そちの話を聞いてつかわす!」
早苗は何をしたいのだろう。
ご丁寧にも扇子まで広げて、あれで威厳を出している心算なのか。
「たかが野狐如きに慰められる覚えはありませんねぇ」
「失敬な。妾を八坂大明神の御使いと知っての暴言か」
畳んだ扇子を突きつけられた。
「通りすがりの狐じゃなかったんですか」
「通りすがった御使いの狐なのである」
随分と都合の良い。
「あ、笑いましたね、じゃなくて、ええと」咳払いをひとつして「とにかく悩みである。思い詰めた顔が真っ青になっておるではないか」
余計なお世話だ。だから隠していたんじゃないか。
「ひとつもありませんよ。強いて挙げれば、どうしたら頑固な人間と別れられるかですね」
「強情な天狗であるな」
それも余計なお世話だ。「清く正しい射命丸」の看板を守り通すなら、強情なくらいが丁度いい。
しかし早苗は何の芝居をしようというのか。悩みなら大きなものがひとつあったが、それは既に解決している。解決しかけていた。早く切り上げさせて欲しい。
「ふむ」
こくり、小首をかしげて早苗はくるり、後ろ手に夜空を見上げる。
崖の向こうには遠目にもはっきりと花火の煙がたなびいて、打ち上げられた菊花を雲の中に隠していた。
「妾にはいくつでもあるぞよ」
知っている、文はいくつでも覚えている。
外の思い出を捨てられないと泣いていたことがある。神になる自信を持てないと嵐の中へ飛び出したこともある。何かしら悩みへ直面する毎に彼女は思い詰め、周囲をやきもきさせ、泣いて、けれども最後には笑っているのだ。些細なことだったと笑い飛ばして、次の日にはより逞しくなった姿で、何事もなかったかのように境内を掃いているのだ。そうした時、彼女の見せる笑顔は本当に綺麗で。
どうしようもないわね。結局、外見でも内面でも自分はふさわしくなかったのだろう。今更気付いたところで何というものでもないけれど、せめて早苗の強さを見習いたい。明日には無理だろうが、ひと月かふた月か、一年か十年か、何であれ出来る限り早くに振り切って笑顔になろう。
「例えば、妾の恋人が腰抜けだとかであるな」
それも知っている。遥かな昔から変われなかった性分だ。
「妾の恋人は意外と泣き虫だということも悩みである」
知っている。まさしく今の自分だ。
この調子だと「妾の恋人」に関する愚痴で終始するのだろうか。結構なことだ。それで気が晴れるなら何とでも言って欲しい。餞別代りと受け取って手帳に書き付けておこう。
「他にも」
ひとつひとつの欠点を直せるよう精進しよう。
読み返して「馬鹿だった」と笑えるようになる時も、いつか来るのだと思う。その頃には流石の自分も少しくらい変われているのだと思う。
「徹夜明けの恋人は臭いとか」
なんですって。
「鶏の飼育小屋に入った気分になるな。いかにも鳥って感じで頭痛がしてくる。疲れているのは分かるが水浴び程度は徹底してもらいたいものよ。
羽に全然触らせてくれないけちんぼだということもあるな。くすぐったいのか照れているのかは知らぬが減るものではなし、けちけちせずに妾へ委ねてくれてもいいだろうに」
常に餌の傍で暮らす、匂いの染みやすい鶏といっしょにしないで欲しい。徹夜だろうとひと晩くらいならそうそう臭わないはずだし、羽繕いだけは朝晩欠かさずしっかりしている。
翼の乱れで風を掴めなくなれば難渋するし、あまり触って欲しくないのも同じ理由からで、最近はそうでもないが始めて触れられた時は滅茶苦茶にされて正直泣きそうになった。
「まだまだあるぞよ。好きだと言うからクッキーを焼いたのに気付かない鈍感っぷりとかもだな。あれでよく新聞記者が務まっておるものだと逆に感心するわ。
キスもろくに出来ない初心加減もそうだ。少し迫っただけで逃げ出す腰抜けの癖に、妾が他の者から頬へキスを受けるだけで、葉団扇まで持ち出して妨害してくるから困っておる。それくらいなら自分からしてみろと言うのだ」
