ひゅーひゅーと、吹く風にそろそろ冷たさが混じってくるこの季節。
いつもより厚着した巫女が神社の境内を掃除している。
「霊夢。
あなた、何だか、今日はそわそわしているわね?」
「うっわびっくりしたぁ!」
いきなり背後から声をかけられて、彼女――霊夢は飛び上がった。
「紫! 来るなら来るって連絡しなさいよ!」
「あら、これは失敬。
けれど、私は基本的に気まぐれだから」
「計算高さも気まぐれのうちの一つってことね。あーあーはいはい、厄介だこと」
現れた女――紫を適当にあしらって、霊夢はわざわざ紫の目の前で、近くの石灯籠に持っていた竹箒を逆さまにして立てかける。
「あら、これは失礼ね。
ゆかりん、傷つくわ」
「あんたの言動一つ一つがいやらしいのよ」
「で? 何でそわそわしていたのかしら? 秋だから?」
「べっ、別にそんなこと、ないわよ!」
「声が上ずっているような気がするけれど、それは私の気のせいということにしておいてあげる」
彼女は口許を手にした扇子で覆いながらそんなことを言って、現れた空間の亀裂の中に沈んでいった。
「……ったく。何だったのよ、もう」
ふてくされて、霊夢。
彼女は逆さまにしていた竹箒をまた手に取ると、ちょっとだけ、落ち着かない様子で空を見上げる。
今日もお日様はぽかぽか。頭の上から降り注ぐ光に、少しだけ目を細めてから、ぽつりと『……別に、そわそわなんてしてないわよ』と、もう一度同じ言葉を繰り返す。
そして、境内の掃除を再開して――しばらくした後。
「霊夢さ~ん」
「あっ」
遠くから響く声。
振り返る彼女の顔は、先ほど、紫に向けた顔とは全く別の、かわいらしい笑顔だった。
「早苗、いらっしゃい!」
「はい、お邪魔します」
ふぅわりと空から舞い降りてきたのは、最近、彼女と交流の多い早苗である。
早苗は片手に、何やら手土産らしきものを持って神社の境内に舞い降りると、早速、「お掃除、お手伝いしましょうか?」と尋ねた。
「あ、うん。いいよ。もう終わったから」
「そうですか」
「あとで、これ、燃やしておかないとね」
「そうですね」
「じゃあ、ほら。入って。お茶、用意するから」
「はい」
そう、彼女の応対をする霊夢の姿は、どこからどう見ても上ずっていた。というか、いつも以上に地に足がついていなかった。
どことなく微笑ましい――しかし、これ以上ないくらいにからかいがいがありそうな対応を見せる彼女に、早苗は何も言わず、案内されるまま神社の母屋に向かって歩いていったのだった。
――さて。
「……見ましたか、魔理沙さん」
「ああ……見たぜ、文」
神社の境内にこっそりと潜む、幻想郷の生きる迷惑その1とその2。
言うまでもなく、七色爆弾魔法使い霧雨魔理沙と熱風疾風ゴシップの射命丸文である。
「紫が登場したからつい隠れてしまったが……」
「……これは事件の匂いですね」
ふっふっふ、とそろって同じ顔で笑う二人。
いつも通りに神社に遊びに来て、先の魔理沙の言葉どおり、ついうっかり紫が現れたので茂みの中に隠れてしまって。
そして、今。
紫が指摘した通り、何とも上ずった様子の霊夢を目撃して、いつもの『悪い癖』が発動してしまったのだ。
「……どうする?」
「そりゃもちろん、激写ですよ」
にやりと笑う文は、手にしたカメラのレンズを魔理沙に向ける。
くっくっく、と笑う魔理沙は『これは、いいシーンが撮れそうだぜ』と、すでに悪巧みを始めてしまっている。
「よし! 先回りするぞ!」
「あいあいさー!」
こそこそと、神社の境内をぐるりと回り、母屋が覗ける位置にまで移動していく二人。
その怪しい視線が、霊夢たちを捉えたのは、それから少し後のことであった。
「わざわざ悪いわね」
「いいえ」
そんな怪しい目が四つ、自分たちを向いていることなど露知らず、二人は居間でお茶の用意をしていた。
居間から縁側に続く障子は開けられ、秋の気持ちいい風が室内に吹き込んできている。
霊夢曰く、『今、家の中の空気を入れ替えてるの』ということである。
「はい、どうぞ」
「やった。大福、大福」
二人は卓について、早速、お茶を始める。
お茶菓子は、早苗の持って来た大福だ。
「霊夢さん、座椅子買ったんですか?」
「ううん。霖之助さんが、『霊夢、これ、使うならあげるよ』って持って来たのよ。
あの人、椅子に座ってるからね」
「ああ、そうですね。そうなると使わないですよね」
「ちょっとぎしぎしうるさいけど、座り心地はいいでしょ?」
そう言う霊夢はいつも通り、座布団の上に正座をしている。
どうやら、座椅子は一個だけしかないようだ。
「霊夢さんって、座ってる姿がきれいですよね」
「あ、そう? 嬉しいな、ありがとう。
お母さんにびしびししつけられたからね~。女は居住まいを正すもの、って」
ぴしっと背筋の伸びたその姿勢は、早苗の言うように、確かになかなか美しいものであった。
早苗にほめられ、嬉しさを隠さない霊夢は、手にした湯飲みを傾ける。
「……あ~、美味しい。
何で早苗が淹れると、こんなに味が変わるかなぁ」
「お茶の淹れ方にはコツがあるんですよ。緑茶も紅茶も、もちろん、コーヒーとかも。
その辺りを喫茶店のバイトをしてるときに先輩から叩き込まれました」
「へぇ~」
金色に輝くお茶は、一目見るだけで思わず『美味しそう』と言ってしまいそうな雰囲気に満ちている。
霊夢はもちろん、『早苗用』としている、いつもより美味しいお茶を早苗に渡しているのだが、それがこれほどのものになるとは想像していなかったらしい。
「はぁ~……美味しい」
「それは何よりです」
「んじゃ、大福も。頂きま~す」
「霊夢さんって、ほんと、和菓子が好きですよね」
もぐもぐごっくん、と大福をかじる霊夢。
感想はもちろん、「あ、これ、美味しい」だ。
「よかった。
それ、諏訪子さまがあんこから手作りしたんですよ」
「諏訪子が!?」
「ええ。うちで料理が一番上手なの、諏訪子さまですから」
しかし、普段は『めんどくさいから』という理由で包丁を握ろうとはしないのだという。
とはいえ、守矢家では家事は当番制のため、週に何度かはキッチンに立たなくてはいけないということだった(なお、早苗はキッチンに立たせてもらえないらしい)。
「……やるわね、あのちび神」
「諏訪子さま曰く『料理は愛情と技術だよ』と。『あたしゃ早苗が大好きだからねぇ~』なんておどけてました」
「ははは……なるほど……」
何やら対抗意識のようなものに火がついたのか、霊夢は大福もぐもぐしつつ、『……この味なら再現、いけるかも』と内心でつぶやく。
つぶやいた後は、もちろん、ちらりと早苗に視線を送るのを忘れない。
――と、
「霊夢さんって」
「え? な、何?」
「今日は何だか、いつもよりかわいいですね」
「かっ……!? そ、そんなこと、ないわよ! な、何言ってるのよ、早苗、もう!」
いきなりの一言に、顔を真っ赤にして声を上げたりする。
わたわた慌てる霊夢を見て、早苗はくすくすと笑いながら、そっとその左手を伸ばした。
思わず霊夢は身を固くする。彼女の左手が霊夢の髪に触れ、その頬に触れる。
「髪の毛、少し伸ばしてるでしょ。当たり?」
「あ……うん。ちょっとね。
雰囲気変えるとかそういうつもりはなくて、単に面倒だからなんだけど……。あ、ほら、うち、お母さんが髪の毛長かったから、少しまねてみようかなとか、そういうのもあったんだけど……」
「だからだ」
『さすがわたし、よく気づいた』と言わんばかりに早苗はにっこり笑うと、『いっそのこと、ロングにしてみたらどうですか?』と霊夢にアドバイス。
霊夢は、内心の動揺と嬉しさを悟られないように、「そ、そうね。考えとく」と早苗に笑顔を返した。
「……こ、これはまさか、伝説の『ガールズトーク』……!」
「な、何――――――っ! 知っているのか、射命丸――――――っ!」
「ええ……間違いありません……!
女の子同士の……仲のいい女の子同士の他愛もない会話に見えて、その実、内側に相手への愛情とか恋慕とかもう色んなものがどっさり詰まった『きゃっきゃうふふ』の形態の一つっ!
それが、ガールズトークですっ!」
などというわけのわからないやり取りを小さな大声で語る二人。
文に言われた通りに、魔理沙はもう一度、霊夢と早苗を見る。
確かに、二人の間の会話は何気ない日常会話が大半だ。しかし、それをよく見れば、霊夢が何かもじもじしていたり、早苗がそれを年上の余裕で受け止めていたりと、何とも言えない甘酸っぱさが漂っていたりする。
「……なるほどな……! あの状況でそれを見て取るとは……やるな、射命丸……!」
「ふふふ……! 伊達に、幻想郷で青い鳥を追いかけ続けて300年ではありませんよ!」
「お前、300年間もんなことやってきたのか」
「ファインダーに収めるならきれいでかわいいものがいいじゃないですか」
「なるほど」
などと、ポリシーあるんだかないんだかわからない文の理屈に、あっさり納得する魔理沙であった。
「ねぇ、早苗」
「何ですか?」
「早苗は今日、朝、早かった?」
「そうですね。うちは基本、朝は5時起きですけど……」
「やった。私のほうが早い」
「そんなに朝早くに起きて、何をしてたんですか?」
「今度、近くの人里でやる収穫祭の用意」
頼まれたのよ、と霊夢。
それに当たって、使用する道具を蔵の中から出してきたり、どんな祈祷がふさわしいか、書物を読んだりなどなど色々、と。
彼女は答えて、早苗が『なるほど』とうなずいた。
「だからさ、ちょっと眠い」
「ありゃりゃ」
慣れない早起きはするもんじゃないわね、と霊夢は言うと、辺りをきょろきょろ見回して、よし、とうなずいた。
「ねぇ、早苗」
「はい?」
「ちょっといい?」
そう言うと、霊夢は座布団を手に持って早苗の隣へ。
そして、顔を赤く染めながら、『よいしょ』と早苗の膝の上に頭を預けた。
「ちょうどいい枕があった」
「はいはい。
そのままだと風邪を引きますから、ちょっとタオルケット持ってきますね」
「はーい」
立ち上がり、早苗はしばし、部屋を辞する。
戻ってきた彼女は、手にしたタオルケットを霊夢にかけてから、その頭を自分の膝の上に戻した。
「あー……柔らかくて気持ちいい。
早苗枕って売り出したら売れそう」
「ダメです。わたしは一人しかいないんですよ」
「あはは。そうだね」
「それに、わたしの膝枕は霊夢さん専用ですよ?」
これぞ年上の余裕、という笑みを浮かべる早苗に、霊夢は顔を真っ赤にしてそっぽを向いてしまった。
そして、目を閉じて、わざとらしくいびきをかいたりする。
早苗は小さく笑いながら、『狸寝入りは通じませんよ』と、そのおでこをつんとつつく。
そうして――しばし。
「寝ちゃった」
すやすやと、霊夢が小さな寝息を立てている。
早苗はそんな彼女の寝顔を愛おしいものを見つめる、優しい瞳で見つめながら、そっと、彼女の髪を指先ですいてみる。
「さらさら。きれいね。羨ましい」
しばらくそうやって、霊夢をいじって遊んでいた早苗は、ふぅ、と息をついた。
――外から飛び込んでくる太陽の日差しがまぶしい。
優しい風が、ふんわりと二人の体をなでて、部屋の中をぐるりと回って通り抜けていく。
静かな鳥の声。
小さく長く、遠く高く響くその声を耳で聞きながら、早苗は瞳を閉じて、ゆったりと、座椅子の背もたれに背中を預けた。
「ひ、膝枕ですとぉぉぉぉぉぉっ!? こ、これはもっと近くで撮影しなければっ!」
「待て、文! 落ち着け! あれを見ろっ!」
「何ですか魔理沙さん! 私のジャーナリズム魂が叫んでいるんです! 二人を撮影しろと! 百合百合モードの二人をファインダーに収めろとっ!」
「だから、あれを見ろっ! あれは霊夢の結界だ! 近づけば、弾幕でぼこぼこにされるぞっ!」
今にも茂みから飛び出していかんばかりの文が、魔理沙の言葉にはっとなって視線を母屋の方に戻した。
幸せモードの早苗と霊夢。
しかし、その周囲をよく見れば、小さな札がいくつも見えた。また、さらによく見れば、霊夢が愛用している陰陽玉が転がっているのも見える。
「……何という……!」
「……霊夢は敵が多いだろ? 寝てる時なんて無防備そのものだからな」
「くっ……! 物騒なっ!
