1.東の国の眠らない夜
「ねえ、メリー。お伊勢参りって知ってる?」
「伊勢海老の食べ放題のことかしら?」
絵に描いたジャングルのような緑溢れる山を背に、水墨画のように淡白な都市が広がっていた。
環境保護と遷都という全く接点のない出来事が、この都市を創り上げていた。
「全然違うわよ。メリーって本当、日本に疎いわよね」
「日本に身寄りがいない也に、頑張っているつもりなんだけどね」
首都となったことで、京都はその淡白さに益々磨きがかかっていた。
自動車という時代遅れの機械が通らなくなった烏丸通は、年がら年中歩行者天国だった。自転車でさえ、その危険性から規制される時代だ。縁日の神社のように、烏丸通は歩みを止めない人々で溢れていた。
大半が、時代遅れの背広姿に身を包んでいた。
自動車をはじめ、様々な時代遅れを排除した人間だったが、自分たちの服装に関しては御座なりだった。全てを管理しなければ気が済まないからこそ、外見を管理することは結局止められなかった。
古今東西、仕事を求める人間は首都圏に集まるものだ。そんな人間を相手取るために、更に多くの人間が集まった。
現在の京都には、これまで以上に多くの人間が集まっていた。
「で、本題だけれど」
「伊勢海老の食べ放題ではないのなら、お伊勢参りって何なのかしら?」
背広に身を包んだ人々は、皆一様に疲れた顔をしていた。
まるで伊勢海老の殻のような服を着ながら、首都の人々は夜も眠らずに働き続けるのだ。
「ええじゃないかって、聞いたことない?」
2.レトロスペクティブ京都
「えらく投げ遣りな言葉ね」
「メリーなら、そう言うと思ったわ」
烏丸通から、適当な細い路地に逸れた。
碁盤の目のような街並みをしているのが、昔からの京都の特徴だった。そういう几帳面なところが、また淡白なのだとマエリベリー・ハーンには思えていたのだが、いざ暮らしてみれば大変便利だった。
宇佐見蓮子の地元である東京の街並みは、まさしく迷宮だった。
一昔前は首都だったという事実が、メリーには未だに信じられなかった。
「こっちが近道なのよね」
「大学まで一直線ね、便利だけど遠いのが難点だわ」
烏丸通から一歩でも離れた途端、人の数はぐっと減った。
首都と観光都市という境界線で区切られていた。二人は首都という淡白な都市から、観光都市というこれもまた淡白な都市へと、境界を潜り抜けていた。
「メリーが地下鉄に乗ると厄介だものね」
「道を聞いてくる外国人で引っ切り無しは、さすがに勘弁願いたいわ」
小さな祠の前を過ぎた。
他の都市ならば名前も知られないはずのその祠には、手前に仰々しい木の札が立てられていた。
観光都市として何でも利用する、京都らしさが感じられた。
京都は日本有数の観光地として名を馳せてきた。首都となった今でもそれは変わらない。
碁盤の目のような街並みを、人々は崩すことを恐れた。方角や四神などという不可思議なものを受け入れたのではなく、完成された秩序を崩すことを恐れたのだ。
結果、京都は遷都により一段と淡白になった。
水墨画のように薄っすらとした情景の横たわる都市だ。昔の街並みから変化した場所は、少しもなかった。
京都は観光都市として、昔と変わらず存在していた。
「そういえば此処にも面白い話があってねえ、メリー」
「その言い方だと、さっきのええじゃないかって言葉にも関係がありそうね」
旧い道と新しい道とが一筋のズレもなく重なっていた。
待っていましたと言わんばかりに蓮子は頷いた。
「空からね。御札が降ってくるのよ」
3.少女が見た日本の原風景
穏やかな緑を湛える山々を背に、旧い街並みが何処までも続いている。
立ち並ぶ家屋は、どれも現代のものより低かった。そのおかげで随分と遠くまで見通すことが出来た。連なる峰も、ずっと堂々としているように見えた。
ええじゃないか。ええじゃないか。
掛け声のような威勢の良い声が、何処からともなく聞こえてくる。
一人ではない、数人程度のものでもない。
何十人、或いは何百人と言えるほどの、多くの声が折り重なった掛け声だった。
御祭りだろうか。
無数の声が折り重なったそれは、祭囃子のように聞こえなくもない。
メリーは固唾を呑み、じっと耳を傾ける。
4.スカイルーイン
あらゆる方向から聞こえてくる。
はっきりと聞こえているのに、何処からなのかは捉え切れない。
堪らずメリーは駆け出した。好奇心には猫のように従った。
旧い街並みを縦横無尽に駆け回る。