クッキーは早苗も悪い。まずにとり達に渡した後で、ついでだとでも言うように私へ向けるのだ。一度などは手を伸ばしたところで取り上げられ掛けたこともある。非難したいのはこっちの方だ。それで私のために焼いてくれたなんて分かるわけないじゃない。
口付けだって最近出来るようになったでしょう。まだ頬までだけど慣れたら唇も重ねられるようになるし、大体私だってしたいのよ。
「身だしなみに気を遣わない乙女心の無さもあるな。デートだというのに仕事着で来ようとしたこともあったのぅ。あれはひどかった。恋人の自覚があるのか思わず問い詰めたくなったぞ。
今日もひどい。折角のお祭りに礼装で来たのだぞ。それも着替えを用意していると聞いていたにも関わらずだ。
それに、見ろ。妾が気付かぬとでも思ったか。恋人は髪に櫛を入れて爪もやすりで整えて、あまつさえ唇には紅まで引いておるのだ。どう考えても準備万端ではないか。それでも『着替えるのは面倒』だと抜かしおった。ばればれな嘘まで吐いて何を誤魔化そうというのだろうな。ちゃんちゃらおかしいわ」
安い挑発だと分かってる。
「他にもだな」
「もういいでしょう」
分かってるし、言われなくとも全て知ってる。
赤くなるまで肌を磨いた。羽根の一本まで捩れのないよう整えた。紅を引き直した回数は覚えていない。目の隈を隠そうとした白粉は厚過ぎて、鏡の中の塗り壁に四半時笑い通した。浴衣に皺や糸屑のないことを晩に十回確かめて、明け方にもう二十回見直した。
最後に挫けて浴衣も化粧も何もかも台無しにしたのは自分だ。分かってる。
でも、私だって、
「私だって早苗に見て欲しかったわよ」
早苗にだけは言って欲しくなかった。
「でも仕方ないじゃない」
半月が照っている。枝垂れ柳や菊の花、咲き乱れる花火達はひと時も黙っていない。
一度火を点けられてしまったのなら、あとは空へ上がって弾けるしかない。
振り向いた狐姿を視界に捉える。白い面に言葉を投げた。
「早苗はいいわよ。綺麗だから」
初めて見た時から綺麗だった。
馬鹿らしいほど大きい夏の夕日を背負って飛んでいた。全身に風を纏って髪を靡かせ、力の限りに喜びを舞っていた。見蕩れていたことに使い魔から言われるまで気付かなかった体たらくで、どうして早苗はそんなに綺麗なのよ。
「でも私が浴衣で並んでみなさい」
気晴らしに誘った紅葉狩りでは、情緒も風情もなく落ち葉を掻き集めて笑っていた。「境内の掃除で見飽きた」と言ってのけたうんざり顔はどこへやったのか。
福良雀のように着膨れて雪透かしをしていると思ったら、いつの間にか脱ぎ捨てて普段の格好になっていたことがある。手伝えと怒る顔は紅潮し、雪の照り返しに汗が煌いていた。
笑っても怒っても泣いていても、ただ飛ぶだけの姿でさえどうしようもなく綺麗で、
「釣り合わないって分かるでしょう。私は早苗みたいに綺麗じゃないから」
結局、嘘だった。
溢れる欲でいつか彼女を襲うだろうから。
欲を見透かされて情けを掛けられたくないから。
何もかも嘘だった。
「そんなの嫌よ」
気付いたら終わってしまう。
肌を磨いて化粧をして身だしなみも整えて、けれど彼女も同じようにしているのだ、追いつけるわけがない。彼女に自分は取り残されて、隣をもう飛べなくなる。どうして肩を並べて風呂に入れるというのか。どうして枕を並べて眠れるというのか。
能天気に笑う馬鹿が隣にいて、何故彼女も笑えるというのか。
「釣り合わない女が傍にいたら迷惑でしょう」
いつも彼女の笑顔を見てきた。いつまでも笑っていて欲しかった。
なのに、私がいたらその内きっと笑えなくなる。隣で笑っていて欲しいなんて我侭で、それならせめて笑顔を曇らせることのないように。雲の合間から境内を盗み見て、そこに笑顔があったならそれでいい。きっとその日は暗くなるまで、月の沈むまででも飛び続けられるだろう。写真なんて必要ない。忘れるなんて絶対ごめんで、何度も何度もまぶたの裏で彼女の笑顔を転がすだろう。転がすたびに翼には力が宿り、空の果てまで、月までだって届くと思う。
それだけでいい。笑っていてくれさえするのなら。だから、
「だからもう、別れさせて」
膝が折れた。突いた土はまだ暖かい。