霊夢さんに危害を加える輩は、この私が許しませんっ!」
今にも、その『許されない輩』にカテゴリされそうなことやってる文はわけのわからないことを叫んでから、とりあえず、ふぅ、と息をついた。
「……助かりました。
あまりにも素晴らしい光景に、つい、我を忘れてしまいました」
「頼むぜ」
仕方ないですね、と文は遠目に二人にカメラを向けると、ぱしゃっ、とシャッターを切った。
文は「望遠レンズがあればっ……!」と、血の涙を流しながら心底悔しがった後、
「けど、膝枕っていいですよねぇ」
無防備な寝顔をさらして、すやすやお休み中の霊夢を見ながら、彼女はつぶやいた。
「ん~……。まぁ、そうだな」
霊夢の悪友もそれには同意する。
というか、あの霊夢が、あそこまで無防備に寝ている姿というのを、魔理沙も久しく見ていなかったのだ。
つまり、それだけ、彼女は今、安心しきっているということになるだろう。
こう言っては何だが、外に敵の多い霊夢の場合、本当に心から安心してゆっくり眠れる時などほとんどなかったのではないだろうか。そんな風にも思ってしまう。
「はたてさんにお願いしてみよっかな~」
「言ったらやってくれんのかよ」
「間違いないですね。これはいけます」
「お前らもいい悪友同士だな」
「そうですね。それはもう。
というか、魔理沙さんだって、アリスさんに頼めばいいじゃないですか」
「ばっ……! んなこと出来るかよ!」
「おやぁ~? 顔が赤いですよ~? もしかして恥ずかしいんですか?」
「マスター……!」
「それをやったら追い出されますよ」
「くっ……!」
恥ずかしさ紛れに致命的な攻撃を仕掛けてくるのは、この魔理沙も霊夢も変わらない。
そんな彼女達のあしらい方は、下手に正論などを口にしたりするよりは、自分が置かれている現状を再認識させてやることだと、文は知っていた。
「ん……」
もぞもぞと体を動かして、目元をこすりながら、霊夢は目を開ける。
ぼんやりと、まだぼやける視界に映る時計の針は、午後の4時ごろを示していた。
ずいぶん寝てたなぁ、と思いながら視線を上に向ければ、座ったまま眠っている早苗の寝顔。
「……」
しばらく沈黙した後、彼女は身を動かして、顔を障子の向こうに向ける。
未だ、穏やかな秋の気配の漂う庭が見える。
そこをじっと見つめていた彼女は、そのまま体を反対側に向けて、
「……よっと」
そのまま、ぱふ、と早苗に抱きついた。
普段なら出来ないことも、相手が寝てて気づかないなら大丈夫――よくある恥ずかしがりの思考をそのままトレースしながら、霊夢はちょっぴり嬉しそうに笑ったりする。
「……いい匂い」
ふんわりほのかに早苗から香るその匂いに、霊夢は何となくではあるが、子供の頃を思い出したりもする。
ああ、そういえば、お母さんってこんな感じだったなぁ、と。
そんな風に、少しだけ甘えんぼの自分を堪能していると、ぽんぽん、と肩を叩かれた。
「霊夢さんは、意外と寂しがりやなんですか?」
――どうやら、霊夢が目を覚ましたことに気づいたのか、早苗も目を覚ましていたらしい。
笑顔でそんなことを言われて、霊夢は顔を真っ赤にしながら、慌ててその場に飛び起きる。
「あ、あー、よく寝た」
体を大きく伸ばして、決して、早苗の方を振り返らずにそんなことを大声で言ってから、「ちょっと、おトイレ!」と慌しく部屋を後にしてしまう。
早苗はそんな彼女の後ろ姿を『やれやれ』と見送ってから、音を立てずに立ち上がり、空っぽの湯飲みを持ってキッチンへと下がっていく。
そして、霊夢が戻ってくるのとほぼ同時に、淹れ直した新しいお茶を卓の上へと並べた。
「あ、ありがと」
「いいえ」
「え、えーっと……あ、そうだ。ちょっと、家の中の掃除もしたいんだけど、早苗、手伝ってもらっていい?」
「いいですよ。どこからやりましょうか」
「……えーっとね。えーっと……」
まだ少しだけ、霊夢の顔は赤い。
照れ隠しのために適当に振った話題に、当然、後に続く言葉などない。
お茶を飲みながら考え込んでしまう彼女に追求しないのは早苗の優しさか。それとも余裕か。
かちこち時計は音を立て、時を刻んでいく。
あ、そうそう、と霊夢が声を上げたのは、それから5分ほど後だった。
「あっちの部屋! あっち」
「はいはい。
じゃあ、雑巾とか用意していきますので」
「わかった」
とたとた、ばたばた。
対照的な足音を立てる二人の家事がスタートする。
「まずいですね」
「どうした、文」
茂みに潜み、霊夢の撮影を続ける文は、唐突に、しかし、深刻な口調でつぶやいた。
「……まさか、ここまでシャッターチャンスに恵まれるとは。
やばいことに、フィルムがもうありません」
「マジかよ。
あとどれくらいだ」
「10枚……あるかないか」
「おいおい、それじゃ、シャッターチャンスを逃すじゃないか」
「家に戻って取ってくれば……」
「よし。
なら、その間、私があいつの写真を撮っていてやろう」
任せておけ、と魔理沙。
文は『それじゃ、お願いします』とあっさり、彼女にカメラを渡してしまった。
そして、その使い方を懇切丁寧に解説した後、付け加える。
「あ、もしも、それを持って持ち逃げしたら幻想郷の地の果てまでも追い詰めて、魔理沙さんのスキャンダル写真ばらまきまくってやりますから。
あと、それ、高いので。壊したりしたら家を抵当にもらいますのでよろしく」
普段のおちゃらけた雰囲気そのままに、しかし目だけは全く笑ってないマジな顔をして、文は魔理沙に釘を刺すと、霊夢たちの一瞬の隙を見て茂みから飛び出し、空の向こうに去っていく。
――その時のことを、霧雨魔理沙は後ほど、こう述懐した。
『心臓を握りつぶされそうな笑顔って、あーいうのをいうんだな』
――と。
「ふぅ、終わった」
「終わりましたねー」
「疲れたね」
「そうですね」
霊夢が指定した部屋は、『ずいぶんほったらかしになってたのよねー』と彼女が言うように、一人で掃除をするにはちょっと大変なくらいに手の入っていない部屋だった。
二人で片付け・掃除にふけること30分。
見違えるくらいにきれいになった部屋の中で、満足そうな顔を浮かべて、二人は自然、『お風呂に入ろう』という話題を始めている。
「霊夢さん、温泉行きましょう、温泉。
今の時期は涼しくなってきたから、露天風呂が気持ちいいですよ」
「いいわね、それ。
よし、温泉行こう」
「はい。
じゃあ、わたし、タオルを用意してきますから」
「んじゃ、私、石鹸とシャンプー持ってくる。
あ、そうだ。この前、早苗にもらったシャンプーあったでしょ。あれ、いいね。髪の毛がつやつやになったわ」
「でしょう? 幻想郷は自然素材から作る石鹸とか多いですけど、美容系のシャンプーってないんですよねぇ」
「どこから手に入れてきたの?」
「紫さんに頼みました」
などなど。
そんな『女の子』な会話を交わしながら、二人は部屋を後にする。
「温泉……ですと……!?」
「どうした? 文」
「……魔理沙さん。これは、私たちも行くしかないでしょう」
「まあ、そのつもりだが」
「温泉ですよ! 温泉!?」
「何でそこで疑問形になるんだよ」
ふっふっふ、と何やら不敵な笑みを浮かべる文。
彼女は服の胸ポケットから、ずばっ、と一冊の手帳を取り出し、そのページを、ぱらららっ、とめくり、びしぃっ、とあるページを魔理沙に突き出す。
「私がカメラのファインダーを通して追い求める理想郷の一つ! それが温泉ですっ!」
それは端的に言うと、幻想郷の少女たちを盗s……ではなく、彼女達を驚かさないように配慮して、遠目に撮影した写真であった。
温泉でくつろぐ少女たち――大自然の中にさらけ出された彼女たち本来の姿が、ばっちりくっきりはっきりしゃっきり鮮明に捉えられている。
「ちなみに、これは我がコレクションの一つです!」
「……お前、これ、絶対に外に出すなよ。殺されるぞ」
「大丈夫ですよ。厳重にロックすることも出来ますし、私以外の人が勝手に開いたら、この手帳は燃えるようになっています」
「えっらい手が込んでるな」
「ネガさえあればいくらでも複製可能なのが写真の強みです」
相変わらず、他人のプライバシー無視しまくりの発言であった。
ともあれ、文としては、その『理想郷写真』が増えることに何よりも嬉しさを隠し切れない様子であり、『さあ、急ぎましょう! ハリー! ハリー! ハリー!』と魔理沙を急かしている。
「それに何より、早苗さんって、かなりガードが固いんですよ!