鳥船遺跡のように重力は軽くないため、すぐに息が荒くなった。それでも駆け回るのは止めず、ひたむきに走り続ける。大きな路地、小さな路地、更には大通りと呼べそうなほどに広い路地にも踊るように身を乗り出す。
どの路地も、そして連なる家屋も、すべて旧かった。
ええじゃないか。ええじゃないか。
祭囃子のような掛け声は、途切れることはなかった。
息遣いさえ感じてしまいそうなほど鮮明に聞こえていた。
だと言うのに、人の影は一つも見つけられなかった。
肩で息をつきながら立ち竦む。
熱病にかかったかのような昂揚感は、見る見る内に萎んでいった。地上の安定した重力感とそれに伴う疲労感とが、そうさせたのかも知れない。
一際、大きく息を整えてから、メリーは空を仰いだ。
目を剥いた。
無数の紙片――御札が、天から降っていた。
5.旧地獄街道を行く
「……という所で目が覚めたのよ」
「何だ、もう知っていたのね」
「夢の中だけど、一応は」
お伊勢参りとは、江戸時代に起こった伊勢神宮への集団参詣である。
数百万人という膨大な数の人々が、特定の時期にこぞって伊勢にある神宮を目指したと言われている。
ええじゃないかという言葉は、このお伊勢参りとも深く関係しているのだ。
「でも、メリーの夢とは少し違っているのよね」
「私はこの目で見てきたわよ、夢だけど」
時代の流れの中で、伊勢の神宮は荒廃した。
これを憂いて活動をはじめたのが、御師と呼ばれる宗教者たちだった。彼らは神宮の御札を民衆の間にばら撒き、伊勢神宮への参詣を呼びかけた。
江戸時代に入って世の中が安定してくると、民衆は観光もかねて伊勢神宮へと参詣するようになった。伊勢へと赴き、帰り道には足を伸ばして大阪や京都へと観光するちゃっかり者も、多く見られるようになった。
世の中が安定すると、人々が現世利益に走るようになるのは、昔から変わらなかった。
お伊勢参りは、神社は観光地なのだと見なされる切欠の一つとなった。
「へえ、蓮子ってそういうのに無駄に詳しいわよね」
「無駄には余計よ。ちなみに、伊勢神宮ってのはある意味では間違った呼び方なのよ。本当は単に、神宮と言うのが正しいの。伊勢にある神宮だから、あくまでも伊勢神宮って呼んでいるに過ぎないの。そのほうが世間には分かり易いからね」
「ふうん、それにしても現金な話よね。その御師って人たちが御札をばら撒いたのも、参詣に行った人たちが大阪や京都に観光しに行ったのも」
メリーが見た夢とも、あまり繋がりはなかった。
夢で見た無数の御札は、ばら撒かれるよりも、降り注いでいると言うのが正しかった。
「空から御札かあ、気になるなあ」
「見たいって言うんでしょう」
「そりゃあ当然」
「此処で起こったのなら幸いね、今夜は此処から見に行きましょう」
6.ラストリモート
「ああ、すごく聞こえるわね」
「でしょう?」
二人は旧い京都の街中にいた。
メリーの夢の中である。
ええじゃないかという掛け声は、祭囃子のように聞こえ続けている。
「とりあえず追い駆けてみましょうか」
「また追い駆けるの? 私はもう駆け回ったんだけど」
「一人より二人よ。二人なら追いつけるかも知れないわ」
前回の夢と同じように、様々な旧い路地を走り回る。
碁盤の目のような街並みは現実とも然程変わらなかった。普段から、現実との境界を越えては遊んでいる二人にとって、少々退屈にもなりそうな景色だった。
好奇心は猫をも殺す。
退屈や焦燥は、人間さえも殺しかねなかった。
「メリー、見つかった?」
「見つけた人影は、あなたみたいな気持ち悪い目の持ち主だけよ」
「右に同じね」
ええじゃないか。ええじゃないか。
「ああもう、なにが良いのよ! こっちは良くないわよ!」
「見事に無視されているわよ、蓮子」
祭囃子のような声は止まらなかった。
二人揃って空を仰ぐが、御札らしきものは影も形も見当たらなかった。
何かが違う。
メリーはそう感じた。
「蓮子」
「何かしら、メリー」
「お伊勢参りとええじゃないかって言葉は、深い関係があるって言ったわよね」
「ええ、そうだけど」
「詳しく教えて」
ええじゃないかという掛け声は、祭囃子のように聞こえ続けている。
7.廃獄ララバイ
ええじゃないかという言葉は、江戸時代末期に起こった社会現象を表していた。
天から御札が降ってきた。
これを当時の人々は慶事だと考え、ええじゃないかええじゃないかと騒ぎ立てながら集団で練り歩いたというのが、大まかな流れだ。