どうしようもなく我侭だと分かってる。一方的で彼女のことを考えないものだと知っている。けれども自分はもう耐えられない。気付いてしまったらもう隣で飛ぶなんて無理に決まっていて、顔を合わせるのもやっぱり無理で、こんな顔を見せたくないしもう逃げたいけど翼がどうしても動かない。
早苗は分かってくれるだろうか。分かって欲しい。分かって、私から離れて欲しい。
「もう、どうして文さんは」
呆れた声。当然でしょう。私なんかを恋人にしていたら誰だって呆れるわよ。
土を踏む下駄が近付き、張り飛ばされるだろうか、ただ絶縁を言い渡されるだろうか。何であれ早くして欲しい。早く彼女の見えないところに行きたい。早く、
「そんなにかわいいんですか」
包まれた。
投げ捨てられた狐の面が地面の上で踊っている。
回された腕が背中を押して、早苗に体を押し付けられて、彼女の香り。
「文さん、私は怒ってます」
当然だ。けれどもそれならどうして貴方は、そんなに優しい声音で言うの。
放して欲しい。このままだと貴方の声で溶けてしまう。
「いつもいつもかわいいし綺麗だって言ってるじゃないですか。失礼です。もっと信用してください」
そんなはずがあるか。
いつもいつも鏡を見てきたから断言できる。早苗から聞いてすぐに豊穣神から化粧水を分けてもらったのだ。似たような時期に使い始めて何故、彼女とこうも違うのだ。何故かなんて知っている。元が決定的に悪いからだ。
釣り合わないのも当然で、だから別れさせて欲しいんだ。
「そんな風に『いやいや』されたら頭撫でたくなっちゃうじゃないですか」
言う前から撫でているだろう。止めて欲しい。指が優しい。
このままだと別れられなくなる。折角の決意が溶けてしまう。
「文さんは私のこと綺麗って言ってくれましたよね。だったら、これには秘訣があるんです」
秘訣?
「秘訣です、取って置きの秘密です。私はこれで綺麗になれましたし、疑り深い文さんだって絶対なれます。知りたくないですか」
もしも、そんなものがあるのなら、
「知りたそうですね。素直な態度に免じて教えてあげます。心の広い私に感謝してください。これは超極秘機密なんです。長生きで博識な文さんでも絶対知らないトップシークレットなんですよ」
もしも、そんなものがあるのなら、私だって早苗ほどじゃなくても、早苗みたいになれて。
もしかしたら、はたてと椛みたく互いに綺麗だと言い合えて、
もしかしたら、早苗の前でも気後れせずに立っていられて、
もしかしたら、早苗と手を繋いで歩けて、
もしかしたら、早苗の隣で飛ぶことも、
まさか、そんなものあるわけない。
「いいですか。よーく聞いてくださいね」
でも、早苗の目はからかってなくて、もしかしたら、もしかすると。
どうか、あって欲しい。私が変われるのなら、早苗といっしょにいられるのなら、早苗の笑顔を隣で見ていられるのなら、早苗と笑い合えるのなら、どうか、どうかお願い。
「女の子は、恋をしたら綺麗になるんです」
それだけ?
「なんですかその目、嘘じゃないですよ。実例がここにいるじゃないですか」
でも、それは早苗だからで、
「文さんと同じで頑張ってきたんです。糸瓜ってすごいですよね、文さんの肌もこんなにすべすべで。
そういえば穣子様も静葉様も爆笑なさってましたよ。『関心なさそうな振りしてるのに必死すぎて、面白かったからあげちゃった』なんて。ちゃんと使ってるみたいで何よりです。しっかり綺麗になってるじゃないですか」
でも、私は女の子なんかじゃなくて、
「女の子なんです。自分に自信を持てなくて涙が出ちゃうなんてどこまで乙女なんですか。漫画にだってそうそう出てきませんよ。
それに文さんが『綺麗じゃない』なんて言うの殆ど嫌味ですよ。私は綺麗な文さんに『綺麗』って言って欲しくて頑張ってきたんですから。私の努力を泣いてまで否定しないでください。私まで泣けてくるじゃないですか」
でも、そうしたら、早苗の言うとおりなら、
もしかしたら、もしかすると、私はもう、
「文さんは、綺麗になりました」
ほんとう?