これまで鉄壁のガードとして謳われてきた方々の写真をげっとしてきた私としては、これはもう、千載一遇のチャンスとしか!」
「いやいや」
「それに、魔理沙さん。早苗さんの、あの年齢不相応の胸部! あれすごいと思いませんか!?」
「もぎとってやりたいと思う」
「今現在、山では『風のおっぱい巫女信仰教』という一大勢力が出来ていまして」
「何だそれ」
「天狗に河童、その他の妖怪、老若男女問わず『現役女子学生しかも巨乳とな!? よし、信仰だ!』という方々が集まって作った紳士的な一団です」
「とりあえず紳士の意味は世の中に二つあるわけだが、それはあまり歓迎されない方の紳士だろ」
「かなりの勢力を持つ彼らを味方につけるという意味でも、早苗さんの写真を撮影して交渉カードにしておくのはいいかと。
私だって多少の野心はありますからね。もしも上に上がれるなら……! そう考えまして」
「売るのか。それとも渡すのか」
「どっちもしません。カードというのは『使わない』からこそ意味があるのです」
何だか微妙に犯罪臭が漂い始めたところで、霊夢と早苗が神社を後にするのを、二人は確認する。
その姿を見送り、空の彼方に点にならないくらいの位置まで二人が移動したのを見計らって、彼女たちも空へと舞い上がった。
「あの方々なら、私たちならすぐに追いつけます。のんびりいきましょう」
「そうだな」
「ちなみに山には『森の魔法使いを愛する紳士たちの団』というのもありまして」
「あとでそいつらの居場所を教えろマスタースパークで原子分解してやる」
「あ~、気持ちいい~。
早苗、早く~」
「はーい」
神社を離れて、西の方角におよそ20分。
森の中にある、小さな小さな温泉へと、二人はやってきていた。
幻想郷は、基本、穴を深く掘れば温泉の湧く幸せな地域である。そのため、あっちこっちに天然の温泉があるのだが、当然、その規模は様々だ。
この温泉は、入れて3~4人程度の小さな湯船と、粗末な板張りの脱衣場があるだけの、文字通り『自然の温泉』であった。
「お待たせしました」
「……」
「何ですか?」
やってきた早苗は、ゆっくりと、湯船の中に体を沈める。
それをじっと見つめていた霊夢は、やがて、つぶやいた。
「……何この格差」
彼女の視線は、自分と早苗の胸部を何度も往復する。
片や、水の上にぷかぷか。片や、凹凸はあるもののまだまだなだらか。
ちなみに年齢は早苗の方が上であるが、その差は大きくはない。
「……甘いですね、霊夢さん」
「何が?」
「いいですか、霊夢さん。
『持たざるものに悩みがあるのと同時に、持つものにも悩みがある』んです」
「それ嫌味?」
「最後まで聞いてください。
わたしは、巨乳のみを愛する紳士たちに言いたいんです。
『巨乳ばかりがおっぱいだと思うな!』と。
それは、紳士たちの愛と情熱があふれる薄い本を見ていてもわかります。
昨今は巨乳偏重の多いこと多いこと。逆に小さいといえば、諏訪子さまみたいな見た目の文字通りようじょになってしまって犯罪もまたひとしお。
霊夢さんのように、均整の取れた、美しい『スレンダー体型』がいないのが、わたしには残念でならないっ!」
振り上げた拳を、早苗は水面へと叩きつける。
ばしゃっ、とお湯が跳ねる。
「いいですか!? ないちちではない! 貧乳でもないっ!
スレンダーなんですよ! 細身で、バランスの取れた肉付きで、シャープで、そしてスポーティーな!
絶対にいいと思うんですよ! なのに、世の中は『巨乳か貧乳か』で、その間を認めようとしない! 挙句、『巨乳以外はおっぱいじゃない』だとか『貧乳以外は認めない』だとか! 萌えの伝道師たる、この東風谷早苗に言わせれば、全くもって暴言にしかすぎないことが正論としてまかり通るこの世の中!
どう思いますか!?」
「……いや、どう思うかって言われてもさ……」
――やべ、余計なスイッチ入れちゃった。
霊夢の顔は、そんな風な言葉を語り、同時に引きつっていた。
一応、付け加えておくと、霊夢は早苗に惚れている。そりゃもう徹底的に。
しかし、それでも、どーしてもついていけないところもある。それが、この、いわゆる『ヲタク気質』なところであった。
「その点、幻想郷は素晴らしいところです!
巨乳は素晴らしく大きく、貧乳は美しく小さい! そして、その間のスレンダー美少女も盛りだくさん!
全てがその存在するべき領域で己の価値を主張しあっている、これぞまさに正しき理想郷!
というわけで、霊夢さんはそのままが一番です! ええ!」
鼻息荒くいい笑顔を浮かべ、びしっ、と親指立てる早苗の笑顔は、何と言うか、輝いていた。
わたし、言いたいこと言い切った、という具合に輝く彼女の笑顔は、ものすっげぇうざかった。
「まぁ、でも、ほら。
女の子の悩みは尽きないものですから。
そういうものに悩んで頭を使うよりも、もっと前向きなことに頭を使っていきませんか? もったいないですよ。ね?」
「……そ、そう、ね……」
霊夢としては、早苗の『そー言うところ』に注がれる頭と智慧と知識と情熱の方が無駄なんじゃなかろうかと思ったのだが、それは余計なことなので口にはしなかった。
というか、言ったが最後、徹底的に言い負かされるだろうということは目に見えていた。
霊夢は、目の前の穴に進んで嵌りに行くほどバカではないのである。
「ふっふっふ……!
今こそ、この、『200倍ズーム超光学望遠レンズ』を使うときっ!」
「暴れるな、落ちる!」
温泉を臨むことの出来る木の上を居場所としている二人。
文は早速、何やら超ごっついレンズを取り出すと、それをカメラへと取り付けている。フィルムを取りに行く際に、ついでに持って来たとのことだった。
そうしてカメラを構える文の姿は、狙撃手そのもの。『女の子スナイパー』と書くと何やらかっこいいが、やっていることは盗撮のデバガメ野郎である。
「いざ!」
文はカメラのレンズを二人へと向ける。
温泉でくつろぐ二人の少女。その姿を覆い隠すものは何もなく、肌色がレンズ一杯に広がる。
「シャッター……!」
彼女の指がシャッターを切るスイッチにかかった、その瞬間だった。
「なっ!?」
被写体の少女二人の、とりあえず詳しく書くと色々やばい箇所に向かって、強烈なレーザーが浴びせられる。
いや、それは、いきなりレンズの外から飛び込んできた閃光だった。
慌ててレンズを覗くのをやめて、自分の目で霊夢たちを確認する。そのような光はどこにもない。
ちっ、と舌打ちした文は、先の光源とは反対方向に移動すると、再びカメラを構える。
だが、しかし。
「何……だと……!」
再び、どこからともなく一条の光が飛び込み、文の撮影を邪魔する。
これは一体どうしたことか。
彼女は動揺の中、気づく。
「まさか……太陽さん……!」
燦々と、幻想郷に向かって優しい光を降り注がせる太陽さん。
しかし、彼は紳士であることを、文は忘れていたのだ。
「くっ! しかし、私は屈しない!
そうして何度、レンズを構えても、太陽さんは文の紳士的ではない行動を否定した。
あらゆる角度、あらゆる方角、そしてあらゆる位置からの撮影を試みる文に対して、全力で、『太陽バリア』を放つ。
……やがて、文は肩を落とし、撮影を諦めた。
一介の妖怪に過ぎない己に、幻想郷を支える光の源である太陽さん(紳士)に勝つことなど、最初から不可能だったのだ。
「お前、何してんだよ」
「……魔理沙さん。やはり、太陽は強敵でした」
「……は?」
「きっと声は大○明○です」
「意味わからん」
そうつぶやく魔理沙の耳に、『残念だったな、お嬢ちゃん』という、やたら渋い声が聞こえてきたような気がしたのだが、彼女はそれを『気のせい気のせい』とスルーしたのだった。
「あ~、気持ちよかった」
「そうですね。今日の疲れが吹き飛びました」
「じゃあ、晩御飯にしよっか」
「はい! お手伝いします!」
「うん。じゃあ、早苗は、食器とか出してテーブルに並べてて。あ、あと、お茶お願いね」
「……あの、わたしも包丁とか握りたいなぁ、って……」
「……ごめん。それだけは」
温泉から帰ってきて、時刻は午後の5時を過ぎている。そろそろ夕飯時だ。
二人はキッチンに立ち、料理を始める。
とはいえ、料理を作らせたら鍋だけではなくお釜すら爆破する早苗は、一切、調理器具には触らせてもらえず、何だか悲しそうな顔をしているのだが。
「あ~、腹減ったな~」
「そうですね。やっぱりアンパンと牛乳でしょうか」
「いや、そりゃ寂しいだろ」
霊夢と早苗が温泉から帰った後、せっかくだから、とお湯に浸かって来た二人も、空腹を堪能していた。
段々と、眺めている居間の方からいい香りが漂ってくる。
それがさらにすきっ腹にボディーブローのように強烈に効いて来るのだからたまらない。
「どうする?」
「これで早苗さんが『きゃっ、失敗しちゃった。霊夢さんごめんなさい』『仕方ないわねぇ、早苗は』とかみたいなきゃっきゃうふふ展開があればよかったんですけど、それもなさそうですしねぇ」
お茶の用意として、あっためたやかん片手に、すでに早苗は卓についてちょこんと座っている。
二人の間の距離はかなりのもの。これでは、『ちょっとしたミス』が発生する余地はないだろう。もしも発生するとしたら、わざとか思いっきり大騒動になるものだけだ。
「……私たちもご飯食べましょうか」
「そだな」
「近くに、今日、ミスティアさんの屋台が来てるんですよ。行きませんか?」
「お、いいねぇ」
「軽く一杯引っ掛けて、それからひょいと戻ってきましょう」
「よし、そうしよう」
というわけで、怪しい二人はこそこそと、早苗に気づかれないように神社を後にしたのだった。
「さて、それじゃ」
「頂きまーす」
それから、博麗神社の卓の上に料理が並んだのは30分ほど後。
早苗が来ているということで、霊夢も料理に力を入れたのだ。
メニューは、ご飯に味噌汁、焼き魚に付け合せの前菜、漬物、さらに肉と野菜の煮込みという、何とも豪華なものだった。
「これ、さんまですね」
「うん。紫がたまに持ってくるのよ。
『海の魚よ。食べなさい』って」
「やっぱり、秋といえば秋刀魚ですよねぇ」
もぐもぐと焼き魚を頬張る早苗。
ちなみに、彼女は『塩焼き派』で、霊夢は普通に上からしょうゆをかけて食べる派であった。
「ん~、美味しい。
こっちの煮物も味が染みてて美味しいですねぇ」
「だしが決め手なのよ。
あ、これ、博麗の門外不出だから。いくら早苗でも教えられないからね」
「あ、それは残念」
そして、霊夢が取り出したのは納豆であった。
曰く、『近くの人里の農家からもらったの』ということである。
「うわ、ほんとにわらに入った納豆って初めて見ました」
普通にパックで入っているものしか知らない早苗は、霊夢が開いたわらの中から出てくる納豆に興味津々といった具合である。
「これにしょうゆをかけるのが美味しいのよね」
「日本人に生まれてよかったと思える瞬間ですよね。
あ、霊夢さん、ねぎどうぞ」
「お、ありがと。さすが早苗、気が利く」
「いえいえ」
わいわい楽しい夕食の時間は過ぎていく。
霊夢は「これ、熱いうちに食べてね。冷めると味も冷めるから」と、煮物を示し、早苗は言われた通りに、それに箸を運ぶ。
白いご飯は見る見るうちになくなり、『霊夢さん、お代わりいかがですか?』と、早苗がおひつから霊夢のおわんにご飯をよそう。
「あ~、美味しかった。
ごちそーさま!」
「美味しかったです。
霊夢さんって、本当にお料理上手ですね」
「そりゃまぁ、お母さんも料理うまかったし、紫が『包丁も持てないなんて何やってるの!』って怒るから」
「あれ? じゃあ、霊夢さんの料理の腕前は紫さんが仕込んだんですか?」
「半分くらいはね。
けど、もう半分はお母さん仕込み」
この博麗神社に住まう巫女には、母親が『二人』いるのだな、と早苗は思った。
一方、自分の環境に当てはめてみると、『母親』ポジションには厳格な、しかし自分には甘い神様が、『父親』ポジションにはちびっこ神様が、なぜだかしっくりはまってしまう。
「わたしも料理の勉強しないと」
「いいんじゃない?」
「ダメです。
いいですか、霊夢さん。わたしは霊夢さんの『妻』になりたいんです。そして、料理というものは『妻』が用意するべきものだと思います」
「……またえらいところで、あんた、考え方が古いわね」
「そりゃ、家事は両者分担がいいとは思いますけれど。
だけど、キッチンは女の戦場とも言うじゃないですか。すなわち、キッチンを牛耳るのは『妻』なのですよ」
何だかよくわからないが、とりあえず、言いたいことは理解した、とばかりに霊夢はうなずいた。
そして、『……え? となると、私、旦那ポジション? 男扱い?』と、ちょっぴりへこんだりもしたのだが。
「お茶、どうぞ」
「あ、うん。ありがと」
「けれど、お茶を淹れるのは上手と、誰もに言われます」
「実際、早苗の淹れるお茶は美味しいんだけどね」
「……どうしてこうなった」
「……さあ」
ちなみに、彼女をキッチンに立たせないようにしているのは、彼女と一緒に暮らす二人の神様共通方針であるということを、霊夢はそこで聞かされた。
要するに、早苗をキッチンに立たせたが最後、後片付けで一日潰れてしまうからなのだろう。
しかし、それでも『最近はホットケーキだって作れるようになったんですよ!』と早苗は言う。
「いつかはこんな風に美味しいご飯を作れるようになりますから!」
「……無理しないでね?」
「はい!