「そもそも、その現象を〝ええじゃないか〟と表したのは、後世になってからなのよ。当時は〝おかげ〟とか〝おかげ騒動〟などと言われていたみたい。お伊勢参りは、お蔭参りと呼ばれることもあるからね」
「御札ってところが肝になっていそうね。でも、そのお伊勢参りでは、御師が配った御札とされているのでしょう? だったら、ええじゃないかという社会現象は、どうしておかげ騒動なんて呼ばれたのかしら?」
ええじゃないかの目的については諸説ある。
世直しを訴える民衆運動、討幕派による国内混乱、民衆の不満をガス抜きするための幕府の企み等々、枚挙に暇がないほどだ。ええじゃないかという言葉とともに、政治について騒ぎ立てていた事例もあることから、民衆による集団運動と一般的には考えられていた。
「ええじゃないか、日本の方言よね」
「メリーにも分かり易く説明するなら〝ええ〟は〝良い〟という意味でよく使われるわよ。つまり、ええじゃないかは、肯定的な響きと考えるのが妥当ね」
蓮子の言うとおりであり、尚且つ前述した諸説のとおりならば、自暴自棄のような言葉に思えた。
江戸時代の末期とも言えば、否が応でも時代の動きを感じたはずだ。
外国からの船舶襲来。尊皇攘夷の勃興。江戸幕府の支配の終わり。
それまで続いた秩序が崩れてしまったかたちだ。それを、ええじゃないかええじゃないかと肯定的な言葉で騒ぎ立てるのは、どうしても不自然に思えてならなかった。
民衆が、果たしてそれほどまでに短絡的になれるのだろうか。
世直しや陰謀などのつまらない目的のために、江戸時代の人々はそこまで大きく動けたのだろうか。
ええじゃないかええじゃないかと、祭囃子のように威勢よく、唱えられただろうか。
民衆運動、討幕派、江戸幕府。天から降ったと伝えられる御札。
御師が配った御札――果たしてそれは、本当に御師という宗教者が配ったのか。
「ねえ蓮子、時代の中で伊勢神宮は荒廃したって言ったわよね」
「へ? ええ、言ったわよ。戦乱の時代があって、式年遷宮さえ行えない時期があったらしいわ」
メリーは確信を得たように頷いた。
「なら、答えは簡単ね」
「へ? 今日のメリーも何か変よ?」
「御札を配ったのは他でもない。伊勢の神宮に住まわれる、神様御本人よ」
8.信仰は儚き人間の為に
ええじゃないか。ええじゃないか。
祭囃子のような威勢のいい掛け声は、片時も休まることはなかった。
「へ? ねえ、メリー。あなた本格的に可笑しくなってない?」
「御師という人間が配ったなんて創作よ、空から御札が降ってくるなんて不思議な出来事を、人々が信じ切れずに否定しただけ。伊勢の神宮に来てほしいと心の底から願ったのは、他でもない。伊勢に住まう神様御本人よ」
メリーが天を仰ぎ、蓮子も続く。
目を剥いた。
無数の紙片――御札が天から振ってくるのが、蓮子にも見えていた。
「荒廃した自分の住まいを見て、神様はさぞ頭を悩ませたでしょうね。式年遷宮さえ行えないほどに荒れていたのでは、信仰を集めることも出来ない。だから、こうして天から神宮の御札をばら撒いて、人々の関心を寄せ集めた」
「でも、人々は足を運んだと言っても、結局は観光地みたいな扱いになっちゃったわよ」
「それでも良いと神様は考えた。観光地として扱っても良いと人々に教え広めたのよ。だから人々は、天から降った御札を見てこう言った」
ええじゃないか。ええじゃないか。
観光地と思ってしまっても、ええじゃないか。
「ええじゃないか、とね。伊勢の神宮に住まわれる神様は、それだけ太っ腹に考えたのよ。是が非でも、荒れ果てた住まいを放置しておくのは避けたかった。そういう意味では、一世一代の賭けを行ったって訳ね」
「じゃあ、人々がええじゃないかと騒ぎ立てたのは」
「神様直々に教えて貰ったからよ。民衆運動とか討幕派とか、そんな小さな関与で人々が動かせるはずないもの」
ええじゃないかという社会現象は、実はまだ起源がはっきりとしていなかった。
「時代の大きな流動に疲れた人々が、ええじゃないかと騒ぎ立てて世直しを訴えた。いかにも合理的な理由で、本当の理由を隠したのよ。天から御札が降ったという不思議な現象を受け入れなかったのと、同じようにね」
「神様から配られた御札ねえ。結果的に、民衆運動と人々に捉えられてしまった神様御本人は、果たしてどう思っているのかしら」
「意外と気にしてないんじゃない?」
天から降ってきた御札を、メリーは手に取った。
細い路地を抜けて大通り――烏丸通に出た。
「やっと見つけたわね、蓮子」