「本当です」
だったら、
「さっきはすみません。もう置いてけぼりにしないように頑張りますし、もしはぐれても今夜の文さんみたいに探します。
ですから我侭ですけど、でも、もういちど約束して欲しいんです」
それなら、
「文さん、私を離さないでください」
私は、早苗といていいんだ。
***
「まだですか」
「まだです」
九回目。
「もーいーかい」、「まーだだよ」。かくれんぼは延々続く。でもやっぱり「だるまさんが転んだ」なのかも知れない。振り向いている間、文さんは松の影から顔も出そうとしないのだ。
体育座りで夜空を見上げ、手持ち無沙汰に花火を数える。ひとつ目は赤い牡丹でふたつ目の枝垂れ柳が被さった。みっつ目には緑の大玉、ぱらぱらと星が散る。四つ目、五つ目、途切れもせずに夜空へ花が咲いていく。祢々子さんはずっとあの下で頑張っているんだろうか。
美人だったなー。ちらっと見えた感じだと切れ長の目が凛々し過ぎてエロ過ぎて、あれで見詰められたらときめいてしまいそうだ。私もあんな風に色気を出したい。そして文さんをこてんぱんに悩殺するのだ。
というかそろそろ悩殺されたいのに、
「もういいですよね」
「駄目です」
記念すべき十回目。
拷問染みた衣擦れは五回目あたりでとっくに止んでる。
エロかった。
音だけなのにどうしてあんなにエロいんだろう。今のは礼装の帯を解いた音だなとか、今度は浴衣の衣紋を抜いたんだなとか想像できて、うっかり襲い掛かりそうになった。むしろ襲いかけて使い魔に思いっきり威嚇された。焼きもろこしでもあったら買収できてたかも知れないのに、惜しい。
今度から何か持ち歩こうか。クッキーは美味しそうに食べてくれたし、でもオーブンの準備が面倒だ。ポン菓子なんかいいかも知れない。でもあれってどうやって作るんだろう。ポップコーンみたいにお米を炒るとか? そんなの聞いたことない。今度調べてみよう。
「お祭りっていつまで続くんでしょうか」
「鶏が鳴くまでです」
「なんかそんな昔話がありましたよね」
「どういうものですか」
「そのままですけど。日の出と共に妖怪達の宴会は、まるで夢だったかのように消えたのでした、みたいな」
「昔話じゃないですよ。昔からこうなんです」
由緒あるお祭りなんだろうか。それでもやっぱり、
「お祭り、消えませんよね」
「消えませんよ。御伽噺じゃないんですから」
だったらいいんだけど。
今夜の文さんは夢みたいにかわいくて、これが本当に夢だったら枕で血の涙を拭う羽目になる。
でも、今夜はほんとに夢みたいだ。綺麗でかわいい、私にはもったいないほどの恋人が浴衣を披露してくれるのだ。こんなの夢でも叶わないかも知れない。
でも、今夜はほんとに夢のようで、このかくれんぼもどきも実は幻だったとしたら?
一本松も文さんも何もかも私の夢で、もしかしたら今日の文さんも、今までの文さんも、私が幻想郷に来たのも全部全部私の夢だったら?
文さんが出てきてくれないのも使い魔が邪魔してくるのも全部夢から醒めたくないだけで、松の向こうを覗いたら夢から醒めて、本当は外にある私の部屋で、私がひとりっきりで寝ているだけで、神奈子様も諏訪子様も神社からいなくなってて、ひとりっきりの私も実は夢で、外にいる私は、納戸の奥で体育座りをしていて、
「文さん、そこにいますよね」
出来るだけゆっくり息を吸い、吐き出した。
音を立てたら弾けてしまう。深呼吸をもうひとつ、鼓動がうるさい。静かにして。
振り向いたら崩れてしまう。もうふたつ、文さん、ちゃんといますよね。本当にいますよね。
何もなくとも消えてしまう。みっつめ、どうしたんですか、早く返事してください、文さん、早く、
「いるわよ。どうかした?」
どうかしてます。
声だけで涙が出そうになるなんて、どうかしてなきゃ何なんですか。
「えっとですね」
「何」
恥ずかしいけど、もう無理だ。
「寂しいです。まだですか」
十一回目。
期待なんかしていない。「もーいーかい」に「もーいーよ」は聞こえない。
でも「まーだだよ」も「まだです」も「あと少し掛かります」も全然なくて、膝の間に顔を埋める。
いないはずがない。これが私の夢だなんて傲慢だ。綺麗な文さんも、かわいい文さんも、かっこいい文さんも全部全部現実で、私はそう信じる。文さんは恥ずかしくて躊躇っているだけだ。きっとそうだ。こうしているうちに文さんは今に「もーいーよ」って出てきてくれて
「もういいわよ」
かくれんぼが終わった。
「早苗?」
終わったはずだ。でも、振り向いていいんだろうか。
かくれんぼの鬼は私で文さんは隠れる役で、「みーつけた」であっというまに終わってしまう。そんなのは嘘だと思う。
でも、そんなのも嘘だと思う。私達はかくれんぼなんかしていない。私は待っていただけで文さんは着替えていただけ。「みーつけた」なんかいらなくて、ただ振り向けばいいだけで。
でも、文さんがいなかったら? 夢のように消えてしまったら?