とりあえず、今度、紅魔館で開かれる『お料理講習会』に申し込みをしておきました」
「……あ、あー、そうなんだ」
こりゃ、紅魔館の連中は大変だな、と霊夢はひそかに紅の館の者たちの冥福(※違います)を祈った。
「さて、それじゃ、後片付けしよっか」
「はい」
「あ、そうだ。
早苗、以前のゲーム、持ってきてる? あれ、続きやりたい」
「持ってきてますよ。多分、今日、クリアできるだろうから別のソフトも持ってきました」
「ほんと!? よっし!」
早苗が持ってるゲーム、面白いから好きなのよね、という霊夢の顔は年齢相応の子供の顔だった。
そんな彼女を見る早苗の目は、同年代の友達を見る瞳に、愛しいものを見守るような視線が含まれていた。
「もう夜ですねー」
「そうだな」
「実を言うと、私、鳥目なので夜中はあんまり外を飛び歩けないんですよ。
魔理沙さんの家に泊めてもらってもいいですか?」
「私ゃ、構わんぞ。寝るところがあるかどうかは別だが」
「Gですか」
「やめろその名前を口に出すな」
寝室へと移動した二人を眺める文と魔理沙。
寝巻きに着替えた二人の姿はなかなか見ることが出来ないため、これはこれで貴重なシーン、と文はカメラのシャッターを切りまくっている。
フラッシュを使わないのに、なぜか、真昼のようにくっきりとした写真を撮ることが出来るレンズを使っているらしい。どうやって作ったのかはさっぱりわからないのだが。
「何かこう……『おおっ!』と思えるシーンは来ないものでしょうか」
「もうちょい待とうぜ。
それがなかったら、今日はお開きだ」
「あいあいさー」
「ん~……! 遊んだ遊んだ~! 楽しかった!」
「それは何よりです」
「それじゃ、そろそろ寝る?」
「そうですね」
二人は、並べた布団にそれぞれ横になると部屋の明かりを消した。
ふっと、周囲が暗闇に包まれる。
しんと静まり返る室内。先ほどまで響いていた、にぎやかな女の子の声など、もうどこにも残っていない。
早苗はちらりと隣の霊夢を見る。
そのまま、しばらく何かを考えていた彼女は、もぞもぞと、布団の中で手を動かして、霊夢の手をちょいちょいと引っ張った。
それで霊夢も早苗の言いたいことに気づいたのか、ちょっとだけ恥ずかしそうに顔を赤くしてから、もぞもぞと、早苗の方に移動してくる。
「よいしょ」
「……もう。人を抱き枕にするのやめてよ」
「何言ってるんですか。最初に人のこと、枕にしてたの、霊夢さんじゃないですか」
だから、今回はわたしの番です、ということらしかった。
早苗にぎゅっと抱きしめられて、霊夢の顔は真っ赤だ。これでは眠れないのではないかと思われるくらいに、彼女は居心地が悪そうに身をよじる。
「霊夢さんって、ちょうど、抱きしめるのにいいんですよね~。
柔らかいし、あったかいし」
「……もう」
「それに、秋の夜は、冬ほどじゃないけど冷えますよ」
「そりゃそうだけどさ」
「暖房に慣れた現代娘には、幻想郷の夜は厳しいんです。だから、ちょっとだけ協力してくださいね」
「……はいはい。わかったわかった。
じゃ、お休み」
あくまでいやそうに、めんどくさそうに。
しかし、早苗にだけわかる、嬉しそうな響きを載せて。
霊夢はさっさと目を閉じて、早苗の腕の中で体を丸くしてしまった。
早苗は、そんな霊夢の頭をなでつつ、ゆっくりと目を閉じて息を吐く。
――明日も一日、幸せな日でありますように。
巫女の祈りは神へのお願い。信仰心豊かな巫女には、神様は必ず応えてくれる。早苗は、『お願い』という名の脅迫を神様に向けてから、静かに眠りに落ちていったのだった。
「きたぁぁぁぁぁぁぁっ!
大スクープ! 博麗の巫女と守矢の巫女! 一つの布団で眠る! これはいける! これだけで1万部いけるっ!」
「おい落ち着け! 声がでかいぞ!」
と、二人そろって、小さな声で大声を上げたりする。
文は遠慮なくシャッターきりまくり、フィルムが尽きるまで写真を撮影した後、『私、やりきった!』といわんばかりのつやつやした笑顔を魔理沙に向けた。
「いやぁ、今日はいい日でした。こんなにスクープが撮影できるなんて」
「まぁ、私も、霊夢をからかうネタが大量に集まってラッキーだったぜ。
今日は神様に感謝しないとなー」
「全くですよねー」
あっはっは、と笑いあう二人。
やがて、どちらからともなく、『さて』とその場を去る用意を始める。
「お前、その写真、どうするんだ?」
「とりあえず、よさげなものを新聞に載せて……あとは、私の思い出アルバムに入れておきますよ」
「私は、これをネタに霊夢を散々からかってやるぜ。
最近、霊夢に主導権をとられることが多かったからな。どっちが上か、思い知らせてやるぜ」
「ふっふっふ。霧雨屋、おぬしもわるよのぅ」
「いえいえ、お代官様にはかないませんで」
互いに悪党な笑顔を向けあって、『それじゃ帰りましょうか』と博麗神社を少し離れた――その時であった。
「今日はいい月が出てるなー。
どうだ、文。また一杯」
「お、いいですねぇ。いきましょいきましょ」
「そう。
それなら、外の世界のお酒も楽しめる『八雲屋』にいらしていただけるかしら?」
――二人の後ろから響く、そんな声。
二人の、浮かべていた笑顔がそろって引きつった。
同時に手足の動きも消え、まるで人形のように硬直する二人。
ゆっくり、ゆっくりと。ぎぎぎぎぃっ、という音を立てながら後ろを振り向けば、
「美味しいおつまみもお待ちしておりますわ。どうぞ、いらしてくださいませ?」
『ごごごごごごご!』という擬音を背中に背負って、にっこり微笑む妖怪の賢者の姿。
口許を扇子で隠して微笑む彼女の瞳は、はっきり言って、これっぽっちも笑っていなかった。
「え、えーっと……あ、あの、私たち……その……持ち合わせが……」
「あら、大丈夫よ。うちはお金なんて取らないから。
やってくる人を出迎え、歓待するのは人付き合いの基本でしょう?」
「いや、その……うちは戸締りの時間というか門限があってさ……そろそろ帰らないと……」
「まあ、それは大変。
でしたら、わたくしが、おうちまですぐにお送り差し上げますよ。一分もかからずに、ね?」
二人は互いに顔を見合わせると、大きく、うなずいた。
瞬間、二人は彼女――八雲紫に背を向け、全力で逃げ出そうとする。
しかし、
「あいたっ!?」
「でっ!? な、何だこれ! 壁!?」
「結界術。
それは、この世の中に別の世界を作り出す技術。境を通して界を割り、もって此岸に彼岸を顕現させる。
はっきり言って、霊夢の結界術なんてまだまだ子供の技術。早苗ちゃんのにいたっては児戯にも等しい。
この、界を操る妖怪の前ではね」
恐る恐る後ろを振り返る二人。
紫は口許を隠していた扇子をぱたんと畳んでいた。
月光に照らし出される、冷たい笑顔。
気の弱い人間なら、冗談抜きにショック死させられるような視線を、彼女は二人に向けている。
「ただ、それをあなた達の胸の中に隠しておくだけなら寛容にもなったものを。
それをよりにもよって外に出すなんて許されると思っている? 私のかわいい霊夢の幸せを笑いの種にしようなんて……ねぇ?」
「い、いいいいやあの、じょ、冗談ですよ冗談! ね、ねぇ、魔理沙さん!?」
「そ、そそそう! そう、冗談だ、冗談! そ、そんなことするわけないじゃないか!