「これはちょっと想像以上よ、メリー」
ええじゃないか。ええじゃないか。
大通りを埋め尽くさんばかりの人々が、声も高々に囃し立てていた。
熱気が沸き立つほどの、人、人、人。男も女も老いも若いも関係なく、皆一様に大口を開けながら練り歩いていた。
二人の傍らを同年代くらいの少女が横切った。そのまま振り返ることもなく人混みへと紛れ込み、すぐに見えなくなってしまう。躊躇した様子は微塵もなかった。
南へと進み続ける人の波は、途切れることがない。
ええじゃないかという掛け声は、祭囃子のように聞こえ続けている。
お伊勢参り。
伊勢神宮を目指す人々の顔は、活き活きとしていた。
9.プレインエイジア
奇跡というのは起こらないからこその奇跡なのだと、誰かは言う。
ならば、実際に起こってしまった奇跡は何と呼べば良いのだろうか。
簡単なことである。
なかったことにしてしまえば良いのだ。
天から御札が降ることなど有り得ないことであり、だからこそ御師が配ったと後世には伝えられている。そこには奇跡が、伝わる途中でなかったことにされた可能性もあった。もっともらしい理由を後付して、人々は自らの想像力を封じ込めてしまったのだ。
伊勢の神宮に住まわれる神様も、さぞ頭を悩ませられていることだろう。
実際に御札を降らしたのに、人間はそれを頭から信じないのだ。
なかったことにしてしまい、奇跡をその目で見ようとはしない。想像しようともしない。不思議な出来事だと思うでしょう、でも実際にはこういう理由だからねと、勝手に答えを捏造してしまうのだ。
これでは奇跡を振るう甲斐もないだろう。
時代を遡り、歴史を改竄する能力を、人は身に着けてしまった。
神様の奇跡を否定し、自らの想像力すらも否定した人間は、それで世の中の現象を全て解き明かした気になったのだ。
自らの頭で解決することだけを、人間は追い求めてきた。
そこに、奇跡や想像などの入る余地はなかった。
なかったことにしたのだ。
ええじゃないか、ええじゃないか。
祭囃子のように威勢よく肯定することさえ、人々はなかったことにした。
「さあ蓮子、私たちもお伊勢参りと行きましょうか」
10.明日ハレの日、ケの昨日
「えっとね、メリー。私もそれには同意したいのだけれど、さすがに講義が」
「あら、抜け参りっていうのがあるじゃない」
お伊勢参りには、抜け参りという別の呼び名があった。
集落や奉公先から無断で抜け出し、お伊勢参りの集団にこっそりと紛れ込むのだ。無断で抜け出したとしても、帰りに伊勢の神宮へと参詣した証拠を見せれば、お咎めを受けなかった。
「注意されたら、この御札を見せれば良いわ」
「メリーが夢の中で拾った物だけどね」
「それなら尚更よ。伊勢に住まわれる神様は仰っているわ、ええじゃないかってね」
メリーの手にした御札には、達筆過ぎて読めない文字が画かれていた。
踊るような筆字には、何とも言えない愛嬌が感じられた。
「神様御本人からの招待状よ、無視する訳にはいかないでしょう?」
「神様直々の招待状かあ。それなら、普通では見られないものも見させてもらえるかしら?」
「当たり前よ。私は勿論、蓮子にだって見せてくれるはずよ。だって、ええじゃないかって言葉を教え広めるほどの、太っ腹な神様なのよ」
「良いわね。第二回メリーの快気祝いってことで、早速準備しなくちゃ」
時代を遡って改竄された歴史を、二人は遡って訂正する。
「蓮子の話では、丁度、式年遷宮も間近だったわよね」
「この招待状があれば御神体だって見させて貰えるかも知れないわ。目を潰されるとかの話も聞くけれど、蓬莱の薬での不老不死を否定するくらい眉唾物よね。どれだけ素晴らしいのか、昔の人々は知っていたに違いないわ」
ついでに、少女特有の姦しい旅程も二人は描き続ける。
「宝永四年の赤い物も食べてみたいわね。甘味はやっぱり捨て難いわ」
「メリー、また太るわよ。私は煙管を試してみたいかなあ、ちょっと粋な仕草でね」
「蓮子、相変わらず愛煙家ねえ」
「江戸出身ですから。小粋な物にはどうしても惹かれちゃうのよ」
二人は、すでにメリーの夢から覚めていた。
細い路地から垣間見える烏丸通には、時代遅れの背広姿を纏った人々しか練り歩いていない。
それでも、二人の耳には確かに聞こえていた。
ええじゃないか、ええじゃないかと、祭囃子のように威勢の良い掛け声が。
「ねえ、メリー。お伊勢参りって知ってる?」
「伊勢海老の食べ放題のことかしら?」