「待たせて怒ったんだったらすみません」
「見てくれないの?」って聞こえた気がして、怒ってません。怒るはずないじゃないですか。
怖いんです。
どうしようもなく女の子で、敵いっこないくらい女の子で、綺麗でかわいくてかっこよくて、そんな人が私の恋人だなんて怖いじゃないですか。こんなことあっていいのかなんて疑いたくて、怖くならないほうが嘘じゃないですか。
でも、文さんが出てきてくれたんだから、今度は私の番で、私だって、出来る。音の出るほど息を吸いこみ、思いっきり振り向いて、
「よかった、怒ってないんですね」
夢を見ているのだと思った。
「どうでしょうか」
銀色の月明かりが降っている。
伏目がちにはにかむ顔、紺地の浴衣と染め抜かれた萩の葉に、行雲のすっきりした白い帯、花火に照らされ全身まで白く浮かんだ。遅れて音が鳴り響き、ぱらぱらと散っていく。
ひとつふたつ近寄って文の強張った頬に手を伸ばし、泣き腫らして兎になった目元を過ぎて、前髪はさらさら指から零れていって、
「くすぐったいです。感想が欲しいのですが」
夢じゃない。
抱き締めて、しゃらと鳴る衣擦れも乾いた麻の涼しさも、弾かれそうなほど滑らかな肌も溶けそうなほど柔らかい体温も本物で、そして文さんの香りがする。飛び回った夜空の欠片と、私を探してくれた汗の匂い。
「綺麗です」
――もっと具体的にお願いします。
気の利いたことを言いたくて、けれども何も出てこない。
「本当かしら。見ながら言って欲しいのに」
「本当ですよ。じゃないとこんなにどきどきしてません」
ぎゅっと体を押し付ける。
合わせて文さんも腕を背中に回してくれて、
「早苗と私、どっちか分からないじゃない」
「それじゃあ私達ふたりともなんです」
頭の後ろで声がする。喉だけで笑ってる。
私の口からもくつくつと漏れ出して、どうしてこんなにおかしいんだろう。
「でも、ありがとう。早苗も綺麗」
ふかふかな翼のように柔らかい声は文さんで、ひと口だけで酔いそうなほど甘い匂いも文さんで、この腕もこの胴も文さんで、全部本物の文さんで、全部私の恋人だ。首筋に頬を当てれば文さんの鼓動が聞こえる。このメトロノームだけでマーチングバンドよりも楽しいリズムになっている。頬と重なる肌が熱くて、抱き締めた胴も熱くて、全身まで熱くて、オーブンの中より熱くて、けれど少しも火傷をしない温かさだ。張り付いて、吸い付き合ったままチーズみたいにとろとろ溶ける優しい熱だ。
世の中、贅沢なことはいくらでもあるけれど、私にはこれが最高の贅沢なんだろう。いつまでもこうしていたい。朝になるまで、日が昇ってもこのままでいられると思う。
でも、もっと欲しい。これだけじゃ全然足りない。我侭な私がどんどんどんどん大きくなって、もう私には止められない。止めたくない。
すみません文さん、でも折角なんですから、もう少し欲張りになってもいいですよね?
「早苗?」
最後に一度ぎゅっとして、頬を文さんから引き剥がす。
なんだか本当に溶けて張り付いていた気がして、痛さもあったような気までして、寂しい。間近で覗き込んだ柘榴のように赤い瞳もやっぱり少し泣きそうになっていて、二、三度まばたきをして、
「ああ、祭りですか。いつまでもこうしているわけにもいきませんね。そろそろ行きましょうか」
この天狗は何を言い出すのだろう。
「どうしてそんないじわる言うんですか」
「違いましたか?」
「違います。全然違います」
雛さんのにとりさんへ冗談半分に送る視線はエロ過ぎる。いつも見ていたから覚えてる。
だからって真似できるなんて思えないけど、
「ちょっと訊ねたい疑問があるんです」
「なんでしょうか」
「私って小さい頃によく『妖怪にとって美味しそうな匂いがする』って言われてたんです」
「まぁ、子供ならば大抵はそうでしょうね」
「それでですね」
文さんをこてんぱんに悩殺するのだ。
「私は、美味しそうな匂いがしますか?」
戸惑っていた柘榴の目は訝しそうに細められて、いきなりまん丸になった。どうしよう、すごく楽しい。
焦る瞳は右に左に行き来してからそっぽを向いて、でも今度こそ逃がしませんよ。胴体はまだまだがっちりキープ中で、飛ぼうとしてもくっついてくし、振り払われても全力の風で叩き落してあげます。
さあ、どうですか。
「そうね」
あれ?
