地底から、間欠泉と共に怨霊が湧きあがったあの異変が収束して、しばらく経った頃の話である。
その異変以降、地底世界も幻想郷の一部として認知されるようになり、双方の行き来も容易になった。
初めのうちは、それによる何らかの弊害を危惧する声もあるにはあったが、昔と比べれば人も妖怪も呑気なもので、火事と弾幕は幻想郷の華だとばかりに、多少のいざこざも酒の肴として受け入れられるまで、そう時間はかからなかった。
この変化に最も色めき立ったのは、幻想郷のパワーバランスの一角を担う、各勢力の長たちだった。
地底の旧地獄跡最有力者たる古明地さとりと交流し、それを通じてどうにか周囲に自身の力と威厳を誇示しようと、各々が各々なりに画策し合っていた。
紅魔館の幼き当主、レミリア・スカーレットも、そんな幻想郷を上げてのお祭り騒ぎの中で思案を巡らせる一人であった。
「おっ、ねっ、えっ、ちゃーんっ!」
草木も騒ぐお昼過ぎ。ワザとらしいほどに可愛く声を弾ませ、こいしは姉であるさとりの部屋へ飛び込んだ。
しかし、部屋には誰もおらず、その呼びかけに答える声は無い。それもそのはず。こいしは、さとりがエントランスの階段を降り、正門をくぐり、外出していく姿を見届けてから、この部屋へ乱入してきたのだ。
誰も居ないことは、分かり切ったことである。
「全くお姉ちゃんたら。鍵もかけずにお出かけなんて、不用心にもほどがあるよ。
いくら身内でも、お姉ちゃんの留守を見計らって部屋へ忍び込み箪笥や引き出しを勝手に漁るような、悪い奴が居ないとも限らないんだからね」
そう独り言を言いながら、こいしは留守を見計らって忍び込んださとりの部屋で、箪笥や引き出しの中を勝手に漁り始める。
ちなみにこの行為は、姉が良からぬことに手を染めてはいないだろうかとか、何か人には話せない深刻な悩みを抱えてはいないだろうかとか――そんな心配を抱かせるような素振りをさとりは一片たりとも見せてはいないが――とにかくこれは姉の身を案ずればこその無意識的行為であり、今こいしの言った『悪い奴』の行うそれには該当しない。
箪笥の中から、さとりの下着を乱雑に引っ張り出し、中でも特に際どいものを「まあっ! こんな破廉恥なパンツを履いてるなんて、けしからんっ!」と叫びながら自身のポケットへ突っ込み、さとりの飲みかけと思われるグラスの淵に、万遍なく自分の涎を擦り付けるなどしながら、次なる標的へと歩みを進める。
さとりの仕事用デスクの引き出しである。
小難しい文面の書類の下から、姉の恥ずかしポエムやら黒歴史ノートやらが出てくることに、大きな期待を抱きつつ、引き出しの鍵をぶち壊しながら勢いよく開ける。
再度言うが、この一連の行為は、姉の身を心から案ずればこそであり、やましい部分など一切無い。
案の定、こいしは期待通りに『何か』を見つけた。
しかし、それはポエムでもノートでもない。目が痛いほど真っ赤な色をした封筒であった。
「何これ。兵隊さんからのお手紙かしら。軟弱なお姉ちゃんに兵役なんて向かないと思うけどなあ」
裏を見ると、ミミズののたくったような文字で、差出人らしき名前が書かれている。
「……こお、ま……かん? Remilia Scarlet?」
知っている名前だ。地上をふらふらと放蕩していた時に湖で見かけた、この封筒同様真っ赤で悪趣味な洋館が、確かそんな名前だった気がする。どうやら、あそこの主は、洋モノ妖怪たらしく日本語が不得手であるようだ。
封筒の中から一枚の便箋を取り出すと、こちらもやはり死に体のミミズが乱舞していた。
「えーっと。Dear Satori Komeiji.
ちわ……ちれい、でん、の……と、うしゅさ……ま、におか、れ……まし、てわ……」
こいしは、デスクの回転椅子にどかっと腰を下ろし、目を細め眉間に皺を寄せながら、紙上に並べられた狂気のミミズたちの解読を、一文字ずつ丹念に進めていった。
所変わって紅魔館。時も少々巻き戻る。
館の一室では、レミリアが机上の紙を睨みながら、傍らに立つ咲夜と相談していた。
「『人妖交えてのギャンブル大会!』なんて、どうかしら。種目は、カードでじゃんけんするとか、ガラスの牌でする麻雀とか、単純かつ趣向を凝らしたものが良いわね」
「結構ですが、心の読める相手に返り討ちに遭っても、泣いたり八つ当たりしたりしないでくださいませね」
古明地さとりを紅魔館へ主賓で招き、交流を図るための相談だった。
しかし、古明地さとりはその名の通り、悟りの妖怪。他者の不可侵たるべき心の内を見透かし掌握する妖怪である。
まともな賓客ではないために、議論は難航し、レミリアの睨むその紙には大量の案とその上に刻まれたバツ印が並んでいる。
「じゃあ、人気の芸人でも呼んで、豪華なイリュージョンショーをやらせよう! きっと『こんな素晴らしいショーを催すことのできるレミリア様は類まれな人望をお持ちなのね』って羨望の目を向けられることは間違いないわ」
「で、真っ先に横からネタばらしされて、後はもう面白くも何ともない茶番を延々と鑑賞なさるおつもりですか?」
「もう、何なのよ! さっきから私の会心の妙案にケチばっかりつけてさ!」
「ですから、先ほどから申し上げているように、無難に夜の昼食会でも開かれては……」
「無難じゃ駄目なの! 相手を圧倒し尽くして、私に絶対的忠誠を誓わせられるような、そんな案を出せって言ってんの!」
いつものように、咲夜はレミリアから無茶な注文を付けられてしまった。
しかし、咲夜はその無茶を無茶と思わない。悪魔と契りを交わした従者として、冷静かつ生真面目に主の心を満たそうと、思考を働かせる。
そして、瀟洒な頭脳は、すぐに一つの解を導き出した。
「でしたら、このような催し物はいかがでしょう」
咲夜はレミリアに、自分の案を説明する。曰く、「これならば、豪華にすればするほど、こちらの力を見せつけることができますし、相手が人の心を読む妖怪だろうと何の問題も無いのではありませんか?」と。
それをレミリアは幾分不満そうに頬杖をついて聞いている。しかし、自分が望んでいたほどの奇抜さは無いが、無難というほど無難でもない。少なくともこれを実行できる者は、殆どが東洋の妖怪であるこの幻想郷において、自分をおいて他に居ないだろう。咲夜の言い分にも一理ある。
なるほど、ここが落としどころかと、レミリアは納得し、咲夜へGOサインを出した。
「お聞き届けいただき、ありがとうございます。では、早速招待状の用意をして参りますので……」
「待った! 招待状くらい自分で書くわよ。こういうのは初めが肝心だからね。
ふふん。生意気そうな地霊殿主への牽制がてら、教養溢れる文面をビシッと決めてやるわ」
主のそんな言葉を受け、咲夜は自分の立てた計画に、ビシッと亀裂が入るのを感じた。
「『ダンスパーティへ御招待』ですって!? しかも日付は今夜。運命を感じずにはいられないわ!」
こいしがそう声を上げたのは、手紙を読み始めてから小一時間ほど経過した後だった。
手紙には、地霊殿の主と交歓する場として、紅魔館にて舞踏会を開きたいという旨が書いてあった。
それを理解した瞬間、こいしの眼前に景色が広がる。
御伽噺として聞いた夢のような、あの情景。絵本の挿絵で見た煌びやかな、あの光景。
目が眩むほどに目映く飾られた極彩色のホールの中で、歴史と伝統によって紡がれた気品の溢れる衣装や装飾でその身を彩り、己の知性と礼節を体現せしめる佇まいをした大勢の紳士淑女が手を取り合い、その輝きが心を焦がす栄耀栄華の富の上で、心身を芯から震わせる異国のノスタルジアに乗せた壮大にして荘厳な楽器隊の奏でる音楽に深層のエゴを重ね委ねながら、世界を回すかのように酩酊した足取りがクルリクルリと大輪を描く傍らで、地上の道化を天上の星々のテラスより見下ろし、至上の夜に豪華な宴を刻みつつ、夢枕に総立ちするご先祖様は嫌われ者のフィロソフィが故にDNAの瑕を隠し、ポリグラフより暴かれる無意識の遺伝子が放つ恋の埋火は胎児の夢と知るがいい。
歌う夜に目を見張り、足元のペン立てを蹴り飛ばし、空中高く舞い上がり視界を白く染め上げる書類の中で、ひとり狂宴のパレードに興じる。
外出先から帰り、自室に戻ったさとりが見たのは、デスクの上で踊る正にそんなこいしの姿だった。
どうしてこうなったのか、こいしが握りしめる赤い封筒を見れば、大方の推測は立つ。
一応、念のために本人から話を聞こう。こいしの心だけは、さとりにも読むことはできないのだから。
「ただいま、こいし。貴方は何をしているのかしら?」
「あ。お帰りなさい、お姉ちゃん」
どんなに遠くへ行ってしまっても、さとりの声さえ聞こえれば、こいしは此処へ戻ってこられる。
「私はね、今、お姉ちゃんの卑劣な秘密を暴いてしまったところなの」
「要するに、『連れてけ』ということなのね?」
やはり聞くまでもなかったようだ。こいしは「流石はお姉ちゃん!」と感嘆の声を上げる。
さとりはそれに「何年貴方のお姉ちゃんをやっていると思ってるの?」と返し、続けて告げた。
きっぱりと、「駄目」であると。
告げて、こいしの表情をそのまま観察する。
これは、……これはどういう表情なのかしら? 怒っているの? 悲しんでるの?