霊夢は私の大切な友人だからな! な、な、そうだよな、文!」
「え? え、ええええ、そ、そそそそうですとも!」
「うふふ、そう。それならいいの。それなら安心できるわ」
紫の声の質が変わった。
あらゆる物を壊し、結界の狭間に飲み込んでしまう深淵の響きから、普段の優しい声へと。
二人はほっと胸をなでおろし、紫の笑顔を見て――、
「けれど、お仕置きは必要よね?」
その瞬間、二人は『死』を覚悟した。
「まだ霊夢にも見せたことのない、私の深淵なる深遠の弾幕結界――とくとご覧あれ」
無数の界の狭間が開き、強烈な閃光を携える。
それが無数に周囲に現れ、その口を、魔理沙と文の二人に容赦なく向ける。
紫はゆっくりと右手を振り上げる。
それを見ながら、二人は乾いた笑顔と共につぶやいた。
「なぁ……文」
「はい……魔理沙さん」
「私ら、明日の朝日、拝めるのかなぁ……」
「……無理じゃないっすかね?」
――自分の行なった行為は、必ず、その結末から繰り出される縁の糸が自分へと戻り、結び、つながってくる。
それを人は『因果応報』と言うのです。
とても勉強になりましたね。
「全くもう……。ほんと、無神経なんだから」
早苗は布団の中で、霊夢を抱きしめながらつぶやく。
少しだけ顔を窓の向こうに向けて、夜空を見上げながら、
「とことん反省してくださいね」
あっかんべー、と舌を出した後、彼女はまた霊夢をしっかりと抱きしめて眠りに落ちる。
遠くから響く壮烈な轟音と、少女たちの悲鳴をBGMにしながら。
いつもより厚着した巫女が神社の境内を掃除している。
「霊夢。
あなた、何だか、今日はそわそわしているわね?」
「うっわびっくりしたぁ!」
いきなり背後から声をかけられて、彼女――霊夢は飛び上がった。
「紫! 来るなら来るって連絡しなさいよ!」
「あら、これは失敬。
けれど、私は基本的に気まぐれだから」
「計算高さも気まぐれのうちの一つってことね。あーあーはいはい、厄介だこと」
現れた女――紫を適当にあしらって、霊夢はわざわざ紫の目の前で、近くの石灯籠に持っていた竹箒を逆さまにして立てかける。
「あら、これは失礼ね。
ゆかりん、傷つくわ」
「あんたの言動一つ一つがいやらしいのよ」
「で? 何でそわそわしていたのかしら? 秋だから?」
「べっ、別にそんなこと、ないわよ!」
「声が上ずっているような気がするけれど、それは私の気のせいということにしておいてあげる」
彼女は口許を手にした扇子で覆いながらそんなことを言って、現れた空間の亀裂の中に沈んでいった。
「……ったく。何だったのよ、もう」
ふてくされて、霊夢。
彼女は逆さまにしていた竹箒をまた手に取ると、ちょっとだけ、落ち着かない様子で空を見上げる。
今日もお日様はぽかぽか。頭の上から降り注ぐ光に、少しだけ目を細めてから、ぽつりと『……別に、そわそわなんてしてないわよ』と、もう一度同じ言葉を繰り返す。
そして、境内の掃除を再開して――しばらくした後。
「霊夢さ~ん」
「あっ」
遠くから響く声。
振り返る彼女の顔は、先ほど、紫に向けた顔とは全く別の、かわいらしい笑顔だった。
「早苗、いらっしゃい!」
「はい、お邪魔します」
ふぅわりと空から舞い降りてきたのは、最近、彼女と交流の多い早苗である。
早苗は片手に、何やら手土産らしきものを持って神社の境内に舞い降りると、早速、「お掃除、お手伝いしましょうか?」と尋ねた。
「あ、うん。いいよ。もう終わったから」
「そうですか」
「あとで、これ、燃やしておかないとね」
「そうですね」
「じゃあ、ほら。入って。お茶、用意するから」
「はい」
そう、彼女の応対をする霊夢の姿は、どこからどう見ても上ずっていた。というか、いつも以上に地に足がついていなかった。
どことなく微笑ましい――しかし、これ以上ないくらいにからかいがいがありそうな対応を見せる彼女に、早苗は何も言わず、案内されるまま神社の母屋に向かって歩いていったのだった。
――さて。
「……見ましたか、魔理沙さん」
「ああ……見たぜ、文」
神社の境内にこっそりと潜む、幻想郷の生きる迷惑その1とその2。
言うまでもなく、七色爆弾魔法使い霧雨魔理沙と熱風疾風ゴシップの射命丸文である。
「紫が登場したからつい隠れてしまったが……」
「……これは事件の匂いですね」
ふっふっふ、とそろって同じ顔で笑う二人。
いつも通りに神社に遊びに来て、先の魔理沙の言葉どおり、ついうっかり紫が現れたので茂みの中に隠れてしまって。
そして、今。
紫が指摘した通り、何とも上ずった様子の霊夢を目撃して、いつもの『悪い癖』が発動してしまったのだ。
「……どうする?」
「そりゃもちろん、激写ですよ」
にやりと笑う文は、手にしたカメラのレンズを魔理沙に向ける。
くっくっく、と笑う魔理沙は『これは、いいシーンが撮れそうだぜ』と、すでに悪巧みを始めてしまっている。
「よし! 先回りするぞ!」
「あいあいさー!」
こそこそと、神社の境内をぐるりと回り、母屋が覗ける位置にまで移動していく二人。
その怪しい視線が、霊夢たちを捉えたのは、それから少し後のことであった。
「わざわざ悪いわね」
「いいえ」
そんな怪しい目が四つ、自分たちを向いていることなど露知らず、二人は居間でお茶の用意をしていた。
居間から縁側に続く障子は開けられ、秋の気持ちいい風が室内に吹き込んできている。
霊夢曰く、『今、家の中の空気を入れ替えてるの』ということである。
「はい、どうぞ」
「やった。大福、大福」
二人は卓について、早速、お茶を始める。
お茶菓子は、早苗の持って来た大福だ。
「霊夢さん、座椅子買ったんですか?」
「ううん。霖之助さんが、『霊夢、これ、使うならあげるよ』って持って来たのよ。
あの人、椅子に座ってるからね」
「ああ、そうですね。そうなると使わないですよね」
「ちょっとぎしぎしうるさいけど、座り心地はいいでしょ?」
そう言う霊夢はいつも通り、座布団の上に正座をしている。
どうやら、座椅子は一個だけしかないようだ。
「霊夢さんって、座ってる姿がきれいですよね」
「あ、そう? 嬉しいな、ありがとう。
お母さんにびしびししつけられたからね~。女は居住まいを正すもの、って」
ぴしっと背筋の伸びたその姿勢は、早苗の言うように、確かになかなか美しいものであった。
早苗にほめられ、嬉しさを隠さない霊夢は、手にした湯飲みを傾ける。
「……あ~、美味しい。
何で早苗が淹れると、こんなに味が変わるかなぁ」
「お茶の淹れ方にはコツがあるんですよ。緑茶も紅茶も、もちろん、コーヒーとかも。
その辺りを喫茶店のバイトをしてるときに先輩から叩き込まれました」
「へぇ~」
金色に輝くお茶は、一目見るだけで思わず『美味しそう』と言ってしまいそうな雰囲気に満ちている。
霊夢はもちろん、『早苗用』としている、いつもより美味しいお茶を早苗に渡しているのだが、それがこれほどのものになるとは想像していなかったらしい。
「はぁ~……美味しい」
「それは何よりです」
「んじゃ、大福も。頂きま~す」
「霊夢さんって、ほんと、和菓子が好きですよね」
もぐもぐごっくん、と大福をかじる霊夢。
感想はもちろん、「あ、これ、美味しい」だ。
「よかった。
それ、諏訪子さまがあんこから手作りしたんですよ」
「諏訪子が!?」
「ええ。うちで料理が一番上手なの、諏訪子さまですから」
しかし、普段は『めんどくさいから』という理由で包丁を握ろうとはしないのだという。
とはいえ、守矢家では家事は当番制のため、週に何度かはキッチンに立たなくてはいけないということだった(なお、早苗はキッチンに立たせてもらえないらしい)。
「……やるわね、あのちび神」
「諏訪子さま曰く『料理は愛情と技術だよ』と。『あたしゃ早苗が大好きだからねぇ~』なんておどけてました」
「ははは……なるほど……」
何やら対抗意識のようなものに火がついたのか、霊夢は大福もぐもぐしつつ、『……この味なら再現、いけるかも』と内心でつぶやく。
つぶやいた後は、もちろん、ちらりと早苗に視線を送るのを忘れない。
――と、
「霊夢さんって」
「え? な、何?」
「今日は何だか、いつもよりかわいいですね」
「かっ……!? そ、そんなこと、ないわよ! な、何言ってるのよ、早苗、もう!」
いきなりの一言に、顔を真っ赤にして声を上げたりする。
わたわた慌てる霊夢を見て、早苗はくすくすと笑いながら、そっとその左手を伸ばした。
思わず霊夢は身を固くする。彼女の左手が霊夢の髪に触れ、その頬に触れる。
「髪の毛、少し伸ばしてるでしょ。当たり?」
「あ……うん。ちょっとね。
雰囲気変えるとかそういうつもりはなくて、単に面倒だからなんだけど……。あ、ほら、うち、お母さんが髪の毛長かったから、少しまねてみようかなとか、そういうのもあったんだけど……」
「だからだ」
『さすがわたし、よく気づいた』と言わんばかりに早苗はにっこり笑うと、『いっそのこと、ロングにしてみたらどうですか?』と霊夢にアドバイス。
霊夢は、内心の動揺と嬉しさを悟られないように、「そ、そうね。考えとく」と早苗に笑顔を返した。
「……こ、これはまさか、伝説の『ガールズトーク』……!」
「な、何――――――っ! 知っているのか、射命丸――――――っ!」
「ええ……間違いありません……!
女の子同士の……仲のいい女の子同士の他愛もない会話に見えて、その実、内側に相手への愛情とか恋慕とかもう色んなものがどっさり詰まった『きゃっきゃうふふ』の形態の一つっ!
それが、ガールズトークですっ!」
などというわけのわからないやり取りを小さな大声で語る二人。
文に言われた通りに、魔理沙はもう一度、霊夢と早苗を見る。
確かに、二人の間の会話は何気ない日常会話が大半だ。しかし、それをよく見れば、霊夢が何かもじもじしていたり、早苗がそれを年上の余裕で受け止めていたりと、何とも言えない甘酸っぱさが漂っていたりする。
「……なるほどな……! あの状況でそれを見て取るとは……やるな、射命丸……!」
「ふふふ……! 伊達に、幻想郷で青い鳥を追いかけ続けて300年ではありませんよ!」
「お前、300年間もんなことやってきたのか」
「ファインダーに収めるならきれいでかわいいものがいいじゃないですか」
「なるほど」
などと、ポリシーあるんだかないんだかわからない文の理屈に、あっさり納得する魔理沙であった。
「ねぇ、早苗」
「何ですか?」
「早苗は今日、朝、早かった?」
「そうですね。うちは基本、朝は5時起きですけど……」
「やった。私のほうが早い」
「そんなに朝早くに起きて、何をしてたんですか?」
「今度、近くの人里でやる収穫祭の用意」
頼まれたのよ、と霊夢。
それに当たって、使用する道具を蔵の中から出してきたり、どんな祈祷がふさわしいか、書物を読んだりなどなど色々、と。
彼女は答えて、早苗が『なるほど』とうなずいた。
「だからさ、ちょっと眠い」
「ありゃりゃ」
慣れない早起きはするもんじゃないわね、と霊夢は言うと、辺りをきょろきょろ見回して、よし、とうなずいた。
「ねぇ、早苗」
「はい?」
「ちょっといい?」
そう言うと、霊夢は座布団を手に持って早苗の隣へ。
そして、顔を赤く染めながら、『よいしょ』と早苗の膝の上に頭を預けた。
「ちょうどいい枕があった」
「はいはい。
そのままだと風邪を引きますから、ちょっとタオルケット持ってきますね」
「はーい」
立ち上がり、早苗はしばし、部屋を辞する。
戻ってきた彼女は、手にしたタオルケットを霊夢にかけてから、その頭を自分の膝の上に戻した。
「あー……柔らかくて気持ちいい。
早苗枕って売り出したら売れそう」
「ダメです。わたしは一人しかいないんですよ」
「あはは。そうだね」
「それに、わたしの膝枕は霊夢さん専用ですよ?」
これぞ年上の余裕、という笑みを浮かべる早苗に、霊夢は顔を真っ赤にしてそっぽを向いてしまった。
そして、目を閉じて、わざとらしくいびきをかいたりする。
早苗は小さく笑いながら、『狸寝入りは通じませんよ』と、そのおでこをつんとつつく。
そうして――しばし。
「寝ちゃった」
すやすやと、霊夢が小さな寝息を立てている。
早苗はそんな彼女の寝顔を愛おしいものを見つめる、優しい瞳で見つめながら、そっと、彼女の髪を指先ですいてみる。
「さらさら。きれいね。羨ましい」
しばらくそうやって、霊夢をいじって遊んでいた早苗は、ふぅ、と息をついた。
――外から飛び込んでくる太陽の日差しがまぶしい。
優しい風が、ふんわりと二人の体をなでて、部屋の中をぐるりと回って通り抜けていく。
静かな鳥の声。
小さく長く、遠く高く響くその声を耳で聞きながら、早苗は瞳を閉じて、ゆったりと、座椅子の背もたれに背中を預けた。
「ひ、膝枕ですとぉぉぉぉぉぉっ!? こ、これはもっと近くで撮影しなければっ!」
「待て、文! 落ち着け! あれを見ろっ!」
「何ですか魔理沙さん! 私のジャーナリズム魂が叫んでいるんです! 二人を撮影しろと! 百合百合モードの二人をファインダーに収めろとっ!」
「だから、あれを見ろっ! あれは霊夢の結界だ! 近づけば、弾幕でぼこぼこにされるぞっ!」
今にも茂みから飛び出していかんばかりの文が、魔理沙の言葉にはっとなって視線を母屋の方に戻した。
幸せモードの早苗と霊夢。
しかし、その周囲をよく見れば、小さな札がいくつも見えた。また、さらによく見れば、霊夢が愛用している陰陽玉が転がっているのも見える。
「……何という……!」
「……霊夢は敵が多いだろ? 寝てる時なんて無防備そのものだからな」
「くっ……! 物騒なっ!