絵に描いたジャングルのような緑溢れる山を背に、水墨画のように淡白な都市が広がっていた。
環境保護と遷都という全く接点のない出来事が、この都市を創り上げていた。
「全然違うわよ。メリーって本当、日本に疎いわよね」
「日本に身寄りがいない也に、頑張っているつもりなんだけどね」
首都となったことで、京都はその淡白さに益々磨きがかかっていた。
自動車という時代遅れの機械が通らなくなった烏丸通は、年がら年中歩行者天国だった。自転車でさえ、その危険性から規制される時代だ。縁日の神社のように、烏丸通は歩みを止めない人々で溢れていた。
大半が、時代遅れの背広姿に身を包んでいた。
自動車をはじめ、様々な時代遅れを排除した人間だったが、自分たちの服装に関しては御座なりだった。全てを管理しなければ気が済まないからこそ、外見を管理することは結局止められなかった。
古今東西、仕事を求める人間は首都圏に集まるものだ。そんな人間を相手取るために、更に多くの人間が集まった。
現在の京都には、これまで以上に多くの人間が集まっていた。
「で、本題だけれど」
「伊勢海老の食べ放題ではないのなら、お伊勢参りって何なのかしら?」
背広に身を包んだ人々は、皆一様に疲れた顔をしていた。
まるで伊勢海老の殻のような服を着ながら、首都の人々は夜も眠らずに働き続けるのだ。
「ええじゃないかって、聞いたことない?」
2.レトロスペクティブ京都
「えらく投げ遣りな言葉ね」
「メリーなら、そう言うと思ったわ」
烏丸通から、適当な細い路地に逸れた。
碁盤の目のような街並みをしているのが、昔からの京都の特徴だった。そういう几帳面なところが、また淡白なのだとマエリベリー・ハーンには思えていたのだが、いざ暮らしてみれば大変便利だった。
宇佐見蓮子の地元である東京の街並みは、まさしく迷宮だった。
一昔前は首都だったという事実が、メリーには未だに信じられなかった。
「こっちが近道なのよね」
「大学まで一直線ね、便利だけど遠いのが難点だわ」
烏丸通から一歩でも離れた途端、人の数はぐっと減った。
首都と観光都市という境界線で区切られていた。二人は首都という淡白な都市から、観光都市というこれもまた淡白な都市へと、境界を潜り抜けていた。
「メリーが地下鉄に乗ると厄介だものね」
「道を聞いてくる外国人で引っ切り無しは、さすがに勘弁願いたいわ」
小さな祠の前を過ぎた。
他の都市ならば名前も知られないはずのその祠には、手前に仰々しい木の札が立てられていた。
観光都市として何でも利用する、京都らしさが感じられた。
京都は日本有数の観光地として名を馳せてきた。首都となった今でもそれは変わらない。
碁盤の目のような街並みを、人々は崩すことを恐れた。方角や四神などという不可思議なものを受け入れたのではなく、完成された秩序を崩すことを恐れたのだ。
結果、京都は遷都により一段と淡白になった。
水墨画のように薄っすらとした情景の横たわる都市だ。昔の街並みから変化した場所は、少しもなかった。
京都は観光都市として、昔と変わらず存在していた。
「そういえば此処にも面白い話があってねえ、メリー」
「その言い方だと、さっきのええじゃないかって言葉にも関係がありそうね」
旧い道と新しい道とが一筋のズレもなく重なっていた。
待っていましたと言わんばかりに蓮子は頷いた。
「空からね。御札が降ってくるのよ」
3.少女が見た日本の原風景
穏やかな緑を湛える山々を背に、旧い街並みが何処までも続いている。
立ち並ぶ家屋は、どれも現代のものより低かった。そのおかげで随分と遠くまで見通すことが出来た。連なる峰も、ずっと堂々としているように見えた。
ええじゃないか。ええじゃないか。
掛け声のような威勢の良い声が、何処からともなく聞こえてくる。
一人ではない、数人程度のものでもない。
何十人、或いは何百人と言えるほどの、多くの声が折り重なった掛け声だった。
御祭りだろうか。
無数の声が折り重なったそれは、祭囃子のように聞こえなくもない。
メリーは固唾を呑み、じっと耳を傾ける。
4.スカイルーイン
あらゆる方向から聞こえてくる。
はっきりと聞こえているのに、何処からなのかは捉え切れない。
堪らずメリーは駆け出した。好奇心には猫のように従った。
旧い街並みを縦横無尽に駆け回る。
鳥船遺跡のように重力は軽くないため、すぐに息が荒くなった。それでも駆け回るのは止めず、ひたむきに走り続ける。大きな路地、小さな路地、更には大通りと呼べそうなほどに広い路地にも踊るように身を乗り出す。