まあ、何にせよ、次の展開も簡単に予想がつく。きっと、地団駄を踏み、大声で駄々をこね、泣くのだろう。
「い……嫌だ! 意地悪! ずるい! お姉ちゃんの嫌われ者! 卑怯者! 色情魔! 厨二病!
連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ大好き連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ殺してやる連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ」
果たして、さとりの予想は真に的中した。
これからは、こいし限定で『未来を的中させる程度の能力』でも、加えて名乗ろうかしら、と、頭を抱える。
とにかく、このままでは拙い。扉を挟んだ背後には、こいしの声を聞き、何事かと駆けつけたペットたちによるギャラリーが出来上がってしまっている。
何も後ろ暗いことはないはずなのに、ギャラリーから雪崩れ込む、動揺、同情、憐れみ、さとりへの不信感、義憤、不安、その他諸々の雑多な心が、さとりの思考を厳しく急かす。
大きく息を吸い込み、「分かった!」と叫ぶことで、まずはこいしの絶え間なく文句を紡ぐ口を止め、一つの条件を提示することにした。
「分かりました。そこまで言うのなら、仕方ないわ。
でも、『今回』は駄目よ。だって貴方、ダンスの踊り方も、こういう場での作法も、何も知らないでしょう?
私が舞踏会へ行っている間、一晩かけてじっくり勉強しておきなさい。完璧にできるようなら、次には連れて行ってあげるから」
こいしはその条件に目を輝かせた。嬉しそうに飛び跳ねながら退室していくこいしの背中を眺めて、さとりは溜息をつく。
ああ、確かに私は卑怯者だ。
全くの無知から始めて、一晩で完璧にできるようになるなど、無理に決まっている。こいしの期待する『次』を潰すことなど、いくらでも可能なのだ。
そもそも、『次』があるかどうかも怪しい。紅魔館の主は甚だ気紛れな性格と聞く故、このお誘いも今回きりである可能性が高い。
更に、この条件は、こいしの懇願が単なる我儘であり、真面目に勉強などするわけもなく、すぐに他の対象へ興味が移るだろうと高を括って出た軽口だった。
実に卑怯で姑息な言葉だった。例え、こいしが本当に真面目に勉強し、努力の末に一晩で完璧な所作を身につけ、紅魔館の主が想像を上回る気紛れさで『次』の開催を決定したとしても、さとりに約束を守るつもりなど微塵も無い。
罪悪感に襲われ、自己嫌悪に苛まれ、それをかき消すように、小さく愚痴を漏らした。
「全く。無意識とはいえ、こいしの我儘も困りものだわ……」
さて、しばらく時間が経ち、時計の針は夜を指した。
さとりは予定通り地上へ。こいしは本による勉強を切り上げ、自室へ火焔猫燐と霊烏路空を呼びつけた。
「お燐。お空。昔の偉い人は言いました。『学びて時にこれを習う』と。
私は充分に本から知識を学びました。ほんとはもうちょっと残ってるけど、でも、もうじきそれも終わりそう。
てなわけで、ここからは習練の時間よ。
お燐は、私の練習相手を作ること。
お空は、お姉ちゃんの書斎から蓄音機と適当な円盤をかっぱらってきなさい。
任務完了後、ブツを持ってホールへ集合よ!」
「アイアイサー!」と二人は威勢良く返事をし、与えられた指令を遂行するため、こいしの部屋を飛び出した。
ところで、お空への指令は単純明快だが、お燐についてはどういう意味だろうか。
こいしは、「練習相手になれ」ではなく「練習相手を作れ」と言った。お燐にしても、こいしがとちった際に自分へ癇癪が向けられるのを避けるため、例えそちらのほうが手っ取り早いにしても、練習相手になるのは勘弁願いたいところだった。
では、どのようにして『作る』のか。実は、お燐にとっては造作も無い。しばしば遊びでそうしたことを行っていたのだ。
こいしの部屋を出たお燐は、灼熱地獄燃料保管所へ赴いた。
灼熱地獄の燃料とはもちろん人間の死体のことであり、その死体はロープを張らせた粗末な囲いのこの中に、山積みにして置かれている。老若男女、より取り見取りだ。
そこに積まれた死体の山をかき分けて、お燐はこいしに相応しい殿方を選別していく。
まずは身長。こいし様は初心者だから、あまり『紳士』のイメージにこだわっても、背丈の大きく違う相手ではやりづらいはずだ。こいし様と同じくらいの背丈の人間というと、……うん、この辺だろう。生前の身分も、できれば高いものを選んで差し上げたいが、死んでしまえばどれも同じだ。考慮に入れない。あとは状態。こいつなら、顔の損壊や臓物の欠損は激しいが、手足の腐敗はそれほど進んでおらず、まだ比較的しっかりしている。
「良し! 決まりだね」
お燐の作業は滞りなく進んだ。
仕上げに、その辺で漂っている怨霊を一匹掴み取り、見繕った死体へ無理やりねじ込めば、こいしに言いなりの木偶人形の完成だ。仙人がしっかりと術式を組み作り上げたキョンシーなどと比べると、お世辞にも良い出来栄えとは言えないが、一晩ダンスの練習相手をさせるくらいなら充分と思われる。身なりもそれらしく整えてやりたいが、残念ながらお燐はそのような衣装を持たない。全裸で良いか、特に支障もあるまい。
お燐は作ったばかりのゾンビを従え、地霊殿のホールへ、意気揚々と引き揚げていった。
お燐がホールに着くと、既にお空もそこにいた。蓄音機と円盤の調達を終え、セッティングまで完了している。そういえば、と、お燐は少し不安を覚え、お空の持ってきた円盤のタイトルに目をやると、『くるみ割り人形/花のワルツ』と書かれていた。
意外と悪くない選曲だ。しかし、お空がそれと知って選んできたとは考えにくい。訊ねると、書斎の机の上に置かれていたものをそのまま持ってきただけだと言う。おそらく、さとりが使った後、出しっ放しにされていたのではないか、と。
確かに、ここ数日、さとりの書斎の前を通ると、毎晩必ず音楽が鳴っているのが聞こえていた。出不精のさとりが、この日の舞踏会を、それほど楽しみにしていたということだ。
だったら尚のこと、こいし様も連れていって差し上げれば良かったのに……。
「あら、『くるみ割り人形』? 私の嫌いな曲だわ」
そこへ勉強を終えたらしいこいしが現れた。扉からではない。いつの間にかそこに居た。
そして、「嫌いな曲」と言うが、こいしはこの曲を聴いたことが無く、したがって好きも嫌いも無い。自分の知らないモノへはとりあえず「嫌い」と言っておく。こいしの悪癖のようなもので、他意は無い。
ともかく、準備は整った。こいしはお燐の用意した顔の抉れた殿方を連れて、ホールの中央へ。お燐は、隅のテーブルに置かれた蓄音機の横で待機している。
こいしと殿方は向かい合い、手を取り合った。
「ところで、お燐。なんで全裸? やらしくない?」
「死体が全裸でやらしいわけが無いでしょう。ネクロフィリアも大概にしてください」というツッコミを抑え込み、お燐は黙って針を落とした。
さとりは、何人目かの男性と踊った後、ホールの隅に用意された休憩用の椅子へ腰を下ろした。
パーティはまず、形式的なフォークダンスで始まり、さとりは用意された主賓特別席からその様子を眺める。皆が場の空気に慣れた頃、レミリア嬢による主賓である古明地さとりの紹介が行われ、促されたさとりが幾らかの挨拶とレミリア嬢への謝辞を述べた後、プログラムは自由に相手を選び踊る社交ダンスへと移行した。
時間はあっという間に流れていた。そろそろお開きの時刻も近い。少し休んでから、最後の相手を探しに行こうと考える。
それにしても、こんなに夢中になって他人と触れ合ったのは、初めてかもしれない。他人の心を読むことが、こんなにも楽しく感じたのは、初めてかもしれない。
くどいほど豪奢に飾り付けられたホール。戸惑いながら少々野暮ったい仕草で踊る人妖たち。音楽は楽器隊ではなく、蓄音機を幾台も並べて鳴らしている。メイド妖精にやらせようと楽器を一通り揃えはしたが、主の埃をかぶったコレクションが増えるだけの結果となったらしい。ワインだけは文句のつけようもなく最高級だが、それ故、逆に浮いた存在となってしまっている。