「早苗にしては回りくどいわね。食べて欲しいのならそう言いなさい」
なにそれ。
なんですかそれ。
予定だと文さんは「それは、ですね」とかなんとか口ごもってあわあわするはずだったのに。
湯気の出そうなほど真っ赤になってがちがちになった姿を思う存分堪能した後、私はぎゅっと抱きついて「文さん、かわいい」って耳元で囁きまくるのだ。体を捩って悶える文さんに、まずは髪からキスを落としていって、耳や首を舐めるたびにエロい呻き声が漏れ聞こえてきて、ゆっくり顔に近付いていき……
「黙っていたら分からないでしょう。どの道、食べることは変わらないけど」
恥ずかしがって逸らされるはずだった柘榴の瞳が、まっすぐに私を覗き込んでいて。
どうしよう、かっこよすぎる。
「かわいいわよ、早苗」
変な声を出すのは私の方だった。
頬に添えられた手が熱くて溶けて吸い付いて、これだけで気持ちいい。熱めのお湯に浸かったときよりよくて、でもお風呂みたいにリラックスなんて絶対無理だ。
気持ちよすぎて力が抜けて、足も体を支えられなくなって「危ないわね」抱き止めてくれた腕まで熱い。浴衣があるなんて嘘だと思う。肌が直接触れ合ってる。隙間もないほど張り付き合ってる。熱が全部気持ちいい。
このままだと茹だって死ぬ。
「遠慮なんかしないから。覚悟なさい」
花火の白い光の中で文さんの唇が、桜色に浮かび上がって。
キス、口付け、ベーゼ、接吻。
いいですよね? 大丈夫なんですよね? ちゅーしてもいいんですよね? ちゅーしたら死にそうだけど、今だってなんかもう溶けそうだけど、もう溶けてるけど、でも
「ずっと」
あれ?
「貴方が欲しかった」
兎になった目の端に楕円の涙が光ってる。丸く膨らみ零れて落ちた。
文さんが泣いている。
どうして、
どうして最後まで持たないんですか。
大人な文さんのリードでキスまでいって欲しかったのに、夜景に花火にふたりっきりっていう最高のシチュエーションだったのに、全部台無しじゃないですか。唇は知らない人に怯える子兎って勢いで震えているから色っぽさが台無しで、目は締りの悪い蛇口って感じで水滴を零しているからかっこよさが台無しで、全部全部台無しじゃないですか。そんなのだともったいないお化けが出ますよ。
けれども、愛しい。
どうして貴方は、そんなにかわいいんだろう。どうして想われるって、こんなに温かいんだろう。
貰ってばかりじゃ申し訳なくて、少しでも想いにお礼をしたくて、負けないくらい想ってるって応えたくて、
「私もです」
ちょっと見え辛いかも知れませんけど、文さん、気付いてくれましたか? おかしいですよね。私も泣いてるんですよ。くしゃくしゃに歪んだ頬も見っともないほど溢れる涙もそっくりで、文さんとお相子なんです。私も台無しにしてしまいました。
でも、おかしいことなんてひとつもないんです。
貴方を想えることが嬉しいんです。貴方と同じように泣けることが嬉しいんです。貴方のいてくれることが何よりも嬉しくて。
「言葉に出来ない」なんて陳腐な表現ですけど、そんなの嘘だってずっと思ってましたけど、でも本当だって分かってしまいました。
私は貴方に伝えたい。けれども言葉以外でなんて他に思い付かなくて、だから、
私からもさせてくださいね、文さん?