どの路地も、そして連なる家屋も、すべて旧かった。
ええじゃないか。ええじゃないか。
祭囃子のような掛け声は、途切れることはなかった。
息遣いさえ感じてしまいそうなほど鮮明に聞こえていた。
だと言うのに、人の影は一つも見つけられなかった。
肩で息をつきながら立ち竦む。
熱病にかかったかのような昂揚感は、見る見る内に萎んでいった。地上の安定した重力感とそれに伴う疲労感とが、そうさせたのかも知れない。
一際、大きく息を整えてから、メリーは空を仰いだ。
目を剥いた。
無数の紙片――御札が、天から降っていた。
5.旧地獄街道を行く
「……という所で目が覚めたのよ」
「何だ、もう知っていたのね」
「夢の中だけど、一応は」
お伊勢参りとは、江戸時代に起こった伊勢神宮への集団参詣である。
数百万人という膨大な数の人々が、特定の時期にこぞって伊勢にある神宮を目指したと言われている。
ええじゃないかという言葉は、このお伊勢参りとも深く関係しているのだ。
「でも、メリーの夢とは少し違っているのよね」
「私はこの目で見てきたわよ、夢だけど」
時代の流れの中で、伊勢の神宮は荒廃した。
これを憂いて活動をはじめたのが、御師と呼ばれる宗教者たちだった。彼らは神宮の御札を民衆の間にばら撒き、伊勢神宮への参詣を呼びかけた。
江戸時代に入って世の中が安定してくると、民衆は観光もかねて伊勢神宮へと参詣するようになった。伊勢へと赴き、帰り道には足を伸ばして大阪や京都へと観光するちゃっかり者も、多く見られるようになった。
世の中が安定すると、人々が現世利益に走るようになるのは、昔から変わらなかった。
お伊勢参りは、神社は観光地なのだと見なされる切欠の一つとなった。
「へえ、蓮子ってそういうのに無駄に詳しいわよね」
「無駄には余計よ。ちなみに、伊勢神宮ってのはある意味では間違った呼び方なのよ。本当は単に、神宮と言うのが正しいの。伊勢にある神宮だから、あくまでも伊勢神宮って呼んでいるに過ぎないの。そのほうが世間には分かり易いからね」
「ふうん、それにしても現金な話よね。その御師って人たちが御札をばら撒いたのも、参詣に行った人たちが大阪や京都に観光しに行ったのも」
メリーが見た夢とも、あまり繋がりはなかった。
夢で見た無数の御札は、ばら撒かれるよりも、降り注いでいると言うのが正しかった。
「空から御札かあ、気になるなあ」
「見たいって言うんでしょう」
「そりゃあ当然」
「此処で起こったのなら幸いね、今夜は此処から見に行きましょう」
6.ラストリモート
「ああ、すごく聞こえるわね」
「でしょう?」
二人は旧い京都の街中にいた。
メリーの夢の中である。
ええじゃないかという掛け声は、祭囃子のように聞こえ続けている。
「とりあえず追い駆けてみましょうか」
「また追い駆けるの? 私はもう駆け回ったんだけど」
「一人より二人よ。二人なら追いつけるかも知れないわ」
前回の夢と同じように、様々な旧い路地を走り回る。
碁盤の目のような街並みは現実とも然程変わらなかった。普段から、現実との境界を越えては遊んでいる二人にとって、少々退屈にもなりそうな景色だった。
好奇心は猫をも殺す。
退屈や焦燥は、人間さえも殺しかねなかった。
「メリー、見つかった?」
「見つけた人影は、あなたみたいな気持ち悪い目の持ち主だけよ」
「右に同じね」
ええじゃないか。ええじゃないか。
「ああもう、なにが良いのよ! こっちは良くないわよ!」
「見事に無視されているわよ、蓮子」
祭囃子のような声は止まらなかった。
二人揃って空を仰ぐが、御札らしきものは影も形も見当たらなかった。
何かが違う。
メリーはそう感じた。
「蓮子」
「何かしら、メリー」
「お伊勢参りとええじゃないかって言葉は、深い関係があるって言ったわよね」
「ええ、そうだけど」
「詳しく教えて」
ええじゃないかという掛け声は、祭囃子のように聞こえ続けている。
7.廃獄ララバイ
ええじゃないかという言葉は、江戸時代末期に起こった社会現象を表していた。
天から御札が降ってきた。
これを当時の人々は慶事だと考え、ええじゃないかええじゃないかと騒ぎ立てながら集団で練り歩いたというのが、大まかな流れだ。
「そもそも、その現象を〝ええじゃないか〟と表したのは、後世になってからなのよ。当時は〝おかげ〟とか〝おかげ騒動〟などと言われていたみたい。お伊勢参りは、お蔭参りと呼ばれることもあるからね」