全てが楽しく、愉快で、夢のようで、この中でこいしと踊れたら、どんなに素敵なことだろうか。
こいしも、連れて来たかった……。
しかし、こいしを連れて来なかった理由、『ある不安』も同時に頭をよぎる。
と、そこへレミリアがやってきて、さとりへ話しかけてきた。
「やあ。今日は楽しんでくれたようで、何よりだよ。(ふん。ガキっぽいドレスだな。私の勝ちだ)」
さとりは、淡い桃色の、ワンピース型のドレス。非常に可愛らしいが、確かに少し子供っぽいデザインだった。
一方、レミリアは胸元と肩が大きく開いた、真っ赤なドレス。派手な大人向けのデザインだが、レミリアが着ると子供が背伸びをしているようで、少し滑稽にも見える。
「自身の見た目と調和させることで、ドレスの価値も上がるのですよ、レミリアさん?」
「はっ。噂通りの(嫌な)奴だね」
「貴方も、噂通りの『お嬢様』ですのね」
さとりはレミリアの心の深くまで覗いてみるが、今の言葉に悪意は込められていなかった。むしろ、奇特な感覚を伴うこの会話を楽しんでいるようだ。虚勢を張るのはいつものこと。
「ところで、貴殿には(私と同じように)妹君がおられると聞いていたが、来ていないようだな。(フランめ、せっかく呼んだのに出てこなかったな)」
「その、妹はまだダンスが踊れませんので……」
「ん?(ど素人ということか) なんだ、気にすることは無いのに。(どうせ今日の客も碌に踊れない奴ばかりだ)初心者でも歓迎するよ。(下手糞が多い方が私の踊りもより上手く見えるしな)機会があれば、是非連れて来てくれ。私の妹とも友人になってくれたら、尚嬉しい。(フラン、結局来なかったな……)」
『下手糞』。その言葉にさとりは憤った。
今はまだ素人だけど、練習すればこいしはきっと上手に踊れるわ。私の妹ですもの。貴方なんかの引き立て役にされて堪るもんですか。
「ええ、次までに踊れるようにさせて、きっと連れて参ります。誰よりも美しいダンスをお目にかけましょう」
「本当か!? じゃあ、すぐに第二回を開催しよう。明日にでも!」
「お嬢様。いくらなんでも明日では急すぎます。明後日でどうでしょう?」
「おお、咲夜。お前は常に瀟洒な意見を私に与えてくれるな! その通りだ! 明後日にしよう」
一瞬、我を失った隙に出た言葉にしまったと思えど、後悔先に立たず、もう取り返しはつかなかった。
心を亡失し呆然とするさとりを蚊帳の外にして、『次』の予定は目の前でとんとん拍子に出来上がっていく。
さとりには、もはやこいしを連れてくる意外に選択肢は無い。それは、よりにもよって自分の発言が発端であるため、逃げられる状況ではない。
「……と、言うわけだが、当然来てくれるだろう?(生意気な口を叩いて今更引くなど許さんぞ)」
「ええ、もちろん。発言を撤回するつもりはありませんわ」
ならばもう、見せつけてやるしかないだろう。この『お嬢様』達に、私の自慢の妹を見せつけてやる。
何があろうと、私がこいしを守りぬくのだ。
こいしは踊る。
音楽は初めは穏やかに、主題の繰り返しから入る。こいしはそれに合わせ、本で読んだ通り、基本通りに体を動かす。
足取りは軽やかで、しかし極めて慎重に、リズムを体に溶け込ませる。
流れるように、絹の糸を紡ぐような繊細さで、足を滑らせていく。
曲調が変わった。主題は一時的に身を隠し、麗しい弦楽器たちが空間を包む。頬を撫ぜるしなやかな風に身をやつし、心地よく浮かぶ幻を見ながら、こいしはその音色の波に揺蕩う。
さあ、音楽ももう佳境だ。再び現れた主題は晴れ晴れとした姿で、視界が一斉に花開く。こいしの踊りもそれに呼応し、飛び跳ねる。
ホールの中を、溢れ出る感情で充満させるこいしの踊りは、見る者の意識を吹き飛ばすかのようだ。
お燐も、実に、見事に、見惚れさせられた。こいしが声をかけるまで、思考が掻き消えたように呆けていた。
「……お燐。……お燐ってば!」
「にゃあいっ!? あっ。す、すみません、こいし様」
「私のダンス、どうだった? ……つまらなかったかな?」
そんなこと、あるわけが無い。
初心者ゆえのミスも確かに散見されたが、むしろそれが絶妙なアレンジに思えるほど、脅威的な美しさだった。
しかし、残念ながらお燐には、それを充分に伝えるだけの言葉を持たない。助けを求めお空を見るが……
「……うにゅ~……」
駄目だ。まだこちらへ戻ってきていない。求める相手を間違えた!
「もうっ。もう一度やるから、今度はしっかり見ててよね」
何度見ても言葉の見つからないこいしのダンスを、お燐は飽きることなく眺め続ける。
これ程ならば、きっとさとり様もこいし様の願いを聞き届けてくれるだろうと、お燐は確信する。
しかして、その確信は真実となる。
「こいし。明後日、舞踏会に連れて行きますからね。貴方のドレスを準備しましょうか」
帰宅したさとりはそう告げ、早速採寸に取り掛かった。
採寸の間、興奮してまくしたてるように喋るこいしへにこやかに相槌を打ち、はしゃぎ動き回るこいしに手を焼きながら、頑なに同行を拒んでいたさとりは笑顔を絶えず崩さず、それを隠そうともせずに、実に楽しげに仕度を進める。
準備が進むにつれ、表情に緊張の陰りを見せ始めるこいしへ、「初舞踏会はもっと気楽に挑むものよ。初めて吸う煙草のようにね」と優しく励ますことさえ厭わない。
そして、さとりのそんな心変わりと豹変した態度に理解が追い付かず、嬉しくも戸惑うお燐へ、さとりは一言、問いかけた。
「ところで、あのゾンビって貴方が作ったのよね。
なんで全裸? やらしくない?」
さとりはその夜、夢を見た。
いつのことだったか思い出せない遠い昔。けれど忘却するにはあまりに鮮明な近い過去。
こいしがその眼を閉ざした日の記憶の夢だった。
とても穏やかな優しい妹だった。
瑠璃のように澄んだ心を持った女の子だった。
欺瞞と憎悪を何よりも嫌う、誠実で潔癖な少女だった。
それらが自分に向けられていることを知りながらも尚、慈しむ心を捨てなかった。
その心は、狂気などとは無縁に思えた。
そういう子だと、さとりは信じて疑わなかった。
こいしの心を壊したのは自分のそうした願望であったと、さとりが気付いた時には、既に何もかもが手遅れだった。
「もう他人に嫌われたくないから」と、こいしはそう語って目を閉じたが、その「他人」は紛れもなく自分を指していたのだと、さとりはこの時、ようやく知った。
こいしは愛する姉の信頼に応えようと、沸き立つ黒い感情を無意識の奥深くへ封印し、自分自身さえも欺き続けていた。
しかしそんなことが長く続くはずもなく、ついには、すべてが崩壊した。
歪め続けられたこいしの心はがらんどうな虚ろになり果て、さとりはこれまで仮初の幸福を浅はかに甘受していた自分を責めて呪った。
もう二度と、最愛の妹を傷つけはしない。歪んだ心も、偽りの幸せも、二度とあの子の目に晒させはしまい。
神に祈る権利すら捨てた廃獄の主は、自分の心にそう誓った。
かくして、予定通り『第98回紅魔館舞踏大会』は開幕した。尚、『第98回』と銘打たれてはいるが、これは「なんか歴史とか思わせた方が格好いいから」というレミリアの意見により適当に付けられた実の無い数字であり、この『第98回』という言葉も含めて、この舞踏会のタイトルであると考えるべきだろう。おそらく次回開催時には『第136回』とかになっていると思われる。
故に、正確に呼ぶならば、『第二回・第98回紅魔館舞踏大会』である。
今回、主賓などは存在しない。当然、古明地さとりに前回のような席や壇上挨拶は用意されておらず、不安そうに周囲をきょろきょろと見回すこいしの手を引きながら、さとりは他の参列客と同様、正面扉からホールへ通された。
既に蓄音機は音楽を奏でている。壇上でレミリアが何事かスピーチを行っているが、皆喋るか食べるか踊るかであり、真面目に耳を傾ける者はいない。しかし、レミリアはこれに不満はない。「らしく」あることが重要であり、壇上で自分がマイクを握っているという状況がありさえすれば満足なようだ。