***
抗う私は最後の嘘で、彼女は優しく暴いてくれた。
彼女の奥で、花火が聞こえる。
私達が溶けていく。
***
夏が終わるのだと師匠は言う。
六華はちょっと寂しい。
夏が終わると氷は少し売れにくくなる。顔馴染みもあんまり来なくなってしまうし、六華はとても暇になる。あんまり暇で退屈で、お揚げとそっくりな雲を探してしまうほどだ。もみ姐は涼しくなっても遊びに来てくれるのだけれど、六華はやっぱりちょっと寂しい。
それに師匠の言うことはちょっと違うと六華は考える。夏が終わるのだと師匠は言うけれど、夏は終わらないのだと六華は尻尾をぐるぐる追いかけながら考える。一回目の記念日も二回目の記念日も、最初の大事な思い出も、全部全部夏だったのだ。だから夏は終わらなくて、ちょっとお休みするだけなのだ。冬篭りといっしょだ。秋冬春篭りだ。
けれどもやっぱり夏は終わるのだとみんなも言う。
あの変な人間も言っていた。夏が終わるからキャンプをするし、キャンプは夏の終わりにうってつけなのだと人間は言っていた。あー姐と今度こそ「ロマンスヲハグクム」らしいのだけれど、六華はよく分からない。それでもひとつだけちゃんと分かることがある。キャンプは楽しいのだ。
師匠はいつも楽しそうに宴会へ行く。そしてキャンプは宴会とそっくりらしくて、だからキャンプもきっと楽しいと分かるのだ。
それに女の子がいる。
女の子と友達になって欲しいのだと人間は言っていた。人間の背中に隠れてもじもじしている女の子は、なんだか昔の六華みたいで六華はちょっと笑ってしまった。それから六華は嬉しくなって、寂しくなった。おかっぱな女の子は六華と同い年くらいで、山のことはあんまり知らないらしくて、昔の六華とそっくりだった。
だから今度は六華の番なのだと六華は思う。
山を知らない昔の六華を、師匠は色んなところへ連れて行ってくれた。凍った滝はお日様で虹色に光ってたし、六華の下でゆっくり泳ぐ魚が見えた。ぽっかり開けた窪地には花がいっぱい咲いていて、遊んでいたら尻尾に草がいっぱい付いた。蝉の鳴き声に囲まれて、きらきら綺麗な沢で蟹に指を挟まれて、六華はとても驚いて、師匠はすごく笑ってた。赤と黄色の森を抜けると大きな木が立っていて、師匠に背負われて天辺まで登った。天辺から見た夕日は六華を呑み込んでしまいそうなほど大きくて、本当に呑みこまれてしまった六華は暗くなるまでずっと見ていた。師匠と色んなところに六華は行ったし、とても楽しかったし、全部大事な思い出だ。
だから六華の番なのだ。昔の六華とそっくりで寂しそうな女の子に、山はとても綺麗で、びっくりするほど綺麗だと教えてあげるのだ。それにカキ氷がある。もちろんキャンプに氷の道具を持っていくし、氷は綺麗で美味しいし、女の子もきっと気に入ると六華は思う。
だからキャンプは絶対に楽しいと分かるのだ。
近頃、ちょっと物知りさんになってきた六華は知っている。こんな風に分かることを「予感」というのだ。
けれども予感はちょっと違うと六華は思う。ぐるぐる尻尾を追いかけながら、ちょっと違うと六華は思う。予感はたんぽぽの綿毛みたいにふわふわしていて、ちょっと目を逸らしていたら風で飛んでいきそうなものだ。六華は絶対分かるのだ。キャンプは絶対楽しいに決まっているのだ。
なんだか尻尾がむずむずしてきて六華は困った。こういう時には何と言えばいいのか六華は困って、耳までむずむずしてきたからがりがり掻いて、じっとしていられなくなるほど困ったのでどたばた駆け足をして、それでもやっぱり分からないから尻尾がどんどん膨れ上がって、このまま困っていると爆発しそうで、
「準備は出来たか」
師匠。
「ってなんだ六華、引っ張るな、しがみつくな、よじ登るなっ。またなんか気になることが出てきたってのかい」
やっぱり師匠だ。六華のことならなんでも分かる。
「やっぱりか、あたしは学がないんだからむつかしいことは御免だよ。あー姐に聞きな。キャンプにも来るから丁度いいだろう」
師匠ならきっと知ってる。師匠は物知りさんだと六華は知っているのだ。ちょっと土を混ぜて硝子に泡を作るやり方だとか、穴を開けて氷を割るやり方だとか全部師匠に教わったのだ。師匠はなんでも知ってるし六華にいつも教えてくれるし「揺らすな危ないっ」分からないことなんかひとつもないし
「分かったっ、分かったから降りろ!」
降りた。