「御札ってところが肝になっていそうね。でも、そのお伊勢参りでは、御師が配った御札とされているのでしょう? だったら、ええじゃないかという社会現象は、どうしておかげ騒動なんて呼ばれたのかしら?」
ええじゃないかの目的については諸説ある。
世直しを訴える民衆運動、討幕派による国内混乱、民衆の不満をガス抜きするための幕府の企み等々、枚挙に暇がないほどだ。ええじゃないかという言葉とともに、政治について騒ぎ立てていた事例もあることから、民衆による集団運動と一般的には考えられていた。
「ええじゃないか、日本の方言よね」
「メリーにも分かり易く説明するなら〝ええ〟は〝良い〟という意味でよく使われるわよ。つまり、ええじゃないかは、肯定的な響きと考えるのが妥当ね」
蓮子の言うとおりであり、尚且つ前述した諸説のとおりならば、自暴自棄のような言葉に思えた。
江戸時代の末期とも言えば、否が応でも時代の動きを感じたはずだ。
外国からの船舶襲来。尊皇攘夷の勃興。江戸幕府の支配の終わり。
それまで続いた秩序が崩れてしまったかたちだ。それを、ええじゃないかええじゃないかと肯定的な言葉で騒ぎ立てるのは、どうしても不自然に思えてならなかった。
民衆が、果たしてそれほどまでに短絡的になれるのだろうか。
世直しや陰謀などのつまらない目的のために、江戸時代の人々はそこまで大きく動けたのだろうか。
ええじゃないかええじゃないかと、祭囃子のように威勢よく、唱えられただろうか。
民衆運動、討幕派、江戸幕府。天から降ったと伝えられる御札。
御師が配った御札――果たしてそれは、本当に御師という宗教者が配ったのか。
「ねえ蓮子、時代の中で伊勢神宮は荒廃したって言ったわよね」
「へ? ええ、言ったわよ。戦乱の時代があって、式年遷宮さえ行えない時期があったらしいわ」
メリーは確信を得たように頷いた。
「なら、答えは簡単ね」
「へ? 今日のメリーも何か変よ?」
「御札を配ったのは他でもない。伊勢の神宮に住まわれる、神様御本人よ」
8.信仰は儚き人間の為に
ええじゃないか。ええじゃないか。
祭囃子のような威勢のいい掛け声は、片時も休まることはなかった。
「へ? ねえ、メリー。あなた本格的に可笑しくなってない?」
「御師という人間が配ったなんて創作よ、空から御札が降ってくるなんて不思議な出来事を、人々が信じ切れずに否定しただけ。伊勢の神宮に来てほしいと心の底から願ったのは、他でもない。伊勢に住まう神様御本人よ」
メリーが天を仰ぎ、蓮子も続く。
目を剥いた。
無数の紙片――御札が天から振ってくるのが、蓮子にも見えていた。
「荒廃した自分の住まいを見て、神様はさぞ頭を悩ませたでしょうね。式年遷宮さえ行えないほどに荒れていたのでは、信仰を集めることも出来ない。だから、こうして天から神宮の御札をばら撒いて、人々の関心を寄せ集めた」
「でも、人々は足を運んだと言っても、結局は観光地みたいな扱いになっちゃったわよ」
「それでも良いと神様は考えた。観光地として扱っても良いと人々に教え広めたのよ。だから人々は、天から降った御札を見てこう言った」
ええじゃないか。ええじゃないか。
観光地と思ってしまっても、ええじゃないか。
「ええじゃないか、とね。伊勢の神宮に住まわれる神様は、それだけ太っ腹に考えたのよ。是が非でも、荒れ果てた住まいを放置しておくのは避けたかった。そういう意味では、一世一代の賭けを行ったって訳ね」
「じゃあ、人々がええじゃないかと騒ぎ立てたのは」
「神様直々に教えて貰ったからよ。民衆運動とか討幕派とか、そんな小さな関与で人々が動かせるはずないもの」
ええじゃないかという社会現象は、実はまだ起源がはっきりとしていなかった。
「時代の大きな流動に疲れた人々が、ええじゃないかと騒ぎ立てて世直しを訴えた。いかにも合理的な理由で、本当の理由を隠したのよ。天から御札が降ったという不思議な現象を受け入れなかったのと、同じようにね」
「神様から配られた御札ねえ。結果的に、民衆運動と人々に捉えられてしまった神様御本人は、果たしてどう思っているのかしら」
「意外と気にしてないんじゃない?」
天から降ってきた御札を、メリーは手に取った。
細い路地を抜けて大通り――烏丸通に出た。
「やっと見つけたわね、蓮子」
「これはちょっと想像以上よ、メリー」
ええじゃないか。ええじゃないか。
大通りを埋め尽くさんばかりの人々が、声も高々に囃し立てていた。