ホールに入ったさとりは、前回相手をしてもらった殿方を見つけると近寄り声をかけ、こいしのことを紹介した。さとりとその男が互いに通例的な前回のお礼を述べ談笑している間、男の連れがこいしに目をつけ話しかける。こいしはそれに、ぎこちないながらも笑顔を返し、そして、さとりと繋いだ手にギュッと力を込めた。
それぞれ相手が決まり、いざ踊ろうとしたところで、こいしが「お姉ちゃんの選んだ男の人が良い」と言い出した。「こんな場で我儘言っちゃ駄目じゃないの」とさとりに窘められたこいしは、何度もさとりの方を振り向きながら相手の男に手を引かれていく。向かい合っても顔を伏せるこいしに男は心配そうに幾つか言葉をかけると「ううん、大丈夫。ごめんなさい」とこいしは顔を上げて答え、そして二人は踊り始めた。
踊り始めると、それは流石なものだった。
練習以上の美しいダンスを見せ、瞬く間に会場内の目を一身に集めた。
初めてのダンスを終えたこいしは、すぐさま大勢の男たちに取り囲まれた。女たちも、それに嫉妬することも忘れて、こいしが踊る様に夢中になっていた。
こいしは数人の殿方と途切れることなく踊り続け、舞踏会が始まってから数十分ほど経った頃、さとりがこいしを連れてくるにあたって恐れていた事態は起こってしまった。
こいしが踊る度、みるみるうちにこいしへ相手を申し出る殿方の数は減っていき、それは止まらい。
あっという間に、こいしはこの広いホールの中、孤立した。
偶に遠くからそんなこいしを見つけ声をかけようとする男がいても、他の男から耳打ちされたと思えばくるりとこいしに背を向け去っていく。
勇気を振り絞りこいしの方から殿方へ声をかけようとしても、やんわりと断られ避けられてしまう。
どうしてだか、まるで理解できない。
あまりのことに、ひたすらに呆然と立ち尽くし、ホールに響く音楽も喧しい雑踏も、こいしの耳に届かない。
原因は、こいしの踊り方、そして妖怪としての能力にあった。
『無意識を操る程度の能力』。
その能力は、さとりの他者の意識を掌握するものに対し、他者の無意識を支配する。感情を歪ませ、翻弄する。
ダンスの相手にしてみれば、心に首輪を付けられ、繋がれた鎖を振り回されるようなものだ。己の意思はまるで及ばず、こいしの独りよがりに締め上げられる。
傍から見える美しさは、相手の殿方に打ち込まれる、脅迫的狂気の代償なのだ。
こいしにそれを意識することはできない。しかし、この孤立は必然だった。
こいしは壁に掛けられた時計を見上げ、ただただ時間が過ぎるのを待つ他無かった。
どうして「私も行きたい」などと言ってしまったのだろう。ただ来るだけならば、いつも通り気配を消して誰にも気づかれることなく忍び込むことだって可能だったはずだ。そうすれば、こんな寂しさを感じることはなかったのに。
遠い昔に捨てたはずの感情が、こいしの心に湧き上がる。誰にも気づかれることなく、気に留められることなく、孤独に独りきりで放蕩していた時には決して感じることはなかった、心に吹き抜ける寒い感情を、こいしははっきりと意識してしまった。
さとりはこうなることを予見していた。
こいしと別れてからずっと、周囲の人妖の思考を読みながら、こいしの様子を気にかけていた。だからわかる。こいしと踊ってくれる相手は、この先何時間経とうと、現れることはないことを。
突如、さとりのダンスの相手をしていた男がうめき声をあげた。表情は痛みでしかめている。
足を踏んでしまっていた。慌てて足を除け、申し訳なさ気に「ごめんなさい……」と謝罪する。男は寛容な笑みをさとりに向け、再びダンスを始めようと手を伸ばす。
ところが、男のその手は空を切った。さとりは再度謝罪の言葉を発して、踵を返し走り去る。
もう、いてもたっても居られないのだ。こいしのことが気がかりで堪らないのだ。
二度と傷つけまいと誓ったのに。私が守ると決意したのに。こいしは今、どんな顔をしているのか。
こいしはその瞳を涙で濡らしていた。少し瞬きするだけで止め処無く流れ落ちてしまいそうな涙を瞼の裏に溜めていた。
時計を見るために顔を上げることもできない。石膏でできた置物の人形のように、全身をこわばらせ、じっと動かず俯いていることしかできない。
故に、声をかけられるまで、自分の前に立つ人物に気付かなかった。
「こいし。……Shall we dance?」
おそるおそる顔を上げると、そこに立っていたのは、自分に手を差し出してくれたのは……
「お……姉……ちゃ……?」
「せっかく来たのに、そんなところで俯いていては勿体ないわよ?
相手がいないなら、私と一緒に踊りましょう?」
さとりとこいしの手が、重なり合った。
奏でられる音楽は、チャイコフスキーの交響曲第六番。
二つの主題が狂おしく調合されるこの曲は、地底の姉妹の悲愴な二つの心を解きほぐし、掻き混ぜる。
怖がることはないのよ、こいし。ここに敵なんて居やしない。心に武器を持たなくていいの。
さあ、力を抜いて、気持ちは軽く、私に体を委ねて頂戴。他人との踊り方を知らないのなら、私が教えてあげるから。
大丈夫。貴方のすべてを受け止めて、ちゃんとリードしてあげる。こんなこと、わけはないわ。だって私は貴方のお姉ちゃんなんですもの。
とても気持ち良いよ、お姉ちゃん。
心も体も溶け合って、お姉ちゃんと私のすべてが一つになっていく。まるで胎内に抱かれているような温もりが、お姉ちゃんから伝わってきて、目の前がキラキラ輝いている。
体の芯がぽぅーっと熱くなって、一生分の幸せが、蒸気みたいに噴き出してくるよ。
御覧なさい、あの高みで見物している『お嬢様』を。
自分への衆目を奪われたことに憤って、でも、自分こそが私たち二人に目を奪われていることにも納得せざるを得なくて、心中穏やかじゃないみたい。この後、どうやって八つ当たりしようか、そんなことを考えているわ。
可笑しいわね。そして、その隣のメイドさんは、可哀そうね。
ああ。ここが世界の中心だったのね。そして、私たちが世界を回しているのね。
皆が私たちの周りを廻っている。私たちの足取りが、目に映るこの世のすべてを廻している。私の胸から聞こえるこの鼓動が、お姉ちゃんの胸から感じるこの鼓動が、万物に息吹と色彩を与えていく。
何もかもから逸脱したような浮遊感、そして多幸感、何でもできそうな全能感が、私の虚ろを満たしていくわ。
私は、怖かったんだわ。
こいしが傷つくことがじゃない。それを見た、私の心が傷つくことが怖かったの。初めから、ずっと、諸悪は私のエゴイズムだった。
幸福も不幸も、どちらも心の糧だというのに、私は私の為に、貴方をそれらから遠ざけた。
もしそれで、貴方が傷つくことがあるのなら、こうして私が手を差し伸べれば良かっただけなのに。ただそれだけ、簡単なことだったのに。それにも気づかず。
ごめんなさい。
私は、怖かったんだわ。
お姉ちゃんを失うことが、お姉ちゃんの心の中に私が居なくなることが怖かった。
お姉ちゃんがどんどん私の手が届かないところへ去ってしまうように思えて。周りの皆が私からお姉ちゃんを奪ってしまうように思えて。諸悪は私のパラノイアだった。
私は、如何したかったんだろう。お姉ちゃんの隣に、片時も離れず私が居て、そして私は、お姉ちゃんと如何なりたかったんだろう。
お姉ちゃんが私を気遣ってくれることに付け込んで、お姉ちゃんを地下へ縛り付けて、甘えて、そんなことを、永遠に続けたいなんて願ってしまった。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ありがとう。
二人は、時間の限り踊り続けた。
幸せそうに涙をこぼしながら、ホールの中央で、人々を魅了しながら、唄う夜を踊り明かした。
「こいし様! 只今、さとり様の外出を確認しました!
荷物はパーティ用のドレス。そして真っ赤な封筒。行先は紅魔館。間違いありません!」
あれから、地霊殿へ紅魔館からダンスパーティの招待状が定期的に届くようになった。さとりはすっかりはまってしまったようで、赤い封筒を受け取る度、悟りの能力を持たないペットたちから見ても内心が透けて見えるくらい口元を緩ませ、毎回律儀に出かけていく。
何にせよ、引きこもり気味だった主が外へ興味を持ってくれたのは喜ばしいことだと、ペットたちはそれを生温かく送り出している。
「でかした、お燐! 報告御苦労!