「まったく、そろそろ出る時間なんだよ。こないだみたいに『夕日の寝る場所』だの、『蜘蛛が網に引っかからないのはどうして』だのなら歩きながら説明するから今は我慢しな。それで、何が知りたいんだって」
ふわふわした予感じゃなくて、もっと硬くてどっしりした感じの言葉。
「ああそんなことか。そりゃあれさ、『確信する』ってんだよ。必ずあるって信じられる時に使うのさ。他にも言い方はあるんだろうが、そういうのはあー姐に聞きな。記者なんだからお手のもんだろうさ。これでいいか」
「ありがとう」を言って、六華は何度も何度も思いっ切り頷いた。
やっぱり師匠は優しいのだ。優しくて物知りさんで、いつだって困った六華に教えてくれるのだ。
そしてキャンプは絶対に楽しいと六華は信じられるし、カクシンしているのだ。ちょっと物知りさんになれた六華は嬉しくて、何度も何度も楽しいのだとカクシンする。
「ってなんだ、全然出来てないじゃないか。やることやってから悩めってのに、お前って奴は」
カクシンするのを止めて、六華は困った。
すかすかの何も入っていないリュックは寂しそうで、ごろごろおもちゃが畳の上に転がっている。
「あたしは外で待ってるからさっさとしな。ぐずぐずしてると置いてくよ」
それは困る。すごく困る。耳の先っぽまで驚いて六華は慌ててリュックを掴む。
河童印のリュックは頑丈で、六華はとにかく詰め込んでいく。まず拳骨は大切だ。拳骨は面白い変なおもちゃで女の子もきっと気に入ると六華は思う。それから独楽とびっくり箱と、人間にもらったお人形さんも忘れずに。綺麗でかわいい服がたくさんあって、着せ替えて遊べるとても素敵なお人形さんなのだ。忘れちゃいけない師匠お手製のおはじきは、大事に大事に底へ仕舞った。地面の上だと遊べないけれど、七色に透き通るおはじきはとても綺麗で、見ているだけで変な顔になるほど綺麗で、六華の大切な宝物なのだ。女の子もきっと喜んでくれると六華はカクシンしている。
忘れ物はないかもういちど確かめて、六華は勢い良くリュックを背負う。あんまり勢いを付け過ぎたので、背中のところが捩れてしまった。腰のリボンも潰れたかも知れない。六華は力いっぱい仰け反って、腕を回してうんうん唸って、耳も尻尾もぴんと伸ばしてワンピースをごそごそやった。直ったかな? 直ったみたい、もう大丈夫だと安心して溜め息を吐き、遅れたら置いていかれることを思い出して麦藁帽子を慌てて掴む。
土間へ飛び降りるとリュックの中でおもちゃが鳴った。びっくりした六華はあんまり揺らさないように注意しながら、けれども思いっ切り外へ飛び出す。
どこまでも白い夏があった。
アブラゼミのびりびり鳴く声に混ざって、師匠の笑う声も聞こえる。
白い光で眩んだ目を恐る恐る六華は開いて、あんまり慌てすぎた六華が面白いと師匠は顔いっぱいに笑っていた。六華は師匠にちょっと怒って、それからとても嬉しくなった。あんまり嬉しくなったから、六華は尻尾をぶんぶん振り回しながら師匠に駆け寄ろうとして、立ち止まった。くるりと家に向き直る。
「ただいま」はとても嬉しい言葉だと六華は知っている。
師匠の「ただいま」を聞くと六華はすごく嬉しくなるのだ。あんまり嬉しくて、六華はいつも師匠に飛びついてしまう。出かけてしまった師匠を待ちきれなくて、「おかえりなさい」を言いたくて、師匠の帰る時間になると六華は上がり框にきちんと座る。どうしてもきちんと出来ない尻尾を気にしないように頑張りながら、ずっとずっと待っているのだ。「ただいま」はとても嬉しいのだ。
だから「ただいま」を言うために、六華は大切なことをする。とても大事で、けれどもちょっぴり寂しくて、師匠がするとすごく寂しい。
だけど「ただいま」を言うために、六華は思いっきり息を吸い込む。
がらんとした誰もいない家に向かって、母へしっかり聞こえるように、ちょっぴり物知りさんになってちょっぴり大人になった六華だけれど、やっぱり舌っ足らずに叫ぶのだ。
「いってきます!」
――行ってらっしゃい。気をつけてね。
素敵な作品をありがとうございました。
出てくる人妖みな魅力溢れています。堪能しました。
ただ、ちょっと詰め込み過ぎに感じました。なんでこんなにと思っていたら、作者さんの他の作品と世界観が共有されているというか、実質続編なんですね。
やっと説明の無いオリキャラが出て来たり、いきなりカップルだったりするキャラが多いのかわかりました。脱線も多かったですし。
最初にその説明があれば不思議に思わなかったのですし、前の作品から読めたのですが、その点がちょっと残念でした。