熱気が沸き立つほどの、人、人、人。男も女も老いも若いも関係なく、皆一様に大口を開けながら練り歩いていた。
二人の傍らを同年代くらいの少女が横切った。そのまま振り返ることもなく人混みへと紛れ込み、すぐに見えなくなってしまう。躊躇した様子は微塵もなかった。
南へと進み続ける人の波は、途切れることがない。
ええじゃないかという掛け声は、祭囃子のように聞こえ続けている。
お伊勢参り。
伊勢神宮を目指す人々の顔は、活き活きとしていた。
9.プレインエイジア
奇跡というのは起こらないからこその奇跡なのだと、誰かは言う。
ならば、実際に起こってしまった奇跡は何と呼べば良いのだろうか。
簡単なことである。
なかったことにしてしまえば良いのだ。
天から御札が降ることなど有り得ないことであり、だからこそ御師が配ったと後世には伝えられている。そこには奇跡が、伝わる途中でなかったことにされた可能性もあった。もっともらしい理由を後付して、人々は自らの想像力を封じ込めてしまったのだ。
伊勢の神宮に住まわれる神様も、さぞ頭を悩ませられていることだろう。
実際に御札を降らしたのに、人間はそれを頭から信じないのだ。
なかったことにしてしまい、奇跡をその目で見ようとはしない。想像しようともしない。不思議な出来事だと思うでしょう、でも実際にはこういう理由だからねと、勝手に答えを捏造してしまうのだ。
これでは奇跡を振るう甲斐もないだろう。
時代を遡り、歴史を改竄する能力を、人は身に着けてしまった。
神様の奇跡を否定し、自らの想像力すらも否定した人間は、それで世の中の現象を全て解き明かした気になったのだ。
自らの頭で解決することだけを、人間は追い求めてきた。
そこに、奇跡や想像などの入る余地はなかった。
なかったことにしたのだ。
ええじゃないか、ええじゃないか。
祭囃子のように威勢よく肯定することさえ、人々はなかったことにした。
「さあ蓮子、私たちもお伊勢参りと行きましょうか」
10.明日ハレの日、ケの昨日
「えっとね、メリー。私もそれには同意したいのだけれど、さすがに講義が」
「あら、抜け参りっていうのがあるじゃない」
お伊勢参りには、抜け参りという別の呼び名があった。
集落や奉公先から無断で抜け出し、お伊勢参りの集団にこっそりと紛れ込むのだ。無断で抜け出したとしても、帰りに伊勢の神宮へと参詣した証拠を見せれば、お咎めを受けなかった。
「注意されたら、この御札を見せれば良いわ」
「メリーが夢の中で拾った物だけどね」
「それなら尚更よ。伊勢に住まわれる神様は仰っているわ、ええじゃないかってね」
メリーの手にした御札には、達筆過ぎて読めない文字が画かれていた。
踊るような筆字には、何とも言えない愛嬌が感じられた。
「神様御本人からの招待状よ、無視する訳にはいかないでしょう?」
「神様直々の招待状かあ。それなら、普通では見られないものも見させてもらえるかしら?」
「当たり前よ。私は勿論、蓮子にだって見せてくれるはずよ。だって、ええじゃないかって言葉を教え広めるほどの、太っ腹な神様なのよ」
「良いわね。第二回メリーの快気祝いってことで、早速準備しなくちゃ」
時代を遡って改竄された歴史を、二人は遡って訂正する。
「蓮子の話では、丁度、式年遷宮も間近だったわよね」
「この招待状があれば御神体だって見させて貰えるかも知れないわ。目を潰されるとかの話も聞くけれど、蓬莱の薬での不老不死を否定するくらい眉唾物よね。どれだけ素晴らしいのか、昔の人々は知っていたに違いないわ」
ついでに、少女特有の姦しい旅程も二人は描き続ける。
「宝永四年の赤い物も食べてみたいわね。甘味はやっぱり捨て難いわ」
「メリー、また太るわよ。私は煙管を試してみたいかなあ、ちょっと粋な仕草でね」
「蓮子、相変わらず愛煙家ねえ」
「江戸出身ですから。小粋な物にはどうしても惹かれちゃうのよ」
二人は、すでにメリーの夢から覚めていた。
細い路地から垣間見える烏丸通には、時代遅れの背広姿を纏った人々しか練り歩いていない。
それでも、二人の耳には確かに聞こえていた。
ええじゃないか、ええじゃないかと、祭囃子のように威勢の良い掛け声が。
新作もこれからの二人も楽しみですね
このちょっとした秘密の考察や一瞬垣間見る幻想とか、いかにも秘封倶楽部らしくていいですね
そういえば赤福餅も三重県でしたね。蓮子やメリーが食べてると思うとなかなかににやけます。
私も伊勢神宮にお詣りしたいなあ…。