じゃあ、いつものようにブツを用意しなさい! お空も抜かりなくね!」
「アイアイサー!」
こいしは、初めての舞踏会以来、さとりの外出に無理やり付いて行こうとすることが無くなった。その代り、さとりが不在の時には決まってお燐とお空を呼びつけ、音楽とダンス相手の準備をさせる。
お燐はそれを、何か良くないことでもあったのかと思い問い詰めたが、こいしが笑って頭を撫でてくれたので、自分が心配することはきっと何も無かったのだと安心した。
「こいし様。今日はこんな曲を御用意しました」
「『美しく青きドナウ』? タイトルは聞いたことあるけど、聴くのは初めてだわ。
あれでしょ? 爆発するんでしょ? 楽しみね」
「何の情報を鵜呑みにしちゃったんです!? 爆発なんてしませんよ!」
そういえば、知らないモノへのあの悪癖も、最近はあまり耳にしない。
「全く……始めますから、早く準備してください」
「わ! 待って! ちょっと待って」
お燐は蓄音機の針を落とした。雄大なドナウ川の源流を描写する三拍子が流れ出す。
お燐とお空が眺める先で、こいしは踊る。
亡者を相手に。周りに怨霊を漂わせながら。
この一時だけは、この地の底は、すべてこいしのものになる。
こいしによる、こいしの為だけの舞踏会場。
サブタレイニアン・ダンスホールが作られる。
その異変以降、地底世界も幻想郷の一部として認知されるようになり、双方の行き来も容易になった。
初めのうちは、それによる何らかの弊害を危惧する声もあるにはあったが、昔と比べれば人も妖怪も呑気なもので、火事と弾幕は幻想郷の華だとばかりに、多少のいざこざも酒の肴として受け入れられるまで、そう時間はかからなかった。
この変化に最も色めき立ったのは、幻想郷のパワーバランスの一角を担う、各勢力の長たちだった。
地底の旧地獄跡最有力者たる古明地さとりと交流し、それを通じてどうにか周囲に自身の力と威厳を誇示しようと、各々が各々なりに画策し合っていた。
紅魔館の幼き当主、レミリア・スカーレットも、そんな幻想郷を上げてのお祭り騒ぎの中で思案を巡らせる一人であった。
「おっ、ねっ、えっ、ちゃーんっ!」
草木も騒ぐお昼過ぎ。ワザとらしいほどに可愛く声を弾ませ、こいしは姉であるさとりの部屋へ飛び込んだ。
しかし、部屋には誰もおらず、その呼びかけに答える声は無い。それもそのはず。こいしは、さとりがエントランスの階段を降り、正門をくぐり、外出していく姿を見届けてから、この部屋へ乱入してきたのだ。
誰も居ないことは、分かり切ったことである。
「全くお姉ちゃんたら。鍵もかけずにお出かけなんて、不用心にもほどがあるよ。
いくら身内でも、お姉ちゃんの留守を見計らって部屋へ忍び込み箪笥や引き出しを勝手に漁るような、悪い奴が居ないとも限らないんだからね」
そう独り言を言いながら、こいしは留守を見計らって忍び込んださとりの部屋で、箪笥や引き出しの中を勝手に漁り始める。
ちなみにこの行為は、姉が良からぬことに手を染めてはいないだろうかとか、何か人には話せない深刻な悩みを抱えてはいないだろうかとか――そんな心配を抱かせるような素振りをさとりは一片たりとも見せてはいないが――とにかくこれは姉の身を案ずればこその無意識的行為であり、今こいしの言った『悪い奴』の行うそれには該当しない。
箪笥の中から、さとりの下着を乱雑に引っ張り出し、中でも特に際どいものを「まあっ! こんな破廉恥なパンツを履いてるなんて、けしからんっ!」と叫びながら自身のポケットへ突っ込み、さとりの飲みかけと思われるグラスの淵に、万遍なく自分の涎を擦り付けるなどしながら、次なる標的へと歩みを進める。
さとりの仕事用デスクの引き出しである。
小難しい文面の書類の下から、姉の恥ずかしポエムやら黒歴史ノートやらが出てくることに、大きな期待を抱きつつ、引き出しの鍵をぶち壊しながら勢いよく開ける。
再度言うが、この一連の行為は、姉の身を心から案ずればこそであり、やましい部分など一切無い。
案の定、こいしは期待通りに『何か』を見つけた。
しかし、それはポエムでもノートでもない。目が痛いほど真っ赤な色をした封筒であった。
「何これ。兵隊さんからのお手紙かしら。軟弱なお姉ちゃんに兵役なんて向かないと思うけどなあ」
裏を見ると、ミミズののたくったような文字で、差出人らしき名前が書かれている。
「……こお、ま……かん? Remilia Scarlet?」
知っている名前だ。地上をふらふらと放蕩していた時に湖で見かけた、この封筒同様真っ赤で悪趣味な洋館が、確かそんな名前だった気がする。どうやら、あそこの主は、洋モノ妖怪たらしく日本語が不得手であるようだ。
封筒の中から一枚の便箋を取り出すと、こちらもやはり死に体のミミズが乱舞していた。
「えーっと。Dear Satori Komeiji.
ちわ……ちれい、でん、の……と、うしゅさ……ま、におか、れ……まし、てわ……」
こいしは、デスクの回転椅子にどかっと腰を下ろし、目を細め眉間に皺を寄せながら、紙上に並べられた狂気のミミズたちの解読を、一文字ずつ丹念に進めていった。
所変わって紅魔館。時も少々巻き戻る。
館の一室では、レミリアが机上の紙を睨みながら、傍らに立つ咲夜と相談していた。
「『人妖交えてのギャンブル大会!』なんて、どうかしら。種目は、カードでじゃんけんするとか、ガラスの牌でする麻雀とか、単純かつ趣向を凝らしたものが良いわね」
「結構ですが、心の読める相手に返り討ちに遭っても、泣いたり八つ当たりしたりしないでくださいませね」
古明地さとりを紅魔館へ主賓で招き、交流を図るための相談だった。
しかし、古明地さとりはその名の通り、悟りの妖怪。他者の不可侵たるべき心の内を見透かし掌握する妖怪である。
まともな賓客ではないために、議論は難航し、レミリアの睨むその紙には大量の案とその上に刻まれたバツ印が並んでいる。
「じゃあ、人気の芸人でも呼んで、豪華なイリュージョンショーをやらせよう! きっと『こんな素晴らしいショーを催すことのできるレミリア様は類まれな人望をお持ちなのね』って羨望の目を向けられることは間違いないわ」
「で、真っ先に横からネタばらしされて、後はもう面白くも何ともない茶番を延々と鑑賞なさるおつもりですか?」
「もう、何なのよ! さっきから私の会心の妙案にケチばっかりつけてさ!」
「ですから、先ほどから申し上げているように、無難に夜の昼食会でも開かれては……」
「無難じゃ駄目なの! 相手を圧倒し尽くして、私に絶対的忠誠を誓わせられるような、そんな案を出せって言ってんの!」
いつものように、咲夜はレミリアから無茶な注文を付けられてしまった。
しかし、咲夜はその無茶を無茶と思わない。悪魔と契りを交わした従者として、冷静かつ生真面目に主の心を満たそうと、思考を働かせる。
そして、瀟洒な頭脳は、すぐに一つの解を導き出した。
「でしたら、このような催し物はいかがでしょう」
咲夜はレミリアに、自分の案を説明する。曰く、「これならば、豪華にすればするほど、こちらの力を見せつけることができますし、相手が人の心を読む妖怪だろうと何の問題も無いのではありませんか?」と。
それをレミリアは幾分不満そうに頬杖をついて聞いている。しかし、自分が望んでいたほどの奇抜さは無いが、無難というほど無難でもない。少なくともこれを実行できる者は、殆どが東洋の妖怪であるこの幻想郷において、自分をおいて他に居ないだろう。咲夜の言い分にも一理ある。
なるほど、ここが落としどころかと、レミリアは納得し、咲夜へGOサインを出した。
「お聞き届けいただき、ありがとうございます。では、早速招待状の用意をして参りますので……」
「待った! 招待状くらい自分で書くわよ。こういうのは初めが肝心だからね。
ふふん。生意気そうな地霊殿主への牽制がてら、教養溢れる文面をビシッと決めてやるわ」
主のそんな言葉を受け、咲夜は自分の立てた計画に、ビシッと亀裂が入るのを感じた。
「『ダンスパーティへ御招待』ですって!? しかも日付は今夜。運命を感じずにはいられないわ!」
こいしがそう声を上げたのは、手紙を読み始めてから小一時間ほど経過した後だった。
手紙には、地霊殿の主と交歓する場として、紅魔館にて舞踏会を開きたいという旨が書いてあった。
それを理解した瞬間、こいしの眼前に景色が広がる。
御伽噺として聞いた夢のような、あの情景。絵本の挿絵で見た煌びやかな、あの光景。
目が眩むほどに目映く飾られた極彩色のホールの中で、歴史と伝統によって紡がれた気品の溢れる衣装や装飾でその身を彩り、己の知性と礼節を体現せしめる佇まいをした大勢の紳士淑女が手を取り合い、その輝きが心を焦がす栄耀栄華の富の上で、心身を芯から震わせる異国のノスタルジアに乗せた壮大にして荘厳な楽器隊の奏でる音楽に深層のエゴを重ね委ねながら、世界を回すかのように酩酊した足取りがクルリクルリと大輪を描く傍らで、地上の道化を天上の星々のテラスより見下ろし、至上の夜に豪華な宴を刻みつつ、夢枕に総立ちするご先祖様は嫌われ者のフィロソフィが故にDNAの瑕を隠し、ポリグラフより暴かれる無意識の遺伝子が放つ恋の埋火は胎児の夢と知るがいい。
歌う夜に目を見張り、足元のペン立てを蹴り飛ばし、空中高く舞い上がり視界を白く染め上げる書類の中で、ひとり狂宴のパレードに興じる。
外出先から帰り、自室に戻ったさとりが見たのは、デスクの上で踊る正にそんなこいしの姿だった。
どうしてこうなったのか、こいしが握りしめる赤い封筒を見れば、大方の推測は立つ。
一応、念のために本人から話を聞こう。こいしの心だけは、さとりにも読むことはできないのだから。
「ただいま、こいし。貴方は何をしているのかしら?」
「あ。お帰りなさい、お姉ちゃん」
どんなに遠くへ行ってしまっても、さとりの声さえ聞こえれば、こいしは此処へ戻ってこられる。
「私はね、今、お姉ちゃんの卑劣な秘密を暴いてしまったところなの」
「要するに、『連れてけ』ということなのね?」
やはり聞くまでもなかったようだ。こいしは「流石はお姉ちゃん!」と感嘆の声を上げる。
さとりはそれに「何年貴方のお姉ちゃんをやっていると思ってるの?」と返し、続けて告げた。
きっぱりと、「駄目」であると。
告げて、こいしの表情をそのまま観察する。
これは、……これはどういう表情なのかしら? 怒っているの? 悲しんでるの?