霊夢さんに危害を加える輩は、この私が許しませんっ!」
今にも、その『許されない輩』にカテゴリされそうなことやってる文はわけのわからないことを叫んでから、とりあえず、ふぅ、と息をついた。
「……助かりました。
あまりにも素晴らしい光景に、つい、我を忘れてしまいました」
「頼むぜ」
仕方ないですね、と文は遠目に二人にカメラを向けると、ぱしゃっ、とシャッターを切った。
文は「望遠レンズがあればっ……!」と、血の涙を流しながら心底悔しがった後、
「けど、膝枕っていいですよねぇ」
無防備な寝顔をさらして、すやすやお休み中の霊夢を見ながら、彼女はつぶやいた。
「ん~……。まぁ、そうだな」
霊夢の悪友もそれには同意する。
というか、あの霊夢が、あそこまで無防備に寝ている姿というのを、魔理沙も久しく見ていなかったのだ。
つまり、それだけ、彼女は今、安心しきっているということになるだろう。
こう言っては何だが、外に敵の多い霊夢の場合、本当に心から安心してゆっくり眠れる時などほとんどなかったのではないだろうか。そんな風にも思ってしまう。
「はたてさんにお願いしてみよっかな~」
「言ったらやってくれんのかよ」
「間違いないですね。これはいけます」
「お前らもいい悪友同士だな」
「そうですね。それはもう。
というか、魔理沙さんだって、アリスさんに頼めばいいじゃないですか」
「ばっ……! んなこと出来るかよ!」
「おやぁ~? 顔が赤いですよ~? もしかして恥ずかしいんですか?」
「マスター……!」
「それをやったら追い出されますよ」
「くっ……!」
恥ずかしさ紛れに致命的な攻撃を仕掛けてくるのは、この魔理沙も霊夢も変わらない。
そんな彼女達のあしらい方は、下手に正論などを口にしたりするよりは、自分が置かれている現状を再認識させてやることだと、文は知っていた。
「ん……」
もぞもぞと体を動かして、目元をこすりながら、霊夢は目を開ける。
ぼんやりと、まだぼやける視界に映る時計の針は、午後の4時ごろを示していた。
ずいぶん寝てたなぁ、と思いながら視線を上に向ければ、座ったまま眠っている早苗の寝顔。
「……」
しばらく沈黙した後、彼女は身を動かして、顔を障子の向こうに向ける。
未だ、穏やかな秋の気配の漂う庭が見える。
そこをじっと見つめていた彼女は、そのまま体を反対側に向けて、
「……よっと」
そのまま、ぱふ、と早苗に抱きついた。
普段なら出来ないことも、相手が寝てて気づかないなら大丈夫――よくある恥ずかしがりの思考をそのままトレースしながら、霊夢はちょっぴり嬉しそうに笑ったりする。
「……いい匂い」
ふんわりほのかに早苗から香るその匂いに、霊夢は何となくではあるが、子供の頃を思い出したりもする。
ああ、そういえば、お母さんってこんな感じだったなぁ、と。
そんな風に、少しだけ甘えんぼの自分を堪能していると、ぽんぽん、と肩を叩かれた。
「霊夢さんは、意外と寂しがりやなんですか?」
――どうやら、霊夢が目を覚ましたことに気づいたのか、早苗も目を覚ましていたらしい。
笑顔でそんなことを言われて、霊夢は顔を真っ赤にしながら、慌ててその場に飛び起きる。
「あ、あー、よく寝た」
体を大きく伸ばして、決して、早苗の方を振り返らずにそんなことを大声で言ってから、「ちょっと、おトイレ!」と慌しく部屋を後にしてしまう。
早苗はそんな彼女の後ろ姿を『やれやれ』と見送ってから、音を立てずに立ち上がり、空っぽの湯飲みを持ってキッチンへと下がっていく。
そして、霊夢が戻ってくるのとほぼ同時に、淹れ直した新しいお茶を卓の上へと並べた。
「あ、ありがと」
「いいえ」
「え、えーっと……あ、そうだ。ちょっと、家の中の掃除もしたいんだけど、早苗、手伝ってもらっていい?」
「いいですよ。どこからやりましょうか」
「……えーっとね。えーっと……」
まだ少しだけ、霊夢の顔は赤い。
照れ隠しのために適当に振った話題に、当然、後に続く言葉などない。
お茶を飲みながら考え込んでしまう彼女に追求しないのは早苗の優しさか。それとも余裕か。
かちこち時計は音を立て、時を刻んでいく。
あ、そうそう、と霊夢が声を上げたのは、それから5分ほど後だった。
「あっちの部屋! あっち」
「はいはい。
じゃあ、雑巾とか用意していきますので」
「わかった」
とたとた、ばたばた。
対照的な足音を立てる二人の家事がスタートする。
「まずいですね」
「どうした、文」
茂みに潜み、霊夢の撮影を続ける文は、唐突に、しかし、深刻な口調でつぶやいた。
「……まさか、ここまでシャッターチャンスに恵まれるとは。
やばいことに、フィルムがもうありません」
「マジかよ。
あとどれくらいだ」
「10枚……あるかないか」
「おいおい、それじゃ、シャッターチャンスを逃すじゃないか」
「家に戻って取ってくれば……」
「よし。
なら、その間、私があいつの写真を撮っていてやろう」
任せておけ、と魔理沙。
文は『それじゃ、お願いします』とあっさり、彼女にカメラを渡してしまった。
そして、その使い方を懇切丁寧に解説した後、付け加える。
「あ、もしも、それを持って持ち逃げしたら幻想郷の地の果てまでも追い詰めて、魔理沙さんのスキャンダル写真ばらまきまくってやりますから。
あと、それ、高いので。壊したりしたら家を抵当にもらいますのでよろしく」
普段のおちゃらけた雰囲気そのままに、しかし目だけは全く笑ってないマジな顔をして、文は魔理沙に釘を刺すと、霊夢たちの一瞬の隙を見て茂みから飛び出し、空の向こうに去っていく。
――その時のことを、霧雨魔理沙は後ほど、こう述懐した。
『心臓を握りつぶされそうな笑顔って、あーいうのをいうんだな』
――と。
「ふぅ、終わった」
「終わりましたねー」
「疲れたね」
「そうですね」
霊夢が指定した部屋は、『ずいぶんほったらかしになってたのよねー』と彼女が言うように、一人で掃除をするにはちょっと大変なくらいに手の入っていない部屋だった。
二人で片付け・掃除にふけること30分。
見違えるくらいにきれいになった部屋の中で、満足そうな顔を浮かべて、二人は自然、『お風呂に入ろう』という話題を始めている。
「霊夢さん、温泉行きましょう、温泉。
今の時期は涼しくなってきたから、露天風呂が気持ちいいですよ」
「いいわね、それ。
よし、温泉行こう」
「はい。
じゃあ、わたし、タオルを用意してきますから」
「んじゃ、私、石鹸とシャンプー持ってくる。
あ、そうだ。この前、早苗にもらったシャンプーあったでしょ。あれ、いいね。髪の毛がつやつやになったわ」
「でしょう? 幻想郷は自然素材から作る石鹸とか多いですけど、美容系のシャンプーってないんですよねぇ」
「どこから手に入れてきたの?」
「紫さんに頼みました」
などなど。
そんな『女の子』な会話を交わしながら、二人は部屋を後にする。
「温泉……ですと……!?」
「どうした? 文」
「……魔理沙さん。これは、私たちも行くしかないでしょう」
「まあ、そのつもりだが」
「温泉ですよ! 温泉!?」
「何でそこで疑問形になるんだよ」
ふっふっふ、と何やら不敵な笑みを浮かべる文。
彼女は服の胸ポケットから、ずばっ、と一冊の手帳を取り出し、そのページを、ぱらららっ、とめくり、びしぃっ、とあるページを魔理沙に突き出す。
「私がカメラのファインダーを通して追い求める理想郷の一つ! それが温泉ですっ!」
それは端的に言うと、幻想郷の少女たちを盗s……ではなく、彼女達を驚かさないように配慮して、遠目に撮影した写真であった。
温泉でくつろぐ少女たち――大自然の中にさらけ出された彼女たち本来の姿が、ばっちりくっきりはっきりしゃっきり鮮明に捉えられている。
「ちなみに、これは我がコレクションの一つです!」
「……お前、これ、絶対に外に出すなよ。殺されるぞ」
「大丈夫ですよ。厳重にロックすることも出来ますし、私以外の人が勝手に開いたら、この手帳は燃えるようになっています」
「えっらい手が込んでるな」
「ネガさえあればいくらでも複製可能なのが写真の強みです」
相変わらず、他人のプライバシー無視しまくりの発言であった。
ともあれ、文としては、その『理想郷写真』が増えることに何よりも嬉しさを隠し切れない様子であり、『さあ、急ぎましょう! ハリー! ハリー! ハリー!』と魔理沙を急かしている。
「それに何より、早苗さんって、かなりガードが固いんですよ!
これまで鉄壁のガードとして謳われてきた方々の写真をげっとしてきた私としては、これはもう、千載一遇のチャンスとしか!」
「いやいや」
「それに、魔理沙さん。早苗さんの、あの年齢不相応の胸部! あれすごいと思いませんか!?」
「もぎとってやりたいと思う」
「今現在、山では『風のおっぱい巫女信仰教』という一大勢力が出来ていまして」
「何だそれ」
「天狗に河童、その他の妖怪、老若男女問わず『現役女子学生しかも巨乳とな!? よし、信仰だ!』という方々が集まって作った紳士的な一団です」
「とりあえず紳士の意味は世の中に二つあるわけだが、それはあまり歓迎されない方の紳士だろ」
「かなりの勢力を持つ彼らを味方につけるという意味でも、早苗さんの写真を撮影して交渉カードにしておくのはいいかと。
私だって多少の野心はありますからね。もしも上に上がれるなら……! そう考えまして」
「売るのか。それとも渡すのか」
「どっちもしません。カードというのは『使わない』からこそ意味があるのです」
何だか微妙に犯罪臭が漂い始めたところで、霊夢と早苗が神社を後にするのを、二人は確認する。
その姿を見送り、空の彼方に点にならないくらいの位置まで二人が移動したのを見計らって、彼女たちも空へと舞い上がった。
「あの方々なら、私たちならすぐに追いつけます。のんびりいきましょう」
「そうだな」
「ちなみに山には『森の魔法使いを愛する紳士たちの団』というのもありまして」
「あとでそいつらの居場所を教えろマスタースパークで原子分解してやる」
「あ~、気持ちいい~。
早苗、早く~」
「はーい」
神社を離れて、西の方角におよそ20分。
森の中にある、小さな小さな温泉へと、二人はやってきていた。
幻想郷は、基本、穴を深く掘れば温泉の湧く幸せな地域である。そのため、あっちこっちに天然の温泉があるのだが、当然、その規模は様々だ。
この温泉は、入れて3~4人程度の小さな湯船と、粗末な板張りの脱衣場があるだけの、文字通り『自然の温泉』であった。
「お待たせしました」
「……」
「何ですか?」
やってきた早苗は、ゆっくりと、湯船の中に体を沈める。
それをじっと見つめていた霊夢は、やがて、つぶやいた。
「……何この格差」
彼女の視線は、自分と早苗の胸部を何度も往復する。
片や、水の上にぷかぷか。片や、凹凸はあるもののまだまだなだらか。
ちなみに年齢は早苗の方が上であるが、その差は大きくはない。
「……甘いですね、霊夢さん」
「何が?」
「いいですか、霊夢さん。
『持たざるものに悩みがあるのと同時に、持つものにも悩みがある』んです」
「それ嫌味?」
「最後まで聞いてください。
わたしは、巨乳のみを愛する紳士たちに言いたいんです。
『巨乳ばかりがおっぱいだと思うな!』と。
それは、紳士たちの愛と情熱があふれる薄い本を見ていてもわかります。
昨今は巨乳偏重の多いこと多いこと。逆に小さいといえば、諏訪子さまみたいな見た目の文字通りようじょになってしまって犯罪もまたひとしお。
霊夢さんのように、均整の取れた、美しい『スレンダー体型』がいないのが、わたしには残念でならないっ!」
振り上げた拳を、早苗は水面へと叩きつける。
ばしゃっ、とお湯が跳ねる。
「いいですか!? ないちちではない! 貧乳でもないっ!