まあ、何にせよ、次の展開も簡単に予想がつく。きっと、地団駄を踏み、大声で駄々をこね、泣くのだろう。
「い……嫌だ! 意地悪! ずるい! お姉ちゃんの嫌われ者! 卑怯者! 色情魔! 厨二病!
連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ大好き連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ殺してやる連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ連れてけ」
果たして、さとりの予想は真に的中した。
これからは、こいし限定で『未来を的中させる程度の能力』でも、加えて名乗ろうかしら、と、頭を抱える。
とにかく、このままでは拙い。扉を挟んだ背後には、こいしの声を聞き、何事かと駆けつけたペットたちによるギャラリーが出来上がってしまっている。
何も後ろ暗いことはないはずなのに、ギャラリーから雪崩れ込む、動揺、同情、憐れみ、さとりへの不信感、義憤、不安、その他諸々の雑多な心が、さとりの思考を厳しく急かす。
大きく息を吸い込み、「分かった!」と叫ぶことで、まずはこいしの絶え間なく文句を紡ぐ口を止め、一つの条件を提示することにした。
「分かりました。そこまで言うのなら、仕方ないわ。
でも、『今回』は駄目よ。だって貴方、ダンスの踊り方も、こういう場での作法も、何も知らないでしょう?
私が舞踏会へ行っている間、一晩かけてじっくり勉強しておきなさい。完璧にできるようなら、次には連れて行ってあげるから」
こいしはその条件に目を輝かせた。嬉しそうに飛び跳ねながら退室していくこいしの背中を眺めて、さとりは溜息をつく。
ああ、確かに私は卑怯者だ。
全くの無知から始めて、一晩で完璧にできるようになるなど、無理に決まっている。こいしの期待する『次』を潰すことなど、いくらでも可能なのだ。
そもそも、『次』があるかどうかも怪しい。紅魔館の主は甚だ気紛れな性格と聞く故、このお誘いも今回きりである可能性が高い。
更に、この条件は、こいしの懇願が単なる我儘であり、真面目に勉強などするわけもなく、すぐに他の対象へ興味が移るだろうと高を括って出た軽口だった。
実に卑怯で姑息な言葉だった。例え、こいしが本当に真面目に勉強し、努力の末に一晩で完璧な所作を身につけ、紅魔館の主が想像を上回る気紛れさで『次』の開催を決定したとしても、さとりに約束を守るつもりなど微塵も無い。
罪悪感に襲われ、自己嫌悪に苛まれ、それをかき消すように、小さく愚痴を漏らした。
「全く。無意識とはいえ、こいしの我儘も困りものだわ……」
さて、しばらく時間が経ち、時計の針は夜を指した。
さとりは予定通り地上へ。こいしは本による勉強を切り上げ、自室へ火焔猫燐と霊烏路空を呼びつけた。
「お燐。お空。昔の偉い人は言いました。『学びて時にこれを習う』と。
私は充分に本から知識を学びました。ほんとはもうちょっと残ってるけど、でも、もうじきそれも終わりそう。
てなわけで、ここからは習練の時間よ。
お燐は、私の練習相手を作ること。
お空は、お姉ちゃんの書斎から蓄音機と適当な円盤をかっぱらってきなさい。
任務完了後、ブツを持ってホールへ集合よ!」
「アイアイサー!」と二人は威勢良く返事をし、与えられた指令を遂行するため、こいしの部屋を飛び出した。
ところで、お空への指令は単純明快だが、お燐についてはどういう意味だろうか。
こいしは、「練習相手になれ」ではなく「練習相手を作れ」と言った。お燐にしても、こいしがとちった際に自分へ癇癪が向けられるのを避けるため、例えそちらのほうが手っ取り早いにしても、練習相手になるのは勘弁願いたいところだった。
では、どのようにして『作る』のか。実は、お燐にとっては造作も無い。しばしば遊びでそうしたことを行っていたのだ。
こいしの部屋を出たお燐は、灼熱地獄燃料保管所へ赴いた。
灼熱地獄の燃料とはもちろん人間の死体のことであり、その死体はロープを張らせた粗末な囲いのこの中に、山積みにして置かれている。老若男女、より取り見取りだ。
そこに積まれた死体の山をかき分けて、お燐はこいしに相応しい殿方を選別していく。
まずは身長。こいし様は初心者だから、あまり『紳士』のイメージにこだわっても、背丈の大きく違う相手ではやりづらいはずだ。こいし様と同じくらいの背丈の人間というと、……うん、この辺だろう。生前の身分も、できれば高いものを選んで差し上げたいが、死んでしまえばどれも同じだ。考慮に入れない。あとは状態。こいつなら、顔の損壊や臓物の欠損は激しいが、手足の腐敗はそれほど進んでおらず、まだ比較的しっかりしている。
「良し! 決まりだね」
お燐の作業は滞りなく進んだ。
仕上げに、その辺で漂っている怨霊を一匹掴み取り、見繕った死体へ無理やりねじ込めば、こいしに言いなりの木偶人形の完成だ。仙人がしっかりと術式を組み作り上げたキョンシーなどと比べると、お世辞にも良い出来栄えとは言えないが、一晩ダンスの練習相手をさせるくらいなら充分と思われる。身なりもそれらしく整えてやりたいが、残念ながらお燐はそのような衣装を持たない。全裸で良いか、特に支障もあるまい。
お燐は作ったばかりのゾンビを従え、地霊殿のホールへ、意気揚々と引き揚げていった。
お燐がホールに着くと、既にお空もそこにいた。蓄音機と円盤の調達を終え、セッティングまで完了している。そういえば、と、お燐は少し不安を覚え、お空の持ってきた円盤のタイトルに目をやると、『くるみ割り人形/花のワルツ』と書かれていた。
意外と悪くない選曲だ。しかし、お空がそれと知って選んできたとは考えにくい。訊ねると、書斎の机の上に置かれていたものをそのまま持ってきただけだと言う。おそらく、さとりが使った後、出しっ放しにされていたのではないか、と。
確かに、ここ数日、さとりの書斎の前を通ると、毎晩必ず音楽が鳴っているのが聞こえていた。出不精のさとりが、この日の舞踏会を、それほど楽しみにしていたということだ。
だったら尚のこと、こいし様も連れていって差し上げれば良かったのに……。
「あら、『くるみ割り人形』? 私の嫌いな曲だわ」
そこへ勉強を終えたらしいこいしが現れた。扉からではない。いつの間にかそこに居た。
そして、「嫌いな曲」と言うが、こいしはこの曲を聴いたことが無く、したがって好きも嫌いも無い。自分の知らないモノへはとりあえず「嫌い」と言っておく。こいしの悪癖のようなもので、他意は無い。
ともかく、準備は整った。こいしはお燐の用意した顔の抉れた殿方を連れて、ホールの中央へ。お燐は、隅のテーブルに置かれた蓄音機の横で待機している。
こいしと殿方は向かい合い、手を取り合った。
「ところで、お燐。なんで全裸? やらしくない?」
「死体が全裸でやらしいわけが無いでしょう。ネクロフィリアも大概にしてください」というツッコミを抑え込み、お燐は黙って針を落とした。
さとりは、何人目かの男性と踊った後、ホールの隅に用意された休憩用の椅子へ腰を下ろした。
パーティはまず、形式的なフォークダンスで始まり、さとりは用意された主賓特別席からその様子を眺める。皆が場の空気に慣れた頃、レミリア嬢による主賓である古明地さとりの紹介が行われ、促されたさとりが幾らかの挨拶とレミリア嬢への謝辞を述べた後、プログラムは自由に相手を選び踊る社交ダンスへと移行した。
時間はあっという間に流れていた。そろそろお開きの時刻も近い。少し休んでから、最後の相手を探しに行こうと考える。
それにしても、こんなに夢中になって他人と触れ合ったのは、初めてかもしれない。他人の心を読むことが、こんなにも楽しく感じたのは、初めてかもしれない。
くどいほど豪奢に飾り付けられたホール。戸惑いながら少々野暮ったい仕草で踊る人妖たち。音楽は楽器隊ではなく、蓄音機を幾台も並べて鳴らしている。メイド妖精にやらせようと楽器を一通り揃えはしたが、主の埃をかぶったコレクションが増えるだけの結果となったらしい。ワインだけは文句のつけようもなく最高級だが、それ故、逆に浮いた存在となってしまっている。
全てが楽しく、愉快で、夢のようで、この中でこいしと踊れたら、どんなに素敵なことだろうか。
こいしも、連れて来たかった……。
しかし、こいしを連れて来なかった理由、『ある不安』も同時に頭をよぎる。
と、そこへレミリアがやってきて、さとりへ話しかけてきた。
「やあ。今日は楽しんでくれたようで、何よりだよ。(ふん。ガキっぽいドレスだな。私の勝ちだ)」
さとりは、淡い桃色の、ワンピース型のドレス。非常に可愛らしいが、確かに少し子供っぽいデザインだった。
一方、レミリアは胸元と肩が大きく開いた、真っ赤なドレス。派手な大人向けのデザインだが、レミリアが着ると子供が背伸びをしているようで、少し滑稽にも見える。
「自身の見た目と調和させることで、ドレスの価値も上がるのですよ、レミリアさん?」
「はっ。噂通りの(嫌な)奴だね」
「貴方も、噂通りの『お嬢様』ですのね」
さとりはレミリアの心の深くまで覗いてみるが、今の言葉に悪意は込められていなかった。むしろ、奇特な感覚を伴うこの会話を楽しんでいるようだ。虚勢を張るのはいつものこと。
「ところで、貴殿には(私と同じように)妹君がおられると聞いていたが、来ていないようだな。(フランめ、せっかく呼んだのに出てこなかったな)」
「その、妹はまだダンスが踊れませんので……」
「ん?(ど素人ということか) なんだ、気にすることは無いのに。(どうせ今日の客も碌に踊れない奴ばかりだ)初心者でも歓迎するよ。(下手糞が多い方が私の踊りもより上手く見えるしな)機会があれば、是非連れて来てくれ。私の妹とも友人になってくれたら、尚嬉しい。(フラン、結局来なかったな……)」
『下手糞』。その言葉にさとりは憤った。
今はまだ素人だけど、練習すればこいしはきっと上手に踊れるわ。私の妹ですもの。貴方なんかの引き立て役にされて堪るもんですか。
「ええ、次までに踊れるようにさせて、きっと連れて参ります。誰よりも美しいダンスをお目にかけましょう」
「本当か!? じゃあ、すぐに第二回を開催しよう。明日にでも!」
「お嬢様。いくらなんでも明日では急すぎます。明後日でどうでしょう?」
「おお、咲夜。お前は常に瀟洒な意見を私に与えてくれるな! その通りだ! 明後日にしよう」
一瞬、我を失った隙に出た言葉にしまったと思えど、後悔先に立たず、もう取り返しはつかなかった。
心を亡失し呆然とするさとりを蚊帳の外にして、『次』の予定は目の前でとんとん拍子に出来上がっていく。
さとりには、もはやこいしを連れてくる意外に選択肢は無い。それは、よりにもよって自分の発言が発端であるため、逃げられる状況ではない。
「……と、言うわけだが、当然来てくれるだろう?(生意気な口を叩いて今更引くなど許さんぞ)」
「ええ、もちろん。発言を撤回するつもりはありませんわ」
ならばもう、見せつけてやるしかないだろう。この『お嬢様』達に、私の自慢の妹を見せつけてやる。
何があろうと、私がこいしを守りぬくのだ。
こいしは踊る。
音楽は初めは穏やかに、主題の繰り返しから入る。こいしはそれに合わせ、本で読んだ通り、基本通りに体を動かす。
足取りは軽やかで、しかし極めて慎重に、リズムを体に溶け込ませる。
流れるように、絹の糸を紡ぐような繊細さで、足を滑らせていく。
曲調が変わった。主題は一時的に身を隠し、麗しい弦楽器たちが空間を包む。頬を撫ぜるしなやかな風に身をやつし、心地よく浮かぶ幻を見ながら、こいしはその音色の波に揺蕩う。
さあ、音楽ももう佳境だ。再び現れた主題は晴れ晴れとした姿で、視界が一斉に花開く。こいしの踊りもそれに呼応し、飛び跳ねる。
ホールの中を、溢れ出る感情で充満させるこいしの踊りは、見る者の意識を吹き飛ばすかのようだ。
お燐も、実に、見事に、見惚れさせられた。こいしが声をかけるまで、思考が掻き消えたように呆けていた。
「……お燐。……お燐ってば!」
「にゃあいっ!? あっ。す、すみません、こいし様」
「私のダンス、どうだった? ……つまらなかったかな?」
そんなこと、あるわけが無い。
初心者ゆえのミスも確かに散見されたが、むしろそれが絶妙なアレンジに思えるほど、脅威的な美しさだった。
しかし、残念ながらお燐には、それを充分に伝えるだけの言葉を持たない。助けを求めお空を見るが……
「……うにゅ~……」
駄目だ。まだこちらへ戻ってきていない。求める相手を間違えた!
「もうっ。もう一度やるから、今度はしっかり見ててよね」
何度見ても言葉の見つからないこいしのダンスを、お燐は飽きることなく眺め続ける。
これ程ならば、きっとさとり様もこいし様の願いを聞き届けてくれるだろうと、お燐は確信する。
しかして、その確信は真実となる。
「こいし。明後日、舞踏会に連れて行きますからね。貴方のドレスを準備しましょうか」
帰宅したさとりはそう告げ、早速採寸に取り掛かった。
採寸の間、興奮してまくしたてるように喋るこいしへにこやかに相槌を打ち、はしゃぎ動き回るこいしに手を焼きながら、頑なに同行を拒んでいたさとりは笑顔を絶えず崩さず、それを隠そうともせずに、実に楽しげに仕度を進める。
準備が進むにつれ、表情に緊張の陰りを見せ始めるこいしへ、「初舞踏会はもっと気楽に挑むものよ。初めて吸う煙草のようにね」と優しく励ますことさえ厭わない。
そして、さとりのそんな心変わりと豹変した態度に理解が追い付かず、嬉しくも戸惑うお燐へ、さとりは一言、問いかけた。
「ところで、あのゾンビって貴方が作ったのよね。
なんで全裸? やらしくない?」
さとりはその夜、夢を見た。
いつのことだったか思い出せない遠い昔。けれど忘却するにはあまりに鮮明な近い過去。
こいしがその眼を閉ざした日の記憶の夢だった。
とても穏やかな優しい妹だった。
瑠璃のように澄んだ心を持った女の子だった。
欺瞞と憎悪を何よりも嫌う、誠実で潔癖な少女だった。
それらが自分に向けられていることを知りながらも尚、慈しむ心を捨てなかった。
その心は、狂気などとは無縁に思えた。
そういう子だと、さとりは信じて疑わなかった。
こいしの心を壊したのは自分のそうした願望であったと、さとりが気付いた時には、既に何もかもが手遅れだった。
「もう他人に嫌われたくないから」と、こいしはそう語って目を閉じたが、その「他人」は紛れもなく自分を指していたのだと、さとりはこの時、ようやく知った。
こいしは愛する姉の信頼に応えようと、沸き立つ黒い感情を無意識の奥深くへ封印し、自分自身さえも欺き続けていた。
しかしそんなことが長く続くはずもなく、ついには、すべてが崩壊した。
歪め続けられたこいしの心はがらんどうな虚ろになり果て、さとりはこれまで仮初の幸福を浅はかに甘受していた自分を責めて呪った。
もう二度と、最愛の妹を傷つけはしない。歪んだ心も、偽りの幸せも、二度とあの子の目に晒させはしまい。
神に祈る権利すら捨てた廃獄の主は、自分の心にそう誓った。
かくして、予定通り『第98回紅魔館舞踏大会』は開幕した。尚、『第98回』と銘打たれてはいるが、これは「なんか歴史とか思わせた方が格好いいから」というレミリアの意見により適当に付けられた実の無い数字であり、この『第98回』という言葉も含めて、この舞踏会のタイトルであると考えるべきだろう。おそらく次回開催時には『第136回』とかになっていると思われる。
故に、正確に呼ぶならば、『第二回・第98回紅魔館舞踏大会』である。
今回、主賓などは存在しない。当然、古明地さとりに前回のような席や壇上挨拶は用意されておらず、不安そうに周囲をきょろきょろと見回すこいしの手を引きながら、さとりは他の参列客と同様、正面扉からホールへ通された。
既に蓄音機は音楽を奏でている。壇上でレミリアが何事かスピーチを行っているが、皆喋るか食べるか踊るかであり、真面目に耳を傾ける者はいない。しかし、レミリアはこれに不満はない。「らしく」あることが重要であり、壇上で自分がマイクを握っているという状況がありさえすれば満足なようだ。
ホールに入ったさとりは、前回相手をしてもらった殿方を見つけると近寄り声をかけ、こいしのことを紹介した。さとりとその男が互いに通例的な前回のお礼を述べ談笑している間、男の連れがこいしに目をつけ話しかける。こいしはそれに、ぎこちないながらも笑顔を返し、そして、さとりと繋いだ手にギュッと力を込めた。
それぞれ相手が決まり、いざ踊ろうとしたところで、こいしが「お姉ちゃんの選んだ男の人が良い」と言い出した。「こんな場で我儘言っちゃ駄目じゃないの」とさとりに窘められたこいしは、何度もさとりの方を振り向きながら相手の男に手を引かれていく。向かい合っても顔を伏せるこいしに男は心配そうに幾つか言葉をかけると「ううん、大丈夫。ごめんなさい」とこいしは顔を上げて答え、そして二人は踊り始めた。
踊り始めると、それは流石なものだった。
練習以上の美しいダンスを見せ、瞬く間に会場内の目を一身に集めた。
初めてのダンスを終えたこいしは、すぐさま大勢の男たちに取り囲まれた。女たちも、それに嫉妬することも忘れて、こいしが踊る様に夢中になっていた。