スレンダーなんですよ! 細身で、バランスの取れた肉付きで、シャープで、そしてスポーティーな!
絶対にいいと思うんですよ! なのに、世の中は『巨乳か貧乳か』で、その間を認めようとしない! 挙句、『巨乳以外はおっぱいじゃない』だとか『貧乳以外は認めない』だとか! 萌えの伝道師たる、この東風谷早苗に言わせれば、全くもって暴言にしかすぎないことが正論としてまかり通るこの世の中!
どう思いますか!?」
「……いや、どう思うかって言われてもさ……」
――やべ、余計なスイッチ入れちゃった。
霊夢の顔は、そんな風な言葉を語り、同時に引きつっていた。
一応、付け加えておくと、霊夢は早苗に惚れている。そりゃもう徹底的に。
しかし、それでも、どーしてもついていけないところもある。それが、この、いわゆる『ヲタク気質』なところであった。
「その点、幻想郷は素晴らしいところです!
巨乳は素晴らしく大きく、貧乳は美しく小さい! そして、その間のスレンダー美少女も盛りだくさん!
全てがその存在するべき領域で己の価値を主張しあっている、これぞまさに正しき理想郷!
というわけで、霊夢さんはそのままが一番です! ええ!」
鼻息荒くいい笑顔を浮かべ、びしっ、と親指立てる早苗の笑顔は、何と言うか、輝いていた。
わたし、言いたいこと言い切った、という具合に輝く彼女の笑顔は、ものすっげぇうざかった。
「まぁ、でも、ほら。
女の子の悩みは尽きないものですから。
そういうものに悩んで頭を使うよりも、もっと前向きなことに頭を使っていきませんか? もったいないですよ。ね?」
「……そ、そう、ね……」
霊夢としては、早苗の『そー言うところ』に注がれる頭と智慧と知識と情熱の方が無駄なんじゃなかろうかと思ったのだが、それは余計なことなので口にはしなかった。
というか、言ったが最後、徹底的に言い負かされるだろうということは目に見えていた。
霊夢は、目の前の穴に進んで嵌りに行くほどバカではないのである。
「ふっふっふ……!
今こそ、この、『200倍ズーム超光学望遠レンズ』を使うときっ!」
「暴れるな、落ちる!」
温泉を臨むことの出来る木の上を居場所としている二人。
文は早速、何やら超ごっついレンズを取り出すと、それをカメラへと取り付けている。フィルムを取りに行く際に、ついでに持って来たとのことだった。
そうしてカメラを構える文の姿は、狙撃手そのもの。『女の子スナイパー』と書くと何やらかっこいいが、やっていることは盗撮のデバガメ野郎である。
「いざ!」
文はカメラのレンズを二人へと向ける。
温泉でくつろぐ二人の少女。その姿を覆い隠すものは何もなく、肌色がレンズ一杯に広がる。
「シャッター……!」
彼女の指がシャッターを切るスイッチにかかった、その瞬間だった。
「なっ!?」
被写体の少女二人の、とりあえず詳しく書くと色々やばい箇所に向かって、強烈なレーザーが浴びせられる。
いや、それは、いきなりレンズの外から飛び込んできた閃光だった。
慌ててレンズを覗くのをやめて、自分の目で霊夢たちを確認する。そのような光はどこにもない。
ちっ、と舌打ちした文は、先の光源とは反対方向に移動すると、再びカメラを構える。
だが、しかし。
「何……だと……!」
再び、どこからともなく一条の光が飛び込み、文の撮影を邪魔する。
これは一体どうしたことか。
彼女は動揺の中、気づく。
「まさか……太陽さん……!」
燦々と、幻想郷に向かって優しい光を降り注がせる太陽さん。
しかし、彼は紳士であることを、文は忘れていたのだ。
「くっ! しかし、私は屈しない!
そうして何度、レンズを構えても、太陽さんは文の紳士的ではない行動を否定した。
あらゆる角度、あらゆる方角、そしてあらゆる位置からの撮影を試みる文に対して、全力で、『太陽バリア』を放つ。
……やがて、文は肩を落とし、撮影を諦めた。
一介の妖怪に過ぎない己に、幻想郷を支える光の源である太陽さん(紳士)に勝つことなど、最初から不可能だったのだ。
「お前、何してんだよ」
「……魔理沙さん。やはり、太陽は強敵でした」
「……は?」
「きっと声は大○明○です」
「意味わからん」
そうつぶやく魔理沙の耳に、『残念だったな、お嬢ちゃん』という、やたら渋い声が聞こえてきたような気がしたのだが、彼女はそれを『気のせい気のせい』とスルーしたのだった。
「あ~、気持ちよかった」
「そうですね。今日の疲れが吹き飛びました」
「じゃあ、晩御飯にしよっか」
「はい! お手伝いします!」
「うん。じゃあ、早苗は、食器とか出してテーブルに並べてて。あ、あと、お茶お願いね」
「……あの、わたしも包丁とか握りたいなぁ、って……」
「……ごめん。それだけは」
温泉から帰ってきて、時刻は午後の5時を過ぎている。そろそろ夕飯時だ。
二人はキッチンに立ち、料理を始める。
とはいえ、料理を作らせたら鍋だけではなくお釜すら爆破する早苗は、一切、調理器具には触らせてもらえず、何だか悲しそうな顔をしているのだが。
「あ~、腹減ったな~」
「そうですね。やっぱりアンパンと牛乳でしょうか」
「いや、そりゃ寂しいだろ」
霊夢と早苗が温泉から帰った後、せっかくだから、とお湯に浸かって来た二人も、空腹を堪能していた。
段々と、眺めている居間の方からいい香りが漂ってくる。
それがさらにすきっ腹にボディーブローのように強烈に効いて来るのだからたまらない。
「どうする?」
「これで早苗さんが『きゃっ、失敗しちゃった。霊夢さんごめんなさい』『仕方ないわねぇ、早苗は』とかみたいなきゃっきゃうふふ展開があればよかったんですけど、それもなさそうですしねぇ」
お茶の用意として、あっためたやかん片手に、すでに早苗は卓についてちょこんと座っている。
二人の間の距離はかなりのもの。これでは、『ちょっとしたミス』が発生する余地はないだろう。もしも発生するとしたら、わざとか思いっきり大騒動になるものだけだ。
「……私たちもご飯食べましょうか」
「そだな」
「近くに、今日、ミスティアさんの屋台が来てるんですよ。行きませんか?」
「お、いいねぇ」
「軽く一杯引っ掛けて、それからひょいと戻ってきましょう」
「よし、そうしよう」
というわけで、怪しい二人はこそこそと、早苗に気づかれないように神社を後にしたのだった。
「さて、それじゃ」
「頂きまーす」
それから、博麗神社の卓の上に料理が並んだのは30分ほど後。
早苗が来ているということで、霊夢も料理に力を入れたのだ。
メニューは、ご飯に味噌汁、焼き魚に付け合せの前菜、漬物、さらに肉と野菜の煮込みという、何とも豪華なものだった。
「これ、さんまですね」
「うん。紫がたまに持ってくるのよ。
『海の魚よ。食べなさい』って」
「やっぱり、秋といえば秋刀魚ですよねぇ」
もぐもぐと焼き魚を頬張る早苗。
ちなみに、彼女は『塩焼き派』で、霊夢は普通に上からしょうゆをかけて食べる派であった。
「ん~、美味しい。
こっちの煮物も味が染みてて美味しいですねぇ」
「だしが決め手なのよ。
あ、これ、博麗の門外不出だから。いくら早苗でも教えられないからね」
「あ、それは残念」
そして、霊夢が取り出したのは納豆であった。
曰く、『近くの人里の農家からもらったの』ということである。
「うわ、ほんとにわらに入った納豆って初めて見ました」
普通にパックで入っているものしか知らない早苗は、霊夢が開いたわらの中から出てくる納豆に興味津々といった具合である。
「これにしょうゆをかけるのが美味しいのよね」
「日本人に生まれてよかったと思える瞬間ですよね。
あ、霊夢さん、ねぎどうぞ」
「お、ありがと。さすが早苗、気が利く」
「いえいえ」
わいわい楽しい夕食の時間は過ぎていく。
霊夢は「これ、熱いうちに食べてね。冷めると味も冷めるから」と、煮物を示し、早苗は言われた通りに、それに箸を運ぶ。
白いご飯は見る見るうちになくなり、『霊夢さん、お代わりいかがですか?』と、早苗がおひつから霊夢のおわんにご飯をよそう。
「あ~、美味しかった。
ごちそーさま!」
「美味しかったです。
霊夢さんって、本当にお料理上手ですね」
「そりゃまぁ、お母さんも料理うまかったし、紫が『包丁も持てないなんて何やってるの!』って怒るから」
「あれ? じゃあ、霊夢さんの料理の腕前は紫さんが仕込んだんですか?」
「半分くらいはね。
けど、もう半分はお母さん仕込み」
この博麗神社に住まう巫女には、母親が『二人』いるのだな、と早苗は思った。
一方、自分の環境に当てはめてみると、『母親』ポジションには厳格な、しかし自分には甘い神様が、『父親』ポジションにはちびっこ神様が、なぜだかしっくりはまってしまう。
「わたしも料理の勉強しないと」
「いいんじゃない?」
「ダメです。
いいですか、霊夢さん。わたしは霊夢さんの『妻』になりたいんです。そして、料理というものは『妻』が用意するべきものだと思います」
「……またえらいところで、あんた、考え方が古いわね」
「そりゃ、家事は両者分担がいいとは思いますけれど。
だけど、キッチンは女の戦場とも言うじゃないですか。すなわち、キッチンを牛耳るのは『妻』なのですよ」
何だかよくわからないが、とりあえず、言いたいことは理解した、とばかりに霊夢はうなずいた。
そして、『……え? となると、私、旦那ポジション? 男扱い?』と、ちょっぴりへこんだりもしたのだが。
「お茶、どうぞ」
「あ、うん。ありがと」
「けれど、お茶を淹れるのは上手と、誰もに言われます」
「実際、早苗の淹れるお茶は美味しいんだけどね」
「……どうしてこうなった」
「……さあ」
ちなみに、彼女をキッチンに立たせないようにしているのは、彼女と一緒に暮らす二人の神様共通方針であるということを、霊夢はそこで聞かされた。
要するに、早苗をキッチンに立たせたが最後、後片付けで一日潰れてしまうからなのだろう。
しかし、それでも『最近はホットケーキだって作れるようになったんですよ!』と早苗は言う。
「いつかはこんな風に美味しいご飯を作れるようになりますから!」
「……無理しないでね?」
「はい!