こいしは数人の殿方と途切れることなく踊り続け、舞踏会が始まってから数十分ほど経った頃、さとりがこいしを連れてくるにあたって恐れていた事態は起こってしまった。
こいしが踊る度、みるみるうちにこいしへ相手を申し出る殿方の数は減っていき、それは止まらい。
あっという間に、こいしはこの広いホールの中、孤立した。
偶に遠くからそんなこいしを見つけ声をかけようとする男がいても、他の男から耳打ちされたと思えばくるりとこいしに背を向け去っていく。
勇気を振り絞りこいしの方から殿方へ声をかけようとしても、やんわりと断られ避けられてしまう。
どうしてだか、まるで理解できない。
あまりのことに、ひたすらに呆然と立ち尽くし、ホールに響く音楽も喧しい雑踏も、こいしの耳に届かない。
原因は、こいしの踊り方、そして妖怪としての能力にあった。
『無意識を操る程度の能力』。
その能力は、さとりの他者の意識を掌握するものに対し、他者の無意識を支配する。感情を歪ませ、翻弄する。
ダンスの相手にしてみれば、心に首輪を付けられ、繋がれた鎖を振り回されるようなものだ。己の意思はまるで及ばず、こいしの独りよがりに締め上げられる。
傍から見える美しさは、相手の殿方に打ち込まれる、脅迫的狂気の代償なのだ。
こいしにそれを意識することはできない。しかし、この孤立は必然だった。
こいしは壁に掛けられた時計を見上げ、ただただ時間が過ぎるのを待つ他無かった。
どうして「私も行きたい」などと言ってしまったのだろう。ただ来るだけならば、いつも通り気配を消して誰にも気づかれることなく忍び込むことだって可能だったはずだ。そうすれば、こんな寂しさを感じることはなかったのに。
遠い昔に捨てたはずの感情が、こいしの心に湧き上がる。誰にも気づかれることなく、気に留められることなく、孤独に独りきりで放蕩していた時には決して感じることはなかった、心に吹き抜ける寒い感情を、こいしははっきりと意識してしまった。
さとりはこうなることを予見していた。
こいしと別れてからずっと、周囲の人妖の思考を読みながら、こいしの様子を気にかけていた。だからわかる。こいしと踊ってくれる相手は、この先何時間経とうと、現れることはないことを。
突如、さとりのダンスの相手をしていた男がうめき声をあげた。表情は痛みでしかめている。
足を踏んでしまっていた。慌てて足を除け、申し訳なさ気に「ごめんなさい……」と謝罪する。男は寛容な笑みをさとりに向け、再びダンスを始めようと手を伸ばす。
ところが、男のその手は空を切った。さとりは再度謝罪の言葉を発して、踵を返し走り去る。
もう、いてもたっても居られないのだ。こいしのことが気がかりで堪らないのだ。
二度と傷つけまいと誓ったのに。私が守ると決意したのに。こいしは今、どんな顔をしているのか。
こいしはその瞳を涙で濡らしていた。少し瞬きするだけで止め処無く流れ落ちてしまいそうな涙を瞼の裏に溜めていた。
時計を見るために顔を上げることもできない。石膏でできた置物の人形のように、全身をこわばらせ、じっと動かず俯いていることしかできない。
故に、声をかけられるまで、自分の前に立つ人物に気付かなかった。
「こいし。……Shall we dance?」
おそるおそる顔を上げると、そこに立っていたのは、自分に手を差し出してくれたのは……
「お……姉……ちゃ……?」
「せっかく来たのに、そんなところで俯いていては勿体ないわよ?
相手がいないなら、私と一緒に踊りましょう?」
さとりとこいしの手が、重なり合った。
奏でられる音楽は、チャイコフスキーの交響曲第六番。
二つの主題が狂おしく調合されるこの曲は、地底の姉妹の悲愴な二つの心を解きほぐし、掻き混ぜる。
怖がることはないのよ、こいし。ここに敵なんて居やしない。心に武器を持たなくていいの。
さあ、力を抜いて、気持ちは軽く、私に体を委ねて頂戴。他人との踊り方を知らないのなら、私が教えてあげるから。
大丈夫。貴方のすべてを受け止めて、ちゃんとリードしてあげる。こんなこと、わけはないわ。だって私は貴方のお姉ちゃんなんですもの。
とても気持ち良いよ、お姉ちゃん。
心も体も溶け合って、お姉ちゃんと私のすべてが一つになっていく。まるで胎内に抱かれているような温もりが、お姉ちゃんから伝わってきて、目の前がキラキラ輝いている。
体の芯がぽぅーっと熱くなって、一生分の幸せが、蒸気みたいに噴き出してくるよ。
御覧なさい、あの高みで見物している『お嬢様』を。
自分への衆目を奪われたことに憤って、でも、自分こそが私たち二人に目を奪われていることにも納得せざるを得なくて、心中穏やかじゃないみたい。この後、どうやって八つ当たりしようか、そんなことを考えているわ。
可笑しいわね。そして、その隣のメイドさんは、可哀そうね。
ああ。ここが世界の中心だったのね。そして、私たちが世界を回しているのね。
皆が私たちの周りを廻っている。私たちの足取りが、目に映るこの世のすべてを廻している。私の胸から聞こえるこの鼓動が、お姉ちゃんの胸から感じるこの鼓動が、万物に息吹と色彩を与えていく。
何もかもから逸脱したような浮遊感、そして多幸感、何でもできそうな全能感が、私の虚ろを満たしていくわ。
私は、怖かったんだわ。
こいしが傷つくことがじゃない。それを見た、私の心が傷つくことが怖かったの。初めから、ずっと、諸悪は私のエゴイズムだった。
幸福も不幸も、どちらも心の糧だというのに、私は私の為に、貴方をそれらから遠ざけた。
もしそれで、貴方が傷つくことがあるのなら、こうして私が手を差し伸べれば良かっただけなのに。ただそれだけ、簡単なことだったのに。それにも気づかず。
ごめんなさい。
私は、怖かったんだわ。
お姉ちゃんを失うことが、お姉ちゃんの心の中に私が居なくなることが怖かった。
お姉ちゃんがどんどん私の手が届かないところへ去ってしまうように思えて。周りの皆が私からお姉ちゃんを奪ってしまうように思えて。諸悪は私のパラノイアだった。
私は、如何したかったんだろう。お姉ちゃんの隣に、片時も離れず私が居て、そして私は、お姉ちゃんと如何なりたかったんだろう。
お姉ちゃんが私を気遣ってくれることに付け込んで、お姉ちゃんを地下へ縛り付けて、甘えて、そんなことを、永遠に続けたいなんて願ってしまった。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ありがとう。
二人は、時間の限り踊り続けた。
幸せそうに涙をこぼしながら、ホールの中央で、人々を魅了しながら、唄う夜を踊り明かした。
「こいし様! 只今、さとり様の外出を確認しました!
荷物はパーティ用のドレス。そして真っ赤な封筒。行先は紅魔館。間違いありません!」
あれから、地霊殿へ紅魔館からダンスパーティの招待状が定期的に届くようになった。さとりはすっかりはまってしまったようで、赤い封筒を受け取る度、悟りの能力を持たないペットたちから見ても内心が透けて見えるくらい口元を緩ませ、毎回律儀に出かけていく。
何にせよ、引きこもり気味だった主が外へ興味を持ってくれたのは喜ばしいことだと、ペットたちはそれを生温かく送り出している。
「でかした、お燐! 報告御苦労!
じゃあ、いつものようにブツを用意しなさい! お空も抜かりなくね!」
「アイアイサー!」
こいしは、初めての舞踏会以来、さとりの外出に無理やり付いて行こうとすることが無くなった。その代り、さとりが不在の時には決まってお燐とお空を呼びつけ、音楽とダンス相手の準備をさせる。
お燐はそれを、何か良くないことでもあったのかと思い問い詰めたが、こいしが笑って頭を撫でてくれたので、自分が心配することはきっと何も無かったのだと安心した。
「こいし様。今日はこんな曲を御用意しました」
「『美しく青きドナウ』? タイトルは聞いたことあるけど、聴くのは初めてだわ。
あれでしょ? 爆発するんでしょ? 楽しみね」
「何の情報を鵜呑みにしちゃったんです!? 爆発なんてしませんよ!」
そういえば、知らないモノへのあの悪癖も、最近はあまり耳にしない。
「全く……始めますから、早く準備してください」
「わ! 待って! ちょっと待って」
お燐は蓄音機の針を落とした。雄大なドナウ川の源流を描写する三拍子が流れ出す。
お燐とお空が眺める先で、こいしは踊る。
亡者を相手に。周りに怨霊を漂わせながら。
この一時だけは、この地の底は、すべてこいしのものになる。
こいしによる、こいしの為だけの舞踏会場。
サブタレイニアン・ダンスホールが作られる。
その後のシーンにはテーマの結実を感じました
こいしちゃんと踊りたいです