とりあえず、今度、紅魔館で開かれる『お料理講習会』に申し込みをしておきました」
「……あ、あー、そうなんだ」
こりゃ、紅魔館の連中は大変だな、と霊夢はひそかに紅の館の者たちの冥福(※違います)を祈った。
「さて、それじゃ、後片付けしよっか」
「はい」
「あ、そうだ。
早苗、以前のゲーム、持ってきてる? あれ、続きやりたい」
「持ってきてますよ。多分、今日、クリアできるだろうから別のソフトも持ってきました」
「ほんと!? よっし!」
早苗が持ってるゲーム、面白いから好きなのよね、という霊夢の顔は年齢相応の子供の顔だった。
そんな彼女を見る早苗の目は、同年代の友達を見る瞳に、愛しいものを見守るような視線が含まれていた。
「もう夜ですねー」
「そうだな」
「実を言うと、私、鳥目なので夜中はあんまり外を飛び歩けないんですよ。
魔理沙さんの家に泊めてもらってもいいですか?」
「私ゃ、構わんぞ。寝るところがあるかどうかは別だが」
「Gですか」
「やめろその名前を口に出すな」
寝室へと移動した二人を眺める文と魔理沙。
寝巻きに着替えた二人の姿はなかなか見ることが出来ないため、これはこれで貴重なシーン、と文はカメラのシャッターを切りまくっている。
フラッシュを使わないのに、なぜか、真昼のようにくっきりとした写真を撮ることが出来るレンズを使っているらしい。どうやって作ったのかはさっぱりわからないのだが。
「何かこう……『おおっ!』と思えるシーンは来ないものでしょうか」
「もうちょい待とうぜ。
それがなかったら、今日はお開きだ」
「あいあいさー」
「ん~……! 遊んだ遊んだ~! 楽しかった!」
「それは何よりです」
「それじゃ、そろそろ寝る?」
「そうですね」
二人は、並べた布団にそれぞれ横になると部屋の明かりを消した。
ふっと、周囲が暗闇に包まれる。
しんと静まり返る室内。先ほどまで響いていた、にぎやかな女の子の声など、もうどこにも残っていない。
早苗はちらりと隣の霊夢を見る。
そのまま、しばらく何かを考えていた彼女は、もぞもぞと、布団の中で手を動かして、霊夢の手をちょいちょいと引っ張った。
それで霊夢も早苗の言いたいことに気づいたのか、ちょっとだけ恥ずかしそうに顔を赤くしてから、もぞもぞと、早苗の方に移動してくる。
「よいしょ」
「……もう。人を抱き枕にするのやめてよ」
「何言ってるんですか。最初に人のこと、枕にしてたの、霊夢さんじゃないですか」
だから、今回はわたしの番です、ということらしかった。
早苗にぎゅっと抱きしめられて、霊夢の顔は真っ赤だ。これでは眠れないのではないかと思われるくらいに、彼女は居心地が悪そうに身をよじる。
「霊夢さんって、ちょうど、抱きしめるのにいいんですよね~。
柔らかいし、あったかいし」
「……もう」
「それに、秋の夜は、冬ほどじゃないけど冷えますよ」
「そりゃそうだけどさ」
「暖房に慣れた現代娘には、幻想郷の夜は厳しいんです。だから、ちょっとだけ協力してくださいね」
「……はいはい。わかったわかった。
じゃ、お休み」
あくまでいやそうに、めんどくさそうに。
しかし、早苗にだけわかる、嬉しそうな響きを載せて。
霊夢はさっさと目を閉じて、早苗の腕の中で体を丸くしてしまった。
早苗は、そんな霊夢の頭をなでつつ、ゆっくりと目を閉じて息を吐く。
――明日も一日、幸せな日でありますように。
巫女の祈りは神へのお願い。信仰心豊かな巫女には、神様は必ず応えてくれる。早苗は、『お願い』という名の脅迫を神様に向けてから、静かに眠りに落ちていったのだった。
「きたぁぁぁぁぁぁぁっ!
大スクープ! 博麗の巫女と守矢の巫女! 一つの布団で眠る! これはいける! これだけで1万部いけるっ!」
「おい落ち着け! 声がでかいぞ!」
と、二人そろって、小さな声で大声を上げたりする。
文は遠慮なくシャッターきりまくり、フィルムが尽きるまで写真を撮影した後、『私、やりきった!』といわんばかりのつやつやした笑顔を魔理沙に向けた。
「いやぁ、今日はいい日でした。こんなにスクープが撮影できるなんて」
「まぁ、私も、霊夢をからかうネタが大量に集まってラッキーだったぜ。
今日は神様に感謝しないとなー」
「全くですよねー」
あっはっは、と笑いあう二人。
やがて、どちらからともなく、『さて』とその場を去る用意を始める。
「お前、その写真、どうするんだ?」
「とりあえず、よさげなものを新聞に載せて……あとは、私の思い出アルバムに入れておきますよ」
「私は、これをネタに霊夢を散々からかってやるぜ。
最近、霊夢に主導権をとられることが多かったからな。どっちが上か、思い知らせてやるぜ」
「ふっふっふ。霧雨屋、おぬしもわるよのぅ」
「いえいえ、お代官様にはかないませんで」
互いに悪党な笑顔を向けあって、『それじゃ帰りましょうか』と博麗神社を少し離れた――その時であった。
「今日はいい月が出てるなー。
どうだ、文。また一杯」
「お、いいですねぇ。いきましょいきましょ」
「そう。
それなら、外の世界のお酒も楽しめる『八雲屋』にいらしていただけるかしら?」
――二人の後ろから響く、そんな声。
二人の、浮かべていた笑顔がそろって引きつった。
同時に手足の動きも消え、まるで人形のように硬直する二人。
ゆっくり、ゆっくりと。ぎぎぎぎぃっ、という音を立てながら後ろを振り向けば、
「美味しいおつまみもお待ちしておりますわ。どうぞ、いらしてくださいませ?」
『ごごごごごごご!』という擬音を背中に背負って、にっこり微笑む妖怪の賢者の姿。
口許を扇子で隠して微笑む彼女の瞳は、はっきり言って、これっぽっちも笑っていなかった。
「え、えーっと……あ、あの、私たち……その……持ち合わせが……」
「あら、大丈夫よ。うちはお金なんて取らないから。
やってくる人を出迎え、歓待するのは人付き合いの基本でしょう?」
「いや、その……うちは戸締りの時間というか門限があってさ……そろそろ帰らないと……」
「まあ、それは大変。
でしたら、わたくしが、おうちまですぐにお送り差し上げますよ。一分もかからずに、ね?」
二人は互いに顔を見合わせると、大きく、うなずいた。
瞬間、二人は彼女――八雲紫に背を向け、全力で逃げ出そうとする。
しかし、
「あいたっ!?」
「でっ!? な、何だこれ! 壁!?」
「結界術。
それは、この世の中に別の世界を作り出す技術。境を通して界を割り、もって此岸に彼岸を顕現させる。
はっきり言って、霊夢の結界術なんてまだまだ子供の技術。早苗ちゃんのにいたっては児戯にも等しい。
この、界を操る妖怪の前ではね」
恐る恐る後ろを振り返る二人。
紫は口許を隠していた扇子をぱたんと畳んでいた。
月光に照らし出される、冷たい笑顔。
気の弱い人間なら、冗談抜きにショック死させられるような視線を、彼女は二人に向けている。
「ただ、それをあなた達の胸の中に隠しておくだけなら寛容にもなったものを。
それをよりにもよって外に出すなんて許されると思っている? 私のかわいい霊夢の幸せを笑いの種にしようなんて……ねぇ?」
「い、いいいいやあの、じょ、冗談ですよ冗談! ね、ねぇ、魔理沙さん!?」
「そ、そそそう! そう、冗談だ、冗談! そ、そんなことするわけないじゃないか!
霊夢は私の大切な友人だからな! な、な、そうだよな、文!」
「え? え、ええええ、そ、そそそそうですとも!」
「うふふ、そう。それならいいの。それなら安心できるわ」
紫の声の質が変わった。
あらゆる物を壊し、結界の狭間に飲み込んでしまう深淵の響きから、普段の優しい声へと。
二人はほっと胸をなでおろし、紫の笑顔を見て――、
「けれど、お仕置きは必要よね?」
その瞬間、二人は『死』を覚悟した。
「まだ霊夢にも見せたことのない、私の深淵なる深遠の弾幕結界――とくとご覧あれ」
無数の界の狭間が開き、強烈な閃光を携える。
それが無数に周囲に現れ、その口を、魔理沙と文の二人に容赦なく向ける。
紫はゆっくりと右手を振り上げる。
それを見ながら、二人は乾いた笑顔と共につぶやいた。
「なぁ……文」
「はい……魔理沙さん」
「私ら、明日の朝日、拝めるのかなぁ……」
「……無理じゃないっすかね?」
――自分の行なった行為は、必ず、その結末から繰り出される縁の糸が自分へと戻り、結び、つながってくる。
それを人は『因果応報』と言うのです。
とても勉強になりましたね。
「全くもう……。ほんと、無神経なんだから」
早苗は布団の中で、霊夢を抱きしめながらつぶやく。
少しだけ顔を窓の向こうに向けて、夜空を見上げながら、
「とことん反省してくださいね」
あっかんべー、と舌を出した後、彼女はまた霊夢をしっかりと抱きしめて眠りに落ちる。
遠くから響く壮烈な轟音と、少女たちの悲鳴をBGMにしながら。
紫さんのいいお母さんっぷりも最高です
早苗さんの方が若干年上っぽいというだけでご飯が食べられる自分にはたまりませんな!
やっぱりお姉ちゃんな早苗さんと妹みたいな霊夢は素晴らしい。
ところでその2以降は別のカップリングの作品になるんでしょうかね? 心待ちにしています。
今後の作品も楽しみです
定期的に読み返しては、幸せな気分に浸らさせて頂いております。
つまりは、毛色の似ている本作品も、もちろん大好きになったのであります。
良い。ひたすら良いな、この巫女組は。年上上位展開万歳。
霊夢の甘えん坊攻撃をガッシリと受け止める早苗さん。互いの魅力を見事に引き出し合っておるわ。
出歯亀組もグッド。甘々な味付けに変化をもたらす隠し味の働きを最後まで全うしましたものね。
そして最後はやっぱり紫様。
普段であれば間違いなく白黒二人に加担するであろう困ったちゃんも、霊夢が絡めば話は別っすよね。
悪即斬の問答無用っぷりは、流石『お母さん症候群』重度罹患者の面目躍如というべきか。
とにかく理屈抜きで楽しめました。
素敵な作品をありがとうございます。
残念でもないし当然。パパラッチらしい最後と言える
霊夢も早苗と一緒でない時なら文たちに気づくだろうなと思うと安心度合いがわかりますね
しかし太陽さん紳士ぶってるがあなたガッツリ覗いてますよねw
イチャイチャの二人はもちろんですがパパラッチ組も良い感じですね